序説 これからのリバタリアニズム 橘玲
ダーティー・ハリーとピーター・ティール
P15 もしもあなたにアメリカ人の友だちがいたら、「リバタリアンってどういうひと?」と聞いてみよう。年配者なら映画俳優・監督のクリント・イーストウッド、若者ならシリコンバレーの投資家ピーター・ティールの名前を挙げるのではないだろうか。
イーストウッドはイタリアで制作されたB級ウエスタン(『荒野の用心棒』など三部作は、現在は映画史に残る傑作と再評価されている)で名を挙げ、映画『ダーティハリー』でサンフランシスコ市警の嫌われ者ハリー・キャラハン刑事を演じてビッグスターになった。自身が監督・主演した西部劇『許されざる者』で、アカデミー賞最優秀作品賞・監督賞を受賞してもいる。
キャラハン刑事(ダーティハリー)は、いつも汚れ仕事を押しつけられ、リベラルな"人権"尊重派の上司に邪魔されながら、最後は法律と規則を無視し、己の信ずる正義の法に従って悪党どもを44マグナムで撃ち殺す。
P16『許されざる者』では、娼婦に雇われた賞金稼ぎの老ガンマンが、ジーン・ハックマン扮する"リベラル"な保安官と対決する。ここからわかるように、リバタリアン=イーストウッドのイメージは、拳銃一丁で己の運命を切り開いていくフロンティア時代の「自助自立」と重ね合わされている。
1990年代にインターネットが登場すると、西部劇のフロンティアは"無限"のサイバースペースへと拡張された。こうして、ネットの世界で「究極の自由」を求める「サイバーリバタリアン」が登場し、ハリウッドのイーストウッドの跡をシリコンバレーのピーター・ティールが継ぐことになった。
ティールは、世界最大のオンライン決済サービス、ペイパルの共同創業者であり、フェイスブック創業期にその可能性に気づいた初の外部投資家であり、CIAやFBIを顧客にもつビッグデータ解析企業パランティアの共同創業者でもある。──パランティアは日本では馴染みがないが、その企業価値は二兆円を超えるといわれている。
雨後の筍のようにスタートアップが出てくるシリコンバレーでも、評価額が10億ドルを超える非上場企業は「ユニコーン」と呼ばれる。ユニコーンは額に一本の角をもつ伝説の一角獣で、「誰も見たことがない」という意味で使われる。ところがティールは、ユニコーン企業をはるかに上回る100億ドル、あるいは1000億ドル級のスタートアップに3つもかかわっているのだ。
ペイパルからは、イーロン・マスク(テスラ・モーターズ/スペースX)、リード・ホフマン(リンクトイン)、ジェレミー・ストッペルマン(イェルプ)をはじめ、シリコンバレーを代表する起業家が次々と生まれている。固い絆で結ばれた彼らは「ペイパル・マフィア」と呼ばれ、ティールはその首領(ドン)と目されている。
1967年にドイツのフランクフルトに生まれ、鉱山技師の父親とともに一歳のときに家族でアメリカに移住したティールは、10歳まで家族とともにアフリカ南部を点々とし小学校を7回変わった。そのひとつがきわめて厳格な学校で、体罰による理不尽なしつけを受けたことが、後年、リバタリアニズムに傾倒するきっかけとなったと述べている。
子ども時代のティールはアイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインライン、アーサー・C・クラークなどのSFに夢中になり、トールキンの『指輪物語』を少なくとも10回は読み、13歳以下のチェス選手権で全米7位にランクされる数学とコンピュータの天才として知られていた。政治的志向は当時からのもので、8年生(中学3年生)の社会の授業でレーガンを支持し、保守派の論客の新聞記事を集め、抽象的論理を信奉し、個人の自由を至高のものとするリバタリアンになった。
スタンフォード大学で哲学を学んだティールは、卒業後法律家を目指したものの挫折し、ニューヨークの虚飾に見切りをつけてベンチャーの道を選んだ。大学時代は保守派の活動家として知られ、「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」を掲げる左派と対立した(1)。
こうした背景から、近年のティールは政治的・思想的な発言でも注目を集めるようになった。とりわけその名を(あるいは悪名を)轟かせたのは、2016年の大統領選でドナルド・トランプに献金したばかりか共和党の全国大会で応援演説までしたことと、この・ギャンブル・に勝ってトランプの有力な顧問の一人になり、ティム・クック(アップルCEO)、
P18ジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)、ラリー・ペイジ(アルファベット〈グーグルの親会社〉CEO)、シェリル・サンドバーグ(フェイスブックCOO)、サティア・ナデラ(マイクロソフトCEO)、イーロン・マスクなどシリコンバレーの大物たちを一堂に集め、新大統領を囲む会合を取り仕切ったことだろう。そのインパクトは絶大で、オンライン政治メディアのポリティコはティールを「影の大統領」と名づけた(2)。
