2022年2月26日土曜日

偏愛メモ モノが語る日本対外交易史 7-16世紀

第二章 唐物への殺到 九~一二世紀 P71-
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P101中国では九六〇年に北宋初代皇帝の太祖が即位すると、太祖は商業の活性化を奨励し、海上の交易を管轄する広州、杭州、明州の市舶司を設置した。特に明州(現在の寧波)は対日貿易の中核的役割を果たした。

宋建国後は、五代十国の時代に分裂していた中国に統一の機運が高まり、呉越国も九七八年に宋に降伏している。こうした状況を背景として宋王朝からの海商が九七〇年代には来航するようになり、日本で交易を行なっている。

しかし、その取引手段についてはたびたび問題が生じた。九八二年に宋商への支払いに充てる金の不足のため三年にわたって支払いが滞っていることが記されている。

金は交易の支払いに充てられていたが、数少ない金の産出国である陸奥国は貢納を延滞するようになり、商人は窮乏するか、何も得ずに帰国せざるを得なかった。数年後にも朝廷からの金が供給を待っている間、大宰府は宋商に支払いができず、同様の事件が起こっている。

P102同時期の日本の動向としては、九八三年に僧の奝然(九八三~一〇一六)(相互参照後述)が宋への求法の許可を得て渡海した。奝然は九八六年に帰国し、その二年後に宋帝に工芸品・筥・金銀蒔絵硯等の珍しい信物を弟子の嘉因等に託して送っている(第三章、巻末付録表B参照

この時期に海商が日本にやってくると朝廷に報告された。九九五年に来朝した朱仁聡の例を見てみよう。総勢七〇人でやって来た朱仁聡は、大宰府ではなく若狭に到着した(tw,tw,tw)。

ところが朱仁聡は若狭守を陵礫した罪に問われ、越前に移っている。移った理由はおそらく八世紀に渤海使の到着地であった若狭の敦賀の客館が廃され、海商が滞在する施設がなかったからであろう。

この朱仁聡は皇后宮との交易においてトラブルを起こしている。最初の交易で皇后宮の使者が越前で朱仁聡に金を支払おうとしたが、朱仁聡は朝廷もしくは越前国府からの指示ですでに越前から大宰府に移っていたため受け取ることができなかった。

そこで朱仁聡は大宰府で改めて支払いを求めて皇后宮にもう一度金を送るように要求した。しかし、支払われた金額の一部が大宰府の官人に横領されて、全額を受け取ることができなかった。

そのため支払についてさらに皇后宮の使者が派遣されたが、大宰府官人が使者と朱仁聡の間に介入して朱仁聡に一部しか支払われなかった。その結果、朱仁聡は朝廷に申し立てをしたのである。

数年にもわたるこの事件のような大宰府官人の不正はこれだけではなかった

さて、九九七年に高麗から牒状が届いた時、日本を侮辱する文言があったとして、日本から返事を返さなかった。一〇〇〇年には宋商曾令文が来日したが、交易の支払いでもめている。

P103大宰府は金の代わりに米で支払うこととして金と米の公的な換算レートを一両=一石と定めた。これに対して曾令文は一両=三石を請求した。この問題は朝廷に報告され、陣定(公卿会議)上の議題となり、藤原道長(九六六~一〇ニ七)の判断で一両=二石と定めた。最終的には米と絹によって支払われたのである。

一〇〇三年に宋商用銛が博多にやってくると、安置するか否か朝廷で会議が行われた。この時は用銛が前回の来朝から三年の年紀を守っていないため、朝廷は用銛を放還した。

その翌年、朝廷は三○○両もの金で唐物を交易している。これらの品をもたらしたのは再来日した曾令文であろう。曾令文は一〇〇五年にも三度目の来日を果たしている。

こうした往来に対して平安朝の公卿の意見は、原則として年紀を守らない曾令文を方却すべきというものであったが、当時、内裏焼亡によって多数の唐物が焼失したことを考慮する意見もあり、藤原道長等は協議の結果、曾令文の安置を決定した。

