2020年10月31日土曜日

偏愛メモ 韃靼疾風録(上、下)

(上)

(P68-)

P69 タタール(漢字表記して韃靼)とは、もともとモンゴル民族内部での一部族の呼称にすぎなかった。元以前の宋代の漢民族が、モンゴル人全体を韃靼とよびはじめ、元代ではそのようによぶことをはばかって表面ではそういう呼称はつかわなかった。

元がほろぶとき、中国大陸を支配していたモンゴル兵は、土地に執着せず、風のように騎馬で北の草原へ帰って行った。そういうふしぎな滅亡の形態を当時、北帰とよんだ。明帝国では、草原に北帰したモンゴル人のことを、卑しんで韃靼とよぶようになった。

草原にもどった"韃靼"は、四部五烈し、弱くなった。ときに長城をこえて侵入することもあったが、明軍によってつねにおさえこまれた。もはや、その民族には、元帝国のころの剽悍さはみられず、まして一国を新興させる力などない。

「わかったか」P70という意味のことを、財神は浙江語でいった。さらに財神は、韃靼ということばいまではさほどに厳密ではなくなり、地域・人種ともに茫漠としてきて、長城のそとにいる野蛮な非漢民族のことを一般に韃靼とよぶようになった、ともいった。

(略)

(P124-)

P124 明人は貝勒と表記する。大名とか貴族とかということであろう。さらには、それらベイレを統べているただひとりの神聖君主がいる。その人物の尊称をいうときに、彼女は顔色をひきしめて、「ハン(汗)」と、いった。

さらに、その名については、「アイシンギョロ・ヌルハチ」といった。この英雄の名が彼女の口から出たのは、このときがはじめてであった。庄助はなんのことかわからず、あれこれとやりとりしているうちに、それが人名であり、かつ女真の古にもいなかったような英雄的なハンであることがわかってきた。

いまなお存命しているという。そういえば、以前、老財神が、満韃子について語ったとき
、一傑崛起シ、山川奮フ。
といったが、その崛起した一傑とはそのヌルハチのことではあるまいか。それにしても微温八とはおもいきった名前だ、と庄助はひそかにおもった。「ヌルハチは、日本でいう天下様」P125と、アビアは日本語でいった。庄助の想像力は、彼女のいう内容が容易にとらえられなかった。

彼女はいらだって、「権現様」と、言い代えた。日本でいえば徳川家康のような存在だ、ということがやっとわかった。その名と存在を知ることによって庄助の女真知識ににわかに地平線がひらける思いがしたが、ただしそれ以上は双方の言語量がすくなすぎるためにつかみとれなかった。それ以上はのことは、後世のわれわれのほうが知っている。

ヌルハチは、家康より十七年遅れてうまれた。

この奇妙な名を漢字表記するにあたって、明人や朝鮮人の記録者が努爾哈赤という悪しき文字をえらんだところに、かれへの憎しみがこもっている。むろん、ヌルハチは兇奸な男ではなく、その性格の第一特徴は勇気であった。

さらに、その勇気には慎重さと他への思いやりが裏打ちされており、合戦以外の場では人命を奪うことことをつねに憚った。かれが明人に憎まれおそれられた理由は、ただ一点でしかない。本来、なしがたいといわれた女真人の大結集を遂げようとしたことであった。

かれはまず同族と戦い、ついで明軍と大小の決戦をし、つねに勝った。

ちなみに、漢民族世界は、万里長城をさかいに、その内側にある。その長城の山海関を東へ出れば、蛮夷(異民族)の世界がひろがっていた。明は、ここを、ヨーロッパ風に言えば植民地にしていた。P126その可耕地には多くの漢人が入植しており、さらには官吏や軍隊が駐屯し、蛮夷をてなづけてきた。

原住民である女真人は、明の政策によって三つのブロックに分けられていた。遼東平野の東の山地に明が「建州」と名づけた地方があり、ここにいる女真人を建州女直とし、また松花江流域を「海西」とし、これを海西女直と名づけていた。

それらよりも遠くシベリアや沿海州との境界を流れる黒竜江流域および朝鮮北部に散居している粗放な女真人については野人女直とよんでいる。朝鮮人もそのようによぶ。

このように、満韃子の大地は明帝国の支配下にありながら、明の勢いがおとろえると、女真人世界にも戦国乱世がおこり、同民族がたがいに攻伐しあった。この点、日本の戦国とほぼ時期をおなじくしている。

ヌルハチは、建州女直のなかの低い位置の大名(ベイレ)の出身である。この点、日本の家康の出身と似ている。早く母を亡くし、ついで祖父と父を明軍に殺され、二十五歳で家を継ぎ、自立した。このとし、一五八三年で、日本の年号でいえば天正十一年であり、織田信長の死から一年後のことである。

後を継いだ秀吉の政権がほぼかたまった年であった。ヌルハチのもとあつまった同志はわずか三十騎で、それらがひきいる雑兵を入れても、百数十人にすぎなかった。ヌルハチはその後、休みなく女真人の統一のために同族と戦い、一方においては自立後三十余年、明に対しては従順の姿勢をとりつづけた。

