2019年12月6日金曜日

偏愛メモ 『恋愛と贅沢と資本主義』

第一章 新しい社会 P2-32

1.1 宮廷 P2-6
(P2-)

P2 中世の末期、国家構成と軍制の面で行われた変革がもたらした重要な現象、そしてこの変革の決定的な原因は、今日、われわれがそのことばどおりの意味で理解してゐる巨大な王侯の宮廷の誕生である。

後世発展した宮廷の先駆、模範となったものは、多くの他の領域におけると同様、ここでもまた高位聖職者であった。おそらくアヴィニョンが最初の近代的宮廷であったろう。なぜならこの宮廷に、その後の数世紀、宮廷社会と呼ばれるものを形づくり、その社会に基調を与える二群の人々が顔をそろえたからである。

その一群は、宮廷の利益に奉仕する以外なんの職ももたぬ貴族たち、もう一群は美女たちである。美女たちはしばしば、心とならわしによってすばらしさを示し、宮廷の動きやたたずまいに、真にはっきりとした印を与えた。(この問題については、のちに関連ある箇所でいっそう正確に追及することにする。)

アヴィニョン宮廷の動きの意義は、なんといっても、ここで、はじめて教皇の周囲にほとんど全ヨーロッパの教会大貴族たちが参集し、栄華な姿をくりひろげたことにある。そのありさまを、ヨハネス二十二世がその教令(Etsi deceat)の中で、はっP3きりと浮き彫りにしている。

周知のように、十五世紀と十六世紀の初頭を通じ、一家眷属を含めたローマ教皇の宮廷は最もはなやかな宮廷であり(かのエラスムスを心から感動させたように)、自由なたたずまい、豪華さ、それに宮廷のしきたりの模範とされていた。

「ローマの廷臣」はかのカスティリオーネ[一四七八-一五二九『廷臣論』著者]が当時の廷臣の理想像としたものに最も近接していた。さらにこのローマで、ルネッサンスの偉大なる教皇たちの支配下に世俗的華麗さが最高の発展をとげたことも、やがて判明することであろう。

他のイタリアの諸侯たちも教皇と競争した。近代的な色合いをもったという点で、最も古くからある宮廷の一つはナポリのアルフォンソの宮廷である。彼は、栄誉、華麗さ、それに女性を何よりも愛したといわれる。さらに、ミラノ、フェララ、それに他の群小宮廷も、すでに十五世紀において、まったく近代的な生活をくりひろげた。

当然のことながら、まさにこのイタリアで、宮廷生活のこうした基調が、最も早く発展した。というのは、イタリアでは次の諸条件が最も早く充足されたからである。すなわち、騎士道の没落、貴族の都市化、絶対国家の形成、芸術、科学の復興、社会的才能、巨大な富の発生等々がこれにあたる。

だが宮廷なるものの歴史にとって、決定的意味をもったのは、いっそうスケールが大きく、かつ強大なフランスの近代的宮廷の形成であった。フランスの宮廷は、十六世紀末から、十七、八世紀を通じ、こと宮廷生活に関するかぎり、あらゆる事柄について、押しも押されもしない教師であった。

P4 フランス宮廷の創始者はフランソア一世[一四九四~一五四七]である。たしかに、ルイ十四世は、宮廷に宮仕えする人々に「フランスの役員」なる称号を与え、王室をフランスと同一とみなすことによって、すでに大きな転機をもたらした。

こうした歩みによって、彼は以前は、たんに個人的なグループとしてしか存在できなかったものを宮廷に格上げする道を開いた。だが、"宮廷"をつくったのは、なんといってもフランソア一世である。

彼は、婦人のいない宮廷は春のない年、バラのない春と似たようなものだという意見だったといわれる。そのため彼は、以前には城壁の古い灰色の天守閣の中でうらさびしい生涯をおくってきた婦人たちを呼び寄せた。彼は賢明な専制主義に魅力ある彩をそえて宮廷をつくった。そこでフランスのすべての活力や世俗的世界は王の周辺に見出されることになった。

「彼の母公はこの大輪舞の音頭をとり、美しい娘たちをよりすぐった。彼の姉マルガレータは、空想と機知のたわむれという別の香料を与え、そしてフランソアは、何よりも宮殿と祝典に形式の輝きをそえ、宮廷の中に、欲望とその交替のめまぐるしい動きをもたらした。」

かくて女性とともに、陰謀と情事と、(のちにいっそうきめこまかく追及するが)ぜいたくが発生した。フランソア一世が基礎づけたものを、のちの偉大なルイ諸王が巨大なスケールに仕上げたのである。この宮廷生活が、いかに女性の支配にもとづいているかということは、彼女たちの当時の様子がP5教えてくれるし、同時代の人々もそれを確証している。

