2020年11月4日水曜日

偏愛メモ 海東青・摂政王ドルゴン

P37葬儀の後、会議がはじまった。

皇后の記02(tw)     03           孤高の皇妃39(tw)    40(tw)


一族の成年男子が、宮城の一殿に集められた。その他の者は、殿宇の前の広場で、固唾を吞んで待ち受ける。

予想どおり、汗の候補はダイシャンとホンタイジに絞られたようだ。そうなれば、ホンタイジが有利なことも、誰の目にもはっきりしていた。なにより、ダイシャンの息子のヨトがホンタイジの支持にまわったのが大きかったという。

彼らが会議の間に、裏でどう働いたかはさだかではない。

ただ、紛糾するかとみえたその場で、ダイシャンが自ら、候補から降りることを宣言したことだけが、はっきりとだれの目にもわかったことだった。噂を信じれば、ヨトたちが、最後までホンタイジと争って禍根を残すより、いさぎよく譲って恩をきせるほうが方が得策だと説いたことになっている(そういう考えもあるか)。

騒動の輪の外縁に立つドルゴンには、微妙な人の動きが見えている。ダイシャンの辞退が、それほど単純な動機からではないことも、おぼろげながらわかっている。

強い者になびいたと見たがるのは、人情というものだろう。だが、ただ相手の勢力をおそれて引き下がったといわれるのでは、情けない気がしないでもない。損得勘定でも、やはりやりきれない思いが残る。

P38ただの意地だとは、ドルゴンにもわかっている。ダイシャンが大汗になるにしろホンタイジが権力を握るにせよ、ドルゴンは膝を屈さなければならない。だが、噂の範囲にしろ、ヌルハチの後継者と目された彼が頭を素直に下げれば、人々はやはり、権力に媚びたと思うだろう。

母を殺され、位を奪われても唯唯諾諾と従っている腰抜けだとは、ドルゴンも思われたくない。いや、人が思うのには耐えられるかもしれないが、自分自身をだまし続けられるだろうか。本来は自分が大汗であったという意識をおさえて、忠実な臣下として仕えられるだろうか。

ホンタイジとは二十歳近くの年齢差がある。兄弟として直接、遊んだり語り合ったりした経験は、ほとんどなかった。つまり、ホンタイジという人間を、ドルゴンは今までよく知らないままできていた。ホンタイジがなにを考え、なにを好み、なにを疑うのか、大汗になってなにをしようと考えているのか。

そして---(私はどうすればいいのだろう)・

ホンタイジを、兄としては尊敬している。だが、主君としては仰げるだろうか。彼の手足となれるだろうか。また、ホンタイジがそれだけの器量をもっているのだろうか。仮に---。

P39仮にドルゴンが成長した時、彼の器量がホンタイジより優れていたとしたら。

(頭を下げていられるだろうか。叛心を起こすことはないと、いいきれるだろうか。それを、ホンタイジに悟られずにすむだろうか)

ホンタイジが小心で猜疑心の強い男なら、ドルゴンたち、烏拉納喇氏系の兄弟たちをただで放置はしないだろう。

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(随時更新)

第二章 墨尔(爾)根載青(P59-113)
P75ドルゴンの囮部隊のために、足の速い馬を選び出し、数をそろえたのも彼だった。

「ご武運を」

その祈りが効いたのだろうか。

リンダン汗の軍勢とドルゴン麾下が、なだらかな草原地帯で接触してまもなくだった。懸命に逃げるドルゴンを追うのに夢中になったチャハル軍は、横腹から両黄旗の突撃をうけて、あっさり算を乱して逃げた。

もっとも、逃げることを恥としないのは、騎馬民族の常だ。不利となればいったんその場を離れ、態勢をたてなおして捲土重来をはかる---それが常識である以上、そしてリンダン汗が生きている限りは、負けたことにはなれない。

とはいえ、ホンタイジの親征は成功したのも、また事実だった。そして、その勝利がドルゴンの献策に拠ったことも、だれの目にもはっきりとしていた。意気揚々と凱旋したホンタイジから、ドルゴンが与えられたのは、

墨尔(爾)根載青(メルゲンダイチン)」という称号だった(後述)。

メルゲン(メレゲン)とは、女真のことばで、本来は騎射を能くする者という意味である。転じて、聡明な者をさすようになった。ダイチンはモンゴル語が語源で、統率者を意味する。

(略)

P82 問題は、ホーゲの荒れ方だった。
「難しいお立場にあるようですから」
と、曹振彦がぽつりといった。
「宸妃の件だな」
とは、ドルゴンは勘づいていたが、口にはしなかった。ヌルハチに大勢の妻があり、大勢の男子の間で複雑な継承問題が起きたように、ホンタイジにもまた大勢の妻がおり、そろそろ問題が起きはじめていた。

ホーゲはホンタイジの長子だが、生母はホンタイジの正妃ではない。ホーゲの母は同じ女真の烏拉納喇氏、ホンタイジの正妃は、モンゴルのホルジン部の台吉(頭領)・マングスの娘、博尔済(爾濟)吉特氏である。

ヌルハチがホルジン部と手を結んだ時に、盟約の一環として嫁いできた女性だ。政略結婚というわけだが、ホンタイジは博尔済(爾濟)吉特氏を大切に扱った。

女真族にかぎらず、騎馬民族にとっては、モンゴル族は一段上の貴種と見られていた。かつて、東は中国から西はアラブ、スラブまでを支配した大帝国の末裔の、しかも部族の

P84 頭領の娘である博尔済(爾濟)吉特氏が、ホンタイジの妻たちの中でも一段格上に扱われるのは当然だった。もしも博尔済(爾濟)吉特氏に男子があったら、年齢の長幼に関係なく、その子がホンタイジの後継者とみなされていただろう。

幸か不幸か、博尔済(爾濟)吉特氏には女子しかいなかった。他の庶妃には何人かいても、ホーゲより年少で、ホンタイジの信頼もさほどではなかったから、彼の立場も安泰と思われていた。

ところが、数年前---正確には天命十年(1625)に、ホルジン部はさらに二人の少女をホンタイジの妻にと送ってきたのだ。先の博尔済(爾濟)吉特氏の姪にあたる姉妹で、ことに姉の方は淑やかで、音曲に優れていたという。

皇后の記06 14:30~ホンタイジ、ユアル(ブムブタイ)婚姻(tw)、45:41~女真の3国を滅ぼしたイェヘの王女の悲劇の逸話(tw)
皇后の記07 07:32~凡人は大志を知らず(燕雀安知鴻鵠之志)(tw,tw)13:04~鄭伯、段に鄢に克つ16:00~酔いどれドルゴンの始まり(tw)39:00ドルゴン休羅王木倧(李倧)(tw)
皇后の記09 22:00~ドルゴン、墨尔(爾)根載青の称号を与えられる(前述)35:22酔いどれドルゴン
06           07           09


ホンタイジは即位したあと、この博尔済(爾濟)吉特氏の姉妹のうち、姉を関雎宮に住まわせ宸妃(tw)に、妹を永福宮に入れて荘妃に、それぞれ封じた。ことに姉の方を寵愛して、関雎宮に長居しすぎて政務に遅れるということまであった(後述)。

帝王の後宮は、明なら厳密に外と隔絶されていて、他の男が姿を見ることは決してないといっていい。だが、騎馬民族のの場合、婦人が馬に乗り外に出ることもある。狩りに同行することも珍しくなく、その分、外部の人目に触れる機会も多かった。

博尔済(爾濟)吉特の姉妹が盛京へ到着したころ、ドルゴンは、母・烏拉納喇氏の膝下で生活していた。だから、実は、ほんの一瞬だがふたりの顔を見ている。目の切れ長な、特徴的な美貌を持つ姉妹だった。

P85姉の方がどちらかといえばおっとりと優しく、妹の方が勝ち気で犀利な印象があった。後で、姉の方がホンタイジの寵愛をもっぱらにしていると聞いて、なるほどと納得したものだ。

ちなみに、他にもホンタイジは淑妃、貴妃をおいて、それぞれ宮に住まわせていたが、全員、博尔済(爾濟)吉特氏の出身である。母親の出身が、相続にも大きくものをいう騎馬民族で、烏拉納喇氏の母を持つホーゲの立場は、不利である。そのいい例が、ドルゴンたちだったのだ。

博尔済(爾濟)吉特氏の宸妃は、このたび、男子を出産したという。

(随時更新)

P86袁崇煥、毛文龍/ 88/ 90/ 92/ 94

第三章 建国賦
P115それまで、金の版図は、漠然としたものだった。遼東の北から、黒竜江あたりまでが南北の範囲ならば、西はチャハルのリンダン汗の軍と接触するあたりが、だいたいの国境だった。

そもそも、移動の多い騎馬民族にとって、国境線などあまり意味がなかったし、山の稜線も大河もない平原に人工的に線を引くのも困難なことだった。

「だが、チャハルとの間は、捨ておくわけにはいかん」

ホンタイジは、どうしてもチャハルのリンダン汗は除いておく必要があると決心していたのだ。天聡六年(一六三二)、ホンタイジはふたたび、チャハルへ親征を開始、ドルゴンら三兄弟に、済尔哈朗らがそれに同行を命じられていた。

P116リンダン汗が、敵対する蒙古族の諸部に攻めかけているという報告がはいったのだ。ジルガランはシュルガチの第六子、先年、幽閉処分を受けたアミンの弟だから、ドルゴンたちにとっては従兄弟にあたる。

アミンが幽閉された後、シュルガチ家の相続を認められて当主となった。本来なら、鑲藍旗を受け継ぐ立場だが、鑲藍旗はホンタイジに没収されてしまっている。

ちなみに、正藍旗の旗主だったのは、ヌルハチの第五子、ホンタイジたちの兄にあたるマングルタイだった。だが、マングルタイは先年の大凌河城攻略の際、緒戦の失敗と兵糧攻めに不満で、長兄ダイシャンとともに引き上げを主張し、ふたたび、ホンタイジと激しく対立した。そのため、直後に王兄の称号を剥奪され、加えて五牛彔(千五百人)を没収されてしまった。

五牛彔といえば、一族の五分の一にあたる。戦力としては、相当な痛手である。翌年のマングルタイの病死は、それを気に病んだものとされた。

ただ、たしかにマングルタイのは気に病んでいたが、それは兄をないがしろにして、独裁体制を整えていくホンタイジに対しての不平不満にちがいなかった。マングルタイの死は、一種の憤死だった。

マングルタイの死後、正藍旗は当然のようにホンタイジが没収してしまった。これで、両藍旗はホンタイジのものとなった。つまり、満洲八旗の半分が彼の麾下にはいったということだ。

