2020年2月13日木曜日

偏愛メモ 『バテレンの世紀』第三章 日本発見 P57-80

第三章 日本発見 P57-80

(P56-)

・一五世紀東シナ海の主役、琉球船 P58-60
・明朝廷から門前払いを喰らったピレス一行 P60-63
・ポルトガル人の日本「発見」 P63-67
P63 広州で門前払いを喰らったポルトガル人は中国貿易の利を諦めきれず、北上して福建方面で密貿易に加わった。明の海禁策は朝貢以外の海外貿易を一切認めず、中国人の海外渡航も禁ずる建て前だったが、もともと人口過剰で貿易で生計を立てるしかない福建から広東にいたる海浜の民が、そうですかと引き下がるわけがない。

P64 貿易業者たちは武装して取締りの官船と対抗し、堂々と密貿易に従事する有様で、地方の有力者たる郷紳も実は彼らの後ろ盾だったのである。

ポルトガル人はこのような中国の海民たちの海禁破りに加わったわけだが、当時この方面の実情を見聞したドミニコ会士ガスパール・ダ・クルスが言うように、彼らの地位はきわめて不安定だった。中国官船とつねに交戦状態にある彼らは、安心して碇をおろせる港を持たず、たえず外洋をさまよって、暴風雨に襲われて難破することも少なくなかった。

だが、一五四○年ごろ、ポルトガル人はついに寧波に近い船山群島の一角、雙嶼(リャンポー)に定着した。ここは中国の密貿易者の基地で、ポルトガル人をそこへ誘致したのは、中国の武装商人つまりは海賊の首領許棟だったといわれる。

クルスは言う。「そこに住む貧しい人々はポルトガル人を大いに歓迎した。ポルトガル人と航海を共にしてきた中国商人はこれらの集落に帰れば、お互いに親戚同士であったし、よく顔が知られてもいたから、土地の人々は彼らのためにもなおいっそうポルトガル人を温かく迎えてやった。やがて彼らを仲介役として土地の商人がポルトガル人へ売るための商品を持ちよるという商談が成立した」。

ポルトガル人の日本発見は、中国南部海岸の海寇的状況への彼らの参加、より直接的には雙嶼への定着から生じたのである。彼らが広州あたりでうろうろしていたら、日本へ漂着することなど起こりえなかった。

一六世紀日欧交渉史の大家岡本良和が言うように、ポルトガルがカリカットへ到着してからさらに中国に達するにはわずか一六年を費やすにすぎなかったのに、初めて広州を訪れてから日本に到るまでには二十数年を要していP65る。

つまり、彼らの眼中には日本はなかったのである。黄金の国ジパングに関するポーロの伝説的言説に、彼らはまったく関心を寄せていなかった。しかし、雙嶼までくれば寧波は目と鼻の先だ。寧波はいうまでもなく勘合貿易船の入港地であり、大内と細川の勘合船が寧波で闘争したあげく沿岸を略奪してから、まだ二〇年は経っていなかった。

しかも当時、南中国を基地とする中国船は大挙して九州を訪れていた。ともに「大々的な窃盗や掠奪を行なう」(クルス)ほど中国人海商と一体化していたポルトガル人が、中国船に乗って日本に到るのはもはや時間の問題だったのである。

(略、ポルトガル人の日本初航に関する基本的な記録、『鉄炮記』『世界新旧発見史』『東洋遍歴記』)

P66 的場節子は日本をめざしたのは私欲にかられたポルトガル冒険商人だから、記録に残される以外に、ポルトガル人の雙嶼定着以降、彼らがいつ日本を「発見」しても不思議はなかったと言う。つまり『鉄炮記』やフレイタス情報にとらわれる必要はないという次第だが、一五四○年以降に渡来した「すべての唐船に、ポルトガル人日本初渡来の可能性があった」という彼女の主張は聴くべきであろう。

しかし、『鉄炮記』のいう異国船がポルトガル船であったか否かはともかく、ポルトガル人が自前の船ではなく中国のジャンクで渡来するのが一般であった事実は動かない。この八年(あるいは七年)のうちに、かのザビエルを鹿児島へ送ったのも中国「海賊」のジャンクだったし、一五四四年、豊後を訪れた六、七名のポルトガル人も中国のジャンクに乗って来たのだった。

