2019年1月17日木曜日

韓ドラ関連ツイートアーカイブ 2019.01.07~

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2019年1月16日水曜日

偏愛メモ 科学と芸術、あるいは、普遍と個別 (随時更新)

に触発されて、いくつか思い出し、メモしたくなった。

『ホロン革命』

第二部 創造的精神
第八章 芸術と科学の創造性
2.8.8 科学と芸術の相補性 P247-252

P247(略)芸術家と科学者はばらばらの世界に住んでいるのではなく、一個の連続スペクトルの異なった領域に住んでいるにすぎないということだった。連続スペクトル---それは、赤外線の詩から紫外線の物理学まで広がっている虹である。(略)

もっとも明白な差は、われわれが科学的業績と芸術的業績を評価するときの判断基準の性質にありそうだ。

両者をわけ隔てている仮想の壁のひとつは、科学者は、芸術家とちがい、理論と実権を照らし合わせることで「客観的な事実」に至る立場にある、という一般的信念である。が、じつは、実験的な証拠によって理論にもとづいた予測が確認されることはあっても、理論それ自体が確認されることはないのである。

P248 まったく同じ実験データでも、いろいろに解釈できることがままあるのだ。---この事実こそ、科学の歴史が文学批評の歴史とおなじくらい多くの悪意に満ちた議論で埋めつくされている理由である。

かくしてわれわれは、実験によって科学的な理論を検証するという相対的に客観的な方法から、美学的価値という相対的に主観的な判断基準まで、一連の連続的な変化を再び手にすることになる。(略)

P249 ボティチェリの聖母マリア像とポアンカレの数学理論とをくらべてみても、創造者の動機や熱意に関して、何の類似性もない。にもかかわらず、無意識の暗中模索のなかで「新たな発見をもたらす適切な組み合わせ」に向けて自分を手引きにするものは「数学的な美、数の調和、形、幾何学的なエレガンス、などの感覚」であり、

P250「これはすべての数学者が知っている真の美的感覚である」と書いたのは、ほかならぬポアンカレであった。存命中のイギリス最高の物理学者、ポール・ディラックなどはさらに極端で、次のような言葉を残している。
「式が実験と一致することより、式に美しさがあることの方が重要だ」
ショッキングな発言であったが、かれはノーベル賞をもらった。そして、これとは逆に、画家、彫刻家、建築家はつねに科学的な、あるいは準科学的な理論に手引きを受け、ときにはそれに悩まされてもきた。ギリシャ人の黄金分割、透視図の幾何学、デューラーとダ・ヴィンチの「完全調和の究極的法則」、セザンヌの「自然のあらゆる形態は球と円筒と円錐に帰すことができる」という教義、等々である。(略)

このように科学者も、芸術家も三福対の連続性を認める。
科学者は理論を手引きする直観力によっていることを自ら認め、芸術家は直観力に規律を課す抽象的な論を評価、あるいは過大評価する。
ふたつの要素はたがいに相手の不足を補っている。そしてそれがどのような割合で結びつくかは、一にかれらの創造的衝動が何の媒体をとおして表現されるかにかかっている。

P251 同種の考え方は、音楽の理論的側面である和声と対位法の規則にも適用できる。小説家も詩人も劇作家も、真空のなかで創作するわけではない。かれらが認識していようがなかろうが、かれらの世界観はその時代の哲学的、科学的思潮に影響されている。ジョン・ダンは神秘主義者であったが、彼はガリレオの望遠鏡の意味をただちにみてとった。
人間は網を編み、網は天に投げられた、そしていま、天は人のもの
ニュートンもこれに匹敵するだけの影響力をもっていた。もちろんダーウィンも、マルクスも、『金枝篇』のフレーザーも、フロイトも、あるいはアインシュタインもそうだった。キーツの『ギリシャの壺に書かれた頌詩』は有名な文句で終わっている。
美は真なり、真は美なり、それがこの世で汝らの知るすべてだ。そして汝らに必要なのは、知ることだ
P252 これは確かに詩的な誇張表現であるが、それはまた、教育、社会システムの奇習によって人工的に引き裂かれたふたつの文化が本来ひとつであるという信念の吐露である。(略)

2.8.9 科学と芸術の進化サイクル P252-261


『漱石が見た物理学』

5章 相対性理論の誕生P151-179
夢見る芸術家 P171--173

ところが、アインシュタインは、こうした一般的な捉え方を超えた観点から物理学を眺めていたような印象を受ける。つまり、個別の実験結果を解釈するために理論を提唱するのではなく、理論そのものに---あえて言えば、実験を度外視したところで---つくり出されるべき必然性を初めから見て取っていたのである。(略)

P172 電磁気学と力学の法則の成り立ち方に対称性を求めるという姿勢から生まれたものであった。(略)アインシュタインは、理論構成の美しさを追及する中に物理学の本質を見据えていたのである。それはむしろ芸術家の目に通じるものがあるのかもしれない。

終章 再び漱石と物理学P180-193
自然派と浪漫派 P183-186

P183 それは、例の「光線の圧力」に触れた個所である。(略)広田先生(『三四郎』の中で重要な役割を果たす登場人物の一人)が、次のような言葉を述べるくだりがある。
どうも物理学は自然派じゃ駄目のようだね。・・・だって、光線の圧力を試験するために、眼だけ明けて、自然を観察していったて、駄目だからさ。自然の献立のうちに、光線の圧力という事実は印刷されていないようじゃないか。だから人巧的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母だのという装置をして、その圧力が物理学者の眼に見えるように仕掛けるのだろう。だから、自然派じゃないよ。
ここで広田先生の言う自然派とは、人為的な操作を無理に施すことなく、自然をあるがままに捉えようとする態度を指しているのだろう。(略)

P184 あるがままの自然を思弁的に解釈するだけに終わったアリストテレスの学説が、如実にそうした顛末を物語っている。さきほど引き合いに出されたガリレオやニュートンにしても、常に自然派にとどまったわけではなく、一方において、容赦なく自然の中に斬り込んでいったのである。(略)