曾令文はそれを承けて道長に蘇木、陶器(史料では「茶垸」とある)、そして典籍(『五臣注文選』・『白氏文集』)を贈っている。ここでは平安朝の公卿の現実主義に注目したい。

交易が貴族等にとって好ましいものであれば、交易を規制する規定はしばしば無視されたのである。さらに曾令文は交易以外にも、たとえば一〇〇三年に入宋していた僧寂照の消息を道長に伝えてもいる。その後の道長寂照の書状のやりとりは数度に及んでいるが、海を越えて書状を運んだのも宋商人であった。

宋商周文裔の場合は日宋交易の仲介的役割を果たした。周文裔は一〇一二年と一〇一五年の二度来日している。

P104一〇一二年には周文裔曾令文と同じように寂照からの書状をもたらし、寂照の弟子の僧念求を連れてきている。それゆえ大宰府はによって安置され、錦、綾、丁子、麝香、紺青、甘松を売買している。

一〇一五年には、周文裔は朝廷に孔雀を贈っている。孔雀は道長の居宅の庭に放されて一一個の卵を産んだが、一〇〇日経っても孵ることはなかった。寂照からの書状は、天台山の再建を伝え、それへの貢献を促すものであった。

これをうけて道長は木槵子念珠(琥珀装束四連と水精装束二連)、螺鈿蒔絵二階厨子、蒔絵筥、海図蒔絵衣箱、屏風形軟障、奥州貂裘、七尺鬘、砂金一〇〇両、大真珠五顆、橦華布等を中国の天台山に送った。

また藤原実資(九五七~一〇四六)も螺鈿の鞍を送っている。

時には武力的な事件も生じた。一〇一九年に中国東北部の女真という民族が攻めてきた、いわゆる刀伊の入寇があった。五〇艘の船団が朝鮮半島東岸を寇略し、次いで対馬、隠岐、ついには博多湾に至った(tw)。

平安の公卿たちは当初これを高麗の海賊と見なしたが、数ヵ月後に高麗王からの書状と刀伊に拉致された二〇〇人もの人々の送還によって事情が判明した。この時は、朝廷は朝鮮蔑視の態度を取らず大宰府を通じて返事と使者への禄物を送っている。

宋商の来日も続いている。一〇二六年には宋商の周良史が関白藤原頼通(九九〇~一〇七四)の信頼をかち得ている。周良史は、中国人の父と日本人の母の間に生まれたということを示す明籍を頼通に奉呈し位階を求めた。

頼通への依頼にあたって桑糸三〇〇疋を贈り、さらに綿、綾、香薬等を贈ることも約束している。これに対して頼通は砂金三○両を送った。周良史は宋に帰国すると日本の朝廷から宋朝宛の土産を大宰府を通じて持って来たと述べたが、宋の皇帝は日本からの外交文書が欠けているとしてこの信物を受け取らなかった。

そのため、これらの物は結局、明州市舶司が対価で引き取ることになった。その後、一〇二八年に周良は再び来日したが、大宰府はそのことを朝廷に報告しなかった。この時の大宰府のトップは藤原惟憲(九六三~一〇三三)であり、商人の唐物や任地の産物を搾取して任期の間にかなりの富を蓄えたことで知られていた。

惟憲周良史の博多到着を報告せずにその貨物を没収しており、周良史はそのことについて不満をもっていたようである。

さて、この時に周文裔は、藤原実資のための進物として翠紋花錦一疋、小紋緑殊錦一疋、大紋白綾三疋等の高級絹織物、麝香二臍、丁香五〇両、沉香(ジンジョウゲ科の常緑高木である沈香からと取れる香料)一〇〇両、薫陸香二〇両、可梨勒一〇両、石金青三〇両、光明朱砂五両等の香薬染料と色々餞紙二〇〇幅、糸鞋三足を持って来た。

