2020年7月11日土曜日

偏愛メモ 『悪と徳と 岸信介と未完の日本』

第2回 勤王と諸公と大礼服 P26-36
(略)
P28萩と云っても、萩城とその膝下の城下町からかなり離れた松下村塾から、さらに山寄に入った家に伊藤は育ったわけだが、どうやったら学塾が運営できるのか、と訝しく思わざるを得ないような、小さい小さい松下村塾から、歩いて四、五分ほどの伊藤の旧宅はもっと小さい。

こういう家に育った少年が、とりあえず通う学塾であったのだろう、と考えると、松下村塾の当時のありさまが納得できる気がした。それにしても日本海に臨む萩の地勢と、田布施は雰囲気がかなり違う。

武家屋敷の街並みをそのまま残した--とはいえ、土塀の背後に屋敷の結構を残しているものはごくわずかで、ほとんどは維新後に取り壊されて、蜜柑の木などが植えられてしまっているのだが--萩の町の静かなたたずまいと、醬油製造や造り酒屋などの商家が運河をはさんで立ち並ぶ田布施ではかなり違っていて、その隔絶を岸がどのようにとらえていたのか、あるいはそうした隔絶を超えた一体感をもっていたのかどうか、いささか興味が湧くところだ。

P29長州人であるということを、岸が、どのような意味あいで理解していたのか。それが彼の資質や物の見方、価値観にどう反映したのか。このように問うてみることが大事であるのは、その点についての考察が、そのまま岸の自己規定、つまりは自分が岸信介という人間であることをかれがどうとらえていたか、の根の部分に迫ることになるからだ。

岸にかかわる伝記的な文章は、曾祖父の佐藤信寛について記すところからはじめるならわしになっている。佐藤信寛は毛利藩士佐藤家の三代目である。信寛の祖父、父が領地を持たない無給通と呼ばれる名目だけの藩士だったのにたいして、信寛の代になって毛利家御内用掛書調役に任じられている。

原彬久氏によれば信寛が郡奉行筆者役として書き残した「佐藤寛作(寛作は信寛の幼名)手控」は、長州藩の施政にかかわる重要な資料として知られているという。信寛は、吉田松陰に長沼流の軍学を伝授するなど、深い関係にあったらしい。この辺りの事情を、岸の筆を借りて記すと以下のようになる。
曾祖父は当時毛利藩内の新興勢力であった勤王の新勢力に鼓舞せられ、早くから勤王の志士と交わり王事に奔走した。吉田松陰先生から曾祖父にあてた書信を見たこともあるから、松陰先生とも交遊があったものと思われる。伊藤博文、井上馨の諸公とは相当深い交わりがあったらしい。両公より二十年以上も先輩であった。(『私の履歴書』)
P30四、五行ほどの文章に、「勤王」という言葉が二度、「王事」が一度という具合に、現れていることが注意を引く。岸が曾祖父について云いたかったことの第一が「勤王」ということなのだろう。この文を岸が書いたのが、首相在任時の昭和三十三年であることを考えると、一層感慨深い。

と同時に、曾祖父と「松陰先生」や、伊藤、井上との関係をアピールしている。実際、井上馨の家には、信寛の三男‐-つまりは岸の大叔父--が養子に行っているし、伊藤博文は明治二十三年、貴族院議長在任時に信寛の別荘を訪れ、漢詩を残している。

「勤王」と「松陰先生」「伊藤博文、井上馨の諸公」との交わりとともに、岸が曾祖父において重視しているのは、信寛が島根県知事を務めていたということであった。
明治維新の大業成るや曾祖父も官途につき島根県令に任ぜられた。曾祖父の墓石には正五位の肩書があり、私が子供のころよく遊んだ大礼服用の帽子は黒毛であった。当時の知事は封建諸侯に代わるものとみられて、その権勢はたいへんなものだったらしい。県令在職当時浜田と郷里とを往復したいわゆる大名行列の豪華さを祖母が話してくれたことを覚えている。(同前)
P31「大礼服用の帽子」が具体的な重みと感触によって示している「権勢」は、岸のみならずその一族にとっても、輝かしい伝説として常に話題に上り、あるいは手の届く、可能な栄光として語られ、繰り返し強調されていたに違いない。

曾祖父は、岸にとって、まずは「勤王」に奔走した正義の士であり、さらには「諸公」と親しくした歴史上の人物であり、さらに「大礼服」をまとった権勢の人として、この文章に現れている。

要するに、正義と歴史と権勢という要素が、きっちりと手際よく盛り込まれているわけで、いささかそつがなさすぎるきらいがないわけではないが、いかにも岸らしいと云えばそれまでかもしれない。

岸は、『私の履歴書』のなかで、この、正義と歴史と権勢を併せて実現した曾祖父と自分の密接な関係を強調している。(略、曾祖父は岸が六歳のときなくなっているので直接密接な関係があったわけではなく、単なる名づけの親の関係)

この命名譚ももちろん岸自身の記憶であるわけがないのだから、両親や叔父叔母などが子供時代の岸にたいして機会があるたびに持ち出した話なのだろう。その話の含意は、つまるところ、信介少年もまた、曾祖父のような、正義と歴史と権勢を併せもった存在になるようにという督励に違いない。

