2018年4月29日日曜日

偏愛メモ 『モルガン家(上)』R・チャーナウ著

第6章 トラスト 二面性P192-198

P193 ただモルガン財閥は、金持ちのための社会主義を説いたから、貧乏人のための社会主義を唱える連中といつも一部似通った点があった。ピアポントと テディ・ローズベルトの考え方の似通ったもう一つの側面は、パナマ運河

P194 買収事件に見ることができる。ローズベルト大統領は、国内では行き過ぎた金融権力を厳しく非難する一方で、海外ではこれを有難く利用した。1902年、アメリカがフランス側から未完のパナマ運河を買収する資金として、連邦議会がローズベルト大統領に四千万ドルの支出権限を与えた。その二年後、ピアポント・モルガンは、この史上最大の不動産取引の資金面の責任者として、フランスへ行って支払の金塊の現送を監督し、残金を外貨で支払った。

また、これと前後してコロンビアから分離独立したパナマ共和国が、運河地帯の永久使用・占有・支配権と引き換えにアメリカから支払いを受けることになると、J・P・モルガン商会をパナマ政府のウォール街での財務代理人に任じたので、同商会はアメリカ政府からの支払金を一手に取り扱う権利を得た。(中略)

このように、ローズベルトとモルガンは非難攻撃し合っても、その背後にはいつもある程度有無相通じた動きがひそんでいて、両者が大きな敵意を抱いているかに見せかけたものの、実際はそれほどでもなかった。

         (中略)

P197 ピアポントの欲望をすっかり満たせる女性がいたかどうかについては、はなはだ疑問に思える。ピアポントには--礼儀正しい銀行家と極端な好色家--二つの側面があって、それを非常に苦労して一緒に結び付けていたが、一つのものに融合することはできなかった。そのため、女性に対する彼の態度は、いつも相手によって極端に違った。銀行内で女性を従業員に雇うのに厳しく反対し、女性とは商談もせず、まったく別世界の住人と見な

P198 した。ところが、自宅を訪ねてくる女性客にはまったく別人の態度で接した。ある女性の来客が、あなたの自宅ではとても面白い人なのに、職場では恐怖の的だという噂を耳にしたわ、とピアポントをからかったことがあった。ピアポントは、顔を赤らめて抗弁し始めたが、やがて「どうもあなたの言う通りかもね」と言った。

ピアポントにとって、結婚は思慮分別を必要としたが、貞節を要求しなかった。彼はかつて同僚に向かって「人間というのは、いつも自分のやることについての二つの理由--まことしやかな理由と本当の理由--をつけるものだ」と述べたが、ウォール街の良心を自認する人にしては、本心を打ち明けた言葉だ。



P220-222 連邦準備制度の必要性

P221 1907年恐慌の打撃から、恐慌のたびに太鼓腹の財界大物どもが救済に乗り出してハラハラさせられるのは、金融制度としては貧弱で頼りにならない、との認識が人々の間に強まり、今日の連邦準備制度を築く素地が生まれた。(中略)

P222 1910年11月、ディビスン(当時はモルガン商会のパートナーの一員に入っていた)らウォール街の投資銀行家たちが、マスコミ向けには「鴨撃ち旅行」だと称して、ジョージア州沖合にあるジェキル島のクラブに集まってひそかに協議した。ここは、ピアポントがよくお忍びで来る保養地だった。この秘密協議がもとになって、のちに無数の陰謀説が流れることになる。それはとにかく、ウォール街の銀行家たちはここで、各地域に準備銀行を設け、その上に商業銀行首脳からなる管理機関を置くという、民間主導型の中央銀行案をまとめた。(中略)

P223 オールドリッチ上院議員が1910年に中央銀行設置を求める法案を連邦議会に提出すると、野党の民主党がその成立を阻止した。それから三年後の1913年、民主党のカーターグラス下院議員がこれをたたき台に大幅な修正を加え、連邦準備法の素案をまとめた。民主党出身のウィルソン大統領は、国内十二の各地域に設ける民間準備銀行を中央の政策決定機関、つまり財務長官をはじめ大統領による任命者を含む、ワシントンの連邦準備局の下に置くように要求した。これらの要求が通って、連邦準備法は同年に制定された。

連邦準備局の誕生により、モルガン財閥の突出した巨大権力が削がれるだろう、と革新派は期待したが、事実はもっと複雑で、一筋縄ではいかなかった。逆にモルガン側が連邦準備制度をうまく操って、自己の権力を拡大するのに利用したからである。



P246-248 タフトとセオドア・ローズベルトの対立

P248 前述のピンチョット林野庁長官の解任に加え、こうした反トラスト訴訟が起こされたことによって、ローズベルトは、1912年大統領選挙で共和党から飛び出し、革新党を結成して出馬する腹を決めたのである。(中略)この1912年のタフトとローズベルトの対立は、ピアポントに銀行家としての倫理観を説いた男、つまり野党民主党のウッドロウ・ウィルソンを権力の座につける結果になった。