P127 この間、明からは、都督僉事とか、竜虎将軍とかといった名目だけの安っぽい官位をもらったりして、いわば熟夷の姿勢を仮装した。

日本で大坂夏の陣がおこって終熄した元和元年--一六一五年---の翌年、ヌルハチは明に対し、ついに偽装をすて、非合法に自立し、ハンの位に即いた。女真人は、統一された。ヌルハチは勢いに乗った。日本の元和四年(一六一八)、明の大根拠地である撫順城を陥し、その翌年、少数の女真軍をひきい、火力・兵数ともに圧倒的に優勢だった明軍をサルフの山野で破った。

庄助が二十歳のときである。思えば数年前にすぎない。このサルフの合戦は、世界の戦史のなかでも戦術研究の上で重要なものとされているだけでなく、辺境の戦いながら、明帝国の命運を占う上で、重大な凶兆ともなった。

ただ、これだけの大変動が、北緯四五度から四〇度のあいだで地を捲くようにおこっているにもかかわらず、その南の海上にある日本においては何の情報もつたわっていなかった。

その理由は、ひとえに李氏朝鮮の懸命な緘口方針によった。「もし倭にきこえれば、かれらはこれを奇貨とし、ふたたび狼心を持ち、壬辰ノ倭乱(秀吉の朝鮮侵略)を再現させるかもしれない」というのが、朝鮮の大官が共有していた危機認識だった。

ヌルハチと会戦する前、明は朝鮮に出兵をうながし、連合軍を組織した。ともに戦ってともに壊滅したため、朝鮮の派遣将軍姜弘立は戦意をうしない、残兵をひきいてヌルハチに降伏した。この敗戦は、朝鮮の朝野を動揺させた。

朝鮮はこの状況下で、とりあえず、「釜山浦の倭館に漏れることあるべからず」という処置をとった。

徳川幕府は、朝鮮に対して平和方針をとり、そのための外交を対馬藩宗氏に委託していたということはすでにふれた。対馬藩は倭館に外交上の人員を駐在させていたが、朝鮮側の口の固さのためかれらはついにこの変動を知らず、従って日本に漏れることもなかった。ただ、日本には明の商人の口から仄かにつたわってはいたものの、

「愛新覚羅・努爾哈赤」という異様な名は伝わらず、それを耳にした最初の日本人は庄助であった。

その庄助も、以上のべたような概要はすこしも知らず、ましてサルフにおける戦についても知るところがなかった。ただ、「一傑が崛起した」ことにつき、アピアのことばで触発されて脳裏に影絵が生じただけのことである。

とはいえ、その影絵は、雷霆のようなとどろきを発した。庄助は身のふるえるような思いで、(その微温八殿に謁しよう)と、心に決した。P129もっとも、その前に北の大海がある。それをわたり得るかどうかは、べつのことである。

(略)

(P152-)

P153 彼女は、白の薄絹のワンピースで身をつつんでいた(tw)。

この種の婦人衣服は後世、漢民族のあいだに普及し、世界じゅうからチャイナ・ドレスの典型のように印象されるようになったが、本来は漢族の固有のものではない。かつての漢族の婦人衣服は身動きとともに揺れるような寛衣で、体に密着したものではなかった。

これに対し、漢族がのちに「旗袍」とよんだ女真人の婦人服はこの北方民族がウツクとよんできたもので、皮膚に貼りついたようにびっちりしており、帯を用いず、タハンとよぶ一種のボタンでとめていた。ついでながら、ボタンも漢民族の固有の衣服にはなかった。

(P424-)

P425 「その女は、わが女真の貴族の娘ではなく、汝の妻のことではないのか」(tw) 

といって、色白の頬に笑いを膨らませた。庄助は、かぶりを振った。表むき妻とせざるをえなかった事情も話した。アビアの亡き父ジェーンは先王ヌルハチの庶弟の子であり、甥にあたる。ただヌルハチの敵であったエホ部族の貴族団の娘(アビアの亡母)を妻にしているためにヌルハチに信頼されなかった。

エホ部族は明から「馴化女真」とか「熟夷」とかいわれて修好の歴史がなく、むかしから官職などをもらい、反乱などを起こす気配がまったくなかった。いわば熟夷だった。ヌルハチはエホの諸族をつぎつぎにほろぼすうち、ついにジェーンの舅のセンゲブルまで攻めた。

センゲブルは明に奔り、その保護をうけた。ヌルハチはいよいよジェーンをうたがい、ついに非を見つけてジェーンとその妻や子を殺したのである。P426そのころアビアは日本へ漂流していたためたすかった。

(略)

(下)

(P58)

P58 女には、とくに女真ふうは強制されない。

しかし、十人に三人ほどは、女真服を着はじめていた。女真服とは、漢人から「旗袍」とよばれ、やがて世界じゅうからチャイナ・ドレスとよばれるようになる服のことである(tw)。

P92 「クリルタイ」

とよばれてきた。その風がいつのほどか女真に入った。ところで、ホンタイジとしては、クリルタイと同時に、漢文明ふうの皇帝即位の儀をやりたかった。

このため、かれは女真とモンゴルのすべての族長に使者を馳らせ、かれらの内意をとりつけつつあった。自然、瀋陽城内においてはこの件は秘密どころか、耳をおおっても聞こえてくるようなさわがしい話題だった。

同時に朝鮮だけが頑として反対している、ということもきいた。

「朝鮮が反対しているそうだが」

庄助がバートラにきくと、この女真の武将は、当惑したようにかぶりを振った。

「私は武人だ」

だからその種のことには関心がない、といった。

庄助は、鎖国によってその使命が消え、存在すらもむなしくなりつつも、女真を知ろうとすることが、日常の本能のようになっていた。庄助は城内のち人たちを訪ねては、朝鮮のことをきいた。それによってわかったことは、女真の勢力圏における朝鮮は、女真ののどにふかく突きささった骨であるということだった。

