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第一章 超常的「幸ひ」の人・道長
P 15/ 17/ 19道長栄達への道すごろく
P21 もとより、権力者・藤原兼家の息子として生まれたとはいえ末っ子だった道長の前には、同腹の長兄・道隆と次兄・道兼という壁が立ちはだかっていた。ところが道長が三十歳で公卿(閣僚級の上級貴族)の中堅にあった時、二人は相次いで病死。
同時に他の上席公卿たちも流行の疫病で死亡し、権力の座は一気に道長の手中に転がりこんだ。ライバルとして対峙した甥の藤原伊周は、翌年自ら罪を犯してあっけなく自滅、やがて政界復帰の兆しをみせたものの、結局は若くして死んだ。
伊周の妹で一条天皇(九八〇~一〇一一)の寵愛を独占した中宮定子は、兄の事件で自ら出家し没落、その後后に復活を遂げるも、難産のため二十四歳の若さで崩御した。
一条天皇も、道長の娘・彰子との間に二皇子を生し、道長が天皇の退位を願い始めたまさにそのタイミングで、三十二歳で崩御した。一条天皇の後に即位し事あるごとに道長と対立した三条天皇(九七六~一〇一七)は、わずか五年で病を受け退位、翌年崩御した。
道長が長女・彰子の産んだ外孫・後一条天皇(一〇〇八~三六)のもとで摂政の座に就き、権力の頂点を極めたのは、この時である。なお「御堂関白」と呼ばれる道長だが、関白職に就いたことはない。
一条天皇の時代には、本来関白が務める「内覧」の業務を担当し、事実として関白同然ではあったのだろう、『大鏡』はその時に彼が三十歳で「関白」となったと記している。しかし、正式な官職であるのはこの摂政のほうである。
さて道長自身は、生活習慣病の持病があり何度も病臥したものの、六十二歳まで生き延びた。二人の妻もそれぞれ享年が九十、八十五という長寿のうえ、彼の子を六人づつ産んだ。最初に生まれた娘・彰子は、上の息子が後一条天皇として即位、下の息子はそのもとで春宮(皇太子)となり、
P22天皇と春宮を擁する「天下第一の母」(『大鏡』「道長」)として、道長と共に国を支えた。彰子の弟・頼通はそつがなく、道長の後見のもと若くして摂政・関白の座に就き、長期安定政権を築いた。
道長はこの息子に摂政を譲り、自分は公的に無官となりながら、実権を握り続けた。こうした権力のあり方は、過去には無かった。道長の死後のことだが、彰子は八十七歳、頼通は八十三歳と破格の齢を全うした。短命だった敵対者たちとの差は歴然である。
道長の強運は、戦慄を覚えさせるほどである。平安時代の言葉では、強運を「幸ひ」と呼ぶ。例えば富、権力、結婚、家族、長寿。道長はそのすべを手に入れた、まさに超常的な「幸ひ」の人であった。そして、そうした見方の一端を反映したのが鎌倉時代の『古今著聞集』だったと考えるのである。
似た例は、幾つも見いだせる。例えば道長の死後百年を経ずして院政期に成立した歴史物語『大鏡』は、
道長が若い頃から負けず嫌いで、道長兄弟にとって又従兄弟にあたる藤原公任が何事にも優れていることを父(兼家)がほめ「うちの子たちはそれとはほど遠い、影法師も踏めないな」と嘆いた時、「影など踏みません、面を踏んでやりますよ」と血気盛んなことを言ったと記す。
また道長は豪胆で、兄たちと内裏で肝試しをした時、おびえる兄たちに対し彼は平然として目的地に行ってのけたという逸話を載せる。
これらはすべて、道長の成功を受けた後付けの伝説にほかならない。少なくとも、逸話の内容がそのままの事実ではない。『大鏡』が成立した院政期という時代においてまことしやかにこうした武勇伝が囁かれるほど、道長が骨太の実力者と見られ崇敬されていたということが事実なのである。
P23【系図1】道長の親・兄弟/ 25/ 27/ 29/ 31/ 33/ 35/ 37
第二章 道長は「棚から牡丹餅」か?
第三章 <疫>という僥倖
第四章 中関白家の自滅
P 087/ 089/ 091/ 093/ 095/ 097伊周と隆家/ 099花山院闘乱事件/ 101
P103
「政変」とその果て(tw)
中関白家兄弟と法皇との乱闘事件から二ヵ月以上が過ぎた長徳二年三月末、「政変」は新たな局面を迎えた。折りしも重い病気に悩まされていた国母・東三条院詮子の容体が悪化、彼女の御在所である寝殿の床を探ったところ「厭物(呪詛の道具)」が掘り出されたのである(『小右記』同年三月ニ十八日)。
詮子は関白の座を巡って道長と伊周が対決する形になった時、道長を強力に推した。当然伊周からは恨まれていただろう。呪詛は伊周が命じたものというストーリーが作られるのは容易だった。
ただこの時、『小右記』によれば、当の詮子の「御在所」には道長がいた。寝殿の床下を掘り返したのも、道長の息のかかった従者たちだった可能性がある。この「物的証拠」は信頼できるのだろうか。
さらに四月一日、伊周に命じられて「 太元帥法」を行ったとの由を小栗栖法琳寺の僧・仲祚が通報した(『日本紀略』同日)。「 太元帥法」は 太元帥明王を本尊として鎮護国家のために行う秘法で、承平・天慶の乱に際しても行なわれ、霊験があったという。法琳寺は
P105 これを独占的に行っており、重要なのはこの修法を行うことが許されているのは天皇家だけだったということである。臣がこれを行うことは、天皇家の権威を侵犯するものだった。
なお、この事件については道長を勝手に国賊に見立ててのものだったとする見方があり、鎌倉時代の仏教説話集『覚禅鈔』は「内大臣がこの法を行い道長殿を呪詛させたもの」と記している(「五 太元法霊験門」)。
これは後年の説話集なので信憑性には乏しいが、伊周は以前から、母方の祖父である僧(俗名・高階成忠)に道長を呪詛させているとされていた(『百練抄』長徳元年八月十日)。 太元帥法はその延長線上のものと、誰もが推測したことだろう。
