2024年2月2日金曜日

偏愛メモ 『言葉と悲劇』

夏目漱石の多様性---「こころ」をめぐって
P38/ 40/ 42/ 44
P46 先生には、Kという友人がいました。せんせいはこのKを畏敬していた。しかし他方で、滑稽だとも思っていました。先生には、Kが経済的に困っているのを助けてやりたいという気持ちもあり、Kの神経衰弱をやわらげてやりたいという気持ちもありましたが、その一方で、自分には及びもつかないこの禁欲的な理想主義者を崩壊させてしまいたいという気持ちもあったのです。

《彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性のそばに彼をすわらせる方法を講じ》て、Kを自分の下宿に連れこんだのです。これは友情であると同時に悪意ですね。先生は、いわばKを誘惑しようとしたのです。

ところが、Kが同居するにつれて、だんだんおかしくなってきます。Kは「お嬢さんのことを好きだ」とうち明けるのですが、それ以前に、Kがいるが故に、つまりKを嫉妬することで、先生はお嬢さんに対する愛を意識しはじめていました。

先生は、Kから「お嬢さんを愛している」ということを先に聞かされてしまうのですが、その時に、「いや、自分こそ前から彼女が好きなんだ…」と言えばいいのだけれど、どうしても言えません。

この言いそびれ、つまり「遅れ」があとで重大な事態をまねくのですが、考えてみると、「遅れ」は最初からあったのです。たとえば、先生がお嬢さんを愛するようになったのは、Kが下宿に来てからなのです。

Kがお嬢さんを愛しているかもしれないような事態の中で、はじめて先生は愛を意識したのですから、Kより「先に」お嬢さんを愛していたというのは虚構ですね。先生の「遅れ」には、たんに言いそびれたというのではすまないようなものがあります。

P47より本質的にいえば、この「遅れ」は、他者との関係においてある人間の、ある不可避的な条件なのですが、それについてはあとで述べます。

さて、Kにうち明けられたあと、先生はある日、病気をよそおって部屋にいて、奥さんに「お嬢さんをください」ということを言うわけですね。もちろん、それでO・Kなのですが、それをまたKには話せない。

ところが奥さんのほうは、Kの気持ちをまるで知りませんから、Kにそのことを話してしまいます。その結果、Kが自殺するわけです。先生は、その罪悪感をずっと持ちながらも、そのことを、結婚した“お嬢さん”つまり自分の奥さんにはどうしても言えない。

告白も、この若い「私」である学生にだけなすのであって、奥さんには、死後も絶対に秘密にしてくれということを言いの残しています。

ちょうど明治天皇が死んだ時、先生が奥さんに「自分たちは明治の人間で、時世遅れになってしまった」と言うと、奥さんが突然なにを思ったのか「じゃあ、殉死でもなさったら」と言います(相互参照)。

先生は、この「殉死」という、当時はほとんど死語であった言葉に心を打たれます。そして「自分が殉死するなら、明治の精神に殉死するつもりだ」と答えます。ところが、その一ヵ月後に、乃木大将がまさに殉死したわけです。

それが決断のきっかけとなって、先生は実際に自殺を考え、自殺する前の十日ほどの間に遺書として告白を書いた。以上が『こころ』の粗筋といったものです。

では、ここで先ほどいいかけた「遅れ」の問題について触れたいと思います。先生自身は、

P48 この「遅れ」を自分の卑劣さと思い、またそれ故の罪悪感を抱いています。しかし、本当にそうなのでしょうか。

これは、あくまでも正直で、心が清ければ、避けられるものなのでしょうか。あるいは、先生が明晰に自分の意識、あるいは欲望を自覚していたなら、こういうことが避けられたでしょうか。

どうもそうではない。たとえば、先生がお嬢さんを愛するようになったのは、Kが同居するようになってからです。というより、Kがお嬢さんを愛するようになってからですね。

もしKがいないならば、先生がどんなに内省しても、自分の心の中にお嬢さんへの愛を発見できないでしょう。それは、まだ存在しないからです。Kが介在することによって、はじめて恋愛が成立したのです。

すると、愛を意識した時は、すでにKを犠牲にしなければならない立場にあったのです。たんに三角関係における苦悩なのではありません。「愛」そのものが、三角関係によって形成されたのですから。

たとえば、子供の部屋にの隅に要らなくなったオモチャが転がっているとします。そこに他の子供が来て、それを見つけて欲しがるとする。すると、子供は急にそれにこだわり、「ダメ、それは僕のだ」ということがありますね。

(略)

P50 これを、すこし哲学的に考えてみます。ヘーゲルは、欲望とは他人の欲望だといっています。つまり、欲望とは他人の承認を得たいという欲望である、ということですね。

ここで、欲求と欲望を区別します。たとえば、腹がへって何か食べたいというのは欲求であり、いいレストランや上等のものが食べたいというのは、すでに他人の欲望になっています。

性欲も生理的に欲求としてあるでしょう。しかし、美人にしか性欲をおぼえないという場合、それは欲望ですね。そもそも「美人」の基準などは客観的にあるのではなく、文化や民族によって違うし、歴史的にも違います。

