2019年5月14日火曜日

偏愛メモ 『石油の世紀(上)』(随時更新)

第十〇章 中東への道--トルコ石油会社 P304-344

(P304-)

P308 一〇六歳まで生きた祖父より長生きしようという執念から、わざわざ二つの医者グループを雇い、相互の診察結果をチェックしたほどである。

(P336)

P337 そして彼自身は、パリではリッツ・ホテル、イギリスではリッツ・ホテルかカールトン・ホテルの、スイート・ルームの間を行き来して過ごした。これらの部屋には、女性がひっきりなしに出入りしていたが、いつも少なくとも一人は、性的活力を若返らせるために「医師の助言」に基づいて、一八歳かそれ未満でなければならなかった。

第十二章 "新たな油田をめぐる闘い" P382-409

(P396-)

P397 ボルシェビキとの闘い
しかし石油と政治の衝突が最も劇的だったのは、西半球ではなく、東半球である。第一次世界大戦以前、ロシア産の石油は、世界市場で最も重要な商品だった。しかし、ソ連の新しい共産主義政府が石油を握った時、彼らはどんなゲームを演じるのか、それも誰のルールで?

最も危険な目を味わったのは、ロイヤル・ダッチ・シェルだった。ロスチャイルド家のロシアでの巨大な石油権益を第一次世界大戦直前に買収したばかりだった。ボルシェビキ革命直後は、多くの会社がロシアの石油を安く手に入れようと必死に活動した。グルベンキアンは、亡命ロシア人の財産を"格安の"値段で買いあさったと言われた。どんなものも見逃さぬとばかりに、彼は、現金のない亡命ロシア人が、荷物に入れて持ち出してきた美術品も買い集めた。

ロスチャイルド家と違って、ノーベル家は、ロシアの石油権益を握り続けていた。しかし革命が起P398きたため、家族は海外に逃れる。あるものは農民に変装し、またある者はソリや徒歩で国境を越えてフィンランドに出た。この結果七五年に及んだノーベル家のロシアの時代も終わったのだった。一族は最終的にパリにたどり着き、ムーリス・ホテルに滞在した。そして、一家の石油帝国のうちどれだけが救済できるか、その場合、どんな方法があるのか、考えをめぐらせた。

答えは、焼け残り品の特売のようだった。ノーベル家は、ロシアに持っていた石油事業のすべてを売却したいとデターディングに申し出たのだ。(略)デターディングはこの申し出に、ロシアの石油の支配者になるチャンスを嗅ぎ取った。ただそれには、一つだけ条件があった。つまり、ボルシェビキが敗退することだ。彼は、アングロ・ペルシャやカウドレー卿なども加えて、ノーベル家と交渉するシンジケート作りを進めた。

デターディングは、ボルシェビキ体制は長くは続くまいと確信していた。「ボルシェビキはコーカサス地方のみならず、六か月もすればロシア全土から撃退される」と、彼は一九ニ○年にグルベンキアンに宛てた手紙に書いている。(略、交渉の内容)交渉は決裂した。

しかしこの話の舞台裏に、別の買い主が控えていた。その企業は、アメリカ政府の政治的支援の約束をすでに取りつけ、財政面だけでなく、国籍の面でも、ノーベル家にとっては、はっきり言ってはるかに魅力を感じる相手だった。

ニュージャージー・スタンダード石油である。アメリカとロシアが手を結ぶというのは、ノーベル家が一八九〇年代に進めようとして以来、長く待ち望んでいたP399ことだった。そしてこの危険に満ちた、一八九〇年とはまったく異なった状況下で実現する機会がようやくやって来たのであった。(略)

ニュージャージー・スタンダード石油とノーベル家は、集中的に交渉を開始した。しかし実際のところ、ノーベル家が売却しようとしている財産には、もはやノーベル家の所有権がないかもしれなかった。この懸念は、一九ニ○年四月に、ボルシェビキがバクーを再び占領して、直ちに油田を国有化した時点で現実のものとなった。(略)

