2019年2月25日月曜日

偏愛メモ 『光源氏が愛した王朝ブランド品』(随時更新)

はじめに(tw)

P12 たとえば、『竹取物語』でかぐや姫が五人の求婚者たちに課した難題の品は、国内にはないものがほとんどです。求婚者たちの解決方法はそれぞれですが、「火鼠の皮衣」を求められた阿部御主人は、唐商人の王けいに頼んで手に入れようとします。(略)

『うつほ物語』では、紀伊国に住む神南備種松という億万長者が登場しますが、その広大な邸は唐物だらけ。(略)

『枕草子』にも、「唐錦」「唐綾」「唐鏡」「唐の紙」「瑠璃壺」など、唐物がいろいろ登場し、定子サロンを華やかに彩っています。定子も唐物に囲まれることで、中宮としての威儀を保とうとしたのです。

そして『源氏物語』のヒーローこと光源氏もまた、唐物を贅沢に所有し、消費し、贈ることで、権力を保持し、物語のヒーローになりえたのです。そして光源氏にかかわる女君でも、女三の宮、明石の君、末摘花などは舶来ブランド派なのです。(略)

しかし、ここで一つの通説が立ちはだかります。『源氏物語』や『枕草子』をはじめとする王朝文学は、そもそも国風文化のなかで成立した作品であり、その時代に舶来品などあまりなかったのではないか。仮に存在するにしても、王朝文学にとって、ごくごく小さな要素にすぎないのではないか、という説です。

たしかに、それらの文学は、国風文化の時代に花開いた作品ではありました。しかし、そもそも国風文化とはいかなる文化だったのでしょうか。

私たちは、国風文化を鎖国のような時代の文化と、先入観だけで捉えているのではないでしょうか。まずは、その先入観を洗い直すことから、本書をはじめてみたいと思います。

一 唐物は王朝生活の必需品 P15-24

国風文化という幻想 P15-18
P15 平安時代の文化というと、学校の授業で、唐風文化から国風文化ヘ移行したと習ったのではないでしょうか。従来は、平安時代の初期は唐風文化が優勢であったのが、寛平六年(八九四)の遣唐使廃止から、唐の文物と影響も薄れたことにより、国風文化に推移したと説明されてきました。

国風文化では、仮名文字の発達により和歌が隆盛し、『古今和歌集』の撰集が行われました。また、『土佐日記』をはじめとする日記文学が成立し、『竹取物語』『伊勢物語』、さらには『源氏物語』といった物語文学が発達したわけです。

もとより、王朝文学が国風文化の枠組みから捉えることが、誤りというわけではありません。仮名文字の発達をはじめ、洗練された貴族文化が王朝文学の土壌であることはいうまでもないことです。しかし、国風文化は、本当に遣唐使が廃止されて、鎖国のような状態となって隆盛した文化と考えるべきなのでしょうか。そもそも国風文化という概念は、どのように成立したのでしょう。

P16 歴史学では、「国風文化」をもともと国文学の用語とし、「国風暗黒時代」が一九三〇年代には使われていたとします。(略)近代国文学の成立時にさかのぼると思われます。というのも、国風文化という概念は、日本文学の自立や優位性という認識と結びついて、近代日本という国民国家が求める文学史のなかで語られはじめた形跡があるからです。

近代では、中国文学の雄壮さ、西洋文学の精緻さに対して、日本文学の優美さが、国民文学の特徴として賛美されました。そこから平安文学が日本の国民文学の代表作として位置づけられる必然性があったわけです。(略)

P18 つまり、近代国民国家のアイデンティティを支える国文学史という発想から生まれた「国風文化」という概念については、相対的に捉える必要があるわけです。国風文化の概念が、藤原文化と同様、十世紀から十一世紀の文化のある一面を強調しすぎていることは否めないのです。

東アジア交易圏 P18-19
そもそも国風文化の前提となる遣唐使問題は、廃止というより、菅原道真の建議により中止されたまま、再開することがなかったというのが、正確なところです。宇多朝以降、遣唐使のような正式な朝貢使に頼らなくとも、大陸からのモノ・人・情報の流入は確保されていたので、朝貢を停止したままにできたのです(tw)。(略)

そして、そのモノ・人・情報の交流を支えたのが、東アジア世界をつなぐ交易圏でした。唐風文化が和様化した国風文化は、しかし鎖国のような文化環境で花開いたのではなく、唐の文物なしでは成り立たない、その意味で国際色豊かな文化だったのです。『古今集』勅撰の宣旨を発し、国風文化の始祖のようにいわれる醍醐天皇にしても、舶来品を使って、唐物御覧(天皇が唐物を検閲し、また臣下に分配する儀式)というシステムを確立し、

