プロローグ ファースト・コンタクト P7-10
(P6-)P8 ポルトガルやスペインのアジアへのプレゼンスは、ふつう近代世界幕開けの一端ととらえられている。だとすれば、そのプレゼンスが何よりも世界のカトリシズム化という動機に主導されていたというのは、一見アナクロニックな奇異感を免れない。
それは彼らの海外進出がイスラムからのイベリア半島奪回、いわゆるレコンキスタの延長として行われたという惰性を反映するものであると同時に、ヨーロッパにおける旧教国対新教国の対立という構図の延長でもあったことを示唆している。
ヨーロッパ本土におけるハプスブルク帝国樹立の企図と、それを挫折させようとするオランダ、イギリスの反帝国的企図の対立が世界規模に拡大したのがいわゆる大航海時代の内実であり、カトリシズム海外宣教は世界のヨーロッパ化の旗印であり、戦略手段でもあった(tw)。
ともあれこのように、ポルトガル海上帝国と結んだイエズス会(相互参照)によって強力なキリスト教宣布が行われることで、日本とヨーロッパとの第一の出逢いは広汎な世界観的・思想的意味合いを帯びた。日本人はいわばキリスト教という姿見に映ったおのれを発見したのである。
MAGI 天正遣欧少年使節の企画もその一環であった。画面操作は「︙」をクリック
01 02clip 10
キリスト教を媒介とした日本とヨーロッパの相互認識P9は、むろん対立や相違をかき立てはしたが、共感や相似を含むものでもあったのを忘れてはならない。
このとき日本人は、西洋人に対して何ら劣等感も先入見も持っていなかった。これは第二の出逢いとは大きな違いである。それは西洋人の場合も同様だった。むろん、彼らは双方ともおのれの文化的規範によって拘束されていた。
しかし、そうした相互の偏見も含みつつ、この最初の出遭いはともに対等の立場から相互を発見し、ひとつの世界史を形成するいとなみという、うららかな表象を帯びている。キリスト教宣教に伴う弾圧=殉教という苛烈陰惨な印象で、この出遭いのリアリティを曇らせてはなるまい。
さらにこの出遭いの特徴は、一方は扉を叩くもの一方は叩かれるものというふうに、非対称的なものではなかったということにある。これも第二の出遭いとの顕著な相違点だった。一六世紀の「大航海」はけっして西洋の独占ではなかった。
一五世紀以来アジアの経済は活況を迎え、一四九八年、ヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到着したとき、インド洋貿易圏は完成したシステムとしてすでに繁栄のただなかにあった。さらにその先の東南アジアは南シナ海と結合して、もうひとつの貿易圏をかたちづくった。
新興の琉球王国が航海者として名をはせたのはこの圏内においてである。ポルトガルはアジア海域という世界経済の中心に、世界の周辺から馳せ参じた新参者にすぎなかった。
「キリシタンの世紀」は日本が世界有数の銀産出国であった時代と重なる。日本は銀輸出を通じて世界経済にインパクトを与えたのだ。日本人は大航海時代というグローバルなブームに能動的に参加したプレーヤーのひとりだった。ポルトガル海上帝国のアジアにおける拠点は、日本人傭兵の武力なしには維持することができなかった。
しかし「キリシタンの世紀」は、いわゆる「鎖国」によって一世紀に幕を閉じた。この「鎖国」によって、日本は西洋が主導する普遍的な世界史形成に参加する機会をみすみす失ったとする従来の見解は、今日の知見P10からすればとうてい支持されない。
(略)
第一章 ポルトガル、アフリカへ P11-28
第二章 インド洋の制覇 P29-56
第三章 日本発見 P57-80(参照、ザビエル参照(tw,tw))
第四章 ザビエルからトルレスへ P81-103(参照)
第五章 ヴィレラ、都で苦闘す P104-118(参照)
第六章 平戸から長崎へ P119-133(参照)
第七章 信長、バテレンを庇護す P134-148
P134 さて、ここでまた畿内の出来事に眼を向けよう。デウスはらいの勅令によって堺に居を移したフロイスは、三好三人衆の実力者篠原長房に頼るなど、京都帰還の機会をうかがっていたが、情勢は一向に好転しなかった。
