2024年2月8日木曜日

偏愛メモ 『やばい源氏物語』『嫉妬と階級の『源氏物語』』『紫式部ひとり語り』

第1章 設定がやばい…「史実」をベースに綴られた「大河ドラマ」
P15 これは作り話ではないという紫式部のの気持ち
P17 歴史書よりも物語にこそ真実があるというスタンス
P19 “日本紀の御局”と呼ばれ
主人公の源氏に、『日本書紀』などの歴史書より物語のほうが本格的な役立つ情報が描かれていると言わせた紫式部ですが、実は『源氏物語』は、歴史書を参考にしており、意識もしています。

『源氏物語』には、見てきたように、『日本書紀』の名が挙げられているだけでなかく、『史記』に描かれた戚夫人の憂き目のこと(『源氏物語』には具体的には記されませんが、呂后(相互参照)が彼女の両手両足を切断し、人豚(tw)と称して便所に置いたエピソード(参照)、tw後述)を引用するなど(「賢木」巻)、内外の歴史書に通じた紫式部ならではの知識と世界観がにじみ出ています。

 (略)

P21 『源氏物語』は大河ドラマである

第2章 ブスがやばい…ブスが三人、主人公の妻や恋人に!
P23 『源氏物語』はブスだらけ
P25 悪役だった『源氏物語』以前のブス
P27 『源氏物語』のブスが革命的な理由
P29/ 31
第3章 モデルがやばい…実在した天皇や嫂まで
P32存命中の僧侶を含め、リアル・モデルがたくさん
リアリティでいうと『源氏物語』の登場人物は、多数の実在の人物がモデルにされていると言われています。

主人公の源氏は、貴族政治の頂点をきわめた藤原道長をはじめ、醍醐天皇の皇子で源氏を賜姓され、左大臣として活躍するものの、失脚して太宰府へ左遷された源高明、色恋に生きた在原業平、その兄で須磨で謹慎することになった在原行平等々、モデルとされる人物は多々います。

また、源氏の父・桐壺帝は醍醐天皇がモデルとされ、『源氏物語』では死後、地獄の責め苦を受け中、須磨で謹慎する源氏を案じ、その夢に現れます。一方、醍醐天皇にも堕地獄説があり、『北野天神縁起(tw,tw)』では、菅原道真の祟りで地獄に堕ちた天皇を、僧の日蔵が訪ね、蘇生してその話を伝えるという設定になっています。

宇治十帖の“横川の僧都”に至っては、同名の呼び名のあった同時代の源信がモデルとされています。横川の僧都が宇治十帖に登場した時は六十歳余りで、五十代の妹尼、八十代の母尼がいるという設定ですが、

P33 「この僧都は源信をモデルにしたことはほぼ間違いないところである。また妹も安養尼と推察される(石田瑞麿校注『源信』解説)といいます。

醍醐天皇は『源氏物語』ができる七十八年ほど前に死んだ人です。それに対して、“横川の僧都”こと源信は、『源氏物語』が書かれたとされる一〇〇八年にリアルタイムで生きていた。宇治十帖が書かれたのはそれよりあとかもしれませんが、いずれにしても、当時の人にとっては「今の人」です。

(略)

嫂はスケベな老女・源典侍のモデルにされて辞表提出?
P34中には、『源氏物語』のモデルにされて、不名誉な目に遭った人もいるようです。

それが源典侍のモデルです。

源典侍は桐壺帝に仕える老女房で、身分が高く、気働きもあり、上品で人々の信望もありながら、物凄く浮気な性格で、色恋方面では軽々しい。それで源氏は「こんないい年をして、なぜこうも乱れているのだろう」と好奇心を抱いて口説いたところ、まんざらでもない反応で、男女の仲になった。

それを源氏の親友の頭中将が聞きつけ、「こういうのはまだ思いつかなかった」と、典侍の好色心を試したくなって、こちらもねんごろになった。

この時、典侍は五十七、八歳。源氏は十九歳で、頭中将の正確な年齢は不明ですが二十代であることは確実です。そんな頭中将は、源氏が常日ごろから真面目ぶって、いつも自分を非難していることが面白くなくて、源氏をぎゃふんと言わせてやろうと狙っていました。

そして、宮中の温明殿で源氏と典侍が寝ているところを発見したのを幸いに、忍び込んで太刀で脅すと、源氏は「今なおこの典侍が忘れかねているとかいう修理大夫かな」などと面倒に思っている。

典侍は好き者らしく、さらに恋人らしき人がいるんですね。結局、相手が頭中将と分かって、最後はドタバタ劇となるという笑われ役です。

P35 典侍はのちに七十過ぎて尼になった姿でも登場し、相も変わらず色めいた受け答えをして、源氏に呆れられています。

この源典侍のモデルが、角田文衛によると、紫式部の夫の藤原宣孝の兄・説孝の妻の源明子だというんです。

(略、当時の読者が源典侍と言えば誰もが源朝臣下明子を想起したという。噂が原因かどうかは不明だが実際、明子が辞職した事実などから、本当のところはわからないが、あり得ぬ話ではないと)

『嫉妬と階級の『源氏物語』』(tw)

P4 はじめに『源氏物語』嫉妬に貫かれた「大河ドラマ」
『源氏物語』が大河ドラマになる。

正確には『源氏物語』を書いた紫式部が大河ドラマの主役になるらしいのだが…実は、『源氏物語』そのものが大河ドラマであることは、案外見過ごされがちかもしれない。

『源氏物語』というと、源氏とその子らの恋と政治のドラマと思われがちだが、ストーリーは四代七十六年以上にわたる長大なものだ。物語の終盤では横川の僧都という、紫式部と同時代の人物をモデルにしたことが明白な僧侶が登場し、そこに至って当時の読者は「これは現代の物語である」と気づく構造になっている。

物語の幕開けの時代設定は、展開する音楽の研究から、延喜・天暦の治と讃えられた醍醐・村上天皇の御代、つまり紫式部が生きていた一条天皇の時代から遡ること百年近く前であることが分かっている(山田孝雄『源氏物語の音楽』)。

『源氏物語』は、当時の人にとって理想的な時代を起点として紡がれた、時代劇から現代劇にスライドする大河ドラマなのである。

P5ここで『源氏物語』の構成をざっくり説明しておくと…。

物語は善五十四帖からなり、「桐壺」巻から「藤裏葉」巻までの第一部では、主人公の源氏が苦難を乗り越えながら、准太上天皇にまで出世し、一族が繁栄する様がえがかれている。

そして、「若紫上」巻から「幻」巻(そのあとに源氏の死を暗示する巻名だけの「雲隠」巻が置かれる)までの第二部では、源氏の幸せに陰りが見える。

以上二部は「正編」とも呼ばれる。

第三部の「匂宮」巻以降は源氏の子孫たちの物語となり、そのうち「橋姫」巻から最終巻の「夢浮橋」巻までは、宇治を舞台に展開することから「宇治十帖」と呼ばれる。

彼らには“光る源氏”と呼ばれた正編の主人公のような美質はなく、資質も心根も劣ったダメ人間たちの、すれ違いの物語が展開、男も女も、親も子も分かり合えぬまま、長大な物語は幕引きとなる。

そんな『源氏物語』はさまざまな切り口で語られてきた。私自身も「親子関係」や「身体描写」など色々なアプローチをしてきたが、物語の大きなテーマは「嫉妬」と「階級」であると思っている。

『源氏物語』の嫉妬というと、有名なのが六条御息所で、彼女は主人公である源氏の正式

P6 な妻になれず、その正妻を取り殺すなどしたという設定になっている。

にもかかわらず、『源氏物語』ではかなり人気の高い女君である。

高い身分と教養を備え、世間からの声望も高い。階級的には、源氏に愛されてしかるべき人物だ。けれど男より七歳年上(計算によっては十六歳上)という負い目も手伝って、源氏からの歌に即レスしたり、執着心を捨てきれず、鬱陶しい態度になってしまう。

それで思うように愛されず、源氏の愛する女たちに嫉妬してしまうという彼女のあり方が、現代人の生きづらさに重なるものがあるからだろう。

ここで肝心なのは、彼女を嫉妬に駆り立てるのは、本来なら得られてしかるべき愛情を得られていないという思いに加え、自分の能力や階級と同等か、それより劣るかに見える女が、源氏に愛されているという思いである。

けれど追々書いていくように、実は六条御息所はそんな自分の嫉妬心に自覚的ではない。自分が「嫉妬している」と認めることは自分の劣位を認めることになるので、プライドの高い彼女にはそれができなかったのだ。

しかし彼女がどんなに能力があろうとも、愛においては劣位にあった。身分においても…亡き前東宮の愛妃で、世間の人からどんなに尊敬されていようと…現状は、高貴でパワフルな親がバックについた、正妻の葵の上には及ばなかった。

嫉妬には、このように、かならず階級が絡み、そこには自己認識と世間の評価とのズレが関わってくる。

自分がコミュニティのどの位置にいるか、つまりどの階級にいるか、人間は無意識に確認し、

P36結果、意に反した状況であれば、ライバルを引きずり落としたい、自分が上になりたいと、たえず「嫉妬」と「階級」の狭間であえぎ、生きているのだ。

『源氏物語』は、こうした人間の生の根源に迫っている。
いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
物語はしょっぱなから、女御、更衣という天皇の妻のランクを示す。

しかも追々詳しく触れるように、どのランクをあてがわれるかは、出身階層によってほぼ決まっている。

こうしたランクのある天皇の妻たちの中でも「大して高貴な身分ではない」のに「ひときわミカドのご寵愛を受けている」、つまり、「階級にそぐわぬ良い目にあっている」人がいたというのであるから、一文目から読者は波乱の展開を予感する。

案の定、
はじめより我はと思ひあがりたまへる御方々、めざましきものにおとしめそねみたまふ
「我こそは」というプライドのある高貴な出自の女たちは、心外な者よと彼女を見下し、嫉んだ。

とはいえ、件の女よりハイレベルの地位にある人々には、

「自分たちはあの女より身分では勝っている」

P8 という余裕があり、「あんな女」と貶めることができる分だけ、まだました。
同じほど、それより下﨟の更衣たちは、ましてやすからず
女と同等、それ以下のランクの更衣たちは、まして穏やかな気持ちではいられない。

このくだりは、嫉妬の仕組みを如実に語っている。

嫉妬とは、近い立場の者ほど激しくなる(tw相互参照)。

「私だって彼女大して変わらないのに、なぜあいつだけが」

という思いになるからだ。

嫉妬と階級は切っても切れない関係にあるということを『源氏物語』は冒頭で浮き彫りにする。

同時に、“それより下﨟の更衣”という表現からは、同じ更衣でも細かなランクがあったことがうかがえる。

『源氏物語』にはじめに描かれるのは嫉妬と階級であり、それこそが物語を貫く大動脈なのである。

第一章『源氏物語』は「ifの物語」?
P16 『源氏物語』の冒頭には、嫉妬と階級が描かれている。

これらは物語を貫く大動脈でもある。

紫式部は、なぜこんな物語を綴り始めたのか。

嫉妬と階級に苦しむ女や男の姿を描くことで、何を言いたかったのか。

それを知るには『源氏物語』の起点となった醍醐朝と、紫式部の出自をたどる必要がある。

上流だった紫式部の先祖(tw)
『源氏物語』の起点となった醍醐朝とはいかなる時代だったのか。

摂政・関白を置かず…ということは藤原氏の専横を許さず、天皇親政の行われた時代だったと言われている。が、後宮には藤原氏の女たちが大勢いたし、治世のはじめには父・宇多院に重用され右大臣にまで出世した菅原道真を、左大臣藤原時平の意を受けて左遷したという暗部もあった(tw)。

風と雲と虹と01 09:44~律令制の崩壊と荘園貴族の台頭


P17『大鏡』によれば、醍醐天皇は道真に厳しい処置をとり、配流先も子息たちとは別々にした。そのせいか醍醐天皇は、『北野天神縁起』では、道真の怨霊による清涼殿の落雷(tw)後、まもなく崩御したとされ、高僧の日蔵は地獄で苦しむ醍醐天皇に会ったと記されており、地獄に堕ちたという設定の『源氏物語』の桐壺帝のモデル説の根拠の一つともなっている。

『源氏物語』の桐壺帝は、明らかに醍醐天皇と重なっているのだ。

藤原氏…それも藤原北家も中の道長一家という狭い血筋が、天皇家の外戚をほぼ独占していた時代に、このような天皇親政の時代が理想とされ、なつかしまれていたというのは、考えてみれば興味深いことで、その陰には道長の専横を快く思わぬ勢力、もしくは天皇親政こそ理想の政治と考える勢力が多数いたことを示していよう。

しかも道長の家に仕える立場の紫式部が、こうした物語の設定をしていたことはなおさら興味がそそられる。


さて、そんな醍醐天皇の後宮には、多くの女御更衣が仕えていた。

時平の同母妹で、のちに中宮(皇后)となる穏子のほか、妃には光孝天皇の皇女の為子内親王、女御に同じく光孝天皇の皇女・源和子、右大臣藤原定方の娘、定方の兄・定国の娘・和香子、更衣となるとさらに多くて、藤原菅根の娘・淑姫、源唱の娘・周子、藤原兼輔の娘・桑子、源昇の娘、藤原連永の娘・鮮子、源旧鑒の娘等々がいる。

P18 “いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に”

という『源氏物語』の出だしがほうふつされる。

この醍醐の後宮に紫式部の先祖がいる《tw,紫式部系図

P20 更衣の桑子は、紫式部の父・為時の父方オバで、女御の定方の娘と、定国の娘・和香子は、桑子のはとこに当たる。

紫式部の先祖たちは、聖代と言われた醍醐の後宮に数多く入内しているのだ。

平安中期、天皇の妻には、上から中宮(皇后の別名)→女御→更衣という序列があった。

が、更衣は冷泉朝以後、記録から姿を消しており、紫式部の生きた一条朝にはすでに表立った存在ではなかった(後藤祥子「宮廷と後宮」…山中裕編『源氏物語を読む』)。

ここからも、『源氏物語』の時代設定がうかがえるわけだが、こうしたグレードは親の身分によって決まっていて、女御の親は摂関・大臣クラス、更衣の親は納言以下のクラスだった。

更衣桑子を入内させた紫式部の曾祖父・兼輔は中納言、女御の父・定方は右大臣。女御和香子の父・定国は大納言だが、醍醐の母方オジであることが有利に働いていたのだろう。

こうしてみると、紫式部の先祖というのはかなりの上流に属していることが分かる。

『源氏物語』の作者で、一条天皇の中宮彰子に仕えていた紫式部は、同じ一条天皇の皇后定子に仕えていた、『枕草子』の作者の清少納言と、何かにつけて比較されがちだが、出自は相当違う。

二人の父親は、共に中央から地方に派遣され、現地を治める受領階級に属しているが、清少納言の先祖が天武天皇の流れを汲むとはいえ、曾祖父・深養父の代にはすでに従五位以下の受領階級に成り下がっていたのに対し、