P32さて、右の段で私は、曾祖父佐藤信寛と岸信介の関係を書いてきたわけだが、佐藤と岸という姓が交錯することについては、触れないできた。読者は、岸信介の弟が、佐藤栄作であり、日本権勢史上、ただ一つの、二人とも首相になった兄弟であるということはよくご存知であろう。

この二人は実の兄弟でありながら姓が違う。といって、別に殊更複雑な事情があるわけではないが、この交錯は、なぜこうした兄弟があり得たのか、ということを考えるうえでは、なかなかに大事なことである。

岸は、父佐藤秀助と母茂世との間に三男七女の次男として生まれた。父秀助は田布施の岸家の出身で、つまりは佐藤家に婿養子に入ったのである。信介は、父の家を継ぐために岸姓を名乗った。

このことは秀助が岸家の総領であったことを窺わせ、この婿取りがいささか強引なものだったのではないか、と憶測させる。

茂世が養子を取った事情は、いささか異例である。というのも、茂世は長女であったものの、松介、寛造、作三の弟がいたからである。この間の事情を、岸の伝記は茂世がきわめて優れた資質をもっていたので、他家に嫁がせるのが惜しく、(茂世にとっての)祖父信寛をはじめとして一族の大人たちが彼女を家に残す決定をしたというのだが、どうだろう。

たしかに、茂世は大変な人物だったようだ。後年、巣鴨プリズンに収容されたときに、P33松岡洋右と思い出話をして--松岡は、岸の縁戚で岸はその手記のなかで「松岡の叔父」と呼んでいる。正確には、岸の叔父松介の妻藤枝の兄にあたる--岸に「お前のお母さんのもよ姉は政治家だったなあ」と語っており、岸自身「すぐれた政治的才能を持っていた」と記している。(『私の履歴書』)

松岡洋右と岸信介という昭和史を良くも悪くも代表する二人の政治家の間の会話で、しかも所もあろうに巣鴨プリズンで、「政治家だった」と述懐される母親の政治的才能とはどのようなものだったのか、興味が湧くが、それはひとまず措く。いずれにしてもたいした女性であったことは間違いないのだろう。

だが、それにしても、男の兄弟があるのに、長女を残して婿を取るというのは、武家としてはかなり異常な事態だ。むしろ商家の相続方式に似ている。大阪・船場の商家では、代々男子に相続させず、番頭、手代などから才幹を選んで家つき娘にめあわせる。

経営者としての資質がある者に相続させることで家業の存続、発展をはかるとともに、総領による無軌道な蕩尽から家産を守るための配慮だろう。養子であれば、幾重もの思慮と桎梏によって、放埓な真似はできないからである。

実際、佐藤家は、武家というよりは商家としての気風を強くもっていた形跡がある。佐藤家は造り酒屋の免許をもっていた。おそらくは土地の有力な農家が発展するにつれ酒造などを手がけ、交易にもたずさわるようになったのではないか。そこにはもちろん、田布施の土地柄も与っていたに違いない。

佐藤家は、長州藩に仕官をして信寛で三代目だったと前に記したが、おそらく武家の株を購入して名字帯刀を許されたのであろう。それによって家格は藩士に列せられたが、家の内実はむしろ、商家の気風が勝っていたのではないか。

維新の志士のなかにはこうした家、つまりはにわか武士になった家の出身が少なくない。勝海舟(相互参照)にしても、坂本龍馬にしても武士としては二代、三代の歴史しかもっていない。

だが、茂世が婿を迎えた事情を、商家としての経営感覚だけに還元するにはふさわしくない。今一つ、勘案しなければならないのは、男兄弟の立身という課題だろう。

茂世の弟松介は、帝国大学の医学部に学び、助手を務めた後に岡山の医専の産婦人科の教授になっている。帝大出の医学部教授という地位は、当時においては、現在では想像もつかないような輝かしいものだった。

弟の寛造も作三も、とも医師になっている。ちなみに佐藤栄作は、早世した松介叔父の後嗣として佐藤姓を名乗った。要するに茂世が婿を取ったのは、優秀なる弟たちを家に縛りつけることなく、世間に雄飛させるためだったに違いない。

義弟たちを世間に出すために婿として迎えられた秀助こそいい面の皮である。岸の評伝などは、母茂世を比して、秀助をおとなしい人物として描くのが通例だが、当然であろう。

かなり強烈な人物でなければ、この境遇でおとなしくならないわけにはいくまい。おとなしい婿は、県庁に勤め--岸が山口で生まれたのは、父親が当時県庁勤務だったためである--酒造業に励み、佐藤家の兄弟の雄飛を、ついでは息子たちの出世を眺め続けることになる。

家業の経営はかなり大変だったようで、秀助は、弟や息子たちの学費のために、息をつく間もないありさまだった。

P35茂世と秀助の婚姻という核から、佐藤家のエネルギーのあり様がよく見える。家つき娘と篤実な婿に実家を差配させ、経営の利益を、兄弟や息子たちの教育費として投資をする。

