2018年9月24日月曜日

偏愛メモ

『重光・東郷とその時代』
P198 ここに、いまに至る現実主義と自主独立願望とのあいだの相克が見られる。世界の覇権国について行けば日本の安全も繁栄も心配いらない、という西園寺の現実主義に、若き近衛が「対英追随」を感じて、ついて行けなかったのである。

P266 かつて福地桜知は、「言論統制で苦しむのはつまるところ文章の下手な連中だ。文章が上手ければ、何も取り締まりに触れるようなことは書かなくてもいいたいことはいえる」といったという。汪兆銘はその詩文から見ても一大文章家であり、…

P322 こういう人物は、ヒラの職員としては極めて有能であるが、課長となると、もう使う方が注意して、仕事を思う存分させつつも、マイナス面をカヴァーしなければならない人物である。そして、けっして課長以上にしてはいけない人物である。

2018年8月24日金曜日

偏愛メモ ガー・アルペロビッツ著『原爆投下決断の内幕』

P300-302

P301 さまざまな証拠をつなぎ合わせることによって、一部の問題がはっきり見えることもある。たとえば、トルーマンは、五月八日の声明で「無条件降伏」は日本軍に対して適用されると注意深く規定していたが、六月一日には一転して「無条件降伏」について妥協を許さない強硬な態度を表明している。この大統領の豹変はいまだに説明がなされていないが、ここでもその背後にいたと目される側近の第一候補はバーンズである。われわれの知るかぎり、当時の大統領側近でこの立場に合致する見解を

P302 もっていたのはバーンズしかいない。しかも、他の関係者は全員、条件の修正という原則を一般に支持していた。グルーはもちろんすぐにでも前に進みたがっていた。また、スティムソンは若干遅らせがっていたものの、彼らの見解についてわかっていることから考えると、スティムソン、フォレスタル、レイヒ、あるいはマーシャルが五月八日の声明からの後退を訴えたとは考えにくいし、また、そうしたという証拠もない。

■下巻 P322-323

P322 「歴史上いかに高潔な人にも、例外なく道徳的には疑わしいところがある」(ラインホルド・ニーバー、1946)

2018年8月9日木曜日

偏愛メモ なぜマーシャル将軍は5月に提案された太平洋戦争終結のための最後通告を「時期尚早」といったのか?見方が違う二つの著書より

■「国防長官はなぜ死んだのか」102-126


P102 海軍長官として、フォレスタルは日本との戦争を終わらせる計画を対日戦勝記念日(アメリカでは8月14日)の五か月半も前に立案していた。彼の計画は1945年3月1日までにどんどん流れ込んでいた情報に基づいたものだった。日本はすでに降伏の強い意向をもち、天皇がローマ法王に和平の仲介を求めてすらいるという情報だ。

もしルーズヴェルトがフォレスタルの計画にしたがって行動していれば、戦争は数日のうちに終わっていたはずだ。原爆がヒロシマとナガサキを灰にすることもなく、何千ものアメリカ兵が沖縄戦以降の不必要な戦闘で命を落とすこともなかっただろうし、ロシア軍が1347日間続いた太平洋戦争の最後の6日間に参戦する機会を得ることもなく、ワシントンがロシアに全アジアの征服の鍵を手渡す名目を与えることもなかっただろう。

P103 もちろん、この最後の点こそが、政府内のソ連の同調者がルーズヴェルトにフォレスタルの計画を拒否するように急いで説得し、アメリカ国民が数えきれない同胞の命を救うことのできたこの機会について何も耳にしないように手を回した理由だった(これらの事実は後になって、海軍情報副部長エリス・M・ザカリアス少将と、日本政府首脳の証言により確認されている)。

5月に、太平洋戦争を終わらせるもう一つの動きが、同じように葬られた。ドイツ降伏と同じ月、トルーマンは日本への最後通告を承認し、軍の是認に委ねた。しかし、5月29日、マーシャル将軍はそれを「時期尚早」として除けた。