P21紫式部の曾祖父・兼輔は従三位中納言である。三位以上が上流階級とされていた当時、この違いは大きい。

山本淳子が指摘するように、兼輔のサロンには、深養父や、『古今和歌集』の撰者の一人で、『土佐日記』の作者でもある紀貫之が出入りしていた。

「清少納言と私のことを、同じ受領階級に属するなど、一緒にしないでほしいものだ。私の家は、少なくとも三代前には文化の庇護者、歌人たちの盟主だった。あちらは父親の清原元輔がようやく周防守など遠国の国司になって息をついたような家ではないか」(山本淳子『私が源氏物語を書いたわけ---紫式部ひとり語り』)

紫式部の本音というのは、まさに山本氏による代弁そのものであったと思う(相互参照)。

清少納言と紫式部の違い
先の系図を見てほしい。

道長や妻の源倫子、紫式部や夫の藤原宣孝の血筋の「近さ」が改めて痛感される。こうした「近い」血縁内で、主従関係が出来上がっているのが当時の貴族社会の常とはいえ、紫式部は清少納言以上に権力に「近かった」ということをまず頭に入れておきたい。

その前提を得ると、宮仕えに対する清少納言とのスタンスの違いも理解しやすい。清少納言は、

P22 「宮仕えする女を浅はかで悪いことのように言ったり思ったりする男なんかはほんとに憎らしい」(“宮仕えする人を、あはあはしうわるき事に言ひ思ひたる男などこそ、いとにくけれ”)(『枕草子』「生ひさきなく、まめやかに」段)

と主張したものだ。一方、紫式部は、

「しみじみと交流していた人も、宮仕えに出た私をどんなに厚顔で心の浅い人間と軽蔑するだろうと想像すると、そう考えることすら恥ずかしくて連絡もできない」(“あはれなりし人の語らひしあたりも、われをいかにおもなく心浅きものと思ひおとすらむと、おしはかるに、それさへいと恥づかしくて、えおとづれやらず”)(『紫式部日記』)

と、宮仕えに対して複雑な思いをにじませている。

貴婦人が親兄弟や夫以外の男に顔を見せなかった当時、男に顔を見られるということは、体をゆるすことを意味していた。それもあって、仕事柄、多くの人に顔を見られる宮仕えは、良家の子女がすべきではないという考え方があったのだ。

実際、女房は公達の気軽な性の相手となりがちだ。これに関しても清少納言と紫式部はとらえ方が違っていて、公達が女房の局を訪ねる沓音が内裏では一晩中、聞こえることに、清少納言が“をかし”と風情を感じているのに対し、紫式部は“心のうちのすさまじきかな”(心の中が荒涼とするよ)と嘆いている。

が、歴史物語の『栄花物語』を見ると、当時は大臣クラスの娘でも宮仕えに出ていた時代である(巻第八、巻第十一など)。

P23紫式部の気持ちは態度にも表れていたのだろう。彼女はともすると、「あんた何様?」と見られていた。『紫式部集』には、

「こんなにも落ち込んでもよさそうな身の上なのに、ずいぶん上流ぶっているわねと、女房が言っていたのを聞いて」(“かばかりも思ひ屈じぬべき身を、「いといたうも上衆めくかな」と人の言ひけるを聞きて”)

詠んだという詞書のついた歌が載っている。

「こんなにも落ち込んでもよさそうな身の上」(“かばかりも思ひ屈じぬべき身”)の解釈については、「紫式部自身が、ふさぎ込んで当然の身の上と思っている」「他人が紫式部を、ふさぎ込んで当然の身の上と思っている」の二説があるが、いずれにしても、紫式部は「何様?」と人に思われていた。「上流ぶっている」「お高くとまっている」と。

清少納言と紫式部は、女主人に対する見方も対照的だ。

清少納言ははじめて定子のもとに出仕した時、緊張に打ち震えながらも定子の美しい手が袖のさきからのぞくのを見て、

「このような方もこの世にはいらしたのだ」(“かかる人こそは、世におはしましけれ”)

と、目が覚めるような気持ちで見つめずにはいられなかった。(『枕草子』「宮にはじめてまゐりたるころ」段)。

P24 一方の紫式部は、皇子を生んで国母と崇められる彰子の姿を、

「このように、“国の親”(国母)ともてはやされるような端麗なご様子にも見えず、少し苦しげに面痩せて、おやすみになっているお姿は、ふだんよりも弱々しく、若く可愛らしげである」(“かく国の親ともてさわがれたまひ、うるわしき御けしきにも見えさせたまわず、すこしうちなやみ、おもやせて、おほとのごもれる御有様、つねよりもあえかに、若くうつくしげなり”)(『紫式部日記』) と描写している。

清少納言にとって女主人は絶対的な存在であるのに対し、紫式部にとっては同じ人間として苦しみ持つ存在だった(tw)。

これはあとで見るように、紫式部の類まれな共感能力のなせるわざで、それが作家としての才能にもつながったわけだが、この姿勢が、どんなに高貴な人にも苦悩はあるという『源氏物語』の設定を生んだのである。

いずれにしても、厳しい身分社会だった当時、女主人に、ややもすると上から目線で人間としての苦しみを見たのは、紫式部に相応のプライドがあったからにほかなるまい。

紫式部の稀有な共感能力とプライド
こうした前提で以て、再び紫式部の出自に目を向けると、彼女の父方祖母の姉妹の孫には具平親王がいる。

P25具平親王は当時、もっとも尊敬されていた文壇の中心人物だ。道長は、この親王の娘に長男・頼通を縁づけているのだが、その時、紫式部を、

「親王家に縁故のある人」(“そなたの心よせあるひと”)

と見なして相談していた。紫式部の父・為時はかつて具平親王の家司であったらしく、紫式部もこの宮に仕えたことがあったらしい(新編日本古典文学全集『紫式部日記』校注)。紫式部はそれにつけても、

「心の中ではさまざまな思いに暮れることが多かった」(“心のうちは、思ひいたることおほかり”)

と書き、彰子の皇子出産とその後の華やか祝いの有様を綴っていた『紫式部日記』は、この記事を境に暗いトーンに転ずる。

実は、紫式部の父方いとこの伊祐の子の頼成は、具平親王の落胤である。そう同時代の藤原行成の日記『権記』(寛弘八年正月条)に書かれている。ちなみに具平親王は、『古今著聞集』によると、“大顔”と呼ばれる雑仕女(下級女官)を“最愛”して子をもうけ、大顔は月の明るい夜、親王に伴われて行った寺で“物”(物の怪)にとらわれて変死しており(巻第十三)、『源氏物語』の夕顔のモデルとされている。

大顔のような下級女官がお手つきとなって継続的に愛されるのは珍しいだろうが、女房

P26 クラスの女が愛されることはありがちで、紫式部も道長の“召人”といわれる。

召人とは、主人と男女の関係になった女房のことで、妻はもちろん、恋人とすら見なされていなかったものの、普通の女房よりは上の立場である。

紫式部は夫と死別後、まだ幼い子を抱え、道長の娘・彰子の家庭教師として仕えるが、南北朝時代にできた系図集『尊卑分脈』には“御堂関白道長妾云々”とあり、道長の召人であったことはほぼ通説となっている(相互参照)。

しかも紫式部と道長の六代前の先祖は同じ左大臣藤原冬嗣であり、道長の正妻の源倫子の母・藤原穆子は、紫式部の父・為時の母方いとこにあたる。

紫式部のプロフィールをまとめると(tw)、
  1. 紫式部の祖父や父、夫は受領階級(中流貴族)に属すが、自身も夫も先祖は上流に属し、血縁には高貴な人々が少なからずいた。
  2. 曾祖父には娘を天皇に入内させ、一族からは皇子も生まれていた。
  3. 紫式部は文壇の中心人物と昵懇で、最高権力者である藤原道長のお手つきだった。
  4. 夫の死別した紫式部は先祖を一にする藤原道長やその娘に仕えていた。
ここから見えてくる紫式部像は、

先祖は上流だったのに、祖父の代に落ちぶれて、自身も夫を亡くし、家庭教師という特別待遇ながらも、人に仕える立場に成り下がっていた

である。そんな紫式部に“上衆めく”振る舞いがあったとしても不思議はあるまい。

『源氏物語』は紫式部の願望が生んだ「ifの物語」?
紫式部は“上衆めく”一面のある一方で、苦悩を抱える最底辺の人々に、自分を重ねてもいる。これまた、

「似つかわしくないもの。下衆にの家に雪が降っているの。また、月が射し込んでいるのも残念だ」(“にげなきもの 下衆の家に雪の降りたる。また、月のの射し入りたるもくちをし”)(『枕草子』「にげなきもの」段)

と、下衆に対して冷たい視線を送って見せていた清少納言とは対照的だ。

紫式部は、

「めでたいこと面白いことを見たり聞いたりするにつけても」「憂鬱で心外で、嘆かわしいことが増えていくのがとても苦しい」と『紫式部日記』に記し、優雅に泳ぐ水鳥もその身になってみれば苦しいのだろう、自分も同じだ…と嘆く。彰子の実家に一条天皇が行幸するという、女主人にとっての栄誉の日にさえ、天皇の御輿を担ぐ駕輿丁が“いと苦しげに”突っ伏している姿に、

P28 「私だってあの駕輿丁とどこが違うというのか」(“なにのことことなる”)と言い切る。

「高貴な人との交流も、自分の身分に限度があるのだから、まったく心が安らぐことはないのだよ」(“高きまじらひも、身のほどかぎりあるに、いとやすげなしかし”)と。

紫式部が、高貴な女主人に同じ人間としても苦しみを見るだけでなく、賤しい駕輿丁にすら自分を重ねるのは、さきにも触れたように、稀有な共感能力ゆえだろう。見てきたように、彼女は、人ならぬ水鳥にさえ我が身を重ねていた。

この「なりきり能力」があらゆる立場・身分の人物をリアルに描く『源氏物語』を生んだわけだが…。こうした感想が出てくるのは、それだけ自分が対等でない、人間扱いされていないという実感があったからだろう。

プライドが高いからこそ、それに見合わぬ低い現状とのギャップが苦しいのである。

このような土壌の上に生まれたのが『源氏物語』である。一部は宮仕え前から書いていたとされ、その評判から道長にスカウトされと言われているが、いずれにしても、時代設定とされる醍醐天皇の御代は、紫式部の先祖が最も輝いていた時節に重なる。

曾祖父・兼輔の娘・桑子が生んだ章明親王がもしも政治的に成功していたら…もしも彼が出世していたら…彼の娘が天皇家に入内して生まれた皇子が東宮にでもなったら…

P29あるいはもし、紫式部自身が道長の娘を生んで、その娘が高貴な正妻に引き取られ、天皇家に入内したら…といった仮定をベースに、過去の人物だけでなく、皇后定子や敦康親王等々、紫式部と同時代に生きていた人々をもモデルにしながら、いくつものifを心に浮かべ、紡いでいったのが『源氏物語』ではないか。

作者と作品を結びつけて考えることについては異論もあろう。『源氏物語』の登場人物や設定に典拠を求める中世以来の研究には批判もある。しかし『源氏物語』については、作者と作品を結びつけて初めて見えてくるものがあると私は感じる。

『源氏物語』は、紫式部の先祖にまつわる「ifの物語」と見ることもできる、と。

その第一歩として彼女は、主人公である源氏の母を、先祖筋の桑子と同じく「更衣」という天皇妃の最低ランクの階級に設定した。

さて重い家柄ではないにもかかわらず、ミカドの寵愛を一身に受ける女。

それゆえ人々の嫉妬を一身に浴びる女。

女はこれからどうなるのか。

世代を重ね、移り変わるにつれ、女の子孫はどうなってゆくのか。

長い大河ドラマの始まりである。

第二章 はじめに嫉妬による死があった
僅差の世の中で
嫉妬と中傷といじめ
P30/ 32
千年前から人は嫉妬で殺されていた
P34
嫉妬される側が弱い立場だと…
P36
嫉妬が“よこさま”な死を招く
P38
いじめ、生き霊、無視……『源氏物語』嫉妬の形
P40
ネットリンチ顔負けの現実
P42
不幸になるのは『自己責任』という考え方
P44/ 46
紫式部も嫉妬されていた
P48
P50
“群臣百寮、嫉妬有ること無れ”と、ある。
“嫉妬の患、其の極を知らず。所以に、智己に勝れば悦びず、才己に優れば嫉妬す”(嫉妬心には際限がなく、知識が自分より勝っていれば喜ばず、才能が自分より優れていれば嫉妬する)ともあって、嫉妬は大きな国の損失となるという(推古天皇十二年四月三日条)。

紫式部が嫉妬に注目したのは、こうした『日本書紀』の記述を読んでいたということもあったのかもしれない。

紫式部のたくらみ(twtw)
が、ここで一つ疑問が生じる。
たしかにいじめは弱い者が被害者になりやすい。
嫉妬にもそういう側面はあり、現実にも、道長の子の頼通は、正妻の嫉妬が激しくて(“イタクネタマセ給テ”)、他の女の生んだ男子三人を養子に出したという例もある(『愚管抄』巻第四)。

夫・劉邦の死後、夫に寵愛されていた戚夫人を悲惨な方法で死なせた呂后の例(史記呂后本紀)もあり、『源氏物語』でも桐壺院死後、弘徽殿の圧力を恐れた藤壺は、「戚夫人のような目は見ないまでも、

P51必ず“人笑へなる事”(物笑いとなるようなこと)があるに違いない」と、中宮の位を去って出家している(「賢木」巻)。
源氏物語3葵・賢木・花散里(阿部秋生ほか)
P156 [17]源氏の憂悶、藤壺出家を決意して参内
源氏の君は、何の面目あって再びお目にかかることができよう、このうえは宮のほうでこの自分を不憫なとお分かりいただくのを待つだけのこと、とお思いになって、宮にお手紙をもおあげにならない。

まるきり宮中にも東宮にも参上なさらず、お邸に引きこもっていらっしゃって、寝ても起きても、あまりにつれなかった宮のお心よと、一目にも見苦しいくらいに恋しく

P158 悲しく思われるので、ついに気力も失せてしまったのだろうか、病人のようなお気持ちにまでおなりになる。わけもなく心細く、いったいどうしたことなのか、この俗世間にながらえているからつらさもまさるのだ、と出家をお思い立ちになるが、そうなると、この対の女君がいかにもいじらしそうな様子で、心から君をお頼り申していらっしゃるのを、振り捨てることなどとてもできることではない。

藤壺の宮も、あの折のことが後をひいて常とは異なり、なおご気分がすぐれない。源氏の君がこうわざとらしく引きこもっていて、お便りもなさらぬのを、命婦などはおいたわしく思い申しあげる。

宮も、東宮の御ためをお考えになると、「源氏の君から根に持たれるようなことがあっては東宮が不憫だし、また君が世の中をおもしろからぬものと思うようになられたら、あるいはさっさと出家を思い立ちになるやもしれない」と、さすがにご心配のようである。

しかしまた、「君とこのような関係が続くならば、いよいようるさい今の世に、悪い噂までも立てられることにもなろう。いっそのこと、太后がけしからぬことと仰せになっているそうな中宮の位をも退いてしまおう」と、しだいにご決心をお固めになる。