近代社会において、教育こそがもっとも有効な投資であるということを、佐藤家はいち早く識っていた。この経営方針はおそらく、吉田松陰に軍学を授けるほどの学識のあった、佐藤信寛の栄達によって鼓舞され、さらに、長州藩に属しながら、辺境にある、距離感によって励まされたに違いない。

市郎、信介、栄作の三兄弟は、物心がつくやいなや、家ぐるみで作られた教育カリキュラムに放り込まれた。かといって、岸の回想には、子供時代はけっして息苦しいものとしては書かれていない。

田布施の尋常小学校時代は、山で蕨やキノコを採り、川で鰻やハヤをとって楽しく遊んだ、つまりは当時の幸福な子供たちと変わらない経験を思い返している。あるいは、造り酒屋であった実家に、毎年年末になると杜氏たちが訪れ、水車で米を精製し、セイロで蒸して麹が作られる。その、音と匂いの饗宴。

しかしまた一方で、兄弟そろって母茂世から、学業を怠った、間違えたといっては物差しで叩かれたり、尻に灸を据えられたりしている。勉強ができなくなると困ると云って、頭だけは叩かれなかったといのだから、それ以外はすべて攻撃の対象だったのだろう。

P36にもかかわらず、陰惨な思いを抱かなかったのは、岸の資質がよくて、よくできたためもあるだろうが、それが佐藤家の男児にとっては、ごく当たり前のことと受け止められられていたからだろう。

こうしたスパルタ教育は、すでに上の世代、つまりは松介叔父の世代で試みられており、その経験が信介兄弟に反復されていたわけだから、カリキュラムは洗練されていただろうし、さほど苦痛でなかったのかもしれない。

岸の兄、佐藤市郎は海軍兵学校からエリートコースを歩み、弟栄作もほぼ岸と同じ歩みを追ったところからも、佐藤家の教育方法の的確さは証明されているかに見える。

岸に対する教育は、母茂世のみならず、一族ぐるみで行われている。松介叔父は、田布施の高等小学校で岸が首席になると、褒美に東京の学会に連れていった。東京見物の楽しさとともに、勉学のもたらす利益を信介少年は味わったに違いない。

松介叔父は、信介を高等小学校を一年残して岡山に転校させた。名門岡山中学に入学させるためである。岡山中学は、当時日本一倍率が高いと云われた超難関校である。松介は、転校先の小学校の教師を、信介の家庭教師につけてやった。

(相互参照)岸はそのおかげもあって、首尾よく岡山中学に入学するが、在学期間は一年あまりにすぎない。というのも、松介叔父が肺炎で急逝したために、茂世の妹さわの夫である吉田祥朔が勤める山口中学に転校させられたのである。

信介の学業が遅れないようにと、その出発はきわめて急なもので、恩人たる叔父の葬式に出ることも許されず、山口に出発させられた。このように書いていると、中学時代の信介の生活が、余裕のない、受験勉強一色のように思われるかもしれないが、叔父たちの薫陶は、かなり幅広いものだった。

P37松介は、信介が中学に入学すると、イギリス人の家庭教師を雇って英会話を叩き込んだのみならず、テニスや野球などのスポーツをやるように勧めた。岸の身体が弱いことを心配してのことである。

さらに釣りの手ほどきまでえもしている。山口の祥朔叔父は、岸に漢詩をはじめとする、文系方面の薫陶を与えている。岸のキャラクターということを考えた場合、この一族の結束の下に教育を受けたという経験は、かなり決定的なものだったように思われる。

ここでキャラクターという言葉で私が岸について示したいのは、岸の比類なきタフさと、タフネスに裏打ちされた楽観的姿勢であり、それを支えている自信である。

すでに記した安保改定の時もそうだが、敗戦後戦犯指定を受けたときにも、きっはぐらつくことがなかった。高位の軍人たちが、意気消沈して、泣き言を並べているなかで、岸は、軒昂としてまったく普段と変わらないありさまだったという。

このような強靭な確信を岸にもたらしたのは、官僚や政治家としてのさまざまな体験、多くの修羅場をくぐり、大きな試みを自らの発意で行ってきた自負と、そこから得たある種の人生観に由来したであろうに違いないが、さらにその大本をたどっていけば、子供時代の一族との関係に求められるのではないか。

教育にかかわるあらゆる配慮を受け、両親はもとより叔父叔母たちの期待を一身に集めて、難しい課題に挑みながら、それをこなすことに成功し、一族すべてからの賞賛を受け、慈しみを受ける。

このような経験は、一族の結びつきが強ければ強いほど、甘美なものになり、信介の性格の基本を、なせばなる、自分はその責を果たすことができるという強い確信を持つものとしたに違いない。

佐藤家にとって、教育は家ぐるみの総力を傾けたものであり、信介兄弟が仕上がった後には、茂世・秀助夫妻はほとんど見るべき財産を残していなかったという。松介叔父にしても、信介の教育への掛によって、ほとんど遺産がない状態だった。そこまで傾注をした輿望にこたえたのであるから、岸の覚えた満足は一層だったに違いない。

