・(tw,tw,tw,tw,tw,tw)『モルガン家』 P220-222 連邦準備制度の必要性(url)
P221 1907年恐慌の打撃から、恐慌のたびに太鼓腹の財界大物どもが救済に乗り出してハラハラさせられるのは、金融制度としては貧弱で頼りにならない、との認識が人々の間に強まり、今日の連邦準備制度を築く素地が生まれた。(中略)
P222 1910年11月、ディビスン(当時はモルガン商会のパートナーの一員に入っていた)らウォール街の投資銀行家たちが、マスコミ向けには「鴨撃ち旅行」だと称して、ジョージア州沖合にあるジェキル島のクラブに集まってひそかに協議した。ここは、ピアポントがよくお忍びで来る保養地だった。この秘密協議がもとになって、のちに無数の陰謀説が流れることになる。それはとにかく、ウォール街の銀行家たちはここで、各地域に準備銀行を設け、その上に商業銀行首脳からなる管理機関を置くという、民間主導型の中央銀行案をまとめた。(中略)
P223 オールドリッチ上院議員が1910年に中央銀行設置を求める法案を連邦議会に提出すると、野党の民主党がその成立を阻止した。それから三年後の1913年、民主党のカーター・グラス下院議員がこれをたたき台に大幅な修正を加え、連邦準備法の素案をまとめた。民主党出身のウィルソン大統領は、国内十二の各地域に設ける民間準備銀行を中央の政策決定機関、つまり財務長官をはじめ大統領による任命者を含む、ワシントンの連邦準備局の下に置くように要求した。これらの要求が通って、連邦準備法は同年に制定された。
連邦準備局の誕生により、モルガン財閥の突出した巨大権力が削がれるだろう、と革新派は期待したが、事実はもっと複雑で、一筋縄ではいかなかった。逆にモルガン側が連邦準備制度をうまく操って、自己の権力を拡大するのに利用したからである。
・『モルガン家』 P250-262 プジョー小委員会聴聞会(url)
P261 プジョー小委員会は、状況証拠はたくさんあったものの、共同謀議をなしているとの厳密な意味での金融トラストの存在は立証できなかった。むしろ、調査の結果として判明したのは、「J・P・モルガン商会が主唱者と認められる一握りの人々の手中に、信用と資金の支配」を集中した、一種の「利益共同体」が存在するということであった。(中略)
P262 プジョー小委の聴聞会は、モルガンの権力を脅かすと思われる直接の成果を一つ生み出した。ウィルソン大統領が1913年12月、連邦準備法に署名し、政府に中央銀行を設け、緊急時にモルガン財閥に依存せずに済むようにしたのだ。(中略)
それでもモルガン財閥は、ニューヨーク連邦準備銀行と巧みに同盟関係を結んだので、その後の二十年間にわたりこの新しい金融組織を実際に動かすことになる。
・『日米衝突の萌芽』P394-402(url)
P395 しかし、アメリカンシステムの三番目の狙いである「中央銀行の設立」についてだけはいっこうに進みませんでした。その理由は、第七代大統領アンドリュー・ジャクソンに代表される歴代大統領の、銀行の紙幣発行システムに対する根深い不信でした。ジャクソンはフィラデルフィアの資本家が設立した中央銀行、第二合衆国銀行が連邦銀行として機能する権限を剥奪しています。1836年以来、アメリカには中央銀行は存在していなかったのです。(中略)
P397 右記の金匠の仕組みに従えば、資金を必要としている会社に三億円を貸し出し最大株主になることが可能です。しかしよく考えてみるとその貸し出した三億円は、どこにも存在しなかった三億円なのです。この仕組みから得られる利益は、貸し出しと預け入れの金利差からの利益をはるかに上回る巨額なものです。 アメリカの政治家はこのからくりを知っていました。この悪辣な仕組みは「部分準備制度Fractional Reserve System」と呼ばれ、あたかもスマートな仕組みのようなイメージをまとっていますが、その実態は実に性悪なものです。ですから、(中略)
銀行間に競争させることで、放漫になりがちな(融資額をできるだけ増やそうとする)銀行経営をチェックさせようとしたのです。(中略)
取り付けの事態に備えて銀行家は、どれほどの割合(準備率)を支払用として金庫に用意していたのでしょう。きわめて保守的な(預金者から見れば安全な)銀行は五十パーセント近くを用意しています。たとえばハリマンの支配下にあったウェル・ファーゴ銀行(2010年、全米四位)と
P398 合併したネバダ銀行のオーナー、イサイアス・ヘルマン(Isaias W.Hellman)は保守的な銀行家の典型でした。つねに預金量の四十五パーセントを準備し、不足の事態に備えるほどの堅実経営でした。しかし多くの銀行では二十パーセント程度の準備率で経営していたのです。(平均では二十一・一パーセント)。制度的にその程度の準備率でよしとされていたのです。(中略)
前述のパニック・オブ・1907が起きたのは、こうした低い準備率での融資が行われていたことが原因でした。(中略)
