2018年5月7日月曜日

偏愛メモ 『赤い盾』

■タイタニック号の悲劇 三富豪夫妻のそれぞれ 、そして、、、P56-84

P56 イングランド銀行総裁の息子エドワード・グレンフェルは、すでに1900年にはロンドンのモルガン商会の支配人となり、それから早くも四年後にはロスチャイルド一族の代表として"パートナー"と呼ばれる最高幹部のポストに就いていた。(中略)J・P・モルガンの父が創設したこのジュニアス・スペンサー・モルガン商会は、いまや全米一の富豪として君臨するモルガン家と、ヨーロッパの王者ロスチャイルド家が名実ともに合体した成果を祝って、1907年に「モルガン・グレンフェル商会」と看板を書き換えたのである。

このあとグレンフェルはインターナショナル商船の株を買い集めて重役室に座ると、タイタニック号のオーナーであるイギリスのホワイトスター汽船を買収してしまい、その勢いを駆って全世界に力を誇示しようとした。タイタニック号は、いまやこの「モルガン・"ロスチャイルド"商会」のシンボルとして船出したのだ。

P62 ベンジャミン・グッゲンハイムは、アシスタント・スチュワードのジェームズ・エッチズに妻への遺言を託した。---もし私の身に何か起こったら、私は最善を尽くした、とニューヨークにいる妻に伝えてくれ---。(中略)

P66 アスター夫妻の場合は、救命ボートにひとりで乗ることを拒む妻を、夫が強く説得して脱出させた。このときは、まず女性全員をボートに乗せてから男が脱出するという状況のなかで、億万長者アスターでさえボートへの乗り込みを拒否されたのである。なかには、アスター夫人からショールをかぶせてもらい、女装して巧みにボートで脱出した男もいたのだが、それを知りながら自分の夫を助けられなかったアスター夫人の無念の気持ちはいかばかりであったろう。アスターの最後の姿を伝える生存者の話は無数に語られているが、彼も堂々たる態度を保ちながらこの世を去っていった。(中略)

P67 アスター夫妻はタイタニックの悲劇によって生涯の仲を引き裂かれたが、シュトラウス夫妻は違っていた。夫イシドールと妻アイダは、最後まで別れることを拒み、手を取り合いながら深海に呑まれていったのである。イシドール・シュトラウス夫人アイダは、タイタニック号の一等船客アーチボルトグレーシーがボートで脱出するよう執拗に説得したにもかかわらず、夫のもとから離れることを拒み続けた。このアーチボルトは、ロスチャイルド家と因縁の深い人物だった。

大英帝国がネイサン・ロスチャイルドによって金融支配されるなかで、すでに述べたようにキリスト教徒として気を吐いたのが「ベアリング商会」だった。P68 彼らは新天地アメリカに進出し、19世紀には「モルガン商会」と手を組みながら、莫大な金をアメリカの鉄道に注ぎ込んでいた。このベアリング商会のニューヨーク支店で代々にわたって社長の座を占めてきたのが、タイタニック号の乗客アーチボルト・グレーシーの一族だった。

ロスチャイルド家とベアリング家は、この当時の資本金としてすでにロスチャイルド家が六倍にも達し、外国での公債引き受け額も三倍と、どこを見ても相手を圧倒するライバル関係に変わっていた。バイロンが謳ったユダヤ教とキリスト教の力関係は、もはやベアリング家にとって腹立たしいものになっていた。しかし冷たい甲板のうえで展開した未曽有の悲劇は、グレーシーがシュトラウス夫人を必死で助けようとする姿と変わったのである。

シュトラウス一族は、バヴァリア(ドイツ・バイエルン地方)で活躍するユダヤ商人だったが、南北戦争前の1852年、アメリカに移り住んだ。初代ラザルス・シュトラウスがニューヨークで商売に励んでいるとき、ガラス細工や陶磁器を扱う有名なメイシーデパートの仕事を引き受けるようになり、二代目のイシドールが弟ネイサンと共にこのデパートのパートナー、つまり重役まで出世した。彼らはグッゲンハイムやアスターが入り込んだ上流社会とは違って、

P69 直接に大衆に物を売る商売のなかで、着実に財を築きあげ、遂には"高級デパート"という今日のセールス形態を確立したパイオニアと呼ばれている。それcは、金銀財宝を地底から掘り出してきたグッゲハイムの加工品を、華やかな高級デパートでシュトラウスが売り出す商売であった。あるいはアスターが交易したミンクなどの高級毛皮商品をメイシーデパートの一流品売り場で扱い、そのダイヤと毛皮で身を包んだ大富豪の女性たち、モルガン、ロックフェラー、ヴァンダービルトらがウォ ルドーフ・アストリア・ホテルのスウィート・ルームに泊まるという世界であった。

アメリカ新時代の巨人にとって、グッゲンハイム、アスター、シュトラウスの三家は、必要不可欠な"ユダヤ商人"であった。なかでもシュトラウス家は、タイタニックの死者イシドールの実弟オスカー・ソロモン・シュトラウスがアメリカ合衆国で最初のユダヤ人閣僚となった歴史が示すように、政界さえ動かす重要ファミリーとして台頭したのである。オスカーは、セオドア・ルーズヴェルト大統領のもとで、タイタニック沈没の六年前、1906年に商務労働長官のポストを手にした。(中略)

シュトラウス家もロスチャイルド一族だったのである。(中略)アメリカ合衆国は、アングロサクソン民族に支配されていたが、この時代から着実に"ロスチャイルド"も紋章をそちこちにちりばめ出していた。(中略)

P80 そうなれば、ユダヤ系という表現は正しくない。正しいどころか、すでに説明した通り「モルガン・グレンフェル」というマーチャント・バンクは、"ユダヤ人嫌いのモルガン"と"ユダヤ人のロスチャイルド"が合体した巨大な投資銀行だ。ではなぜ犬猿の仲であるはずの両者が、寄り添って相手の腰に手を回しパートナーとなったのであろうか。彼らは日本、アジア全域、アフリカ、南米などを侵略するために、次のように手を組んで活動してきた。

