はじめに 大海に囲まれた二つの帝国
(相互参照) P019帝国の歴史/ 021恣意的な明朝/ 023/ 025自制的な清朝/ 027/ 029第四章 海と陸の交易者 一五世紀
P179馬和から鄭和へ、雲南の少年(tw)P181
(写真、鄭和が出自を語る碑文)この碑文からは、さまざまなことを読みとることができる。馬和は洪武四年(一三七一)に、この昆陽で生まれた。その父と祖父は、いずれもハッジ(哈只)であったという。ハッジとはムスリムのなかでメッカに巡礼したものに与えられる称号である。馬和がムスリムの家系に生まれたことが明らかにされる。
元朝支配下の昆明は、ヤチ(押赤、鴨赤、鴨池などと漢字で表記される)と呼ばれていた。唐代にこの地に姚州という行政府が置かれていた。この中国語の発音ヤオチョウという音が変化して、ヤチになった。
馬和が生まれるちょうど一〇〇年前にヴェニスを出発したマルコ⁼ポーロはフビライ支配下の雲南を旅し、このヤチにも滞在したことになっている。その記録によると、「とてもりっぱな大都会でこの王国の首府をなしている。商人・工匠が多く住まっている。住民もさまざまで、イスラーム教徒あり偶像教徒あるなかに、数こそ少ないがネストール派のキリスト教徒もいる」(愛宕松男訳注『東方見聞録Ⅰ』、平凡社)とある。
モンゴル軍とともに色目人と呼ばれる中央ユーラシア出身者が、数多く雲南に入植した。その後も商業や行政に携わる人々が雲南に入り、昆明およびその周辺には、多くのムスリムが住むようになった。
雲南のムスリムたちは、閉鎖的な社会のなかで暮らしていたわけではない。ある程度の資産を蓄え、気力と体力が充実していれば、メッカに巡礼することができた。馬和の父は、おそらく幼いころに祖父とともにメッカへと旅立ち、巡礼の目的を達成したのであろう。
そのルートは、中央ユーラシアを越える陸路であったのか、南シナ海とインド洋とを
P183 渡る海路であったのか、知る手がかりは残されていない。しかし、馬和の幼年時代、また一族が寄り集まるような機会には、メッカ巡礼の見聞が語られていたに相違あるまい。
父の馬哈只は、まだ三〇代という若さで死去している。その年月日を見ると、明朝の軍隊が昆明を陥落させ、モンゴル王族の関係者を捜索し、各地で軍隊による虐殺が行なわれていた時期にあたる。
碑文は、父の死因について明言することを避けている。戦乱に巻き込まれて命を落としたことを、暗に示しているように思われる。おそらくそのときに、一〇歳になった次男の馬和は明軍に拘束され、捕虜として去勢され、明軍を率いていた傅友徳の幕下に留置かれた。
三年後に朱元璋の四男で当時ニ五歳であった朱棣に献上された。朱棣は、のちの永楽帝えあり、帝国を拡大した皇帝として死後に太宗とされ、帝国の礎を作った皇帝として成祖という廟号が一六世紀に贈られている。
雲南進攻と藍玉の獄
明朝初代皇帝の朱元璋は、晩年になると内陸への傾向を強める。その視点からすると、南京はあまりに海に近かった。洪武ニ四年(一三九一)に遷都の候補地の一つに挙げられていた西安に、長男で皇太子に指名されていた朱標を視察のために派遣した。
朱元璋にとって不幸であったことは、巡察を終えて南京に戻った皇太子が、疲労のために病に倒れ、洪武ニ五年(一三九二)に急死したことであった。帝国の後継者には、朱標の長男、つまり朱元璋の孫であり、朱棣の甥にあたる朱允炆が指名され、皇太孫となった。
P184皇太子の死去は、その後の馬和の運命を大きく変化させることになる。
老齢に達していた朱元璋は、当時わずかに一五歳の少年に皇位が確実に引き継がされるように、洪武ニ六年(一三九三)に粛清を行った。史書に「藍玉の獄」として記録される大疑獄事件があり、二万人ともいわれる犠牲者を出した。
謀反の首謀者とされた人物は、雲南進攻で功績を挙げた藍玉である。胡惟庸の獄がその直後に官僚機構の改造をともなったように、藍玉の獄のあとには軍制の改造が付随した。
