「カトリーヌ・ド・メディシスと聖バルテルミーの虐殺」「王妃マルゴ」Grok解説
上巻
第一章 ギーズ公のラテン語P017(略)
宮廷が祝っていたのは、前王アンリ二世の娘で、現王シャルル九世の妹マルグリット・ド・ヴァロアと、ナヴァール王アンリ・ド・ブルボンの華燭の宴だった。その日の朝、
P018 ブルボン枢機卿が、ノートル⁼ダム寺院に設けられた舞台の上で、フランス王女の結婚式のしきたりに則って、花婿花嫁を結びつけたのである。
だれもがこの結婚には驚いた。そして、洞察力のある人々は背後に何があるのかと考えた。あれほどまでに憎みあっていプロテスタント陣営とカトリック陣営という二つの党派がなぜ急に接近したのか、理解できる人はほとんどいなかった。
たとえば、ジャルナックの町でモンテスキューによって暗殺されたプロテスタントの頭目、父コンデ公のことで、コンデ家の若殿アンリ・ド・コンデが、黒幕の王弟アンジュー公を許しているとは思えなかったし、また、カトリックの総大将キーズ家の若殿が、オルレアンでポルトロ・ド・メレの手にかかって殺された父キーズ公の恨みを忘れて、事件の背後にいたコリニー提督と和解したとも思えなかった。
それだけではない。意志薄弱なアントワーヌ・ド・ブルボンの妻である気丈なナヴァール女王ジャンヌ・ダルブレが、息子アンリをフランス王女マルグリット・ド・ヴァロアと婚約させる相談にブロワに赴いたあと、結婚式の二ヵ月前に急死したことについて、奇妙な噂が飛び交っていた。
恐るべき秘密をジャンヌ・ダルブレに見破られたカトリーヌ・ド・メディシスが、秘密が公になることを恐れ、手袋に染み込ませた毒薬で彼女を殺害したというのである。
毒薬は、この種の薬品の扱いに慣れているフィレンツェ人のルネという男が調合したらしい。人々は、いたるところで小声でささやきあい、またある場所では大声で噂しあった。
この偉大なナヴァール女王の死後、息子のアンリの要請で、あの有名なアンブロワーズ・パレを含む二名の医者が解剖をおこなったが、
P019 切開は内臓だけにとどまり、脳にまでは及ばなかった。そのため、噂はよけいに広まり、確信をもって語られるようになった。というのも、ジャンヌ・ダルブレが匂いをかいだために毒殺されるとするなら、犯罪の痕跡は、解剖を免れた唯一の場所であるその脳に残っているにちがいないと誰もが考えたからであった。犯罪、そう、たしかに、だれ一人それが犯罪であることを疑うものはいなかった。
それがすべてではなかった。この結婚はたんに王国に平和をもたらすばかりか、国中のおもだったユグノーをすべてパリに引き寄せることになったが、シャルル九世はこの結婚の成立に、頑固といえるほどの異常な執着を示していた。
この二人の婚約者はかたやカトリック、かたやプロテスタントと異なった宗派に属していたため、当時ローマ教皇であったグレゴリウス十三世に結婚の許可をもとめなければならなかったが、この許可状の到着が大幅に遅れていたので、ナヴァール女王は非常に心配していた。
そこで、ナヴァール女王がある日、シャルル九世に、許可状は結局着かないのではないかと不安を申し述べたところ、シャルル九世はこう答えた。
「伯母上、心配なされることはございません。私はローマ教皇よりもあなたを尊重し、妹をだれよりも愛しています。わたしはユグノーではありませんが、馬鹿でもありません。ですから、ローマ教皇があまりに愚かな考えに固執するなら、わたしみずからがマルゴの手を取って、新教の説教の声が響くなかであなたの息子さんと結婚させることにいたしましょう」P020 この言葉は、ルーブルからパリ中に広まった。そして、ユグノーたちを狂喜させるいっぽうでカトリックをおおいに当惑させる結果になった。なぜなら、カトリックたちは、国王は本当に自分たちを裏切ってしまうのだろうか、それとも、王は、ある朝あるいはある晩、とつぜん思ってもみなかったようなどんでん返しのやってくる喜劇を演じているにすぎないのだろうかと小声でささやきあったからである。
