序章 歴史の転換期 P21-45
Ⅰ部 社会
1章 資本主義から知識社会へ P49-194
1.1 知識の新しい意味 P58-63
コンピュータの起源(相互参照)
P58原因が一つであったり、その説明が一つですむような歴史上の重大事は稀である。すでにわれわれは、ヘーゲルやマルクスなど一九世紀の理論家、すなわち「恐るべき単純化論者※」の誤りを知るにいたっている。
※100分de名著 オルテガ“大衆の反逆” 第3回「死者の民主主義」(7分43秒~参照、tw)歴史上の重大事は、通常、互いに関係のない数多くの発展が合成した結果である(tw)。歴史がどのように展開するかを示す一つの例が、コンピュータの起源である。
最初のルーツは、一七世紀のドイツの数学者であり哲学者でもあったゴットフリート・ライプニッツによる二進法、すなわち、あらゆる数字は二つの数字0と1によって表されることの発見である。
第二のルーツは、一九世紀のイギリスの発明家チャールズ・バベッジ(一七九二~一八七一年)による発明である。これは、歯車(つまり機械)によって数学上の四つの基本演算である加減乗除のすべてを行えるという、つまり本当の意味での「計算機」の発明である。
第三のルーツは、今世紀初頭におけるイギリスの二人の論理学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(一八六一~一九四七年)とバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇年)が、共著『数学原理』において明らかにした発見、すなわち厳密に論理的に提示された概念はすべて数学的に表すことができるという発見である。
第四のルーツは、第一次大戦時にアメリカの軍需生産委員会で統計専門家として働いたオーストリア系アメリカ人のオットー・ノイラート(一九一五~一九三〇年に活躍)によって行われた異端的ともいうべき全く新しい概念すなわち「データ」の発見である。
P59それは、いかなる分野のいかなる情報も、定量化してしまえば、情報として質的な差はなく、同一の方法で処理し提示することができるという発見である(この発見から近代統計学も生まれた)。
そして第五のルーツはが、このノイラートの発見の少し前、第一次大戦の直前に行われたアメリカ人のリー・デ=フォレスト(一八七三~一九六一年)による発明、すなわち電子的なインパルスを音波に変えることによって、音声放送を可能とした三極真空管の発明である。
その二十年後には、IBMというパンチカード機の中堅メーカーの技術者たちが、この三極真空管によって、0と1のスイッチ転換を電子的に行う技術を発明した。
これらの発明発見が一つ欠けただけでも、今日のコンピュータは存在しなかった。しかもそれらのうち、いずれもコンピュータ発明の中核的要因と言うことはできない。
しかしまた、それらのすべてがそろっていれば、コンピュータの誕生は、ほぼ必然だったと言える。
コンピュータの開発がアメリカで行われたのも偶然にすぎない。それは、第二次大戦という偶然だった。アメリカは第二次大戦中、高速の航空機や敵艦艇の位置を高速で計算するための計算機の開発に巨額の資金を注いだ(ただし完成は、第二次大戦後かなり後のことだった)。
状況が違っていれば、コンピュータの開発はイギリスで行われていたにちがいない。一九四〇年代に、イギリスの食品メーカーでレストラン経営を行っていたJ・ライアン社が、最初の商用コンピュータ「レオ」の実用化に成功していた。
しかし同社は、アメリカの国防総省と競争できるだけの資金を投資できず、せっかく実用化に成功した(しかも非常にコストの安い)コンピュータから手を引かざるをえなかった。
P60「知識」の意味の変化
単なる資本主義を「資本主義」に変え、技術革新を「産業革命」にしたのも、互いにあまり関係ないのない数多くの独立事象が進展した結果だった。
今世紀初頭、ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(一八六四~一九二〇年)は、「資本主義」は「プロテスタントの倫理」の落とし子であると言った。しかしこの有名な説も、今日ではほとんど信憑性を失っている。この説には、十分な根拠がない。
