2019年11月26日火曜日

偏愛メモ 『大河の一滴』P256 <励まし>だけでは救われない魂をどうするか


P256 親鸞から数世紀を経た蓮如の時代。それは親鸞の説いた真宗の思想は、まったく泥にまみれ、ねじ曲げられ、ほとんど地に堕ちた時代でした。歪んだ宗教が流布されて、指導者を崇める生き仏信仰や、金品を多く出せば出すほど極楽浄土が約束されると説く布施頼みの信仰がはびこり、地獄を描いて無用な恐怖をあおり立てて人びとを信仰に導く教団もありました。宗教界全体が堕落し、人びとはあやまった信仰に導かれて、無常の時代のなかを必死に足掻いていました。

それを見るに見かねて立ちあがったのが蓮如です。火が燃え立つような怒りを彼はおぼP257えたにちがいない。まちがった信仰をひろめるような輩は八つ裂きにしても飽き足らないというような、およそ宗教家らしからぬ激しい言葉まで吐いています。

いまのようなマスメディアがなかった当時、蓮如は『御文』を書いて、正しい信仰のかたちを人びとに伝えました。話が聞きたいから話にきてくれと言われると、人が多かろうが少なかろうが、どんな山のなかでも夜通し歩いて彼は話をしに赴いたといいます。

惰眠をむさぼる既成教団や振興のカルト教団に真正面から対峙しながら、親鸞の思想の正しい伝道者として、蓮如は無常観のなかを彷徨い、打ちひしがれている民衆に向かって積極的にはたらきかけ続けました。そして、悲しみに抉られた傷口を癒すために肉声で語り、その手をさしのべます。

人間の傷を癒す言葉には二つあります。ひとつは<励まし>であり、ひとつは<慰め>です

人間は立ちあがれる余力と気力があるときに励まされると、ふたたびつよく立ちあがることができる。ところが、もう立ちあがれない、自分はもう駄目だと覚悟してしまった人間には、励まP258しの言葉など上滑りしてゆくだけです。

<がんばれ>という言葉は戦中・戦後の言葉です。わたしたちはこの五十年間、ずっと「がんばれ、がんばれ」と言われつづけてきた。しかし、がんばれと言われれば言われるほどつらくなる状況もある。そのときに大事なことはなにか。それは<励まし>ではなく<慰め>であり、もっといえば、慈悲の<>という言葉です。

>はサンスクリットで<カルナー>といい、ため息、呻き声のことです。他人の痛みが自分の痛みのように感じられるにもかかわらず、その人の痛みを自分の力でどうしても癒すことができない。その人になりかわることができない。そのことがつらくて、思わず体の底から「ああー」という呻き声を発する。

その呻き声がカルナーです。それを中国人は<>と訳しました。なにも言わずに無言で涙をポロポロと流して、呻き声をあげる。なんの役に立つのかと思われそうですが、これが大きな役割を果たすような場合があるのです。

孤立した悲しみや苦痛を激励で癒すことはできない。そういうときにどうするか。そばに行って無言でいるだけでもいいのではないか。その人の手に手を重ねて涙をこぼす。それだけでもいい。深いため息をつくこともそうだ。熱伝導の法則ではないけれど、手の温もりとともに閉ざされた悲哀や痛みが他人に伝わって拡散していくこともある。

仮にオウム事件のようなことがあって、息子が刑に服することになったとしましょう。慈愛に満ちた父親であれば、「がんばれ!自分の罪を償って再起して社会に帰ってこい。わたしたちはいつまでも待ってるぞ。一緒に手を携えて新しい未来に向かって歩いてゆこうじゃないか」と励ますかもしれない。

では、古風な母親であったらどうか。「なぜこんなことになったの?これからどうするの?」などと、問いつめるようなことはいっさい言わないだろう。ただ黙ってそばで涙を流して息子の顔を見つめているだけかもしれない。おまえがもしも地獄に堕ちていくんだったら自分も一緒についていくよ、という気持ちで手に手を重ねてうなだれているかもしれない。

じつはこうしたことが人間の心の奥底にいちばん届くのです。がんばれと言っても効かないギリギリの立場の人間は、それでしか救われない。それを<>といいます。

蓮如という人は、生来この<>という感情がものすごく豊かな人物でした。蓮如が書いた『白骨の御文章』を美辞麗句のセンチメンタルな文章だという人もいますが、『白骨の御文章』を耳にすると万感胸に迫って涙が出てくるような、そういう人はたP260くさんいると思います。

井伏鱒二さんの名作『黒い雨』のなかに、この『白骨の御文章』が印象的に描かれていることを、宗教学者の山折哲雄さんは指摘しています。蓮如の文章は活字だけで読んではつまらないかもしれません。月並みな言葉ばかりだし、くり返しも多い。手垢のついた表現もある。一見、平凡で陳腐な文章です。

しかも、常に輝いている文章ではありません。ふだんは寝ている。それが、もう立ちあがることができないような心の状態で接したときに、突然、異様なほどの力でいきいきと人に迫ってくるのです。

蓮如はこみあげてくる人びとの熱い思いや悲しみ、涙などを決して無視しない人でした。それがどれほど大きな力をもつかということが、よくわかっていた人でした。蓮如自身が抱えていた悲しみの量というのは桁外れのものだったろうと思います。

(略)

P261 戦後、私たちはこの湿潤な風土のなかに合理的で乾いた文化をつくりあげようと努力してきました。そして実際に合理的で効率的な社会をつくりあげ、そのために人間の心もカラカラに乾いてひび割れかかったような時代になってしまった。