2009年4月、ティールは保守派のシンクタンク、ケイトー研究所の論壇フォーラムCATO UNBOUNDに「リバタリアンの教育The Education of a Libertarian」という短いエッセイを寄稿した。ティールは冒頭、次のように書く。
「私は、十代の頃に抱いた信念──至高の善の前提となる真の人間的自由human freedomにいまだにコミットしつづけている。私は、搾取的な税制、全体主義的な集産制、死を不可避なものとするイデオロギーに立ち向かっている。これらすべての理由から、私は自分自身を・リバタリアン・と呼んでいる」
自由を至高のものとし、国家(権力)こそが個人の自由を抑圧する元凶だと考え、国家の暴力行使である徴税に反対し、国家権力のもっともグロテスクな姿である社会主義・共産主義などの「全体主義的な集産制」を拒否するのはリバタリアンの思想そのものだ。──「不死のテクノロジー(トランスヒューマニズム)」がサイバーリバタリアニズムと結びつくことについては別の機会に論じたい。
リバタリアニズムとは何か
英語にはLiberty(リバティ)とFreedom(フリーダム)という、「自由」を意味する二つの言葉がある。このうち「リバティ」は制度的な自由(責任をともなう自由)、「フリーダム」は制限なき自由(好き勝手とか、自由奔放とか)のニュアンスで使われるから、政治哲学としての「自由主義」はリバティを語源とするリベラリズムLiberalismに、「自由主義者」はリベラリストLiberalistになる。
ところが困ったことに、このリベラリズムにはたんなる「自由主義」以外の特殊な意味がある。政治的なリベラルとは、福祉と人権を重視し平等な社会を目指すひとびとのことをいう。彼らは国民から税金を徴収し、それを貧しい人たちに再分配することを当然と考え、競争力のない産業を保護し、ライフライン(電力・水道・ガス)など生活に不可欠な公共財を国家が提供するよう求める。これは、市場原理主義とは対極にある政治的立場だ。
そこで国家の市場への介入を批判する経済学者らは、彼ら「リベラル派」と区別するために、「古典的自由主義Classical Liberalism」を自称するようになった。「古典的」とは「アダム・スミス以来の伝統に連なる正統派」の意味なのだが、これは「元祖釜飯」のようなものでいまひとつ迫力に欠ける。そこで別のグループは、同じLiberty(自由)からリバタリアニズムLibertarianism(自由主義)、リバタリアンLibertarian(自由主義者)という造語をひねりだした。こうして、リベラリストとリバタリアンのあいだで、どちらが本物の「自由主義者(リベラル)」かをめぐる骨肉の争いがはじまった。
このように現代では、代表的な二つの政治思想が「自由」という指輪を奪い合う果てしないたたかい(ロード・オブ・ザ・リング)をつづけている。 P20 ではなぜ、指輪には「Liberty」の文字が刻まれていなければならないのか。それは、私たちが生きている近代社会が、「自由」に至高の価値を与えているからだ。
誰もが自由に人生を選択して自己実現できる社会を目指すべきだ──。このことは、一部の過激な宗教原理主義者を除けば誰も反対しないだろう。
異論がないのは、その命題が「正しい」からではなく、すべての議論の前提になっているからだ。私たちが生きるうえで「自分は・人間・である」という前提(これも近代のイデオロギーのひとつ)から出発するしかないのと同様に、近代というパラダイムが変わらないかぎり、「自由」の価値を否定することはできない。
このことをもっと簡単にいうこともできる。
自然権としての人権を前提とすれば、リバタリアニズムというのはようするに次のような政治哲学だ(tw,tw)。
ひとは自由に生きるのがすばらしいこれに対して、リベラリズムは若干の修正を加える。
ひとは自由に生きるのがすばらしい。しかし平等も大事だ自由主義に対抗する思想として共同体主義Communitarianismが挙げられるが、それとても「自由」の価値を否定するわけではない。彼らはいう。
ひとは自由に生きるのがすばらしい。しかし伝統も大事だたったこれだけで、現代の政治哲学の枠組みが説明できてしまった。アメリカの共和党と民主党が典型だが、二大政党による政治的対立というのは、「自由」をどのように修正するのか(あるいはしないのか)の争いなのだ。
そしてこのことから、暴論の類としか見えないリバタリアンの主張を批判するのが、思いのほか困難な理由が明らかになる。リバタリアニズムは純化された自由主義で、保守主義者(伝統重視派)であれリベラリスト(平等重視派)であれ、自分自身が拠って立つ足場(自由の価値)を否定することは原理的に不可能なのだ。
「君たちはどう生きるか」への回答
自由を至上の価値とする社会であっても、ひとは思いのまま好き勝手に生きられるわけではない。自分以外のすべての人も、自由に生きる権利を持っているからだ(この平等原則は、「自由」を普遍的な価値とすることからただちに導き出される。特定の人にしか与えられない価値は普遍的たりえないのだ)。
社会を営んでいくためには、当然、なんらかのルールが必要になる。 P22 では、理想的なルールとはどのようなものだろうか?