しかし一五六八(永禄一一)年にいたって、思いがけぬ方向から光明がさしこんで来た。この年の九月、織田信長が足利義昭を奉じて入京したのである。
信長KoZ25 17分版
義昭は三年前に兄の将軍義輝が殺害されたとき、奈良興福寺一乗院門跡の地位にあった。義輝の死の直後に一乗院を脱出し、近江国甲賀群の土豪和田一族に身を寄せて還俗したのは、もとより将軍位を継ぐ意志があったからだ。
義昭は将軍位に就くため諸国の大名に後援を求めたものの、最も頼りにした越前の朝倉義景も一向一揆に悩まされて余力なく、この年の七月についに信長の援護を求めて美濃へ入った。一方、義輝を殺した松永久秀が、義昭のいとこに当たる義栄を阿波から迎えて、第十四代将軍に就けたのは、おなじくこの年の二月のことである。信長が畿内を制圧するとともに義昭は将軍位に就き、義栄は一〇月に病死する。
・フロイスを引見する信長 P135-137
P135 フロイスの京都帰還を実現したのは、信長から東摂津の支配を任されていた和田惟政だった。彼は部将の高山飛騨守からつねづねキリシタンのことを聞かされて好意を抱いており、信長の了解のもとにフロイスを京都へ迎え入れた。
黄金の日日04 引見19分過ぎ~(tw,tw)一五六九(永禄一二)年三月のことで、フロイスは三年八カ月ぶりに京の地を踏んだのである。しかし、入京したからといって、フロイスの地位は安泰だったのではない。姥柳町の教会は軍勢に占拠され、フロイスは信者の家に仮寓する有様だった。
朝廷の追放令はいまだに取り消されず、それを根拠にフロイスの追放を執拗に画策する動きも絶えない。
そういうフロイスの最も頼り甲斐のある保護者が和田惟政だった。彼は入信することはなかったが、心はキリシタン同様だと自称するし、一五七一年に戦死するまで、宣教師と信者たちを保護すべく誠心誠意務めた。
そのために不利を蒙っても意に介しない。信者でもないのに、なぜこれほどまでに尽くすのかと言いたくなるほどで、思えば日本キリシタン史上、不思議な人物というほかはない。惟政は姥柳町の教会を占拠している部隊長とねばり強く交渉した結果、ついにフロイスに返還させた。
だが肝心なのは、京都におけるフロイスの地位を信長に保証してもらうことだ。惟政はたびたびフロイスを信長に会わせようと試みたが、信長は贈物としてビロードの帽子を受けとりはしたものの、フロイス自身を引見しようとはしなかった。
信長がフロイスと会おうとしなかったのは、異国の宣教師をどう扱ってよいかわからなかった上に、会えば会ったで、信長自身がキリシタンになるつもりではないかと世間から疑われるのが煩わしかったのだ。しかし、彼は宣教師に対し忌避感を持っていたわけではない。
松永久秀がバテレンのもたらす危険を説くと信長は一笑した。「汝のような古狸が何と小心なことよ。たかが一人の異国人がこの日本で何をなしうるというのか。予は反対に、かくも遠いところから教えを説くために異国人がやって来たことを、この都の名誉と思うのだ」。
和田惟政の再三の願いを斥けかねて、信長がフロイスを引見する日がついにやって来た。永禄一二年四月三日のことである。
P136この日信長は義昭の館として築造中の二条城の濠にかかる橋の上にいた。自ら工事を指揮していたのだ。彼は板の上に腰をおろし、フロイスに陽が当たるから帽子をかぶるようにいい、およそ二時間のあいだ矢継ぎ早に質問を発した。
このとき信長は三四歳、フロイスの見るところ中くらいの背丈で、体つきは華奢、髯は薄く声はよく透った。いささか憂鬱の影があるとフロイスが見たのは興味あるところである。
信長は年はいくつか、日本へ来てどれくらいになるか、インドへの道のりはどれくらいあるのか等々、最初は当り障りのないことを尋ねたが、やがて問いは核心に触れ始めた。「日本でデウスの教えが弘まらないときはインドへ帰るのか」。
フロイスはたった一人でも信者がいるかぎり日本にとどまると答えた。「いかなる動機から、かくも遠隔の地へ渡って来たのか」。「世界の創造主で人類の救い主たるデウスの御旨に添いたい一心で渡来したのであり、現世的な利益は求めるところではないとフロイスが答えると、信長はまわりの群衆にまじる仏僧たちを指さし、大音声を張り上げた。
