2018年5月7日月曜日

偏愛メモ 『赤い盾』

■タイタニック号の悲劇 三富豪夫妻のそれぞれ 、そして、、、P56-84

P62 ベンジャミン・グッゲンハイムは、アシスタント・スチュワードのジェームズ・エッチズに妻への遺言を託した。---もし私の身に何か起こったら、私は最善を尽くした、とニューヨークにいる妻に伝えてくれ---。(中略)

P66 アスター夫妻の場合は、救命ボートにひとりで乗ることを拒む妻を、夫が強く説得して脱出させた。このときは、まず女性全員をボートに乗せてから男が脱出するという状況のなかで、億万長者アスターでさえボートへの乗り込みを拒否されたのである。なかには、アスター夫人からショールをかぶせてもらい、女装して巧みにボートで脱出した男もいたのだが、それを知りながら自分の夫を助けられなかったアスター夫人の無念の気持ちはいかばかりであったろう。アスターの最後の姿を伝える生存者の話は無数に語られているが、彼も堂々たる態度を保ちながらこの世を去っていった。(中略)

P67 アスター夫妻はタイタニックの悲劇によって生涯の仲を引き裂かれたが、シュトラウス夫妻は違っていた。夫インドールと妻アイダは、最後まで別れることを拒み、手を取り合いながら深海に呑まれていったのである。

■アヘン P146-163


■アリ=カーン P354-355

P354 アリ=カーンはただのプレイボーイで片付けられる男ではなかった。ボリビアの鉱山王パティーニョと深い関係にあった上流社会の花形エルザ・マックスウェル女史によれば、アリの愛人は何千人もいるため数えられず、それがことごとく

P355 上流社会の婦人や芸能界の花形だったという。シャンソン歌手ジュリエット・グレコによれば、アリと寝なかった女がいるかしら、との話。スポーツカーを駆って世界中を走りまわり、国連大使をつとめた桁違いの大富豪、女にとってこの男に惚れなければ不思議という物語だったが、本人によれば、「なに、連中が俺のことを黒人と呼んで馬鹿にしたから、あいつらの女を全部ものにしたまでよ。これで借りを返したわけだ」

■シェルブールの雨傘 P440-444

P441 アニェス・ヴェルダ監督の夫ジャック・ドミーは1990年にこの世を去ったが、本書を書きはじめてから、登場する主人公が次々と他界してゆくのは奇怪である。ドミー監督が生み出した『シェルブールの雨傘』は、すべての台詞をオペラ形式で歌わせるという手法で、ミュージカル映画史上かつてない対話法を見せ、観客に驚きを与えた。出征する若者を見送るカトリーヌ・ドヌーヴの悲恋が主題歌として歌われ、大いにヒットした。1964年に制作され、カンヌ映画祭でグランプリを受賞したのである。

フランスのマドレーヌ映画社の作品で、そのプロデューサーであるジルベール・ゴールドシュミットは、この映画会社の創立者で会長でもあり、事業は多方面にわたって、フランス映画界に隠然たる勢力を持つと言う。このゴールドシュミットは、父親の姓がもう少し長いもので、自分の代になってP444 短く省略したのである。父親は、ロドルフ・ゴールドシュミット=ロスチャイルドといい、すでに系図31(url)の上部に示した通り、イギリスの王室や首相とつながる大変な一族、ロスチャイルド家の直系子孫である。ヒットラー台頭当時の複雑怪奇な上流社会のユダヤ人として、辛酸をなめたはずだ。

しかし『シェルブールの雨傘』には、公開当初からふたつの別の重大な問題が秘められていた。世界的にはほとんど議論されなかったが、北アフリカではこの作品に異議が出されていた。映画のなかでフランスの若者が出征していく先はアルジェリアで、この映画が製作された年はアルジェリアの独立から二年後に当たっていた。フランスの侵略戦争が、ミュージカルというエンターテインメントのなかで誰知るともなく美化され、悲恋の曲を口ずさむ全世界の観衆が同情の思いを寄せて賛美してしまう、という落とし穴が掘られていたのである。

もう一つの問題は、後年になってようやく気づく人間が出るか出ないか、というさらに巧妙な仕掛けであった。ロスチャイルド財閥がこの作品の舞台となったシェルブールという小さな田舎町に、壮大なプロジェクトを進めていたのが、映画公開当時の状況であった。公開四年前の1960年に、北アフリカのサハラ砂漠でフランス発の原爆実験が成功したあと、ウランとプルトニウムを大量生産するための再処理工場が必要となり、軍需工場と連動する大工場が求められていた。

