2026年2月18日水曜日

偏愛メモ 『王妃マルゴ』

メディチ家、ヴァロア家系図『王妃カトリーヌ・ド・メディチ』P010(参照)
「カトリーヌ・ド・メディシスと聖バルテルミーの虐殺」「王妃マルゴ」Grok解説

上巻

第一章 ギーズ公のラテン語
P017(略)
宮廷が祝っていたのは、前王アンリ二世の娘で、現王シャルル九世の妹マルグリット・ド・ヴァロアと、ナヴァール王アンリ・ド・ブルボンの華燭の宴だった。その日の朝、

P018 ブルボン枢機卿が、ノートル⁼ダム寺院に設けられた舞台の上で、フランス王女の結婚式のしきたりに則って、花婿花嫁を結びつけたのである。

 だれもがこの結婚には驚いた。そして、洞察力のある人々は背後に何があるのかと考えた。あれほどまでに憎みあっていプロテスタント陣営とカトリック陣営という二つの党派がなぜ急に接近したのか、理解できる人はほとんどいなかった。

たとえば、ジャルナックの町でモンテスキューによって暗殺されたプロテスタントの頭目、父コンデ公のことで、コンデ家の若殿アンリ・ド・コンデが、黒幕の王弟アンジュー公を許しているとは思えなかったし、また、カトリックの総大将キーズ家の若殿が、オルレアンでポルトロ・ド・メレの手にかかって殺された父キーズ公の恨みを忘れて、事件の背後にいたコリニー提督と和解したとも思えなかった。

それだけではない。意志薄弱なアントワーヌ・ド・ブルボンの妻である気丈なナヴァール女王ジャンヌ・ダルブレが、息子アンリをフランス王女マルグリット・ド・ヴァロアと婚約させる相談にブロワに赴いたあと、結婚式の二ヵ月前に急死したことについて、奇妙な噂が飛び交っていた。

恐るべき秘密をジャンヌ・ダルブレに見破られたカトリーヌ・ド・メディシスが、秘密が公になることを恐れ、手袋に染み込ませた毒薬で彼女を殺害したというのである。

毒薬は、この種の薬品の扱いに慣れているフィレンツェ人のルネという男が調合したらしい。人々は、いたるところで小声でささやきあい、またある場所では大声で噂しあった。

この偉大なナヴァール女王の死後、息子のアンリの要請で、あの有名なアンブロワーズ・パレを含む二名の医者が解剖をおこなったが、

P019 切開は内臓だけにとどまり、脳にまでは及ばなかった。そのため、噂はよけいに広まり、確信をもって語られるようになった。というのも、ジャンヌ・ダルブレが匂いをかいだために毒殺されるとするなら、犯罪の痕跡は、解剖を免れた唯一の場所であるその脳に残っているにちがいないと誰もが考えたからであった。犯罪、そう、たしかに、だれ一人それが犯罪であることを疑うものはいなかった。

それがすべてではなかった。この結婚はたんに王国に平和をもたらすばかりか、国中のおもだったユグノーをすべてパリに引き寄せることになったが、シャルル九世はこの結婚の成立に、頑固といえるほどの異常な執着を示していた。

この二人の婚約者はかたやカトリック、かたやプロテスタントと異なった宗派に属していたため、当時ローマ教皇であったグレゴリウス十三世に結婚の許可をもとめなければならなかったが、この許可状の到着が大幅に遅れていたので、ナヴァール女王は非常に心配していた。

そこで、ナヴァール女王がある日、シャルル九世に、許可状は結局着かないのではないかと不安を申し述べたところ、シャルル九世はこう答えた。
「伯母上、心配なされることはございません。私はローマ教皇よりもあなたを尊重し、妹をだれよりも愛しています。わたしはユグノーではありませんが、馬鹿でもありません。ですから、ローマ教皇があまりに愚かな考えに固執するなら、わたしみずからがマルゴの手を取って、新教の説教の声が響くなかであなたの息子さんと結婚させることにいたしましょう」
P020 この言葉は、ルーブルからパリ中に広まった。そして、ユグノーたちを狂喜させるいっぽうでカトリックをおおいに当惑させる結果になった。なぜなら、カトリックたちは、国王は本当に自分たちを裏切ってしまうのだろうか、それとも、王は、ある朝あるいはある晩、とつぜん思ってもみなかったようなどんでん返しのやってくる喜劇を演じているにすぎないのだろうかと小声でささやきあったからである。

 とりわけ不可解だったのは、五、六年も前から旧教徒軍に対して呵責なき戦いを挑んできた新教徒軍の頭目コリニー提督に対するシャルル九世の態度だった。一度などコリニー提督の首に十五万エキュ(一エキュは三フラン)の賞金をかけたこともある王が、サン=ジェルマンの和議以来、宮廷に出仕するようになった提督の威厳に魅せられて、今ではコリニー提督でなければ夜も日もあけず、彼を父上と呼び、今後、全軍の指揮は彼にゆだねると高らかに宣言する始末だった。

その結果、それまで、息子シャルル九世の行動も意志もさらには欲望までを支配してきたカトリーヌ・ド・メディシスが、息子の態度に強い不安を感じるようになっていた。

そして、それは決して根拠のないことではなかった。というのも、シャルル九世はコリニー提督と心を割って親しく話しあったとき、フランドルでの戦争についてこんなことを漏らしていたからである。
「父上、もうひとつ十分に注意しておかなければならないことがございます。それは、ご存じのようにどんなことにも鼻を突っこみたがる母后に、この企てを知られてはならないことです。母后がなにひとつ気づかないように隠密裏にことを運ばなくてはなりません。