「あそこにいる偽善者どもは汝らとは違うぞ。彼らは民を欺きおのれを偽り、虚言を好み傲慢僭越のほど甚だしい。予は彼らを殲滅しようと何度も思ったが、民を動揺させぬため我慢しているのだ」。
フロイスが高位で学識ある仏僧と宗論を闘わせる機会を得たいと願うと、信長は微笑しながら囲りの家臣たちに「大国からは大いなる才能や強固な精神を生じずにはおかぬものだ」と語ったものの確答は与えなかった。
またフロイスが都に滞在する許可状を得たい、もし殿下がそうして下されば、殿下の名声はヨーロッパのキリスト教諸国に拡がるだろうというと、信長は嬉しそうな表情を浮かべた。フロイスのお世辞は明らかに彼の自負心をくすぐったのである。
しかし、これも確答を与えられなかった。フロイスが信長の好意をかちえたのは確かだ。彼は司祭との交際が気に入ったと明言し、今後、しばしば招いて語り合おうと約したばかりではなく、惟政に造営中の館をフロイスに見せるように命じた。将軍義昭への拝謁が実現したのはこの二日あとであP137る。義昭はみずからフロイスに盃を与えた。
和田惟政は宣教師の京都住居の允許状を得るべくなお運動を続けた。各種の允許状を下付されるためには進物が慣例とされているというので、キリシタンたちは銀の延棒二本を惟政に託した。彼は自費でさらに七本を加え、一○本にして信長に献上した。
バテレンは貧しいのでこんなわずかな進物しかできず、それを恥じて自ら持参せず自分に託したのですと言い添えて。信長は一笑し、「自分は金も銀も欲しない。異国人たるバテレンから金銭を受けて允許状を出したとあれば、インドやヨーロッパでの自分の評判はどうなることか」と言って進物を受けず、允許状の作成を惟政に一任した。
信長フロイス引見 1569永禄12年4月3日
黄金の日日04 信長KOZ27
・怪僧日乗の宣教師憎悪 P137-139
信長の朱印状はこの年四月八日の日付で発行された。それは宣教師が京ならびに信長の領国に居住・滞在することを認め、領民一般の負担する一切の義務を免じ、宣教師に対して非分を働くことを禁じている。七日おくれて、足利公方義昭のほぼ同趣旨の弁許状が交付された。
フロイスは弁許状の御礼として精巧な小型の目覚まし時計を信長に贈ろうとしたが、彼は「予の手許に置いても、動かし続けるのが難しくこわれてしまうだろうから」と言って受けなかった。彼の潔癖な用意のほどを見るべきである。
しかし、都におけるフロイスの地位は信長と義昭の保障によってただちに安定したわけではなかった。朝山日乗という当時朝廷から上人の号を賜っていた怪僧が、四年前のバテレン追放論旨を楯にとって、猛然たる巻き返しを開始したのだ。
日乗は出雲の名家朝山家の出というから、もとは武士である。尼子氏に叛いて毛利氏を頼り、上京したときは法華宗の僧になりおおせていた。雄弁家だったらしく、たちまち朝廷にとり入り、信長の信任も得て皇居修理の奉行に命じられた。
頭脳明晰、釈迦より朝廷復興の使命を授けられたと称して衆人P138を煙に巻いた。朝廷復興は信長の看板であったから、日乗は信長にとって便利な人物だったのだである。日乗は信長に対して、バテレンの居るところはすべて戦乱の巷となるので追放すべきだと説いた。
信長は「貴様の小胆なることよ、予はすでに彼に都をはじめとして諸国に移住することを許した」と言い、日乗の進言にとりあわなかった。
フロイスが岐阜に帰還する直前の信長を訪うたのは四月二〇日である。信長がフロイスを愛想よく応待したのが、同席した日乗の気に障った。彼はこの場でキリシタン殿より説法を聞ききたいと持ちかけ、信長はロレンソ修道士に要望に応えるよう命じた。キリシタン布教史上有名な宗論の幕が切って落とされたのである。
(略、宗論)信長KOZ27
P139 日乗の宣教師への憎悪はこの一件でさらに昂まったのだろう。この五日後、彼は正親町天皇からバテレン追放の論旨を得、姥柳町の教会に兵を連れて乗りこむ姿勢を示した。この四月二五日の論旨とは、四年前の追放論旨の効力を再任したものと考えられる。
