第一部 金融王の時代(1838-1913) P25-269
第一章 守銭奴 P25-43
第二章 口やかましい人 P44-61
第三章 王子 P62-89
第四章 コーセア(海賊)号 P90-129
第五章 ノーザン・パシフィック株買占め事件 P130-167
P139 一八九〇年代を通じて、ピアポント・モルガンは、アメリカ人にとっては不愉快きわまりない事実
アメリカが依然として金融面でヨーロッパ依存から抜け切れないとP140いう歴然たる事実を身をもって示した存在であった。債務国として、合衆国は否応なしに海外の債権国のご機嫌をとらざるをえなかった。
英国は、それから約一世紀後の日本が一九八○年代の合衆国の予算赤字の大部分の尻拭いをしたときと同程度に、アメリカの経済政策に大きな影響力を行使した。
現在の日本と同様、当時の英国は、アメリカが勝手に招いた経済行き過ぎを脇から抑制しようとして批判された。経済学者のケインズが述べたように、「債務国は債権国を煙たがるものだから、善意を期待するのは無駄だ」った。悪意は、ヨーロッパ諸国の利益代弁者たるモルガン財閥に集中したのである。
(略)
P159 一九〇〇年代初頭のウォール街では、政治的、人種的、宗教的違和感が銀行家たちの間に滲透していた。ヤンキー資本とユダヤ資本との分裂は、アメリカ大口金融を二分する最P160も重要な断層線だった。そして、この二大資本がアメリカの投資銀行業界を支配するようになったので、両者の争いは、モルガン財閥物語を色濃く彩るテーマとしてしばしば登場してくる。
ピアポンとが反ユダヤ感情を抱いていたのは周知の事実で、「彼が不必要にユダや系投資銀行側の反感を買ったことが一度ならずあった」とある伝記に記されている。ユダヤ系大物資本家のジョーゼフ・セリグマンは、ピアポンとが彼に対し「硬軟両様の態度」をとるのは、ユダヤ人に不快感を持っているせいだ、と思い込んでいた。
軟らかい態度であるときは、二人は証券引き受けに協力したし、セリグマンが有名な保養地サラトガのあるホテルからユダヤ人であることを理由に宿泊を拒否されたときは、モルガン商会は、その締め出しに抗議する新聞広告を出したほどだ。
ところで、モルガンに対抗するハリマン、シフ勢力と共同戦線を張ったのが、ロックフェラー一族だった。一族の総帥たるジョン・D・ロックフェラーは、一八八一年のスタンダード・オイル・トラスト創設の際、ウォール街からまったく借りずに、巨額な内部留保で資金を賄った。それ以降、スタンダード石油が次第に大金を生み出し、そして、その預け先にザ・ナショナル・シティ・バンク--現在のシティバンクの前身--を選んだ結果、同行は、一八九三年にはニューヨーク最大の銀行にのし上がった。
銀行が産業に対する支配を強めていた時代に、一大企業帝国が銀行の支配権を握ったのだから、これは驚くべき事態だった。J・P・モルガン商会がしばしば鉄鋼銀行と呼ばれたのと同様、ザ・ナP161ショナル・シティ・バンクは、石油銀行として知られるようになった。
さらにザ・ナショナル・シティ・バンクのジェームズ・スティルマン頭取は、娘二人をウィリアム・ロックフェラーの息子二人に嫁がせて、同行とロックフェラー一族との絆を固めていった。
第六章 トラスト P192-207
二面性 P192-198P193 ただモルガン財閥は、金持ちのための社会主義を説いたから、貧乏人のための社会主義を唱える連中といつも一部似通った点があった。ピアポントと テディ・ローズベルトの考え方の似通ったもう一つの側面は、パナマ運河
P194 買収事件に見ることができる。ローズベルト大統領は、国内では行き過ぎた金融権力を厳しく非難する一方で、海外ではこれを有難く利用した。1902年、アメリカがフランス側から未完のパナマ運河を買収する資金として、連邦議会がローズベルト大統領に四千万ドルの支出権限を与えた。その二年後、ピアポント・モルガンは、この史上最大の不動産取引の資金面の責任者として、フランスへ行って支払の金塊の現送を監督し、残金を外貨で支払った。
また、これと前後してコロンビアから分離独立したパナマ共和国が、運河地帯の永久使用・占有・支配権と引き換えにアメリカから支払いを受けることになると、J・P・モルガン商会をパナマ政府のウォール街での財務代理人に任じたので、同商会はアメリカ政府からの支払金を一手に取り扱う権利を得た。(略)
このように、ローズベルトとモルガンは非難攻撃し合っても、その背後にはいつもある程度有無相通じた動きがひそんでいて、両者が大きな敵意を抱いているかに見せかけたものの、実際はそれほどでもなかった。
(略)
P197 ピアポントの欲望をすっかり満たせる女性がいたかどうかについては、はなはだ疑問に思える。ピアポントには--礼儀正しい銀行家と極端な好色家--二つの側面があって、それを非常に苦労して一緒に結び付けていたが、一つのものに融合することはできなかった。そのため、女性に対する彼の態度は、いつも相手によって極端に違った。銀行内で女性を従業員に雇うのに厳しく反対し、女性とは商談もせず、まったく別世界の住人と見な
P198 した。ところが、自宅を訪ねてくる女性客にはまったく別人の態度で接した。ある女性の来客が、あなたの自宅ではとても面白い人なのに、職場では恐怖の的だという噂を耳にしたわ、とピアポントをからかったことがあった。ピアポントは、顔を赤らめて抗弁し始めたが、やがて「どうもあなたの言う通りかもね」と言った。
ピアポントにとって、結婚は思慮分別を必要としたが、貞節を要求しなかった。彼はかつて同僚に向かって「人間というのは、いつも自分のやることについての二つの理由--まことしやかな理由と本当の理由--をつけるものだ」と述べたが、ウォール街の良心を自認する人にしては、本心を打ち明けた言葉だ。
(略)
第七章 金融恐慌 P208-235
(略)連邦準備制度の必要性 P220-222
P221 1907年恐慌の打撃から、恐慌のたびに太鼓腹の財界大物どもが救済に乗り出してハラハラさせられるのは、金融制度としては貧弱で頼りにならない、との認識が人々の間に強まり、今日の連邦準備制度を築く素地が生まれた。(略)
P222 1910年11月、ディビスン(当時はモルガン商会のパートナーの一員に入っていた)らウォール街の投資銀行家たちが、マスコミ向けには「鴨撃ち旅行」だと称して、ジョージア州沖合にあるジェキル島のクラブに集まってひそかに協議した。ここは、ピアポントがよくお忍びで来る保養地だった。この秘密協議がもとになって、のちに無数の陰謀説が流れることになる。それはとにかく、ウォール街の銀行家たちはここで、各地域に準備銀行を設け、その上に商業銀行首脳からなる管理機関を置くという、民間主導型の中央銀行案をまとめた。(略)
P223 オールドリッチ上院議員が1910年に中央銀行設置を求める法案を連邦議会に提出すると、野党の民主党がその成立を阻止した。それから三年後の1913年、民主党のカーターグラス下院議員がこれをたたき台に大幅な修正を加え、連邦準備法の素案をまとめた。民主党出身のウィルソン大統領は、国内十二の各地域に設ける民間準備銀行を中央の政策決定機関、つまり財務長官をはじめ大統領による任命者を含む、ワシントンの連邦準備局の下に置くように要求した。これらの要求が通って、連邦準備法は同年に制定された。
連邦準備局の誕生により、モルガン財閥の突出した巨大権力が削がれるだろう、と革新派は期待したが、事実はもっと複雑で、一筋縄ではいかなかった。逆にモルガン側が連邦準備制度をうまく操って、自己の権力を拡大するのに利用したからである。
(略)
第八章 タイタニック号事件 P236-269
(略)タフトとセオドア・ローズベルトの対立 P246-248
P248 前述のピンチョット林野庁長官の解任に加え、こうした反トラスト訴訟が起こされたことによって、ローズベルトは、1912年大統領選挙で共和党から飛び出し、革新党を結成して出馬する腹を決めたのである。(略)この1912年のタフトとローズベルトの対立は、ピアポントに銀行家としての倫理観を説いた男、つまり野党民主党のウッドロウ・ウィルソンを権力の座につける結果になった。
(略)
プジョー小委員会聴聞会 P250-262
P250 ウィルソン候補はその夏、モルガン財閥の産業支配と長年戦ってきた。法律家のルイス・ブランダイスから経済学の進講を受けるなどして、金融改革がウィルソンの選挙公約の重要部分を占めることになる。一方、リンドバーグ議員は、ウォール街の支配力集中について議会の調査を求める決議案を下院に提出した。その結果、1912年に下院銀行・通貨委員会の下に調査小委員会が設けられ、それには小委員長の名前にちなんでプジョー小委と呼ばれたが、ウィルソンが同年秋の大統領選挙に勝ってから、調査のピッチが上がってきた。
プジョー小委の調査は、ピアポントにとっていつも受難だったとされ、この公式の場での対決が彼の死を早めたといわれるが、父と同様、息子のジャックもその後遺症に悩まされ続けた。(略)彼の手紙には新たに苦々しい調子が色濃く加わり、「わが二つの国(合衆国と英国)を動かす政治家たちは、狂気に取り憑かれているみたいだ・・・わが国はいま、憎悪と敵意と噂が渦巻いている」とロンドンのグレンフェルに書き送っている。(略)
ジャックは最初のうちは、(略)たかをくくっていた。ところが、1912年4月末P251やり手の法廷弁護士で、すでに金融トラスト批判の旗幟鮮明なサミュエル・アンタマイアーが小委員会の法律顧問に選任された。(略)プジョー小委の聴聞会は、新聞記者、民主党、改革派など、一般大衆の不満をあおり立てる者すべてに対するジャックの敵意を高め、また、この体験で傷ついた彼は、民主主義というものに次第に幻滅していくことになる。
小委の聴聞会が始まった1912年12月、ピアポントは、ちょうど浮世の仕事から手を引いて引退を望んでいた頃だった。(略)新しい<ドル外交の時代>を、迎え銀行業界に新しい責任が求められたので、従来よりもっと対外イメージに気を使う必要があった。J・P・モルガン商会としては、伝統的な寡黙な態度を投げ捨てて、広報活動に積極的に乗り出す方針に転じた。(略)
P252 モルガン商会は個人経営の金融業者だったから、ピアポントとしては、世間に情報を公開する義務を感じなかったし、広報係も雇わなかったが、このとき、新しい考え方を持つ若いパートナーたちが積極的に広報活動を引き受けた。ピアポントの聴聞会出席に備えたコーチをディビスンやラモントが買って出ただけでなく、初めて広報係も採用した。新時代の銀行家の典型だったラモントにとって、これは絶好の機会だった。(略)
