第四章 ザビエルからトルレスへ P81-103(tw,tw)
(P80-)P81 ザビエルが鹿児島に着いたのは一五四九年八月一五日、豊後を離れてインドへ向かったのが一五五一年一一月一五日、滞日したのは二年三ヵ月にすぎなかった。布教という点ではほとんど見るべき成果がなかったのは当然であろう。彼はついに最後まで日本語を習得しなかった。「私たちは日本人のなかに、彫像のようにつっ立ているだけです」というのは彼自身の言葉である。
信長KOZ01信長帰蝶結婚49、ザビエル鹿児島到着、3年後52信長は相変わらずのうつけ、父信秀病に倒れる
ザビエルの足跡日本国内(P83)
鹿児島には五〇年の八月まで滞在した。約一年間である。その間獲得された信者は一〇〇人。それもアンジロウが家族・縁者・知人に働きかけたからこそ得られた信者であった。領主島津氏の当主は貴久。ザビエルの言によれば、貴久は伊集院の居城で彼を歓迎し、臣下たちに入信の許可を与えたという。
もちろんザビエルは鹿児島に長居するつもりはなかった。初めからめざすは日本国王のいる京都だったのである。貴久は風向きがよくなれば都へ行く便も求められようとザビエルを慰めたとのことだが、実はこの異国からの風来坊に深い関心をとどめるどころではなかった。
貴久は猛将とたとえられた義弘など三子とともに、各地の豪族たちを相手にいわゆる三州(薩摩・大隅・日向)統一に乗り出したばかりであり、ザビエル滞在中も加治木の肝付氏、帖佐の祁答院氏、蒲生氏らと
P82 ザビエルは司祭コスメ・デ・トルレス、修道士ファン・フェルナンデスを伴って平戸へ移った。「領主が神の教えの広まるのを喜ばないことが分かってきたので」他の土地へ行くことにしたとザビエル自身が語っている。
さすれば貴久の態度も変わったわけだが、これはむろんザビエル一行の強烈な異教排撃のせいであったろう。島津氏は前世紀以来篤く禅宗を信じ、薩隅は禅宗大繁昌の地だった。ザビエルらはその禅宗を無神論として批判したのである。
貴久の機嫌がよかろうはずはない。ザビエルは島津氏の丸に十の字の紋章を見て、キリスト教ゆかりではないかと考えたことのあったが、蜜月は早々と終わった。
めざすは京であるからには平戸にも長居の要はない。しかし、二一歳の領主松浦隆信は大いに好意を示し、ふた月の滞在中に一〇〇人の信者を得た。フェルナンデスはよほど語学の才があったらしく、このころにはもう日本語で説教ができた。
平戸にはすでにポルトガル船が入港するようになっていて、ザビエルらがここへ移ったのもそのせいだし、隆信が大歓迎したのも貿易の利に釣られてのことだった。ただこの人物、宣教師たちに対して叛服つねならぬ厄介な存在になるのだが、それはのちの話。
一挙にめざすのには京は遠すぎる。そこでまずフェルナンデスを伴って山口を訪れた。トルレスは平戸の信者のために残すのである。山口は中国地方の雄、大内氏の本拠で、それを承知の上での訪れである。ザビエルは領主大内義隆の前で一時間以上にわたって教義を述べ立てた。
義隆は黙って聴いていたが、男色の罪は禽獣以下だというくだりになると激怒した表情を示し、ザビエルらはまわりから退出を促された。通訳に当たったフェルナンデスは自分たちは殺されるに違いないと思った。
ザビエルは、山口で信者になったものは少数で成果があがらないので都へ行く決心をしたと言っている。しかし、そもそも彼の壮途の目的地は京だったのである。国王すなわち天皇を説いて布教の許可を得るつもりで、あわよくば入信させようという考えもあったことだろう。
まず支配者を入信させるというのは、創立者イグナP83チオに始まるイエズス会の戦略なのである。彼は支配者の子弟が入会するのをことのほかよろこんだという。彼らを介して権力者へ働きかけることができるからだ。まずトップをねらえ。ザビエルもイエズス会のこの戦略に終始忠実であった。
P83 苦難の旅であったが、とにかく京都へは着いた。一五五〇年末か、明けて五一年一月のことである。だがザビエルは宮中へのつてなど持たなかったし、都をとり巻く政治情況の不安定さを見れば、布教許可なをとりつける実権者すらさだかでないことに気づかざるをえなかっただろう。
この世紀初頭に端を発する細川管領家の内紛がもたらした無政府状態は、ザビエル入京時には頂点に達していた。細川家家宰から成り上がった三好長慶が将軍義輝と主君細川春元を逐って入京したのは前々年のことで、その権勢も安定にほど遠く、義輝・春元連合にいつ京から追い落されるかしれたものではなかった。
麒麟がくる05 京の状況、光秀、伊平次を探し求めて本能寺へ、細川藤孝との出会い、松永久秀との再会、抑止力しての鉄砲
ザビエルは京都に一一日しかとどまらなかった。はるばるめざして来た日本国王がこうも影の薄い存在だったとは、のちに彼は手紙の中でこのように書く。日本人は「一人の王国を戴いてはいますが、P84一五〇年以上にわたって彼に従っていません」。
帰るところはトルレスの待つ平戸しかなかった。ザビエルの留守中、トルレスは領主の親族である有力武将籠手田一族を入信させるなど、一定の成果をあげている。しかし、九州の一隅にささやかな法燈を掲げる気などザビエルにはなかった。
彼のまぶたに浮かぶのは、周防・長門・豊前・筑前の守護を誇号する大内氏の首都、勘合貿易の利によって繁栄した山口の面影であったろう。領主義隆の気分を害したとしても、その後迫害を被ったわけではない。幸い彼の手許にはインド副王のもたせてくれた豪華な贈物がある。
都がだめなら、拠点を築くべきはやはり山口である。彼はトルレス、フェルナンデスを伴い、贈物をたずさえて再び山口へ向かった。贈物のせいか、今度は義隆も機嫌うるわしく、ただちに布教と領民の入信を許可したといわれる。
ザビエルがこのたび山口に滞在したのは五一年四月から九月にかけて約五ヵ月である。最初のふた月で五〇〇人の信者を得たと彼はいう。しかし、僧侶や庶民からの質問や嘲笑もかなりのもので、ザビエルらはこの時初めて日本人という異教徒のとの本格的な宗教論争を経験したといってよい。
坊主は容易ならぬ論争相手だった。この経験はこのあとの展開するイエズス会の日本布教にとって、イニシエーションというべき重要性をもつものだった。しかもイエズス会はこの地で貴重な人材を獲得した。盲目の琵琶法師ロレンソがその人で、その後彼はフロイスによれば「今日までイエズス会が日本で有したもっとも重要な説教師の一人となった」のである。
しかし、ザビエルは山口に落ち着くさだめにはなかった。豊後にポルトガル船が入港したと聞いてその地へ向かったのである。彼は来日以来、インドから一通の手紙も受け取っていなかった。今度の船こそそれを載せて来たのかもしれない。
しかし豊後の府内に着くと、その希望も失われた。インドへ帰ろうという気はそのとき起こったのではなかろうか。山口に残したトルレスとフェルナンデスは拠点を守り続けるに違いない。ここは一度インドへ帰って、増援の手筈を調えるべきだ。ザビエルがそう考えたというのは納得できる推測である。
P85 だが、豊後から船出した彼は再び日本へ帰ることはなかった。ザビエルが日本を去ったのは、再渡来の意志あってのことか否か。従来の史書は再来の意志があったとするものが多いが、ザビエル自身の言動に確証を徴することはできない。
事実のみに従えば、彼はインドへ帰る旅の中途で中国伝道の志を立て、帰還後イエズス会内の内紛を調停・解決したのち、広州湾の上川島で中国入国の機会をうかがううちに病を発して長逝した。
・ザビエルの眼に映った「日本人」像 P85-88
そもそも彼が根拠と定めた山口を去って豊後に赴いたのは、ポルトガル船より通信を得るためで、インドへ帰るつもりではなかった。船が彼への通信を一切積んでいないのを知って、初めて帰還の意志が生じたのである。インドのイエズス会にザビエルの日本伝道を支援する態勢がないことを知り、ひとたびゴアへ帰って態勢を立て直そうと彼が考えたのであれば、再訪は当然予定されていたことになろう。
だが、インド帰還後彼の関心は決定的に中国伝道へ移った。日本への幻滅あるいは嫌厭の情があったのではない。「日本の人びとは慎み深くまた才能があり、知識欲が旺盛で道理に従い、またその他さまざまな優れた資質がありますから、彼らのなかで大きな成果が挙げられないことはありません」といい、さらに「インド地方で発見されたすべての国のなかで、日本人だけがきわめて困難な状況のもとでも、信仰を長く持続してゆくことができる国民だ」とも彼は語っている。
このきわめて明るい展望二年余りの伝道で得た確信だったのである。また彼は日本伝道中「私の生涯でこれほどの霊的な満足感を受けたことはけっしてなかった」とも書いている。それなのに彼は望み多い日本を再び訪れようとはしなかった。
もちろん彼自身が語っているように、中国はあらゆる意味で日本の本家である、中国を教化できれば日本伝道も意のままになるという見通しもあったことだろう。また、バルタザール・ガーゴら三名のイエズス会士を日本に送りこむ手順を終えて、彼自身が再訪せずとも日本宣教を進める目途が立つ思いだったのかもしれない。
おそらくザビエルは日本での苦難を再び繰り返す気になれなかったのではないか。コチンから在欧イエズス会士へ送った書信のなかで、肉体的には元気だが、日本から「精魂尽き果てて」帰って来たといっている。
四十六歳、頭はすでに白髪に覆われていた。彼が日本での数々の労苦や危険を経験するまで、自分のなかにどれほどの悪と惨めさが潜んでいるのか認識していなかったというのも、彼の受けたダメージが大きかったことの証拠である。
彼によれば、日本は死ぬほど寒いところだった。食べものといえば米と少量の野菜。昼も夜も訪問客が押しかけて質問攻めで、祈りや黙想するひまもなく、食事と睡眠の時間さえない。日本人は「ほんとうにうるさい人たち」なのだ。
しかも常に死の危険に脅かされる。たとえ収穫の見こみは大きいにしても、それを刈り取るには尋常ならざる志操が求められるのである。もちろん、中国伝道だって日本の場合に劣らぬ苦難が予想される。しかし、それは今のところまだ夢である。
ザビエルは日本での苦労を繰り返すより、もう一度夢を見たかったのであろう。日本での辛酸の慰めを得られると思って帰りついたインドで、宣教師間の醜い対立を見出して「悲嘆に暮れ」ねばならなかったからだ。
中国宣教は燃え尽きんとするザビエルの生命が求めた最後の夢だったように思える。