その前日に、ハリーホプキンスがモスクワでスターリンと会談し、赤軍が「満州への配備を十分に整える」には、8月8日までかかるという情報を聞きだして、急いでワシントンに電信を送ったことは重要だ。つまり、ロシアがヤルタ会談で約束された領土を手に入れるためには参戦のジェスチャーを見せる必要があったので、スターリンはアメリカが日本と講和するのを8月8日より後にしたかったのだ。それ以外に戦争を長引かせる理由はなかった。

マーシャルが最後通告を拒否することがなければ(結局、7月27日に日本に対して通告が発せられた)、戦争はおそらく8月中旬ではなく6月中旬に終わっていただろう。そして、赤軍ではなく、アメリカ軍と中国国民党軍が日本の関東軍の降伏をうけいれていただろう。その場合は延安の共産軍が奉天の兵器工場と満州の工場や鉄道を押さえ、中国全土の掌握に役立てることもなかった。

P104 陸軍省(マーシャル)が朝鮮戦争を38度線で分断する機会をもつこともなかったし、朝鮮戦争も起こってなかったはずだ。日本への「平和攻勢」を遅らせることで、マーシャルは太平洋戦争を2か月間長引かせ、ロシア赤軍が勝利の分け前にあずかれるようにしたのだ。

7月末、フォレスタルはもう一度太平洋の虐殺を終わらせるための努力をした。今回、彼は状況があまりにも深刻だと考え、ベルリンのポツダム会議に11時間もかけて飛んだ。トルーマンにロシアを太平洋戦争に引き入れることは大きな災難を招くと警告し、不必要に厳しい無条件降伏を性急に日本に求めることは虐殺を長引かせるだけだと主張するつもりだった。彼の劇的なフライトは7月6日の前駐日大使ジョセフ・C・グルー国務次官との会話に触発されたものだった。

8月半ばまでに、グルーは退任してディーン・アチソンが後を継いだ。フォレスタルは『日記』にこう書いている。
・・・(グルーは)大統領から日本に渡すべき提案文書の草案をようやく形にすることができて満足していた。その目的は「無条件降伏」という言葉によって何を意味するかを明確にすることだった。しかし、彼は大統領に随行する者たち(とくに[チャールズ・]ボーレン)によって(ポツダム会談への)道中、その部分が削られるのではないかと不安だとも言った。彼らは、ロシアが参戦する機会を得る前に日本との戦争を終わらせるために考案された明確な条件を与えるわけにはいかないという考えをもっていた。
どうやらグルーの懸念は十分に根拠のあるものだったようだ。フォレスタルがベルリンに到着したときにはすでに時遅かった。彼の飛行機がワシントンを離れたころ、ポツダムの最後通告が日本に与えられていた。

■「初代国防長官フォレスタル」094-108


P98 一方、フォレスタルが硫黄島のあとにフィリピンに立ち寄った際、マッカーサー将軍でさえ、満州に残る関東軍の「精鋭200万」に対処するため、少なくとも60個師団のソ連軍の参戦を確保しなければならないと力説していた。マーシャル将軍もソ連の対日参戦を軍事的に不可欠と論じた。統合作戦計画委員会によると、来るべき一連の日本侵攻作戦には22万人のアメリカ軍の死傷者が見込まれていたのである。なにしろ、第二次世界大戦全体でのアメリカ軍の死者が26万であるから、これはやはり無視できない数字であった。今度は硫黄島沖縄での激戦と若いアメリカ兵の死体の山が、フォレスタルの脳裏をよぎった。

アメリカの犠牲の最小化と対ソ不信---フォレスタルのジレンマには、二つの解があった。一つ目の解は、グルー次官率いる国務省の知日派グループによってもたらされた。峻厳な無条件降伏方式を修正し、天皇制を容認することで日本の早期降伏を誘うことである。