それがシェルブール、今日世界最大の「ラ・アーグ再処理工場」である。ここに記録する”映画と工場の関係”は抽象的なものではなく、実際にヴェルダ監督の弟ジャン・ヴェルダが、フランスで最初の株式銀行としてジェームズの時代に設立された商工信用銀行の重役であった。『シェルブールの雨傘』公開当時この大銀行の重役室で大きな声を出していたブノワ・マルシラシーは、ロスチャイルド銀行の代理人としてよく知られ、この銀行が、原子力の工業界に投資をしていたのである。

『シェルブールの雨傘』は、こうして有形無形の貢献を果たし、カンヌでグランプリに輝いた。これも偶発的な一致に過ぎないと言うのであろう。アニェス・ヴェルダと白血病でこの世を去ったジャック・ドミーの監督夫妻は、高く評価されてよい。

■ロシア革命前後と大商人たち 反ユダヤ主義 ドレフュス事件 シオニズム P445-462


P445 ことに帝政ロシア時代に大部分の民衆が極貧の生活にあえいでいた事実と照らし合わせると、ギンズブルグ一族がロシアの特殊社会を構成し、よく言えば指導的な立場、はっきり言えば巧妙な支配階級--それもごく一握りの大富豪--の一員であったと推定される。彼らは帝王に取り入り、すべてのヨーロッパ王室で見られたように利権と財宝を交換しながら、互いに協力し合って巨富を蓄えた。その利権者である帝政時代の商人たちがロシア革命によって根絶されたかと言えば、そうではなかった。ロマノフ王朝という頭の部分だけが、シベリアのエカチェリングブルグ(現在のスベルドロフスク)におけるニコライ皇帝一家の処刑によって消し去ら

P446 れ、その裏で革命後の歴代ソ連首脳は、密かに帝政ロシアに仕えた御用商人を貴重な人材として登用してきた。1989年の激動に至るまで72年間という長い年月、西側との交易をこの商人に頼って生き抜いてきたのである。たとえばアメリカ人のペプシ・コーラ会長ドナルド・ケンドールや、1990年にこの世を去ったオクシデンタル石油のアーマンド・ハマーが、ソ連国内で深くアメリカとつながっていた。しかしヨーロッパのロスチャイルド家は、こうした人物と比較にならない規模で、実際に"ソ連の国民"として生き続け、内側にあって西欧との交易を続けてきた。

いまやソ連は、72年のあいだ隠れていたこの商人たちが公然と活動を開始する日を迎えた。すでにその顔は、そちこちに見えはじめた。民衆が起こしたロシア革命は、決して民衆を救わず、スターリン時代に民衆を大量虐殺するという逆の結果を招いたが、これはひと握りの商人利権者がクレムリンの官僚機構を支配していたからである。ペレストロイカが進行すると共に"パーミャチ"と呼ばれる反ユダヤ主義の組織が台頭してきた。

これは商人支配への反動として民衆の怒りが爆発し、一面ではナチス台頭時代とよくに似た状況が生まれてきたことの危険な証左でもある。その悲憤の根底にあるのは、言われているような民族問題ではなく、こうした利権集団に対する耐え難い感情にあった。

      (中略)

P447 ロシアに根をおろしながら、グンツブルグ家は全世界にユダヤ人富豪の閨閥をひろげていった。すでに本書のあちこちで登場したグンツブルグ家を、今度はこの一家を中心にまとめてみると、孫娘がインド香港上海の支配者アヘン王サッスーン家に嫁いだあと、投資銀行ラザール・フレールの創業一族でウォール街収入トップのデヴィット・ウェイル家と結ばれ、アメリカの鉱山一族セリグマン家、ヨーロッパとトルコの鉄道王ヒルシュ男爵家、そして1990年代に世界ユダヤ会議の会長をつとめるシーグラム・ウィスキーの

P448 ブロンフマン家という具合に、地球の支配者として成功するユダヤ人を次々とロスチャイルド一族に取り込んでしまった。いずれも桁違いの富豪ぞろいで、この世のご大陸を席巻したのである。グンツブルグ家が活躍したのは、ロシアのロマノフ王朝を動かしたという怪僧ラスプーチンの時代に当たるが、ロシアのユダヤ人であったア・シマノウィッチの著書『ユダヤ人とラスプーチン』には、当時の情景が生々しく記録されている。

      (中略)