ザビエルの眼には、日本人は「今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられない」といったふうに映った。富より名誉のほうを重んずることや、盗みを憎んで厳罰に処するのは、キリスト教諸国にも見られないところでザビエルは感銘を受けた。しかし、彼は同時に日本人を相当うぬぼれの強い人びとと見たようである。
武器の使用と馬術にかけては自分たちに及ぶ国民はいないと信じて、他国人すべてを軽蔑する。好戦的でいつも戦をし、もっとも武力に優るものが支配者となる。食生活は貧弱なのに、不思議なほど健康で老人が多い。
しかし彼の日本人観のうちで最も重要なのは、何といっても、道理を受けいれやすいという一点だろう。
異教の教理に対して、彼らは頭から否定したり嫌悪したりすることはなかった。ザビエル自身がいうように、彼らはむしろ進んで宣教師の宿舎に押しかけ、好奇心を示し議論を挑んだ。異教の説くところに道理があると納得すれば、ためらうことなく入信したのである。
もちろん、ザビエル一行を嘲笑する者たちもいた。一行はいたるところで、子どもたちにつきまとわれ石を投げられた。だがこれは、大道で異教を説く異国人に対するふつうの反応で、どの国においても見られる庶民のならわしに過ぎない。
仮に仏教の一派がこの時代にヨーロッパへ赴き伝道を試みたとしよう。石を投げられるどころの騒ぎではなく、悪魔の使徒として火刑台へ直行せねばならなかったことだろう。一六世紀中葉の時点では、日本人はまだ異端・邪宗の観念に煩わされることはなかったのだ。
彼らは初めザビエルの説く異教をシャムあたりから来た仏教の一派と思ったらしいが、やがて仏教とまったく異なる新奇な考えだと悟った。それでも彼らはこの新奇な教えに好奇心を示したのだった。つまり彼らは鎌倉新仏教の諸宗派の出現以来、新奇な分派というものにはなれっこだったのである。
キリスト教は仏教の分派ではないにしても、異端・邪宗として旧仏教から弾圧された一向宗・日蓮宗が定着し拡大して行った経緯からして、新奇な教えに対しての当時の日本人の大多数は免疫を持っていたといえるのではあるまいか。
同時代の真宗教団、法華経教団は異宗排撃という点では極度に戦闘的だったが、これは当時の一般の態度ではない。ふつうの日本人は宗教については態度が流動的で、多宗派の共存を認める寛容の持ち主であったようだ。
島津家の菩提寺である曹洞宗福昌寺の住職忍室がザビエルと親交を保ったのもそのあらわれであろう。ザビエルの認めるたころでは、日本人は自分の意志で宗派を選び、一家のうちで夫と妻と子どもらがそれぞれ別な宗派に属するのも珍しいことではないのだった。
このような寛容がキリスト教伝道に利したことはいうまでもない。しかし、多宗派共存はまた競合ということでもあり、当時、異宗間の教義論争すなわち宗論は公開されて庶人のホビーの観を呈していたらしい。これはザビエルらが彼らを悪魔の手先と敵視したのだから当然の反応だ。
ザビエルは坊主らの「優れた才能と鋭い頭脳」を認めざるをえなかった。彼がイエズス会本部に哲学と弁証法の心得のある者の派遣を求めたのも当然である。
・後任トルレスの苦闘 P88-90
ザビエルが去ったのち、ゆたかな稔りの予想される日本宣教の大任を担ったのはコスメ・デ・トルレスである。トルレスはスペイン人で司祭としてメキシコへ赴き、フィリピン経営のために派遣されたビリャローボス艦隊に従って、モルッカ諸島の南のアンボイナ島でザビエルと出会ったのである。一五四八年イエズス会士となり、翌年ザビエルに従って来日した。
彼はザビエルが京へ向かったあと、平戸で信者の獲得に努めていたが、やがてザビエルが本拠と定めた山口に呼ばれ、彼がインドへ去ると、フェルナンデス修道士とともに本拠を守ることになった。トルレスは最初から試練にさらされた。
ザビエルが山口を去ると、それまでこの傑出した人格の威をおそれていた仏僧たちが、遠慮会釈もなく修道院へ乗りこんで議論を吹きかけ始めたのである。トルレスはトマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスのような偉大な神学者でさえ、信仰の力なしには彼らの議論にうち克つことはむずかしいと感じた。
さらに、ザビエルがインドへ去ったひと月前には、山口の太守大内義隆が部将の陶晴賢に叛かれて自害していた。山口は戦火に焼かれ、トルレスらは身を潜めかろうじて命を保ったのである。
一方、新たな展望が豊後で開けつつあった。インドに発つ前、ザビエルは豊後の太守大友義鎮に会い、少P89弐・島津と並んで代々九州に威を振るった名家の当主が、宣教師歓迎の意をもつのみならず、ポルトガル国王との修好を望んでいることを知った。
義鎮はインド副王への信書を託した家臣をザビエルに同行させた。義鎮が宗麟と号するのは一一年のちのことだが、以下宗麟と表記しよう。彼はこのとき満二一歳、前年に家督を嗣いだばかりだった。この相続も二階崩れの変と称する惨劇に結果で、義鑑は長子の宗麟をさしおいて異母弟たる末子に家督を嗣がせるつもりだった。
しかし義鑑はそれに反対する重臣と紛争を生じ、末子塩市丸を殺害されたのみならず自身も重傷を負って、死の床で宗麟の相続を認めたのである。元来大友家は本貫である豊後でさえも、強力な一族部将や地方豪族を統制できず、ましてや征服地の城主たちは叛服つねならざる状態で、
宗麟の代に入って親譲りの豊後・肥後の守護職に併せ、豊前・筑前・筑後守護職を兼ねるにいたるといっても、その内実は宗麟の統率力、支配機構の未整備など、脆弱なものにすぎなかった。彼がポルトガルと結ぼうとしたのも、その脆弱さを自覚していたからかもしれない。何しろ彼はポルトガル国王の臣下になりたいとさえ申し出ているのだ。
宗麟は好奇心旺盛で複雑な性格といわれるが、ポルトガルとキリスト教への関心も実は若き日に培われていた。一五四五年、ジャンク船に搭乗してジョルジ・デ・ファリアというポルトガル商人が豊後を訪れた。義鑑はこれを殺して財産を奪わんとする中国人パイロットの奸策を用いようとしたが、宗麟が父を諫止したという。これは彼が一五歳のときである。
ファリアは三年間豊後に逗留して、この間宗麟の弟八郎晴英が銃で掌に傷を負ったとき治療に当たったという。また、ディエゴ・ヴァス・デ・アラガンというポルトガル人が五年間滞在したが、商人でありながら日夜神に祈る姿を見て、彼の信じる神はよほど偉大にちがいないと思ったとのちに宗麟は回顧している。
だがトルレスは、豊後の開拓にすぐさま着手するわけにはいかなかった。彼はフェルナンデスとともに山口の教圏を守らなければならなかったのだ。義隆を弑したのち陶晴賢は、大内氏の後嗣として宗麟の弟八郎を立てた。大内義長と名のり五二年春山口へ入った八郎は、この九月トルレスに有名な大道寺創建の裁許状を与えた。山口の教会はこののち義長の庇護のもとに五年間成長を続けることになる。
豊後の宣教は五二年九月、バルタザール・ガーゴ司祭が二人の修道士を伴って着任したことによって現実化する。これはむろんザビエルの手配によるもので、彼らはマラッカでザビエルと別れて日本へ向かったのである。
ガーゴ一行は宗麟から歓迎されたが、宣教は順調に進んだわけではなかった。宗麟の家臣統制は相変わらず不安定で、翌五三年二月には府内で反乱が起こり、宣教師たちは身の不安を感じた。
・豊後布教とアルメイダの病院 P90-93
P90 豊後の宣教が進み始めたのは、五五年になってルイス・デ・アルメイダが事業に参加してからだろう。この人は新キリスト教徒と呼ばれる改宗ユダヤ人の家の出で、商人として来日し、イエズス会士の活動に感銘を受けて二〇〇〇クルザードを寄付するとともに、外科医の免許を持っていたところから、まずは医療活動を通じて宣教を助けようとした。
信長KOZ05信長道三会見 アルメイダ、イエズス会入会(14分過ぎ) 帰蝶里帰り 斯波義統死
(略)
P91 宗麟もまた謀略を常とした戦国武将の一人だった。日本宣教の根拠地はかくして山口から豊後府内へ移った。トルレスはすでに頭に白髪をいただき、かつては肥満体であったのに見違えるほど痩せ果てていたといわれる。
宣教師たちは宗麟に信ずべき庇護者を見出したが、当時九州の覇者と目された彼の権力基盤が意外に脆いものであることにすぐ気づかねばならなかった。トルレスらが一五五六年山口から豊後府内へ移った二ヵ月後、
メルシオール・ヌーネス・バレトを長とする司祭二名、修道士六名からなる第三次日本ミッションが豊後に着いたのは、ちょうど宗麟に対する重臣の反乱が起こったさなかで、誤って反乱者の領地へ入港した彼らは、宗麟は逃亡しパードレは殺されたと聞かされる始末だった。
反乱は鎮圧されたし、殺された宣教師は一人もいなかったが、宗麟がことのとき府内を退去して臼杵丹生島に築いた新城へ移ったのは事実だった。重臣は一人もいなP92かったというから、宗麟の家臣団統御にはなお困難な課題が残されていたわけである。
ヌーネス・バレトは宗麟のインド副王宛書簡などから、彼がすぐに入信するものと信じていたが、意外にも彼の態度はしぶとかった。討論のために仏僧を招いてほしいというヌーネス・バレトの願いにも、首を縦に振りながら実際には招こうとしない。
仏僧たちに恥をかかせたら、その背後にいる重臣層の心証を害すると考えているのはヌーネス・バレトの目にも明らかだった。事実、重臣たちの大多数は宗麟の宣教師保護に反感を持っていた。反対党の頭目は宗麟夫人で、これは奈多八幡宮の大宮司の娘。
その兄の田原親賢はフロイスの言うところの「国内第一の大身」ながら、これまた反対派。宗麟がパーデレたちに、重臣たちを説得したあとでないと改宗できぬと言訳したのももっともというべきだ。だが実は彼自身、キリスト教にひかれ宣教師に好意を抱いてはいたものの、その一方、臨済禅の檀家たることをやめる気もなかったのである。
この年彼は京都大徳寺に瑞峯員を建立寄進し、またこの数年後臼杵に寿林寺を建て、瑞峯院の名僧怡雲をそこに招いて自ら修禅した。つまり、キリスト教も禅も救済に到る入口として併存してさし支えないという、当時の日本人の顕著に認められる心性の一例に、この段階の宗麟はとどまっていたといえるだろう。
信者二〇〇〇を数えた山口教会の崩壊後、日本宣教の根拠地は豊後であるべきであり、それゆえこそガーゴの第二次ミッション、ヌーネス・バレトの第三次ミッションがこの地に送りもまれていたのであるのに、豊後教会の存立はひとえに宗麟の保護にかかっており、宣教師たちは周囲の悪意にとり巻かれていた。
