2022年9月27日火曜日

偏愛メモ 『持丸長者-国家狂乱篇-』

序章 長者ますます台頭す P13-34

P13/ 14/ 16/ 18/ 20/ 22/ 24/ 26/ 28/ 30/ 32/ 34

第一章 新聞と製紙が拓いた新国家 P36-82

第二章 北海道開拓史 P84-130

P130ロスチャイルド財閥、クルップ財閥を筆頭に、すべての大国において巨大財閥の中核を成してきた。

新橋~横浜間の鉄道開通は誰にも知られているが、しかし一体、誰の手で、日本の鉄道は走りはじめたのであろうか。第三章の物語は、蒸気機関車が枕木を踏みしめながら鉄路の上を走り、北から南まで、東から西まで、海岸から山奥まで、その力を発揮した、あのたくましい勇壮な鉄道の開拓史に入る。

第三章 線路は伸びる P132-189(tw,tw,tw,tw)


日本最大の産業にのし上がった鉄道
P132ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破った初代ウェリントン公爵は、「鉄の公爵」と呼ばれた。これを英語のまま読んだアイアン・デューク号と命名された蒸気機関車が、長崎の大浦海岸を走ったのは、明治に入る三年前、慶応元年(一八六五年)のことであった。

走らせたのは、ご存じプッチーニのオペラ『蝶々夫人』の舞台として名高い、グラバー邸で知られるイギリス人貿易商トーマス・グラバー(グラヴァー)であった。

一ヵ月にわたっておこなわれた機関車のデモンストレーション運転に、うわさを聞きつけた日本人がどっと押し寄せ、狐を馬に乗せたような風聞が嘘ではないと知って驚き、半ばおそれおののいて眺めていたが、しかしやはり機関車が蒸気を噴いて列車を引きながら動き出すと感激し、おおーっと歓声をあげた。

日本人が日本で目にした最初の本格的な鉄道がこれであった。

正確には、土佐の漂流民ジョン万次郎が、日本人として初めてアメリカで鉄道列車に乗ったのが、その二十年前の一八四五年であった。のちに運命の偶然から、ジョン万次郎一族のある人物が、日本の蒸気機関車を製造して、鉄道界を主導するのである。

そのように不思議なことが、どうして起こったのであろうか。ことの順序を追ってみよう。

帰国した万次郎がアメリカの文明事情を土佐藩主に伝えた一八五三年には、ペリーが浦賀に来航した。それに遅れること一ヵ月半後、ロシア艦隊プチャーチンが長崎に来航し、蒸気機関車の模型を船の中で走らせ、この乗り物を日本人に紹介して、いぶかしげに眺める彼らの顔を楽しんだ。

ところが翌年に再び来航したペリー艦隊は、プチャーチンに負けじと持参した模型の蒸気機関車の試運転を横浜村でおこない、その鉄道模型を江戸幕府に贈って驚かせた。

P133この模型は遊園地の列車ほどの大きさがあり、実際に蒸気機関車で引いてに被音の役人を乗せ、時速三二キロ余りのスピードで走ったのだから、小型ではあっても最初の実物鉄道であった。

そこで衝撃を受けた肥前佐賀藩の佐野常民たちが心血を注いで、歯車や内部の配管まできわめて精巧に再現し、蒸気車の模型を製作したのが翌一八五五年、日本人製作による機関車模型の嚆矢となった。

しかしそれから十年後、グラバーが長崎で走らせたものは、線路の幅が一メートル近く、長さが三〇〇メートルもあり、中国に輸出するため上海博覧会に出品された蒸気機関車を日本に運び、客車三両を引いて走ったのだから、これが正真正銘、西洋文明が日本人を驚嘆させた本物の鉄道であった。

かくて蒸気機関車は、陸蒸気と呼ばれるようになった。それでもまだ江戸時代のことである。

それからわずか三十年後に、鉄道が日本最大の産業になると、誰が予測したであろう。

明治二十九年(一八九六年)の最初の企業ランクを見ると、鉄道産業が、確かに第一位である。この年はちょうど、大阪と北海道を結んで、輸送の生命線であった北前船が海から姿を消した時期にあたる。その理由は二つあった。

第一は、西洋式の帆船と蒸気船が広まり、財閥系の日本郵船によって、北前船が輸送力を奪われたからである。第二は、明治五年の新橋~横浜間の開通に始まった鉄道が、のち東京から関東・甲信地方一円に広がり始めた(東京といっても、当時の駅は新橋と上野が起点だったので、

P134大正三年に東京中央停車場が開業するまで東京駅はない)。続く明治七年,北前船の起点・大阪~神戸間に始まった鉄道が、京都・大津まで広がった。

明治二十二年には東海道本線の新橋~神戸間の全線が開通、明治二十四年には上野~青森間の東北全線が開通、さらに明治三十四年には山陽鉄道の神戸~下関間の全線が開通して、本州が北から南まで鉄道で結ばれた。

鉄道は人力や馬よりはるかに輸送力が大きく、大型船が入れない内陸まで人間と商品を運び、船より輸送スピードが速い。そのため、各地での商品価格の差がなくなり、北前船の利益が出なくなったのである。

こうして明治三十年代をもって、豪商を生み続けた北前船が、その長く貴い役割を終えていった。

内陸では鉄道が船にとって代わり、大量輸送の主導権を握ったのである。序章の二十九頁(参照)にその明治二十九年の数字を示したが、製造業ではない「運輸・電気・ガス」上位五〇社の公益事業分野を見ると、第一位が鉄道会社で、総資産が九九一九万円に対して、第二位の海運業は二五三九万円であった。

鉄道が海運の四倍にまで力を伸ばしたのだ。全製造業の七割を占めて最盛期にあった紡績業(繊維業)五七社は、そのとき総資産四〇一一万円だったので、鉄道会社はその二倍を超える巨大なものでもあった。

しかしさらに驚くことがある。次の企業ランク統計は、十五年後の明治四十四年(一九一一年)になるが、鉄道が三億五一一九万円に対して、紡績業が一億八二四一万円なので、やはり二倍の比率は変わらない。

ところがその鉄道会社のうち、たった一社で二億六一四〇万円の資産に達し、鉄道全体の四分の三を占める会社があった。南満州鉄道株式会社、すなわち「満鉄」であった。

P135ほかに二一ある鉄道会社の総資産を合計しても、満鉄の三分の一、膝の上ぐらいにしか届かない。

その答えは、前の章で述べた。明治三十九年三月三十一日に鉄道国有法が公布されて、全国的な鉄道網が国家に統治され、大手の私鉄路線が国有化されたからである。しかも満鉄が設立されたのは、奇遇にもそれからわずか八ヵ月後の十一月二十六日なのである。