切りつめられた天使の翼 P186-189

P186 実験という手法を駆使して自然の中に果敢に踏み込んでいく物理学の姿勢は、近代科学の誕生とともにほぼ出来上がっていたことがわかるが、これに対し批判的な感情を抱く人々もいた。たとえば、イギリスの詩人キーツは、一八一九年に発表した詩集『レイミア』の中で、ニュートンの光学実験を取り上げて、次のように書いている。
冷たい学問の手に触れられ
魅力は飛び去って行くではないか
かつては天に神秘の虹があった
今やその横糸も織地も知られ
虹はありふれたつまらぬものとなる
学問は天使の翼を切りつめ
規則と線都で神秘を征服する
空からは霊を、地からは精を追い出し
虹をときほぐす
(小黒和子「英詩にあらわれたニュートン像」『ニュートンの光と影』共立出版)
P187物理学が、実感という人為的な操作により強引に自然の神秘を引き剥がしてゆくさまを、キーツは「天使の翼を切りつめ・・・精を追い出す」と表現したのである。(略)また、これより少し前、ゲーテが『色彩論』(一八一〇年)を著わし、ニュートンの光学実験を方法論の観点から、ヒステリックなほど激しく攻撃したことはよく知られるとおりである。

しかし、キーツが嘆こうが、ゲーテが論駁しようが、実験を強力な武器として自然を解体し、P188その中から探し求める対象の本質を抜き取るという物理学の手法に、大勢として影響が及ぶことはなかった。(略)ところが、今世紀に入り、量子力学と相対性理論の記述する、およそ人間の感覚を超越した対象を相手にするようになると、実験の規模も内容も、こんなのどかな雰囲気のものではすまなくなってきた。(略)

小説と人生 P189-190

さて、その寅彦と熊本で出会って間もない一八九六(明治二九)年一〇月、漱石は第五高等学校の『龍南会雑誌』に「人生」と題する一文を発表している。まだ、作家になる前の無名時代のP190小論ではあるが、数学と文学を比較させながら人生について触れた次のような一節があるのに気がつく。
二点を求め得てこれを通過する直線の方向を知るとは幾何学上の事、吾人の行為は二点を知り三点を知り、重ねて百点に至るとも、人生の方向を定るに足らず。人生は一個の理屈に纏め得るものにあらずして、小説は一個の理屈を暗示するに過ぎざる以上は、サイン、コサインを使用して三角形の高さを測ると一般なり。吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行セル三角形あるを奈何せん。
(略)P191これに関連して、漱石は『三四郎』の中で、「イプセンの劇は野々宮君と同じ位な装置があるが、その装置の下に働く人物は、光線のように自然の法則に従っているか疑わしい」と書いている。光線の圧力は、一定の実験条件(装置)のもとで、常に電磁気学によって計算される値と一致する。

ところが、イプセンが『人形の家』の中で設定した条件の中で、主人公のノラがとった行動は、漱石の言う「一個の理屈」にすぎない。自然の法則とは異なり、人間は、その時々に応じ、本人すら予知できぬさまざまな振る舞いをするものだからである。

漱石文学の魅力 P191-193

したがって、『こころ』の中で自ら命を絶った「先生」も、友人の妻(美千代)を奪うことになる『それから』の主人公、大助も、そして未完に終わった『明暗』でかつての恋人(清子)への未練を断ち切れず逡巡する津田も、すべてが文学という虚構の世界で漱石が暗示した「一個の理屈」にすぎないことになる。ところが、不思議なことに、こうした作品を読んでいると、われわれはいつの間にか漱石が綴る筋書きの中に引きずる込まれ、それが「一個の理屈」ではなく、あたかも何らかの法則に支配された必然の展開であるかのような錯覚に、いっとき陥ってしまう。

『人間の建設』

数学も個性を失う P25-34

小林 このごろ数学は抽象的なったとお書きになったでしょう。私ども素人から見ますと、数学というものはもともと抽象的な世界だと思います。そのなかで、数学はこのごろ抽象的になったとおっしゃる。不思議なことがあるものだ。抽象的な数学のなかで抽象的ということは、どういうことかわからないのですね。

観念的になったといったらおわかりになりますか。

小林 わかりません。

それは内容がなくなって、たんなる観念になるということなのです。どうせ数学は抽象的な観念しかありませんが、内容のない抽象的な観念になりつつあるということです。内容のある抽象的な観念は、抽象的と感じない。ポアンカレの先生にエルミートという数学者がいましたが、ポアンカレは、エルミートの語るや、いかなる抽象的な概念と雖も、なお生けるがごとくであったと言っておりますが、そういうときは、抽象的という気がしない。つまり、対象の内容が超自然界の実在であるあいだはよいのです。P26それを越えますと内容が空疎になります。中身のない観念になるのですね。それを抽象的と感じるのです。

小林 そうすると、やはり個性というものもあるのですか。

個性しかないですね。

小林 岡さんがどういう数学を研究していらっしゃるか、私はわかりませんが、岡さんの数学の世界というものがありましょう。それは岡さん独特の世界で、真似することはできないのですか。

私の数学の世界ですね。結局それしかないのです。数学の世界で書かれた他人の論文に共感することはできます。しかし、各人各様の個性のもとに書いてある。一人一人みな別だと思います。ですから、ほんとうの意味の個人とは何かというのが、不思議になるのです。ほんとうの詩の世界は、個性の発揮以外にございませんでしょう。各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。

個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は歴然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。

一人一人みな違うから、不思議だと思います。漱石は何を読んでも漱石の個になる。芥川の書く人間は、やはり芥川の個をはなれていない。それがいわゆる個性というもので、全く似たところがない。そういういろいろな個性に共感がもてるというのは、不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。

美的感動について P71-81

P72 (略)言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情緒が起こるについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ、見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。

芥川は詩という言葉が好きでした。しかし詩という言葉の意味は説明していない。私が大学を出て二年目に芥川は死んだのですが、私たち芥川の同好者が寄って話をするとき、P73最も話題になるのは、芥川が呼んでいる詩とはなんだろうということでした。それは直観と情熱だというふうに説明すればわかるのじゃないかと思ったのです。

漱石の書いたものには詩がある、しかし鴎外にはそれがないと言っていますね。それを鴎外はいけないという意味にとったら問題が起こるでしょうが、漱石はそれをいかに表すかに情熱をそそぎ込む。それをさしているのだろうと思います。

『声の文化と文字の文化』


P53 アレグザンダー・ポープ(1688-1744)は次のように述べていた。詩人の「機知wit」とは、「しょっちゅう人々の脳裏に浮かぶような平凡なこと」でも、「こんなに上手に言い表されたことはこれまで一度もなかった」と読者に思わせるようなしかたでそれを表現できることでなければならない、と。(関連tw)

関連リンク
『クラチュロス』の二つのルートによる帰還(随時更新) https://twitter.com/i/moments/803704894146297857?lang=ja

2019年1月10日木曜日

偏愛メモ 『重光・東郷とその時代』

第六章 盧溝橋事件 P184-214
政党も軍も歓迎した近衛文麿の登場 P193-202

P198 ここに、いまに至る現実主義と自主独立願望とのあいだの相克が見られる。世界の覇権国について行けば日本の安全も繁栄も心配いらない、という西園寺の現実主義に、若き近衛が「対英追随」を感じて、ついて行けなかったのである。