「ロスチャイルド家は、重要な19世紀にアメリカ大陸への投資に意欲的ではなかった。そのためロックフェラーとモルガンに出し抜かれた」---このような俗説が巷に氾濫しているが、それは家系図を調べたことのない投資エキスパートが落ちりやすい皮相的な結論である。P80 確かにロンドンのマーチャントバンクが発行したアメリカ合衆国とカナダの鉄道証券を見ると、一位は断然ベアリング商会であり、取扱い高はロスチャイルド商会の実に四十倍を超える金額だ。バイロンの詩を書き換えなければならないほどの差をつけている。

ところが、ロスチャイルド一族の連合として金額を合計すると、J・ゴールドスミスの祖先が創立した「ビショップス・ハイム・ゴールドシュミット商会」をはじめとして、「ルイス・コーエン商会」、「セリグマン商会」、「ハンブローズ銀行」はいずれも""の一族に入り、ここに「モルガン・グレンフェル」を加えると、ちょうど両者が逆転してしまう。ベアリング家よりもロスチャイルド家のほうが高額の投資をしていたのだ。しかもアメリカに創立されたクーン・レーブ商会、ゴールドマン・ザックス、ドイツのワーバーグ銀行がすべてロスチャイルド一族であった。

このトリックを見破られないようにするため、秘密主義では史上最高の頭脳と機動力を持つロスチャイルド家がアメリカに送り込んだ兵器こそ、誰あろう伝説の富豪オーガスト・ベルモントであった。ベルモントはフランクフルトのロスチャイルド商会で厳しい丁稚奉公を終えたあと、「急いでニューヨークへ行ってくれ」と命ぜられたのである。金融王ネイサンがこの世を去った翌年、1837年のことであった。彼は新天地に着くと、時の王者ロスチャイルドの代理人を名乗りながら、そちこちで物色をはじめたのである。(中略)こうして探り当てたのがキャロライン・ペリーであった。

ペリー提督が今日の沖縄、当時の琉球那覇に姿を現したのは、この結婚からわずか四年後の1853年のことであった。(→関連『日本1852』-ペリー遠征計画の基礎資料-)(中略)ベルモントの結婚相手キャロラインこそ、このペリー提督の娘であった。(中略)ロスチャイルド家はこの英雄一族をパートナーに取りこむと、さらに閨閥を広げるよう、ベルモントに強く指示を与えた。なるほど、今度はベルモント家の二代目になる、その名もオリヴァー・ハザード・ペリー・ベルモントという、商売上これほど好都合の肩書きはない海軍ヒーローの名前を頂戴した息子が、ややあってアメリカの鉄道王ヴァンダービルトにP82 近づき、そこは複雑なヴァンダービルト夫妻の事情があったと見えて、ロスチャイルド家の代理人は何とその夫人と結婚してしまったのである。(中略)

一方、ヴァンダービルト家は、ベルモントに妻を寝盗られたウィリアムがめでたくラザフォード夫人と結婚を果たし、その弟のジョージ・ワシントン・ヴァンダービルトは、ロスチャイルド家をしのぐ世界一の個人住宅をニューヨークに構え、兄のコーネリアス二世はシカゴのギャング王アル・カポネと親密な関係を取り結びつつあった。後年、全世界の若者がグロリアヴァンダービルトジーンズを穿く時代を迎えるが、このジーンズはコーネリアス・ヴァンダービルト二世の孫娘が発明した商品で、彼女の二番目の夫だ大指揮者のレオポルド・ストコフスキー、三番目の夫が映画監督シドニー・ルメットという閨閥まで完成させたのである。

このような手法を身内のベルモントから学んだペリー一族も、黙って見ていたわけではなかった。「意味のある結婚を!」、これを合言葉に他念なく営々たる努力を続けた結果、ペリー提督の兄のひ孫アリスが、ボストン上流社会のジョゼフ・グリューと結ばれたのである。グリューは高校・大学を通して、二年後輩の若き重要人物、フランクリン・ルーズヴェルトと親交を深めていた。言うまでもなく、時のセオドア・ルーズヴェルト大統領の一族であった。このグリューの名を、日本人は忘れないだろう。

やがて1931年に満州事変が勃発したが、この日本人の蛮行を、浦賀以来の仲であるペリー一族のグリューが承認しないはずはなかった。利権主義者同士の了解というものだ。翌年に早くもグリューが公式に日本大使として着任した直後、フランクリン・ルーズヴェルトが第三十二代大統領に選ばれた。さきほど示した巨大な系図8のなかで、タイタニック号の犠牲者となった"ホテル王アスター"と、"ロスチャイルド一族"をつなぐ線が、実はこのルーズヴェルト大統領によって結ばれていた事実再び注意を払っていただきたい。それが伝説的富豪のロスチャイルド家の代理人をつとめたオーガスト・ベルモントの手腕であった。ロスチャイルド商会が扱う商品は、ダイヤと金銀、ウランだけではない。あらゆる人種・宗教・国籍の人間をベッドに招いて扱うことを得意としている。(中略)

P83 これで"赤い盾"ロスチャイルドがモルガン・グレンフェルを仲人として"反ユダヤ主義者"モルガンと手を組んだ理由が漠然とながら推測できるだろう。(中略)1989年に何が起こっているか。…(中略)ロスチャイルド家がフランクフルトに復活すると宣言した直後の9日、東西ベルリンの壁の取り壊しが開始され、27日にそのドイツ銀行がわが「モルガン・グレンフェル」の買収を発表したのである。翌28日、コール首相が遂に東西ドイツの再統一を提案し、ある人間の目から見ればそれが歴史の流れを過去のナチス帝国時代に戻そうとするかのように映ったか、2日後の30日、ドイツ銀行の頭取として軍需産業の統合と「モルガン・グレンフェル」の買収に全精力を傾けたヘルファウゼン頭取が爆殺されてしまった。