そのため、民間に残ったか細い鉄道会社に比べて、超巨大なマンモス民間会社となった。それにしても、紡績業全社が束になってかかっても及ばないのだから、満鉄の大きさはとてつもない。

果たして、終戦まで日本企業第一位の座を保った満鉄とは、どのような怪物だったのか。果たして、国有化と満鉄設立が同時期なのは、奇遇なのだろうか。誰かが、巨大な利益を手にしたのではないか。この三つの疑念を抱いて、鉄道史を追跡しよう。

蒸気機関車と「鉄道の父」井上勝
誰が日本の初期の鉄道を動かしたのだろうか。
鉄道を敷設して列車を運転するには、四つの能力が揃っていなければならない。
第一は、機関車とエンジン、列車、線路などの機械設計と安全技術
第二は、鉄道レールを敷くための、地理・測量・土木技術
第三は、経済効果をもたらす行政手腕
第四に、これらの巨大な資金
P136現在では蒸気機関車に代わって電動モーターで車輪を回すようになっているが、この四つの能力が必要なことは、基本的に変わらない。第一と第二が技術なので、これがなければ列車は走らず、また大事故を起こす。

蒸気機関車を生んだのは、イギリスである。一八二五年、イギリスのジョージ・スティーヴンソンがワットの蒸気機関を利用して、高性能の機関車ロコモーション1号を完成し、世界最初の本格的な鉄道をストックトン~ダーリントン間に敷設し、五○○人の乗客と石炭や小麦粉を積んで走らせることに成功した。

実は、その前の一八〇三年に世界最初の鉄道蒸気機関車を完成したリチャード・トレヴィシックが実用化に手間取るのを抜いて、スティーヴンソンが鉄道の父と呼ばれるようになったのである。

以下述べるように、日本にとっては、スティーヴンソンよりトレヴィシックのほうが、重要な存在であった。

アメリカでも同じ一八二五年に、似た名前のジョン・スティーヴンズが最初の蒸気機関車をニュージャージーの自宅で製造し、ぐるぐるまわる円形の線路で走らせた。

その年(日本で文政八年)とは、幕府が「異国船を発見次第、二念なく打ち払うべし」との砲撃命令(異国船打払令)を出し、鎖国時代の真っ只中であった。

二年後のアメリカではボルティモア・オハイオ鉄道が設立され、一八四六年にはペンシルヴァニア鉄道、一八五三年にはニューヨーク・セントラル鉄道が誕生して、いずれも巨大な鉄道会社に発展した。

アメリカ歴代のドル札富豪全員を並べてみれば、蒸気船の頭目から鉄道王にのし上がったコモドア・ヴァンダービルトを筆頭に、満州の鉄道利権を狙ったハリマン財閥、金融王モルガン財閥、石油王ロックフェラー財閥ばかりか、大富豪のほとんどが桁違いの鉄道資産を抱えていた。

P137一ハ六八年に明治時代に入った日本との差は、あまりに大きかった。

したがって日本で鉄道を動かし偉人は、明治史でほとんど正当な評価を受けていないが、外国人技術者である。明治十五年に日本最初の私鉄会社として開業したのは、ピーと汽笛を鳴らす機関車ではなかった。

鈴音勇ましく馬が列車を引いて鉄道の上を走る、日本橋~新橋間二五キロの東京馬車鉄道会社であり、しかも六輌の馬車はすべてイギリス製の二頭曳きであった。当日は雨にもかかわらず満都の子女が押し寄せ、馬車が走り出すと大歓声をあげ、「これぞ文化の最先端」と東京がどよめいた、と往時の状況が記されている。

馬は大変だったはずだ。馬車鉄道と聞けば、現代人はみな笑みを浮かべてのどかな光景を思い浮かべるかも知れないが、この会社は薩摩の財界巨頭・五代友厚を筆頭発起人として設立され、次いで甲州財閥生みの親の若尾逸平が株の買い占めにかかり、明治二十九年でも鉄道会社第十七位にランクされていた。

ついにその鉄道利権をめぐって、同社を引き継いだ東京電車鉄道と、東京市街鉄道、東京電気鉄道の三電合併による運賃値上げ事件を引き起こし、群衆による電車焼き討ちで軍隊が出動し、戒厳令さながらの事態を招いた鉄道であった。

これが東京に走る都電の濫觴なのである。

このような国だったから、外国人の力なしには、鉄道の大事業は到底成し得なかった。歴史講談では日本の鉄道偉人花盛りだが、明治時代に日本で走ったほとんどの機関車の製造を指導し、大半のレールをつくったイギリス人、アメリカ人、ドイツ人たち外国人技術者に対する敬意を第一に述べるべきである。

明治五年九月十二日に新橋~横浜間が正式開業して最初に走った機関車はイギリスのバルカン・ファウンドリー社製で、明治七年に大阪~神戸間で最初に走ったのもイギリスのスティーヴンソン社製であった。

P138明治十三年に北海道で初めて走った「弁慶号」は、安宅の関で生まれたのではなく、ペンシルヴァニア州ピッツバーグで製造されたアメリカ製の機関車であり、ペンシルヴァニア鉄道技師だったアメリカ人ジョゼフ・クロフォードこそ、北海道の鉄道の父であった。

ではいつ頃から日本人が機関車製造にかかったかといえば、スティーヴンソンに栄誉を奪われた“真の世界最初の機関車発明者”イギリス人リチャード・トレヴィシックの孫フランシス・ヘンリー・トレヴィシックが来日し、日本に技術を伝え始めたのが明治九年であった。

次いで明治二十一年にその兄リチャード・フランシス・トレヴィシックも明治政府に招かれて、四年後には彼の指導のもと、鉄道庁の神戸工場で初めて蒸気機関車の製造が開始され、明治二十六年六月に国産蒸気機関車第一号の八六〇形が完成した。

しかしこれはまだ量産にほど遠いものであった。彼らの兄弟アーサーもロンドン鉄道の機関車工場支配人をつとめていた有能な一家である。

日本で「鉄道の父」と呼ばれてきた長州藩出身の井上勝は、幕末に、五稜郭を建設した函館奉行所の才覚者・武田斐三郎に英語など数々の学問を師事したのち、長崎のグラバーに手引きしてもらってイギリスに密航し、その国に五年間学んだ人物であった。

したがって明治元年に帰国した井上は、素人ではなかった。彼は明治政府に入ってから、鉄道頭→鉄道局長→初代鉄道局長官→初代鉄道庁長官を歴任したが、これは鉄道官庁の名が目まぐるしく変わっただけで、一貫して後年の鉄道大臣あるいは運輸大臣と同じ役職名である。