P99 天皇制をファナティックな日本軍国主義の源泉とみるアメリカ世論は反発するであろう。しかし、天皇が最後まで対米戦争に反対し、彼の周囲にはリベラルな英米協調論者のいることを、グルーは知悉していた。もちろん、鈴木首相もその一人である。 グルーから趣旨説明の草稿を受け取ったスティムソン陸軍長官は、こう付言した。「このペーパーには、一つだけ不満がる。それは、日本が幣原、若槻、浜口といった西洋世界の指導的政治家と同等にランクされうる進歩的指導者を生み出す能力を持っていることを、十分に論じていない点である。(中略)

おそらく、フォレスタルは幣原の名も若槻、浜口の名も知らなかったであろう。グルーやスティムソンのような日本への思い入れは、彼にはない。
無条件降伏に関するわれわれの見解は、日本軍の降伏であって、国家としての日本の破壊を意図するものではない、と述べるだけで十分なのではないか、と私は尋ねた。ドーマン氏(国務省の日本専門家)は、それでは十分ではない、アメリカは日本の哲学や政体、宗教を破壊するつもりだと日本人が思い込めば、われわれは彼らの真に自殺的な抵抗に遭遇するだろう、と語った。物理的、経済的に彼らを破壊するつもりはないという保証だけでは不十分である、と彼は言った。((フォレスタルの)『日記』1945年5月26日)
P100 この専門家の説明に、フォレスタルは得心する。それでアメリカの犠牲を極小化できるなら、理にかなった取引である。また、前大戦ののちにカイザー(ドイツ皇帝)を残しておけば、ヒトラーの台頭はなかったかもしれない。民主的な改革の夢に燃えるニューディール左派とはちがい、フォレスタルはあくまで合理的なビジネスマンであった。

しかし、マーシャル参謀総長が待ったをかけた。「今これを発するのは時期尚早だと思う」。そこには「今は明らかにされないある軍事的理由」があった。原爆開発である。アメリカ軍の犠牲者の極小化と対ソ不信というフォレスタルのジレンマの、もう一つの解である。

フォレスタルら海軍首脳が原爆開発について知らされたのは、4月末である。陸軍のレスリー・グローヴズ少将の下で組織されたマンハッタン計画は、すでに20億ドルの巨費を原爆開発に投じていた。これこそ偉大な前大統領が「望んでおられた」計画である。だが、スティムソン陸軍長官は、原爆の使用についてはまだ確定した方針はない旨を、トルーマン大統領に伝えた。

P101 そこで、スティムソンを長とする陸海軍と国務省の暫定委員会が発足した。ラルフ・バード海軍次官は、人道上の観点から原爆の使用に反対した。彼は中国のどこかの沿岸で日本の使節を接見し、原爆の破壊力とソ連の対日参戦が近いことを通告して降伏を促すよう、スティムソンに提案した。しかし、陸軍長官からの返事はなかった。こうした事前通告論や太平洋の無人島での爆発のデモンストレーション論は、政府内で他にも存在した。(中略)

5月31日、暫定委員会は、事前通告なしの原爆の早期使用を、大統領に勧告した。バード時間は辞任する。6月18日、米英ソの首脳会談を一か月後に控えて、トルーマンは政府と軍部の最高指導者をホワイトハウスに集めた。76万人からなる九州上陸侵攻作戦(オリンピック作戦)を11月11日に開始することが承認された。その次には関東平野上陸侵攻作戦(コロネット作戦)が予定されていた。これらの作戦が無視しがたい犠牲をともなうと予測される以上(のちには50万人とか100万人とかいう数字が流布するが、これは根拠に乏しい誇張である)、原爆投下への反対論は、グルーとリーヒ大統領付幕僚長ら少数を除いては、ほとんどいなかった。二人は無条件降伏方式の変更を強く求めたが、トルーマンはアメリカ世論の動向を気にしていた。こうしたなかで、フォレスタルはオリンピック作戦の結果を見届けて、主要な決断を下すよう提案している。