むしろ、新しい動力源となった蒸気機関には巨額の投資が必要であって、職人はもはや「生産手段」を自ら所有することができなくなり、「生産手段」の支配権を資本家に譲らざるをえなくなったために「資本主義」が生まれたとするカール・マルクス(一八一八~一八八三年)の説のほうに若干の根拠がある。
しかし、資本主義や技術革新が、世界的規模の社会現象となるために欠かせない決定的に重要な要件が、一つだけある。
それは、一七〇〇年頃かその少し後にヨーロッパにおいて広く見られた「知識」の意味の急激な変化である。
この変化については、拙著『技術、経営、社会』(一九七三年)、および拙著『生態的ビジョン』(トランザクション・パブリシャー、一九九二年)の双方に収められている私の論文「技術革命--技術、科学、文化の関係についての一考察」(一九六一年)において若干詳しく述べている。P61「知識」の意味と機能
われわれの知ることのできるもの、およびそれらを知るための方法についての理論は、すでに紀元前のプラトンから、ルードヴィッヒ・ウィットゲンシュタイン(一八八九~一九五一年)や現代のカール・ポッパー(一九〇二~(一九九四))にいたるまで、形而上学的理論家の数ほどたくさんある。
しかしプラトンの時代以降、長い間、「知識」そのものの意味と機能について、西洋においては二つの理論しか存在していなかった。また東洋においても、プラトンと同時代以降、長い間、同じように二つの理論しか存在しなかった。
プラトンがその口を借りた賢人ソクラテスは、知識の唯一の機能は、自己認識、すなわち自らの知的、道徳的、精神的成長にあると考えた。
他方、ソクラテスのライバルであった聡明にして博識なプロタゴラスは、知識の目的は、何をいかに言うかを知ることにあるとした。彼にとって知識とは、論理、文法、修辞、すなわちやがて中世において学習の中核に位置づけられることとなった三大科目、そして今日われわれの言ういわゆる「リベラル・エデュケーション(教養課程)」、ドイツ語のいわゆる「アルゲマイネ・ビルドゥング(一般教養)」を意味していた。
東洋においても、知識に関しては、同じように二つの考えが存在した。儒教では、知識とは何をいかに言うかを知ることであり、昇進と世俗的成功への道でもあった。
これに対し道教と禅宗では、知識とは自己認識であり、悟りと知恵への道だった。
しかし、このように、知識が「意味する」ものについて二派の対立はあったものの、知識が「意味しない」ものについては、完全な一致があった。
P62知識は、「行為能力」は意味していなかった。すなわち知識は、効用を意味していなかった。効用は、知識ではなかった。効用は「技能」だった。ギリシャ語に言う「テクネー」だった*。
東洋における同時代人である中国の儒家が、書物による学習以外のものをすべて徹底的に軽蔑したのに対し、ソクラテスやプロタゴラスは、「テクネー」を尊重してはいた。
しかしソクラテスやプロタゴラスにとっても、「テクネー」は、いかにそれが尊重すべきものであったとしても、知識ではなかった。
しかも「テクネー」は、その適用が常に特定の範囲に限定され、一般法則を伴わなかった。ギリシャからシチリアへの航海に関して船長が知っていることは、他の何ごとにも適用することはできなかった。
しかも、「テクネー」を学ぶ唯一の方法は、徒弟となり、経験を積むことだった。「テクネー」は、言葉や文字では説明できなかった。示すことができるだけだった。
一七〇〇年、あるいはさらにその後にいたってなお、イギリスには「クラフト(技能)」という言葉さえなく、「ミステリー(秘伝)相互参照」という言葉が使われた。
技能をもつ者は、その秘密を守ることを誓わせられた。そもそも技能は、親方のもとへ徒弟に入らない者には手に入らなかった。それは手本によって示されるべきものだった。
*実際のところ、西洋においては、一八世紀のイギリスに「紳士」の概念が生まれるまでは、技能に対する軽蔑の念は存在していなかった。
「紳士」による技能の軽蔑は、ビクトリア朝において最高頂に達した。そして、紳士が、社会における支配階級としての地位を資本家と技術者に奪われたとき、この技能に対する軽蔑が、紳士のささやかにして無益な最後の抵抗となった。