第八章 豊後キリシタン王国の夢 P149-161
フロイスは一二年に及ぶ畿内滞在を終えて、天正四年一二月(一五七七年一月)豊後へ向かった。この年大友宗麟は家督を長子義統に譲って居城の臼杵丹生島で隠居し、義統は府内へ移って政庁を開いた。宗麟はこの前年、二男の親家をカブラルに頼んでキリシタンとしていた。カブラルはわざわざそのために大村から呼び寄せられたのである。宗麟とその夫人は親家を仏門に入れるつもりだった。カブラルの説明によると
「日本では、兄弟の一方が領国を継承するとき必ず争乱が起こるので、一方が国を継げば他方は仏僧にならねばならない」
宗麟自身家督を継いだ際、庶子に家督を譲ろうとする父となまぐさい争いを経験していた。しかし、親家は仏僧になることを嫌って言うことをきかない。そこで宗麟は彼をキリシタンに改宗させることを思いつき、カブラルを招いて洗礼を施させたのだ。天正三年一一月、親家はドン・セバスチャンの教名を得た。
宗麟は義統の家督継承を安泰たらしめるために、これだけの手を打ったのである。だが、親家の入信は家臣たちの改宗の呼び水となった。カブラルは「われらが府内に駐在した二○年間、わずか一名の貴人がキリシタンになったにすぎない」と言っている。
一名というのは彼の誇張かもしれぬが、府内の入信者が主として貧民だったのは事実で、彼はこのことをアルメイダの病院事業のせいにしている。ところが、親家の入信をきっかけに「貴人」、つまり大友氏家臣団のうちから続々と入信者が出始めたのである。
・カブラルのエステヴァン助命嘆願と田原親虎事件 P150-152
これに不快の念を募らせたのが宗麟夫人である。彼女は国東郡の奈多八幡宮の宮司の娘で、彼女の兄は大友一門の大領主田原親賢である。彼女は宗麟のキリスト教保護を国を滅ぼす悪縁とみなしていた(第四章で述べたようにヌーネス・バレトは宗麟を入信させることができなかった(参照))。
宗麟の娘で府内に住む久我中納言に嫁した女がおり、その家臣にエステヴァンというキリシタンがいた。彼女が仏寺に護符をとりに行くよう命じたところ、エステヴァンが信仰に反するとして拒んだことを母の宗麟夫人に訴えたために一件は問題化した。(略)
ここで頑張ったのはカブラルである。彼は宗麟と義統に「キリシタンの家臣はデウスに背かない事柄については主君の命に従うが、教えに反することでは従わぬのだ」と通告し、エステヴァンの助命を求めた。宗麟は夫人の宣教師追放要求などには断固として耳を貸さなかったが、主命への服従問題については考えるところがあったようである。
彼は信仰に反することはしないのは当然だが、エステヴァンの無礼な態度にも問題があったのだとしつつ、結局は義統を説いてエステヴァンを助命せしめたのである。
宣教師たちはキリシタン家臣の忠誠を懸念する領主たちに、デウスの教えは長上の者に対する服従を美徳とするもので、キリシタンとなった家臣はいっそうよく主君へ忠誠を尽くすのであると説いてきた。しかし、ことはそれほど簡単ではなかった。
P151 主君がキリスト教を迫害する場合、家臣の忠誠義務は疑わしいものとなる。カブラルの認める通り、キリシタンは教えに反する主命には逆らわざるをえないので、この問題はのちのちまで危険な発火点を埋伏するものとなった。
フロイスは宗麟夫人を中心としてキリシタンへの敵意が大友家中で強まるなかで、豊後へ赴任したのである。果せるかな、彼が赴任してまもなく田原親虎事件が起こった。