P450 イスラエルという国家の建設について、新しい視点から砂漠の謎を解いてみたい。それには中東だけを見ていたのでは何もわからない。ロシア-フランス-アルジェリア-イスラエルを結ぶ歪んだ四角形のなかにあるのが、1992年の統合を控えたEC諸国である。この四つの頂点をたどると、中心に存在する謎の観光会社「地中海クラブ」の全貌が浮かびあがる。

      (中略)

P451 ユダヤ人の穀物業者ルイ=ドレフュスがフランスからスイス、ロシアへと進出し、ロシア小麦をフランスへ送りはじめた。この商売を取り仕切ったのがグンツブルグ家であったことは言うまでもなく、今日第四位と言われるルイ=ドレフュス社の金庫「ルイ=ドレフュス銀行」副社長は、つい先年まで、アラン・グンツブルグ男爵であった。この男爵はミンダ・ブロンフマンと結婚し、後年の世界ユダヤ人会議の会長ブロンフマンと義兄弟のなかとなるが、19世紀後半におけるユダヤ人としてのロスチャイルド家の活動は、次のように激烈をきわめた。

ロシア小麦がマルセイユに運ばれていた頃、イギリスでは初のユダヤ人首相ディズレリが誕生し、ソロモン王以来という鳴り物入りでユダヤ人の王と崇められたが、

      (中略)

ロスチャイルド家に入りびたり、南アのダイヤに目がくらみ、植民地政策を強力におし進め、彼の遺産整理をおこなったのがロスチャイルド家だったことである。そのユダヤ人ディズレリが首相のとき、ロシア封じ込め政策を打ち出し、帝政ロシアに挑戦状をたたきつけたのが1878年であった。ロスチャイルド、モンテフィオーレ、ドレフュス、グンツブルグ、ディズレリがヨーロッパ全土結束し、黒海のオデッサからボスポラス海峡を抜けて地中海に至る貿易ルートを、独占しようとしたのである。

一方、フランスの鉄道王ジェームズ・ロスチャイルドは、地中海から東洋へ抜けるスエズ運河をつくってさらに広大な貿易ルートを独占しようと計画していたが、ディズレリの首相誕生の年にこの世を去ってしまった。しかも皮肉にも、ジェームズの死の翌年、1869年にレセップスによって運河が開通し、ついにインドへの大貿易ルートが開かれる日を迎えた。

レセップス家は古い名門で、ロスチャイルド財閥ではなかった。そのためロスチャイルドは複雑な利権が絡み合うイギリス政府に手を回してスエズ運河の計画を妨害し続けたのだが、彼らの手で開通してしまったものは致し方ない。そこで金融世界の策謀によって少しずつスエズ運河会社を追いつめすでに述べたようにディズレリ首相の時代にこの会社の株を大量にロスチャイルドが買い取る、という作戦を果たしたのである。

      (中略)

P452 マルクスの資本論第一稿が発表されて貧しい民衆の怒りが爆発寸前になっていた時代、ロスチャイルド家の行動には思慮というものが欠けていた。南アでダイヤが発見された直後に、ディズレリ首相が誕生したというのも単なる偶然ではなく、ディズレリを社交界に送り込んだロンドンデリー侯爵夫人とは、ほかならぬ背ビレ四枚ゴールドスミスの第三夫人の祖先にあたる人物であった。

1878年のロシア封じこめ政策は、ロシア皇帝を激怒させ、三年後にロシア全土にユダヤ人虐殺"ポグロム"の嵐が吹き荒れた。ポグロムとは"凶暴なる攻撃"として使われる言葉だが、"雷のように"襲いかかる攻撃という意味が語源であった。これが『屋根の上のバイオリン弾き』の物語に描かれた悲劇であった。実際にその引き金になったのは、ロシア皇帝アレクサンドル二世が「人民の意志」という革命グループの爆弾で暗殺され、その後を継いで即位した息子アレクサンドル三世が打ち出したユダヤ人弾圧政策にあった。

マルクスとエンゲルスがユダヤ人だったというだけでなく、『屋根の上のバイオリン弾き』に登場した革命を夢見る若者のように、革命思想がユダヤ人のあいだに広く普及していたことも事実であった。しかし後年、実際にロシア革命が起こってみれば、「ユダヤのブルジョワを抹殺せよ」という言葉と共に、多くが職工や小店主のような貧しいユダヤ人が血祭りにあげられ、犠牲になったのである。