私はその例として、二人の人物の意見を紹介することにする。一人はこの宮廷的・女性的時代の初期、もう一人は末期の人で、全然別々に暮らしていたのだが、二人ともこの問題について疑いもなく事実に即した適切な判断を下せる立場にあった点では共通している。すなわち一人はシェリー、もう一人はメルシエである。

「宮廷や町を満たしている男とも女ともつかない貴族たちに一瞥を与えてみるがよい。彼らにはもはや道心堅固な徳、先祖がもっていた男らしさや力は見出されない。彼らには感受性や精神力もなく、ただ軽薄さと移り気があるだけで、遊びと浪費のことしか頭にない。

彼らはみてくれをよくすることにやっきとなり、香水の選択とか、優雅さをますための他のあらゆる方法をとり入れるときには、とくに細心の注意を払っている。彼らはこの面で婦人をも凌駕しようとしていると考えてもよいだろう。」(シェリー『回想録』)

「貴族たちは、宮廷をとりまく豪華さによって魅了された。そして彼らを柔弱にさせるための祝典も開かれた。孤独の中に暮らしてきた婦人たち、家事に追われてきた婦人たちも、彼女たちに投げかけられたまなざしによっておのずと得意な気持ちになった。

彼女たちの媚び、そして自然の野心も、期待どおりかなえられた。彼女たちは魅力をふりまき、宮廷の中で光輝いた。彼女たちの奴隷は、その勢力圏内から遠ざかることは許されなかった。彼女たちは社交界の女王となり、趣味と娯楽の支配者におさまった。彼女たちは些細な小事を大事件にまつりあげた。衣裳、作法、流行品、装飾、才能、子供じみたならわしを創造した。」(メルシエ『パリの光景』一七八三年版)

ヨーロッパの他の諸宮廷は文化生活にとってなんの意味ももたなかったか、あるいはフランス宮廷の模写にすぎなかった。実際に創設されたのは、ステュアート王朝時代がはじめてというイギリスの宮廷にとくにこのことがあてはまる。

ヘンリー八世当時ですら、こんなことを書いた人がいた。P6「紳士たるものは誰もが田舎に逃れた。大都市や都市らしいものに住居する紳士は少数であり、しかも彼らは都市にわずかしか興味をもっていない。」

エリザベス女王の宮廷も、今日われわれがフランス宮廷の古典的形式のもとに理解するような近代的宮廷ではなかった。女王の宮廷には最も重要なこと、つまり婦人の支配が欠けていた。女性が王座についていたのに、こんなことをいえば、逆説と思われるであろう。

だが婦人の支配というのは、何よりもまず、非合法の女性による支配によって基礎づけられたことがはっきりしさえすれば、この間の事情はただちに理解されることになる。この問題は次節以下であつかっていく。

  1.2 市民の富 P6-12
(略)
P7(tw) 中世の富のすべては、ほとんどもっぱら土地所有からなっていた。とにかく富裕な人々はすべて地主であり、大地主が(教会を念頭に入れなければ)貴族を形成していた。中世初期を通じて、富裕な市民は、まったく存在していなかった。今後もしばしばその名をきくことになるポアンラーヌのような富んだ市民は、例外中の例外であったといってよい。

この事情は十三、四世紀以来、変化した。その頃、封建制のワクの中に入らない富がはっきりとふえてきた。巨大な貨幣財産がとくにイタリアで迅速にふえてきたといってもよい。東方における収奪がはじまり、おそらくアフリカで豊富な貴金属鉱床が開発され、さらに、大地主すなわち富裕な王侯の散財が大がかりなものになったのも、ちょうどその頃であった。

十三、四世紀のイタリアで行われたことを、十五、六世紀のドイツが経験した。その頃、上部ドイツの諸都市に巨大な富が発生した。これはまず、ボヘミアとハンガリーで金銀の鉱床が開発され、ついでアメリカの銀資源がもたらされ、さらにはこれらの資源開発に結びついた巨大な金融業の発生、いわゆるフッガー時代がはじまった結果である。

十七世紀にはオランダがこれにつづいた。オランダはスペインとポルトガルの収奪に仲間入りして、

(P8-)


P8 極東で新しい富の源泉を開発したが、その際、オランダは極東の諸民族から強制貿易、掠奪、奴隷化により貢物を吐き出させた。十七世紀にはフランスとイギリスでも富の形成がはじまった。だがこの両国では、十七世紀末まで、市民の富が、まだ比較的せまい範囲内におさまっていたことがはっきりしている。

巨大な貨幣資産をほとんど独占的に生み出した金融業は、フランスではルイ十四世の治世の最後、イギリスでは名誉革命後、はじめて大規模な形をとるようになった。

(略)

1.3 新貴族 P13-32
(P12-)