こうして、伊周と隆家の罪状は三件に及んだ。一条天皇は四月二十四日、関所を閉じる戒厳令の通達を出すと同時に、緊急の人事異動を行い、三つのかどにより内大臣・伊周を太宰権帥、中納言・隆家を出雲権守に降格、即刻配流すべしとの命令を下した(『小右記』同日)。
花山院を射たこと、東三条院詮子を呪詛したこと、太元帥法を修したこと、これらは三件とも天皇家に楯突く行為である。義兄弟として二人と親密な関係にあった一条天皇ではあったが、天皇家当主として彼らを見逃すわけにはいかなかった。事件に連座したと見なされた者たちも処罰を免れなかった。
その後の展開はすさまじいものだった。伊周と隆家は出頭を拒んで定子の御所に立て籠もった。折りしも初めて懐妊した定子が内裏から二条の自宅に下がっていたのである。
二条大路が野次馬でごった返しすなか、邸内の定子は伊周と手を握り合い、体を張って兄をかばった。邸内からは悲しみの泣き声が外に漏れ、人々はもらい泣きを禁じえなかった。
P106しかし天皇は許さず、家宅捜索を命じた。検非違使たちは邸内に乗り込み、天井を壊し床をはがすまでの捜索を行った。隆家は捕らえられ、伊周はいったんは逃亡したが数日後に出家姿で出頭。
騒動のなか、定子は髪を切り出家した。(以上『小右記』同年四月ニ十五日・ニ十八日・五月一日・二日・四日)
戒厳令は一カ月半に及んだ(『日本紀略』同年六月九日)。またその後も、病気と称して播磨国に留め置かれていた伊周が秘かに上京し定子に匿われていることが発覚、出家も嘘だったことが判明して今度こそ太宰府に送られるなど、ごたごたはこの年いっぱい続いた。
実資は「積悪の家、天譴を被るか(数々の悪事を働いた家に天罰が下ったか)」と非難しつつも、天下が嘆いたことを記す(『小右記』同年十月八日・十一月十日)。『枕草子』に誇らしく描かれる中関白家の栄華は散った。
「長徳の政変」とその事後処理は翌長徳三(九九七)年に落ち着き、同年四月には公卿会議を経て二人を赦免・召喚することが決定された(『小右記』同年四月五日)。
そこには一条天皇の強い意向が働いていた。厳しい捜索や流罪は見せしめ的なものであり、天皇の内心には二人を許したい思いが強かったのだろう。道長は天皇と息を通じるように動き、事件は落着を見た。
道長の背負ったもの
この「長徳の政変」は、あくまでも中関白家兄弟が引き起こし、発覚後に及んでも無思慮と悪あがきによって事件を拡大させたものである。彼らの没落は自滅だったと言ってよい。
P107 だが罪状とされた三件の事案すべてで道長の姿が見え隠れすることは注意すべきだろう。『大鏡』によれば、道長は後年、隆家にしみじみと語ったという。
「一年のことは、おのれが申し行うとぞ、世の中に言ひ侍りける。そこにもしかぞ思しけむ。されど、さもなかりしことなり。宣旨ならぬこと、一言にてもくはへて侍らましかば、この御社にかくて参りなましや。天道も見給ふらむ。いとおそろしきこと」最高権力者が賀茂社に参詣する「御賀茂詣」の道すがらである。道長の供人へと落ちぶれた隆家を見かねて、道長は彼を牛車に同乗させ、こう言ったのだという。史実か否かは不明だが、世間の見方や弁解せずにいられなかった道長の気持ちがよく表れている。
(「先年のことは、私が天皇に申して実行したと、世間では言いましたとか。あなたもそうお思いだったでしょう。ですが、そんな事実はなかったのです。勅命にないことを私が一言でも加えていたら、この神社にこうして参れるものですか。お天道様もご覧でしょう。それは本当に恐ろしいことです」)
確かに二人の処罰については、すべてが天皇自身の意向と命令に拠っており、道長が口をはさむことはなかったのだろう。だが、それ以前の段階ではどうか。
P108暴力事件の通報、詮子が呪詛する厭物の発見、太元帥法の告発、すべての件に道長は多かれ少なかれ関与している。時の趨勢にわずかに手を貸すこと。それもまた結果によっては「いとそろしきこと」ではないか。
道長は中関白家の失脚を見越して、確信犯的に手を下した。自らの権力保持のために政治の泥に手を染めたのである。「長徳の政変」は道長にとって、政治家として<開眼>した大きな機会だった。だが、それが彼に多大な緊張を強いたことは想像に難くない。
ふたりを赦免して間もなく、道長は病に倒れる(『権記』長徳三年六月八日・七月二十六日)。以後次々と彼を襲い、生涯悩ませることになる多種多様な病悩の始まりだった。
<幸運>は彼に光芒と同時に疲労困憊と苦痛、そして罪悪感と恐怖をもたらしたのだ。
第五章 栄華と恐怖
第六章 怨霊あらわる
「紫雲」の和歌
P135 長保元(九九九)年十一月、藤原道長は長女の彰子を十二歳という幼さで一条天皇(九八〇~一〇一一)に入内させた。そのいわば嫁入り道具に、彼はかつてない和歌色紙屏風を新調した。
公卿や先帝という、只者でなく高貴な人々に依頼して、色紙のための和歌を詠ませたのである。その中で、当代きっての文化人公卿・藤原公任が詠んだ和歌がこれである。
紫の 雲とぞ見ゆる 藤の花 いかなる宿の しるしなるらむ和歌は祝賀を表す色紙絵に合わせたもので、この和歌の絵は「松に藤」。松はもちろん
(まるで紫雲がたなびいているように見える、見事な藤の花。一体ここがどこのように素晴らしい家であることの表れなのでしょうか)(『公任集』三〇七番)
P137 長寿を、藤はここでは藤原氏を意味する。公任は今を盛りと咲く藤を道長鍾愛の彰子に見立てて詠み、自らも含めた藤原一族の繫栄を寿いだ。だがそれだけなら、美しいが平凡な和歌だ。
見逃せないのは「紫の雲」なる比喩である。もとよりこの言葉は瑞雲を意味するが、『枕草子』の初段「春は、あけぼの」に定子を示す「紫だちたる雲」が登場するように、当時、「后」をほのめかす最新の表現ともなっていた。
つまり公任は、この語で彰子の「立后」を暗示したのである。天皇にはこの時、既に定子という中宮がいたにもかかわらず、である。実際、この三カ月余り後、道長は一条天皇に圧力をかけ、定子に加えて彰子をも「后」とする「二后冊立」を果たす。