宗麟夫人の実兄である田原親賢は、奈多八幡大宮司家から出て、大友三大庶家のひとつ田原氏を嗣いだ人物で、大友家の家老職である年寄りに任じ、フロイスによれば「国中第一の大身」だった。彼には嗣子がなく、京都の公卿からもらいうけた親虎を養子としていた。
親虎は宗麟の娘と婚約中で、松籟を約束された身であったが、かねてより教会に出入りし、やがては入信する決意を抱いていた。
このことを知った宗麟夫人は激怒し、親賢を招いて対策を講じた。二人は婚約の解消と廃嫡をかざして親虎に翻意を迫ったが、親虎の決意はかたく、ついに天正五(一五七七)年四月、カブラルによって洗礼を受けた。
数名はシモンである。もちろん、このことは宗麟夫人と親賢を激怒させた。二人は手を替え品を替え親虎に入信を取り消すように迫ったけれど、この一六歳の少年の決意は揺がず、父親賢から家を出されると教会へ入った。
彼の決心が鈍ったのはただ一度、父から改心せぬなら司祭たちをみな殺しにすると脅されたときである。しかし、カブラルからの殉教の聖なる意義を説かれて動揺は収まった。信者の武士たちは続々と教会へ集まり、親賢の兵が襲えば合戦は避けられぬかに思われた。
宗麟はむろん事態を憂慮していたが、カブラルから要請を受けても、当初は容易に動こうとしなかった。彼は当時九州第一を誇る大領主であったが、まだ信長のように家臣団に対する絶対的支配を確立しておらず、田原一族のような半ば独立的な性格をもつ豪族には大いに気を遣わねねばならなかったのである。
しかし結局は、フロイスいうところの「教会の名誉を損なわず、親虎に信仰を棄てさせず、なおかつ彼の父が予はバテレンに好意を示しながら彼を軽んじていると考えて予に悪感情を抱かぬよう解決する」という宗麟の方針が功を奏した。
宗麟夫人と親賢は宗麟をはばかって教会を襲撃することをあえてせず、事態を黙認することを余儀なくさせられたのである。
祥倫は事態が鎮静化するとカブレラへ、親虎はいまや父と和解し家督の相続者の地位も保てたのだから、父を刺激せぬため教会へしばらく通わぬよう申し送った。
彼の慎重な用意を見るべきである。当主の義統も今回は動揺することなく、父宗麟とともに教会の保護者たる意志を明白にした。しかし同時に彼は、親虎とその部下が郷国を捨ててもよいとしたことに、一向一揆に似たものを感じとって司祭に疑念を漏らした。
一向一揆との連想は宗麟夫人も危惧したところだった。大友氏の領国はキリシタンに乗っとられ、彼はバテレンを領主として迎えるのではないか。これは必ずしも根拠なき悪夢とはいえなかった。
・大友宗麟と洗礼と痛恨の耳川敗戦 P152-155
天正五(一五七七)年の末、あるいは翌年の初め、宗麟は遂に夫人を離別した。彼はすでに親虎事件の際に、カブラル宛に書状で、必ず彼女を離縁するつもりだが、領民の動揺を思うと、すぐにはなし難いと告げていたのである。
彼は臼杵丹生島城を出て、近くに館を構え新しく妻を迎えた。この四〇歳ばかりの女性は宗麟夫人の侍女頭を務めていて、その娘は宗麟の次男親家の妻だったという。容色をもって愛されたというのではなく、病身の宗麟をいたわるよきナース役だったらしい。
自分の侍女頭と再婚されたのでは面目が立たない。自殺を図ったとも伝えられる。彼女は悪質なバテレン迫害者として、イエズス会士から、旧約聖書の悪女ジュゼベルの異名を奉られたが、P153奈多八幡大宮司の娘である彼女が、伝統的な神仏を奉じて異国の神と対決したのは当然のことだった。
バテレンに対する夫の愛顧がこの国を滅ぼすのではないかという彼女の憂慮はあながち杞憂ではなかったのだ。