第三章 愛の世俗化 P61-95

3.1 恋愛における違法原則の勝利 P62-76
P64愛の本質について根本的に違った考え方がミンネザンク(中世の恋歌)が起こった世紀にまず広範囲の人人の間に浸透した。すなわち、これはあらゆる点で愛のいとなみの世俗化がはじまった十一世紀以来のことである。

恐怖の年、西暦一〇〇〇年は克服され、新しく銀鉱山が開発され、東洋との関係はより広く、より密接になりはじめた。十一、二世紀、「嵐の海に静かに、明るく輝く島」と形容されたプロヴァンスで、はじめて自由で地上的な恋愛の調べが、一〇九〇年に発足し、十二世紀の中葉から十三世紀のなかばまで全盛期をむかえた吟遊詩人の歌の中によみがえった。

吟遊詩人にドイツの恋愛歌手(ミンネゼンガー)が、さらにイタリアで恋愛以外の何物をも歌わない叙情詩人の大群がつづいた。ダンテ以前にこうした愛の詩人が一二六人もいたことは、いま私の手もとにある詩選集からもわかる。

今日では、これらの恋愛詩がすべて、真実を語らず、技巧や細工ばかりのようなものに思われる。だがそれだからこそ、これらの詩は近代的恋愛の自然な最初の芽であることを示している。

これらの詩は、恋人を天上にまつりあげ、一方おのれは憔悴して呻き声をあげ、酔いしれ、祈りにくれる正真正銘の青春期の性愛のの表現である。自然本来の感性の固い土壌は、十三世紀になってはじめて形づくられたものである。

恋愛詩人の生活圏が、アヴィニヨンの教皇宮廷あるいはボッカチオ描くところのフィアメッタのまわりに集まった社会の中に、そのままつづけられていったかどうかは、はっきり述べることはできない。

もし、ウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタインのような証人の言を信ずるならば、恋愛歌(ミンネザンク)のはなやかな時代は十三世紀に終了したエピソードにすぎなかったことになる。

P65彼はその『女人の書』(一二五七年)の中で、婦人がもはや以前のようにとらわれずに男性と交際することなく、美しい衣装もまとわず、顔面を厚いベールでかくし、首のまわりに敬虔そうにロザリオを巻きつけていることを嘆いた。

ウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタインは、往時を楽しく彩った朗らかな生の楽しみが、彼女たちにとって、すでに異質のものとなったと考えた。男たちは狩りにだけ喜びを見出し、早朝、犬とともに床をいで、夕方疲れきって帰館する。

そして夫人やそのお相手をする女性たちをいっさいかまわず、サイコロ盤のそばで時をすごし、仲間と一緒に酒を飲むだけである。

しかし、こうしたありさまは、おそらく、ただドイツについてだけあてはまるものであろう。ドイツは(少数の例外を除き)恋愛の歴史にとって、まったく別の時期になってはじめて一般に問題になってくるにすぎない。

(ワイマール時代)[著者はゲーテ、シラー時代をさしている]、南方の国々では吟遊詩人以来の発展がひきつづき行われたと信じてもよいであろう。ともかく、たとえば『デカメロン』に浸透しているような気分は、過去数世紀における愛の陶酔の直接の延長であるように思われる。

こうした気分は、あまりにも誇張された理想主義に対する健康な感性の反抗であったが、当初はまず子供じみた形式のワク内で発揚された。性欲の魅力はいわば新しく発見され、婦人のヴェールや衣裳がまくり上げられることは、想像だにもしなかった至福の気持を起こさせた。こうした気持ちのすべての基調は、

P66たとえば、ボッカチオ描くところの敬虔でありながら、しかも欲情のはげしい尼さんの都木のことばから響き出ている。
「私は、私どものもとに訪れる多くの女性たちが、男女の性交によってもたらされる楽しみとくらべれば、この世の他の甘い楽しみなどは、どれもこれもつまらないと語るのを何度もきいてきた。」
男性が思い浮かべる女性は、そのころでもやはり衣服をつけたままであった。デカメロンはジオット(ジョットGiotto di Bondone1267-1337)時代につくられた作品であることを想起しよう。

新しい物の考え方のいわば先駆者となったのは、宗教的物語のワク内での裸体の人間の、真にせまった表現、すなわち、アダムとイヴを現した芸術であった。十五世紀前半のもろもろの画像、肖像は、すべて目が、ふたたび血や肉を見はじめるようになったことをはっきりと示している。

ヴァン・ダイクのヤンおよびフーベルト[十四世紀から十五世紀の前半にオランダで活躍した画家の兄弟]がゲントの聖バーヴォ教会祭壇の開きとびらに描いたアダムとイブ(現在はブリュッセル美術館所蔵)、ボローニャのサン・ペトロニオ教会戸口の門柱にあるヤコポ・デルラ・ケルツァイス[一三七〇~一四八八、ルネッサンスの彫刻家]の浮彫り(一四二五年ころの製作)、

フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミー教会内にあるブランカッチ礼拝堂のマサッチョ[一四〇一~二八、フィレンツェの画家]のフレスコ画、そして何よりもフィレンツェにある教会洗礼場の青銅とびらにのこされたギベルティ(一三七八~一四五八年)の浮彫りは、新時代の曙光をあらわしている。

P67だが十四世紀の末期になってはじめて、婦人は裸の女として見られ、女体のきめ細かな美しさが発見され、感覚的愛の魅力が十分にくみとられるようになった。

画家たちは好んで、「愛と純潔との戦い」を描いた(ピエトロ・ベルジーノ1448-1523、サンドロ・ボッティチェリ1445-1510)。しかし戦いの結末は疑う余地のなもなかった。

フランチェスコ・コッサ1430-1477がプラツオ・スキファノイヤに描いたフレスコ画や、ボッティチェリの“春”や“ビーナスの誕生”のなかに、女への愛や女性美への愛が凱歌をあげて登場した。

ラウレンティウス・ヴァラが「快楽についての論文」(一四三一年)で、いわば理論的に述べたことは、画家や詩人の作品の中から現実の生活感覚としていきいきとせまってくる。
「美しい顔だち以上に、甘きもの、喜ばしきもの、愛すべきものがあるだろうか?天国への入口もこんなにすばらしくないことはたしかだ。」
ヴァラは婦人たちが、肉体の最も美しい部分をそのまま天日にさらさずにかくしていることを憤った。彼が女体を描くありさまは、ハインリッヒ・ハイネの雅歌の中の最も美しい節を思い起こさせるものがある。

(だが一〇〇年後であれば、ヴァラはおのれの要望の多くが満たされていたことを知ったであろう。)

次にフィレンツオーラは、一五世紀に新時代の美の理想をいわば綱領としてかかげた。ともかく愛することは楽しむことである。
「愛は楽しみ以外の何物でもない。私は、ワインや賭けや学問を愛するように、女を愛する。

P68ということは、私はワイン、賭け、学問、それに女によって楽しむのだ。楽しむことは、生活の究極の意味である。人は何か背後にある目的のために楽しむのではない。楽しみ自体が目的である。」
愛は生活の内容となった。詩人たちはその労作をすべて、愛と女に捧げた。ボイヤルド、ポリツアーノ、アリオスト、みなそうだ。
女 騎士 武器と愛
礼儀と壮挙を われは讃える
この詩句は新時代の玄関入口にかかげられた(そしてふたたびアリオストが歌っているように)、
目が歓喜と美に満たされた
海中にただようまで…
ポリフィロ(一四九〇年)の木版画が象徴的に示したように、愛は人々を生涯鞭うって駆り立てる。

当時の恋する人々を描いたもっとも生彩を放つ光景の一つを、トマーゾ・ガルツォーニがその『みんなの広場』の第九七講話の中で描き、これをエステのアルフォンゾ二世に捧げた。
「あわれむべきこれらの人々は、彼らが、女友達や婦人たちの名において、どんなにやっかいなことをひき起しているのかご存知ない。彼らは、婦人たちを愛しているとか、尊敬しているなどの段ではない。

まるで最高至善の神であるかのようにあがめまつり、そのときそのときの気分や虚栄心のおもむくままに、やたらと幻想をほしいままにするために、

P69ついに、きわめて弱い地盤の上に建てられている彼らの愛の伽藍は崩潰し、みずからは、不幸と苦悩の海原の中に沈むのだ。婦人たちは、彼らの偶像、天上の神性、第三天国の女神、天くだった優美の女神、美しく優しきニンフ、処女ディアナである。

彼らは婦人たちに対し、香煙のかわりにあふるる涙を、香の壺のかわりに悩める心臓を、供えのパンといけにえのかわりに沈む心を、祈りのかわりに誓いのことばを、讃美歌のかわりにソネットとマドリガールを、聖像のかわりにおのが蒼白なひきつった顔を、供物のかわりに犬のような従順さを捧げるのだ。

彼らあわれむべき人々は、寒さを怖れず、暑さを物ともせず、夜になってもたじろぐことなく、日中も迷うことなく、苦悩によってあとずさりすることもない。彼らは、反発もせず、呪いもせず、不正に報いようともせず、あなどりも顧みず、おのれの受けた障害を思うことも報復を企むこともない。

なぜなら、彼らは盲目であり、たとえおのれの利益が問題になっているときでも亡者のように沈黙しているからだ。…彼らはメスの猛獣たちのあとを追う。あのクマのえじきとなり、あのヒョウの奴隷となり、そしてあのトラの恋人になろうとしている。」
この種の文章が何ページにもわたって、まるで瀑布のように、次から次へときらびやかに展開するため、いっそ章全体を転写してやろうかといった気持になってくる。