公任のこの和歌には、その展開を見越して予祝する香りが漂う。さしずめ、定子はさておき彰子に期待する思いをちらつかせて道長を喜ばせようという政治的配慮を、彼らしく優美に和歌に忍び込ませ多という辺りか。
公任は、道長と同い年で祖父同士が兄弟という又従兄弟である【系図】。本書は第一章で二人にかかわる『大鏡』「道長」の逸話を紹介した。曰く、道長ら三兄弟の父・兼家が公任の有能さを羨み、「お前たちは公任の影法師も踏めぬ」とぼやいた。
長兄・道隆と次兄・道兼は押し黙るばかりだったが、道長は覇気を見せ「影など踏まず、面を踏んで面目をつぶしてやりますよ」と息巻いた、というのである。後付けの説話だから当然だが、事実、道長は公任を大きく超えて出世した。
この長保元年時点で公任はまだ参議・右衛門督。左大臣で最高権力者の道長に遠く及ばない。運命は二人を逆転させたのだ。
P138だが、公任は道長を羨んだようには思えない。彼は和歌・管絃・漢詩の才に長け、文雅の世界では最高峰の地位にあったからだ。特に和歌では勅撰和歌集『拾遺和歌集』のもととなる私撰集『拾遺抄』を編んだ理論派の重鎮で、道長に面どころか影も踏ませていない。
いや、だいたい、「面を踏む」などという『大鏡』での道長の発想自体が、文化人としての品位にかけている。
彰子入内屏風の意味
実は、この屏風和歌には、公任と同じ小野宮家(実頼の系統)の実資も詠歌を依頼されていた。だが彼はそれを断った。さらに、喜んで引き受けた公任を非難して日記『小右記』にこう記した。
此の事、甘心せざる事なり。又、右衛門督は是れ廷尉、凡人と異なるに、近来の気色猶追従するに似たり。一家の風、豈此の如きか。嗟呼痛きかな。もともと屏風和歌は、和歌の得意な下級役人に作らせるものだった。『古今和歌集』編者の紀貫之、清少納言の父で第二の勅撰集『後撰和歌集』編者の清原元輔などは、こうしたアルバイトで食いつないだといっても過言ではない。
P139(この一件は感心できぬ。また右衛門督・公任は、検非違使庁別当の住職も兼任しており、雑魚の官人ではないのに、最近の様子ときたらまるで左大臣に追従するようだ。一家の風格はかくの如きではなかろうに。ああ痛いことよ)(『小右記』同年十月二十八日)
その時、下命した貴族パトロンとなり、歌人はその配下に属する。道長の屏風制作に実資が嗅ぎ取ったのは、その匂いだ。道長はこの企てによって上級貴族にマウンティングしようとしている。祖先の築いた歴史を<ご破算>にして、道長を頂点とした家格の再編を図っているのだ---。
確かにそのとおりだった。道長は彰子入内の前日、人々に酒食をふるまい屏風のお披露目をした。実資も足を運ぶと、その場で能筆の藤原行成が筆を執り和歌を記していく。問題は歌人の名だ。
花山法皇(九六八~一〇〇八)の御製は「詠み人知らず」。本名の名指しは失礼にあたるからだ。だが他は皆、「右衛門督藤原公任」「宰相中将藤原斉信」「宰相源俊賢」など本名が記される。
かと思えば道長一人は「左大臣」のみで、名を記さない。露骨な差のつけ方。この屏風はまるで、道長を<主>、その他を<従>とする派閥構成員一覧表ではないか。実資は「後代までの面目丸つぶれだ」と内心で眉を吊り上げた。その怒りに道長は気が付かなかったのか、それとも気が付いていないふりをしただけなのか。
P140実資に向かって和やかな顔を作って見せたという(『小右記』同年十月三十日)。
かつて歴史学では、道長時代の上級貴族たちは宴や行事に興ずるばかりで政治を蔑ろにしていたと見られていた。しかし今や、視点が大きく改められ、儀式や行事はそれこそが政治であると見直されるに至った。
宴を含めた式典の遂行、道長が用意した屏風のような調度の制作、法会における僧侶の調達などは、主催者や担当者の手腕の見せどころであると同時に、彼らの政治的意図を示すものでもあった。
道長は彰子の入内屏風を機会に、公卿たちの親疎を「見える化」して世に突きつけたのだった。もちろん、彰子が入内すれば一条天皇はまさに彰子の<背後>にこの屏風を見る。その効果も計算した上での、まばゆい和歌色紙屏風だった。
皇子、誕生
十一月一日、彰子は輦車に乗って、大勢の公卿や殿上人に送られて内裏に入った。「輦車」といえば、『源氏物語』で光源氏の母・桐壺更衣が危篤状態になった時、特別に許された乗り物である。
通常は皇族や大臣でないと許されない。この高貴な乗り物に乗せられて彰子が入内したところまでは、道長もご満悦だっただろう。だが十一月七日、彰子に「女御」の称号を与えられ天皇との公式の顔合わせと祝宴が行われるという重要な日に、実資が日記の冒頭に記したのは彰子のことではなかった。
P141 卯の刻、中宮男子を産む<前但馬守生昌三条宅>。世に云はく、横川皮仙と。定子が出産。一条天皇の第一皇子が誕生したのである。だが人々は「横川の皮仙人」という謎のような言葉を囁いたという。「横川の皮仙」とは、比叡山横川の修行僧・行円のあだ名で、彼が鹿皮の衣を着て説法していたことによる。
(午前六時前後、中宮定子が男子を産んだ<前但馬守・平生昌の三条宅においてである>。世間は「横川の皮仙」と噂している)(『小右記』同日)
(略)
P 143「幼き人」彰子/ 145/ 147「二后冊立」に動く/ 149黒塗りの日記/ 151邪気に憑かれる/ 153死霊の襲撃/ 155
第七章 『源氏物語』登場
第八章 産声
第九章 紫式部「御堂関白道長の妾?」
『尊卑分脈』の注記
P207 十四世紀に成立した系図集、『尊卑分脈』。これで「紫式部」を調べると、藤原為時の子の一人として「女子」と大書した周りに、注として次の言葉が記されている。