このとき一六歳の大友宗麟が、彼らを殺して商貨を奪おうとした父(義鑑)をいためた話は名高い

彼らが中国船に乗って訪日したのは、おそらく航路と九州沿岸の地理に暗かったからだろう。だが、彼らがP67雙嶼をはじめとする中国海商=海賊の根拠地に寄生し、中国人と一体化して密貿易や海賊行為に従事していた以上、彼らの日本初戦が中国船に搭乗する形で行われたのは何ら怪しむに足りない。

国籍を問わぬ多様な冒険商人たちが作り出す東シナ海の海寇的状況のなかで、日本とヨーロッパの最初の出会いが演出されたことの意味は大きい。ピントが日本発見の報を雙嶼へもたらすと、その他のポルトガル人は色めき立って日本へ船を仕立てようとしたという。

何しろ日本には銀があり余っていて、中国の絹を持ってゆけば大もうけ確実と話したのだからたまらない。もちろんピントが日本の発見者だというのはつくり話だが、ポルトガルの冒険商人たちが日本に新たな商機を見出したのは彼の言う通りで、こののち彼らの船は連年薩摩・大隅あるいは豊後の諸港を訪れるようになった。

広州で国交を拒絶されて以後、福建・浙江方面への進出はポルトガル政府の関知せぬ個々の商人によって行われ、中国人に導かれて日本を訪れたのもこのような冒険商人たちであった。


・倭寇と密貿易 P67-71
ポルトガル人が中国人海商の密貿易の波に乗って日本と出遭ったのであれば、ここで問題になるのは当然かの倭寇でなければならない。倭寇は遠く一三世紀に始まるが、国際問題化するのは一三五〇年で、この年一〇〇余艘の倭船が高麗南部を襲い官米を奪った。

当時日本が南北朝の争乱のさなかであったのはいうまでもない。この年以来、高麗は連年倭寇に悩まされることになる。倭寇が掠奪したのは米穀と人間だった。人間はむろん奴婢とするのである。

倭寇はやがて中国北部にまで足を延ばすようになり、一三六八年明を建国した太祖朱元璋は、九州の実質的支配者である征西将軍懐良親王に倭寇の禁圧を求めたが実効はなかった。しかし太祖はやがて室町幕府と交渉し、将軍義満と冊封関係を結んで勘合貿易を開くに至り、

一方高麗では、倭寇討伐に功あった李成桂が新に国を建てて朝鮮と号するに及んで、猛威を振るった倭寇も次第に沈静化する。一四一九年、遼東の望海堝で明軍が倭寇に大打撃を与え、同年朝鮮が倭寇の巣窟である対馬を掃蕩した(応永の外寇)のが、いわば倭寇へのとどめとなった。

ところが一六世紀の中葉、倭寇は突如南シナ海沿岸で猛威を逞しゅうする。いわゆる嘉靖の大倭寇である。

中世東アジア国際関係史の研究者、田中健夫作成の年表によれば、それまで毎年一、二件にすぎなかった倭寇の行動が、一五五二(嘉靖三一)年に一三件、五三年には六四件、五四年には九一件、五五年には一〇一件に達した。浙江・江蘇をはじめ中国の中・南部沿岸は惨害を蒙り、倭寇鎮圧は明朝の緊急課題となった。

歴史学界は一四世紀から一五世紀前半までの前期倭寇と、一六世紀中葉の後期倭寇をまったく性格のことなるものとして区別している。後期倭寇は日本では八幡船と呼ばれ、たとえば明治後期に初稿が書かれた村田四郎の『八幡船史』では、日本民族の海外雄飛の好例として称揚されていた。

昭和前期の軍国主義時代に、そのような風潮が一段と強まったのはいうまでもない。しかし、朝鮮を主な対象とする前期倭寇が、まぎれもない日本人の行動であるのに対して、嘉靖年間の大倭寇が中国人海商を主体とする反乱であり、日本人はそれに付随したにすぎないことは、すでに昭和初期に秋山謙蔵によって明らかにされていたのである。

秋山は明の史書にこのいわゆる倭寇が「その実は真倭ほとんどなし」とか、「倭は十に三」とか「十の一」と記述されていることから、この時期の倭寇とは「実はその大部分が支那人の海賊であり、明政府が自己の統制に在るべき支那海賊の暴乱を、すべて『倭寇』と記載したのである」と主張した。

