目次P 3/ 5
まえがきP 7 わたしは拙著『近代資本主義』を全面的に書き改めようとしていたとき、偶然ユダヤ問題にめぐりあった。そのとき、重要だったのはなかでも「資本主義の精神」の起源に通ずる思考の歩みを一層深めてゆくことであった。
ピューリタニズムと資本主義の精神との間の関連についてのマックス・ヴェーバーの研究に促され、わたしは当然のことながら、宗教の経済生活への影響を、これまで以上にくわしく探せねばならなくなった。
そのさいわたしは、まずはじめに、ユダヤ人問題にめぐりあった。なぜならヴェーバーの研究をくわしく調べたところわかったのだが、資本主義の精神の形成にとって実際に意味があったように思われるピューリタンの教義の構成要素のすべてが、ユダヤ教のもろもろの理念からの借り物であったからである。
しかしこの認識だけでは、近代資本主義の発生史のなかにおけるユダヤ人の役割のくわしい考察を行なう機会に恵まれなかったであろう。ところがわたしがその後研究をつづけ
P9 てゆくうちに--これまた全く偶然であったが--近代国民経済の形成にあたっても、ユダヤ人の関与は、これまで予想していたよりも、はるかに大きいという確信を抱いたのだ。
この洞察にわたしを導いたのは、十五世紀の末期から十七世紀の末期までの間にほぼ完成した、経済の重心の変動、すなわち、南ヨーロッパから、北ヨーロッパの諸国へと移らせたヨーロッパの経済生活における重心の変動を理解しようとした努力の結果であった(tw,tw)。
スペインの突然の凋落、オランダの突然の興隆、イタリアとドイツにおける多くの都市の衰退、それに他の諸都市、たとえば、リヴォルノ、リヨン(一時的)、アントウェルペン(一時的)、ハンブルク、フランクフルト・アム・マインの繁栄は、わたしにこれまでの理由づけ(東インド諸島への航路の発見、国家間の力関係の推移)だけではけっして十分に説明されていないと思われた。
そのとき突然、わたしには、様々な国家と都市の経済的運命と、その頃、自分たちの地理上の居住地の、ほとんど完全な変動をまたもや体験したユダヤ人の運命との間の、当初はまったく外面的な並行性が明らかになったきて。
そして、くわしく見てゆくうちに、わたしには疑う余地のないほどはっきりと、実際に移住した土地に決定的に、経済的繁栄をもたらしたのもユダヤ人であれば、退去した土地に、経済的な衰退をもたらしたのもユダヤ人であったとの認識が生まれた。
そうはいうものの、このことを事実に即して確かめるのが、まず本来の学問的な課題である。あの諸世紀の間、「経済的繁栄」とは何を意味したのか?いかなる特別の業績によって、
P10ユダヤ人はあの繁栄実現に貢献したのか?この特別な業績をつくる能力をユダヤ人に与えたのは何か?
これらの疑問に完全に答えることは、当然のことながら一般的な近代資本主義の歴史の枠内ではできなかった。しかしその問題はあまりにも魅力があったので、わたしは数年間、主著『近代資本主義』執筆の作業を中断し、ユダヤ人問題の解明に没頭した。その結果この本が生まれたわけである。(以下、略)11/ 13/ 15/ 17/ 19/ 21/ 23
第二章 十六世紀以来の経済中心地の移動
P 41 近代経済の発展の経過にとって、決定的に重要な事実は、国際経済関係の重心と、経済エネルギーの中心地が南欧諸国民(イタリア人、スペイン人、ポルトガル人と、いくつかの南ドイツ地域の住人)から北西ヨーロッパ国民へと移ったことである。
後者にはまず、ベルギー人とオランダ人、ついでフランス人、イギリス人、そして北ドイツ人が属する。本質的な出来事は、突然オランダが興隆したことであり、それがその後の経済大国、とくにフランスとイギリスの強力な発展のきっかけをつくったことだ。
十七世紀全体を通じ、北西ヨーロッパ諸国のすべての理論家および実業家にとってはただ一つの目標しかなかった。それは商工業、海運それに植民地獲得の分野でオランダに追いつき追い越すことであった。
この周知の事実に関して「歴史家」たちは、まったく奇妙な説を打ち出している。
たとえば、アメリカの発見、東インド諸島へ向かう航路の開発のせいで、イタリアと南ドイツの諸国家、それにスペインとポルトガルは経済的重要性を失ったというのだ。
またこれによってレヴァンテ、つまり対中近東貿易の重要性が減少し、この貿易の主要国であった南ドイツとイタリアの諸都市の地位がゆさぶられたともいうのだ。だがこれは全く筋の通っていない説明である。まず第一に、対中近東貿易は、十七および十八世紀を通じて、
P42他のほとんどすべての地方との貿易を凌いで発展した。南フランスの商業都市の繁栄も、はたまたハンブルクの商業の発展も、この期間を通じて、ときに対中近東貿易に依存していた。
それに十七世紀になって勢力を失ったさまざまなイタリアの都市は、貿易ルートが荒廃したにもかかわらず、十六世紀全体を通じて依然として強力に対中近東貿易に関与していた(たとえばヴェネチアのように)。
しかしなぜ十五世紀にいたるまでの指導的民族であったイタリア人、スペイン人、それにポルトガル人が、(航路を通じる)アメリカおよび東アジアとの新しい貿易関係の発展によって損害を受けねばならなかったのか、ということや、なぜこれらの国民が、少なくとも、フランス人、イギリス人、オランダ人、それにハンブルク市民とくらべ地理的位置のために不利益を受けたのかという理由は、まったわからない。
ジェノヴァからアメリカあるいは東インドに向かう航路の長さは、アムステルダム、ロンドン、それにハンブルクからこれらの土地に向かう航路とほとんど同じではないか?
ポルトガルとスペインの港を出たイタリア人とポルトガル人によって発見され、まず最初にスペイン人とポルトガル人によって獲得されたこれら新天地はまるで、最短距離の航路が通じていないみたいではないか?
これと同様に頼りなく思われるのが、経済の中心地の北西ヨーロッパ諸国への移動を納得させるための他の論拠、つまり強力な国家権力のことである。国家権力によって、これら諸国民は、分裂していたドイツ人およびイタリア人よりも優位に立つことができたというのだ。
P43 ふたたび驚きのあまり質問したい。あおれではあのアドリア海の強力な女王[ヴェネチア]は--十六世紀はともあれ--十七世紀において、オランダよりも貧弱な国家権力しかもっていなかったのか?
またフェリペ二世の国・スペインが、権力と名声において、その頃すべての国にまさっていなかったのか?驚きつつ質問をつづく。
なぜ政治的には分裂していたドイツのなかの個々の都市、たとえばフランクフルト・アム・マインやハンブルクが、十七および十八世紀を通じて、英仏でもわずかかな都市にしか比肩を許さないほどの繁栄に達したのか?