パニック・オブ・1907は、モンタナの地方銀行の乱暴な経営が原因となった取り付け騒ぎでした。それではその取り付け騒ぎの危機を防いだJ・P・モルガンなどの有力投資銀行が資金の融通に
P399 困った場合はどうなるでしょうか。ストレイトが仕掛けていたような支那鉄道投資案件などは大きな投資です。そうした投資はつねにリスクを内包します。彼らが、そうした場合に備えて最後の駆け込み寺として、資金提供できる金融機関(中央銀行)が欲しいと思うのは当然でした。彼らの問題意識の重要なポイントは以下のようなものでした。
一、銀行のわずかな準備金をすべて一つに集めてプールし、少なくとも一部の銀行が決済資金(中略)
不足や取り付けを免れるようにするにはどうしたらよいか
二、不可避の損失負担を銀行がら納税者に転嫁するにはどうすればよいか
三、どうやって、そのような施策は市民を守るものであるとして議会を納得させるか
1910年十一月二十二日の夜、アメリカ金融界を牛耳る大物たちがニューヨークの対岸にある小さな鉄道駅に集まっていました。(中略)
P400 七人が向かった先はジョージア州の狩猟の名所であるリゾート地ジキル島でした。(中略)
この七人が第三合衆国銀行の設計図をジキル島で検討してから二年後の大統領選挙でウッドロー・ウィルソンが当選しています。P401 彼は中央銀行設立を目指す金融資本家グループが周到に用意した人物(弾)でした。(中略)
ウィルソンはJ・P・モルガン系企業との強いコネクションがありました。だからこそJ・P・モルガンは、1912年の選挙にウィルソンを担ぎ出したのでした。その担ぎ出しを担当したのがJ・P・モルガン・ジュニアをファーストネームの「ジャック」と呼ぶほどの仲であったエドワード・マンデル・ハウス(tw)でした。(中略)
第三合衆国銀行設立を可能にする法律の準備が整ったのは、ウィルソン政権の一年目が終わろうとする1913年の暮れのことでした。法案(Federal Reserve Acts)は連邦制度理事会(Federal Reserve Board:FRB)の創設をうたうものでした。数々の工夫がなされ、中央銀行はおろか銀行という名称さえ使用しない周到さでした。どこにも第三合衆国銀行が創設されることをにおわせる文言はないのです。委員会のメンバーの選任も、上院の助言と同意によって大統領が任命するという仕組みで、国民のコントロールが利くかのような制度となっていました。(中略)
名称にはFederal(連邦の)を使用し、政府機関であるかのような錯覚を与えています。委員の選出は運用でどうにでもなります。この委員会が全米各地に設立されることになる十二の連邦銀行を指導するのである。しかしその中心的役割を果たすニューヨーク連邦準備銀行もその他の連邦準備銀行も、株主名は公開されませんでした。すべてを主要な民間銀行が押さえていたのです。(中略)
P402 第一次世界大戦の勃発直前に中央銀行システムを導入できたことで、アメリカは期待される戦争需要への対応準備が整いました。(中略)
貸し付けをどれほど拡大してもFRBが最後の砦として守ってくれる仕組みができあがったのです。実際、FRB創設の結果、準備率は平均で十一・六パーセントに下げられ、一九一七年六月には、九・八パーセントまで下がりました。このことはFRBが生まれてわずか四年で銀行の貸し出し量が二倍になったということなのです。これこそがJ・P・モルガンをはじめとした金融資本家が意図していたことでした(tw)。
・『権力の影』P66-84
P66 金融王朝ロスチャイルド家の深謀「国際」銀行家とは種々の業務のなかでもとりわけ諸国の政府に融資する人のことである。政府に対する貸付はいくつかの理由によって特に有利に行える。第一に政府は個人や企業よりも遥かに多額の金を借りる。第二に政府は返済を保証できる特有の手段---課税の如き---を持っている。第三に政府は現金以上に望ましい手段によって---その負債を返すこともあり得る。国際銀行家にとって戦争ほど儲かる事態展開はない。政府により多くの借入れをより急速に招来させるものは他にないからである。国際銀行家の特徴はヨーロッパのもっとも有名な金融王朝ロスチャイルド家におそらく最もよく集約されている。
マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(一七四三~一八一二年)は、五人の息子中一人をドイツの本店銀行に残し、他の四人をそれぞれ英国、フランス、オーストリア、イタリアの支店運営のために派遣した。ロスチャイルド家はこれらの国々およびその他の国にも融資することによって十九世紀中に巨万の富を積んだ。彼らあるいは彼らの代理店は交戦国---普仏戦争やアメリカP67南北戦争のような---の双方に融資したことがよくあり、国家の債権者として彼らは恐るべき政治的影響力を生んだ。
政治体制を支配するのに肝要なことは国の貨幣と信用を独占的に供給する中央銀行を設立することである。マイヤー・ロスチャイルドは「私に国の貨幣を発行させ管理させさえしてくれれば誰が国を治めていようが気にしない」と述べたといわれる。ゲイリー・アレンはベストセラーとなった著書"None Dare Call It Conspiracy"で次のように言っている。