第一波として起こった年のポグロムは、地球を揺り動かし、その年から、ヨーロッパ全土のユダヤ人が新天地を求めて大規模なアメリカ移住をはじめた。このとき運河をねらうロスチャイルドも具体的に動きはじめ、翌82年にはイギリス兵をスエズに送りこんで、運河を支配してしまった。今度は株券による支配ではなく、力による制圧であった。四十年前に慈善家モンテフィオーレがエルサレムを訪れた時、そこにユダヤ人の国家が建設される夢を思い描いていたが、今やポグロムによって、ただの夢から急がなければならない計画へと変わったのが、ユダヤ人国家の建設だったからである。

ヒルシュ男爵が南米のアルゼンチンにユダヤ人労働者を移住させたとき、この作業を取り仕切ったゴールドシュミットが、いまや中東にも姿を現し、ロシアからの移民をこの地に受け入れる準備を進めた。ユダヤ人が生きる糧として、パレスチナへの農業移民が計画され、ワインの製造がはじまった。今日のイスラエルを訪れると、"カルメル・ワイン"が販売されている。これがポグロムによって誕生したものだが、その創業資金三万フランを提供したのが、ほかならぬエドモン・ロスチャイルドであった。フランスの鉄道王ジェームズの息子である。

しかしここに、ポグロムの第二波がフランスで起ころうとしていた。

      (中略)

P454 こうしてスエズ運河からあがる利益は、イギリス、フランスいずれも、血を流したアラブ人ではなく、ユダヤ王の手に渡った。さらにフランスでは、鉄道王の時代から、ユダヤ人にとって危険な事業の進め方が注目を集めていた。ジェームズがロスチャイルド家の総本山「北部鉄道」会社を設立した時から、その株の販売法に重大な疑問が生まれていた。ジェームズは特殊な人間にしか株を譲渡しなかったからだ。今日のインサイダー取引とは比べ物にならない露骨な方法で、まず、利権を許可するフランス政府の要人に株が渡され、ついで、それを告発する新聞界にひそかに株が譲渡された。

一般の投資家が申し込んでも、ジェームズはその手紙を開こうともせずくず箱に投げ捨て、身近な友人--ユダヤ人グループにだけ分ける方法をとった。この元手となる資金がロスチャイルドの企業グループ内部にとどまる事業であれば、そのような利権の配分も資本主義の世界では当然の権利として主張することが許されたであろう。ところがフランス全土に鉄道ネットワークを張りめぐらすのに、これだけの公共事業でフランス民衆の血税が使われないなどということは、あり得なかった。

工事を遂行するに当たっては、国家からロスチャイルド家への払い下げや無償の恩典などが、何人かの、懐をあたたかくした政府要人のサインで認可されたのである。その結果、フランス人の金が鉄道の線路のうえを走ってゆき、そのうちかなり金額がユダヤ人の家に配達されてしまった。これで何も起こらないはずはなかった。

ジェームズの息子エドモンの時代になると、ロシアのポグロムに刺激されて、フランス全土で反ユダヤ感情が燃え上がった。1884年にパリで反ユダヤ会議が開催されると、それから十年後、決定的な事件が怒る日を迎えた。前世紀末、1894年10月15日、ユダヤ人のアルフレッド・ドレフュス大尉が叛逆罪で告発され、逮捕されたのである。

      (中略)

P436 ドレフュス家はアルザス地方の裕福な商家で、一方、穀物商社ルイ=ドレフュス家も同じアルザスで穀物に進出した一族として、深いつながりを持っていたはずである。これは当初から、ただのユダヤ人の逮捕事件ではなかった。ロスチャイルド家をおとしいれるため、最初からドレフュスに狙いをつけ、仕組まれていたに違いない。

アルザス・ロレーヌ地方は、南ドイツやスイスと国境を接する微妙な地帯で、すでに第二次世界大戦の説明で登場したマジノ線の構築地、つまり兵器メーカー「シュネーデル」のヴァンデル家が根城としていた地方である。













■P570 アルジェの戦い

P570 映画『アルジェの戦い』を見て、ほとんど知られていないフランス人の実像を知った。またベトナムの惨状を知って、それ以前にインドシナを侵略したフランス人の姿が浮かびあがってきた。そのとき、抽象的に"フランス人"と定義することが間違いであることは、自らの国を振り返れば分る。

P571 おそるべき大日本帝国の侵略史でも、何人かは抵抗して殺された日本人がいた。国民を戦争に駆り立てるものは常に利権無知である。"アルジェリア戦争"と"インドシナ戦争"の場合、戦争犯罪人を知るには、それぞれの土地で原住民を牛馬のように酷使した商人銀行家の名前を調べなければならないであろう。彼らが最大の利益を懐にしてきたからだ。