P117武力でホンタイジに勝る者はすでになく、ダイシャンをはじめとする兄たちも、臣下の礼をとるようになっていたのだ。(略)

一説には、ダイシャンの息子でありホンタイジ派でもあるヨトらに説得され、いやいやながらこの件を申し出たという。断れば、ホンタイジに絶好の口実を与えてしまうのだから、仕方がない。自分から先にへりくだっておくことで、正・鑲紅旗を守ろうとしたともいえる。

「国のかたちとは、こういうものだ」

一部から、女真族本来の、合議制から逸脱しているという不満の声があがっているのを、ホンタイジも知らないわけではなかった。その声が、ダイシャンを中心とするあたりから聞こえてくることを差し引いても、たしかに、民族の伝統からも父・ヌルハチの遺志からも外れていることは、十分自覚していた。

「だが、今までのやり方では、だめなのだ」

なにがだめなのか、ホンタイジもことばにするのは得手ではない。ただ、

P118「アミンのように、自分だけの利害だけを考えていては、わが国はふたたび、弱小化するしかないだろう。また、明に攻め入るにしても、ただ略奪して人や財産を奪ってくるくるだけでは、金は栄えない。明が衰退すれば、金も滅びるしかないとしたら、わが国はわが国ではなく、やはり明の属国ではないか」

つまり、自立した国になるためには、版図を広げ、そこに住む人々の生活を安定させ、生産力を上げる必要がある。

アミンらが罪に問われた理由のひとつに、占拠した先で、むやみに土地の住民を殺したことがあげられている。その土地を恒久的に統括するという発想がないから、朝鮮においても明にあっても、その土地の住人はただの邪魔者でしかない。そうなると、住民たちにとっても、アミンらは侵略者--敵でしかない。

住民の生命財産を保護してやることで、統治者としての信頼と尊敬を得、税を徴収し兵として働かせることができる。それがホンタイジの考え方だ。

ホンタイジはまた、捕虜に対しても寛大な処置をとっていた。多少、意図して寛大なふりをしていたふしもあるが、とにかく、降伏、帰順してくる者は、生命を安堵し、それなりの待遇を用意している。それがまた、後から降伏してくる者の精神的負担を軽くし、人材が集まってくるようになるのだ。

いい例が、先年の祖大寿の件で、結局、彼にはまんまと逃げられてしまったことが、かえって金に仕える漢人たちのホンタイジに対する評価をあげている。祖大寿を信じ切ったホンタイジは懐の深い名君で、それをだました裏切った祖大寿は卑怯者という判断なのだ。

皇后の記14 13:41~祖大寿裏切る(相互参照)19:53~後金の民は学問を学び漢人のように礼節を身につけること(tw)
皇后の記15 02:06~孔有徳、耿仲明が帰順(後述)明の六部制を導入(寧完我の提言)(後述)


P119また、祖大寿は単身で逃げたため、その配下はそっくり、金の中に取り残された。その中には祖大寿の養子の祖可法もいたのだが、彼も祖家軍もみな、そのまま金軍の中に編入されて、問題にもなっていない。

ホンタイジは、明ではすでに見られなくなっている「君主の理想像」のひとつを、官人たちの前に体現してみせる存在だったのだ。また、明と対等に伍していくためには、ホンタイジは、漢人の国の君主に似ていかざるを得なかった。

明に依存するのではなく、交易するにしても対立するにしても、対等の立場にならなければ、金の将来はないとホンタイジは考えていた。もちろん、それには権力の中央集中が不可欠であることも、その中心になるのは自分だけだという自覚も、あったにちがいない。

それが、女真族の伝統とすこしずつくいちがっていくのも、しかたのないことだったし、逆に古い考え方の連中との溝が深まるのも、当然のことだった。ホンタイジは、おのれとおのれの思い描く国のかたちの障害物となる者たちを、次々と処分するしかなかった。そうした上で、ようやくチャハルの攻略に本格的にとりかかったのだった。

P120だが、この時の親征では、たいした収穫はなかった。リンダン汗は、ホンタイジが来ると知ると、途上で略奪をしながら、西にむかって逃げてしまったからだ。

「帰化城(現在のモンゴル自治区フフホト市)が襲われたらしい」

という報告を聞いて、ホンタイジ軍が駆けつけた時には、リンダン汗とその一族の姿はさらに西に消えて、消息もつかめなくなっていた。

なにしろ、もうこの土地は広い。

カルカ部、ボルジン部など、盟約を結んでいるモンゴル族の軍もふくめて十万の大軍でこれまで捜してもきても、リンダン汗を捕捉できなかったのだ。さらに西の土地は、おなじモンゴル族の者たちにとっても、あまり馴染みのない土地であったし、ホンタイジにとっては、未知の土地といってよかった。

「都をあまり長い間、空けておくのもよくなかろう」

なにしろ、遼東には祖大寿がまた舞いもどってきている。積極的に盛京を攻めよせてくるようなことはないが、どんな策動をしてくるかわからない。マングルタイは清だが、先年、幽閉処分にしたアミンはまだ存命だし、ダイシャンも不満を抱えている状態では、油断は禁物だ。

P121ホンタイジはいったん、兵を引くことにした。ところが、皮肉なもので、撤兵したとたんに、リンダン汗が死去したらしい---という噂が流れてきた(後述)。

「いかがなさいます。噂を確かめましょうか。リンダンの一族の動静も、まだ不明ですが」

リンダン汗には、額哲(エジェ)という息子がいる。

リンダン汗が没したとしても、エジェが後を継げば、また金の版図を荒しに舞いもどってくるだろう。だが、訪ねたドルゴンに、

「いや、もどろう。一応の成果はあげたのだ。一度に、なにもかも手にいれるのは、無理だ」

あっさりと決めて、ホンタイジは予定通り、盛京へ帰還した。少なくとも、帰化城までは金の勢力範囲に確実に収めることに成功したのだ。さらに、リンダン汗の死が確実ならば、焦る必要はないわけだ。

ホンタイジには、さらに朗報が待っていた。天聡七年(一六三三)には、かつて毛文龍の下で有力な武将だった孔有徳、耿仲明(前述)が帰順を申し出てきたのだ。彼らは、明にとっても金にとっても、海賊の一種ではあったが、

P122また、けっしてあなどれない軍事力の所有者でもあった。毛文龍が袁崇煥によって処刑されたあと、一応、明に帰順したのだが、結局、明の生え抜きの武人らと衝突して、山東で反乱を起こした。

当然、明の朝廷は討伐軍をさしむけてくる。それにさんざん負けて、ついに金に身を寄せる気になったのだ。だが、敗軍とはいえ、彼らの兵力はけっしてあなどれないものがああった。さらに、ホンタイジを喜ばせたのは、彼らが持っていた武器と、大量の軍船だった。

騎馬の民の女真族は、当然のことながら海を苦手としている。船もほとんどないし、船を操る技術もない。そのために、朝鮮を攻めこんだ時、江華島にこもった朝鮮王をついに捕らえることができなかった。

孔有徳、耿仲明のふたりは、金に水軍を持ちこんだのだった。当然、ふたりは厚遇を受けた。

孔有徳は都元帥、耿仲明は総兵官に任じられる。身分は和碩貝勒と同等というから、王族扱いである。この時、ドルゴンでさえ貝勒の地位にしかなかったのだ。のちに、ふたりはさらに累進を重ねて、王に封じられるまでになる。

この翌年には、いまひとり、後に王に封じられる尚可喜が帰順してきた。やがて、耿仲明と尚可喜の子孫に、呉三桂を加えて、王に封じられた三家を三藩と呼ぶことになるのだが、それはもっと後の話となる。

P123ともあれ、金はホンタイジのもとで、確実に隆盛にむかっていた。

「帰化城へ向かうよう。岳托(ヨト)と薩哈廉(サハレン)を連れて行け。それから、ホーゲもだ」

ドルゴンがそう命じられたのは、天聡九年(一六三五)の二月のことだった。「ホーゲとともにですか」

ヨトとサハレンは、とも次兄・ダイシャンの子で、ドルゴンにとっては甥にあたる。ホーゲもまた、ドルゴンの甥にはちがいないわけで、世代の順からいえば、この顔触れのなかでもっとも目上の者はドルゴンになる。

実際、この遠征軍の大将軍は、ドルゴンだった。

だが、実際には、ホーゲはドルゴンより三歳年長で、扱いにくい相手だった。しかも、身分としては、ホーゲは天聡六年(一六三二)に、貝勒より上位の和碩貝勒に進み、ドルゴンよりも上位の身分になっているのだ。

さらにホーゲにはホンタイジの長子であることを、常に他人に意識させる風があった。早い話が、だれに対しても上位に立ちたがり、威張るのだ。

ドルゴンはこの年、二十四歳。ホーゲは三歳年長のニ十七歳。ホンタイジは四十代なかばの男ざかりで、後継者を取り沙汰するにはまだ早い。しかも、女真族の風習では、生前から後継者を決めることはない。

P124ホンタイジに万一のことがあれば、ヌルハチの没後と同様、一族の者らが集まり、話しあって、次の大汗にふさわしいと思う者を選ぶのだ。今からホーゲが、太子づらをして権勢をふるっても、あまり意味はないし、逆効果になる場合がある。

ヌルハチの長子、ドルゴンたちの長兄にあたるチュエンが廃されたのも、ヌルハチの後継者として僭越のふるまいがあったからだ。だが、ホーゲにしてみれば、危険を冒してでも、そうやって今から既成事実を作っておくつもりだったのだろう。

むろん、外征で功績を立てておくことも、その「事実」のうちの重要な要素であり、出兵を命じられて、気負っているという。当然、主導権をとりたがるだろうし、ドルゴンの統制に従うとはかぎらない。いや、十中八、九、衝突するにちがいない。

「仕方ありますまい。いまさら、ホーゲどのをはずせと、上に申しあげるわけにもいきませんし」

曹振彦のいうことはいつも正論だ。

「目先の手柄など、譲ってもよいのではありませんか。小爺の値打ちは、戦場での働きだけではありません。むしろ、他の方々ではできないことを、なさらねば」

「とはいえ、みすみす、目の前で手柄を取っていかれるのも…」

「まあ、それは、手柄をたててから考えてもよろしいのでは。今回は、リンダンの生死の確認と、息子のエジェの探索が目的ですから、大きな戦にはならないでしょうし」

P125これまた、正しい。

それでふと、ドルゴンは思いついた。

「リンダンが死んだとしたら、その子はどこを頼るだろう」

自分がエジェの立場だったら。

女真族もモンゴル族も、騎馬民族であるかぎり、似通ったところがある。一見、男中心の社会のようでいて、母親の出身の一族の力というものが、かなり強いのだ。要するに、生母の実家の格と勢力とで、子の地位も違ってくる。