岸と満州時代、肝胆相照らす仲となった東条英機もまた、岸と同様に試験を勝ち抜いてエリートコースを駆け登っていった人物である。大戦末期、岸が東条内閣の倒閣に動いたことで、その関係は決裂するが、基本的に二人はウマが合った。

けれども、二人が激しく対立する一点--それ自体は決して発火することはなかったのだが--がった。一点とは、つまらないことだが、「長州」をめぐる拘りである。

東条の父英教は、プロイセンから陸軍大学に派遣されていた参謀本部顧問メッケルから折紙をつけられるほどの俊英だったが、実戦に弱いという評判を立てられ、その参謀将校としての経歴は恵まれなかった。

その不遇を、津軽藩出身としての出自ゆえの、長州出身者による差別に起因するものとして深く恨んだ英教は、息子英機を手厚く訓育するとともに、長州人脈に対する憎悪を吹き込んだのである。

P39山縣有朋以来、長州人脈の陸軍における権勢とそれに伴う人事の情実は極端なもので、英教の怨恨はけして的外れなものではなかったのだが、それにしてもその憎悪を息子に吹き込み、しかも息子がそれに忠実にふるまったことは、やはり尋常ではない。

東条英機は、陸軍内での地位が上昇するにつれて、反長州の姿勢を鮮明にして、長州人脈乃将校を排斥していった。

岸が、一族から担った輿望が陽性のものと云ってよければ、東条が担っていたものは陰性である、ということになるだろうか。こう云うと、いかにも東条が陰険な人物のように思われるかもしれないが、将帥としての東条は、おそらく帝国陸軍屈指の部下思い、兵卒思いの指揮官だった。

ただ、また、その濃やかさは、東条の自信のなさと表裏なものと勘ぐれないこともないが。

巣鴨プリズンのなかでも、もちろん死刑判決を受けた者と不起訴になった者の境遇の違いがあって一概には云えないものの、大きな差があった。東条が、すべては仏様の掌の上での戯れのようなものだと、ある意味で誠に日本的に悟ってしまったのに引き比べれば、岸のふてぶてしさは異様なものである。

その強さの一端は、怨恨感情、つまりはルサンチマンに根ざさない活力を、彼が備えていたことにあるのではないか。

第3回銀時計つきの高彬晋作
(略)

P248 ミッドウェー海戦で、空母を多数失った海軍にとって、アメリカとオーストラリアを遮断するためにのガダルカナル島が、どれほどの戦略的価値があるのか、より有り体に云えば、基地を利用するだけの体力があるのか、はなはだ疑問であった。

陸軍の場合、参謀本部の幕僚のほとんどがガダルカナル島の名前しか知らない状態で、兵站の整備もないまま、大兵力を投入したことが、将兵に塗炭の苦しみを味あわせたばかりでなく、海軍がすでに落ち込んでいた。対米消耗戦に、引きずり込まれるきっかけとなったのである。

P249 昭和十八年二月、陸海軍はガダルカナル島から、一万六百人余りの将兵を救出、撤退作戦が完了した。大本営は、退却を転進と呼び、ここから戦局は明らかに傾いた。五月には、アリューシャン列島のアッツ島で、山崎保代大佐以下の守備隊が玉砕。

六月には、山本五十六大将が前線視察の途上、ブーゲンビル島上空で戦死している。七月にキスカ島から陸海両軍の守備隊が全員撤退。八月、米軍はソロモン諸島のベラベラ島に上陸し、翌月にはニューギニア島東端のサラモアに上陸している。

九月三十日、天皇を迎えての御前会議において、「戦争指導の大綱」が決定され、「絶対国防圏」が決定された。

絶対国防圏」は、千島列島、マリアナ諸島、トラック諸島、ニューギニア島西端、ジャワ、ビルマを結ぶ領域で、この地域を防衛線とすることで、拡大してしまった戦線を整理、縮小し、戦力の温存、再編成を、遅まきながらはかるものであった。

だが、翌十九年二月には、絶対国防圏の一角、トラック諸島が空爆され、続いてマリアナ諸島のサイパンも空襲を受けた。月末には、米軍のロスネグロス島への上陸によって、ラバウルの日本軍が孤立している。

戦況の悪化によって、ようやく東条内閣への批判が高まってきた。

東条は、ガダルカナル撤退直後、つまりは最初の明確な蹉跌の後、内閣改造を行い、P250大麻唯男、後藤文夫を入閣させて第三次東条内閣を発足させている。

大麻、後藤は、大政翼賛会の実力者で、その入閣は、戦争が守勢に立ち、長期戦を免れないことが明らかになった状況をふまえて、政権の求心力を強めるための方策であった。

絶対国防圏が制定され、戦力の再整備が課題になったとき、商工省を軍需省に再編するという議論が浮上してきた。再編のイニシアティブをとったのが、生粋の商工官僚である、商工大臣岸信介だった。岸は、この間の事情を以下のように述べている。
あれは私が進んでやったことだけれど、要するに従来の商工省は消費経済の問題とか、金融的な仕事とか、いろいろ雑多な仕事をかかえているわけだけれど、純粋な戦時になると、軍需生産に最も力を入れなければならない。