これも、細かな議論を省くならひとことで要約できる。
みんなが幸福になれるルールがよいルールだそして偉大なるアダム・スミスが、自由主義と社会の法則とを結びつけた。彼はいう。
「誰もが自由に生きれば、市場の・見えざる手・によってすべてのひとが幸福になるであろう(3)」そのために必要なルールは、たった三つしかない。
・自己所有と私有財産の権利は不可侵である(自己所有権・私有財産権)これは恐るべき思想だ。なぜならたったこれだけのことで、「君たちはどう生きるか」という人類の根源的な問いがもののみごとに解決してしまうからだ。すなわち、
・正当な所有者の合意を得ずに財産を取得することはできない(暴力の禁止)
・正当な所有者との合意によって取得した財産は正当な私有財産である(交換と譲渡のルール)
だれもが自由に生きればすべてのひとが幸福になる人生って、なんて簡単なんだろう!
すべてのひとを幸福にする行為は道徳的である
したがって、自由に生きることは道徳的である
ではなぜ、この理想社会が実現しないのか。それは、市場の機能を制限するあまりに多くのルールが国家によって課せられているからだとリバタリアンは考える。そこから、国家を極限まで縮小すべきだ(最小国家論)とか、国家そのものをなくしてしまえ(無政府資本主義)とかの主張が生まれる(4)。
一見、荒唐無稽に見えるとしても、リバタリアンの思想に意外な説得力がある理由がわかっていただけただろうか?
功利主義と原理主義
リバタリアニズム(自由原理主義)の思想をすこし詳しく見ていくと、そこには一般に「功利主義と原理主義の対立」と呼ばれる問題がある。ここは、ウォルター・ブロック『不道徳な経済学』を理解するうえで大事なポイントだ。
「最大多数の最大幸福」を掲げる功利主義Utilitarianismは、言うならば「結果オーライ」の思想だ。功利主義者は、「なにがほんとうに正しいかなんてわからない」という立場(不可知論)をとる。でも、人間が生きていくためには、なにが正しくてなにが間違っているかの判断が必要になるので、「いろいろやってみて、うまくいったものが"正しい"」と決めてしまうのだ(これを「帰結主義」「プラグマティズム」という)。 P24
正しいかどうかを損得(効用)で判断する経済学は、この功利主義ときわめて相性がいい。すぐれた経済政策とは、社会にもっとも大きな効用(=富)をもたらす政策のことだ。
それに対して原理主義者は、なんらかの価値の源泉があらかじめ存在すると考える。リバタリアンの場合、この価値(自然権)は「自由」であり、リベラリストなら「(自由を含む)人権」となるだろう。リバタリアンが古典派の経済学者と、リベラリストがケインズ派の経済学者と手を携(たずさ)えるのは、彼らが自分たちの奉(ほう)ずる価値を補強するかぎりにおいてでしかない。その主張がどれほど似ていたとしても、原理主義者と功利主義者のあいだには思いのほか深い溝がある。
リバタリアンであれ、リベラリストであれ、・原理主義的・自由主義の特徴は、(キリスト教原理主義やイスラーム原理主義と同様に)いっさいの妥協を許さないことにある。日本では・極右・の排外主義者だけでなく、反核・反戦を唱えるリベラルな市民団体にもしばしば狂信的なかたくなさが見られるが、原理主義的リバタリアンもこうした傾向から無縁ではない。
その一方で功利主義者には、生命の重さを計量するような冷酷さがつきまとう。たとえば、ホームレスから臓器を摘出してより有用な人(たとえば難病の治療薬を開発中の生化学者)に移植するのは、功利主義的にはどこも間違っていないのだ。
こうした残酷さを拒否するならば、なんらかの「原理」から善悪を判断するほかはない。だが世界はあまりにも複雑なので、どのような「原理」も必ず自己矛盾をきたしてしまう。現代の政治哲学が抱える問題とは、ようするにこういうことなのだ(たぶん(5))。
チンパンジーの「正義感覚」
私たちが奴隷制に反対するのは、ひとはみな平等だと「感じる」からであり、自由を奪われるのは耐えられないと「感じる」からだ。「天(神)から与えられた人権」という"神話"は近代以降に文化的につくられたものだが(ギリシア・ローマ時代の奴隷は自らの境遇を嘆いても、それが不正だとは思わなかっただろう)、そこから生まれる感情はきわめて強力なので、現代人はもはや奴隷制やアパルトヘイトを思い描くことさえ嫌悪するようになった。