「イングランド銀行、フランス銀行、ドイツ銀行は、誰もが想像しているようにそれぞれの政府が所有しているのではなく、融資の見返りに国の支配者たちによって認められた私的所有者の独占事業なのである」(1)ジョージタウン大学教授キャロル・キグレー博士(tw)は彼自身支配階級に近い関係にあるが、一九六六年発表の著書"Tradgey and Hope"で中央銀行を広範に取り扱っている。いわく、
「世界の主要中央銀行のこれら支配者たちが世界金融における実質勢力であったと考えてはいけない。彼らはそうではなかった。むしろ彼らは技術的専門家であり、彼らを引き立てあるいは馘にすることのできるそれぞれの自国の主流投資銀行家の代理人であった」(2)キグレーはさらに述べて、
「金融資本主義勢力は今一つ遠大な狙いを持っていたが、それはそれぞれの国の政治ならびに全体的な世界経済を左右し得るように、私的な世界金融支配の制度を創り上げることにほかならなかった。P68この制度は、提携して行動する世界の中央銀行によって、また頻繁に行われる非公開会合や会議で締結される秘密協定によって、封建的流儀で管理されるものであった」(3)ロスチャイルド家はヨーロッパの中央銀行の随一の「陰の実力者」として、合衆国においても同じような配置を布こうという考えに浸った。グスターヴス・マイアーズがその著"History of the Great American Fortunes"で述べたところによれば、
「長い間にわたってロスチャイルド家は裏面でアメリカの財務関係法の内容を指図する強力な影響力を持っていた。法律制定記録は国家が旧合衆国銀行(Bank of the United States)の実力者であったことを語っている」(4)しかしながら、私的に支配された中央銀行を国に押しつけようとした初期の試みであるこの合衆国銀行(一八一六~一八三六年)は、アンドルー・ジャクソン大統領(第七代)によって廃止された。彼はその時宣言している。
「この銀行は政府を支配せんがためになした大胆な努力、またそれが産み出した災難・・・は、アメリカ国民が欺かれてこの制度の永続あるいは類似の他制度の制定に引き込まれるのを待ち受けている運命の前兆にすぎない」(5)アメリカは十九世紀の残る年月のあいだジャクソンの警告を心に留めた。しかし、ヨーロッパと合衆国の銀行家一味の提携とJ・P・モルガン、ジョン・D・ロックフェラー、バーナード・バルークのようなアメリカ大金融家勢力が育ってきたことによって流れが変わり始めた。
P69 ロスチャイルドの対米詐謀
一九〇二年にロスチャイルド家の盟友であるドイツ銀行家のポール・ワーバーグ(ポール・ウォーバーグ)(相互参照)が合衆国に移住してきた。間もなく彼はアメリカの最有力銀行クーン・ロエブ社のパートナーとなった。そして同社の創設者の一人ソロモン・ロエブの娘と結婚した。クーン・ロエブ社の総帥はジェイコブ・ヘンリー・シフで、彼の家族とロスチャイルド家との縁故は一世紀前に遡った。年俸五十万ドル---今日の基準からしてもかなりな金額---を稼ぎながらも、ポール・ワーバーグ(ポール・ウォーバーグ)はアメリカ中央銀行制度の必要性に関して広く公演を行い、パンフレットを出した。
一九〇七年の恐慌は上記の思想が世間に受け入れられるよう誘導するため人為的に引き起こされたものであった。アメリカ信託会社が債務超過に陥っているとの噂をJ・P・モルガンが広めると雪達磨さながらに増大する銀行の取付が始まった。歴史家フレデリック・ルイス・アレンが 一九四九年ライフ誌に次のように発表した。
「ある年代史家たちは下記の独創的な結論に達した。モルガン一派は一九〇七年秋の不安定な状態を利用して恐慌に突入させ、それらが進むに従って競争相手の銀行が絶滅したモルガンの勢力下の銀行の優越性が強化される方向に進むよう、抜け目なくその舵を取ったというのである」(6)アレン自身はこの解釈には賛成しなかったが「一九〇七年の恐慌の教訓は判然としていた。もっとも約六年間は、合衆国は真剣に中央銀行制度を必要とするという立法は具体化されない運命にあったけれども」と書いている。
P70 有名な飛行士の父チャールズ・リンドバーグ・シニア下院議員が一九一三年に言明した。
「金融トラスト[原注=当時の一般的な使用法としてこの用語は、ウォール街に本拠を置く金融独占者グループのことを言った]が一九〇七年恐慌を引き起こし、そこで議会は全国通貨委員会創設を余儀なくされた・・・」(7)と。委員会を率いたのはネルソン・オールドリッチ上院議員であった。オールドリッチは国際銀行家の議会における代弁者として知られている。彼の娘はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアと結婚し、彼の孫で一九七四年に副大統領となったネルソン・オールドリッチ・ロックフェラーは彼の名にちなんで名づけられた。