それにつけても、かの勇敢なるガルツォーニにしても、愛の問題についてあまりに賢知を浪費したあげく、おのれの翼を焼かざるをえなくなったことがわかる。

ティツィアーノ1490-1576の世紀がはじまった。この時期には魂と感覚が、従来はまったく知られていなかった調和の中に統合され、女性を愛し、美を愛することが、しかもひたすら愛することが、生きることを意味するようになった。

愛の生活がいかに前代未聞の洗練された形でつくられていったかを、詩人、画家、彫刻家の労作以上に、この時代が生みだした愛に関する理論的論文、つまりピエトロ・ベンボの『アソラーニ』(tw)から読みとることができる。

P70この論文は「万物の原因は愛である」、また「あらゆる甘美なもの以上に、もっとも甘美なものは愛である」と述べている。

では愛とは何か、これについてあらゆる賢人が、愛が美への憧憬以外の何物でもないとしている点で一致している。だが美とは、万物の、調和と一致、それに整合された形姿から生ずる優美にほかならない。

肉体にとっても精神にとっても同じことがあてはまる。「四肢がよい関係におかれた肉体が美しいように、もろもろの徳がそれぞれ調和している精神は美しい」、「愛は美に向かってつばさをのばす、このさい、二つの窓が開かれる、美を魂に伝える耳と、美を肉体に伝える目がこれだ。」(tw)

愛と美を讃える場所がつくられた唯一の国は、その頃はイタリア一国であるにすぎなかった。この点についてフランスはまだ幼児期にあった。モンテーニュ1533-1592は、愛の生活を形成するにあたって、フランス人がいかに不器用であるかについて、次のように苦情を述べた。
「フランス人にあっては、つねに、性急な激情があるだけだ。」
幼年期のフランスにあっては、モンテーニュが求めたような愛のすべての喜びを味わうには、あまりに激情が強すぎたのだ。彼は、イタリア人とならんでスペイン人を、愛を楽しむことのできる巨匠であるとして次のように讃えた。
「愛の消滅を防ぎ、愛の前奏を長びかせるために、ありとあらゆる好意のしるしや賞が用いられた。やさしいまなざし、おじぎ、ひとつの言葉、ひとつの合図が。」
P71だがこうしたありさまは根本的に変化していった。ヴァロア家とともにイタリアの文化がフランスに入り、同時に婦人への奉仕も流入した。すでにブラントーム1540-1614もフランス式の愛の技巧を讃えた。

十七および十八世紀において、フランスが今日までその地位を保っている愛の大学になったことはいうまでもない。だが、フランスでは、愛の生活がしまいには変態性にまで繊細化し、生活はすべて愛のためにだけというありさまが十八世紀の本質となった。

これらの点は、パリで最高潮の精神的発展をとげた。フラゴナール1732-1806、ブーシェ1703-1770、グリュース1725-1805の中に、ボッカチオ1313-1375やピエトロ・ペルジーノ1448-1523とともにはじまった時代が最高の段階にまで達した。

もっと正しく表現すれば、最高の華を咲かせた。なぜなら、真にこの時代の絶頂に達したのは、おそらくティントレット1518-1594、ラブレー1483-1553、アリオスト1474-1533、ルーベンス1577-1640たちであったであろうからである。

恋愛詩人の時代には、カペラーヌス、ラウレンティウス・ヴァラ、ついでベンボ1470-1547であった愛の理論家には、いまやブラントーム、レティフ・ド・ラ・ブルトンヌ1734-1806、そして最後にはサド侯爵1740-1814が数えられるようになった。
(このことは、すでに数多くの文化圏の中でもほとんど同じように示されてきた。必然的発展の歩みであるように思われる。まず「肉体の解放」が臆病な手つきで試みられ、ついで力強い自然の感性の時代が出現し、自由で素朴な愛の生活が完全に開花するようになる。

その次に現れるのは繊細化であり、さらには放縦、不自然である。こうした必然的な循環にも人間の運命の最も深い悲劇が秘められているように思われる。

P72すなわち、あらゆる文化はそれが自然からの離反である以上、解消、破壊、死を意味するということだ。
もしお前があの人に天光の輝きを与えてやらなかったならば、
あの人の生活は少しはよくなっていただろう。
あの人は天光の輝きを理性と名づけ、そればかりに頼ろうとしているが、
しまいにはみずから、あらゆる動物よりももっと動物じみてくるのだ。)
P74

3.2 高等娼婦 P76-90
ある社会で自由な恋愛が、拘束された愛つまり結婚とならんではぶりをきかすようになりはじめた場合、こうした新型の恋愛につかえる女は誘拐された良家の娘でなければ、姦通する女または娼婦である。

P77ヨーロッパ諸民族の上層部で、恋愛詩人以来、純粋に性愛だけに集中した愛がいかに重要な意味をもつようになっていったか、その事情は誘拐、姦通ならびに売春の増加からつまびらかにしなくてはなるまい。

