第一章 中国に軍事顧問団を派遣したドイツ P17-52
P19 ドイツ軍の後始末を命ぜられたときゼークトは五十四歳、能力と序列からいって順当であり、陸軍省と参謀本部が廃止された今、ドイツ参謀本部の精神と機能を持った国軍をいかにして次の世代に引き継ぐか、それがゼークトの使命となった。(略)一九一九年十月一日、ワイマール共和国が誕生し、文民が務める国防大臣が新設されると、ゼークトは国防大臣のもとに陸軍統帥部長官を設け、その下に四つの局を作った。陸軍統帥部長官には最高司令官の役目を持たせ、陰のドイツ軍総司令官とした。(略)
P21 革命が起こって連合国から離脱したロシアは、第一次世界大戦末期の一九一八年三月三日、ブレスト・リトフスク条約を結んでドイツと講和した。このためソ連は戦後のヴェルサイユ体制で中途半端な立場に置かれたが、重工業の建設が急がれるようになると、ドイツの機械工業に目をつけ、ドイツに協力を求めた。対してドイツは、ソ連を支援する代わり、禁止されている砲弾や化学兵器の製造をソ連国内で行い、ドイツ将校が飛行機や戦車の訓練をソ連国内で受けられるよう求めた(tw)。
お互い、拒む理由はなかった。秘密裡に交渉が進められ、一九二二年、ドイツとソ連の間でラパロ条約が結ばれた。翌年には秘密軍事協定が結ばれ、ドイツはソ連の重工業を支援し、将校もソ連の将校を教育する代わり、ソ連がドイツの砲弾を製造し、飛行機と戦車の訓練場を提供することに決まった。
こうして、ゼークトはヴェルサイユ講和条約によって課せられた様々な足かせを克服するのだが、ソ連とのこのやり取りはほかの国へと広がっていった。歩兵監リッター・フォン・ミッテルベルガー中将はトルコに渡ってトルコ軍の訓練をした。ボリビアに渡ったハンス・フォン・クントは、ボリビア軍を訓練して、パラグアイとチャコ戦争を指揮するようになった。ゼークトがこういった使命に邁進している最中の一九二〇年三月、カップ一揆が起こり、ベルリンが占領された。
ドイツ軍が十万に縮小されたことに将校を中心に復員した義勇兵や海兵P22旅団の憤懣が爆発したのである。(略)カップ一揆は失敗し、(略)ゼークトは、陸軍統帥部長官に就任することとなった。一九二三年一月になると、ルール地方がフランスに占領され、ドイツ経済の混乱は拍車をかけた。エーベルト大統領が非常事態を宣言したため、ドイツの行政権は陸軍統帥部長官に就任していたゼークトに移った。すると復員軍人たちの反逆やヒトラーのミュンヘン一揆が起こった。
カップ一揆に中立の立場を取ったゼークトであったが、今度は鎮圧に動き、その対処によってワイマール共和国は崩壊をまぬがれる。(略)やがてゼークトは、名実兼ねそなえて大統領の座を狙うようになるが、エーベルト大統領が急死したため、思いもかけず大統領選挙が早まり、一九二五年四月の選挙でパウル・フォン・ヒンデンブルクが大統領に当選する。ヒンデンブルクは第一次世界大戦中に参謀総長を務め、ゼークト以上の経歴と国民的人気を持っていた。(略)
こうしてゼークトは権力の中枢から去ることになるけれど、敗戦からの八年間、ドイツ参謀本部の精神と機能を持続させ、新しいドイツ軍を作り上げたのはゼークトだった。
(略)P24 孫文は第二次、第三次と革命を起こすが失敗して次第に疎外されていく。大正五(一九一六)年六月、袁世凱はなくなるが、袁世凱の持っていた権力を手にしたのは、段祺瑞、馮国璋、曹錕、呉佩孚といった軍閥だった。孫文は南の広州で北京の様子を窺うしかなす術はなかった。
大正八(一九一九)年七月、ソ連の外務人民委員(外務大臣)代理のカラハンがやってきて孫文と会った。ソ連と中華民国がまだロシアと清であった時代、中国に不利な条約が取りかわされていたのだが、革命直後のソ連はこれらの条約の破棄を声明した。
大正十年に世界の革命を指導したマーリンがコミンテルンを代表して、また大正十一年には駐独大使を務めてドイツ革命を指導したヨッフェが中国にやってくる。そのころの孫文は、広州に国民政府を建てて大総統を名乗ったものの内部から反乱が起こり、大正十二年二月、再び広州に軍政府を作っていた。北京を目指す孫文にとってソ連はこの上ない味方となった。