明初期の研究者として知られる川越泰博氏は、藍玉の獄に連座した人々の供述書を集めた『逆臣録』と衛所官の登記簿である「衛選簿」とを交差させながら分析し、藍玉の獄が雲南進攻という困難な戦役を共にした人々を標的にしたものであると論じている(以下、川越泰博『明代中国の疑獄事件---藍玉の獄と連座の人々』風雲社、二○○二年による)。
雲南進攻は泥沼に陥り、現地の少数民族によるゲリラ的な戦法に悩まされ、またマラリアなどの風土病で命を落とす兵士も少なくなかった。困難な戦役は、それに参加した将兵のあいだに人的な結合関係を生み出した。
遠征軍が解散されて将兵がそれぞれの衛所に復帰したあとも、そのネットワーク的な関係は持続した。こうした私的な関係は、朱元璋にとって帝国の安定を妨げる障害であると感じられた。
人脈を取り除くために、疑獄事件が仕立てられたと川越氏は推定する。疑獄事件には衛所官と衛所軍の関係者が数多く連座し、そのあとに首都におかれた主力軍である親軍衛と京衛を対象とした大規模な配置転換が行われたことも、それを裏付ける。
P185 宦官となった馬和
『逆臣録』には、「火者」(コジャ)と呼ばれる去勢された青年の名を認めることができる。たとえば藍玉に従って雲南遠征軍に加わった指揮使の曹震の家に仕えていたものとして、当時一八歳から二一歳までの火者の青年四人の名が挙がっている。また藍玉の家にも、雲南大理出身の火者がいた。
コジャとは、インドのムスリム宮廷に仕える去勢を受けた使用人を指した言葉であった。元時代から明時代にかけて、インドから去勢された奴隷が華南の広州や泉州などに輸出され、この奴隷の輸入とともに、コジャという言葉が中国に入った。
中国人は発音にしたがって「火者」の字をあてた。明初には華南で豪強の家が多くの「閹割えんかつ」(去勢)された他人の子を使役しており、それを「火者」と呼ぶと、『明実録』(洪武五年五月戊辰の条)に記されている。
火者と宦官とは同義語ではない。宦官とは朝廷および皇室の一族が封じられた王府に仕える去勢された男性であり、火者とはそれ以外の功臣などに仕える人々であった。藍玉の獄の当時、馬和は数えで二三歳であり、曹震や藍玉の係累として疑獄事件の犠牲者となった青年たちと同世代である。
彼らも少年のときに雲南で捕虜になり、去勢されて功臣たちの家で仕えることになったと考えて間違いはないであろう。馬和は傅友徳のもとにいた火者であったが、疑獄事件が発動されたときには、燕王として現在の北京に封じられていた
P186朱棣に献上されて宦官となっていた。『逆臣録』に名が挙げられた青年たちと、馬和との運命は、紙一重の相違であったとも言えよう。
馬和を救ったものは、彼の武人としての才覚であった。彼は宦官であったということからイメージされる両性具有的な人物ではなく、巨漢であり声量も豊かで、その声は戦場にあっても遠く響いたといわれている。指導力と判断力を兼ね備えていた。
朱棣はかつての元朝の都を拠点にして、モンゴル高原ににらみを利かせる役割を担わされていた。馬和を火者として使用していた太傅友徳は、宦官として主人に絶対的に服従し、しかも軍事的な才覚を発揮し始めた青年を、最良の献上品として皇帝の四男に捧げたのである。
馬和はその期待に応え、モンゴル軍を撃退する戦役において燕王の帷幕のなかで朱棣をよく補佐した。
二代皇帝の叔父との戦い
朱元璋は明朝朝廷に功績のあった人々を粛清し、みずからの息子たちを王に封じて帝国の要所に置き、二代目以降の皇帝に忠誠を尽くすように遺訓を『皇明祖訓』として整備した。
しかし、皇太子の死去にともない二代皇帝に指名された皇太孫にとって、叔父にあたる諸王の存在は、脅威でしかなかった。特に朱棣は軍事的・政治的な能力を有し、その父・朱元璋からも才能を認められていた。
政権の安定のためには燕王に封じられていた朱棣を排除する必要があった。
P187/ 洪武三一年(一三九八)閏五月、朱元璋は孤独な独裁者として、その七一年にわたる人生を終える。その直後から、二代目の皇帝となった朱允炆の戦いが始まった。