四半世紀にわたって行政トップにあった井上は、明治二十六年に退官後も死ぬまで鉄道会議議員と鉄道院顧問をつとめ、鉄道院初代総裁・後藤新平の後ろ盾となって骨折り、日本の鉄道は、井上勝の行政力によって主導されてきた。

だが彼も、鉄道では主に敷設工学技術を学んだので、蒸気機関の製造法について専門家だったわけではない。

井上勝がすぐれていたのは、行政官としてより、長官を退官して三年後の明治二十九年、汽車製造会社を大阪の島屋新田に設立し、自ら社長に就任して、民間での国産の機関車製造に乗り出した先見性にある。

このとき井上には、大きな後ろ盾がいた。第一は、毛利五郎であった。旧主である長州萩藩最後の藩主で、当時日本最大の銀行だった華族銀行(第十五国立銀行)初代頭取・毛利元徳の息子である。

この五郎の娘も、日本車輛製造という列車メーカーの社長一族に嫁ぐことになる。長州藩は鉄道に深い結びつきを持っており、毛利家一門の毛利重輔も、アメリカに留学して鉄道技師となり、日本最大の民間鉄道会社・日本鉄道の社長に就任している。

これは、明治十年に西郷隆盛が決起した西南戦争の時から、軍部を支配する長州藩・山縣有朋が兵士と武器の輸送のために、鉄道の重要性に目を向けたのがそもそもの始まりであった。

続いて明治十八年に長州藩の初代伊藤博文内閣が発足すると同時に、伊藤博文と井上馨が早くも日清戦争の準備に入って、軍部が鉄道事業に強く介入し始めたことと無縁ではない。

P140つまり日本の鉄道技術は、明治三十年代初めまでは、国内の人間と産業用の物資輸送を目的として、アメリカ・ヨーロッパの機関車に頼りながら、ある意味で健全な発展を遂げてきたのだが、明治二十八年に日清戦争に勝利してからは、植民地として獲得した台湾と、植民地化を目論む朝鮮に進出するという軍事目的が、鉄道機関車の技術を国産化に転身させる大きな政治的動機となった。

その先、明治三十八年に日露戦争に勝利後は、満州南部の鉄道路線を獲得し、朝鮮を「保護国」として支配したため、朝鮮半島と大陸の鉄道経営というさらに巨大なプロジェクトが始動したのである。

井上勝が汽車製造会社を設立したのは、まさにその端緒となる日清戦争勝利の翌年であった。さらにその翌年、明治三十年に創立されたのが、写真術の開祖・上野彦馬が学んだ長崎の学校に濫觴を持つ京都帝国大がであった。

ここに設置された最初の学科・機械工学科で、トレヴィシックの薫陶を受けて国産機関車の製造に従事した森彦三が教鞭をとり、技術者を育てたのである。その森彦三がのちに満鉄工場長となるように、すべてが国を挙げて植民地主義と一体になった鉄道産業が胎動した。

この井上を支援したほかの出資者は、福岡県第一位の長者で、イギリスのケンブリッジ大学に留学した旧福岡藩世嗣・黒田長成、イギリスのオックスフォード大学に留学し、日本鉄道会社と東京電灯の設立に参画した、徳島県第一位長者一族の旧徳島藩主・蜂須賀茂詔、大名華族のなかで日本一の長者一族である旧加賀藩世嗣・前田利嗣、三菱財閥の岩崎久弥、住友財閥の住友吉左衛門、

P141安田財閥の安田善次郎、大倉財閥の大倉喜八郎、藤田組の藤田伝三郎、どこにでも顔を出す第一銀行頭取の渋沢栄一に三井の番頭・井上馨は勿論、日本最高の長者全員が揃って、汽車製造会社が「出発!進行!」した。

しかし資金があっても、機関車を設計できる技術者がいなければ、汽車製造にはならない。井上勝は渋沢栄一らを口説いて、日本鉄道会社が大宮に建設中の工場から、設計者の長谷川正五を引き抜いたが、この長谷川が奇しくも「日本人として初めて列車に乗った」ジョン万次郎の近親者だったのである。

つまり正五の妻の兄が鉄道院副総裁・長谷川謹介で、謹介の娘がジョン万次郎の息子と結婚したのだ。この鉄道一家の長谷川正五、謹介とも長州出身であり、正 五は日清戦争、日露戦争に出征した軍人でもあり、かなりの武勲を伝説に残した。

この軍人・正五は当時の日本に珍しい機関車工学の研究者でもあった。そのため大正以後は、「十大発明家」の一人に数えられた田熊常吉が発明したタクマ式汽罐の特許一切を汽車製造に譲渡してもらい、改良を加えて、世界一の熱効率を誇るボイラーを完成し、これを自社で製造するようになった。

現在日本のエネルギー分野で業界最先端をゆく兵庫県尼崎市のタクマは、大阪の発明博覧会で最高金賞を得たこのボイラーによって、鳥取県八橋郡出身の田熊常吉が興した会社である。

プロ野球を生み出した鉄道技術者
大阪の汽車製造が取りこんだもう一人の技術者は、型破りのとんでもなく面白い東京の長者であった。日露戦争が迫ってきた明治三十四年(一九〇一年)に、東京の本所錦糸堀(現在の錦糸町駅近く)で客車や貨車を製造する平岡工場社長の平岡凞(相互参照)を副社長に迎え、両社が合併したのである。

P142井上勝社長がどうしてもわが社に来てくれと招いたこの平岡は、日本最初の野球チームを創設した栄誉をもって、一九五九年に正力松太郎と共に野球殿堂入り第二号となった。

不思議な履歴の人物である。正力が野球チームをつくったのは昭和九年(一九三四年)だが、平岡はその五十六年前、明治十一年(一ハ七八年)にグローブやバットを輸入し、新橋停車場港内に運動場をつくり、わが国最初の本格的野球チーム「新橋アスレチックス倶楽部」を結成したのだから、日本野球の生みの親である。

なぜ新橋かといえば、平岡はアメリカに足掛け六年留学し、機関車の製造技術を学ぶかたわら野球にも打ちこみ、帰国すると、新橋~横浜間が開通して間もない新橋駅に勤務したからである。

野茂、イチロー、松井、松坂らより百年以上前に本場アメリカで野球をプレーした人間であった。日本の野球が鉄道から生まれたため、新旧含めて、プロ野球の国鉄スワローズ、南海ホークス、阪神タイガース、近鉄バッファローズ、阪急ブレーブス、東急フライヤーズ、西鉄ライオンズ~西武ライオンズは、いずれも鉄道会社の球団であった。

