2022年10月11日火曜日

偏愛メモ 『日本の産業革命』

第四章 無賠償のかわりに朝鮮・満州を産業革命の終了とアジア侵略(一九〇六~一九一四) P209-270
(P262-270)

満州投資-ハリマン事件の謎
P262ポーツマス条約によって、日本はロシアから遼東半島の租借権と、長春~旅順間の鉄道および付属炭坑を、清国政府の承諾を条件として譲り受けることになった。

前述のように日本側は当初、ロシアが遼東半島の租借条約に基づいて敷設した以上、ハルビン~旅順間の東清鉄道南部支線全体が遼東半島諸爵件とワンセットのはずだとして、その譲渡を要求した。

しかし、ロシア側は租借地と鉄道は別だとし、日本軍がハルビンまで到着・占領していない以上、もうすこし南の商業都市長春あたりを区分点とすべきだと主張した結果、ハルビンはロシア側の管理下に残された。

満州事変にいたるまで日本の勢力圏がほぼ南満洲一帯に限定され、ロシア革命を境にロシア人支配から中国人支配へと替わる国際都市ハルビンを中心とする北満洲一帯は、日本人勢力の弱体な地域として残されたのは、このときのロシア側の主張が通ったためであった。

本章の冒頭で触れたように、一九〇六年九月に南満州鉄道株式会社の株式募集が行われ、所要株式の一〇七七倍という熱狂的な応募があった結果、わずかながら行われた清国人の申し込みは完全に排除され、同社は日本人株主のみによる半官半民の特殊会社として同年一一月スタートするのであるが、そこにいたるまでは大きな紆余曲折があった。

P263講和条約を結んだ小村寿太郎が帰国するまでの日本国内では、門戸開放の立場から、同鉄道は列強と共同経営すべきだという意見が有力であった。たとえば、元老井上は、「清・米両国の資本家を加入共同せしめて経営したなら、将来わが国も米国と同一の態度をとって清国に対することができる」と述べていた。

井上が共同経営案をとった理由の一つは、当時の日本にはこれを経営するだけの資金がないという判断であり、その点では誰もが同意見であった。また、ロシアから奪取した東清鉄道のあまりの荒廃ぶりのため、戦利品として手に入れても経営する自信が日本政府高官にはなかったのではないかという説も出されている。

いずれにせよ、アメリカの鉄道王ハリマン(一八四八~一九〇九)が一九〇五年九月に来日して日米共同経営の提案をしたときに、大多数の財界人と政治家がそれに賛同した。

一〇月、ハリマンは桂首相との間で、鉄道と炭坑の経営のための資金を調達する日米対等のシンジケートを日本の管理下に結成するという予備協定覚書を作成したが、調印は小村外相帰国後ということになったためいったん帰国した。

ところがハリマンとすれ違いで帰朝した小村がこの共同経営案に強硬に反対したため、結局日本政府はハリマンとの協定を白紙に戻すことにした。

小村の反対理由は、無賠償講和に激昂している国民が、満州に獲得した利権を事実上放棄することを知ったら大騒動になるということであったが、誰よりも小村自身がロシアに無賠償の線で押し切られた無念さで一杯だったのである。

P264ここで注目されることは、小村が鉄道経営に必要な資金は、ハリマンに頼らなくても調達できると述べて、元老や閣僚を説得したことである。

小村がそのように述べることができたのは、日露開戦直後に対日世論操作のために米国に派遣された金子賢太郎のこところに、大統領の従弟サミュル・モンゴメリーローズヴェルトという銀行家が訪ねてきて、ハリマンにやらせては大変なことになるので、資金が必要ならばニューヨークの銀行家たちと協力して提供しようという話をもちかけてきたためであった。

問題はこの銀行家の話がどこまで本物だったかということで、研究者によっては典拠となっている金子の回顧談そのものが「疑念の余地が多い」とする向きもあるが、細部はともかく、大筋において金子が架空の話をでっちあげたとは考えられない。