P102 7月13日、トルーマン大統領は、米英ソ首脳会談のためポツダムに向かった。スティムソン陸軍長官も、77歳の高齢をおしてこれに同道した。腹心のマックロイ次官補が彼を支える。この日、アメリカ政府は重要な秘密情報を入手した。フォレスタルの『日記』に聞こう。
日本が戦争から抜け出したがっている最初の確実な証拠が、今日届いた。東郷外相から佐藤駐ソ大使宛の電報が傍受され、そこでは、モロトフがポツダムに出発する前に会見し、・・・天皇の戦争終結の強い意志を伝えるよう指示している(『日記』1945年7月13日)。
日本政府も和平を望んでいるのである。しかし、この期に及んでソ連に仲介を期待するとは、どこまで非現実的な国際認識であろうか。

大統領一行がポツダムに到着した翌日、ニューメキシコ州のアラモゴートで原爆の実験が成功した。「手術は今日おこなわれました。・・・グローヴズ医師はお喜びです」という電報が、5時間後にスティムソンの手元に届いた。トルーマンは、日本本土上陸なしに戦争を早期終結させる可能性を考え始めた。チャーチルも原爆の使用に賛意を示した。スターリンですら表面上は平静を装って、「それを聞いて嬉しく思う。日本に対して、有効に使用されることを望む」と語ったという。

事態の進展に触発されて、フォレスタルは招かれざる客としてポツダムに駆けつけた。しかし、彼が到着する二日前に、ポツダム宣言はすでに発せられていた。その主要な部分は以下の通りである。
10 われわれは、日本人を民族として奴隷化し国民として滅亡させることを意図するものではない。しかし、われわれの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人を厳格に処罰する。日本政府は、日本国民のうちに民主的傾向が復活され強化されるよう、それに対する一切の障害を除去しなければならない。・・・
12 上記の諸目的が達成され、日本国民が自由に表明した意志に基づいて平和的傾向を有する責任ある政府が樹立されしだい、連合国占領軍は日本から撤退する。
13 われわれは、日本政府がただちに全日本軍隊の無条件降伏を宣言し、それを誠意をもっておこなっていることを適切かつ十分に保証する措置をとるよう要求する。日本にとって、それ以外の選択は迅速にして完全な破壊あるのみである。
P103 もちろん、ここでは、「日本国民が自由に表明した意志に基づいて」とあるように、天皇制存続が仄めかされている。また、無条件降伏も、国家としての日本ではなく、「全日本軍隊」に求められている。しかし、グルーがあれだけ熱望し、スティムソンもフォレスタルらも支持した天皇制存続への名言はなかった。

当時トルーマン大統領に大きな影響力を持っていtのは、バーンズ国務長官である。彼は国内政治の観点を重視し、アメリカ世論への配慮から天皇制存続の明言を避けるよう、大統領に勧告したのである。実際、世論調査ではアメリカ国民の三割以上が天皇の処刑を、また三-四割が日本民族の奴隷化を望んでいた。

P104 スティムソンはこのポツダム宣言を遺憾とし必要なら「大統領が口頭で外交チャンネルを通じて[天皇制存続]保証を与える可能性」を示唆し、トルーマンもこれを約束した。

予想どおり、日本政府はポツダム宣言をすぐに受諾できなかった。受諾による陸軍の暴発を恐れて、鈴木首相は「ただ黙殺するのみである」との声明を発表したのである。鈴木は国内説得のためにまだ時間を要した。「初代国防長官フォレスタル」

2018年8月8日水曜日

Pチャン「オペラ座の怪人」比較動画

比較動画作成のきっかけとなった平松氏の記事("間"についての部分)

Pチャン「オペラ座の怪人」比較動画

ジャンプ前TR集

2018年7月13日金曜日

偏愛メモ 連邦準備制度の必要性、プジョー公聴会

『モルガン家』 P220-222 連邦準備制度の必要性(url)

P221 1907年恐慌の打撃から、恐慌のたびに太鼓腹の財界大物どもが救済に乗り出してハラハラさせられるのは、金融制度としては貧弱で頼りにならない、との認識が人々の間に強まり、今日の連邦準備制度を築く素地が生まれた。(中略)