このように疑問を抱える様々な現象の全体の原因を探るには、ここは適当な場所ではない。最終的結果が出るまでには一連の状況が同時に作用したのであろう。そこでむしろわれわれがこの問題をあつかうにさいして、もっとも注意を払うべきように思われながらも、不思議なことに、わたしの知りうるかぎりでは、そもそも考慮に入れられることもなかった奇妙な現象を解明する可能性を指摘すべきであろう。
わたしはもちろん経済の重心の南欧から北欧への移動(簡略化したため、必ずしも正確な表現ではない)を、ユダヤ人の移住と関連させる可能性を考えているのだ。
この考えを抱くや否や、これまでは、どうもはっきりしないように思われたあの時代のさまざまな動きについて、一挙にすばらしい解明の兆しが出てきた。そこで、われわれは少なくとも、これまで、ユダヤ民族の地理的な移動と、様々な民族と都市の経済的運命との間の外面的並行性が気づかれなかったことに驚いている。
まるで太陽のように、ユダヤ人はヨーロッパ全土の上に照り輝いた。ユダヤ人が来るところには新生命が芽生え、ユダヤ人が去った所では、これまで栄えたものすべてが衰えていった。ユダヤ人が十五世紀末以来体験した有名な移動、変動の状態を少しでも思い出すならば、この観察の正しさがすぐに確かめられるであろう。
まず他の何ものにも先がけて思いをはせなくてはならない壮大な世界史的出来事は、ユダヤ人のスペインおよびポルトガルからの追放であろう(一四九二年、それに一四九七年)。
コロンブスが、アメリカを発見するために、パロスを出帆した日(一四九二年八月三日)に、三十万人のユダヤ人が、スペインからナヴァラ、フランスへ、そしてポルトガルへ、また東方へと移住させられたことをけっして忘れてはならない。
しかもヴァスコ・ダ・ガマが、インド航路を発見した年にイベリア半島の他の部分、つまりポルトガルがユダヤ人を追放したのだ。
ユダヤ人が十五世紀末から経験した場所の移動についての、数字の裏づけのある把握はできない。この方向で行われた試みは、その大部分が推測値の割りだしにとどまっている。わたしの知っている最良の研究は、J・S・ロエブ「中世におけるカスティリアおよびスペイン在住のユダヤ人の人口」(「ユダヤ人研究評論」第十四号、一八八七年、一六一頁以下)である。その方式からいって、同じように考慮に値する出来事が続出したのは、奇妙な偶然である。それは新大陸の開発と、同じころ行なわれたユダヤ民族の大がかりな再編制だ。
ロエブの数字の多くはほとんど見積もりにすぎないが(ほとんどが現在各地に居住するユダヤ人の人口である)、ここで彼の熱心な研究の成果をあえて伝えたいと思う。彼によれば一四九二年に、スペインとポルトガルには、約二十三万五千人のユダヤ人がいた。
P45 これは二百年前とほとんど変わらない。そのうちアンダルシア、グラナダを含め、カスティリアには十六万人、ナヴァラには三万人となっている。これらスペイン-ポルトガルのユダヤ人のその後の行方は次のとおりである。
受洗者五万人、航海中死亡した者二万人、移住者十六万五千人、そして移住者の受けりれ先は、(受け入れ先リスト)
これを補完するため、私は多くの物事について、きわめて知識豊かなヴェネチア使節ウィツェンツォ・クエリーニの一五〇六年の報告のなかに見られる数字を挙げておく。
「スペインのカスティリアおよびその他の州では、州の人口の三分の一がマラノス(改宗ユダヤ人)である。彼らは市民と商人階級のおよそ三分の一にあたる。なぜなら庶民階級は、純然たるキリスト教徒であり、また上流階級の大部分も純粋なキリスト教徒だからである」(アルべりによる)。
したがって公式な追放のあとも市民階級の三分の一がユダヤ人であった!そうしたことからしても(他の理由からも大いにそのように思えるのだが)、スペイン(およびポルトガル)からの彼らの退去はとくに十六世紀を通じて行われたと考えるべきだろう。
しかしユダヤ人のイベリア半島からの公式な追放は、同地における彼らの歴史をただちに終わらせたわけではない。まずはじめは多くのユダヤ人が仮装したキリスト教徒(マラノス)として残留した。
彼らはフェリペ三世以来とりわけきびしく実施された異端審問(1)によって、それにつづく世紀の間に、土地から追いだされた。スペインとポルトガルのユダヤ人の大多数は、十六世紀とくにこの世紀末期に、他の国々に移住した。
そしてこの時代にはまたスペイン--ポルトガルの国民経済の成行きがおかしくなった。
十五世紀にユダヤ人は、もっとも重要なドイツの商業都市から追放された。ケルン(一四二四-二五年)、アウグスブルク(一四三九-四〇年)、ストラスブール(一四八三年)、エアフルト(一四五八年)、ニュルンベルク(一四九八-九九年)、ウルム(一四九九年)、レーゲンスブルク(一五一九年)。
P47 十六世紀にはユダヤ人は多くのイタリアの都市で同じ運命にあった(tw)。彼らは一四九二年、シチリアから、一五四〇年から四一年にかけてナポリから、一五五〇年にジェノヴァからから、同じ年にヴェネチアからそれぞれ追放された。しかもイタリアでも一時的な経済的後退とユダヤ人の退去が一致した。
その半面、とりわけスペイン系ユダヤ人が移住したもろもろの都市や国で経済的興隆--それもまったく突然の興隆--がみられたが、それはユダヤ人移民の到着以後のことと考えられる。
たとえば十六世紀に強力に繫栄したわずかなイタリア都市の一つリヴォルノは、イタリアへ逃げこんだ大多数のユダヤ人の目的地であった(2)。
多くのユダヤ人を十六および十七世紀に受け入れたのは、ドイツではとくにフランクフルト・アム・マインとハンブルクであった。
フランクフルト・アム・マインに向かったのは、とくに十五および十六世紀、他の南ドイツ都市から追われたユダヤ人であった。しかしオランダからも十七および十八世紀に同市に新移住者がやってきたに違いない。ところで奇妙なことに、公平な観察者なら十八世紀のドイツを旅行したとき、すべたかつての(ドイツ帝国直属の)商業都市、ウルム、ニュルンベルク、アウクスブルク、マインツそれにケルンが衰え、その半面ただ二つの帝国直属都市フランクフルト・アム・マインとハンブルクのみが、かつての栄光を保持し、日に日に興隆をきわめていると断言できた(3)。
十七および十八世紀におけるフランクフルトとアムステルダムの間の密接な貿易関係は、このことに基づいていたものと思われる。
フリードリッヒ・ボーテが確かめたところによると(『ドイツ帝国直属の都市フランクフルトの経済ならびに社会史への寄与』一九〇六年、七〇頁以下)ユダヤ人の人口は十六世紀中二二十倍になった。
P48ユダヤ人は一六一二年には、約二千八百人であったが、一七〇九年には(正式の国勢調査によれば)三千十九人と算定された(同市の総人口は約一万八千人)。
フランクフルトのユダヤ人の由来については、とくにA・ディーツの労作「フランクフルトのユダヤ人の系譜--一五四九年から一八四九年までのフランクフルトのユダヤ人の家族についての歴史的報告」(一九〇七年)がきめこまかく教えてくれる。
ディーツはほとんどの場合、フランクフルトへやってくる以前の各家族の出身地を確定できた。ただ残念なことに、それだけではさらにその時期をさかのぼる出身地、たとえば、東ドイツ、オランダ、スペインなどをおしはかることができない。
それ以前の時代(一五○○年まで)は、K・ビュッヒャー『フランクフルトの住民』(一八八六年)の五二六-六〇一頁を参照していただきたい。
ハンブルクには最初のユダヤ人難民--当初はカトリック教徒の仮面をつけた--は一五七七年ないし一五八三年に到着した。彼らが到着すると、彼らにフランドル、イタリア、オランダ、および直接スペインとポルトガルからやってきたユダヤ人が加わった。
一七世紀を通じて、その後新たに、東ドイツのユダヤ人が移住してきた。ガレアッツォ・グアルド・プリオラト伯爵の記録によれば、一六六三年に、百二十のポルトガル系ユダヤ人の家族とならんで、四十から五十のドイツ系ユダヤ人の家族が会った(「ハンブルク史のための雑誌」第三号、一四〇頁以下)。
ハンブルクにおけるユダヤ人の移住と初期の歴史についてはA・ファイルヒェンフェルト「ハンブルクにおけるドイツ系ユダヤ人最古の歴史」
P49 (「ユダヤ人の歴史と学問のための月刊誌」四十三号、一ハ八九年)が教えてくれる。また単行本としては、M・グルーンヴァルト『ドイツにおけるポルトガル人の墓』(一九〇二年)、および同氏の『ハンブルクにおけるドイツ系ユダヤ人』(一九〇四年)がある。
十七世紀末からハンブルクでユダヤ人の数が急増した。十八世紀の中葉、早くも「驚くべきユダヤ人人口増」が確かめられたが(当然過大評価だった)、その数は二万から三万人といわれた。
クリスティアン・ルートヴィヒ・フォン・グリースハイム『ハンブルク市』(一七六〇年、四七頁以下)。
フランスでも、十七世紀および十八世紀を通じとくに繫栄したマルセイユ、ボルドー、ルアンなどの都市は、やはり奇妙なことに、ユダヤ人難民を収容した貯水池であった(4)。
オランダの国民経済の発展が、十六世紀末期、突然の衝撃とともに(資本主義的意味において)向上したことはよく知られている。最初のポルトガル系のマラノスは一五九三年にアムステルダムに移住し、まもなく後続の移住者を迎えた。