朝鮮のみは、毅然として漢文明を守っている。

この時期のホンタイジの勢力圏は広大だったが、しかしその人民である女真人は素朴だった。

P93狩猟をする女真人や遊牧をするモンゴル人に、読書などは必要なかった。

朝鮮だけは、かれらとちがっている。むかしから精密な官制をもち、大官は明と同様、科挙によって挙げられ、庶政はすみずみまでゆきとどいて、どれほど小さな郷村に行っても、学塾があり、経史が講じられ、小童の書を誦む声がきこえてくる。

朝鮮の学問は、明と同様、朱子学であることはすでにふれた。朱子学は、哲学の面においては宇宙のあらゆる運動(気)のなかに法則(理)が内在しているとし、その理を知り、気をきわめることが学問である、とする。

また歴史を観るにおいては、ただ一つの立場しかもたない。すなわち王(皇帝)のもとで統一されたている天下を考える。考えるについては、王を中心とした天下の倫理的秩序を尊び、これについての大義名分をあきらかにする。まことに正義の体系として苛烈である。

当節、明の官僚は、科挙の合格前には朱子学という強烈なイデオロギーによって鍛えられながら、実際に廟堂に立つと、帝権の独裁性や宦官の跳梁にはばまれ、朱子学的行動をとらない者が少なくない。

それに対し、朝鮮における朱子学は、利刃のように硬くするどかった。

朝鮮もまた、科挙の公式思想は朱子学で統一されている。官僚だけでなく、在野の知識人も朱子学一色だったが、明の官僚のように朱子学でいう知行一致がにぶるということはなかった。

むしろ事がおこるたびに火のような大義名分が噴きあがり、しばしば

P94 イデオロギーが先行して、国家の現実的な課題が後にしりぞくことがあった(相参)。

花たちの戦い31(tw,tw)    32


かつて光海君は、このために廃位になり、済州島に流された

光海君は、朱子学的価値観をはずして評価すれば、不出世といえるほどの外交家であった。いまもそうだが、当時も朝鮮をとりまく国際環境は朝鮮存立のためにはきわめて困難というほかなかった。

北隣する満韃子の地においてはヌルハチの女真が日に日に強大となって軍事的強圧を加えてきている一方、朝鮮王としては宗主国である明の皇帝に対し、臣としての礼をとらねばならなかった。

ついでながら、ヨーロッパの概念でいえば、朝鮮は明の属国とはいいがたく、独立国であった。

ただ、アジア的概念においては、明の版図であった。版図を儒教的に解釈すれば、明の皇帝が儒教世界(礼教秩序)における本家で、朝鮮国王は分家の当主ということになる。それだけのことで、ヨーロッパのように、本国が属国を収奪するというようなことはなく、また本国が属国の内政に干渉するということもなかった。

そこに存在するのは、宗支の礼だった。時をきめて、分家が使者を北京に送って皇帝の機嫌をうかがい(朝貢)、本家もまたそれについての答礼使を分家に送るというもので、まことになごやかなものだった。

このなごやかさを華(文明)といった。さらには、朝貢のときには土産(土地の産物)をもってゆき、それに対して本家から数倍のみやげをもらうのである。

P94つまりは、朝鮮国王は明帝に、

「臣従」

している。しかし、この臣の意味は、北京の皇帝の股肱である官僚の臣ではなく、いわば外藩としての臣属で、日本でいう家の子・郎党のような重いものではない。

が、同じ儒教でも、大義名分論にやかましい朱子学にあっては、臣の解釈はただひとつで、朝鮮国は現実には歴史的に自立した国であるにもかかわらず、理論的には---朱子学以後、儒教はりくつっぽくなった---朝鮮王国は北京の”天朝”の臣であることになる。当然、臣として大義名分を誤ることがあってはならない。

そこへゆくと、光海君は、現実的だった。かれはイデオロギーよりも国家を守るべく四苦八苦した。明廷への礼をまもりつつ、北方の”野蛮の国”である女真とも好みを通じ、いわば主鼠両端の計を用いた。あくまでも、計にすぎなかった。

こういう光君君に対し、朝鮮官僚のうちの一派が光君君を大義名分論で非難し、ついにクーデタをおこしてこれを廃した。臣が王を廃するなど、大義名分からいえば、大いに外れる行為になるのだが、しかし、朝鮮の朱子学思想にあっては、イデオロギーはつねに普遍性をめざすために、天朝と朝鮮という関係論こそ大事で、朝鮮内部の君臣問題は倫理上の小事になっていたようであった。

そのあと、かつて綾陽君とよばれていて部屋住みだった仁祖が立ち、第十六代の王位をついだ。

P96 仁祖を擁する官僚団は当然大義名分をつらぬき、非現実的な政策をとった。すなわち女真とは和を断ち、一方皮島に蟠踞する明将毛文竜を応援した。

毛文竜は、ありようは匪賊・海賊のたぐいに近い存在だったし、朝鮮国の官僚もそのことはよく知っていたが、しかし、毛文竜が“天朝”である明の官職をもっているということが、重要だった。

