中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流 宋朝
第一章 宋朝の誕生 P21~66(tw)P 021安史の乱/ 023/ 025黄巣の乱/ 027黄巣軍の進路図/ 029大唐帝国の後継者
麗王別姫37 05:00~安史の乱勃発(tw) 42 39:00~陳玄礼、玄宗に楊貴妃(参照)の死を迫る(tw)
P031 「斉」も本来は「大斉」だった。「大日本帝国」、「大韓民国」、いずれも中国のこの手法を踏襲した国名である。
斉王朝は逃げる間もなく長安に残留していた大唐帝国の中下級官僚をそのまま引き継ぎ、大臣、将軍に黄巣集団の幹部たちを据えた混成政府であった。天補均平大将軍というかつての称号はどこへやら、ほぼ無傷で手に入れた長安の、衰えたりとはいえ、かつての栄光をとどめる輝きのうえに寄生するようになる。
唐の貴族で長安周辺に逼塞していた者たちは、事あるごとに逮捕・殺害の対象となった。その財貨没収が目的であったと思われる。
その間にも根拠地が定まったことでかえって敵方藩鎮諸勢力に包囲網をしかれ、経済事情は逼迫していく。金統三年(八八二)、すなわち大唐の中和二年、長安東方一〇〇キロの同州に駐屯していた朱温(tw,相互参照)が寝返るに及んで首都防衛も危うい事態に立ち至る。
朱温はこの功績で大唐帝国から全忠という名を与えられ、あらためて節度使に任じられた。「まったき忠誠」という名をも持つこの男が、安禄山も黄巣も果たせなかった、大唐帝国へのとどめを刺すことになるのだから皮肉である(tw)。
唐側にはトルコ系沙陀族の武将で、帰順して皇室の姓の李をたまわった李国昌の子、李克用も加わった。彼は黒ずくめに武装して「鴉軍」と呼ばれた精強な部隊を率いており、中核となって斉軍を大破する。
こうして長安を脱出した黄巣は、以前のように河南各地を略奪しまくったのち、故郷に近い泰山のふもとで自殺する。乱後には、平定の功績で一気に頭角を現わした朱全忠と李克用の両雄が相対立して覇権を争うことになる。
朱全忠の擡頭
中原に鹿を逐う
朱全忠はもともと宋州(現在の河南省商丘市)の出身、父は儒教の経書を教える田舎教師だった。三人兄弟のうち、長兄は父の気風を受け継いで人格者として信頼されていたが、下二人は無頼の性があり、黄巣が蜂起するとその集団に加わった。
仲兄は広東攻略戦で戦死するが、全忠(当時の名は温)は黄巣に付き従って長安入城を果たす。全忠は同州攻めの司令官、陥落後はその地を防御する任務を与えられており、斉国内でも重鎮の一人であった。
しかし、黄巣側近の人物と隙を生じて唐に投降、やがて宣武軍節度使に任じられる。その駐屯地汴州(現在の河南省開封市)は大運河沿いの要衝で、南方物資を洛陽や長安に輸送する中継点に当たっていた。
故郷に近いこの都市の重要性を、彼は早くから見抜いていたに違いない。ここを任されたことで、彼の軍団は急速に力を増していく。
一方、彼のライバル李克用は、河東軍節度使として太原(山西省)に根拠地を与えられる。勇壮な騎馬軍団を養成するには好適の地であったが、いかんせん、経済的な優良地ではなかった。この差が、中原で鹿を逐う両者の運命を分けた。
P033王権簒奪/ 035五代十国の時代/ 037後梁時代の地図/ 039/ 041五代王朝の推移/ 043/ 045五代十国興亡図/ 047/ 049/ 051/ 053
P055 最後の禅譲
五代随一の名君柴栄
郭威は中原の混乱を収束してまもなく、在位三年で崩じた。太祖という廟号を贈られる。
輝くか、狂うか01 32:36~シンユル(原型:雙冀(tw,tw,tw))と郭将軍(tw)息子がいなかったために皇后柴氏(tw,tw,tw)の兄柴守礼の子を後継者に指名した。こうして柴栄(後述)が後周二代目の皇帝として即位する。
輝くか、狂うか19 56:00~事実でないことを事実にするのが権力です!(tw)
01 19
P56柴栄の叔母は、「郭雀児」と呼ばれた青年将校郭威の颯爽とした姿に一目惚れし、親の反対を押し切って結婚したといわれる。この故事は戯曲にも仕立てられて中国では有名な話となったが、彼女の男を見る目は間違っていなかった。夫は皇帝となり、実の甥がその後継者として即位したのであるから。
ただ、この帝位継承も従来の論理では理解しがたいものであった。すでに後唐におけるように、実際の親子ではなく養子が後継者となる先例は開かれていた。しかし、その場合も--漢族と異なり、沙陀族で姓がどれほどの意味を持つのかはさておき--養子はみな李姓に改姓していた。
ところが、どうも柴栄は柴姓のままで帝位継承者になったようなのである。これは儒教の政治理論からいえば「易姓革命」にほかならない。だが、後周の朝廷においてこのことが議論された形跡は史料上うかがえないのであって、儒教的な名分論・王権儀礼がほとんど顧慮されない状況だったことを示している。
ちなみに、柴守礼は息子が皇帝になっても健在であった。高官に任じられたのち、洛陽に引退し、皇帝の父として我が物顔に振る舞う。良民として法を守っていてくれればそれでもまだよいのだろうが、なんとこの親父、「礼を守る」という名前とは裏腹のとんでもない不良中年で、殺人罪まで犯している。
五代随一の名君柴栄も、この処断には随分悩んだようだ。結局、罪には問わなかったのだが、この措置をめぐっては後世とやかく評されることになる。
ただ、現在の常識から見て驚くことは、「親の犯罪を見逃したとは、さすが名君、孝行であっぱれだ!」という見解が多いことだ。中国の伝統的公私観念がうかがえる一例である。
P057 柴栄即位直後という時期を捉えて、華北の正統政権をもって自任する北漢は、後周領域への大規模な侵略を企てる。遼軍の助太刀を得て一気に周を滅ぼそうという勢いであった。
周の宮廷では宰相馮道らが開封籠城論を唱えたが、血気さかんな柴栄はみずから精鋭を率いて出陣、山西省の高平で敵軍と遭遇する。数の上での劣勢をはねかえす大勝利であった。
これによって北漢はもはや中原に進出する力を失い、後周は後顧の憂えなく南進政策を採ることが可能となった。二八歳の趙匡胤も大きな戦功をあげ、禁軍のなかに新設された殿前諸班の副官に昇進する。
この年、宰相馮道(tw)が薨ずる。晋王時代の李存勗に仕えて以来、度重なる軍事クーデターや易姓革命の嵐を乗り越えて、常に中央政府の要職にあった人物である。文化人としても多くの業績を残したが、なかでも李嗣源のもとでおこなった経書の印刷事業は、学術史上・技術史上特筆されている。
