(2)孫子兵法22 33:00~死屍に鞭打つ 『小説十八史略(1)』P211~参照、史記伍子胥列伝P066~参照
(3)争覇38 34:00~自刃 『小説十八史略(1)』P231~参照
1) 2) 3)
『小説十八史略(1)』陳舜臣著(講談社)
P147 怨霊さまざま(略)平安時代の日本最大の怨霊は、菅原道真であった。太宰府に流され、尽きせぬ怨みを抱いて死んだ人物である。この怨霊の祟りをおそれて、人びとは彼を神にまつり、「天神さん」とご機嫌をとったのだ。
菅原道真の領地は、桑原というところにあった。だから、雷鳴のとき、人びとは---ここはあなたのご領地ですぞ。ご自分のご領地ですから落ちないでください---という意味をこめて、「桑原、桑原」を、落雷よけのまじないにしたといわれている。
P148怨霊の祟りは、古代人共通の発想で、中国にもあった。では、日本の菅原道真に相当する、中国の大怨霊は誰であろうか?
怨霊封じは、厄除けに含まれる。
中国の厄除けの風習をしらべてみれば、おもな怨霊は、しぜんに浮かびあがるだろう。
端午の節句は、中国では厄除けの日であった。端とはハジメの意味で、端午とはもともと五月の最初の午の日のことであったが、それがのちに五日に固定されたのである。
一年十二ヵ月のなかで、五月も最も勢いのつよい月とされている。そのなかでも、午の日はとくにつよい。時刻にしても正午というのは、頂点である。そんなわけで、あらゆるものの勢いがもっともつよい端午は、まがまがしいものの勢いも絶頂にあるはずだ。それをしずめるのが端午の節句の行事である。
端午の節句に、ちまきをつくる風習は、古くから中国より日本に伝えられている。
このちまきの起源は、投身自殺をとげた屈原(tw)を弔ったことにある。楚の屈原は憂国の至情を抱いて、いろいろと王に建言したが、君側の姦臣たちに妨害され、追放処分を受け、ついには汨羅べきらの川に身を投げた。
怨みを抱いての死であり、その怨霊はあちこちで祟ったのである。そこで、人びとは竹筒に米をいれ、それを川のなかに投げ込み、水死した屈原の怨霊をしずめようとした。
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(略、介子推の話)P152端午の節句には、「竜舟競渡」という行事がある。へさきを竜のかたちにした舟で、ボートレースをすることなのだ。これは日本にも伝わって、ペーロンといわれている。長崎のペーロンはとくに有名である。
このボートレースは、投身した屈原を救いに行こうと、人びとが競って舟を漕いだことから始まった、という説がある。
老酒で有名な浙江省紹興県の東に、曹娥廟があり、その前の川を曹娥江という。
曹娥というのは、後漢時代の孝女で、父が溺死したのを悲しみ、とうとう川に身を投げて死んだが、五日後に、父の遺体を抱いて浮かびあがったと伝えられている。人びとは彼女の孝心をあわれみ、そこに廟を建立し、墓碑をつくった。現在伝わっている碑文は、王義之の書と言われている。
この曹娥碑を読むと、彼女の父親は、神に仕え、神楽などを奏したり、歌をうたったりするかんなぎであったらしい。彼が溺死したのは漢安二年(一四三)の五月五日に、伍君を迎えるべく、濤なみに逆らってのぼり、舟がくつがえったからだという。
これによって、浙江のあたりでは、端午に舟で迎えに行くのは、屈原ではなく、伍君と
P153 いう神であったことがわかる。
伍君神とは伍子胥のことでである。伍子胥、名は員うんという。呉に仕え、大いに功績があったが、讒言されて死を賜った。呉王夫差は彼をにくみ、その死体を馬皮の袋にいれて、川に投げ込んだ。
屈原のように、投身自殺ではないが、水とは縁がある。しかも、すさまじい怨みを抱いて死んだ人物なので、その祟りもおそろしいはずだ。『史記』には、彼の死後、呉の人たちはあわれんで祠を立て、そこを胥山と名づけた、と述べている(tw)。(『史記伍子胥列伝』P072/074参照)
(略)P155 呉越のことは、おもしろおかしく語っていくうちに、ふとおそろしい深淵をのぞく気がして、思わず言葉がとぎれてしまう。