P50一五九九年、早くも最初のシナゴーグ[ユダヤ教の会堂]がアムステルダムにつくられた。十七世紀の中頃には、すでに多くのオランダの都市に、ユダヤ人集団がいた。十八世紀のはじめ、アムステルダム在住のユダヤ人「世帯」だけで二千四百と算定されている(5)。
彼らの精神的影響は、すでに十七世紀の中頃でも卓越していた。国家法の学者や国家哲学者たちは、古代ヘブライ人の国家こそオランダの憲法もそれに準拠して制定すべきほどの模範的国家であったとのべた(6)。
ユダヤ人自身もその頃のアムステルダムを彼らの新しい巨大なエルサレムであるといった(7)。
オランダに向かったスペイン系のユダヤ人は、一部は直接、また一部はスペイン領として残ったネーデルランドの部分、とくにアントウェルペンを経由して移住した。
彼らは十五世紀の最後の十年間に、スペインとポルトガルから追放されたあと、オランダに赴いたわけである。一五三二年および一五四九年の公示は、たしかににせキリスト教徒のアントウェルペン居住を禁じていたことを示しているが、これはなんの成果もあがらなかった。
一五五〇年、禁令が更新されたものの、該当者はただ六年未満の在住者に限られた。だがこの禁令も守られなかった。「ユダヤ人は連日のように、不法にも増えていく」ネーデルランドの独立戦争にユダヤ人は経済的に関与し、この戦争の間に、彼らはしだいに北部諸州(現在のオランダ)へ移住することになった(8)。
ところが全く奇妙なことに、国際貿易と国際金融の中心地としてのアントウェルペンの短期間の繁栄は、やはりマラノスの移住と退去との間の時期にみられただけであった(9)。
P51 最後にイギリスにおいても、いわゆる経済的繁栄、すなわち資本主義体制の伸長(10)は、ユダヤ系住民、とくにスペイン、ポルトガル出身者の流入と時を同じくしているように思われる(11)。
以前には、イギリスでは、エドワード一世治下のユダヤ人の追放(一二九〇年)と(多少なりとも公式の)クロムウェル治下の彼らの再入国許可(一六五四-五六年)との間には、ユダヤ人は一人もいなかったと考えられていた。
だが今日ではこの見解をとるイギリスのユダヤ人史研究者はもはやいない。ユダヤ人はどの世紀にもイギリスに在住した。しかし十六世紀に彼らの数は急増した。エリザベス一世の時代にはすでに彼らの数はたいしたものであった。
エリザベス女王自身がヘブライ語研究にはげみ、ユダヤ人と交際があった。彼女の侍医ロドリゴ・ロペスはユダヤ人で、シェイクスピアは彼をモデルにしてシャイロック[『ヴェニスの商人』に出てくる貪欲なユダヤ人金貸し]を創造した(11)。
マナセー・ベン・イスラエルのとりなしによって、一六五〇年代の中頃、正式にユダヤ人のイギリスへの再移住が認められ、それ以来、新移住(十八世紀以来、ドイツからも)によってその数が急増したことが知られている。
イギリス人をあつかった『アングリア・ユダイカ』の著者によれば、一七三八年頃、ロンドンだけでも、すでに六千人のユダヤ人が居住していたという(12)。
当然のことながら、ユダヤ人の移住と諸民族の経済的運命が、時間的に並行する動きを示したことを認めても、
P52ユダヤ人の流出がその国の経済的衰退を、流入がその国の経済的興隆をもたらすということをけっして証明しない。これを受け入れることは悪質なこじつけとされる「これの後に、それ故に、これがために」という論法を援用することになる。
またその因果関係を証明するためには、後世の歴史家の見解も十分な立証力をもたない。たしかに、モンテスキューなどの考えは、重要だが、私はこうした事情からしてもこの種の証言の引用を断念する。
そうはいうものの、わたしは敬虔の念から注目すべき予言者的方式で、これまでただ一人、あまりはっきりしないユダヤ人のドイツの商業諸都市からの追放と、これらの都市の衰退との間の関係を認識した全くの無名人の言葉を忘却から守りたいと願っている。
ヨゼフ・F・リヒターは一八四〇年代に次のように記している。
そもそもニュルンベルクの商業がちょうどユダヤ人が追放された時に転機を迎えたことが証明されている。なぜなら、その時期から、少なくとも必要な資金の半分が同市の商業にとって不足するようになったからである。しかしなんとしても、同時代人の意見こそつねに注目に値するように思われる。そのなかからわたしはとくに雄弁な意見を読者に伝えようと思うが、それというのも、これらの
普通はポルトガル人による東インドに向かう航路の発見のためだとされている同市のこの頃のかなりの衰退を、実際にもっと正しくいえば、この頃からユダヤ人の勇敢な投機精神がなくなっていったせいにしなければなるまい(13)。
P53 意見は他の方法をとれば苦心して研究した末にやっとわかってくるような、その時代の様々な動きをしばしばたった一言で一挙に解明してくれるからである。
一五五〇年、ヴェネチアの市参事会がマラノスを追放し、彼らとの取引を厳禁すると決めたとき、同市のキリスト教徒の商人たちは「それではわれわれが破滅する。われわれ自身も放浪の旅に出なくてはならない。なぜならわれわれはユダヤ人との取引によってのみ生きてゆけるからだ」と宣言した。彼らはさらにユダヤ人は次の四つの事業を手中におさめているとのべた。
- スペインの羊毛取引
- スペインの絹、深紅色の色素、砂糖、胡椒、西インドの植民地商品と真珠の取引
- 輸出貿易の大部分、ユダヤ人はヴェネチア人に商品を委託輸出している。「なぜなら、彼らは自分たちも儲けながら、われわれの日用品を売ったからだ」(!)
- 手形取引(14)
彼は商品と貨幣の取引をさかんにし、それとともに政府にとって能率のよい友人を獲得するためには富裕なユダヤ人の商社を必要とすると信じた(15)。
やはり多くの共感をユダヤ人に抱いたのは十七世紀のフランスの大政治家コルベールである。
P54この二人の近代国家最大の組織者が、国の(資本主義的)国民経済を促すユダヤ人の特性を認識していたことはとくに意義深いように思われる。ある法令のなかでコルベールは、ラングドック(南仏の地名)の監督者に、どのように大きな利益をマルセイユ市が、ユダヤ人商人の巧妙さから引きだしているかを指摘した(16)。
ユダヤ人が活躍しているフランスの大商業都市の住民は、この利益をかなり以前から、身をもって感じており、そのために市の城内にユダヤ人集団を保持することを重くみていた。
しばしば、とくにボルドーの住民層から、ユダヤ人についての好意的見解が聞かれている。一六七五年、ボルドーで傭兵隊が暴威を振るったとき、多くの富裕なユダヤ人は退去の準備をした。このことは市参事会を驚愕させ、官吏は、不安げに次のように報告した。
街区全体を占有し、大がかりな商業を興したポルトガル人[ユダヤ人]は旅券を要求した。最大の商売を創設したポルトガル人と外国人はここを退去しようと求めている。少し以前に退去したガスパール・ゴンザレスとアルバレスは、彼らのなかでも最有力者であった。われわれは商業が停止するのに気づいた(17)。数年後、ラングドックに対してユダヤ人のもつ意味についての判断を副監督は次のような言葉にまとめた。
彼らなくしてはボルドーと近隣地方の商業はかならず没落するだろう(18)スペイン領ネーデルランドの最大の商業都市アントウェルペンに、十六世紀にとくにスペイン-ポルトガルからの難民が流入してきたことは前述したとおりだ。
P55 この世紀の中頃、神聖ローマ帝国皇帝カール五世が、彼ら難民に当初与えた旅券を(一五四九年七月十七日付命令により)撤回したとき、アントウェルペン市長、市の陪審員、執政官はアラスの司教に、この命令を実行することの困難を指摘した請願書を差しだした。
まずポルトガルからの難民がすぐれた企業家であり、おのれの故郷からかなりの額の財産をもたらし、大がかりな取引を行なっていたとする請願書は、さらに次のようにのべている。
われわれはアントウェルペンがきわめてゆっくりと発展してきたこと、商業をおのれの手中におさめるのに長期間を要したことを考慮しなければならない。この都市の荒廃は、ひきつづき国土の荒廃をもたらすであろう。これらすべてのことをポルトガル難民の追放にさいし考慮しなくてはなるまいニコラス・ヴァン・デ・メーレンは、さらに一歩を進めた。ネーデルランドの摂政であるハンガリアのマリー王女が、ルペルモンデに滞在したとき、市長は、新キリスト教徒たち[ポルトガルのユダヤ人難民]の問題を説明すべく同地に赴いた。
市長はアントウェルペン市のもっとも貴重な利益に逆行するため、皇帝の命令を公表できなかった同市参事会の態度を弁解した(19)。だがこの努力はなんらの成果もあげられなかった。アントウェルペンのユダヤ人と新キリスト教徒は、前述したようにアムステルダムに追放された。アントウェルペンはユダヤ人の退去によってすでにかつての栄光の多くを失った。
P56そして十七世紀になってはじめて、市民は繁栄をもたらすものとしてのユダヤ人集団が、どんな意味をもっていたかを痛感するようになった。ユダヤ人のアントウェルペンへの移住を許可すべきかどうかの問題を調査するため、一六五三年に設置された委員会はこれについて次のようにのべている。