P261 プジョー小委員会は、状況証拠はたくさんあったものの、共同謀議をなしているとの厳密な意味での金融トラストの存在は立証できなかった。むしろ、調査の結果として判明したのは、「J・P・モルガン商会が主唱者と認められる一握りの人々の手中に、信用と資金の支配」を集中した、一種の「利益共同体」が存在するということであった。(略)
P262 プジョー小委の聴聞会は、モルガンの権力を脅かすと思われる直接の成果を一つ生み出した。ウィルソン大統領が1913年12月、連邦準備法に署名し、政府に中央銀行を設け、緊急時にモルガン財閥に依存せずに済むようにしたのだ。(略)
それでもモルガン財閥は、ニューヨーク連邦準備銀行と巧みに同盟関係を結んだので、その後の二十年間にわたりこの新しい金融組織を実際に動かすことになる。
(略)
第二部 ドル外交の時代(1913-1948) P273-589
第九章 変容 P273-300
第10章 第一次世界大戦 P301-332
P301 一九一四年の初夏、産業界の不況に伴ってウォール街も下降相場に見舞われた。ウッドロウ・ウィルソンの"大企業"退治が企業意欲に水を差したのだ、と経済界の人々は口々に不平を言った。そうした暗い気分のさなかの同年七月二十八日、第一次世界大戦の勃発を知ったアメリカの投資家たちは、あわてふためいた。先見の明を誇るウォール街は、またも歴史的一大事件に油断し不意をつかれた。
モルガン財閥は、ヨーロッパの事態の推移をかねてから綿密に追っていて、第一次世界大戦の起こる直前の一九一二年には、バルカン諸国とトルコとの武力衝突を阻止する努力を舞台裏でひそかに行っていた。その計画では、両者がタフト大統領を中心とするアメリカの紛争調停に服するとの条件で、モルガン財閥が両者に融資するという内容だった。
計画の立案者は、パリのモルガン・ハージェス商会の上席パートナーであるハーマン・ハージェスとマイロン・ヘリック駐仏アメリカ大使の二人だったが、ジャック・モルガンが融資P302したお金が逆に軍事行動に悪用されるのを恐れたため、結局、計画は日の目を見なかった。
(略、ヨーロッパ各国の株式市場はすべて閉鎖、ニューヨーク市場は、一九〇七年以来の最大幅の暴落、取引所は閉鎖、闇市場が乱立)
第一次大戦の初めのうちは、モルガン商会にとって暗い時期だった。他の銀行と同様、モルガンも証券業者向け貸付けでもうけていたから、戦争が始まると商売が低調になってP304しまった。だが、この沈うつな空気の陰ではっきり分からなかったが、実際は国際金融に歴史的転換期が訪れ、アメリカ合衆国が金融主導権を徐々に英国から奪い取り、一大債権国として台頭しようとしていたのである。
大戦勃発の知らせにジャック・モルガンはひどい胸騒ぎを感じたのか、「この国がかつて経験したことのないほど恐ろしい、有価証券類の価値の破壊」がやってくる、予言した。国際政治への関与、ひいては第一次大戦への参加を頑なに拒む孤立主義者たちから、ジャックは、のちに大戦で大もうけをした「死の商人」と痛罵されるが、大戦に対する彼の最初の反応は、実際にそれどころではなかった。
戦時利益がたんまりと入るとほくそえむどころか、ニューヨークがロンドンに代わって世界金融の中心になるといった考えなど、いっさい頭になかった。
国際金融の地殻変動を最も鋭敏に捉えたのは、パートナーのハリー・デイビスンだった。すぐに大戦がモルガン商会の大もうけの種になると察して、休暇旅行先の同僚ラモントへ次のような興奮した電報を打った。
全ヨーロッパの債券が完全にご破算となり、正貨支払いがフランスおよびほとんどの国で停止、凍結された・・・。君がいまここにいても、できることはほとんどありえないが、ただ重要なのは、情P305勢が並々ならぬ関心に溢れ、もちろん、大きな可能性に満ちていることだ・・・一言で表現すれば、大地震に見舞われてまだ多少は呆然としているものの、やがて正気を取り戻す状況にあるといえよう。たちまちにして大戦の被害者となったのは、いつもモルガンに厄介をかけるニューヨーク市で、支払い時期の迫る債務約八千万ドルをヨーロッパに抱えていた。ドルの価値が下落し、その分だけ債務返済が高くつくうえに、対ヨーロッパ交易の停滞の恐れに直面したため、アメリカ国内には債務支払いの一時停止を求める空気が強かった。
そのため、モルガン、クーン・ローブの両商会は、市債償還のための協調融資シンジケートを結成し、即座に救済に乗り出した。まず金がイングランド銀行に送られ、そこからロンドンのモルガン・グレンフェル商会に融資が行われ、同商会が満期となったニューヨーク市債を肩代わりして返済した。こうできたのは、ニューヨークが金融センターとして、ロンドンに負けず劣らず安全な拠り所になりうるとのしるし、つまりニューヨーク金融界の成熟を告げるしるしであった。
(略)
P308 一九一四年十二月十六日、デイビスンは、ハーバード・H・アスクィス首相とデイビッド・ロイドジョージ蔵相と会食した際、モリガン商会が連合国の物資調達機関となる契約書原案を持って行った。首相は、これに綿密に目を通して「このとおり承認する」と言った。明けて一九一五年の一月十五日、モルガン商会は、陸軍省並びに海軍省との商業協定に調印した。
これに基づいて最初に調達したのは、一千二百万ドル相当の軍用馬だっP309た。その年の春、パリの上席パートナーのハーマン・ハージェスを通してフランス政府とも同様の協定が結ばれた。(略、歴史に残る量の取引にジャック・モルガンが良心の呵責を感じた)
だが、ウォール街とシティで古い伝統を誇るこの銀行は、変身の才に長けており、すみやかに商機に適応できた。輸出部という名前のついた担当部門の責任者にトム・ラモントが探してきたダイヤモンド・マッチ社のエドワード・R・ステティニアス・シニア社長を据えた。
この人はきちんとした外見さながらに、病的なほど細かい点にまで注意を払う細心な性格だった。のちに、アメリカのニュートン・ベイカー陸軍長官がよく述べた言葉だが、この人は「ものすごいほどの責任感」の持主でもあって、朝の九時から真夜中まで、モルガンの社員をこき使ったので、百七十五人の部下はSOS(Slaves of Stettinius)、P310つまりステティニアスの奴隷と呼ばれたほどだ。(略)
大戦終結時の合衆国の軍事生産能力は、英仏両国を合計したものを凌ぎ、ステティニアス(相互参照)は、のちに有名になる軍産複合体の父という、嬉しくない名称を頂戴することになる。
(略)
P319 第一次世界大戦は、銀行家たちが人種偏見を発揮し、独自の対外方針を推し進めるなどして、あたかも自らが主権国家であるかのように振る舞った、最後の戦争だったといえよう。ウォール街では、戦時利得の配分が、政治信条や宗教の違いに厳密に応じて各銀行家の間でなされた。モルガン財閥は、そのなかでとびきり最高の地位を占めた。
大戦が、ウォール街の非ユダヤ系各銀行にとっては、一大破局といえた。たとえば、クーン・ローブ商会の独裁的支配者であるジェーコブ・シフは、帝政ロシアのユダヤ人虐殺に肝をつぶし、ロシア政府に「人類の敵」の烙印を押し、それに復讐する意味で一九〇四~五年の日露戦争で日本側の戦費を調達してやった。それでも、第一次大戦が始まると、シフは、親ドイツ感情を抑えて交渉による和平を支持する一方、「家族とドイツ語で話すのを人前できっぱりやめた」。
これほど用心深くなかったゴールドマン・サックス商会のヘンリー・ゴールドマンは、親ドイツ的意見を堅持して、ニーチェの著作P320をとうとうと朗読し、プロイセン文化を賛美したので、同商会のパートナーたちは非常に困ってしまった。ドイツ語系のスイス出身のグゲンハイム財閥は、軍需契約が続々と転がり込んでくる手前、ドイツに共感を抱いていたとしても、それはいっさい抑えて表に出さなかった。
大戦中のウォール街とシティの双方では、連合国側を裏切っていると疑われたユダヤ人に対するばかげた非難、攻撃が横行した。一九一五年、連合国側に対する無煙火薬の大手供給メーカーだったデュポン社が、「親ドイツ系」のクーン・ローブ商会の株式支配下に落ちる恐れがある、と警告するものが有った。
対抗措置としてデュポン一族は、モルガンから八百五十万ドル借りて、買い集めた株をデュポン・セキュリティーズ社という持ち株会社を設け、そこにしっかりと塩漬けにした(アメリカ駐在の英国情報機関の責任者がこの一件を調べたら、根拠がないことがわかった)。ドイツの金融界滲透は、シティでも関心事であって、外国系銀行の株を買収して"英国資本化"するのにイングランド銀行が動いた。
このように非常に緊張した空気の中で、ジャック・モルガンの親英・反ユダヤ感情は燃え上がり始めた。一九一四年九月にテディ・グレンフェルに宛てた手紙で、「和平交渉の噂が出ているが、これは主としてドイツ大使に非常に近いドイツ系ユダヤ人筋の仕業だ」と訴えている。
ドイツ系ユダヤ人経営の銀行に対する敵意が先鋭化したのはその年末の十P321二月で、モルガン商会は、ロシアに一千二百万ドルの戦費の融資に踏み切り、翌月から英国がモルガンを介して帝政ロシア向け軍需品の調達を始めた。
ジェーコブ・シフがロシアのユダヤ人虐待ぶりを指摘してジャックに抗議すると、二人は大掛かりな債券発行引受けを一緒にやった仲だったから、ジャックもこれに慎重に対処せざるをえなかった。投資銀行というものは、お互いにシンジケートを組む関係から、物事を辛らつに述べたくても実際はやんわりと言わざるをえないという面があった。
自分を抑えて抑えて、ジャックはシフに対し、「ロシアに金融圧力をかけて態度変更を迫る努力をすべきだとは、私は思わない。ロシアが弁済能力のある借方かどうかが問題であって、これをロシア国内の社会統制ないし取締りの問題と混同して考えることはまずできない」と手紙で答えた。
一九一五年五月、ドイツの潜水艦がアイルランド沖合でキュナード汽船のルーシテイニア号を沈め、六十三人の子供を含む一千人以上の死者が出た。アメリカ人犠牲者も百二十八人にのぼり、国内が悲嘆に暮れた。こうなるとジャックとシフの関係は、単なる不和にとどまらず、緊張した対立へと一変した。(略、表面上は<紳士銀行家行動基準>に基づき礼儀正しかったが内面は穏やかではなかったと)
こうした怒りを押し殺した戦いは、ウォール街の歴史で最高額とされた、五億ドルにのぼる英仏両国の公債発行引受け準備中の一九一五年九月、ついに公然と火を噴いた。その頃、ステティニアスの輸出部のお金の食い方はひどいくて一日二百万ポンドにも達し、このままでは英国の資金源が底を尽きそうだった。