第七章 南京占領 P216-248
按兵不動 P237-243
P237 参謀本部でも、中国側の面子を立てて講和交渉に導くために、停戦ではないが、南京の前で一方的に兵を止めて交渉に入る「兵を按えて動かざる」の策が提案された。しかし、提案者である戦争指導課の堀場一雄の表現を借りれば、「作戦当局と激烈なる論争に入りしも、作戦当局はこの方策に対する熱意に乏しく、戦勢を主張するのみで、奔馬を停止するの術を弁えず」出先の軍は一番乗りを競って南京を攻略してしまった。

なお堀場は、南京占領の結果、「上海苦戦の反動、訓練不十分なる応召兵の介在等により一部不軍紀の状態を現出し、志那敗残兵および不良民の乱暴も加わり、南京攻略の結果は十年の恨みを買い、日本軍の威信を傷つけたり」と記している。十年ではない。半世紀以上続く傷となった。石射も、各領事館からの現地報告に接して日記に次のように記している。
「上海からの来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう」として、もっとも目立った暴虐の首魁の一人は元弁護士の某応召中尉であり、部下P238を使って宿営所に女を拉しき立っては暴行を加え、悪鬼のごとく振る舞った
と書いている。この事件は、海外に大々的に報道され、日本の評価を落とし、中国人の抗戦意欲をますます固めた。戦争において、相手国の残虐行為ほど戦争プロパガンダの材料として優れたものはない。(略)

P239 純粋な非戦闘員の被害者の数が千人単位か、あるいは万単位に達したか、いまとなっては確認する術もないが、とにかく日本軍の行動に大規模な越軌があったことは事実であろう。若干弁解じみた説明としては、民間人の服装をした便衣隊掃滅の必要があったとか、治安秩序の空白を機として暴民による暴行掠奪あったというが、部分的にはそういうこともあったかもしれない。しかし、日本軍の越軌的行動が、「お前たちは何という事をしてくれたか」といったと伝えられる松井石根司令官の発言、前記の堀場、石射の表現に相当するような、上海でも、広東でも、武漢でもまったく見られなかったような規模のものであったことは確かだとしか言いようがない。(略)

石射は日本人の民心の頽廃といっている。たしかに、北清事変や日露戦争のときのような、文明国として世界に認められたいという若き日本の初心は失われていた。しかし、日本軍が全体としてそこまで堕落していたならば、蒙古軍がサマルカンド、バグダッドで次々に大虐殺を繰り返したように、またソ連軍が満州、ドイツで暴行をほしいままにしたように、武漢、広東など各都市でも同じ事件が起こっているはずであるが、それは起こっていない。(略)

P240 南京でこうした事件が起こった理由は、一言でいえば、戦争では、そのときの環境と雰囲気により、そういうことが起こるときもある、ということである。(略)

南京事件は実在した P243-246
P243 南京事件については戦後半世紀以上を経て、いまだに論争が絶えない。その一つの理由は、この問題が、裁判の合法性と裁判の手続きの妥当性について多くの疑点を残している東京裁判によって取り上げられたからであり、その後も南京事件の存在を強調する側の動機のなかに、日本の過去のすべてを否定的に見ようという東京裁判以来の戦後左翼史観の残滓が強く残っているからである。また、これがあるために三十万人虐殺というような荒唐無稽と言える事実誤認さえも無批判に受け入れようという態度があるからである。それが当然の反発を招いているのである。

さらに、南京事件をナチスのホロコーストと同列に論じる試みさえある。ホロコーストは一民族の計画的絶滅であるのに対して、南京事件は戦争状態における一般市民の被害の問題である。法的に分類すれば、南京事件はむしろ、広島、長崎の原爆投下やP244ドレスデン、東京の絨毯爆撃、満州、樺太におけるソ連兵の暴行と同じ種類の問題として論じられるべき性質のものであろう。それをホロコーストと一緒にしようとするから、反発がますます強くなるのも当然である。



P266 かつて福地桜知は、「言論統制で苦しむのはつまるところ文章の下手な連中だ。文章が上手ければ、何も取り締まりに触れるようなことは書かなくてもいいたいことはいえる」といったという。汪兆銘はその詩文から見ても一大文章家であり、…


P268 西安事件19361212で蒋がいかなる妥協をしたかは永遠の謎であるが、汪自伝では、蒋が、(一)孫文の容共連ソの政策を実現して対日戦を行うこと、(二)国民政府に共産党を含めること、(三)抗日に同情するすべての外国と協力するすること、あるいはそれ以上の秘密の約束をしたのであろうと推測している。汪自伝は、そのとき蒋介石を救い出した宋美齢の回想として「西安事件は中国国家を猛烈な勢いで破壊し、西安は死の罠だった」と引用している。宋美齢はいつこれをいったのだろうか。もちろん汪兆銘は日本の敗戦前に死んでいるから、最終的に国民政府が共産軍に敗れて台湾に追い落とされる前である。ということは、宋美齢は、西安事件以降の国共合作が中国を支那事変の泥沼に引きずり込んだ原因だと思っていたということになる。


P280 ボルシェビキの冷徹な外交
革命後のソ連は、いままでのいかなる国とも異なる独特なイデオロギーのもとに、しかも一党独裁の専制体制によって極端な秘密主義を守ったので、その動向は謎とされた。チャーチルは、ソ連を「謎に包まれた謎のなかの謎」と呼び、近衛文麿内閣のあとの平沼騏一郎内閣は、独ソが不可侵条約19390823を結んだとき、「複雑怪奇」と呼んで退陣することになる。(関連『鮎川義介と経済的国際主義』P196)

このときの独ソ接近を理解できなかったのは、平沼騏一郎だけではなかった。キッシンジャーは、「もしイデオロギーが必然的に外交政策を決定するのならば、ヒトラーとスターリンの提携は、その三世紀前におけるリシュリューとトルコのスルタンの提携以上にありそうもなかった」と書き、「リシュリュー、メッテルニッヒ、パーマーストン、あるいはビスマルクにきわめて明快だったであろう戦略を西側諸国が理解することを拒んだことはスターリンの仕事を容易にさせた」と書いている。(中略)