ハリマンにやらせるとなにが大変なのかはっきりしないが、この人物がハリマンの背後にあるクーン・ローブ商会と激しく対立・競争していたモルガン商会系の銀行家であったことから考えると、多額の日露戦争外債を引き受けて力をつけたクーン・ローブ商会が、戦後の満州鉄道投資に加わってさらに発展するのをなとしてでも抑えたいと思っていたとみて間違いなかろう。

一九〇七年の恐慌のさい、アメリカ金融界の瓦解を防ぐことで最強の地位を確定するまでのモルガン商会は、海外投資のほとんどをヨーロッパと南アメリカに向けており、東アジアとくに日本への投資はもっぱらクーン・ローブ商会が牛耳っていた。

とすれば、モルガン系の銀行家が、クーン・ローブ商会との対抗上、ハリマンの活動を妨害しようと試みたことは、十分ありうることだといえよう。

P265そのばあい、問題として残るのは、満鉄社債の募集に一九〇七年四月、興銀総裁添田寿一が欧米に出張したさい、クーン・ローブ商会を相手に交渉して断られたまま、モルガン商会と交渉するのでなくイギリスに赴きロンドンで起債していることである。

金子が取りつけたはずのモルガン系との起債の約束は空約束にすぎなかったのであろうか。

この点は今のところ不明というしかないが、考えられることは、クーン・ローブ商会の拒絶も、前年に成立した満鉄がアメリカの要求する門戸開放策にそぐわない日本単独経営となったことに対するアメリカ政府の批判的姿勢と関係があるのではないかということである。

あらためてモルガン商会と交渉するまでもなく、アメリカでの起債は不可能ということになろう。実際、満鉄社債はその後もすべてロンドンで起債され、ニューヨークでは一度も起債できなかったのである。

以上のいわゆるハリマン事件の経緯は、いまだに謎に包まれた部分が多く、ここでも多分に想像を交えた叙述になった。

満鉄を基本に据えた日本の「満州経営」の進展と、中国における国民革命の展開とが正面衝突して満州事変にいたること、日本のそうした姿勢に対するアメリカからの批判が強まっていくことなど、その後の歴史の展開を考えると、ハリマンと覚書を破棄して日本単独経営の方向を選択したことは、きわめて重大な選択であった。

ハリマンとの最終決裂にさいして、満鉄株主は日本・清国両国人に限るという清国政府との協約を口実としながら、日本政府には清国との共同経営の意志はまったくなく、満鉄をイギリス東インド会社のごとき満州植民地化の先兵とするという方針をつらぬいていった。

「戦後満州経営唯一の要訣は、陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行するにあたり」とする、一九〇五年九月、児玉源太郎(一八五二~一九〇六。台湾総督のまま満州軍総参謀長)と後藤新平(一八五七~一九二九。台湾総督府民政長官)がつくった構想が、日本の「満州経営」の基本方針となるのである。

P267もしも、アメリカ資本との共同経営がこのとき実現していたならば、それは日米関係だけでなく、日中関係にも大きな影響を及ぼしたはずである。

その意味で、ハリマン構想の実現を妨害したアメリカに大金融資本の対立は、日本国内で、単独経営論を唱えた小村外相や児玉源太郎満州軍総参謀長などの少数意見がしだいに多数派になってハリマン構想を挫折させるのを促進し、その後の軍部中心の「満州経営」への道を用意したといえる。

植民地を拠点に台頭する軍部
ところで、いま「軍部」という言葉を使ったが、軍部とは単なる軍人グループのことではない。特定の軍人グループが、政治集団化して国政に大きな影響力をもつようになったときに、そうした集団を軍部と呼ぶのである。

そのような政治勢力が形成される制度的条件は、まず一八七八年の参謀本部創設によって整えられた。参謀本部ができたことで、陸軍の作戦用兵に関する統帥=軍令事項は陸軍省から独立し、参謀本部は天皇直属となって内閣の手の届かない組織となった。