P250-262 プジョー小委員会聴聞会

P250 ウィルソン候補はその夏、モルガン財閥の産業支配と長年戦ってきた。法律家のルイス・ブランダイスから経済学の進講を受けるなどして、金融改革がウィルソンの選挙公約の重要部分を占めることになる。一方、リンドバーグ議員は、ウォール街の支配力集中について議会の調査を求める決議案を下院に提出した。その結果、1912年に下院銀行・通貨委員会の下に調査小委員会が設けられ、それには小委員長の名前にちなんでプジョー小委と呼ばれたが、ウィルソンが同年秋の大統領選挙に勝ってから、調査のピッチが上がってきた。

プジョー小委の調査は、ピアポントにとっていつも受難だったとされ、この公式の場での対決が彼の死を早めたといわれるが、父と同様、息子のジャックもその後遺症に悩まされ続けた。(中略)彼の手紙には新たに苦々しい調子が色濃く加わり、「わが二つの国(合衆国と英国)を動かす政治家たちは、狂気に取り憑かれているみたいだ・・・わが国はいま、憎悪と敵意と噂が渦巻いている」とロンドンのグレンフェルに書き送っている。(中略)

ジャックは最初のうちは、(中略)たかをくくっていた。ところが、1912年4月末P251やり手の法廷弁護士で、すでに金融トラスト批判の旗幟鮮明なサミュエル・アンタマイアーが小委員会の法律顧問に選任された。(中略)プジョー小委の聴聞会は、新聞記者、民主党、改革派など、一般大衆の不満をあおり立てる者すべてに対するジャックの敵意を高め、また、この体験で傷ついた彼は、民主主義というものに次第に幻滅していくことになる。

小委の聴聞会が始まった1912年12月、ピアポントは、ちょうど浮世の仕事から手を引いて引退を望んでいた頃だった。(中略)新しい<ドル外交の時代>を、迎え銀行業界に新しい責任が求められたので、従来よりもっと対外イメージに気を使う必要があった。J・P・モルガン商会としては、伝統的な寡黙な態度を投げ捨てて、広報活動に積極的に乗り出す方針に転じた。(中略)

P252 モルガン商会は個人経営の金融業者だったから、ピアポントとしては、世間に情報を公開する義務を感じなかったし、広報係も雇わなかったが、このとき、新しい考え方を持つ若いパートナーたちが積極的に広報活動を引き受けた。ピアポントの聴聞会出席に備えたコーチをディビスンやラモントが買って出ただけでなく、初めて広報係も採用した。新時代の銀行家の典型だったラモントにとって、これは絶好の機会だった。(中略)

P261 プジョー小委員会は、状況証拠はたくさんあったものの、共同謀議をなしているとの厳密な意味での金融トラストの存在は立証できなかった。むしろ、調査の結果として判明したのは、「J・P・モルガン商会が主唱者と認められる一握りの人々の手中に、信用と資金の支配」を集中した、一種の「利益共同体」が存在するということであった。(中略)

P262 プジョー小委の聴聞会は、モルガンの権力を脅かすと思われる直接の成果を一つ生み出した。ウィルソン大統領が1913年12月、連邦準備法に署名し、政府に中央銀行を設け、緊急時にモルガン財閥に依存せずに済むようにしたのだ。(中略)

それでもモルガン財閥は、ニューヨーク連邦準備銀行と巧みに同盟関係を結んだので、その後の二十年間にわたりこの新しい金融組織を実際に動かすことになる。

第11章 爆発 第一次世界大戦後 パリ講和会議での役割など P332-340

P334 第一次世界大戦に伴うユダヤ系投資銀行の退潮につれて、J・P・モルガン、ナショナル・シティ・バンク、ファースト・ナショナル・バンクの三行から成るヤンキー連合勢力が、ウォール街を牛耳るに至った。(中略)

P335 第一次大戦が終わると、金融界の外に対する風向きが変化して、経済と政治の混じり合った領域が生まれ、銀行家が政府の大使として働く例が増えてきた。この<ドル外交の時代>の到来は、モルガン財閥ではきわめて顕著にみられ、やがて同財閥は一種の影の政府に発展し、政府の政策と連携して行動することになる。(中略)

P336 ジャック・モルガンが性格から策を弄することができなかったのに対し、ラモントの政治的な考え方は柔軟で、民主、共和どちらの党の政治家とも話を合わせられた。(中略)