「美人」とは、他人がそうみなしているもののことです。すると、美人を獲得するということは、他人にとって価値であるものを獲得することですから、結局その欲望は、他人に承認されたいという欲望にほかならないわけです。

だからといって、自分の気持ちを変えることは難しいでしょう。実際には、純粋な欲求などは稀です。ある極限的な状況で、食物であれば何でもいい、水であれば何でもいいと思うことはありうるでしょうが、

P51そうでなければ、基本的にわれわれは欲望の中にあるのであり、いいかえれば、すでにそこに他者が介在しているのです。

私たちは、模倣的であってはいけない、オリジナルでなきゃいけない、自発的じゃなきゃいけないなどと言います。しかし、われわれが何かを目指すときには、誰かがいつもモデルとしてあるわけです。

それは、われわれの欲望が他人に媒介されていることと同じです。自発性・主体性というけれども、自己や主体というものがすでに他者との関係を繰りこむことによって形成されている、といってもよいでしょう。

ルネ・ジラールはヘーゲルの考えを使って、欲望や模倣、さらに三角関係と第三者排除を考察しました。日本では、作田啓一氏がそれを応用して夏目漱石などを論じております(tw)。
綻びゆくアメリカピーター・ティールP202(tw)
彼の揺れ動く二十代の危機には哲学的な側面もあった。彼はスタンフォードでフランス人教授ルネ・ジラールの講義をとり、著書を読んで信奉者となった。ジラールは、人が同じものを求めて争うようになるという模倣的欲望論(模倣の理論)を説き、暴力の起源の説明を試みた。

保守的なカトリック教徒のジラールは、社会的対立を解決するためのいけにえとスケープゴートの役割を説明しており、この理論の聖性を扱う神話的な側面がティールの心に響き、両親が信奉する原理主義とは一線を画したキリスト教信仰の土台となった。
欲望の見つけ方』P 13/ 15/ 17/ 27/ 29/ 31/ 33/ 35/ 37/ 39/ 41/ 43/ 45/ 47/ 49/ 51/ 53/ 55/ 57
P13この本は人がなぜそれを欲するのかについて書いたものだ。あなたが欲しいと思うものを、あなたはなぜ欲しいのか。

P17私は模倣の欲望に勝てると主張するつもりはないし、そうしたほうがいいとも思わない。本書は、その存在に気づいて理解を深めることで、うまく操縦できるようになることを主に目指すものとである。

P18ジラールの教え子だったピーター・ティール一人を通して模倣理論を知り、リバタリアニズム(自由至上主義)つまりティールの哲学に結びつけた人は、不完全な理解をしていると言うにとどめておこう。

P34欲しいものを知ることは、必要なものを知ることよりずっと難しい。
『個人主義の運命--近代小説と社会学』(岩波新書)という本を読んでみてください。作田氏は、『こころ』における先生と「私」の関係、先生とKとの関係に関して明快な分析をしています。

これまで心理学者が「同性愛的」といってきたところを、モデル=ライヴァル理論で解釈しなおしたのです。たとえば、こう作田氏は述べています。

《Kを連れてきた理由は、苦学生の彼の生活を少しでも楽にしてやろうという友情からだ、と「先生」はその遺書で語っています。しかしこの説明だけでは何かよくわからないところが残ります。私の解釈では、「先生」は、たとえ策略のいけにえになったとしても、お嬢さんが結婚に値する女性であることを、尊敬するKに保証してもらいたかったのです。そして

P52 また同時に、このような女性を妻とすることをKに誇りたかったのです》《Kは「先生」にとって判断を仰ぐ手本でした。Kがこの娘を好ましく思うことで、先生の対象選択が初めて正当化されるのですから。しかしまたKは「先生」のライヴァルともなりうるでしょう。Kが彼女を好ましく思うようになれば、「先生」と彼女を争うことになるのですから。》

お嬢さんに対する先生の恋愛には、たしかにこの第三者のKが必要だったのであり、しかも、この第三者は排除されなければならないのです。たぶん、かりにそうでないように見えたとしても、恋愛は潜在的に三角関係をはらんでいると思います。

かりに第三者が具体的な個人でなく、世間といった漠然としたもので同様でしょう。たとえば、スターと結婚したがる男や女は、多くの他人の欲望の対象を所有したいのです。それは当の相手ではなく、他者を欲望しているのだといってもいい。これも三角関係ですね。

さらに、先生のKに対する友情にも、アンビヴァレントなものがあります。先生はKを尊敬しています。しかし、彼はKをモデルにしながら、Kのように徹底的にやれないと感じている。

だから彼は、Kを一方で引きずり降ろしたい、堕落させたいと考えているのです。Kを「人間らしく」するというのは、そういうことです。これは別に深読みではありません。他のところで、先生が彼を尊敬してやまない若い「私」に、こう言うのです。《とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。いまに後悔するから。そうして自分があざむかれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから。》《かつてはその人の膝の前にひざまずいたという記憶が、

P53今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。》いいかえると、モデルとした者への関係は、やがてモデルを上回るようになった時にも、またモデルにけっして及びそうもないとわかった時にも、尊敬から憎悪に変わります。

(略)

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