これらの品は直接博多から平安京の実資のところに送られたわけではなく、博多湾の近くにある実資の所領を管理している宗像社の係累の宗像妙忠を通じて届けられた。

妙忠は自らも蘇芳一〇斤、雄黄二両、紫金膏二両、緑青四八両、金漆(こしあぶら)を実資に送っており、同日に薩摩守巨勢文任から絹一〇疋、蘇芳一〇斤、花(花蓆か)三帖、革一〇枚、小女志紛紙一〇帖、「茶垸」(陶磁器)、唐硯一面が、香椎宮司からは紫金膏二両、可梨勒三〇果、檳榔子一五果が送られている。

これらの品は宋からもたらされたものと見なすべきであり、宗像妙忠等は周文裔と直接交易していたのであろう。

P106 それ以前にも一〇一三年に実資は高田牧(荘園化した牧)から豹皮等を受け取っている。これらの品は以前には朝廷が禁制にしていた私的交易によって得られたと考えられる。

この時が史料上の初見であるが、こうした私的交易はその後さらに増加していったのである。商人にとって地域の荘園の荘官との直接的な取引は、より良い価格で迅速な支払いを受けることができて都合がよかったのであろう。

一方、混血の周良史は一〇三四年にも来日している。この時は運よく都まで行き、のちに後朱雀天皇となる敦良親王と会見している。この会見は大宰府で暴利を貪った先述の故藤原惟憲(九六三~一〇三三)の摂関家との関係によるものだった可能性がある。

この件について平安時代の日記等には記録が残されておらず、一九六〇年代に森克己が東京の中野重孝旧蔵コレクションにある敦良親王の手跡を発見したことによって判明した(森克己一九六三)。

その後も宋商は九州にやって来て、朝廷から安置を許されたり、逆に宋には放却されたりしている。なかには漂着と弁明して年紀違反によって放還されることを避けようとする者もいた。

こうした商人のなかには博多の近くの苫崎宮と交易を行なった者もいる。これらの宋商たちは、平安時代の文学においてさまざまな伝説を生み出したほど、貴族たちの関心を集めた。

例えば『今昔物語集』巻二六第一六話に宋人と商売をする筑前の貞重という者の話がある。また、一〇四七年に肥前の住人清原守武が勝手に渡海した罪で捕まり処罰され、その取引品は没収された。

守武の行為はその地域の荘園や国府からの要請に応じたものと推測される。また、一〇六〇年には宋商林養と俊政が越前の敦賀湾に難破と称してやって来た。

P107朝廷の公卿はその放還を定めたが、九九五年の朱仁聡の先例に従って良風が吹くまで滞在することを許されている。

(略)

この頃、目立った活動をした渡宋僧が成尋(一〇一一~一〇八一)である。成尋は一〇七二年に宋の商船に乗って宋に旅立った。その渡航に際して米五〇斛、絹一〇〇疋、褂二重、砂金四両、上紙一〇〇帖、鉄一〇〇廷、水銀一八〇両が支払われた。

翌年、弟子の頼縁、快宗等五人が宋商孫忠とともに帰国している。成尋の代わりに頼縁等が宋から日本への宋の外交文書や錦二〇疋、金泥法華経を伝えたのである。

P108 宋からの文書や贈物に朝廷は当惑したようである。すでに一世紀以上にわたって宋との公的な外交関係を断絶していたからである。贈物を受け取るべきか否か。返事は返すのか、その場合どのような書状にすべきか。これらの問題を数年間にわたって公卿たちは論じあった

さらに朝廷が結局、返信すると決めても、その回賜品を火取玉、水銀、美乃(美濃)長絹、真珠とするか、長絹、細布、金銀とするか、または和琴を加えるべきか、ということをめぐって時間がかかった。

一〇七七年、最終的に螺鈿の装飾筥に納められた返信官符と贈物の六丈織絹二○○疋と水銀五○○○両を送ることが決まり、宋商孫忠がそれらを届けた。孫忠は翌年に敦賀に再び来日し、明州からの牒状と回賜品を預ってきた。