さらなる支援をソ連から得るには共産主義者と手を組まなければならず、大正十三年一月、孫文は中国共産党員が国民党に入るのを認める。国民党と共産党の第一次合作がなると、世界で革命を指導してきたボロディンが孫文の政治顧問となり、中華民国の憲法や国民党綱領の草案作成にまでかかわりだす。六月、赤軍にならって黄埔軍官学校が広州に設立された。校長には蒋介石が就いたが、軍事教練はソ連の教官団が行い、顧問団長にはブリッヘル将軍が就任した。ソ連は国民党の中に入り、強い影響力を持つようになった。
もともと孫文の革命勢力を支援してきたのは日本である。孫文が中国革命同盟会の結盟式を行ったのは東京であり、それ以来、宮崎滔天や頭山満ら多くの民間人が支援の手を差しのべてきた。P25ところが日本が袁世凱政権に二十一か条の要求をすると、ソ連が援助の手を差しのべ、革命をなし遂げたソ連に対する畏敬もあって、孫文は日本よりソ連に頼るようになっていった。
中国では、清の時代から、省ごとに民政と軍政を扱う責任者が任命され、やがて軍政を握る者が民政も支配し、地方の独自性が高まっていった。袁世凱が亡くなると、各地で様々な軍閥が跋扈しはじめる。軍閥は税金を徴収し、税金で兵隊を養い、それが軍閥の地位を高めていった。袁世凱亡き後の北京政府は軍閥の合従連衡で、大正十年代は五十余りの軍閥が中国で跋扈していた。
軍閥には様々な外国人が顧問としてかかわっていた。袁世凱を支援したのはイギリスとアメリカで、アメリカは孫伝芳も応援した。ソ連は馮玉祥を応援し、日本は張作霖を支援した。大正十四(一九二五)年三月十二日、孫文が死ぬ。孫文が悲願としていた北伐のため、翌年二月、蒋介石が国民革命軍の総司令官に着いた。軍閥同様、軍政を握っている者こそ指導権を握る。(略)
大正十五年三月、蒋介石は広東で反共クーデターを起こし共産党と対決する姿勢を明らかにした。北伐を進めて南京を首都とした後、昭和二年四月には上海のゼネストを弾圧し、共産党を排除した。P26七月、国共合作は終わりとなり、六十名に及ぶソ連の顧問団は国民党から去っていった。(略)
P27 清朝末期、ドイツの軍人が招かれ、ドイツ式の訓練を行ったことがある。日清戦争で日本と戦った北洋艦隊の旗艦定遠や鎮遠はドイツ製で、旅順の要塞建設もドイツが関わっていた。こうしたことから孫文は、第一次世界大戦後、軍の近代化のため、ドイツの軍人を招こうとした。
蒋介石は大正二(一九一三)年六月にドイツに留学しようとして孫文に止められたことがある。昭和二年八月、国民革命軍総司令を辞任した蒋介石は、九月末になって日本に向かい、しばらく日本に止まって上海に戻ったが、日本に行った後はドイツで軍事学を学ぼうとした。ドイツから軍事顧問を受け入れることは蒋介石にとって自然な選択肢である。
そんな時、ぴったりの人間と蒋介石は会った。国民党の招きで広州にやってきたマックス・バウアー大佐である。マックス・バウアー大佐は、中国の産業界を視察するよう朱家驊から要請されて広州にやって来たところで、招いた朱家驊はドイツ留学の経験を持ち、帰国すると北京大学教授となり、五・四運動を指導していた。そのころは広東の中山大学の教授を務め、後に交通部長(部長は日本の大臣にあたる)や組織部長を務める。蒋介石に近く、国民政府内の代表的なドイツ派というべき人物である。(略、バウアーはカップ一揆の中心人物)
P28 退役したバウアーはソ連、スペイン、アルゼンチンで軍事顧問として働き、国民党の招きで中国にやってきたところであった。(略)一九二八年秋、いったんドイツに戻ったマックスバウアーは、改めて三十人弱の将校とともに中華民国を訪れ、軍事顧問団を形成する。このとき、早速ドイツの新しい武器が中国にもたらされた。(略)
P30 やがて、中国共産党に対する蒋介石の戦いが始まり、昭和六年六月の第三次掃共戦で蒋介石が直接指揮を執ることになると、軍事顧問団も蒋介石とともに南昌に赴いた。顧問団は共産党との戦いにもかかわりだしたのである。昭和七(一九三二)年一月に第一次上海事変が起こり、軍事顧問団の訓練した第八十七師と第八十八師が参戦した。そのときの二つの師(日本の師団とほぼ同じ編制、一個師団は約一万人)の活躍から、ドイツ軍事顧問団はがぜん注目されるようになった。
その後、日本軍が熱河省に侵攻し、万里の長城をはさんで中国軍との戦いになったとき、ヴェッツェル中将は中国軍の指揮を執った。第五次掃共戦が行われることになると、ヴェッツェル中将はトーチカ建設による包囲作戦を蒋介石に進言し、一九三三年十月十六日、これまでとは様相を一変した第五次掃共戦が始まる。(略)