信者こそやっと一五〇〇に達したというものの、武士や有力者の入信は一人もなく、信者は彼ら宣教師自身が認めるとおり、貧乏人と病人と「悪魔憑き」だった。「悪魔憑き」というのはいわゆる狐憑きのことで、宣教師が彼らを正気づけた記録甚だ多い。治癒した患者とその家族が入信したのはいうまでもない。
病人が入信したというのは、アルメイダが病院を開いたからである。当時の西洋医学の水準は大したものではなかったという意見もあるが、アルメイダのいうように日本では外科手術は行われておらず、彼自身は母国で外科医の免許を受けていたのだから、当時としてはかなりの治療効果があがったらしい。
われわれの使う薬は不思議によく効くと彼はいっている。京にまで評判が伝わったというのも、病院というコンセプトの斬新さを思えばありえないことではあるまい。それにしても、アルメイダの育児院と病院、それに教会の行う慈恵などが誘い水とあれば、入信者が貧民に傾くのは当然である。
身分ある者は施しを受けるのを恥じとしたから、貧民の入信は逆効果となった。これはのちに京都のような都市でも見られるところだが、府内でも町内の規則が厳しくて、町人の入信はほとんど生じていない。豊後教会の基盤は町内からはみ出した下層民のほかは、朽網郷のように一村こぞって入信する農村部にあった。
ヌーネス・バレトはイエズス会東インド管区長の身分のまま来日したのだが、滞日わずか四ヵ月でインドへ帰った。日本の「食物とベッドのために病にかかった」のだ。つまり、味つけしない米と木の枕にやられた。ほとんど死なんばかりだったというけれど、もともとこの人は学究肌で、苛酷な環境での宣教には向かなかったようだ。
日本に来るのにも海賊やら台風やらひどい目に遭った。マラッカから豊後に着くのに一年三ヵ月もかかっている。途中、日本行きをやめようと再々思った。到底ザビエルの真似は無理だったのだが、彼の事例は宣教師たちがどんな苦難を乗り越えて来日したのか、まざまざと語ってくれる。宣教師だけではない。商人たちにとっても、荒れる南シナ海と日本近海は手ごわい障壁だったのである。
・血気はやるヴィレラの平戸追放 P93-96
しかしヌーネス・バレトは、ひとりの有能なパードレを連れてきた。当時三〇歳を出たばかりのガスパール・ヴィレラである。一五五七年九月、ヴィレラはトルレスの命で平戸へ派遣された。平戸は一五五○年からP94翌年にかけてトルレスが布教した土地である。
五五年以来ガーゴが布教していたが、宗麟が博多で土地を与えるというのでガーゴはそこへ赴き、代わりにヴィレラが平戸へ赴任した。ここには五〇〇の信者がいた。
このころポルトガル船の入港地は平戸に固定しつつあった。ポルトガル商人は初め中国人のジャンクに搭乗して来日したのであって、一五四六年になってポルトガル船が薩摩を訪れ、その後豊後にや平戸へ足を延ばすようになった。
従来中国と日本の間の海上交通は、寧波から来る船は五島方面へ、福建・広州より来る船は坊津など薩摩諸港へ向かうのが、風向きからしてふつうだった。ポルトガル人は南中国から中国人にならって渡航したのだから、当初薩摩諸港に入ったのは当然のことだが、やがて平戸の存在を知り、一五五三年から連年入港するようになった。
というのは平戸には京・堺の商人がやって来たからである。平戸は倭寇の根拠地のひとつだった。倭寇とは明朝の海禁策をかいくぐって密貿易を強行する日本人・中国人合同の武装海商であるが、その巨魁たる王直が五島に居を構えたのは一五四八年である。
彼が中国官憲に誘引されて斬られるのは五九年だから、ヴィレラの平戸行きのときはまだ健在で、彼らの南中国侵攻、すなわち嘉靖の大倭寇はこのころが盛りだ。彼らのやったことは海賊行為とはいうものの、実態は日中貿易である以上、京・堺の商人が平戸・五島方面と強いつながりを持ったのは当然の話だった。
ポルトガル船が豊後を入港地として選ばなかったのは一見不思議だ。そこの領主は当時最も信頼できる宣教師の保護者で貿易にも意欲的である。京・堺にも平戸よりずっと近い。しかしこの謎は、ポルトガル人が倭寇のとの関連で来日した経緯を知れば解ける。
当時マラッカに在ったフロイスが見通したように、この日中間の戦争によって中国船は日本に来なくなり、ポルトガル船にその空隙を埋める好機が訪れた。ポルトガルの日本通商は倭寇が作り出した枠組みに規定されていたのだ(参照)。
だとすれば、寄港地として落ち着く先は、倭寇以来京・堺とつながる五島・平戸方面でなければならなかった。一五五三年から連年平戸へ入ったのはドゥアルテ・ダ・ガマP95の船である。この人物は五〇年から六年間九州に来航したといい、五一年豊後からザビエルをインドへ連れ帰ったのも彼の船であった。
篤信の人で、ガーゴ司祭の書簡によれば、五五年にいたる六年間インドのイエズス会から日本在留のミッションに一回の通信しかなかったが、その間在留ミッションの財政はガマの喜捨によって支えられていた。ガーゴが平戸へ赴いたのはひとつはガマの船のポルトガル人の告解を聴くためであったのだ。
平戸はすでにトルレスの努力によって信仰の種が播かれ、有力な籠手田一族が保護者になっていたが、問題は領主松浦隆信が貿易の利に誘われて好意を示しつつも、内心はキリスト教の領内布教を嫌っていることにあった。
彼はポルトガル船の入港を切に願いながらも、それに伴う宣教師の領内の活動を抑制しようと望んだ。これは矛盾であって、ある時は宣教の便宜を与えるかと思えば、事あるごとにそれを取り上げようとした。宣教師たちもやがて彼の二心に気づくに至った。
隆信は一五五五年おそらくガマの船に託して、当時日本をめざしてまだマカオに滞在していた東インド管区長のヌーネス・バレトに書簡を送り、平戸に来れば厚遇すると約束したが、そのなかで「私はさきに一度欺いたけれども、再びそうすることはない」と書いている。
宣教師に保護を約束しながらそれに背いたのを自ら認めている。だが、このヌーネス・バレトへの誓言も守られることはなかった。
松浦党は平安末期から肥前国松浦郡を中心に勢いを張った一族であるが、その傍流で平戸島から北松浦郡さらには壱岐国を併せて戦国大名としての地位を確立したのが平戸松浦家である。当主隆信は南の大村氏と争うとともに、このころにわかに擡頭した佐賀の龍造寺氏に備えねばならず、ポルトガル船の誘致は財政強化策として切に望まれることころだった。
ヴィレラはそういう状況下の平戸へ乗りこんだのだった。この時までは隆信は二心を蔵しつつも宣教師を表面上は歓迎し、両者の間は円滑であった。この両者のうわべの平和を一気に破壊したのが血気にはやるヴィレラである。
彼は信者であるドン・アントニオ籠手田安経に給された平戸北方のP96生月島・度島などで布教を開始し、熱心のあまり信者に神社仏閣から偶像や書物を運び出させ、海岸に積みあげて火を放った。仏僧が怒ったのは当然であろう。
「我らは仏様に加えられたかくもひどい辱めを黙ってはおれぬ。いわんや一人の異国人によってそんなことがなされては」。『日本史』の著者フロイスはこう彼らの言葉を伝えている。仏僧たちは隆信に愁訴し、ついに隆信も教会の閉鎖とヴィレラの追放を決意した。
それでもまだ彼には、宣教師と決定的に手を切るつもりはなかったのである。彼はヴィレラにこのように告げた。「民間に不穏な様子が濃いので、バテレン殿は当地から退かれる必要がある。後日人びとが平静に復するならば、予が貴殿を呼び返すだろう」。
近時はそういう風潮もよほど薄らいだが、ひところまでキリシタン史の叙述者は、宣教師に好意的だったり入信したりした者を肯定的に扱い、宣教に好意を持たぬ領主や仏僧を悪玉視する傾向があった。だが考えてもみよ。
日本の仏教ミッションがヨーロッパの一角に上陸し、教会堂からイエス像や聖書を持ち出して焼いたならば、騒ぎはこの時の平戸の比ではあるまい。それを思えば、隆信の反応は甚だ穏やかものだといわねばならならない。
隆信を悪玉視するのは欧米の文明を人類の正道と信じ、その移入に抵抗する者を反動と決めつける明治以来の因襲であろう。
・一年で滅んだ横瀬浦港 P96-101
ヴィレラは一五五七年に平戸入りして翌年には追放され、活動期間は一年に満たなかったが、彼の行動は予期せぬ重大な結果を招いた。すなわち宣教師たちは平戸の教会閉鎖を重大視し、平戸にかわるポルトガル船の入港地を探し始めたのだ。
もっとも、入港したポルトガル人は司祭に告解をする必要があるから、入港地は司祭の駐在するところが望ましい。だが、宣教師たちが新たな入港地を求めたのは、そればかりではなく明らかにP98隆信に対する懲罰だった。
松浦氏とポルトガル人との間は直ちに決裂したわけではない。ヴィレラが逐われた五八年から六一年まで連年ポルトガル船は平戸港に入ったし、六一年には五隻の多きを数えた。ポルトガル海商はとくに平戸へ入るのを好んだというが、むろんそれは京・堺の商人との取り引きができるからだった。
だが、六一年には平戸の宮ノ前というところで日本人とポルトガル人の大がかりな争闘が生じた。ことは絹布取り引きの際の価格についての口争いに端を発したのだが、それを仲裁しようとした武士にポルトガル人が斬りかかり、武士がよんどころなく斬り伏せたところ、双方仲間を呼び集めての乱闘となり、十数人のポルトガル人が殺されたというのだ。
ポルトガル人は隆信に日本人の処罰を求めたが、彼は言を左右にして応じない。だが、このままではまずいと考えたのだろう。翌六二年になると隆信の態度はいちじるしく融和的になり、教会の再建さえ認めるそぶりである。
だが、日本布教長トルレスは豊後に在ってすでに平戸の地を見限っていた。彼は肥前地方の松浦氏より信頼できる大名領に、宣教の根拠となるべき入港地が見るかるのではないかと考え、すでに六一年のうちにアルメイダを同方面に派遣していたのである。
アルメイダ一行は大村湾の入口に位置する横瀬浦に平戸に代わる適地を発見した。領主大村純忠の重臣朝長純利と接触してみたら、手応えは十分である。アルメイダの復命を受けて、トルレスはさらに内田トメを大村へ派遣した。
内田はザビエルが山口に滞在した時の宿主であり、その後トルレスに従って豊後へ移っていたのだ。彼は大村純忠に会い、横瀬浦を教会領として寄進し、一〇年間関税を免除する確約を得た。向背つねならぬ松浦氏の平戸を忌避して、信頼できる教会の保護者のもとにポルトガル船の入港地を求めるというトルレスの心願はかくして成就された。