嘉靖の大倭寇の実態が中国官憲の密貿易弾圧に対する中国人海商の反撃であることは今日定説になっている。国是とする海禁を無視した密貿易に手を焼いた明朝は、朱紈を浙江巡撫に任命して取り締まりを強化した。

朱紈は一五四八年、密貿易の根拠地となっていた雙嶼を攻略し、頭目の李光頭と許棟を斬った。密貿易者たちは船P69山群島の瀝港を新たな根拠地としたが、一五五三年にはここも官兵に攻略された。根拠地を奪われた密貿易者たちは、流賊となって中国沿岸を荒掠し始めるのである。

しかし、なぜこれが「倭寇」なのだろうか。秋山謙藏は明の官吏が反乱を招いたおのれの失態を糊塗するために、前世紀の現象である倭寇に罪をかぶせたというのだが、流賊のなかに少数とはいえ日本人がおり、しかも指導的な役割を果たしていたらしいのも記録の語るところなのだ。

賊の先頭に日本人がいて双刀を舞わせて突撃し、あるいは頭目の日本人が扇をうち振るって一隊を指揮したというのだが、双刀を舞わすというのは中国の刀法臭いとしても、日本人の武勇あるいは狂暴が官兵に恐怖心を抱かせたのは事実なのである。

ハーバード大学の黄仁宇は一九八一年に出した著書の中で、嘉靖の大倭寇の主体を「日本列島からの侵略者」と呼んでいる。賊徒が「普通は中国人が多数を占め」ていたのを認めながら、作為の多い明朝史書の倭寇観を鵜呑みにするのはどうかと思われるが、反乱軍がよく統制がとれ、つねに少数で大軍の官兵を撃破した事実を指摘して、「この種の能力は中国の農民反乱においては普通見られない」と述べているのは看過できない。

むろん、賊徒は農民などではなかった。この頃中国の密貿易者は半ば海賊化していて、メンデス・ピントの記述でわかるように、あるいはポルトガル船と交戦し、あるいは中国船同士で掠奪し合っていたのである。

それにしても、彼らの戦闘能力が日本人の参加によって増強されたは否めない事実のようだ。南北朝の動乱以来、日本人は二〇〇年以上も常態化した戦乱で鍛えられて、当時東アジア随一の戦闘業者となりおおせていた。

嘉靖の大倭寇における日本人の役割なり参与の度合いについては、今となってはわからぬことが多い。しかし重要なのは、なぜ日本人がこの局面に登場したのかということである。この点では、許棟の子分だった王直の働きに触れねばならない。

中国側の記録によれば、雙嶼における密貿易に日本人を引き込んだのは許棟で、一五四四年のことであったというが、また王直が四五年に博多から三人の日本人を雙嶼に連れてきたともいう。王直は四三年、P70ポルトガル人がはじめて種子島に来たときも、おなじ船に乗り合わせていた。

雙嶼・瀝港が失われたあと、王直は日本の五島列島に新たな根拠地を置き、自分は平戸に住んだ。五島市福江町には王直ゆかりといわれる遺跡が今も残っている。彼が日本に根拠地を求めたのにはそれなりの理由があった。

日本は一五三〇年代から世界有数の銀産国となり、中国海商が日本人を雙嶼に誘致したのも日本銀を求めてのことだったのである。中国に流入する日本銀の流れが日本と中国双方の武装海商イコール貿易商人の手を結ばせたのだ。

だとすれば、王直たち中国人海商の明朝官憲への復讐戦に、日本の海賊ないし冒険商人が参加したのは当然の成りゆきだったといわねばなるまい。

ポルトガル人の記録によると、一五四〇年代、九州には数百の中国船が訪れていたという。一五四六年鹿児島湾にいたジョルジュ・アルヴァレスは、この年の秋、その沖合で台風のために一隻のポルトガル船と七二隻の中国船が沈んだと報じている。

これは大変な数字といわねばならない。ところが、一五五五年マラッカにいたルイス・フロイスは書簡中に、中国から来た船から聞いたこととして「日本の沿海の諸王は支那沿岸都市の総督を攻撃せんため大艦隊を編制せりとのことなり。こは両国にとりては大破壊にして大争闘なり」と報じ、両国間の戦争はポルトガルにとって好都合だと記した。

