第1章 横浜の六月の月
・アメリカ号に乗って・小便小僧の生い立ち
・洋行--アメリカへの「追放」
第2章 鉄道王国アメリカ P37-52
第3章 工員ハイローシ・ハイローカ P53-70
・素晴らしきアメリカ野球第4章 陸蒸気とベースボール P71-106
第5章 日本野球の幼年時代 P107-130
第6章 野球の神様 P131-160
第7章 若き実業家の時代 P161-186
・平岡工場の誕生 - 三十五歳の社長 P163-182(P167-)
P168平岡は個人経営の工場を始めると聞いて、日ごろ彼の世話になっていた技術者や工員たちが次々と鉄道局をやめ、彼のもとにはせ参じた。そればかりでなく、新橋工場から旋盤やその他の機械類を無断で持ち出して平岡工場に運んだという話も伝わる。それほど彼は部下たちに慕われていたらしい。
平岡は工場設立までの準備期間にほぼ三年間を費やしている。その間、当時の実業界の最高指導者だった渋沢栄一はじめ大物たちにじっくり相談したに違いない。渋沢は平岡家とは密接な関係にあり、凞は幼少期から同家に遊びに来る渋沢を「親類のおじさん」のように慕っていた。
当時の渋沢は第一国立銀行頭取。凞は渋沢に計画を打ち明け、経営の方法や資金援助などあらゆる面で協力を取りつけていたと思われる。
新設の平岡工場は「匿名組合」という形を取った。資本金を出した組合員の名前を公表せず通常の経営は平岡個人に任せるが、事業の規模を決めたり、変更したり、運営資金を銀行から借りたりする非常の場合は、すべて組合総会の決議を必要とすることが規約で決められていた。
出資金は一人一万円、渋沢はじめ、大久保利通の息子の利和侯爵、奈良原繁爵、今村銀行頭取の今村清之助らが参加した。平岡も出資者の一人に加わるが、事業の発起人ということで出資金を将来の報酬から出すことにした。
工員は新橋工場からの移籍組のほか、砲兵工廠の雇い人らも借りて全部で三百人程度になった。陸軍省とは、軍が必要になった時は工員とともに工場ごと返すという条件付きの「一時貸与」で、年間使用料は二千五百円だが、軍から機械の修理維持費として年二千円が支給され、差し引き五百円で借りられるという願ってもない有利な条件だった。 P169これはおそらく渋沢が陸軍省首脳へ根回ししたからにちがいない。渋沢は幕末に暗殺された一橋家の先輩、平岡円四郎への「恩返し」の意味からも、凞には温かすぎるほどの面倒を見てやっている。
渋沢は青年時代、平岡円四郎に出会わなかったならその後の彼の栄光はなかったといえるほど恩義を受けた。百姓から武士になって一橋家に仕官できたのも、すべて円四郎のお陰だった。
生涯で五百以上の民間企業を育て、六百以上の社会事業に貢献した渋沢だが、平岡家だけは特別な関係にあった。
父の死と風変わりな葬儀
ここで円四郎と渋沢の関係をふりかえろう。平岡円四郎は、五百石の旗本であった岡本近江守政成の四男として文政五年(一ハ二二)十月、下谷練塀小路(東京都台東区)で生まれた。
十七歳の時、凞の親戚筋にあたる平岡家の養子となった。円四郎は早くから川路聖謨、藤田東湖、橋本左内らの政治家や儒学者、洋学者らと親交を結び、開国論者となる。
後、縁あって一橋家の用人になり京都へ行くが、そこで、「天下の権」は将軍後見職の徳川(一橋)慶喜ではなく、その側近の平岡にある、とまで言われるほどの実力者になった。
P170一方、渋沢は円四郎より十八歳年下で、天保十一年(一八四〇)、武州血洗島村(埼玉家深谷市)で生まれる。家は富農で、幼少から学問をして武士のように育てられ、尊皇攘夷派の志士たちと交わる。
長じて江戸へ遊学、お玉ヶ池の千葉道場に通って剣術を習ったりする。江戸では円四郎をたびたび訪ね、時事を談じるが、円四郎は渋沢の人物を見込んで彼をかわいがる。
渋沢は攘夷派志士たちと横浜焼き討ちなどを計画するが未遂に終わり、京都へ円四郎を訪ねに行く。が、焼き討ち未遂事件が幕府に知れ、円四郎のところへお尋ねがくる。円四郎は渋沢をかくまい、攘夷思想がまちがいであることを説得、彼を一橋家に仕官させたので、渋沢は幕府のお咎めを免れるこちができた。
しかし、こんどは円四郎がのほうが水戸攘夷派志士たちに狙わfれ、元治元年(一八六四)、四十三歳の時に京都三条で暗殺されてしまう。渋沢は悲嘆にくれた。後に円四郎を回想して「資性聡明にして才気煥発、舌鋒いと鋭かりし人物」とほめたたえたが、命の恩人であり、よき指導者だった円四郎を失って、渋沢は暗夜に灯明をなくしたような絶望感をあじわったにちがいない。
円四郎亡き後、渋沢は平岡家をよく訪ねた。凞一(当時は庄七)が一橋家と同じ御三卿の一つ、田安家の家老となったことも、平岡家との間柄をいっそう緊密にしたようだ。
その凞一の息子の凞にも特別の感情を抱いたことは間違いない。凞もアメリカから帰国して、鉄道局に勤めたころは、渋沢の家へよく通ったのではなかろうか。
P171さて、平岡工場は開業するとただちに客車、貨車の製造に取りかかった。といっても、台車は外国から輸入してその上の箱の部分を作るだけだから、「大工や鍛冶屋に毛の生えた程度の作業」(『汽車会社物語』)で間に合った。
(随時更新)