第一章 野球伝来は鉄道とともに(1871-1911) P014-040
野球と鉄道
P17日本の野球のっ歴史は鉄道とともに始まった---と言える。鉄道会社を親会社に持つプロ野球チームは多いが、最初から野球と鉄道は縁が深かったのだ。球史に最初に登場するのは、平岡凞(一八五六~一九三四、相互参照)である(この人物については、主として鈴木康允・酒井堅次著『ベースボールと陸蒸気 日本で初めてカーブを投げた男・平岡凞』(相互参照)に拠る)。
幕末の安政三年八月に生まれた。大河ドラマ『青天を衝け』に登場した、徳川慶喜の小姓・平岡円四郎は親戚にあたる。平岡家は、徳川家康が江戸入城した頃にはすでにその家臣だったという家柄だ。
凞の父・庄七(代々、この名)は、箱館奉行の下役を務めていたが、御三卿のひとつ、田安徳川家の付家老に出世し、慶應四年の江戸城明け渡しに立ち会った。この政権交代劇の主役は倒幕側では西郷隆盛、幕府側では勝海舟(相互参照)となっているが、幕府側で実務を仕切ったのは平岡庄七だったという。
勝海舟 1(tw,tw) 「日本ヤッパンよーそろ-サムライ太平洋を渡る-」2「幕臣残照 -咸臨丸は沈まず-」3またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜平岡家は家康の江戸入城と、江戸明け渡しの両方に関わったことになる。
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維新後、庄七は断絶しかけていた清水徳川家の再興のために尽力した。その時の新政府の交渉相手が大隈重信で、庄七の交渉力を評価し、新政府の内務少丞に推挙した。
平岡庄七は新政府の役人となった。その息子・凞は明治維新の一八六八年、一二歳だった。父が不在がちなのをいいことに遊びまくっており、その将来が危ぶまれた。一八七一年(明治四年)、清水家の若き当主が新政府の海外視察団の一員としてアメリカへ行くことになった。
P18平岡が息子も同行させてくれないかと清水家に申し出ると、お家再興の功労者からの頼みなので快諾し、その渡航費用まで出してくれた。
かくして平岡凞は一八七一年六月二三日(旧暦五月六日)に一五歳で私費留学生として渡米する。平岡たちを乗せるアメリカ号は横浜から出発した。
新橋‐横浜間に日本初の鉄道が正式開業するのはその翌年、一八七二年(明治五)一〇月(旧暦九月)のことだ。
鉄道についての知識は徳川政権時代から日本に入ってきているが、営業開始は明治五年なので、平岡は走る蒸気機関車を見ないままアメリカへ渡った。
サンフランシスコに着いた平岡は、この黒く巨大な走る機械を目にして衝撃を受けたようだ。平岡はボストンの学校に入学することになっており、サンフランシスコから大陸横断鉄道で東へ向かった。
ボストンでは教育家で知られるポイントん家に下宿し、九月に初等学校に入学した。四等から始めたが、成績優秀で半年後の七二年春に二等に進級した。このころ岩倉具視を代表とする使節団がアメリカに着き、平岡はその通訳をすることになり、伊藤博文ら政府高官たちと知り合えた。
伊藤からは「これからは鉄道が重要だ、鉄道技師になって帰国してくれたら歓迎する』という旨を言われた。
平岡は一八七三年八月に初等学校を卒業し、技術専門学校のハイスクールへ進んだ。しかし校長が日本人である平岡をバカにするような態度をとり、さらに勉強の中身も基礎的なことばかりなので、ハイスクールは楽しくない。早く実用的なことを身に付けたい平岡は退屈していた。
P19この技術専門学校で、平岡はベースボールという楽しみを見つけた。クラスメートが放課後にベースボールをしていたので仲間に入れてもらったのだ。すぐにチームリーダとなり、とくに投手として投げる球が速く、めったに打たれなかった。
しかしベースボールは楽しかったが、学校はつまらないので三か月で中退した。下宿先のポイントン夫人は中退に驚いたが、鉄道関係の仕事をしたいという平岡の希望を理解し、ヒンクリー・ロコモティブ社の工員の仕事を世話してくれた。
工場に入ると平岡は次々と提案し、よく働いた。そのため同僚たちから浮いた存在にもなったらしいが、工員たちがベースボールをしているのに加わると、そのうまさが驚嘆され、会社のチームのレギュラーになった。
「平岡選手」の誕生である。投手として、開発されたばかりの変化球、カーブを投げることもできた。
アメリカで全米プロ野球選手協会(Nashional Association of Professional Base Ball Players=略称NAPBBP)が結成されたのは、平岡がアメリカへやってきた一八七一年のことだった。