  現代の鍵を、ドイツ銀行とロスチャイルドが握っていることが分かる。そのモルガングレンフェルとロスチャイルドの正体を知るため、歴史のなかでもう一歩調査を深めてみる時、そこに信じ難い事実がさらに二点隠れていることに気付くだろう。日本大使であったグリュー一家のジェーングリューが、当時全米一の富豪J・P・モルガンJrの妻となっていたのである。

今日、アメリカの巨大財閥モルガン家は消滅したという話が定説になっている。しかし彼らは、姿を変えて生きている。系図9に見られる通り、まぎれもなくロスチャイルドの代理人オーガストベルモントと閨閥をつくり、「モルガン・グレンフェル」のなかに融合している。モルガン家は統一ドイツの象徴「ドイツ銀行」に入り込んでいるのである。

■アヘン P146-163


■アリ=カーン P354-355

P354 アリ=カーンはただのプレイボーイで片付けられる男ではなかった。ボリビアの鉱山王パティーニョと深い関係にあった上流社会の花形エルザ・マックスウェル女史によれば、アリの愛人は何千人もいるため数えられず、それがことごとく

P355 上流社会の婦人や芸能界の花形だったという。シャンソン歌手ジュリエット・グレコによれば、アリと寝なかった女がいるかしら、との話。スポーツカーを駆って世界中を走りまわり、国連大使をつとめた桁違いの大富豪、女にとってこの男に惚れなければ不思議という物語だったが、本人によれば、「なに、連中が俺のことを黒人と呼んで馬鹿にしたから、あいつらの女を全部ものにしたまでよ。これで借りを返したわけだ」

■シェルブールの雨傘 P440-444

P441 アニェス・ヴェルダ監督の夫ジャック・ドミーは1990年にこの世を去ったが、本書を書きはじめてから、登場する主人公が次々と他界してゆくのは奇怪である。ドミー監督が生み出した『シェルブールの雨傘』は、すべての台詞をオペラ形式で歌わせるという手法で、ミュージカル映画史上かつてない対話法を見せ、観客に驚きを与えた。出征する若者を見送るカトリーヌ・ドヌーヴの悲恋が主題歌として歌われ、大いにヒットした。1964年に制作され、カンヌ映画祭でグランプリを受賞したのである。

フランスのマドレーヌ映画社の作品で、そのプロデューサーであるジルベール・ゴールドシュミットは、この映画会社の創立者で会長でもあり、事業は多方面にわたって、フランス映画界に隠然たる勢力を持つと言う。このゴールドシュミットは、父親の姓がもう少し長いもので、自分の代になってP444 短く省略したのである。父親は、ロドルフ・ゴールドシュミット=ロスチャイルドといい、すでに系図31(url)の上部に示した通り、イギリスの王室や首相とつながる大変な一族、ロスチャイルド家の直系子孫である。ヒットラー台頭当時の複雑怪奇な上流社会のユダヤ人として、辛酸をなめたはずだ。

しかし『シェルブールの雨傘』には、公開当初からふたつの別の重大な問題が秘められていた。世界的にはほとんど議論されなかったが、北アフリカではこの作品に異議が出されていた。映画のなかでフランスの若者が出征していく先はアルジェリアで、この映画が製作された年はアルジェリアの独立から二年後に当たっていた。フランスの侵略戦争が、ミュージカルというエンターテインメントのなかで誰知るともなく美化され、悲恋の曲を口ずさむ全世界の観衆が同情の思いを寄せて賛美してしまう、という落とし穴が掘られていたのである。

もう一つの問題は、後年になってようやく気づく人間が出るか出ないか、というさらに巧妙な仕掛けであった。ロスチャイルド財閥がこの作品の舞台となったシェルブールという小さな田舎町に、壮大なプロジェクトを進めていたのが、映画公開当時の状況であった。公開四年前の1960年に、北アフリカのサハラ砂漠でフランス発の原爆実験が成功したあと、ウランとプルトニウムを大量生産するための再処理工場が必要となり、軍需工場と連動する大工場が求められていた。

それがシェルブール、今日世界最大の「ラ・アーグ再処理工場」である。ここに記録する”映画と工場の関係”は抽象的なものではなく、実際にヴェルダ監督の弟ジャン・ヴェルダが、フランスで最初の株式銀行としてジェームズの時代に設立された商工信用銀行の重役であった。『シェルブールの雨傘』公開当時この大銀行の重役室で大きな声を出していたブノワ・マルシラシーは、ロスチャイルド銀行の代理人としてよく知られ、この銀行が、原子力の工業界に投資をしていたのである。

『シェルブールの雨傘』は、こうして有形無形の貢献を果たし、カンヌでグランプリに輝いた。これも偶発的な一致に過ぎないと言うのであろう。アニェス・ヴェルダと白血病でこの世を去ったジャック・ドミーの監督夫妻は、高く評価されてよい。

■ロシア革命前後と大商人たち 反ユダヤ主義 ドレフュス事件 シオニズム P445-462


P445 ことに帝政ロシア時代に大部分の民衆が極貧の生活にあえいでいた事実と照らし合わせると、ギンズブルグ一族がロシアの特殊社会を構成し、よく言えば指導的な立場、はっきり言えば巧妙な支配階級--それもごく一握りの大富豪--の一員であったと推定される。彼らは帝王に取り入り、すべてのヨーロッパ王室で見られたように利権と財宝を交換しながら、互いに協力し合って巨富を蓄えた。その利権者である帝政時代の商人たちがロシア革命によって根絶されたかと言えば、そうではなかった。ロマノフ王朝という頭の部分だけが、シベリアのエカチェリングブルグ(現在のスベルドロフスク)におけるニコライ皇帝一家の処刑によって消し去ら

