P50 3 高松宮と「光輪閣」(tw)
一九四〇年、日本に戻った浩史はパリ時代に獲得した外務省の外郭団体、国際文化振興会嘱託という身分のまま、フランスから映画を輸入したり、上野でレオナルド・ダ・ビンチ展を開催したり、といった文化活動を続けた。
そして翌四一年、太平洋戦争がはじまる年の春、妻の原智恵子、オペラ歌手の三浦環、パリ時代の友人で建築家の板倉準三らとともに赤坂の檜町に芸術研究所「クラブスメル」を設立する。
ただ、「クラブスメル」はそれぞれの仕事の場として作られたのだけれども、日本が太平洋戦争に突入する直前でもあり、芸術家達の集会所としての機能しか果たさなくなっていた。
一足先に帰国した井上は熊本に戻り、高射砲部隊に入隊、しかし、戦場に出ることなく終戦を迎えている。浩史は井上と違い、軍隊に召集されることなく、カーキ色の国民服を着ることもなく、背広姿で麻布の自宅から赤坂の檜町まで通っていた。
戦争中、浩史は国際文化振興会を通じて、仲小路彰(相互参照)という在野の学者と知り合う。
P51 旧制五高で仲小路の後輩だった井上が、浩史をどうしても彼に引き合わせたいと思ったことが発端だった。一九〇一(明治三四)年仲小路は桂内閣の農務大臣だった仲小路廉の次男として生まれ、熊本の旧制五高から東京帝国大学文学部哲学科に進む。
しかし体が弱いためどこにも就職せずに、父の財産をもとに自ら「すめら学塾」という私塾を開き、生涯、研究と著述に没頭する。
「すめら学塾」という名称からは、右翼的な印象を受けるが、仲小路が研究していたのは広義の国際関係論と未来学で、彼は英語、ドイツ語、ラテン語、フランス語、アラビア語を独習し、海外に出かけた経験がなかったにもかかわらず、民族の成り立ち、歴史、地理、その未来像まで、独自の見解をもっていた。
後年、山中湖に隠棲した仲小路彰は「地球の未来を考える」ことを自らに課し、環境問題(tw)までも視野に入れた。時代よりはるかに先に進んだ研究を続けた。
旧制五高の同窓生だった佐藤栄作はピュアな情熱を持つ仲小路を畏敬し、何度となく日本という国の未来についてアドバイスを求めた。
白髪で精神的な風貌を持つ仲小路は初対面の時から相対する者に感銘を与えた。
ロックグループ・イエローマジックオーケストラのひとり細野晴臣(tw)は一九六九年、ロックミュージカル『ヘアー』(関連tw)に出たミュージシャンと一緒に仲小路に会ったが、彼の「精神的な崇高さ」にうたれ、生涯でもっとも影響を受けたひとりだという(tw)。
仲小路の未来論で
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20240102 21:00~映画「Civil War」26:40~仲小路彰【新春特別対談】林千勝氏に聞くyoutube
1659夜 『キャンティ物語』 野地秩嘉 − 松岡正剛の千夜千冊(参照)
ヘアー (ミュージカル)映画版 Aquarius HAIR 1969 Tony Awards
1)_◆The Roaring Skies(#ひこうき雲)◆ #プロコルハルム #ゲイリーブルッカー#荒井由実 #ユーミン #yuming #松任谷由実(tw,tw)
2)荒井由実 MASTER TAPE ~荒井由実 『ひこうき雲』 の秘密を探る~
3)Yuming 40th Anniversary 松任谷由実&プロコル・ハルムツアー -Back to the Beginning-2012年11月28
4)清水ミチコ
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