宗麟の心中には、この勝気で攻撃的な妻をいとう思いが十分に育っていたに違いない。彼はすでに義統に家督を譲ったものの、実権はわが手に握っていた。しかし、この際その実権も手放して隠居を決意したのは、新妻と静かな生活を楽しみたい一心からではなかったか。
彼はこれまで宣教師たちに心から保護と援助を与えてきたが、自身はけっして入信しようとはしなかった。
彼は京都大徳寺の禅僧怡雲を招いてそのもとで修行し、宣教師に対して「予は今生の後には何もないことを知っている。司祭たちはそのことを承知しながら、国の統治のために来世があるように説くのだ」と語るほどだった(→関連)。
それゆえ宗麟の保護にもかかわらず、豊後のキリシタンは辛うじて二〇〇〇に達するほどにすぎなかった。
その彼が天正六(一五七八)年七月、ついにカブラルから洗礼を受けた。いまに至って受洗した理由は彼はフロイスに語っている。ひとつには義統に完全に統治を任せて自省の機会を得たこと、ふたつには禅宗の奥義を知れば知るほど底の浅さを感じたこと、領国がキリシタン派と反キリシタン派に分裂している状況で、国王たるものが率先して入信することは、政治的人間たる宗麟には困難な選択だったに違いない。
完全隠居したいま、彼は念願の宗教的人間としての生を選ぶことができた。受洗後教会から館へ帰る途中、「心は刷新され、異なる眼で物を見ているかのような思いにとらわれ、駕籠から路上の人々を見た時、彼らが皆異教徒で死後永劫に罰されることを思って、デウスの恩寵に涙した」と彼は述懐している。
彼の回心は本物だったのである。宗麟の改宗は内外に衝撃を与えたとフロイスは言っている。もちろん好評悪評こもごもだった。ただし、宣教師を迫害していた人々の態度は大いに改まった。
P154だが宗麟は、やはり政治的人間たることから免れる訳にはいかない。前年には、かねて好を通じていた日向の伊東一族が、島津勢に追い出されて豊後に逃げて来た。島津の北進は喰いとめなければならぬのである。すでにこの年の四月、義統は六万の兵を率いて日向へ入った。
九月、宗麟も一万の兵を率いて、義統がすでに落していた土持領(現延岡市辺り)へ向けて進発した。カブラルとアルメイダも同行した。宗麟の船には赤い十字架旗が掲げられ、同乗の武士たちは首に影像(ヴェロニカ)をかけていた。
彼がカブラルに語ったところでは、この土持を彼の隠棲地とし、理想のキリシタン王国を作り立てるつもりだったのだ。その小王国は日本のものとは異なった新しい法律と制度によって統治され、家臣も住民もみなキリシタンとなり、「兄弟的な愛と一致のうちに生きねばならない」。
むろん教会が建てられ、数名のイエズス会士に扶持が与えられる。宗麟は日向へはいる前に武将を派遣して、神社仏閣を徹底的に破壊させた。フロイスは言う。「かの地において仏僧たちの寺院で行われつつあった破壊はすさまじいものであった」。
僧侶たちは他の地へ逃げ出すか、それとも自らの手で寺院・仏像を破壊し、その材木を教会堂を建てるために運ばねばならなかった。だが、キリシタン王国の夢をむざんに打ち砕かれた。一一月、高城を攻囲中の大友勢力が、島津勢に急襲されてもろくも漬走(かいそう)した。
世にいう耳川の戦いである(tw)。総指揮官の原田親賢は身をもって遁れた。この時宗麟のもとにあったカブラルは踏みとどまって戦うべきだと進言した。このバテレンはもともとイスパニアの軍事貴族なのである。
しかし、全軍はすでに浮足立っている。雪崩をうって豊後へ逃げ帰った。国主がキリシタンになった罰だという声がひろがる。カブラルたちは逃避行中、しばしば身の危険をおぼえた。宣教師たちは豊後へ帰ってのち「数多の無礼な言葉をたえ忍ばずに街路を行くことができなかった」。