P446 れ、その裏で革命後の歴代ソ連首脳は、密かに帝政ロシアに仕えた御用商人を貴重な人材として登用してきた。1989年の激動に至るまで72年間という長い年月、西側との交易をこの商人に頼って生き抜いてきたのである。たとえばアメリカ人のペプシ・コーラ会長ドナルド・ケンドールや、1990年にこの世を去ったオクシデンタル石油のアーマンド・ハマーが、ソ連国内で深くアメリカとつながっていた。しかしヨーロッパのロスチャイルド家は、こうした人物と比較にならない規模で、実際に"ソ連の国民"として生き続け、内側にあって西欧との交易を続けてきた。

いまやソ連は、72年のあいだ隠れていたこの商人たちが公然と活動を開始する日を迎えた。すでにその顔は、そちこちに見えはじめた。民衆が起こしたロシア革命は、決して民衆を救わず、スターリン時代に民衆を大量虐殺するという逆の結果を招いたが、これはひと握りの商人利権者がクレムリンの官僚機構を支配していたからである。ペレストロイカが進行すると共に"パーミャチ"と呼ばれる反ユダヤ主義の組織が台頭してきた。

これは商人支配への反動として民衆の怒りが爆発し、一面ではナチス台頭時代とよくに似た状況が生まれてきたことの危険な証左でもある。その悲憤の根底にあるのは、言われているような民族問題ではなく、こうした利権集団に対する耐え難い感情にあった。

      (中略)

P447 ロシアに根をおろしながら、グンツブルグ家は全世界にユダヤ人富豪の閨閥をひろげていった。すでに本書のあちこちで登場したグンツブルグ家を、今度はこの一家を中心にまとめてみると、孫娘がインド香港上海の支配者アヘン王サッスーン家に嫁いだあと、投資銀行ラザール・フレールの創業一族でウォール街収入トップのデヴィット・ウェイル家と結ばれ、アメリカの鉱山一族セリグマン家、ヨーロッパとトルコの鉄道王ヒルシュ男爵家、そして1990年代に世界ユダヤ会議の会長をつとめるシーグラム・ウィスキーの

P448 ブロンフマン家という具合に、地球の支配者として成功するユダヤ人を次々とロスチャイルド一族に取り込んでしまった。いずれも桁違いの富豪ぞろいで、この世のご大陸を席巻したのである。グンツブルグ家が活躍したのは、ロシアのロマノフ王朝を動かしたという怪僧ラスプーチンの時代に当たるが、ロシアのユダヤ人であったア・シマノウィッチの著書『ユダヤ人とラスプーチン』には、当時の情景が生々しく記録されている。

      (中略)

P450 イスラエルという国家の建設について、新しい視点から砂漠の謎を解いてみたい。それには中東だけを見ていたのでは何もわからない。ロシア-フランス-アルジェリア-イスラエルを結ぶ歪んだ四角形のなかにあるのが、1992年の統合を控えたEC諸国である。この四つの頂点をたどると、中心に存在する謎の観光会社「地中海クラブ」の全貌が浮かびあがる。

      (中略)

P451 ユダヤ人の穀物業者ルイ=ドレフュスがフランスからスイス、ロシアへと進出し、ロシア小麦をフランスへ送りはじめた。この商売を取り仕切ったのがグンツブルグ家であったことは言うまでもなく、今日第四位と言われるルイ=ドレフュス社の金庫「ルイ=ドレフュス銀行」副社長は、つい先年まで、アラン・グンツブルグ男爵であった。この男爵はミンダ・ブロンフマンと結婚し、後年の世界ユダヤ人会議の会長ブロンフマンと義兄弟のなかとなるが、19世紀後半におけるユダヤ人としてのロスチャイルド家の活動は、次のように激烈をきわめた。

ロシア小麦がマルセイユに運ばれていた頃、イギリスでは初のユダヤ人首相ディズレリが誕生し、ソロモン王以来という鳴り物入りでユダヤ人の王と崇められたが、

      (中略)

ロスチャイルド家に入りびたり、南アのダイヤに目がくらみ、植民地政策を強力におし進め、彼の遺産整理をおこなったのがロスチャイルド家だったことである。そのユダヤ人ディズレリが首相のとき、ロシア封じ込め政策を打ち出し、帝政ロシアに挑戦状をたたきつけたのが1878年であった。ロスチャイルド、モンテフィオーレ、ドレフュス、グンツブルグ、ディズレリがヨーロッパ全土結束し、黒海のオデッサからボスポラス海峡を抜けて地中海に至る貿易ルートを、独占しようとしたのである。

一方、フランスの鉄道王ジェームズ・ロスチャイルドは、地中海から東洋へ抜けるスエズ運河をつくってさらに広大な貿易ルートを独占しようと計画していたが、ディズレリの首相誕生の年にこの世を去ってしまった。しかも皮肉にも、ジェームズの死の翌年、1869年にレセップスによって運河が開通し、ついにインドへの大貿易ルートが開かれる日を迎えた。

レセップス家は古い名門で、ロスチャイルド財閥ではなかった。そのためロスチャイルドは複雑な利権が絡み合うイギリス政府に手を回してスエズ運河の計画を妨害し続けたのだが、彼らの手で開通してしまったものは致し方ない。そこで金融世界の策謀によって少しずつスエズ運河会社を追いつめすでに述べたようにディズレリ首相の時代にこの会社の株を大量にロスチャイルドが買い取る、という作戦を果たしたのである。

      (中略)

P452 マルクスの資本論第一稿が発表されて貧しい民衆の怒りが爆発寸前になっていた時代、ロスチャイルド家の行動には思慮というものが欠けていた。南アでダイヤが発見された直後に、ディズレリ首相が誕生したというのも単なる偶然ではなく、ディズレリを社交界に送り込んだロンドンデリー侯爵夫人とは、ほかならぬ背ビレ四枚ゴールドスミスの第三夫人の祖先にあたる人物であった。