しかし、いまとなってみると、ソ連の行動などはキッシンジャーのいうとおり、単純明快なものだった。思い出すのは冷戦中、故牛場信彦駐米大使が「共産圏の専門家などは偉そうな顔をしているが、あれは実は簡単なんだ。難しいのはアメリカの政治を読むことだ」といっておられたことである。それはキッシンジャーがひそかに訪中した、いわゆるニクソンショックのあとのことであった。もう一度キッシンジャーを引用すると、「スターリンの究極の悪夢は、ソ連邦を攻撃する繕資本主義国の同盟であり」「ボルシェビキの義務とは、すなわち資本主義国同士を争わせ、ソ連邦が彼らの戦争の犠牲となることを回避することであった」---『外交』第十三章。(中略)

P282 満州事変後の極東の情勢をソ連がどう判断してたかは、1932年の日本共産党テーゼと同時期のコミンテルン第十二回執行委員会の反戦決議から知ることが出来る。それによれば、満州事変は日本帝国主義によって火蓋を切られた強盗戦争であり、国際連盟においてフランスとイギリスが満州事変における日本の行動を庇ったことは、国際連盟が仏英帝国主義の道具になっていることを示している。

他方アメリカは、満州占領に反対しつつも極東における勢力範囲の公平な分け前を要求し、太平洋におけるその地位強化のために日本とソ連の両方が弱まることを欲して、日ソ戦争を挑発しようとしている
。まさに、ソ連に対する戦争のために帝国主義列強の統一戦線をつくろうとする意図が強化されている、というのである。(関連モルガン家532)

P283 1932年はヒトラーが権力を握る前年であり、ソ連としては、もっとも恐れたのは、英仏の帝国主義と日本の帝国主義による包囲だった。とくに、それまでは、短い朝鮮ソ連国境だけで対峙していた日本が全満州を制圧し、最大な国境線で接するようになったことには脅威を感じたのである。

極東の軍備増強
ソ連では、1928年スターリンが権力闘争に勝ってトロツキーを追放し、ソ連邦の命運を賭けて、重工業の建設と農業の集団化を達成するための五ヵ年計画を始めた。満州事変が起こったときはまだその三年目であり、内政の状況からいって、これに対応できる態勢になかった。ヤコブレフは『歴史の幻影』のなかで当時の情景を描写している。

「1931年夏にカラダンダの荒野に撲滅富農を乗せた最初の列車が到着した。…約五十万人、無人の土瀑で彼らは、最初のうちは地面に穴を掘って上から藁かぼろをかぶせただけの場所に住んだ。冬には暖房もない小屋に五十平方メートルあたり七十人から八十人が入れられた。1932年の春までに生きのびたのはその半数だけ。P284 33年末には四人に一人しか生き残れなかった」。スターリン自身がチャーチルに語った証言によれば、このような仕打ちを受けた農民は一千万人に達したという。

こんなときに、日本と事を構える余裕などあるはずもない。ソ連の政策は、当然に極東の軍備増強と、その増強が達成されるまでのあいだなんとしても日本と衝突しないための対日宥和、そして日本が南進して、国民党、米英と衝突するのを期待することにあった。(中略)

日ソの兵力比をパーセントで見ると、昭和10年、11年ごろに日本にとって最悪となるが、この二年間に国境紛争は三百回以上起こっている。その多くは国境が不明確な地域で起きたものであり、力を背景に、国境線の問題では一歩も譲らなかった。

日本との戦争をできるだけ引き延ばす
他面ソ連側は戦闘を拡大する意図はまったくなかった。共産主義者の考え方として、日本との戦争はいずれは不可避である。が、「その不可避な戦争を、資本主義同士が戦うときまで遅らせること」(1927年党大会におけるスターリンの演説)が肝要とされている。日本との関係では、日本における北進論(対ソ連)を抑え、南進論(中国本土)を奨励するのがその政策である。

日本と蒋介石との戦争、日本とアメリカとの戦争が起こるようにさせ、それまではソ連は日本と平和的関係を保って、日本が弱ったところで一撃を加えればよい。それは、その計算どおりとなった。ソ連はそのために積極的な情報工作を行った。近衛文麿のブレーンだった尾崎秀実は、のちにソ連のスパイだったことが発覚して死刑となるが、支那事変勃発当時は、最高の中国問題専門家としての名声を利用して『朝日新聞』『中央公論』などで、事変の拡大のためのキャンペーンを行った。

尾崎は「南京政府の支配は一種の軍閥政治」であると、その後の「蒋介石を対手とせず」の声明の伏線となる議論を展開し、「局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさない」「日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ・・・そのほかに絶対に行く道がないのは間違いない」といい、元が宋を滅ぼすのに四十五年、清が明を滅ぼすのにも四十六年かかった例を挙げ、戦争を拡大するよう、早期にやめないよう、煽動している。

西安事件では、ソ連は中国共産党に対して、蒋介石を釈放するよう圧力をかけたという。そして国共統一戦線を結成させ、盧溝橋事件の翌八月には中ソ不可侵条約を結んで、中国に対する武器援助を開始した。昭和12年から16年までに、ソ連は中国に航空機一千機、砲一千門、機関銃一万挺を含む軍事援助を与えたという。

P288 こうしたソ連の戦略がわかっていれば、それだけで、支那事変、張鼓峰事件、ノモンハン事件、日ソ中立条約、中立条約侵犯のすべての背後にあるソ連の考え方が簡単に理解できよう。

ヒットラーの戦略
「『我が闘争』に示されているヒットラーの哲学は、陳腐であるとともに空想的であり、従来から存在する右翼過激思想を通俗的にまとめ上げたものであった。その思想は知的潮流を引き起こすことはなかった。この点で『我が闘争』はマルクスの『』や十八世紀の思想家たちの著作と異なっていた」---キッシンジャー

たしかに、ヒットラーの思想のなかには、人種の優越のような空想的発想はあっても、人類の普遍的価値観となりうるものは何もない。ただ、ドイツの国家戦略はあった。それは、ウクライナに至る東ヨーロッパの穀倉地帯を押さえてゲルマン民族の生存圏を確保することである。しかし、その戦略的発想に加えて、ユダヤ人憎悪のような低次元の偏見や独裁体制から由来する個人的な思いつきや思い込みが混在したことが、ボルシェビキのような冷徹な一貫性を失わせている。

日独伊枢軸同盟に至る過程で、ドイツにとっても日本にとっても最大のディレンマとなり、それがまた蹉跌の原因ともなったのは、イギリスとの関係である。ドイツの目的が東方における生存圏確立のためであるとすれば、西方とは事を構えたくないのは当然である。1936年8月、リッベントロップを駐英大使に任命したときに、ヒットラーは「どうかイギリスも防共協定に参加させてくれ、これが自分の最大の望みだ」と訓令した。

