2018年7月11日水曜日

偏愛メモ 1912年大統領選挙、セオドア・ロ(ル)ーズベルトが保守党を飛び出し進歩党から立候補した理由

■『モルガン家』 P246-248(url)

P248 前述のピンチョット林野庁長官の解任に加え、こうした反トラスト訴訟が起こされたことによって、ローズベルトは、1912年大統領選挙で共和党から飛び出し、革新党を結成して出馬する腹を決めたのである。(中略)この1912年のタフトとローズベルトの対立は、ピアポントに銀行家としての倫理観を説いた男、つまり野党民主党のウッドロウ・ウィルソンを権力の座につける結果になった。

■『日米衝突の萌芽』P372-374

P372 この年の夏に行われた共和党大会では、現職のタフトが候補に選出されています。大会には義父のルーズベルトも立候補していました。ルーズベルトはタフトの外交方針には腹を立てていましたし、何よりもルーズベルトが政府の要職に任命していた彼の友人を次々に交代させたことは我慢ならないことでした。

しかし彼は代表戦にタフトに敗れます。ルーズベルトはここで諦めませんでした。党主流派の工作でタフトが再選(6月16日)されたものの、ルーズベルトに対する国民の人気は絶大でした。ルーズベルトは、新党、進歩党(the Progressive Party)を結成し、同党のリーダーとして三度目の大統領職に挑戦を決めたのです(6月23日)。(中略)

P375 戦いは共和党の分裂選挙で漁夫の利を得た民主党のウッドロウ・ウィルソン(ニュージャージー州知事)の圧勝でした。一般投票でウィルソンは42パーセント、ルーズベルト27パーセント、タフトは23パーセントに終わっています。

■『権力の影』P78

P78 世論調査の結果、現職大統領のタフト大統領がプリンストン大学出身のぎこちない教授よりも明らかに人気があることが分かった。そこで共和党の票を分裂させるため、支配階級は進歩党公認候補のセオドア・ルーズベルトを支持して金を出した。J・P・モルガン商会がルーズベルトの選挙運動資金の後ろ盾であった※。作戦は成功した。共和党の票はタフトとルーズベルトに割れ、ウッドロー・ウィルソンが選挙人選出の一般投票の42パーセントで大統領になる。

※フェルディナンド・ランドバーク著『American's 60 Families』

■『アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ』P88-90

P88 1912年の大統領選挙は、バルークはじめウォール街の金融勢力にとっては彼らの長年の夢を実現できるか否かの大勝負でした。したがって、必ずウィルソンが勝つように仕向けなければならなかったのです。ウィルソンの対抗馬の共和党候補は現職のタフト大統領でした。タフトの人気は高く、一地方州の知事にすぎないウィルソンの勝ち目は薄いと見なされていました。

そのような状況の下で、驚くべき事態が発生しました。なんと、共和党出身の元大統領で依然として国民の人気の高かったセオドア・ルーズベルトが、第三党の進歩党から立候補したのです。(中略)

P89 いわるる「ドル外交」によってアメリカの国益を害していることに憤慨して第三党を立ち上げ、立候補したと言われています。理由はともあれ、共和党が分裂したため、大統領選挙の結果は漁夫の利を得たウィルソンが勝利しました。一般投票では、ウィルソン42パーセント、ルーズベルト27パーセント、タフト23パーセントでした。(中略)

P90 何としてもウィルソンに勝たせたいバーナード・バルークたちの勢力が、ルーズベルトに立候補するように仕向けたのです。セオドア・ルーズベルトが本当に愛国者であったならば、共和党を分裂させて民主党に勝たせるような愚行はしなかったでしょう。(中略)

『操られたルーズベルト』を書いたフランクリンルーズベルトの娘婿であるカーチス・ドールは、セオドア・ルーズベルトが買収されていたことを仄めかしています。

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