こののち彼は一五六二年の年報にも、戦争の結果中国船が日本へ来なくなったのはポルトガルの何よりの幸せだと書いている。まさに日本貿易の好機が到来したのである。

密貿易の根拠たる雙嶼が破壊されたあと、ポルトガル人は広州湾の浪白澳あるいは上川島に拠って密貿易を続けたが、一五五四年に広州での貿易を公許された。この点についてガスパール・ダ・クルスは次のように述べる。

「レオネル・デ・ソウザが一五五四年よりこの方、カピタン・モールであったとき、彼はある約定を中国人とのあいだに取り交わした。それは、ポルトガル人はみずからに課せられる税を支払う、そのかわり自分たちが中国の港において交易を行うことを容認してほしいというものであってあった。

その時から今にいたるまで交易は、中国第一の港である広州で行われている」。つまり彼らは、明朝への叛乱者と化した中国人の武装海商との結託を解消し、彼らのいう日中間の大戦争、すなわち嘉靖の大倭寇を傍目に見ながら、明朝に対してひとりよい子になろうとしたのである。

・日本銀と中国絹の交換 P71-73
一五五七年、ポルトガル人はマカオに定住地を獲得した。これは植民地でないのはもちろん、租借地とすらいえない。ただ中国官憲から、定住して交易を行うのを黙認されたのである。後年彼らは海賊追討の功をもってマカオを与えられたと主張するようになる。

信じるに足りぬとしても、中国官憲が海賊退治にポルトガル人の手を借りたのは事実のようで、だとすれば、これも彼らがかつての同盟者と手を切るにいたったことの傍証といえるだろう。マカオは単に広州貿易のために用いられたのではなかった。

ポルトガル人の視線はすでに日本へ定められていて、それは日本貿易の拠点たる意義の方がはるかに大きかったのである。私人の行為として始まった日本貿易はおそくとも一六世紀半ばまでには政府の管理下に置かれ、一五五六年以降、国王またはインド政庁の任命するカピタン・モールが仕立てた船によって日本貿易を行なうこととした。

カピタン・モールは単に船隊の司令官にとどまらず、マラッカ以東のポルトガルの海上支配権の代表者であり、マカオ到着以降は当地の司政官でもあった。

アルブケルケの経営から四、五〇年を経て、アジアのポルトガル海上帝国は様ざまな問題を抱えて頽勢へ向かおうとしていた。このときに当たって開かれた日本貿易は、ポルトガルのアジア経営にとってカンフル剤だったと言っていい。。

それは胡椒貿易よりはるかに大きな利潤をもたらした。だがその一面で、チョードリはインド政庁の関心がゴア-マカオ-日本の新航路に集中するあまり、インド洋方面の支配の弛緩を招いたと指摘している。日本貿易とは要するに日本の銀と中国の絹との交換である。

ポルトガル人は両国産品の仲介を行ったにすぎないが、その仲介が商売として成り立つには、中国が日本船の渡来を受けつけず、また中国の密輸業者も官憲との抗争に結局は敗れて、日本来航が激減するという背景があった。倭寇の大頭目王直明朝に投降して、一五五九年に斬られた。

ポルトガルはもはやアジアの富をヨーロッパにもたらすという当初の段階を終え、アジア内の貿易に仲介者として参入することに活路を求めるにいたった。その仲介貿易のメインが日本貿易だったのだ。

ポルトガルは中国の絹を日本にもたらす際に仕入れ値の四、五倍で売り、さらに日本銀を中国に持ち帰れば両国の金銀比価の差によって暴利をむさぼることができた。彼らは往き帰り二度儲けたのである。

しかし、日本貿易は日本布教と不可分の関係にあった。なぜなら、ポルトガル国王はローマ教皇庁から、西経四六度三七分以東の新発見地の領有を認められるとともに、新領土の住民のキリスト教徒化を義務づけられていたいたからである。

ポルトガル国王は教皇から布教保護権を与えられていた。布教保護権とは征服した新領土に司教区を設定し、司教を指名推薦しうる権利とともに、司教区を経済的に維持し、カトリック信仰の宣布に尽くす義務をいう。