宋代に欧陽脩や司馬光による正統史観が確立すると、唐・晋・遼・漢・周の「五朝」、李嗣源・李従珂を唐の異姓、柴栄を周の異姓として数えて「八姓」、合計「十一君」に仕えたといして、大義名分論のうえから臣下の道にもとる大罪人と非難されることになる。
近代になってこうした儒教的評価がくつがえされ、彼は民衆のためにあえて手を汚して秩序ある世の中を追求したのだとする好意的解釈が流行するようになった。しかし、どちらの評価も、みずから長楽翁と号した馮道は、地下で笑って聞くだけかもしれない。
当時、こうしたことは文官としてごく普通の生き方であった。野蛮な軍閥たちに殺されることなく地位を保った彼の処世術は、乱世を生き延びる知恵の結晶だったのかもしれない。
P059周宋帝室関係図
P061 実際、周から宋への天下統一の流れと日本の十六世紀とを類似現象として捉える見方がある。柴栄(前述)は信長、その部下として頭角を現した後継者趙匡胤は豊臣秀吉、天下統一を実現したのが弟の趙匡義が徳川家康というわけだ。
ただ、あとで見るように、趙匡義の役回りは秀吉の実弟、大和大納言秀長にこそ当てはまる。日本でも、もし秀長のほうが兄より長生きしていたら、そんな展開になったかもしれない。
柴栄という英傑のもと、長かった群雄割拠の情勢に出口が見え始める。彼は南唐親征を一段落させると、今度は一転して北の契丹に矛先を向ける。石敬瑭が皇帝の位と引き替えに割譲した河北北部の諸州、いわゆる燕雲十六州の回収が目的であった。
戦闘は順調に進んでいた。しかし、天は周に与しなかった。名君柴栄は陣中に病を得、顕徳六年(九五九)六月、三九歳であっけなく世を去る。あとを嗣いだ息子はまだわずか七歳であった。
(略、コラム【塩】専売制と闇商人)
P063/ 065宋朝誕生、趙匡胤即位
第二章 宮廷の運営
P 067/ 069/ 071/ 073趙氏系図
P075 諸制度の確立
太宗のめざす中央集権官僚国家
太宗(在位976-997)は呉越の浙江統治権を接収、福建の軍閥陳洪進も帰順し、南方は完全に宋の直轄統治となった。つづいて激しい戦闘の末、北漢の根拠地太原もついに陥落、宋は一応の全国統一を達成した。
勢いに乗る太宗は、あの燕雲十六州奪還のため遼と対決する。おりから遼では新皇帝耶律隆緒(廟号は聖宗)が即位(982)、国号を契丹に戻して非漢民族王朝としての自覚を明示した。(tw)
燕雲台 06(相互参照)
戦況は膠着状況のまま両国のにらみ合いが続く。太宗は実質的には奪還をあきらめ、契丹との緊張状態のなかでの共存をめざすようになる。
P76周辺諸国は、宋による華中・華南制圧によって、続々と朝貢使節団を派遣した。西はシルクロード沿いのオアシス諸国家、南では現在のベトナムにあった交趾国や占城国、東は朝鮮半島の高麗、そして日本である。
もちろん、日本は正式な意味での朝貢ではない。そのためか、他の諸国と異なり、『宋史』でも太宗の治世を記録する本紀の部分には登場しない。だが、その外国伝の日本に関する記述は、太宗のもとを訪れた実質的な使節の記事と彼がもたらした情報で埋め尽くされている。
その使節とは、「はじめに」で紹介した奝然(相互参照)であった。そこでも述べたように、従来、日本は呉越国と交流していた。呉越政権の滅亡は、平安宮廷に開封宮廷と直接接触せざるをえない情勢をもたらした。
遣唐使廃止以来、黄河流域には使節を送っていない日本としては、状況視察の意味をこめて、東大寺のこの学僧を派遣したのであろう。
太宗と奝然の会談には実に興味深い記録がある。「わが国は開国以来革命がなく、大臣もみな世襲である」とお国自慢をするこの異国の僧侶に、太宗は「うらやましい」と感想を漏らしたというのだ(tw,tw)。
宋を後梁以降のような短命王朝に終わらせないためにどうしたらどうしたらよいか。国内統一を終えた太宗が当時抱えていた政治的課題はここにあった。あえて彼を弁護する言い方をすれば、太祖の皇子に帝位を継承させなかったのも、ではまだまだ不安定な時代の波を乗り切ることができないと判断したからかもしれない。
「杯酒釈兵権」がなされたとはいえ、油断はならなかった。豊臣政権にとっての徳川家康になりうる人物は、いくらもいたのである。
P077 「織田がつき羽柴がこねし天下餅」を羽柴ならぬ趙氏がそのまま味わうにはどうしたらよいか。太宗はそのために寝食を惜しんで政務に精励し、強固な中央集権官僚国家を作り上げる。しばしば独裁君主体制の確立者とされる所以である。
その最も象徴的な成果が、科挙制度の整備拡充であった。太祖時代には毎年の科挙合格者は数十人規模だったが、太宗はこれを一気に数百人に増やした。しかも、皇帝みずから試験官となる殿試を最終段階に設け、科挙の理念どおり皇帝が官僚候補生を選抜することにした。
のちには殿試の落第者というのではなく、合格順位を決めるための試験にすぎなくなったが、その順位が官僚としての昇進を大きく左右するので、受験生に名誉を与え忠誠心を培う巧妙な仕組みであった。
科挙官僚たちは、唐末以来の軍閥とは異なり、あわよくば自分が天子の位に即いて天下に号令しようなどという野心は持たなかった。大唐帝国を支えた貴族官僚たちと同様、宮廷での栄達と子孫の繁栄を願い、その環境を与えてくれる王朝体制を護ろうとする保守的な心性を備えるようになっていく。
太宗は各地の武人節度使を淘汰して文人官僚に取り替えていく。文官に戦闘指揮能力を期待することはできないが、首都駐在の禁軍を拡充することで、補いをつけた。各地の軍閥を征伐するための軍隊から国防軍への転換である。宋の軍隊が弱いという後世の評価は確かに事実だが、
P78それは国初からの意図的な政策なのである。宋に漢武帝や唐太宗のような華々しい外征の成果はない。しかし、どちらが文明的な王朝かはまた別の問題である。
太宗の制度改革として他に特記すべきは、路官の整備であろう。全国を一〇を超す路に分け、それぞれに安撫司(監察)・転運司(財政)などを設けて長官を「使」と呼ぶ。
これはかつての藩鎮が掌握していた権限を分割したもので、それぞれが中央政府に直結しているうえ普通三年任期で交替するため、独立王国を築くことはできなくなった。
しかも、路は州の上司ではなく、州もそれぞれ中央の直轄であり、「知州事」は中央政府の官職名を帯びていて、あくまで皇帝の名代として地方に臨時に派遣されているという建て前であった。