1878年のロシア封じこめ政策は、ロシア皇帝を激怒させ、三年後にロシア全土にユダヤ人虐殺"ポグロム"の嵐が吹き荒れた。ポグロムとは"凶暴なる攻撃"として使われる言葉だが、"雷のように"襲いかかる攻撃という意味が語源であった。これが『屋根の上のバイオリン弾き』の物語に描かれた悲劇であった。実際にその引き金になったのは、ロシア皇帝アレクサンドル二世が「人民の意志」という革命グループの爆弾で暗殺され、その後を継いで即位した息子アレクサンドル三世が打ち出したユダヤ人弾圧政策にあった。

マルクスとエンゲルスがユダヤ人だったというだけでなく、『屋根の上のバイオリン弾き』に登場した革命を夢見る若者のように、革命思想がユダヤ人のあいだに広く普及していたことも事実であった。しかし後年、実際にロシア革命が起こってみれば、「ユダヤのブルジョワを抹殺せよ」という言葉と共に、多くが職工や小店主のような貧しいユダヤ人が血祭りにあげられ、犠牲になったのである。

第一波として起こった年のポグロムは、地球を揺り動かし、その年から、ヨーロッパ全土のユダヤ人が新天地を求めて大規模なアメリカ移住をはじめた。このとき運河をねらうロスチャイルドも具体的に動きはじめ、翌82年にはイギリス兵をスエズに送りこんで、運河を支配してしまった。今度は株券による支配ではなく、力による制圧であった。四十年前に慈善家モンテフィオーレがエルサレムを訪れた時、そこにユダヤ人の国家が建設される夢を思い描いていたが、今やポグロムによって、ただの夢から急がなければならない計画へと変わったのが、ユダヤ人国家の建設だったからである。

ヒルシュ男爵が南米のアルゼンチンにユダヤ人労働者を移住させたとき、この作業を取り仕切ったゴールドシュミットが、いまや中東にも姿を現し、ロシアからの移民をこの地に受け入れる準備を進めた。ユダヤ人が生きる糧として、パレスチナへの農業移民が計画され、ワインの製造がはじまった。今日のイスラエルを訪れると、"カルメル・ワイン"が販売されている。これがポグロムによって誕生したものだが、その創業資金三万フランを提供したのが、ほかならぬエドモン・ロスチャイルドであった。フランスの鉄道王ジェームズの息子である。

しかしここに、ポグロムの第二波がフランスで起ころうとしていた。

      (中略)

P454 こうしてスエズ運河からあがる利益は、イギリス、フランスいずれも、血を流したアラブ人ではなく、ユダヤ王の手に渡った。さらにフランスでは、鉄道王の時代から、ユダヤ人にとって危険な事業の進め方が注目を集めていた。ジェームズがロスチャイルド家の総本山「北部鉄道」会社を設立した時から、その株の販売法に重大な疑問が生まれていた。ジェームズは特殊な人間にしか株を譲渡しなかったからだ。今日のインサイダー取引とは比べ物にならない露骨な方法で、まず、利権を許可するフランス政府の要人に株が渡され、ついで、それを告発する新聞界にひそかに株が譲渡された。

一般の投資家が申し込んでも、ジェームズはその手紙を開こうともせずくず箱に投げ捨て、身近な友人--ユダヤ人グループにだけ分ける方法をとった。この元手となる資金がロスチャイルドの企業グループ内部にとどまる事業であれば、そのような利権の配分も資本主義の世界では当然の権利として主張することが許されたであろう。ところがフランス全土に鉄道ネットワークを張りめぐらすのに、これだけの公共事業でフランス民衆の血税が使われないなどということは、あり得なかった。

工事を遂行するに当たっては、国家からロスチャイルド家への払い下げや無償の恩典などが、何人かの、懐をあたたかくした政府要人のサインで認可されたのである。その結果、フランス人の金が鉄道の線路のうえを走ってゆき、そのうちかなり金額がユダヤ人の家に配達されてしまった。これで何も起こらないはずはなかった。

ジェームズの息子エドモンの時代になると、ロシアのポグロムに刺激されて、フランス全土で反ユダヤ感情が燃え上がった。1884年にパリで反ユダヤ会議が開催されると、それから十年後、決定的な事件が怒る日を迎えた。前世紀末、1894年10月15日、ユダヤ人のアルフレッド・ドレフュス大尉が叛逆罪で告発され、逮捕されたのである。

      (中略)

P436 ドレフュス家はアルザス地方の裕福な商家で、一方、穀物商社ルイ=ドレフュス家も同じアルザスで穀物に進出した一族として、深いつながりを持っていたはずである。これは当初から、ただのユダヤ人の逮捕事件ではなかった。ロスチャイルド家をおとしいれるため、最初からドレフュスに狙いをつけ、仕組まれていたに違いない。

アルザス・ロレーヌ地方は、南ドイツやスイスと国境を接する微妙な地帯で、すでに第二次世界大戦の説明で登場したマジノ線の構築地、つまり兵器メーカー「シュネーデル」のヴァンデル家が根城としていた地方である。

■P570 アルジェの戦い

P570 映画『アルジェの戦い』を見て、ほとんど知られていないフランス人の実像を知った。またベトナムの惨状を知って、それ以前にインドシナを侵略したフランス人の姿が浮かびあがってきた。そのとき、抽象的に"フランス人"と定義することが間違いであることは、自らの国を振り返れば分る。

P571 おそるべき大日本帝国の侵略史でも、何人かは抵抗して殺された日本人がいた。国民を戦争に駆り立てるものは常に利権無知である。"アルジェリア戦争"と"インドシナ戦争"の場合、戦争犯罪人を知るには、それぞれの土地で原住民を牛馬のように酷使した商人銀行家の名前を調べなければならないであろう。彼らが最大の利益を懐にしてきたからだ。