自由恋愛の最初の二形式、誘拐と姦通については数字で裏づけるわけにはゆかない。そうはいっても、各時代に生活した人々の判断や多くの徴候からして、実際にこの二形式の自由恋愛は、数世紀を通じ、重要な役割をはたしてきたことを正しく推測することができる。

ペトラルカ1304-1374は、彼の時代に姦通というペストが真にはじめて蔓延するようになったと考えた。彼の時代になると、若い男が既婚婦人を誘惑することがスマートなことであるとされていた。

そこでこれができない青年は、同じ年頃の仲間から軽蔑されて不幸であった。やがて、若者たちはこの優雅な冒険に対し、熱病にかられたような渇望を抱きはじめた。

彼らにしてみれば、肉欲を充足させることよりむしろ名誉を得たいという気持ちが先にあった。だが多くの若者たちにとって、得ることができた成果は、浪費した労苦にくらべれば、なにほどのこともなかった。

私はここでペトラルカの原文にある意味深長なことばを伝えておこう。それというのも、このことばは彼の時代の精神をきわめて適切に表現していながら、私の知っているかぎりでは、誰にも利用されていないからである。
「このペストが蔓延した後は、姦通をしない若者は、たとえ彼が神々から祝福され、美しく高貴であったとしても、この若者が貞潔だからではなく、女から軽蔑され、問題にされなかったのだとされた。

P78さらに貞潔の喜びは異性を愛しようとする者にとっては欠陥であるかのごとく受けとめられたために、同年輩の仲間の判断では哀れむべき男となっていた。こうしたわけで、若者たちの情熱、熱意はきわめてはげしかった。

この戦いには、情熱的渇望でなくてもよく、野心だけで結構であった。このために、苦労し、嘆息し、それでも何度も拒絶されるという憂き目にあった。そればかりではない。成果をあげればあげたで、ますます苦しくなることもしばしばであった。」
これが書かれたのは、王侯の間では、子供が非合法に生まれることはもはや恥としないばかりか、むしろ誇りとしはじめたのと同じ時代である。このことについてブルクハルト1818-1897とチブラリオは、多くの実例をあげて指摘している。

この頃から本書があつかっている時代の終末にかけて、婚前の性交、あるいは正式の夫婦でないもの同士の性交は、ある種の自負心をもつ階層の間ではすべて、結婚を通じての性交を補うものであるとされてきた。

その証拠を各時代がそれぞれ残してきた生活の描写からとりあげる必要はない。普通一般の“風俗史”なら、どれもこのことでいっぱいである。ただ姦通が、またもや、いうなれば社会的制度として現れるようになるったある重要な徴候だけを指摘してみたいと思う。

つまり、妻に姦通された男でも大きな顔をしていられたということは、イタリアではほぼ十四世紀以来、フランスではフランソワ一世以来はじまったということだ。

さらに売春が中世以来、量的にふえ、その意義も深まったということは周知の事実である。とりわけ、大都市が売春の舞台であったことはいうまでもない。

P79アヴィニヨンからはじまり、ロンドン、パリで頂点に達したわけだ。ふたたび、ペトラルカはそのすばらしいラテン語で、アヴィニヨンが売春婦の洪水で満たされことを嘆いている。ついで、長い間ローマが、城内に住みついた公娼の多いことで有名になった。

一四九〇年のかなり信頼のおける統計によると、六八〇〇人の娼婦がいたとことになる(ローマはその頃一〇万に満たない人口しかなかったのだから)。十八世紀のロンドンの五万人、パリの三万人よりも、人口一人あたりの数ではローマの娼婦の数は多かったわけである。

しかし、表面的な文化の形成にとってより重要であったことは、非合法の恋愛、つまり自己目的としての恋愛がひろがるにつれて、由緒正しい婦人と娼婦の中間に、ロマン系言語の中でさまざまなことばで表現されている新しい層の婦人が出現したことである
(ドイツ語や英語では、この種の婦人について不鮮明な情婦という表現を認める以外には、適切唯一な表現が存在しない。このことも、現象自体がロマン系言語を話す国々の中に限定されたか、あるいはこれらの国々からドイツなどに移入されことを示す徴候であるといえよう)。
ではロマン系の言語での表現をあげれば、Cortegiana(媚びを売る女)、Kurtisane(高等娼婦)、Konkubine(妾)、Maitresse(愛人)、Grande Amourreuse(情人)、Grande Cocotte(大蓮葉女)、Femme entretenue(囲われ女)等々となる。

これらの女性とともに自由自在な技巧となった恋愛は、ふたたびディレッタンティズムの段階を離脱し、職業的なまでに鍛えた人間の管理にゆだねられた。

P80あらゆる技巧に才能と練習が必要なように、恋愛の技巧はこの両者がとくに大切である。そのため、恋愛の技巧は自然選択の過程を経て、才能豊富な女性が一般大衆から選び出され、もっぱらこの技巧にとりくむことによって巨匠の域に達したあとはじめて満開の花を咲かせた。