故院が宮の御身の上を御心配になって仰せおきあそばした事柄が、尋常のお心づかいでなかったのをお思い出しになるにつけても、
「万事が昔のようでなくなってゆく時勢であるらしい。戚夫人がこうむったという、あれほどのひどい目には遭わされないにしても、必ず人の笑いものになる事態がくるにちがいない身の上なのだろう」
などと、世間が疎ましく、このままでは過ごしがたく思わずにはいらっしゃれないので、世をそむき出家してしまおうと決心になるにつけても、東宮にお目にかからずに姿を変えるのにはせつなく悲しいお気持ちなので、お忍びで参内なさった。
38:53~呂太后の戚夫人(twtw)【源氏物語で古文常識042(あらすじ19)】『10帖賢木(さかき)』②決断編:朧月夜・藤壺・冷泉・雲林院・出家・弘徽殿女御・弘徽殿大后・右大臣・... youtube

史記「呂后本紀第九」P257/ 259戚夫人/ 261/ 263/ 265/ 267/ 269/ 271/ 273/ 275
嫉妬する側が上位もしくは強者だと、力に物を言わせることができるため、北条政子が夫・源頼朝の愛人がいた家を破却させるなど(『吾妻鏡』寿永元年十一月十日条)、確かに嫉妬は派手な形となりやすい。

しかし心情的には、下位者による同等もしくは上位者への嫉妬のほうが激しくなりがちなのは、『源氏物語』の冒頭でも述べられていた(前述)。

桐壺更衣のケースも、直接手を下していたのは弘徽殿の関係者かもしれないが、より激しい嫉妬心を抱いていたのは“同じほど、それより下﨟の更衣たち”だった。木村花さんを中傷し、自殺に追いつめたのも、彼女より能力の劣る人々であろう。

そうした嫉妬の仕組み百も承知であるにもかかわらず、紫式部はなぜ、物語の初めのほうでは、上位者による下位者への嫉妬や圧力を描いたのか(と、こうした嫉妬の方向性にこだわるのは、正編後半以降ではその方向性が一変するからだ)。

そのほうが派手な演出ができ、読者への「つかみ」になるということもあろうが、一つには、権家の女を悪者にしたいという紫式部のたくらみゆえではないか。 

紫式部ひとり語り
第一章 矜持 - 男子にて持たらぬこそ、幸ひなかりけれ
P19 おこぼれ学問
私の少女時代は、漢籍を抜きにしては語れない。こう言うと世の人からは、はしたない、なぜ女だてらに漢籍など読むのかと叱られるだろうが、これには訳がある。
この式部丞といふ人の、童にて書読み侍りし時、聞きならひつつ、かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞさとく侍りしかば、書に心入れたる親は、「口惜しう。男子にて持たらぬこそ、幸ひなかりけれ」とぞ、つねに嘆かれ侍りし。

[うちの式部丞と申します弟が、まだ子供だった頃、勉強のために漢籍を朗読しておりまして、私はいつもそれを聞いていて自然に覚えてしまいました。弟は暗誦するのに時間がかかったり忘れてしまったりいたしましたが、わたしはそんなところも不思議なほどすらすらできました。ですから学問熱心だった父は、
「残念だな。お前が息子でないのが、私の運の悪さだよ」
といつもおなげきでしたわ。] (『紫式部日記』消息体)
私の父、藤原為時は、文章道出身の文人だ。家には漢籍があふれていた。父は自分で読むばかりではなく、弟にも学ばせた。自分と同じ漢学の道に入れて出世させようと期待したのだ。

だが弟は、幼い時からどうもぱっとしなかった。愚鈍というのは可哀想だが、素早く頭が回るほうではない。幼学の入門書の素読などという初歩中の初歩の勉学でもなかなか覚えきれず、つかえたり忘れてしまったりの繰り返しだった。

そうやってあの子が何度も何度も読みあげるものだから、私は横についているうちに、自然に覚えてしまったのだ。弟が鈍いお蔭の、いわばおこぼれ学問だ。

特別な努力など全くしていない。もちろん、父が私に薫陶を授けたなどということもない。父は逆に嘆いていたのだ。男ならば漢文に長けた有能な官人として出世の道もあるのだろうが、女のお前には望むべくもないと。

それは私の心を傷つけた。あり余る才能があるのに、女だから父を喜ばせられない。漢文な読めても無駄なのだと。そう、そんな能力は要りはしない。それなりの家に生まれ、娘や妻、つまり「里の女」として一生を過ごす女たちにとっては。そして私も、ただそのような女として生きるはずだったのだ。

それにしても世の中には、そこそこの身分がありながら娘を女官に仕立てるなどという

P21 父親もかつていたようだが、なんとおぞましい話だろうか。女官など下々の身分の者がなるものだ。女官や女房は、人に顔をさらす。顔などいくら見せても減るものではないと人は言うかもしれないが、そうではない。

女は減るのだ。恥じらいや気品というものが。確かに私も、後には女房勤めをした。だがそれは望んでそうしたのではない。やむにやまれずのことだった。しかも、最初は嫌で嫌でどうしようもなかったのだ。自分の娘、賢子を女房にしたこと?それは仕方がない。あの子には父親もおらず、もうその道しかなかったのだから。

だがそうしないで済む方法があったのならば、どこの親が最初から進んで娘を女房などに仕立てようか。それは少なくとも、名誉ある家系に生まれた私の感覚ではない。

かつて娘を自ら女官にしたというのは、高階成忠という人だ(系図1)。父と同じ漢学の徒だ。だが父とは全く考え方が違っていた。成忠は、学があり過ぎて誰からも煙たがれ、変人と噂されていた人物だった。確かに変わり者だ、世の男が信用できぬあまり、娘には結婚を勧めず勉学を授けて女官にしたというのだから。

成忠の娘の貴子様は、父親から鍛えられて漢文に熟達し、円融天皇の時代に狙い通り天皇付きの掌侍となって活躍された。だがそれがきっかけで、藤原道隆様、道長殿の一番上のお兄様に見初められ、縁づいてしまわれたのだから、世の中とはおかしなものだ。

高階氏は遠く長屋王に血の繋がる王族とはいうものの、貴族内での地位はせいぜい四位・五位程度に過ぎない。その高階氏から藤原摂政家の本妻へというとんでもない幸運のため、この話は世に知れ渡った(『栄花物語』巻三)。

P22だが考えてみれば、成忠が結婚をすんなり認めたというのはおかしなことではないか。最初は男が信用できないといっていたはずだ。相手が時の大納言藤原兼家様のご長男だからとよかったというのか。所詮玉の輿に目がくらんだのではないか。笑止千万だ

貴子様は道隆様との間に数々の御子を産んだ。やがて内大臣の地位にまで昇られた伊周様、一条天皇の后となられた定子様も貴子様の腹だ。お二人とも母君の才能を受けて漢文の素養がおありだった。だからあの一族は、結局は零落してしまった。怖ろしいことよ。漢文ができることを鼻にかけたのが悪かったのではないか。

P23 ひけらかし厳禁
私は父に嘆かれても漢籍読みをやめなかった。それどころか漢詩や漢文に没頭した。そこに繰り広げられる壮大な歴史劇、心震える情愛の物語、深遠な哲学が私を虜にした。だがある時、人から言われた一言が胸に引っかかって、私はこの力を隠すようになった
「男だに、才がりぬる人は、いかにぞや、はなやかならずのみ侍るめるよ」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、「一」といふ文字をだに書きわたし侍らず、いとてづつにあさましく侍り。

[誰かが「男ですら、漢文の素養を鼻にかけた人はどうでしょうかねえ。皆ぱっとしないようではありませんか」と言うのを聞きとめてからというもの、私は「一」という字の横棒すら引いておりません。本当に不調法であきれたものです。](『紫式部日記』消息体)
男でも、漢文の知識をひけらかす者はうだつがあがらない。それは誰のことだろう。父はどうか。そうだ、確かに父の地位は華やかとは言い難い。父の文人仲間とて、ごく一握りの人が摂関家におもねって出世している以外は、おおかた低い身分だ。

そして、私が知る限り最も漢文の素養を鼻にかけた貴公子、伊周様はどうだろう。

P24二十一歳の若さで内大臣になるまでは世間を驚かせる出世ぶりだったが、一旦道長殿との政争に負けるや、自ら女がらみのばかばかしい事件を起こして失脚してしまった。

先の帝である花山法皇を自分の恋敵と勘違いし、一味で矢を射かけて暗殺未遂の罪に問われたのだ。余罪も含め多くの連座者を出し、後に「長徳の政変」と呼ばれるに至った大事件だ。

主謀者の伊周様は内大臣の地位を剥奪され、大宰府にまで流された。やがて都に戻っては来たものの、もうひと花咲かせることはできずじまいだった。最期は三十七歳の若さで、それは惨めな亡くなり方だったと聞く。

いや、この言葉を聞いた時には、そこまで伊周様の行く末が分かっていたわけでもない。だが結局はそうなった。

男ですらこうなる。まして女は、ということだ。私はぞっとした。絶対にひけらかすまい。人には漢文の素養を見せるまいと心に決めた。このように私は、まことに世間に従順な人間なのだ。

世の中には「男は漢文、女は和歌」という規範がある。それに触れれば叩かれることを、よく分かっている。だから『源氏の物語』の中でも、光源氏が漢詩を作る場面などを書きはしたが、その詩そのものは決して書いていない。

そういう場面では、「女がよく知りもしないことを語るものではないので、省く」と逃げた。『源氏の物語』はちょうど女房が語っている形式なので、辻褄も合う。

『源氏の物語』の行間に漢学の世界が透かし見えると?それは私も認める。例えば「桐壺」の巻、帝が身分の低いお妃である更衣を溺愛する場面では、「世の皆が「楊貴妃のためし」を引き合いに出して非難したと、行間どころか本文にはっきり書いた。それは良いのだ。

P25 女とて、楊貴妃と玄宗皇帝の悲恋を描いた白居易の漢詩「長恨歌」くらい読んでいよう。読まずとも、筋は知っていよう。それを物語の下敷きにしただけだ。漢文そのものを書き散らしている訳ではないのだから。

ひけらかしにはならない。“才がってはならないから、漢字・漢文そのものは書かないが、素養は持って良い”それが私の決めた規則だ。都合の良い規則だといわれようが、物語作りは私の世界だ。私の骨肉である漢籍が、どうしても現れてしまう。これは見逃してもらわなくては、物語は作れない。少なくとも私の『源氏の物語』にはならない。

それにしても、漢学は私にとって二重にも三重にも複雑な意味を持つものだった。それは矜持でもあったが、引け目でもあった。だから、救いとも感じたが嫌悪感も抱いた。

一つは、私自身のことだ。きちんとした漢学の素養を持っていることは、女性ながら社会や歴史に対するれっきとした鑑識眼を備えているということだ。私はそれを誇りに思っている。

だが一方で、女であるがために、それは隠さなくてはならなかった。世の大多数の女とは違う目を持つ女。異端の女。その意識は私の弱みとなった。一という文字も書かないように振舞い、『源氏の物語』でも漢学を覗かせすぎないように努める私は、何と世間の目ばかり気にしなくてはならなかったろう。

漢学など知らぬ女たちは楽なものだ。

二つ目は、父のことだ。父が文人となったことが、私には誇りにも引け目にも感じられるのだ。

P26父が漢学に心を入れ、今や一条朝の文人として名を数えられるような存在になっていることは、それは誇らしい。だがそもそも父の家系は、漢学を生業としなくてはならないような家ではなかったはずだ。

名家の矜持
私の家は、藤原氏の中でも名門の北家に属する。まだ都が平安京に移って年浅い頃、嵯峨の帝に側近として仕え、天長二(八二五)年には正二位左大臣となり、死後は正一位太政大臣の地位まで贈られた藤原冬嗣公には、優秀な息子たちがいた(系図2)。

長男の長良様と、次男の良房様だ。政治の能力は良房様が上で、娘の明子様を文徳天皇の女御に入れ、生まれた皇子をその年の内に東宮の座につけた。それが水尾の帝、清和天皇だ。

良房様はこの清和天皇の時代に、人臣にして初めての摂政となられた。摂政とは、帝になり代わってすべての政務を執行できる最高の役職。今でも藤原氏の公卿たちなら誰もが切望する地位だ。

また清和天皇の女御となり陽成天皇をお産みになったのが、兄の長良様の娘、高子様。そして良房様亡きあと摂政の地位を継がれ、清和・陽成天皇、その後の時代までも君臨されたのが、長良様の三男で良房様の養子に入られた基経様だ。

この人たちを「勝ち組」とすれば、『伊勢物語』の主人公になぞらえる在原業平などは「負け組」

P27 かもしれない。『伊勢物語』を本当にあったこととすれば、業平は高子様と駆け落ちしたものの追いかけてきた基経様に貴子様を奪い返され、自身は東に下って傷心を慰めたというのだから。

私はもちろん、歌人業平を尊敬している。だが私の祖先は「勝ち組」の一族だった。(系図2

私を五代遡る祖先にあたる藤原良門は、長良・良房様たちの弟だ。早世してしまったので本人は正六位内舎人にしか 達しなかった。だがその長男の利基は従四位上近衛中将にまで昇ったし、その息子で私には曾祖父に当たる兼輔は、従三位中納言と、公卿にまでなって活躍した。

また利基には弟の高藤がいる。私のもう一人の曾祖父、定方の父に当たる人だ。定方は何と右大臣にまで出世した(系図3)。それは同母姉の胤子の縁故による。

この胤子の出生については、心躍る伝説がある。高藤が十五、六歳の頃のことだ。彼は山科まで鷹狩りに出て俄雨に遭い、ひと時軒先を借りた家で娘と恋に落ちた。山城国宇治郡の地元豪族にして大領、宮道弥益の娘、列子だ。

こうした伝説の習いとして、娘は一夜のことで懐妊する。まるで『うつほ物語』の主人公仲忠の両親のようではないか。しかし生まれたのは仲忠とは違って女の子だった。これが胤子だ。

その後高藤は父良門を亡くし、伯父の良房様たちに可愛がられて出世を果たしながらも、一夜の娘のことが忘れられない。六年後に探しに行って涙の再会、しかもそこには可愛い女の子がいたという(『今昔物語集』巻二十二第七話)。

実際には、胤子は高藤が十代で生した子ではない。どう数えても二十代も半ばの頃の子のはずだから、これは作り話だ。だが、人にまつわって作り話が生まれるには、おおかた

P29 理由があるものだ。たとえばこの胤子が、やがて国母となるとしたらどうだ。

胤子はやがて、時康親王の子で臣籍に降下していた源定省様と結婚した(系図4)ところがそれから間もなくして、時の陽成天皇が突然位を降りられることになった。天皇に子はおらず、このままでは跡継ぎが途絶えてしまう。関白太政大臣の職にあった基経様は、天皇位を継ぐべき親王様を必死に探された。

ソヒて白羽の矢が立ったのが、既に五十五歳の時康親王、即位して光孝天皇となられた方だった。

だが三年後、光孝天皇は重病に倒れられた。子たちは全員臣籍降下している。再び、皇族存亡の危機。

P30その時基経様に驚くべき提案をされたのが、基経様の実の妹で尚侍を務めていた藤原淑子様だ。光孝天皇の子で自らが養子として可愛がっていた源定省様を、臣下の源氏から皇族に復帰させて即位させようというのだ。