これに対しても度重なる議論が長期間にわたって続き、一〇八二年にようやく返答がなされた。

 →関連『光源氏が愛した王朝ブランド品』(参照

国家貿易から自由貿易へ(略)

第三章 海を渡ったモノ P121-
P 122/ 124/ 126輸入品/ 128香料・薬物/ 130/ 132織物/ 134/ 136

陶磁器
中国では宋代以降、陶磁器は主要な輸出品であった。考古遺物として宋・元代の陶磁器の破片が多数発掘されている。その地域はアジア、中東、アフリカの二〇ヵ国以上に及んでおり、(略)

P137日本は古代から中国陶磁を輸入していた。七世紀の陶磁器は緑・黄・白の三色で構成される三彩である。その多くは正倉院に伝来しており、日本で生産された類品のモデルとなった。

さらに日本の各地、十三湊、平泉、鎌倉、京都、一乗谷、草戸千軒、博多、沖縄などで宋、元の陶磁器が発掘されている。

成尋はその日記の中で茶碗(この時代には「茶垸」と称した)についてもふれているが、これも中国からもたらされた。さかのぼれば一〇〇五年、一〇二八年に輸入された品のなかにも茶碗が見える。

茶碗は中国では茶を飲むのに使われた陶磁器だったが、日本では当該期に喫茶の風習(相互参照)はまだ広まっていなかった。それゆえ「茶碗」という語は、九三〇年代に源順(九一一~九八三)が編纂した『倭名類聚抄』には載っていない。

実際のところ、「茶碗」は、中国に求法、巡礼しながら喫茶の風習を知った日本僧によって紹介されたものの、当時の日本では陶磁器全般を意味したのであろう。 一九七八年には博多の地下鉄工事で大発見があった。古代の対外交易の港の遺跡で三万五千もの日本と中国の陶磁が見つかったのである。

中国産の陶磁片には、九、一〇世紀の白磁や越州の青磁や、十一世紀以後の景徳鎮・福建窯の白磁、他にも透明釉薬の下に酸化鉄で模様をつけていた吉州・磁州の陶磁、龍泉・同安の青磁、淡緑な景徳鎮の青磁、さらに日本では天目と称される中国製の浅く口の開いた茶碗などが見られた。

これらを生産した窯は磁州を除いてす

P138漢籍/ 140/ 142毛皮、竹、異国の動物/ 144高麗からの輸入品

輸出品
P146金、その他の金属/ 148/ 150真珠/ 152紙、建築材や螺鈿細工/ 154

扇子
P156 その他の日本の製品としては扇子が他国に好評を博した。それまで中国の古式な椰子の葉を円く固定した団扇が知られるのみであったが、八・九世紀に日本で摺り畳み扇子が創案されたのである。P157扇子には二種類あった。一つは檜の薄板に糸を通した檜扇であり、もうひとつは骨組みとなる薄板を減らし、和紙を折り込んだ蝙蝠扇である。

扇子は貴族の間で儀礼的にも実用的にも幅広く用いられた。朝廷儀礼や日常的な所持品として男女を限らず衣装の一部としてあらゆる場に及んだ。蝙蝠扇は暑い時に心地よい風をもたらすとして夏扇とも呼ばれた。女性にとって、扇子は絵が描かれるところからも嗜好品でもあった。一方、男性の間では絵のない簡素なものが使われていた。

蝙蝠扇は本章冒頭でも挙げた、一三世紀の『癸辛雑識続集』でもふれられている。ただし、それ以前にも奝然(前述twtw)が檜扇二〇枚、蝙蝠扇二枚を宋の太宗に献上している。さらに、一一二三年成立の『宣和奉使高麗図経』には、画摺扇に「日本の風景、人馬、女子を描く」と記している。