女真族の中でも名家中の名家、葉赫納喇(エホナラ)氏を母に持つホンタイジがヌルハチの後を継いだのがいい例だ。逆に、子がなにか困った時に頼るのも、母方の一族だ。

「エジェの母は、たしか---」

「葉赫(エホ)部ぼ貝勒の娘、蘇泰(スータイ)と聞いています」

女真族の女だ。

「その一族は、皆、上に仕えております」

「尋ねれば、消息の一端ぐらいはつかめるかもしれない。いや---」

戦いをせずにエジェを下すことは、できないだろうか。エジェとともに逃げているスータイを、その一族に説得させるのだ。スータイは女真の人間だから、金に帰順するのに否やはないだろうし、リンダン汗がすでに没しているなら、エジェは案外、母親の意見に耳を傾けるのではないだろうか(後述)。

P126「やってみましょう」

ドルゴンが考えを話すと、曹振彦はうれしそうにうなずいた。

春にむかう草原を旅するのは、決して楽ではなかった。だが、この季節をはずすと、草原地帯というのは、案外、飲み水に苦労するのだ。

どこまでも続く草の海の中で、やがてリンダン汗が前年、病死したことが確実となった。後をついだ息子のエジェは、

「千戸をひきいて、托里図(トリト)に隠れている」

ドルゴンが張った情報の網の中には、そんな話も入ってきた。一万の兵を率いながら、すぐにそこへ急行しなかったのは、その前に、周辺の族長のひとり、索諾木( チェノム)が協力を拒んできたからだ。

「征してしまわないと、あとあと、面倒なことになるぞ。痛い目に合わせて、二度と逆らおうなどという気にさせないことだ。そして、その勢いでエジェをつぶしてしまえば、モンゴルは全部、われわれのものになる」

逸るホーゲを、ドルゴンは止めなかった。

ホーゲに戦わせておく間に、托里図(トリト)へと説得の使者を送っていたのだ。

P127一万の軍で、チェノムの千五百戸に勝つのは、たやすいことだった。勝って、意気のあがるホーゲを横目に、ドルゴンは勝敗がつくとみるや、托里図(トリト)へ向かって出発した。

征途、ホーゲとなるべく衝突しないよう、功を譲ってきたため、ホーゲもドルゴンの動きには甘くなっていた。ホーゲがドルゴンの軍に追い着いた時には、ドルゴンはすでに托里図(トリト)に入り、エジェから降伏のあかしに、彼がうけついだ印璽などを受け取っていたのだった。

「出し抜いたな」

ホーゲはつかみかからんばかりになって、ドルゴンの天幕へやってきたが、

「そういうわけではない。戦を極力、避けただけだ」

静かに笑われて、気がそがれたようだ。

「戦を避けただと?」 「一万の、ほとんど孤立した軍で、そう何度も戦ができるものではない。戦をすれば、その分、兵が死傷するし馬も武器も減る。チェノムと戦をしたら、それ以上は無理をしないのに越したことはないと思って、エジェに使者を送って説得してみたら、案外あっさり納得してくれた」

ほんとうは、それほど簡単なものではなかった。生命、財産の保全は当然のことで、さらに配下の人間たちの安全、金における地位の保証など、あらゆる約束にドルゴンは責任

P128を持たねばならなかった。ホンタイジと直接、連絡が取れない以上、すべての交渉の責任は、ドルゴンが負わねばならなかったのだ。

ホンタイジならこんな場合、どう判断するか、考えた結果がこれだったし、その答えにまちがいはないという確信はあったが、いざ、自分の生命をかける賭けるとなるとためらいが出る。戦で死ぬことは覚悟しているつもりでも、こんなところで生命を落とすかもしれないと思うと、やはり足がすくむ。それでも、ドルゴンは自分の判断に賭けることにした。

ホンタイジが、ドルゴンの処置を認めずエジェを厳しく処断したら、それでドルゴンは否定されたことになるのだ。ホンタイジがその気になれば、それこそ僭越のふるまいかあったとして、ドルゴンを罪に問えばそれですんでしまう。

その疑心暗鬼にとらわれながらも、それでもドルゴンはエジェとその母を説得し、彼らが保持していた印璽を提出させた。ホーゲは、一連の説明を、不服そうな顔つきで聞くだけ聞くと、

「おまえは---いやな奴だな」

心底、嫌そうな顔をした。

「敵は、力でねじふせるものだ。でなければ、相手はなぜ負けたのか、理解できない。理解できなければ、また背くぞ」

「エジェは、得心したのだ。無理強いはしていない。あとで背くようなら、ここで徹底的に戦っているだろう。その選択の余地は与えた」

P129ドルゴンは落ち着いていた。少なくとも、自分も迷ったことは、ホーゲには知られたくなかった。自分が熟考の末に達した結論には、けちをつけられたくなかった。

「すでにエジェは印璽をさしだしている。問題はないだろう」

「印璽---伝国の印璽か」

この印璽は、かつて元朝の玉璽だった。上部には龍が絡み合った紐があり、印面には篆刻で「制誥之寶」と彫ってある。元の最後の皇帝・順帝が中原を去る時に携えていたが、砂漠で失ってしまった。

時を経て、遊牧をしていたものがみつけだし、元の末裔に献じた。それが、めぐりめぐってリンダン汗の手にはいっていたのだ。いってもれば、騎馬民族のたてた大帝国の後継者の資格を、この玉璽はあらわしている。

「それを---どうする気だ」

ホーゲにいわれて、ドルゴンは少し驚いた。

「どうする、とは?」

「そいつは、伝国の玉璽だ。それを持つ者は、元の後継者の資格があるわけだ。今、これがおまえの手に入ったのだ---」

と、いったまま、ホーゲは思わせぶりに口をつぐんだ。

「どうする気もない。このまま持って帰って、上にお渡しする。他に、どんな方法があるという」

P130/ 132/ 134
P136 春二月に盛京を出てから、半年以上。草原の中の探索行と、明の領内深くに入っての転戦である。さすがにホーゲまでが、帰化城の城壁を見たとたん、

「疲れた」

と思わず口にしたほどの、きつい旅立った。さらに、帰化城から盛京までもどった彼らを、ホンタイジは手放しで迎えてくれた(後述)。

「よくやってくれた。よく働いてくれた。これで、西の方の問題は、片付いたわけだ」

エジェの手から伝国の玉璽を献上されて、また、大喜びした。

「よく、こんなところまで来られた。そなたの誠意、けっして無駄にはせぬ」

下にも置かぬ歓待ぶりで、降将ではなく、金の貴人として扱った。内諾の形だが、ホンタイジの娘のひとりを、エジェの妻として降嫁させる話まで出て、エジェは、

「よかった。あのまま、草原の果てで朽ちるよりは、よほどよい。ドルゴンどのに従っておいてよかった」

(略)

138
P140 ホンタイジも、ためらうことなく、

「満洲、というのは、どうだ。よい名であろう」

「なるほど」

満洲は地名でもあり、女真人の多くが信仰している文殊菩薩とも、発音が似通っていて馴染みやすい。これまでも、そういう呼び方がないでもなかった。漢人が金の人間を見下した呼び方に、「満韃子(まんダーツ)」というものがある。韃靼というのも、遼東から黒竜江にかけて地方を指す呼び方だった。

「満韃子(まんダーツ)」には、周辺の蛮族という意味合いが強かったためと、金の後継者を標榜してきた経緯上、公式には自分たちを女真族と名のってきたわけだ。

だが、それにも限界がある。

今回、チャハルが帰順してきたことによって、モンゴル族がほぼ、傘下にはいってきた。また、先年の祖可法らをはじめとする漢人も、増えてきている。ここは女真族だけの国ではなくなりつつあるのだ。

そういう意味では、女真族の国の後継者たる「金」の国号も、確かにそぐわなくなっている。その地方に住む人間---という意味でなら、「満洲」の方がたしかにふさわしい。

P141「それで…国号は」

「『』」

目がくらみそうな感覚に、ドルゴンは襲われた。ホンタイジのまぶしいほどに誇らしげな口調にも圧倒されたが、それよりも、あたらしい国号の音の響きと、意味とに感動したのだ。

もともと、王朝の名とは、その始祖が前王朝の時代に封じられていた土地の名に由来する。たとえば、「漢」は劉邦が漢王に封じられていたためだし、「宋」の高祖・趙匡胤は宋公だった。

この伝統を崩したのは、モンゴルの「元」だった。西方からの征服者であった元は、当然のことながら、宋に仕えたこともなく、宋から爵位や封号を与えられるはずもない。「元」の名は、召し抱えた学者たちに選ばせたものだ。

元を追って中華を統一した明も同様で、やはり学者たちが、字義を熟考した上で定めたのだ。今、金が「清」と名乗るのも、それと似たようなものだ。

いや、ホンタイジは意図してそれをなぞろうとしているのだろう。

明と同じように国を興すことで、対等、または、それ以上の国であると宣言しようというのだ。考えようによっては、大胆な計画だともいえる。 (王朝名の由来について→「中国の歴史9 海と帝国 明清時代」(相互参照)P19/ 21/ 23/ 25/ 27/ 29

「よい名であろう」

P142 ホンタイジの自信に満ちた声に、ドルゴンは素直にうなずいた。「それで、他になにを改革するなさるおつもりですか」問い返されて、また、ホンタイジは鷹揚にうなずいた。

「朝廷の制度を、明に倣う。といっても、そっくり真似るわけではない。基本的な三省六部の制度はすでに取り入れているのだから(前述)、それをさらに我々に合うよう整備する。漢人や蒙古を管轄する組織も、別に作らねばならないだろうな」

いままで、降伏してきた漢人らは、戦利品として包衣(家奴)にしてきた。やがて、金が強くなるにつれて、将官が帰順してくるようになったため、習慣を変えざるを得なかった。

彼らは、捕虜でも敗者でもないのだから、それなりに礼をもって遇する必要がある。すでに、天聡五年(一六三一)に、祖大寿を除く祖家軍を麾下に収めたのをきっかけに、漢軍が設置される。

モンゴル族もまた、今回のエジェの帰順によって、完全にホンタイジの支配下にはいった。こちらもまた、満洲族とは別の編成にすることになる。満州族の八旗制度は、全員を軍籍に入れて、いざという時には成人の男を全員動員する。

その制度を、漢人やモンゴル族にも援用すること、漢人やモンゴル族を国の成員として認めることによって、金という国が満州族単一のものではない---世界帝国を造り上げた元の後継者であり、同時に明に匹敵する漢人の国にもなるのだった。

P143そのあたりのホンタイジの目配りは、ぬかりがない。

(略)