定省様の親王復帰は仁和三(八八七)年八月二十五日、皇太子になられたのは翌日の二十六日。そして同じ日に、光孝天皇は崩御された。まさに綱渡りだ。何とめくるめく政治劇だろう。

それにしても、こうしたことを私は、ただ歴史上のこととして知っているのではない。わが一族にまつわることとして知っているのだ。私は『源氏の物語』で、主人公の光源氏を、天皇の子でありながら源の姓に降下した人物とした。

そしてその彼をやがて皇統に返り咲かせた。もちろん、定省様のこと、我が家に関わる方の輝かしい出来事が頭にあってのことだ。

優雅な曾祖父たち
定省様が即位して宇多天皇となる前に、胤子は男の子を産んでいた。これが、後の醍醐天皇だ。宇多天皇には基経様も娘の温子様を入内させたが、その方は内親王様しかお産みにならなかったのだ。

胤子の快挙は、一族に僥倖をもたらした。醍醐天皇の治世下で、胤子

P31 の弟定方は帝の外戚として大躍進した。ただその政治家としてのあり方は、同じ時期に肩を並べていた藤原氏主流派の政治家たち、基経様の息子の時平様や忠平様(系図5)とは随分違っていた。

時平様は漢学の家から右大臣にまで達した菅原道真を疎んで、大宰府に流してしまった。道真が大宰府で傷心の死を遂げた後、時平様がまるで祟られるように三十九歳で亡くなってからは、それを奇貨とした忠平様の時代となる。

忠平様やその御子孫は、道真への罪を時平様一人にかぶせて、自分たちとは切り離した。そうした陰謀や政争や口ぬぐいを繰り返しては生き延びるのが、良房様に始まる藤原主流派の方法だ。

それに比べれば私の曾祖父たちは、余りに穏やかだった。穏やか過ぎた、とも言えるかもしれない。

貴族社会に属するなら誰氏が持っている『古今和歌集』、そして『後撰和歌集』。私はそれを聞くたび陶然とする。私の曾祖父たちの偉業が記しとどめられているからだ。だいたい『古今和歌集』の撰者として名高い紀貫之などは、曾祖父兼輔の家に出入りの歌人だったのだ。

P32兼輔は宴の度に紀貫之を呼び、歌を詠ませて褒美を与えた。『後撰和歌集』にはそうした折の歌がいくつも収められている。この歌などは、兼輔家の藤の宴に同じく曾祖父の定方が招かれ、貫之がその御相伴に与かった折のものだ。
琴笛などして遊び、物語などし侍りけるほどに、夜更けにければまかり泊まりて(三条右大臣)

昨日見し 花の顔とて 今朝見れば 寝てこそさらに 色まさりけれ(兼輔朝臣)

一夜のみ 寝てし帰らば 藤の花 心とけたる 色見せんやは(貫之)

朝ぼらけ 下ゆく水は 浅けれど 深くぞ花の 色は見えける

[兼輔朝臣の御殿で琴や笛の演奏を楽しみ話に花を咲かせるうちに、夜が更けた。それで泊まった翌朝の歌(三条右大臣藤原定方)

夕べも見た藤の花の顔だ、変わりばえもするまいと思っていたが、今朝見て驚いた。一度寝てみたらさらに色が深まっているではないか。いや艶っぽい花よ。(藤原兼輔)

P33 一夜ごときで驚いていらっしゃるのですか?うちの藤の花たちが、一夜程度のお付き合いで心を許した色気を見せますかな?もっとお泊り下さらないと。(紀貫之)

いや、右大臣様はこうお思いなのでしょう?「明け方の光の中、庭の遣水ほどに浅い私の心が見られてしまいましたな。しかし藤の色と兼輔様の御心が深いのは、私もはっきり見届けましたよ」と。](『後撰和歌集』春下128~130番)
藤原氏の名家では、しばしば邸宅の庭に藤の木を植えて、自邸の記念樹としていた。兼輔邸の藤も見事だった。その盛りに兼輔は定方を招き、貫之を侍らせ夜を徹して宴と花を堪能したのだ。

この歌はその翌朝のものだ。まだ昨夜の興ざめやらぬ様子で、藤の花を女に見立てて「寝た」だの「色」だのと、曾祖父たちの歌は軽く、色っぽく、豪快だ。それに比して貫之の歌は、頭の中で作った体で、分かりにくい。「浅い」と「深い」の対比にも、機知を利かせようという魂胆が見え透いている。

まあそれも仕様がない。貫之は曾祖父たちの前では、ここぞとばかりに歌の腕前を奮う必要があったのだもの。うちの曾祖父たちが、貫之の援助者だったからだ。そう、それは貫之だけではない。

例の清少納言の祖、清原深養父も兼輔邸に召されて、琴など弾いていたのだ(『後撰和歌集』夏167番詞書)。清少納言と私のことを、同じ受領階級に属するなどと、一緒にしないでほしいものだ。

私の家は、少なくとも三代前には文化の庇護者、歌人たちの盟主だった。あちらは父親の清原元輔がようやく周防守など遠国の国司になって息をついたような家ではないか(相互参照)。

P34歌人といえば、紀貫之と同じく『古今和歌集』の撰者として名高い凡河内躬恒が、兼輔に名簿を提出したこともあった。名簿とは下僕の誓いとして差し出す名札だ。躬恒は友人の貫之を通じて、兼輔に縁故を頼って来たのだ。その際彼が貫之に贈った歌には、唸ってしまう。
人につく 頼りだに無し 大荒木の 森の下なる 草の身なれば
[誰にすがるあても無いのさ。大荒れに荒れた森の下草のように日の当たらぬこの身だから。ありがとう、助かるよ。(『躬恒集』御所本304番)]
いくら生活のためとはいえ、ここまで卑下するものだろうか。いや、卑下する。名高い歌人とはいえ本職はみな木端役人、少しでも出世したいのが本音だ。すがりつくものがあればどんなに惨めな物言いで擦り寄りもしよう。

そうするのが当然なのだ。そして兼輔は、深い懐を以て彼らに応えた。私の曾祖父はそういう人だったのだ。

また、兼輔とくれば誰もが知っているこの歌。語り伝えられ、『大和物語』にも採られた逸話だ。

P35
堤の中納言の君、十三の親王の母御息所を内に奉り給ひける始めに、「帝はいかがおぼしめすらむ」など、いとかしこく思ひ嘆き給ひけり。さて、帝に詠みて奉り給ひける。

人の親の 心は闇に あらねども 子を思う道に まどひぬるかな

先帝いとあわれにおぼしめしたりけり。御返しありけれど、人え知らず。


[堤中納言藤原兼輔殿が、娘の桑子様を醍醐天皇に入内させなさった時のこと。桑子様は後に帝の第十三皇子の章明親王様をお産みになるほど寵愛を受けられたのだが、何分最初の頃は父君兼輔様も不安でいらっしゃった。「帝は我が娘をどのように御思いになるだろうか」と、溜息もしきり。それで兼輔殿は、このような歌を詠んで帝に進上したのだという。  
人の親の心は、暗がりでもないのに迷うばかり。子を思う道に迷うのですね。
醍醐天皇は兼輔殿の親心にしみじみ感動なさったということだ。御返事があったはずだが、それはわかっていない](『大和物語』45段)
「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」。私はこの歌を、『源氏の物語』に幾度となく引用した。他にもいろいろ文中に歌を引くことはあったが、

P36おそらくこの歌を最も多く引いたはずだ。兼輔が、醍醐天皇に入内させた娘の桑子を思っての歌。親心から、娘を愛してほしいという願いを込めた歌だ。「恥ずかしながら親馬鹿で、子を思うが故に、闇の中の迷い人のように不安でしかたがございません」と。何と泣かせるのだろう。

醍醐天皇も、一族胤子の子だ。兼輔の思いを聞き届けぬことがあろうか。帝は桑子を深く愛して、やがて玉のような男皇子、章明親王までが生まれた。残念ながら即位なさることはなかったが、親王様は私の娘時代まではお元気でいらっしゃった。

兼輔が遺した堤中納言邸、そう、今その一角に私が住んでいる、この広大な敷地の隣の御屋敷にお住まいだった。

没落
この荒れえた庭。かつてはここで中納言兼輔と右大臣定方が酒を酌み交わし、紀貫之が歌い、清原深養父が琴を弾いた。それから百年近くが過ぎたとはいえ、そう遠い昔と思えないのに、栄華はあれよあれよという間に過ぎ去った。

延長八(九三○)年に醍醐天皇が亡くなると、後を継いだのは朱雀天皇、母は忠平様の妹穏子中宮だ。天皇はたった八歳で、忠平様がすんなり摂政となられた。曾祖父ら一族が天皇の外戚だった時代は終わった。

失意の中、定方は承平二(九三二)年に逝った。兼輔も翌承平三(九三三)年に世を去った。

P37 それ以後、政治の風は二度と我が家に吹いて来なかった。

こうして、兼輔の息子、私にとっては祖父である雅正の代から、家は凋落した。雅正は受領どまり。清少納言の父ではないが周防守や豊前守などの受領を渡り歩き、位も死ぬ時にやっと従五位下と、貴族の最底辺にしかたどり着けなかった。

それでも和歌の能力は保たれて、雅正も『後撰和歌集』に歌を採られている。しかしのその詠みぶりはどうだ。
花鳥の 色をも音をも いたづらに 物憂かる身は 過ぐすのみなり [花の色も鳥の鳴き声も私には空しい。この身はただただ物憂い日々を過ごしているだけなのだ。](『後撰和歌集』夏212番)
紀貫之から無沙汰を謝る歌を贈られて返した歌だが、なんとわびしい調べだろう。二人は常に互いの家を訪ね合う仲だった(『後撰和歌集』春下137番詞書)。この時はたまたま紀貫之が病気で家にこおっており、雅正はそれを寂しがっているのだが、鬱屈の理由はそれだけではあるまい。

こんな歌を受け取って、貫之は心配になったことだろう。自分の親が可愛がってやった貫之から逆に同情を受ける。これが雅正の現実だった。

私はこの歌も、自分の作品に引いた。

P38年頃つれづれに眺め明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交う空のけしき、月の影、霜雪を見て、そのとき来にけりとばかり思ひわきつつ、「いかにやいかに」とばかり、行く末の心細さはやるかたなきものから。
[夫が亡くなてから数年間、涙に暮れて夜を明かし日を暮らし、花の色も鳥の声も、春秋にめぐる空の景色、月の光、霜雪、自然の風景に触れては「そんな季節になったのか」とは分かるものの、心に思うのは「いったい私と娘はこれからどうなってしまうのだろう」と、そのことばかり、将来の心細さはどうしようもなかった。](『紫式部日記』寛弘五年十一月)
『紫式部日記』の中で私が、夫を亡くした後の寂しい生活を振り返って記したくだりだ。そんな場面で祖父の和歌が役に立つとは、皮肉なことだ。だが、これを書きながら私はどこか嬉しかった。

華やかな歌でも苦しい歌でも、一家の歌を少しでも自分の作品に拾い上げ、もう一度活かす。それができるのは、ものを書く人間の特権ではないか。


雅正には息子が三人いて、上から為頼、為長、そして私の父の為時だ。この三人にも、共に和歌の才能が引き継がfれている。特に一番上の伯父為頼は、円融天皇の時代に関白だった藤原頼忠様にごく近く、宴や催しに出入りしては和歌を披露した歌人だ。

おや、まるで曾祖父のもとに出入りした貫之たちのようではないか。そのうえ、口惜しいことだが、

39 名声は貫之の足もとにも及ばない。だが官職は貫之よりずっとましだ。貫之は六十代の半ばを超えて、遠国土佐守、だが為頼は、丹波や摂津など京の近国の守を歴任、最後は従四位下にまで至ったのだもの。私は為頼伯父の歌も再利用した。
もちながら 千代をめぐらん さかづきの 清き光は さしもかけなん
[望月のまま、先年もこの月は空をめぐり続けることでしょう。そしてその清らかな光を射しかけ続けることでしょう。さあ、盃を持ちながら、いつまでも酒を注ぎかけましょう。(『後拾遺和歌集』雑五1133番)]
これは為頼が、醍醐天皇の孫の徽子女王様のお歌に対する返歌として作った歌だ。徽子様と言えば、伊勢斎宮を務めたのち村上天皇に入内し「斎宮の女御」と呼ばれた方だ。

娘の規子内親王が後にやはり伊勢斎宮となられたのだが、その時、徽子女王は母として共に下向された。そのあたりは、『源氏の物語』で六条御息所が娘と伊勢に下向する参考にさせてもらった。

そんな華やかなお方の世界に歌で奉仕する場面が、伯父にもあったのだ。

私はこの歌を、中宮彰子様に仕えていた時に、自分の歌に利用した。中宮様が最初の皇子をお産みになって、その誕生祝いの席でのことだ。あの会には藤原公任様がご列席だった。

女房たちは、自分に盃が回ってきたら飲み干して和歌を詠まなくてはならない。

P40「文化の世界の重鎮である公任様の前では、和歌の出来栄えはもちろん詠みあげ方にも要注意よ」などと皆で言い合って、めいめい和歌を考えた。それで私も緊張して、頭の中で懸命に歌をひねったのだ。
めづらしき 光さしそう さかづきは もちながらこそ 千代もめぐらめ
[中宮様という月の光に、皇子様という新しい光までが加わった盃です。今日の望月のすばらしさのまま、皆様がこの盃を持ち続け、千代もめぐり続けることでございましょう。](『紫式部日記』寛弘五年九月十五日)
しかし結局その夜、和歌を所望されることはなかった。せっかく作ったのに、残念ながらこの歌は披露されなかった。だからせめて『紫式部日記』の中に記しておいてやったのだ。

できることならやはりあの宴で披露し、公任様のような権威の御耳に入れたかった。だって公任様は、為頼が昔世話になった関白頼忠様のお子だもの。もしかしたら為頼の歌も御記憶にあるかもしれない。それで勘付いて下さったら、どんなによかっただろう。でももう、悔しがってもせんないことだ。

父の転進
P41 このように、我が家は和歌の家なのだ。父為時も、歌人ではある。だが父は、和歌を作りながらも別の道を模索した。それが漢学、文人の道だった。なぜか。正直言って、出世のためだと思う。もちろん、もとより漢学が好きで才もあったからではあろう。

だがそれよりも、官途に危機感を覚えたことが引き金になったに違いない。自らの父雅正のように没落の前に茫然と手をこまねくことも、兄為頼のように国司の官を得んとして権力者に近づくことも、父にはできなかったのだろう。

朝廷の文書は、すべて漢文で記されている。またその言い回しには、中国の史実や故事が盛り込まれることがある。したがって、漢文と中国史とは実務官僚の基礎知識である。

父はそれを修めるため、大学の「文章道」の学生となった。ここでの学業を終えれば、即戦力として諸国の掾、つまり国府の三等官に推薦してもらえる。「文章生外国」と呼ばれる制度だ。