ヴェッツェルが団長についたころ四十人ほどだった顧問団は、多いときには八十人近くにまで増えた。軍事顧問団は国民党内の軍閥や共産党だけでなく、日本軍との戦いにもかかわるようになった。
P31まだ第五次掃共戦が検討されていた同年五月に、ヴェッツェル中将はフォン・ゼークト大将に手紙を書いた。(略)手紙を貰ったフォン・ゼークト大将は、とりあえず中国を訪れることにし、八月に帰国するまでの三か月間、北支の実地踏査を行い、蒋介石に対して意見書を提出した(相互参照)。
「ドイツ製の武器で武装した近代的軍隊の建設をすべき」「近代的な軍隊は権限を集中しなければならず、いったん(部下に)権限を委譲した場合すべての権限を与えなければならないが、中国の軍隊にはそれが欠けている」このように指摘した。また、このとき、「日本一国だけを敵として、ほかの国とは親善政策を取ること」ともすすめていた。
第二章 日中戦争始まる P53-78
2.2 不拡大か一激か P64-76(参照、tw)(P64-)
(P70-)
P71 この際思いきって、北支にあるわが部隊を全部を一挙山海関まで下げて、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と膝詰め談判によって、日支問題の解決を図るべきだと思う」同席していた陸軍次官の梅津美治郎中将が反論した。「北支から全面撤退するというが、明治以来積み重ねた北支のわが権益は一体どうするのか。
またこの場合満州国は安定するであろうか。
P72 さらに近衛首相を南京に乗り込ませるというが、総理の意向は確かめてあるのか」陸軍大臣杉山元大将は何も発言しないが、一撃が持論である。(略、不拡大か一撃か、は五相会議で決すべき、国策事項)
十九日、蒋介石の「最後の関頭演説」が発表された。南京で行われていた外交交渉が決裂にP73近いものとなったとの情報も入った。それを受け参謀本部第二部は武力行使の決意を行うべきとの意見を出した。
(略、部長会議の様子)
P75 不拡大方針を述べていた石原部長は、次々と一撃論の主張を認めて、最後に内地師団の派兵を決することになったが、こんなことから不拡大派も石原部長に不信感を持つようになった。
北支那駐屯軍の池田純久参謀はこう述べている。「軍中央部では、一方においては不拡大主義を堅持しながら、他方においては、内地師団を動員したり、その部隊を北支地区に派遣したり、まったく筋の通らぬことを実施し、いたづらに支那側を刺激するばかりであった。まったく首尾一貫せぬ支離滅裂な態度であった」
以下、略
第三章 上海の死闘 P79-166
P96/ 98/ 100/ 102/ 104/ 106呉淞鎮上陸と宝山城の攻略(岐阜歩兵六十八連隊)
P108呉淞鉄道橋から黄埔江岸を下流へ、呉淞鎮、呉淞砲台、宝山城と五キロメートルにわたって陣地が連なる。呉淞桟橋と呉淞鎮との間には、呉淞クリークが流れている。(地図⑧参照)
(随時更新)
P110/ 112/ 114/ 116/ 118
P162 (略)
上海増派と石原部長の辞任
P163上海の戦いがただならぬことは上陸した
P164 その日にわかった。激しい抵抗にあった第三師団は予定の地歩を確保できなかったし、上陸から五日目、松井石根軍司令官は陣中日誌に、
「此日迄に於ける師団の死傷は約五百を算し死者割合に多し」
と第三師団の状況を記した。
特別陸戦隊が戦っている上海の市街地では、派遣軍が上陸した日、全線にわたって中国軍が肉薄攻撃をしかけてきた。この日の攻撃を撃退すると、中国軍の攻勢は一時ほどではなくなったが、八月ニ十八日午後八時、再び北部一帯で攻勢に転じてきた。中国軍は深夜に陸戦隊本部の爆撃まで敢行した。
この日、第十一師団は羅店鎮、第三師団は殷行鎮を占領したが、羅店鎮は海軍陸戦隊が戦っている上海市街地から二〇キロメートル彼方である。依然として特別陸戦隊は数倍する敵と戦っており、薄氷を踏むような状態が続いていることに変わりはなかった。
増派の要請が起こったのは海軍のほうからだった。派遣軍の上陸から八日目の八月三十日、軍令部第一課長の福留繁大佐から参謀本部第三課長武藤章大佐に、陸軍部隊を増派し速やかに敵を撃退するするよう交渉があった。上司の命によるものだった。