怨霊の話から始めたのは、伍子胥を舞台にひきだすためであった。
死んで怨霊となったが、生きているうちから、伍子胥は怨念のかたまりのような人物であった。
彼のような立場におかれたならば、誰でも怨念のかたまりになるだろう。
その事情を述べよう。
伍家は楚でも名のきこえた名門であった。
伍子胥の父は伍奢といった。
ときの楚のあるじは平王であった。
平王の太子は建であり、伍奢はその太傅をつとめていた。太傅とは太子の教育をまかせられる大役であり、その次官は少傅であった。建の少傅の訳には、費無忌という、あまり行状のかんばしくない男が任命されていた。
太子の建が年頃になったので、父王は北隣の秦から嫁を取ってやろうとおもい、少傅の費無忌を派遣した。
費無忌は秦へ行き、花嫁候補の王女にあったところ、これが絶世の美女であることがわかった。
P156しかも、それは平王好みの美女なのだ。
この嫁取りの話は、平王即位の翌年のことであった。
つまり、平王の治世ははじまったばかりで、これから何十年つづくかわからない。太子の建の天下になるまで、さきは長いのである。(太子に仕えるよりは、王の側近になったほうが、栄耀をきわめることができるだろう)
費無忌はそう考えた。
これは絶好の機会だ。
彼は急いで帰国して、平王に告げた。
「いやはや、驚くべき美女でございました。これは王がお取りになって、太子のためには、別の娘を迎えられてはいかがでございましょうか。…」
平王、もとより色好みにかけては人後に落ちない。驚くべき美女ときいて、すぐに膝をのりだした。
こんなわけで、秦の王女は、太子ではなく、その父王の後宮に入ることになった。そして費無忌は美女を取りもった手柄で、太子の少傅の役から、こんどは宿願の平王側近の臣に転じた。
だが心中は不安であった。即位したばかりとはいえ、平王は嫁を迎えるほど大きな息子がいて、かならずしも若いとはいえない。もし平王に万一のことがあれば、とうぜん太子の建が楚のあるじとなる。
P157 建は秦の王女の一件を知っていた。心のなかで、費無忌を憎んでいるのにちがいない。とすれば、建が楚の王となった日には、すなわち、費無忌が首を刎ねられるときなのだ。(いまのうちに、太子を消しておかねば、枕を高くしてねむれない)
費無忌は得意の舌で、平王に焚きつけた。
「太子さまは、秦の王女の件を怨みにおもい、ひそかに諸侯と連絡し、いつか造反しようと、その機をうかがっておりますぞ」
平王もたいした人物ではなかった。そのうえ、例の秦の王女にも子供が生まれ、蓁王もたいした人物ではなかった。そのうえ、例の秦の王女にも子供が生まれ、軫となづけたが、これが可愛くてしかたがない。なんとかして、この子を跡取りにしたいものだと思いはじめていたのである。だから、費無忌の讒言を、かんたんに信じた。
平王は太子の太傅伍奢を、呼びつけて詰問した。むろん伍奢は、太子に謀反の意思のないことを強調した。
「どうして王は、つまらぬ小人の言葉を信じて、骨肉のわが子をうとんじられるのですか?」
だが、費無忌は根まわしをしていた。
---太子が造反するときは、伍奢親子こそ最も有力な支柱となりますぞ。
平王はそう吹き込まれていたので、伍奢をつかまえると同時に、奮揚と言う者を派遣して、太子を殺させることにした。
P157幸い奮揚は侠気のある人物なので、使いをやって、太子に急を告げた。
太子は宋に亡命した。
伍奢には伍子胥のほかに、伍尚というすぐれた息子がいた。
この兄弟のところに、王から使者が来て、
---おまえたち二人が都に来るなら、父の命は助けてやろう。さもなければ、父の命はないものと思え--と、伝えた。
「私は行くことにきめた」と、兄の伍尚は即座に言った。
逃亡者
「兄上、それはいけません!」
伍子胥は顔を真っ赤にして反対した。
王の使者の言うとおり、おとなしく都に行ったところで、父の命は助かるはずはない。それよりは、他国へ亡命して、父のカタキを討つことを考えるべきだ、と主張したのである。
「それはわかっているのだ」と、兄の伍尚は答えた。
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