日本は一四九四年、教皇の仲介で成立したスペイン・ポルトガルの新発見地分割協定によって、潜在的にポルトガルの支配に属すべき土地とみなされていた。日本貿易の開始は当然日本布教の開幕であらねばならなかった。

インドに早くも一五〇〇年に宣教師が到着し、フランシスコ会・ドミニコ会によって布教が行われ、一五三四年にはゴア司教区が設けられた。だが布教は遅々として進まず、貧しい漁民やカースト外の賤民に改宗者が得られたにすぎない。

また宣教師の質も悪く、C・R・ボクサーによれば、そのある者は自らがアジアに来たのは財を積むためであり、向こう三年間に五〇〇〇クルザードと真珠・ルビー等の宝石多数を得ねば満足しなP73いと語る始末だった。

だが一五二一年に王位に就いたジョアン三世は敬虔王という異称が示すように、折柄高潮期にあった対抗宗教改革運動に加担し、一五三六年異端審問所を設けた。インド領においても従来の異教徒に対する寛容策が放棄されて、一五四〇年にはゴア市内のヒンズー寺院が破壊され、ポルトガル支配地においてヒンズー・仏教・イスラムの儀式を行うことが禁止されるにいたった。

フランシスコ・ザビエルが一五四二年ゴアに着いたとき、王国はインド領は、このような宗教的感情の高揚のただなかにあったのである。

征服と貿易のかたわら置き去られていたキリスト教的使命感が、征服の停滞とともに甦ったのだといえるかも知れない。

しかしボクサーは言う。「日本の銀、中国の絹、インドネシアの香料、ペルシャの馬匹、インドの胡椒がポルトガル領インドにとっていくら重要だからといって、そのことは神が黄金神におとらずいずこにもましますものだった事実を打ち消すものではない」。

彼によると副王ドン・コンスタンティーノ・ブラガンサは、ヒンズー商人を遮二無二改宗させようとする彼の努力に対して、役人たちが王室の収入を徴収する妨げになると反対したとき、「予は王領の名誉と国王陛下の栄光のために、土地からあがる収入やカラック船が積んで来る胡椒よりも、最も貧しいカナリ人を改宗させるほうを選ぶ。

たったひとつの魂の救済のためでも、すべてを賭けるつもりだ」と答えたという。

ポルトガル人にはもともと聖職者を深く尊崇する心性がある。かてて加えてインドに駐在する副王と役人の任期は三年であるのに、聖職者は生涯現地にとどまる。

当時のことわざも言う。「副王は来て去り行くが、イエズス会の神父はつねにわれわれとともに在る」。聖職者の植民者たちへの影響力は役人たちの比ではなかった。


・イエズス会という「戦闘的武装集団」P73-76(相互参照
P73 ザビエルの到着後、ポルトガル植民地の宗教的指導権はイエズス会の手に移った。イエズス会はその二年前P74にローマ教皇庁より認可されたばかりだ。その評判を聞きつけてジョアン三世が、同会にインド領へ派遣する宣教師を求めた。ザビエルはジョアン三世の期待を担ってゴアに着いたのだが、そのイエズス会は従来の修道会とはまったく異なる戦闘的戦闘的布教組織だったのである。

イエズス会の創立者イグナチオ・ロヨラはスペインのバスク地方の出身である。バスク人はインド・ヨーロッパ語族とはまったく異なり、いまでも系統不明とされるバスク語を話す特異な民族で、彼らの居住地域はピレネーの南北にまたがるナヴァラ王国と、その西のバスク諸県にわかれる。

イグナチオはバスク諸県のギプスコアの貴族の館に生まれた。ところが会の副将ともいうべきフランシスコ・ザビエルも、バスク地方を構成するナヴァラ王国の生まれなのだ。ナヴァラ王国(フランス語ではナヴァル)は一五世紀の末から、フランスの王族アルブレ家の領有するところだったが、一五一二年スペイン王フェルディナンドは兵を出してピレネー以南の地を割取した。

このときザビエル六歳、父は王国の王室会議議長の任にあった。一五二一年、フランス軍はナヴァラ王国の南半分の失地回復を求めて南下し、ザビエルの二人の兄もこの軍中にあった。この時スペイン軍にあって要衝パンプローナを死守したのが、三〇歳になっていた騎士イグナチオである。