歌人 上東門院女房 紫式部是也 源氏物語作者…御堂関白道長妾云々「妾」は、現代の「愛人」ではない。あくまでも公認された妻の一人、しかし正妻ではない関係を言う。この資料は、紫式部が道長とそうした関係にあったと言うのである。しかしそこには「云々」が付いているから、これは伝聞である。『尊卑分脈』が作られた時、
(歌人。上東門院彰子の女房。紫式部がこの人である。「源氏物語」の作者。…御堂関白藤原道長の側室という)(『尊卑分脈』第二篇第三 良門孫)
P209 まことしやかにそうした噂をささやく輩がいた。それは現代まで伝えられて、二人の関係は様々に勘繰られている(相互参照)。
それにしても、火のないところに煙は立つまい。噂の発生源はどこなのかと言えば、それは紫式部自身の記した実録『紫式部日記』である。以下に記す通り、そこにはある夜、道長らしき人物が彼女の局(部屋)を訪れたことが記されている。
だが、彼女は戸を開けなかったとも記されている。しかしそれが火種となって、「いや、本当は戸を開けて道長と一夜を過ごしたのだろう」「いやいや、この夜拒んだというのは本当だろう。だが後々まで招き入れなかったという証拠はあるまい」
などと、かまびすしい諸説を巻き起こしているというわけである。ちなみに、後者は先年亡くなった瀬戸内寂聴尼から、生前、筆者が直接うかがった説である。「紫式部が道長を拒む理由は何一つない」と寂聴尼は言われた。
とはいえ、彼女が道長を拒まなかったと考える根拠はあるのだろうか。たぶん、ある。そう筆者は考えている。それも同じ紫式部自身の遺した言葉の中に、少なくとも彼女の側には、道長を想っていた形跡が窺える。
そこで本章では、道長よりも紫式部を中心に据えて、彼への気持ちがどのように彼女の中に芽生え膨らんでいったか、そのことは当時の男女関係ではどのような意味を持つものであったかを考えてみたい。
『好きもの』紫式部
P211/ 213/ 215/ 217/ 219/ 221
『召人』という存在
P223 ただ、もしも二人の間に関係があったところで、それはかりそめのものだったろう。当時、主家の男性と男女関係にある女房を「召人」と呼んだが、紫式部は道長の召人にも及ばないものだったと思う。気まぐれに終わらず、継続的に関係を持った女房でなければ、召人とは呼ばれなかったからである。 ただ、
P224道長には、多くの召人がいた。例えば、彰子の女房で「大納言の君」と呼ばれていた源廉子である。『栄花物語』(巻八)によれば、廉子は道長の正妻・倫子の姪で、父親に出家され彼女自身の結婚にも失敗した。
そこで従姉妹である彰子のもとに出仕したところ、道長に見初められた。顔立ちがまことにかわいらしかったからと、『栄花物語』は言う。その彼女に対する道長の扱い方は、こそこそと人目を忍ぶようなものではなかった。
そのため当然、倫子の知るところともなったが、倫子は身内だからと許したという。このように道長はおおっぴらに「召人」を作る男なのである。
また、かつて花山院(九六八~一〇〇八)の恋人だった、藤原為光の四の君である。『栄花物語』(巻八)によると、院が寛弘五年に亡くなると道長は姫たちの女房として彼女を取り立て、仕えさせるうちに情を通じるようになった。
それは彼女のために「家司(専用の事務担当者)」を置くほどの寵愛ぶりだったという。召人という使用人として傍らに置きながらも、独立した「家」を持つ側室のように扱ったというのである。
彼女は道長の子を産んで亡くなったとも(『大鏡』「為光」)、産む前に亡くなったとも言われている(『小右記』長和五[一〇一六]年正月二十一日)。また彼女の妹・五の君も、道長の次女・妍子に仕えつつ道長の召人となっていた。彼女が自分の子を宿していることを道長は公表しているので(『小右記』同年四月二十四日)、やはり秘めた関係ではなかった。
このように、道長の召人である女房たちは、同僚にも世間にもそれを知られていた。せいぜいが『紫式部日記』のおぼろげな記事以外に根拠もなく、『栄花物語』などにも記されない紫式部との関係は、たとえあったとしても道長にとって「つまみ食い」程度のものとしか考えにくい(tw)。
P225 『尊卑分脈』が「道長妾」と妾(側室)の一人であったかのように記すのは、中世になって『源氏物語』が貴族文化の名作として認められ、紫式部がカリスマ化したためだろう。
しかし紫式部の生前においては、『源氏物語』が天皇・中宮・貴族たちに愛読されていたとはいえ、作者は一女房に過ぎなかった。家族に後ろ盾となる有力貴族がいたわけでもない。
道長はまさに若き日の光源氏よろしく、一時的に興味本位で関わったに過ぎないのではないか。いや、『源氏物語』は光源氏が女たちに長年愛情を注ぎ続けたときしているから、現実の道長は源氏に遠く及ばなかったと言うべきか。
ただ道長との思い出は、紫式部の心に深く刻まれた。それが最晩年になって『紫式部集』にあふれ出たのだと思う。
紫式部は、『源氏物語』の中に召人を何人も登場させている。妻ではなく、日陰の存在である彼女たちは、普通は物語の登場人物にはなりにくい。だが紫式部は、光源氏の召人を多く登場させ、科白を与えた。
『源氏物語』 宇治十帖最後のヒロイン・浮舟は、宇治の八宮とその召人との間の娘である。紫式部は、「召人にもなれなかった女房」として召人たちの思いをすくい取り、物語に綴ったのではないだろうか。
大納言の君は紫式部とは同僚で、親友とも言っていい仲だった。次は、彼女が紫式部に詠んだ和歌である。土御門殿で、道長主催の大規模な法会が一ヵ月にわたって営まれた時のことである。
公卿を始め上流貴族たちのほとんどすべてが参加し、その数は僧・俗を含めて百四十三人にものぼった(『御堂関白日記』寛弘五年五月五日)。夜には庭にかがり火が焚かれ、燈明と光り合って昼以上の明るさとなった。
そんななか、大納言の君はふと紫式部に思いを漏らしたのである。