委員会がヨーロッパにおける中央銀行業務の研究にほとんど二カ年を費やした後、オールドリッチはポール・ワーバーグ(ポール・ウォーバーグ)ならびにモルガンおよびロックフェラー一派の最高代理人たちと密かに会った。この会合はジョージア州沖合のジキル島にあるモルガンの狩猟クラブで行われ、そこでアメリカの中央銀行構想が考案された。すなわち後日連邦準備制度と呼ばれるに至ったものである。
ロックフェラー系のナショナル・シティ・バンク頭取フランク・ヴァンダーリップはジキル島会談の出席者の一人であった。二十五年後、彼はサタデー・イーヴニング・ポスト紙に左記の稿を寄せている。
「一九一〇年の暮近く、私は何だか陰謀家のようにこそこそとした---それこそ人目を忍んだ---ある時期があった。P71われわれがジキル島へ秘密裏に旅行したのは、最終的には連邦準備制度となったものの実際の概念作りの場に列席するためだったと語っても別に誇張しているとは思わない。・・・われわれは姓を使わないよう言われ、さらに出発の夜は共に食事をするのを避けるよう言われた。そしてハドソン川のニュージャージー側始発駅に、ばらばらにしかもできるだけ隠密に行くよう指示された。そこでは南部行きの列車の最後尾にオールドリッチ上院議員の自家用客車が連結されて待っているとのことであった。自家用客車にいったん乗車すると、われわれは姓にかけられた禁忌を遵守し始めた。絶対に気づかれるようなことがあってはならない、さもなければわれわれの時間と労力はすべて無に帰することをわれわれは知っていた」(8)ジキル島の集会後オールドリッチ上院議員は計画を議会に提出した。彼が銀行界の支配階級と結びついていることからして、多くの疑念を生みオールドリッチ法案は成立しなかったが、別の法案名で似たような議案が通過する結果となった。連邦準備制度は一九一三年に法律化された。
連邦準備制度=巨額な貸付を可能にする手段
この制度は、表面上は銀行の法定準備金管理者として機能することになっていた。利率と国の通貨供給量の管理が許された。国民は、連邦準備制度がこれらの権限を与えられれば経済を安定させ、これ以上の恐慌や銀行取付を防止するという主張に説得されて同制度を受け入れた。しかし同制度はこの種の働きは何もしなかったのである。わが国は一九二九年大恐慌や数多のP72景気後退を味わったばかりでなく、インフレや連邦債が---連邦準備制度誕生以前は取るに足りない問題であったが---その後ずっとアメリカを悩まし続けた。リンドバーグ下院議員は連邦準備法に対する最も毅然とした反対者の一人であった。彼は議会に次のように警告した。
「本法は地球上に最も巨大なトラストを創設する。・・・大統領が本法に署名した途端、金銭トラスト調査でその存在が証明された、あの金権勢力は国と各州の立法陣および行政陣を威圧する。本法案のいろいろな段階で、これらの力が発揮されたのを私は見てきた。・・・これは姿を変えたオールドリッチ法案である」(9)一九二〇年から一九三一年まで議会の銀行通貨委員会委員長を勤めたルイス・マクファデン下院議員が、後に述べた。
「連邦準備法が成立した時、合衆国の国民は一つの世界銀行制度がいま設立されつつあることには気づかなかった。それは、世界を自らの快楽のために奴隷化しようと手を組んで動いている国際銀行家と国際産業資本家によって支配される、超国家なのである。連邦準備制度はその権力を隠そうとあらゆる努力をしたが、真相は---同制度は政府を簒奪した」(10)普通のアメリカ人は、わが国の連邦準備銀行制度についておそらくあまり知らない---もしくは考えさえしない---であろうが、P73次の二三の事柄については意に留めておく必要がある。
●それは「連邦」の呼称があるけれども、民営である。
●それは独立した筋からの意味のある会計監査を受けたことがない。
●それは独自の政策を樹て大統領あるいは議会の支配を受けない。この制度に加盟する民間銀行が、十二の連邦準備銀行の三分の二の役員を選び、残りを連邦準備制度理事会が選ぶ。
●連邦準備制度理事会自体について言えば、そのメンバーは大統領に任命され上院の承認を受けるが、彼らは一度就任すると十二年間の任期を務める。同理事会の議長は、決まったようにニューヨーク銀行界の推薦によってそこからの出身者が占め、その大多数はCFRのメンバーであった。ポールワーバーグは最初の理事会メンバーに任命され、彼と共にジキル島に行ったモルガン財閥のベンジャミン・ストロングは、同制度の中核であるニューヨーク連銀の頭取となった。
連邦準備制度がひそかにこれを立案した金融業者たちにいかなる利益を与えたか。まず第一に、法定準備金の監督者兼供給者としての資格で、彼らの銀行に合衆国財務省にある公共資金を利用する権利を与え、金を貸し利子を徴収する彼らの能力を拡大した。さらにまた、連銀の経営陣に彼ら自身あるいは同盟者を配置することによって、国際銀行家たちは国の通貨供給および利率を---しかもそうすることで国の経済生活をも---効果的に管理できた。それどころか、連邦準備制度は意のままに貨幣を---したがってインフレを---創造する権限を与えられた。憲法によれば、議会のみが貨幣を発行しその価値を規定することができる。しかしながら、連邦準備法はこれらの機能を民間銀行家たちの手に---彼らの永久の利益のために---委ねたのである。P74 リンドバーグ下院議員はこれを次のように解明した。