彼はこの戦いで重傷を負い、それが彼の使徒的回心のきっかけとなった。フランスの失地回復の企ては失敗し、この後ピレネー以北のナヴァル王国はヴァロワ王朝下の藩国としてどどまり、やがて、この世紀の末にブルボン王朝を創始するアンリ四世を生むことになる。

ザビエル家の末っ子フランシスコは一五二九年、パリ大学でイグナチオと知り合った。イグナチオはフランシスコより一五歳年長で、このときすでに様々な信仰的実践で聖者の名を得、のちにイエズス会のバイブルとなる『霊操』を書きあげていた。

やがてイグナチオはザビエル以下六名の同志とともに、モンマルトルの丘の上の教会で、伝道に生涯を捧げる誓願を立てた。この誓願が実ってローマ教皇より新修道会としてイエズス会のP75設立が認可されたのは一五四〇年のことである。

イエズス会は従来の修道会とはいちじるしく相貌を異にしていた。終日修道院に籠って祈りに明け暮れることをイグナチオらは望まない。合唱祈祷や苦行に日課のほとんどを費やすことを避けて、瞑想や研学、さらに伝道活動を重視した。

まったく新しいスタイルの戦闘的修道会といってよい。つまり、イグナチオらの前には二つの必要、あるいは可能性が拓けていた。ひとつは宗教改革と対抗してカトリック教会の生命を更新することであり、さらにはスペイン・ポルトガルの海外領土獲得に伴ってヨーロッパ人の視野に登場した数々の異民族をキリスト教徒として獲得することである。

前者について言うなら、イグナチオは頑冥な保守派だったのではない。教会の位階に叙せられぬ在野の身で説教や托鉢を行い、たびたび異端の疑惑を蒙っている。異端審問の残酷なイメージから、スペインは当初からカトリック保守派の牙城だったように思われているが、実は十六世紀初頭のスペインはルターと並ぶ改革派の旗頭エラスムスの影響が深く、照明派と呼ばれる神秘主義的傾向が広がっていた。

イグナチオが異端審問にかけられ説教を禁じられたのは、照明派とのつながりを疑われたからだ。

しかし、イエズス会設立者にとってより重要なのは第二の局面であろう。イグナチオは人間の存在意義を、神意を見出しどれを実現することだと考えた人である。つまり人間は、神の望み給うところを実現する道具たることに生涯の満足を見出すべきなのである。

では神意とは何か。キリストは地上のあらゆる霊魂のうちに、あらゆる民族のうちに、神の国を建設しようとするのであり、それには従者、戦士、英雄が必要なのだ。かくしてイエズス会会憲は「諸所へ経めぐり、神に対するすぐれた奉仕と霊魂救助の存する世界のどこにも住居することをわれらの天職とす」と謳うことになった。

ヨーロッパ人の視野に新たに登場しつつある諸民族をすべてキリスト教化すること、これこそ人と生まれた甲斐なのだ。己れは神の道具というイグナチオの人生観は、世P76界のヨーロッパ化の第一波たる時代の趨勢とまさに一致したのだった。 

イエズス会はこのような世界の全面的なキリスト教化のための実働部隊として組織された。イエズス会の組織原則が軍隊的規律に酷似しているのは上長への服従、定期的情報提供の義務化などをとっても明らかだが、これもイグナチオの創意によるものである。

彼はスペイン帝国の軍人だった。一六世紀のスペイン軍は兵站ひとつとっても、当時のヨーロッパではもっとも合理化され効率性の高い組織だったといわれる。彼がこの新修道会を教皇に絶対服従を誓う手兵として提供したのも、軍隊的な指揮命令の一元化の観念にもとづくものだったのだろうか。

・「霊操」とマルクス主義前衛政党的性格 P76-77
だが、イグナチオの天才は何と言っても、イエズス会士の養成法にあらわれている。入会者はまず『霊操』を課される。『霊操』とは身体の鍛錬が体操であるように、霊魂の鍛錬法を意味する。それはキリストの姿にならって自己を全面的に変革する方法であり、第一週は罪の認知と痛悔、第二週はキリストの救済活動の観想、第三週はキリストの受難の観想、第四週はキリストの復活の観想を行なう。