大衆の利益に関し恐れられ、しかも危ぶまれている他の不都合とは彼らが全商業を独占的に入手し、多くの詐欺と欺瞞に走り、しかも暴利をむさぼることによって善良な市民とカトリック教徒の財貨を侵害するということである。しかし十七世紀のオランダ人は、彼らが、ユダヤ人のおかげで得たものが何かをはっきり洞察していた。マナセー・ベン・イスラエルが有名なユダヤ人使節の一員としてイギリスに赴いたとき、オランダ政府は、この使節の目的は、オランダ在住のユダヤ人をイギリスに移住させることにあるのではないかと疑った。
しかしわれわれには逆に彼らの商売が現状よりも大がかりになれば、それによって国土全体に利益がゆきわたり、国家が必要とする金、銀の量が一層豊かになるように思われる(20)
そこでオランダ政府は、駐英公使のネウポルトにマナセーの真意を訊ねさせた。ネウポルトは、一六五五年、なんらの危惧の必要もないと次のように政府に報告した。
マナセー・ベン・イスラエルは、わたしのもとにやってきて、彼としてはオランダ在住のユダヤ人ではなく、スペインおよびポルトガルで異端審問にかけられているユダヤ人を問題にしているのだと請け合った(21)P57 ハンブルクも同じような状態であった。十七世紀には、ユダヤ人の重要性があまりにも増してきたので、ハンブルクにとって彼らは不可欠だと考えられるようになった。
市参事会は、シナゴーグ設立許可に踏みきったが、それは許可しないとユダヤ人は流出してしまい、ハンブルクが昔の村落になりさがるおそれがあると考えられたからであった(22)。
これとは逆に一六九七年、ハンブルクの商人集団は市参事会に、ハンブルク商業の重大な損失を免れるために、(ユダヤ人を追放せよとの)彼らの切なる要望に前向きに取り組むよう願った(23)。
一七三三年、市参事会記録文書のなかの覚え書は次のようにのべている。
為替取引、装身具、それにある種の織物の生産においては、ユダヤ人は「まさに巨匠の域に達し」「われわれをはるかに凌駕する」以前には、ユダヤ人のことで思い悩む者はなかった。ところが「彼らは急増した。彼らが、強力に取り組んでいないような大がかりな商売、工場、それに日常の衣食の部門は、ほとんどない。彼らはわれわれにとってすでに必要悪となってしまった(24)」
彼らがすぐれた役割を演じている業務部門にはさらに海上保険業を加えることができよう(25)。
だが同時代者の発言と意見も、実状の正しさを完全にわれわれに確信させることはできない。もしできることなら、われれれは自分自身で判断したいと思っている。そして当然のことながら、このことは、われわれが、実際の問題をおのれ自身の探求によって解明してはじめて、できることだ。
この場合、われわれが、近代国民経済の建設にユダヤ人が実際に、ほんとうに関与していたのか--もっと正確な表現に固執するならば--近代の資本主義的組織の発展に関与していたのかのかを資料に基づいて認識することが先決だ。
これは十五世紀末以来、それもとくに(前述したように)ユダヤ人の歴史の行方とヨーロッパの経済史の行方が、現在の発展の方向に鋭く転換していったあの時点以来のことだ。
なぜならこうした確定によってはじめて、そもそもどれくらいの範囲で経済分野の変化がユダヤ人の影響に帰せられるのかとの疑問に対し、最終的判断を下すことができるからだ。
前もって指摘しておこうと思うが、わたしは近代資本主義の建設および拡大にとってのユダヤ人の意味を一つは完全な外面的影響、そしてもう一つは、内面的、精神的影響に分けて見てゆこうと思う。
外面的には、彼らは本質的に、国際的経済関係が今日の特質を得るようになったことに、さらには、近代国家--資本主義の外被--が独特な方式で発生したことに寄与した。その後ユダヤ人は、資本主義的組織のために一連の近代的実業活動を支配する制度をつくりあげ、また他者のつくりあげたものにも、大がかりに関与することによって一つの特別な形式を与えた。
資本主義的制度に対して内面的‐精神的にユダヤ人のもつ意味は、彼らが経済生活を近代的精神によって浸透させたために、さらに、彼らが資本主義の深奥の理念を、はじめて完全に開花させたがために、きわめて大きいものがある。
これからは、そうし個々の点を順番に検討してゆくことが望ましいだろう。それというのも、読者諸氏に少なくとも、問題が正しく設定されているかを意識してもらうためである。
P59 ことさら刺激的に疑問を出したり、時々断行的、試験的に回答を与えたりすることは、しばしば強調してきたように、けっして本研究の意図するところではない。そもそも、ここで主張されたもろもろの事柄がどの程度現実に即しているかどうかを組織的な資料の収集を通じて最終的に確定することは、将来の研究に待たねばなるまい。 (以下、脚注)P 59/ 61/ 63
第三章 国際商品取引の活性化
P 65/ 67/ 69/ 71/ 73/ 75
第五章 近代植民地経済の創設
P 77 とくに植民地拡大という手段によって、近代資本主義が繁栄するようになったことが、今やはっきり認識されはじめた。しかも植民地の拡大にあたっては、ユダヤ人が決定的とはいわないまでも、卓越した役割を演じたことを、これから読者の納得のゆくように論述するつもりだ。
ユダヤ人がすべての植民地創設にあたって強力に関与したことは、当然である(それというのも、新世界は、たしかに旧世界とあまり違わない世界であっても、およそ不機嫌な古いヨーロッパよりも、はるかに多くの生活の幸福を、彼らに約束してくれたからであり、とくに、ヨーロッパでは、最後の宝の山とされた場所も、実は荒れ果てた土地にすぎないことが判明したからだ。このことは、地球上の東方、西方、そして南方の地方についてもあてはまる)
東インド諸島にも早くも中世以来、明らかに多くのユダヤ人が住居していた(1)。そして一四九八年以後、ヨーロッパの諸国民が、依然として古い文化国家維持のためにせめぎあっていた間に、ユダヤ人は東インド諸島で、ヨーロッパ人支配の歓迎すべき代表者として、とくに貿易の先駆者として奉仕することができた。
ポルトガル人とオランダ人の船に乗り--正確な数の測定はまだ行われていないが--大勢のユダヤ人集団が東インド諸島の各地に渡っていったと思われる。
P78ともかく、ユダヤ人が東洋のすべてのオランダの植民地獲得に、強力に加わっていたことはわかっている。さらにオランダ・東インド会社の株式資本のかなりの部分がユダヤ人の手中におさめられていたことも判明している(2)。
さらにわれわれは「たとえジャワにおけるオランダ権力の創設者とはいえないまでも、かならずやその権力の確立にもっとも貢献したはず(3)」のオランダ・東インド会社の総督が、ユダヤ人名であるクーンという名であったことを知っている。
さらにもしわれわれがこの役職についた人々の経歴を十分に吟味するならば、クーンがオランダ領東インドにおける唯一のユダヤ人総督ではないことを容易に確信できるであろう(4)。
ユダヤ人は東インド会社の支配人(5)であったばかりか、いたるところの植民地の業務にたずさわっていたことがわかる(6)。
だがその後、イギリス人が支配者となったとき、インドの植民地経済にユダヤ人がどの程度加わっていたかはさだかでない。これに対し、南アフリカおよびオーストラリアにおけるイギリス植民地の創設へのユダヤ人の関与は、比較的はっきりとわかっているし、またこうした土地(とくにケープ植民地)では、ほとんどすべての経済的発展がユダヤ人に帰せられることも判明している。
一八二〇年代と一八三〇年代にベンヤミン・ノルデンとジメオン・マルクスは南アフリカに赴いた。ケープ植民地におけるほとんどすべての内陸地域の産業の育成は、彼らのおかげである、といわれている。
ユリウス・アドルフとジェイムズ・モーゲンソーは羊毛--皮革取引とモヘア[アンゴラ山羊の毛の織物]--工業を設立した。
P79 アーロンとダニエル・ドゥ・パスは捕鯨業を独占した。ヨエル・マスターズはダチョウの飼育をはじめ、ホープタウンのリリエンフェルトは最初のダイヤモンドを購入した(7)。
ユダヤ人は他の南アフリカの諸国、とくに今日、二万五千から三万人の南アフリカ系ユダヤ人が住居しているといわれる(8)トランスヴァールで、似たような指導的役割を演じた。
オーストラリアでは、最初の卸売商人の一人として、モンティフォーレが登場する。「イギリスの植民地海運業の大きな部分が、しばらくの間、ユダヤ人の手中におさめられていた(9)」という見解もあながち誇張ではなさそうだ。
そうはいっても、植民地におけるユダヤ人の活動の主な舞台は、とくに初期資本主義の諸世紀にはことごとくヨーロッパ人によって形成された西半球の土地であった。アメリカではどの部分をとってもユダヤ人の土地がある。
これが資料研究を行った結果、否応なく到達する結論である。そして、アメリカが発見された当時、ヨーロッパの経済生活とすべてのヨーロッパの文化に与えた影響を通じ、当然のことながらアメリカ社会建設のためのユダヤ人の強力な関与は、西欧の歴史の経過にとって全く特別の意味をもつようになった。
わたしはそのため、細かい記述によって読者を疲れさせるという危険を冒すことになるかもしれないが、しばらくの間この対象に取り組んでいこうと思う。だが問題が大きいところから、その取り組み方がいくらかの小事に拘泥することになってもきっと正当化されるであろう(10)。