しかしこれこそ、イエズス会士がポルトガル貿易船の入港地を左右するという、本来の宣教から逸脱する行為の端緒を開くものにほかならなかった。大村家との交渉の詰めは六二年七月、やはりアルメイダによって行われた。
アルメイダは前年一一月からこの五月まで薩摩を訪れており、文字通りP99東奔西走だったわけである。彼がトルレスからこのように重用されたのは、ガーゴ司祭はすでに六○年にインドへ帰還し、ヴィレラ司祭は五九年に京都へ派遣されて、ほかに人材がなかったのだろう。
彼はまたそれだけの外交家だった。交渉は横瀬浦港とその周辺の土地の半分をイエズス会の所有とし、住民は全員クリスチャンとする、貿易の関税は一〇年間免除ということで決着し、その年のうちにマカオを発したペドロ・バレトの船が横瀬浦港へ入った。
日本イエズス会はこの時日本貿易のみならず、大名諸侯に対して初めて主導権を握ったのである(関連)。
開港直後、布教長トルレスは自ら横瀬浦を訪れた。イエズス会が新たな根拠地を得たことの意義を誤たず認識したのだ。これまでポルトガル船が出入りしたのは、いずれもすでに港として名のあったところだ。ところが横瀬浦は二、三軒の藁ぶきの家があるだけで、ここを港として開いたのはイエズス会なのである。
しかも港周辺の土地は会に寄進された。会は治外法権を伴う根拠地を獲得したのであって、その意義は重大である。豊後ですら、会はこのような特権を享受してはいない。トルレスは自らこの根拠地を固めた後はまた豊後へ帰るつもりだったが、情勢の推移は彼に帰還を許さなかった。
日本イエズス会の本部は事実上このとき横瀬浦へ移ったわけである。横瀬浦には司祭館や教会が建ち、住民もふえ、彼らはすべてクリスチャンである。むろん商人もやってくる。港が繁昌に向かっただけではない。翌一五六三年に入ると、領主大村純忠自身が受洗した。
横瀬浦の未来は盤石であるかに見える。しかし、それは大村氏という樹木が健在の限りであって、親木が倒れれば寄生木は枯れねばならない。
大村氏の祖は平安末期にさかのぼるが、彼杵郡大村に本拠を構えて勢力を張るようになったのは一六世紀初頭であったらしい。純忠は島原の有馬晴純の二男で、一五三八年に大村純前の養子となり、純前の死(一五五一年)とともにあとを嗣いだ。
大村家と有馬家は代々婚姻を重ね、晴純の妻すなわち純忠の母は純前の妹であっP100て、純忠が伯父のあとを嗣ぐのは不自然ではないが、純前には実子貴明がいた。その貴明を武雄の領主後藤純明の養子に出して、有馬家から純忠を迎えたのだから尋常でない。
有馬氏は晴純のとき最盛期を迎え、島原の高来を本拠に所領は二一万石にのぼり、二万の兵を動かしえたという。だが、大村氏の家臣団には純忠に服さずして、後藤貴明に心を寄せるもの少なからず、純忠の地位は極めて不安定だった。
純忠は入信後、軍神として尊崇されていた摩利支天像を焼き、さらに養父純前の位牌をも焼き棄てた。彼は入信時トルレスに、兄の有馬義貞が熱心な仏教徒であるので、その手前急激な寺院破壊はできないと断っており、さらに後年日本巡察師ヴァリニャーノに、神社仏閣の破壊はバテレンが教理に反するというので不本意に行ったにすぎないと語った。
入信直後の気のはやりもあったろうが、同盟を結んだイエズス会に対して誠意を見せる必要が彼をこうした行為へ走らせたのだろうか。純忠には領国支配を補佐する十二名の老臣がいたが、彼らは純忠の行為に衝撃を受け、折から後藤貴明が好機と見て反逆を唆したのに応じて、一五六三年八月純忠と宣教師の殺害を謀った。
純忠は辛うじて多良岳の寺に逃れたものの、このあと数年領国の支配権を失ったのである。横瀬浦も焼かれた。火を放ったのは豊後から来た商人団で、この機に乗じてポルトガル人の財貨を奪おうとしたのだ。トルレスたちは碇泊中のポルトガル船へ逃れた。
その中にはのちに『日本史』を著わすことになるルイス・フロイスもいた。彼はイエズス会第四次ミッションの一人として先月横瀬浦に着いたばかりだった。こうして日本イエズス会の希望を担った横瀬浦は一五六三年わずか一年で滅びた。
横瀬浦が滅びる前、トルレスは有馬義貞の要請を受けて彼の領国へアルメイダを派遣していた。義貞の好意をバックにしてアルメイダは島原・有家・口之津などで順調に布教を続けた。だが、八月に入って反動が来た。
龍造寺氏の攻勢にたえきれず多久城を喪ったことや、大村における純忠の失権が義貞の権威を揺るがせたのだろP101う。すでに一五五二年に義貞に家督を譲り仙厳と号していた晴純が、仏僧たちの意を受けて実権を握り、改宗者の弾圧に乗り出したのである。
だが改宗者たちはよく堪え、有馬領から信者が消え去ることはなかった。トルレスは横瀬浦焼き打ちののち、港内に碇泊するポルトガル船内で四ヵ月過ごした。そのあと大友宗麟の支配する肥後国の高瀬へ難を避けたが、ここでの生活は困難を極めた。
だが仙厳は宗麟の書状による説得を受けて、トルレスを領内に招く気になった。彼はアルメイダに「口之津はキリシタンのものだから、バテレン殿はそこへ行かれるがよい」と語った。一五六四年の初め、老トルレスは口之津についに栖を得た。
この天草島と向きあう島原南端の港は、やがて住民すべてが改宗者というキリシタンの町となる。
・カピタン・モール平戸入港は司祭駐在が条件 P101-103
横瀬浦焼亡のあと、船はふたたび平戸へ入るしかなかった。一五六四年、マカオを発った三隻の船が平戸へ着いた。一五五七年ごろポルトガル人がうやむやのうち居据って開いたマカオは、それまで南中国沿岸のあちらこちらを移動していた彼らが最終的に落ち着いた通商拠点で、一五五九年以来ゴア発マカオ経由のカピタン・モール座乗の官許船が連年日本を訪れることになる。
カピタン・モールとは貿易船隊の司令官として本国政府ないしインド政庁により任命され、航海中および航海先の港における軍事・政治・通商すべてに責任をもつ者のことであるが、日本航海の場合、ゴアからマカオを経て日本へ至る毎年一隻の官営船の司令を意味し、航海中はむろんのこと、日本においてポルトガル政府を代表するのみならず、一六二三年マカオ政庁が開設されるまで、マカオ統治の任に当たったのであるから、事実上マラッカ以北の移動総督といってよかった。
カピタン・モールは国王の恩顧、植民地経営の功績などにより、毎年航海ごとに任命されたが、この地位は莫大な利益を生むものであったから、のちには財力のある者にP102転売されることも生じた。日本へ最初に来たカピタン・モールは一五五六年豊後来航のマスカレーニャスで、これ以前渡航したポルトガル船は全部私営船である。
ただしマスカレーニャスの船は浪白澳から来たので、マカオ経由はルイ・バレトを以て嚆矢とする。もちろん、カピタン・モール座乗の官営船以外に、私営船で渡来する商人があったことはいうまでもない。
さて一五六四年には、まず一隻のナウと一隻のジャンクが平戸港外に着いたが、船長たちは当地にいる司祭から入港許可を得ることを望んだ。松浦隆信は度島にいたフロイスの許に使者を送って、戦のためまだフロイスに挨拶していなかったことを詫び、ポルトガル船に入港許可を与えんことを乞うた。
やむなくフロイスは許可を与えたけれど、やがて着くべきカピタン・モール座乗のサンタ・クルス号については簡単に平戸入りを認める気はなかった。トルレスから口之津入りを司令されていたのだ。サンタ・クルス号は、八月横瀬浦に着き小艇に港内を探らせたが人影を見ず、やむなく平戸へ向かうとともに、度島のフロイスの許へ使者を立てた。
平戸沖でサンタ・クルス号に乗り込んだフロイスは、カピタン・モールたるドン・ペドゥロ・アルメイダに平戸へ入るべからざる旨を告げた。アルメイダはただちにフロイスの意に従おうとしたが、乗客の商人たちが聞かない。
彼らは航海途中台風もためにあわや難破する目に遭ってきたので、やっと日本まで運んだ荷をぜひとも平戸で売り捌きたかったのだ。フロイス自身が認めるように「平戸の港はシナからもたらされる商品の一大消費地であり、ポルトガル人が他の何処よりよりもこの港に来るのを喜ぶ」のだった。
商人たちの強い意向に逆らえず平戸への入港が避けられぬとすれば、それなりの措置をとる必要がある。つまり入港の代償を松浦隆信からもぎ取らねばならぬのである。フロイスはアルメイダと謀って船を平戸南方二里の河内へ入れ、使者を隆信の許にやって交渉させた。
平戸に教会堂を建て司祭の駐在を認めるのが入港の条件である。隆信はこれを認めた。
P103 フロイスはサンタ・クルス号に乗って堂々と平戸へ入港し、先に港内にあったポルトガル船は祝砲を放った。ポルトガル人一行は美装して上陸し隆信の館に向かう。先年ヴィレラが「衆人の罵倒を浴びながら追い出された」(参照)ので、司祭はことさらに威を示さねばならなかったのだ。
隆信はにこやかに迎えたというが、心中はいかばかりだったろう。イエズス会はいまやポルトガル定航船の入港地を左右する地位に立ち、九州の大名諸侯もその権威を無視することはできぬのである。なお、このサンタ・クルス号でメルチオール・デ・フィゲイレド、ジョアン・カブラル、バルタザール・コスタの三人の司祭が日本入りした。遣日第五次ミッションである。
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第五章 ヴィレラ、都で苦闘す P104-118
(P104-)P104 さて、九州肥前地方(宣教師はそれを下と呼びならわしていた)での貿易と宣教の進展はひとまずここで打ち切り、これまで叙述が及ばなかったヴィレラの畿内開拓について述べたい。ヴィレラが二人の日本人を伴って豊後から京へ向かったのは一五五九年、つまり平戸から逐われた翌年の九月のことだった。
日本人の一人はかの盲僧出身のロレンソ修道士、もう一人はこのときまだ同宿だったダミアンである。ダミアンはまだはたち前後で、将来を嘱望された俊才だった。同宿というのは宣教師の侍者・下働きのことで、このうちイエズス会入会を認められる者も出てくる。
イエズス会内の位階についていうと、修練を経るうちに司祭パードレに叙品される者と、平会士すなわち修道士イルマンにとどまる者が分かれる。これは当人の希望にもよったようで、日本語をいち早く習得したフェルナンデス修道士は、日本渡来の直前ザビエルから司祭に叙品してやろういわれても固辞したという。