そして同年11月、日独防共協定成立に際して、日本では東郷茂徳欧米局長が、当時の閣僚はすべて協定に賛成であり、寺内寿一陸相が統合に対して「あなたは、まだイギリスのことを心配するのですか」と責めるのを物ともせず、英国との政治協定を結ぶのを防共協定の条件としている。だが、防共協定は英国の公式の了解を得ることはできず、反対に英国の猜疑を深めつつ締結され、それが三国同盟に至る最後の過程では、ソ連よりも英国を対象とするようになっていく。

P290 リッベントロップの覚書
それには必然もあろう。東郷が指摘したように、日独防共協定には本来的に英国の猜疑心を招く要素があった。ヨーロッパの覇権をドイツが握るということは、英国の伝統的な欧州大陸におけるバランス・オブ・パワーの政策と衝突することになる。しかしヨーロッパ大陸で、フランスの有事の際に英米の支持を受けてバランス・オブ・パワーの要素として残るかぎり、英国としては、ドイツの東方進出は絶対に困るという性質のものではない。

リデル・ハートの『第二次世界大戦史』によれば、1937年11月のハリファックス英国上院議員の訪独によって、ヒットラーは、英国が東ヨーロッパにおけるドイツの行動にフリーハンドを認めた、との印象を得た。英国側は、そこまでははっきりいわなかったとしても、ドイツの東方進出には十分理解を示したようである。

英国の態度がミュンヘン会談とポーランド侵入のわずか半年のあいだに百八十度変わるのは、英国の世論が第一次大戦後はウィルソン主義の影響を受けて、従来の現実主義的な思考と並行して道徳的な原則を重視するようになっていたからである。また島国である英国には、そうした道徳的思考を許す地政学的な余裕が与えられていた。

「ヒットラーの失敗は、バランス・オブ・パワーという歴史的原則を破ったことでなく、第一次世界大戦後のイギリス外交の道徳的前提を踏みにじったことであった」---キッシンジャー

イギリス人はヴェルサイユ条約の不公正さは知っていた。だから、ドイツが同じ人種であるオーストリアの併合を禁止されているのは不合理だと思っていたし、ドイツ人居住地域であるズデーテンラントをチェコスロヴァキアから回収することにも反対しえないと思っていた。しかし、その後ナチスが強引にチェコスロヴァキアを解体して保護国化したことには同じ民族自決原則からいって道徳的に許せなかった。そして民主主義特有の現象として、それまでの宥和政策に対する反動が世論を正反対の方向に引っ張って、ポーランド侵入に際しては対独宣戦に立ち至らせるのである。

このように、英国を敵にまわすことはもともとヒットラーの意図でもなく、また、P292 パワーポリティクスの必然でもなかった。それなのに枢軸同盟が、ついには英米を主要目標にするようになるのに重要な役割を果たしたのはリッベントロップである。(中略)

リッベントロップは、正式に外相に就任する前に駐英大使となったが、ヒットラーから命令された使命には失敗した。教養がなく傲慢なリッベントロップはロンドンでは相手にされなかった。そこで、チアノ伊外相のコメントによれば、彼は「裏切られた恋人」の憎悪に駆られ、英国に対する私怨を晴らそうとしたのである。1938年1月の「総統のための覚書」で、「私は過去数年、イギリスとの友好のために働いた。これが実現すればこれ以上の喜びはない。しかし、今日私はもはや英独の相互理解を信じない。

P293 イギリスをもっとも危険な宿敵であるという考慮を根本的に維持しなければ、われわれの敵は利益を得ることとなろう」と書いて、テオ・ゾンマーによれば「まったく支離滅裂なひどいドイツ語で」、日本、イタリアと組んで英国に対抗する同盟を結ぶことを主張した。この覚書脱稿の四週間後にリッベントロップは外相に任命された。テオ・ゾンマーは「この覚書の歴史的価値は、ヒットラーの十一月の大演説の価値にほとんど劣るものではない」と書いている。

張鼓峰事件とノモンハン事件
日本には、ボルシェビキや、ヒットラーらの戦略と比較できるような国家戦略はなかった。それは当然のことであり、日本は独裁国家ではなく責任内閣制であって総理大臣が次々に代わるのだから、すべての内閣が一貫した政策のもとに行動することはありえない。東京裁判では、指導者のあいだに共同謀議があったことになっているが、そんなものは実在しないし、ありえようはずもない。

日本の政策が一貫して侵略的であった証拠として引用された広田弘毅内閣のときの国策の基準(昭和11年)にしても、各省の妥協による作文でしかない。こんなものを読んでも、その時点における政府内のだいたいの考え方がわかるだけである。P294 そして、その後政府が政策を決定するに際してこれを読み返してそれに従うこともなかった。それがこの種の文書の常である。

ただ一つ戦略らしいものがあったとすれば、それは石原莞爾の国家戦略論であり、その衣鉢を継ぐ参謀本部の戦争指導課の考え方であった。支那事変前年の昭和11年8月の対ソ戦計画大綱では、「ソ連のみ敵とすることに全幅の努力を払い」「英米の中立を維持せしむるためにも支那との開戦を避けることきわめて緊要」としている。

そして、盧溝橋事件後は事件の不拡大に努め。その後昭和13年6月に至る三次の戦争計画要綱では、「戦争規模をなるべく縮小して国力の消耗を防ぎ」「速やかに和平を締結する」ことを主張している。まさに蒋介石との戦争に日本を巻き込み、英米とも対決させようというソ連の戦略とガッチリと四つに組んで対抗できる戦略であった。

結果としては、日本は、中国本土の泥沼にはまり込み、対米戦に追い込まれるという、ソ連と中国共産党の思う壺にはまることになる。それは共産主義戦略の勝利であり、大本営の戦略さえ一貫して守れなかった日本の政策決定過程の欠陥がもたらした日本戦略の敗北であった。

P295 支那事変の最中、ソ連国境では、1938年に張鼓峰事件、39年にはノモンハン事件が起きている。いずれも、まったく日本側の敗北である。(中略)P296 日本側は日本軍の伝統に恥じない勇戦をしているが、個々の人間の戦闘能力で戦局の帰趨を変えられるような戦力バランスではなかった。問題は作戦ではない。敵がそれだけの大兵力を投入できることを認識しなかった情報戦の欠陥と、中央の意向を無視して手持ちの兵力だけで勝とうとした自信過剰と現地の独走であり、これは両事件に限らず、第二次大戦の全局面を通じて日本軍が終始犯した過ちである。(中略)

信念を貫き通した米内光政
日独伊三国の枢軸同盟の締結は、日本を第二次大戦に押しやった、唯一とはいわないが決定的な要因の一つである。これを最後まで拒否し、内閣に陸送を送らないという最終手段で辞任を強制されるまで、一歩も譲らなかったのが米内光政であった。米内は南部藩の貧乏士族の出身で、海軍兵学校での成績は中くらいであったが、柔道では並ぶ者がないくらい強かったという。(中略)