この平岡凞が、ある種の天才であった。生家は、将軍に御庭番として仕え、江戸城内で庭を見回るふりをしながら、将軍に天下の情勢をひそかに耳打ちする重要な役をつとめていたのだが、幕府崩壊で、父が江戸城明け渡しの事務処理をすべて任され、明治四年になって息子のの将来を読んで、十六歳で渡米させたのである。

ところがこの少年、サンフランシスコで汽車が走るのを見て拳を握りしめると、日本でも機関車を製造しようと決心し、東部ボストンに移って学校に入学するや、たちまち英語をマスターして抜群の成績をおさめ高校に進んだ。

P143この少年は、岩倉使節団が欧米を訪問して不平等条約改正に失敗した時である。外務卿・岩倉具視以下、木戸孝允、大久保利通と息子の牧野伸顕、伊藤博文の使節団と共に、横浜生糸売込商の吉村屋幸兵衛、福地源一郎、團琢磨、金子堅太郎、北海道開拓使から山川捨松、津田梅子、横須賀造船所の肥田浜五郎、釜石高炉を成功させた大島高任ら、歴史に名を成す俊英が、続々と海を渡った。

その時、渡米わずか一年足らずの少年・平岡凞が、アメリカで木戸孝允らの通訳をつとめたのだから、驚異的な頭脳であった。そのあとが、さらに驚かされる。

どのように機関車ができるかを知るには、学校に通うより工場現場で汗を流すほうが先だと見抜くと、アメリカの機関車製造所に入って三年間、職工として働き、やがて製造技術の要所を呑みこみ、ニューハンプシャー機関車製造会社の社長に、ある鉄道計画について自分が設計した機関車の図面を見せて、そのメカニズムが賞賛されるまで理解に達したのである。

すでに本物のエンジニアであった。彼が帰国して明治二十三年に設立したのが、わが国最初の民間車輛製造会社・平岡工場であった。ここで機関車は製造しなかったが、列車と貨車のメーカーとしての優秀さは、国内筆頭の折紙つきであった。

こうして平岡の頭脳を取りこんだ井上勝の汽車製造会社は、平岡と組んだその明治三十四年に、イギリスから部品を調達しながら、早くも民間で国産第一号の蒸気機関車を完成した。

模倣技術ではあったが、次々と機関車を製造して発展し、生粋の江戸っ子だった平岡が東京の長者にランクされたのである。また平岡は、天野仙輔が東京向島に設立した同業の天野工場の経営にも参加し、こちらものちに名古屋の日本車輛製造と合併して成長した。

P144汽車製造会社と覇を競ったのが、もう一つの民間機関車メーカーとして台頭した川崎造船所であった。薩摩藩士・島津斉彬は、ペリーが浦賀に来航した翌年、一八五四年に藩内の力で日本最初の洋式軍艦・昇平丸を完成してから、外国に負けてはならじと蒸気船造りの研究を進めると、翌年には江戸・田町の薩摩藩邸で船舶用の蒸気機関を完成してしまい、このエンジンを西洋式の小船に取り付け、ここに、日本最初の蒸気船(雲行丸)を墨田川で試運転することに成功した。

その幕末薩摩の伝統を受け継いだ才覚者・川崎正蔵が、鹿児島から出て東京と兵庫に自分の造船所を設立し、加賀藩の製鉄所から生まれた官営の兵庫造船所を統合して、明治十九年に設立したのが兵庫の川崎造船所であった。

この時、莫大な国有財産の払下げを受けて成長すると、十年後に株式会社に改組して、時の総理大臣・松方正義の三男・松方幸次郎が初代社長に就任した。話はやはり北海道親分衆の閨閥に戻るが、汽車製造社長・井上勝は前章の一一〇頁・系図1「北海道の有力者閨閥」に描かれた通り、娘・辰子が持丸長者・松方正義の息子・松方義輔と結婚し、これが川崎造船所社長・松方幸次郎の弟だから、川崎造船所のおじさんが汽車製造会社、という関係にある。

したがって、両社はライバルと言っても、同じ政府の軍需産業奨励策のもとで働く同胞であった。

そして明治四十二年、汽車製造と川崎造船所の二社に対して、鉄道院初代総裁・後藤新平が本格的な蒸気機関車六七〇〇形の製造を発注したのである。川崎造船所は、流石に造船用としてボイラー技術の基礎を築き、車輛製造に進出していた会社だけあって、すでに専用工場を完成して機関車製造の生産に全社を挙げて取り組んでいた。

P145そこへ政府の発注を受けて兵庫の工場で蒸気機関車の製造に着手し、トレヴィシックの指導を受けた太田吉松を設計主任に迎え、二年後の明治四十四年三月に、民間で純国産第一号六七〇〇形の蒸気機関車を完成したのである。

汽車製造会社もこれを完成し、この年をもって、日本は外国への機関車の発注が終わりを告げるようになり、日本の鉄道と呼べるものが誕生したのである。

記念すべきこの年は、明治時代の最後の年であった。井上勝は前年の明治四十三年八月三日、訪問中のロンドンにて客死し、その完成を見ることができなかった(戦後の一九七二年、川崎造船所から発展した川崎重工業が汽車製造を吸収合併する)。

こうして大正に入ると、大正二年に川崎造船所が貨物用の大型蒸気機関車として九六〇〇形(通称キューロク)を完成し、日本を代表するこの機関車が、国産で初めて量産に入った。

翌年には、鉄道院が日本で初めて本格的量産用の旅客列車用の蒸気機関車八六二〇形(通称ハチロク)を完成し、貨車用と客車用が、ともに国産で大量生産に入った。鉄道院が生み出したハチロクの製造は民間会社に委託され、請け負ったのは、半数以上が汽車製造会社だった。

昭和に入ってからの同社は、ジョン万一族の長谷川正五が社長で、財閥巨頭二代目の大倉喜七郎と渋沢正雄が取締役に就任していた。残りは、昭和三年に川崎造船所の車輛部門から独立した川崎車輛のほか、日本車輛製造、日立製作所、三菱造船所も請け負った。

こうして昭和十一年には、貨物用の蒸気機関車D五一が誕生した。もっとも有名なデゴイチは誰によって設計されたか。

ハチロクの設計者は、和歌山の薬問屋出身で、鉄道院で設計者となった島安次郎だったが、彼は満鉄の理事に迎えられ、一時は満鉄総裁代理をつとめたあと、民間に転じて汽車製造の社長に就任し、満鉄の花形「あじあ号」の設計に従事してますますその名を高めた。