朱棣の手足をもぎとることを目的にして、まだ年号が洪武である年のうちに、開封に王府を開いていた周王(朱元璋の五男)を取りつぶし、年が変わり新たに建文という年号になった。一三九九年には山東青州の斉王、山西大同の代王、湖広荊州の湘王、雲南岷王と、王族の身分を次々と剥奪した。
(略、燕王朱棣の身分剥奪の段取りが着々と進行していく)靖難の役と永楽帝の誕生
建文元年(一三九九)七月四日、永楽帝は病が快復したとして祝賀の会を催し、包囲している官軍の指揮官を招待した。燕王逮捕の段取りが完璧に整ったと安心していた指揮官は、不用心にも招待に応じ、宴会の席で惨殺されてしまう。
それと時を同じくして、朱棣の腹心たちは指揮官を失って混乱する官軍を圧倒して、街のほぼ全域を制圧して陣容を整えた。朱棣はすぐさま檄を発した。そのなかで、このクーデターは皇帝に対する反乱ではない、皇帝の側近にある奸臣を取り除くことが目的であると宣言している。
その主張にもとづき、この軍役は「君主の難を靖んじる」戦い、つまり「靖難の役」と呼ばれることとなる。
朱棣の主張は、朱元璋が諸王に対して定めた『皇明祖訓』法律の第三条にもとづく。
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(略)朱棣と皇帝とのあいだで繰り広げられた戦乱は、華北平野を荒廃させながら三年間、建文四年(一四〇二)六月に南京が陥落するまで続いた。劣勢であった朱棣が最後に勝利を収めたのは、朱元璋の粛清によって皇帝側に有能な将軍がいなかったことが、大きな要因となった。
朱棣は皇帝に即位(永楽帝)し、建文という年号を抹殺して洪武三三年とし、翌年正月から永楽の年号を用いることにした。
(絵画、朱棣(永楽帝))宦官と皇帝
南京の皇帝によって正規の官僚や軍隊をはぎ取られていたため、クーデターを断行したときに朱棣の周囲にいたものは、わずか八〇〇人程度であったともいわれる。この困難な時期に朱棣を支えたものが宦官であり、そのなかで傑出していたのが二〇代後半にさしか
P191 かかった馬和であった。軍の指揮官として才能を発揮し、南京の最終攻略戦で勇名を馳せたといわれる。朱棣は、彼の功績を記念して「鄭」姓を与えた。鄭和は宦官の長として、三保太監の名称が冠せられた。
永楽帝38 2130~馬和の献策 41靖難の変終結 42 3254~馬和→鄭和 大明皇妃09 2521~第3回出航1409-11
193/ 195琉球/ 197/ 199/ 201/ 203/ 205/ 207/ 209/ 211/ 213琉球/ 215/ 217/ 219/ 221/ 223/ 225/ 227/ 229
(略)日本の勘合貿易
琉球からアルタヤに向かった船には、中国との朝貢貿易とによって入手した絹織物や磁器
P231 のほかに、日本の物産と思われる刀剣や扇などを礼物として積載していた。硫黄も日本の物産である可能性が高い。琉球の船舶がなぜ日本の物産を積んでいたのであろうか。少し時代をさかのぼり、日本の動きを通観しておこう。
南北朝の混乱を終息させた足利義満は、銅銭を軸にして一四世紀後半以降に活況を呈し始めた日本の経済状況を前にして、中国からの銅銭などの物資を輸入する必要に迫られていた。
中国の物資を得て、みずからが中国風の権力者であることを示すことが、他の諸勢力よりも一頭地を抜くために有効な手段であったからである。
足利義満は靖難の役のさなかにあった朱允炆(建文帝)のもとに使節を送り、建文四年(一四〇二)には明朝の使節が日本に来航した。年が改まった一四〇三年に義満は答礼の使節を送り。新たに皇帝となった朱棣に国書を提出した。
永楽二年(一四〇四)に明朝は日本に対して勘合を支給し、明朝と室町政権とのあいだの朝貢交易が始まった。日本が朝貢する港は、浙江の寧波に限定された。明朝の側は、日本を朝貢体制に組み込むことで、中国沿海を荒らしていた倭寇を禁圧するように日本に求めることができるようになった。