また「当職文章生」といって、中央の役所で判官になれることもあった。判官とは、諸司のやはり三等官だ。そう高い官職もないが、 それが出発点なのだから構わない。

なにより阿諛追従ではなく実力で官界に入ることができる。人付き合いの下手な父は、これに賭けたのではないか。

だが、と私は思う。先に申した定子様の兄藤原伊周様も、漢文がお得意だ。しかし大学を出てはいない。それはなぜか。最初から将来が約束されているお家柄の方々には、学生の優遇制度など必要ないからだ。

ならばそうした制度に父がすがったのは、それほどまでに兼輔の家柄がものを言わなくなったということなのだ。

P42貴族社会には、学生を指して言う決まり文句がある。「せまりたる大学の衆」。「貧乏学生」という意味だ。縁故がものを言う今の世、大学に入って学問を修めようなどという人間は、要するに官界に縁故を持たない貧乏人ばかりだ。

これを漢学では恰好をつけて「寒家(tw)」などというのだが。文章道を志した時点で、父は兼輔と定方の孫であることに見切りをつけた。自ら「寒家」自認組へと転進したのだ。

だが実は、文人には二つの種類があった。一種類は菅原や大江といった一族、つまり代々文人の家系で、大学寮の頭や博士など学問関係の要職を独占している世襲学者たちだ。

彼らのことを「門閥」と呼ぶ。そしてもう一種類は、父のように文人の家柄ではない者たち。この人々は「起家」と呼ばれる。あの時代、起家の者が大学頭や文章博士になることは、余程のことでもなければ、まず無いと言ってよかった。

儒学の専門家になったからとて、起家の文人にはそこでの出世も限られているのだ。父にはそれが見えていたのだろうか。

私は、貧乏出身の起家の文人を、私の『源氏の物語』に登場させた。「少女」の巻でのことだ。光源氏は三十三歳、須磨・明石での蟄居から戻り、今や朝廷の重鎮となっている。

折りしも息子が元服し、光源氏は父としてその教育に当たる。私は、光源氏が息子を大学に入学させるという筋書きにした。

P43 官人はみな朝廷から位を授けられている。だがその中で貴族と呼ばれるのは、位が五位以上である者だけだ。貴族には多くの特権が与えられており、その最大のものに、親の位によって子の初任の位が決まる「蔭位」の制度がある。

つまり、高い位の父の子は最初から高い位で勤め始めることができるのだ。役所で実際にあたる仕事はその位によって決められるから、高官の子は若くして労も無く、少将だとか侍従だとかいった華やかな官職を得る。

そのようにできているのだ。まさに虎の威を借りる狐だ。おかしいではないか、能力もない若者を、背後に権力者が付いているからといって世が偏重するとは。またその若者とて、自己を磨く下積みという時間を奪われている点、実は不幸ではないか。私は、光源氏にその制度を批判させた。
高き家の子として、官爵心にかなひ、世の中盛りにおごり馴らひぬれば、学問などに身を苦しめることは、いと遠くなむおぼゆべかめる。戯れ遊びを好みて、心のままなる官爵にのぼりぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじろきをしつつ、追従し、気色取りつつ従ふほどは、おのづから人とおぼえてやむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ち後れて、世衰ふる末には、人に軽め悔らるるに、掛り所なきことになむはべる。
[「名門の子だからといって、位も役職も思いのまま、世の栄華にいい気になって慣れてしまうと、学問などで苦労することなど遠い世界のことと思うようになってしまうでしょう。遊んでばかりで意のままの出世を遂げてしまえばどうでしょう。

P44時流におもねる世間は、内心は舌を出しながら表ではおべっかを使い、顔色を窺いつつ接してくれます。そのあいだは何となく一人前とも思われてなかなかのものでしょうが、時が移り後ろ盾も死んで落ち目になると軽く見られて、もうどこもすがる所がないことになってしまいますよ。」](『源氏物語』「少女」)
こうして源氏の息子は、大学という修養の場に進む。きちんとした基礎学力があってこその実務なのだから、学問はもっと尊重されるべきだ。実際の世の中がそうでないというのが納得できない。私は、せめて私の『源氏の物語』では筋を通したかったのだ。

さて、起家の文人として登場するのは、その光源氏の息子の家庭教師だ。光源氏に見込まれて、大学入試に向けてつききりで息子を指導する。その成果あって、入試直前、光源氏らを前にした模擬試験で、息子は上々の出来を見せる。

光源氏の感涙を見て、家庭教師は面目ありと胸を張り、褒美の酒を受ける。その様子はこうだ。
いたう酔ひ痴れてをる顔つき、いと痩せ痩せなり。世のひがものにて、才のほどよりは用ゐられず、すげなくして身貧しくなむありけるを、御覧じ得る所ありて、かく取り分き召し寄せたるなりけり。

身に余るまで御顧みを賜はりて、この君の御徳にたちまちに身を変へたると思へば、まして行く先は並ぶ人なきおぼえにぞあらむかし。

P45 [すっかり酔っぱらった顔つきは、痩せこけている。たいそうな偏屈者で、学才の割には仕事に恵まれず、ひがんで貧しい暮らしをしていたのだが、見所があると光源氏様が抜擢され、こうして特別に召しだされたのだ。

身に余る待遇を頂戴し、この光源氏様のお子君のお陰でたちまち変身したという訳だ。まして今後は、世から漢学の第一人者と仰がれやってゆくに違いない。](『源氏物語』「少女」)
『源氏の物語』では、起家の文人も能力が認められる。また、光源氏を皮切りにやがて大学再評価の動きが起こり、博士も起家も世に用いられて、人材登用・適材適所の良き時代が訪れる。

だが、これは私の作り話だ。現実は夢物語のようにうまくいくはずがなくて、父の官途は茨の道だった。

父の浮沈
父は安和元(九六八)年、播磨権少掾となった(『類聚符宣抄』八)。私の生まれる前のことだ。また貞元二(九七七)年には、東宮の御読書始めの儀という華々しい場で「尚復」なる役を与えられた(『日本紀略』同年三月二十八日)。

この儀式で東宮に講義を御授けする役は「学士」と呼ばれ、門閥の学者が務める。この時は菅原輔正様だった。父はその補佐の役を得たのだ。

P46時に十歳だったこの東宮、師貞様が後の花山天皇だ。

おそらく、この大役には理由があったのだろう。師貞様は冷泉天皇の第一皇子で、母は藤原伊尹様の娘、懐子様だ。だが既に伊尹様も懐子様もこの世になく、師貞様の味方といえば亡母懐子様の弟である義懐様お一人だった。

ところがその義懐様の奥様が、亡くなった私の母と従姉妹同士なのだ(系図6)。

東宮師貞親王の近習の中で、父は多くの人物の知遇を得た。例えば藤原惟成。永観二(九八四)年、親王が即位するや、彼は唯一の外戚である義懐様の片腕として、天皇の側近職、蔵人となった。

P47 やがてついたあだ名は「五位の摂政」。位は五位だが、天皇にすべてを任されているといってよいほどの実務を取り仕切っているという意味だ。父も六位蔵人となり、式部省の三等官式部丞を兼ねた。天皇の側近という立場に加え漢学も活かせるという、願い続けた官職を得たのだ。

ようやっと巡り来た春に、父はこう詠んだ。
遅れても 咲くべき花は 咲きにけり 身を限りとも 思ひけるかな
[たとえ遅咲きでも、咲くべき花は咲くのだなあ。私は我が身をもうこれまでと見限っていたけれど、この私にもついに花が咲いたよ。](『後拾遺和歌集』春下147番)
蔵人所の上司である藤原道兼様の邸で、名残の桜を惜しむ宴が催された時の歌だ。だが、父は知らなかった。この宴の主催者である道兼様が、実は花山体制の転覆をはかる敵側から天皇のもとに送り込まれた密偵であったことを。

宴からわずか一年数か月後の寛和二(九八六)年六月ニ十三日未明、道兼様は天皇を言葉巧みに内裏の外に連れ出し、あろうことか山科の寺で出家させてしまった。愛妃の弘徽殿女御忯子様を身重で喪われた天皇の悲しみにつけ込んだのだ(tw)。

天皇は、神道の祭りを行わなくてはならない存在だ。仏教は異教、

P48その専門家たる僧侶であってはならない。僧になりたければ位を降りるしかない。だから、出家させたとは退位をさせたということなのだ。新しく立てられた天皇はたった七歳。後の世に一条天皇と呼ばれる帝である。

つまりこれは、政変だった。仕組んだのは、一条天皇の外祖父、右大臣藤原兼家様。道兼様はその息子だ。兼家様は四代前のご先祖藤原良房様以来実に百二十年ぶりの外祖父摂政となって、すべての権力を握られた。

旧勢力となった義懐様と「五位の摂政」藤原惟成は自ら出家。即日、蔵人以下新天皇のもとの新体制人事が行われて、父は失職した(『日本紀略』寛和二年六月二十三日)。

それから十年、父には職がなかった。官人としての資格のみで、所属する職場のない「散位」になったのである。兼家様の息子のの三兄弟、道隆様、道兼様、そして道長殿が次々台頭するのを遠くに見ながら、鬱屈の日々が続いた。私はこうした父のもとで育ったのだ。

我が家は輝かしい名家だ。だが父には職もない。漢学は素晴らしい学問だ。だがそれを修めた父は世に用いられぬ。私は私の血と教養に胸を張る。だが一体それが何になるのだろうか。

第三章 - 春は解くるもの(tw)
都からの恋文
P 49 私は、恋をした。長徳三(九九七)年のことだ。相手はまたいとこの藤原宣孝。以前から私に言い寄っていた男だ。

この前年父が越前守となったため、私は父に付いて京を離れ、越前国府の国司館に暮らしていた。宣孝は京からそこまで、遠路はるばる文をよこしてきた。男の文に飛びつくのは恋の作法上よろしいことではないから、私も宣孝に対して、とりあえずは無反応を決め込んでいた。

だが自分の置かれた状況は、十二分に弁えている。私はもう二十歳を過ぎていた。誘ってくれる男は貴重な存在だ。だから彼から文が来たといえば、いつも一応は目を通していた。

北国越前は、冬には雪に閉ざされる。だが年が明け春が訪れると共に、彼はまた手紙をよこしてきた。そこには「唐人見に行かむ」、中国からの逗留者を見物に行きたいなどと書かれている。

当時越前には宋の商人が滞在していて、都でも話題になっていたのだ。宣孝は越前に来ようというのだろうか。だがその手紙の奥には、全く別のことが書かれていた。

P50「春は解くるもの」。春にはすべてが解けるもの、というのだ。

なんとまあ、ずうずうしい手紙だろう。「唐人」の話題を枕にしつつ本当に言いたいのは「春は解くるもの」のほうで、これは私への謎かけなのだ。春は解けるもの。何が解けるか。雪か、冰か、冷たいものが皆解ける。

ならば、彼を以前から冷たくあしらってきた私の心も解ける。宣孝はそう言っているのだ。「春だもの、あなたは私を好きになるよ」と。

私は返事に歌を詠んだ。
春なれど 白嶺のみゆき いや積もり 解くべきほどの いつとなきかな
[季節は確かに春。でも私が住んでいるのは、都ではなくて越前なの。あなたも常冬の山、白山のことはご存知でしょう?深い雪がますます積もって、解ける時などいつとも知れませんのよ。おあいにくさま。](『紫式部集』28番)
越前の霊峰白山にひっかけて、彼に肘鉄をくらわす歌だ。白山の雪が春にも消えないことは、『古今和歌集』にだって載っていて教養人なら誰でも知っている。曾祖父兼輔の下僕だった歌人、凡河内躬恒もこう詠んでるくらいだ。

P51 (略)
父、越前に(tw,tw)
恋の話の前に、私が越前に下った経緯を説明しなければならない。長徳二(九九六)年、父が十年の無職状態から浮上して、大国越前守という官職を得たいきさつだ。

この年正月二十五日、地方官の人事異動「県召し徐目」が行われて、父は淡路守に任ぜられた(「長徳二年大間書」)。一条天皇への代替わり以来、役人としての資格のみで仕事なしという状態に甘んじていたのが、ようやく定職にありついたのだ。だが父は喜ばなかった。淡路は、国の等級では最低の「下国」なのだ。

父は「申し文」を書いた。申し文とは、人事異動を希望する者が書く自己推薦状のようなものだ。朝廷に提出するのだから、もちろん漢文で記す。仰々しい言い回しや故事を連ねて、何とか目指す官職にありつきたい気持ちを表す。

異動の季節には多くの官人がこれを書いて、天皇の、また朝廷のお恵みにすがるのだ。父はといえば、人に頭を下げるのが苦手なのだろう、まだそれを書いていなかったと思う。

だがこの時は、重い腰ならぬ重い筆をあげたのだ。十年干乾しになった挙句に淡路国の守ごときかと、よほど歯噛みする思いだったのではないだろうか。

父の申し文の一節は、いつの間にか世に流れ出て今も知られている。
苦学の寒夜、紅涙襟を霑ほす 徐目の後朝、蒼天眼に在り
P53[苦学に励んだ寒い夜は、つらさのあまり血の涙が襟を濡らした。
除目のあった翌朝は、失望のあまり真っ青な空が目にしみる。]
(『今昔物語集』巻二十四第三十帖)
いったい何が起こったのか、私には分からない。だが徐目の三日後、突然朝廷から言い渡しがあって、父は淡路から越前守へと転ぜられた。越前は北陸道の大国だ。話によると、藤原道長殿がそのように指示されたのだという。

徐目では源国盛が越前守に決まっていたのを急遽停止させて、父にその官を回されたのだ(『日本紀略』長徳二年正月ニ十八日)。あの申し文に効果があったのだろうか。

北陸道は一衣帯水で中国大陸と接している。そのため以前からも、この地域の守には漢学者が就くことがよくあった。菅原道真は加賀権守だったし、源順も能登守だった。

折りしも長徳元(九九五)年九月、宋の国から商船一行がやってきて、越前の港に逗留中だった。道長殿は父の文章を見て、この人物ならば中国人と対話できる適材だと思われたのだろうか。それならばなんと有り難い御恩であろうか。

ただ、今になってよくよく考えれば、道長殿の側にもこうした人事を行う理由があったように思う。それは、道長殿の政権の足腰が、当時はまだ弱かったということだ。

父の人事があった前年の長徳元年は、朝廷にとって恐ろしい年だった。関白の藤原道隆様を始めとして、

P54公卿たちが次々と病に倒れ、亡くなったのだ。道隆様の死因は持病だったが、その他の人々は疫病だ。罹ると数日で死に至る。道隆様のすぐ下の弟の道兼様などは、道隆様の死を受けて関白に内定されていたのに、天皇にその御札を申している場で発病され、見る見る悪くなってわずか七日で亡くなってしまった。

朝廷はこの年六月末までの半年に、関白から権大納言までの公卿上位八人のうち、実に六人までも喪った(『公卿補任』長徳元年)。

そんな中でたった二人生き残ったのだが、道隆様の息子で中宮定子様の兄伊周様と、道隆様・道兼様の末弟になる道長様だ(系図7)。

どちらが権力を握るかで、お二人の間には熾烈な争いがあったと聞く。伊周様は内大臣という高い地位、道長殿はそれよりも二階級も下の権大納言。いっぽうで御歳は、伊周様はまだ二十二歳、道長殿は三十歳だ。結局勝ったのは道長殿だった。