全く奇妙な方式で、ユダヤ人は発見と同時に、もっとも密接にアメリカのなかに組み込まれていった。
P80まるで新世界は彼らだけのために、彼らの援助によってのみ、発見されたかのようであった。またコロンブスらの発見者は、あたかもユダヤ人の業務執行社員[マネージャー]のようであった。
最近の文書による研究が明らかにしたように(11)、今でもユダヤ人自身が歴史的現実をこのように見ている。それによれば、まず(この件についてはここでは、ざっとのべておくだけにする)、ユダヤの学問が航海の技術をきわめて高い段階にまで発展させたために、大洋を横断する船の旅が、そもそも企てられるようになった。
サマランカ大学の数学および天文学の教授、アブラハム・ツァークトは、一四七三年、天文学の図表と一覧表(万年暦)を刊行した。ポルトガルのジョアン二世の侍医で天文学者のホセ・ヴェクオと、数学者のモーゼスは一四八四年、ツァークトの図表に基づき、二人のキリスト教徒の仲間と組んで航海用の観測儀(太陽の位置から船と赤道との距離を算定する器具)を発明した。
ホセはおのれの師匠ツァークトの万年暦をラテン語とスペイン語に翻訳した。
さらにコロンブス遠征の物質的基礎はユダヤ人が提供した。ユダヤ人の金が、コロンブスの二つの最初の旅を可能にした。最初の旅を彼は王室顧問官ルイス・デ・サンタンゲルが貸与してくれた資金をもとに実行した。
コロンブスの遠征の本来の保護者であるサンタンゲルに、コロンブスの第一および第二の書簡がよせられている。またこれらの書簡はサンタンゲルとともにキリスト教に改宗させられたユダヤ人であるアラゴンの蔵相、ガブリエル・サニエグにあてたものでもあった。
P81 コロンブスの第二の遠征もまたユダヤ人の資金によって準備されたが、今回はもちろん自発的に寄付されたものではなかった。今回の遠征は、追放されたユダヤ人の残留資金を一四九三年、アラゴンのフェルディナンド王が国庫に没収させた資金によってまかなわれたのだ。
しかしそればかりではない。コロンブスの船には大勢のユダヤ人が乗りこみ、アメリカの土地を最初に踏んだヨーロッパ人はユダヤ人のルイス・デ・トロレであった。最近の「文書による」研究はそのように記している(12)。
しかも、もっとすばらしいことがある。最近コロンブス自身がユダヤ人だと宣伝されたのだ!わたしはそれが正しいかどうか確かめることもできないままに、この最近の発見を伝えることにする。
マドリッドで開催された地理学会の席上、ドン・セルソ・ガルシア・デ・ラ・リエガという学者は、おのれのコロンブス研究について報告したが、それによると、クリストバル・コロン(コロンボではない)はスペイン人であり、母方がユダヤ系であることが明らかにされた。
ドン・セルソ・ガルシア・デ・ラ・リエガはガリシア[イベリア半島の最北西部にあるスペインの一地方]のポンテべドラ市の司教、ならびに公証人の文書から、その土地に一四二八年と一五二八年の間、コロン家が居住したこと、さらに、この家族には提督の親類に見出されるのと同じ呼び名[洗礼名]が通例となっていることを明らかにした。
コロン家とフォンテロサ家の間で結婚が行われた。フォンテロサ家は疑いもなくユダヤ人であるが、ごく近い過去にキリスト教に改宗したようだ。クリストバル・コロンの母はスザンナ・フォンテロサという名であった。
P82ガリシア地方に暴動が起こったとき、発見家の両親はスペインを退去して、イタリアに移住した。この見解は、そのスペインの学者により、さらに他の様々な観察に基づいて支持された。
彼はコロンブスの著作のなかにヘブライ文学に関連がある多くのものを発見した。それにアメリカの発見者のもっとも古い肖像画は、ユダヤ人の顔付きをしているというのだ。
さらに新世界の門戸がヨーロッパ人に聞かれるや否や、ユダヤ人は大挙して移住した。そればかりではない。アメリカの発見が、実はユダヤ人がスペインの故郷から追放されたのとちょうど同じ年であることがわかっている。
さらに十五世紀の最後の数年と十六世紀の最初の十年は、何万というユダヤ人が放浪を余儀なくされ、ヨーロッパのユダヤ人が、まるで杖でたたかれ巣をおしだされたアリの群れのように大挙して動きだした時期であることが判明している。
アメリカ植民地の最初の工業施設はユダヤ人に由来する。一四九二年、早くもポルトガル系のユダヤ人がセント・トーマスに居住し、ここで大がかりな農園経営をはじめた(tw)。
彼らは数多くの砂糖工場を設立し、まもなく三千人の黒人労働者を働かせた(13)。南アメリカ発見後、同地へのユダヤ人の流入があまりにも多量であったため、一五一一年、ジョアンナ女王は、これを制止することが必要だと考えるようになった(14)。
しかし明らかにこの命令は効果がなかった。ユダヤ人が南米にますます多く住みつくようになったからである。
P83 その後一五七七年五月二十一日、ついにスペイン領植民地への移住禁止令が解かれるにいたった。
南米各地における植民地商工業の創設者としてのユダヤ人がくりひろげた活発な活動を、十分に評価するためには、いくつかの植民地の運命を個別的に追及するのが至当であろう。
アメリカの植民地におけるユダヤ人の歴史、とりもなおさず、この植民地自体の歴史は、ユダヤ人のブラジルからの追放(一六五四年)を境とする二つの大きな時期に分けられる。
ユダヤ人が一四九二年のアメリカの発見と同時に、セント・トーマス(サン・トメ)において、砂糖工業を創設したことは、すでにのべておいたとおりだ。一五五〇年頃、この島の砂糖工業は、早くも大いに発展し、製糖所と煮沸がまを備えた六十の農場は、国王に差しだされた十分の一税の額から逆算して、年内に、十五万アローブの砂糖(一アローブは二十五ポンド)を生産していた(15)。
ユダヤ人がやはり砂糖工業を興したマデイラ、あるいはセント・トーマスからはじまって(16)、彼らは、この工業分野を、アメリカ植民地のなかでも最大のブラジルに移した。
ブラジルはこうして--砂糖工業の全盛がもたらした--最初の繁栄期に入った。新植民地の人的資源は、最初の頃は、いずれも年二回、ポルトガルから移送された(17)、ユダヤ人と犯罪者によってほとんど独占されていた。
ユダヤ人はすぐに支配階級になった。「ブラジルの富裕な商人連中の少なかざる部分は、新キリスト教徒からなっている(18)」
P84彼らの民族の一人はまた、植民地行政を整備した最初の総督であった。実際に新領土がやっと繁栄するようになったのは、一五四九年、すぐれた技量の持ち主、トメ・デ・ソウサが派遣されてからであった(19)。
しかし植民地はオランダ領に移り(一六二四年)、富裕なオランダ系のユダヤ人が大挙移住するようになってはじめて、本格的に発展しはじめた。一六二四年、数多くのアメリカへ移住したユダヤ人が集合し、ブラジルに植民地を建設したが、ここにはオランダから六百人のすぐれたユダヤ人が流入した(20)。
十七世紀前半でも、すべての大砂糖農園はユダヤ人の手中におさめられていた(21)。彼らの大がかりな活動と富を、旅行者が伝えている。たとえば一六四〇年から四九年までブラジルに滞在したニエンホフは、次のようにのべている(22)。
(オランダ・西インド)会社に勤務していないブラジルの自由移住民のなかでは、オランダから移住したユダヤ人が、かなりの数にのぼっている。彼らは他のすべての住民をしのぐ派手な交易を行っており、砂糖工場を購入し、レシフェに堂々たる建物をもっている。 彼らは全員商人である。もし適宜交易できる範囲にまとまって居住するならば、オランダ領ブラジルに多大の貢献をするだろうさらにF・パイラーズの旅行記には次のように記されている(22)。
彼らがこれらの土地に九年から十年居住していた間に得た利益は莫大である。なぜなら彼らは全員、金持ちになって帰ってきたからだ大農場経営において、ユダヤ人が卓越したところを見せた状態は、オランダがブラジルを
P85 一時支配したエピソードともいうべき時期が終わってもつづき--一六五四年のユダヤ人追放(23)にもかかわらず--なんと十八世紀まで継続された。とにかく、十八世紀の前半でもなお次のように記録されている(24)。
リオ・デ・ジャネイロの多くのもっともすぐれた商人たちが、異端糾問に引きずりこまれたとき、多くの農園経営が行きづまり、バイア州の生産と商業は長い間その打撃から回復できなかった一七六八年三月二日の命令で、新キリスト教徒のすべての記録は破棄された。一七七三年三月二十五日付の法律により「新キリスト教徒」は市民権の上で、旧来のキリスト教徒と完全に同等とされた。
したがって一六五四年のポルトガルによるブラジル領有の後でも、明らかに、多くのかくれユダヤ教徒が、やはり同地で卓越した地位を占め、同地の砂糖栽培をすすめ、貴金属の産出を促した。それというのも、彼らは貴金属の取引にもまもなく手を出したからである。
一六五四年という年は、ユダヤ‐アメリカ史の上でも、画期的意味をもっている。なぜなら、ブラジルのユダヤ人の大部分が、この頃、アメリカの他の地域に向かい、これによって、経済の中心を、それらの地域に移したからである。
とりわけ、西インド諸島のいくつかの重要な部分と、隣接の大陸の沿岸地帯がそれにあたり、これらの地方はユダヤ人の移住により、十七世紀以来、はじめて真に繫栄するようになった。