(略)

P82/ 84/ 86/ 88/ 90/ 92

第四章 ぜいたくの展開 P96-181

4.1 奢侈の概念と本質 P96-104
P96/ 98/ 100/ 102
4.2 王侯の宮廷 P104-128
P104 往時は、すべての生活がそうであったように、華麗な生活も王侯の宮廷からはじまった。宮廷は真にすべてのエネルギーの源泉であった。しかも、世俗的な豪華な暮らしは、どこではじまったのかを知るためにもう一度過去を顧みるとき、われわれの視線はやはりアヴィニョンに向けられることになる。
罪悪と犯罪に満たされてはりさけんばかりの…貪欲のバビロン。
その神々はユピテルでもパラスでもなくして、
ヴィーナスとバッカスである。
ここはローマ、バビロンとともに
いつわりと悪の住家だ。
汝を泣く者、悲しむ者は数多い。
汝は清きつつましやかな貧しさの裡にきずかれた。
だが不逞なる角が、汝をきずきし者にさからった。
汝はいずこに希望を託するのか?
汝の浪費に、悪より生まれた富に託するのか?
P105 アヴィニョンの宮廷について、この詩や同種の文章を残したペトラルカは、たしかに、完全に公平で、まったく先入観にとらわれない観察者ではなかった。しかし彼が大筋では真相を述べていたことは、他の公明正大な証人が教えてくれる。

「教皇庁は、われらのガリアに変態性の風俗をもちこんだ」とニコル・ド・クラマンジュは嘆いた。(『腐敗せる教会』)しかしこの言葉も、あまり多くのことを語っているわけではない。むしろ、教皇クレメンス五世を讃えるために催された祭りについての、同時代の人の記録をとり上げてみたい。これは次のようなきらびやかな言葉で結ばれている。

「きわめて豪華な食事が供せられる大酒宴。集まった人たちはすべて庭で踊りまわる。・・・殿方の目はこれらのすべてをながめ、そのはなやかさを喜び、いたって満足そうだ。神聖なすばらしいことに会ったときのように、彼らはなごやかに、満ち足りたようすである。」

あるいはE・ミュンツが伝えた教皇宮殿の財貨宝物を考えてみてもよい。そうすれば、ペトラルカの判断があたっていることがわかる。

P106もちろんアヴィニョンのありさまについて正しいイメージを得るためには、何はともあれ、教皇の近くに住んでいた数多くの衛星ともいうべき、教会貴族たちのことも考え合わせておかなくてはならない。

教会関係の宮廷をすべて総合してはじめて、その頃の記録文書が明らかにしたあの豪華さをよびおこすことができるからだ。それというのも、教皇の家計支出は、最近の研究が示しているように、そんなに極端に多額というわけではなく、一三〇五年六月二四日から一三〇七年四月二四日までに(これも一例をあげただけ、しかも初期の宮廷をとり上げただけのことである。

だが、後の時期になると、私の知るかぎりでは、支出状況はいまだに公開されていない)、官吏および使用人用にただ一七万五三一八グルデン(金貨)が支出されたにすぎない。台所、宮廷パン焼場、地下貯蔵庫、馬屋のための支出は、毎週八二六フロリンである。馬屋には一三五頭の馬がいた。

おぼろげなアヴィニョン時代につづいて、われわれの脳裏にうかんでくるのは、まず次から次へとそれぞれの先代をしのぐ活力にあふれ光輝ある生活を送った、パウルス二世からレオ十世にいたる、偉大なるルネッサンス期のローマ教皇が支配したあの栄華の時代である。

「異教的な雰囲気が、まるで昔の皇帝のように劇的な輝きとともにローマをつつんだ。世俗的なはでな装いが教皇庁にとって不可欠のものとなり、甘やかされた大衆は祭り祭りと騒ぎ、しかも思いのままに楽しむことができた。」(グレゴロヴィウス)

P107 パウルス二世(一四六四~一四七一年在位)とともにパウルス二世飲めや歌えやの大酒宴がはじまった。「彼の宮殿はきらびやかであり、彼自身も官能の喜びにひたっていた。」いわば彼自身の生活の象徴として、パウルス二世は、世俗的な装いをこらした謝肉祭を見物した。彼はこうした新しい性格のカーニバルをはじめてローマに導入した。

シクストゥス四世は先行者に負けじとこれつとめた。彼のもとでぶらぶら生涯をすごしたのは、まず彼の親類縁者である。四世の息子ピエトロ・リアリオは六万フロリンの財産をもっていたが、二年間でこれをすっかり消費した。一四七三年、ナポリ王の庶出の娘がローマにきたとき催された祝祭は、「これまで行われた乱痴気騒ぎのすべてをしのぐ、大浪費であった。」