やはり伊周様では余りに若すぎるということだったのだろう。だが道長殿とて若い。四十三歳で亡くなられた道隆様から見れば、朝廷は十三歳も若い人物を一の人と仰ぐことになる。

その後の人事で道長殿は右大臣となられ、伊周様を超えてとりあえず公卿中最高の地位に就かれたものの、その力は盤石とは言い難かった。当時の空気は、私のような小娘ですら気を揉まずにはいられないほど危ういものだった。

貴族社会では、官人の妻や子はもちろん女房や下仕えに至るまでが、人事や政争に敏感で当然だ。そうでなくしてどうして生きてゆけよう。

P55 年が明けて長徳二(九九六)年、父の人事直前の正月十六日のことだ。伊周様が先の帝の花山法皇と暴力沙汰を起こされた。弟の隆家様と共謀して、従者と共に法皇を待ち伏せし、襲ったのだ。

弓矢まで使って、法皇の側には死人も出たという。もちろんこのことは道長殿の耳に入って、道長殿は即刻、検非違使庁の長官に連絡された(『小右記』同日逸文)。

事件の動機は、女性を巡る痴話げんか、それも伊周様の全くの勘違いだったと、後になって分かった。もちろん当事者は、こうした愚かしい話は恥ずべきこととひたかくしにされたのだけれど、人の口に戸は立てらず、世間はこの話題でもちきりとなった(『栄花物語』巻四)。

P56だが一条天皇や道長殿にとっては、事件のいきさつはさておき、臣下が先の帝に矢を放ったという事実が、何より見過ごせないことだった。帝はまだ十七歳とお若く、伊周様は愛する定子様の兄で、御身内だ。

伊周様の暴挙に見て見ぬふりをするのか。それとも、公平で峻厳な態度をもって事に臨むのか。帝はこの問いが突き付けられたことになる。

いっぽう、道長殿の立場は微妙だ。これを利用して伊周様の勢力を一掃するべきか。そうすれば目障りな存在は消え、政治はやりやすくなる。だがそれをやりすぎれば、道長殿は事件に乗じて伊周様の足をすくったなどと囁かれよう。

迷える中で、道長殿はとりあえずご自分の在り方を考えられたのではないか。例えば中国の歴史では、政治家たちはこうした不穏な時には、民に恩を施して人心を掌握するとか(tw)、傘下に人材を集めて勢力を固めるとかいったことを考えるように思う。

もし道長殿がそうした考えで、貧しくも有能な父を抜擢されたのであったとすれば、疫病も政争も我が家にとっては幸運だったということだ(tw)。父に越前守を奪われてしまった源国盛は、その後病にかかって亡くなったという(『古事談』巻一のニ十六)。

気の毒なことだ。だが父と違って漢文ができなかったのだもの。すまないが仕方がないと思うしかない。公卿であろうが国司であろうが、官人の世界は戦いなのだ。

私は父と共に越前に下ることになった。母も姉もおらず、父の世話をするの私一人だからだ。吉日を選んで旅立ちは六月の始めとなったが、その直前、都は再び緊張に包まれた。

P57 四月二十四日、伊周様と隆家様に帝から処罰が下されたのだ。二人とも内大臣と中納言の職を解かれて、主謀者の伊周様は大宰府へ、隆家様は出雲へ配流という。帝は峻厳の道を選ばれたのだ。

決定に際しては、道長殿にも相談はなかったらしい。道長殿にとっては、静観している間に敵が自滅してくれるという願ってもないことになった。

それにしても、去年までは華やかさを極めた関白家であったというのに、これほどの一家没落が劇があろうか。都人は身分の上下なく野次馬と化し、お二人のいる二条北殿周辺につめかけた。

騒然とする中で、運悪くご実家に里帰りしていた中宮定子様は、絶望して自ら髪を切り、出家してしまわれた。お腹に帝の初めての子を宿しておいでだというのに。

世は天を仰いで、一方では定子様に同情の涙を流し、また一方では伊周様や隆家様をののしった(以上『小右記』長徳二年四月二十四日~五月十五日)。そうした喧騒を耳にしながら、私たちは都を後にしたのだった。

楽しい男
(略)
P59/ 61/ 63晩桃花/ 65/ 67

第四章 喪失 - 「世」と「身」と「心」
宣孝の死
P69 宣孝が死んだのは、長保三(一〇〇一)年四月ニ十五日のことだった(『尊卑分脈』)。

宣孝には死の影などなかったと思う。仕事は順調で、多忙だった。結婚した長徳四(九九八)年の八月には、それまでの右衛門権佐に加えて、山城守を拝命した(『権記』同年八月ニ十七日)。

山城国はこの平安京が置かれている地域だ。守は賀茂祭りの行列などにも参加して、受領ではあるが雅で華やかな職だ。また、翌長保元(九九九)年には名誉なことが沢山あった。

十一月七日、藤原道長殿の姫君である彰子様が帝に入内し女御となられた夜には、宴に奉仕した。上機嫌の道長殿に命ぜられ、藤原実資様にお酒をついだりしたのだという(『小右記』同日)。

同じ月の十一日には加茂の臨時の祭りの「調楽」と呼ばれる総稽古で舞い、会心のできだったようだ(『権記』同日)。また二十七日には、遠く九国豊前の宇佐八幡宮へと遣わされる「宇佐遣い」として、勿体なくも帝のお言葉を携えて出発した(『日本紀略』同日)。

帰ったのは翌年二月で、道長殿に馬二匹を献上した(『御堂関白記』同月三日)。

P 71 こうした日々の中で、私には娘が生まれていた。宣孝にとっても私にとっても充実した日々が続いていたと言える。もちろん夫婦だし、宣孝はもてる男でもあるしで、時にはつまらない喧嘩などがなかった訳でもない。

だがそうしたことも含めて、今思えばすべてが大事無き日常だった。今日は昨日の繰り返しであり、明日はまた今日と似た日の繰り返しになるのだと、私は何の根拠もなく思いこんでいた。それは何と浅はかな考えだったことだろうか。

思えば宣孝が宇佐から帰った頃から、不吉な兆しはあったのだ。四月七日、大内裏豊楽院の招俊堂が落雷に遭い出火、灰燼に帰した(『日本紀略』同日)五月には一条天皇の母君である女院、東三条詮子様の病が重篤となり、帝は天下に大赦を施された(同 五月十八日)。

しかしその効果も見えないまま、道長殿までもが重病に伏された(同 五六月之間)。お二人が回復されたと思ったら、八月には大雨で賀茂川の堤が決壊、多くの家が流された。

私のこの家はもちろん、東京極通りを挟んですぐ向かいの道長殿の邸宅土御門殿にも被害が及んで、庭の池があふれ海の如くであったという(『権記』八月十六日)。

そして冬に入った頃から、疫病が猛威を振るい始めた。流行は鎮西から始まり都へと襲いかかって、疫病者が後を絶たない事態となった(『日本紀略』十一月是月・今年冬)。そんな中、空に月を挟んで東西に二つの雲の筋がかかる。「不祥の雲」である。

月は后の象徴、この雲は后への凶兆である。まさにそれはあたって、十二月の十五日夜半から翌十六日未明にかけて、かねてより東三条院がご滞在の平惟仲宅が火災で全焼、女院様は道長殿の土御門殿に避難されたが、ご容態が急変、危急の事態となった。

それと全く時を同じくして、一条天皇の皇后定子様がご出産、女皇子は生れたものの定子様は崩御されてしまう(以上『権記』十二月十五・十六日)。定子様と言えば、私が越前に下向する直前の長徳二(九九六)年五月、ご実家の没落とともに出家されたにもかかわらず、翌年再び天皇に迎えられて、きさきに復帰された方だ(『小右記』長徳三年六月二十二日)。

前代未聞の復縁は、ひとえに帝のご愛情の深きによる。後ろ盾のないきさきへのご寵愛に貴族たちからの風当たりも強く、彰子様の入内と相前後して一の皇子をお産みになったものの、世は歓迎しなかった。

やがて彰子様が中宮に立たれ、定子様は皇后の名を与えられながらもすっかり圧倒されていると拝察された。その挙句の非業の死だ。

世とはなんと騒がしく、また脆いものなのだろう。災禍、病、苦しみ、そして死。確かなものはどこにあるのか。定子様は享年二十四と聞く。帝もまだニ十一歳だ。私とて彼らと同世代だ。思う所が無いではなかった。

だが私はこの頃には、未だそれを自分のこととして感じていなかった。定子様の四十九日にあたる二月五日は、たまたま春日祭りの前日だった。勅使に支障ができ、宣孝は打診されたが、「かねてから痔がよくないから」と断った(『権記』二月五日)。

そうしたささいなことがずっと続くと、私はそう思っていた。

それが、断たれた。宣孝は疫病にかかり死んだ。私は正妻ではないので、夫と一緒に住んではいない。だから死に目に会うことはできなかった。私にとってその死に方は、不意に消えたも同然だった。

P73/ 75
世というもの、身というもの
宣孝に死なれて私がつくづく思い知ったのは、「世」というものが理不尽だった。

「世」は日常語で、私にとってはそれまで何の気なしに使っていた言葉だった。誰の和歌の中にもごく当たり前に詠まれているし、私自身も詠んだことがある。だが宣孝の死を境に私にはいろいろなことについて、前は分かった気になっているだけだった、今こそ思い知ったと感じた。

「世」はその中でも特に心に強く実感されたものだった。

「世」とは、例えば人の一生や寿命を意味する言葉だ。または、「帝の御世」など一つの時代を意味することもある(相互参照)。始めと終わりがある、限られたある時間のことを「世」というのだ。

この「限られた」ということの哀しさ。世は決して永遠ではないのだ。

P77/ 79/ 81/ 83「心」こそ世界/ 85

第五章 創作 - はかなき物語
物語を支えに
P87 夫との死別から『源氏の物語』創作に至るまで日々は、私が後に振り返り『紫式部日記』に書いたとおりだ。
年ごろつれづれに眺め明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜雪を見て、そのとき来にけりとばかり思ひわきつつ、「いかにやいかに」とばかり、行く末の心細さはやるかたなきものから。
[夫が亡くなってから幾年か、私は涙に暮れながら夜を明かし日を暮らした。花の色も鳥の声も空しく、この身はただ物憂い日々を過ごしているだけだった。春秋をめぐる空の景色、月の光、霜雪などを目にするに付けても「そんな季節になったのか」とだけは分かるが、心中は「いったいこれからどうなってしまうのだろう」と、そのことばかりで、将来の心細さはどうしようもなかった。](『紫式部日記』寛弘五年十一月中旬での回想)
P89 悲しみに目も心も閉ざされていた日々。季節は否応無く過ぎ、花の色や鳥の囀り、春には春霞、秋には晴れ渡った空、また月も春には朧月、秋には冴え渡る月、そして冬には真っ白に降りる霜、降りしきる雪、自然の景物が次々と巡り来る。だが私には、それら目に映る世界が現実のものと思えなかった。自分にとっての現実は、ただ悲しみだけだった。

刻々と過ぎ行く時間に置きざりにされる私。でも心のどこかは分別を保っていて、外の世界を眺め「ああ、もう秋だ」「もう冬になったのだ」と思うことはできる。古歌「世の中を、かく言ひ言ひの 果ては果ては いかにやいかに ならむとならむ(『拾遺和歌集』哀傷1314番 読人不知)の一節「いかにやいかに」が頭に浮かぶ。

「世の中をあれやこれやと言いながら、挙句の果てはどうなるのだろう」。恐怖にも近い心細さ。娘を抱え霧の中を行くような気持ちだった。

そんな私を救ってくれたのが、物語と、それを介しての人との触れ合いだった。どれだけ慰められたことだろう。
はかなき物語などにつけてうち語らふ人、同じ心なるは、あはれに書きかはし、すこしけ遠き、便りどもを尋ねても言ひけるを、ただこれを様々にあへしらひ、そぞろごとにつれづれをば慰めつつ、世にあるべき人かずとは思はずながら、さしあたりて、恥づかし、いみじと思ひ知るかたばかり逃れたりしを。
P90[私には、取るに足りないものではあるけれど物語についてだけは、語り合える友だちがいた。同じ心を抱き合える人はしみじみと思いを述べた手紙を交わし、少し疎遠な方にはつてを求めてでも連絡を取り、私はただこの「物語」というものひとつを手掛かりに、様々の試行錯誤を繰り返しては、慰み事に寂しさを紛らわした。私など、世の中を生きる人の数には入らない。それは分かっているが、さしあたってのこの小さな家の中で暮らし、気心の知れた仲間と付き合う世界では、恥ずかしいとかつらいとかいう思いを味わうことを免れていた。](『紫式部日記』寛弘五年十一月中旬での回想)
物語の、文芸としての格は低い。最も格が高いのは漢詩の詩作。だがこれは殿方だけに許された文芸だ。女は第一に和歌、それから日記などの実録で、物語は最低に位置づけられる。

内容が事実でない。つまり絵空事であることが理由だ。しかしそこにこそ、現実に縛られぬ物語の面白さがある。実際、娯楽としての人気は物語が抜きん出ていた。

多くの時間を家で過ごす女たちにとって、暇つぶしになる物語は有り難い存在だ。私の友人はいわゆる「里の女」、つまり妻や娘として家にいる人がほとんどなので、物語好きが多かった。

私同様に物語に没頭し、感想や批評などを、言葉を尽くして語り合える人がいた。また、物語は次々作られるとは言っても、本はとても貴重だし、誰もが持っている訳でもない。

新作が作られたという噂があると、持っている人を探し、借り手は書き写さなくてはならない。

P91 ほかのことでは決して社交的でない私が、こと物語となると積極的になれた。疎遠な人にでもつてを頼って声をかけ、頼み込むことができた。

こうして私は、物語の世界にのめりこんだ。ただ読むだけではない。自ら作り、人に読ませ、意見や感想を求め、また書く作業を繰り返した。

私の書く物語と言えば、たとえば物語の出来始めにの親ともいえる『竹取物語』。また、実在の人物在原業平を主人公に仕立て、悲恋、純愛、禁断の恋など恋の諸相を綴る『伊勢物語』。

これらは秀作だが、草木や動物が主人公の子供じみたものや、「継子いじめ」など型にはまったものも数知れずあった。それらの作者は一様に男性で、本業の役所勤めの傍ら、いわゆる「女子供」のおもちゃとして作ったものだ。

殿方は、女たちはそうした他愛ない作品で満足すると思っていたのだろう。やれやれ、女がどれだけ深くものを考えているかなど、想像すらしていないのだ。いきおい大人の読者の間からは、もの足りないという声があがっていた。