P19 皇威のデモンストレーションの場としました。その父宇多天皇も、譲位後も舶来品を蓄えていました。承平元年(九三一)、御室から仁和寺宝蔵に移した御物には、唐・渤海・新羅からの舶来ブランド品が多量にふくまれていたそうです。

1)大祚榮(テ・ジョヨン)82/134 27:25~渤海建国に向けて(tw)
2)風と雲と虹と12 09:50~平将門と鹿島玄明(twtw)16:21~加藤剛吉永小百合ほか~(tw,tw)
3)風と雲と虹と07 03:10~吉永小百合、立て膝座り(tw,tw)


そもそも平安京という都市に富が集中すればするほど、唐物といった奢侈品への欲望が日ましに高まることは必然だったのではないでしょうか。もちろん朝廷も、貿易統制をかけますが、その禁制の網の目をくぐって、貴族たちの私貿易は盛んにならざるをえません。国風文化とは、舶来ブランド品を消費する環境に育まれた洗練された都市文化なのです。

唐物とよばれる舶来ブランド品 P19-21
『源氏物語』の二種類の舶載品 P21-24

二 平安の交易ルート その一 渤海国交易 P25-36

渤海国からの使節 P25-28

P26 桐壺帝は、第二皇子(のちの源氏)が七歳の時、その将来を案じ、高麗人のなかにすぐれた人相見があると聞いて、占わせようとしました。しかし、高麗人を宮中に召すことは、「宇多帝の御誠」(『寛平御遺誠』)があるので遠慮し、後見の右大弁とともに、第二皇子を鴻臚館に行かせることにします。鴻臚館とは、いわば平安京の迎賓館ですが、そこに滞在した「高麗人」とは、どこの国からの使者としてイメージされているのでしょうか。

「高麗人」という表記は、九三五年に新羅を統一した高麗国からの来訪者をイメージさせます。『源氏物語』が成立した一条天皇の時代、朝鮮半島を支配していたのは、まぎれもなく高麗国であったからです。しかし、高麗国と日本の間では、ついに正式な国交は開かれず、鴻臚館に高麗国の使者が滞在したこともなかったのです。

P27 それでは、この高麗人が高麗国りよ前の新羅からの使者かといえば、それも無理があるようです。新羅と日本の間には当初、正式な国交があったものの、七世紀後半から険悪な関係になり、平安時代には国交も途絶えていたからです。

さて、新羅でないとすれば、平安朝の鴻臚館に滞在したのは、どこの国の使者でしょうか。それは、どうやら新羅の北方に位置する渤海国(六九八-九二六)からの使者だったようです。渤海国は謎めいた国です。七世紀の終わりに建国され、唐を模倣した文化的国家としてみるみるうちに頭巾をあらわしたのですが、しかし十世紀初頭に滅び、後代に継承する国を持たなかったのです。(略)

高麗を名乗った渤海国 P28-31

平安朝の渤海国との交易 P31-32

P31 さて、渤海国からの日本への使節の来訪は、平安時代にも続き、平安遷都の翌年の延暦十四年(七九五)十一月には、大欽茂の後継者の大崇璘からの使節が出羽に到着します。その後も渤海国の使節の派遣は、醍醐朝の延喜十九年(九一九)まで、なんと二十数回にもおよんでいます。渤海国使の当初の目的は、新羅を牽制しようとする軍事的なものでしたが、平安朝に入ると、むしろ交易の利益を求める経済的な目的が主になってきます。(略)

渤海からの使節は日本海を渡り、おおむね出羽から若狭にかけて日本海側に寄岸します。そこから正式の使節と認められると、平安京の鴻臚館に迎え入れられました。晴れて入京を許され、鴻臚館に到着した使節は、まず国書と信物とよばれる献上品をを朝廷に差し出します。(略)

漢詩による文化交流 P32-34

『源氏物語』のなかの高麗人 P34-36

P35 前章でみたように、梅枝巻で光源氏が二条院の倉を久方ぶりに開いて、高麗人からのかつての贈り物を取り出したというのも、もはや梅枝巻の時点では、渤海国の使節は日本に来なくなっているという設定なのでしょう。それだけに、高麗人がもたらした「綾、緋金錦」は貴重だということになります。ちなみに、渤海国の歴史を調べても、綾や緋金錦が毛皮のように、渤海国の特産品だったという証拠は出てきません。しかし『源氏物語』が間違っていたというわけではありません。

P36 渤海国は唐に盛んに朝貢使を派遣し、唐の物資を入手していました。そして、楊成規が南国で採れた麝香を持参したように、それらの一部を日本にもたらし、中継貿易の利も得ていました。ですので、光源氏が高麗人からもらった「綾、緋金錦」は、中国産のものであったかもしれません。