七月に入ると、資金問題は切実になってきた。モルガンに対するドル代金支払い期限に間に合わせるため、英国のレジャヌルド・マッケナ蔵相がプルーデンシャル生命保険会社所有のアメリカの有価証券を徴発しP323て一時流用せざるをえなかったほどだったが、これはやむにやまれず破れかぶれでやった違法行為であり、アスクィス首相をひどく動揺させた。
モルガン財閥としてもこの時期は、交戦国の公債引受けには国務省の反対があったため非常に辛い一時期だった。
巨額な連合国公債の引受けにはウィルソン大統領は反対だったが、そうせねば合衆国のヨーロッパ向け輸出が打撃を受けるとの閣僚たちの説得に、ついに折れた。ブライアンの後を襲って国務長官になっていたロバート・ランシングは、そうしないと「その結果は、生産の低下、資本と労働力の遊休化、金融活動の沈滞、全般的な社会不安を招く」と厳しく警告した。
九月に英国は、民間を通した巨額の公債発行のお膳立てをするために、英仏合同使節団をニューヨークへ派遣した。(略)
P325 公債発行打診という公的立場からして、当然、レディング卿の英国への忠誠心はいささかも疑念がなく、ユダヤ人と一体化した考えを抱くなどと思われなかった。ジャックがレディングとドイツ系ユダヤ人との間に多少なりとも共通点を感じ取ったとしたら、それはおかしな話だった。
事実、レディングがジェーコブ・シフと会ったとき、シフが、クーン・ローブ商会のシンジケート参加の条件として、英国の同盟国のロシアに一ペニーも廻さないことを要求したのだが、レディングは「同盟国を差別するような条件は受け入れP326られない」ときっぱり拒絶した。
これでクーン・ローブ商会は一挙にロンドン金融界で"好ましからざる人物"扱いされるに至り、モルガン商会の凱旋行進の道を開いた形となった。
それにもまして打撃を受けたのは、重要な案件についてはパートナーの一人ひとりが拒否権を持つゴ-ルドマン・サックス商会だった。親ドイツ派のパートナーのヘンリー・ゴールドマンが、モルガンが主幹事社となる公債引受けに相乗りするのを拒絶し、ウォール街での戦費調達から自ら身を引いてしまったのだ。『われらの仲間』の著者、スティーヴン・バーミンガムによると、「ゴールドマン・サックスが英国でブラックリストに載せられるそうだ、とロンドンのクライン・ワート銀行がニューヨークに打電した」ので、ヘンリーは家業を辞任せざるをえなかった。
ヘンリー・ゴールドマンとリーマン・ブラザーズ商会のフリップ・リーマンは、有価証券の引受けでは「ウォール街きっての二人組」と称された仲だったが、感情的に気まずくなって、お互い口もきかなくなった。それから三十年ほどの間、ウォール街のユダヤ系投資銀行は、ドイツ側に親しくしたことが後々までたたった。
五億ドルという英仏両国の公債発行は、ピアポントが音頭を取ったどの公債発行よりも金額的にはるかに上回っていた。引受け社は六十一社、公債販売に動員された金融機関は一千五百七十社に達した。これを売るのはきわめてしんどい仕事で、国際情勢への関わりP327を極端に嫌う孤立主義の傾向の強い中西部地方では、ことにそうだった。
金融機関に少しでも多く売ってもらおうと、売り上げの一部をしばらくその銀行に預金することも認めた。こうした報奨措置をとっても、親ドイツ系預金者がボイコット運動を起こしそうになったシカゴでは、大手銀行が一行しかシンジケートに参加しなかったし、ミルウォーキーに至っては皆無だった。
モルガンのパートナーたちは、アンドルー・カーネギーら有名人のほか、グゲンハイム兄弟やチャールズ・シュワブら軍需品メーカー経営者にも公債を買ってもらった。だが、中西部地方の販売不振を穴埋めできず、同年末にはシンジケート全体で一億八千七百万ドル相当の売れない公債を抱え込んだ。
足りないドルをさらにかき集めようとして、英国政府がすべてのアメリカ株式の配当に課税し始めたので、英国民が餅株の買い取りを政府に求めて殺到した。モルガン商会は、三十億ドル相当のそうした証券の換金を引き受け、株価が急落しないように慎重に証券をニューヨーク市場へ送った。
この英仏両国の公債を引き受けて用立てた資金は、すぐに尽きた。大戦が終わるまでにモルガン財閥がこの形で連合国に融資した金額は、十五億ドルを上回った。英国政府は、モルガンの果たした役割に賛辞を惜しまず、ロンドンのモルガン・グレンフェル商会の室内には、「英国政府の利益を守るためにその総力をあげてどこまでも努力してくれた商会の援助を得られたのは、幸いだった」とのロイドジョージの一九一七年の書簡が掲げられP328ている。
後年、モルガン商会を訪問した英国の新聞王ノースクリフ卿は、「ここのおかげで大戦に勝った」と嘆声を発した。
それでも、モルガンと英国との関係はいつでもそうだが、表向きは互いに認め合っても、その底にはかなりの緊張をはらんでいた。モルガンが金融の面でいかに上手に立ち回わろうとも、政治の面では役割の果たし方が下手だと英国側は思っていた。
まだ第一次大戦中だった一九一六年、ジャックは、民主党の現職大統領ウィルソンに対抗して、共和党大統領候補のチャールズ・エバンス・ヒューズの選挙運動に打ち込んだが、これは賢明な策ではないと英国側はみていた。
デイビスンは、とくに英国側の気に障ったようだった。彼はしばしば、相手をいやがおうでも従わせるような態度をとったが、これが無作法で傲慢だと受け取られがちだった。英国外務省は彼のことを「思慮に欠ける」と呼んだ。
一九一七年に入ると、英国が借りたお金が実際に底をついた。救いとなったのは、ドイツのアメリカ船舶に対する無制限潜水艦攻撃の再開で、これで同年四月六日、アメリカ合衆国が参戦した。
合衆国政府は、すぐに連合国側に十億ドルの借款を供与して、J・P・モルガン商会から負担を肩代わりした。参戦後、合衆国政府は<自由公債>なる戦時公債を発行して戦費を調達したが、第一回の発行分の売り上げから英国に融資した四億ドルが返済されるものとモルガン商会は期待した。
ところが、政府のお金が民主党の忌み嫌う<金融トラスト>の懐に入った場合、議会が大騒ぎになることをマカドゥ財務長官が恐れた。
P329 モルガン側が驚いたことには、英国政府もこの違約行為をさして気にかけない風だった。テディ・グレンフェルは、モルガン側の傷つけられた感情を日記に、「JPM商会は、資金などあらゆるものを英国政府が思いどおりに使えるように提供したが、閣僚諸氏、とくに蔵相は謝意をほとんど示さなかった・・・モルガン財閥としては、きわめて苦々しい気持ちだ」と記している。
一九一七年の夏、イングランド銀行総裁のカンリフ卿があまり同情的でない大蔵大臣のボナ・ローに対して、モルガン側の主張を弁護した。(略、これがきっかけで、英国の金融政策をめぐってイングランド銀行と大蔵省が対立)
結局、大蔵省がカンリフの行動に激怒して、翌一九一八年の総裁再選を駄目にさせた。ただし、これでモルガン家の敵にではなく、逆に、モンタギュー・ノーマンが総裁になる道が開けて、モルガンの歴史上で最も頼り甲斐のある友となるのである(tw)。
ところで、アメリカ合衆国が参戦したとき、ジャックは小躍りして喜んだ。純朴で、愛国心にあふれ、しかも気前のよいジャックは、自分や社の輸出部をそっくりそのまま政府に引き渡してもよい、とウィルソン大統領に伝えた。
ステティニアスを一時休職にし、部P330員全部の給料の面倒をみ、いっさいの手数料なしで政府のために働かせるつもりだった。これが政治的にできない相談であるのに少しも気づかなかった。
たとえば、孤立主義者たちが、依然としてモルガン財閥が戦争熱をあおっていると非難し続けていたし、アメリカ全土を視察したマカドゥ財務長官には、軍需品調達で大もうけしているとの民衆のモルガン財閥に対する強い悪感情がわかったからだ。
ウィルソン大統領は、新設した軍事産業管理委員会の責任者にボルチモア・アンド・オハイオ鉄道のダニエル・ウィラードと民主党幹部のバーナード・バルークを据える一方、モルガン側を慰撫するため、ステティニアスを合衆国陸軍の補給品監督官に任じた。
のちにウォール街の歴史を振り返ってみると、政府が第一次世界大戦中に進めた<自由公債>の発行は、一つの重要な意義を持っていた。自由公債の売上高は約百七十億ドルに達し、販売促進を活気づけるために、チャーリー・チャップリンやダグラス・フェアバンクスらの有名俳優がザ・コーナー前での集会に登場した。
マカドゥ財務長官が農民、中小企業経営者、労働者まで買って貰おうと努力したので、これで新しい層のアメリカ投資家が生み出された。公債売込み運動で非凡な才能を発揮したのは、ウォール街の弁護士ラッセル・C・レフィングウェルだった。
彼は、財務長官マカドゥのニューヨーク市郊外のヨンカーズの住まいの隣人だった関係から、長官の法律顧問からさらに財務次官補になり、自由公債の発行を担当した。この人は、のちにモルガン商会の有名なパートナーとなP331って、民主党との連絡役としてかけがえのない重要な役割を果たすことになる。
大戦を乗り切ったモルガン商会は、その支配力が非常に大きく広がった。(略、ジャック・モルガンが父ピアポンとをしのぐほどになった)
しかし、ジャックは、ものごとに過敏なたちだったので、成功を喜ぶよりも批判に悩むことの方が多かった。(略、ジャックの気質が記される)
一九一七年のテディ・グレンフェル宛の手紙にこう書いている。
J・P・モルガン商会を嫌う気持ちがワシントンにある主な理由は・・・わが商会が政府の引立てを進んで求めないことに端を発しており、民主党ができる限りわが商会の力をそごうと躍起になっているが・・・それでも、わが商会が依然といして、前進を続けており、きわめて好調であるからだ、という結論に達した・・・わが商会全体に対して実際には一種の政治的遺恨を抱いているのだから、彼らがわが商会の考え方を変えることはできず、わが方も彼らの考え方を変えることはできない。モルガンの持つ支配力に対してもう一つの違った見方をしたのは、ドワイト・マロウの伝記を書いたサー・ハラルド・ニコルスンだ。彼の筆によると、大戦が勃発した時点でモルガン財閥は「一個の民間商会であることをやめ、政府の一つの省と同然の存在となった」と精一杯のお世辞のつもりで記した。
ところが、ジャックは、自分の銀行が政府機関になぞらえたのを侮辱と受け取り、「この部分の書き直しを求める権利はないが、わが商会がまるで政府に従属する一個の省の地位に格下げされたかのように解される」と抗議の手紙を送った。