形式論においては、明の官職をもつ男を応援することが大義名分という朱子学的な正義体系に合致するのである。

ただし、この選択は、国家に災禍をあたえた。ホンタイジが汗になってほどなくやった朝鮮出兵がそうだった。戦いは女真軍の一方的勝利におわり、仁祖は三田渡で降伏した。

この降伏後、朝鮮は屈辱をしのんで女真と結び、かげでは明への礼をとるようになった。

以後、ホンタイジは、朝鮮をもって自分の属邦とした。ただし、利口なホンタイジは、朝鮮が真に屈従していないことも熟知していた。

たとえば朝鮮から国書がくる。当然、漢文であった。漢文の場合、大汗のことをことさら漢訳して、皇帝とか王とかと訳しても、はなはだしい語訳とはいいがたかったが、朝鮮をホンタイジに対し、汗としかよばなかった。

国号は、漢文明ふうに「金国」とよびつつ、その国主を、蛮酋をさすことばの汗でもってよぶ。つまりは、

P97「金国汗」

というふしぎなよびかたでもってホンタイジを呼びつづけてきたのである。ホンタイジが愉快であろうはずがなかった。

朝鮮国としては、こうよぶことで、明への理論的な義理が立った。儒教の道義でいえば、皇帝は天授のもので宇宙にただひとりしかおらず、そのひとは北京におわすのみである。この理論からいえば、ホンタイジもを、

「金国王」

ともいえないではないか。

王とは、朝鮮国王のように、北京の皇帝から冊封をうけた者の謂であって、明から自立している蛮酋のことを王とはよべない。正しくは、酋にすぎず、げんにかつて朝鮮はヌルハチのことを酋とよんでいた。いまそれを朝鮮はホンタイジに対し汗にまで昇せたのである。

---ありがたくおもえ。

と、朝鮮官僚の噴き出るような感情が裏打ちされているのが、

「金国汗」

という呼称だった。

P98 そういう思想的背景がある。

ところが今ホンタイジは清を樹て、皇帝になる。朝鮮の人士は気死するのではないか。

庄助は、そうおもった。

即位の日がきた。

明の毅宗九年四月乙酉の日、ホンタイジは女真やモンゴルの族長や群臣をあつめ、かれらの推戴をうけるというかたちをとった。のちにかれは太宗とよばれるが、この即位の日に群臣からたてっまつられた尊称は、寛温仁聖皇帝というながい呼称だった。

むろん、上の四文字は形容のことばで、要するに皇帝ということであった。ホンタイジ、このとき、四十半ばである。

国号の清もこのとき正式に発せられ、さらには明とはべつの年号がたてられた。崇徳という。その元年になる。

ホンタイジは皇帝として天を祭ったあと、群臣をひきいてヌルハチの廟に詣り、祖霊に報告した。このときヌルハチのおくり名を太祖とした。またヌルハチの父や祖父などにも、王の称号をおくった。

澤王、慶王、昌王といった名で、これらの祖たちのありようは、生前山河を駆けまわって狩猟をしていたひとたちで、もし霊というものがあれば、

P99おのれが王になったことに仰天したにちがいない。

ホンタイジの即位のとき、瀋陽の郊野は白い包でうずまるほどにぎわい、堂内にあっては遠くからきた朝貢のひとびとでひしめいた。だれもがにわか仕込みの礼にまちがいがないよう、青ざめながら進退し、小動物がおびえるようなすがたで拝跪した。

そのなかにあって、朝鮮国王の使者(正使羅徳憲・副使李廊)だけは、例外だった。かれらは、ただ突っ立ったままでいた。

清廷のひとびとはおどろき、この両人を叱って拝跪させようとしたが、頑として従わなかった。天ニ二日ナク地ニ二王ナシ、ということばが、かれらの全身を電波のように戦慄させつづけていたのである。

国を失うとも大義名分は失わなぬという気概が、かれらを佇立させつづけていた。

ホンタイジは、そのままに見捨てておいた。

ただ、このとしの十一月、復讐に出た。山河が凍えるのを待ってホンタイジはみずから十万の大軍をひきいて朝鮮を討ったのである。朝鮮としてはひとたまりもなく、仁祖はふたたび漢江のほとりの三田渡までゆき、河畔の野でホンタイジの足もとに伏し、降伏した。

同時に、明を捨て、清を宗主国にすることを誓った。

庄助はこのとき、従軍し、朝鮮のために重い悲しみを感じた。

ホンタイジ軍は、ほんの一時期ながら朝鮮を占領下においた。このときこの新皇帝が

P100やったことのひとつは、かつてこの地を侵略した豊臣秀吉の軍の遺棄兵器を集めることだった。

滑稽なことだが足軽用の長い槍まであり、それに鉄砲などもまじっていて数千点を北方へ運ばせた。

女真の実情が、兵器すら欠くようになっていたのをこの一事で察することができる。

清帝ホンタイジ崩ず
P102
P103ここでついでながら、満洲時代の清史の王室関係の記録についてふれておく。その幾分かは湮滅されてほとんどそんざいしない。

湮滅は、清朝第六代の乾隆帝(一七一一~九九)そのひとによるものであった。乾隆は在位六十年、天分ゆたかで、知的好奇心に富み、中国的教養のほかに諸科学にも関心を示した。

外にあってはインドシナ半島だけではなく、はるかにビルマをも朝貢国として降し、中国の版図を史上空前にひろげた。内治においても多くの業績をのこした。しばしば正賦(公的な租税)を免じ、祖父康熙帝の民力の休息という方針を継ぎ、また一面、父雍正帝がやった官吏の規律についての厳格さをも継いだ。