観想とは場所・情景も含めて出来事をまるで眼前にあるように心のうちに復元することであり、高度の精神集中を強いられる。これを通じてイエズス会士たらんとするものは、自己を神意実現の手段として徹底的に作り変えられるのである。

『霊操』は入会時だけでなく、その後期間を置いて何回も繰り返される。サマセット・モームは『霊操』を熟読した人で、その経験を次のように述べている。「以上の鍛錬を全体としてみると。それが目的を達成するために、どんなによく考案されているか悟らざるをえない。聖イグナチオは自分のもつ形にしたがって人間の魂を作りあげる芸術家である。

・・・このような修行によって精神が縛られおびやかされて、空想の幸福な流れは永遠にせきとP77められる、と考えたくなる。おそらく聖イグナチオが狙ったのはこれだったのだろう。もしそうだとすると、『霊操』はあのとりとめもなく、不安定で片意地なもの、すなわち人間の魂を統御するために考えだされた、もっともすばらしい方法である」。

このような訓練を経て、イエズス会士は会の目的を一切に優先させる態度を身につけた。のちに彼らが目的のためには手段を選ばないとか、会の事業を正当化するために詭弁を弄するとか批判されたのには、誤解もあるにせよ、自己をすべて会の目的に捧げつくす彼らの習性がかかわっていたと言ってよかろう。

イエズス会はこのような、のちにマルクス主義前衛政党を彷彿とさせる戦闘部隊だったのである。イグナチオはまた会士に、哲学・文学・科学にわたるルネサンス人的教養を身に着けることを要求した。これまたイエズス会の戦闘能力の秘密のひとつだった。


・日本人の「知識欲」に期待するザビエル P77-80
ザビエルはインド到着以来、住民の強化のため席の温まることのない多忙な日々を送っていた。彼がまず布教を試みたのはコモリン岬以東の漁夫海岸だった。ここではすでに二万の信者が獲得されていたが、信者とは名ばかりで教理は何も心得ていなかった。

彼らに教理を教え、名実ともにクリスチャンにすべくザビエルは大奮闘したした。一五四四年には新たに一万人に洗礼を授けたが、これはポルトガル政庁の好意をあてにした現地領主が領民に改宗をうながした結果にすぎなかった。

彼はイグナチオ宛の手紙で、当地のインド人は極めて未開で無知だとこぼした。新天地を求めてモルッカ諸島へも行き、それなりの成果はあったが、彼の心にはむなしい風が吹きそめていたようだ。「インド人のうちにキリスト教が存続するのは、現在ここにいる私たちやそちらから派遣される宣教師が生きているあいだだけだけでしょう」と彼は書く。

彼はイグナチオばかりでなくジョアン三世にまで、当地のポルトガル人の腐敗と圧制を訴え、彼らの非行がせっかく改宗した住民の信仰を棄てさせている現状では、まず必要なのはポルトガル人自身の救霊だと悲憤する。しかも、ジョアン三世がいかにザビエルをあと押ししようとも、ここでは王の訓令すら無視されるのである。

こういう失意の中でザビエルはアンジロウという日本人と出会った。彼はすぐさまこの三〇代の薩摩士族の旺盛な知識欲と怜悧さに魅せられた。日本人がアンジロウのように知識欲にみちた民族なら、日本こそ神の約束された土地にちがいない。

「日本人はインドの異教徒に見られないほど旺盛な知識欲があるので、インドのどの地域よりも、ずっと成果が挙がるだろうとのことです」と彼はイエズス会に告げる。知識欲、これこそキーワードだ。邪悪な異神のほかにキリスト教的な真の神があるというのは信心の問題ではなく、まさに真理の認識の問題なのだ。これこそルネサンス時代のザビエルら宣教師の思考枠だったことを忘れてはならない。

それは文明の問題にもつながる。ザビエルはインド(それは今日の狭義のインド亜大陸のみならず、マラッカ以東の東南アジアを含むインディアスである)を文明の存在せぬ未開の地とみなした。彼の視野には北インドのムガル帝国はまだはいっていない。

彼自身が書簡中で繰り返すように、ポルトガルの支配するのはわずかな海岸の拠点のみで、布教しようにも内陸への支配力はない。イエズス会がムガル帝国の存在を知ったのは一五七七年、つまりザビエルが没してはるかもちのことだった。