たとえば、ほとんどユダヤ人のみが居住したバルバトスがある(25)。この土地は一六二七年、
P86イギリス領になり、一六四一年、サトウキビが栽培され、一六四八年、砂糖輸出がはじまった。だが製糖業は維持できなかった。それというのも、ここの砂糖は品質が悪く、イギリスへの運送費すらまかなえなかったからだ。
ブラジルを追放された「オランダ人[かくれユダヤ人]が、はじめて、バルバトスで能率のよい製法を実施した。同地の住民に乾燥した保存のきく砂糖の製法を教えたわけで、まもなく砂糖輸出も速いテンポで進められた。
一六六一年、早くも、チャールズ二世は、バルバトスから一万ポンドの収入を得ている十三人の地主を男爵に任命した。そして一六七六年頃、同島はすでに年間七百隻の船に、それぞれ百八十トンの粗糖をのせて輸出することができた。
一六六四年、トーマス・モディフォードが製糖業を、バルバトスからジャマイカに移したところ(26)、同島が急速に富裕になった。それに先立つ一六五六年、イギリスは同島を、最終的にスペインから奪取した。
ジャマイカにはその頃、わずか三つの小さな移住地があっただっけだが、一六七〇年には、早くも七十五の製糖工場が操業し、その多くが二千ツェントナー[一ツェントナーは五十キログラム]の砂糖を生産した。
一七〇〇年には、砂糖はジャマイカの主要産品となり、同地の繁栄の基を築いた。ユダヤ人がこの発展にいかに強力に関与していたかは、早くも一六七一年、キリスト教徒の商人が政府に、ユダヤ人追放を申請したところ、逆にユダヤ人居住が政府によってますます促進されるという結果しか生まなかったという事実から推測できる。
ジャマイカ総督は次のような含蓄のある言葉で申請を退けた(27)。
P87 「総督としては、イギリス皇帝陛下は、ユダヤ人とオランダ人ほど利益をもたらす臣下をおもちになっていないという意見である。彼らは大資本家と大きな人脈をもっている」そういうわけで、ユダヤ人は、ジャマイカから追放されなかった。むしろ「彼らはこのイギリスの植民地の最初の、貿易業者、卸売商人となった(28)」
十八世紀には、彼らはすべての税金を負担し、商工業の大部分をその手中におさめた。他のイギリスの植民地では、彼らはとくにスリナムを好んだ(29)。このには一六四四年以後、ユダヤ人が居住し、まもなく特権を与えられた。
「そのさいわれわれはユダヤ人が植民地にとって有益であり、便利になることを見出した」。この優遇された状態は、当然スリナムがイギリス領からオランダ領へ移った(一六六七年)あともつづいた。
十七世紀末、彼らの全住民に対する割合は一対三であった。一七三〇年には、彼らはスリナムに三百四十四の農園をもち、そのうち百十五の農園はほとんどサトウキビ栽培に専念した。
英領、蘭領の植民地と同じ光景を、重要なフランス領植民地、マルティニーク、グァドループ、それに、サン・ドミンゴが示してくれる(30)。ここでも砂糖産業が「繁栄」の源泉であり、そしてユダヤ人がこの産業と砂糖貿易の支配者である。
マルティニークでは、九百人のユダヤ教信者と千百人の奴隷を連れブラジルから逃亡してきたベンヤミン・ダコスタによって、一六五五年、最初の大がかりな農園と居住地が造られた。
サン・ドミンゴにおいては、製糖業はすでに一五八七年にはじめられたが、ブラジルからの「オランダ系」避難民が、はじめてそれを繫栄させた。
P88アメリカの植民地経済の基礎ができた。あの激動の数世紀には(そしてこれによって近代資本主義も生まれた)、砂糖の製造が(もちろんブラジルにおける銀の生産と金と宝石の産出を除く)、前植民地の国民経済の背骨であり、これによって間接的に母国の国民経済を育成した。
だが、あの数世紀の間、砂糖産業と砂糖貿易がもった卓越した意味について正しい観念を得ることはほとんどできないであろう。パリの商業会議所が一七〇一年の決議のなかで次のようにのべたのも、けっして誇張ではなさそうだ。
フランスの海運はその栄光を砂糖産出の島々の貿易に負うており、そしてこれらの貿易によって維持、拡大されているのだしかも、この貿易をユダヤ人がほとんど独占していた(フランス系ではとくに裕福なボルドーのグラディス家(31))。
ユダヤ人が中南米で獲得したこの堂々たる地位は、なかんずく、十七世紀末から北アメリカの英植民地と、西インド諸島との間に出現した密接な結びつきによって、重要性を増した。
この結びつきは、後述するように、ヨーロッパ人支配の北アメリカを維持発展させたものであり、本質的にはやはりユダヤ商人によってつくられた。これから、いよいよユダヤ人が北アメリカの国民経済の発達に果たした役割を論ずることにする。
そしてこのことは、ただちに、はっきりいえば、アメリカ合衆国の成立に果たした役割ということになる。ここも経済的関係においては全く本質的に、ユダヤ人の影響によって最終的形態をとるようになった。
P89 そのことについてはやはり、きめ細かい説明が必要であろう。それというのも、この見解は(少なくともヨーロッパでは)、通説となっている事物の把握に真っ向から対立しているからである。
ちょっと見たところでは、北アメリカの経済生活は、本質的にはユダヤ人の影響など全くないまま形づくられていったように思える。そして、これまで、いやというほどアメリカ合衆国の発展の実例が、わたしの見解と逆のことが実は正しいとの証明としてもちだされた。
わたしの見解とは、すなわち、近代資本主義は根本においては、ユダヤ的性格の流出に他ならないということだ。アメリカ人自身が、彼らはユダヤ人の助けなしにやってきたと、わたしの見解には不満を示してきた。
もしまちがっていなければ、アメリカの作家マーク・トウェインは、かつて長々と、なぜユダヤ人はアメリカ人たちの間で、なんらの役割も演じなかったかを力説した。
それはアメリカ人がユダヤ人より機敏ということではないにしても、ユダヤ人と同じくらいは機敏であり(なお同じことをスコットランド人も、自分たちについて主張している)、そして実際に、アメリカ合衆国のすべての大物実業家、投機屋や「トラスト支配人」のなかで、今日では、多くのユダヤ人の名前にお目にかかることはないからだというのだ。
そのことはすべて認めてもよいだろう。それでもなおかつわたしは、アメリカ合衆国は、おそらく他のどの国よりも強烈に、徹頭徹尾、ユダヤ的性格によって満たされているとの自説を曲げるつもりはない。
その事実はさらに、多くの判断力のたしかなアメリカ人たちの間ではよく知られている。
P90[一九〇四年に]ユダヤ人のアメリカ合衆国への流入二百五十年[ユダヤ人は一六五四年にはじめてアメリカに来た]の記念式典が盛大に行われたとき、セオドール・ルーズベルト大統領は式典委員会に、特別に丁重な形式をとった祝辞を送った。彼は次のようにいった。
わたしがそもそも式典にさいし祝辞を送るのは、大統領就任以来、これがはじめてである。しかしこの例外を、わたしは行われなければならなかった。それは、このきっかけが、とてつもなく重大だからだ。アメリカ合衆国にとってのユダヤ人の功績を語るにあたって彼は、事物の核心にふれるような言いまわしをした。
あの時代にユダヤ人がさらされてきた迫害が、わたしに次のことを強調する義務があることを痛感させた。すなわち、ユダヤ人がこの国の国土に到着して以来、いかにすばらしい市民としての特性を、ユダヤ教を信ずる人々、ユダヤ人に属する人々が発展させてきたかということである
ユダヤ人はこの国の建設に関与したのだ(32)さらに元大統領のグローヴァー・クリーヴランドは、同じ機会に次のようにのべた。
たとえそのような民族があったとしても、ごく少数の民族だけがユダヤ人以上にアメリカニズムの発展の形式と方向に直接、間接の影響を与えたとわたしは信じている(33)ところで、アメリカ合衆国にとって、いったいどのような点でユダヤ人は大きな意味があるのか?まずすぐに念頭に浮かぶように、ユダヤ人のアメリカの経済生活への関与は、数的にそんなに小さくはないという点である。
なぜなら、それこそ鳴り物入りで騒ぎ立てられている六人ほどの、
P91 有名な億万長者のなかにユダヤ人は入っていないけれども、アメリカの資本主義にはユダヤ的要素がけっして乏しくないからである。巨大トラストのなかでも、肝心なところがユダヤ人の手中におさめられているものが、はじめて数社におよんだ(tw)。
たとえば、傘下のすべての事業とともに(一九〇四年)、名目で二億百万ドルの資本金をもつスメルターズ・トラストは、ユダヤ人たち(グッゲンハイム家、相互参照)が創立した。
それと同様に、タバコ・トラスト(資本金五億ドル)、アスファルト・トラスト、電信トラストなどのなかでユダヤ人は指導的地位についている(34)。それと同様に、当然のことながら、やはりアメリカの経済生活のきわめて大きな部分を支配している一連の大銀行を、ユダヤ人が所有している。
たとえば、アメリカ全土の鉄道網を一手におさめることを目標にしている「ハリマン組織(tw、tw)」は、本質的には、ニューヨークの銀行、クーン・レーブ・アンド・カンパニー(相互参照、tw)によって支援され、促進されている。
西部ではユダヤ人が支配的地位で幅をきかせている。もともとカリフォルニアは、彼らがつくりあげたものだ。この州の創立にあたってユダヤ人は、裁判官、議員、知事、市長などとして、そしてとくに実業家としてすぐれた才能を発揮した。