朝貢のために来航した船舶としか交易を認めない方針を、明朝は国初から貫いていた。貢船であることを証明するために、明朝は相手国にあらかじめ割り印を押した証明書を発給し、中国の港で低簿の印と照合することにした。
これが勘合制度であり、洪武一六年(一三八三)にアユタヤやチャンバなどに発給されたのが最初である。
日本に対して勘合が渡されたのは、永楽年間が最初で、その後五回にわたって発給されている。
P232鄭樑生氏の研究にもとづいて、その具体的なかたちを見てみよう(鄭樑生『明・日関係史の研究』雄山閣出版、一九八四年)。
(略、勘合のかたちの説明)P232日本に発給された勘合は、「本」字勘合であり、日本から中国に向かう貢船が携帯した。「本」字底簿は礼部と浙江布政司が保管しており、寧波に着いた日本の船舶は携帯した勘合を提出し、浙江布政司の底簿と照合して真偽を確かめられることになっていた。
「日」字勘合は明朝の礼部が保管し、日本に向かう船舶が携帯した。これに対応する「日」字底簿は礼部と日本が保管しており、中国の船が日本の港に着いたら「日」字底簿と照合することになっていた。礼部が保管する「日」字・「本」字底簿は控えである。
永楽年間には日本の勘合を携えた貢船は、足利義満の死去を挟んで六回にわたって派遣された。明朝との約束を果たしていることを示すために、倭寇を捕えて身柄を中国に送っている。
しかし、義満の跡を継いだ足利義持は、一つには父の義満に対する反発、そして倭寇取り締まりを行うという約束を果たせる見込みがなかったために、永楽九年(一四一一)に明朝との国交を断った。
P233 それから二〇年あまりの年月が過ぎた。宣徳七年(一四三二)に日本の足利義教が中国へ派遣した船が、浙江の寧波に到着した。この使節は明朝の皇帝に対する進貢物として、ウマ・鎧甲・刀剣などを持参していた。
二〇年ぶりの日本の来貢を喜んだ朱瞻基は、義教とその妻に白金をはじめ最高級の絹織物、朱色の漆に彩色が施された輿などおびただしい下賜品を与えた。
儀礼的な贈答品のほかに、交易を目的にしたさまざまな物産を、使節はたずさえてきた。そのリストを見ると、蘇木一万六〇〇斤・硫黄一万二〇〇〇斤・紅銅四〇〇〇斤・刀剣二振などで、蘇木は一斤(六〇〇グラム弱)につき銭一貫文という価格になっている(『明英宗実録』景泰四年一二月癸未朔甲申)。
硫黄などは日本で産するものの、交易物産の筆頭にあげられている蘇木は、日本では産することがない。日本は琉球に刀剣や硫黄などの物産を輸出し、その見返りとして琉球がアユタヤなどから仕入れた蘇木を手に入れていた。
その背後には、シナ海をめぐる交易のネットワークが存在していたのである。
塩が支える帝国
海塩の生産
(略)P235/ 237/ 239/ 241/ 243/ 245
P247 北辺の交易者
永楽期におけるモンゴル高原への軍事介入は、タタールとオイラトとの覇権争いで劣勢に立たされた側に有利に作用した。永楽ののち洪熙・宣徳年間(一四二五~三五)、明朝はモンゴル高原に軍事的な介入を行うことを控え、朝貢を促し高原における抗争に敗れたものを受け入れる政策に転じた。
抗争に敗れた側が中国の軍事的な支援をうけることができなくなったため、実力者が他を圧倒することを可能にする。宣徳九年(一四三四)イラトのトゴンは、タタールを破り、モンゴル高原を実質的に統一する道を開いた。
正統四年(一四三九)にトゴンを継いだエセンは、モンゴル高原の南に位置するハミに勢力圏を広げることに努力を傾けた。
ハミは中央ユーラシアを貫通する隊商ルートの拠点である。西にはティムールなきあとも繫栄すを続けるサマルカンドがあり、東には明朝がある。ムスリムの商人がが東西を結んで交易を展開していた。
エセンはハミを掌握することで、この隊商ルートを押さえ、ムスリム商人を保護する見返りに、商人から経済的な支援を得た。エセン支配下のオイラトは、中国との交易を行うために、明朝との経済的な交渉を進めた。