藤原兼家様の奥様の一人で道綱様をお産みになり、歌人としても名高い方が記された『蜻蛉日記』にはこうある(tw)。
世の中に多かる古物語の端などを見れば、世に多かる空言だにあり。人にもあらぬ身の上まで書き日記して、珍しきさまにもありなん。
[世の中にたくさんある古物語の端くれを見れば、実に嘘っぱちだらけ、それでも書き物として通用しているではないの。ならば私は空言ではなく、人並み以下とも言えるこの身の上を手記に書き記そう。異例と言われようが、我が人生を書いて世に問うてやろう。](『蜻蛉日記』上巻)
これを書かれた道綱母様(tw)は、私の遠い親戚筋にあたる。ご姉妹の一人が、私の母方の祖父藤原為信の兄、為雅に嫁いでいるのだ。『蜻蛉日記』は、私が生まれた頃に世に問われた。

夫の兼家様との二十余年にわたる結婚の日々を赤裸々に綴った手記だ。道綱母様のような生々しい人生体験をお持ちの方には、古物語は食い足りなかったのだ。ただ、道綱母様ならずとも、人間みな歳をとればそれなりに人生体験はある。

めでたしめでたしの古物語が現実と明らかにずれていることは、だれもが感じていた。道綱母様は、それをはっきりと口にされたのだ。

帚木三帖の誕生
P P93 私が当初家にいて書き始めた『源氏物語』は、後に世に広まったものとは少し違う。私は最初から五十余帖の長編を目指しはせず、短編から書き進めたのだ。だが短編であろうとも、現実以上に現実らしい物語を目指す姿勢は定まっていた。

私は、物語を実話仕立てにすることに決めた。架空の話の始まり方には従来「今は昔」など型があったが、それに倣わず、実在する主人公の行状を、その人物をよく見知った者が語るという形をとる。

内容は、主人公がひた隠しにしているのに語り手がつい漏らしてしまった秘話だということにするのだ。いや、もちろん中身は私の作り話だが、こうしたことは実際の世の中にも多いではないか。
光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好き事どもを末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ語り伝へけん、人の物言ひさがなさよ。
[光源氏。名ばかりは「光」とおおげさだが、「実は光ってなどいないのさ」と打ち消されてしまうような失敗も多いのだ。もちろん本人は「こんな色恋沙汰を誰か聞きつけて後々の人にまで伝え、軽い奴だと噂になったらどうしよう」とひた隠しにしていらっしゃる。だのにそんな秘密まで語り伝えてしまう、人のおしゃべりの罪深さときたらねぇ。]
P94光源氏とあだ名される、理想的な貴公子、在原業平をも超える恋と雅の力を持ちながら、しかし超人ではない。その恋の裏話、失敗談を書こう。主人公を「源氏」と設定したのは、帝の御子という高貴な血統で箔をつけたかったからだが、いっぽうで自由な身で様々な女とも関われるようにと考えて、あえて親王にしなかったのだ。

様々な女。そう、私は光源氏を私自身にごく近い身分の女たちと関わらせようと思った。高貴な姫君や特別な女は、今までの物語の中でも繰り返し語られている。だが私は普通の女に、その生々しい思いを物語の中で吐きださせたいと考えたのだ。それでこそ私の物語ではないか。

だが、貴公子光源氏が最初から受領階級の女に興味を持っているは、世慣れすぎていて不自然だ。そこで私は考えた。宮廷の男たちに光源氏を煽らせてはどうか。経験豊富な男たちが自らの恋の体験談を光源氏に吹き込む。若くて好奇心旺盛な光源氏は、知らぬ世界の話に胸をときめかせる。

このお膳立てがあれば、帝の御子が中級や下級貴族の女に恋をして不思議ではない。長雨の降り続く中、光源氏と悪友の頭中将、また身分が低く受領階級の女に通じた左馬頭と藤式部丞の四人が寄り集まっての「雨夜の品定め」の場面は、こうして生まれた。

だが「雨夜の品定め」を書く理由はもう一つあった。これはまさに男たちが語る「物語」なのだ。私の『源氏の物語』以前に世にあふれていた、殿方たちの手による物語と同じ、男の目から見た女の物語だ。

私はあえてそれをとりこみ、「今まで女は、男性によってこう語られてきた」と確認する。

P95 そのうえで私自身による全く違う物語、つまり女の目から見た女の心の物語を始めようと考えたのだ。

「雨夜の品定め」では、四つの恋の話が語られる。左馬頭が語る、嫉妬深い女との恋、また浮気性の女との恋、頭中将が語る、控えめすぎるがゆえに自ら身を引き姿をくらましてしまう、か弱い女との恋。この女は、やがて「夕顔」の巻で光源氏と出会うことになる。

そして最後が、自ら下の下の身分と称する藤式部丞雅歌たる、文章博士の娘の話だ。「藤式部丞」といえば、花山天皇の御世に父がそのように呼ばれていたこともあった。そう、これは私自身にごく近い世界のはなしなのだ。だが、けっして私自身ではない。

「私がまだ文章生でございました時、おそるべき女と出会いました」。藤式部丞はそう語りだす。弟子として出入りしていた先の博士から娘との結婚をもちかけられ、気が進まぬものの師匠の手前断ることもできず、ずるずると付き合い始めた。

ところが相手は実に情けの深い女で、心から彼に尽くしてくれる。そのやり方たるや、朝廷での仕事の助けになるようにと、一つの枕の睦言にも漢学教養を語り、恋文はすべて漢文、ひらかなは一切無しだ。

その薫陶のお陰で藤式部丞も腰折れ漢文の一つくらいは作れるようになるが、さて彼女を妻にするかといえば話は別だ。無才な自分では結婚してから見下されるに違いないと腰が引け、しばらく冷却期間をおいた。

P96長い無沙汰の後訪れると、女はいつもと違ってじかに会おうとしない。間に御簾か几帳を隔てるというよそよそしい態度だ。藤式部丞はむっとした。すねているのか。何様もつもりだ。

結構、これを理由に別れ話を切り出すよい機会だ。だがそれは彼の思い違いだった。博士の娘は腹を立ててなどいなかった。男と女の仲なるものをちゃんと弁えて、彼を怨んでもいなかった。ではなぜじかに会わないのか。
声も逸りかにて言ふやう、『月ごろ風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。目のあたりならずとも、さるべからむ雑事らは承らむ』と、いとあはれに、むべむべしく言ひはべり。答へに、何とかは。ただ、『承りぬ』とて立ち出ではべるに、さうざうしくやおぼえむけむ、『この香失せなむ時に立ち寄りたまへ』と、高やかに言ふを、聞き過ぐさむもいとほし、しなし休らふべきに、はた、はべらねば、げに、その匂ひさへはなやかに立ち添へるもすべなくて。
[女が声もせかせかと言うには「数か月来、風病重篤に耐えかねて、『極熱の草薬』、漢方のにんにくを服用しており、口がとても臭いため、対面致しかねます。じかにではなくても、然るべきご用は伺いましょう」と、心は情にあふれ、言葉は理路整然としたものです。

しかし答えに何と言いましょうや。私はただ「承知した」と言って立ち去ろうとしました。女は寂しく思ったのでしょう、「この口臭が消える頃、またおいで下さいませ」と大声で言うのを、聞き流すのも忍びなく、とはいえ一瞬もぐずぐずしてはおれず、実際声にかぶせてその口臭というやつまでがぶわーっと漂ってくるではありませんか。もうどうしようもありませんよ。](『源氏物語』「帚木」)

P97 これを聞いて貴公子たちは呆れかえり「嘘だろう」と大笑いする。

「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ。むくつけきこと」
[「どこの女がそんなこと。あり得ないよ。そんな女を相手にするくらいなら、大人しく鬼とでも付き合ったほうがましさ。おお怖」](『源氏物語』「帚木」)
そう言ってしきりに人さし指を弾いては非難の仕草をして見せる。藤式部丞め、とんだ体験談だという訳だ。当の藤式部丞は、お咎めにもけろりとして「これ以上珍しい話はありますまい」などとうそぶく。

これが、男の放談だ。この娘は確かによくない。どんなに漢文ができようと、男にそれを見せてはならないのだ。口臭以前に漢文臭さを漂わせた時点で、女失格と見做される。

そうした常識を世間の狭い博士の娘は知らなかった。ただし、悪いのはその一点だけだ。自分の特技で一生懸命恋人に尽くそうとした、深情けの娘。不実な彼を怨みもしなかった、いじらしい娘。正直にも口臭のことまで話してしまった、飾り気のない娘。

P98しかしそんな娘を「鬼以下」と笑うのが世の男というものなのだ。皆おおいにこの娘を笑ってほしい。笑ってから、どうかその笑いの残酷さに気がついてほしい。

男たちの語る「雨夜の品定め」を前座にして始まる、私の物語。その最初の女主人公を、私は私と同じ受領階級の女にした。そう若くない年齢。年の離れた夫。住まいは私の住む堤中納言邸の近く。そう、この女も私自身にごく近い世界の女なのだ。だが決して私自身ではない。

光源氏は方違えのために、岳父の左大臣家に親しく出入りしている紀伊守の邸宅にやって来る。女は紀伊守の父、伊予介の後妻で、やはりたまたま紀伊守邸に来ている。紀伊守から継母である女について聞いた光源氏は、「雨夜の品定め」に焚きつけられた熱冷めやらず、行動にでる。女に挑み、強引に契ってしまうのだ。

方違えとは我ながらうまくしたものだが、実はこれは私の実体験に依っている。まだ娘の頃、家に方違えにやって来た男に、ちょっとした出来事をしかけられたことがあった。何をされたかかと?

そんなことは言えない。家集で触れた時にも「方違へに渡りたる人の、なまおぼしきことありて帰りにけるつとめて(方違えにやってきた人が、よく分からないことをしかけて帰ってしまった朝)」とだけ書いて逃げた。

あの何とも言えぬ気持ちを、私は忘れることができない。もっともその時は、翌朝何食わぬ顔で帰って行くその男に腹が立ち、怒りの歌を送ってやったのだけれど(『紫式部集』4番)。

P99 物語の女は既に娘ではなく、私のようにあけすけな態度にでることができない。

加えて光源氏は、女の寝所に忍び込むだけではなく、そこから女を拉致して、自分にあてがわれた寝所に連れ込んだ。女にとって、自分の寝所以外で契らされるのは、遊び女も同然の屈辱である。

男が女を盗み出す話しは、古くからしばしば物語に描かれてきた。例えば有名な『伊勢物語』にも、業平らしき男が藤原高子様らしき女を連れ出す話がある。しかしそこには、女の気持ちはほとんど描かれていない。

だが私の物語では、光源氏に踏み込まれた女は、まず物の怪にでも襲われたかと恐怖を覚え、光源氏と知ってからは相手の高貴さにたじろいて声も上げられない。

小柄ゆえ軽々と光源氏に抱き上げられ彼の寝所に入れられるが、密通などあってはならないこと、汗だくになって抵抗する。光源氏が思いつきで甘い言葉を並べても、騙されない。
「現ともおぼえずこそ。数ならぬ身ながらも、思し朽たしける御心ばへのほどでも、いかが浅くは思うためへざらむ。いとかやうなる際は際とこそ侍なれ」
[「まるで悪い夢のよう。人の数にも入らぬ身ながら、私を見下していらっしゃるあなた様のお気持ちが心浅いものであることは、はっきり見通せます。所詮私のような身分の者など、この程度の身分に過ぎない、そうお思いなのでしょう。世間でもそう申すではありませんか」](『源氏物語』「帚木」)
P100悔しいのは、受領の妻という低い身分のせいで遊び女扱いされたことだ。女の亡父は生前には中納言、でつまり公卿の一角を占める存在で、娘を光源氏の父帝に入内させたいと望んでいた。

父の死後も女の矜持は失せていない。力ずくで光源氏に押し切られてしまった後には、女は泣きながらこうも言うのだ。
「いとかく憂き身のほどの定まらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、あるまじき我頼みにて、見直したまふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを、いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに、たぐひなく思うたまへ惑はるるなり。よし、今は見きとなかけそ」
[「もしも老いた受領の後妻などという情けない境遇になる前の、昔のままの公卿の娘という身でお気持ちを受けたのであれば、身の程知らずな思い上がりで、いつかは本気で愛して下さることもあろうかと望みをかけ、心も慰めもしましょう。でもこんなにもかりそめの逢瀬の頼りなさを思いますと、どうしようもない気持ちになのです。もう結構、こうなったからには逢瀬のことは口にしないで下さい」](『源氏物語』「帚木」)
怒り、惨めさ、なくした夢、諦め。すべての根本に「身の程」がある。この女は、光源氏に惹かれつつ、結局二度と会わない。最後は自らの抜け殻のように薄衣一つを残して消えるこの女を、私は「空蝉」と名付けた(tw)。光源氏とのことで自分の身の程を改めて思い知った女は、

P101 その身の程の中で生きていくことを選ぶのだ。これが、女の「身」を見据え「心」を描く私の物語だ。

『源氏物語』へ
右の女に加えて夕顔の女についても悲しい身の上の物語を記し、私は一つの閉じめとした。「帚木」「空蝉」「夕顔」、今このように名付られている三巻から成る短編である。最後は冒頭と呼応して、語り手の挨拶で終る。
かやうのくだくだしきことは、あながちに隠ろへ忍び給ひしもいとほしくて、皆漏らしとどめたるを、「など、帝の御子ならんからに、見ん人さへかたほならず物褒めがちなる」と、作り事めきてとりなす人ものし給ひければなん。あまり物言ひさがなき罪避りどころなく。
[こうした面倒な恋話は、ご本人がともかくひた隠しになさっているので、気の毒でこちらも漏らすのを思いとどまっていたのだけれど、「帝の子だからとは言え、どうしてひどく褒めちぎるばかりですの?実際に会ったことある人まで」などと言って、作り話を疑う人がいらっしゃいますのでね、ついに暴露してしまいました。あまりにもおしゃべりな私、お咎めは逃れようもなくて…。](『源氏物語』「夕顔」巻末)
P102物語は好評を博した。何より私自身が、光源氏の活躍するこの世界を書き続けたいという意欲を感じた。短編に終わらせず、長編にしよう。ならば光源氏も一代記にならないか。ところがそこで思い至った。

私は私の物語で、普通の女たちを縛る「身」、そこでもがく女たちの「心」を見つめ描いた。だが光源氏という主人公、天皇の御子で、若く美しく政治的な後ろ盾もあって、ほとんど何の不平不満もなさそうなこの男についてはどうだったろう。

女たちに「身」と「心」があったように、光源氏にも彼なりの現実があり、その中でもがく心があるはずだ。だいたい、この若者はどうしてこんなに過激な恋にばかり奔ろうとするのか。「光源氏」とあだ名される後ろには、皮肉にも大きな闇があるのではないか。

歴史上、帝の御子で「源氏」であった方々はどのような方々だったろうか。私は自分の歴史の知識を繙いた。嵯峨天皇の御子で、仁明帝から文徳・清和・陽成帝に仕え最後は左大臣にまで昇った、広大な邸宅河原院を造営したことでも知られる源融様。

醍醐天皇の御子で、朱雀・村上・冷泉帝の三代に仕え、やはり左大臣にまで昇った源高明様。二人とも、和歌はもちろん学問・風流・有職故実に通じた最高の貴人だった。だが、母君の身分が低かった。