上海派遣軍は揚子江岸にしばられており、居留民の安全が確保されたわけではない。海軍からさらなる増派を要請したのも当然だった。
翌三十一日、松井軍司令官は参謀総長に意見具申した。今度は陸軍の現地からの増派要請だった。
P165「現在の戦いからすると、最小限五個師団が必要であり、とりあえず第十四師団と天谷支隊を迅速に急派することが必要と判断される」
この日、上海の第三艦隊から軍令部にも、
「急速に増兵する必要がある」
との意見具申がなされた。
九月一日、軍令部第一部長の近藤信竹少将は改めて参謀本部第一部長の石原莞爾少将に増派を督促した。
陸軍は、盧溝橋事件以降、不拡大方針を立て、上海方面への派遣を考慮することはなかったが、昭和十一年の陸海軍協定で、上海で事態が起こった場合は二個師団を派遣することに決めており、特別陸戦隊が攻撃されたのを機に、第三師団と第十一師団が派遣されたのは、これまで書いた通りだが、二個師団というのも、当初の計画に従っただけで、敵情を考慮して決めた戦力ではなかった。
中国が上海方面を決戦場と定めていて、これほどの兵力を集中していたとは日本軍も予想していなかった。
不拡大を名目に派兵をしぶる石原部長に対して、部内からも批判の声が上がるようになった。石原部長と歩調を合わせ不拡大を主張してきた河辺虎四郎第二課長すら増派を進言するが、石原部長は聞き入れない。
九月五日、上海方面を視察中の参謀本部第一部第三課員西村敏雄少佐は、武藤章第三課長へ意見具申した。
P166 「両師団への補充をし、さらに後備歩兵大隊、野戦重砲兵第十連隊一大隊を北支から速やかに転用するよう」
六日、軍令部総長から「上海の陸上戦闘は遅々として進まず陸軍兵力の増強が必要である」と上奏があったので、参謀総長が天皇に召された。ただちに参謀本部は検討に入った。石原部長一人増派に反対していたが、もう大勢が許さない。とうとう石原部長も同意し、第九師団、第十三師団、第百一師団、台湾守備隊の増派を内定し、後備歩兵四個大隊を派遣する旨、上奏した。海軍派遣軍の上陸からわずか半月で追加投入せざるを得なか唸ったのである。
九日、台湾守備隊、第九師団、第十三師団、第百一師団の動員が下令された(相互参照)。
台湾守備隊は十二日に台湾を出航、十四日、川沙口に上陸し、第十一師団の支援に向かった。第百一師団は十八日神戸を出航、二十二日、呉淞から上海にかけて上陸、第九師団は、二十三日大阪出航、二十七日、呉淞から上海にかけて上陸、第十三師団は二十七日に神戸から出航、十月一日呉淞から上海にかけて上陸した。
第四章 日独防共協定と日本の抗議 P167-202
(P168- 4.1「これは日独戦争だ」P168-185)P168 盧溝橋事件が起きると、ドイツから中国に渡る軍事物資を日本は見過ごせなくなった。軍事顧問団も四十六人を数えていた。事件後、早速、ドイツ軍事顧問団長のファルケンハウゼンは保定の北支戦区司令部に向かっている。保定は、河北省のほぼ中心にあり、河北省の都市として北京、天津に次ぐ。古い歴史を持ち、ここに創設された軍官学校は蔣介石はじめ多くの領袖を輩出している。
昔から要衝の地で、いまは堅固な陣地が築かれている。北京から保定に至る途中の永定、拒馬、大冊といった河に沿ってドイツ軍事顧問団の指導した機関銃座、砲座、トーチカ、鉄条網、対戦車壕などが構築されている。
もちろん保定にも強力な陣地が構築されている。中国はここを一つの日本との決戦場と考え、日本軍も北支における一つの決戦がここで行われるだろうと想定していた。
日本は盧溝橋事件以前からドイツ軍事顧問団と軍需物資が気になっていた。満州事変が起こったとき、軍事顧問団の動きに神経を尖らせた。それから四年経つと、顧問団の存在以上に軍需物資が問題となった。昭和十一(一九三六)年四月八日、ドイツと中国の間で一億ライヒスマルクの借款条約が結ばれたのである。
その情報を把握したベルリンの日本大使館は、早速六月十二日、井上庚二郎参事官が抗議した。「中国の軍備拡張に利用される恐れがある」一週間後、武者小路公共大使も外務大臣のコンスタンティン・フォン・ノイラートに抗議しP169た。
しかし、どちらも日本が満足する答えは得られなかった。ひと月後、再び武者小路大使が抗議した。「ドイツと中国の借款条約ではあらゆる武器が中国へ供給されることになっている」対して政治局長名での書面での回答があった。