しかし、日本におけるイエズス会の活動は、彼ら司祭と修道士がいれば成り立つというものではなかった。第一、言語の問題がある。鹿児島の忍室和尚は後年アルメイダに、ザビエル殿のいわれることを熱心に理解しようとしたが、通訳がいないので、何のことやらさっぱりわからなかったと述懐している。宣教師たちにとって、日本語は難物であった。
P105 後年日本布教長フランシスコ・カブラルが「才能ある者でも告白を聴くのに少なくとも六年はかかり、キリシタンに説教するには一五年以上かかる」という通りであり、なかにはヴィレラのように来日六年目には、日本語は難しくない、私は大半は聞き取ることができるとうそぶく者もいたが、これはヨーロッパの同僚向けの元気づけとみてよかろう。
カブラルは一六年間日本語を研究したフロイスでさえ、信者に説教するには支障があると述べている。そのようなヨーロッパ人宣教師に代わって、人びとに向けて説教し仏僧と討論したのは誰か。それこそ日本人の修道士や同宿だったのである。
ガーゴは一五五五年、平戸からインドとポルトガルのイエズス会の修道士等に送った書簡で次のように伝えている。「山口にあるパードレ・コスメ・デ・トルレスも、説教をするもう一人の日本人を抱えています。そして、パードレは彼を通じて必要なことを語り、人びとが彼に話す言葉に答えています」。この日本人こそフロイスが日本イエズス会史上の大説教師とたたえたロレンソにほかならない。
ここでロレンソのことを「もう一人」というのは、このとき平戸へ布教に来ていたガーゴも日本人キリシタンのパウロを伴っていたのである。彼は「福音の偉大な説教師」であり、ガーゴに代わって毎日説教をこなした。
一五九○年、島原の加津佐で開かれたイエズス会総協議会では、ヨーロッパ人司祭が日本語で説教できないので、重要な聖役がつねに日本人修道士の上にかかることが問題にされ、学問を修めていない彼らが説教を行い、生涯を学問に捧げ職務を本業とする司祭が「一言も語り得ないのは、きわめて道理に外れたことだ」と慨嘆される始末だった。
このようにキリスト教宣布の上で日本人修道士や同宿の存在が必須だっただけではない。ヨーロッパ人宣教師の日常生活や教会・司祭館などの維持の上でも、日本人同宿なしにはどうにもならなかった。イエズス会は日本の政情・文化風俗に対して適応政策をとったが、そうすれば宣教師は上流の僧侶と地位が同等ということになり、例えば大身の武士を訪問するときは従者を従えて儀容をつくろわねばならない。
従者は同宿の務めるところで、一方教会に住み込んで雑務をこなす者は看坊と呼ばれた。要するに日本イエズス会の活動は、このような大勢の日本人によって下から支えられていたのだ。
・ヴィレラの畿内布教 P106-110
ヴィレラたちは一五五九年の末ごろ京都へ入りはしたものの、まずは住居の確保に苦労せねばならなかった。翌年六月、ようやく四条坊門の姥柳町に落着くまで、五回転居を余儀なくされている。というのは、しぶしぶ家を貸した家主はすぐにまわりの非難にたえかねて、バテレンたちに退去を迫るからであった。
京都の町衆の自治は一五四〇年ごろには成立していたといわれる。彼らは熱烈な法華宗徒であり、天文法華の乱(一五三六年)で寺を焼かれた後も、数年にして勢力を回復していた。自治の担い手が異宗派排撃で鳴る日蓮の徒である以上、バテレンたちを寄宿させる家が厳しい非難にさらされたのは当然である。(略)
ヴィレラらが最終的に落着いた姥柳町の家はある仏僧から買ったのである。京都町衆はの掟では、町内の同意なしに家屋・土地の売買はできぬことになっている。仏僧はヴィレラの呈示した買い値に釣られ、町掟に違反してこの家を手放したのだった。町内の人びとはこの違反をとがめて騒ぎ立てたが、フロイスによると、ヴィレラの要請を受けた室町幕府の役人が、騒ぎをとり鎮めたとのことだ。
ヴィレラはすでに将軍足利義輝に面謁して好意ある扱いを受けていたし、彼らの宿舎を乱暴からふせぎ非分の課税を禁ずる制札を得ていた。それでも町内の人びとは役人に喰ってかかり、あわや闘争に及ぶところだったというから、彼らの自律ぶりには相当なものがあった。
P107 ヴィレラ一行の五回に及ぶ転居話で強い印象を受けるのは、当時の庶民生活のおそるべき貧しさである。彼らが掘立小屋のような家屋しか借りられなかったということもあるが、それにしても夜は屋根の隙間から星が見え、床は裸土、壁は蘆の束で「誰でもどこからでも自由に出入りでき」たというからすさまじい。
彼らは畳を一枚購入してヴィレラがその上で寝み、ほかの二人は藁を敷いて土間で寝た。不自由したのは煮炊きである。豊後のアルメイダの病院で重湯を作るのに使っていた鍋をひとつ持参していただけだった。それでは足りぬので二つ購入したが、そのひとつはなんとひどく錆びついた兜だった。(略)
当時の冬は今よりずっと寒かったらしい。一五六一年の暮れから翌年の春にかけて、アルメイダはトルレスの命を受けて、ザビエルの滞在以来放置されていた鹿児島の信者を訪れたが、彼が鹿児島にいる間「いまだかつて日本で見たことのないほどの雪が降るのを見た」。(略)
ましてや京都の冬は厳しかった。ヴィレラは「寒さのために病気になった」。街を歩くと子どもたちが石や馬糞を投げつけた。将軍義輝に妙覚寺で謁したときは、従者たちに取り巻かれ、好奇心と嘲りの的となった。ある者など指をヴィレラの眼の中へ突きこまんばかりだった。
しかしこれは珍奇に触れたい一心であるから、彼らの説くところも結構珍しがられて、彼らの茅屋は山口でそうあったように、聴聞者で一杯になった。仏僧が討論を挑んだのもこれまた山口と同様である。
しかし、入信者は少数しかなかった。フロイスは養方軒パウロを始め何人かの入信者を得たことを特筆大書しているが、それはとりも直さず、入信者が少なかったことの反映である。パウロは教養があり、後年、数理P108書の翻訳など布教に大いに貢献した。
のちにいわゆる南蛮寺が建立されることになる姥柳町の住居は、京都宣教の本拠であるのに、このうち二〇年たっても町内の人びととまったくつきあいがなく、あとで修道士となった一人の若者のほか、町内の入信者はいなかったとフロイス自身が認めている。
つまり町内の人びとは町掟を無視してはいりこんだヴィレラ一行を村八分ならぬ町八分に処したわけで、唯一人の改宗者も親から勘当された。キリシタン史家の五野井隆史によれば、都市部における布教は山口を例外として、京・堺・府内のいずれでも成果があがらなかった。
堺では入信者の多くは外から来た商人で、地元の者は冷淡だったし、府内でも町衆の入信はほとんど見られず,入信したのはもっぱら貧民だった。また博多については、アルメイダが「日本で最も我が聖教を受け入れ難い市」と述べている。
このように都市部での布教が困難だったのは、町衆が存在したからだ。町衆が神社仏閣を中心とする信仰共同体である以上、異教の侵入をはね返す壁となったのは当然だった。府内の祇園祭のさい、一信者が旗を担ぐ旗を拒んだため、住居をこわされそうになり、一五日間隠れていなければならなかったという挿話は、町共同体のそうした働きを鮮やかに伝えている。
山口での布教が比較的順調だったのは、まず武士層が入信したからである。一方豊後では領主宗麟の肩入れにもかかわらず、武士層がなかなか入信せず、そのため布教対象は貧民層や村落へ向かうしかなかった。
一五六一年八月、ヴィレラは堺へ移った。その理由についてフロイスは、「都においては布教はさしあたってなんら進展しないことが判」り、ヴィレラは「キリシタンの数がふえぬままでいることには、胸中もはや堪えられ」ず、どこへ行けばもっと成果があがるか思案した上で堺へ移ったのだと述べている。
堺では日比屋了珪を頼った。了珪は商売のために九州へ下向することが多かったというから、平戸あたりでポルトガル船や唐船と交易を行ったのであろう。堺はザビエルがそこに商館を設けることを提議したほどの著名な商港であっP109たのに、ポルトガル船はそこまで足を延ばそうとはしなかった。
堺商人が九州まで出向いていたのでその必要がなかったのだ。とにかく堺にポルトガル船が入港しなかったのは、のちに秀吉が九州征伐のさい、宣教師に堺など畿内の港へのポルトガル船寄港を熱望したのでも明らかである。(略)
だが、堺でも布教の成果は乏しかった。(略)「当地で行われる商取引きのために集まる他国の人々」は進んで入信したが、地元の町衆は説教はよろこんで聴いても信者にはならない。これは彼らが裕福な商人で、世間での名誉と評判を重んずるからだとヴィレラは解した。それでも彼は翌六二年の九月までこの地に留まった。京周辺は戦が絶えず危険で、トルレスからも堺を離れぬよう指示されたからだ。
この頃義輝を擁して畿内の第一人者だった三好長慶は、六一年から六角氏・畠山氏・根来衆からなる反三好連合と戦い、苦戦の末六二年にやっとこれを斥けることができた。ヴィレラはそれで京へ帰ることを得たのだ。
京都は前世紀の応仁の乱・文明の乱の後、短期間の平穏を楽しんだだけで、この世紀の初頭からずっと兵乱に悩まされていた。その概要を述べるだけでも話はとてつもなく複雑になるのだけれど、要するに管領細川宗家の内紛が引き金となって、宗家総領ひいては足利将軍の廃位があい継ぎ、そこへ畿内各地の守護と国人層が介入して、恒常化した内戦状態となったのである。
その間に擡頭したのが細川阿波守護家の家宰三好氏で、長慶は一五四九年、すなわちザビエルが来日した年に入京して畿内に覇を唱えた。しかし長慶は一五六○年、すなわちヴィレラ入京の翌年、河内の飯盛城に入ってからは連歌の世界に没頭して、意を俗世に断つもののごとく、
P110 六一、二年の戦いに苦戦したのもそういう彼の姿勢が与ったかもしれない。代わりに実権を握ったのが家臣の松永久秀で、畠山高政が飯盛城を攻めたとき急を救ったのも彼久秀であった。ちなみに戦国諸雄のこの頃の動静をしるすと、信長が桶狭間で今川義元を倒したのが一五六○年、この時はまだ長尾景虎と称した謙信が北条氏康の小田原城を囲んだのが六一年、さらに武田信玄と川中島で戦ったのもこの年である。
結城・清原・高山ら畿内国人層の入信 P110-115
京へ帰ったヴィレラは翌一五六三年四月、ふたたび堺へ移らねばならなかった。戦雲がまた京を覆ったからである。堺へゆけば安全であったのは、むろん同地が私戦の及ばぬ平和領域だったためだ。(略)