それで雑多なものを切り離して軍需だけにしようとした。ところが官僚の中には、仕事を他にやることに反対が多い。私は官僚出身だけれど、この重大な時期に何をいうか、といって強行した。(『岸信介の回想』)
岸は、自ら出身官庁を葬って、軍需生産、特に航空機の増産に最善の体制を整えようとした。商工省から軍需省に改編したことで新省庁は統帥権にかかわる、ということで現役軍人をトップとすることが望ましいとされ、東条首相が、軍需相を兼任することなった。

P251 東条は、岸に軍需省次官に就任するよう要請した。しかし、岸は翼賛会推薦議員として、衆議院に選出されている。国会議員が、官僚の長である事務次官に就任することは、三権分立の原則に反する。そのため、岸は、選挙区に赴き、支持者の了解をとった後、議員を辞職して、次官に就任した。

岸は、軍需省の創設のために、大臣と議員という二つの顕職を自ら投げ棄てた。人事的な機微に濃やかな東条が、それを看過するわけがない。岸の私利を離れた献身ぶりに感動もしたのだろう。東条は岸に、次官でありながら国務大臣を兼任するように要請した。

岸は、辞去したが、東条はしつこく勧めて、ついにそれを受けさせた。

ところが軍需次官になったのはいいけれど、国務大臣を兼任しろという。それは商工大臣だった私をただの次官にしたのではかわいそうだからという意味でだろう。しかし私はそういう東条さんの気持ちはよく分かったけれど、やはり次官を引き受ける以上は、国務大臣になることは遠慮したいと言ったのです。

東条さんはどうしてかと聞くので、私はこう答えた。軍需次官としては大臣であるあなたの言うことを無理でも何でも聞かなければいけない。しかし国務大臣となると東条さんと同格だから、あなたの言うことでどうしても受け入れることができなくなる場合だって生じる。

そういう矛盾した立場に置かれるのは困るので次官だけでいい、と。そうしたら東条さんはうまいことを言った。いや、お前を優遇するために国務大臣を兼任させるのではない。P252俺は軍需大臣だけれど総理と兼務だから、忙しくて軍需省には行けない。ところが軍需省には軍人をたくさんまわすし、軍人というのは自分もそうだが、星の数で言うことをきいたり、きかなかったりするものだ。

若い頃からそうやって育てられてきた人間だ。次官といえば星二つの中将格だけれど、大臣は星三つの大将だから、陸海軍からやってくる中将以下は皆お前の言うことをきく。だから俺の留守を取締る君を国務大臣にするのだと。

なかなかうまく口説かれたと思いましたよ(笑)。(同前)
東条の口説き方は、懇切なものであり、情理を尽くしているが、結局は岸がこの時に語ったという、「国務大臣となると東条さんと同格だから、あなたの言うことでどうしても受け入れることができなくなる場合だって生じる」という事態、そのままのことが起きることになったわけだが。

十九年二月十九日に、絶対国防圏を破られてトラック諸島の日本軍が壊滅したのを受け、東条は再び内閣改造を行った。この時、東条は異例の処置に踏み切る。参謀総長も兼任することにしたのだ。つりあいをとる意味で、嶋田繁太郎海相も、軍令部総長を兼任することになった。

これで東條は、総理大臣、軍需大臣、陸軍大臣に参謀総長の四ポストを兼任することになった。きわめて異例な兼任であり、独裁の謗りを免れない、特に、陸軍大臣と参謀総長を兼任するのは、異例であった。

P253 陸軍の三大ポストは、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三つであり、陸軍大臣は陸軍省、参謀総長は参謀本部、教育総監は、教育総監部を統括する。なかでも軍事行政全般を統括する陸軍省と、軍令を統轄する参謀本部が、戦時においては決定的に重要な期間であることは云うまでもないが、軍政と軍令の分離は、近代軍隊における必須条件とみなされてきた。

つまりは軍政的な判断、配慮を、純粋に合理性を追求しなければならない作戦計画から排除しなければならないからだ

ところが、それを東条は兼任してしまった。

このことは、帝国陸軍においては、もはや政治と作戦が一体となってしまったことを意味している。つまりは、あらゆる作戦は政治的であるし、あらゆる政治はまた軍事的意味あいのみから考えられていることになる。

もちろん、この兼任には、それなりの意味あいがあった。帝国陸軍の宿痾である、セクショナリズムを、ある程度は排除することができた。同一人をトップに戴くことでの、いくぶんかの横断性が確保されたのだ。

しかしまた総力戦という、多面的で複雑きわまる膨大な要素の絡み合った営為を、独裁的統合で遂行していくことは、どうしても無理が、それもかなり大きな無理が出てしまう。この無理からはみ出したものを、さらに無理に統合しようとすれば、

次第に独裁の維持が目的なのか、戦争の勝利が目的なのか、不分明になってしまうのだ。

東条が大事なのか、勝利が大事なのか。大日本帝国が大事なのか。 

東条体制の維持拡充をはかる。東条の周囲の信奉者たちは、その辺りのことが次第に混乱してきてしまった。

P254 東条さえ支えれば、東条さえ戴いていれば、日本は勝てるのだ、というような。昭和天皇の信任が厚かったことも、こうした周囲の倫理、心情を正当化していた。当然ながら、こうした事情を憂慮する勢力が台頭してきた。