「この新法では、トラストがインフレを望めばいつでもそれを作り出せよう。今すぐにそうしないかもしれないが、トラストはある期間のインフレを企んでいる。彼らが保有する株が下落してしまったからである。・・・そこで今一度インフレ時期を迎えることができれば、その高潮期に高値で株を国民に押しつけ、それから恐慌を引き起こしてその株を低値で買い戻すことができると、彼らは心に描いているのだ・・・国民はそのことをすぐには見抜けないかもしれないが、最後の審判日はわずか数年の違いで到来する」(11)もちろんその審判日は一九二九年にやってきた。それ以来連邦準備制度は、通貨と信用を戦術的に引き締めたり緩和したりすることで、果てしなく続く急激な景気変動を作り出した。終いには、連邦準備制度は公債の売買と加盟銀行に対する融資の権限を与えられ、その結果、加盟銀行自体がそうした公債を購入し、それによって銀行業界に対する政府負債の潜在可能性を著しく増大させたのである。
所得税=返済を強要する手段(tw,相互参照)
しかしながら、もし連邦政府が負債を負うことになれば、その負債を償還する何らかの手立てがなければならない。その解決策は所得税であった。一九一三年以前には、アメリカには所得税はなかった。(南北戦争中と再編成期間[訳注=南北戦争後、南部連邦諸州を再び合衆国の州として編入を認めた時期で、一八六五--七七年の間]の初期を除いて)。P75 合衆国政府は関税とか物品税のような他の収入源で持ちこたえてきた。
結果として政府は多額に使うことも借りることもできなかったのである。所得税は、一八九五年に最高裁判所により憲法違反だと宣告されたので、憲法修正によって制度化されなければならなかった。その修正を議会に提案した人物は、連邦準備制度案を提案したのと同じ上院議員すなわちネルソン・オールドリッチであった。
アメリカ国民が何故所得税に同意したのだろうか。最初は、所得税は名目的なもの、つまり二万ドル---当時においてはほとんど得る者のいなかった高額だが---以下の収入に対してはわずか一パーセントであった。そこには当然、増額はないという保証があった!同税を納得させるため使われた今一つの口上は、累進的になっているからこの税は「金持ちから巻き上げる」ことになる、というものであった。しかしこの憲法修正案に対しオールドリッチ上院議員が支持されることは、「金持ちたちが」それを望んでいることを意味していた。
アメリカの億万長者のお歴々たちは、内国税収入局を避けて通ることにかけてはもちろん名うてのものたちである。たとえば一九三三年のペコーラ判事による審問[訳注=上院委員会の法律顧問としてフェルディナント・ペコーラが行った審問]によって、J・P・モルガンは一九三一~三二年には何らの所得税も払わなかったことが明らかにされた。ジェラルド・フォードの下でネルソン・ロックフェラーが副大統領に認証されようとしていた時、彼が一九七〇年に所得税を全く払っていなかった事実が明るみに出たのである。
P76 資産家たちが税を免れる主なからくりの一つは、その財産を免税の財団に注ぎこむことである。主要財団は通常は慈善施設と見なされているけれども、それらの補助金獲得力を財団設立者たちの利益促進のために使うことがしばしばある。たとえばロックフェラー財団は何百万ドルを外交評議会(CFR)に注ぎ込んでいるが、CFRの方では合衆国政府に対する支配階級の影響力の主たる橋渡しとしての役を果たしている。所得税が一九一三年に法律化された時には、ロックフェラーとカーネギー両財団はすでに活動していた。
所得税は金持ち階級から巻き上げず、中流階級から巻き上げた。累進課税であったため、誰かが富裕になろうとしても、それを妨げるのに役だった。こうしてこの税はすでに確立された財団の富を強化し、彼らを新しい競争から守る作用をしたのである。一九一三年は不吉な年でああった。---今や政府に途方もない巨額の貸付をする手段(連邦準備制度)が存在し、その返済を強要する手段(所得税)が存在した。あと必要とされるものは、連邦政府が借金をするためのいい口実だけであった。
一九一四年にヨーロッパ大陸に第一次世界大戦が勃発した。結局アメリカは参戦し、その結果国の負債は十億ドルから二百五十億ドルに急増した。多くの史家は、この三重の出来事---所得税、連邦準備制度と戦争---が偶然事であると世に信じさせようとしてきた。しかし諸財団に資金援助を受けた著者たちにより、また支配階級系の出版会社の手で作られた書物のなかで歴史が書かれていることがいかに多いことか。そして今世紀に、さらに多くの「偶然事」がアメリカ国民をなおも苦しめることになった。
P77 ウィルソンとハウス
ウィルソン大統領のための洗脳講座