P021 なぜならば、母后はなにかとけちをつけたがる性格ですから、加わったらすべてがご破算になってしまうからです」
ところで、コリニー提督は賢く経験も豊かだったが、シャルル九世のこの真摯な告白を完全に秘密にしておくことはできなかった。彼がパリに到着したときには、あらゆることに警戒心を抱き、また、シャティヨンから出発するにさいしては、一人の農婦が彼の足元に身をなげだし、
「旦那様、お願いでございますからパリに行かないでください。もしパリに行かれたら、旦那様ばかりか一緒に行かれる方々もみな殺されてしまうでしょう」
と訴えたことがあったにもかかわらず、その警戒心は提督の心の中でも、また娘婿のテリニーの心の中でも、しだいに薄らいでいった。テリニーに対しては、シャルル九世も全幅の信頼を寄せ、提督を「父上」と呼んだように彼を「兄」と呼んで、王がもっとも親しい友と認めたものに対してやるように、「きみ」という二人称を使っていた。

 その結果、ユグノーたちも、悲観的で容易に人を信用しない一部の人たち以外は全面的に王を信頼するようになっていた。ナヴァール女王の死は肋膜炎が原因ということで一応の決着を見るに至り、ルーヴルの大広間は、結婚式のためにパリにやってきた気まじめなユグノーたち全員の宿舎となった。

プロテスタントたちは、彼らの若大将アンリ・ド・ナヴァールの結婚で、思いもかけなかった財産の返還にあずかれるのではないかと期待していた。コリニー提督、ラ・ロッシュフーコー、コンデ公アンリ、テリニー、要するにプロテスタントの党派のおもだったメンバーが勢揃いし、

P22ルーヴルの王族たちと誇らしげに対面していた。三か月前までシャルル九世とカトリーヌ・ド・メディシスは、彼らを縛り首の晒し台に極悪人の死体よりも高く晒してやりたいと願っていたはずだったが、その彼らがいまやパリで大歓迎を受けているのである。

これらプロテスタントの同志のなかに姿が見あたらないのはモンモランシー元帥だけだった。というのも、モンモランシー元帥はいかなる甘言にも誘惑されず、いかなる見せかけにも欺かれることなく、リラダンの城に引きこもってしまったからである。

元帥は隠退の理由をたずねられると、サン=ドゥニの戦いでイギリス人ロバート・スチュアートのピストルの一撃で殺された父のアンヌ・ド・モンモランシー大元帥の死によって引き起こされた悲しみをあげた。

しかし、この事件はすでに三年も前のことであり、また感じやすい心というのは当時まだ流行にはなっていなかったので、この長すぎる喪を信じる者はすくなく、皆、もっとほかに本当の理由を見ようとしていた。

 とはいえ、ルーヴルの宮廷はどちらを向いても、モンモランシー元帥の恐れは杞憂にすぎないことを証明しているように思われた。シャルル九世も、カトリーヌ・ド・メディシス母后も、アンジュー公も、アランソン工公も、だれもが、この王家の婚礼の宴をもりたてようと努めていた。

アンジュー公は、ユグノーたちから、十八歳にも達しないうちにジャルナックとモンコントゥールの戦いで勝利をおさめたのはシーザーやアレキサンダー大王に勝る早熟の天才

P023/ 025/ 027/ 029/ 031/ 033/ 035/ 037/ 039/ 041/ 043

2026年2月17日火曜日

偏愛メモ 『ビジュアル版バレエ・ヒストリー バレエ誕生からバレエ・リュスまで』

P008カトリーヌ・ド・メディシスがもたらした宮廷文化とバレエ(tw,tw)
バレエは「イタリアで生まれ、フランスで花開き、ロシアで成熟した」とよくいわれます。

イタリアのルネサンス期に生まれ、主に社交術でであったものがフランスに伝わったのは、カトリーヌ・ド・メディシスがフランスのアンリ2世のもとに嫁いだためでした。今ではフランスといえば多くの人が連想する、美しいお菓子や料理とともに、バレエや洗練された礼儀作法もフランスに伝えられたのです。

 カトリーヌが息子をポーランド王にする目的でポーランドからの使節をもてなすために上演された作品『ポーランドのバレエ』で初めて「バレエ」という言葉が使われたといわれています。

ただ、この時代のバレエは「宮廷バレエ」と現在では区別していわれるように、今日のバレエとは非常に違ったものでした。上演時間も3時間以上、作品によっては10時間近くあったといわれていますし、舞台も庭全体を使うといった壮大なものでした。必ずしも踊りだけが中心ではなく、噴水や大掛かりな装置なども見どころの一つで、観客はそうした仕掛けやダンサーたちのフォーメーションを楽しめるように、少し高いところから眺めることが多かったようです。

また作品のテーマは主に神話でした。作品によっては歌が入ったり、パントマイムが入ったり、朗読が入ったり、その形式は一定ではありませんでした。ただ、最後にはほとんどの場合、見ている観客たちも加わって踊る大舞踏会的な構成だったようで、このことから、社交界の人たちにとってバレエを踊れることが必要になったのです。

もっとも、これはバレエと聞いて私たちが想像するものとは大分違う姿をしており「バロックダンス」と呼ばれるものでした。

 何より重要なのは、カトリーヌ・ド・メディシスによってフランスへもたらされたバレエが、貴族のたしなみとなった史実でしょう。そうした歴史が背景にあったからこそ、フランスのバレエは新たな一幕を迎えることになったのですから…。

【関連】
・薔薇の精 『バレエ・リュス』より(url
・有吉京子『SWAN-白鳥-』(tw)