これに対して和田惟政は宣教師庇護の態度を貫き、日乗との間に緊張したやりとりが続いた。フロイスの記すところによると、先に信長は日乗を慰撫するためか、追放問題については内裏に一任すると答えたこともあったらしい。信長はまだこの男を見放してはいなかった。
・信長がバテレンを好遇した理由 P139-142
フロイスは遂に岐阜にいる信長のもとへ赴いて、保護を訴える決心をした。彼がロレンソを伴って岐阜に着いたのは六月の一〇日ごろだったらしい。岐阜は人口一万、塩や反物などの商品を馬に積んだ商人が諸国から集まり、バビロンのように繁昌していた。
フロイスは惟政の柴田勝家宛の紹介状を持参していたが、彼はまだ岐阜に着いていなかった。二日待って佐久間信盛と柴田勝家が京から到着すると、フロイスは二人を訪問し歓待された。信長の宣教師への好感は、彼の部将の承知するところだったのだ。
二人からフロイスの来訪を知らされた信長は早速彼を引見した。場所は稲葉山の斜面に築かれた四層からなる宮殿で、フロイスはポルトガルを出て以来、こんなに精緻で豪華かつ清潔な家屋は見たことがないと述べている。
信長はいつ来たのか、こんなに遠い所までやって来るとは思わなかったと言ってフロイスを歓迎した。フロイスが驚いたのは、信長が家臣や外来の客から異常なまでに畏怖されていることだった。「彼が僅かに手で立ち去るよう合図するだけで、彼らはあたかも眼前に世界の破滅を見たかのように、たがいに重なり合って走りP140去るのである」。
宮殿はふだんは家臣も容易にはいれぬところだったが、信長は「ヨーロッパやインドの建築には見劣りするかも知れぬが」と断りつつ、自ら案内役を買って出て宮殿をくまなく披露した。信長がフロイスに対するとき、常にヨーロッパとの対照意識していたのは注目に値する。宮殿内の装飾、調度、庭園等がフロイスの目を驚かせたのは前述の通りである。
フロイスが参上すると、信長は京からやって来た公卿衆の前で「一切は予の力のもとにあるが故、内裏も公方も意に介するに及ばず、汝は予の言うことのみを行ない、汝の欲する所にいるがよい」と言い、いつ帰るのかと尋ねた。
フロイスが殿下が問題を解決して下さったので翌朝出発すると答えると、彼は城を見せたいからと出発を二日延ばすように求めた。家臣や公卿たちは何ゆえ信長がこのような好意を宣教師に示すのか、首をひねったという。
フロイスが進物を持って稲葉山城を訪れると、信長は早速進物のひとつのシロウラ(ズボン下)を身につけ、第二子の信雄に茶を接待させた。信雄はこのとき一一歳だった。信長はフロイスに「元素や日月星辰のこと、寒い土地と暑い土地の性質、国の習俗」について尋ね、会話は三時間に及んだ。
やがて信長は席を立ち、自らフロイスの食膳を運んで来た。ロレンソの食膳を運んだのは信雄である。食事がすむと、信長は両人に白い絹の袷と帷子を贈り、その場で着用させて「似合うぞ、いまや汝は日本の長老のようだ」とよP141ろこんだ。
信長が宣教師を好遇した理由は明らかである。宣教師は彼の前に開けつつあった国際社会の窓口であったのだ。宣教師のもたらす情報によって、ポルトガルからアフリカ・インドを経、日本に達する長い海の道のイメージが彼の脳中に形づくられた。
彼が行おうとしている経綸は、この国際社会の中で評価にたえうるものでなければならない。また、彼が創ろうとしている新しい日本は、この海の道がもたらす文物、情報を積極的に摂取する度量を持たねばならない。異国人や異国の来朝を歓待するのは、日本がまさにに世界のプレーヤーの一員となることにほかならぬのだ。
信長がインドやポルトガルの品物に関心が深いことを知ると、人びとは争ってその種の物品を彼に贈り、緋色の外套と上衣、聖母のメダイと羽飾りのついたビロードの帽子、精巧なガラス器、朱珍の織物、コルドヴァの皮革、砂時計や日時計、テンの毛皮の服等々の南蛮渡りの品々が、十数個の大箱をみたすほどになった。
フロイスは「かくも大量の品がどこよりこの遠隔地に来たのか、また日本人はどこでそれをポルトガル人から入手したのか判らなかった」と述べている。このような異国の文物への関心が彼の宣教師びいきの一因だったのは明らかである。