そして国有化から二ヶ月もたたない一九ニ○年七月に交渉は成立した。スタンダード石油は、ノーベル家のロシアでの石油権益の半分について支配権を獲P400得することになったが、買収価格は紛れもなく格安だった。(略)これによって、スタンダード石油は、ロシアの石油総産出量の少なくとも三分の一、石油精製量の四○%、そしてロシアの国内市場の六○%の支配権を獲得した。(略)

この後行われた資本家と共産主義者との交渉で、ボルシェビキを代表したのは、海外貿易人民委員の肩書を持つレオニード・クラーシンだった。背が高く、彫の深い顔立ちで、ピンと尖った顎ひげを蓄えたこの男は、都会的なセンスの持ち主で説得力があり物事をわきまえた人物だった。西側が考えていたような残忍な共産主義狂信者ではまったくなかった。クラーシンはまた、婦人たちの目を引きつける魅力も備えていた。

あるイギリス女性は「どこをとっても生まれと育ちのよさがわかる。言動ともに本当の貴族」とうっとりしたほどだった。(略、履歴、人物像など)P401スタンダード石油がノーベル家と交渉の仕上げを急いでいる頃、クラーシンはボルシェビキ政府の代表として、貿易問題を協議するためロンドンを訪れた。一九ニ○年の五月三一日、彼はデビッド・ロイド・ジョージ英首相の招待で、ダウニング街一〇番地の首相官邸に向かった。

ソ連の代表が西側大国の政府首脳と会うのは、これが初めてであり、まさに歴史的瞬間であった。(略、彼(ソ連)はイギリスに信用されていなかったなどが書かれる)肝心のソ連が、極端な工業力の減退、インフレ、深刻な資本不足、そして飢饉の淵に臨んでいる全国的な食糧不足という、経済的大災害に向かって突き進んでいたからだ。ソ連は天然資源を開発、生産し、売却するために、ぜひとも外国資本が必要だった。

この目的のため一九ニ○年の一一月、モスクワは外国投資家への石油利益付与を認める新政策を発表したのである。P402一九ニ一年三月、レーニンはさらに新しい手を打った。新経済政策(NEP)として知られる新たな政策である。この政策は、国内市場の拡大や私企業の復活、外国貿易の保証、権益の売却などを認めたものだった。しかしこれは、レーニンが心変わりしたというのではなく、単に緊急の必要に迫られただけのことであった。

「外国からの設備や技術的な援助なくして、わが国の力だけで、破壊しつつある経済を建て直すことは不可能なのだ」と彼自身が明言している。この援助を得るためには、「最強の帝国主義者のシンジケート」に広範囲な石油利権を譲る方針だった。そしてそのレーニンが最初に譲歩する石油利権の例としてあげたものは「バクー油田とグロズニー油田のそれぞれ四分の一」だった。帝政ロシア時代のように、再び石油が最も利益の期待される輸出品となったのだ。ボルシェビキの新聞は、石油を「黄金の液体」と呼んだ。

レーニンが西側との関係を改善したことに、疑い深いスターリンはじめ多くの同志は強い反対の声を上げた。(略)しかしこうした警告にもかかわらず、レーニンが新経済政策を発表した一週間後に、クラーシンはロンドンで英ソ貿易協定に調印した。彼はさらに、新たな石油利権の譲渡をほのめかしつつ、さまざまな企業に接近していった。うわさや暗示のたぐいを利用して企業同士を互いに競争させようとしたのである。

デターディングは、ノーベル家との取引の失敗に気落ちすることはないと思った。ノーベル家同様、彼も、スタンダード石油がロシアに進出することは、旧ロスチャイルド家の資産を保有している、ロイヤル・ダッチ・シェルなどすべての外国投資家にとって心強い保証となると確信していた。デターディングは、グルベンキアンに語っている。
「ロシアの食卓には、いくつかの素晴らしい料理が用意さP403れている。食事をするなら、やはり同じ食事に関心を持っている仲間と一緒のほうがよい」。
しかしデターディングは、ボルシェビキが、すでにデターディングのものとなっているはずの資産を売却することを認めるつもりはなかった。だから彼自身は食事のテーブルに着くつもりは毛頭なかった。これは、ウォルター・ティーグルも同じだった。