ところが従来の歴史は、政治家と軍人だけを調べて断罪し、商人と銀行家を野放しにしてきた。

■スタール夫人 596 598 606

P597 皇帝ナポレオンの最大の敵は、ロシア皇帝でもエジプトでもなかった。げにおそるべきはフランス文学史上に名を残す閨秀作家スタール夫人であった。

P598 アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ネッケルという女性は、パリに駐在していたスウェーデン大使エリック・スタール・ホルスタイン男爵と結婚し、スタール夫人と呼ばれた。父親はスイスジュネーブの銀行家で、王制時代にフランスの大蔵大臣であったから、その娘のスタール夫人がナポレオンを宿敵として狙ったのは当然である。そこには、ナポレオンに片思いしながら満たされないという女の情欲もあった。文学史上に有名な、このネッケル家のサロンに集まったディドロ、ダランベールなど多くの知識人のまわりを、実際には無数の大資本家が取り巻いていた。

調べてみると、スタール夫人の系図は、"石油成金"の(系図47)に登場したシュルンベルジェ家やマレ家といった一族で埋められてくる。過去に語られてきたフランス文学論は、この視点から再び内容を吟味する必要があるだろう。このようなブルジョワ世界に育った早熟な文学少女は、フランス革命によってスイスに逃れ、『個人および国民の幸福に及ぼす情熱の影響について』という、よく読めばまことに興味深い題名の大著を発表した。いかにも意味ありげなタイトルではないか。情熱が国民の幸福を左右してしまう、と言うのである。

で、パリに戻れる日がやってくると、スタール夫人はこの論文を自分の情熱をもって実証しにかかった。ナポレオンをを敵にまわして筆を執ったのである。ナポレオンはナポレオンで、この女は憎しとばかり執拗に追撃し続け、逃亡するスタール夫人をジュネーブから、イタリア、スウェーデン、ポーランド、ロシアに追うほど怒り狂ったのである。閨秀作家とは、学芸に秀でた女流文学者のことだが、スタール夫人の閨秀は、文字通り閨事に秀でた"寝室の情熱"を本意としていたものと見え、どこに行ってもそこに男が現れた。

彼女の前に現れたのが、"悪の天才"タレイランであった。とりわけ"手の早い"タレイランである。フランス革命後は国民議会の議長に選ばれ、外務大臣になるかと思えば皇帝ナポレオンの侍従長をつとめ、懐が淋しくなるとロシア皇帝に金を無心しながら、いかなる体制のもとでも巧みに泳ぎまわったタレイランである。スタール夫人は、このような悪人に心惹かれ、パリではパトロンとなって互いに愛人関係を取り結んだ。

         (中略)

P606 悪の天才タレイランの右腕として官房長官をつとめたのが、ピエール・サミュエル・デュポンという男であった。ダイヤモンドに太陽の熱を集めて燃やしてしまい、この宝石が炭素からできていることを証明した天才--近代化学のすべての

P607 基礎となる"質量保存の法則"を近世ヨーロッパで発見した天才--裕福な一族であったためフランス革命のギロチンによって首をはねられた男--その天才アントワーヌ・ラヴォワジェに弟子入りしたのが、ピエール・デュポンの息子であった。

ラヴォワジェの親友であったピエール・デュポンは、当時の経済学者と定義されているが、実のところはそのような面白くない肩書の人物ではなかった。ちょうどロスチャイルド家が台頭する時代に、商人と手を組んで新大陸をものしようとさまざまな工作をしたデュポンであったが、利権をめぐってアメリカに肩入れしすぎたため投獄され、やがて故国フランスを逃れてアメリカに移住してしまったのである。

そこで今度は、息子たちと「デュポン商会」を設立したのだが、この資金を出してくれたのが、ほかならぬスタール夫人の叔父ルイ・ネッケルであった。"死の商人"の系図に、悪の天才タレイランとスタール夫人が仲良く登場し、両人が寝室でなにごとかを語り合っていたわけであるが、ふたりの会話は愛の秘めごとばかりでなく、デュポン商会をどうするかという謀でもあったと見える。やがてこのピエール・サミュエルの息子エリューテール・イレネー・デュポンがあとを継ぐと、ラヴォワジェの科学技術、スタール夫人の金、タレイランの悪知恵、この三大要素を集めて愛の結晶を生み落とした。

6 地中海クラブ P549-585
P563 創業者であるコンラッドとマルセルのシュルンベルジェ兄弟は、今世紀初頭の一九一三年に、最初の地質物理学的手法を石油探査に導入し、十年後にはこれによって初めて大規模な油田を発見する快挙を成し遂げた。今日の石油世界に、新機軸を開いたのである。その大油田を発見したのが、一九八九年に独裁者チャウシェスクが処刑されたルーマニアであった。しかもその石油の支配者は、すでに一九〇八年にロスチャイルドが現地に設立していたシェル・ルーマニアであり、そこに死の商人ザハロフが投資するなど、ほとんど"赤い盾"で構成されるファミリーが利権を分配し合った。そのためシュルンベルジェ家の栄光の歴史は、初めからロスチャイルド一族と軌を一にしてきたのである。

詩人ハイネが、ブルジョワの代表者ギゾー首相から秘かに年金を貰っていたことが発覚し、フランスで大きな問題となったことがあった。このギゾーの曾孫が、石油探査王シュルンベルジェ兄弟であり、その創業者の孫が前述の『シラノ・ド・ベルジュラック』のプロデューサーであった。そしてシュルンベルジェ社の重役室には、現代のラザール・フレールの企業買収王フェリックス・ロハティンが座っている。こうしてエッフェル塔の下に群がるフランス財閥がヨーロッパの石油を動かしているという、想像もできない世界を見ることになったが、そう考えれば、エッフェル塔の鉄骨が油田のやぐらと瓜二つに見えてくる。

二百家族の役者が次第に揃ってきたようである。第一が銀行家、次に出てきたのが石油成金であった。このあとに続くのは何であろう。夜のシャンゼリゼ大通りには、ドゴール広場に立つ凱旋門に向けて洪水のように自動車の波があり、ヘッドライトが広い坂道をおおいつくしている。そこから一歩裏道へ入れば、なまめかしいヨーロッパの夜が展開し、旅人を誘惑する。この自動車の群れは、プジョー、ルノー、シトロエンの華麗な行進である。P564 しかし彼らもまた、石油やガスを燃やしながら情熱を燃やしてきた。二百家族がこの金の卵を放っておくものだろうか。(中略)