ところが従来の歴史は、政治家と軍人だけを調べて断罪し、商人と銀行家を野放しにしてきた。

■スタール夫人 596 598 606

P597 皇帝ナポレオンの最大の敵は、ロシア皇帝でもエジプトでもなかった。げにおそるべきはフランス文学史上に名を残す閨秀作家スタール夫人であった。

P598 アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ネッケルという女性は、パリに駐在していたスウェーデン大使エリック・スタール・ホルスタイン男爵と結婚し、スタール夫人と呼ばれた。父親はスイスジュネーブの銀行家で、王制時代にフランスの大蔵大臣であったから、その娘のスタール夫人がナポレオンを宿敵として狙ったのは当然である。そこには、ナポレオンに片思いしながら満たされないという女の情欲もあった。文学史上に有名な、このネッケル家のサロンに集まったディドロ、ダランベールなど多くの知識人のまわりを、実際には無数の大資本家が取り巻いていた。

調べてみると、スタール夫人の系図は、"石油成金"の(系図47)に登場したシュルンベルジェ家やマレ家といった一族で埋められてくる。過去に語られてきたフランス文学論は、この視点から再び内容を吟味する必要があるだろう。このようなブルジョワ世界に育った早熟な文学少女は、フランス革命によってスイスに逃れ、『個人および国民の幸福に及ぼす情熱の影響について』という、よく読めばまことに興味深い題名の大著を発表した。いかにも意味ありげなタイトルではないか。情熱が国民の幸福を左右してしまう、と言うのである。

で、パリに戻れる日がやってくると、スタール夫人はこの論文を自分の情熱をもって実証しにかかった。ナポレオンをを敵にまわして筆を執ったのである。ナポレオンはナポレオンで、この女は憎しとばかり執拗に追撃し続け、逃亡するスタール夫人をジュネーブから、イタリア、スウェーデン、ポーランド、ロシアに追うほど怒り狂ったのである。閨秀作家とは、学芸に秀でた女流文学者のことだが、スタール夫人の閨秀は、文字通り閨事に秀でた"寝室の情熱"を本意としていたものと見え、どこに行ってもそこに男が現れた。

彼女の前に現れたのが、"悪の天才"タレイランであった。とりわけ"手の早い"タレイランである。フランス革命後は国民議会の議長に選ばれ、外務大臣になるかと思えば皇帝ナポレオンの侍従長をつとめ、懐が淋しくなるとロシア皇帝に金を無心しながら、いかなる体制のもとでも巧みに泳ぎまわったタレイランである。スタール夫人は、このような悪人に心惹かれ、パリではパトロンとなって互いに愛人関係を取り結んだ。

         (中略)

P606 悪の天才タレイランの右腕として官房長官をつとめたのが、ピエール・サミュエル・デュポンという男であった。ダイヤモンドに太陽の熱を集めて燃やしてしまい、この宝石が炭素からできていることを証明した天才--近代化学のすべての

P607 基礎となる"質量保存の法則"を近世ヨーロッパで発見した天才--裕福な一族であったためフランス革命のギロチンによって首をはねられた男--その天才アントワーヌ・ラヴォワジェに弟子入りしたのが、ピエール・デュポンの息子であった。

ラヴォワジェの親友であったピエール・デュポンは、当時の経済学者と定義されているが、実のところはそのような面白くない肩書の人物ではなかった。ちょうどロスチャイルド家が台頭する時代に、商人と手を組んで新大陸をものしようとさまざまな工作をしたデュポンであったが、利権をめぐってアメリカに肩入れしすぎたため投獄され、やがて故国フランスを逃れてアメリカに移住してしまったのである。

そこで今度は、息子たちと「デュポン商会」を設立したのだが、この資金を出してくれたのが、ほかならぬスタール夫人の叔父ルイ・ネッケルであった。"死の商人"の系図に、悪の天才タレイランとスタール夫人が仲良く登場し、両人が寝室でなにごとかを語り合っていたわけであるが、ふたりの会話は愛の秘めごとばかりでなく、デュポン商会をどうするかという謀でもあったと見える。やがてこのピエール・サミュエルの息子エリューテール・イレネー・デュポンがあとを継ぐと、ラヴォワジェの科学技術、スタール夫人の金、タレイランの悪知恵、この三大要素を集めて愛の結晶を生み落とした。

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