信長はまた宣教師たちの理想への熱誠と献身に深い印象を受けたのに違いない。彼はフロイスもいうように無信仰の人であり、神仏や占卜・迷信を軽蔑した。だから彼を感動させたのは宣教師の説く教義ではなく、金銭欲と名誉欲のかたまりともいうべき当時の仏僧とは対照的な、清廉で真摯な宣教師たちの人柄だったのである。
彼は徹底的にまじめで精力的な人物だった。酒を飲まず食を節し女色に淫しなかった。夫人に無礼を働いた兵士があればただちに殺した。フロイスのいう「総司令官」佐久間信盛が職務に怠慢だというので所領をとりあげて追放した。困苦にたえて布教に挺身する宣教師の精励は彼の眼鏡に適ったのである。
P142 信長が宣教師に安全を保障したからといって、日乗のバテレン追放運動がやんだわけではない。宣教師の保護者として日乗と折衝したのは和田惟政だったが、日乗の憎悪はいまや惟政に転じ、遂に岐阜の信長のものとへ赴いて彼を讒訴するに至った。
惟政は信長の不興を買い、部下とともに剃髪して蟄居した。彼はこのとき「バテレンがインドへ追放されるようなことがあれば、すべてを投げ棄ててついて行く」と語ったという。彼は遂に受洗しなかったにもかかわらず、バテレンを愛慕する不思議な心情にとり憑かれていた。
日乗が信長にどんな告げ口をしたのか、それはわからない。しかし信長は翌一五七○(元亀元)年の春には勘気を解いて、惟政をもとの地位に復帰させた。逆に日乗は信長の怒りを買って、彼の屋形から追い出された。日乗は朝廷での地位は依然として保っていたが、彼の宣教師追放運動はこれで終止符を打たれた。
・かんばしくない都の布教状況 P142-144
実は信長はこの時期、宣教師問題に心を労するどころではなかったのだ。彼は京をおさえていたが、天下はまだ彼のものにはなっていなかった。東に武田、北に上杉、西に毛利という大敵が存在していたばかりではない。
当面の問題は近江の北と南に浅井と六角がいて、岐阜・京都間の連絡を脅かしていることにある。浅井の背後には越前の朝倉がいた。信長は浅井長政に妹お市の方を嫁がせて、一応同盟関係を築いていたものの、浅井は朝倉と深く結びついていた。
元亀元年四月、信長が越前に出陣して朝倉義景を討つと、長政は朝倉側に立って背後を衝こうとし、信長は辛うじて京都に逃げ帰った(金ヶ崎の退き口tw)。
①国盗り物語②TV東京国盗り物語 ③黄金の日日 ④信長KOZ28 ⑤利家とまつ ⑥江
⑦功名が辻 ⑧徳川家康(相参)
六月、信長は徳川家康の加勢を得て姉川で浅井・朝倉と戦い、これを破ったが、その本拠を衝くに至らぬうちに、三好三人衆が阿波から摂津に侵入し、信長は南へ兵を返した。
本願寺宗主顕如が信長との戦いに踏み切ったのはこの時である。九月、信長は摂津の天満森に本陣を構えてP148三好三人衆と対陣していたが、一二日の夜半に至って顕如は早鐘を撞かせて軍勢を集め、にわかに信長の本陣を襲わせた。
信長は仰天したと伝えられる。この状況を見て朝倉・浅井は、三万の兵を出して京を襲った。信長が帰京してこれに当たると、朝倉・浅井勢は比叡山にたてこもる。フロイスは一二月一日(洋暦)の手紙で、不安におののく京の雰囲気を伝えている。
周辺の村々は焼き払われ、街道は封鎖されて、食物にも不自由する有様。市民は財貨を隠したり、妻子を避難させたりするのに大童だ。フロイスも祭具を近郊の山に隠した。米と大根五〇把があるから何とか食いつなげるというのも切実である。
信長はこのとき生涯最大の危機に立っていた。三好三人衆は南から京へ迫り、叡山の北国勢はしばしば出撃して京をおびやかす。伊勢長島の一向一揆は信長の弟信興の守る尾張小木江城を攻め、信興を自決させていた。
信長は一二月、将軍義昭と朝廷の斡旋によって、朝倉・浅井・六角と和睦し、辛うじて危機を脱することができた。
日本布教長のカブラルから京へ派遣されたものの、戦乱のために堺にとどまっていたオルガンティーノが入京できたのは、あけて元亀二年一月一日のことである。このオルガンティーノこそ、のちに「ウルガン・バテレン」の名で日本人に親愛されることになる人物で、フロイスは無二の同僚を得た。