P297 友人のすすめで同期でいちばん遅れて海軍大学の受験勉強をするようになってから、モリモリ勉強しだし、海大の秀才となった。やがて各ポストを歴任してゆくうちに、心ある人は、米内こそ将来の海軍を託するに足る人材と思うようになるが、誰よりもそれを認めたのは山本五十六だった。(中略)

P298 昭和13年の初頭からリッベントロップは大島浩駐独陸軍武官に同盟の話をもちかけ、陸軍はその夏ごろにはドイツの意向を受け入れる方針を固め、それを政府部内で通そうとするが、米内は反対して一歩も退かない。

米内は、板垣征四郎陸相と五時間余議論し、「自分は防共協定の強化の強化そのものに不賛成であるが、陸軍がここまで蒔いた種を何とかしなければならないというにしても、対象をソ連にとどめるべきであり、英国までも相手にする考えならば『職を賭しても』これを阻止する」といっている。その後、あの手この手で圧力を加える陸軍に対して微動だにせず、信念を貫き通した米内の態度は立派である。そして、同時に海軍の枢軸派も抑えて、部内を一糸乱れず統率した山本の手腕も見事であった。

近衛は昭和14年1月にかねて希望していたとおり総理の職を辞し、代わって平沼内閣となるが、近衛は枢密院議長、無任所大臣として閣内に残り、人事、政策ともに、近衛内閣からの継続を保ち、米内は留任した。三国同盟をめぐる論争は続き、そのあいだ妥協案をつくったり、「その案ではとうてい伊独を納得させられない」といって枢軸派の駐独大島、駐伊白鳥敏夫両大使が訓令執行を怠るなどというゴタゴタが続いて、結論に達しないうちに、1939年8月、P299ドイツはそれまで仮想敵としていたソ連と不可侵条約を結んだ。日本政府は、防共協定の違反としてドイツに抗議して、交渉を打ち切り、平沼内閣は8月28日「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と声明して総辞職した。

ドイツの政策の急回転は、ドイツの必要から生じたものであった。ポーランドに強硬な要求を出しているが、ポーランドは英仏の援助を恃んで譲歩しない。その地域に行使できる武力を持っている国はソ連しかいないが、英国が裏でソ連との協調を策している気配もある。そこで、リッベントロップがモスクワに乗り込んで、東ヨーロッパの勢力範囲分割についてソ連と話をつけて、一挙に独ソ協力を成立させたのである。(中略)

P300 平沼の後継は、陸軍の推す阿部信行となった。阿部は明哲保身なだけの軍事官僚であり、軍の中堅層から「毒にも薬にもならない」人物として担がれたものである。米内は、山本と同期の吉田善吾を後任の海相に推した。山本は引きつづき次官として補佐しようとしたが、米内は山本を連合艦隊司令長官に出した。米内の腹では、次官に残すくらいなら当然自分の後継の大臣にする。しかし、そのまま残っては暗殺の危険があるのを慮り、海軍の貴重な人材を温存しようとしたのである。(中略)

P301 阿部は大命降下に際して天皇よりとくに「米英協調」を命ぜられたが、本人自身、平均的な軍人として親独派であり、どうしてよいのか分からないうちに、政党からは信任が得られず、陸軍からも見放され、わずか四ヵ月半で退陣した。

その後任を米内としたのは湯浅倉平内大臣の独走といってよい。湯浅は、天皇が一言「米内はどうだろうか」と漏らされて以来、陸軍を抑えうるものは米内しかいないと心に決めて、西園寺公望の支持を得て米内内閣成立に突っ走った。そして天皇は畑俊六陸相に対して、協力を求める異例の優諚を賜り、米内内閣は昭和15年1月に成立した。この過程で平沼、近衛などはまったく蚊帳の外に置かれた。

高名なジャーナリストである高宮太平の筆を借りれば、「平沼、近衛、木戸らは時には陸軍に対して不満を漏らすが、真正面から抑えようとはしない。抑えれば自分の生命が危ういという怯懦心もあったが、政権欲、権勢欲があるから、思い切ったことができないのである。湯浅は文字どおり捨て身だった。君国の将来を念ずるほか、一身の利害栄達など眼中になかったのである」。まだ日本には忠臣義士がいたのである。このくらいの勇気のある人がもう何人かいれば、あるいは、近衛、広田にこの勇気があれば、というのが昭和史の痛恨事である。

P302 ついに態度を変えた畑陸相
こうした経緯でできた米内内閣は、組閣早々から、「枢軸反対の論功行賞」「対英米媚態」外交と呼ばれ、軍や右派の倒閣運動の的となったが、米内はびくともしなかった。四月には米内はグルー大使に対して、「日本の政策は決定したからもうご心配無用である。日本においてファシズムを望み、独伊との提携を求める分子は鎮圧した」と語っている。

ところが、いったん気勢をそがれた枢軸派の勢いを盛り返させたのはヨーロッパにおけるヒットラーの成功であった。兵を西に転じたドイツ軍はたちまちに北欧、西欧を席巻し、六月にはパリ入城を果たした。ドイツ賛歎の声が再び沸き上がった。そのようななかでも、事態を冷静に見る人々もいた。西園寺は、「ヒットラーが偉くても長くて十年続くか続かぬかの問題だ。ナポレオンもそうだった」と達観し、米内は「ヒットラーやムッソリーニは「一代身上だ。あんな者と一緒になってはつまらない。彼らは身上を棒にふったところでもともとだ。三千年の歴史のある日本の天皇と一代身上者を同じ舞台で手を握らせようなどとはとんでもない話だ」と語ったという。

P303 しかし、すでに陸軍の倒閣運動は露骨だった。武藤章軍務局長は何度も石渡荘太郎内閣書記官長に、軍の総意として内閣退陣を要求した。畑陸相は天皇の意を体して最後までこの動きに加わらなかったが、ついに突然態度を変えた。畑は、枢軸国との関係強化と内閣の総辞職を求める文書を米内に突きつけた。米内は少しも悪びれず、「陸軍の所見は現内閣の所見と異なるから、都合が悪ければ辞めてもらいたい」といった。畑はさっそく辞表を提出し、陸軍はもとより後任を送ることを拒絶し、それが米内内閣の終わりだった。