澄める池の 底まで照らす かがり火に まばゆきまでも うきわが身かないかに道長が栄華を極めようとも、召人である大納言の君の現実は、決して幸せなものではなかった。紫式部は傍らにいて、じかにその苦衷に寄り添ったのだった。
(澄んだ池の底まで照らすかがり火は、道長殿の栄華をあらわすまぶしいもの。でも私の身は、その光に照らされ、恥ずかしいまでにつらいのです)(『紫式部集』「日記歌」一一七番)
第十章 主張する女たち
正妻・源倫子にひれ伏す
P227 長い髪、御簾の向こうでしなだれる影。平安時代の貴族女性には、か弱くしおらしいイメージが付き物である。だがそれは「幻想」と言ってよい。藤原道長の正妻である源倫子は実に強い女性で、道長はこの人に頭が上がらなかった。また彼女は、しばしば自分の存在感を主張した(tw)。
「宮の御ててにてまろわろからず、まろが娘にて宮わろくおはしまさず。母もまた幸ひありと思ひて、笑ひ給ふめり。よい男は持たりしかしと思ひたんめり」P228最高権力者として彰子を支えてきた自分自身と、皇子を産みおおせた彰子を、道長は讃えた。それはまた、倫子の夫としての自分に対する「我ぼめ」にもなった。
(「中宮のお父さんとして、まろはなかなかのものだ。また、まろの娘として、中宮はなかなかでおられる。母もまた、運がよかったと思って笑っておられる様子。いい夫を持ったことよと思っていると見える」)(『紫式部日記』寛弘五年十一月一日)
倫子に視線を送って「どうだ」という顔をして見せたりもしたのだろう。権力の道をひた走り、今や外祖父摂政へ決定的な足掛かりを得た自分を、褒めてほしかったのだ。
ところが、聞いた倫子はぷいと席を立ち、自室に行ってしまった。彰子はおっとりと構えているが、紫式部はハラハラする気持ちを抑えられなかった。仕え始めてその時はまだ三年だった彼女でも、倫子の立腹にはぴんと来たからだ。
いったい何が彼女の癇に障ったのか。それは、道長が使った「幸ひ」という言葉だった。それは幸運、しかも天から降ってきたような僥倖を指す。道長は、倫子がその恩恵に与ったと言った。
自分という男と結婚したお陰だと。しかし、彼女の認識は違った。倫子に言わせれば、運が良かったのは彼女ではなく道長の方だった。
想い起せば、二人が結婚した永延元(九八七)年。摂政・兼家の息子とはいえ末っ子の道長は、左大臣だった倫子の父・源雅信からは「くちばしの黄色い若造」扱いされ、結婚は問題外だと取り合われなかった。しかし倫子の母の穆子が道長には見どころがあると
P229取りなして、縁談はようやく実現の運びとなったのだ(『栄花物語』巻三)。自分がその程度の人物に過ぎなかったことを、道長は忘れてはならない。ましてや倫子を玉の輿にのせたかの言い方は、断じて許すことができない。
二人が今、住んでいる土御門殿も、もとはと言えば穆子と雅信のものだったのを倫子が受け継いだのだ。敷地が二町に広がったのは道長が婿として入り最高権力者となった後の長保初年の頃と考えられるが、それとて彼一人の力でできたことではない。
源氏の左大臣家が彼の後ろ盾となり、結婚当初からパリっとした装束を着せて人心を集めるなど、中関白家が興隆を極めた時期でも経済的・政治的な援助をおしまなかったからこどである。
道長はその恩を忘れてはならない。倫子は一言も発することなく、行動でそれを主張したのだった。
道長は気分を害されて怒っただろうか?そうではない。逆に、倫子の機嫌こそ彼にとっては尊重すべきものだった。彼は慌てて席を立つと、妻の後を追った。
(略)
「一位」の人・倫子
実は倫子は、このほんの半月前の十月十六日、一条天皇の土御門殿行幸の褒賞として国から従一位の位階を与えられたばかりだった。道長は正二位なので、倫子は家族内だけでなく公的な上下関係でも道長を超えたことになる。
天皇は最初、道長に加階を打診したのだが、道長は断り倫子に加階を譲ったのである(『御堂関白記』同日)。朝廷に仕える女官でもない女性が従一位となったのは、史上初めてだった。
道長の気遣いは、倫子の産んだ子供たちへの特別扱いにもはっきり見て取れる。道長は倫子と結婚するより前から、同じ源氏の血筋である源明子を妻としていた。だが、明子には父・源高明が安和の変(安和二[九六九]年)で失脚した<疵>があったためだろう、正妻となったのは倫子だった。
また倫子は明子よりも早く長女の彰子と長男の頼通を産み、それが決定打となって、道長は倫子の子たちを徹底して上に扱った。
例えば、長保三(一〇〇一)年十月九日、道長の姉・東三条院詮子の四十賀が土御門殿で催され、天皇も行幸した時のことである。十歳の頼通が「蘭陵王(tw,tw、参照)」、明子腹で九歳の
P231 頼宗が「納蘇利」を舞い、どちらも人々を感嘆させた。が、天皇が特に頼宗の「納蘇利」に感じ入り、頼宗の舞の師にだけ従五位下の位を与えたところ、道長は不機嫌になって座を立ってしまった。一同は不穏な空気を感じ、こう言ったという。
陵王の兄は既に愛子、中宮の弟、当腹の長子。納蘇利は外腹の子、其の愛猶浅し。今、納蘇利の師を賞せらる、仍りて忿怨する所と云々。道長の怒りは二人の息子への愛情の差によるもの、しかしその愛情とは、「中宮の弟、正妻の長男」という頼通のポジションゆえと、人々は言い合った。頼宗の師だけが位を与えられたことは『大鏡』「道案(雑々物語)」にも記されており、そこでは不服を示したのは倫子とされている。
(蘭陵王を舞ったのは愛息子で、中宮の弟、正妻の産んだ長男である。納蘇利の方は側室の子で、愛情が浅い。だが今、天皇が納蘇利の師匠を称賛されたので、左大臣道長は腹を立てたのだとか)(『小右記』同日)
光る君へ29 31:29~蘭陵王、納蘇利(参照)
だが『小右記』による限り、事実として立腹して席を立ったのは道長だった。ただ、その場には倫子もいたので、道長が倫子の怒りを先取りして自分の怒りとして示した可能性はある。