前回の滞留で、この町の人びとが富を誇り傲慢であるのを知っていたから、布教の前途についてヴィレラはあまり期待は持っていなかった。
ところがこの地についてひと月も経たぬうちに、思ってもみないチャンスが彼の前に転がり込んで来たのだ。
四月二七日付けのインド修道士等に送った書簡で、彼は奈良のさる大身の武士から、入信したいので自分のもとへ訪れるよう懇請されたことを伝え、さらに、この人物はデウスの大敵と評判があるので、あるいは自分は誘殺されるかもしれないが、それはデウスのために命を捧げるのだから本望だし、もし彼が本当に入信する気なら大好機だと述べている。
これはヴィレラが予感したように、イエズス会の畿内開拓に一大転機をもたらす出来事となったのであるが、会士たちの記述を読む限り、いかにも奇蹟譚めいた謎の出来事という感が深い。この事件についてヴィレラ自身の語るところは簡短に過ぎ、フェルナンデスの、マカオの某神父に送った書簡は平戸にいての伝聞であって、結局フロイスの『日本史』の記述がもっともくわしい。
P111 この奈良の大身の武士とは結城山城守忠正であった。彼は将軍の奉公衆であるが、フロイスによると「学問及び交霊術」において有名で、天文学に通暁していたという。松永久秀の顧問格であったらしい。この頃仏僧たちが宣教師追放をたくらんで結城忠正に訴えたので、忠正は久秀に報告して可否を問うたところ、久秀は殺すなり追放するなり好きにせよと答えた。
久秀は熱心な法華宗徒で、かねて宣教師の敵として知られていた。フェルナンデスのいうところはこれと違って、仏僧たちは久秀に訴え、久秀が「妖術師」として命名ある結城忠正と清原枝賢に調査を命じたことになっている。
清原家は平安以来の明経家の家柄で、枝賢もまた学者として当時名のあった人である。フェルナンデスは出来事の翌年、ヴィレラの身辺にあった者からこの話を聞いたのだから、この方が信頼できそうだ。フロイスの話ではあとで枝賢が突如出てくるのが不自然である。
つまり、フロイスによると忠正、フェルナンデスによると忠正と枝賢は、宣教師の追放と教会の没収を決意していたといいうのだ。ところがここでディエゴという都のキリシタンが登場する。フェルナンデスはこの男は忠正に金を借りに来たのだと言い、フロイスは久秀に訴願することがあって、忠正に仲介を頼んだのだと言う。
いずれにしても忠正はディエゴに会い、ちょうどキリシタン追放を策していたところだから、談は彼らの信仰に及んだ。ところが忠正は、ディエゴが語るキリストの教えに感銘を受けてしまったのである。フロイスによれば、ディエゴが語った創造主という観念に忠正は驚嘆したという。
また霊魂の存在を聞いて「手で畳を打ち、まるで深い眠りから覚めたかのように額をさすり、賛嘆の言葉を発してやまなかった」。
なるほど、ここはキリスト教が日本人の宗教観念に与えた衝撃のかんどころだろう。忠正は学者であるから仏教哲学の無の観念に深くなじんでいたに違いない。しかし、アニマは在るのだという。またキリスト教の創造主は、くらげなす漂える海をかきまぜて島を創った民族神などとは違って、一切を根拠づけるものなのだ。
忠正はキリシタンになりたいと思ったとフロイスは言う。キリスト教の邪法たるゆえんを調べあげるはずだっP112た男に大逆転が見舞ったのだと。いくら異教の教義が新鮮とはいえ、これでは奇蹟譚に近い。私が謎めいたというのは、忠正の回心があまりに唐突に思えるからである。
フェルナンデスは、この段階では忠正は、キリシタンになるやもしれぬと語ったと言っているが、大差はない。忠正はもっとくわしく教理を聴くために、ヴィレラの来訪を求めた。ディエゴの報を受けたヴィエラは大事をとってまずロレンソを奈良へ派遣した。忠正は枝賢を呼んでともに雄弁家ロレンソの説教を聴聞し、二人とも入信を決意。
ロレンソからこの報告を受けたヴィエラは奈良へ赴いて、二人に洗礼を授けた。このとき沢城主高山飛騨守図書(友照)も聴聞して洗礼を受け、ダリヨの嬌名を教名を得た。ジュスト右近の父である。
同心というのこのように劇的に起こるものなのかもしれない。だが、この出来事が奇蹟めいて聞こえるのは、フロイスたちが結城や清原がいかにも仏僧と同心した迫害者一味だったかのように語るせいではなかろうか。
フェルナンデスの伝えるところでは、松永久秀は仏僧たちの訴えに対して、司祭は外国人であり、われらの庇護を請うて来たのであるから、まずその説くところを吟味せねばなるまいと答えて、結城、清原に調査を委嘱したとある。
だとすれば、両人があらかじめ司祭追放を決意していたというのは、同心を劇的ならしめる作為の疑いが濃い。ともあれヴィエラは、入信した二人を伴って意気揚々と京へ戻った。学識をもって鳴る両人が入信した事実は、京都教会に決定的な威信を加えるものであったのだ。
結城・清原・高山の入信をきっかけに、堰を切ったように畿内国人層の改宗が続いた。そのフィーバーはまず三好長慶の飯盛城に伝わる。結城忠正の長男に左衛門尉というのがいて、奈良で父とともに受洗した。彼は長慶の被官であったからそののち飯盛城へ帰り、同輩にさかんにデウスのことを説いた。
それでは話を聞こうではないかということになって、ロレンソが飯盛城に招かれたのが一五六四年の五月。このとき三好幕下の七三名の武士が入信を決意。そのなかには三ヶ(三箇)伯耆守頼照、池田丹後守教正、三木半太夫の名が数えらP113れる。
飯盛城はこの後ヴィレラが訪れて諸家臣に洗礼を施し、三好長慶ともあった。長慶は自分は禅の信者だがまだその奥義を極めていない、それを極めてから司祭の説くところを聴こうと語ったという。態よく改宗を拒んだわけだが、司祭には庇護を約し、家臣の入信を許した。
彼はさきに入京後間もないヴィレラと会っており、その時から宣教師たちに好意的だったのである。だが彼はこのヴィレラとの再会ののちまもなく没した。
ロレンソは大活躍で、大和の沢でジュスト右近を含む高山飛騨守の家族に洗礼を施し、大和の十市、摂津の高山へも赴いた。高山には高山ダリヨの母がいて、ヴィレラから受洗した。こうしてこの年の七月から八月には、沢、三ヶ、砂、高山などに教会が設けられた。
砂は結城山城守忠正の采地である。この時入信した摂津・大和・河内の小領主たちのうち、信仰の熱烈さで抜きんでていたのは高山父子と三ヶ頼照である。彼らの領地では家臣・領民の大規模な入信が見られた。いったいナゼこのような目ざましい現象が生じたのだろうか。
豊後の大友氏や肥前の大村氏の場合、領主が入信したり、それに準ずるほどキリシタンに好意的であっても、ただちに家臣団の改宗は起こらず、かえって領主と家臣間に隙間が生じている。九州と畿内ではどうしてこのような武士層の反応の違いが見られるのだろう。
第一に言わねばならぬのは、九州の諸大名は貿易の利にひかれてキリスト教に近づいたのだが、結城・高山・三ヶといった人たちは全くそういう動機を欠いていたということだ。入信したからといって、ポルトガル船が来るわけではなかった。
つまり、九州のイエズス会はポルトガル貿易船という強力な威光のもとに宣教を行うことができたが、ヴィレラにはそんな後ろ盾はなかっP114た。入信しても、現実上の利益は皆無だったのである。だから彼らの入信は動機として純粋ということになる。
つまり彼らには、おのれの行動を支えてくれる強力な精神的確信が必要だったのだ。当時の人びとにとってそういう支えは信仰以外にはなかった。では、そういう信仰はどこで求められるのか。既成の諸仏教にはは、むろん上杉謙信が毘沙門天の熱烈な信者だった例はあるが、一般には戦乱を生き抜くための支えになるような教理が欠けていたのだろう。
一向宗にはそれがあった。しかし一向宗に頼れば、本願寺王国の家臣とならねばならぬ。
畿内の小領主層は切に戦国状況を生き抜く信仰を求めていたものと思われる。彼らが置かれているのは九州の戦国状況よりずっと苛烈な、一切の秩序が失われるカオスに似た状況だった。九州では、大友、島津、少弐らの守護大名らは旧秩序の中で抗争し、たがいに裏切り合ったりすればよかったので、家臣たちも主君への忠誠と反逆に揺れながら、聚合離散を繰り返せば十分だった。
畿内の国人領主層はそうはいかなかった。この世紀初頭に始まった将軍家・細川管領家の分裂は畿内全般に無政府状況を生みだし、守護・地頭制は完全に崩壊しつつあった。高山は久秀の家臣、三ヶや池田は長慶の家臣だったが、そんな関係はあくまで仮のもので、頼れるものは自分しかないのである。
畿内という先進地での秩序の解体ぶりは、彼ら小領主に過激な孤独の心情を生み出したのではなかったか。全能の創造主とそれによる救済の教えは、そういう彼らの孤独な魂によほど訴えるところがあったらしい。
また、彼らの入信が家臣、領民の全般的改宗をもたらしたのは、彼らが領地・領民を直接把持している国人であることによる。大友のような守護大名は、地つきの有力家臣に制約されて、領地・領民を一元的に把握する戦国大名的管理体制をまだ構築できていない。
領地・領民はあくまで地つきの国人の支配するところである。高山や三ヶのようなキリシタン武将が家臣・領民のすべてを改宗させえたのは、彼らが地つきの国人だったからだろう。豊後の場合も、朽網郷が一郷を挙げて入信したのは、領主がそれを奨励したからだった。土地P115の直接支配者は何といっても強いのである。
・松永久秀の「デウスはらい」 P115-118
しかし、やがて逆風が吹き始める。一五六五年、松永久秀はわが子義久と三好義継(長慶の養子)をして将軍の御所を攻めさせ、将軍義輝は奮戦むなしく殺されてしまう(永禄の変(1、2)。これは六月一七日のことだが、その後京の雰囲気は険悪になり、やがて結城山城守からヴィレラへ警告がもたらされた。久秀らは主君を殺すほどの無道を行ったのだから、この際宣教師を害するおそれが大いにある。
手遅れにならぬうち避難せよというのだ。このとき京の教会には二人の司祭がいた。ルイス・フロイスがヴィレラに授けるべく、この年の初め入京していたのである。信者たちはこの際京の教会が閉鎖されても、ヴィレラさえ生きていてくれれば復興ののぞみはあるというので、彼に避難を迫る。ヴィレラは日本語もままならぬフロイスをあとに残すのに忍びなかったが、懇望に負けて七月二七日、三ヶ氏を頼って飯盛城に落ちのびた。
朝廷で「デウスはらい」、すなわち宣教師追放がとりきめられたのは七月三一日である。直接には三好義継の奏請によるが、むろん松永久秀を中心とする法華僧や神道家の暗躍があったらしい。フロイスは二九日にはすでにこの件で警報を受けており、三〇日には三好三人衆の一人、三好日向守長逸から、内裏の詔勅を阻止しようとしたが力及ばなかった。