しかし、敗戦にはいい面があった。宗麟自身、この戦いで強硬な反キリシタン派武将が大勢討ち死にしたことをデウスの恵みだと語った。また、反キリシタンの頭目田原親賢がこの敗戦で面目を失墜し、領地にひき籠ったことも、教会にとって有利だった。
P155 宗麟の信仰は微動だにせず、義統もバテレンとの友誼を保った。
問題は領国内外で大友氏の支配に対して反旗が掲げられたことである。国内における最大の脅威は、大友氏一門の田原本家の当主田原親宏だった。彼は国内で最大の領主であるが、宗麟がその封地を削って田原分家の親賢にあたえたことを、かねてより怨んでいた。
耳川の敗戦後、彼は領地に返って兵を集め、親賢に奪われた封地の返還を求めた。彼は宗麟父子も殺害するつもりで、もし翌年彼が急死することがなかったならば、大友氏はすでにこの時滅んでいたはずだった。
危機はまだ続いた。親宏の養子親貫が兵を挙げ、謀将田北紹鉄がそれに与したのである。だが、家臣たちに乞われて執政の座に復帰した宗麟の権威はまだ大きかった。天正八年中にこの反乱は鎮圧された。外からの脅威は龍造寺氏が最大のものであったが、高橋紹運、立花道雪(tw,tw,相互参照)らの名称がよく周囲の敵を防いだ。
道雪はフロイスも賞賛してやまぬ勇将であるが、大友氏の衰運を見るに忍びず、天正八年年寄(家老)の志賀道輝らに書を送って、義統始め重臣を批判した。キリシタンとなって寺社を破却し、仏神を川に投じたことへの仏罰だというのだ。
・有馬晴信の入信 P155-158
ここで眼を西九州に転じよう。島原半島の有馬領には、一五六三年アルメイダが入って宣教を行ない、行く行く有望な形勢を作り出していたが、当時隠居ののちも実権を握っていた有馬仙厳(晴純)が、仏僧らの意を迎えて弾圧に乗り出し宣教は頓挫した。
だが仙厳は布教長トルレスの口之津在住を認めたので、口之津は全住民がキリシタンという、イエズス会の根拠地として存続したのである。仙厳は一五六六年に死去し、そのあと当主義貞は龍造寺の圧迫に苦しみ、一五七○年には隠居して国主の座を長子義純に譲ったものの、
その翌年には義純が死に、義貞は後を嗣がせた鎮純がまだ幼いので、後見として政柄を執った。鎮純はのちの晴信でP156ある。ここでは初めから晴信と呼ぶことにしたい。
義貞はもともと文雅を好む性質で、そのため父仙厳の代には強勢を誇った有馬氏も、次々と所領を佐賀の龍造寺隆信に奪われるにいたったといわれる。その義貞が天正四(一五七六)年になってキリスト教入信の念を起こした理由はよくわからない。
弟の大村純忠の所領にポルトガル船が入港するのを羨んだからだという説もある。仙厳の死後、有馬領ではかなり自由に布教が行われていたが、特に宣教師の方から義貞を説いた形跡もない。話は義貞の方からコエリュにもちかけられた。
重大な用件があるので口之津で会いたいという。コエリュが口之津で待ち構えていると、さらに義貞から使者が来た。自分はデウスの教えを何度か聴聞したことがあり、その教えが清純かつ真実と信じるにいたったので入信したい。重臣や仏僧にはこのことは伝えていない。伝えると障害が生じるからだ。洗礼は口之津に赴いて受けたい。
コエリュは了承し、ついに義貞は数名の家臣とともに四月八日、口之津で受洗した。教名はドン・アンデレである。コエリュはさらに義貞の居城日野江城へ赴き、義貞夫人にも洗礼を授けた。義貞の受洗は大村純忠に遅れること一三年、大友宗麟に先立つこと二年である。