サンフランシスコの、ウィリアム、ヘンリー、次にジェス、次にジェイムズをそれぞれ名乗るセリグマン兄弟(相互参照、後述)、サクラメントのルイス・ストッス、ルイス・ガーストル(彼らはここにアラスカ商業会社を設立した)、ロサンゼルスのヘルマンとニューマークなどは、いずれもカリフォルニア州で活躍している有名企業の持ち主だ。
P92アメリカ東部とヨーロッパの関係を、ゴールドラッシュ時代に強化したのはユダヤ人である。あの頃、もっとも重要な取引はロスチャイルド家(相互参照)の代理人ベンジャミン・デヴィッドソーン、ロードアイランドのアルブレヒト・プリースト、ボルチモアのアルブレヒト・ダイヤーら、それに(パリ、ロンドンおよびサンフランシスコに)国際銀行組織をつくった三人のラザード兄弟(参照、tw)、およびセリグマン、グレージアー、ウォームサーらによって行われた。
モーリッツ・フリートレンダーは、小麦王の一人であった。アドルフ・ストロは「コムストック・ローズ社」を十分に利用した。そして今日でもなお、カリフォルニアの銀行組織の圧倒的多数とともに工業経営もユダヤ人の手中におさめられている。
思い出すままにのべると、ロンドン・パリ・アメリカン銀行(S・グリーンボーム、リチャード・アルトシュルツ)、アンジェルス・カリフォルニア銀行(フィリップ・N・リリエンソー、イグナツ・ステインハート)、ネバダ銀行、ユニオン・トラスト・カンパニー、ロサンゼルスの農商銀行などである。
さらに思い起こされるのは、ジョン・ローゼンフェルドによる炭田の開発、ハドソン湾会社の後継者のアラスカ商業会社、それに北米商業会社などだ(35)。
最近の数十年間のユダヤ人のアメリカ流入によって、アメリカの経済生活に対するユダヤ人の量的な意義が大いに痛感されるようになったことは、ほとんど疑う余地のながないであろう。
現在、すでに百万人以上のユダヤ人がニューヨークに住居しており、移住してきたユダヤ人のうちの大部分がまだ一般的に資本主義的な人生航路に入っていないと考えられている。
P93 アメリカにおけるこの状態が、ここ三十年ほどの間に見られたように急速に進展するならば、そしてその半面、他の多くの民族のアメリカへの流入の割合が、同一のままにとどまるならば、五十年あるいは百年後のアメリカ合衆国が、スラブ民族、黒人、それにユダヤ人のみが居住し、とりわけ、ユダヤ人が、当然のことながら経済的ヘゲモニー[指導権]を握ってしまう国になると想像する向きもあろう。
しかし、過去と現在の事柄を認識すべき本書の使命からすれば、これは論ずべき筋合いではない未来予測である。だが過去と現在については、ユダヤ人のアメリカ経済生活への量的な関与は、たしかに、依然としてかなり大きく、けっして表面的観察によって考えられているような小さなものではない。
たんなる量的な関与からは、わたしが(他の多くの判断力のたしかな人々とともに)、ユダヤ人に由来すると考えられているような、あの卓越した意義を導きだせないことが、認められるであろう。むしろこの意義は、かなり複雑な関係性に基づき、彼らが全く桀出した存在だという意味合いで、質的に認識されねばなるまい。
そのために、わたしは、くりかえし、けっして重要でないとはいえない次のような事実を強調したいと思っている。それはアメリカのユダヤ人が、一連の重要な商業分野で、まさに独占的地位を確立するほど支配しているか、あるいは少なくとも、長期間にわたって支配してきたということだ。
わたしはそのさい、とくに西部における穀物取引、タバコ取引、
P94それに木綿取引を念頭においている。一瞥すれば、この三種の取引が、アメリカの国民経済の三大分野であり、この三つの強大な経済分野を手中におさめている者は、すでにそれだけでただちに経済の全体的過程に、大がかりに取り組んでいるに違いないということがわかるだろう。
しかし前述したように、わたしはこの状況を、それほど力説しようとは思わない。それというのも、わたしはアメリカ合衆国の国民経済に対する意味を、もっと深いところから解釈しようと願っているからである。
ユダヤ人は、全く特別な糸、いうなれば金糸として、最初から最後までアメリカの国民経済という織物のなかに、深く織り込まれており、したがってこの織物のの特有な模様は、この金糸によってはじめから特徴づけられている。
なぜなら、資本主義の精神が大西洋岸で、はたまた新大陸の森林や草原ではじめて生まれたときから、ユダヤ人がその場にいたからだ。彼らの到着の年は、一六五四年とみられている(前述、36別の見解によれば、ブラジルからの難民以前に、アムステルダム出身の富裕なユダヤ商人がハドソン川沿いの植民地に移住していた、tw)。
ほとんど全部がポルトガル領になったブラジルから、ユダヤ人を乗せた船がハドソン河畔に着いたとき、ユダヤ人たちはオランダ・西インド会社によって設立されたこの植民地へ移住することを求めた(注ニューネーデルラント植民地の主邑となったニューアムステルダムは1653年に正式に市の資格を与えられているwiki)。
それはもはや、懇願する者としてでなく、新植民地建設に強力に関与した民族の一員としてであった。この強硬な態度にオランダの植民地総督も譲歩せざるをえなかった。
ユダヤ人移住民を乗せた船が着いたとき、ニュー・アムステルダムで政権を握っていたのはステーフサントであった。彼はユダヤ人の友ではなく、なんとしても居住を求める彼らに門戸を閉ざそうとした。ところがそのとき(一六五五年四月二十六日)、
P95 アムステルダムの会社の支配人は彼への手紙への手紙のなかで、西インド会社の領域内でのユダヤ人の商業と居住を認めよとの指令を出した。「なぜなら彼らがわが社に投資した莫大な資本のためである(37)」
彼らはまもなく、ニュー・アムステルダムからロング・アイランド、オルバニー、ロード・アイランド、そしてフィラデルフィアに向かった。
このときから、彼らの活動がはじまった。だがはじめのうちは、そもそも新植民地が経済的に成り立ってゆくのかという不安があった。アメリカ合衆国は今日現存しているが、これはもっぱら北米のイギリス植民地が、様々な好都合な条件に恵まれ、ついには独立国となる能力をもつ威風堂々とした地位にまで発展できたからである。
そしてまさに強大な植民地建設にあたって、ユダヤ人は最初の、しかももっとも熱心な促進者として活躍していたことがわかる。
わたしはこのさい、数個の強大なユダヤ人家族の支持によってのみ、この植民地が国家組織として自立することに成功したこと、それもこの数家族が独立のための基礎をこの植民地に与えたという当然の事柄を考えているわけではない。
たしかに戦時の調達、とくに必要資金の貸与なくしては、「合衆国」の独立はけっして実現できなかったであろう。だがこのユダヤ人の業績は、何もアメリカに特有なものではない。
われわれはこの事実に、ごく一般的な現象として遭遇するであろう。この現象は資本主義の基盤に依存する近代国家の歴史のなかではいたるところで、一様に現れる。したがってわれわれとしても、
P96もっと大規模な関連のなかで、公正にあつかわなければならないだろう。
これに反し、わたしは北米植民地におけるユダヤ人の他の活動のなかに、とくにアメリカという世界を示すと全く同様に、アメリカをつくりあげた行動を看取する。
わたしが考えているのは、十七、十八世紀を通じ、ユダヤ商法こそ、アメリカの植民地の国民経済を活性化した源泉であったという単純な事実である。
なぜなら、ひたすらユダヤ人が維持した貿易関係のみがアメリカの植民地に、母国との持続的な経済的結びつきを保たせ、しかもなお独自の経済的繁栄をに到達させる可能性を与えたからである。
平易にいえば、イギリスが、すべての事業によって得られた製品は母国に売却せよと植民地アメリカに課した強制措置によって、当然貿易(およびこれによってもちろん支払いの面でも)における植民地の収支決算はつねに赤字となった。
もし外国から貴金属の形でたえず血液が送りこまれてこなかったならば、植民地経済という肉体は失血して死んでしまったであろう。しかし、この血の流れを「ユダヤ商法」が、中南米の諸地域から英領の北米植民地に向けさせてくれた。
北アメリカに移住したユダヤ人が、西インド諸島やブラジルとの間に保ってきた密接な関係のおかげで、彼らはこれらの地域との活発な貿易を行うことができた。そして、一般的に北アメリカの植民地側が黒字の成績をあげ、そのために、これら中南米地域自体で産出された、あるいは隣接地域から直接豊富に流入してきた貴金属(十八世紀のはじめ以後はとくにブラジル産の黄金)が、北アメリカの国民経済の血管のなかに導入されるようになった(38)。
P97 これまでふれてきた事実に着目し、いくらかの権利をもって、そもそもアメリカ合衆国が存在しているのはユダヤ人のおかげだと主張できるとすれば、同等の権利をもってアメリカ合衆国が、現在のような姿になったのは、つまりアメリカ的なるものができたのは、もっぱらユダヤ気質のおかげであると主張できるであろう。
なぜなら、われわれがアメリカニズムと呼んでいるものは、それこそ大部分が流入してきたユダヤ精神に他ならないからである。
だが、アメリカ文化のなかに特殊なユダヤ精神が強力に浸透した発端は何か?