一九一三年にウッドロー・ウィルソンが大統領となった。彼の著書"The New Freedom"が同年出版され、そのなかで彼は言っている。
「商工業分野における合衆国の最も偉大な人たちのなかには、何かを恐れている人たちがいる。彼らは非常に組織化され、陰険で、油断がなく、手を握り合って、完璧な、どこにも浸透している勢力がどこかにいるので、それを非難する話の時は声を出して話さない方がよい、と知っている」(12)ウィルソンはこの勢力を知っていた---しかも詳細に。彼の前任者、共和党の大統領ウィリアム・タフトは中央銀行に反対で、それを提案する法案には拒否権を使うつもりだと言った。このため国際銀行家たちはタフトを従順な候補者と交替させようとした。ウッドロー・ウィルソンは、プリンストン大学総長から一九一一年にニュージャージー州知事に、一九一二年には民主党大統領候補被指名者に急変身した。彼の有力資金講演者はロックフェラー系ナショナル・シティ・バンクのクリーヴランド・ドッジ、クーンロエブ社のジェイコブ・シフおよびバーナード・バルークであった。
ある目撃者によれば、一九一二年にバルークがウィルソンを「まるで紐につないだプードル犬のように引っ張って」ニューヨークにある民主党本部に連れてきた。ウィルソンはそこに集まっていた指導者たちから「洗脳講座」を受け、その間に彼はもし当選すれば次のことを実行することを原則的に同意した。
●提案された連邦準備制度を支持する世論調査の結果、現職のタフト大統領がプリンストン大学出身者のぎこちない教授よりも明らかに人気があることが分かった。そこで共和党の票を分裂させるため、支配階級は進歩党公認候補のセオドア・ルーズベルトを支持して金を出した。J・P・モルガン商会がルーズベルトの選挙運動資金の後ろ盾であった(14)。作戦は成功した。共和党の票はタフトとルーズベルトに割れ、ウッドロー・ウィルソンが選挙人選出の一般投票の四二パーセントで大統領になる。
●所得税を支持する
●ヨーロッパで戦争が勃発したら、勧告に耳を貸す
●誰を閣僚にすべきかについて勧告に耳を貸す(13)
大統領任期中ウィルソンは国際銀行業界の隠れ蓑的看板役エドワード・M・ハウス大佐(ハウスは軍務に服さなかったので彼の称号は全く名誉的なものであった)に絶えず指導された。大統領の首席顧問として彼はハーパーズ・ウィークリー誌から「ハウス大統領補」と呼ばれた。二人の関係はそれほど親密であったのでウィルソンは次のように言っている。
「ハウス氏は私の第二人格である。彼は私の独立した 自我である。彼の思想と私の思想はP79一つのものだ。もし私が彼の立場にあったら、彼が提案したとおりのことをするだろう。…誰かがもし、彼をどんな行動をとろうとそれによって私の意見を反映しているのだと考えるなら、勝手にそのように決めてもらっても結構だ」( 15)ハウスの注意深い監視の下に、ウィルソンは手筈どおりうまくやった。ハウスは内閣をお手盛りで組織したといわれた。ウィルソン内閣の初めての閣議でフランクリン・K・レインが自己紹介して言った。「大統領、私の名はレインです。わたしは内務長官だと思いますが」(16)と。ウィルソン就任第一年目の一九一三年、所得税と連邦準備制度が誕生した。もっとも前者のほうは彼の就任よりわずかに早かったが。ハウスの伝記作者チャールズ・シーモアの言によれば大佐は連邦準備法の「隠れた守護天使」であったという。この立法が成文化され議会で巧みに運ばれているあいだ、彼は規則正しくポール・ワーバーグ(ポール・ウォーバーグ)と連絡を取っていた。
ハウス大佐のゆるぎない信念
ウィルソン大統領の顧問への依存度から考え合わせると、ハウスの信念について何らかの知識を持つことはためになるであろう。今一人の伝記作家アーサー・D・ハウデンによるとハウスは次のように信じていたという。
「十八世紀精神の所産で、半ば古典的かつ中世的な共和政体概念を持つ憲法は全く時代遅れであり、もしくは憲法を破棄するか書き直すことができるなら、国の状況はもっとよくなるであろうと。しかし現実主義者として、政治教育の現状においてはこれは不可能であることを彼は知っていた」(17)P80 ハウスは小説を書き、一九一二年に"Philip Dru:Administrator"と題して匿名で出版した。後年この書は彼自身の著書であることを認めた。小説のヒーロー、フィリップ・ドルーはアメリカを統治し種々の急進的変革を導入する。それらのなかに累進所得税と中央銀行がある。ジョージ・ヴィアレッグが著"The Strangest Friendship in History"(一九三二年出版)のなかで"Philip Dru:Administrator"について述べている。
「この書から、われわれの生活に大変革をもたらした指令が出てきた。・・・ウィルソン政権は大佐の思想を創作から歴史へと移した」(18)驚くべきことだと思われるかもしれないのは、登場人物のフィリップ・ドルーが彼の言う「カール・マルクスが夢想した社会主義」を具現しようとしたことである。このことは、所得税と中央銀行業務がともにマルクスによって、その『共産党宣言』のなかで要求されていることさえわかれば辻褄が合ってくる。