六月十五日、サイパン島に米軍が上陸しはじめると、倒閣の動きが盛んになっていった。

西園寺公望を後継する存在として天皇から強い信頼を受けdていた岡田啓介は、近衛文麿、平沼騏一郎、米内光政といった元老級の実力者や、陸海に在籍している宮様方と連絡をとり、東条退陣の共通了解をとり、木戸内大臣にたいして働きかけていた(参照)。

赤城宗徳、椎名悦三郎、山崎達之輔、船田中ら、もともと軍よりと見られていた代議士たちが「護国同志会」を結成し、代議士会を開いて、東条退陣を求める決議を発した。

そうした動きとは別に、岸は岸で、東条の戦争指導にたいして、大きな疑問をもつようになっていた。

サイパンが落ちてしまえば、完全に勝機が失われてしまうからである。

勝機どころか、継戦能力もなくなり、日本全土が焦土になることは目に見えている。というのも、サイパンの飛行場を用いれば、日本本土への往復爆撃が可能になるからだ。

日本全土の軍需工場はもちろん、飛行場、鉄道、道路が破壊されれば、航空機も艦船も生産できない。

P255 そうなれば、南方方面との連絡も途絶し、防衛線が瓦解する。つまりは、サイパンを失えば、負けるのだ。負けると、明確にわかった。つまり勝負がついたのであるから、戦争をやめるしかない。というのが岸の論理である(tw,tw,tw)。

岸の主張は、軍需生産の責任者としては、当然のことだろう。工場がつぎつぎに爆撃されるようになって、航空機の増産などできるわけはない。一方のアメリカは、ますます増産体制を拡充してくるのだ。

もちろん、当時の状況、国民感情や世相を考えれば、サイパン陥落の時点で、講和を求めることが可能だったかと考えれば、現実的ではなかったろう。それができるなら、支那事変はとうに終結していたに違いない。

とはいえ、この時に、講和の声を、しかるべき責任のある人間が上げること、それ自体は、きわめて重要なことだった。

昭和十九年七月七日、サイパン守備隊は、最後の突撃を米軍に敢行し、全員が玉砕した。

すでに守備隊の司令、南雲中将は自決している。島北端のマッピ岬に追い詰められた邦人約五千人は、天皇陛下万歳を叫びつつ、岬から身を投げた。岬は、米軍兵士からバンザイ・クリフと呼ばれた。

岸は東条に率直に、もはや講和の時だ、と申し入れたという。
私が東條さんと最終的に意見が合わなくなったのは、要するにサイパンを失ったら、日本はもう戦争できない、という私の意見に対して、東條さんは反対で、そういうことは参謀本部が考えることで、お前みたいな文官に何がわかるかというわけです。

しかし実際にサイパンが陥落したあとでは、B29の本土への爆撃が頻繁に行われて、軍需生産が計画通りできなくなるし、私は軍需次官としての責任は全うできなくなった。だからもうできるだけ早く終戦する以外に道はないと思ったけれど、軍はなお沖縄決戦までもっていってしまったわけです。(同前)
東条は激怒し、岸に辞表を出すように求めた。岸は拒否した。総理大臣に閣僚の任命権のない、明治憲法体制では、首相に異議を唱える閣僚が自ら辞任しないかぎり、内閣は閣内不一致による総辞職を余儀なくされる。

岸はそのことをよく知っていた。



第20回 尊攘同志会

サイパンは陥ちたのだから、すぐに戦いをやめるべきだ、とする岸の意見は、合理的なものだ。軍需を総攬する岸の立場からすれば、その責任からしても当然のことであろう。

だが、東条は、拒絶をした。サイパンが陥ちたからといって、負けたとこにはならない。負けるわけがない、一点も揺るぐことのない聖戦への信念をもっていれば、絶対に敗北するするわけがない、と。

今日の時点から見れば、東条の主張は、きわめて非合理な、狂信的なものに見える。当時すでに、フィリピン方面の制空権を失った日本は、台湾とルソン島の南、バシー海峡にまで、米軍潜水艦の跳梁をほしいままにさせていた。

バシー海峡は、台湾からフィリピン、シンガポール、スマトラを結ぶ南方物資輸送の要に位置しており、もとより石油などの基本的戦略物資を南方に依存することで英米にたいする継戦能力を維持している日本は、この輸送線を保持することが至上命令であった。

P258 その生命線ともいうべき経路を敵に蹂躙されるがままになっていたのである。この時点ですでに、航行する船舶の半ばが潜水艦の餌食になっていた。輸送に支障をきたしていたのは、物資だけではない。何よりも大きな問題は、人命の損失であった。

本土から前線へ送る兵員や技術者たちが海の藻屑と消えてしまう。半ば、と一口で云うが、その犠牲の大きさ、損失の巨大さは、言葉を失う態のものだ。貴重な兵員が失われ、さらに船舶も失われる。ますます、輸送がやせ細っていく。

そういう状態にあってサイパンを失えば、本土が爆撃にさらされるわけだから、船舶の製造設備も破壊されることになる。南方からの物資の供給は、日ならずして形だけのものになってしまうだろう。であるとすれば、やはりここで戦争をやめなければ仕方がないのではないか。