これで九州のキリシタン領主は天草鎮尚を入れて三人となった。義貞の入信とともに有馬領の布教に拍車がかかったことは、洗礼希望者が多すぎて、疲労のあまりコエリュが十分に応えられなかったとフロイスが記しているのでも知られる。九月二四日付のゴンサルヴェス司祭への書簡は「今や我らはこの有馬国をことごとくキリシタンにしつつあり、一万五〇〇〇人以上が受洗しているであろう」と述べている。
しかし、この年の一二月末、義貞が死去すると情勢は一変した。嗣子晴信は一六歳ばかりで、反キリシタン派の老臣や一族の言うなりであったので、有馬領はキリシタン迫害の嵐が吹き荒れ、にわか造りの信者も大部分が棄教してしまった。カブラルは義貞の死の床にも呼んでもらえず、葬儀はカブラルの抗議にもかかわらずP157仏式で行われた。
晴信が姿勢を変えてイエズス会に接近を計ったのは、フロイスによれば義貞の死後二年たってからだった。彼は龍造寺の圧迫にたえかねて叔父の大村純忠と手を結ぼうと考え、そのため純忠の娘ドナ・ルシアとの結婚を望んだのだという。
彼はその件の仲介を大村にいたコエリュに依頼した。旧記には「龍造寺隆信再び大軍を発して高来に入り、島原、安徳、深江を降ろす、有馬晴信もついに和を乞う」とあり、これは天正六(一五七八)年正月のことである。高来とは島原半島東部をいい、これが有馬領なのだ。晴信がコエリュに使者を発したのはおそらくこの年遅くなってからだろう。
コエリュは好機いたれりとばかり晴信にと交渉を開始したが、高来に来てくれという晴信の願いには、殿の弟の一人と重立った貴人数名が入信すれば行くと条件をつけた。実はコエリュは事前に大村純忠に会って結婚に関する彼の意向を確かめたのだが、純忠は確答を与えなかった。
その内情をかくしながら、彼は晴信に対して売値を釣り上げようとしたのである。コエリュは有馬へはいってからも駆け引きを続けた。晴信が逡巡すると、立ち去るふりまでしたので、晴信はついに弟の一人と家臣多数の改宗を認めた。晴信自身はまだ入信せず結婚話もその後どうなったかフロイスがかいていないからわからない。とにかく、これが晴信入信の前哨戦だった。
この問題はヴァリニャーノの手にひき継がれた。アレッサンドロ・ヴァリニャーノはナポリの人、イエズス会きっての俊秀で、一五七三年日本を含む東インド巡察師に任命された。時に三四歳、インド各地を巡察したのち、日本の口之津に到着したのは天正七年七月二日(一五七九年七月二五日)である。
44)ヴァリニャーノ(参照)口之津到着カブラル(参照1、参照2)と論争
ヴァリニャーノが口之津にはいると、晴信は表敬訪問して、自分も領民もキリシタンになりたく思っていると告げた。ヴァリニャーノはこの人物のことがまだよくわからず、また彼が反キリシタン派の親族にとり囲まれていることを承知していたので、この話には軽くうなずくまでにとどめた。
つまり彼は晴信がまだ本気ではないと見てとったのでP158ある。それまで長崎に入港していたポルトガルの定航船が、一五七九年ヴァリニャーノを乗せて口之津にはいったのは、当時長崎が深堀氏によって攻撃されていたからだというが、有馬氏にとって望外のよろこびであったろう。
当時の国主たちは宣教師たちが看取したように、所領を家臣たちに分与するために自身は意外に窮迫していた。ポルトガル船の入港は彼らの財政を潤した。ヴァリニャーノは翌年八〇年にもポルトガルのジャンクが口之津にはいるよう手配した。晴信のヴァリニャーノを徳とする念が深かったのは当然である。
天正八年にはいると晴信は存亡の危機に襲われた。叔伯などが守る城がいくつか、龍造寺に通じて反乱を起こし、日野江城が攻囲されるにいたったのである。日本の文献にはこの年の攻防について記したものはないが、当時現地にいたカリオン司祭が『一五八〇年度日本年報』にくわしく記していることを疑う理由はない。