『共産党宣言』は共産主義国家を樹立するのに十項目計画を立案した。その第二項目は「過酷な段階的もしくは累進式所得税」であり、第五項目は「国家資本と排他的独占権を持つ国営銀行によって、信用を国家の権力下に集中すること」であった。こうして一九一三年に、アメリカはマルクスの教えのうち二つを採用した。これは必ずしもハウスとウィルソンが共産主義者であることを意味しないが、それでも金融資本主義がその正反対だと思われているイデオロギーと非常に多くの共通点を持っていることを、今一度証明しているものといえる。
P81 第一次世界大戦と国際連盟
戦争に込められた二つの狙い
"Philip Dru:Administrator"のなかで具体的に指摘されている今一つの目標は「国際連盟」である。もちろん正確にはこの名は一九一九年パリ平和会議においてウッドロー・ウィルソンの提案で創られた世界組織に与えられた名称であった。ちょうど一九〇七年恐慌が中央銀行を正当化する方便に使われたように第一次世界大戦は世界政権を正当化するのに使われた。ウィルソンの選挙運動後援者を含む多数のアメリカ金融実業家たちが、戦争で利益を得たことは間違いなく真実である。
大統領はバーナード・バルークを議会からは絶対に承認されない役職である戦時工業委員会委員長に任命した。その資格でバルークは合衆国の経済権力者となり、国の企業に独裁的権力を持つようになった。彼はロックフェラー同様、戦争で約二億ドルを手にしたといわれる(19)。ウィルソンの最大後援者クリーヴランド・ドッジは連合国に軍需品を船積みし、J・P・モルガンはそれら諸国に数億ドル貸しつけた---もちろん合衆国の参戦がそれを保護するのに役だった。
しかし利益のみがわが国の参戦を支持する唯一の明白な動機というわけではなかった。宣戦布告のかなり前に、平和を確保するために世界政権をという思想がアメリカで宣伝されていた。P82 一九五〇年代に、合衆国政府調査官が一極世界支配主義の長年の推進者である有力なカーネギー国際平和基金の古い記録を調べた。彼らは、第一次世界大戦勃発の数年前にカーネギー財団の理事たちが、世界政権のお膳立てをするため広域戦争に合衆国を巻き込みたいと望んでいたことを発見した(20)。
戦争に引きずり込め!(相互参照)
一九一七年以前はアメリカはヨーロッパの戦争を避けていた。ジョージ・ワシントンが告別の辞で紛糾を与える外国との同盟に反対して国民に警告した。この上なく幸いなことにこの忠告はアメリカ国民の心に刻み込まれていた。国民のうち何百万かは海外における圧制を逃れてわが国に渡来したもので、当然誰も原因の曖昧な戦争を戦いたくはなかったのである。
したがって挑発となるような事件を考え出す必要があった。はしなくもこれが、ニューヨークから英国へと航行中の英国の大西洋航路定期船ルシタニア号をドイツの潜水艦が撃沈したことで出来した。乗船していた百二十八人のアメリカ人が死に、この惨事が他のいかなる事件にもまして合衆国における反独感情をかき立てるのに使われた。
しかしながらある事実が国民には秘匿された。英国の作家コリン・シンプソンの作品"The Lusitania"のおかげで今日では真相の大半が明らかになっている。ルシタニア号は六百万発の弾薬および他の軍需品を英国へ輸送中で、これがドイツ軍が同船を撃沈した理由である(内部で起こった爆発がたった一発の魚雷命中後わずか十八分で船が沈む原因となった)(21)。P83 沈没を調査したその後の審問ではこの情報は削除された。ウッドロー・ウィルソンは同船の積荷目録原本を---それには軍需品が記載されていた---財務省の文書保管所に隠すよう命じている(22)。
さらに一層的を射ているのは、船が故意に災禍に差し向けられたという証拠である。事件前にウィンストン・チャーチル---当時英国海軍大臣であった---が、アメリカ人を乗せた客船が沈められた際の政治的効果を予示する報告書を作るよう命じていた(23)。そしてハウス大佐と英国外務大臣エドワード・グレイ卿のあいだで次の会話が交わされた。
「グレイ=もしもドイツ軍がアメリカ人乗客を乗せた遠洋定期船を撃沈すれば、アメリカはどうするか。英国海軍はドイツ海軍の暗号を解き、イギリス諸島近辺の全Uボート[訳注=ドイツの潜水艦]の大体の所在を掴んでいた。当時英国海軍情報部にいたジョセフ・ケンウァーシー中佐の話によれば、「ルシタニア号にはUボートが待ち伏せていることがわかっており、護衛艦が引き上げている海域にかなりスピードを落として故意に差し向けられた」という(25)。
ハウス=憤激の嵐が合衆国を襲い、それだけでわが国を戦争に巻き込むのに十分だろうと思う」(24)
アメリカ人がルシタニア号に乗らないよう説得しようとして、ドイツ軍がニューヨークの各新聞に大きく通告を載せていたことに注目しなければならない。彼らの海軍は、軍需品が英国に着くのを阻止しようと謀っていた---ちょうど英国海軍が彼らにしていたようにである!