都の布教状況はかんばしいものではなかった。この年の三月二〇日付のフロイス書簡は教会が激しい投石にさらされていることを伝え、さらに五月二五日付書簡には「当地方のキリシタンの人数は今に至るもはなはだ少ない。さらに、そのわずかな羊たちのほぼ三分の一は、七年前に私が当地に来た後亡くなった。大半は戦で亡くなったが、その他は種々の病や土地を追われたことによるものであった」と述べられている。
フロイスによれば、他の場所で二〇〇人を改宗させるよりも、都で一人を改宗させることの方がはるかに驚異的なのだった。フロイスはまた仏僧が説教に巧みで、容易ならぬ競争相手であることを認めている。
いまのところキリシタンは少数なので、仏僧たちはP144眼中にないふりをしているが、福音が広がったとき「日本ほど多くの殉教者と激しい迫害を予期させる所はない」。この予言は当たった。迫害の主体は仏僧ではなかったけれども。
この年の九月、信長は叡山を焼き打ちした。
信長KOZ31(宇佐山城、三好三人衆、六角承禎、叡山(浅井・朝倉)膠着状態。和睦して岐阜城へ。トルレス布教長死去。随天の不吉な予言をめぐって。比叡山焼き打ち→関連)
おなじ月、フロイスらが保護者として絶大な信頼を置いていた和田惟政が、三好三人衆に味方する池田知正と戦って敗死した。フロイスが信長の愛顧を確実にするに至って、惟政の役割は終わっていたともいえるが、むろんフロイスたちの悲しみは深かった。
京での教勢が伸びぬといっても、惟政なきあと畿内には、惟政の配下で、やがてその息子惟長を放逐して自立する高山ダリヨ・ジュスト(右近)父子、常に畿内キリシタンの中心だった三ヶ頼照(サンチョ)、丹波八木城主の内藤ジョアンなど、有力なキリシタン武将が健在だったことを忘れてはならない。
・布教長カブラルの畿内巡察 P144-146
一五七二(元亀三)年の初め、カブラルが畿内を巡察の途上入京し、ついで岐阜に信長を訪うて好遇された。カブラルはこの巡察行のあいだ、黒い木綿の修道服で通した。出発に当たって、彼は絹の衣を着用し身分を明かさずに旅するように助言されたが、イエズス会の理念たる恭順を表わす木綿の修道服を着用すること二固執した。
その結果、何の危険もなかったばかりでなく、大友宗麟は「前には日本のイエズス会士は商人のようであったが、今や修道士だ」と感心し、信長は「そなたに絹衣をとらせようと思ったが、そなたたちは木綿の黒服に満足しているし、それを尊重しなければならぬ」と言ったという。
要するにカブラルは、日本でイエズス会士が既定の質素な修道服を着用することに何の不都合もなく、かえって威厳を高めるといいたいのである。その背景には、彼の着任以来の衣服論争にあった。彼はインドから木綿の修道服を着用すべしとする指令を携えてきたのだが、大部分の在日会士はそれに反対した。絹衣を着なければ貴顕と交際できぬというのである。
堺までオルガンティーノとロレンソが出迎えたが、彼らは絹の日本のキモノを着ていた。カブラルの強制によったのか、義昭や信長に会見したとき、フロイス以下みな修道服を着ていたので日本人は不思議がって、どうして身なりを変えたのかたずねた。
カブラルの修道服着用指示はこの後も、在日イエズス会士に必ずしも受けいれられなかった。
P145カブラルは巡察行に出る前は、日本人に対して好感を持っていなかった。布教の方針としては領主を通じて行うしかないが、領主は布教許可を与えても実際は下層の住民に限り、上層の武士の入信を妨げる。それは一般民衆は彼の命令によって容易に棄教するが、教養ある上層の人士はより深く信仰を受けいれるからだというのが彼の観察するところだった。
だが彼は巡察の結果、九州の諸侯が貿易の利に釣られて入信するのに対して、都地方の人びとは現世の利益を求めて入信するのでhなく、理解力もすぐれていることを知った。「この都の地方は、日本のどこよりも神を識るのに最も適した状態にある」と彼は述べている。
彼は一五七四(天正二)の春にもふたたび都地方を巡察した。カブラルの畿内巡察は信長を始めとする有力者たちにも深い印象を与えたに違いない。フロイスやオルガンティーノがたまたま都に出現した異国僧ではなく、九州に本部を置く日本イエズス会から派遣された京都駐在の布教師であるという事実を、彼らははっきりとさとらされたはずなのだ。