「バーターによる取引で、その中には武器も含まれるが、ごくわずかである」それでも、抗議が繰り返されるうち、ドイツ外務省は顧問団を引き揚げさせるため日本は武力行使するかもしれない、と考えるようになり、ドイツ国防軍に圧力をかけることになった。
十月下旬になると、
「(ドイツ軍事顧問団が深く関与して)揚子江沿岸の防衛計画が進められている」と武者小路大使が指摘、大詰めまで進んでいた日独防共協定が危ぶまれるほどになった。ここに至ってようやくドイツからの軍備援助計画が一部修正され、昭和十一(一九三六)年十一月、日独防共協定は締結された。
といっても、その後ものらりくらりとしたドイツの対応に変わりはなかった。このようなドイツの姿勢だったから、盧溝橋事件が起こると、改めて武者小路公共大使はドイツの武器輸出について抗議したのである。ノイラート外相は、「武器の輸出は停止するつもりだ」と答えたが、実際はオランダ船でシンガポールのイギリス系会社に運ぶ形で武器が輸出され、
P170輸出が止まることはなかった。昭和十二(一九三七)年七月十二日には柳井恒夫参事官が政治局長エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーに、「依然としてドイツから中国へ武器輸出が続いている」と指摘し、「今後、中国に入ってくる武器類は没収されることもある」と強く抗議した。
このときヴァイツゼッカーは、「本来、武器引き渡しは(日独間の)話し合いとなるものではないが、(日中)両国間で戦争状態に近い状態が出現した以上、これ以上の軍需品引き渡しは停止されるだろう」と返答した。
東京では、二十七日、陸軍大臣副官が駐日大使館のオイゲン・オット武官に抗議した。ほかにも柳井恒夫参事官が。ナチスの外交顧問ヨハヒム・フォン・リッベントロップの秘書ヘルマン・フォン・ラウマーに電話で抗議した。このときラウマーはリッベントロップに会いに行くところだったので、柳井参事官は飛行場まで追いかけ、出発しようとする飛行機に乗り込み、ミュンヘンまでの機中で説明した。
二十八日、武者小路大使はヴァイツゼッカーと会った。武者小路大使が日本の行為を、「中国での日本の行動は防共協定の趣旨に従ったものだ」P171と述べると、ヴァイツゼッカーは、「日本の行動は中国の共産主義勢力を強め、中国をソ連におしやることになる」と日本の抗議を牽制した。
同じころ、軍事顧問団長のファンケルハウゼンは、「この戦いは中国全土に拡大するだろう、中国が勝利するチャンスはかなりあり、日本が勝利をするためには軍の勢力が投入されねばならず、それはソ連の態度から考えてとうてい不可能である」と分析し、
「ゆめゆめドイツの国防大臣が日本軍の勝利を信じるようなことがあってはならない」とした極秘報告書を駐華大使オスカール・トラウトマンに提出した。まだ北京では事変解決のための話し合いが行われていたのだが、話し合いが眼中にないような、いやむしろ日中全面衝突を望み、日本軍の方こそ戦争は楽観できないとする分析であった。
八月十六日、ヒトラー総統はブロンベルク国防大臣ならびにノイラート外相と協議し、「基本的には日本との協力関係を維持するが、この日中戦争ではドイツは中立を保たなければならない。しかし、中国向け輸出は、中国が外国為替ないし原料で支払い、しかもうまくカムフラージュできるかぎり継続する」と述べた。
ヒトラーの腹は、日本との友好関係を持続する姿勢を見せながら、これまで通り輸出を続けて利益を得るというもので、明らかな背信行為であったと思う。
P172 この頃、駐独大使館付き海軍武官として大島浩陸軍武官と親しかった小島秀雄は協定の立役者である大島陸軍武官をひやかした。「なんのかんのといっても、中国戦線ではドイツ陸軍と日本陸軍が"戦争"しとるじゃないですか。中国側にドイツの教官が入って蒋介石軍を指導してるんだから、それをやめさせないとおかしいじゃないですか」
大島武官はさっそく空軍元帥のヘルマン・ゲーリングへ、蒋介石に飛行機を売ることをやめるよう、強硬に申し入れた。ゲーリング元帥から返ってきた返事はこのようなものだった。「ドイツは中国からタングステンを買っている、その交換で飛行機を売っている」