2026年2月13日金曜日

偏愛メモ 『追風者~金融界の夜明けへ~』

Grok解説(参照
02 2613魏若来「鯤鵬 晴天を背負い図南す(『荘子』逍遥遊篇)なるほど」2804央銀外貨局副局長高峰「内部情報では沈が資金力拡充のため通商銀行を狙っているとか」3240沈図南、高峰を告発3938民族銀行家江景嵐「国民政府は軽工業支援政策を制定した。だが大銀行の利息は下がらない。」沈図南「民間銀行のせいです。財力や後ろ盾があるのをいいことに政府や中央銀行の国債すら買わない。なんとかせねば。」4024沈近真が沈図南に魏若来の伝言を伝える「ある人が“謎が解けた”って、“鯤鵬実業”」
03 0232鯤鵬 晴天を背負い図南す(『荘子』逍遥遊篇)1035康少捷「民国16年か、粛清の時期だ」(tw)1940虞世清「唇亡びて歯寒し、奴と南京に知らしめてやるんだ。黄浦江は蓁淮河とは違うと」

04 1248沈図南(張鳴泉に)「不服だろうが歴史書を読むといい。西漢の鄧通の末路を知れば私に感謝するはず」
05 1505林樵松「鴻毛より軽い死もあれば泰山より重い死もある」2917張鳴泉(沈図南に)「鄧通の話をしたな。悲惨な最期だった。桑弘羊は天子のため民と利権を争い財を奪った。結果は釜茹でだ。今に見てろ」
08 3425魏若来「健全な社会は上から下へ資産を再配分すべきです。合理的は法律で富裕層の経済活動を管理すれば貧困層にも拠り所を作れる。今の社会のように大部分の富が一部の…」3818沈図南「宋先生、関税保管権~君のやり方では外資銀行の利益に影響する。商鞅や王安石、張居正の末路を見ろ」
09 0712張鳴泉「袁世凱が外資銀行に借金した際、関税保管権を担保にした。~」1438沈図南「明朝が滅亡した原因は、財政の破綻」江さん「清朝が滅んだ原因は、朝廷の腐敗と信用の崩壊、契約の反古、民からの搾取。関税改革は西の列強の利益に関わる。やり過ぎればまた八か国連合軍がせまってくるぞ」
10 3403魏若来「政府に力がつけば、生命力ある4億の市場を見たくありませんか?」3921関税保管権の回復案可決(tw)
08           09           10

11 2607レストラン食事ヴァイオリン「タイスの瞑想曲」→「ひばり」2137林樵松「宋先生は税警団を創設し、米国陸軍士官学校を出た温応星が団長に就くとか、推薦していただけませんか?」3402沈近真「鴻毛より軽い死もあれば泰山より重い死もある」
12 3117沈近真「興夏銀行接収された」徐店主「興夏銀行の顧客名簿を入手しタングステン鉱石を売るぞ」3355徐店主「20万の軍、贛に入れば、風煙滾滾として天の半ばに来る、工農千百万、心を同じくして、不周山の下、紅旗乱る」沈近真「江西の反包囲討伐?」
13 3748魏若来、李晟達殺人容疑で捕まる
14 3934荊軻は始皇帝を殺すため樊於期の首を捧げた。己の欲せざる所は人に施すこと勿れ(論語-衛霊公第十五P08)。魏若来拷問に耐える
16 魏若来釈放1612林樵松「蒋主席の側近から見ればどんな欺瞞も党への裏切り明朝の錦衣衛指揮使紀綱はご存知ですね。極悪非道で悪巧みに長け役人たちの弱みを握った。おだてられた末に自分を皇帝だと勘違いした。最期はどうなったと?大逆罪で凌遅刑」2015岳飛、戚継光。2856魏若来助手から弟子へ、我を生む者は父母、我を導く者は師(史記-管・晏列伝)
17 タングステン交渉2849陳済棠
18 33:30沈近真、李晟達に顔を見られ上海→蘇州4017魏若来、李晟達がリチャーズホテルにいることを知る
19 1214魏若来、沈近真が李晟達暗殺容疑でお尋ね者にされたことを知り、李晟達を逃がし、そして殺す(たぶん)。1813沈近真逮捕
20 沈近真釈放1145沈近真はなぜバカなのか1348沈近真は何故共産党員になったのか?に興味を抱く林樵松2513沈近真(魏若来の掌を見て)「何をしたらそんなに?李晟達を尾行したそうね。」魏若来「銃を持っていたので深追いしませんでした」沈近真「李晟達が戻らないと断言できるの?」魏若来「ご安心を、戻りません」(李晟達殺しの顛末が回想される)3821徐諾「蒋介石の2度目の包囲討伐でも江西と福建の根拠地は崩されずさらに拡大した。東固平民銀行は拡大し贛西南工農銀行となり吉安には江西工農銀が設立された」3804魏若来を取り込めないかと4232ロスチャイルド家を引用
21 0152沈図南「共産党が金融戦線で宣戦布告した」0522康少捷が逃れようとする林樵松を脅迫して放ったセリフ「我々は岳飛と秦檜じゃない」
22 銀貨偽造事件
23 銀貨偽造事件1804国民党は私腹を肥やす者ばかりだ2300偽造工場制圧3444魏若来「宋先生に真相を話したんですか。」沈図南「政治は妥協の芸術だ。身代わりの二人に責任を負わせる」3703沈近真「不可能よ、あの工場の真の主は孔家の奥様“大姐”なの。康少捷や余志英は末端に過ぎない」
24 0233林樵松「我々は普段から汚れ仕事をしてますが~今日国民のために声を上げるべきだった。康少捷の尻拭いをする気分は?」0441沈図南「悪人は富み栄え善人は骨も残らぬ」魏若来「彼らは孫文先生の遺志を忘れたのかそれとも入党の誓いを軽んじているのか」沈図南「国を変えるために入党する者もいれば富と権力のために入党する者もいる。宋先生が本件を蒋主席に報告してくれる。蒋主席が罰してくださるはずだ。梁啓超は氷水を10年飲んでも情熱は冷めぬと言った。一歩づつだ。」2725沈近真が魏若に銃の撃ち方を教える3029沈近真、共産党の理想を語る。魏若来「先生の理想と同じだ」3410★字幕「1932年1月20日、日本は満州事変への世界の目をそらすため現地日本人に騒動を起こさせた」→第一次上海事変前夜
25 2230第一次上海事変停戦(1932.1.28-3.3)2742建設国債発行3415虞世清「大姐の言う通り、沈図南は才知はあるが視野が狭いな。央銀とその周辺しか見えていない。目に映るものが全てだと思っている。この罠は沈に合わせて作り上げた。~清朝は滅びたが一部の官僚の子孫は今も贅沢三昧を続けている。西晋の頃には多くの異民族が争い勝ち残った者が何千年も続く名家となった。一勢力の興亡など我々には何の関係が?(tw)」
26 3041宋先生から電報です「建設国債の下落に関し君は調査をするだろう。だがその真相はぜったいに公表するな。民衆が動揺すれば政府と委員長の信用が傷つく」3925魏若来腐った政府に見切りをつけ辞職
27 4024沈図南「国の上層部は無関係、今回の騒動の元凶は日本の投機家福田信一」魏若来「元凶は日本人じゃない。財政部高官の妻こそ黒幕です。」(tw)
23           25           27