実質的には漢代の太守などと同じ地方官で、実際知事は雅称で太守とも呼ばれたが、制度上は中央官僚であるという位置づけは、彼らの意識にさまざまな面で影響を及ぼしたと思われる。
また、中央で宰相の任にあった者が、必ずしも左遷という意味あいではなく地方要地の知事として赴任することもあり、朝廷の統制を地方末端に浸透させるうえで大きく作用した。
太宗は仏教の大蔵経印刷のほかにも、大規模な書籍編集事業を起こした。唐五代までの政治文書集成である『冊府元亀』、主要述語についての出典集成『太平御覧』、逸話や奇聞の集成『太平広記』、詩文の集成『文苑英華』の四つである。
これらに引用されたもとの書物は今日滅びてしまっていることが多く、宋以前の政治や文化を知るための貴重な資料集として現在も使用されている。
P079 さらに、真宗(第三代皇帝)の時代になると、馮道が刊行した儒教の経書注釈に一部改訂を加えて再刊し、全国の学校に頒布している。このことは、第七章参照で印刷文化について述べる時に再度触れよう。
(略、コラム【軍制】)
P081
P083 華開く都市の文化
開封の繁栄を今に伝える史料が、『東京夢華録』と『清明上河図』である。
『東京夢華録』は孟元老という人物が南宋初期の紹興一七年(一一四七)、題名どおり、かつての都の夢のような栄華を偲ぶため著した書物である。記述の内容は北宋末、徽宗(第八代皇帝)の治世後半のことである。
全一〇巻は、名所や習俗を紹介する前半五巻と、年中行事を順次述べる後半五巻に分かれる。当時の首都住民の生活が手に取るようにうかがえる貴重な史料である。
と同時に、後半の年中行事には政府が主催するさまざまな祝祭が記録され、なかでも冬至の日に南の郊外にある祭場で催される行氏でも冬至の日に南の郊外にある祭場で催される郊祀の項は詳細で、一年を締めくくりとして官民一体となっての祭りが行わっていた様子がよくわかる。
郊祀とは、皇帝⁼天子が天命を受けていることに感謝して、天の最高神をみずから祭る儀式で、唐代のなかばまではせいぜい官僚たちが参加するだけの、支配者たちの祭りだった。
P84それが安禄山の乱のあとになると、事前の太廟(祖先のみたまや)・太清宮(唐の祖先老子を祭る施設)詣でを含めて、都大路を皇帝が行幸してまわる「見せる行事」に変質、一般住民も巻き込んでの祝祭となっていた。
宋の開封でも同様の、いや、それ以上の大規模な軍事パレードが繰り広げられた。行列には象も加わっており、都民は冬の寒さをものとせずに、見物に出かけて喝采を送ったのである。
そのなかを、皇帝は玉輅と呼ばれる車に乗って移動した。唐宋変革にともなう王権の変質を示す一例である。ちなみに日本で王の行列が庶民の目に触れることは、明治維新までなかった。
江戸時代、天皇は在位しているかぎり御所を滅多に出なかったし、将軍は両側の民家の戸をすべて閉めさせたうえで無人の道を粛々と進んだ。
「清明上河図」は張択端という画家の手になる都市絵巻で、後世その模倣作がたくさん作られた。ニ十四節気の一つで、唐代後半から墓参の日とされるようになった清明節(現在の暦で四月五日頃)の様子を描いている。
「上河」とは「河をさかのぼる」という意味で、開封南部を貫通している汴河沿いの光景である。ただし、この絵は開封城内ではなく、郊外の衛星都市を描いたのだとする見解が、近年有力になってきている。
ここには生き生きとした人々の姿が精密かつ写実的に描かれており、『東京夢華録』のような文献資料の漢字の羅列では知りえないさまざまな情報が盛り込まれている。
当時の人にとってはあまりにも常識的で文献に残らないことも、絵画資料だときちんと伝えてくれる。たとえば、
P085 店先に並べてある椅子に腰かける姿勢から人々の座り方がわかるし、河に浮かぶ多くの船の外形からその骨格や構造が復元できる。宋代史研究についても、こうした視覚的資料の活用が進んできている。
(「清明上河図」より趙太丞家(薬局)の場面(張択端 北京故宮博物院蔵)椅子に腰掛ける女性の姿が描かれている。中国で椅子座が定着するのは宋代からで、椅子文化が発達した。tw,tw,tw,tw)
P087澶淵の盟
P089(略)
年初早々の一一日、北辺から契丹に国境侵犯のの動きがあるという報告が届く。真宗は防御態勢の確認を命じ、軽挙妄動を戒める。春になると、秋には大規模な入寇があるだろうという情報が飛び交う。折りしも華北では地震が続き、夏には害虫が発生した。
「天高く馬肥ゆる秋」、閏九月になって、ついに契丹は大挙して南進してくる。皇太后と皇帝の親征であり、軍司令官は撻覧であった。この年宰相に就任したばかりの寇準は真宗に親征による黄河北岸での迎撃を進言する。
参知政事の王欽若は江寧(現在の南京)へ、簽書枢密院事の陳尭叟は成都への避難をひそかに上奏した。いずれもそれぞれ地元である。寇準はうすうすそのことを知っていながら素知らぬふりで、「そんなことを妄言するやつは、斬って捨てましょう」と、断固として黄河を防御線とすることを主張する。こうして、あまり気乗りのしない真宗に率いられて、宋の主力は澶淵に布陣した。一一月のことである。
その前に、小競り合いで流れ矢に当たって撻覧は戦死していた。契丹軍の士気はおおいにくじける。一方、寇準も実際に戦闘を開くつもりはなかった。はじめから講和を計画しての出陣だった。だが、独断専行すればあとで国を売ったと弾劾を受ける恐れがある。
そこで皇帝を現地に引きずり出し、交渉に直接関わってもらうように仕向けたのだった。真宗のほうは厭戦気分に染まっていたから、戦う気は毛頭ない。陣中でもいつ敵襲があるかとびくびくしていた。それを察した寇準は文人官僚の楊億と毎晩のように飲み明かし、
P90 その様子を側近の報告で知った真宗は、はじめて安心して床に就いたという。
宋は使者として曹利用を契丹の陣中に派遣した。宋が契丹に毎年どれだけの額を支払うことを講和条約に盛り込むかが焦点となる。なんとしても戦争を避けたい真宗は、「一〇〇万でもかまわんぞ」と彼を送り出す。
ところが、寇準は曹を呼び止め、「もし三〇万以上だったら貴様を斬る」と脅す。その甲斐あって、曹は三〇万に値切ることに成功した。復命に戻る曹利用、いくらだったかを宦官に早速尋ねさせる真宗、曹は事の重大性から御前で直接答えたいと、とりあえず指三本で数を示した。
