第二章 唐の再統一とその政治
2.1唐代の政治世界P75-2.2唐の旗揚げから玄武門の変P78-
2.3貞観の治の光と影P90-
2.4則天武后と武周革命P103-
2.5 唐の盛時と光と影--玄宗の治世P117-
開元の新政
P117 玄宗が叔母の太平公主を倒して全権を掌握してから半年後の同年(七一三)一二月、年号が開元と改まった。玄宗の治世として有名な開元時代の到来である。玄宗は唐皇帝のなかで在位期間が一番長く、四四年間という長期におよんだ。
そのなかで開元は七四一年までの足掛け三九年間にわたり、その後に天宝という年号が一五載(七五六。天宝三載(七四四)から至徳三載(七五八)まで、年を載で表記)までつづき、安史の乱の最中に息子の粛宗に位をゆずることになる。
玄宗は、名は隆基、睿宗の三男で、武后が実権をにぎった垂拱元年(六八五)に洛陽で生まれた。したがって韋后を倒したクーデタを起こしたときが、二六歳の若者で、それから兄を越えて皇太子となり、開元の新政に踏み出したときが二九歳であった。
かれの即位もまた嫡子による相続ではなく、これに父を排除した経緯を重ねると、曾祖父の太宗のケースとよく似ていた。皇太子になる前のかれは、魲州の即位もまた嫡子による相続ではなく、これに父を排除した経緯を重ねると、曾祖父の太宗のケースとよく似ていた。
皇太子になる前のかれは、潞州別駕という地方勤務も経験したり、よく騎馬で郊外に出て庶民と接したりして、民情に通じていた。しかも生来豪気で正義感に厚いところがあり、皇族のなかで目立つ存在であった。
こうして登場した青年皇帝に、「武韋の禍」のもとで進行した体制の緩みや、新興地主層の台頭がもたらす社会矛盾などを克服する期待が集まった。玄宗がそこでまず宰相として政治を託したのは、姚崇(本名元崇、字元之)であり、やや遅れて宋璟が加わる。
P118この両名が開元の治を代表する宰相で、太宗朝の房杜(房玄齢と杜如晦)に対し姚宋とよばれるが、その政治手法は対照的であった。姚崇は臨機応変、打てば響くがごとくテキパキと事に当たるのにたいし、宋璟は法を適正に運用し確実に政務をこなす。
両者はその手法の違いによって互いに補いあい、社会の安定につとめた。
P119画像(玄宗、姚崇、宋璟)
P121 姚崇は父の官職の関係から官界に入った恩蔭系(父祖の官位や家柄・影響力で官界に入る系統)であるが、その政務にたいする有能さが武后に買われて宰相に抜擢された人物であり、宋璟の方は科挙出身の官僚であった。
つづいてこの時期宰相になるのが、張説や張九齢や源乾曜らであるが、いずれも科挙系官人であった。張九齢のごときはこれまで人材が出ていない嶺南・韶州(広東省)の地方官の子弟で、源乾曜は北族の流れで関隴系にも近い立場であった。
武后以来の門閥にとらわれない人材育成が、開元年間になって裾野を広げ開化したといえよう。
とはいえ、科挙系官僚は一般に、足元で進行する財政等の諸問題を根本から解決する、明確な見通しも意欲ももちあわせていなかった。宋璟にしても、長く朝政を担当するが、この問題に明確な方針を示していない。
かれらの多くは文学を重視する進士科の出で、財務面は必ずしも明るくないうえに、在地の新興地主階層とつながり、国家と利害がぶつかる位置にあった。したがって、唐の支配体制を新たに締めなおすには、かれらとは異なる系列に人材を求めることが必要となる。
それが宇文融であり、その先には李林甫がいた。
宇文融と張説
宇文融は遡ると、先祖は北周王室宇文氏とつながり、唐では代々高官を占めた関隴系の主流をなす家柄、恩蔭系の出身であった。このかれが都に近い富平県の一役人から政治の中心に躍り出たのが、開元も九年(七二一)のこと、天下に広まる逃戸(流民)の増大と
P122それにともなう税役減収への深刻な影響にどう対処するか、という鋭い問題提起をもっての登場であった。逃戸の問題は早く則天武后時代に指摘されていたが、解決のためにどう動くかの提案はなかった。
そこに宇文融は、まず逃戸の実態を徹底的に洗い出すと主張し、玄宗に認めさせた。
こうした洗い出しの作業を、戸口の検括あるいは括戸とよぶ。正規に戸籍に載る良民を主戸といい、そこから逃げ出し他の主戸のもとに身を寄せたものを客戸とするが、宇文融は勧農使につき、部下の勧農判官を全土に派遣して、戸籍に漏れているこの客戸の把捉につとめたのである。
この結果、開元一二年(七二四)末までに検括できた客戸が八〇万戸、その新登録の客戸から徴収した税銭が数百万銭にのぼった。この数字は一部水増しなど不正があったことを割引いても、当時戸籍に計上された全戸数の一割を越える膨大な数であった(開元一四年の集計全戸数が七〇七万戸弱)。
宇文融は最初、かれらを本籍地に帰し主戸にもどす方針をとり、後には寄寓先で客戸として登録させたが、いずれにせよ国家の管理下にかれらを組み入れる政策であった。
逃亡した農民を客戸として受入れたのは、主に新興の在地地主層であったから、括戸政策は地主層とつながる科挙系官僚の激しい反対を招くのは必然であった。