28 3640魏若来深層を暴露したのは自分だと
29 0335魏若来の処刑寸前沈近真が助ける3123沈近真の正体ばれる3900魏若来と牛春苗の逃走に手を貸す銭少良の原型は
30 沈近真魏若来上海脱出劇1750沈夫人「盧芳は匈奴や烏桓と兵を連ねしばしば辺境を侵略した」
31 0202沈図南「委員長が自ら指揮を執り40万人も動員しドイツから軍事顧問団まで呼んでも紅軍に勝てない。勝敗を決するのはカネと食糧と補給線のはずだ。ちっぽけな共産党がなぜこんなに戦える?~共産党の勢力は広がるばかり、このままでは党国の危機だ」(第4回包囲討伐退却)3354魏若来中華ソビエト共和国銀行(1932年2月設立)入行。3540沈図南、明代の忠臣于謙が使った笏を贈られ経済包囲戦略実行のため江西特派員を要請される。
32 沈図南一家、林樵松→江西1228沈図南死去の新聞記事を知る魏若来2036沈図南「ここは広東軍の旅団長銭逢時が権力を握っている。上役の陳済棠は中央に反抗的、銭逢時も私には従わない」2538南昌討伐軍別動総隊贛州連隊の林樵松
33 1413沈図南、銭逢時の報復を受ける3840沈図南魏若来沈近真再会
34 貨幣偽造工場壊滅作戦と沈図南の共産党への誘い4119魏若来「ソビエト区では435万人が毎月75トンの塩を使います。」

35 塩取引を巡って2511声律啓蒙4200林樵松のスパイを確保
36 0236第5次包囲討伐始まる1148沈近真「「送別」は作詞弘一法師、作曲はオードウェイです。この歌で皆さんに宣言します。中華ソビエトは滅びません。戦争が終わる日紅旗が大地にはためくでしょう。共産党は必ずや勝利の夜明けを迎えます」2541沈近真爆死3204タングステン取引始動3841沈図南「経済包囲戦略」論文を破り捨てる3948第五次包囲討伐開始(1933.09.25)
37 広州タングステン取引0148沈図南「陳済棠の経済手腕は見事なものだ。広州の繁栄ぶりは上海に劣らない」0322沈図南「海老七、三合会和勝堂のトップだろ?」3757林樵松「山を打ち虎を脅す」4205魏若来ハンス取引き無事成立
38 第五次包囲討伐(1934.9松毛嶺紅軍敗退)3735長征開始(1934.10)

2026年1月19日月曜日

偏愛メモ 国子監は花ざかり~ロマンスは最高学府で~

01 3709功名のためだけに学ぶな(读书不能只为了功名)
04 3543燈樹千光照 花焰七枝開
06 1856周して比せず和して同ぜず3446廬山の真面目を識らざるは 只身の此の山中に在るに縁る(不識廬山真面目 只縁身在此山中 )
08 1100桑祈蘭姬男性評2342★晏雲之(蘭姬に)「優れた女子だから好きになるわけではない」
09 1314人は利のために来る(天下熙熙,皆为利来tw)2113桑祈の身を刺客から守ったのは晏雲之の叔父晏鶴行
10 3615桑祈卓文遠出会い(回想)
11 1444★洞穴に閉じ込められた桑祈晏雲之(心が動く)2532桑祈晏雲之卓文遠(三角関係)
12 246桑祈「一生そばにいる」
13 (蘭姬誕辰の宴)0522「琴瑟相和す」「鳳求凰」「長相思」3455親は子の将来を思うものだ(父母之愛子 則為之計深遠。戦国策-趙太后相互参照)
16 1052★晏雲之(桑祈に)告白
20 2958投桃報李

2026年1月4日日曜日

偏愛メモ 『思考のための道具』

第二章 最初のプログラマは貴婦人であった

P022 それらが発する熱のために暑くなった部屋一杯を占有する、途方もない真空管の配列が米ペンシルバニア大学で最初のコンピュータとして歴史に登場する一〇〇年以上も前に、ロンドンのさるサロンで、上品に盛装したヴィクトリア風の紳士が木材と真ちゅうとでできた気取った小さな機械のデモンストレーションを行っていた。

両親の知り合いの貴婦人につれてきてもらった、まだ一〇代の褐色の長い髪の娘もこのデモンストレーションを見ていた。彼女は数学の才能に恵まれていたが、勝負運には恵まれず競馬の負けがこんでいた。