P146続くデゴイチの設計者が、その安次郎の息子・島秀雄であった。秀雄は父にもまして著名だが、戦後に新幹線生みの親となった世界的な鉄道技術者である。

さて、島安次郎のもう一人の息子・島邦雄も鉄道局技師だったが、三井鉱山会長・牧田環の娘を妻に迎えた。三井の大番頭・團琢磨と共に日本工業倶楽部を創立した多額納税者の牧田こそ、三井財閥の千両箱である三池炭坑の近代化を一手に引き受け、九州に大牟田コンビナートの基礎を築きあげ、三井鉱山の最盛期を生み出した功労者である。

この石炭をくべて走るのが、蒸気機関車であった。團琢磨が、北海道炭礦汽船の会長として北海道の石炭を支配し、牧田環九州の炭鉱を支配していた。

しかし、である。その牧田環が、團琢磨の娘婿であったのだ。ハチロクも「あじあ号」もデゴイチも、三井財閥と義兄弟の関係だったわけである。アメリカのマサチュセッツ工科大学(MIT)で鉱山学を修得した團琢磨…東京帝国大学採鉱冶金学科を卒業した牧田環…みな、格別すぐれた能力の持主であった(この一族の系図は、次章の二二四頁に示す)。

しかも満鉄初代総裁の後藤新平が鉄道院の初代総裁に就任し、ついでに拓殖局副総裁も兼務して満鉄をその監督下におさめていた。みな、満州に顔を向けていた。満州にはどのような宝物があったのか。

鉄路を開拓した建設会社と日本鉄道会社の創設

ボイラーに石炭をくべると、蒸気の力がピストンを動かす。その往復運動がクランクで回転運動に変わって車輪がまわり、ゴットンゴットンと汽車が走り出す。

P147しかし、線路がなければ、列車は走らない。線路を敷くには、鉄のレールがなければならないが、日本は明治~大正まですぐれた鉄鋼が生産できなかったため、欧米各国からレールを輸入していた。

官営八幡製鉄所で、重い列車の走行に耐える純国産の優秀な鉄鋼レールが生まれたのは、デゴイチが走り出す六年前、昭和五年(一九三○年)であった。ジョン・ピアポント・モルガンが鉄鋼王アンドリュー・カーネギーを買収して、全米最大の企業のUSスチールを設立した一九〇一年から、四半世紀以上も遅れていた。

レールを敷こうとすれば、起伏に富み、河川が豊かな日本では、目の前には土木工事と橋梁建設とトンネル工事が待ち構え、まずこれを乗り越えなければならなかった。

しかし江戸時代から暴れ川の治水工事と、鉱山開発に習熟した日本人は、外国人技師たちの指導を得て、すぐれた能力を発揮した。伊能忠敬以来の測量技術は、世界にひけをとらず、咸臨丸航海長をつとめた数学の天才・小野友五郎らによって引き継がれ、新橋~横浜間の最初の鉄道建設に大きな貢献を果たした。

琵琶湖の水を京都に導く疎水工事の設計者として名声を博した田辺朔朗も、東京工科大学教授となって北海道の鉄道建設に活躍した。その実際の工事をおこなったのは、建設業者である。

現在ある大手建設会社は、実にすぐれた鉄道工事を成し遂げてきたのである。

王子製紙の前身・抄紙会社の王子工場を渋沢栄一から請け負った鹿島岩蔵は、井上勝の勧めで明治十三年から鉄道請負業にすすんで鹿島組と名乗り、後年には同社が東海道本線の熱海~函南間の丹那トンネルの半分を請け負って、大正七年~昭和十二年の十七年間にわたる大工事を貫通した。

これが、のちに鹿島建設となった。

P148明治二十年には、大倉喜八郎、渋沢栄一、藤田伝三郎が日本土木会社を創立すると、翌年に山陽鉄道が設立されて三菱の岩崎久弥が群を抜く筆頭株主となり、中上川彦次郎社長のもと、日本土木会社が請け負って工事に着工した。

山陽鉄道社長は松本重太郎に引き継がれ、神戸~下関間が全通して、九州鉄道と渡船で連絡できるようになったのは、実に十三年後であった。一般に、松本重太郎と中上川彦次郎はまったく無縁と思われているが、中上川彦次郎は息子・小六郎が松方正義の孫娘と結婚し、松本重太郎の養子・枩蔵の妻が松方正義の娘という近親関係にある。これも前章・系図1の閨閥である。この日本土木会社が、のちに大成建設となった。

鉄道を運行するには、人間と荷物を乗せる停車場もなければならない。日本土木が設立された同じ年に、多忙な男・渋沢栄一は清水組でも相談役として経営を指導し、清水組は王子製紙の王子村新工場を建設したほか、関西鉄道の愛知停車場、九州鉄道の博多停車場、東海道の新橋停車場などの駅を建設した。

「駅」の文字が馬へんなのは、馬車鉄道が線路の上を走ったからではなく、昔の飛脚が、街道に設けられた駅で馬を乗り継いだことに起源がある。清水組はのちに清水建設となった。

大阪の商家に生まれた大林芳五郎は、昔の東京中央停車場を建設し、大林組を育てた。鉄道局を退職して九州門司に間組を創立した間猛馬は、九州鉄道の数々の鉄道建設工事を請け負ってきた(現在に至るも談合と逮捕に懲りず、先人の偉業を汚している建設会社が右のいずれであるかは、本書では略す)。

鉄道建設の条件のうち、技術と行政についてはあらまし右に述べたが、四番目の条件は、巨大な資金であった。

P149私鉄の国有化という大事件を追跡するため、その前に、なぜ私鉄が誕生したか、その経過と、資産の大きさを説明しておきたい。

明治十三年に北海道最初の鉄道が走った時までは、すべて官営鉄道だったので、資金は国民からしぼりとった血税であった。だがここで、明治十年に西郷隆盛を討つ西南戦争の軍事費のために、政府が巨額の国債をかかえて財政難に陥った。

ついに明治十四年に岩倉具視の音頭で、使われないまま銀行に眠っている華族資金を結集して、民間鉄道会社を設立しようと巧みに呼びかけた。多くの旧大名や公卿たちがこれに応え、数百人が連署して創立願を出し、華族銀行の資金が投入されていよいよという時に、開拓払下げ事件による明治十四年の政変が起こった。

しかし何とか事件鎮圧後、十一月十一日に日本鉄道会社が誕生し、十二月六日には、初代社長に吉井友実が選ばれた。彼は薩摩藩大目付だった男で、娘・沢子が西郷隆盛の従弟・大山巌に嫁いでいたから、やはり系図1因縁のイモ閥であった。