ところがこの宦官は「指三本ですから三〇〇万でしょう」と上奏してしまう。「高いなあ」と叫ぶ真宗、外に控える曹の耳にはこの真宗の語だけが聞きとれたから堪らない。冷や汗を流しながら、「わたくしめはとんでもない条件を呑んでしまいました」と言上するはめになる。
「それでいったいいくらなのだ?」「三〇万でございます」
曹はただ平伏するのみ。ところが彼の案に相違して、真宗は表情を一変してご満悦であった。曹が山のような褒美を手にしたことは言うまでもない。
大宋宮詞24 30:00~(tw)P091/ 093/ 095/ 097/ 099/ 101/ 103/ 105/ 107/ 109
未完の政治運動--慶暦の改革 P97-100
第七章 技術革新
中国の印刷文化を支えた木版印刷 P256-257(tw,tw,tw,相互参照)
医書の出版ラッシュと海外流出 P258-261
宋代の料理の特徴 P262-264(tw)
水路を往来する川船 P286-289
「南船北馬」という成句が示すように、江南の一〇〇万都市臨安府をはじめ、蘇州(南宋途中から平江府)・秀州(南宋途中から嘉興府、現在の嘉興市)などで生じる大量の排泄物は、大運河をはじめとする多数の水路を通じて農村に運搬された。
そして、農村で収穫された食料や衣料・油などの日用商品作物は、その逆の経路で消費地に運ばれた。北宋の場合は首都開封までの距離はだいぶ遠かったが、それでも水路は内陸にあった。
宋代中国を代表するのは九章で取り上げる海外交易のために使われる帆船というよりは、実はこうした水路を行き来する川船だった。川船は時に漕がれ、時に曳かれて水路を進んだ。
内陸水路専用といっても、その規模は大小さまざまだった。こうしたものの復元には文字史料より絵画が有効である。「清明上河図」に精密に描かれた船をすべて図面に起こして工学的に検証する作業が、日本の研究者によって行われ、これらの船の構造が従来思
P287 い込まれていたのとは若干違うこともわかってきた。
宋代、特に南方の移動はほとんど水路沿いに船によって行われた。そのほうが乗り手も楽だからである。多作詩人として知られた陸游の『入蜀記』は、乾道六年(一一七〇)、彼が地方官として故郷紹興府から四川に向けて旅した時の日記であるが、ことごとく舟を使っている。
夜は沿岸の津に停泊するため、そこが州城・県城など都市の近くであれば、当地の士大夫がやってきて、詩や書画の交歓会となる。第六章で述べたような士大夫間の人的ネットワークは、こうした舟の旅によって作られたと言ってもよい。
蘇軾が海南島に往還する旅もできるだけ川沿いに一旦海に面した福州まで出ている。「板子一枚下は地獄」という怖れは彼らには無縁のものだったようだ。それだけ宋の造船技術は信頼するに価するものだったのだろう。
高名な人物が水難事故で亡くなった事例は史書に伝えられていない。
「清明上河図」に描かれた、運河を通航する舟の姿。水上交通が優先されていたことは、水路に架かる橋の形状にも明らかである。日本で言う太鼓橋、いわゆる<虹橋>なのだ。
P288 現代社会で自動車の通行を優先させるため、人間様がえっちらおっちら息を切らせて歩道橋を登らねばならないのと、まったく同じ発想である。人々が虹橋の昇降に苦労する下を、荷物を満載した川舟が我が物顔に横切っている。
(「清明上河図」より虹橋と曳き舟)
第八章 文化の新潮流(tw)
喫茶と陶磁
飲料における唐宋変革
P312 「唐詩は酒、宋詩は茶」と言われる。俗耳に入りやすい標語の通例で、必ずしもそう割り切れるものではないが、後世から回顧してそう表象されてきた事実は重い。唐の詩人というと李白のようにいかにも大酒飲みで、おのが才能の世に認められことの憂さをアルコールの力を借りて晴らしたり、詩作の霊感を得たりしていそうである。
これに対して、宋の詩人というと、蘇軾にしろ陸游にしろ、政争に敗れて官界に意を得ないながらも、そうした世間を、気のあう仲間たちと茶を啜りながらあれこれ批評している図が目に浮かぶ。
詩の内容が理屈っぽくなっているのも、そうしたイメージ形成を支えていよう。それぞれの時代の詩人が実際には何を飲んでいたにしろ、こうした形で語られるところに、飲料における唐宋変革がよく現れている。
茶こそは、宋に始まる近世文化を象徴する飲み物である。もちろん、その風習自体は唐以前から存在する。中国西南山間部原産の茶の葉から出るエキスを湯に溶かして飲むこと
P313 は、かなり早い時代から知られていた。吉川英治の『三国志』が、一介の行商であった劉備がコツコツためた全財産をはたいて老婆のために茶を贖う場面から始まっているのは、いささか時期尚早の気味があるけれども、三国分立に始まる六朝時代の宮廷人は酒だけでなく茶も飲んでいた。
ただ、まだそのころには、茶は士大夫の精神を象徴する飲料だなどとは全然考えられていない。茶が文化的になってくるのは、唐の後半、陸羽の有名な『茶経』のころからである。
これが十一世紀ともなると、宋の人々が愛飲するのはもちろん、北方異民族王朝にもその需要が生じ、北部国境での遼や西夏との交易が茶馬貿易とも呼ばれるほどに、重要な輸出品目になった。
今でも俗に「唐は団茶、宋は末(抹)茶、明は煎茶」とされるが、最近の研究によれば、これは意味のない言い条らしい。
実状を正確に言い直せば、唐代人は茶の葉を蒸して固めた<磚茶>を削って湯で煮出しして飲み、宋代人は磚茶を粉末にして湯をかけ混ぜ合わせた液体を飲み、明代人は葉の形のままのものを湯に浸してのんだという。
現代日本で日常食卓に供されるのは明のやり方に近く、お作法の対象となっているのが宋代の抹茶の飲み方であるということになろう。栄西が健康飲料として現地体験し、故国に紹介したのも、この抹茶の飲み方。すなわち<点茶>であった。
この「点」は動詞で注ぐ意味。栄西も使っているように「喫茶」という語もすでにあって、「喫茶去」という表現で禅の語録に頻出する。
P314余談ながら、かつてこれを「まあお茶でも一服」と訳していたのはとんでもない間違いで、「茶堂へ行って茶を飲んでこい」、ようするに「顔を洗って出直してこい」という叱責の常套句だとか。
師匠がなぜ𠮟ったのかを頭を冷やして考えるための飲料として、宋代の禅寺で茶が日常の飲み物になっていたことがわかる。