モルガン財閥はもはや、自身が、ワシントンの連邦政府にも誰にも従属しない存在だと確信するに至ったわけである。
→『赤い盾』2.4ジェームズ・ボンド『女王陛下の007』(参照、WW1の背景がわかる)
第十一章 爆発 第一次世界大戦後 パリ講和会議での役割など P332-340
P333 第一次世界大戦を脱したアメリカ合衆国は、各種産業が盛んになり記録的な貿易黒字を抱えて繁栄したが、ヨーロッパ各国の多くは、廃墟と化して再建の資金を切実に必要としていた。主権国家、都市、各種企業が借款・融資を求めてウォール街に押しかけ、かつてのロンドンのマーチャント・バンク詣でさながらだったが、英国通貨ポンドの戦後の弱体化ゆえに、ロンドンはすでに世界経済を相手に資金調達をなすという歴史的役割を放棄していた。
これと対照的に、戦後の栄光に浴したモルガン財閥は、いまや世界一の影響力を誇る民間銀行として、最も確実な取引先を選別でき、しかも多くの国家を相手の巨額な公債発行を扱える唯一の存在となっていた。モルガンのお墨付きがあれば、外国の債券発行がアメリカ人投資家にまだ目新しくなじみの少なかった当時、それが温かく受け入れられるのは間違いなかった。
モルガン財閥は、いわばアメリカ資本市場の正式な代弁者として諸外国P334政府に発言したが、そうした影響力のもととなったのは、資金力だけはでなく、モルガン商会の持つ威信、政治家との強い縁故、同業者との親密な関係など無形の財産であった。
第一次世界大戦に伴うユダヤ系投資銀行の退潮につれて、J・P・モルガン、ナショナル・シティ・バンク、ファースト・ナショナル・バンクの三行から成るヤンキー連合勢力が、ウォール街を牛耳るに至った。借款を渇望する各国のどんな大蔵大臣にとっても、これは無視し難いおそるべき相手だった。
一九一九年十月にフランスの金融調査団のエミール・デュマレ男爵がレーモン・ポアンカレ大統領にモルガンの影響力について、こう報告している。
「モルガンは、有価証券の発行に必要なすべての要員を投入して一丸とした勢力を結集しており、その支援を得ることなしには、どうしてもやっていけない、との印象を受けた・・・このような状況の下では、既成事実をやむなく受け入れ、モルガン側に全幅の信頼を寄せているとの印象を与える努力をなすのが賢策と思われる」この情勢分析は、英国は否応なしにモルガンに頼らざるをえないのだ、とアスクィス首相が大戦中に嘆いたのを思い出させる。モルガン商会を始めとした金融界の新しい影響力の出現にいちばん勇気づけられたのは、ほかならぬウィルソン大統領で、ウォール街の資金を活かして進歩的政策の夢を実現しようと望んだ。
一九一八年十二月、ヨーロッパに旅した彼は、大歓迎を受け、ヨーロP335ッパが各国の間を調停し復興できるのは彼しかいないと考えられた。この決定的な転機に、銀行家の果たす役割に一大変化が起きた。ピアポンとの時代なら、金融界のお歴々は、政府をまともに憎み嫌ったが、第一次大戦が終わると、金融界の外に対する風向きが変化して、経済と政治の混じり合った領域が生まれ、銀行家が政府の大使として働く例が増えてきた。
この<ドル外交の時代>の到来は、モルガン財閥ではきわめて顕著にみられ、やがて同財閥は一種の影の政府に発展し、政府の政策と連携して行動することになる。
この時期にトム・ラモントは、外交問題への関心を深めた。彼は、一九一七年、すでにウィルソン大統領の腹心のカヌール・ハウスに同行してヨーロッパを視察旅行していたが、やがてカーター・グラス財務長官からパリ講和会議のアメリカ代表団の金融問題顧問に任命された。大戦中に戦場を視察した時の経験から、世界平和を確保する組織をつくる必要を確信してウィルソンの国際連盟構想を熱烈に支持し、アメリカの連盟参加を目指して多額の資金援助を行った。
ラモントのこうした政治的信念は、モルガン商会の商売上の必要とぴたり一致していた。同商会の対外貸出しが拡大するにつれ、安定した政府、世界平和、自由貿易を求めたからだ。一九一〇年代末は、モルガンの掲げた理想主義の全盛期だった。この時期にドワイト・マロウは、『自由国家からなる社会』と題する、各国が紛争を交渉で解決してきた歴史を研究した著書をまとめた。
P336 パリ講和会議では、予想に反して、トム・ラモントの言動にウィルソン大統領がすっかり感嘆した。大統領は後に、「われわれに対する助言で君が示したリベラルで公共心あふれる考え方に、私は敬服するばかりだ」と述べた。同僚パートナーのジョージ・ホイットニーによると、財務問題では、ウィルソンは、他の誰よりもラモントの判断を信頼したようだという。
まったく、一九一九年のパリ講和会議ではいたるところにモルガンの人間がいたので、これじゃJ・P・モルガンの独壇場だ、とバーナード・バルークがぐちったほどだ。新しいウォール街の影響力を政治目的に最初に活用したのが進歩的な民主党の大統領であったことは、特筆に値するだろう。十年来の金融トラストに対する攻撃は、熱狂的に一変したかのようだった。
トム・ラモントは、パリで魚が水を得たように働いて、講和条約の財務条項の起草を助ける一方、広く有名人との交友を深め、当時では一流の金融外交家となる。ジャック・モルガンが性格から策を弄することができなかったのに対し、ラモントの政治的な考え方は柔軟で、民主、共和どちらの党の政治家とも話を合わせられた(参照)。
いわばたくさんの仮面をかぶる人で、ときには自分自身を欺くほど巧みにそれぞれの役割を演じてみせた。彼には、民主、共和両党にどっちつかずの態度をとる才があり、たとえば、ウィルソン大統領に対し、非常に巧みな言い方で、自身のことを「お金持ちの政党の共和党の中の貧しい一員で・・・現在の民主党政権に信頼を置いている」と売り込んだ。
彼のこうした度量の広さは、P337ときには信念に欠ける無節操と変わらぬところがなくもなく、日和見気味の場合すらあった。国内経済の諸問題では、ありきたりの共和党的考えだったが、国際機関や市民的自由の問題となると、民主党の知識人層がウォール街にしては、<稀有な人物>と驚くほど、彼らの好みに合うリベラルな意見を抱いていた。
晩年には、ハーバード・フーバーと並んでフランクリン・ローズベルトといった、両極端の大物政治家をその親友のうちに数えたものだ。
第一次世界大戦終結から三十年近い間、ラモントとモルガン財閥は、ベルサイユ講和条約をとドイツの賠償問題にかかわり合い、その泥沼からなかなか脱け出せなかった。講和会議でラモントは、ドイツの賠償支払い能力を検討する小委員会に属して働いたが、フランスが戦禍を最も多く受けた関係から、巨額な賠償金を厳しく要求した。
ラモントは、復讐心に燃える英仏両国ほど強硬ではなかったものの、アメリカ側としては最高額の四百億ドル(フランス要求額の五分の一)を勧告した。紆余曲折ののち、賠償委員会が三百二十億ドルと最終的に決めたとき、モルガン商会パートナーのベン・ストロングは、ドイツ・マルクの価値下落とそれに伴うインフレーションを予測し、のちにそのとおりになった。
ところがラモントは、この程度の賠償金額ならドイツが十分に耐えられるとの持論を捨てず、しかも講和会議の英国代表の一員だったジョン・メイナード・ケインズが、賠償案に反対して途中で代表を辞め、批判的な『平和の経済的帰結(相互参照)』P338を著したことが、賠償が懲罰的すぎるとの印象をドイツ人に与え、その結果、ドイツ人の怒りを助長し賠償支払い決意を鈍らせたのだ、とかたく信じ、これがひいてはヒトラーの登場に道を開いた、と考えた。ドイツが国際世論を操作して賠償交渉を必要以上に有利に展開せんとしている、とみる一派の考え方に与していた(tw)。
以上の複雑な見方が正しいかったかどうかはともかく、国際連盟創設に対してアメリカが及び腰だと予測した点では、ラモントは先見の明があった。国内で高まる孤立主義の勢いを察知した彼は、国際連盟案に対するアメリカの国民感情を知らせてくれと、パリからニューヨークの同僚マロウに依頼した。マロウからきた悲観的分析を伝えると、ウィルソン大統領は、鼻であしらうか、首を傾げるふうで、「問題全体を解く鍵は真実にあるのだから、国民にあるがままに問題を理解してもらえさえすれば、障害はおのずから消え去る」とラモントに語った。
本質的に妥協の人だった彼は、ウィルソンがこのように自説に固執して譲らないのを驚いて見守った。一九一九十一月、国際連盟規約を含むベルサイユ講和条約の批准がアメリカ上院で否決され、ウィルソンは失意の人となった。アメリカ合衆国は、ついに国際連盟に参加しなかった。
ベルサイユ講和会議は、トム・ラモントが国際舞台にデビューする一種の序幕であって、相反する教訓を数々学び取った。ラモントは、ウィルソンを「惚れ惚れする人物」、「スコットランド人のように素晴らしい理想主義と不屈の精神の渾然一体化」と讃え
る一方、P339政治とは実現できるものから先に手をつける<可能性の技術>だ、ウィルソンは理想に走りすぎて苦労している、世界はそう簡単に理想郷になるものではない、とみた。
ラモントは、ウィルソンの考えにすっかり染まってアメリカに帰ると、ウォール・ストリート二三番地のモルガン商会内の自室の机上に、大統領とその腹心のカヌール・ハウスの写真を掲げた。彼はちょうどその頃、ニューヨーク・イブニング・ポスト紙の発行者に納まったばかりだったが、編集への不干渉の方針を少々曲げて、同紙に国際連盟擁護の立場をとらせた。
モルガン財閥は対外貸付けの第一人者として、当然、民主党リベラル派の推すウィルソン型の国際協調主義と一部相通ずる面もあった。アメリカの企業経営者は、依然として保護主義にしがみつき、偏狭な考え方を守っていたが、銀行家は一九二○年代に入ると、前より国際的視野をもつようになった。
十九世紀のロンドンのシティがそうであったように、ウォール街の投資銀行は、一般の商業銀行よりもはるかに海外に目を向け出し、国際協調の推進派たるモルガン財閥としては、孤立主義傾向の強い共和党に不安感を抱く場合が増えてくるのである。
一九二○年の大統領選挙戦を控えた共和党全国大会に出席したラモントは、大会を支配する傲慢な孤立主義や狭量な外国嫌いの空気にびっくりした。アメリカが国際舞台から急に身を引き、戦後のヨーロッパ復興の責任を取るのを拒み始めた感じがした。その年の大統領選挙で、ラモントは、共和党の大統領候補のウォレン・G・ハーディングよりも国際P340連盟を推す民主党候補のジェイムズ・M・コックス・オハイオ州知事に一票を投じた。