その機械を注意深く観察して、彼女はその年配の紳士が何をしようとしているかを理解することができた。そして彼の試みに協力したことで周囲を驚かせた。もしその試みが成功していたとすれば、歴史は大きく変わったであろう。

 チャールズ・バベッジとその協力者、ラブレイス夫人エイダは、アメリカの技術者たちがENIACを製作する一世紀も前に、コンピュータを発明する一歩手前までたどりついていたのである。(tw)

P024/ 026/ 028/ 030/ 032/ 034/ 036/ 038/ 040/ 042/ 044/ 046/ 048/ 050

【関連】
・『ポスト資本主義社会』コンピュータの起源(相互参照
・『ワークステーション原典』(相互参照

2025年12月15日月曜日

偏愛メモ 大決戦

01蒋毛重慶会談45.10。29:20~魏德邁(ウェデマイヤー将軍)蒋介石会談(tw)
06 31:08~蒋介石・M特使・S大使会談46.11(tw)
21長春包囲戦 26:22破釜沈船41:50明知不可為而為之(tw)
22 11:20~曾泽生投降、鄭洞國自殺図るも部下に説得され投降。蒋介石は曾泽生鄭洞國自決と発表。笑う毛沢東ら(tw,tw)
01           06           21           22

2025年12月5日金曜日

偏愛メモ『中国の歴史9 海と帝国 明清時代』

はじめに 大海に囲まれた二つの帝国

(相互参照) P019帝国の歴史/ 021恣意的な明朝/ 023/ 025自制的な清朝/ 027/ 029

第四章 海と陸の交易者 一五世紀

P
179馬和から鄭和へ、雲南の少年(tw)
P181
(写真、鄭和が出自を語る碑文)
この碑文からは、さまざまなことを読みとることができる。馬和は洪武四年(一三七一)に、この昆陽で生まれた。その父と祖父は、いずれもハッジ(哈只)であったという。ハッジとはムスリムのなかでメッカに巡礼したものに与えられる称号である。馬和がムスリムの家系に生まれたことが明らかにされる。

元朝支配下の昆明は、ヤチ(押赤、鴨赤、鴨池などと漢字で表記される)と呼ばれていた。唐代にこの地に姚州という行政府が置かれていた。この中国語の発音ヤオチョウという音が変化して、ヤチになった。

馬和が生まれるちょうど一〇〇年前にヴェニスを出発したマルコ⁼ポーロはフビライ支配下の雲南を旅し、このヤチにも滞在したことになっている。その記録によると、「とてもりっぱな大都会でこの王国の首府をなしている。商人・工匠が多く住まっている。住民もさまざまで、イスラーム教徒あり偶像教徒あるなかに、数こそ少ないがネストール派のキリスト教徒もいる」(愛宕松男訳注『東方見聞録Ⅰ』、平凡社)とある。

モンゴル軍とともに色目人と呼ばれる中央ユーラシア出身者が、数多く雲南に入植した。その後も商業や行政に携わる人々が雲南に入り、昆明およびその周辺には、多くのムスリムが住むようになった。

雲南のムスリムたちは、閉鎖的な社会のなかで暮らしていたわけではない。ある程度の資産を蓄え、気力と体力が充実していれば、メッカに巡礼することができた。馬和の父は、おそらく幼いころに祖父とともにメッカへと旅立ち、巡礼の目的を達成したのであろう。

そのルートは、中央ユーラシアを越える陸路であったのか、南シナ海とインド洋とを

P183 渡る海路であったのか、知る手がかりは残されていない。しかし、馬和の幼年時代、また一族が寄り集まるような機会には、メッカ巡礼の見聞が語られていたに相違あるまい。

父の馬哈只は、まだ三〇代という若さで死去している。その年月日を見ると、明朝の軍隊が昆明を陥落させ、モンゴル王族の関係者を捜索し、各地で軍隊による虐殺が行なわれていた時期にあたる。

碑文は、父の死因について明言することを避けている。戦乱に巻き込まれて命を落としたことを、暗に示しているように思われる。おそらくそのときに、一〇歳になった次男の馬和は明軍に拘束され、捕虜として去勢され、明軍を率いていた傅友徳の幕下に留置かれた。

三年後に朱元璋の四男で当時ニ五歳であった朱棣に献上された。朱棣は、のちの永楽帝えあり、帝国を拡大した皇帝として死後に太宗とされ、帝国の礎を作った皇帝として成祖という廟号が一六世紀に贈られている。

雲南進攻と藍玉の獄
明朝初代皇帝の朱元璋は、晩年になると内陸への傾向を強める。その視点からすると、南京はあまりに海に近かった。洪武ニ四年(一三九一)に遷都の候補地の一つに挙げられていた西安に、長男で皇太子に指名されていた朱標を視察のために派遣した。

朱元璋にとって不幸であったことは、巡察を終えて南京に戻った皇太子が、疲労のために病に倒れ、洪武ニ五年(一三九二)に急死したことであった。帝国の後継者には、朱標の長男、つまり朱元璋の孫であり、朱棣の甥にあたる朱允炆が指名され、皇太孫となった。

P184皇太子の死去は、その後の馬和の運命を大きく変化させることになる。

老齢に達していた朱元璋は、当時わずかに一五歳の少年に皇位が確実に引き継がされるように、洪武ニ六年(一三九三)に粛清を行った。史書に「藍玉の獄」として記録される大疑獄事件があり、二万人ともいわれる犠牲者を出した。