日露戦争の英雄・大山巌の妻として有名なのは、渡米して鹿鳴館の花となった山川捨松だが、彼女は沢子が早世したあと嫁いだ後妻である。

膨大な数の人間が会社創立に参加したが、彼らが喜んだことに、金権の総本山である明治政府が、日本鉄道会社に国有地を無償で払下げ、用地を免税とし、あらゆる面で保護政策をとり、鉄道局のエキスパートが鉄道建設から技術者の訓練まで、すべてを指導してくれた。

こうして半分官営の日本鉄道会社によって、上野から大宮~熊谷~高崎~前橋まで高崎線が伸び、大宮~宇都宮~郡山~仙台まで東北本線が伸び、山手線は貨物列車用として品川~新宿~池袋~赤羽を結んで工事が進められた。

最初の開業は、民間として東京馬車鉄道より一年遅れたが、盛岡~青森間が開通して、上野から青森まで全線開通したのが明治二十四年九月一日であった。

P150一日一往復、片道二十六時間半を要する列車だが、東北本線は日本鉄道会社による偉業である。これだけ国家から手厚い保護を受けたのだから、株主たち華族と長者の利益は相当なものであった。

五年後の明治二十九年、日本鉄道会社の総資産額は三二八六万円、企業ランクで製造業・公益事業を合わせた全社の日本一であった。製造業第一位の王者・鐘紡紡績の一〇倍、海運業界の巨鯨である日本郵船の二倍近い。当時の上位二十社を示すと次の通り。

一八九六年(明治二十九年)全社の総資産額順位・上位二十社(参照)

これを見ると、海運業界は日本郵船と大阪商船の二社に集約されている。一社だけ毛色の変わった内国通運という陸運会社が第十八位にあるが、これは明治五年に創業し、鉄道貨物の取扱いから、汽船・汽車を利用した海陸急行便など、数々の事業を展開して急成長した会社で、日本人が荷物を送るといえば、郵便局と共に、誰もが世話になった日本通運の前身である。

「飛脚は古い」と言った明治文明開化時代のたくましさを想起させるが、一九七六年に大和運輸創業者の二代目・小倉昌男がオイルショック後の業績低迷から抜け出すために創業した創始した「クロネコヤマト」の宅急便が活躍する現代には、日通ペリカン便や佐川急便、西濃カンガルー便ばかりか、バイク便も競って、いまや飛脚時代に戻ってきた感がある。

(後略)

(P152-)

二代目・鉄道の父と不思議な人脈
P152退官した井上勝のあと、二代目の「鉄道の父」は松本荘一郎であった。鉄道局長官として日本鉄道界トップの地位に就き、明治三十年からは引き続き鉄道作業局長官としてこれら日本全国の民間鉄道計画と建設を指導した人物だ。

兵庫県姫路の北、播磨神崎郡に生まれた松本も、工学者であった。

P153幕末に当代一の文明開化指導者、岡山県津山出身の箕作麟祥の門弟となった松本荘一郎は、門下生の秀才で聞こえたが、学費なく退学しなければならなかった時に、岐阜県美濃大垣藩士に抱えられ、維新後は俊英を集めた大学南校を卒業することができた。

明治三年から九年まで六年間アメリカに留学し、トロイ市工科大学を卒業して先進的な技術を修めたあと、アメリカ人技師クロフォードの右腕となって北海道最初の鉄道開業を成功に導いた。

やがて日本鉄道会社が誕生して鉄道建設に着工すると、翌明治十六年に松本は鉄道局に移されてこれを指導し、日本人独力での線路敷設をめざす時代に入っていった。

明治二十二年の東海道本線、明治二十四年の東北本線、明治三十四年の山陽鉄道、すべてを全線開通させた現場の功績は、松本に帰せられるであろう。トップに出世しても松本荘一郎の生活は質素をきわめたという。

赤貧洗うがごとき中から刻苦勉励立ち上がったその荘一郎の息子・烝治が、大正十年から満鉄副総裁をつとめた。機関車ハチロクの設計者・島安次郎が満鉄理事と総裁代理をつとめた時、共に満鉄を経営したのが、松本丞治であった。

(満鉄はこの一時期、総裁・副総裁を、社長・副社長と呼び替えるが、本書では総裁・副総裁に統一する)

ここにも満鉄に向かう鉄道関係者の影が見える。終戦直後の新憲法作成に登場する問題の人物が、この松本丞治(相互参照)である。

日本鉄道会社の創立者の一人で、のちに社長となって鉄道業界に君臨した小野義真は、三菱財閥総帥・岩崎弥之助、鉄道の父・井上勝と共に、ちょうど東北本線が全線開通した明治二十四年に岩手県滝沢村に農場を興し、広大な火山灰土の原野に開墾をおこなって、すぐれた農場を現代に残した。

小野義真・岩崎弥之助・井上勝の三人が頭文字をとったその農場が、盛岡郊外、岩手山の山麓に広がる酪農と観光で誉れ高い小岩井農場である(tw)。

P154その一方で、岩崎家の三菱社は、日本最大の地主王国・新潟県内で、明治三十四年に所有地が第四位の三一五万坪に達する巨大地主となり、のちに農牧業の東山農事を設立して小岩井牧場の親会社となった。

この面積は、大正十三年に農商務省が調査した『五十町歩以上の大地主』の資料で比較すると、土地獲得の条件が異質な北海道の地主を除けば、日本全国でも第十一位になる。

小岩井牧場のように大自然の中にすぐれた財産を築いたことは、このような長者でなければできない讃えられるべき業績である。また鉄道会社は、野球チームと共に、数々の大手デパートを生み出し、近鉄・東急・阪急・阪神・京阪・名鉄・小田急・京王・西武・東武などが町おこしの主導者として活躍してきた。

(随時更新)

(P156-)

(随時更新)

(P166)

P166アメリカでは、ウォール街を支配するロスチャイルド金融の雄ジェイコブ・シフや鉄道王エドワード・ハリマンたちが債権者であった。この事実をして、日露戦争で日本はアメリカとイギリスの代理人として戦っただけ、と分析する経済学者がいるが、それは全く正しい。

その後日本は、この借金に首根っこをおさえられ、満州の利権はアメリカとイギリスの承認事項となったからである。

満鉄株売り出しの熱狂
既に日本軍の弾薬は底をつき、疲れ果てていた軍隊が形ばかりロシアに勝利して、かろうじて戦争に幕を引いたとも知らない日本人は、この戦争遂行のために増税が断行され、しかも一〇万人近い犠牲者を出したのだから、講和会議でロシアから賠償金もとれないことに激昂して町にくり出した。