一九二○年代を通じてモルガン商会は、ハーディング、クーリッジ、フーバーの三代にわたる共和党大統領の下の政権と近い関係を持つことになるが、同商会の抱く国際的責任感と共和党の視野の狭い考え方との間には、つねに緊張状態があったものだ。
次第に活動範囲が多数の国々にまたがってきたっモルガンとしては、ヨーロッパとのかかわり合いに飽いたアメリカとは困ったことにしっくりいかなくなるのである。
ラモントがベルサイユ講和条約づくりに追われていた頃、ジャックは、自身の心のうちの悪魔と戦っていた。ドイツ人などとは取引きしたくないどころか、「あんな「野蛮な」行為に走った奴らは懲らしめてやればよい、とさえ願った。一九一七年にある友人に宛てた手紙で、「大戦中のドイツ人の所業を顧みるなら、あんなひどい性格を露呈した国民と商取引や金融取引きをなすのは・・・どんな文明国でも不可能だろう」と書いている。
父ピアポント・モルガンなら、そうした遺恨を根に持って行動しただろうが、大戦後のモルガンの融資方針は、パートナーの気分一つというよりも合衆国の利害を反映する傾向が強まって、ドイツが賠償支払いできるように同商会が中心になって巨額の融資をまとめた結果、モルガンとドイツとの関係は、ジャックが夢想だにしなかったほど密接なものとなった。
P341 表面的には、ジャックは落ち着いた態度で銀行業務をこなしたが、内心では絶えず不安に取り憑かれていた。金持ち階層が恐れおののき出したのは、トロツキーとレーニンによるロシアの権力奪取、ロシア皇帝ニコライ二世の処刑、そしてボルシェビキによる対外債務否認など、ロシアでの一連の出来事だった。
また、メキシコ革命の最中にメキシコ政府も対外債務の返済を怠り、しかも一九一七年には、急進的な憲法を制定してアメリカ系石油会社を国有化しようとした。革命が北アメリカまで波及すると予測する声もあり、階級闘争とストライキの噂で空気がピーンと張り詰めてきた。
一九一九年の一年間で、四百万のアメリカ人がストに参加したので、ミッチェル・パーマー司法長官が赤狩りに乗り出して"赤色分子"や外国人煽動家たちを根絶した。この不穏な情勢に、「破壊分子」が産業界を粉砕せんとしているとのジャックの疑念は深まるばかりだった。
(略、モルガンはじめ金持ちたちへのテロ行為が記される)
第十二章 彷徨 P370-404
中国借款団そして日本とのかかわり(1920年代前半) P370-378P370 モルガン財閥の第一次大戦後の覇権というか、<ドル外交の時代>のアメリカ政策との一心同体ぶりというか、それを最もよく表徴したものは、極東で同財閥が卓越した立場を新たに獲得したことをおいて他にないだろう。モルガン商会は最初、政府の要請でアジアに進出し渋々ながら中国に対する国際借款団に参加したが、当時のブライアン国務長官がこうした外国への「干渉」を強く非難したので、借款団は解消された。
ところが、その後に第一次大戦が起きて、太平洋地域でアメリカの立場が強化されたのに対しヨーロッパの勢力が後退した結果、ブライアンの後任のロバート・ランシング国務長官が、この新しい地域に食指を動かし、一九一九年に民間銀行による中国借款団の構想を復活させた。そのとき、ジャック・モルガンが「ですがランシングさん、ブライアンさんはわれわれにとどまるよう求めましたが」と尋ねると、ブライアン長官は恥じ入った顔で方針の大転換を認めたという。
P371 この第二の中国借款団では、トム・ラモントがまとめ役を務めた。彼は一九一九年十二月、発信命令を受け取りにホワイトハウスへ出向き、かねてから尊敬していたウィルソン大統領に会ったが、大統領は、ラモントなら支配権を争っている中国の二つの政権の対立を解決できると期待した。
当時の中国では、一九一一年の辛亥革命以来、北京の公式政権と広東の国民党政権の間で権力が二分され、満州は各軍閥が支配していた。
(参考→『日中戦争はドイツが仕組んだ』P24、当時の中国の権力状況がよくわかる)
投資銀行家の観点からすれば、こんなに分裂した中国は、その直前に倒れた清朝に負けず劣らず投資リスクが大きかった。(略)
中国の公債を引き受ける機が熟しているか否かを検討するため、ラモントは一九二○年、現地視察に出掛け、日本の侵略行為で火がついた労働者ストや学生デモで荒れる中国各地を冷静に観察して回った。
(略、ラモントの中国視察とその印象)
P373 穏やかならぬラモントの中国視察旅行と比べると、帰途の1920年に日本まで足を延ばした旅は、はるかに楽しいもので、これがきっかけで日本と親しい関係が生まれた。当時の日本は、すでに<アジアの英国>と呼ばれるほどで、ラモントにすれば最高の投資推奨対象であったし、日本とアメリカの両国が太平洋地域で優勢になるにつれ、従来より緊密な金融関係を結ぶべき時機が到来していた。
日本も合衆国と同様、大戦中に船舶や軍需品を連合国に売って大いに繁盛し、その金準備は百倍にも増え、アメリカにとっては第四位の大きな輸出国となっていた。
政治情勢も幸先よく、ラモントの出会った当時の日本には、欧米の銀行家たちと進んで交際を求め、新しい外国勢力に国の門戸を開放したがる、リベラルな考え方の人々がいた。その頃は、開明的な貴族階級が軍国主義者たちを押さえていた。日本経済を支配して
P374 いたのは、財閥--つまり核となる銀行のまわりに集まった商社と企業の複合集団--で、急速に海外へ進出しつつあった。そして、日本と英国との長年の同盟関係が弱体化するにつれ、その穴をアメリカ合衆国が変わって埋め始めていた。
(略)
第十三章 ジャズ・エイジ P405-427(tw)
P412 モルガンのパートナーの一般的なタイプはどうかというと、白人、男性、共和党支持、聖公会信徒、英国文化崇拝者で、東部有名大学のアイビーリーグ出身にして、先祖が東部沿岸部諸州、といったところだった。非常にうるさかったのは、おそらく宗教だったろう---当時は黒人が銀行業界入りすることは考えられなかったので、人種は問題にもならなかった。
宗教のなかでもユダヤ教徒は厳禁だったが、ウォール街の別のどこかに就職する機会はあった。ユダヤ系投資銀行が、名門ヤンキー系銀行が卑しんで手をつけない、小口の引受け業務で結構商売を続けていたからだ。たとえば、リーマン・ブラザーズ商会は、R・H・メイシーとギンベル・ブラザーズの両百貨店を抱えており、モルガン一族に次ぐほどの富裕な生活を営むユダヤ人銀行家も一部いた。
しかし、第二次世界大戦後まで、ユダヤ人がモルガン財閥の固い壁を破ってパートナーになることはなかった(ロスチャイルド家は例外?参照『赤い盾』P56-)。一九二○年代のウォール街では、カトリック教徒は、きわどいケースであって、大口金融中心の銀行に入社するのがユダヤ人より難しい例もよくあった。
新教徒に冷たくあしらわれたこの人たちは、おのずから証券市場の投機の世界に走ったので、<ジャズ・エイジ>の向こうみずな相場師には、不つり合いなほどに旧教徒のアイルランド人が多かった。相場表示機から出てくるテープと電話を武器に、ウォールドーフ・アストリア・ホテルに陣取って活躍した相場師のジョー・ケネディは、その典型で、株買占め連合を組んで一財産をつくったが、それでもモルガンに受け入れてもらえなかった。
ある日、彼は同商会の冷たい態度を打ち破ろうと決意して、ウォール・ストリート二三番地の玄関を入ってジャック・モルガンに面会を求めた。だが、モルガン氏はいま多忙でお会いできない、とそっけなく言われて追い返されてしまった。カトリック教徒であることに加え、株の相場師という二重の負の烙印を押されていたからだ。
エドワード・ステティニアスは、確かにモルガン商会に籍を置いたカトリック教徒として最もよく知られていたが、その彼でも、いったんは妻の属する聖公会のの一員になり新教徒に改宗したものの、のちに再びカトリックに戻っている。
ステティニアスは一種の記録魔であって、一九二○年代のパートナーの生活を詳細に書き残した。それによると、この人はパーク・アベニューの自邸で人々を盛大にもてなし、P414娘の社交界入り舞踏会に三百人もの客を招いた。同家の酒蔵には、大げさに言えば戦艦一隻を浮かべるに足るほどの、一千本を超す各種の高級酒が蓄えられていたほか、一度に六千本ものハバナ葉巻を注文して取り寄せたものだ。車六台に加え数軒の邸宅を持っていた彼は、基本的な生計費だけで年間二十五万ドルかかった。
(略、トム・ラモントらパートナーたち上流階級の日常が描かれる)
P419 ジャックとジェシーの夫妻は、ともにイングランドが好きで、毎年、春と夏に英国を訪れた。ロンドン市内には、グロウブナー・スクエア一二番地にタウンハウスがあったほか、プリンセスゲート一三番地のタウンハウスもあったが、後者は英国駐在アメリカ大使公邸として合衆国政府に父の遺言で贈られた。
のちの第二次世界大戦中に、駐英大使になったジョー・ケネディがここに住むことになり、待望のモルガン財閥の中に裏口からやっと入り込むことができたわけだ。
(略、ジャックの話)
第十四章 力の逆転 P428-451
P434アメリカ側のモルガン商会パートナーたちは、英国を金本位制に戻すことこそ自分たちの神聖な任務と考え、それに協力した。一九二三年九月、パートナーになったばかりのレフィングウェルはジャックに、英国が金本位制に戻る「私のこの夢」のために、「イングランドがこの大混乱から抜け出すのを全力を尽くして助ける」つもりで、「アメリカと英国がしっかり腕を組み合って立派な通貨を守ることほど、勇気づけられることがありえましょうか?」と語っている。モンティ・ノーマンもモルガンのパートナーたちも、為替相場が金と結び付けられない場合、政治家の手で勝手に操作される、という点を心配した。そうなったら、健全財政が政治的ご都合主義のとりこになりかねず、インフレと紙幣の増発に向かって進むばかりだ。
すでにそうした異端の説をケインズが述べ出していた。レフィングウェルはジャックに、「ケインズは…金本位制を永久に廃止して、代わりに一種の“管理”通貨制度を採れと提案しはじめています…あんな時流におもねる経済専門家どもの知恵に経済の運営をまかせるよりは、何らかの基準を設けた方が、ずっとましです」と警告した。
一九二四年末になって、ノーマンは、金本位制の実施の信念がぐらついたので、自信を固めるために、ジャックとベン・ストロングの二人に会いにニューヨークへ行った。
ジャックは、英国が金本位制に復帰できなければ、これまで何世紀も通過を堅実に運営してきた実績と権威が無駄になる、と熱心にノーマンに説いた。またアンドルー・メロン財務長官も、J・P・モルガンとニューヨーク連銀が英国の金本位制への復帰を支援する努力を認める、と伝えた。