謀反の首謀者とされた人物は、雲南進攻で功績を挙げた藍玉である。胡惟庸の獄がその直後に官僚機構の改造をともなったように、藍玉の獄のあとには軍制の改造が付随した。

明初期の研究者として知られる川越泰博氏は、藍玉の獄に連座した人々の供述書を集めた『逆臣録』と衛所官の登記簿である「衛選簿」とを交差させながら分析し、藍玉の獄が雲南進攻という困難な戦役を共にした人々を標的にしたものであると論じている(以下、川越泰博『明代中国の疑獄事件---藍玉の獄と連座の人々』風雲社、二○○二年による)。

雲南進攻は泥沼に陥り、現地の少数民族によるゲリラ的な戦法に悩まされ、またマラリアなどの風土病で命を落とす兵士も少なくなかった。困難な戦役は、それに参加した将兵のあいだに人的な結合関係を生み出した。

遠征軍が解散されて将兵がそれぞれの衛所に復帰したあとも、そのネットワーク的な関係は持続した。こうした私的な関係は、朱元璋にとって帝国の安定を妨げる障害であると感じられた。

人脈を取り除くために、疑獄事件が仕立てられたと川越氏は推定する。疑獄事件には衛所官と衛所軍の関係者が数多く連座し、そのあとに首都におかれた主力軍である親軍衛と京衛を対象とした大規模な配置転換が行われたことも、それを裏付ける。

P185 宦官となった馬和
『逆臣録』には、「火者」(コジャ)と呼ばれる去勢された青年の名を認めることができる。たとえば藍玉に従って雲南遠征軍に加わった指揮使の曹震の家に仕えていたものとして、当時一八歳から二一歳までの火者の青年四人の名が挙がっている。また藍玉の家にも、雲南大理出身の火者がいた。

コジャとは、インドのムスリム宮廷に仕える去勢を受けた使用人を指した言葉であった。元時代から明時代にかけて、インドから去勢された奴隷が華南の広州や泉州などに輸出され、この奴隷の輸入とともに、コジャという言葉が中国に入った。

中国人は発音にしたがって「火者」の字をあてた。明初には華南で豪強の家が多くの「閹割えんかつ」(去勢)された他人の子を使役しており、それを「火者」と呼ぶと、『明実録』(洪武五年五月戊辰の条)に記されている。

火者と宦官とは同義語ではない。宦官とは朝廷および皇室の一族が封じられた王府に仕える去勢された男性であり、火者とはそれ以外の功臣などに仕える人々であった。藍玉の獄の当時、馬和は数えで二三歳であり、曹震や藍玉の係累として疑獄事件の犠牲者となった青年たちと同世代である。

彼らも少年のときに雲南で捕虜になり、去勢されて功臣たちの家で仕えることになったと考えて間違いはないであろう。馬和は傅友徳のもとにいた火者であったが、疑獄事件が発動されたときには、燕王として現在の北京に封じられていた

P186朱棣に献上されて宦官となっていた。『逆臣録』に名が挙げられた青年たちと、馬和との運命は、紙一重の相違であったとも言えよう。

馬和を救ったものは、彼の武人としての才覚であった。彼は宦官であったということからイメージされる両性具有的な人物ではなく、巨漢であり声量も豊かで、その声は戦場にあっても遠く響いたといわれている。指導力と判断力を兼ね備えていた。

朱棣はかつての元朝の都を拠点にして、モンゴル高原ににらみを利かせる役割を担わされていた。馬和を火者として使用していた太傅友徳は、宦官として主人に絶対的に服従し、しかも軍事的な才覚を発揮し始めた青年を、最良の献上品として皇帝の四男に捧げたのである。

馬和はその期待に応え、モンゴル軍を撃退する戦役において燕王の帷幕のなかで朱棣をよく補佐した。

二代皇帝の叔父との戦い
朱元璋は明朝朝廷に功績のあった人々を粛清し、みずからの息子たちを王に封じて帝国の要所に置き、二代目以降の皇帝に忠誠を尽くすように遺訓を『皇明祖訓』として整備した。

しかし、皇太子の死去にともない二代皇帝に指名された皇太孫にとって、叔父にあたる諸王の存在は、脅威でしかなかった。特に朱棣は軍事的・政治的な能力を有し、その父・朱元璋からも才能を認められていた。

政権の安定のためには燕王に封じられていた朱棣を排除する必要があった。

P187/ 洪武三一年(一三九八)閏五月、朱元璋は孤独な独裁者として、その七一年にわたる人生を終える。その直後から、二代目の皇帝となった朱允炆の戦いが始まった。

朱棣の手足をもぎとることを目的にして、まだ年号が洪武である年のうちに、開封に王府を開いていた周王(朱元璋の五男)を取りつぶし、年が変わり新たに建文という年号になった。一三九九年には山東青州の斉王、山西大同の代王、湖広荊州の湘王、雲南岷王と、王族の身分を次々と剥奪した。
(略、燕王朱棣の身分剥奪の段取りが着々と進行していく)
靖難の役と永楽帝の誕生
建文元年(一三九九)七月四日、永楽帝は病が快復したとして祝賀の会を催し、包囲している官軍の指揮官を招待した。燕王逮捕の段取りが完璧に整ったと安心していた指揮官は、不用心にも招待に応じ、宴会の席で惨殺されてしまう。

それと時を同じくして、朱棣の腹心たちは指揮官を失って混乱する官軍を圧倒して、街のほぼ全域を制圧して陣容を整えた。朱棣はすぐさま檄を発した。そのなかで、このクーデターは皇帝に対する反乱ではない、皇帝の側近にある奸臣を取り除くことが目的であると宣言している。