ザビエルよりのちにペルーの布教にたずさわったイエズス会士アコスタは、文明と未開の区別を文字と国家機構の有無においた。同様な観念はザビエルにもあったことだろう。彼はアンジロウと接して、日本に確かな文明の存在を感じた。

イエズス会士たる者、相手が未開であろうが布教を諦めるいわれはない。しかし、キリスト教はヨーロッパという彼らからすれば高度な文明国の属性である。相手が文明国の民とあれば、理性の説得が利く。彼にとって信仰はあくまで理性の問題だった。

P79 インドから東南アジアにかけて広がる基底の精霊信仰がザビエルの眼には蒙昧きわまる未開に視えた。その文字以前の世界観のゆたかさも深さも彼には視えなかった。彼にとってキリスト教とは理性の最高形態だった。

何よりもそれは迷信と偶像の闇を払う光だった。その意味では彼はまぎれもないルネサンス人であり、文字による連絡と記録を重視し、組織の効率性を追求する近代合理主義的精神のもちぬしだったのである。やがてザビエルは日本に来る。

彼とともに日本を訪れたのがこのような初発の近代ヨーロッパ的理性だったことは、何をさて措いても銘記すべき事実である。

アンジロウは薩摩で人を殺し、追手から逃れるためにポルトガル船に乗ってマラッカに来たといわれる。和辻哲郎は彼の避難先が京坂でなくマラッカであったことから、九州人にとってはマラッカまでの東アジアの海上は気安く行けるところだったと言い、また論者によっては当時の東南アジアには日本人が溢れていたように言う人すらいる。

なるほど倭寇現象からして、南中国九州の西岸南岸の人びとにとっていわゆる「川向う」だったかもしれない。しかし、東南アジアに日本人が進出するのはこの世紀の末になってのことだ。フィリピンをスペインの版図に組みいれたレガスピの言うところでは、日本人がフィリピンの北部に現れはじめたのは一五六○年代になってからである。

マラッカの街を日本人がぞろぞろ歩いていたはずがない。珍しい日本人だったからこそ、ザビエルはアンジロウにとびついたのだ。アンジロウは頭のよい人だったらしく、八ヵ月でポルトガル語の会話はもちろん読み書きもできるように出来るようになっ

ザビエルは彼をゴアのイエズス会の学院へ入れた。彼は入信し、初歩的な文献を日本語に訳すほどの長足の進歩をとげた。信じにくいことだが、マタイ伝を全部暗記したといわれる。ザビエルの日本人への期待はいやが上にも高まったのである。

日本についての情報源はアンジロウのほかにもあった。日本を訪れたポルトガル船の船長は口々に、日本人は知識欲が強いのでキリスト教の教理に耳を傾けるだろうとザビエルに語った。なかでも彼に強い影響を与えたのは、アンジロウをマラッカへ連れて来たジョルジェ・アルヴァレス船長の日本報告記である。

彼は次のように日本について述べていた。日本人は気前がよく、ポルトガル人を家に招いて宿泊させる。好奇心が強くて、ヨーロッパについて知りたがる。頑固でなく心が狭くない。武を好み八歳から帯刀する。盗みを憎み、わずかな盗みでも殺す。

基本的には一夫一婦で、婦人の姦通は死をもって罰せられる。賭けごとを嫌う。ポルトガル人が感情を露にするのを軽蔑する。酒を飲むとすぐ寝てしまい酔狂をしない。婦人は比較的自由で、つきそいなしに外出できる。奴隷は少なく、監獄は存在せず罪人は家に監禁する。川や温泉で沐浴するのが好きで、そのさい通行人に陰部が見えても気にしない。食事は粗末で量も少ない。家禽数は少なく筋ばっている。

アルヴァレスは彼が寄港した山川などの薩摩の港での見聞にもとづいてこのように書いたのだろうが、かなり正確な観察と言ってよい。ザビエルはむろん、好奇心が強くて頑固ではないというところにもっとも注目しただろう。

ここはインドと違って説得に耳を傾ける人びとがいるのだ。ザビエルは「海賊」という綽名の中国船に乗って、一五四九年六月二四日日本を目指してマラッカを出航した。この年の一月にはジョアン三世宛、インドでは望みがないので「日本へ脱出します」と書いていた。果たして彼は日本で新たな希望を手に入れるだろうか。

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