P144
P147国号を「清」と改める旨の公布とともに、元号が「崇徳」と改められたのは、翌年、天聡十年(一六三六)の四月のことだった。同時にホンタイジは、諸貝勒に推戴される形で「皇帝」を称することを宣言した。

推戴の先頭にたったのは、伝国の玉璽を捧げ持ったエジェだった。「大汗」ではない。「皇帝」となると、すべてが---儀式の細部から、ホンタイジの一人称まで、すべてが変更となる。

皇后の記16 07:10~ハルジョルを気にかけるホンタイジ30:15~チャハル降伏説得(前述)39:00~玉璽
皇后の記17 17:24~アジケ、陳橋の変を真似てドルゴンに皇帝になるように迫る(tw)43:00~ホンタイジ、ドルゴンたちを迎える(前述)
皇后の記18 18:36~ホンタイジ皇帝に(tw「清」の名の由来前述)44:28~妃嬪の冊封(前述)
16            17           18


朝廷の機構改革も、あわただしく行われた。職や位なども、次々と変更がくわえられ、新しい身分や仕事がドルゴンの上にもふりかかってきた。

崇徳元年(一六三六)となったこの年、ドルゴンもまた、和碩親王に封じられた。

和碩とは、もともと「角」の意味で、和碩親王は、九等に分けられた爵位の中でも、第一等に置かれている。和碩親王に封じられた者は、ひとりひとり、親王号の前に、各自にふさわしい呼称を与えられた。

たとえば、アジゲは英親王、ドドは予親王、ホーゲは粛親王、兄弟のうちで、もっとも年長のダイシャンは、礼親王。

ドルゴンは睿親王の名を与えられた。墨尔(爾)根載青の称号を、そのまま漢風に移したのだ。

P148 彼には、これがもっともふさわしい名だと、だれもが思ったのだろう。

すでに、彼は六部のうちの吏部尚書---つまり、朝廷の官吏の人事を司る役目も命じられている。

「たった二十五歳で、吏部尚書となった例は、漢人の歴史の中にもあまりいないだろう」

と、ドルゴンは曹振彦に皮肉まじりに笑ってみせた。

実務のほとんどは、下につけられた満洲人と漢人の官吏たちが行っていたわけだが、人事と賞罰の権限はドルゴンが握っている。そして、その裁可の厳しさと正しさは、そろそろ人々の注目するところとなっている。

彼がホンタイジの下についた経緯を知っているだけに、人々には、ドルゴンがまだ十五歳の少年のままであるような錯覚がある。何度か遠征し、功績も立てているのだが、それでも、ホンタイジの指示どおりの傀儡という印象が強かったのだ。

だが、気づいてみれば、すでに彼も二十代半ば、ひょろりと背ばかり高かった少年は、すばぬけた長身の精悍なおとなになっている。同母兄弟のアジゲやドドにくらべて口数が少なく、慎重なドルゴンは、部下からの信頼も厚い。若いだけに処断が厳しくなる傾向もあるが、筋が通っているだけに、なかなか反論できない。

彼が熟考の上に出した裁可には、誰もが納得し、自分の権利を主張する傾向の強い満洲族の男たちの多くが、とにかくおとなしく服するようになった。これは、戦に勝つよりも大きい効かも知れないと、もののわかった者たち---特に、漢人の官僚や漢軍八旗の将官らには見られはじめてもいる。

P149ドルゴン本人は、理詰めで物を考えがちで、なかなか行動に踏み切れない自分の性格を、あまりよいものだとは思っていないのだが、漢人らにとっては理知的で、話のわかる皇族と見られているらしい。そういう意味では、ドルゴンも徐々に自分の味方を増やしていたわけだ。

もっとも、長い間、包衣として彼の私生活まで見てきた曹振彦にいわせれば、

「これで、あとは世継が生まれれば、なんの心配もないのですが」

と、いうことになる。

正妃の博尔済(爾濟)吉特氏との間には、まだ子が生まれていない。実は、博尔済(爾濟)吉特氏の後に、第二妃として佟佳氏を容れているのだが、彼女もみごもる気配がない。その他、庶妃として、何人かの女たちがドルゴンの室に入っている。そういう意味では、ドルゴンという青年は、父親に似たのかもしれない。

権力や金銭には、あまり野心を見せない彼なのだが、女性には禁欲的とはいえなかった。そのくせ、女性に惚れこむこともないのが、彼の不思議なところだったかもしれない。

ドルゴンが手を出す女たちのほとんどが、きりりと整った美貌の持ち主であることに、曹振彦ら、側近の者は気づいていた。だが、概してドルゴンの周囲の女たちは従順でおとなしい者が多く、そうすると男の興味はすぐに他へ移ってしまうのだ。

P150 ホンタイジの方がその点では甘く博尔済(爾濟)吉特氏の姉妹のうちの、姉・宸妃を寵愛するあまり、執務を放棄したことさえある。その点、厳しいようで、ホンタイジの方がどこかふところは広かったのかもしれない。

宸妃は先年、男子を出産したのだが、本来なら嫡子となるべきその子は、二歳で夭逝している。以来、宸妃は体調がすぐれず、次の子どころではないとも聞く。

ただ、そのかわり、最近、妹の荘妃がみごもったらしいという話があって、心中おだやかでないのがホーゲだったともいうが、ドルゴンには今のところ、関係のない話だった。(略)

P151この年の八月、ドルゴンはドドとともに、山海関に攻撃をかけている。ホンタイジが、アジゲたちを率いて北京をうかがう間の、牽制を命じられたのだ。ホンタイジは、また北京に迫りながらも、あと一歩のところで引き返してきたが、ドルゴンの方はその間に錦州を攻めて、多くの将兵を捕虜としてきた。

その功績が認められたのか、戦支度を解く暇もなく、ドルゴンは今度は朝鮮攻めに赴くこととなった(相参)。

皇后の記07 39:00~盟約成立(tw) 華政41盟約決裂    42三田渡       花たちの戦い01三田渡


「今度は朕も出る」

前回---もう十年前にもなる、その時は、アミンらにまかせきりにした結果、朝鮮を降伏させることはできたものの、アミンらの略奪や虐殺行為のせいで、余計な敵意を生んでしまった。

P152 結果、一旦、服したはずの朝鮮が、先年、またしても明に対しての臣属を再開したのだ。当然「清」との関係は悪化している。

それでも、ある程度の関係はたもっていたのだが、それを完全に決裂させたのは、「清」帝国の建国と、ホンタイジの「皇帝」即位だった。

国号を改めたのはともかくとして、「皇帝」を称したことが、朝鮮王には耐え難いことだったのだ。小中華を自認している彼らにとって、「皇帝」は中国の---明の皇帝ひとりしか有り得ない。

武力で屈服させられ、「金」を宗主国と仰ぐのも、「金」が「清」となるのも容認の範囲だが、北狄風情が「皇帝」となり、自分たちの上に君臨するのは許せなかった。

明が第一等の国ならば、その下に来るのは自分たち、朝鮮国でなければならないという論理だったのだ。

背いた朝鮮を、ホンタイジが許すはずがないということも、前回以上の厳しい戦になるということも、予想していたはずだ。それでも、朝鮮はあくまで明に従うことにした。明が、その忠誠にふさわしい国かどうかということは考慮の他だった。

「連中は、自分たちの自尊心を維持するために、自らの国を危うくするのだ。かまうまい。今度は徹底的にたたきつぶしてやろう」

ホンタイジは、そう宣言した。

P153ダイシャンなどは、出費と損害を考えたか、正面きって出兵に反対したが、ホンタイジの決心は揺るがなかった。

清という国にとって、皇帝みずからが出征するのは珍しいことではない。だが、そうなったからには、迎え撃つ朝鮮の方にも覚悟が必要だった。

十年前、朝鮮王家は江華島に逃げ込んで、戦火を逃れた。当時の「金」には、水軍がなかったため、大軍を島へ投入することができなかったのだ。

だが、現在の「清」には、毛家軍の残党の水軍と船がある。残党といっても、数百隻の船と、それを操る熟練した兵たちだ。江華島を直接攻めることも、不可能ではなくなっている。

本来、こういう場合、宗主国が援軍を寄越すものだ。危機の際に守ってまらうための宗主国であり、臣属なのだ。実際、四十四年前、朝鮮が日本の豊臣秀吉に攻めこまれた時には、明も大量の軍を動員して、侵略をふせいでいる。

だが、明にはすでにその力はない。清の勃興と、たびたびの入寇、そして国内でうち続く反乱に、疲弊しきっている。清と遼東で激しく対峙している今、秦の興味と兵力が朝鮮へ向かってくれるのは、歓迎こそすれ、敢えて止めようとはしないだろう。

(これも、漢人のやり方か)ドルゴンはひそかに思った。

P154 (これが、漢人の皇帝のやり方か。小国を犠牲にして、自分たちの安寧を願うのが)

いきどおりではなかった。それも、一種の外交だと知っている。上に立つ者は、ただ誠実でさえあればよいというものではない。

たとえば、朝鮮に援軍を送るというのは、無償の行為だ。版図が増えるわけでもなければ、賠償金をとれるわけでもない。軍備から食料、兵の生命にいたるまですべて持ち出しの戦である以上、明にはすさまじい負担がかかる。

いくら中華の大国でも、何年も続けて戦をすれば、やはり国庫は空になり、人々の生活も荒廃する。属国を救うために、自国がほろんでいては、どうしようもないだろう。

明の援軍がないことを承知で、不必要な戦を招くような判断をした朝鮮国王が悪いのだ。

朝鮮を攻めること自体は、ドルゴンに異存がない。放置しておけば、朝鮮は再び明と手を結んだと称して、後背を衝いてくるだろう。自衛のためにも、朝鮮は確実に清に服属させておくべきだった。

だが、頭ではわかっていても、やはり苦い思いはぬぐいきれない。問題は、朝鮮の「忠誠」を、明が大国の論理で利用し使い捨てにすること、そして朝鮮が、なかなかそれを理解しようとしないことだ。

「力攻めに攻めて屈服させたところで、わかろうはずはない。だが---」

もう、外交と説得でなんとかなる問題ではないのだ。

P155崇徳元年(一六三六)十二月一日、清軍は盛京に集結。二日に出発した軍勢は、ホンタイジを総帥とし、ダイシャン、ドルゴン、ドド、ヨト、ホーゲら、主だった親王らが各軍を率いた。その数、十万。