この上は早々に堺へ赴くべきだとという連絡があった。フロイスは翌三一日三ヶへ避難、八月一日に追放令が京の町々へ布告されたのである。難しい立場に置かれたのは飯盛城のキリシタン武将たちである。長慶なきあと、彼らは三好義継に仕えていたが、その義継は松永久秀にとりこまれて、宣教師追放の先頭に立っている。
彼らはキリシタンとしての義を貫くためには、義継の禄を離れてもよいと思いつめていた。ヴィレラは彼らの苦衷を見るに忍びず、フロイスを伴って、八月四日三たび堺へ入った。
P116 義輝なきあとの畿内の政局は、松永久秀、三好義継、三好三人衆なる三者の角逐によって推移した。
(略、キリシタン武将たち、宣教師たちの有様や逸話)
P118 フロイスはただ便々として堺へ追放されていたのではなかった。六七年、六八年には三ヶや尼崎へしばしば出かけている。三ヶは畿内キリシタン武将の棟梁ともいうべき三ヶ頼照の居城である。畿内の信者は節目節目の祭日にここに集まり、頼照の厚いもてなしを受けた。フロイスはむろんその際の祭式を司ったのである。
この時期、三ヶは畿内キリシタンの支柱だった。尼崎には招かれて行ったのだが、招いた武将のことはいまではよくわからない。あるいはこれは、フロイスの京都帰還策と関わっていたのかもしれぬ。三好三人衆の筆頭三好長逸はかねて宣教師たちに好意的であったが、長逸のもとで実権を握っていた篠原長房は、入信はせぬもののキリシタンの庇護者といってよく、フロイスは彼を頼って京への復帰を図った。
だがそれは長房ひとりのよくなしうるところではなかった。六七年一〇月には松永久秀は奈良で三人衆を破り、東大寺大仏殿を焼いた。
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第六章 平戸から長崎へ P119-133
一五六四年、松浦隆信は平戸での布教を認めることと引き替えに、ようやくマカオからのポルトガル定航船の入港をかちえた。一一月には平戸に教会堂も建った。しかし隆信の本心はあい変わらずキリスト教を嫌悪しており、表面はいかに好意を装おうとも、宣教師たちは彼を信じてはいなかった。このあと、宣教師たちの感情をさか撫でするような事件が続いた。大村から平戸へ着いた船に四人の日本人キリシタンが乗っていて、大村純忠からおなじキリシタン同士の籠手田安経への書簡をたずさえていた。松浦隆信はこれを知ると、純忠と彼の配下の安経との間に盟約があるものと邪推し、四人をみせしめに惨殺した。生月島(地図)の領主安経にはさすがに手を出せなかったのである。
また、隆信の嗣子鎮信が聖像のメダルを信者からとりあげ、踏みにじって投棄したのも宣教師を憤激させてやまなかった。彼らは生月島で、説教を聴いた子どもたちが先祖の墓を襲ってさんざん破壊したと誇らしげに語る一方、鎮信の行為は許すべからざるものと感じた。無理もない。
彼らの一方的な一方的な盲信によると、彼らの神は正真正銘の唯一神であるのに対して日本人の先祖崇拝など悪魔のそそのかしに過ぎなかった。
・「大村領」福田の開発 P120-122
P120 一五六五年、カピタン・モール、ドン・ジョアン・ペレイラの座乗する定航船が平戸港へ入ろうとした。平戸駐在の司祭は定航船がやって来ると、沖合まで船を出しどの港へはいるべきか指示するのを常としていた。このとき駐在の司祭バルタザール・ダ・コスタもこの例に従い、船を出してペレイラに平戸へ入港しないよう懇願した。
ペレイラは篤信の人ゆえ即座に了承して、船を大村領の福田に入れた。ここで初めて登場する福田は長崎のやや西方に位置する海浜で、こののち一五七○年までポルトガル定航船の寄航地となる。ペレイラはむろんコスタから福田を教えられたのだろう。
だとするとこのときまでに、言を左右にして鎮信の行為を謝罪しようとせぬ隆信に圧力をかけるために、福田に定航船を入れるべく宣教師団は準備を進めていたことになる。
一五六三年に老臣たちのクーデターによって逐われた大村純忠は、六四年一一月やっと大村を奪回、以前から築城にかかっていた三城城を完成させてそこへ移った。まだ所領を完全に回復していなかったものの、福田にポルトガル船を入れるまでに立ち直っていたのだ。
純忠はこのとき大村で会ったアルメイダに、二年このかた司祭にも修道士にも会っていなかったと語ったという。福田開港によって彼はやっとイエズス会との接触をとり戻したのだ。福田は純忠に属する福田兼次の所領である。
純忠は「かの黒船は鉄炮西洋砲なども積み乗せ来れば、これを他所にやるべからざる」と彼に説いたそうだ。兼次も否応はなかっただろう。彼はすでに入信してジョーチンと名乗っていた。それにしても、イエズス会はなぜ横瀬浦の復興を図らなかったのだろう。
それはペレイラの船が最初横瀬浦へはいろうとしたが、そこが戦争状態であったので平戸へ向かったというので事情がわかる。つまり大村純忠はこのころ松浦隆信と交戦を続けており、横瀬浦はその渦中にあったのだ。
イエズス会の仕打ちは隆信の怒りを掻き立てずにはおかなかった。彼はナウの定航船を平戸につなぎとめるべく、内心の反感を押し匿して、新築の教会堂をにこやかに訪れるなどそれなりに努めていた。それなのに息子が聖像をけがしたといって、バテレンどもはまたまた平戸を忌避して大村領福田に定航船を入れた。
そのくせ連中は仏像は平気でけがしているではないか。この年一〇月、平戸から出た軍艦が福田に碇泊中のペレイラの定航船を襲った。コスタによると五〇隻といい、フロイスによると堺商人の大船八隻あまりと小舟七〇艘という。
平戸勢は堺商人と結託してこの襲撃を行なったわけだ。定航船は不意を打たれて苦戦したが、折よく港内にはポルトガルのガレオン船(ナウから発展した大型帆船。細長く船首楼や船尾楼が低い)がいて、定航船を包囲した平戸勢の船を背後から砲撃し、彼らを敗走させることができた。
ポルトガル側の戦死者は八名、一方平戸側の死者はコスタによると六〇名、フロイスによると八〇名だった。コスタはこのうちに「都の大船の司令官」二人がいたといっている。
この襲撃について、コスタは隆信が平戸へ入港しなかったことで定航船に恨みを抱いたからだといい、フロイスは隆信が絹の買い付けのため来航していた堺商人と同盟して、定航船をの積み荷を奪おうとしたのだという。
だが、これが果たして隆信の指示であったか、かなり疑わしい点が残る。定航船をを襲撃するというのはイエズス会との公然たる手切れ通告を意味する。隆信にそこまで踏み切り決断があったかどうか。コスタは襲撃を事前に察知して定航船に危険を報じたのに、定航船のポルトガル人は一笑に付したため不意打ちを受けたというのも、隆信に手切れの意志はないと彼らが読んでいたからではなかったか。
この襲撃の一件はよくわからない点が多いが、襲撃の主力が堺の大船八隻で、堺製の大筒を備えていたというから、おそらく堺商人が積み荷をねらったのであろう。平戸の反キリシタン勢力が参加するのを隆信は黙認していたに違いない。
なぜなら、このあとも隆信は平戸教会の活動を依然として許しているからだ。彼にはまだイエズス会と手切れする意志はなかった。このころ松浦領内の信者は二五〇〇に達していたという。
福田にはその後も連年ナウが入港した。大村純忠は四隣に敵をひかえ、領内もまだ不安定だったが、イエズP122ス会はその純忠に肩入れするしか、下すなわち肥前地方に根拠の張りようはなかったのである。一五六六年には、養父大村純前の実子、後藤貴明が内通者を得て領内に侵入した。
純忠は奮戦してこれを追い払ったが、折柄シマン・デ・メンドンサのナウで福田に入港していたポルトガル人の鉄砲を貸与して純忠を助けた。大村領がようやく平安に帰したのは一五六八年になってからだといい。
前年の暮れ口之津から天草の志岐へ移っていたトルレスは、この春生まれた純忠の嗣子喜前に洗礼を授けるため、老軀を大村まで運んだ。喜前はサンチョと名づけられ、一一月には教会堂も建つ。そしてクリスマスには、会堂の接する広場に舞台が設けられ、ヨセフの生涯、三博士の厩訪問など聖劇が、笑劇も交えて日本語で上演された。
二〇〇〇人が集まり、まわりに設けられた桟敷には、純忠夫人を始め貴婦人たち、そしてトルレスらポルトガル人の姿もあった。
・アルメイダの西肥前布教 P122-124
・安定した「キリシタン領国」となった天草 P124-127
・福田に替る良港・長崎 P127-128
さて、一五七一年の長崎開港について語るときが来た。その経緯についてはふつう、福田に駐在していた遺日第五次ミッションのひとりフィゲイレドが、七〇年に福田に入港したナウの航海士を伴い、風波にさらされがちな福田に替る良港を探し求めるうちに、長崎の入江を最適地と認めて測量を行い、翌年からナウが入港するようになったと説かれる。
だが、日欧交渉史家の松田毅一によれば、七〇年に福田に来たナウが帰帆にあたってすでに長崎に入港しており、その良港たるを知って毎年の来航を約したのではないかという。それはとP128もかく、イエズス会から長崎開港を求められた大村純忠は、初めは「深慮ありて」承知しなかったと「大村家秘録は記す。
純忠は有馬氏がこの話に関わっていたので警戒したのではないかというのが、これも松田の説である。有馬義貞は純忠の兄ではあるが、当時の複雑な政情から純忠の敵にまわることもあった。しかし、純忠が結局開港を承諾したのは、イエズス会の委託を受けた義貞の説得の結果だった。
長崎は長崎氏の支配地で、当代の純景は純忠に臣従し、その娘を妻としていた。すでにキリシタンであり、開港に問題はなかった。純景はいまの桜馬場あたりの丘陵に城を構え、まわりに家臣たちを住まわせていた。すでに宣教が行われ、ヴィレラが長崎最初の教会をこの城下町に建てていた。
開港に伴い純景の城下町とは別に、新しい町が海中に突出した岬の先に作られた。純忠が派遣した奉行の采配で島原町以下六つの町が姿を現わす。これが宣教師たちのいうナガサキである。大村町、平戸町、横瀬浦町というのは、それぞれそこのキリシタンが移住して作った町であることを示す。
建設に有馬氏の関与があったのは、島原町の名称で明らかだとこれも松田の説。新しい長崎には七一年から連年マカオのナウが来航し、町は矢来と濠で囲まれて城砦化していく。