P435モルガンの協力は不可欠だった。英国ポンドが通貨市場で従来より高い価値を維持するには、アメリカ・ドルがあまりにも強すぎてポンドの競争力を脅かしてはいけなかった。
そうでないと、投資家たちがポンドを売ってドルを買い、ポンドの価値を元通り低く落ち込ませることになる。だから、ノーマンがロンドンの金利を高くして外からの資金をポンドに引き入れるか、それともストロングがニューヨークの金利を低く維持してドル買いを不人気にさせるしかなかった。
モルガン財閥としては、英国側の高金利を主張した。ところが、モンティに義理堅い友人のベン・ストロングは、アメリカ側の金利を一方的に下げてしまった。これはほんのちょっとした技術的問題では済まされなかった。
事実、一九二九年の株式大暴落を引き起こす原因になった、と一部の人々から非難されることになる。
ストロングは、ノーマンかと結託していると当てこすられるのをいつも気にしていたので、政治的隠れ蓑としてモルガン財閥をこの金本位制復帰工作に巻き込みたがっていた。
J・P・モルガンの利用価値は、他にもあった。英国政府としては、ひょっとしたら起こりかねない通貨投機からポンドを守るために、巨額のドル借款を必要としていた。
ストロングのニューヨーク連銀は、法律によって、他国の中央銀行へは貸し付けられたものの、他国政府--たとえば英国大蔵省へはそうできなかった。だから、ストロングがJ・P・モルガンを道ずれにすれば、イングランド銀行と大蔵省の双方に資金を提供できるわけだった。
P436 一九二五年当時の英国の大蔵大臣は、のちの首相のウィンストン・チャーチルだった。金融のこととなると五里霧中の彼は、自分が不適任だとひそかに漏らしていたほどだったから、くせ者のノーマンにとっていいカモだった。
チャーチルの息子の回想によると、ノーマンはよくやって来て、「あなたをきっと素晴らしい蔵相にしてみせますよ」と調子よく言って、ウィンストンを有頂天にさせたという。
グレンフェルはチャーチルを嫌い、「生意気で、うぬぼれの強い小僧っ子」とひそかにけなした。一九二○年代は、マーチャント・バンカーがまだイングランド銀行の理事を独占していた時代だったので、ノーマンもグレンフェルも、金融・財政上の意思決定をマーチャント・バンカーに一任するような、自分たちの言いなりになる政治家を望んだ。
一九二五年四月に金本位制復帰が発表される直前まで、チャーチルが勝手に馬鹿なことを仕出かすのではないかと、グレンフェルは気が気でなかった。「いまのところ、彼(チャーチル)は、こちらのいう通りに動いているが、もう独り立ちできると考え、経済問題はわかったと思い込んだ瞬間、何か無分別なことを仕出かして、われわれを困らせるかもしれぬ」と、グレンフェルは当時のある手紙に書いている。
昔のポンドの威信を取り戻そうとした一九二五年の金本位法の制定は、途方もない誤算であった。P437金本位制に戻るに当たって、一ポンドが四ドル八十六セントという、大戦前の非常に高い為替レートをノーマンが望んだために、致命的となったのである。
そんな高いレートでは、英国産業界が世界各国の輸出と競争できなかったし、ノーマンが英国の雇用情勢にあまりに無頓着すぎる、とレフィングウェルでもそう思った。ケインズも、これでは英国の産業が弱体化して賃金の急激な低下は避けられず、通貨が強くなっても無意味だ、と考えた。
この警告に共鳴する英国の企業経営者は多く、いらいらしたノーマンがノーマンがこの為替レートを撤回しそうになったので、最後にもう一度尻押しする必要が出てきた。「あなたが依然、全面的に支援している、と総裁(ノーマン)を安心させてやった方がよいと思う」とグレンフェルがそうジャックに打電した。ジャックは、そのとおりにした。
一九二五年四月二十八日、ノーマンを貴賓席に迎えた英国下院で、チャーチル蔵相が英国の金本位制への復帰を宣言した。ニューヨーク連銀はイングランド銀行に二億ドル、J・P・モルガン商会は英国大蔵省に一億ドル、それぞれ信用を供与した。
幸い、ポンドの価値が上昇したので、ポンドの思惑売り攻勢は実現せず、実際にドルを借りる必要はなかった。同年十一月には、外債発行禁止の解除がチャーチルによって発表された。関係者たちは、自己満悦の気分だった。
ジャンクの友人で英国首相のスタンリー・ボールドウィンは、ニューヨーク連銀総裁のベン・ストロングとモルガン商会の両者を「金融財政能力と厳正な倫理観の点でこれ以上高い位置を占めることのない者」と褒めたたえた。
P438 しかし、英国内の左翼勢力は、英国産業に対する脅威と結局は不必要だった融資をいつでも用立てる態勢をとったことに対しモルガンが請求した一%以上もの手数料にいきりたった。グレンフェルは、これに反論したくてたまらなかったが、チャーチルの説得されて思いとどまり、モルガン関係者の長年身についた居場所---つまり舞台裏に引っ込んだ。
やがて、ケインズが抱いた最悪の懸念の数々が正しかったことが立証され、英国の石炭、繊維、鉄鋼が次々に国際競争力を失っていった。金本位制は、英国を復活させるどころか、逆にその衰退に拍車をかけるかに思われた。
ポンドの価値上昇につれて、逆に賃金を引下を求める圧力が予期されたとおりに生じ、一九二六年の晩春頃には、英国が炭鉱ストとゼネストに見舞われた。この騒ぎの最中にベン・ストロングがロンドンを訪問して、チャーチルとノーマンに会ったが、みんな金本位制の話には触れなかった。
モルガン財閥がこうしてポンドから別の国の通貨の安定に関心を移したとき、接近した相手国は、一九二五年のリラの価値急落に慌てていたイタリアだった。この国では、ベニト・ムッソリーニのファシスト政権を握ってすでに三年が経っていた(tw)。
ベン・ストロングとモンティ・ノーマンの両者は、イタリアの通貨安定のための借款には賛成だったが、首領と呼ばれたムッソリーニ自身については不安を抱いていた。
P439ところが、トム・ラモントは、ムッソリーニをもっと楽観的な目で見ていた(相参1,相参2)。ニューヨークの政界では、ラモントは、自由主義者の評判が高かった。息子のコーリスによると、「父は、本質的に自由主義者で、国際問題の面ではことにそうだった」という。
コーリスは、ラモント家の何事にも寛容な気風をたたえ、多数の有名人や知識人が自由に出入りする自宅を<インターナショナル・イン>と呼んだほどだ。
(略)
第十五章 聖者 P425-471
第十六章 株式大暴落 P472-502
P493 翌二十四日午前、アメリカ訪問中のウィンストン・チャーチルが、ニューヨーク証券取引所の見学者席に立った。この二週間ほど前に、彼は、一九二五年の英国の金本位制復帰を助けてくれたモルガン商会パートナーたちと昼食を共にしていた。いま彼が見下ろす立会場の光景の原因が、もとはといえば、アメリカに金利引き下げを求めた、一九二五年のあのときの決定にあるとまでたどる人々は多かっただろう。立会い開始から二時間足らずで、帳簿上では約百億ドルがふいになった。
下落ぶりがあまりにひどく、それを反映して場内に恐ろしい悲鳴が上がったので、見学者席は昼過ぎに閉鎖された。
(略)
第十七章 大恐慌(相互参照) P503-542
P502/ 504/ 506ホーリー・スムート関税法(tw)/ 508/ 510/ 512/ 514/ 516/ 518/ 520/ 522/ 524/ 526日本とのかかわり(1920年代末-1930年代前半)P528-542(相互参照)
P530
P532 奉天攻撃に端を発した満州事変(相互参照)に驚いたヘンリー・L・スチムソン国務長官は、ただちに日本に抗議し、フーバー大統領はのちにこれを「紛れもない侵略行為」と呼んだ。アメリカの金融界が説明を求めたので、蔵相たる井上は声明を発表せざるをえなかった。当時の井上は、政府の先頭に立って満州の兵力増強に反対していたので、危険な立場に置かれていた。また、軍事費削減要求の張本人とも目され、かねてから軍部の恨みを買っていた。
井上はアメリカの金融界を慰撫するために、驚くほど巧妙な文面の声明を出した。ニューヨークタイムス紙が10月22日の紙上にこの全文を掲載した。注意深い記者なら、パナマ運河との類似点の巧みな指摘、ダニエルウェブスターの言葉の引用、そしてアメリカ人の感受性をしっかり捕らえている点などに感心させられたに違いない。その一部を引用すると、次のとおりである。
満州における現在の事態を明確にご理解頂ければ、問題がまったく自衛措置にすぎないことは明らかである。南満州鉄道という重要な神経の走る、細長い、一片の領地は、1904~05年の日露戦争のとき以来現在に至るまで、条約に基ずく取決めによって日本の完全なる管理下にある。中国が然るべく承認し受け入れたロシアとの条約に基づいて、日本は、この<南満州鉄道地帯>を管理している--つまり、合衆国政府がパナマ運河地帯を警備し保護しているのとまったく同様に、警備し保護しているのである。この新聞発表文を実際に起草したのは、他ならぬトム・ラモントだった。日本の大蔵省は字句を少々手直しただけで、そのまま発表された(右の声明の一部は、ラモントの保存資料にある原文から引用した)。日本側は、アメリカでの声明の発表もラモント自身にしてもらいたがったが、
去る9月18日、この地帯に対し正規の中国軍部隊によって夜襲がかけられ、鉄路が破壊された。日本としては、強硬手段をすみやかにとる必要があったのは明らかである。一国の軍隊の保護下にある地点が正規の軍隊に侵攻され、しかも侵攻の恐れの程度がまったく不明である場合、明らかな防衛手段は、直ちに侵攻を侵した軍隊の本拠に向かって進むことである。今回の緊急事態は、ウェブスター氏の典型的な言葉どおりに「差し迫った、抗し難い、手段選択の余地のない、しかも熟考の余裕のまったくない」事態であった。
P534 そうするとモルガン財閥が一方に偏っていると受け取られ、中国人の気分を害しかねない、と答えて断った。声明文を書いたのが自分だと知れると、アメリカのリベラル派内での自分の名声に汚点がつく、とも恐れたのだろう。ただし、日本側の意をある程度満たそうとして、「声明発表の日を知らせてくれれば、当地でそれがとくに世間の関心を集めるよう手配しよう」と井上に伝えた。
ラモントはここまできて、自分がワシントンの公式政策とまったく対立してしまったのに気づき、ジレンマに直面したが、こうした危険は銀行家兼外交官という彼の役割につねにひそんでいた。
なぜ彼は、外国勢力と共謀までして、合衆国政府と国際連盟の非難する軍事行動を弁護したのか?