その前に天皇は、木戸幸一に「自分はなお米内を信任している」と漏らされたが、木戸はこれをすぐ米内に伝えず、米内が辞表をもって参内したしたときに初めて伝えた。高宮は、これを木戸の故意だったと考えている。木戸は近衛と同じく大勢順応派であり、盟友近衛に後を継がせるためそうしたことは十分考えられる。なお、畑の態度の豹変の理由は、陸軍の最長老閑院宮の御命令だったので、畑としては抗しうべくもなかったということだった。畑はこのことは誰にも口外せず、戦後になって東京裁判でも沈黙を守ったが、当時の参謀次長の証言でやっと真相がわかった。

P304 畑は、米内に陸軍の意向を伝える文書を手交したのちは「屠所に引かれる羊のように神妙に」辞職したが、米内は畑の心事を理解していて、畑が自殺するのではないかとしんぱいしたという。米内は、東京裁判で、畑が突きつけた内閣総辞職要求について証言を求められたが、米内は、この忘れるべくもない文書について「記憶がない」と証言した。裁判長は、「当時の新聞にも出ているではないか」と縮刷版を出して追及したのに対して米内は「字が小さくて読めない」といった。(中略)

松岡洋右の登場
これほどに、天皇は「絶対に許さんぞ」といわれ、米内、山本がテロを恐れずにP305抵抗した三国同盟が、第二次近衛内閣ができると、あっという間に成立してしまう。これは時流もあろうが、松岡洋右の強引な事務の取り進め方によるところが大きい。近衛内閣が7月末に組閣されると、すぐに松岡外相はドイツの意向を打診した。ドイツのほうは、必ずしも確たる方針がないままスターマー特使の派遣を決めた。夏が明けた早々、9月4日、松岡は、総理、陸海相、外相の四相会議に、事前の予告もなく謄写版二十数枚の三国同盟案を提出した。皆驚いたが、「まあとにかく参戦、武力支援の問題は慎重にしてほしいが、交渉ははじめてもよい」という了承を得た。

松岡とスターマーの会談は九月九日から始まり、たちまち私案がまとまり、十九日には成文を御前会議で審議するところまで進み、二十七日にはベルリンで条約が署名された。

、 この間、海軍はどうしていたかというと、吉田海相は、陸軍、外務、世論のあいだで孤立無援となり、心痛のあまり入院し、辞職し、及川古志郎が後任となった。次官もすでに山本から豊田貞次郎に代わっていてもはや大勢に抗する力はなく、若干の字句の修正で妥協した。(中略)

P306 天皇の御憂慮のとおり、この条約は日本を破局に導いた。(中略)
第一条で日本はヨーロッパ新秩序建設における独伊の指導的地位を認め、第二条で独伊は大東亜新秩序における日本の指導的地位を認めた。日本が当面関心のあった仏印(ベトナム、カンボジア、ラオス)と蘭印(インドネシア)はそれぞれドイツが本国を占領しているのであるから、ドイツが支配権をP307主張できる地域である。また、第一次大戦の敗戦でドイツが取られた太平洋諸島もある。さらに英帝国が解体した場合のマレー、ビルマ、インド、豪州の問題もある。したがって、とにかく日本が大東亜共栄圏と考えていた地域に日本の優先権を認めさせたのだから、もし戦争画が枢軸側の勝利に終わるとすれば日本はこの条約によってドイツの大きな譲歩をかち得ていたことになる。空想的取り極めとしては価値があったのである。

その背後には、当時松岡がもっていた地政学的発想がある。つまり、独伊、日本、およびロシアがそれぞれ旧大陸において南北に勢力圏をもち(日本もドイツも、インドはソ連に与えてもよいと考えていた。その三勢力が協調して、モンロー主義のアメリカを南北アメリカ大陸に閉じ込めるという考えである。地政学や戦略というには、あまりに空想的な子供っぽい考えであるが、独ソ協調の期間のヒットラー、リッベントロップは同じような考え方をしていて、松岡はその影響を受けていた。

そして条約の第三条で、今現在ヨーロッパ、アジアで戦争をしていない国からの攻撃に対する相互援助を規定している。つまりソ連と米国であるが、ソ連については第五条で除外しているので、結局この条約の目的は米国である。P308 三国協調は当初はソ連、やがて英国を念頭に置き、最後には米国をその対象とすることとなったのである。これを見ても、この同盟がパワーポリティクスの必然から来ていないことがわかる。そして松岡やドイツが信じていたのは、この条約が米国の参戦防止に役立つということであった。

条約署名後、リッベントロップは米国に対しても、もし参戦すれば「二億五千万を超える三国国民の団結した力と戦わねばならない」と警告を発し、ワイツゼッカー外務次官のような冷静な外交官でさえ、アメリカは二正面作戦には辟易するだろうといっている。日本の強大な海軍力、英米に対抗しうる一つの大きな軍事資産と考えられていた。松岡の天皇に対する説明も、アメリカとの戦争を避けるためにはこれしかないということであった。(中略)

P309 しかし、ヒットラーも松岡も米国についての読みを誤っていた。アメリカは力のバランスのうえに立った損得の勘定で戦争をする国ではなかった。道徳的原則と国民感情のうえに立って戦争をする国であった。二十世紀も終わりとなってみれば、こんなことは常識である。それは二十世紀の半ば、1951年に出版されたジョージ・ケナンの『アメリカの外交五十年』で明確に指摘され、世紀末のキッシンジャーの『外交』によって、理論的、歴史的に詳細に分析されている。

だが、それは戦争が終わってからの後知恵であった。当時は誰もわかっていなかった。少なくとも世界各国の政策立案者の常識とはなっていなかった。そして皆、アメリカの出方を暗中模索し、あるいは幻想を抱いたのである。しかし、常識的に米国の反発の危険をわかっていた人はいた。天皇も西園寺もわかっていた。そして、誰よりも日米外交の担当者であるグルー大使がわかっていた。

グルーは1940年10月1日の日記に「同盟の主たる目標がアメリカであることは明瞭である」と書き、「九月の日記を書き綴る私の心は重苦しい。これは過去に私の知っている日本ではない」と書き記した。P310外交官がその任国について、「これはもはや、いままでに私の知っている国とは違う国だ」と書かねばならないときの絶望的な心境を思うと、ただ哀切である。



P322 こういう人物は、ヒラの職員としては極めて有能であるが、課長となると、もう使う方が注意して、仕事を思う存分させつつも、マイナス面をカヴァーしなければならない人物である。そして、けっして課長以上にしてはいけない人物である。


P349-350
天皇「陸軍は日米戦争をどのくらいの期間で片づける自信があるのか」
杉山「南洋方面は三か月のつもりです」
天皇「支那事変を一か月で片づくといってすでに四年たって片づかないではないか」
杉山「シナは奥地が広く・・・」
天皇「シナの奥地が広いことは初めからわかっている。太平洋はもっと広いではないか」