P222 1910年11月、ディビスン(当時はモルガン商会のパートナーの一員に入っていた)らウォール街の投資銀行家たちが、マスコミ向けには「鴨撃ち旅行」だと称して、ジョージア州沖合にあるジェキル島のクラブに集まってひそかに協議した。ここは、ピアポントがよくお忍びで来る保養地だった。この秘密協議がもとになって、のちに無数の陰謀説が流れることになる。それはとにかく、ウォール街の銀行家たちはここで、各地域に準備銀行を設け、その上に商業銀行首脳からなる管理機関を置くという、民間主導型の中央銀行案をまとめた。(中略)

P223 オールドリッチ上院議員が1910年に中央銀行設置を求める法案を連邦議会に提出すると、野党の民主党がその成立を阻止した。それから三年後の1913年、民主党のカーターグラス下院議員がこれをたたき台に大幅な修正を加え、連邦準備法の素案をまとめた。民主党出身のウィルソン大統領は、国内十二の各地域に設ける民間準備銀行を中央の政策決定機関、つまり財務長官をはじめ大統領による任命者を含む、ワシントンの連邦準備局の下に置くように要求した。これらの要求が通って、連邦準備法は同年に制定された。

連邦準備局の誕生により、モルガン財閥の突出した巨大権力が削がれるだろう、と革新派は期待したが、事実はもっと複雑で、一筋縄ではいかなかった。逆にモルガン側が連邦準備制度をうまく操って、自己の権力を拡大するのに利用したからである。

『モルガン家』 P250-262 プジョー小委員会聴聞会(url)

P261 プジョー小委員会は、状況証拠はたくさんあったものの、共同謀議をなしているとの厳密な意味での金融トラストの存在は立証できなかった。むしろ、調査の結果として判明したのは、「J・P・モルガン商会が主唱者と認められる一握りの人々の手中に、信用と資金の支配」を集中した、一種の「利益共同体」が存在するということであった。(中略)

P262 プジョー小委の聴聞会は、モルガンの権力を脅かすと思われる直接の成果を一つ生み出した。ウィルソン大統領が1913年12月、連邦準備法に署名し、政府に中央銀行を設け、緊急時にモルガン財閥に依存せずに済むようにしたのだ。(中略)

それでもモルガン財閥は、ニューヨーク連邦準備銀行と巧みに同盟関係を結んだので、その後の二十年間にわたりこの新しい金融組織を実際に動かすことになる。

『日米衝突の萌芽』P394-402url

P395 しかし、アメリカンシステムの三番目の狙いである「中央銀行の設立」についてだけはいっこうに進みませんでした。その理由は、第七代大統領アンドリュー・ジャクソンに代表される歴代大統領の、銀行の紙幣発行システムに対する根深い不信でした。ジャクソンはフィラデルフィアの資本家が設立した中央銀行、第二合衆国銀行が連邦銀行として機能する権限を剥奪しています。1836年以来、アメリカには中央銀行は存在していなかったのです。(中略)

P397 右記の金匠の仕組みに従えば、資金を必要としている会社に三億円を貸し出し最大株主になることが可能です。しかしよく考えてみるとその貸し出した三億円は、どこにも存在しなかった三億円なのです。この仕組みから得られる利益は、貸し出しと預け入れの金利差からの利益をはるかに上回る巨額なものです。 アメリカの政治家はこのからくりを知っていました。この悪辣な仕組みは「部分準備制度Fractional Reserve System」と呼ばれ、あたかもスマートな仕組みのようなイメージをまとっていますが、その実態は実に性悪なものです。ですから、(中略)

銀行間に競争させることで、放漫になりがちな(融資額をできるだけ増やそうとする)銀行経営をチェックさせようとしたのです。(中略)

取り付けの事態に備えて銀行家は、どれほどの割合(準備率)を支払用として金庫に用意していたのでしょう。きわめて保守的な(預金者から見れば安全な)銀行は五十パーセント近くを用意しています。たとえばハリマンの支配下にあったウェル・ファーゴ銀行(2010年、全米四位)と