日本からの申し入れとはいえ止めることはできない、とはっきり拒否したのだ。これが昭和十一(一九三六)年に日本と防共協定を締結していたドイツのナンバー2のの答えだった。ドイツ軍事顧問団についても、日本は強く抗議した。柳井恒夫参事官は後にこう語っている。
「ドイツはさかんに中国に軍事顧問団を送って大いにやっていたわけですよ。日本としちゃあ、それは困るんです。防共協定はすでにおわかりのように軍事同盟じゃないんですけど、しかしこの協定の"精神"からいってこれは困る、と申し入れると、ドイツ側は、いや、精神に反するようなことはしておらん、とかなんとか言いましてね。
武者小路大使もそれをまあ、やかましく言い、大島さんも武官の立場から大いに弁じました」大島陸軍武官も、ドイツ国防省を訪れ軍事顧問団について申し入れた。「少なくとも個々の作戦に顧問団が積極的に関与することのないよう」
P173 この申し入れにはドイツ国防省から、「顧問団が実際の戦闘行為に加わってはならないという指令を改めて出すことにした」と返ってきた。七月二十七日、東京の陸軍大臣副官は、「顧問団の存在がドイツに対する日本の感情を非常に悪化させている」とドイツ大使館に申し入れた。
しかし、二十八日、ヴァイツゼッカーは駐日ドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクセンに対して、「顧問団を引き揚げることは中国に敵対することになり、中立政策を取るドイツはそれを実行しない」と訓令している。
軍事顧問団についても、日本の抗議を斟酌する姿勢を見せながら「これまでと変わりなし」としたわけだ。昭和十二(一九三七)年八月十三日、北京・天津一帯の戦火が上海に飛び火した。これまで見てきたように、中国軍が邦人を守る海軍陸戦隊を攻撃してきたのだ。
P174 戦いが始まるとドイツ軍事顧問団は、「中国の友人を見捨てるようなことはできない」という点で意見が一致した。ファルケンハウゼンは、必要と考えたところにすべて軍事顧問団員を送りこみ、前線にも団員を送った。
二十四日、大島陸軍武官は、東京の陸軍省から、「ドイツの対中武器援助ならびにドイツ軍事顧問団の存在は、日本の対独感情を著しく悪化させている。善処せよ」と改めて訓令を受け、リッベンドロップを訪れた。「ドイツは蔣介石一派を支持することを止めるべきだ。さもなければ、日本は防共協定から離脱せざるを得ない」
このとき大島武官は、日本は必ず勝利すると伝え、日独共同で中国の経済開発をやろう、ともちかけた。対してリッベントロップは多少は日本に譲歩しなければなるまいと考えたが、ドイツ外務省は大島の恫喝に洟もひっかけなかった。
東京の参謀本部では、「軍事顧問団は上海付近の塹壕内で中国の師団に助言を与えている」「団員は、義務遂行が怠慢だとして山東省の一軍閥を叱責した」というようなことを把握していて、ドイツ軍事顧問団にますます不満を持った。
P175「支那事変はドイツ戦争」と言う者も出ていた。
九月二十二日ころ、「ドイツの教官が戦闘に参加して用兵を行なった」という噂が流れ、改めて日本はドイツ軍事顧問団を問題にした。上海派遣軍は八月二十三日に呉淞鉄道桟橋へ上陸したのだが、そのころ、同盟通信上海支局長を務めていた松本重治は、英国特使団員のエドモンド・ホール=パッチとこんな話をしてる。
「エドモンド、松井司令官の軍が、呉淞の敵前上陸に、予想以上の中国側の抵抗を受けている。それは、ドイツが送った軍事顧問のフォン・ゼークトやファルケンハウゼンなどが、『剿匪』事業のためばかりでなく、抗日戦のため呉淞地区にトーチカを造ったためなのだと、私は考える。おまけに、トーチカの利用のために、ドイツ軍砲兵将校数人がこんどの戦争に参加している、という噂まである。
それがほんとうならば、こんどの上海戦争は、ある意味では日独戦争なんだよ。防共協定なんかやっておきながら、ドイツの軍需商人はしこたま金を儲けた。そのあげく、日本軍がその犠牲になっているともいえる。おかしな話だよ」
中国側に立って戦っている実態は、上海の日本人記者にも知られていたのである。ファルケンハウゼンは中国の軍服を着用してまで陣頭指揮し、事変で活躍した顧問団のうちの五人を表彰するよう蔣介石に提案もしていた。顧問団の一人フォン・シュメリング中尉は、第八十八師の歩兵大隊を直接指揮していて戦死した。
第八十八師は上海にいる日本の特別陸戦隊を真っ先に攻撃した部隊である。フォン・シュメリンク中尉は第一次世界大戦後のドイツ軍P176で最初の戦死者になったが、それほどまで顧問団は中国軍と一体になっていたのだ。