P84 戦争における本当の侵略者は果たして誰であったか、それは議論の分かれる問題である。もしもアメリカが参戦していなかったなら、おそらくヨーロッパの交戦諸国はいままで何世紀にもわたってやってきたように、しかるべき解決に到達していたであろう。ウッドロー・ウィルソンは「彼はアメリカを戦争の局外においた」というスローガンで一九一六年に再選されたが、この言葉の寿命は短かった。すでに英国でハウス大佐がわれわれをのっぴきならず戦争に引き込む秘密協定を交渉していた(26)。
宣戦が布告されたとき猛烈な宣伝が行われた。いわく、ドイツ兵はすべて毒牙を持った蛇で、戦争に反対するアメリカ人はすべて国賊である、と。合衆国軍の動員によって戦争の膠着状態が破れ、ドイツの降伏へとつながった。
最終ゴールへの第一歩は印された
一九一九年のパリ平和会議は戦争の後始末をつけた。その結果ヴェルサイユ条約が結ばれ、ドイツに戦勝国に対する過酷な賠償を---連合国軍人の年金までも---支払うことが要求された。この賠償は一九二〇年代のドイツ経済を荒廃させ、アドルフヒトラー台頭への途を開いたのである。
ウッドロー・ウィルソンはこの会議に、彼の有名な「十四ケ条の講和条件」を持ち出した。本命的項目すなわち「国家総連合」の提案を掲げたのはその第十四番目の条件であった。ここから国際連盟が誕生した。それは国際銀行家たちの最終ゴール、つまり世界政権---疑いもなく一つの世界中央銀行によって支えられる---への第一歩であった。
P85 連盟という概念はウィルソンが考え出したものではなかった。ウィルソンの正規の伝記作家レイ・スタナード・ベイカーが「実際には、国際連盟規約中には大統領から出たものは何も---ただ一つの着想も---なかった」と言っている。規約を書いたのはハウス大佐であった。チャールズ・シーモアの言によれば、ウィルソン大統領は「ハウスの書いた原稿をほとんどそっくりそのまま承認し、彼自身が実際に手を入れたのは言葉づかいに限られていた」(27)と。
ハウスは一九一七年に、約百人から成る「インクワイアリー」と呼ぶニューヨークのあるグループを組織していた。ハウスの義弟シドニー・メーゼスの命で、彼らは平和処理のための構想を考え出し、「インクワイアリー」の二十人ばかりのメンバーが、ハウスや銀行家のポール・ワーバーグ(ポール・ウォーバーグ)、バーナード・バルークと同じように、一九一九年にウィルソンに随行してパリに行った。
国際連盟は首尾よく設立され、加盟した多くの国々はその内部で活動する強力な国際主義勢力を持った。しかしヴェルサイユ条約が上院の批准を受けない限り合衆国は加盟できなかった---これは合衆国憲法がいかなる条約にも規定している条件である。上院は批准に尻込みした。結婚によって配偶者たちが不和にならないという保証があてにならない以上に、国際連盟が平和を保証できないことは明らかであった。
国際連盟が世界の安全を強制できるだけの強さになることは、われわれの国の主権を脅かすほどに強くならねばならないことでもあろう---そして自由を愛するアメリカ人は、まったくそれを望まない。彼らアメリカ人はすでに戦争の勝利に貢献する自分たちの役割を果たした。そのうえさらにその運命を旧世界の独裁者や君主国と絡ませるべき理由は何もなかったのである。