その点では、『大鏡』もあながち間違いではなかったのかもしれない。道長は、道長家を継承するのは倫子の子の頼通であることを、早くから決めていたのだろう。
P232だからこのように、息子たちが幼い時から公的な場で上下関係を明らかに示し、彼らの自覚を促し、貴族社会にも認識させた。つまりは面倒な御家騒動の芽を摘んだということだろう。
それにしても、素直に舞に感動した天皇に対しても道長は釘を刺した形だ。道長が一条天皇を軽く見ていたことの一端が覗く逸話でもある。
耐えてきた彰子
さて、こうした個性的な両親の間で、この頃俄かに変貌をとげようとしていたのが、娘の彰子だった。
彰子は父と母の期待を背負い、わずか十二歳で入内した。だがその時、一条天皇の心を占めていたのは定子だった。やがて定子は崩御したが、天皇は身代わりのように定子の妹・御匣殿を寵愛し、懐妊までさせた。
長保四(一〇〇二)年に御匣殿が身重のまま亡くなり、今度こそ彰子の敵は消えたかに見えた後も、六年間、彰子は一度も懐妊することが無かった。天皇の子を産むことを父からの至上命令として入内した彰子である。
内心には屈辱も悲しみも不安もあったことだろう。しかし彼女は、傍目には、“優等生”的にそれに耐えてきた。
『紫式部日記』によれば、そこには彼女独特のしのぎ方があったとおぼしい。それは「期待しない」ということである。例えば女房に対する不満を、彰子はこの方法によってやり過ごしてきたと、紫式部は言う。
P233 (略)
彰子のサロンは、地味で不評だった。それは彰子が女房たちに「ただことなる咎なくて過ぐすを、ただめやすきことに思したる御けしき(でしゃばって失敗するよりは、ただ大過なくやり過ごせばそれでいいという消極的な方針)」しか示さなかったからだが、その理由は、かつて職場内で大きな顔をしていた女房が間違ったことを言い張り、彰子が「こんなに見苦しいことはない」と骨身にしみて感じた経験によるという(『紫式部日記』消息体部分)。
当の女房が彰子サロンの一員だったかどうかはわからないが、彰子には許せない失態だったのだ。彰子はその後、「女房などに期待するまい」と諦観するようになっていた。紫式部自身も、彰子から次のような言葉をかけられた経験があった。
宮の御前も、「いとうちとけて見えじとなむ思ひしかど、人よりけにむつまじうなりたるこそ」と、のたまわする折々侍り。『源氏物語』を引っさ提げたアマチュア作家・紫式部は、道長と倫子が抜擢して彰子に与えた人材だった。だが少なくとも人としての心の触れ合いという点では、彰子は当初、紫式部に期待しなかったのである。
P234(中宮様も、「あなたと心を割っておつきあいできるとは思っていなかったけれど、不思議なことに、ほかの女房たちよりずっと親しくなってしまいましたね」。そうおっしゃってくれることもございます)(『紫式部日記』消息体部分)
入内以来の、こうありたいと願って叶わなかったり、周囲に期待しては裏切られたりした<心の傷>が、彼女の心に鎧を着せたのではないか。「もう傷つきたくない」という思いが、彼女に「望まない」「求めない」という抑制的な生き方を選ばせていたと考えられよう。
だが、彰子の言葉に見えるように、やがてこの中宮と物語作家は特別な信頼関係で結ばれるようになった。きっかけはやはり『源氏物語』だった。一条天皇が内裏で女官に『源氏物語』を朗読させ「この作家は実に漢文の才能がある」と褒めたのだ。
しばらくして彰子は、紫式部を呼んで中唐の詩人・白楽天の詩文集『白氏文集』を読ませるようになった。
紫式部は、彰子の思いを察した。漢文は、一条天皇が定子と分かち合った趣味である。女性とは一線を画したものと考えられていたので、道長は彰子に漢文を教えなかった。
P235 が今、彰子はそれを知りたいと思っている。天皇の心の世界を知りたいのだ。繊細な彰子のため、紫式部は秘密の漢文進講を行うようになった。テキストは「新楽府」(tw,tw)。
『白氏文集』の中でも最も儒教的で、一条天皇の好みに合致した連作だ。漢学者である父・藤原為時に尋ねれば、天皇の好んでいる詩の傾向を探るなどたやすかったろう。定子の愛好した美や浪漫の詩よりもずっと難解だが、彰子は投げ出さず、粘り強く講義を受け続けた。この后は頑張り屋なのだ。
『紫式部日記』によれば進講の開始は寛弘五年、彰子が初めて懐妊してすぐの頃である。懐妊をきっかけに、挫折続きだった彰子の中に小さな積極性が芽生えたとは言えないか。自ら意思表示し行動する后へと、彰子は足を踏み出し始めていた。
殿もうちもけしきを知らせ給ひて、御書どもをめでたう書かせ給ひてぞ、殿は奉らせ給ふ。彰子の学びが天皇との夫婦仲を近づけるものである以上、道長は大賛成で後押しした。実際、学びの開始以来、彰子は立て続けに二人の息子を生したではないか。そう思えば笑いの止まらない彼だったのではないか。
(やがて道長殿も天皇も気配をお察しになりました。殿は、漢籍の立派な写本を作らせて、中宮様にお渡しになったのですよ)(『紫式部日記』消息体部分)
次女・妍子、春宮妃に
寛弘七(一〇一〇)年二月には、道長の次女・妍子が春宮・居貞親王(のちの三条天皇。九七六~一〇一七)の妃となった。妍子は寛弘元(一〇〇四)年に十一歳で尚侍となっており、これは女官トップの官職であると同時に、春宮妃となる姫君の就く地位でもあった。
少女時代から五年以上のアプローチを経て、十七歳の妍子は三十五歳の春宮の妻となったのである。
家を離れた妍子が、この年の五月五日、道長に節供の贈り物をおくってきた。
(略)
237死を示す占い/ 239彰子、父を恨む/ 241一条院、崩御/ 243/ 245土葬か、火葬か/ 247
第十一章 最後の闘い
新帝・三条天皇の誕生
P249 寛弘八(一〇一一)年、三十二歳の一条天皇(九八〇~一〇一一)の若すぎる崩御によって、藤原道長はまた一段<金の梯子>を上った。思えばここに至るまでに、どれだけの思いがけない出来事があったことだろうか。