統一戦線を求めて
一九二二年になると、ニュージャージー・スタンダード石油とロイヤル・ダッチ・シェル、それにノーベル家は、統一戦線、特にその後知られる同盟の結成に取りかかった。(略)しかし"石油商人仲間"は、ソ連人はもちろん、お互い同士も信用しないものなのだ。こうして、互いに誓い合い約束し合ったにもかかわらず、統一戦線は、結成された時から不安定な足で立っていた。策士のレオニード・クラーシンは、このような資本家とその競争本能をよく知っていた。そして、達人のような手口で、企業同士を張り合わせたのだった。

一方、世界中の市場で、安いロシア産石油との競争が激しくなりつつあった。一九二〇年から二三年にかけて実質的に休業状態だったソ連の石油産業も、西側からの大規模な技術導入もあって、その後急速に復興し、ソ連は石油輸出国として再び世界市場に進出してきた。ニュージャージー・スタンダード石油社内では、重役たちがジレンマに直面した。資産問題をさしおいて、安いロシア産の石油P404に手を出すべきか、それとも道義的にもビジネス上の理由からもこのまま手を出さずにいるべきか?

ティーグルは、今やノーベルの企業に投資したことを後悔し、次のように話した。
「こんな病気の子供を抱えて、何年も面倒を見る代わりに、同じ金をどこかで直ちに利益が上がる石油事業があったらそこに投資すべきだった」
スタンダード石油ドイツ代表のハインリッヒ・リーデマンの見方はやや異なっていた。私企業が外国政府の接収や国有化から自分を守るのは、そうたやすいことではない、と彼は述べている。「ロシアのように、政府が産業やビジネスに参加するというのは、ビジネスの歴史では前代未聞のことだ。
われわれは誰もソ連のこうした考え方に手を貸したいとは思ってもいない。しかし、もし他の連中が手を貸そうとした場合、われわれが手を貸さないことが何の役に立つだろうか?」
事実、他の西側の企業は、コーカサスのバクーからシベリア沖のサハリンに至るまで、ソ連全域で何とか石油利権を獲得しようと、ある者は密かに、ある者は堂々と、ソ連への進出を企てた。コーカサスにある資産といえば、ニュージャージー・スタンダード石油やシェルなどが、すでに所有権を主張している資産であった。悪いことに、ソ連は、これら資産から出た石油を自らのものとして売りに出し始めていたのである。

しかし、ソ連との正面衝突を避けて裏をかく方法が一つだけあった。ニュージャージー・スタンダード石油とシェルが共同して、ロシア産石油を購入するための組織を作ることである。ただティーグルは、このアイデアには賛成できなかった。
「こう感じるのは自分の考えが古いのかもしれないが」
と前置きした上で、ティーグルは
「いずれにしても私には、人の家に押し入って財産を盗んだ男と仲よくしようという考え方は、まともなものとは思えないのだ」
と主張した。しかし、他のアメリカ企業がロシア産石油を購入し、それを使ってニュージャージー・スタンダード石油に競争を挑んでくるP405となると、ニュージャージー内での反対の声は完全に押さえられてしまった。

シェルとの共同企業体は、一九ニ四年一一月に設立され、両者ともソ連との取引開始に向けて調査に取りかかった。(略)ソ連からの共同購入をめぐるニュージャージーとシェルとの合意は目前に迫っていた。その合意では、石油利権の前の所有者に対する補償として、購入に際して一応五%の値引きがあることになっていた。しかしティーグルとデターディングは、この取引全般に疑問を抱き続けていた。それで、この合意が一九二七年の初めに崩れ去った時には、デターディングは、まったく上機嫌だった。(略)