その後も、うまく立ち回ろうとするドイツの姿勢には変わりはなかった。ディルクセン駐日大使は、ファルケンハウゼンが上海で作戦を指導していたことを知っていたが、「根も葉もない噂だ」と否定していたし、ノイラート外相は、十月十五日、程天放駐独中国大使に、「ドイツ軍事顧問団を引き揚げさせない」と保証していた。
十月末、武者小路公共に代わり、東郷茂徳が駐独大使に任命された。東京を発とうとした十一月、広田弘毅外相は、「ドイツの将校派遣と武器売り込みが支那事変の解決を阻害するので、ベルリンに着いたらその禁止に努めてほしい」と東郷大使に求めた。
日本軍が南京を占領した後の翌昭和十三年一月中旬、東郷大使はヒトラー総統に信任状を提示した。このときヒトラーは日本との親交を切言した。その後、ニ十分にわたり懇談する機会を得たので東郷大使は、「日本とドイツの親交の場合、ドイツの中国における軍事援助を禁止する必要がある」と釘を刺した。
対してヒトラーは、検討を約束したが、禁止するとまで言わなかった。同じ一月、参謀本部からドイツに派遣された笠原幸雄少将は、軍事顧問団の引き揚げと武器売り込み禁絶を任務としていたのだが、早急の問題として、軍事援助打ち切りに集中してノイラート外相と懇談を続けた。
しかし、日本の望むような返答はなかなか得られなかった。ドイツの軍事顧問団と軍需物資について、日本は抗議を続け、ドイツは無下には断らないけれど、実態はこれまでと変わることなく中国から利益を得続けようとしていたのである。
(P176- ドイツの二股外交 P177-181)
P177 日本の要望をドイツが拒否した理由は、ドイツと中国の経済的結びつきであった。この結びつきが日本の抗議を受け入れることを許さなかった。昭和十一(一九三六)年の統計によると、ドイツが武器を輸出している国別で、中国は五七・五パーセントで圧倒的な第一位である。
第二位が一〇・五パーセントのブルガリア、第三が六・一パーセントのトルコ。中国が飛び抜けていて、日本はわずか○・五パーセントにすぎない。さらに、このときの金額は二千三百万ライヒスマルクだったが、事変が勃発した十二年には八千二百万ライヒスマルクへと急伸している。
中国側からみた貿易全体でも、ドイツはアメリカに次ぐ量を占めていた。その頃ドイツには再軍備に追われていたが、そのため外資は十分でなく、中国とのバーターは極めて重要だった。経済面にしぼれば、ドイツにとって日本の価値は中国の比ではなかったのである。
中国との強い結びつきは、そもそも軍事顧問団の働きかけから始まり、一九三三年に軍事協力が計画されてドイツ国防軍と産業界も深く関わるようになっていた。P178昭和十一(一九三六)年にそれがさらに進められた。
一月二十四日、軍事協力の中国での責任者とでもいうべきハンス・クライン元大尉が帰国してヒトラー総督にドイツと中国の軍事協力体制を報告した。二月二十七日、軍事協力計画をさらに煮詰めるため、中国から訪独団がやってきて、ヒトラー総統と会見している。
このとき、国防大臣から三軍の総司令官に対して、ドイツの兵器製造工場を中国の独訪団に十分に見学されるよう命令が下った。国防省内にはこの中独軍事協力計画をあらゆる方法で促進させるよう命令が下った。四月八日、訪独団とシャハト経済大臣兼国立銀行総裁との間に、一億ライヒスマルクの借款条約が締結された。
それはこれまでの軍事協力計画の仕上げというべきものであった。五月六日、再び三軍に、中国の要求をドイツ国防軍の物資調達計画に編入させるよう命令が下った。五月十二日、今度は日本についての調査分析が三軍に命令された。
分析は、日ソ戦争がソ連に決定的な影響を及ぼすことはなく、むしろイギリスやアメリカとの戦争を誘引する可能性が高く、日本と同盟を結ぶことはドイツを戦争に巻き込む恐れがある、と結論づけた。日本より中国を選ぶ根拠づくりが行われたのである。
五月下旬、ライヘナウ中将がこれまでの計画を視察するため中国に向かった。ライヘナウ中将は、三年前にブロンベルク大将が国防大臣に就任するのに与かり、ライヘナウ中将自身も国防軍の官房長に就任した。つまり、ブロンベルク-ライヘナウがドイツ国防軍の主流で、ライヘナウはさまざまな面で采配を振るうことになった。