始まりは、末子ならではの無邪気な野望だったのだ。道長を支配下に置こうとした長兄・道隆に反発して、道長は知略に長けた次兄・道兼と手を組んだ。ところが二人の兄は長徳元(九九五)年、相次いで亡くなって、道長は唐突に最高権力者となった。
その翌年、道隆の息子・伊周と隆家が「長徳の政変」を起こして自滅。出家した定子は一条天皇の愛情により復縁したが、数年後には難産で崩御し、中関白家は事実上終わった。天皇はそれでもなお定子に強い執着心を見せていたが、やがて彰子との間に二人まで皇子を生し、世を去った。
道長の「出世すごろく」において、彼の前に立ちはだかったものの死という形で姿を消した人間は、この時点で既に五人になる。二人の兄と定子、一条天皇。実は定子の兄の伊周も天皇の崩御する前年の寛弘七(一〇一〇)年、父と同じ飲水病(糖尿病)によりわずか三十七歳で人生を終えていた。
むろん道長が直接手を下したことなど無い。不思議に次々といなくなり、道を開けてくれるのだ。これを恐ろしい幸運と言わずして何と言おうか。
(略)
春宮時代の密通事件
P251 三条天皇は本名を居貞といい、天皇親政で「天暦の治」を展開した村上天皇(九二六~六七)と藤原安子の長男・冷泉天皇(九五○~一〇一一)の第二皇子である。父帝は精神の病があったためわずか二年で退位し、弟の円融天皇(九五九~九一)が後を継ぐと、御代は十五年とそこそこ長持ちした。次いで皇統が嫡流に戻り、冷泉天皇の長男で居貞には異母兄にあたる花山天皇(九六八~一〇〇八)が即位。だが花山天皇は母女御もその父も早くに亡くして後見がなく、御代は父と同じ二年で終った。
そして寛和二(九八六)年に始まったのが、円融天皇の子・一条天皇の二十五年にわたる長く安定した治世だった。つまりここ四代、皇統は嫡流の冷泉流とピンチヒッターの円融流の間を往復する「両統迭立」となっていた【系図1】。
一条天皇の時代、天皇よりも四歳も年上の居貞が春宮であったのは、そのためのねじれである。また、病は致し方ないとはいえ嫡流が分家より極端に短い御代しか保てないことが二度続いて、居貞は臍を噛むような思いであったに違いない。つまり、天皇家嫡流の矜持と雪辱への執念とを心に強く抱いた春宮、それが居貞親王だった。彼は言っている。
久しく東宮に在りて天下を知らず。今、適登極しては意に任ずべきなり。然らざるの事愚頑なり。道長と居貞親王をめぐっては、ドキッとさせる逸話が『大鏡』に記されている。長徳年間のこと、春宮妃で故藤原兼家の娘、つまり道長の腹違いの妹の綏子が、こともあろうに密通し懐妊までしているとの噂が流れた。醜聞を恥じてだろう、綏子は自宅に籠り、案じた居貞は道長に相談した。
(朕は長く春宮の位にあって天下を知らない。今、たまたま即位したからには、わが意のままに為すのが当然であろう。さもなければ愚かというものである)(『小右記』長和元[一〇一二]年四月ニ十八日)
「噂はまことだろうか」。道長は「見て参りましょう」と、綏子を訪ねた。きょうだいとは言え異腹、道長と綏子は親しくない。継兄の来訪をいぶかしく思った彼女は几帳を引き寄せて身構えた。
P253 道長はそおれをそっと押しのけた。華やかな顔立ちに濃い化粧を施した綏子は、普段に増して美しく見えたという。
「春宮に参りたりつるに、しかじか仰せられつれば、見たてまつりに参りつるなり。空言にもおはせむに、しか聞こし召され給はむが、いと不便なれば」とて、御胸を引き開けさせ給ひて、乳をひねり給へりければ、御頭にさと走りかかるものか。ほとばしる母乳。懐妊の噂は本当だったのだ。私は高校時代にこの一節を初めて読んだ時の衝撃が忘れられない。温かい液体が頭を濡らす感覚やほの甘いにおいまでもが行間から立ち昇り、おもむろに顔をぬぐう道長の仕草が浮かんだ。
(「春宮のもとに参ったところ、これこれとおっしゃいますので確認に参ったのです。噂は事実無根でしょうが春宮は疑っていらっしゃって、御気の毒なので」と言って、妃の装束の胸元を左右に開くと、乳房を握った。と、道長様の御頭に何かがさっと走りかかったではないか)(『大鏡』「兼家」)
いけないものを読んでしまったという思いで日本古典文学全集の赤い表紙を閉じたものだ。だが現在、改訂された白い表紙の新編日本古典文学全集には、頭注に「出産間際としても、乳房をひねって母乳がほとばしり出ることはまずない。いかにも『大鏡』的な誇張した表現」と書き加えられていて、胸をなでおろした。
P254しかし誇張としても、春宮妃の胸を引き開け乳房をひねりあげるとは。別の方法もあったろうに、あまりに無礼だ。道長は何も言わずに立ちあがり居貞に在りにありのままを報告、春宮はかえって綏子を不憫に思ったという。
また綏子は道長が去った後、自業自得とわかりつつひどく泣いたという。『大鏡』は道長の行動力と非情さを強調しようとして過剰な演出を加えたのだろうが、そこから透けて見えるのは、綏子も居貞も道長にとってはさほど大切な存在ではなかったことである。
なお、綏子の密通は事実だった。相手は為平親王の息子・源頼定、三条天皇には従弟にあたる人物である【系図1】。為平親王は次代の春宮と期待されていたが、源高明の婿であたっため藤原氏の他氏排斥の巻き添えを食い、皇統を継げなかった人物である。
つまり世が世なら天皇の子として生まれ、皇統に連なったかもしれない。その思いからだろうか、彼はキサキに対する垣根が低く、この綏子を始め、一条天皇の女御だった藤原元子とも、天皇の崩御後に通じている(『栄花物語』巻十一など)。
また居貞は即位すると、さすがに意地があったのだろう、頼定を清涼殿の殿上の間に出入りさせなかったという(『大鏡』「兼家」)。
三条天皇の妻たち
三条天皇には、綏子を含めて生涯に四人の妻がいた。皆、彼の春宮時代に結婚した妻たちである【系図2】。