乾隆は、正に中国史上、最大の君主であったろう。

これは余談としてふれるが、のちの中国における近代革命は、攘夷を目標とした。夷とは、皇帝と帝室そのものだった。革命家たちは滅満興漢というスローガンのもとに人心を結集させた。

異民族である女真族(満洲族)の支配をぶちこわして漢民族の世を興せ、というもので、満洲朝廷(清王朝)のなせることは善事をも黙殺した。その後も、黙殺した。後年、中国革命によって成立した人民共和国も、同様だった。この共和国は、

P104 中国人という概念規定を変えて諸異族をふくめたという点で画期的だったし、また漢族の優位意識を教育によって改変しようとつとめているのは、刮目していい。

それでもなお、清朝という存在を異民族王朝であるという感覚から十分脱け出しておらず、自然、乾隆についての評価も、いわばなされていないのである。

乾隆に話をもどす。乾隆自身が、この問題で屈折していた。

かれほど、自分こそうまれついての大地のぬしだとからりと信じていた明るい男ですら、自分の王統が、



であるということについては憂鬱な感情を持ちつづけた。それ以上に、この王統の先祖が、元来、東北の山野に散在する狩猟と粗放な農業を営む文明度のひくい民族だったことに、素朴な意味での---薄みっともないことでの---気はずかしさをもっていた。

野蛮人のことを中国では、夷といい、胡といい、狄といい、また蛮という。いずれにしても、

---沼沢で魚やスッポンにまみれてくらしているか、それとも草原で五畜とともに暮らし、動物同然ののきたならしい連中、

というのが、古代以来の野蛮人観だった。かれらは人ではなかった。獰猛で戦いにおいてはときに華人(文明人)をしのぐかもしれないが、人倫において紳士としての原則(儒教)をもたないために、なにをしでかすかわからない、と思われている連中だった。

P105儒教主義者であり、儒教の価値観の至高の座にいるつもりの乾隆として耐えられることではなかった。

一方において、乾隆は中国の精神文明史の保存者として稀代の事業をした。

かれは即位するや、国家事業として、古代以来の中国の書物という書物を集め、これを編修させ、分類し、建物をたてて、保存したのである。「四庫全書」がそれであり、それを保存する建物を「四庫全書館」とよばせた。

この事業の大きさは、四十年かけてやっと第一部が編みあがったほどのもで、その第一期四十年という区切りだけでも、このことに従事した学者は三百六十人といわれている。

そのときに、乾隆は焚書もおこなったのである。

明末の書物には、当然、乾隆の同族の女真族のことがでてくる。ときに女真族の陋穢なくらしを書き、その武装のまずしさなども書かれている。その野蛮人臭い無原則な外交、戦術も書き、女真兵の乱暴についても書いている。乾隆は、そういう部分を削らせ、ときには書物そのものを焼かせ、版木まで砕かせた。

その数は、二千数百種にものぼった。

ホンタイジ(太宗)の『実録』もまた、そういう目に遭った。

『実録』

P106 というのは、中国文明の一特徴といっていい。

この文明は、まことに記録好きであった。記録のなかでも、とくに皇帝一代のことを記録したものを『実録』とよぶのである。

皇帝の日常の起居には、記録官がついている。かれらは皇帝の起居動作・言動、執務についてのいっさいを記録する。この記録を「起居注」とよぶ。皇帝の死後、それを編撰したものが『実録』である。

さらに中国史の古来の慣習として、一つの王朝がほろぶと、つぎの王朝が、前王朝の歴史を編纂する。正(清)史という。その正史を編む場合の基礎資料の一つになるのが、皇帝ごとに存在する『実録』というものであった。

女真族においては、『実録』を編むという習慣はない。

が、ホンタイジが、明とならんで皇帝と称し、年号をたてた以上、「起居注」を書く記録者を置かざるをえなかった。げんに置いた。ホンタイジの死後、それによって『実録』が編まれた。

乾隆(tw,tw,tw) は、このホンタイジ記録の中の多くを削除し、入念に湮滅した。

ところが、ふしぎなことがおこった。

これを盗写した者がいたのである。おそらく「四庫全書」の編修者のひとりであったろう。

P107盗写については、察するに、他意はなかったにちがいない。察するに、書物や文字に淫するほどの愛をもっていた者が、ただその愛のみが動機でそれをやったのではあるまいか。

もし露顕すれば、死罪にも処せられる。死を賭してそれをやるという動機は、功利性だけでは考えにくい

ところで、日本は、奈良・平安朝以来、千数百年間、中国との交易においては、官貿易・私貿易を問わず、書物の輸入をもって輸入品目の第一等としつづけた。右の盗写された太宗の『実録』の一部が『太祖実録』『世祖実録』とともに、江戸期、長崎に入港した清船ではこばれ、清商の手で長崎奉行の唐通事に売られたのである。

これによって、この秘本は幕府の手に移った。江戸城内の書庫(紅葉山文庫)に入り、蔵された。

さらに数奇がかさなる。それをひそかに筆写した日本のマニアがいたことである。書痴というべきだろうか。その筆写本が、南部藩の永根鉉の手に入った。鉉もまた奇特な人物だった。この人物の手で、『実録』の採要が公刊された。このため、この本は日本にのみ残ったことになる。