源融様の母は確か大原氏、高明様の母も公卿に至らぬ右大弁源唱の娘で「近江の更衣」と呼ばれた人だ。融様は帝になりたかったと聞く。

P103 陽成天皇が廃帝と決まった時、次の帝を決める議定の場で、左大臣だった融様は「近き皇胤をたづねば、融らもはべるは(天皇の近親を求めるのならば、この融もいるぞ)」と言ったという(『大鏡』「基経」)。だがその名乗りは退けられた。

そうだ、「源」の名には「身」があるのだ。母の身の程ゆえに、天皇の後継となり得る「親王」の称号を授けられずに臣下に下ったという現実が、光源氏とは、若くして身分社会の壁に阻まれた青年だった。

彼にはそのつらい「身」があって、だからこそ過激な恋という「心」があるのだ。

自分の創作した架空の人物だというのに、私は光源氏を史実に照らし、それと重ね合わせ肉付けし始めた。こうして私の物語は『源氏の物語』となっていった。

『源氏の物語』の中には、主人公光源氏が物語について語る場面がある。
「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、よきも悪しきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に込めがたくて言ひ置き始めたるなり」
[「物語は、『誰誰のことだ』と事実をそのまま伝える訳ではない。しかし、全く事実でない訳でもないのだ。良いことにせよ悪いことにせよ、この世を生きる人の有様には、見ているだけでは我慢できず、聞いてもすぐには聞き流せない事柄というものがある。時代を超えてずっと語り伝えてほしいと感じるような事柄だ。それを人が心にしまっておけなくて伝え始めたもの、それが物語だということだ」](『源氏物語』「蛍」)
『蜻蛉日記』など実録は、はっきりと事実に依っている。いっぽう物語は、荒唐無稽な嘘と言われてきた。だが私は、そうではないと思う。少なくとも私の『源氏の物語』は、ここで光源氏が話しているように、どこかで事実とつながっている。

私という作者が、自分が死んでも次の世まで伝えたいと感じ、さらに次の世にも伝えるべきと感じる事柄を事実の中から精選して、それをもとにして作っているのだ。だから、私が創り上げた世界ではあるが、完全な作り話では決してない。

事実には、帝や后にまつわるなど、世の中全体に係わる「史実」というものがある。いっぽう、私のような物の数にも入らぬ存在が体験する、ささやかな出来事もある。帝や后や私たちという身分の垣根を越えた、人にあまねき事柄もある。

私が宣孝に死なれる直前に、時の帝が皇后定子様を喪われたのは、本当に悲しい出来事だった。畏れながら帝は一人の若い殿方として、定子様を心から愛しておられたと思う。

ご実家が没落し、後ろ盾もない定子様へのご寵愛は、貴族たちからは白い目で迎えられていた。

P105 当然だ、帝のご愛情は皇位の継承に係わる。皇統と国政と貴族社会の安定のために、実家が権力を持つきさきを寵愛して男子を産ませることこそ、帝たる方の務めだ。実際、あの時には帝の男子は定子様が産んだ敦康親王御一人で、貴族たちは大層難儀したではないか。

帝ならではのこうした事情もあって、なおさらに定子様へのご愛情は強いものと、私たち下々にも感じられた。

その定子様が亡くなられ、帝の御心やいかにと感じていた時、私は宣孝を喪った。愛する者を喪った時悲嘆にくれる心は、帝も私も同じであろう。その悔しさ。その孤独。絶望。しかしどうしようもなく生きているこの身。私が伝えたいと思い、次の世にもずっと伝えてほしいと願うのは、例えばこうしたことたちだ。

私は長編化した『源氏の物語』の冒頭を、光源氏の父帝と母更衣の愛から始めた。
いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
[どの天皇の御代だったかろうか。女御。更衣ときさきがあまた居並ばれる中に、そう高い身分ではなくて、しかも抜きんでて御寵愛をうけておられる方がいた。](『源氏物語』「桐壺」冒頭)
この更衣は、帝の愛情ゆえに世間の批判を受け、若くして死ぬ。遺されたのが光源氏だ。

P106帝は更衣を愛した分、彼女に死なれて激しい喪失感に苛まれる。いったい愛は、人を幸福にするのか、それとも不幸にするのだろうか。さらに、愛する人を喪った後、人はどう生きるのか。

身代わりを立てて愛すれば幾分は癒されるのだろうか。これらは、現実界にあって定子様を喪った帝、そして宣孝を喪った私のみならず、大切な人人を喪った人すべての問題だ。

また『源氏の物語』の帝は、溺愛する光源氏を、亡母の地位の低さや世間の思惑に配慮して「源氏」に臣籍降下させざるを得ない。これは現実の定子様の御子、敦康親王様の事実からは離れた架空の筋立てだ。

だが、人間だれしもが持つ、身分と心の葛藤に係わる。光源氏は身分差を負って生きてゆく。彼は「身」と「心」の問題をどう解決しようというのか。自分自身の問題、そして人たるもの皆の問題を、私は私の『源氏の物語』の世界に向かって幾度も問いかけた。

第六章 出仕 - いま九重ぞ思ひ乱るる
女房になる
P107 寛弘二(一〇〇五)年、私は一条天皇の中宮彰子様のもとに、女房として仕えることとなった。

女房になりたかった訳では全くない。それまでの人生で、どこかに出仕したこともない。それは明らかに、落ちぶれた人のすることだと、私は考えていた。

女房とは、内裏や貴族の家に局を与えられ、そこに住み込んで働く侍女を言う。掃除や料理などの下働きはせず、行事に参加して花を添えたり、主人の装束を整えたり、和歌や物語など教養娯楽の相手を務めたりするのが仕事なので、見かけ上はみすぼらしいものではない。

だが何と言っても女房は雇われ人である。私は自宅では自ら女房を雇っている身だ。その私が雇われる側になるなど、考えるだけで目の前が暗くなる。

身分ということを抜きにしても、私は女房という存在自体をずっと心の中で嫌ってきた。女房は一般に、世間ずれしていて下品という印象があったからだ。いや、それは決して印象だけではない。

娘や妻として家に収まっているいわゆる「里の女」は、家族以外の人間とほとんど顔を合わせない。おっとりと構え、一日を几帳の後ろに隠れて過ごせばよい。

P108だが女房は、そうはいかない。主家の人々、主家に出入りするお客、同僚女房など、身分の上下も男女も問わず不特定多数の人々と顔を合わせる。当然おっとりと構えてはいられず、蓮っ葉になってしまうのだ。世の男性で女房を軽佻浮薄と見る向きは少なくない。

加えて女房は、主家に住み込むせいだろうか、主家の細かいことに首を突っ込みがちだ。やれ御主人はどんな役職に就いただの、あぶれただの。奥様は漢文を読んだりしてはしたないだの。

放っておいてほしいことまでも鋭く観察し、時には批評し、あるいは外に噂をまきちらす。女房とはおおかた、そうした物見高く煩わしい存在なのだ。私の『源氏の物語』には、語り手を始め大勢の女房が登場する。その俗っぽい生態を見れば、私の気持ちも分かるはずだ。

とはいえ私には、出仕以外の道はなかった。中宮様のご両親である、藤原道長殿と北の方倫子様からのたってのご要請と伺っては、断わる訳にはいかなかったのだ。道長殿は左大臣、時の最高権力者だ。

かつて十年間散位だった父を越前守に取りたてて下さった恩義もある。倫子様は、私と同じく藤原定方を曾祖父に持つ、またいとこだ。全くの他人に仕えるよりは、目をかけてもらえるかもしれない。

自分自身を振り返ると、娘を抱えた寡婦という現実がある。父や弟も頼りにならない。『源氏の物語』を書いている間は現実を忘れられたが、

P109 ふと我に返ればやはり将来が心もとない。

初出仕は十二月二十九日だった。まるで現実感が無くて頭がぼんやりし、ただ夢の中で迷子になったようだった。晴れがましい勤めということは分かっている。が、心は家にいた時と変わらず、いやむしろ鬱屈の度合いを募らせていた。

寡婦という不本意な「身」の上に、今度は女房という「身」まで加わるのか。私は溜息をついた。
初めて内裏わたりを見るに、もののあはれなれば
身の憂さは 心の内に したひ来て いま九重ぞ 思ひ乱るる

[初めて内裏を見た時、心の底からしみじみと悲しみがわいて
身の上のつらさは、内裏に来れば忘れられるかと思っていたが、そうではなかった。つらさは心の内に潜んで、ここまで私にまといついて来た。いまここ九重…内裏で、私は幾重にも心乱れている。](『紫式部集』91番)
華やかな内裏にいながら、私は沈んでいた。私が迎えた同僚女房たちにその表情がどのように受け取られるかなど、考えもしなかった。

宮仕え経験のない私が突然中宮彰子様の女房に抜擢されたことには、理由があった。

(略)

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第七章 本領発揮 -- 楽府という書
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第十章 女房 - ものの飾りにはあらず
『源氏の物語』の誉れ
P173 思い返せば、寛弘五(一〇〇八)年は『源氏の物語』にとっても特別な年だった。あの藤原公任様から、読者であるということをほのめかされたのだ。十一月一日、中宮様のお産みになった皇子、敦成親王の誕生五十日の儀の宴でのことだ。

日没頃から始まった儀には、お産の時と同様に多くの公卿たちがつめかけた。それぞれ帝に自分の娘を入内させている、右大臣の藤原顕光様と内大臣の藤原公季様までが参上なさったのだから、どちらも道長殿と中宮様の前に負けを認めたということではないか。

公卿方は祝いの酒を振舞われ、夜も更けて中宮様の御前に召される頃には、すっかりできあがっていた。御簾が巻き上げられると、右大臣はいつもの酒癖の悪さを発揮して女房たちに歩み寄り、几帳の垂れ布をの綴じ目を引きちぎって、身を隠していた女房に戯れかかった。

「年甲斐もなく」と女房たちはつつき合う。本当に愚かな人だ。だがその愚かさが、道長殿にとっては安心材料と言える。もしもこの地位にいるのが、故定子様の兄弟の伊周様だったら、道長殿もうかうかできなかったかもしれない。いっぽう内大臣は、

P174息子の実成様が作法を守って下座から歩み出ると、それを見て涙ぐんでいる。微笑ましい子煩悩とも言えるが、はっきり申して大甘のご様子だ。実成様はもう三十四歳、一人前に振舞って当然ではないか。

そんな時だった。簀子敷から公任様が廂の間を覗き込まれ、私の『源氏の物語』の女主人公の名前を口にされた。
左衛門の督、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらう」とうかがひ給ふ。源氏に似るべき人も見え給はぬに、かの上はまいていかでものし給はんと、聞き居たり。
[左衛門督藤原公任様が「失礼。この辺りに若紫さんはお控えかな」と中を覗かれる。ここには源氏に似ていそうな方もお見えでないのに、まして紫の上などいるはずもないではないか。私は存じませんことよ、と聞くだけは聞いたが応えないでおく。](『紫式部日記』寛弘五年十一月一日)
公任様は『源氏の物語』を読んでおられた。そのことを知らせるために、わざわざ私のことを「若紫」と、光源氏の妻の名前で呼ばれたのだ。もちろんそれは、中宮様への点数稼ぎもあったろう。

公任様は私の伯父の為頼が世話になっていた関白藤原頼忠様の御子で、むしろ道長殿よりも藤原嫡流の生まれだ。が、不思議に摂関家は能力も運も長男筋

P175 より弟筋に味方することが多く、今や公任様は道長殿の後塵を拝するしかない。あの寛弘五年当時、公任様は中納言、いつか大臣となることが人生の悲願だったろう。

そのためには、道長殿に従うしかない。漢詩・和歌・管弦のすべてに長け有職故実にも通じていらっしゃる公任様が、中宮様の一女房にすぎない私の、しかも和歌や日記よりずっと格式の劣る物語などというものの登場人物名を口にされたことには、そんな下心があったはずだ。

見え透いたおだてに乗るものですか。意地悪な心が起こって、私は公任様を黙殺した。勝手に光源氏を気取っていらっしゃるおつもりなのだろうが、私に言わせれば、「花の傍らの深山木」とはこのこと、気の毒ながら似た所すらおありにならない。

まして私があの紫の上なんて、とんでもない。呼ばれてうかうかと名乗り出でもしようものなら、思い上がりもいいところ、それこそ笑いものではないか。それに、私自身にとっても紫の上は、現実の誰にも代え難い大切な存在だ。

私などと一緒にしてほしくない。額に手をかざして私を探す公任様を横目に、私は格下の文芸の作者が正道の文化の重鎮を袖にする小気味よさと、また中宮女房ならではの、中宮様の権力を笠に着る快感とに、ほくそ笑んだ。

だがいっぽうで、私は深い喜びを禁じ得なかった(tw,tw,tw,tw)。公任様が言われた「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」という言葉は、中国唐代の伝奇小説『 遊仙窟(参照)』(tw)の一場面に倣ったものなのだ。

主人公である張文成が、神仙の窟宅の在りかを尋ねる場面だ。彼はやがて、その仙境で美女と出会い、恋に落ちる。私はこの、山中で運命の女と出会うという設定を『源氏の物語』に取り込み、

P176光源氏が北山で若紫と出会う場面を作った。公任様が『遊仙窟』の言葉を使って私に呼びかけられたのは、それに気がついたということなのだ。

公任様はご自分の著書『和漢朗詠集』に『遊仙窟』の一節を採っておられ、あの伝奇小説には詳しい。だから『源氏の物語』での密かな引用にも気がついて、「若紫の巻で、かの『遊仙窟』をうまく使いましたね。私は分かっていますよ」と仄めかしてくださったのだ。

自分が知る限りを注ぎ込んで成したものが、しかるべき人にきちんと理解されている。それを知った喜びは、まさに物語作者としての手ごたえ以外の何物でもなかった。

(略)

P177 (略)

P178一つの文芸を分かち合うことがどれだけ人と人の心を触れ合わせるか、友達と物語を分かち合うことで宣孝の死を乗り越えた私は、よく知っている(tw)。

中宮様が述べられる感想や意見の中に、帝は中宮様の人柄を垣間見るだろう。帝と初めて出会った時の、十二歳の少女とはもう違うことに、遅まきながら気づかれることだろう。

定子様を喪われた悲嘆と孤独のために、長く中宮様に目をお向けにならなかった帝が、大人の女に成長した中宮様を知る、よい機会になるのではないだろうか。道長殿も薄々そのことき気づいていらっしゃるようで、中宮様を本気で止められはしない。むしろ豪勢に墨や筆などを贈られて、中宮様を応援なさった。

物語は、俗で軽い文芸だ。格式の高い漢籍や和歌集ならばさておき、この時『源氏の物語』が中宮の命によって制作されたなどという些事を、歴史の表だった記録に記し置く者はいないだろう。

ましてやこの、ささやかな存在である物語が、帝と中宮の心の懸け橋になるなどとは、だれも考えはしまい。だが、きっとそうなるのだ。『源氏の物語』はその役をやり遂げる。私はそうした『源氏の物語』の作者であることに、胸を張る。

政敵死す
(略)
P179/ 181女房とは何か?/ 183/ 185/ 187『枕草子』の力/ 189/ 191/ 193伝えたい相手/ 195