P398 合併したネバダ銀行のオーナー、イサイアス・ヘルマン(Isaias W.Hellman)は保守的な銀行家の典型でした。つねに預金量の四十五パーセントを準備し、不足の事態に備えるほどの堅実経営でした。しかし多くの銀行では二十パーセント程度の準備率で経営していたのです。(平均では二十一・一パーセント)。制度的にその程度の準備率でよしとされていたのです。(中略)

前述のパニック・オブ・1907が起きたのは、こうした低い準備率での融資が行われていたことが原因でした。(中略)

パニック・オブ・1907は、モンタナの地方銀行の乱暴な経営が原因となった取り付け騒ぎでした。それではその取り付け騒ぎの危機を防いだJPモルガンなどの有力投資銀行が資金の融通に

P399 困った場合はどうなるでしょうか。ストレイトが仕掛けていたような支那鉄道投資案件などは大きな投資です。そうした投資はつねにリスクを内包します。彼らが、そうした場合に備えて最後の駆け込み寺として、資金提供できる金融機関(中央銀行)が欲しいと思うのは当然でした。彼らの問題意識の重要なポイントは以下のようなものでした。

一、銀行のわずかな準備金をすべて一つに集めてプールし、少なくとも一部の銀行が決済資金
  不足や取り付けを免れるようにするにはどうしたらよいか
二、不可避の損失負担を銀行がら納税者に転嫁するにはどうすればよいか
三、どうやって、そのような施策は市民を守るものであるとして議会を納得させるか
(中略)

1910年十一月二十二日の夜、アメリカ金融界を牛耳る大物たちがニューヨークの対岸にある小さな鉄道駅に集まっていました。(中略)

P400 七人が向かった先はジョージア州の狩猟の名所であるリゾート地ジキル島でした。(中略)

この七人が第三合衆国銀行の設計図をジキル島で検討してから二年後の大統領選挙でウッドロー・ウィルソンが当選しています。P401 彼は中央銀行設立を目指す金融資本家グループが周到に用意した人物(弾)でした。(中略)

ウィルソンはJ・P・モルガン系企業との強いコネクションがありました。だからこそJ・P・モルガンは、1912年の選挙にウィルソンを担ぎ出したのでした。その担ぎ出しを担当したのがJ・P・モルガン・ジュニアをファーストネームの「ジャック」と呼ぶほどの仲であったエドワード・マンデル・ハウスでした。(中略)

第三合衆国銀行設立を可能にする法律の準備が整ったのは、ウィルソン政権の一年目が終わろうとする1913年の暮れのことでした。法案(Federal Reserve Acts)は連邦制度理事会(Federal Reserve Board:FRB)の創設をうたうものでした。数々の工夫がなされ、中央銀行はおろか銀行という名称さ絵使用しない周到さでした。どこにも第三合衆国銀行が創設されることをにおわせる文言はないのです。委員会のメンバーの選任も、上院の助言と同意によって大統領が任命するという仕組みで、国民のコントロールが利くかのような制度となっていました。(中略)

名称にはFederal(連邦の)を使用し、政府機関であるかのような錯覚を与えています。委員の選出は運用でどうにでもなります。この委員会が全米各地に設立されることになる十二の連邦銀行を指導するのである。しかしその中心的役割を果たすニューヨーク連邦準備銀行もその他の連邦準備銀行も、株主名は公開されませんでした。すべてを主要な民間銀行が押さえていたのです。(中略)

P402 第一次世界大戦の勃発直前に中央銀行システムを導入できたことで、アメリカは期待される戦争需要への対応準備が整いました。(中略)

貸し付けをどれほど拡大してもFRBが最後の砦として守ってくれる仕組みができあがったのです。実際、FRB創設の結果、準備率は平均で十一・六パーセントに下げられ、一九一七年六月には、九・八パーセントまで下がりました。このことはFRBが生まれてわずか四年で銀行の貸し出し量が二倍になったということなのです。これこそがJ・P・モルガンをはじめとした金融資本家が意図していたことでした。