この危機を脱出できたのはイエズス会の全力をあげた援助のおかげといって過言ではない。ヴァリニャーノは晴信とともに籠城し、イエズス会を動員して城へ食糧・鉛・硝石など六〇〇クルザードに相当する援助物資を搬入させた。
晴信の入信はこの籠城中に行われた。一五八〇年三月、教名はドン・プロタジオ。龍造寺軍は筑後で有力武将が反乱したこともあり、五ヵ月の囲みを解いて有馬氏と和した。しかし、晴信はこのときわずかに周囲二〇里ばかりの領国を保有するにすぎなかった。
・大村純忠の長崎寄進 P158-160
龍造寺軍の圧力は、有馬晴信の叔父大村純忠の所領にも及んだ。純忠が領民をことごとくキリシタンにしてから二年経った天正四(一五七五)年、龍造寺隆信が大兵を率いて大村領に侵入すると、純忠は奮戦及ばず、ついに隆信に服従の起請文を差し出した。
すなわち純忠は隆信の配下の部将となることで、かろうじて大村領の保持を許されたのだ。しかし、隆信の望みは大村領を完全に併呑することにある。純忠が天正七年、来日したばかりのヴァリニャーノに、長崎をイエズス会に寄進しようと申し出たのは、遠からず所領を隆信に併呑される日の来ることを憂えたからである。
ヴァリニャーノのローマ宛書簡によれば、申し出の理由は次のようなものであった。長崎港を隆信に奪われるなら、自分(純忠)は従来えていた貿易船による利益を失うだろう。長崎が教会の所有となれば、隆信も手が出せず、自分は利益を確保できる。さらに長崎が教会領となれば、何が起こってもそこへ逃げこんで自分の身の安全をはかることができよう。
ヴァリニャーノはこの申し出を受けるべきか否か迷った。というのは、イエズス会の会憲はこのような知行地を所有することを禁じているし、さらにイエズス会が長崎を領有するとなれば、当然裁判権を行使しなければならず、それには死刑の執行が伴うからである。
聖職者が死刑を行なうなどとんでもないことだった。だが、天正八年四月(一五八○年六月)になって、彼はついに純忠から寄進を受けた。純忠と長男喜前が連署した寄進状は、原文は残ってないが、その訳文がローマのイエズス会本部に現存している。
要点を摘記しよう。「イエズス会の諸パードレに負うところの多いことを深く考え、イエズス会と同会巡察師に、長崎の町およびそれに接した土地・田畑を、何ものも残さずすべて永久に無償で贈与する。...パードレが選んだいかなる者にも、その地の適切な支配、死刑その他の裁判権を与える。またポルトガル船が碇泊中に支払うものを、永久に引き渡し与える。ポルトガル船その他の船の税金は予に保留し、家臣に取り立てさせる」。
このとき長崎に加えて茂木も寄進された。茂木について、「そこはその地域のキリスト教会の主勢力がある大村と高来(有馬)の地を結ぶ通り道だ」とヴァリニャーノは書いている。この協定によって、純忠は年間三〇〇〇クルザードの関税収入を確保した。
一方イエズス会は一〇〇〇クルザードの碇泊料、長崎・茂木の年貢三〇〇クルザードを得た。イエズス会士一人の年間生計費が二〇ドゥカードだったことを思えば莫大な収入である。ちなみにクルザードとドゥカードP160はほぼ同価値である。
ヴァリニャーノが寄進を受ける決断をしたのは、長崎の教会の敵龍造寺の手中に陥ることを防ぐためだったのはもちろんのことだが、イエズス会が安全な根拠地と、併せて千数百クルザードの安定収入を得られるのも大きな魅力だった。行政に伴う死刑の宣告は、イエズス会が任命した役人に大村氏が権限を与えるという形で、難点を回避した。