カブラルは第二回巡察の帰途、高山父子の居城高槻を訪うて帰依者に洗礼を授けたが、その場に居合わせた京都の古参キリシタン、ジュスト・ミョウサンが、自分も洗礼を受け直したいと言い出して司祭たちを驚かせた。彼が言うには「ヴィレラ師が自分に洗礼を授けてくれたとき、師は戸も窓もない乞食の家のような所に寝泊まりしていて、壁には黒いインクで十字架を描いた紙が張られていた。
師は祈祷書の文句をいくつか唱えただけで、小さな陶器の椀にはいっていた水を自分の頭に振りかけ、汝はすでにキリシタンになったと言った。P146いま尊師らが立派な祭壇に立ち立派な器具を用いて、いとも荘厳に洗礼式を行っているのを見ていると、自分が正しく洗礼を受けたキリシタンなのか、疑いが湧いてくる」というのだった。
洗礼のやり直しなどありえぬことではあるが、これを聞いたカブラルやフロイスは、かつての小さな京都教会がここまで発展をとげたことに感慨を禁じえなかったに違いない。
・「ローマにモスクを建てるのにひとしい P146-148
この前年は、畿内の情勢が大きく動くとともに、フロイスらが新たな危難に襲われた年でもあった。一五七三年四月、信長は対立を深めていた将軍義昭への示威のため上京を焼き打ちしたが、フロイスは無政府状態に陥った京を逃れ、九条ついで東寺近辺に身を匿した。
侵入したのは信長麾下の荒木村重の兵で、信者の納屋に匿れていたフロイスの身辺を、鶏を撃とうとした兵士の銃弾が通過する有様だった(下記動画信長KOZ35 6分過ぎ)。
信長はこのとき北は朝倉・浅井勢、南は本願寺・三好勢に囲まれ、しかも最強の敵武田信玄が前年一二月三方原に徳川勢を一蹴し上京の途にあったのだから、容易ならぬ危機のただ中にあった。
しかし、信玄は上京焼き打ちに前後して急死し、信長は七月には義昭を追放、八月には朝倉・浅井氏を滅ぼし、一一月には若江城(相互参照)に三好義継を攻めて自決させた(tw)。
1)信長KOZ34 (tw)四面楚歌 北は朝倉・浅井勢、南は本願寺・三好勢・松永久秀。17条の諌め状。そして、武田信玄が動き出す~三方ヶ原
2)信長KOZ35 足利幕府滅亡前夜(和睦交渉、信玄病死)~滅亡 →他ドラマ参照
3)信長KOZ36 足利幕府滅亡後 信長の一向宗批判バテレンのように精錬であれ
4)信長KOZ37 浅井朝倉滅亡後 堺の会合衆と茶会 カブラル・オルガンティーノ論争 74天正2新年 蘭奢待
信長KOZ34 信長KOZ35 信長KOZ36 信長KOZ37
さらには、一五七五年には長篠で武田勝頼を破り、越前一向一揆を平定して、信長の敵は北方に不気味に蟠踞する上杉謙信を除けば、毛利勢に支援される石山本願寺のみとなったのである。信長の覇権が固まることは、畿内のキリシタン教会にとって、安定した布教環境が生まれることを意味する。
信長は依然として宣教師たちに好意を示し、カブラルを引見した際も、ロレンソの説教を聴いて「これ以上に正当な教えはありえない」と語った。
このような情勢の安定のもとで、老朽化した下京四条坊門姥柳町の教会を改築する企てが動き始めたのは一五七五年のことだった。P147教会の老朽化ぶりは、風が強いときは倒壊をおそれて戸外へ出なければならなかった。
最初は東福寺の一寺院を購入しようとしたが古すぎるので諦め、もとの場所に新築することにきまった。姥柳町の住人は一致して教会を敵視しているので、隣接した土地を購入することもできず、もとのままの狭い場所に建てるのである。イタリア人のオルガンティーノがいろいろと工夫をこらし、三階の建物が建つことになった。
1)信長KOZ38 12:45~道路整備の意味(tw) 伊勢長島一向宗全滅(tw) フロイス・オルガンティーノ 新教会の許可 信長を責めるお市にお鍋は信長を擁護 長篠の戦い
2)信長KOZ39 越前平定(tw)~お鍋、安土城構想~従三位権大納言・右近衛大将~帰蝶~新教会図面~家督相続
3)信長KOZ40 安土築城計画。京の教会新設進捗状況。家康、岡崎城の元康を訪問。石山本願寺攻め。フロイス、九州へ