なぜ、彼が満州事変についての日本側の主張を額面どおりに受け取ったことなどありえようか?
これが仕組まれた事件、前もって計画された侵攻であるとの噂は広まっていた。
ロンドンのタイムズ紙が事件の直後の九月二十一日に報じたが、日本軍は奉天攻撃の三日前に、侵攻に備えた「総ざらいけいこみたいなこと」を実施していたし、「すべての行動が事件の発生以前に計画されていたというのが真相だ」ったのである。
要するに、まともな人なら首を傾げざるをえないような、うさん臭い証拠がふんだんにあった。それに加え、日本政府は軍部の傀儡に化しつつあるとの印象がアメリカ社会にははっきりあった。
そうなると、ラモントの日本に対するまめまめしさは理解に苦しむ。
P535モルガン財閥が昔から中国嫌いだったから、日本の奉天攻撃に共感を示したのだ、ということで、確かに大方の説明はつく。たとえば、ラッセル・レフィングウェルは、ウォルター・リップマンに宛てた手紙で、奉天の件で怒るのはまったくお門違いだ、と次のように述べている。
「国際連盟にせよアメリカにせよ、襲撃した中国側の味方について問題に口出しすることは奇怪なことだ。中国は、国民をこれまで長い間ずっと戦乱と不安と悲惨な状態に置き去りにしたまま、赤色ロシアの側について日本と対立してきた(相互参照)。ムッソリーニに協力したことと並び、この奉天事件は、ラモントの生涯で最も悔やむべき異例な出来事だった。彼は、モルガン伝統の、とびきり面倒見の良さを日本側に痛感させようとしたのだろうか?
その日本は、条約上の諸権利に従って、満州の秩序維持に当たり、恐怖にかられた中国人たちに唯一開かれた安全な避難所を提供しているのだ」
それとも、ただ自分たちが引き受けた日本の債券の価値を維持させんがために、ああしたのだろうか?いずれにせよ、日本政府内での井上の微妙な立場をなんとか支えたかったことだけは間違いない。
事実、同年の十一月、ラモントは日本側に対して、井上が--軍部の望むとおり--閣外へ追放されることになったならば、ウォール街とシティの態度は「はっきり冷たくなる」と警告した。
だが、井上が軍部をなだめる必要を感じていたとするならば、なぜラモントは井上に協力してそうしたのか?
P536ムッソリーニ相手のときと同様、ラモントのやっていることは、モルガン家の受けをよくする単なる売込み努力の域を超えて、外国勢力のための宣伝活動に近づきつつあったのだ。
換言すれば、取引先に絶対誠意を尽くすという<紳士銀行行動規範>のおかしな新しい応用ともいえた。有価証券を引き受けることなら、どんな投資銀行でもできたが、政治家に働きかけ、新聞論調を形成し、世論を動かすことまでできたのは、ラモントだけだ。
満州事変をめぐるこの新聞発表文の一件は、銀行家に外交官みたいな役を演じさせると、企業に対するのと同じ独占的取引き意識を外国政府に対しても抱かせる危険があるのを露呈し、<ドル外交の時代>の政治と金融の関係をあいまいにさせる恐れを強めた。
ラモントは、奉天事件にまんまとだまされたとわかると、自分の抱いた甘い見方をかなぐり捨てるのも早かった。一九三一年十二月、前ほど自由主義的でない内閣(犬養)が登場して、井上が更迭され高橋是清が後任蔵相になると、高橋はただちに金解禁を再び禁止した。
そして翌一九三二年一月末、人口の密集した上海郊外の中国民間人に日本が爆撃を加えたことで、世界が震え上がる上海事変が起きた。
日本は今度もまた、中国側が挑発したと責任をなすりつけた。だが、日本が行った残虐行為の証拠は、満州事変のときよりずっと生々しく、ふんだんにあった。身の毛もよだつ大量虐殺の光景を撮ったニュース映画が、アメリカ国内の映画館で上映されたからだ。
ラモントはすっかり狼狽して、この分だと日本はもうアメリカ市場で資金を調達できないぞ、と横浜正金銀行の園田三郎に手紙を書いたほどだ。
P537モルガン財閥にとって上海事変は 、ゆっくり迷いがさめる始まりだった。正気を取り戻したレフィングウェルはロンドンのテディ・グレンフィル宛に、「正直言って私は、満州での日本人の立場には大いに同情したが、上海の件では同情などまったくしない」と書いた。
ラモントに追い打ちをかけるように、今度は、日本の右翼テロ--すでに一九三〇年に浜口首相を狙撃し、その翌年に死に至らしめた--が、金融界に襲いかかり、一人また一人、ラモントの友人が殺された。
上海で戦火が広まっている最中の一九三二年二月、ラモントは日本の園田から、「謹んでJ・イノウエ氏が暗殺されたことをお知らせします…偉大な光明が目の前から消え去り、わが愛する祖国が暗黒時代に転落するかのような思いがします」という電報を受け取った。
井上準之助は、民政党総務として総選挙運動の陣頭に立ち、次期首相と目されていたが、二十二歳の青年に胸を撃たれて死亡した。暗殺犯人は、超国家主義組織の血盟団の一員で、農村の貧困は井上のデフレ政策のせいだと自分の犯行を正当化した。
ラモントはいたく心をかき乱された。なんといっても、伝統ある日本の名家と自由主義分子が手を結んで軍部を押さえられるとの希望を持たせてくれたのは、井上その人だったからだ。
すぐに感動的な哀悼の手紙を園田に送って、「あれほど教養ある紳士だった彼が、このような結末を迎えようとは、まったくもって不可解に思える」と書いた。
P538それから数週間して、ラモントのもう一人の友人で、一九二〇年の訪日の際に自邸で歓待してくれた三井合名理事長の團琢磨が暗殺された。犯人は、同じく農村出身の青年で、血盟団に属していた。
團男爵殺害は、三井財閥に対する一種の報復であり、祖国を裏切るドル買いで不当利益を得たと、同財閥はかねてから右翼の非難の的になっていたのだ。
英国が一九三一年九月に金本位制を廃止してから、三井など各財閥系銀行は、日本円も同様に金本位をやめ、円の価値切下げを事実上迫られるとみて、猛烈な勢いで円を売りドルを買い始めた。
こうした外国為替取引は、三井に推定五千万ドルの純益をもたらした。だが、自国通貨の円に不利な投機に走ったとの激しい非難を、愛国的な右翼から招く結果にもなった。
過激な政治的風潮の高まる中で、井上や團を殺した暗殺犯に同情する日本人が多く、犯人たちは寛大な判決を受け、数年で出獄した。
ラモントは、これまでの過ちを簡単には認めず、大事な取引先の日本をどう見捨てたらよいかもわからなかった。この頃には、日本の政治の急激な右旋回がはっきりしていた。
関東軍は、満州全土を侵略し、一九三二年三月に清朝最後の皇帝だった溥儀を日本側の言いなりになる執政に据えて、満州国なる傀儡国家をつくり上げた。満州事変、上海事件、井上と團男爵の暗殺事件--これら一連の出来事で、ラモントの蒙は当然啓かれていたはずだった。
知らぬ存ぜぬでは、もはや通らなかった。一九三二年初め頃のラモントはの保存資料を見ると、P539日本人に対する深い失望感が明らかで、上海事件の過ちを繰り返すなと日本側に強く警告しており、ウォール街に残っていた対日同情感もこれで撃ち砕かれた。
にもかかわらず、奇妙なことに、その年の春、ラモントはモルガン商会の広報責任者のマーチン・イーガンとともに、ふと再び親日的姿勢に舞い戻った。
二人は、元海軍大将、台湾総督の樺山資紀の孫で、プリンストン大学で教育を受けた樺山愛輔伯爵と親しくなった。そして、ムッソリーニと同様、日本もアメリカ国内に情報宣伝機関を設けるよう勧めて、イタリア政府のためにやった自分たちの仕事の成果を大いに吹聴した。
イーガンは、満州国の情宣活動を打ち合わせるため訪日したが、帰国したときは、ラモント宛のメモを見ると、戦争行為の責任を中国側に帰して、まるで日本の軍国主義者みたいな発言をしていた。
こうなるとモルガン財閥は、アメリカか日本か、どちらの主人に仕えているのか、もはやわからなくなった。一九三二年五月十五日、またもや政治家暗殺事件が起きて、日本に汚点を加えた。
犬養毅首相が、官邸で海軍青年将校ら九人の手で射殺されたのだ。このいわゆる五・一五事件の後を受けて、斎藤実海軍大将が首相に就任し、日本の政党政治に終止符が打たれることになる。
一九三二年秋、井上蔵相に代わって自分が書いた新聞発表文がまったく内容空疎な宣伝文にすぎなかったことが判明して、ラモントは、満州事変をめぐる不愉快な真相に直面せざるをえなくなった。
P540国際連盟がリットン調査団を極東に派遣したが、ラモントの部下のヴァーノン・マンローが調査団の一員のフランク・マッコイ将軍とある夜、夕食を共にした。
翌日、マンローはラモントに、「将軍によると、(中国側による)鉄道爆破説には重大な疑問があり、爆破があったとするなら、その直後に列車が定時どおりに走り続けたのはなぜかを日本側は説明できず、日本側が説明しようとすればするほど、いっそう矛盾に陥った、という話でした」と報告したのだ。
その一か月後にリットン報告書が発表され、日本の侵略を国際連盟規約に違反するものと非難し、満州国に傀儡国家の烙印を押した。日本は、国際連盟を脱退し、厚かましくも満州に対する支配を強めた。
事態がここまでくると、ラモントは、はたと途方に暮れた。矛盾する証拠に圧倒されながらも、日本側の意図の正しさ信じ続けたかった。自分の考え方を整理しようとして、<極秘>と上書きしたメモをまとめたが、それを読むと現実離れした人間の姿が浮かんでくる。
日本側の動機についてアメリカ側の抱く疑念を要約すると、日本はアジア大陸の侵略を計画しており、しかも合衆国との戦争をも求めているかもしれない、ということになる---この疑念は間違っている」と書き綴っている。
そして、そうした誤った認識を是正するために、貿易と平和的関係を求める合衆国・日本の共同宣言を出すよう勧告している。結論は、すさまじい大風呂敷を広げて、「そうした共同宣言が出され、戦争の噂がすっかり鳴りをひそめるならば、人々の心理は一変して、両国間に生ずるどんな問題を容易に解決できるようになる」と述べている。
P541だが、日本がいまにも文民政府に戻るとの信念を持ち続けることが、ラモントにはだんだん難しくなってきた。満州の支配者たる日本軍部は、巨大なダムや産業を築き上げて戦争準備態勢を強化していった。
新しく蔵相になった高橋是清(相互参照)は、軍事費を国家予算の半分近くまで引き上げた。一九二〇年代の自由主義政治は、その先頭に立った提唱者たちとともに死んでしまったのである。