こうした「正義感覚」は、フランス革命で掲げられた「自由」「平等」「友愛」の三色旗に象徴されている。
「自由」とは「なにものにも束縛されないこと」だが、ジョン・ロックに始まる政治思想では私的所有権こそが自由の基盤だとされた。
誰もが自由に生きるためには、人種や性別、国籍や宗教のちがいによってひとを差別しない「平等」な社会をつくらなくてはならない。
さらに私たちは、家族や仲間(友だち)といった「共同体」をとても大切なものと考えている。徹底的に社会的な動物であるヒトは、共同体(家族や恋人、友人との絆)からの承認によってしか幸福を感じられないのだ。 P26
興味深いのは、「自由」「平等」「共同体」というヒトの正義感覚を、チンパンジーも同じように持っていることだ。
チンパンジーの社会は、アルファオス(かつては・ボスザル・と呼ばれたが、最近は"第一順位のオス"の意味でこの言葉が使われる)を頂点としたきびしい階級社会で、下っ端(下位のサル)はいつも周囲に気をつかい、グルーミング(毛づくろい)などをして上位のサルの歓心を得ようと必死だ。
そんなチンパンジーの群れで、順位の低いサルを選んでエサを投げ与えたとしよう。そこにアルファオスが通りかかったら、いったいなにが起きるだろうか。
アルファオスは地位が高く身体も大きいのだから、下っ端のエサを横取りしそうだ。だが意外なことに、アルファオスは下位のサルに向かって掌を上に差し出す。これは「物乞いのポーズ」で、"ボス"は自分よりはるかに格下のサルに分け前をねだるのだ。
このことは、チンパンジーの世界にも先取権があることを示している。序列にかかわらずエサは先に見つけたサルの"所有物"で、ボスであってもその"権利"を侵害することは許されない。すなわち、チンパンジーの社会には(自由の基盤である)私的所有権がある。
二つめの実験では、真ん中をガラス窓で仕切った部屋に2頭のチンパンジーを入れ、それぞれにエサを与える。
このとき両者にキュウリを与えると、どちらも喜んで食べる。ところがそのうちの一頭のエサをブドウに変えると、これまでおいしそうにキュウリを食べていたもう一頭は、いきなり手にしていたキュウリを投げつけて怒り出す。
自分のエサを取り上げられたわけではないのだから、本来ならここで怒り出すのはヘンだ(イヌやネコなら気にもしないだろう)。ところがチンパンジーは、ガラスの向こうの相手が自分よりも優遇されていることが許せない。
これはチンパンジーの社会に平等の原理があることを示している。自分と相手はたまたまそこに居合わせただけだから、原理的に対等だ。自分だけが一方的に不当に扱われるのは平等の原則に反するので、チンパンジーはこの"差別"に抗議してキュウリを壁に投げつけて怒るのだ。
三つめの実験では、異なる群れから選んだ2頭のチンパンジーを四角いテーブルの両端に座らせ、どちらも手が届く真ん中にリンゴを置く。初対面の2頭はリンゴを奪い合い、先に手にした方が食べるが、同じことを何度も繰り返すうちにどちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。
このことは、身体の大きさなどさまざまな要因でチンパンジーのあいだにごく自然に序列(階層)が生まれることを示している。いちど序列が決まると、“目下の者”は“目上の者”に従わなければならない。ヒトの社会と同じく、組織(共同体)の掟を乱す行動は許されないのだ(6)。
このようにチンパンジーの世界にも、「自由」「平等」「共同体」の正義がある。相手がこの・原理・を蹂躙すると、チンパンジーは怒りに我を忘れて相手に殴りかかったり、
P28群れの仲間に不正を訴えて正義を回復しようとする。興味深いことに、自由主義、平等主義、共同体主義はいずれも「チンパンジーの正義」とつながっているのだ。
ところがその後、正義感覚をもたないにもかかわらずきわめて影響力の大きな政治思想が登場した。それが功利主義だ。