高麗から宋への外交使節も、日本から輸入した扇子を宋への朝貢品として贈るようになった。だが、中国では日本や朝鮮との交易において扇子を目にする機会は時折あったにしろ、一五世紀までは扇子の使用は上流階級に広まることはなく、椰子の葉を円く固定した団扇が使い続けられた。

とはいえ、扇子はエキゾチックな品として早くから中国では評価されていたことは、次の記述からもわかる。
熙寧年間(一〇六八~一〇七七)の末、開封の相国寺に行くと日本の扇子を売っていた。漆の殻に青い紙を付け、あおぐようにしている。淡い粉で風景を描いている。その景色はだれもいない庵に鷗鷺がたたずんでいる。

P158八、九月のころである。漁師が蓑を着て釣りをしている。空は曇り気味で飛ぶ鳥がかすかに見える。ただ値段はとても高く、その頃(私は)貧苦にあえいでおり、買うことはできなかった。そのことは今でも悔やまれる。その後、再び市を訪れた時には、もう売っていなかった。(『皇朝類苑』巻六〇)
この記述から、中国では特に扇子に描かれた絵に注目していたことが分かる。伝存する当時のものとしては国宝の扇面古写経が四天王寺等に残っている。烏帽子をかぶった若い貴族や、十二単を着て柳のもとに座る宮廷女性などが、緊迫で美しさを増した藤色を下地として大和絵の手法で描かれている。

平安時代の衣装を身につけたその姿と金の輝きをもつ優美なできばえの大和絵は、異国的な珍しさを際立たせていたに違いない。後に元の夏文彦の『図絵宝鑑』は「日本の風物や山水を描いている。色遣いはたいへん豊かである。金箔を多く用いている」と述べている。

大和絵は扇面にも同様に描かれた。絵が画かれている扇面は九八三年に奝然が宋に持参しており、他にも一〇七三年に王則貞が高麗国王に画屏を進めたことが確認できる。その頃の宋朝は日本の山水の風景図と風俗図の扇を所蔵していた。

十五世紀になると朝鮮が日本の扇をモデルにした模造品を生産して輸出したが、その背景には明代の知識人階層が日本の扇子に絶大な関心を寄せており、扇子は最も好まれる輸入品となっていたからである。

刀剣
日本の対外輸出で重要性を増していった製品として刀剣がある。一一世紀後半には日本商人によって高麗に密かに輸出されており、一一七三年になると平清盛が宋朝へ送った贈物のなかに見える。日本刀は一一世紀半ばにはすでに宋で知られており(後述)、商人がなんらかの機会に中国へもたらしたことは間違いない。

唐代の頃から中国では、特に四川で刀剣を鋳造しており、対外的にも高麗の剣、北方の刀、あるいはペルシャから鑌鉄という上質の鉄を輸入するようになった。

日本では弥生時代に青銅の武器を用いており、紀元前一世紀頃に朝鮮からの渡来人が鉄器をもたらした。太刀、槍鉾、短剣などである。当時の鉄検はまっすぐな直刀であった。七、八世紀の直刀としては、金銀鈿荘唐大刀等が正倉院に残されている。

なお正倉院文書では、中国製の唐太刀と中国式の国産の唐太刀を区別している。一〇世紀頃から日本で刀剣の生産は転機を迎え、中国式の刀剣生産とは異なる道を歩むようになったのである。

その後、日本の刀は刀部が湾曲して長くなるという形態変化を遂げる。一〇~一二世紀に柄頭が比較的大きくなり、手元で湾曲し、打撃点までの刀身はまっすぐになった。その全長は八〇センチメートル程度である。

刀鍛冶は鎌倉時代後半にピークに達した。刀は大きくなったが、P160刀身は手元から打撃点まで均一的である。曲がり具合はそれ以前よりも目立たなくなり、刀の真ん中くらいまでとなった。主なタイプとしては、太刀と、湾曲していない短刀あった。