その主張にもとづき、この軍役は「君主の難を靖んじる」戦い、つまり「靖難の役」と呼ばれることとなる。

朱棣の主張は、朱元璋が諸王に対して定めた『皇明祖訓』法律の第三条にもとづく。

P189
(略)
朱棣と皇帝とのあいだで繰り広げられた戦乱は、華北平野を荒廃させながら三年間、建文四年(一四〇二)六月に南京が陥落するまで続いた。劣勢であった朱棣が最後に勝利を収めたのは、朱元璋の粛清によって皇帝側に有能な将軍がいなかったことが、大きな要因となった。

朱棣は皇帝に即位(永楽帝)し、建文という年号を抹殺して洪武三三年とし、翌年正月から永楽の年号を用いることにした。
(絵画、朱棣(永楽帝))
宦官と皇帝
南京の皇帝によって正規の官僚や軍隊をはぎ取られていたため、クーデターを断行したときに朱棣の周囲にいたものは、わずか八〇〇人程度であったともいわれる。この困難な時期に朱棣を支えたものが宦官であり、そのなかで傑出していたのが二〇代後半にさしか

P191 かかった馬和であった。軍の指揮官として才能を発揮し、南京の最終攻略戦で勇名を馳せたといわれる。朱棣は、彼の功績を記念して「鄭」姓を与えた。鄭和は宦官の長として、三保太監の名称が冠せられた。

永楽帝38 2130~馬和の献策  41靖難の変終結 42 3254~馬和→鄭和 大明皇妃09 2521~第3回出航1409-11


193/ 195琉球/ 197/ 199/ 201/ 203/ 205/ 207/ 209/ 211/ 213琉球/ 215/ 217/ 219/ 221/ 223/ 225/ 227/ 229
(略)
日本の勘合貿易
琉球からアルタヤに向かった船には、中国との朝貢貿易とによって入手した絹織物や磁器

P231 のほかに、日本の物産と思われる刀剣や扇などを礼物として積載していた。硫黄も日本の物産である可能性が高い。琉球の船舶がなぜ日本の物産を積んでいたのであろうか。少し時代をさかのぼり、日本の動きを通観しておこう。

南北朝の混乱を終息させた足利義満は、銅銭を軸にして一四世紀後半以降に活況を呈し始めた日本の経済状況を前にして、中国からの銅銭などの物資を輸入する必要に迫られていた。

中国の物資を得て、みずからが中国風の権力者であることを示すことが、他の諸勢力よりも一頭地を抜くために有効な手段であったからである。

足利義満は靖難の役のさなかにあった朱允炆(建文帝)のもとに使節を送り、建文四年(一四〇二)には明朝の使節が日本に来航した。年が改まった一四〇三年に義満は答礼の使節を送り。新たに皇帝となった朱棣に国書を提出した。

永楽二年(一四〇四)に明朝は日本に対して勘合を支給し、明朝と室町政権とのあいだの朝貢交易が始まった。日本が朝貢する港は、浙江の寧波に限定された。明朝の側は、日本を朝貢体制に組み込むことで、中国沿海を荒らしていた倭寇を禁圧するように日本に求めることができるようになった。

朝貢のために来航した船舶としか交易を認めない方針を、明朝は国初から貫いていた。貢船であることを証明するために、明朝は相手国にあらかじめ割り印を押した証明書を発給し、中国の港で低簿の印と照合することにした。

これが勘合制度であり、洪武一六年(一三八三)にアユタヤやチャンバなどに発給されたのが最初である。

日本に対して勘合が渡されたのは、永楽年間が最初で、その後五回にわたって発給されている。

P232鄭樑生氏の研究にもとづいて、その具体的なかたちを見てみよう(鄭樑生『明・日関係史の研究』雄山閣出版、一九八四年)。
(略、勘合のかたちの説明)
P232日本に発給された勘合は、「本」字勘合であり、日本から中国に向かう貢船が携帯した。「本」字底簿は礼部と浙江布政司が保管しており、寧波に着いた日本の船舶は携帯した勘合を提出し、浙江布政司の底簿と照合して真偽を確かめられることになっていた。

「日」字勘合は明朝の礼部が保管し、日本に向かう船舶が携帯した。これに対応する「日」字底簿は礼部と日本が保管しており、中国の船が日本の港に着いたら「日」字底簿と照合することになっていた。礼部が保管する「日」字・「本」字底簿は控えである。

永楽年間には日本の勘合を携えた貢船は、足利義満の死去を挟んで六回にわたって派遣された。明朝との約束を果たしていることを示すために、倭寇を捕えて身柄を中国に送っている。

しかし、義満の跡を継いだ足利義持は、一つには父の義満に対する反発、そして倭寇取り締まりを行うという約束を果たせる見込みがなかったために、永楽九年(一四一一)に明朝との国交を断った。

P233 それから二〇年あまりの年月が過ぎた。宣徳七年(一四三二)に日本の足利義教が中国へ派遣した船が、浙江の寧波に到着した。この使節は明朝の皇帝に対する進貢物として、ウマ・鎧甲・刀剣などを持参していた。

二〇年ぶりの日本の来貢を喜んだ朱瞻基は、義教とその妻に白金をはじめ最高級の絹織物、朱色の漆に彩色が施された輿などおびただしい下賜品を与えた。

儀礼的な贈答品のほかに、交易を目的にしたさまざまな物産を、使節はたずさえてきた。そのリストを見ると、蘇木一万六〇〇斤・硫黄一万二〇〇〇斤・紅銅四〇〇〇斤・刀剣二振などで、蘇木は一斤(六〇〇グラム弱)につき銭一貫文という価格になっている(『明英宗実録』景泰四年一二月癸未朔甲申)。

硫黄などは日本で産するものの、交易物産の筆頭にあげられている蘇木は、日本では産することがない。日本は琉球に刀剣や硫黄などの物産を輸出し、その見返りとして琉球がアユタヤなどから仕入れた蘇木を手に入れていた。