ともかくも、この当時の女真の人情、風俗や太宗の起居などについては、右の本や、朝鮮側の史料などで察するほかない。

右は、この小説についての楽屋ばなしである。

P108/ 110

P113 庄助のこの時期より数年あとに、日本人が十五人もこの瀋陽城(当時、盛京とも。さらにのちには奉天ともいう)に、女真役人に介護されつつやってくるのである(相参)。

かれらは、越前三国湊の船頭・水主たちであった。寛永二十一年(一六四四)四月一日、三艘の船に乗ったかれらが松前(北海道)へゆくべく出帆し、途中、大風にあって漂流し、六月十五日ごろ、琿春(現・ソ連領ポシェット湾)に漂着した。

同地は当時、野人女真といわれた女真族の一派の居住区であった。かれらは、ほとんど農業をせず、狩猟と漁業で生きている部族だった。農業をもたぬぶんだけ、朝鮮人や中央部の女真人から見て、未開とされていた。

三艘の乗組員五十八人は上陸したが、上陸後、野人女真の詭計にかかって大半が殺され、十五人だけが生き残った。皆俘虜にされた。

この不祥事を女真役人が知り、野人女真の集落からかれらを救いだした。役人はこの十五人を瀋陽に護送し、清の宮廷はこれをよく待遇した。のち十五人は朝鮮を経て日本に護送され、諸役人のとりしらべをうけたあと、故郷の越前にもどることになる。

かれらが江戸で陳述した内容は、『韃靼漂流記』(→関連参照)と名づけられて、多くのひとびとに筆写され、江戸後期、流布した。そのなかに、女真人の上下の人情について書かれているくだりがある。
P114 主と下人との作法、親と子との如くに見へ候。召仕侯者をいたはり候事、子のごとくに仕候。又主をおもひ候事、親のごとくに仕候ゆへ、上下共に親しく見へ申候。
以上、女真人の情のあつさについてふれた。庄助もそのことを女真人の美風と見ていた。ところが、庄助のホンタイジへの不満は、かれだけが右のような女真人一般の感情から超然としていることだった。

かといって、ホンタイジには亡父ヌルハチのような非情さはない。ヌルハチは、政治上その必要があれば、肉親や平素親しんでいる者に対しても容赦なくこれを死罪にした。ヌルハチは、確かに朝鮮側の記録でいうところの「猜疑威暴」という面があった。

これに対し、ホンタイジは、人を殺すよりも、気長に制度を変えることを心がけるという政治家だった。旗というのは、女真族の固有の制度だった。旗は、封建国家に似ていた。その内部は封建的な主従感情でむすばれており、日本の藩にたとえていいかもしれない。

旗のひとびとは自分のじかの長に忠誠をつくしたが、大汗については雲の上の存在で、いわば自分にとって無縁の存在だった。旗の長は、それらをひきい、自分の旗の独立性を維持しつつ大汗のそばに侍するのである。しかし旗の長は、心のどこかで、

---本来は大汗と同格である。

とおもっていた。大汗は独裁者というよりも、旗の連合の盟主にすぎなかった。とくに、創業者のあとをついだ二代目のホンタイジの場合、そうだった。

ホンタイジが、三人の兄たちを超えて、女真族の汗に即位した当座は、国政は三人の兄たちの合議にまかせた。兄たちそれぞれ旗をひきいて、それぞれがいわば独立国であった。

ホンタイジはその無力さに、気長に耐えた。待ったのち、まず二王のアミンの罪を見つけてこれを幽閉し、その旗を自分の指揮権のもとにおいた。ついで三王のマングルタイの罪を見つけ、これに対して大ベイレである礼遇を停止し、その旗も直轄下においた。

ただ長兄のダイシャンばかりは凡庸でかどのない男だったためにこれをそのままにした。

このようにして、ホンタイジは、各旗の長の実力を殺ぎつつ、すべて自分の指揮下におくように制度を変えて行った。旗の長の合議が最高機関であるということもやめた。そのためのやり方は、ごく簡単だった。明のように、大臣以下の官僚団を置くことだった。

ホンタイジは、当初八人、のち十六人の大臣をおき、これを股肱とした。大臣団がホンタイジの意を体してすべてを決め、

P116ホンタイジの名において旗の長である大ベイレに命ずるのである。官僚制の導入によってヌルハチのころとは、女真の機構がかわった。

ホンタイジはヌルハチにおける威望を、機構に変えたのである。
(ホンタイジは、情がどこに付いているのかわかりにくい)

と、庄助がおもったのは、ひとつには、かれがこういう機構の上に君臨して感情をあらわにすることをつつしんできたからであろう。

ホンタイジはいくさが上手でなく、戦って必ずしも勝たなかった。すくなくとも戦術家ではなかったが、戦略家もしくは政略家としてすぐれていた。かれは点を得るよりも面を得た。蒙古を手に入れ、朝鮮をおさえつけるなど、広大な領域をえることによって、女真勢力を飛躍させた。

それに反比例して、両党に残存している、明の軍事勢力はいよいよ小さくなった。

(略)

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(略)