P328-336 松岡外相の日米交渉妨害
P328 松岡の独走、暴走のなかでも、最も大きな害をなしたのは日米交渉に対する松岡の妨害である。しかも、それをなした松岡の動機が、大きな政策についての意見の相違からというのではなく、あえていえば松岡のケチな根性からきていることを思うと、悔やんでも悔やみきれないところがある。

三国同盟の仮想敵が米国であることは条文を見れば明らかであり、同盟が成立するや否や米国は戦略物資の禁輸強化を行い、米国内の世論も戦争を賭しても日本を抑えるという声が高くなった。

松岡の外交はもともと強く出ることによりアメリカを引っ込ませようというのであるから、米国の世論をなだめようという策をとるはずもなく、米国政府側も、松岡のやりかたにおこってしまって、日本を宥和する政策を打ち出す気もなく、日米関係はただただ悪化していった。

P329 しかし、そこがアメリカの懐の広いところであるが、政府間が暗礁に乗り上げているのに対して民間が動きだした。

それはカソリックの修道会であるメリノール会の聖職者ウォルシュとドラウトであった。彼らは大統領の選挙事務長であり、親日派であるウォーカー郵政長官とも親しく、近衛とローズヴェルトのあいだに和解のための仲介を申し出た。

両師は昭和15年11月の滞日中、松岡外相や陸軍当局とも会ったが、松岡などはこうした民間の動きなどに大した期待をもたなかった。

しかし近衛は、あいだに立った井川忠雄(大蔵省出身のアメリカ通)を信頼して、松岡にも駐米大使として赴任する野村吉三郎にも秘して、やらせてみて成り行きを見るゴー・シグナルを出した。

その後三人は、それぞれの国の首脳の意を受けつつ話し合いを続け、昭和16年4月15日に至って成果を得た。そして翌16日、密かにハル国務長官と野村大使のあいだで、これを政府間の話し合いに載せることに合意した。

この日米了解案の内容は、じつに苦心の作である。

P330 米国側は三国同盟を実質上空文にすることを希望したが、日本側としては、国際信義のうえから、結んだばかりの条約を骨抜きにするわけにはいかないので、これは全く防衛的なものであると宣言することとした。

いちばんの問題は支那事変の解決であったが、諒解案は、中国側が満州国を承認し、蒋介石と汪兆銘の政府を合体させ、日本軍は協定に基づいて撤兵し、非併合、非賠償の条件の和平を結ぶことを米大統領が蒋介石に勧告することとした。

4月18日、たまたま東京では閣議の最中にこの案がもたらされ、その夜、政府と統帥部の連絡会議が開かれたが、全員賛成だった。陸海軍は「飛びついた」のが実情だったという。すぐに原則的賛成を返電しろという意見もあったが、もう二三日で帰国する松岡を待つことにした。

じつは、近衛は松岡がつむじを曲げることを憂慮していた。そして、自ら松岡を迎えの車中で説得しようとして飛行場まで赴いた。ところが松岡は帰路二重橋で皇居を拝むパフォーマンスをすると言い出し、インテリの近衛は、それに付き合うのをためらい、同乗を断念した。

はたして代わりに同乗した大橋忠一次官は説得に失敗し、近衛は、のちのち「あのときに自分が同乗していたら…」と残念がったという。

P331 じつは日本に着く前に、近衛は大連に着いた松岡に電話をして米国から重大な提案がきている
から急いで帰国するようにといった。松岡はその時は上機嫌だった。モスクワで旧知の駐ソ・アメリカ大使に対し、米国が日支和平をの仲介をするよう説いた効果が早くも表れたと思ったからである。

ところが、自分の知らないうちにカソリック宣教師によってできた案と聞くや、ただちに不快の念を顔に出し、会話を打ち切ってしまった。

首相官邸の会議に出席した松岡は、ヒットラーさん、チアーノさんと呼びながら訪欧の話を吹きまくり、近衛がたまらず日米諒解案の話をすると、激昂して、「米国にだまされるな、とにかく自分は疲れているから、二週間か一ヵ月くらいのうちに考えをまとめたい」といいたいだけいって帰ってしまった。

あとに残った関係者は東条陸相も含めて、松岡の暴慢に憤慨し、とにかくこの話を進めようと合意したが、もう機会は去ってしまった。この経緯は書くだけでも恥ずかしいような、低次元の話である。しかも、こうした小人物の意固地が国の運命を翻弄したとなるとやりきれない気持ちになる。

結果として、松岡は、日米諒解案に到達する際に双方が行った妥協すべて否定するような日本側修正案を5月11日、米国に提案した。



P414 福沢諭吉の文章の魅力は、余計な遠慮や偽善を排して物事の本質にズバリ入るところにある。(中略)「江戸時代は、将軍直属の幕吏が幅をきかせた。われわれ小藩の士族などは、大井川を渡ろうとするためには、朝早くから四時間も待たねばならない。やっと順番がきたと思うと、『下に居ろう。下に居ろう』という声で公儀の荷物がくるので、逃げ散って、これを見送ってから、結局、六時間も待たされて川を渡った。・・・

先年、香港に旅行したときに、支那の商人が靴を売りにきた。暇なので、わざとゆっくり値切っていると、そばにいた英国人が、支那人がまた無理をいっているとでも思ったのだろう。靴をもぎ取って私に手渡し、二ドルほどの金を支那人に投げ与えて、ものもいわずに、ステッキで追い出してしまった。

私はただ、英国人の横暴がうらやましかった。英国人は、かつての幕吏どころでなはなく、P415 無人の境を行くがごとく東洋の諸国を往来している。その心のなかは、さぞ愉快であろうと思う。日本も数億円の貿易を行って、数千隻の軍艦を揃え、大いに世界に国威を輝かせば、支那人などは、右の場合の英国人が支那人を扱ったと同じように扱えるだろう。

そのうえに、英国人をも奴隷のように扱う圧制も加えられるのにと、獣のような恐ろしい気持ちが湧いてくるのを禁じえなかった。圧制を憎むのは人間のもって生まれた性質というが、それは圧制されるのを憎むのであって、自分が圧制をするのは、人間最上の愉快といえる

かつての幕吏、いまの外国人に対して不満をもつのは、自分がその圧制を受けているからである。私の希求するところは、いま圧制している人を、逆にこちらから圧制して、日本が世界で圧制を独り占めにすることである

当時の日本人、あるいはすべてのアジア人の心のなかに一度は生まれた願望を正直に書いた論説である。そして日本はついに英国人とオランダ人に勝って、白人種に屈辱を与え福沢のいう「獣心」を満たしたのである。