オイラトと明朝とのあいだの交易は、三つの局面をもっていたとされる(以下は萩原淳平『明代蒙古史研究』同朋舎、一九八〇年による)。一つは朝貢であり、オイラトがテンなどの毛皮やウマなどを携えて大同を経由して北京に赴き明朝に朝貢すると、中国は絹織物や
P248工芸品などをモンゴル側に下賜した。オイラトの貴族たちはこうして手に入れた中国の物産で身の回りを飾って自らの権威づけに使うとともに、西方への貿易品としても用いた。
第二は、朝貢使節とともに大同に来訪するムスリム商人が担った交易活動である。ピル⁼マフムードという商人がいた。マフムードはエセンに仕え、オイラトの官僚として中国でしばしば交易を展開した。正統一二年(一四四七)に大同に現われたときには、二〇〇〇人を超える大部隊を率いていたとされ、交易のために連れてきたウマは四〇〇〇頭を超え、テンの毛皮は一万二〇〇〇枚を越えていた。
彼はほぼ隔年で明朝を訪れた。おおよそ九月か一〇月ごろ中国に到着し、中央ユーラシアでは行動が難しくなる冬季を北京で過ごし、翌年の春にモンゴル高原へと引き揚げた。
そしてそのまた次の年の秋に再び来訪する。北京に滞在している期間に、中国の物産を買い集め、中国に現れない一年半のあいだにサマルカンドなどの西方に赴いて交易活動を展開していたのではないかと推定される。
中国とモンゴル高原とのあいだのこうえきにおける第三の局面は、密貿易である。明朝は銅・鉄製の火器などの兵器を国外に輸出することを厳禁していた。オイラトはモンゴル高原での覇権を維持するために、最先端であった中国産の武器を必要としていた。
正統九年(一四四四)ごろから火器の密輸が増大し、オイラトの使節団が帰国するときに交易するようになった。しばしば禁令が出されたものの効果はなく、密輸者に死刑という厳罰を与えることをしたにもかかわらず、密貿易をとめることはできなかった。
P249 莫大な規模の朝貢に対応する明朝側の負担は大きく、密貿易を根絶するためには中国側のみならずオイラト側をも取り締まる必要が生じた。明朝はエスカレートするオイラトの交易に対する要求に応えることができす、朝貢に対しては使節の人数を制限し、手間の掛かる儀礼を強制して、朝貢の規模を縮小しようとした。
こうした明朝の政策は、ユーラシアを東西で結ぶ交易に依拠していたエセン政権には受け入れがたく、ついに正統一四年(一四四九) に、山西・遼東・陝西の三方面から中国本土に侵攻するに至る。
当時、中国の皇帝は朱祁鎮(英宗・正統帝/天順帝)であった。彼は宦官に勧められるままに自ら出馬して、大同まで進軍した。事態は好転せず帰途についたとき、土木堡というところでオイラト軍の急襲を受け、皇帝自身が捕虜になってしまったのである。
のちに土木の変として知られるこの出来事は、エセンの側でも思いもかけないことであった。彼にとって明朝は、いわば金の卵を生むニワトリであり、交易さえ認めてくれれば明朝を滅ぼす意志はなかった。
捕虜とした皇帝を利用して明朝を操る可能性を探るため北京までは押し寄せたものの、明朝が朱祁鎮の弟の朱祁鈺を帝位(代宗・景泰帝)に即けたことを知り、モンゴル高原に引き揚げている。
朱祁鎮はエセンから客人として丁重にもてなされ、翌景泰元年(一四五〇)に帰国する。朱祁鎮は上皇として軟禁されたが、景泰八年(一四五七)に帝位に返り咲いている(年号は天順)。
土木の変のあと明朝は、モンゴル高原に対して専守防衛の方針を取り、成化一〇年(一四七四)には万里の長城の構築と改修を進めるようになった。
P250私たちがいま、北京郊外の八達嶺などで見る長城は、明代に築かれたものである。
(写真、万里の長城)戸メカニズムの矛盾
(略)P251/ 253/ 255
(略)
第七章 王朝の交替 一七世紀 P377-468
(略)P449(略)
思想家の省察
P451黄宗羲(tw)/ 453顧炎武
主要人物伝
P695鄭和
P701朱元璋/ 703朱棣/ 705ヌルハチ/ 707ブムブタイ(相互参照)