マダム・レオノーラはローマ教皇の親類筋の館で行われるぜいたくざんまいに、わずかながらでも似たようなものはこの世にはない、という確信を抱いてローマを去った。

この時代の奢侈は、とりわけ祭典、公式の展覧会、火との接待、それにいかめしい行列などで最もはなやかにくりひろげられた。一四七六年、聖マルコの日にジロラモ・リアリオが競技会を開催したナヴォーナには一〇万人が参集した。一四七八年には、ウルビノ公の王女とジョヴァンニ・ロヴェレスの結婚式が盛大に行われた。

そのとき入場したナポリの王子フェデリコのすばらしい行列について、ブルカルドスがくわしい描写を残している。だが世俗的な豪華さという点では、教皇庁の催しの中でも、一五一三年四月一一日の、あの永遠に有名となったレオ十世のレテラーノ祝賀行列が最高であろう。

P108一日のために一〇万ドカーテンの費用がかかり、何百人という芸術家がその最高の技巧を発揮した。ラファエロ・サンティが王冠をいただいた君主のようにローマ街頭をねり歩いたのも、ちょうどその頃であった。

お供もすばらしく、彼を尊敬する人々、友人や弟子あわせて五〇人を下らぬ人数が彼のあとをつきしたがったのだ。

イタリアの世俗の宮廷、とりわけミラノとナポリの宮廷が、周知のように、世俗的なぜいたくぶりをローマの教皇宮廷と争った。

これらの宮廷でその頃くりひろげられた奢侈のはなやかさについては、ブルターニュのアンナの秘書アンドレ・ド・ラ・ヴィーニュが、シャルル八世にしたがってイタリアを旅行したさい記した日記、>Le Vergier d'Honneur<が伝えている。

だが宮廷の奢侈(それに宮廷の歴史一般)にとって、真に意義深い事実は、フランスの諸王が、生活についての考え方や、生活方式に関し、イタリアの諸侯がはじめたことすべてをそのままうけついだことである

メディチ家のカトリーヌは、彼女に先だって、ヴァロア家が、シャルル八世、ルイ十二世を通じ、政治面におけるイタリア文化への傾倒を、周知のようにとことんまで追及したあと、いわば仲介者となってあらわれた。

なぜなら、これによって---それが決定的に重要なことなのだが---フランスがイタリア諸侯の領土をあわせたものより大きいという事情に応じて、外面的にもフランスでの奢侈が大きく発展する可能性がでてきたからだ。

最後のヴァロア家は、その家計費として、イタリアの裕福な諸国家の公式の全収入より以上ののものを支出した。十五世紀の終わりの収入は次のように評価されている。 (略)

P110/ 112/ 114/ 116/ 118/ 120/ 122/ 124/ 126

4.3 騎士と成り上がり者の第二ラウンド P129-151
P128/ 130/ 132/ 134/ 136/ 138/ 140/ 142/ 144/ 146/ 148

4.4 女の勝利 P151-181
P150/ 152/ 154/ 156/ 158
P160またしてもメディチ家のカトリーヌが、フランスの社会に砂糖消費を普及するうえでも仲介者となった。何よりもまず、この女君主のイタリア人従者が、最初にパリにリキュールを用いることを教えたという。

その後リキュールはフランス人自身によって高度に洗練された飲み物とされた。その頃最も愛用された品目は、アルコール、砂糖、サフランからつくられる“ヴィーナスの油”である。エティエンヌはその農業経済に関する論文の中で、当時、砂糖の消費がかなり普及したことを立証している。

フランソア一世の侍医ラ・ブリュイエール・シャンピエは(一五六〇年)、もちろん上流社会内部のはなしだが、砂糖は不可欠の嗜好品であると述べた。彼は自分の考えを次のように説明した。
「なぜなら、上品な生活をしている人々は、粉状の砂糖でまぶしていないものなど食べるわけにはゆかないからだ。」
イギリスもフランス同様、すでに十六世紀に、砂糖菓子、ジェリー、ママレード、砂糖づけにしたレモン、オレンジ、ショウガ、それに砂糖でつくった城、船などさまざまの形の食物が、あらゆる上品な食卓には欠かせないものとなった。

十七世紀の初めから、砂糖のおかげで、ココア、コーヒー、紅茶がヨーロッパで愛用されるようになった。これらの品々はまず、最上級の社会で、とくに宮廷で愛用された。

たとえばコーヒーは、ルイ十四世がオスマントルコのスルタン・マフムト四世(一六七〇年)の使節の接待にあたってこれを飲み、その後この飲み物を宮廷内に導入して以後、フランスで初めて受け入れられるようになった。

この嗜好品を中心として、おおやけのコーヒー・ハウスに都会的な新しいぜいたくが発生することになるが、これについては後でもう一度述べることにしよう。