1)善悪 2)コナトゥス 3)自由意志 4)真理
上
第三部 感情の起源および本性について P165-255(P176-)
P177
定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。
証明 なぜなら、個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態である(第一部定理ニ五の系により)、言いかえればそれは(第一部定理ニ四により)神が存在し・活動する神の能力をある一定の仕方で表現する物である。
その上いかなる物も自分が滅ぼされるようなあるものを、あるいは自分の存在を除去するようなあるものを、自らの中に有していない(この部の定理四により)。むしろおのおのの物は自分の存在を除去しうるすべてのものに対抗する(前定理により)。
したがっておのおのの物はできるだけ、また自己の及ぶかぎり、自己の有に固執するように努力する。Q・E・D・
定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。
証明 おのおのの物の与えられた本質から必然的にいろいろなことが生ずる(第一部定理三六により)。
P178また物はその定まった本性から必然的に生ずること以外のいかなることをもなしえない(第一部定理二九により)。ゆえにおのおのの物が単独であるいは他の物とともにある事をなしあるいはなそうと務める能力ないし努力、言いかえれば(この部の定理六により)おのおのの物が自己の有に固執しようと務める能力ないし努力は、その物の与えられた本質すなわち現実的本質にほかならない。Q・E・D・
定理八 おのおのの物が自己の有に固執しようと務める努力は、限定された時間ではなく無限定な時間を含んでいる。
証明 なぜなら、もしこの努力が物の接続を決定する限定された時間を含むとしたら、その物が存在する能力そのものだけからして、その物がその限定された時間のあとには存在しえずして滅びなければならぬということが帰結されるであろう。
ところがこれは(この部の定理四により)不条理である。ゆえに物を存在せしめる努力は何ら限定された時間を含まない。むしろ反対に、おのおのの物は外部の原因によって滅ぼされなければそれが現に存在している同じ能力をもって常に存在しつづけるのであるから(同じくこの部の定理四により)、したがってこの努力は無限定な時間を含んでいる。Q・E・D・
(随時更新)
下
(P18)(P20)
定理八 善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。
証明 我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを(この部の定義一および二により)、言いかえれば(第三部定理七により)我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。
我々はこうしてある物が我々を喜びあるいは悲しみに刺激することを知る限りにおいてそのものを善あるいは悪と呼ぶのである(喜びおよび悲しみの定義による。第三部定理一一の備考におけるその定義を見よ)。
したがって善および悪の認識は、喜びあるいは悲しみの感情そのものから必然的に生ずる喜びあるいは悲しみの観念にほかならない(第二部定理二二により)。ところでこの観念は、精神が身体と合一しているのと同じ仕方で感情と合一している(第二部定理二一により)。
言いかえれば(銅定理の備考で示したように)この観念は感情自身と、すなわち(感情の総括的定義により)身体的変状の観念と、実は単なる概念によって区別されるのみである。ゆえに善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける感情そのものにほかならない。Q・E・D・
(P106)
(P124-)
(P136-)
定理四二 至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制するがゆえに至福を享受するのではなくて、反対に、至福を享受するがゆえに快楽を抑制しうるのである。
証明 至福は神に対する愛に存する(この部の定理三六およびその備考より)。そしてこの愛は第三種の認識から生ずる(この部の定理三二の系により)。したがってこの愛は(第三部定理五九および三により)働きをなす限りにおける精神に帰せられなければならぬ。
P137ゆえにそれは(第四部定義八により)徳それ自身である。これが第一の点であった。次に精神はこの神の愛すなわち至福をより多く享受するに従ってそれだけ多く認識する(この部の三二により)。
言いかえれば(この部の定理三の系により)感情に対してそれだけ大なり能力を有しまた(この部の定理三八により)悪しき感情から働きを受けることがそれだけ少なくなる。ゆえに精神はこの神の愛すなわち至福を享受することによって快楽を抑制する力を有するのである。
そして感情を抑制する人間の能力は知性にのみ存するのであるから、したがって何ぴとも感情を抑制したがゆえに至福を享受するのでなく、かえって反対に、快楽を抑制する力は至福それ自身から生ずるのである。Q・E・D・
備考 以上をもって私は、感情に対する精神の能力について、ならびに精神の自由について示そうと欲したすべてのことを終えた。これによって、賢者はいかに多くをなしうるか、また賢者は快楽にのみ駆られる無知者よりもいかに優れているかが明らかになる。
すなわち無知者は、外部の諸原因からさまざまな仕方で揺り動かされて決して精神の真の満足を享有しないばかりでなく、その上自己・神および物をほとんど意識せずに生活し、そして彼は働きを受けることをやめるや否や同時にまた存在することをもやめる。
これに反して賢者は、賢者として見られる限り、ほとんど心を乱されることがなく、自己・神および物をある永遠の必然性によって意識し、決して存在することをやめず、常に精神の真の満足を享有している。
さてこれに到達するものとして私の示した道はきわめて峻険であるように見えるけれども、なお発見されることはできる。
P138また実際、このように稀にしか見つからないものは困難なものであるに違いない。なぜなら、もし幸福がすぐ手近にあって大した労苦なしに見つかるとしたら、それがほとんどすべての人から閑却されているということがどうしてありえよう。
たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。
関連
・感じる脳 理性は道を示し、感情は決断をもたらす(参照)