4)信長KOZ41 信長、京の教会を訪ねる。安土城にも教会建てたいとオルガンティーノ。上杉謙信死去。丹波・播磨に兵を進める。荒木村重謀叛、オルガンティーノ高山父子説得、光秀村重説得(
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信者たちは惜しまずに金を出せる者は金を、金を出せぬ者は家でなった縄や、掌一杯の釘や一枚の板を届けた。大工のために魚を届ける者や、木綿の布を織り、職人への支払いに充ててくれという者もいた。フロイスは特に貢献の大きかった者として七名の名を挙げている。
高山父子、ジョルジ結城弥平次、ジュスト・ミョウサン、リアン清水、フェリパ・キタ、シメアン池田丹後である。高山父子と結城弥平次は領内から木材を切り出して教会の建材とし、兵士を派遣して作業に就かせた。
弥平次はある日工事に従事する職人の数が少ないのを見ると、すぐさま佩刀の金飾りをはずして、これでもっと人を雇えと修道士に与えたという。純情見るべきである。ミョウサンの純情については先に記した。リアンは高利貸しだったが、入信後証文を破棄したという人である。
ミョウサンとリアンは教会新築の発起人だった。フェリパは三ヶ頼照の姉妹で、自分で織った着物を司祭と修道士に贈るのをつねとした徳行の人だった。
新教会の建築が進むにつれて、下京の町年寄たちは三階建てであることに文句を唱え、所司代村井貞勝に訴え出た。他の建築よりそびえ立つのが怪しからぬし、上階に住院を設けるのも日本の寺院の習慣にそぐわず、隣家の女性は高所より見おろされるので庭にも出られないというのだ。
村井は一笑に付してとり合わなかった。彼は信長の意を体して、パードレたちのよき友であったのだ。新教会は翌一五七六年八月一五日、「被昇天の聖母マリア」と名づけられて献堂式が行われた。
フロイスは「都に異国の司祭が二人いるにすぎない。幾多の敵の意志に反して都にいとも美しく立派な教会を建てるのは、今、二人の回教徒がローマもしくはリスボンにおいて、我らの教会にあえてモスクを建てるのにひとしい」とその意義を自賛した。
もちろん彼は重大な一事を看過していた。ローマおよびリスボンでモスクを建立するなど当時絶対に不可能であるのに対して、一六世紀の日本人は首都にカトリック寺院の建立を許したという一事である。この年の降誕祭には新教会に畿内中の信者が集まり祝祭をとり行った。
前夜着任したジョアン・フランシスコ司祭は目にした光景に驚嘆し、全ヨーロッパの聖職者が自分の眼にしたものを見たならば、どれほどよろこぶだろうかと繰り返し語るのだった。
第八章 豊後キリシタン王国の夢 P149-161(参照)
第九章 ヴァリニャーノ入京 P162-174(参照)
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第一○章 天正少年使節 P175-189
第一一章 右近と秀吉 P190-200(参照)
(P190-)P191 本能寺の変以降の畿内キリシタン武将の動向
(略)
P192 秀吉麾下の武将が続々と入信
(略)
→参照
P194 右近に説かれてまず入信したのは、馬廻衆組頭の牧村政治である。近江で二万五〇〇〇俵を給され、利休の高弟でもあった。一五八四年のことで、続いておなじく馬廻衆の毛利高政が入信した。翌八五年になると、右近と牧村に説かれて、利休七哲の一人蒲生氏郷が入信。信長の次女を夫人とする大物である。
近江日野を領していたが、伊勢半国一二万石を与えられた。おなじ年、行長・右近・氏郷に説かれて受洗した黒田官兵衛孝高も、氏郷クラスの大物である。播磨に一万石を領したが、秀吉の諸将として重要な地位を占めていた。
彼は息子の長政も受洗させた。このように重要な武将が入信するに至ったのは、右近の働きかけ大きかったにしても、キリスト教のどこが魅力だったのだろうか。貿易の利が得られる九州大名とは違って、彼らには入信による利は何もなかったのである。
秀吉がキリシタンの部下を重用したといっても、入信すれば秀吉の寵がえられるわけでもない。彼らの入信の動機については、また改めて考えることにしたい。
傍若無人な神仏像破壊
(略)
(P196-)