怒涛のような南下は、その月の九日にはすでにヨト軍が平壌に、トドの正白旗が国都・漢城に迫るという勢いだった。

朝鮮国王、仁祖・李倧は山中の南漢城に逃れて籠城のかまえにはいると同時に、妻子や大臣の家族らを江華島へと非難させた。

それ以前、国境の鴨緑江を越える直前、ドルゴンはホンタイジに呼ばれて、左翼軍を率いて半島西部を南下するように命じられている。

ホンタイジの指揮下を離れ、戦況を見ながらも、左翼軍の全権を任せるとの命令は、そのままホンタイジの信頼を示すものだ。軍の組織の上では、皇帝に継ぐ第二位の実力者としてホンタイジからの承認されたわけだが、そのわりにはドルゴンは苦い表情を隠さなかった。

というのも、

「なぜ、いつもいつも、ホーゲといっしょなのだ」

聞こえないところで、ドルゴンはさすがにうんざりした表情で、曹振彦にこぼした。

P156 左翼軍は、ドルゴンの鑲白旗と、ホーゲが現在、掌握している鑲藍旗によって構成せよとの命令だったのだ。

「チャハルへも、他のところへも--まるでホーゲと対になっているようだ。私とホーゲが決して仲がよくないことは、上もご存知のはずなのに」

ホーゲは、歳下の叔父にとっては、けっして従順な甥とはいえない。まして、皇帝の長子となった今では、自分に命令できるのは父帝だけだと思っている。

「上は--おふたりを意図して競わせておいでのようです。むろん、粛親王のため…を思ってでしょうが」

ホーゲは、「虎口王」の異名を持つほどの猛将である。一武将として、また満洲族の戦士としては申し分ないが、一軍の指揮官としては少々、ものたりない。ドルゴンも数年前の錦州城攻略で前後もわきまえず突入し、ホンタイジの怒りをかった経験があるが、そおれ以来、慎んで二度と無謀な真似はしていない。

だが、ホーゲは皇帝の長子たる自分には咎めはないと思うのか、無謀な攻撃が多く、部下の管理も甘かった。

つまり、戦略、戦術を考慮しない戦いや、略奪、暴行がそれだけ多くなるということだ。

だが、今回の朝鮮攻めでは、略奪をできるだけ減らしたいとドルゴンは考えていた。

暴力では、朝鮮王や国民を屈服させることはできても、心服はさせられない。相手が礼だの義だのにうるさいのなら、それ以上の礼節をもって接してみせるしかあるまい。

P157左翼軍を一手に任されたのは、その考えを実行に移す上では、絶好の条件だった。だが、相手が恐いもの知らずのホーゲでは、ドルゴンの命令がどこまで浸透するか、知れたものではない。

弟のドドなら、𠮟りつければ済むことだが、ホーゲが相手では、なだめすかし機嫌をとりながら戦をしなければならない。正直、ドルゴンはそろそろ我慢の限界にきていた。

「ホーゲが、私を見習ったりするものか。私といっしょに行動させれば、私と張り合って無茶をするのに決まっている。その後始末をさせられるのは、私だぞ」

「…粛親王を試しておられるのかもしれません」

と、曹振彦は声を落とす。

「上にはすでに、粛親王をふくめて八人のお子がおられます。その中で、成人して武将としての才能を示しておられるのは、粛親王おひとり、他の方は、母君の出自もあまりよくない上に、たいした功績もあげておられません」

宸妃・博尔済(爾濟)吉特氏の生んだ嫡皇子は二歳で夭逝したが、荘妃がみごもっている子が男子ならば、まちがいなくその子が嫡子となるだろう。

ホンタイジはまだ四十代のなかばだし、心配はない--とはいうものの、このまま、満洲族の習慣どおり、後継者を指名しないままで万が一のことがあった場合、何が起きるかぐらいは、想像つくはずだ。

P158 ホンタイジは、幼い異母兄弟から位を奪った。それでいて、彼は異母弟たちを生かしておいてその力をうまく利用し、自国の力を伸長させていったが、ホーゲが父を見習うとはかぎらない。

ドルゴンにさえ、気をとがらせてなにかと敵視しているホーゲが、自分の立場をおびやかす異母弟の存在を許すとは思いにくい。

(略)

P160 ドルゴンたち左翼軍は、長山口から朝鮮に入り、平安北道を南下、昌州城、安州、黄州と次々に落としていった。

黄州では、南漢城へかけつけようとしていた義勇兵一万五千と遭遇して、これをあっさり撃破。結果として、ホンタイジたちを側面から援護した。

ドルゴンたちだけではない。ホンタイジの親征ということもあって、清軍の士気は高かった。

あっという間に、朝鮮軍は追いつめられていく。

P161ただ、李倧が立て籠もった南漢城は険しい山中にあり、大軍で一度に攻めるわけにはいかない。また、平地での騎馬戦を得意とする清軍には、足場の悪い山中での戦いは不利だった。

後は兵糧攻めしかないが、十年前で懲りた李倧は、南漢城にしっかりと食料を備蓄していた。しかも、地形を知り尽くしているから、水などの補給を清側が断つことは、なかなか難しかった。

それ以前、漢城を陥した清軍は、ホンタイジも承認のもとで大がかりな略奪を行っている。戦後の無意味な略奪は禁じているホンタイジだったが、南漢城に李倧らが立て籠もっている以上、どこからも援軍や食料の補給が送れないよう、徹底的に奪い取っておく必要を感じたのだろう。

村々には、犬を除く家畜、動物がいなくなったとまでいわれるほどの略奪だった。その昔、ヌルハチが若い頃に犬に窮地を救われたという伝説があり、満洲族は犬だけは食べないとされていたらしい。

敵地で、敵の食糧を奪って調達するのは、戦の常套手段であるし、真冬の朝鮮半島に食べ物が潤沢にあるはずもない。戦でなくとも、十万の人間が侵入すれば、食糧が底をつくのは当然の成行きだったろう。

南漢城を囲むホンタイジから命令が届いたのは、寧辺城を落とした後だった。

戦場で年があらたまり、崇徳二年(一六三七)になっている。一月十日に、ドルゴンは

P162 身辺を守る手勢だけを連れて、南漢城を囲むホンタイジの元に現れた。

「無事なようだな」

ドルゴンの顔を見て、ホンタイジはそんなことばをねぎらいのかわりにした。

「なかなか、苦戦をなさっておいでだとうかがいましたが」

「さすがに、手強い。甘く見ていたつもりはないが、朝鮮王は頑迷だ。信念ではなく、意地にしがみついている。これ以上、抵抗しても、援軍もないし、いずれは食料も尽きるとわかっているのにな」

「義にしがみついて、餓死する気でしょう」

「そこまでおいつめる気はないな。そこで相談なのだが」

命令とはいわず、「相談」ともちかけるところが、ホンタイジの巧妙なところところだった。どちらにしても、ドルゴンに断れるわけがないのだが、そうやって婉曲にいわれると悪い気がしないのもたしかである。

「江華島へ渡ってもらえぬか」

江華島には、先に朝鮮王妃とその二子が非難している。李倧の抵抗を封じるには、これは一番効果的な方法にちがいなかった。

「つまり、連中の喉もとを押さえようというおつもりですね」

前回、手が出なかった江華島を陥とし、王の妻子を捕虜にできれば、李倧の気も多少、

P164 弱くなるのではないか。人質をとるのはあまりきれいな手ではない。敵味方の犠牲をこれ以上出さないためには、最適の方法かもしれないが、これもあまり威圧的になったり、女子供になにごとかあった場合は、将来に禍根を残しかねない。

難しい仕事だが、

「承りましょう」

ドルゴンは軽く頭を下げて、ひきうけた。

船はすでに、ホンタイジが使者を出して手配してあった。

以前、皮島を根城としていた孔有徳らが中心の船団である。朝鮮沿岸を襲うのは、手慣れたものだった。

船には、自国での生産が軌道にのりはじめた紅衣砲が積みこまれた。船の操作や、砲の操作は、専門の兵に任せるしかなかったが、それでも朝鮮側の船四十隻を沈めることに成功した。

江華島の海上の防衛はしっかりしてあったのだが、上陸されてしまえば、それもあまり役にたたない。もともと、女子供の避難場所で、非戦闘員が多く、彼らが足手まといになった。

それでも、抵抗はすさまじいものがあった。守備の兵だけではない。島にいた男たちで戦える者は、老人も少年も簡単には屈さなかったからだ。それに、他に逃げ場所はなかった。

P166 激戦がくりひろげられ、千名以上の死者を出した。血とうめき声が、島に満ちた。また、女たちの中には、敗戦が避けられないと知ると、自裁する者が続出した。

自身がある程度、指揮を執り、武器をとって戦うこともある陸戦とちがって、海戦や上陸戦は勝手が違う。ドルゴンは、基本的な指示は出しても、細部については見ているしかなかった。

---戦がこれほど惨いものだとは、なかば傍観者の立場にいて、はじめてわかるものだったのだろうか。

自分が戦いの中にいる時には、相手の恐怖や痛みや流血は、そのまま自分自身のものだ。だが、今回の流血は一方的なものだ。ドルゴンは絶対安全なところから、兵士でもない者が殺されていくのを見なければならなかったのだ。

「なぜ、こんな莫迦(後述)なことをする」(tw)

チャハル戦では考えられなかった情景を目の当たりにして、ドルゴンは少なからず衝撃と嫌悪感を覚えた。

「我らに頭を下げるのが嫌なのはわからないでもない。だが、我々が、それほど野蛮だと思うか。抵抗しない女子どもを殺すと思うのか」

もっとも、十年前のアミンらがやったことを考えると、この反応はわからないでもない。

P165実際に、アミンらは女子どもを意味もなく虐殺し、乱暴し、略奪をくりかえしたのだ。

今さらながらに、清という国のあり方のむずかしさを、ドルゴンは思い知らされていた。以前の行状が、現在の恐怖や嫌悪につながっている。それを、信頼に変えていくのは並たいていの努力でできるものではない。まして、その努力をしようという者が少数では。

十九日に、船八十隻で江華島へ向かい、二十二日には、朝鮮王妃と王子二人、閣臣、侍郎らをようやく、生きたままで捕らえることができた。二十八日までの間に、主だった者らを次々と捕らえて、やっとのことで江華島は陥落した。

ドルゴンは勝った気がしなかった。

「さあ、上陸するぞ」

征服者気どりで島に乗りこもうとしたホーゲを、

「少し、待て」

ドルゴンは、あやういところで制止した。

「兵に厳命しておくように。江華島では、略奪はいっさい禁止する。女を乱暴するするような者がいたら、自軍の兵でも、問答無用で処罰する。鑲白旗であろうと鑲藍旗であろうと、区別はしないから、肝に銘じておくように」

「俺に命令する気か」

と、ホーゲが眉を吊り上げたのも、無理はない。

P168 江華島は、これまでの清にとっては、どうしても陥とせない難関だった。水軍の力があったとはいえ、ここを陥としたドルゴンとホーゲの功績は、大きい。胸を張るのも、また、王家の避難場所であるこの島にどれだけの財宝が隠されているのか、期待するのも当然だった。