という岸の主張は、正しいように思われる。

だがまた、東条の信念が、いかに今の時点から見て異様なものに見えたとしても、当時の国民、そして軍---その戦力のほとんどを失いつつあった海軍はともかく、いまだ大陸では圧倒的な優勢を維持していた陸軍---の、一般的な感情として、講和、降伏などは思いもよらない、というのが本当のところだろう。

昭和天皇は、翌二十(一九四五)年二月の、重臣たちとの懇談のなかで、即時講和と粛軍---東条ら統制派の粛清---を提案した近衛文麿にたいして、今はまだ難しい、P259もう一度大成果をあげてからでないと、講和の席につくことはできない、と語っている。

その点からすれば、岸の議論はいかにも、情理に欠けた、国民感情の現実から遠いものと見えるかもしれないし、より直截に云えば、非現実的だということになるだろう。

岸にしてみれば、国民の大勢が受け入れ難い真実を、進んで示す勇気と、その反対にもかかわらず理のもって示す方向に邁進するのが、国家指導者の役割である、ということになるだろう。

いずれにしても、岸と東条は、決定的に決裂してしまった。

東条は、岸を辞職させようと決断した。戦前の総理大臣には、閣僚を罷免する権限がないので、岸に辞表を提出してもらわなければならない。もしも、東条と岸の意見が対立したまま、岸が内閣を去らなければ、東条は閣内不一致、つまりは自身の内閣主催者資格を闡明して、辞職しなければならない。

当時、陸軍大臣と参謀総長、軍需大臣という軍関係の最高ポスト三つを兼任していたことを批判されていた東条は、重臣たちの倒閣運動をかわすための内閣改造を企てており、東条と同じく、海軍軍令部長を兼任していた嶋田繁太郎海軍大臣を更迭し、米内光政元首相の担ぎだしを画策していた。

その内閣改造の一環として岸を圏外に追放するとともに、閣内不一致という事態を避けて、東条政権の延命をはかろうというわけである。岸に辞職を促す使者には、星野直樹が選ばれた。

星野は、東条、岸とともに二キ三スケ(ほかは松岡洋右、鮎川義介(tw))に名前を連ねた、満州国時代の同志であり、岸にとっては星野は兄事しつつ---星野は岸より四年年長であり、P260渡満も約四年早かった---もまた、第二次近衛内閣の企画院総裁に岸が星野を推したように、互いにそのキャリアを気遣い合う相手であった。

星野は、昭和十六年十月に東条内閣が成立すると、内閣書記官長に任命され、文字通り東条の懐刀となった。

よく云えば意気に感じるタイプの、悪く云えば情に溺れるところがある星野は、東条にのめり込み、岸の講話談義を許し難い批判と受け取った。昭和十九年(一九四四)年七月十六日、サイパン島の軍民が玉砕した九日後、星野は岸を訪ねた。

星野は岸に内閣の現状を一通り話した後、辞表を出してくれ、と事務的に伝えた。岸は、諾わなかった。戦況が、ここまで来た以上、自分一人が辞めても仕方がないのではないか。内閣は総辞職して、東条は下野し、みずからの戦争指導の誤りを朝野に謝して、講和への道筋を作るべきである、と。

星野は、岸を、遠い物を見るような目で見た。いずれ、こういう時が来ると思っていたかのように。

戦後、岸とともにA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容された星野は、岸が不起訴に終わったのにたいして、有罪判決を受け無期懲役を科され、昭和三十年まで獄中ですごした。釈放後、ダイヤモンド社の会長、東急国際ホテルなどの社長を務めたが、総理の座に昇りつめた岸信介とははなはだしい差がついた。
P261 そのことを勘定に入れても、星野の回想に現われる岸観には冷え冷えとしたおのがあるように思われるのは、合理で国策を割り切る岸の、その正しさにこそ、裏切りの明確な印を見たからであろうか。

星野は、辞表を出さないというのならば、もう一度東条と話をしてくれと、と云った。翌朝、岸は、首相官邸を訪ねた。東条との対話は、長時間に及んだが、決着はつかなかった。岸は、とにかく辞職はしないと云い張った。

東条は、激怒した。なぜ、おまえが、という裏切られた思いと、上長の命令を下級者が聞かないとは、という秩序倫理からくる怒りがあいまった。

子供じみた喧嘩別れの形で、首相官邸を去った岸が、家につくと、制服姿の憲兵が数人門前にたむろし、門柱わきには、立哨するための小屋が建てられていた。それまでも、内密に監視されていることは、わかっていたが、これからは公然と岸家への出入りを検めるといいうことである。

手回しのよさに呆れもしたが、しかし事態の深刻さを感じずにはいられなかった。来客は途絶えるだろうし、電話も盗聴されるに違いない。情報収集に支障をきたすどころか、政治活動は封じられてしまう。脅威を憶えざるを得なかった。

憲兵のもたらす脅威を多用したことは、東条贔屓であった昭和天皇も感心しないところとして挙げているほど、東条政権の宿痾であった。

(略、憲兵による反対者に対する圧力、中野正剛自殺、岸暗殺の企み、など)