P406 デターディングの事業経営には、明らかにこうした感情論が入り込むようになった。亡命ロシア人女性リディア・パブロワと結婚した後は、デターディングの反共産主義ぶりもますます激しくなった。デターディングは、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアに電報を打って、スタンダード各社の傘下の関係会社にロシア産石油の購入を止めさせるよう頼み込むことまでしている。彼は「立派な人たちがソ連の厳禁獲得に手を貸す」ことがないようにと、「人間性のため」として、ロックフェラーに「懇願」したのだ。

ソ連の政権は「反キリスト教」であると強調した上で、デターディングは、ロックフェラーにこう伝えている。「ご自分の会社が血に染まった利益を得ることをお望みではないはずだ。・・・貴社がソ連との関係を断つことになれば、ソ連の残忍な制度もすぐに終わりを迎えう」(注9)

価格競争
デターディングの要請にもかかわらず、スタンダード石油の後継会社二社、ニューヨーク・スタンダード石油とバキュームは、ソ連との取引を進めた。ニューヨーク・スタンダードは、ソ連人のために、バツームに灯油の製油所を建設し、これを長期契約で借りて操業した。両社ともインドや他のアジア地域向けに、大量のロシア産の石油を購入する契約を結んだ。

ソコニーは、インドの市場に石油を供給するためには、どうしてもロシア産のものを必要としていた。シェルはインドでも他の供給源を確保していたが、ソコニーにはなかったからだ。(略、ロイヤル・ダッチ・シェルとスタンダード石油系列との価格競争など)

P408 一九二〇年代終わりには、大手各社は、ロシア産石油をめぐる問題に疲れきっていた。自らの資産を奪い返そう、あるいは投資のもとを取り戻そうといった努力は、今やどうでもよくなってしまった。さらにイラクのババ・ガーガーで油田が発見されたことで、彼らの関心は中東の新たな供給源に向けられるようになった。ニュージャージーの重役会議は、ソ連と契約もしないが、ボイコットもしない、という中立の立場をとることに決定した。(略)

2019年5月12日日曜日

偏愛メモ 『秘密のファイル(下)』(随時更新)

第八章 政界工作 P95-450

8.2 敬遠された鳩山と石橋 P149-169

(P162-)

P162 アメリカは鳩山不信をさらに強め、感情的な敵意をむき出しにしていたことがよく分かる。アメリカ側は、意図的に手荒な仕打ちをしたわけである。十月五日、訪日したハーバート・フーバー国務次官がアリソン大使とともに、鳩山を訪ね一時間余り会談した。

「鳩山はことのほか友好的だったが、あいまいで、いくつかの点でまったくポイント外れの発言をしたり、直接的な回答をせずにごまかしたりした」アリソン大使は同日付で国務省に送った秘密電報でそう伝えた。電報によると、鳩山は、日ソ交渉の展望について、「間もなく妥協するとの印象を持っている。自由党と一部国民は千島と南サハリンの返還を要求しているが、日本はサンフランシスコ講和条約でこれらの主権を放棄したと思う」

と言ったという。現実には、日ソ交渉はそれから一年もかかった。翌一九五六年三月十九日、東京で行われたダレス国務長官と鳩山の会談もよそよそしい雰囲気で終わった。例えば、鳩山が小笠原島民が帰還できるよう、「解決策を検討してほしい」と言うと、ダレスは、P163「島民は帰還を認められるべきだとの考えに傾いていたが、この問題を検討すればするほど自信がなくなる」

ともったいをつけて、小笠原は、「多くの人口を維持できそうにないし、・・・米国と自由主義世界にとって戦略的価値も高い」と後ろ向きの回答しかせず、会談はかみ合わないままだった。鳩山政権の時代、アメリカ政府はあえて日本政府とより緊密な関係を築こうとせず、先送りにした感がある。