だが、ドルゴンにはドルゴンの考えがある。そもそも、皇帝の長子ともあろう者が、先頭にたって乱暴狼藉を働いたり、国の財産を私腹に収めては、下の者にしめしがつかないではないか。

江華島は、義をもって占領するのだとドルゴンは決めていた。

「私が、左翼軍の総帥だ。任免権も、私が上から預かっているのだのだぞ」

いい返すと、

「叔父だと思って、たててやっているのに、なんだ、その口のきき方は」

憎まれ口はきいたが、とりあえず、引き下がった。

「---絶対に、危害を加えることはない。私、睿親王が保証するから、心配をなさらないように」

まず、朝鮮王妃に伝えさせた。全軍は、船上で待機させたままで、

「ご希望とあれば、すぐにでも南漢城へ送ってさしあげよう。不自由なことがあれば、なんなりと申されるがよい」

P167左翼軍の統帥としての責任をもって、ドルゴンは明言した。

さらに、即座にホンタイジに、占領の旨の使者を送り出した。

それ以前、二十日にホンタイジは、江華島攻撃の通告と、降伏の勧告を仁祖にむけて行っている。

「殺すならば、殺すがよい。絶対に、貴様らなどに頭を下げるものか」

にべもなく突っぱねた李倧が、しかし、一気に弱気になる時が来る。

江華島で捕らえられたはずの王妃と、第三王子、皇族七十六名、群臣とその家族ら百十六名が、そっくり南漢城に送られてきたからだ。

それも捕虜としての扱いではなく、

「希望するなら、南漢城へ入れられるのも可、他へ行かれるのも可。我らに敵対しないかぎりは、自由になさってよい」

みずから送ってきたドルゴンが、明言したのである。

これを王妃たちの口からきいた李倧は、

「---これは」

考え込んでしまった。

夷狄とばかり思っていたが…満韃子の中にも、礼を知る者がいたのか(tw)」

「睿親王のおかげで、江華島に残った者はみな、無事でございます。こんなことになれば、

P170 早く降伏しておけば、無駄死を出さずにすんだのではと、悔やんでおります」

食糧も衣服も十分に与えられ、丁重な扱いをされて、王妃の心が動いていた。

それが功を奏したのか、他に選択の余地がないことを悟ったのか、李倧もようやく降伏を申しこんできたのだった。

降伏の条件は、明の年号を使うことを止めて、清の元号を使うこと、明から授けられた王印を差し出すこと。つまり、清を宗主国と認めることを誓約させたのだ。今後、いっさいの城の建設や増築も禁止させた。

さらにその約束として、朝鮮の王子ふたりと大臣の子らを、清への人質としてさしだすことが要求されていた。

江華島にいた王族のうち、ドルゴンは年長の王子ふたりだけを、南漢城へは送り出さなかった。李淏、李𣳫というふたりの王子たちは、まだ十代の少年だったが、また、いずれは次期国王になるべき人間でもある。

つまり、彼らだけを質にとっておけば、他の者を拘束する必要はないと、ドルゴンが判断していたわけだ。

少年たちを初めて見た時だった。ドルゴンは一瞬、昔の自分に対面したような錯覚をおぼえた。

もちろん、彼らは親を亡くしたわけではないし、兄弟の中で孤立していたわけでもない。だが、頼りなさそうな目の奥に、おのれの運命を自分の力で切り開けない悔しさと、なんとかそれをはねかえしたいという強い意志が光っていたのを、彼は見た

P169少年たちがはねかえしたいものが、ドルゴン自身をふくむ清という侵略者であることは、百も承知していた。立場としては矛盾するすることだが、ドルゴンは少年たちに深く共感した。

「心配せずともよい」

人質として、盛京へ連れ帰ると決まった時、ドルゴンは事実を告げた後で、静かにつけくわえた。

長身の清の将軍におだやかな声で話しかけられて、少年たちはとっさにどう反応してよいのか、判断がつきかねるようだった。

彼らは、清の占領以来、厳めしく横柄な清兵の間で肩をすくめてきたのだ。その清兵らのすべてが、この長身の若い将軍の前では頭を下げ、かしこまる。皇弟というだけではない威厳と重厚さが、彼には備わっていた

だから、自分たちに対してもさぞや見下してくるのだろうと覚悟し、肩をそびやかしてきたのが、肩すかしをくらったのだ。目を見張って、ただ、ドルゴンの次のことばを待つしかなかった。

そおの少年たちに、ドルゴンはおだやかな表情を向けて見せた。

そなたたちは、この睿親王ドルゴンの客人だ。見知らぬ国を見物しにくるつもりで、気楽に過ごすがいい

P172 ドルゴンがニ王子を伴って帰国する時、仁祖・李倧はみずから息子たちとドルゴンを見送りに来た。ドルゴンとは丁重なあいさつをかわし、息子たちには、何事も睿親王のいうことに従うよう、諄々といいきかせて、別れを惜しんでいる。

後年、李倧が死去した際には、ドルゴンの判断で、世子である李𣳫が即座に帰国を許され、無事に位を継ぐことができた。

世子、大君之東還、皆九王之力(後述)」

とは、朝鮮側の記録である。

少なくとも朝鮮は、ドルゴンには全幅の信頼と感謝とを寄せたのだ。これは、ドルゴンの夢想したことの一端が、わずかでも報われた証拠ではなかっただろうか。

花たち~19 35:25~解放(tw) 27 世子仁祖対立    28 48:45世子逝去    馬医01 52:30~世子危篤


P254「曹---」

「はい」

影のように従う曹振彦の存在を、確かめる必要はなかった。

「私に---飛べるだろうか」

一度は断念した夢だ。

「翼は、すでにお持ちです」

それで、十分だった。

元号は、翌年から「順治」と改元されることに決まった。

やっと六歳、実際の年齢は五歳になったばかりのフーリンは、自分のおかれた立場も、その権力も責任も知らないまま、一国の皇帝となった。

長い儀式に耐えられるはずもなく、即位式の間にも何度も泣き出したり、ぐずったりした。

(もしも昔、自分が即位していあとしたら---)

すでに十五歳だったから、意味は十分に理解でいただろう。だが---。

十全に大汗としての役目を果たせただろうか。十五歳といえば、摂政はもうつかなかっただろう。となれば、ドルゴンひとりで、百戦錬磨の異母兄たちとわたりあわねばならなかったはずだ。

P255ついたとしても、二、三年もすれば、今度は摂政との間に主導権争いがはじまっていた。それに勝つことは至難の業だった。

年長の兄たち---ことにホンタイジを敵に回して、無事でいられたとは思えない。

そういえば、早くもドルゴンに対する不穏な動きが起きているのを、彼自身知っていた。ドルゴンがそのうち、幼い皇帝の位をも奪ってみずから即位する気だと。

(そんな心配は、するだけ無駄だ)

ホンタイジの資質を確実に引いているのなら、自然にドルゴンを排除にかかるだろうし、ドルゴンも太刀打ちできないだろう。逆に、ドルゴンに簒奪の隙を与えるようなら、それまでの資質ということだ。

ホンタイジの子だからといって、政治的な能力があるという確証はない。ホーゲがいい例だ。

もしもフーリンが無能ならば、それは国にとっても不幸だ。満州族のみならず、「清」という国にいる漢人、モンゴル族、民族を問わず、多くの人びとの不幸となるものを、座視している気はない。

だが、だからといって敢えて、フーリンを排除する気にもなれないドルゴンだった。

崇徳年間の最後の年は、ホンタイジの葬儀と、それに続く一連の儀式で暮れていった。

「---摂政王に申しあげます」

大学士のカンリンが、あらたまった口調で話しかけたのは、年が変わって、順治元年

P256(一六四四)の四月のことだった。

朝廷の組織は、ホンタイジの生前のままに据え置かれた。また、多くの人間が、そのままの地位にとどまった。ホンタイジの政策をそのまま継承するぞと、無言のうちに示したのだ。

大学士の地位に留まったカンリンたちが、そのままドルゴンの幕僚となった。彼らは、ホンタイジ在世中から、政治の中核となって働いてきたし、ドルゴンの意向も十分承知している。

どういう形にしろ、ドルゴンが朝廷を継承してくれることを、もっとも望んだものたちだ。

摂政はドルゴンとジルガランのふたり、という建前だが、実務とそれにともなう権力、そして閣僚たちの信頼がドルゴンにかたよるのは無理のない話だった。「摂政王」とふたりが呼ばれるようになったのは、崇徳八年の十二月のことだったが、人々の意識の中では、早くもそれは、ドルゴンひとりをさすことばとなりかけていた。

「出兵の用意、すべて整いました」

明を攻める。

これはホンタイジの悲願だった。

すくなくとも、寧遠城を手中にし、国境線となる長城の支配権を得ることが、ホンタイジの目標だった。それから先、どの程度、明の版図に食いこめると考えていたのかは、ドルゴンも正直、はかりかねている。

P257まさか、明の全土---雲南、貴州といった南方まで一気に手にいれられると思っていたとは考えにくいが、それでも、機会さえあれば北京を陥とそうとしてきた。

---もしも北京が陥とせたら。

明を手にいれることも、不可能でないかもしれない。

夢、といってもいい。

権力は、必要なだけあればよい。ただ、ホンタイジが見て、かなうことのなかった夢だけは、現実のものにしてみたかった。それは、ドルゴンの夢でもあったはずだった。

さいわい---と、いっておそらく良いのだろう。

明は累卵の極みにあった。

先年--崇徳八年、明の元号でいえば、崇禎十六年の末、猖獗をきわめていた農民反乱の勢力のうち、河北で最大の力となった李自成が、ついに西安を陥落させ、そこでついに、皇帝を名乗ったのだ。

国号を代順。

大順の臣民は税を免除すると言う布告に、それまで、静観していた一般の人間たちまでが、雪崩をうって李自成側につきはじめている。

実際問題としては、税をとらない国は経営がなりたたない。なにより、軍費が捻出できるはずもなく、

P258明の朝廷や、同時期に糊広に根拠を置いた張献忠の勢力に伍して、自国の民を守っていける道理もない。どこかで、その分のしわよせを取り立てるとすれば、国の成り立ちの前提が崩れる。

いつかは破綻するはずの国ではあったのだが、人々は目先の利益に飛びついた。それほど、せっぱつまった状態にあったのだ。

一方、清にとっては、これは願ってもない事態だった。

これまでの経緯からいって、ホンタイジが没しただけでも大きな痛手である以上に、幼帝がたったとなれば、明の容喙は必至だった。

それでなくとも、ホンタイジがあれほど努力したにもかかわらず、騎馬民族特有の、部族社会の論理がまかりとおっている国だ。これを機会に、八旗の旗主がそれぞれ、分離独立をいい出したとしても不思議はなく、その間隙を明の武力と老獪な外交戦略とに衝かれたら、ひとたまりもなかったはずだ。