ついでに言えば、朱子学揺籃の地福建北部の建州は宋代からすでに有名な茶の産地であった。「宋詩は茶」という以上に、「宋学は茶」というほうがしっくり来る。禅寺同様、朱熹の私塾においても茶が飲まれていたことはまちがいない。辛辣な口調の多い朱熹の語録『朱子語類』に、「喫茶去」という句は見えないが。
だが、今の日本で人々が「福建」と聞いて真っ先に連想するだろう烏龍茶は、当時まだ存在しない。その製法が確立するのは数百年後である。一九八〇年代に缶入りの、九〇年代になってペットボトル入りの烏龍茶を商品化したのは日本の飲料メーカーであって、中国ではもともと茶を冷やして飲むなどという習慣はなかった。
ところが、「中国人はアイスティーは飲まない」と授業で大見得を切って学生たちを感心させていたのもつかの間、今や大陸でも台湾でもコンビニで冷やした茶を購入する人々の光景が普通になってしまった。
話を戻そう。
宋代の喫茶法を伝える文献としては、かの慶暦士大夫の蔡襄の『茶録』や徽宗の『大観茶論』が有名である。
P315 福建出身の蔡襄の『茶録』は、上篇で、色・香・味の佳品の話題に始まって茶葉を飲むまで過程を説明し、下篇ではもっぱら茶器を論じている。『大観茶論』も建陽の御茶園産のものを中心に、その喫茶法を詳細に紹介する。
しかし、栄西が味わった浙江の寺の茶は、粉茶を茶葢に入れてかきまわしたもので、こうした高級な磚茶ではなかったらしい。宋代茶書が宮廷で味わわれる最高級品の記録であるのに比べて、浙江の人々の日常飲料に近い形だったのだろう。
いずれにしろ、その後の留学僧や渡来僧の貢献もあって、禅宗寺院は日本に喫茶の風習(相互参照)を伝える拠点となっていく。抹茶の茶道に対して、宇治の煎茶の作法が、一七世紀の福建から伝わった新来の黄檗宗によることも、蛇足ながら付記しておこう。
宋代工芸の極致--陶磁器(tw)
その茶を飲むための器が、宋代工芸の粋をきわめた陶磁である。その絶妙な色合いは、技術的にはより高度に発展したはずの清朝工房が模倣作を作っても、素人目にも違いがわかる程度の作品しか作れなかったほどのすばらしさであった。
天目茶碗と日本で呼ばれているものの中国での呼称は、黒磁である。その特産地は茶と同じく福建建州。黒色の釉薬がかもしだす得も言われぬ風合いに、朱子学に通じる精神性を感じるのは、そう思い込んでいるからにすぎないのだろうか。
この地特産の土がその色のもとになっている黒磁には、兎の毛のような黄土色の文様(中国名《兎毫》、日本名《禾目》)や銀色の斑点すなわち《油滴》をともなって焼き上がったものもある。
P316そもそも、唐三彩のような陶器から、焼き上げ温度の高い磁器が発展してくるのは、前章の調理法のところで述べた火力の改良が原因である。その代表的産地としてまず頭角を現したのが磁州(現在の河北省邯鄲市)で、そのため日本では高温で焼かれた陶器一般のことを特に「磁器」と呼ぶのである(中国語では「瓷器」という表現を用いるのが普通)。
瀬戸産でなくても「瀬戸物」というがごとしか。磁州窯の産品は白磁に黒で模様を描いたものが多い。
白磁の色の精度をさらにあげたのが定州(現在の河北省定州市)であった。定州は遼との国境に接していたが、定窯では北宋末期にかけて釉薬の製法を洗練させ、ごく薄い塗りで光沢を出すことに成功した。白磁としては、このほか、江西の景徳鎮窯が有名である。
P317宋代陶磁の名品(写真)
黒磁・白磁をしのいで、宮廷で最も好まれたのが青磁である。南方では処州龍泉県(浙江省)を産地とする。龍泉窯は古くから栄えた越窯の流れを継いでいる。いにしえの越の地、北宋の行政区画でいえば、越州・明州・台州といった浙江東南沿海部で焼かれる器は、古代の灰陶以来の伝統的な色を基調とする。
土地柄から輸出品としての需要も大きかった。また、鈞州(現在の河南省禹州市)や耀州(現在の陝西省銅川市)の彩色青磁は、原色ではなく、淡い色合いの微妙な変化を特徴とする。
以上、北方の定・磁・鈞・耀、南方の景徳鎮・越・龍泉・建が宋代の八大窯とされるが、汝州(現在の河南省汝州市)や吉州(現在の江西省吉安市)も窯場として有名であった。
このほか、宮廷御用という意味で官窯と呼ばれる窯場が存在した。都の移転にともなって、南宋の官窯は臨安近郊に作られている。
いずれにしろ、わたしのつたない文章能力ではこれらの作品の真価を表現することは到底できない。やはり、美術館に足を運んで実見していただくしかない。
唐三彩が墓の副葬品、いわゆる明器として焼かれたものが多い---単に現存するものが発掘や盗掘により発見されたからという面もあろうが---のに比べて、宋代の白磁・青磁・黒磁は日用生活品であった。
観賞用のものも、すくなくともそうした用途を意識していた。祭器ではなく実用品として焼かれたことに、東アジアのみならず、全世界に向けて輸出・拡散していった理由があろう。
生活に根ざした芸術、宋代文化の特質を、磁器はこの面でも象徴している。
P319
金石と名物
古代文字の研究
P321至大重修宣和博古図禄(写真)
P322欧陽脩より数十年遅れて、徽宗は宮廷に蒐集した古代の器物を『宣和博固図録』に描かせた。その時代に趙明誠という若き蒐集家もいた。彼らだけでなく、当時コレクターはいくらでもいたであろう(tw)。
趙明誠の名を不朽のものにしたのは、彼自身が作成した目録が朝廷に献上され、後世、伝写され印刷されて流布しつづけたからである。それには次のような哀話がともなっていた。
趙明誠は地方官を歴任する士大夫官僚であった。靖康の変のときには青州(現在の山東省青州市)におり、迫り来る金軍から逃れて南方へと避難することを余儀なくされる。転々とするうちに膨大なコレクションはしだいしだいに身辺から消えていき、流浪生活のなかで死んだときにはほとんど散佚していた。
彼が少しづつ書きためていた蒐集品についての解説目録『金石録』を朝廷に献上して後世に伝えたのは、遺されたその妻であった。したがって、この時点で、それは欧陽脩の『集古録』のように眼前にある所蔵目録ではない。
靖康の変によって家も財産も夫も失った女性が、それらへの追憶からまとめた作品なのである。彼女の名を李清照P354という。わたしたちは、本章四節「文学」で彼女と再会することになろう。
(略)P323/ 325
書画
P327/ 329/ 331/ 333/ 335/ 337/ 339/ 341/ 343
庭園建設--宋代人の自然観