以上に述べた長崎・茂木寄進の経緯はイエズス会側の説明である。問題の寄進状は日本語原文が残っておらず、訳文がそのまま信用できるわけではない。あとで述べるように、ヴァリニャーノは天正少年使節派遣の際、大友宗麟の書簡を本人の知らぬままに勝手に作成し、花押も偽造した実績がある。
日本側文献ははるか後代にかかれたものではあるが、大村純忠あるいは長崎甚左衛門(純景)が軍費のためバテレンに多額の借財を負い、その返済のために長崎の地を譲ったと述べている。イエズス会が純忠に金銭的援助を行ったことは、ヴァリニャーノ自身が認めている。
寄進状の文言で従来「イエズス会に負う所の多いことを考え」と訳されてきたくだりは、キリシタン史家の高瀬弘一郎によると、実は「イエズス会パードレ達に多大な負債があることを考慮して」と訳されるべきだという。
・大村への龍造寺の圧力が強まる P160-161
しかし、長崎寄進が龍造寺の脅威を主な動機とする点はまず動かない。天正八年、龍造寺隆信は純忠を佐賀城へ招いた。コエリュは純忠の佐賀行に強く反対した。彼が誘致されたなら西九州における教会もまた危殆に瀕する。
しかし、純忠としては招待を断れば戦端を開かねばならぬ。彼は嗣子喜前と重臣をひき連れ、死を覚悟して佐賀を訪れた。ところが隆信は純忠は歓待した。純忠は宴席で仕舞を舞い、舞い終えると即座に帰国したという。
隆信が純忠を殺さなかったのは、イエズス会との友好を欲したからである。彼はコエリュを佐賀へ招き、コエリュはヴァリニャーノの指示によって招待を受けた。隆信はコエリュを歓待し、ポルトガル船が領内に来航してくれたら、教会の建立と布教を許そうと申し出た。
コエリュは適当にあしらったものの、隆信という人物そのものを信じなかった。彼が大村と有馬の支配者となる意志を捨てぬかぎり、彼を教会の最悪の敵と見なさざるをえない。
龍造寺の大村への圧力はじわじわと強化された、天正九年、純忠は隆信の求めに応じて喜前を人質として佐賀へ差し出した。二年後喜前は帰国を許されたが、替わりに純忠の二男三男が人質にとられた。帰国した喜前はすでに隆信の傀儡だった。
帰還に当たって喜前は隆信に、大村領から宣教師を追放し仏教を復興すべきかどうか問うた。隆信は宣教師と友好を保つべしと答えた。彼はなお、領内にポルトガル船を招く望みを棄てきれなかったのである。
天正一二(一五八四)年、純忠は本拠地である三城から逐われ、波佐見に蟄居させられた。替わって三城へ入った喜前は、つき添った隆信の家臣たちの言うままになり、彼らは領内のキリシタンをしばしば迫害した。
だが、純忠が長崎をイエズス会に寄進していたことが、この際ものを言った。貿易を夢見る隆信はイエズス会と決定的な敵対関係に踏みきることをためらって、長崎に手出しを控えたのである。コエリュは純忠が三城を退去させられたとき、徹底抗戦を説いてやまなかった。
彼からすれば、いくら隆信が友好を装っても、平戸の松浦隆信とおなじく、貿易の利を求めるだけで、教会に敵意を抱いていることは明らかだったのである。だが、純忠はああしろこうしろと絶えず口出しするコエリュに、もはや我慢しかねる心境だったらしい。
天正二年に彼の強制で領内の神社仏閣を破却したときも、純忠には不満があった。二人の関係は決定的に悪化し、のちに純忠が死去したとき、コエリュは彼の臨終を見ることを拒否したという。
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