・新布教長カブラルとトルレスの死 P128-130
トルレスに替る日本布教長として赴任したフランシスコ・カブラルはポルトガルの旧家の生まれで、イエズス会に入って一六年になるベテランだった。三七歳の壮年で、神学に通じ、インドで学院長などのキャリアを積んでの来日であるから、新任地の経営については自信も抱負もあったことだろう。
性格も甚だ権威主義的だったと伝えられる。一五七○年六月一八日に志岐に着いたカブラルは、七月末に同地に宣教師たちを招集して会議を開いた。彼はこの会議でインド管区長の指示として、絹服の着用禁止と、マカオ・日本間の交易への参加禁止をいい渡した。
P129 トルレスの指導のもとでは、宣教師は日本人と会う際には絹服を着用した。べつに贅沢がしたかったのではなく、そうしないと日本人の間では社会的な体面が保てなったのだ。トルレスのこの現地順応方針をカブラルは否定して、イエズス会士たる者は木綿の修道服を常用すべしとする。
なるほど、会のうたう清貧の原則からすればその通りだ。
アルメイダはイエズス会に入るとき、それまで商人として稼いだ二〇〇〇クルザード(ドゥカード)を会に寄付した。その際、この金を生糸貿易に投資してその収益を会の経費に当てるように取りきめ、投資の運用をはアルメイダの懇意なポルトガル商人に任せられた。
トルレスたち司祭らはこの件はアルメイダに一任し、口出しすることはなかった。この日本イエズス会の貿易関与はこののちも度々問題にされた。イエズス会の原則からすればこれも許されることではない。しかし、その収益なしにどうやって宣教師団の経費を賄っていけというのか。
ポルトガル国王からの扶助金など、無事に届くかどうかわからぬものを当てにするわけにはいかない。カブラルの指示にもかかわらず、宣教師たちは絹服の着用をやめず、貿易への関与をやめることもなかった。そうしないわけにはいかなかったのだ。とくに貿易への関与はこのあとますます本格化し、八〇年代には年間五〇〇〇ないし六〇〇〇ドゥカードの収益をもたらすようになる。
年老いて病んだトルレスは、日本布教長の職を解かれるのを切望していた。カブラルの着任によって重荷をおろした彼は、この年の一〇月二日に天草志岐で逝った。
日本キリシタン史上、トルレスほど衆人に大きな感化を与えた人物はあるまい。彼が人びとに敬愛されたのは、その模範的な篤信もさることながら、何よりも愛にみちた謙抑な人柄によってだった。日本人信徒はみな父のように彼を慕った。
この人は体も大きかったが、人柄もそれに劣らず大きかったのである。豊後の修院にあって、彼は寝静まった同宿の少年たちを見廻って布団をかけ直してやり、台所で鍋釜や食器が放置してあると、井戸で水を汲んで来てそれを洗い、厩舎へ行って馬の世話をし、人よりおそく寝て誰よりも早く起きるのだった。
力仕事があるときは率先して働き二人分の仕事をした。久しぶりに教会を訪れると信者がいると、涙を浮かべて抱擁した。不機嫌な顔を示すことなど絶えてなく、謙遜と明るい笑みが常に面を飾っていた。こういった人柄は日本人の心服をかちえずにはおかなかったが、一方この人はなかなか老獪で、日本人の君侯とつきあう際の礼法もよく呑みこみ、彼らの気をそらすことがなかった。
トルレスの死をもって、宣教史のひとつの段階が終わった。ザビエルはただ手を染めたにすぎない。トルレスのもとで日本イエズス会は豊後に地歩を築き、肥前で強力な基盤を獲得し、畿内に確固たる橋頭堡を得た。
この人こそ日本開教の祖というべき存在であった。彼とともに来日したフェルナンデスはすでに三年前、一五六七年に死去していた。日本に来てすぐに日本語が達者になった彼は、死の床のうわ言でも日本語でデウスと語った。トルレスの死とともに、最初の訪日ミッションはザビエル以下すべて彼らの天国へ召された。
復習ザビエル
→ザビエル、ゴア到着
→イエズス会とは
→ザビエル、アンジロウと出会う
→ザビエル一行鹿児島到着
→ザビエルの眼に映った「日本人」像
・コエリュによる大村「キリシタン領国」化 P130-133
大村純忠は一五六八年ごろには所領をほぼ回復したものの、周囲の状況は依然として厳しかった。一五七ニ年、後藤貴明は松浦隆信、西郷純尭を誘って、純忠の本拠たる三城を急襲した。不意をつかれた純忠は七名の家臣とともに籠城し、死を覚悟した。もちろん七名というのは主だった武将で、総勢七、八〇人はいたらしい。
純忠は武将としても優秀で、なんとかこの包囲戦を切り抜けている。世にいう「三城七騎籠り」である。
西郷純尭は純忠の夫人の兄である。大村領に隣接する諫早の領主で、絶えず大村領をわがものにしようとねらっていた。頑強な反キリシタンなのはいうまでもない。七三年には大村領に攻めこみ、一時は純忠殺害の噂が流れたほどだった。
P131 おなじ七三年のことだが、純尭は有馬義貞と謀って、純忠をだまし討ちにしようとしたという。むろん義貞は純忠の実の兄だが、このころは純尭に圧迫されて言いなりになっていたというのだ。義貞はどたん場になって弟をあわれみ、純尭の謀計を教えて急をのがれさせた。
この義貞という人は温順な文雅の徒で、父の晴純(仙厳)が領地を拡大して西九州の雄と称せられたのに対し、龍造寺氏などに圧迫されて領地は縮まる一方であった。たまりかねて老臣が諌言すると「龍造寺にとられたのは新付の地で祖宗以来の土地ではない。みな時運の然らしめるところで、得るも喜ぶに足らず、失うも何ぞ憂うるに足らん」と答えるのだからどうしようもない。
七三年には長崎湾の入口を領する深堀純賢が長崎を襲撃した。このとき長崎純景の城下町は焼かれ、ヴィレラが建てた「諸聖人の教会」も灰燼に帰したが、岬の突端に築かれた新しい港町は、キリシタンの奪戦で守り通すことができた。
純賢は西郷純尭の弟で、深堀氏を継いだ人物だが、この後度々長崎を襲うことになる。
熱烈なキリシタンであるはずの純忠は実は出家入道して理専と号していた。時期ははっきりしないが一五七〇年ごろともいわれている。といってキリシタンをやめた訳ではない。宣教師に対しては熱心なキリシタンでありながら、一方では出家しているのだ。
それだけではない。三城の城内には千日観音を祀っていたし、伊勢神宮の御師からお礼も受けている。これは純忠だけのことではなく、福田兼次も入信してジョーチンと称しながら、出家して宗軒の号を得ていた。
つまり彼らの意識では、キリシタンとして救済を得ることと、神仏に祈って御利益を蒙ることはまったく矛盾していなかったのだ。神々にはそれぞれの特性に応じた使い途がある。しかしこのようなデウスと神仏へのふた股は、宣教師の見地からすれば絶対に許されることではなかった。
大村純忠の出家に深い危機感を抱いたのはガスパル・コエリュである。彼は一五七二年に来日し、カブラルによって下(西肥前・天草地方)の上長に指名されていた。彼は一五七四年一一月、純忠と会見し、領内から一切の偶像崇拝を根絶し、一人の異教徒もいなくなるよう全力を傾注すべきだと強硬に申し入れた。
むろんこの時、純忠の出家も厳しく咎められたであろう。コエリュは西郷純尭に対する勝利によって純忠の領国支配が安定したのを機に、それがデウスの恩寵によるものであることを純忠に自覚させ、報恩のため前記の処置をとるように求めたのだとフロイスはいう。
それにしても恩着せがましい神様ではある。この時期、大村領ではキリシタンの数はまだわずかだったと、フロイスが述べているのも留意すべきことだ。
周囲を敵で囲まれてイエズス会とともに生きるほかない純忠はコエリュの勧告を受け入れた。神社仏閣に対するすさまじい迫害がはじまる。多くの寺院が破壊され放火された。フロイスは、ある仏僧が「門徒が改宗するのは仕方ないが、寺院や仏像には手を出さないでもらいたい」と求めたとき、コエリュは「自分の目的は救霊であって、寺院・仏像を破壊することではない」と答えたと記している。
ところが説教を聴いた人びとが、あたかも司祭が寺を焼けと説いたごとくに、寺を打ち壊し、材木を我が家へと運んだというのだ。しかし、寺院破壊は司祭の煽動によるものではないと弁明しながら、フロイスはぬけぬけと次の話をしている。
あるキリシタンが四殉節の折にコエリュを訪ね、罪の償いのために何をしたらよいか教えを乞うと、コエリュは道すがら見かけた寺を焼くことだと答えた。信徒は帰り道で大きな美しい寺院に出会うと早速放火し、寺院は全焼した。
仏僧が改宗する寺は教会となり、彼らはそこにとどまることを許された。改宗を拒む仏僧は領外へ追放された。純忠の家臣も領民もすべて改宗を強制された。拒む者が追放されたのは仏僧と同様である。寺社の破壊と全領民の改宗がコエリュやイエズス会の強烈な圧力によって進められたことは明らかだ。
カブラルは七五年四月に豊後からかけつけ、各地の宣教師を招集して、大村のキリシタン領国化に精力を集中した。
かくして大村領は、領内に一人の仏教徒なく、ひとつの寺院もない日本最初のキリシタン王国となった。七五年一〇月、P133コエリュは二万人の人々と二〇〇人の仏僧が洗礼を受けたと書簡で報じている。白水寺にあった前領主大村純前の墓はあばかれ、骨は川へ投棄されたというから、信徒の行動には狂信的な面もあったようだ。
しかし、すべての領民がこうした過激な行動に走ったわけではない。フロイスでさえ次のように認めている。
「寺社を破壊し絶滅するについてなお困難があった。というのは人々はすでに洗礼を受けていたとはいえ、まだ日も浅く、信仰も弱かったから、彼らは、自分たちがそれまで育てられて来た寺院に対する愛着心をただちになくさねばならないとか、寺院を破壊せねばならないなどと、はっきり言い渡されたならば、それに容易に同意はしなかったであろう」。
純忠自身もこの四年あとに来日した巡察師ヴァリニャーノに、寺社破壊は司祭に強要されされて仕方なくやったことだと語った。コエリュのことも内心嫌っていたと伝えられる。
寺社の破却はイエズス会の根本方針であって、かの温和なトルレスでさえ、純忠に洗礼を施す条件として、将来領国内の寺社をことごとく破却することを誓わしめた。イエズス会の観点からすれば、日本人が神仏と称しているものの実体は悪魔にほかならず、この悪魔から解放することなしに日本人の魂の救済は不可能なのだ。カブラルとコエリュはこの根本方針を推進するに当たって、トルレスより急進的であったのにすぎない。
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