その背後には、シナ海をめぐる交易のネットワークが存在していたのである。

塩が支える帝国
海塩の生

(略)
P235/ 237/ 239/ 241/ 243/ 245
P247 北辺の交易者
永楽期におけるモンゴル高原への軍事介入は、タタールとオイラトとの覇権争いで劣勢に立たされた側に有利に作用した。永楽ののち洪熙・宣徳年間(一四二五~三五)、明朝はモンゴル高原に軍事的な介入を行うことを控え、朝貢を促し高原における抗争に敗れたものを受け入れる政策に転じた。

抗争に敗れた側が中国の軍事的な支援をうけることができなくなったため、実力者が他を圧倒することを可能にする。宣徳九年(一四三四)イラトのトゴンは、タタールを破り、モンゴル高原を実質的に統一する道を開いた。

正統四年(一四三九)にトゴンを継いだエセンは、モンゴル高原の南に位置するハミに勢力圏を広げることに努力を傾けた。

ハミは中央ユーラシアを貫通する隊商ルートの拠点である。西にはティムールなきあとも繫栄すを続けるサマルカンドがあり、東には明朝がある。ムスリムの商人がが東西を結んで交易を展開していた。

エセンはハミを掌握することで、この隊商ルートを押さえ、ムスリム商人を保護する見返りに、商人から経済的な支援を得た。エセン支配下のオイラトは、中国との交易を行うために、明朝との経済的な交渉を進めた。

オイラトと明朝とのあいだの交易は、三つの局面をもっていたとされる(以下は萩原淳平『明代蒙古史研究』同朋舎、一九八〇年による)。一つは朝貢であり、オイラトがテンなどの毛皮やウマなどを携えて大同を経由して北京に赴き明朝に朝貢すると、中国は絹織物や

P248工芸品などをモンゴル側に下賜した。オイラトの貴族たちはこうして手に入れた中国の物産で身の回りを飾って自らの権威づけに使うとともに、西方への貿易品としても用いた。

第二は、朝貢使節とともに大同に来訪するムスリム商人が担った交易活動である。ピル⁼マフムードという商人がいた。マフムードはエセンに仕え、オイラトの官僚として中国でしばしば交易を展開した。正統一二年(一四四七)に大同に現われたときには、二〇〇〇人を超える大部隊を率いていたとされ、交易のために連れてきたウマは四〇〇〇頭を超え、テンの毛皮は一万二〇〇〇枚を越えていた。

彼はほぼ隔年で明朝を訪れた。おおよそ九月か一〇月ごろ中国に到着し、中央ユーラシアでは行動が難しくなる冬季を北京で過ごし、翌年の春にモンゴル高原へと引き揚げた。

そしてそのまた次の年の秋に再び来訪する。北京に滞在している期間に、中国の物産を買い集め、中国に現れない一年半のあいだにサマルカンドなどの西方に赴いて交易活動を展開していたのではないかと推定される。

中国とモンゴル高原とのあいだのこうえきにおける第三の局面は、密貿易である。明朝は銅・鉄製の火器などの兵器を国外に輸出することを厳禁していた。オイラトはモンゴル高原での覇権を維持するために、最先端であった中国産の武器を必要としていた。

正統九年(一四四四)ごろから火器の密輸が増大し、オイラトの使節団が帰国するときに交易するようになった。しばしば禁令が出されたものの効果はなく、密輸者に死刑という厳罰を与えることをしたにもかかわらず、密貿易をとめることはできなかった。

P249 莫大な規模の朝貢に対応する明朝側の負担は大きく、密貿易を根絶するためには中国側のみならずオイラト側をも取り締まる必要が生じた。明朝はエスカレートするオイラトの交易に対する要求に応えることができす、朝貢に対しては使節の人数を制限し、手間の掛かる儀礼を強制して、朝貢の規模を縮小しようとした。

こうした明朝の政策は、ユーラシアを東西で結ぶ交易に依拠していたエセン政権には受け入れがたく、ついに正統一四年(一四四九) に、山西・遼東・陝西の三方面から中国本土に侵攻するに至る。

当時、中国の皇帝は朱祁鎮(英宗・正統帝/天順帝)であった。彼は宦官に勧められるままに自ら出馬して、大同まで進軍した。事態は好転せず帰途についたとき、土木堡というところでオイラト軍の急襲を受け、皇帝自身が捕虜になってしまったのである。

のちに土木の変として知られるこの出来事は、エセンの側でも思いもかけないことであった。彼にとって明朝は、いわば金の卵を生むニワトリであり、交易さえ認めてくれれば明朝を滅ぼす意志はなかった。

捕虜とした皇帝を利用して明朝を操る可能性を探るため北京までは押し寄せたものの、明朝が朱祁鎮の弟の朱祁鈺を帝位(代宗・景泰帝)に即けたことを知り、モンゴル高原に引き揚げている。

朱祁鎮はエセンから客人として丁重にもてなされ、翌景泰元年(一四五〇)に帰国する。朱祁鎮は上皇として軟禁されたが、景泰八年(一四五七)に帝位に返り咲いている(年号は天順)。

土木の変のあと明朝は、モンゴル高原に対して専守防衛の方針を取り、成化一〇年(一四七四)には万里の長城の構築と改修を進めるようになった。

P250私たちがいま、北京郊外の八達嶺などで見る長城は、明代に築かれたものである。
(写真、万里の長城)
戸メカニズムの矛盾
(略)
P251/ 253/ 255
(略)

第七章 王朝の交替 一七世紀 P377-468

(略)
P449(略)
思想家の省察
P451黄宗羲(tw)/ 453顧炎武


主要人物伝
P695鄭和
P701朱元璋/ 703朱棣/ 705ヌルハチ/ 707ブムブタイ(相互参照)