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P02 日本人は、自らを理解することに努力をかたむけている国民である。一九六一年にわたしが日本を訪問したとき、多くの日本の学者や批評家たちが日本人を「他人指向的」だとして批判的に語っているのを耳にした。
アメリカでも、このことばは批判的に使われている。アメリカの青年が「ぼくは他人指向的だ」というとき、それはかれが確信を欠き、依存的で、また、ルース・ベネディクトが「菊と刀」で使った用語を借りれば、「あまりに状況的」である、ということを意味する。
だが、このことばが日本でもこんなふうに使われているのを耳するたびに、わたしは、日本人が自ら悪徳と思っているもののなかに祝福をこそ見いだすべきではないか、と言いたくなるのであった。
他人指向的であり、状況的である、というのは、狂信的で排外的で、他人のことをいっこうに気にかけない態度を日本人がすでに克服したということにほかならないのではないか。
もちろん、狂信主義と過度の柔軟性とのあいだには境界線がひきにくい。だが、柔軟さそれじしんは悪徳ではないのである。「孤独な群衆」をわたしは好奇心と同情をもって読んでほしいと思う。
そして、さらに、こんごの世界についての真剣な思索をこめて読んでほしいと思う。
(略)
序文
(略)
Pxxiv ラインホルド・二ーバーや、ジョージ・ケナン(相互参照)の影響のもとに、多くの知識人は戦争と政治への全面的参加という含みをもった非現実的な道徳化の傾向に対して、りっぱに戦った。われわれ自身は、「孤独な群衆」の中で、たとえば、アメリカにおける政治的親分主義は全面的に悪なのではなく、むしろそれを完全にたたきつぶそうとするような試みの方がさらに悪い、といったようなことを説明しようと試みた。
さらにわれわれは、拒否権行使グループについても、それらのさまざまなグループの割れめの中に、じつは自由に到る道が用意されているというふうに考えた。私自身について言えば、私は常に物ごとをふたつのレベルで、同時に考えることが大事だと思っている。すなわち、
一方では与えられたシステムの中での可能性を探求する改革者的な関心の持ち方、そして他方では基本的な変化についての長い時間幅のユートピア的な関心というふたつがそれである。(略)
P14(略)
P15他人指向の定義 わたしが他人指向と名づける性格類型は、きわめて近年になって、大都市の上層中産階級のあいだに出現したもののように思われる。かれらの出現の兆候は、ボストンのような植民地都市よりもニュー・ヨークのような現代的都市においていちぢるしく、スポケインのような中都市より、ロス・アンゼルスのようなだいとしにおいていちぢるしい。
トックヴィル(トクヴィル)をはじめ、独立戦争以前においてすらアメリカを訪れた好奇心にあふれたヨーロッパ人たちが、あたらしい種類の人間、として考えた「アメリカ人」のイメージと、いまわたしがここで問題にしている性格類型とは、いくつかの点で、おどろくほど似ている。
じっさい、アメリカについての旅行者の報告は、互いに酷似している。彼らは異口同音に、アメリカ人の特徴として、アメリカ人はヨーロッパ人より浅薄であるとか、金ばなれがいいとか、友好的だとか、自己とその価値について自信をもっていないとか、承認をもとめたがるとか、こういった一連の徳目をならべる。現在の、高度に工業化され官僚化したアメリカに、
P16 あたらしい性格が展開しつつあることは、多くの社会科学者の注意をひいてきた。フロムのいう「市場的性格」、ミルスのいう「あてはめ型人間」、グリーンの名づけた「中産階級の男の子」といったような性格類型がそれである。
そして右にあげたきたヨーロッパ人のアメリカについての観察と、これらの類型とは、ほとんどかさなりあっていたのであった。
しかし、わたしは、トックヴィル(トクヴィル)の著作が今日なお生き生きとしていることに感銘をうけるが、かれの書いたアメリカ人と、こんにちのアメリカの中産階級とのあいだには決定的なちがいがあると考える。
この本で論じたいと思うことの多くは、じつは、これらのちがいについてなのだ。さらにわたしは、他人指向的な人間をうみ出した諸条件というのは、たんにアメリカにのみあるのでなく、先進的工業国の都市の人間たちのあいだに一様にひろがってゆきつつあるのだ、とも考える。
(略)
P20(略)
伝統指向型の人間は、他人たちから、信号をうけとる。しかし、かれらの文化は、単調である。だから、かれは信号をうけとるにあたって、べつだん、複雑な受信装置を、必要としない。
これにひきかえ、他人指向型の人間は、はるかへだたったところからも、また身近なところからも、信号を受信する能力をもっていなければならない。それらの信号は、さまざまな地点から発信されており、その変化は、きわめてはげしい。
P21したがって、他人指向型の人間の中に内在化されるものは、行動の規範なのではなく、むしろ、これらの伝達事項に、注意をはらい、また、時としては、その流通に参加するために必要な精密な装置なのだ。
罪と恥によるコントロールも、もちろん残存しているけれども、それらとは全く別に、他人指向の人間のもっている一番重要な心理的レバーは、不定的な「不安」なのである。この制御装置は、ジャイロスコープなのではなく、レーダーにたとえるのが、適切であろう。
(略)
P38(略)
P39個人だの集団だの、国家だのが、小さなちがいをひきあいに出して自分以外の個人や集団や国家とみずからをはっきりと区別し、それをおのれの誇りとすることをフロイトは「取るに足らない相違についてのナルシシズム」と名づけた(tw、相互参照)。
われわれがここでよぶ限界的特殊化はときとしてこのような誇りの感情ないし、ベブレン(ヴェヴレン)のいう「不愉快なる差別」を含むこともある。しかし、私がここで考えようとしていることは誇らしい感情というよりはむしろ一種の不安である。
あけひろげに互いにきそいあうというよりはむしろ、隠微な競争である。後でくわしく解くようにナルシシズムは他のより強力な要因によってすっかり打ち消されてしまうか、ないしはそれと混合しているのである。
(略)
P42(略)
P43親と子の関係を歴史的にたどって要約してみるならば、次のようにいうこともできるであろう(tw)。すなわち、
伝統指向的な子供は両親の顔色をうかがうことで行動した。内部指向型の子供は親たちとたたかうことによって育った。ところが、他人指向型の子供は親たちをあやつり、また親たちによってあやつられることのできる子供たちなのである。数年前、「キャット・ピープルの呪い」という映画が封切られた。(略)