ホンタイジは、父のヌルハチが明のポルトガル砲によって騎兵団を攪乱され、その砲弾の破片をうけてやがて死んだことを深く考えていた。

かれは、素朴な女真軍の武装を変えるべく努力した。当初、日本式の火縄銃の導入について考えていたが、やがてその困難を思い、ポルトガル式の火砲にきりかえた。

かれは、火砲を鋳造するにあたって、ひろく技術者を物色させた。

多くは、明軍のなかから連れてきた。監督者も明人だったし、技術指導官も鋳工も鉄匠も明人だった。砲は、たくみに鋳造された。ふんだんにつくられた。

P123ついでながら、明はこのポルトガル砲の威力に感動するあまり、これを擬人化して、

「紅衣大将軍」

とよび、砲身にきざんだが、ホンタイジはこのまねをした。かれは「天祐助威大将軍」と名づけ、おなじく砲身にきざんだ。

女真人は漢人を真似し、モンゴル人は決して真似をしないといわれているが、清の“漢化”とよばれる中国文明への平然たる模倣は、このあたりにも露骨にあらわれている。

他においても、模倣した。

かれは、自分の民族に誇りをもちつつも、他から野蛮人とよばれることの腹だちと気はずかしさしさをかたときもわすれたことがない。

---何をもって野蛮人というか。その点についてのかれの思案は深刻だった。漢人と女真人を見くらべてみて、女真人がとくに野蛮であるとは思えないのである。むしろ容貌や肢体のうつくしさにおいては漢人一般よりすぐれているようにも見える。道義においても、女真人なりの伝統がある。

---一に、服装である。

とかれはおもった。

P124 女真人本来の服装は、明からの輸入品の絹は用いるが、ふつう皮を用い、毛皮を用いる。そおれも手作りで、人によってまちまちであり、見た目にははなはだよごれていた。軍装においてはとくにそうだった。狩人とかわることがなかった。

己巳(一六二九)のとしのことである。かれは勅諭して、
朕、観るに、我国の衣帽一ならず、皆各人、任意に将星皆各人、任意に剏製す。甚だ雅観ならず。
甚だ雅観ならず---どうもかっこうがわるい。このことばに、蛮族といわれた民族の王としてのなやみがよくあらわれている。

この勅諭によってとりあえず貴族や官吏の制服がきめられた。むろんこの場合は明の服制に模倣せず、あくまでも女真服が基調になって、意匠された。

明の官服とはまったくちがっている。袖がほそく、また上衣が寛闊でなく、運動に適しているあたり、大まかに分類すれば、漢人のそれよりも、モンゴル服やそれよりも西方の服装のほうの仲間に入るべきものだった。ともかくも、

「蛮」

であることを捨てるために、ホンタイジはさらに踏みこんで考えた。

---つまりは、女真の婚姻の制がよくないのではないか。

この当時、東方アジアにおいては儒教のみが文明だった。

P125儒教は、書物による思想というよりも、多分に慣習であったろう。慣習こそ文明というべきものだった。たとえば、その文明にあっては、同性は娶らないのである。これこそ文明の基本の一つといっていい。

女真は、日本国と同様、いとこ夫婦すら存在する。儒教においては禽獣のわざとされる。

たとえばモンゴル人にあっては、亡父の妾を相続して恥としない。つまりは継母と通ずることになる。儒教においては、戦慄すべき行為であった。また女真においては、死んだ兄の嫁(嫂)とけっこんすることもしばしばだった。

おそるべき蛮風といわねばならない。嫂は血こそつながらないが、義のきょうだいだのである。義は観念であるための真のきょうだよりもきょうだいたるべきものである。きょうだいが婚するなどは、人ではない。儒教ではそのように考える。しかし女真には右のような例が多い。

朝鮮においては、高麗朝時代までは、この点においてルーズだった。十四世紀末の李氏朝鮮になって一変した。李氏朝鮮は儒教をもって国教とした。これによって婚姻の制も厳格となり、ホンタイジの時代での朝鮮は、もはや太古からそうであったようにこの風が定着している。

庚午のとし(一六三〇)七月、ホンタイジは勅して言った。以後、マンジュの男子は、継母、伯母あるいは嫂との婚姻を永久に禁ずる、と。

皇后の記19 20:29兼葭蒼蒼40:10~義母、伯母、叔母など親族の女を娶ってはならぬ(tw)


皇后の記37 27:50~遺詔「荘妃がドルゴンに嫁ぐことを禁ず」(tw相参)
38 28:16~清とフリンを守るため求婚を受け入れる35:20~輿入れ準備、周囲からは反対の声
39 02:05~保留3906プロポーズを承諾
40 03:00~フリンの一言で婚儀中止もその夜18年の恋が実る(tw相参)17:05数年後フリン青年
37           38           39          40

『中国の歴史9 海と帝国 明清時代』ブムブタイとドルゴンのレビラト婚(tw)は史料の裏付けなし(P707相互参照)

P126 さらには、同姓の同族は婚姻してはならない、とした。もし違う者があれば、男に対して姦をもって処断する。
夫れ、明と朝鮮に皆礼儀の邦なり。故に同族、従って婚娶せず。
ホンタイジは、このようにいう。すでに朝鮮を押さえこみ、大明国に対して兵威を加えつつも、この両国が文明国であることを、勅諭のなかでみとめているのである。

ともかくもホンタイジが、明を模倣し、みずからの国の俗から蛮性を除こうとつとめた。(略)

皇后の記14 13:41~祖大寿裏切る(相互参照)19:53~後金の民は学問を学び漢人のように礼節を身につけること(tw)
皇后の記15 02:06~明の六部制を導入(寧完我の提言)