一九五五年四月九日、国家安全保障会議(NSC)は新しい対日政策NSC5516/1号文書を承認した。「日本は、対米依存度を低くし、ソ連、共産中国との関係拡大などで国際的行動の自由を拡大しようとする」という現状を認識したうえで、
  • 効果的で穏健な保守政権の発展を促進する。
  • 個人的接触、意見交換、可能な支援により、実業家、政府当局者、防衛当局らP164の理解と協力を拡大する。
  • 共産主義勢力の組織基盤を攻撃し、共産主義者の財政・政治力を損ねるための効果的な国内的治安措置で日本政府を支援する。
  • 非共産党系知識人指導者の間のマルクス主義的傾向を除去し、一般国民に共産主義の危険を啓発する計画を拡大する。
  • ソ連との外交関係樹立に反対しないが、共産中国との外交関係に反対する。
  • 歯舞、色丹両島の主権をめぐる日本の主張を支持する。千島列島と南サハリンに対するソ連の主権の主張に対して譲歩しない。
といった行動をとることを決めた。第六章「日本改造」で明らかにした、米情報機関の秘密工作はこうしたNSCの指令に根拠があったのだ。鳩山政権下では、アイゼンハワー政権は鳩山や重光以外の、政界の大物との接触を拡大した。

一九五六年八月二十二日、国務省北東アジア部のノエル・ヘメンディンガー部長代行はウォルター・ロバートソン国務次官補にあてた秘密メモで次のように明記した。P165「鳩山の後任には、より能力が高く、エネルギッシュな指導者が出てくる。岸(信介)は最も可能性が高い後継者とみられる」アメリカは、ポスト鳩山時代が早く来て、岸が首相になるのを待望していたのだ。

米、北方領土返還を恐れる
鳩山政権下で、アメリカ政府が最も懸念したのは、日ソ交渉の開始だった。一九五五年三月十日、ホワイトハウスで行われた国家安全保障会議(NSC)でアレン・ダレスCIA長官が指摘した。
「日本は、千島列島の少なくとも二島、歯舞、色丹両島の返還の希望を公言している。ソ連は歯舞を返還するわずかな可能性がある。しかし、ソ連が一度占領に成功した領土を放棄するのは通常の彼らの行動ではない」
これを受けて、兄のジョン・フォスター・ダレス国務長官が発言した。
「ソ連が千島列島の重要な部分を放棄するような事態が起きれば、米国は直ちに、琉球諸島の施政権返還を求める、日本からの強い圧力を受けることになる。ソ連が現在の占領地域を日本に返還すると予測するのは、これまでの経験に反する。しかし、まさに日米間の緊張を増すためにそのような策に出ることは考えられる」
P166四月七日のNSCでも同じ問題が議論された。対日政策NSC5516号文書がテーマである。その政策原案では、北方領土問題をめぐっては、
  • 歯舞、色丹両島の主権をめぐる日本の主張を支持する。
  • 千島列島と南サハリンに対するソ連の主権の主張を法的に無効と扱う。
とされていた。これに対しダレス国務長官が異議を唱え、力説した。
「前項には賛成だが、後の項には反対だ。もしわれわれがこの線で行動すれば、危険な領域に入ってしまう。千島列島と南サハリンに対するソ連の主張は実質的に琉球諸島および小笠原諸島に対するわれわれの主張と同じだ。従って、ソ連を千島列島および南サハリンから追い出す努力をすれば、われわれ自身を琉球諸島、小笠原諸島から追い出してしまう恐れがある
アイゼンハワー大統領は笑みを浮かべながら述べた。
「ロシア人を千島列島から追い出そうとしても成功しないのは確実だよ」
だが、ダレス国務長官は真剣だった。
P167「琉球諸島は、ソ連にとっての千島列島よりもっと価値がある。このため、琉球諸島でのわれわれの立場を危険にさらしてはならない」
大統領はこれに同意。結局、後の方の項目は、
  • 千島列島と南サハリンに対するソ連の主権の主張に対して譲歩しない。
と変更された。アメリカは、このように、ソ連が北方領土を返還する可能性の方を恐れていた。アメリカはむしろ、ソ連が日本を直接攻撃する可能性より、こうした日米文壇に出る可能性の方が高いとみて警戒していた。そうした可能性は、当時作成されたCIAの国家情報評価(NIE)でも指摘されている。