当時のボストンにはレッドストッキングス(レッドソックスとは関係がない。現・アトランタブレーブス)というプロ・チームがあり、都市全体でベースボールが盛んだった。
平岡が勤務したボストンの機関車製造所はそう大きな企業ではなかった。平岡という有能な日本人がいることは、すぐに鉄道業界に知れわたり、ニューハンプシャーのマンチェスター・ロモティブ社に転じ、さらには、フィラデルフィアのボールドウィン・ロコモティブ社に勤務し、高山鉄道のための蒸気機関車の開発に携わった。機関車の開発・設計だけでなく、運転にも従事し、有能な鉄道技師となった。
P20平岡は一八七六年(明治九)六月に帰国した。彼がアメリカから日本に持ち帰ったのは、鉄道技術とベースボールとローラスケートだった。平岡は帰国時にボールとグローブを持ち帰り、最初は弟と遊んでいたが、訪ねてくる青年たちが興味を示すようになり、神田三崎町の練兵場でベースボールの真似事を始めた。
ベースボール伝来
日本にベースボールが伝えられるのは、平岡がアメリカへ留学して二年目にあたる一八七二年(明治五)で、第一大学区第一番中学校(東京大学の前身のひとつ)のアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン(tw)が、生徒たちに教えたのが最初とされる。
欧米文化の多くが明治初期に「お雇い外国人」によって日本に伝えられたが、野球もそのひとつだった。
明治五年は、前述のように新橋--横浜間に鉄道が開業した年でもあり、日本野球史と鉄道史は同じ年に始まった。その翌年には北海道の開拓使仮学校(北海道大学の前身のひとつ)のアメリカ人教師、アルバート・G・ベーツが日本に赴任する際にバットとボールを持参し、生徒たちにい教えた。
最初にベースボールを知ったのは第一番中学校の生徒だが、最初に試合をしたのは北海道開拓使仮学校の生徒たとされている。平岡が日本にいない間に、日本野球の歴史は「学校」で「教育」のひとつとして始まっていた。
P21平岡が青年たちとベースボールに興じていた神田三崎町の練兵場は、東京開成学校のそばにあった。生徒たちは、自分たちよりもベースボールがうまい人たちがいるのに驚いた。
いつまでも遊んでいるわけにはいかないので、平岡はアメリカで知り合った伊藤博文を訪ねた。伊藤は工部卿になっており、平岡は工部省鉄道局に迎えられた。最初の勤務先は新橋工場である。
この鉄道局新橋工場時代の一八七八年(明治一一)に平岡が結成したのが、日本最初の野球チーム「新橋倶楽部」である。ニックネームを「アスレチッククラブ」としたので、「新橋アスレチック倶楽部」と呼ばれる。
平岡が暮らしたフィラデルフィアにアスレチックスがあったので、そこからもらった。参加したのは新橋工場の工員や学生だった。鉄道局は国鉄、いまのJRの前身だが、この新橋アスレチック俱楽部と後の国鉄スワローズとは直接の関係はない。
平岡は新橋停車場港内にグラウンドを作り、これを「保健場」と称した。アメリカにある「レクリエーション・パーク」を訳したもので、平岡が野球を娯楽と考えていたことがわかる。
平岡はアメリカのスポーツ用品メーカーのスポルディングから用具を提供してもらった。アメリカでグローブやキャッチャーマスクを使用し始めた時期で、その最新の用具が贈られたのだ。
平岡はユニフォームも作り、ベースボールとはこういうものだという見本を示した。
P22新橋アスレチック倶楽部に続いて、平岡の父が仕えていた田安徳川家の当主・徳川達孝が一八七九年にヘラクレス倶楽部を結成、さらに八四年には慶應義塾大学野球部の前身となる三田ベースボール倶楽部が結成された。
一方、東大農学部の前身、駒場農学校にも野球チームができ、八二年に新橋アスレチック倶楽部と対戦し、これが日本初の対抗試合とされている。
新橋アスレチック倶楽部はいまで言う社会人野球に近い。工員たちの娯楽として始まり、メンバーは三○名を超えていた。この歴史が長く続けば日本野球史は別の展開をしたかもしれないが、一ハ九〇年(明治二三)、平岡が鉄道局を辞めたのにともない新橋アスレチック倶楽部は解散した。
平岡は公務員には向かなかったようで、一八八六年(明治一九)に退職すると車両製造工場「匿名組合平岡工場」を創業した。平岡工場は小石川砲兵工廠の一部を借り受けて建てられた。ここは現在の東京ドームがあるあたりだ。
平岡の鉄道車両工場は成功した。平岡は趣味も広く、小唄、常磐津、清元、長唄、義太夫などをこなす人だった。市川團十郎と縁が深い、当時は廃れていた河東節(浄瑠璃)の再興にも尽力したと伝えられている。
さまざまな分野に足跡を遺した平岡は「日本野球の父」として野球殿堂入りしている。その野球殿堂はかつての平岡工場所在地の近くにある東京ドームの中にある。
学生野球
(省略)