フランスの自動車業界と言えば、プジョー、ルノー、シトロエンだけでなく、さらに自動車狂がよく知っているのは、タイヤ・メーカーとして一九九〇年七月現在、世界第二位のミシュラン社である。本書刊行の頃には、トップのグッドイヤーを抜いて一位になっているかも知れない。アメリカのユニロイヤル・グッドリッチ・タイヤを買収することですでに合意に達し、アメリカ連邦取引委員会の認可がおりれば、あのゴム・タイヤをつないで作ったシンボル・マークの人形"ビベンドゥム"で知られるミシュラン社のタイヤが、世界の道路を一番よく転がることになる。

もう一社、古くからの自動車マニアが知っている「パナール自動車」がある。今ではシトロエンに吸収され、そのシトロエンがプジョーの傘下に入ってしまったが、ダイムラーの技術を導入したフランス最古の自動車会社パナールは、フランスの死の商人、ミラージュ戦闘機を開発したマルセル・ダッソー育ての親であった。プジョー、ルノー、シトロエン、ミシュラン、パナール…まさかとは思うが、系図48を描いてみる。いやな予感は、得てして的中するものだが、きわめて簡単な一筆描きによって、創業者が全員ロスチャイルド家の閨閥、特にラザール・フレール創業一族に取り込まれていた。(中略)

近代文明のシンボル・自動車とヨーロッパ名門貴族ロスチャイルド---このような関係には一瞬の違和感を覚えるが、近代的な大馬力エンジンを持った自動車がドイツ人のベンツとダイムラーによって開発されたあと、ダイムラーの特許をフランス人のパナールとプジョーが買い取ってから、世界の自動車実用化の歴史はスタートした。時代は、映画の開発と同じ十九世紀末であった。フランスの大工業家プジョー一族のピエール・アルマン・プジョーの場合には、鉄工所などの長い経験から、直ちに実用的な自動車の生産に突入していった。ところがまだ高級品という世界であったから、この時代に技術者が求めたのは、金に糸目をつけずに開発費をポンと与えてくれるパトロンであった。この辺りで、ロスチャイルド一族が"買い手"として、また、"パトロン"として、両方の面で自動車の業界を創り出していったのである。

フランスのプジョー工場で製造された自動車が海を渡ってイギリスに着いたのはさらにそのあとのことで、ロールス・ロイス創業者のひとり、チャールズ・ロールスが一八九五年にP565プジョーの三・七五馬力の自動車を購入したとき、イギリスで自動車を持っていたのはわずか三人であった。そのひとりが「ウェストミンスター銀行」の創立者として紹介したデヴィッド・サロモンズ、つまり金融王ネイサン・ロスチャイルドの甥である。こうして、イギリスでは王室オートモビル・クラブの母体となる自動車協会を、ネイサンの孫レオポルドが創立した。

現代でも、ロールス・ロイスが航空エンジン部門と自動車部門に分割されてからは、この自動車のオーナーがロスチャイルド財閥の兵器会社ヴィッカースとなり、航空部門は「ロスチャイルド銀行」重役のトゥームズがロールス・ロイスの会長をつとめ、もうひとりの会長キンダースレー卿がラザール・ブラザーズの会長を兼務してきた。フランスでは、石油王アンリ・ドイッチと共に、オランダ出身の名門貴族ヴァン・ズイレン男爵がオートモビル・クラブを創立したが、彼の結婚相手は"ブリオッシュ"というあだ名の女性であった。卵とバターをたっぷり使って、丸々と焼きあげたパンのことである。(中略)

一九九〇年代の西ヨーロッパの自動車業界は、トップに立つドイツのフォルクスワーゲン(VW)、に僅差で続く二位フィアット、三位プジョー、四位フォード、五位ゼネラル・モーターズ(GM)、六位ルノーまで、販売シェアではほとんど変わらない激しいデッドヒートを展開している。このうちVWとGMを除けば、すべてが"赤い盾"の傘下で走っていることが系図から分かる。アメリカのフォード社も、ヨーロッパではラザール・フレール一族にハンドルを託している。タイヤのミシュラン社がシトロエンの株を大量に保有したのは一九三五年、イタリアのフィアットがシトロエンの株四九パーセントを買い占めたのが一九六〇年代末の状況であった。

シトロエン創業者アンドレ・シトロエンの父はオランダ出のダイヤの細工師であったが、そのユダヤ人一家が第一次大戦から工業分野に乗り出したのは、アンドレの息子マクシムがラザール・フレール一族と結婚したためであった。しかもシトロエン社が世界恐慌のなかで倒産したとき、ミシュランが救いの手をさしのべ、証券取引所でその株価が急騰するという信じ難いことが起こった。実はあの女詐欺師の銀行家、マルト・アノーの情報によって相場が狂乱したのであった。二代目マクシム・シトロエンが勤めていたのはロスチャイルド家のサガ海運であったから、どこを向いても王様はひとり。イタリアとドイツの自動車業界についてはそれぞれのお楽しみとしておくが、アメリカのGMの株を買い占めたのがチャーチル首相の閨閥デュポン家であるから、世界は一つになっている。

P569 そして図の下段まで目を追ってゆくと、石油産業が飼っている巨像が姿を現わす。非鉄金属と化学工業である。ヨーロッパ最大のアルミ産業「ペシネー社」と、フランス最大の世界的な化学・薬品工業「ローヌ・プーラン」の両社とも、"リヨンの王様"と呼ばれるジレ家の手で育てられ、ことに一族のなかでも最高の権力者として知られたルノー・ジレが、ラザール・フレールの重役という肩書を持って活躍してきた。特にジレ家は、ロスチャイルド家にとって最強のライバルとして君臨してきた工業家であったはずだが、ペシネー社、ローヌ・プーラン社のいずれも、植民地への侵略と石油・原子力の世界でロスチャイルドと手を組まずには成長することも叶わず、一家族への統合が果たされた。