だが、明は先年の松山の戦以降、固く長城を守って出てこようとはしなかった。国内があれでは、動きようがなかったのであろう。朝廷が動かせる軍の大部分は国内の方へふりむけざるを得ない状況で、むしろホンタイジの死を奇貨としたのは、明の方だった。

朝鮮の方は、以前からドルゴンには好意的である。人質となっている二王子を通じて、情勢を逐一さぐっていた朝鮮王・李倧は、ホンタイジの葬儀にも、またフーリンの即位に際しても丁重な使者を送ってきた。

P259ドルゴン就任に、だれよりも胸をなでおろしたのは李倧だったかもしれない。のちの話になるが、ドルゴンは摂政の権限で、朝鮮に課せられていた紵布や木材、茶などの歳費を免除し、ほかのものも五分の一に減じた。

さらにこの後の順治二年(一六四五)、李倧が没した時には、フーリンが弔問のしるしとして、五百両もの大金を贈っているが、もちろん、これはドルゴンの指示によるものである。

ちなみに、人質となった二王子のうち、弟(兄だと思う)の李𣳫は、父・李倧の生前に帰国を赦されている。世嗣(兄の昭顕世子が亡くなったのち世子に冊封)である李淏の帰国は、父の没後となったが、とにかく無事二木国がかない、継位も簡単に認められたことを、朝鮮側は「世子、大君之東還、皆九王之力(前述)」と表現し、感謝を隠さなかった。

武力なしでは、制することはできなかっただろうが、武力のみでもこの状況は生まれなかった。その意味では、ホンタイジ存世中からのドルゴンの方針が、正しかったことがこれで証明されたようなものだ。

少なくとも、この時点、この状況で清が明に向かって軍を動かしても、朝鮮に背後を衝かれる心配はなかった。安心して大軍を進めることができる。

(略)

P300 髪型や衣服、風俗はその民族特有のものであり、誇りでもある(tw)

弁髪にしろ、筒型の袖や裾の割れた衣服(『韃靼疾風録』上P153下P58)は、漢人の目からは奇妙で野蛮な風俗に見えるのだろうが、馬に乗り戦場を駆けめぐる生活には最適のものである。

もっとも、満州人からいえば、漢人の士大夫の、袖も裾も長い衣服は合理的ではないし、働かない者の方がえらいという思想も納得できないのだが。

(略)

P303 国といえば、明の遺臣たちの中には、国外へ逃亡する者たちもちらほらと出はじめている。特に弁髪令が出た後は、弁髪にするよりはと台湾や琉球、はては日本へと逃げる者もいた。逃亡するのも、亡命者を受け入れるのも、個人の話ならば問題にならないが、日本兵の強悍さをしかも、ドルゴンたちもある程度知っている。

しかも、福建あたりでは、日本との混血児である鄭成功が明臣としての抵抗を継続している。伝統的に海に弱い清軍は、もとは倭寇の一軍であった鄭成功に手をやいているのだ。鄭成功が、母方の縁を頼って日本の軍を借りでもしたら、さらにたいへんなことになる。

偶然だが、ドルゴンたちが山海関へ向けて出発したころ、清の海岸に一隻の難破船が漂着した。日本の越前の商船で、春先の嵐に巻きこまれたのだ(『韃靼疾風録(下)』相参)。

倭寇と誤解されて、大半が殺されるという不幸があった後、生き残った十五人は事情の聞き取りのため盛京へ、そして、直前に遷都した順治帝とその朝廷を追って北京へと移送されている。そして、即位のために故国へ戻る朝鮮王子・李𣳫らの一行に加わって帰国の途に着いた。

朝鮮使の一行には、彼らを無事に日本へ送りとどける任務が与えられた。

彼らを北京まで呼び、手厚くもてなし、帰途の安全を確保したのは、当然、ドルゴンの指示による。彼には、これを機会に、日本との関係を良好なものにしようという腹づもりがあったにちがいない。

「キウアンス(九王子)は、王の叔父にて御座候。年三十四五に見え申候。細く痩せたる人には御座候。

P304此の人第一の臣下にて、上下共におそるる事歴々の衆も直々物申す事成不申候由に御座候」

帰国後、幕府の調査に応えて、彼らはこう応えている。彼らの目に映ったドルゴンは、そのまま、人々---特に旧・明人の印象でもあっただろう。

これまでの経緯から、明と日本の関係があまりうまくいっていなかったことも幸いして、やがて日本は、清と一定の国交を結ぶようになる。すでに日本は、一六一二年(明歴で万歴四十年)もキリシタンを禁止、イギリス、スペインと次々と閉め出したあげく、一六三九年(崇禎十二年)には鎖国令を出して、対外貿易を停止してしまった。

例外はオランダと明だったのだが、それから十年もたたないうちに、清を交易相手とすることになったのには、この時の漂流民たちの供述も無関係とはいえないはずだ。そして、日本の幕府が鄭成功の援兵要請に応じなかった理由のひとつには、この清との国交があった。

(略)

P310 (略) ---何が起きたのか、正確にに知っている者はほとんどいなかったにちがいない(相参)。

まず、噂が流れた。

「荘太后がご降嫁をを望んでおられるとは、真実ですか?」

曹振彦が、皇城東華門外の睿親王府、ドルゴンの邸第の書斎へ駆けこんできて問うたのは、噂がたちはじめてすぐのことだ。

P311ドルゴンのやり方になれている曹が、さすがに顔色を変えていたのも当然である。前代未聞といえば、これほどの話はないだろう。

たしかに、満洲人にかぎらず、騎馬民族は女の再婚を禁忌とはしない。父親が没すれば、あとをついだ息子が、生母以外の父の妻たちを自分の後宮にいれるのは、常識として行われていた。

兄の死後、弟がその妻を娶るのも、珍しい話ではない。要するに、女をいつも、誰かの庇護下にいれるための制度である。

だが、漢文化の視点からいえば、もっとも忌むべき事態でもあった。血統的には他人にちがいないのだが、父の妻はすなわち、母親にちがいない。一度、母と子の関係となった以上、実際の血縁はどうあれ、永久に親子なのだ。近親婚は、父方の従兄妹同士でも禁忌とした文化である。

その漢文化に、もっともよく精通しているはずのドルゴンが、敢えて兄・ホンタイジの未亡人を娶る理由が、曹振彦には理解できなかった。

「われら満洲人だ。問題はなかろう」

と、軽くドルゴンはかわしたが、曹はごまかされなかった。

「王爺のおことばとも思われません。漢人の反発は、予想されているはず。それに、漢にしろ清にしろ、太后と呼ばれたほどの方が、臣下に降嫁した前例はございません」

P312もっとも、清で太后と呼ばれた婦人は、この時点で、ホンタイジの皇后だった博尔済(爾濟)吉特氏と、その姪でフーリンの生母である荘妃だけだ。前例など、ないのがあたりまえなのだ。

「荘太后が、ご希望なのだ」

と、ドルゴンはめずらしく投げだしたような口調で応えた。

「ご婦人の側から、そんな話がもちあがるはずはございませんでしょう」

「それが、あったのだ。荘妃は、私を警戒している。だから、こんな手を打ってきたのだ」

「警戒…ですか?」

「私が、いずれ陛下を廃して、位を簒奪するのではないかと、後宮ではもっぱらの噂だそうだ」

「王爺…」

「そんな気があるなら、先帝が崩御された時に、ホーゲを殺してでもやっている。だが、ご婦人にはなかなか、理解していただけないようだ」

「つまり…王爺を牽制するために?」

「甥の位を簒奪した前例はあるが、義理の子ならば奪えないだろうという腹だ。女の考えだが、狙いは悪くない」

P313「お受けになるおつもりですか?」

曹の声が、我知らずうろたえた。言外に、反対という意志が隠れていた。それを聞きとれないはずはないにもかかわらず、ドルゴンは、

「わからぬ」

投げるように答えて、話を打ち切ってしまった。

曹の驚愕は、清の朝廷全体の動揺でもあった。もちろん、太后下嫁という前代未聞の事態に対しての反応もあった。ドルゴンの立場の変化を憂慮する声も、わきおこる。当然、ドルゴンへの反感の声も、その中にはある。

「皇叔父摂政王でも、十分に奴はわがもの顔だ。これで、上の義父などになった日には、どうなる。今まで以上にそっくりかえって鼻持ちならなくなるぞ。色仕掛けで牽制をかけたつもりだろうが、しょせん、女の浅知恵だな」

これはホーゲの発言だが、同様の声は皇城のそこここで聞こえた。ただ、ホーゲのように大声でいわなかっただけである。

当然、その発言はドルゴンの耳にもはいる。

「人の気も知らずに」

ドルゴンが、低く吐き捨てるようにつぶやくのを、曹振彦は聞いていたが、まさかドルゴンが行動を起こすとは思っていなかった。

P314/ 316/ 318
P320 それでも、ドルゴンは、

「荘太后を迎えたい」

曹振彦に告げた。

「初めて、自分の意志で、迎えたいと思った婦人だ」

「いったい、いつからです」

「憶えていないな」

ほんとうに、憶えていなかった。ホンタイジが死ぬまで--いや、フーリンが即位するまで、存在自体を忘れていたような気がする。だが、その前から--初めて、彼女を見た時から意識していたような気もする(tw相参)。

憶えていないからこそ、その想いの分、深かったともいえる。

荘太后を迎えれば、ホーゲがここぞとばかりに攻撃してくるだろう。そのために、失脚するのもまた、ドルゴンは我慢ならなかった。国と婦と、双方とも手にするためには、ホーゲの存在は許されるものではなかった。

「生涯で初めていだいた想いだ。そのためならば、なんでもやる。どんなに利己的にもなる」

十五歳の少年の時から、ドルゴンはずっと他人のため、他の何かのために、自分を抑えて生きてきた。

P321犠牲になったとは思っていないし、清という自分たちの国のため、ホンタイジのために生きてきたことを悔いてはいない。だが、一生に一度ぐらい、自分のために生きてもいいではないか。そう、ドルゴンは思った。もしかしたら、すこし疲れていたのかもしれない。

「そう決めたのだ」

そう告げるドルゴンに、曹はもはや、反対することばを持たなかった。なにか、せっぱつまったもの---この機会を逃すと、二度と自分らしく生きる機会が失われるといわんばかりの焦り方---生き急ぎ方に、不安をいだいたものの、それ以上の追及はできなかった。