P344庭園に石をよそから運んできて人工的な自然景観を造る試みは、唐の白居易が始めたと言われている。彼は知事を務めたことのある蘇州や杭州から気に入った石を洛陽の屋敷に運ばせた。
唐の都といえば、西の西安、東の洛陽であるが、宋代になると長安のほうは京兆府と呼ばれて永興軍路の路の役所が置かれているだけで、四京よりは軽く扱われて地方都市と化している。
一方の洛陽は、宋の京西北路の中心河南府城であるにとどまらず、西京として副都扱いを受けていた。太祖の時にはまだ洛陽への憧憬が強く、まじめに遷都も検討されている。
神宗のころともなると、さすがに開封の首都としての権威が確立していたが、開封からの適度な距離のために新法党政権に批判的な重鎮たちのたまり場になる。彼らは政治の実務からは遠ざけられていたため、自分の趣味とライフワークに悠々と時間を過ごしながら、互いに行き来していた。その場として庭園は重要な役割を果たした。
当時、李格非が書いた『洛陽名園記』は、そうした洛陽の庭園十七ヵ所を紹介する。その筆頭に挙がるのが、司馬光の独楽園であった。『資治通鑑』編集の息抜きに、ある時は一人で、ある時は友人たちと、その景観を楽しんでいたのである。
これらの庭は、唐代のものをもとにして宋人が手を加えたものが多かったらしい。白居易故宅の大寧時も、『洛陽名園記』に見えている。
P345/ 347/ 349/ 351
P353
作詞の盛行
P354彼(蘇軾)より一世代下には女流詞人の李清照がいる(tw,tw,tw,tw)。
如懿伝26 07:05~ 葉赫那拉意歡の歌舞「酔花陰」本章三節「書画」で言及した『洛陽名園記』の著者李格非P344の娘で、二節「金石と名物」で紹介した金石蒐集家趙明誠P322の妻である。彼女の代表作を掲げておこう。
「酔花陰 九日」題名のうち「酔花陰」というのは、この詞の原曲の名。五句からなる節回しを二度繰り返すので、全部で五二文字の歌詞を埋めることができる。引用は二番の歌詞にあたる。
東籬把酒黄昏後
有暗香盈袖
莫道不消魂
P355
簾捲西風
人比黄花痩
東籬に酒を把る 黄昏の後
暗に香の袖に盈つる有り
消魂せずと道う莫かれ
簾は西風を巻く
人は黄花に比して痩せたり
「九日」というのがここでの内容に即した題名で、九月九日の重陽の節句を一人で過ごす寂しさを詠じている。思い人は夫の趙明誠である。
この詞に次のような逸話が伝わっている。彼女がこれを夫のもとに届けさせると、その出来栄えに感動した趙明誠は、なんとかこれ以上の
作品を作ろうと数日がかりで作詞に没頭する。できあがった作品には李清照のものをこっそり混ぜ、友人に送って批評を仰いだ。
その友人いわく、「よくできているのは三句だけだ。『消魂せずと道う莫かれ、簾は西風を巻く、人は黄花に比して痩せたり』のところだね」。やはり妻のほうがすぐれた詩人だったというわけである。
夫に先立たれ南宋初期の艱難辛苦を生き抜いた李清照は、古くから宋代を代表する女性として注目されてきた。ただ、彼女を宋代女性の典型例としてしまってよいものかどうか、それはまた別の問題である。
彼女は范仲淹や欧陽脩の母親がそうであったように、士大夫の子女として男性の文化を体現していた。男たちは(いつの世もそうであるように?)精神的な伴侶として女性を求める反面、一時の渇きを癒してくれる妓女も求めていた。詞のなかにはそうした華やかな妓楼の世界を謳ったものも多い。
(略)第10章 中華の誇りP 405/ 407/ 409/ 411/ 413/ 415/ 417/ 419/ 421/ 423蒙古との衝突/ 425/ 427/ 429朝廷の全権を握った賈似道/ 431/ 433襄陽攻防と臨安開城/ 435/ 437/ 439/ 441/ 443/ 445/ 447/ 449
マルコ・ポーロS110(tw)
新十八史略6
P70-82
小説十八史略3
P061-105 傾国の美女の由来、李延年の歌「北方有佳人~」。妹は武帝の寵妃李夫人、もう一人の兄弟李広利(武人)が過度に重用され、李陵、司馬遷の悲劇へとつながる傾国の佳人 霍去病、衛青、蘇建、周覇、司馬遷、李広、李敢、平陽公主、曹参、曹時
061/ 063/ 065/ 067公孫弘、張湯、汲黯、李夫人、李延年/ 069
弐師将軍が行く 李夫人、昌邑王、劉賀、李延年、李広利、張騫、姚定漢、
071/ 073/ 075/ 077昧蔡、郁成王/ 079/ 081
生き恥さらして 李陵、韓嫣、李当戸、李広、衛青、李敢、霍去病、路博徳、趙破奴、司馬遷、司馬談、李広利、
083/ 085/ 087/ 089/ 091
異域に生きる 李陵、公孫敖、衛青、皇后陳阿嬌、李広、皇后衛子夫、公孫賀、李緒、蘇武、張勝、常恵、
093/ 095/ 097/ 099/ 101/ 103/ 105
P174-194 王昭君
P204 趙姉妹(飛燕/合徳)(tw)
姉の飛燕はその名のとおり、ほっそりして、身のこなしの軽やかな女であった。
─ ─ 掌上 で 舞う。
というのが、かならずしも大袈裟な形容ではなかったのである。
P205-211
後宮の諍い女62 冰嬉
P232 成帝の死は急逝であった。すなわち房中薬、特別強壮剤の飲みすぎであった(tw,tw)P233。
クィーンズ 長安、後宮の乱32 24:45~趙合徳、成帝に強壮剤を(一日一粒を十粒)飲ませる。
小説十八史略1
P291 百家争鳴の裏方(tw,tw)
P291衛で生まれた呉起は、魯から魏へ、魏から楚へと、兵法の実力者という看板をかついで渡り歩いた。
戦国の世では、このような渡り鳥をうけいれてくれる人がいた。各国ともそれだけ熱心に人材をもとめていたのである。国だけではなく、個人もまた人材をもとめた。自分の立場を強くし、足もとを固めるためにも、まわりに人材をあつめておかねばならない。
兵法家孫臏(tw)が斉にいたころ、斉のみやこ臨淄は中国で最も栄えたまちであった。遺跡の調査で、一辺四キロ余りのほぼ方形の規模であることがわかっている。城壁の長さは十九キロあまりで、高さは十メートルほどと推定されるようだ。これに雍門、稷門、申門など十三の城門があった。
稷門あたりには、豪壮な邸宅がならんでいたが、これはひろく天下から招聘した学者や思想家に提供されたものである。彼らは上太夫の俸給をもらっていた。次官クラスである。
P292だが、きまった仕事はない。たがいに議論をして、研究をふかめ、違ったジャンルの学者からなにかを摂取することにつとめた。彼らは稷下の学士と呼ばれた。