ジェレミ・ベンサムによって唱えられた功利主義は、「最大多数の最大幸福」で知られている。政治思想は「正義」の本質をめぐる争いだが、ベンサムはこれを不毛な神学論争だと批判し、「なにがよい政治かは結果で判断すべきだ」と主張した。これが「帰結主義」で、みんながすこしでも幸福になればそれが事後的に「正義」になる。──政治の役割は、効用(幸福)を最大化するように社会のルールを最適化することなのだ。
政治思想と進化論
政治思想(主義=イズム)の対立を理解するうえでの出発点は、「すべての理想を同時に実現することはできない」というトレードオフだ。誰もが、自由で平等で共同体の絆のある社会で暮らしたいと願うだろうが、これは机上の空論で原理的に実現不可能だ。
自由な市場で競争すれば富は一部の個人に集中し、必然的に格差が広がっていく。それを平等にしようとすれば、国家が徴税などの・暴力・によって市場に介入するしかない。自由を犠牲にしない平等/平等を犠牲にしない自由はあり得ない。
一方、共同体主義者(コミュニタリアン)は、歴史や文化、伝統などによって支えられた共同体(コミュニティ)こそがひとびとの幸福を生み出すとして、共同体を守るためには個人の自由が一定の制約を受けても仕方ないとする。だがリベラルとリバタリアンは、経済的な不平等を容認するかどうかで激しく対立するとしても、自由な個人を共同体の下位に置くような思想をぜったいに認めないだろう。
それに対して功利主義は、正義の感情的基盤とは関係なく合理性によって幸福を最大化できる制度を構築しようとするから、ある面では正義感覚と同調するとしても、多くの場合、ひとびとの感情を逆なでする。この関係は図①のようになる。
P30
下部の半円にある三つの「正義」(リバタリアニズム、リベラリズム、共同体主義)はいずれもチンパンジーと共有している。すなわち、「進化論的な基礎づけ」がある。正義感覚によって直感的に正当化できるこの三つの正義は等価で、リバタリアニズムを中央に置いたのは便宜的なものにすぎない。
功利主義を半円から別にしたのは進化論的な基礎がないからだ。ただし、功利主義の考え方は私的所有権(市場経済)を重視するリバタリアニズムときわめて相性がいいので、その部分がもっとも厚くなっている。一方、極端な平等主義や共同体主義では功利主義(市場原理)は全否定される。
共同体主義のなかでもっとも功利主義から遠い「保守の最右翼」は、日本古来(とされる)伝統を重んじ、武士道など日本人の美徳を説く(そのさらに右には、"鬼子"としての「ネトウヨ(ネット右翼)」がいる)。その一方で共産党や左派の市民運動は、大企業や富裕層への課税によって社会福祉を拡充し、すべての社会的弱者を国家が救済すべきだと主張する(そのさらに左には革命を目指す極左がいる)。
右翼と左翼は不倶戴天の敵のような関係だと思われているが、最近は市民運動の集会に新右翼の団体が参加することが珍しくなくなった。しかしこれは不思議でもなんでもなく、図を見ればわかるように、市場原理(功利主義)を否定することで両者の思想は通底しているのだ。
リバタリアニズムと功利主義は国家の過度な規制に反対し、自由で効率的な市場が公正でゆたかな社会をつくると考える。両者の政治的立場はきわめて近いので、日本では包括して
P32「新自由主義(ネオリベ)」と呼ばれているが、原発事故のような極限状況では主張が対立する。功利主義者は電力の安定供給や金融市場の混乱を避けるために国家による東京電力の救済を容認するだろうが、リバタリアンは市場原理を貫徹して東京電力を破綻させ、株主や債権者がルールに則った責任をとることを求めるだろう。
なお、この図ではうまく表現できないが、国家を唯一の共同体とするコミュニタリアン右派が典型的な保守派だとするならば、マイノリティを含む多様な共同体を尊重する多元主義Pluralismのコミュニタリアン左派はリベラルと親和性が高い。
歴史的に「個人」よりも「世間」が重視されてきた日本では、「自己責任によって自由に生きる個人」を基礎とした欧米型のリベラリズムは浸透せず、右も左もその多くは共同体主義者で、「日本的リベラル」はコミュニタリアン左派のことだ。立憲民主党の枝野幸男代表は「私はリベラルであり、保守であります」と述べたが、それもこうした文脈で理解できるだろう。
平和が格差を増大させた
(略)
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