一四世紀になると長い柄の長刀(槍)がそれに加わった。一方、同時期に刀剣において古式なものが再び現れるようになった。打刀という六〇センチメートル程度の中間的な大きさで刀は湾曲しており、すばやく抜くのに向いていた。

十五世紀に戦国時代に突入すると中くらいの大きさが主流となった。したがってこの時代は刀鍛冶の活動が活発で、大量生産されたのである。そして中国にも膨大な数が輸出された。

日本の刀鍛冶は特に斬新な作刀技術を編み出した。もともと直刀は一種類の錬鉄を用いて作るものであり、折り重ねる鍛錬をくり返した。硬度を高めた鉄剣は切れ味がよくなるが折れやすく、一方、柔鉄ではなまくらで曲がりやすくなった。

日本刀になると、錬鉄と鋼のあわせ鍛えによって鋼鉄の刀剣が製作された。柔らかい鋼の刀身(約五回鍛える)、しなやかな側面(約七回)、硬い刃(五〇~数百回)と工夫を凝らした。日本刀の鍛造は、焼き入れした鋼を急冷させず徐々に冷やして表面を軟化させた。

刀匠は不均一に鍛え、それによって鍛造の跡を残した刃文という模様が生み出され、美しん輝きをそなえるようになった。そのため日本刀は、曲がっていて複雑な構造で輝きをもつものを特徴とするようになった。一三世紀以降、その質はさらに改善され、その技能は比類ないレベルに至った。

平安時代には刀はまだ大量に生産されてはおらず、武器というより装身具であった。P161一一世紀になると中国は日本刀に美を見出すようになった。欧陽修(一〇〇七~一〇七二)が詠んだ「日本刀歌」という詩では、モチーフとして日本刀を取り上げ、日本刀の技術への称賛と中国ではそうした文化が失われたことへの悔恨を同時に述べている。
昆夷との道は遠く、もはや通じていない。世に玉を切ると伝えるが誰がそうした力を極めるであろうか。宝刀は近いところでは日本で作られており、越州の商人が海東より入手してくる。魚の皮をはめ込んだ香木の鞘、真鍮と混じりあう銅。大金でなければ入手できず、身につければ妖凶を祓うことができる。

その国は大島にあり、土地は肥沃で良い風俗であると伝えられている。その先祖は徐福(tw,tw,tw,tw)が不死の仙薬を探すと騙って秦の民を連れて留まり、同行した童子が年老いていった人々である。百種の工人と五穀があり、今まで作られた玩器(珍物)は皆精巧である。

唐朝への朝貢でたびたび来朝しており、遣唐使はいずれも詩作に長じていた。徐福が出発する時に始皇帝の焚書はまだ行われておらず、散逸した多くの書物が日本には残っている。しかし、厳として中国に伝えることを許さず、そのため世に古文を知る人はいない。

昔の典籍は夷狄が所蔵するものの、広大な海のために往来する者もいない。ゆえに人は激して涙を流す他なく、それに比べて錆びた短刀がどれほどの足しになろうか。(「日本刀歌」」、石原道博一九六〇参照)
P162日本刀の美しさによって欧陽修は中国で失われた様々なものを思い起こし、そうした文化の喪失を嘆いている。欧陽修が日本の工芸技術の高さを述べているくだりは重要である。詩が賛辞によって過度に表現されているとしても、その叙述はある程度の事実に基づいていると考えるべきである。

大和絵や蒔絵への眼差しと同様に、時代は違えど同じフレーズで称賛されている和紙、螺鈿細工、扇子への中国の高い評価を今でも読み取れる。これらの製品は日本人による新たな技術改良の成果であり、こうした精巧な製品に対する海外からの希求はそれに基づいていた。

日本製の物品の品質に対する名声はここにおいて確立したといえる。高度なレベルに達した品は、はじめは異国への贈答品として送られ、次第に対外交易の基盤となっていった。それらは一四世紀以降、日本より中国へ輸出された主要な品物として現れる。

それゆえ平安時代は日本における交易の成立期と位置づけられるのである。