ホーゲの失脚も、すこし薄れた順治五年(一六四八)の冬のことだった。

「申しあげておきたいことがある」

御簾の奥の荘太后にむかって、その日、ドルゴンは告げた。

「私は、皇帝の生母を娶るつもりはない。太后を迎えて、権力を壟断するする気もない。おそらく、多くの者が私の真意を疑うだろうが」

控えているはずの侍女か宦官に、何か合図でもあったのだろう。間を隔てている御簾が、ゆっくりと上がっていった。

ホンタイジが没してからこの方、ドルゴンと荘太后が顔を合わせる場面は何度もあった。

P322ドルゴンが幼い皇帝の表の代理人なら、荘太后は皇帝を養育している後宮の代表者である。政治向きのこと、フーリンの養育方針、その他多くのことがらをめぐって、話し合うことはいくらでもあったからだ。

だが、男女間の礼として、また、兄嫁と弟の間柄として、ふたりが会う時にはいつも、間に御簾が深くおろされ、最低でもひとり、侍女か後宮をとりしきる宦官がかたわらに控えていたのだ。

過去にドルゴンが荘太后・博尔済(爾濟)吉特氏を直接見たのは、二度。彼女が嫁いできたころ、まだ在世中だった母・烏拉納喇氏のもとでの一瞬と、数年前、病床のホンタイジのかたわらでのすれちがいだけだ。

その時から、寸分も変わらぬ玲瓏とした美貌が、御簾の奥からあらわれた。

「わたくしも、疑っているとおっしゃいますか?」

「疑われても仕方がないと思っている。別に、疑われてもかまわない。ただ、来てくれるのであれば、そのつもりでひとりのただの婦人として、迎えたい。それで不服ならば---」

彼女を迎えるために、ホーゲや元妃や、その他、多くの者を苦しめた。それを悔いてはいないし、たとえばこれで、荘太后が不承知だったとしても、やったことに対しての責任はとるつもりだった。

じっとたたずむドルゴンの姿を、荘太后もまた、静かに見返していた。

P323今年、三十七歳、ホンタイジが即位した頃の年齢をすこし過ぎたほどの、男ざかりである。姿かたちもさることながら、一国の責任を双肩に担っている男の余裕が、彼の身辺には漂っていた。

「参りましょう」

荘太后のくちびるが、静かに動いた。

「参ります。王爺のもとへ。ご希望どおり、ひとりの婦人として。でも、わたくしにも、ひとつだけご承知おきいただきたいことがございます。わたくしが、ひとりの子供の母であるということ、何を捨てても、母の立場だけは捨て去ることができないということだけは」

ドルゴンの称号が、「皇叔父摂政王」から「皇父摂政王」に変わったのは、順治五年(一六四八)十一月のことだった。太后の再婚は、皇族や朝廷の人間には当然、知らされていたし、それなりの宴も開かれたが、民間にはほとんど告知されなかった。

称号が変わるだけで、実権には何の変化もなかったから、あまり意味がなかったこともある。このひと月前に、一族の長老であるダイシャンが没しており、あまり派手に祝うのがはばかれたということもあっただろう。

ドルゴンは三十七歳。荘太后・博尔済(爾濟)吉特氏は、ドルゴンより一歳年下の三十六歳

P324夫婦としては釣り合いのとれた組み合わせといえる。

だが、結婚したといっても、荘太后は皇城の内廷でフーリンを養育にあたっているし、ドルゴンはドルゴンで、翌月から大同で勃発した反乱鎮定のために親征するというあわただしさである。

清の支配体制がほぼ固まったとはいえ、不満を持つ者はどこにでもいた。明の皇族を擁した各地の亡命政権も、全部片付いたとはいいがたい。

南京の弘光政権、福建の隆武政権などは、すぐに圧倒的な清の武力によって押し潰されたが、いまひとつ、永明王・朱由榔の永暦政権が、福建を根拠とする成功や、旧・明臣の張煌言らと手を結んで徹底抗戦のかまえを見せている。

(略)

P326 (略) P327あれほど切望した荘太后・博尔済(爾濟)吉特氏を手にいれたものの、ドルゴンの顔色が晴れたことはめったにない。荘太后との仲は、どうやら悪くないようだが、やはりふたりとも公的な立場がある。人目もあるし、ドルゴンの妻たちの立場もある。

自ら選択したこととはいえ、荘太后を得たことが彼の心身の余裕につながっていないことを、曹はそれとなく察していた。

この年の十二月に、ドルゴンの正妻であった元妃・博尔済(爾濟)吉特氏が没した。あまり親しむことのなかった妻だったが、十三歳からこの年齢まで、連れ添った仲である。

ドルゴンも、彼女をけっして粗末にはあつかっていなかった。若すぎた結婚が、かえってふたりの間を疎遠にしたふしもある。

自身の立場を模索し、なお、清という国の基礎を築くために奔走していたドルゴンに、家庭を作る余裕も、顧みる時間もなかった。比喩的な意味で、元妃はドルゴンとともにくつわを並べて戦うような婦人ではなかった。

元妃は、摂政王妃としての礼をもって、丁重に北京郊外に葬られた。

(略)

P328
P330 まだ、三十代の後半、男ざかりで焦る必要はない年齢だが、それでもドルゴンは内心でどこか急いでいた。山積みしている問題は、一日も早く片付けておきたい。次代が受け継ぐのは、確固とした形をした「清」という国であってほしい。

それは、すでに執念のようなものだった。

順治七(一六五〇)年も、その始まりから波乱に満ちていた。

正月早々、ドルゴンが、ホーゲの正福晋(正夫人)であった博尔済(爾濟)吉特氏を、自分の室に容れたことが、満漢の廷臣たちの論議をよんだのだ。

漢文化---儒教的な倫理からいえば、そもそも婦人が再嫁すること自体が、批判の対象である。貞婦はニ夫にまみえずというのだ。

だが、忠臣は二君に仕えずともいう。その点からいえば、清の朝廷にいる漢人の廷臣たちはみな、二君に仕えた奸臣となるわけだ。だから、漢人の廷臣たちからの異議はあまり大きくなかった。

ただし、大声で口にできない分、陰にこもるということもある。自然、ささやかれる噂にも悪意がこもる。

ホーゲを幽禁、獄死させたのは、その妃を奪うのが目的だったのではないかという噂が流された。ホーゲの在世中から、関係があったようにさえいわれたが、どれもちがう。

妃は多いが、これはドルゴンひとりだけのことではない。皇室に生まれた者が、後継者を絶やさないために妃を複数容れようとするのは、満洲人も漢人も変わらない。たしかに、

P331荘太后の時にはむきになった節もあるが、それ以外にだれかに執着したことはない。

ホーゲ妃の博尔済(爾濟)吉特氏を迎えたのは、彼なりの贖罪のつもりだったのかもしれない。

皇族とはいえ、獄死した以上ホーゲは罪人である。その遺族が爵位を継ぐことはできないし、財産も残らない。といっても、まったく見捨ててしまうわけではなく、それぞれ縁の深い皇族の家へと身柄を預けられてはいるのだが、やはり身辺は監視されているのだ。

ドルゴンが、ホーゲの元正妃を娶ることによって、その監視もすこしはゆるむだろうし、彼女を通じて、ドルゴンがその者たちに援助をしてやることもできる。

少なくとも、これがドルゴンとホーゲ妃との個人的な関係から発したことではないことは、ホーゲの庶妃のひとりを、ドルゴンのアジゲが室に容れていることからも明白だ。

しかも、ホーゲ妃は、ドルゴンの元妃・博尔済(爾濟)吉特氏の妹にもあたっていたという。

皇后の記44 27:52~ドルゴン妻を娶る。37:07~ドルゴンが何人も妻を娶ったことに怒るフリン。若兮「でも、母上様は娶ってないわ」(tw、関連tw)


兄弟や、生母以外の夫人を、残された一族の男たちが娶るのは、騎馬民族にはめずらしいことではない。清が、清になる以前の社会なら、だれも疑問にも思わなかったことだ。ドルゴンは、もっとも満洲人らしい習慣にのっとっただけなのだ。

国の組織や政治に関しては、人びとの意識を明のものに近づけようとした彼が、こういう風習には忠実であるのは、一見、矛盾するように思えるかもしれない。

だが、それが清という国なのだ。国の形態や官僚制度などは明の遺風を継ぎながら、辮髪や衣服などの風俗は満州人のものを基本とした。大多数の漢人を、ひとにぎりにも満たない満洲人が支配する。

P332 ある意味では不安定な要素をはらんだ国だった。だが、その混在が必要だとも、ドルゴンは感じていた。この年の五月、

朝鮮から、義順公主がドルゴンのもとに嫁いできた。朝鮮王族・金林郡公の李開音の娘である。本来なら、王本人の女が送られてくるのだろうが、先年、位をついだばかりの王には、適齢の娘があるはずもなく、一族の娘を選んできたのである。

朝鮮は以前の戦役以降、ドルゴンをずっと支持している。ニ王子が人質として盛京へ赴く際、庇護をしたのがドルゴンだし、その後もドルゴンの下で、さまざまな便宜をはかられている。二王子が、無事に朝鮮へ帰還できたのも、父王・李倧が没した後、すんなりと即位できたのも、皆、ドルゴンの厚意だと感謝している。

今回のことも、ドルゴンを真の清の支配者として認め、友好関係を持続させようという意向の表れだった。

だが、口さがない廷臣や、ドルゴンに不平、反感を持つ者は、彼の好色の証拠とした。

「いわせておけ」

ドルゴンは、曹振彦のそれとない心配にそう応えた。

「口を封じて止むものなら、そうすればいい。だが、無理だろう。ならば、いわせておくしかない」

P333「ですが---」

曹振彦の心配は、別のところにあった。

内廷の奥深くで育てられている、順治帝・フーリンのことだ。

ドルゴンの選んだ漢人の碩学たちから、論語をはじめとする漢文化を吸収して育っているフーリンが、母の再婚をこころよく思っていないという(tw)。

ドルゴンが摂政の座にいつまでいるのか、不満を漏らしているという噂も聞く。まだ十代初めの少年が、その潔癖さで大人のドルゴンを見た時、どんな印象を持つか、どんな判断をするか。

下手をすると、とりかえしのつかない亀裂が、この新しい国に入りかねない事態にもなるのだ。

「どうか、ご自重を。人の噂というものも、けっして莫迦(前述)にはなりません。どうぞ、身辺にはご用心を。くれぐれも」

くどいほどいったが、ドルゴンはそれ以上、とりあわなかった。

進退の変調が、それほどひどくなっていたのか、もう心が疲れていたのかは判然としない。

ただ、政務と雑事と、人の噂とに忙殺される日々が、その年も続いた。

ドルゴンが、ようやく政務から解放される隙をみつけたのは、この年の十一月も末のことだ。