とりわけ不可解だったのは、五、六年も前から旧教徒軍に対して呵責なき戦いを挑んできた新教徒軍の頭目コリニー提督に対するシャルル九世の態度だった。一度などコリニー提督の首に十五万エキュ(一エキュは三フラン)の賞金をかけたこともある王が、サン=ジェルマンの和議以来、宮廷に出仕するようになった提督の威厳に魅せられて、今ではコリニー提督でなければ夜も日もあけず、彼を父上と呼び、今後、全軍の指揮は彼にゆだねると高らかに宣言する始末だった。
その結果、それまで、息子シャルル九世の行動も意志もさらには欲望までを支配してきたカトリーヌ・ド・メディシスが、息子の態度に強い不安を感じるようになっていた。
そして、それは決して根拠のないことではなかった。というのも、シャルル九世はコリニー提督と心を割って親しく話しあったとき、フランドルでの戦争についてこんなことを漏らしていたからである。
「父上、もうひとつ十分に注意しておかなければならないことがございます。それは、ご存じのようにどんなことにも鼻を突っこみたがる母后に、この企てを知られてはならないことです。母后がなにひとつ気づかないように隠密裏にことを運ばなくてはなりません。ところで、コリニー提督は賢く経験も豊かだったが、シャルル九世のこの真摯な告白を完全に秘密にしておくことはできなかった。彼がパリに到着したときには、あらゆることに警戒心を抱き、また、シャティヨンから出発するにさいしては、一人の農婦が彼の足元に身をなげだし、
P021 なぜならば、母后はなにかとけちをつけたがる性格ですから、加わったらすべてがご破算になってしまうからです」
「旦那様、お願いでございますからパリに行かないでください。もしパリに行かれたら、旦那様ばかりか一緒に行かれる方々もみな殺されてしまうでしょう」と訴えたことがあったにもかかわらず、その警戒心は提督の心の中でも、また娘婿のテリニーの心の中でも、しだいに薄らいでいった。テリニーに対しては、シャルル九世も全幅の信頼を寄せ、提督を「父上」と呼んだように彼を「兄」と呼んで、王がもっとも親しい友と認めたものに対してやるように、「きみ」という二人称を使っていた。
その結果、ユグノーたちも、悲観的で容易に人を信用しない一部の人たち以外は全面的に王を信頼するようになっていた。ナヴァール女王の死は肋膜炎が原因ということで一応の決着を見るに至り、ルーヴルの大広間は、結婚式のためにパリにやってきた気まじめなユグノーたち全員の宿舎となった。
プロテスタントたちは、彼らの若大将アンリ・ド・ナヴァールの結婚で、思いもかけなかった財産の返還にあずかれるのではないかと期待していた。コリニー提督、ラ・ロッシュフーコー、コンデ公アンリ、テリニー、要するにプロテスタントの党派のおもだったメンバーが勢揃いし、
P22ルーヴルの王族たちと誇らしげに対面していた。三か月前までシャルル九世とカトリーヌ・ド・メディシスは、彼らを縛り首の晒し台に極悪人の死体よりも高く晒してやりたいと願っていたはずだったが、その彼らがいまやパリで大歓迎を受けているのである。
これらプロテスタントの同志のなかに姿が見あたらないのはモンモランシー元帥だけだった。というのも、モンモランシー元帥はいかなる甘言にも誘惑されず、いかなる見せかけにも欺かれることなく、リラダンの城に引きこもってしまったからである。
元帥は隠退の理由をたずねられると、サン=ドゥニの戦いでイギリス人ロバート・スチュアートのピストルの一撃で殺された父のアンヌ・ド・モンモランシー大元帥の死によって引き起こされた悲しみをあげた。
しかし、この事件はすでに三年も前のことであり、また感じやすい心というのは当時まだ流行にはなっていなかったので、この長すぎる喪を信じる者はすくなく、皆、もっとほかに本当の理由を見ようとしていた。
とはいえ、ルーヴルの宮廷はどちらを向いても、モンモランシー元帥の恐れは杞憂にすぎないことを証明しているように思われた。シャルル九世も、カトリーヌ・ド・メディシス母后も、アンジュー公も、アランソン工公も、だれもが、この王家の婚礼の宴をもりたてようと努めていた。
アンジュー公は、ユグノーたちから、十八歳にも達しないうちにジャルナックとモンコントゥールの戦いで勝利をおさめたのはシーザーやアレキサンダー大王に勝る早熟の天才
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