P263 この段階で、東条と対決し、内閣を総辞職させたということは、政治家岸信介にとっては、決定的なことであった。

それは、東条と政争し退陣に追い込んだ、という経歴が、A級戦犯不起訴を勝ち取るのに有利に働いた---実際、岸と同じく東条内閣の文官閣僚だった星野直樹や加賀興宣(大蔵大臣)は、起訴されて有罪判決を受けている--だけではない。

天皇でさえ懼れずにはいられない強大な権力を握っていた東条と四つに組んで、相討ちしたのだ。その光景は政界の伝説となり、その官僚らしからぬ土性骨を広く天下に示した。

戦後、岸が、そこらの官僚出身者など華もひっかけない三木武吉や大野伴睦といった党人政治家の手を借りて、大仕事をやってのけられた一因は、東条との闘いの余慶というべきだろう。



東条の退陣とともに下野した岸は、反東条派、反翼賛会の代議士たちと連携して、国策の立て直しをさぐる護国同志会と連携した。同志会は、一名、岸新党とも呼ばれたが、戦争終結をめぐる見通しで岸との差が大きく、さらに軍需次官就任の時に議席を失っていることもあり、さして有効な活動はできなかった。

昭和十九年秋、岸は帰郷した。

前述した持病が悪化したためもあるが、米軍の爆撃が、いよいよ激しくなるなかで、P264早晩、日本は近代国家としての体裁を失ってしまうのではないか、という危惧を強く覚えたのである。

(略)

第23回 生と死と P286-

(略)

P290一九四七年七月、国務省政策企画部長のジョージ・ケナンは、『フォーリン・アフェアーズ』誌に「ソ連の行動の源泉」と題する論文を発表した。この論文は匿名で発表されたため、「X論文」と呼ばれて人口に膾炙したが、ソビエト勢力圏内での基本的な自由の抑圧のはなはだしさと、その際限のない膨張性を明確に指摘し、やむを得ない対応策として、共産圏の「封じ込め」を提唱している。

英米にしてみれば、彼らが反民主主義的と認定した勢力を打倒したと思ったら、より強力で残忍な抑圧体制が、同盟国の手によって大戦時の敵よりも広い地域で確立されつつあったのだから、面くらうのは当然だったろう。

いわば、戦略の大転換を余儀なくされたわけで、昨日敵視していた相手を、重要な同盟の担い手として評価しなおすといったダイナミックな転換なしには、戦線の再構成はできなかった。

共産化が進む東側にたいして、西側の団結が必要とされるとき、ソビエト・ロシアをその柱石としていた、連合国の論理が崩壊し、その過程で、岸のような人物の評価が変わったのは当然のことであった。

冷戦の進行に伴い、GHQ内部の力学が大きく変わった。当初、主導権を握っていた、日本の徹底的民主化を呼号するニューディーラーを中心とした政治全般を統括して追放などを手がけたGS(民政局)は、冷戦の昂進により後退を余儀なくされ、その過程のなかで、治安と諜報にたずさわる、G2(一般参謀本部第二部)が台頭してきた。

G2を主管するウィロビー将軍は、配下のキャノン機関とともに同機関が関係していると論じられることが多い下山事件などを通して、P291児玉らの首魁にあたる右翼、三浦義一らと緊密な関係があったと見られている(相互参照)。

GSに代わって、G2がヘゲモニーを握るという状態のなかで、アメリカ側が、岸の起訴や恣意的懲罰を与えることに、躊躇を覚えるようになったのは、当然のことだっただろう。

当時、経済科学局(ESS)に所属していた二世のキャピー原田(tw)は、岸信介を巣鴨プリズンに訪ね。日本経済の復興について意見を求めたという。

ニューディーラーによる計画経済的政策は、失敗を重ねて、どうにもならなくなっていた。もともと敗戦後の超インフレを計画経済的手法で、抑え込もうとすること自体が、今日の目からみればナイーブにすぎるし、アメリカ本国ではできなかった計画的手法を試したいという実験的野心は、当然のごとく破綻し、被占領国民に、塗炭の苦しみを与え、GHQの統治の正統性自体を損ないかねない状態に至っていたのである。

そのなかでキャピー原田が、岸に助言を求めたのは、当を得たことだった、と云えるだろう。
経済科学局で復興の計画を立てているのでご意見を聞かせてほしい、と頼んだ。人間は、背骨がなくなるとだめになる。財閥解体は極端にやると、逆効果になってしまう、というお話だった。その後すしなどを持って、たびたび行くようになった。(『朝日新聞』1994年平成六年九月二十二日付)
P292原田は、上司である経済科学局局長であるマーカット将軍に、岸の重要性を強調したという。マーカットは、ニューディーラーの無能さに、ほとほと呆れて、シャーブ、ドッジの自由主義的政策を採用しただけに、原田の建言をさほど粗略にはしなかった。

(以下、都度更新)

 →『秘密のファイル(下)』P204(参照
 →『近衛文麿- 野望と挫折-』P260(参照)
 →『鮎川義介と経済的国際主義』(参照)