当時の人たちは、彼らの自由討論を、--百家争鳴--と表現した。こんなふうに、稷下の学士を優遇したのは、斉国の人材集めの方法だったのである。すぐれた学者が集まった。
孫臏がその兵法を完成させたのは、この稷下の学風に触発されてであろう、と推測する学者もいる。
興味あるのは、稷下の学士に、比較的儒家がすくなかったという事実である。性善説の孟子と性悪説の荀子の二人ぐらいが、名の通った稷下の儒家であろう。
大秦帝国12 11:00~斉国の稷下学問所の討論会、孟子vs衛鞅vs申不害(tw)だが、これはふしぎなことではない。
中国の学問といえば、儒教と考えられているが、そんなふうになったのは、ずっとのち、漢の武帝のころから(幼少の武帝を支えた竇猗房は黄老思想tw)である。戦国時代の儒家は、諸子百家のうちの一家にすぎなかった。
また、儒家は、斉という国を好きでなかった。
斉はいうまでもなく、周の元勲太公望呂尚の封じられた国である。だが、紀元前四八一年に、簡公が田常に殺されてから、田氏の国になってしまった。当時、魯に仕えていた孔子は、魯の哀公にしきりに出兵して田氏の斉を討つように建言した。
しかし、魯の国力では、斉には勝てないので、出兵は沙汰やみになったといういきさつがある。斉の簡公の死の二年後に、孔子は死んでいる。
P293孔子のきらった斉に、儒家があまり足をむけたがらなかったのはとうぜんであろう。
また、稷下先生の学風も、きわめて進歩的であったので、復古主義者の多い儒家の肌に合わなかったという事情もある。
---才能さえあれば、出身地を問わないし、その身分も問わない。
という斉の方針そのものが、儒家の目を剥かせたにちがいない。
身分をはっきりさせ、序列をきびしく守るのが儒家の考え方である。孔子も--貴賤、序なくんば、何を以てか国を為さん。(『春秋左伝』)---と強調した。
貴い者はいつまでも貴いのであり、賤しい者はいつまでも賤しい。この身分制度をゆるがせると、国が成り立たないというのだ。
孔子が夢にまでみたのは、周公の治世である。すなわち、奴隷制はなやかりし殷周のいにしえなのだ。そのいにしえに戻すのが、孔子の理想であった。身分の違いを強調するのは、それが奴隷制社会を成立させる基本の条件だったからである。
奴隷が身分をわきまえずに、反抗などをやりだせば、社会の体制は崩壊せざるをえない。手工業奴隷の反乱(百工の乱)をはじめ、各地に奴隷の反抗がおこっているのことが、孔子にはなげかわしくてならなかった。だからけんめいに、
P294---貴賤の序
をはっきりさせよと唱え、いにしえの良き世になすよしもがなと、復古思想の体系をつくったのである。
その孔子が生きて、斉都の稷下のようすを見れば、目をまわしてしまうだろう。
そこには数百から数千人にのぼる学者が集まっていたが、この学士院の院長は誰あろう、奴隷出身の人物だったのだから。
姓は淳于(じゅんう)、名は髠(こん)。
本名はじつは不明である。孫臏の「臏」が足切りの刑に処せられたのを意味するように、『髠』は奴隷を意味していた。髠のもとの意味は頭を丸刈りにすることで、当時、それは奴隷のしるしであった。
といっても、彼は生まれながらの奴隷ではなかった。家が貧しいため、奴隷に売られたのである。兄弟は多かったが、売られたのは彼だけであった。彼を売った金で、両親は彼の兄弟を養った。
わが子は可愛い。そのなかから一人の犠牲者を出さねばならぬとすれば、世の親はどうするだろうか?籤引きできめるだろうか?
淳于髠の親は、籤引きできめたのではない。
P295淳于髠は五尺に満たぬ小男で、顔はいちど見たら、もう忘れられないというほどひどいものだった。あるかなしかの鼻は二つの穴が天上をむいているし、両眼は高さも大きさもそれぞれ違っているという始末である。
体力がないので、農工はの生産にはむかない。もっぱら家事雑役に従事したが、そのほか別の役目をうけもたされた。
---奴隷をふやす---という仕事である。
女奴隷と結婚させられた。生産手段である奴隷の数をふやすことは、奴隷主としても忘れてはならない仕事だった。
(なんだ、こんなちんちくりんの醜男)
淳于髠と夫婦にさせられた女奴隷は、相手のひどい面相をみて、内心、そう思った。彼女は自分を美しいと思っていたし、他人からよく賢いと褒められていた。だが、奴隷の結婚は、当事者にはすこしの発言権もない。
淳于髠は妻の顔を見て、
「おまえは、なんだ、こんなちんちくりんの醜男、と思っているだろうが、これは主人の命令なんだ。おれを恨んでくれるなよ」
と言った。
ずばり心のなかを言い当てられて、妻はどきりとしたが、しばらくして、
P296(頭はわるくなさそうだわ。でも、こんなご面相では、どんな子が生まれることやら)
と心配になった。
「おまえ、心配することはないよ。そりゃ、おれはちんちくりんだが、おまえはきれだよ。だから、ひどい子供は生まれないだろう」
淳于髠にそう言われて、妻は気味が悪くなった。
「なぜあたしが子供のことを心配しているとわかったの?」
「だって、おまえの顔にそうかいてある」
「この顔に?」
彼女はそっと自分の顔を撫でた。ポーカーフェースにかけては自信があるのに、その底にあるものを見すかされるとは。---(あんがい賢そうな男だけど、せめてもう半尺でも背が高ければ…)
彼女はふとそう思った。すると夫は、
「そりゃ、無理だよ、おまえ、もうおれは大人だから、これ以上背はのびないよ」と言った。彼女は目をみはって、
「あなた、それをどこで習ったの?」
「それとは?」
P297「別に習ったのじゃない。しぜんにおぼえたんだろうな。…」
むろん、しぜんに習得した技術であった。いや、それが抜群の技術であることを、彼自身はまだ気づいていない。妻にいわれて、ようやくそれが特異な才能であるらしい、と思いはじめたのである。
特異な才能は特異な環境から生まれる。貧窮の家の、愛されない醜い子供は、他人の顔色ばかりうかがって育った(tw)。
---この人は飯を恵んでくれるだろうか?朝起きて夜眠るまで、彼はそんなことばかり考えていた。そのためには、他人の心を読まねばならない。ゼニを恵んでもらおうと近づいて、ポカリとやられてはたまらない。読もう読もうとすれば、人間の心など、その表情から読み取れるものなのだ。
---この人はおれを殴るかな?
---どうすればこの人からゼニをもらえるだろうか?