日ソ国交回復
日ソ交渉は、ソ連の強硬姿勢で難航した。訪英中の重光外相は一九五六年八月二十四日、ダレス国務長官と駐英米大使公邸で会談し、"泣きついた"。
「ソ連は、米英両国の同意を得て、(北方領土)諸島を占領している、と主張していP168るのです」
重光は、北方領土問題を解決するには、関係諸国が参加した国際会議を開くしかないのではないか、とダレスに提案した。しかし、会議を開けば、
「ソ連は台湾や琉球諸島の問題を含めようと図るし、日本国内から、特に社会党から琉球諸島の全面返還の圧力が高まる」(アリソン大使)
と米側は恐れた。

アイゼンハワー政権時代、アメリカは小笠原諸島や沖縄の返還を考えていなかった。何度か日米間でやり取りした結果、米政府は九月七日、日本側に次のような覚書を渡し、ようやく対ソ交渉で日本支援に動き始めた。
  • 米国は日ソ間の戦争状態を正式に終結すべきだと考える。
  • サンフランシスコ講和条約は、日本が放棄した領土の主権問題を決定していない。
  • 歴史的事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部である歯舞、色丹とともに)常に日本の一部であり、日本の主権下にあると認識されるべきだ。
これを受けて、鳩山は十月七日、河野一郎農相とともにソ連に向けて出発した。ブP169ルガーニン首相との首脳会談で交渉が妥結、同十九日、「日ソ国交回復に関する共同宣言」などに調印した。

結局、領土問題では、歯舞、色丹両島は平和条約の締結時に返還する、という内容が盛り込まれた。しかし、国後、択捉両島のことはまったく触れられなかった
「われわれは、合意は両国政府にとって満足できるものと仮定できるだけだ」
国務省スポークスマンのコメントはそっけない内容だった。

日ソ国交回復の結果、この年の国連総会で日本の加盟が認められた。鳩山は、これで政治エネルギーを燃焼し尽くした。調印から二ヶ月後の十二月二十日、鳩山内閣は総辞職。鳩山自身も一九五九年(昭和三十四)死去した。結局、鳩山は二年以上の在任中、一度も訪米しないという、戦後では異例の首相で終わった。

鳩山の長男、威一郎は大蔵官僚から外相などを歴任した。由紀夫、邦夫の二人の孫も政治家となった。鳩山由紀夫は「駐留なき安保」という大胆な構想を月刊誌に発表、ワシントンで波紋を広げた。米政府当局者はこの構想を強く警戒した。由紀夫は後に民主党の代表にもなったが、祖父と同様、アメリカとの意思の疎通が大きな課題となった。

関連
『秘密のファイル(上)』
https://ghoti-ethansblog.blogspot.com/2019/03/blog-post_20.html

偏愛メモ 『百済武寧王の世界』(随時更新)



関連
『東アジアの動乱と倭国』P108-
https://ghoti-ethansblog.blogspot.com/2019/05/blog-post.html#P108

2019年5月9日木曜日

偏愛メモ 『できそこないの男たち』(随時更新)

第九章 Yの旅路 P206-229
(P206-)

(P214)

P214 かくして現在存在するY染色体の多型性の由来をたどると、男の系統とその移動を再現することができる。写本に生じる多型性の出現頻度から、それがどの程度のタイムスパンで起こったことなのかを計算できるようにもなった。つまり何千年あるいは何万年前にその写本の分岐が成立したのか、誤差を含むものの、おおよその推計が可能となった。

2002年、世界中の男たちから集められた多数のY染色体間の多型性解析の結果が集大成されるに至った。そして極めて興味深い、男たちの旅路が浮かび上がってきた。一方、Y染色体の系譜は、残念ながら女の旅路については何も語ることができない。