P255 彼の母のことから語ろう。母は藤原の兼家の娘・超子で、道長には同母姉にあたる。兼家は冷泉天皇に超子、円融天皇に詮子を入内させ、それぞれに居貞親王(三条天皇)と懐仁親王(一条天皇)を産ませて、皇統がどちらに転んでも良いように対応したのである。
だが、超子は天元五(九八二)年に突然死した。原因は不明だが、脇息にもたれたまま眠るように亡くなっていたという(『小右記』天元五年正月ニ十八日・『栄花物語』巻二)。
可愛がってくれた祖父・兼家も、正暦元(九九〇)年には世を去った。母も外祖父もいない状態。この後見の手薄さが天皇の弱さに直結することは、花山天皇の例から明らかである。
それを見越してだろう、生前の兼家は居貞親王の元服からしばらくして、最初の妻として彼の娘の綏子を添わせてくれたのである。永祚元(九八九)年十二月九日のことだった(『小右記』同日)。
だが綏子は兼家の愛人の娘で、『大鏡』の逸話からも窺われるとおり、道長たち本妻の子からは見下されていた。というのも、『蜻蛉日記』(中巻)によれば綏子の母・近江はもともと藤原実頼の「召人(性関係付きの女房)」で、「色めく者」との噂があった。
『栄花物語』(巻三)も綏子の母を「世のたはれ人(たいそうな浮気性)」と評している。まるで母の多情を受け継いだかのように綏子は居貞親王を裏切った。そして夫婦関係の途絶えたまま寛弘元(一〇〇四)年、三十一歳で亡くなった(『日本紀略』同年二月七日)。
母といい綏子といい若い身空での死だが、居貞親王にはもう一人若くして死んだ妻がいた。中関白道隆の次女・原子である。道隆は長徳元(九九五)年、既に持病で我が余命が少ないと知りながら、原子を春宮妃とした。
兼家に倣い、円融流と冷泉流のそれぞれに姻戚関係の手を打ったのである。その後道隆が病死し、中関白家が没落したのは既に触れた通りだが、姉・定子が崩御した長保二(一○○○)年の二年後、長保四年にはこの原子も亡くなってしまう(『権記』同年八月三日)。
二十代前半の若さで、『栄花物語』(巻七)によれば持病も無いのに鼻と口から出血して急死したというから、あまりにも忌まわしい。
この時呪詛の疑いを掛けられたのが、藤原娍子だった。彼女は正暦二(九九一)年、居貞親王自身が強く申し出て迎えた妻である(『栄花物語』巻四・『小右記』正暦元年十二月二十六日)。
父親は当時大納言だった藤原済時。公卿の一員ながら傍流と言ってよい人物の娘に、なぜ居貞親王が目を付けたのかはわからない。ただ、済時の姉妹つまり娍子のおばが村上天皇の女御・芳子だったことは、理由の一つになったかもしれない【系図2】。
P257 彼女は天皇に寵愛され、その逢瀬を清涼殿の上の御局の襖障子の穴から覗き見た中宮・安子が、嫉妬のあまり土器を投げつけたという逸話(『大鏡』「師輔」)でよく知られる。
長い美髪と目じりの少し下がった愛らしい顔立ちで(『大鏡』「師尹」)、『枕草子』には、父・師尹から『古今集』を暗唱せよとキサキ教育を受けた彼女が入内後に村上天皇にテストされ、見事答えおおせたという逸話も記される。
とはいえ彼女は居貞の生まれる前に亡くなり、彼はただ逸話で聞き及んでいただけだ。ともあれ、政治的には無意味でしかない娍子をなぜか居貞は大層気に入って、正暦五(九九四)年二は長男の敦明親王が生まれた。
翌年、疫病が大流行して済時は亡くなり、娍子の政治的な後ろ盾は皆無となったが、居貞親王はますます彼女に固執し、生涯に六人の子女を産ませることになる。
そして、最後の妻となったのが道長の次女・妍子である。父や長兄に倣って道長も、円融流の一条天皇に彰子を入内させた後、冷泉流の居貞親王に娘を入れたのだ。寛弘七(一〇一〇)年二月二十日、選りすぐった四十人もの女房たちを引き連れて華々しくやって来た時、妍子は十七歳、居貞親王は既に三十五歳であった。
そして居貞の長年の妻・娍子は、彼より四歳年上の三十九歳。居貞親王が即位して三条天皇になったのは、その翌年だった。
(略)
姸子と娍子の「二后冊立」
P259 長和元(一〇一二)年二月十四日、妍子は立后して中宮となった。道長の娘として織り込み済みのことと言ってよい。もちろん三条天皇もこれを当然と受け入れた。だがその上で彼が発議したのが、娍子をも立后させること、要するに自分という一人の天皇に対する「一帝二后冊立」だった。
これは公的に重婚を認めることになり、后の制度を骨抜きにするものにほかならない。その史上初の例が、一条天皇の代の定子と彰子だった。一条天皇の時には、定子が中宮だったところに道長の力により彰子が割り込んだ。
だが今度は、まず妍子が中宮となったところへ、二ヵ月後に天皇の力により娍子が割り込んで二后冊立が行われたのである。三条天皇は意図してそれを行った。道長に対する<一帝二后冊立冊立返しだった。>
ただ、一条天皇の時は定子が出家しており中宮としての神事を勤められないという理由付けができた。しかし今回の娍子には、何の<疵>もない。つまり制度を歪めて二后を立てるべき大義名分は何もない。
加えて娍子は亡くなった父が大納言に過ぎず、到底中宮・皇后の家柄ではない。三条天皇のやり方は掟破りと言えた。一条天皇が長徳の政変で没落した定子を復縁した時、貴族社会は「天下甘心せず」と非難した。
P260今回も同じく、貴族たちは反発した。天皇のわがままだ、面倒を繰り返すのはごめんだと、誰もが思ったのである。一条天皇は調和型の性格で、幼少期に道長と同じ邸宅で暮らしたこともあり、意思疎通が可能だった。
だが三条天皇にはそれがなかった。彼は長年の様々な被害者感情を内にため込んでいて、天皇になった時、一気にそれを爆発させた。プライドが高く、人を試し、その我意は傲慢に映った。
(略)
261顕信、出家/ 263禎子内親王の誕生、ついに譲位を勧告/ 265眼病の正体/ 267すり寄る天皇/ 269/ 271
第十二章 「我が世の望月」