一九〇五年九月五日にアメリカのニューハンプシャー州ポーツマスで日露講和条約(日露ポーツマス条約)が調印された日、東京の日比谷で講和に反対する国民大会が開催され、政府系の新聞社や交番などが焼き討ちされ、以後は戒厳令が解除されるまで三ヵ月近く全国が暴動状態となった。

しかし日本は、南満洲では長春~大連間の七〇〇キロの鉄道と五つの支線、さらに沿線の炭坑の採掘権をロシアから引き継ぎ、南樺太を獲得した。

さらに伊藤博文が韓国に日本軍を送りこんで卑屈な恫喝外交を展開しながら、講和二ヵ月後の十一月十七日には韓国総監符の設置を認めさせる第二次日韓条約(相参相参相参)を締結し、朝鮮の植民地化に成功した。

この時点で日本は、台湾全土、南満洲の鉄道・炭坑、P167南樺太を領有し、朝鮮(韓国)も事実上の支配下に置いたわけである。満州の石炭と鉄鉱、樺太の石炭と森林は産業界にとって大きな資産の獲得であった。

ところが日本は、これら満州の利権を経営するために、十月十八日に遼東半島南部の関東州を治めるため総督府を旅順に設置したのだが、総督に任命されたのが、まったく行政についても時局についても、何ひとつ判断力を持ち合わせていない大島義昌(相互参照)なる陸軍大将であった。

この男はただ長州藩士という出自だけが取り柄で、長州軍閥から送りこまれた俗物だった。安倍晋三の高祖父(系図via参照参照)にあたる。

しかも大島は、関東総督府が関東都督府となったあとも引き続き初代関東都督に就任し、一九一二年まで七年半もトップの座に在任しながら、その無能凡庸が特質だったので歴史上ほとんど登場しない。したがって、政府としては、事実上は大島を無視して満州を経営したのである。

満州南部に租借権を獲得した翌年の一九〇六年(明治三十九年)初めに、西園寺公望内閣が発足した。この総理大臣は、公家の徳大寺家から西園寺家に入った養子であった。

全国第一位の長者、十五代目住友吉左衛門となったのが実弟の徳大寺隆麿であるから、住友本店から副支配人の山下芳太郎が公望首相の秘書官に就き、山下はのちに住友総本店支配人・理事となって、住友財閥を指揮した。

後年に西園寺公望の秘書となる原田熊雄も住友から出た人間で、「原田日記」を書き残して戦後有名になった彼は、住友本社四階に部屋をもって住友財閥から報酬をもらいながら西園寺の秘書をつとめた。

この西園寺・住友内閣は、ただちに児玉源太郎を委員長として、満州経営委員会を発足させ、

(P168-)

P168四月に首相自ら極秘で東京を離れて、これら委員を含む四人の有能な官僚を伴って満州に旅立ち、現地視察をおこなった。その後、日本の債券国であるイギリスとアメリカが、日本の満州独占支配に強く抗議し始めたため、政府と満鉄設立委員会は、「鉄道企業を隠れ蓑にして満州支配を進める」との大方針を打ち出した。

ところが、七月十三日に設立した満鉄設立委員会・委員長の児玉源太郎が、十日後の二十三日に急死したため、委員長は陸軍大臣・寺内正毅が後を継ぎ、八月一日には、誇示していた後藤新平が満鉄初代総裁の就任を受諾した。

同じ長州出身の児玉と寺内は、子供同士が結婚した近親者である。

児玉源太郎と後藤新平は、台湾総督府で総督と民政長官をつとめた植民地支配のコンビだったので、ポーツマス助役締結直前に、二人が奉天で密談して、「満州経営策梗概」なる方針を定めていた。

この内容が、満鉄の性格を決めるそもそもそもの基盤となった。このとき後藤は、世界最大の植民地経営会社であるイギリス東インド会社をモデルに満州を経営するよう進言し、そこには、「表向きは鉄道経営の仮面を装い、実質は百般の施設を実行する。

そのため鉄道経営と統治機関はまったく別ものであるように仮装しなければならない」など、満州を植民地として支配する露骨で陰湿な策謀が明記されていた。かくて満州鉄道庁が満州におけるイギリス東インド会社として性格づけられた。

(以下、随時更新)

第四章 黒いゴールド・石炭と石油 P192-252(参照)

貝島・麻生家が長州・三井閥と結びつく P202-206

P202はて、苦労にも色々ある。貝島財閥の創始者である貝島太助は、もとは貧農から身を起こした一介の石炭運搬夫であった。

ところがこの労働者が、石炭採掘に乗り出し、何年も失敗の苦労続きのとき、金となれば目がない三井の番頭・井上馨に知られたことから、貝島は財閥と政府の権威を生かせるようになり、さらに日清戦争で石炭価格が暴騰すると、巨利を博して一気に探鉱王まで階段をのぼりつめた。

この集団が、戦争が起これば莫大な利益が転がり込むことに味をしめたのは自然の成り行きである。

貝島太助に知恵をつけてもらったのが、飯塚市の大庄屋を務める麻生太吉であった。麻生も、自分で小作農地から石炭が出ることを知って、父と共に初めは手掘りで石炭採掘を始めたが、やがて本格的な採炭のために井上馨に接して採掘権に利便をはかってもらい、結局彼らが掘り出した石炭の販売先は三井物産となった。

貝島太助も麻生太吉も、三井銀行・三井物産を操る井上の後押しを得て、巨大な資産を築いたのだから、その見返りが、強欲な井上に戻ってこないはずがない。

P203どこへ行っても顔役を演じて懐に金をかき集め、全国第八位の持丸長者となった大蔵大臣・井上馨である。この大臣の姪が腹を痛めて産んだ子が鮎川義介と妹・鮎川フシ(フジ)であった。

福岡の炭鉱王・貝島家は、ここから関西財界の大物・藤田伝三郎一族の鮎川義介(相互参照)に近づくことになる。

山口県出身の鮎川は東大に機械を学んだ優秀な技術者だったが、芝浦製作所に入社してあえて職工からたたきあげ、渡米して工場労務者として働き、帰国後は井上馨の支援を受けて福岡県の戸畑に戸畑鋳物を創業していた。

長州~福岡は江戸時代から関門海峡を挟んで海の仲間である。そこで貝島太助の息子・太市が鮎川フシを妻に迎えて、政界の長州閥にも橋頭堡を築き、ますます強大な勢力を広げていった。