ある特定のY染色体の運ぶ精子を受け取ったのは、男たちと一緒に移動していた女であったかもしれない。旅先で偶然出会った女だったこともあったはずだ。あるいは戦いの末、別の男たちから奪った女であったかもしれない。

女たちの旅路は、卵子から卵子へ、つまり母系でのみ受け継がれるミトコンドリアDNAの刻印を解析することによって得ることができる。基本的な論理は上に述べたY染色体の多型性と同じである。長いストーリーをあえて短くして結論だけいえば、ミトコンドリアDNAの解析は、'80年代の終わりになって、ひとつの極めて鮮やかな事実を明らかにした。(略)

女性のルーツは、十数万年前、アフリカで生まれた一人の女性でP215あることを明らかにした。驚くべきことに、Y染色体の多型解析もまたほとんど同じ事実をあぶりだした。(略)男性のルーツは、十数万年前、アフリカで生まれた一人の男性に由来する、と。

ここでの注意しなければならないことは、この男と女がアダムとイブであり、その二人のこどもが我々全ての祖先であることにはならない、ということである。

ミトコンドリアによる母系の解析とY染色体による男系の解析は、同じ頃、同じ場所に収斂するものの、それぞれは独立したデータであって、両者の関係については何も決定的なことを示すことにはならない。(略)


(P216-、出アフリカ--写本の世界地図、Y染色体の旅路)

(P224-、チンギス・ハーンの痕跡)

P224 2003年、「アメリカ人類遺伝学雑誌」という専門誌に優れて興味深い論文が発表された。オックスフォード大学の生化学者クリス・タイラー・スミス率いる23人からなる研究チームは、アジア16地域から採取した2123人の男性のY染色体多型性を解析し分類を進めた。サンプルのうち92%は雑多な多型だった。つまり彼らは出アフリカを果たした様々な男たちを祖先とする混成集団だった。

ところが、残りの8%の男性はほとんど同じ多型性を共有していたのだ。それはC3を源とする系譜に連なるたったひとつの写本だった。

しかしこの8%の男たちは同一の民族でもなく、同一の地域に集まって暮らしているわけでもなかった。男たちは広く、中国東北部からモンゴル、果てはウズベキスタン、中央アジアはアフガニスタンに至るまで極めて広大な地域に分散して存在していたのだ。これらの地P225域の母集団の男性数はおよそ2憶人である。そのうち8%に上る1600万人が同一にして単一の男系祖先を持ちうることなどありうるだろうか。

それがありえたのである。同一の写本=Y染色体を共有する8%の中身を詳しく調べると、その写本から派生した、さらにわずかな文字の書き間違いが何個か見出された。同一の写本内にその程度の異同が発生するに足る時間が推算された。今からおよそ1000年前(前後に100年の誤差を含む)。今から1000年ほど前アジアはいかなる状況にあったか。







偏愛メモ 天皇陛下、その人間らしさ - BBCニュース

(英文)https://www.bbc.com/news/world-asia-48093668
(和訳)https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48101955

"He basically said that the peace and prosperity we enjoy today is owing to the sacrifice of the three million Japanese who died during the war," says Prof Kingston.
「安倍氏は基本的に、日本がいま享受している平和と繁栄は、300万人の戦死者のおかげだと述べた」とキングストン教授は言う。

"The next day, Akihito was having none of that. He made a speech saying the prosperity we enjoy today is down to the hard work and sacrifice of the Japanese people after the war."
「翌日、陛下はそれを否定した。陛下は日本がいま享受している繁栄は、国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識によるものだと、お言葉で述べた」

2019年5月7日火曜日

偏愛メモ 三島由紀夫「人間は自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬほど強くない」


from 三島由紀夫の考える生の倦怠 | 逃避して候
https://kazaana.wordpress.com/2012/05/17/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%80%A6%E6%80%A0%E3%81%A8%E3%81%AF/