その反対の急先鋒に立ったのが、張説である。かれは、姚崇、宋璟のあと最も玄宗から信頼された宰相の一人で、現実主義的な能吏であった。かれの現実主義とはあいまある現状を追認した上で、それに適合する策を提起するもので、課題の原点にもどって組みたてる発想はない。
P123 都を警備するために、機能不全に陥った府兵兵士にかわる募兵的な彍騎という新兵制が実施されたのも、かれの発想からである。張説は、現状の改革を迫る宇文融の括戸政策にたいし、嫌悪の情をむき出しにしてことごとに反対した。
両者の対立は、ついに開元一四年(七二六)ころから関係者を巻き込んだ激しい政争に発展し、開元一七年(七二九)ころまでおよんだ。その間、宇文融は山東貴族の末裔で恩蔭系の崔隠甫と協力して張説を一時失脚させるが、のちに崔隠甫と朋党つまり徒党を組んだという理由で左遷される。
かれはまもなく宰相に復権するが、その独善的なやり方が嫌われて、在位一〇〇日で地方に出され、亡くなった。ほぼ時期を同じくして張説も世を去った。
開元中期のこの政争の狭間で、宰相たちはというと、宋璟は一歩はずれ、源乾曜は宇文融寄り、張九齢は張説支持という構図であったが、玄宗は両派に二股をかける形をとった。しかし課題の財政不足の現状が改まったわけではない。
玄宗は、宇文融を失脚させたものたちに、「かれを失脚させたが、肝心の国用不足をどうするのか」と怒りをぶつけたという。玄宗は玄宗なりに、表面の華やかさの裏で進む律令支配体制の変質に危機感を募らせるとともに、みずからの浪費生活を支える財政的バックを必要とする事情があった。
そのため科挙系官僚の現状肯定の路線にはあき足らず、次第に離れていくことになる。その玄宗の方針転換にうまく食い込んだのが李林甫であった。
李林甫と楊貴妃(tw)
李林甫を政治の中心に押し上げたのは、源乾曜そして宇文融であった。李林甫は唐室李氏の支脈、関隴系の名門に属し、恩蔭の出身であるという点で、宇文融と立場を同じくし、張説追い落としでは行動をともにした。
ただかれは理財面には明るくとも、宇文融のような体制立て直しをはかる積極性をもちあわせていなかった。李林甫を際立たせたのは、玄宗の意向をよく汲み、「口に蜜あり、腹に剣あり」のやり方でまわりを威圧することであった。
李林甫が玄宗の信頼をえるきっかけとなったのが、玄宗の愛妃武恵妃の一件である。玄宗には皇后に王氏という女性がいたが、事情があって失脚させ、皇后位は空位となっていた。玄宗は武恵妃をそれにあてようとしたが、彼女が則天武后の一族であったために反対が強く、断念した。
やむなく武恵妃は、その子寿王瑁を皇太子にしたいと画策した。それには現皇太子の李瑛を廃さなければならず、李林甫がそこに関与する。かれは策を設けて皇太子を廃嫡に追いこみ、武恵妃の期待に応えたが、一つ誤算があった。
玄宗が寿王瑁を皇太子にすることに同意せず、皇子のなかで最年長の忠王璵をあてた。その過程で、武恵妃が失意のうちに亡くなった。
これは李林甫にとって大きな誤算であった。この皇太子が将来皇帝についたとき、自分の立場はどうなるか。その窮地を救ったのが楊貴妃その人であった。武恵妃亡き後、玄宗
P125 の心の空白が長くつづいた。その空隙を埋めるべく、寿王瑁の妃楊氏が絶世の美女であることを薦めるものがいた。玄宗は彼女を一目見て心を奪われ、以来政治に関心を無くして二人の世界に耽溺し、政治のすべてを李林甫に委ねることになる。
P127 ときに天宝の三載(七四四)、玄宗六〇歳にして、楊貴妃二六歳であった。ここにも、自分の子の嫁を奪って妻にするという、通常では許されない行為がまかりとおった。則天武后が二夫に仕えたケースと共通する姿である。
こうして李林甫は実権を独り占めし、天宝一一載(七五二)の死までそれを手放すことはなかった。かれは政治基盤を維持するために、ライバルになる芽を徹底的に摘み取ったが、ことに科挙系官人には敵愾心をむき出しにし、張九齢を最後にその系統は中軸から姿を消す。
長安二十四時01 02 03 楊貴妃 Lady Of The Dynasty
一方、将来を期待される文官が辺境防備の節度使のポストにつき、そこから中央の宰相につくコースを潰し、代わりに外族(非漢族系)出身の武将を節度使に任じた。かれらは多くの場合、目に一丁字もない武骨者で宰相にはつけず、李林甫の立場を侵す心配がなかったからである。かれらを蕃将とよぶ。
かくして李林甫の周りには、権勢にひれ伏し唯々諾々と働く輩が集まったが、しかしそれでも予期せぬ破綻があった。辺境幽州(現在の北京)の節度使から頭角を現した雑胡(混血胡人)の安禄山と、楊貴妃の一族であった楊国忠の存在である。
かれらは玄宗と楊貴妃の恩寵をバックに地歩を固め、あげくは李林甫の足元を脅かすに至った。恩寵によって権力にしがみついた李林甫は、この新参恩寵者の迫りくる足音を聞きながら世を去った。
(絵図、華清池)