P128 (略)
P458
P460それ以外に、この大陸を統治する方法はないと思っていた。

なにぶん女真人は少数民族にすぎない。山野に狩りする者、河川に漁をする者をこぞって、男女五、六十万人にすぎないのである。

わずかその程度の少数でもって大海のようなこの大陸をおさめるには、ことごとく辮髪をさせ、したがわぬ者を斬る。つまりは、辮髪させることによって、みな清人にさせてしまうほかない。まことに単純な黒白方式だった。

皇后の記35 37:51~ドルゴン「帰順した以上、まずは辮髪にしてもらう」(tw)


ただし、それ以外は、中華の風を大いに興す。また学問をさかんにし、漢土をして古の聖人といえどもなしえなかったほどの地にしたいと睿親王は決意していた。

「方針は、これあるのみ」

と、睿親王は、女真人の脳も帰化漢人の脳も、この方針一色で染め上げようとしていた。

庄助も、むろんその方針については聴き知っていた。

ただ、当初、その方針のあまりにも単純なことに疑念をもちもした。しかしいよいよ山海関に入り、北京城にせまる途中、李自成軍を追撃しつつ、投降兵や農民の髪を薙ぎ払ってゆくあざやかさをみて、方法が単純であればこそ政治的に効果があると思えるようになってきた。

P461庄助がもっとおどろいたのは、北京郊外で女真軍および付属する漢軍が地をおおうようにして密集しているときだった。

この日、五月一日であった。

北京城にあっては、この二日前に、李自成が武英殿で登極の大典をおこなったばかりだった。

城外の睿親王は、そのことも知っていた。さらには城内に一兵も李自成軍が存在しないことも知っている。

睿親王は、はるかに城頭をのぞむ高所に馬を立て、なにごとかがおこるのを待った。背後に、麾下の軍が、粛然としずまっていた。

礼教というものが演劇的であるとすれば、睿親王ほどそのことを心得た者は史上まれであったかもしれない

このときのかれは史上最大級の脚本家であり、演出家でもあった。さらには、主演役者でもあった。舞台は、眼前の帝都の城壁と、それにつらなるひろい郊野そのものであった。

また、演劇の主題は、儒者の好む道義というものなのである。

むろん、異民族による征服に真の道義などありえない。そのことは、儒学にあかるい睿親王はよく知っていた。

P462だからこそ、芸術的に道義を表現しようとしていた。睿親王にすれば、いわば義によって毅宗皇帝の仇を討ったのである(tw)。

皇后の記35 18:50~明滅亡の報せ   36 12:10~北京入城
     

当然、北京城の土民はこぞって睿親王と麾下の満韃子を義軍として迎えねばならない。筋は、そのようになっている。

さらには睿親王はぬかりなかった。そのように事が運ぶべく、数刻前に、清軍よりぬきの別動隊をひそかに入城させておいたのである。その兵たちは、宮廷に文武百官をあつめて、かれらを恫喝---あるいは慰撫もしくは説得---したはずであった。文武の百官は、救世のにしとして睿親王と清軍をむかえざるをえない。

そのためには、

---あとえ四十日にせよ、闖賊に仕えたことはゆるす。また闖賊に登極の大典をあげさせた罪も問わぬ。かたく約束するが、一人のこらず、官にとどめる。

という旨を言わせておいた。

(おそらく、かれらは来るだろう)

と、睿親王は踏んでいた。

来た。数百という亡明の大小の官僚たちが、城門から吐き出されて、ひとすじに進んできた。

P463古典をよく暗誦し、この世でもっとも賢いといわれている人達が、争ってわれさきにと歩くために、どこか客を迎える娼婦のむれのようにみだらがましかった。

やがてかれらは、睿親王の馬前でひざまずいた。

馬上の睿親王は、大声を発した。

「コノタビノ大喪(皇帝の喪)、ツツシンデ之ヲ悼ム」

ただし、この女真の王子の漢語は、よき音とはいえなかった。このため、ひとびとはなんのことをいわれているのかわからず、たがいに顔を見あわせた。

なかには、意味を聴きとった者がいて、それをささやいて教えた。ひとびとは点頭し、なかには目がさめたような表情をする者もいた。わずか四十日前ながら、毅宗皇帝が縊死したことなど、はるかむかしのことのように思われた。それほどこの四十日間に、さまざまなことがあった。

本来、喪に服していなければならならぬ百官は、そういう服装すらしていない。なにしろ二日前に、牛金星に指揮されて国家としてもっともめでたい登極の大典をあげたばかりなのである。

まことにこの錦衣のひとびとは、いそがしかった。鞠躬如として、睿親王を北京城にむかって案内した。つまりは、筋書きどおりに事が運びはじめた。
(わたしの北京50万年(第20話)ドルゴンと順治帝――清(参照
順治元年の5月2日に清の大軍を率いて北京に入城したドルゴンは、翌日つまり5月3日には、明朝に仕えた漢族の文官、武官をすべて明朝時代の待遇のままで留用する通告を出しています。

 続いて4月には、自害した明朝のラストエンペラー崇禎帝をいたみ、官民あげて3日間、喪に服することを決めました。この喪があけると、すぐに使者を孔子廟に送って孔子を祀り、翌年にはみずからも孔子廟に詣で、儒家に代表される漢族の政治と文化を重んじる姿勢を鮮明に打ち出しました。

皇后の記44 07:30~孔子廟修繕(tw)
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