P337 彼のこうした度量の広さは、時には信念に欠ける無節操と変わらぬところがなくもなく、日和見気味の場合すらあった。国内経済の諸問題では、ありきたりの共和党的考えだったが、国際機関や市民的自由の問題となると、民主党の知識人層がウォール街にしては、<稀有な人物>と驚くほど、彼らの好みに合うリベラルな意見を抱いていた。

晩年には、ハーバード・フーバーと並んでフランクリンローズベルトといった、両極端の大物政治家をその親友のうちに数えたものだ。

第12章 彷徨 中国借款団そして日本とのかかわり(1920年代前半) P370-378

P373 穏やかならぬラモントの中国視察旅行と比べると、帰途の1920年に日本まで足を延ばした旅は、はるかに楽しいもので、これがきっかけで日本と親しい関係が生まれた。当時の日本は、すでに<アジアの英国>と呼ばれるほどで、ラモントにすれば最高の投資推奨対象であったし、日本とアメリカの両国が太平洋地域で優勢になるにつれ、従来より緊密な金融関係を結ぶべき時機が到来していた。

日本も合衆国と同様、大戦中に船舶や軍需品を連合国に売って大いに繁盛し、その金準備は百倍にも増え、アメリカにとっては第四位の大きな輸出国となっていた。

政治情勢も幸先よく、ラモントの出会った当時の日本には、欧米の銀行家たちと進んで交際を求め、新しい外国勢力に国の門戸を開放したがる、リベラルな考え方の人々がいた。その頃は、開明的な貴族階級が軍国主義者たちを押さえていた。日本経済を支配して

P374 いたのは、財閥--つまり核となる銀行のまわりに集まった商社と企業の複合集団--で、急速に海外へ進出しつつあった。そして、日本と英国との長年の同盟関係が弱体化するにつれ、その穴をアメリカ合衆国が変わって埋め始めていた。

第17章 ホーリー・スムート関税法 P506


第17章 大恐慌 日本とのかかわり(1920年代末-1930年代前半)P528-542

P532 奉天攻撃に端を発した満州事変に驚いたヘンリー・L・スチムソン国務長官は、ただちに日本に抗議し、フーバー大統領はのちにこれを「紛れもない侵略行為」と呼んだ。アメリカの金融界が説明を求めたので、蔵相たる井上は声明を発表せざるをえなかった。当時の井上は、政府の先頭に立って満州の兵力増強に反対していたので、危険な立場に置かれていた。また、軍事費削減要求の張本人とも目され、かねてから軍部の恨みを買っていた。

井上はアメリカの金融界を慰撫するために、驚くほど巧妙な文面の声明を出した。ニューヨークタイムス紙が10月22日の紙上にこの全文を掲載した。注意深い記者なら、パナマ運河との類似点の巧みな指摘、ダニエルウェブスターの言葉の引用、そしてアメリカ人の感受性をしっかり捕らえている点などに感心させられたに違いない。その一部を引用すると、次のとおりである。
満州における現在の事態を明確にご理解頂ければ、問題がまったく自衛措置にすぎないことは明らかである。南満州鉄道という重要な神経の走る、細長い、一片の領地は、1904~05年の日露戦争のとき以来現在に至るまで、条約に基ずく取決めによって日本の完全なる管理下にある。中国が然るべく承認し受け入れたロシアとの条約に基づいて、日本は、この<南満州鉄道地帯>を管理している--つまり、合衆国政府がパナマ運河地帯を警備し保護しているのとまったく同様に、警備し保護しているのである。

去る9月18日、この地帯に対し正規の中国軍部隊によって夜襲がかけられ、鉄路が破壊された。日本としては、強硬手段をすみやかにとる必要があったのは明らかである。一国の軍隊の保護下にある地点が正規の軍隊に侵攻され、しかも侵攻の恐れの程度がまったく不明である場合、明らかな防衛手段は、直ちに侵攻を侵した軍隊の本拠に向かって進むことである。今回の緊急事態は、ウェブスター氏の典型的な言葉どおりに「差し迫った、抗し難い、手段選択の余地のない、しかも熟考の余裕のまったくない」事態であった。
この新聞発表文を実際に起草したのは、他ならぬトム・ラモントだった。日本の大蔵省は字句を少々手直しただけで、そのまま発表された(右の声明の一部は、ラモントの保存資料にある原文から引用した)。日本側は、アメリカでの声明の発表もラモント自身にしてもらいたがったが、P534 そうするとモルガン財閥が一方に偏っていると受け取られ、中国人の気分を害しかねない、と答えて断った。声明文を書いたのが自分だと知れると、アメリカのリベラル派内での自分の名声に汚点がつく、とも恐れたのだろう。ただし、日本側の意をある程度満たそうとして、「声明発表の日を知らせてくれれば、当地でそれがとくに世間の関心を集めるよう手配しよう」と井上に伝えた。

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