「その人の心を読む術、きっと役に立つわ。あたしたち、そのために、奴隷の身分から解放されるかもしれないわ。やりようによってはね。…さ、考えましょうよ、そのやり方を…」
淳于髠の妻は、夫の思わぬ才能を発見して、興奮してしまった。
「そうだわ!奴隷主なんか相手にしたって仕方ないのよ。将軍さまとか宰相さまとか…それから、あたしたちに許された機会は、とっても短いのよ。…だから、あなたがこれから修行しなきゃならないのは、短いけれど、人の心にくいこむ言葉ね、そう機智の言葉よ。…うまくいったら…」
P298彼女は一人でしゃべった。
じつは彼女も特異な才能の所有者であった。それはプロデューサーの才能である。演出と宣伝の天才によって真の才能が売り出されたのだから、うまく行くはずであった。
淳于髠はたちまち奴隷の身分を脱することができた。稷下の学士の世話役。---これから彼はスタートしたのである。
淳于髠自身も、稷下の学士の一人にかぞえられているが、これといって専門をもつ学者ではなかった。博覧強記、滑稽多弁で知られていた。
おなじ稷下の学士でも、彼は孟子や荀子のように著作でしられているのではない。かずかずの断片的なエピソードが、彼の存在をきわ立たせている。
斉の威王(tw)は、ある時期、酒色におぼれて、政治をほったらかしにしていた。それが三年もつづいて、国政は荒廃した。だが、うっかり諫言しようものなら、このむこう気のつよい王に、ばっさり首を刎ねられるおそれがあった。
淳于髠は威王にむかって、
「国のなかに大鳥がいて、王の庭にとまって三年の間、飛びもしなければ鳴きもしません。さて、王さま、いったいこれはなんという鳥かご存じでしょうか?」
P299「は、は、は…」威王は笑ってから居ずまいを正し、「その鳥はな、飛ばなければそれっきりだが、いったん飛べば天まで突き抜けるのじゃ。鳴かねばそれっきりだが、ひとたび鳴かば、人を驚倒させるじゃろ」
威王はこれを機に、政治に身を入れ、みるみる国勢を立て直した。「鳴かず飛ばず」という成語の由来である。
おなじ威王のとき、楚が攻めてくるので、趙に救援を依頼することになった。その使者にえらばれたのが、淳于髠である。威王援軍依頼の礼品に、黄金百斤、車馬四十頭を趙に贈ることにした。
「わっはっはっ、わっはっはっ…」
大声で笑ったのは、こんどは淳于髠であった。あまり笑いすぎて、冠の紐がぷつんと切れてしまったほどである。
「なにがおかしいのか?」と、威王は訊いた。
「ついさっき、私め東のほうから参りましたが、途中で一人の百姓が道ばたで豊作を祈っておりました。豚の蹄とお酒一碗のお供えをあげて、
ちっちゃな山の田んぼから籠いっぱいP300「わかった」
くぼ地の田んぼから車いっぱい
五穀よくみのれ
我が家に満ち満てよ
威王はにがわらいをして、礼品を黄金千鎰、白璧十対、車馬百頭にふやした。そこで、淳于髠は趙へ行き、精兵十万、兵車千台を借りたのである。楚はそれを知って、早々に兵を退いた。
もしはっきりと、「礼品がすくない」と言えば、威王の性格だから、「いや、鐚一文もふやさぬ」と意地になるおそれがあったのだ。
---意を承け色を観るを勤めとなす。
淳于髠のことを『史記』にはそう記す。
相手の意中を察し、その表情をみることにつとめたのである。
---いかにも奴隷的なやり方だ。どうして正しいことなr、正々堂々と諫言しなかったのか?
という非難もあるだろう。
だが、彼は読心術でここまで来たのだし、奴隷的といわれても、じっさいに奴隷出身だったのである(tw)。
P301ある人が彼を魏の恵王に紹介した。二度も引見したが、淳于髠はついに一語も口にしなかった。恵王は紹介者にむかって。
「あんたは、淳于髠のことを古今独歩の賢人のように言っておったが、わしにはひとことも口をきいてくれなかったぞ」と、詰問調で言った。
その紹介者が、髠に訊くと、
「一回目は、王は馬に乗ることばかり考えておられた。二回目は音楽に心を奪われておられた。だから黙っていたのです」という返事であった。
紹介者がそのことを恵王に言うと、王は、
「うーん!」 と唸った。たしかに一回目は、名馬を献上した者がいて、それを見ようとしていたところへ髠が来たのである。二回目は名歌手が来たというので、その歌をきこうとしていたところだった。
じつは、どちらも心は来客の言葉にむけられていなかったわけだ。それを読み取られた恵王は、
「淳于髠はほんとうに聖人のようだ」
P302と、いたく感心し、日をあらためて引見し、三日のあいだ話をきき、すっかり惚れ込んで、どうしても召し抱えたいと言いだした。
だが、淳于髠は固辞した。彼は生涯、仕官しなかったのである。斉でも、稷下の学士として、実職についたことはない。
稷下の大学者、大思想家たちは、それぞれ一匹狼で、ちょっと手に負えない人物ばかりであった。自分が天下第一の学者だと思っているから、きわめてやりにくかったに違いない。
しかし、どうやら彼はうまくやっていたようで、たいした悶着もなしに、百家争鳴をたのしんでいたとおぼしい。
おそらく読心術の名人である淳于髠が、彼らのなかにはいって、いろいろと対人関係を調整していたからであろう。彼の機智は、潤滑油として、大きな役割を果たしたはずだ。
稷下の諸学士の百家争鳴から、中国の学術思想の重要な部分が誕生した。とすれば淳于髠という、奴隷出身の読心術の大家の功績は、意外に大きいのではあるまいか。
小説十八史略1
P328 商於六百里
大秦帝国2縦横
32 19:05 34 26:37
(P329-)
(P373-同門の弟子 荀子→李斯、韓非)(相互参照)
戦国策
P138-蛇足
大秦帝国2縦横
38 40:50 39 11:35
P266-触龍と趙皇太后の話 父母之愛子 則為之計深遠(相互参照)
P266/ 268/ 270/ 272
明蘭23 13:57~(tw) 宮廷の諍い女76 38:25~(tw、tw)
戦国策2
(P18-)
P20小節に傚(いた)す者は大威を行う能わず小恥を悪む者は栄名を立つる能わず(小さな操を立てる者には大きな威令を行うことはできず、小さな恥を憎むものには栄えある名声を揚げることはできない)、效小节者不能行大威,恶小耻者不能立荣名(参照)
大秦賦78終(full) 21:39~田冲「小事にこだわる者は威厳を失い、薄恥に耐えぬ者は名声を失う
日本語字幕 中文字幕 效小节者不能行大威 恶小耻者不能立荣名
『史記』滑稽列伝
346淳于髠/ 348/ 350優孟/ 352/ 354/ 356/ 358郭舎人/ 360東方朔/ 362/ 364/ 366衛青/ 368/ 370/ 372/ 374戦国策3第二十七韓(二)(tw,tw)P 122/ 124
大秦帝国縦横51(最終話)