それは植民地居住者が、以前から全く一般的にユダヤ人集団と混在していたからだと思われる。
わたしの知るかぎりでは、北アメリカへの入植はほとんどの場合次のようにして行われた。まず中核となる男女の一群--二十家族くらいといってもよいだろう--が、自分たちの生活を新しくつくりあげるために、荒地に入った。
この二十家族のうち、十九家族は鋤と大鎌を手にし、森林を開墾し、草原の雑草を焼き払い、自分たちの労働で土地を耕作することで生活を維持しようとした。だが二十番目の家族は、すみやかに仲間たちに、交易の道を通じて--おそらく、行商に出ることもあったろう--その土地が産出しない様々な生活出需品を供給するために商店を開いた。
この二十番目の家族は、その後じきに、他の十九の家族が大地から獲得した産物を売りさばくべく配慮した。彼らはもっとも早く現金を手に入れた人々であり、したがって、いざという場合には、これを仲間に融資することに役立てた。
P98こうして彼らが開いた「商店」に、一種の農村貸付銀行が付属するようになった。おそらく不動産売買の代理人もどきの仕事もしたのであろう。
こういうわけで、北アメリカの農民は、早くから旧世界の貨幣ならびに信用経済と接触することになった。すべての生産関係は前もって近代的基礎の上に築かれた。
都市の性格がただちに遠隔地の村落にまで堂々と進出した。アメリカの国民経済に、資本主義の組織、資本主義の精神が浸透したのは、移民入植最初の日以来のことといってもよいだろう。
なぜなら、最初の商業主義的細胞は、まもなくすべてを包含する組織にまで成長したからである。そもそもなんぴとが個人的な要素としてここで決定を下したのだ。
人ではなく、たんなる事物の状況が新しい発展の系列を生むわけではない。だれによってこの資本主義の特徴を備えた「新世界」がつくられたのか?それはあらゆる村に住む二十番目の家族によってである。
この二十番目の家族が、早くも、移住民集団に同行したか、あるいは彼らの入植後すぐにやってきたユダヤ人家族であったことは、今さらのべる必要はないだろう。
こうした関連を立証するため、いずれ様々な事例を一つの全体像にまとめあげるつもりだが、さしあたりは、わたしの主観的な形象であると思ってほしい。わたしの後に続く研究者は、ここで取り上げられた観点の下に、アメリカ合衆国の経済史を執筆せねばならないであろう。
わたしが例証として示したものは、さしあたり、のちくわしい論述の最初のきっかけと見なすことができよう。とにかく物事の動きの一様性と単純さに基づき、
P99 このさい問題になるのは個々の事例ではなく典型的現象なのだとはっきりいうことができる。
わたしがアメリカの経済生活の動きに対するユダヤ人の影響について主張したことを、ある人が、かつて次のように表現した。
ユダヤ人は何千もの繁栄した共同体の指導的金融業者であった。彼らは企業精神旺盛で積極的であった(39)任意の順番に並べたが、次の事実を、サンプルとしてあげさせてもらおう。 アラバマに一七八五年、アブラハム・モルデカイが住みついた。「彼はインディアンと大がかりな交易を行ない、彼の商品をピンクルート[植物の一種]、ヒッコリー[胡桃の一種]、くるみ油、それにあらゆる種類の毛皮と交換するべく、ライン・クリーク[小川の名前]の西二マイルの所に交易所をつくった(40)」
オルバニーでは「この町がまだ小さな商業地だった一六六一年に、早くも、アセル・レビ(あるいはリービ)というユダヤ人の商人は同地の不動産の所有者となった(41)」
シカゴは、鉄道と商業の中心地になって以来、好目標となった。最初の石造建築が、シカゴで仕立屋の仕事をしていたユダヤ人、ベンヤミン・シューベルトにより建てられた。フィリップ・ノイブルグが、はじめてシカゴにタバコ取引を導入した(42)。
ケンタッキーでは、早くも十九世紀初頭、ユダヤ人の居住者が現われた。
P100ユナイテッド・ステート銀行が、レーシントンに支店を開いた一八一六年、すでに一八〇八年に同地に移住してきたソロモン氏が、同行の会計係となった(43)。
メリーランド(44)、ミシガン(45)、オハイオ(46)、ペンシルヴェニア(47)の最初の移住者のなかにも、その活動の詳細は判明していないが、ユダヤの商人がいた。
ユダヤ人が資本主義組織の先駆者としてテキサスで活躍した様子を、はっきり追究することができる。この土地では、ジャック・ド・コルドバ、モリス・コッペレ、ヘンリー・カストロといった人々が、実りの多い活躍をした。
「なかんずくコルドバは、一八五六年まで、この州のもっとも大がかりな土地開発者であった。コルドバの土地開発事務所は、テキサス州の広い地域の地主が居住したニューヨーク、フィラデルフィア、そしてボルチモアの各地で、まもなく有名になった」。
モリス・コッペレは(一八六三年)、テキサス・ナショナル銀行の頭取になった。ヘンリー・カストロは、移住斡旋の業務に取り組んだ。「一八四三~四六年の間に、五千人の移住民を、主として、レニッシュ地方から二十七隻の船に乗せ、テキサス州に連れてきた」。
彼らの到着以後、カストロは入植者に、必要な農機具や穀物の種子などの面倒をみた。「彼は一年間、入植者に雌牛、農機具、種子、薬品、それに彼らが必要とするものを実際に供給した(48)」
各州に、他のユダヤ人家族が拡散したが、彼らはそれぞれ団結することによって、より効果的に働くことができた。ユダヤ人の活動の発展にとってなかんずく特徴的なのはセリグマン家(前述)の歴史である(バイヤースドルフのダフィート・ゼーリヒマンの息子たちである)。
P101 この家族の八人の兄弟は、結局はアメリカ合衆国の主要都市にひろがる業務をはじめた。その状況をまとめると、次のような具合になる。一八三七年、ジョセフ・セリグマンはアメリカに移住した。
一八三九年、二人の兄弟が彼の後を追った。一八四一年、三番目の兄弟がつづいた。彼らはランカスターに小さな衣料品店を開いた。そこから彼らはセルマ・アラに向かい、その後三つのアメリカの年に支店をつくった。
一八四八年、彼らはまた別の二人の兄弟とともに北方に向かった。一八五○年、ジェスはサンフランシスコに、商店を開いた。これは同市ではまだ唯一のレンガづくりの建物であった。
一八五七年、衣料品店から分かれて銀行が設立された。一八六二年、セリグマン家は商会を、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロンドン、パリ、それにフランクフルト・アム・マインに設けた(彼らはその後とくに南北戦争の時代に資金の調達で活躍した(49))。
アメリカの南部諸州でもユダヤ人は部分的には、他の州と似たような役割を演じた。あうなわち入植農民の間に居住する商人という役割だ(50)。その他にも南部では、早くから(中南米同様)、裕福な大農園所有者として、彼らは登場した。
たとえば、サウス・カロライナ州では、「ユダヤ人の土地」は大農園と同義語であった(51)。ここでも、とくにモーゼス・リンドが、インディゴ生産(これについては前述した)の主な促進者として活発に働いた。
P102この場合にも、アメリカ合衆国の発生期全体を通じてユダヤ人が、強力、持続的に流入したという観察のおかげで、発生史的方法はふたたび、意義深い支持を受けたことになる。
もちろんこのことを証明するために、初期において、直接ユダヤ人が、住民全体、あるいは移住者全体で、いったい、どのような割合を占めていたかということを示す数字は用意されていない。
しかし、様々な兆候からして、つねに大勢のユダヤ人がアメリカに移住したことを確実に推量できる。
彼らの(量的な)意味を測定するためには、初期にはアメリカにきわめてわずかの住民しかいなかったことを顧慮しなければならない。たとえば、十七世紀中葉には、ニュー・アムステルダムには千人以下の住民しかいなかった(52)ことがわかれば、その頃ブラジルから同時に船で移住してきた少数のユダヤ人は、それだけでもすでに、この地方の経済生活にきわめて大きな影響を与えたことがわかるであろう。
またそれと同様に、ジョージア州にはじめて入植が行われた時代、四十人のユダヤ人を乗せた船(53)が同地に入ってきたとき、また一七三三年、小さな商業中心地サヴァンナへオーストリアのザルツブルクからの居住者が到着し、そのさい十二のユダヤ人家族が入植したとき、それらはユダヤ人集団の強力な浸透と見なされることになろう(54)。
アメリカ合衆国を、ドイツ系(そしてポーランド系の)ユダヤ人が早くから、好んで移住目標としていたことは、一般に知られており、移住地からの報告によっても確かめられている。
P103 「ポズナニの貧しいユダヤ人家族のなかには、十九世紀、第二四半期の二十五年間に、自分たちの息子、それもふつうはもっとも活気があって利口な息子が、故郷の狭さや重苦しさから脱却すべく大洋を越えなかったような家族はめったにない(55)」
南北戦争に従事したユダヤ人兵士の数が七千二百四十三人(56)の多くにのぼったことは驚くにあたらない。そして、十九世紀中頃にアメリカ合衆国に居住したユダヤ人が二十万人(三万人がニューヨーク)だときかされても(57)、われわれは、むしろこの数字は低すぎるのではないかと考える。
脚注
103(1)~/ 105(10)~/ 107(22)~/ 109(30~)/ 111(48~)
【リンク】
・ニューヨークの歴史|あっとニューヨーク(参照)
・『恋愛と贅沢と資本主義』参照
・『赤い盾』(参照)