これに対して麻生家は、石炭堀りを始めた麻生太吉の孫・麻生太賀吉が吉田茂首相の娘・和子と結婚して、戦後に吉田内閣の側近として政財界に君臨し、飛ぶ鳥を落とす勢いとなったことは有名だが、それは原因ではなく、あとの結果である(tw)。

吉田茂の実父・竹内綱(一一〇頁・系図1相互参照)は、三菱総帥・岩崎弥之助の岳父・後藤象二郎から長崎県高島炭鉱の経営を任されて石炭界を動かす主役の一人だった。

そして、吉田茂のひと回り年上の姉・竹内菊子が、当時土木工学の技術で日本を主導した工学博士の白石直治と結婚し、白石が若松築港を創設して会長に就任したため、そこから石炭を出荷する麻生家と吉田茂が結ばれるのだ。

竹内・吉田・後藤・白石はいずれも土佐閥であり、この仲を取り持ったのが黒ダイヤ・石炭であった。

これで物語は終わらない。貝島炭鉱を創立し、その兄・貝島栄四郎は貝島鉱業社長として一九三三年の長者番付で福岡県第一位となり、その頃には日産コンツェルンの総帥となったP204鮎川義介が、この身内の石炭資産をとりこんで、三井、三菱に次ぐ第三位の新興財閥にのし上がっていった。

やがて盧溝橋事件から日中戦争が勃発すると、待ってましたとばかり近衛文麿内閣を動かして、国策会社。満州重工業開発総裁となった鮎川が満州に乗りこみ、鉄道を除いて、満州の事業をそっくり引き受ける日が近づいていた。

残る一人の筑豊石炭王・伊藤伝右衛門は、日本一の女優・原節子主演の映画『麗人』で悪役にされ(相互参照tw)、まったくの誤解を受けてきた伝説の人物である。貧しい魚問屋の行商人の息子に生まれ、極貧の中から炭鉱経営を志して着々と道を拓き、一代で産を成して巨財を築いた男である。

この出世物語は貝島・安川・麻生とさして変わらないが、この石炭王・伝右衛門だけは、“成金”と馬鹿にされてきた。なぜ悪役にされたかと言えば、妻が、映画で描かれたようなヒロインとあべこべに、まったくできの悪い女だったからである。偏見に満ちた映画である。

伝右衛門の妻は、原節子が扮した柳原燁子で、公家一族から出て、大正天皇の従姉だった。魚問屋と天皇家が結婚すると何が起こるか。この女が、伝右衛門よりふた回り年下で、歌人として柳原白蓮と名乗った。

伝右衛門が白蓮と結婚し、飯塚市幸袋に、若妻のために屋根を赤銅葺きにした豪奢な銅御殿を建てて住み、妻妾同居で生活したのだから、夫にいくら金があっても女として白蓮はたまらない。

“貧乏人の成り上がり者”と軽蔑して、白蓮が宮崎滔天の息子・宮崎龍介と駆け落ちし、しかも夫に三下り半を突きつけた旨を新聞に公開したのだから、伝右衛門は世間から一方的な指弾を浴びた。

宮崎滔天は孫文の辛亥革命を支援した偉大なる男で、格別この夫婦物語と直接の関係はない。本当に悪いのは、伝右衛門たち民衆に飢えを強いて華族としてのさばり、P205金が欲しくなると彼らに無心した皇族公家たちの横暴さであった。

この石炭が、哀しい歴史を秘めていないであろうか。島原鉄道の重役だった宮崎康平が作詞・作曲した「島原の子守唄」を、一度聞いてみればよい。
おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで おろろんばい
鬼の池ん久助どんの連れんこらるばい
この歌詞にある「久助どん」とは、人買いである。三井三池炭鉱で掘り出された石炭を海外に輸出するため、明治十一年に長崎県島原に口之津港が開かれ、人買いによって石炭と一緒に船底に押しこめられた若き娘たちがいた。

「からゆきさん」と呼ばれた彼女たちは、島原や天草から出て中国や東アジアに渡り、娼婦として働き、名も知られず、ほとんどは二十歳前後の若さで異国にその骨を埋められた。

ほんの子供が「お前じゃ働き手にならん。食い扶持が多すぎる」と言われ、娼婦になるほかなかった人生を、当時の政治家が知らなかったはずはない。いや、政治政府・大正政府・昭和政府は知ろうともしなかった。

柳原義光が、妹の白蓮を伝右衛門に嫁がせたのは、貴族院議員に出馬するため金が欲しかったからである。二人の父である元老院議長・柳原前光が妾腹に生ませた子が白蓮であることを批判せずに、P206魚問屋から身を起こした“成金”の伝右衛門の妻妾同居だけを批判するほどの不条理はない。

もしモラルを説きたいのなら、明治天皇が妻妾同居で床を共にした女は、一条美子(昭憲皇太后)、葉室光子、橋本夏子、千種任子、柳原愛子(白蓮の叔母で、大正天皇の生母)、園祥子、…と、一体何人の女がいたかと、等しく並べて語るがよい。

柳原前光は、明治維新の戊辰戦争で新政府軍の東海道先鋒副総監をつとめて江戸城に意気揚々と入城し、房総半島に出兵して千葉県佐倉藩を帰順させた時、佐倉に名医・佐藤泰然一族が開設した藩営病院の佐倉養生所を閉鎖に追いこみ、住民を苦しめた罪深い男である。

その後、まったく何のいわれもなく、朝鮮を武力で征服するべしと、強硬な征韓論を唱えた愚か者の代表者である。そもそも白蓮は、女性解放の先駆者でも何でもない。実に高慢な、家族意識にかたまった自我の強い人間であった。

世間の悪罵にひと言も言い返さなかった伝右衛門は、三井と組まず、大正鉱業を設立して社長となった。確かに成金には違いない。が、麻生太吉と共に嘉穂銀行(現・福岡銀行)育ての親となり、地元の若者を教育するため現在の時価で数億円という大金を寄付し、遠賀川の改修に力をつくし、私財を投げ打って女学校を創設し、大いに地域に貢献してきた。伝右衛門の孫は貝島家から嫁をとった。まこと、郷土の長者にふさわしい。

関連→『白蓮と傳右衛門そして龍介』(参照tw
  →『娘が語る白蓮』(参照tw

第五章 植民地を動かした銀行と大事件 P254-315(参照)

第六章 ファッショの嵐と新興財閥 P317-378(参照)

第七章 国家総動員体制と大政翼賛会 P380-448

あとがき P419-459



『持丸長者-幕末・維新篇-』(tw)

第三章 財閥続々と誕生す P216-326
明治政府の閨閥 P234-246(相互参照)

(P234-スライド)


関連
・『持丸長者--戦後復興編--』(参照