海軍でも一八九三年に天皇直属の海軍軍令部ができるが、陸軍のばあいとくらべると権限が小さかった。日清戦争の結果獲得した台湾の総督に武官が就任するのが恒例となり、一八九九年には山県内閣が陸海軍大臣の現役武官制を制度化したことで、軍人の政治的発言力が強まっていった。

P268しかし、日露戦争ではまだ、陸軍大将桂太郎首相と陸軍中将寺内正毅陸相、海軍大将山本権兵衛海相が、伊藤・山県ら元老の支持のもとで統帥を律しており、満州軍総司令部の総司令官元帥大将大山巌と総参謀長児玉源太郎も中央と緊密な連絡をとっていたから、一九二〇年代後半以降、急速にすすんだ現地軍の独走といった事態は少しもみられなかった。

逆に現地軍のほうから講和への取り組みを催促したことは、前述したとおりである。

しかし、日露戦争後には、朝鮮・満州支配のために軍人に頼ることが多くなり、その結果、しだいに軍人の政治的発言権が強まるという現象が起こってきた。

まず、日露戦争がはじまると韓国駐箚軍が編成され、日露戦争後置かれた統監は必要に応じて駐箚軍司令官を指揮することになったため、文官である初代統監伊藤は、とくに天皇から駐箚軍への指揮権を与えられ、元帥の資格でソウルに赴任した。

併合によって設けられた朝鮮総督は、官制にによって現役の陸海軍大将がなることとされ、駐箚軍司令官を指揮しただけでなく、絶大な立法権をもち、本国内閣からも独立した独裁者として朝鮮に君臨した(のちに、一九一九年三月、朝鮮全土で巻き起こった三・一独立運動に対処して、原内閣は植民地の文官総督制を認めたが(同年八月)、台湾と異なり、朝鮮では実際に文官が総督となった例はない)。

さらに、一九〇六年九月には関東都督府制が敷かれ、陸軍大将・中将から任命される関東都督が、在満部隊の統率、遼東半島南端の「関東州」の管轄・防備、および満鉄の業務監督と線路・付属地の保護・取り締まりに当たることとなった。

P269清国領土を帯状につらぬく満鉄付属地の支配には清国官憲との交渉が必要となるため、関東都督府は日本外務省傘下の在満領事としばしば縄張り争いを演じたという。

そのため一九一九年四月に、関東都督府が廃止されて関東庁と関東軍に分割されることになるが、それを好機に関東軍は統帥兼独立の名で、独自の道を歩みはじめるのである。

参謀本部を中心とする軍部は、日露戦争の勝利の波に乗って、ロシアの復讐戦に対処しうる大軍拡を要求したが、財政難の政府に抑えられ思うにまかせなかった。

そこで参謀本部の田中義一中佐ら中堅幕僚は、山県元帥を担いで海軍軍令部とも調整の末、一九〇七年四月、ロシアを第一、アメリカを第二の仮想敵国として、陸軍は二五個師団(一個師団=平均約一万人)、海軍は戦艦八隻・装甲巡洋艦八隻の八八艦隊を所要兵力とする帝国国防方針を策定した。

こうした最高国策を、参謀本部が内閣との打ち合わせもせずに策定することは、本来の任務を、著しく逸脱したものであり、日露戦勝による自信過剰のなせる業であった。

もっとも、策定過程から外された内閣としては、実行の責任をかならずしも負わないですむことになったともいえよう。

真の問題は、むしろ、日露戦争後の日本政府当局なり民間人が、明治維新以来の「富国強兵」、「条約改正」といった国民的目標が達成された段階で、新たな目標を設定できなかった点にこそあった。

近隣アジアの人々の期待を裏切って「一流国」=帝国主義列強としての道のみをひたすらに追及するとなれば、軍事的テクノクラートにすぎない軍部が、飽くことない膨張計画をひっ提げて登場し、日本帝国の全体としての進路を指示するという事態も避けられなかったというべきかもしれない。

こうして、およそ二〇年の歳月をかけた日本産業革命が終了した時点において、日本国家と日本社会は、二〇年後にあの十五年戦争へ突入する道を、すでにたどりはじめていたのである。