その一つが、中国との軍事協力を推進し、産業界をも巻きこんで中国軍備推進体制を作りあげることだった。一年前に官房長を去るけれど、そのときすでに国防軍と経済界とが中国と深くかかわる体制はできあがっており、その後の現状視察にライヘナウ中将は向かったのである。
このようにドイツと中国の軍事物資貿易を中心とした協力体制は、日本の立ち入る隙がないほどに作りあげられていたのである。
十一月になって日本との防共協定が締結された。日独防共協定が締結されると、中国はドイツに説明を求めた。国防大臣ブロンベルクは蔣介石に断言した。「ドイツと中国の協調と援助はこれまで通りだ」駐華大使トラウトマンは本省から、これまで通りの親善関係が維持されると説明する権限を与えられた。
日本との関係を新たに築こうとしたドイツは、日本にも中国にも納得する回答を与えなければならなかった。防共協定を締結したときからこの問題はくすぶっていて、盧溝橋事件の勃発はそれを顕在化し、さらに困難にしたのだ。
昭和十二(一九三七)年七月二十日、盧溝橋事件が起きて、武者小路公共大使から抗議を受けると、ドイツはマッケンゼン外務次官の名前で、十か所の在外公館に対し通告を出した。P180「極東の紛争においては厳正な中立を守る意向である」
通告の中で、経済的利益と反コミンテルン政策にかんがみドイツは早朝の平和解決を希望しており、ソ連は日本を軍事行動においやって弱体化させようとしている、とも述べている。とりあえず中立の立場を揚げ、和平を希望し、日本からの抗議を逸らした。
七月二十八日、ヴァイツゼッカー政治局長は駐日大使ディルクセン宛ての電報でこう説明した。「日本は中国での行動を共産主義との戦いだと説明しているが、日本の行動は中国の統一をさまたげ、そのことにより中国に共産主義を広げて、さらには中国人をソ連においやることになるからむしろ防共協定に反するし、防共協定は第三国で共産主義と戦うことではない」
同じ日、ヴァイツゼッカーは武者小路駐独大使と会見したが、武者小路大使が中国で日本は反共の任務を果たしつつあると説明すると、「中国の共産主義勢力を強めたり、中国人をソ連に追いやるような日本の行動を承認することはできない」と反論した。
しかしいくら釈明しても、いつまでも日本からの抗議を逸らし続けることはできない。十月十八日、ヒトラーは日本のさまたげとなる行為を避けると決定した。リッベントロップはカイテル国防軍官房長に武器の禁輸を伝えた。このときカイテル中将はライヘナウに代わって官房長に就任していた。
ゲーリング元帥もカイテルに、「ドイツの武器許与が続くなら日本は防共協定から脱退すると威嚇してきた」と伝えた。しかしカイテル官房長は、「ドイツは前払いの外国為替を受けとっているだろうし、注文は工場に出されてしまっているP181から武器禁輸は実行できないだろう」と考えた。
二十日、カイテル官房長の説明を受けたゲーリング元帥は、命令を撤回し、リッベントロップにも取引を秘かに継続するよう命令した。やはり何も変わらなかった。
(P181- ドイツと日本それぞれの感情 P181-185)
P185 昭和に入っても同じで、ドイツに対する親しみとか特別の感情は普通の日本人になかった。ただし例外があって、医学、音楽、民法、陸軍の分野においては、専門家の間に、親しみというより、畏敬の念があったようだ。明治の開国以来、これらの分野において日本はドイツから多くのものを学び、そして学びつつあったからである。 (P185- ヒトラーの日本への挨拶 P185-187)
(P187- ナチスからの働きかけ P187-195)
(P195- 日独防共協定 P195-200)
(P200- 日本の反応 P200-202)
第五章 中国軍潰走とドイツ顧問団のその後 P203-424
(P224)杉山陸軍大臣は天皇陛下にこう上奏している。「一か月以内に片づけます」
(P244)
日本では、昭和15年以降ゼークトの著作が次々と刊行された。ゼークトは亡くなっていたが、著作が相次いだのは、三国軍事同盟が結ばれてドイツが注目されたからだろう。このとき、ゼークトが中国を対日敵視に導いたことは全く触れられなかった。
ゼークトも、ファルケンハウゼンも、なぜあれほど中国指導層に反日を煽ったのか、いまだもって明らかでない。
(P250) 資料 ドイツ軍事顧問団関係史(tw)