一九三四年になってラモントは、急に心変わりを経験した。ひとたび自分の蒙が啓かれるや、日本にいままで騙されていたのだと考えたから、日本に対する信頼は敵意に変わったのだ。
日本の文化団体への寄付を打ち切り、訪ねてくる日本人名士たちを鼻であしらい、アメリカの平和的態度を臆病の表れと誤解するするな、と日本の総領時に警告した。
また、英国政府が日本との同盟関係の更新を考えているらしいとの噂を耳にすると、その動きに反対する政治工作に出た。その中身が英国政府筋に伝わるのを見越して、日本を激しく非難する手紙をロンドンのテディ・グレンフィルに送った。
一部を引用すると、「今世紀の最初の二十年間存在した、公正で自由主義的な(日本の)政府に代わって、軍閥が台頭しており、この一派は…日本の自由主義分子の説明が正しいならば、ドイツのナチ党の若造どもがやっているのと同じことをたくさんやっている」とある。
日本軍部は、中国北部の各地を併合し続け、その行動は最高潮に達して、一九三七年の
P542日華事変と南京虐殺事件(tw)による何万人という民間中国人の大虐殺を迎える。
これは、モルガン財閥の中国との関わり合いにとっていかにもみじめで、皮肉な結末だった。両者の関わり合いは、日本の満州侵略を防ぐ緩衝役をアメリカが果たそうというウィラード・ストレートの夢で始まったが、結局はモルガンの上席パートナーたる者が日本のその行為の弁解役を務めることで終わったわけだ。
第十八章 聴聞会 P543-589(相互参照)
P542/ 544/ 546P548 モルガン財閥は、ピアポントの時代以来の家族主義的経営を維持してきた。社員が二〇%も大幅減俸されたとき、これはパートナーたちの歩合年収よりも先に元に戻すと説明された。
社内食堂が閉鎖されると、代わりに現金で昼食代が支給されたし、社員の家族には毎年二週間、メイン州の社の保養所を無料で使用させた。ロンドンのモルガン・グレンフェル商会の社員たちには、ジャックからロンドン郊外にテニスコートなどのついた運動場が寄付され、大恐慌時の手持ち無沙汰が少しでもまぎらわされた。
こうした心遣いが、社員の間に強い愛社心と一致団結した親密な関係を生み出した。そういうわけで、モルガン財閥の者たちが大恐慌期に味わった苦労は、実際あったとしても、他の各社の多数の人々の筆舌に尽くせぬ苦労と比べれば、ごくささやまなものだった。
ここで一九三二年の政治状況を検討してみよう。一九三三年銀行法、またの名をグラス・スティーガル法を生み、モルガン財閥の分割の端緒となったのは、いずれもこの年だったからだ。
最初にウォール街を相手に戦い、聴聞会を開いて銀行業を規制する新しい立法を促したのは、他ならぬフーバーだった。フーバーのモルガン商会の友人たちとのつき合いには、いつも少々被害妄想的なところがあった。
P549フーバーは、鉱山技師だった頃からモルガン財閥とは関係があり、一九一七年には、アフリカで金鉱山を営むサー・アーネスト・オッペンハイマーが自社の株式公開を望んだので、モルガン財閥に引き合わせた。
資料によると、ラモントがこれを機に、フーバーの才能を引き出して鉱山業相手の商売に手広く乗り出そうとしたが、フーバーがその意に背いたという経緯があった。
これ以外にも、モリガン側とフーバーとは、考え方が基本的に対立する運命にあった。当時の連邦議会は、ヨーロッパの厄介な問題に関わりたがらず、英国から経済的主導権を引き継ぐことに関心がなく、これにフーバー大統領が拘束されて身動きならない面があった。
これに対して、モルガン財閥はモルガン財閥で、ヨーロッパの取引先を大事に守らねばならなかったうえに、そもそも国際協調というモルガンの社是が、孤立主義色の濃い共和党政権を代表するフーバーにとっては問題だった。
また、フーバーが無愛想で面白味のない性格なのに対し、モルガン商会パートナーたちは物柔らかで鷹揚な人柄だったので、個性の面でもお互いにしっくりいかなかった。
一九三二年七月、世界経済がやっとドイツの賠償と連合国の戦時債務という二つの重荷から脱却したかにみえた。ローザンヌ会議でヨーロッパ諸国首脳が、債務問題に事実上りをつける紳士協定に達し、戦債を完済しなくてよいなら賠償支払いの請求をやめてもよい、
P550 ということになったのだ。大喜びしたラモントは、ベルサイユ講和条約以来の経済戦争がこれで終わるとみて、ホワイトハウスに部下のマーチン・イーガンをさっそく派遣し、戦債を即座に帳消しせずにひとまず再検討する方針をとるようフーバーに助言した。
ワシントンから戻ったイーガンの報告だと、大統領は、いつになく感情的になり、広まる国民感情を反映して、「ラモントは、この問題をまったく誤解している」と次のように強調した。
「アメリカ国民がいま好まず、今後も認めないものが一つあるとすれば、それはこの二つの問題を結びつけることだ…国内に上げ潮のように押し寄せる国民の怒りが、ラモントにはわかっていない…これでドイツ賠償問題は解決するかもしれないが、そのやり方ときたら最低だ」。
フーバー大統領は、どうしても戦費支払いの一年間凍結をそれ以上延長したがらず、フランスと英国の要請を蹴ってフランスを債務不履行状態に追い込んだ。このようにして、ヒトラー登場の直前、連合国側は、戦時債務問題という古証文をめぐって内輪もめを続けていた。
(略)
P552
P554 一九三三年一月、聴聞会を主宰する上院銀行・通貨委の小委員会の法律顧問にファーディナンド・ペコーラが任命されると、その名をとって<ぺコーラ聴聞会>と呼ばれた。このぺコーラ聴聞会の設立が、グラス・スティーガル法とモルガン財閥分割へ直接つながることになる。
一九三二年秋、フーバーは、大統領在任中で最後の不面目な目に遭った。銀行倒産危機がアメリカ全土を見舞ったのだ。
一九二九年秋の株価大暴落から三年越しの不況のせいで、融資の際にとった担保の価値ががた落ちしてしまい、銀行が融資を取り立てたため、景気がさらに悪化し、取付け騒ぎや支払い停止の銀行がどんどん増えたからである。
一九三二年以前なら、何千という銀行閉鎖の例は主として田舎の中小銀行に限られたが、一九三二年十月のネバダ州の州免許銀行閉鎖をきっかけに、各州でばたばたと銀行閉鎖が相次いだ。
<閉鎖>とずばり言うのを避けて、<休日>という婉曲な表現が用いられたが、各地への伝播があまりに急速だったので、フランクリン・D・ローズベルト大統領が就任する翌春までに、銀行閉鎖は三十八州に及んだ。
フーバーが敗北した一九三二年十一月の大統領選挙から翌年三月のローズベルト大統領の就任式までの間は、国政が麻痺する一方でフーバーとローズベルトの対立が激化した。
いらいらし、孤立感に悩むフーバーは、ローズベルトの協力を得られないまま新しい施策をいっさいとらなかった。
P555一方、ローズベルトは、大統領に正式に就任して全権を握るまで静観を決め込んだ。モルガン商会にとって、これは一大事の到来だった。それまで三代にわたった共和党政権下で、モルガン商会は、他のどの銀行よりもワシントンに自由に出入りできる機会に恵まれてきた。
フーバー大統領などは、電話一本で呼び出せる相手だった。ところが、いまや政権が共和党から民主党へくるりと一回転したため、モルガン商会は、みずからの存立に対する脅威を取り除こうと必死だった。
これより先の一九二九年頃に早くも、フーバー大統領が商業銀行業務と投資銀行業務とを分離する考えを出していたが、いまやそれが確固たる形をとってきた。まず、一九三○年にカーター・グラス上院議員提案の銀行法案の中に登場し、次いで一九三二年の大統領選挙で民主党側の政策綱領に盛り込まれた。
一方、モルガン商会内では、<空売り>退治を始めたフーバーの大統領退任を悼む者は一人もいなかった。ラッセル・レフィングウェルとパーカー・ギルバートの二人は、共和党色の強い車内で民主党支持の少数派を形づくり、ローズベルトに投票した。
もはやFDR、つまりフランクリン・D・ローズベルトがモルガンの敵として登場しないだろうことは、自明の理だった。
その出身や経歴からみて、FDRは、フーバーよりもはるかにモルガン好みのタイプだった。レフィングウェルは、財務省勤務の頃に同じく海軍省にいたFDRをよく知っており、
P556 FDRが進学校のグロートン校からハーバードに学び、由緒正しいオランダ移民の先祖を持ち、ウォール街で一流の法律事務所に勤めた点を力説した。そして、「鉱山技師上がりのフーバーによると、あの人物(FDR)はアメリカの諸制度にとり危険だというが、以上であの人物の経歴は終わり」と皮肉って締めくくった。
ラモントも、東六十五丁目通りのFDR邸を一時借りた関係からよく知っていて、大統領就任前から電話をかけたり、「親愛なるフランク」調の手紙をせっせと書きまくった。
大統領の交代する一九三二年秋から翌三三年春までの政治の空白期は、モルガン側とFDRとのよい関係を予想させた半面、警戒信号も感じられた。一九三二年の晩夏、レフィングウェルとFDRとの間に手紙の交換があって、このときはちょっとした形で済んだものの、のちにくる大きな反目の前ぶれとなった。
レフィングウェルが、カーター・グラス議員提出の銀行改革案を嘲笑う手紙を「親愛なるフランク」に送って、その中でFDRを自分と同じ価値観に立つ仲間扱いにする調子で、「あなたも私も承知しているとおり、本当にいるのかいないのかわからなぬ悪人を罰しても現在の不況は収められないし、こんな禁令や取締李では誰もうまく立ち行かない」と述べたのだ。
FDRは、レフィングウェルの意に応えるどころか、「私としては、銀行家のみなさん自身から、一九二七年から二九年までの間に確かに重大な行き過ぎがあった、今後は同様な事態の再発防ぐ方策を心から支持する、と認める言葉を頂きたいものだ」とまともにけちをつけた。
世間に代わって、
P557一九二九年の株価暴騰と暴落の過失の自認を迫ったわけだが、銀行家側はどうしてもそう認めたがらなかった。レフィングウェルのFDRへの手紙のとおり、「銀行家には、実際の話、一九ニ七~二九年間の責任はまったくなく、政治家の側にあった。それなのに、なぜ、銀行家がいつわりの告白をなすべきなのか?」という態度だった。
558/ 560/ 562/ 564/ 566/ 568/ 570/ 572/ 574/ 576/ 578/ 580/ 582/ 584/ 586/ 588