石油をめぐる争いと、そこから得られるガソリンを使う自動車の開発と、もうひとつ、石油を精製する化学工業の発達が同時に進行してきた。社会を動かす力は、二十世紀に突入した時、これらの産業に大きく依存していたのである。台風の目が、石油の販売網を握るロスチャイルド家と、エンジンを握るドイツ産業界にあった。この両者がアメリカ大陸では同じ陣営にあったが、ヨーロッパ大陸では不幸にして、対立する陣営にあった。

7『地獄の黙示録』P586-645
P611 「ウォルムズ銀行」の資金の一部は、このようなエンターテインメントに注がれてきたが、その資金源に問題があった。この銀行のオーナーであるウォルムズ一族に巨財をもたらしたのが、わがアジアのセイロン島だったのである(上巻172頁の図参照)。かつてはインド帝国の一部だったが、紅茶で知られるセイロン島は南海貿易の中継地として栄え、ロスチャイルド台頭の時代にイギリスに支配され、植民地として侵略されてきた。現在は独立してスリランカという国名になっているが、相変わらず、経済と文化はイギリス人によって動かされてきた。ところが第二次世界大戦の時代に、大日本帝国はセイロンをイギリスの植民地とはみなしていなかった。この島を、「ウォルムズ家の私有地であり、ロスチャイルドの所有となる」と記していたのである。これは事実であった。

この土地買収がはじまったのは、独裁的な東インド会社が事実上消滅し、アジア貿易が公式にロスチャイルド家の商人に自由に解放された時代、一八四一年のことであった。前年にはアヘン戦争がはじまり、一族のサッスーンたちが暴れまわっていたが、この虚をついて、ウォルムズ家の兄弟が広大な森林を買収し、やがてすっかり島全体を買い占めてしまったのである。ウォルムズ家は、ロスチャイルド発祥の地フランクフルトから南へライン河に沿って六十キロのところにある町ウォルムズ、やはりアルザスの出と考えられるが、フランクフルトの豪商であった。金融王ネイサンの姉ジャネット・ロスチャイルドを一家に迎えて、ドイツからさらにフランスとイギリスにかけて広くヨーロッパの金融業者としての地歩を確立し、ウォルムズ海運と称する船団が植民地の略奪をほしいままにした。

P612 石炭を運び、クリミヤ戦争で死体を数えながらボロ儲けしたあと、スエズ運河に進出したのがウォルムズ家の大きな転機となった。時代は石炭から石油へ移ろうとしていたのである。実に、バクー油田の石油を積み出し、貝ガラ印のシェル帝国を築いた伝説の人マーカス・サミュエルの背後には、この海賊一族のウォルムズ海運が存在し、金の卵、石油を輸送していた。これまで、"フランス・ロスチャイルド家のシェル"と書いてきたが、それではまだ抽象的な表現であったことになる。フランスのオイルタンカー艦隊の三分の一を所有していたのが、ウォルムズ銀行であった。実に知らないことが多いのに驚かされるが、フランスの不思議な性格が、そこにある。陰湿な秘密主義、表にはファッション、文学、映画など世間受けするものだけを送り出しながら、植民地の悪事などはほとんど世界から見えないように進めてゆき、スイス銀行に通じるビジネスを遂行するフランスの二百家族---一家族。

これは、フランス株式会社と言うより、ロスチャイルド株式会社である。イギリスと一体になって動いているからである。ウォルムズ銀行のロンドン一族は、三兄弟が一八一五年に渡英するとたちまち貴族となり、その二代目にしても早くもヘンリー・ウォルムズが植民地の最高位についてしまった。彼は国際砂糖会議の議長をつとめるなど、セイロン島を足場に悪徳インディー・ジョーンズとして、南海貿易を取り仕切ったのである。フランスに残ったウォルムズ家も同じように政界に進出し、前述のようにフランス銀行が札束を独占した記念すべき一九四八年に大蔵大臣だったグードショーを丸め込み、その娘を嫁に迎えてしまったのである。こうしてドーバー海峡をひとまたぎにする海運一族が、ロスチャイルド家の事業にどれほど貢献したかは言うまでもない。

問題は、植民地にされたアジアである。セイロン島の茶畑とコーヒー園だけでなく、ここを中継地点として、インドシナへの侵略がはじまった。イギリス編で説明した中国、香港、インドへの侵略と、これから物語るフランス編のインドシナへの侵略が、ちょうど同時代の出来事であった。ロスチャイルドは、その両国に存在していた。最後にはアメリカによるベトナム戦争が引き起こされたが、それは、過去言われてきたようにCIAとアメリカ財閥の力だけによるものではなかった。歴史の順序で言えば、インドシナ戦争に続いてアルジェリア戦争とスエズ動乱が勃発し、その後にベトナム戦争が起こった。(中略)腹いせにアメリカを焚きつけたのである。焚きつけた人間がホワイトハウスに隠れていたはずだ。その男を探し出さなければならない。

P613 のちにドゴールが口にした"民族自決政策"などは、その民族の自決権を踏みにじって軍人に指令を与えたドゴール本人が、恥ずかしくて口にできないはずのものであった。(中略)フランス領インドシナは、今日のベトナムと呼ばれるトンキン、安南、コーチシナと、さらに半島内陸部のラオスからカンボジアまでを含む、広大な範囲にわたっていた。わが国のちょうど二倍の面積にもなろうとする広さで、しかもフランスとは言いながら実質的なロスチャイルド国際財閥は、イギリス人として中国に入り込んだ一族と手を組み、国境を越えてアジア全土に鉄道網を張りめぐらしていった。インドシナでの目的は農業、なかでもコメであった。当時はインド、シャム(現在のタイ)と共に世界の三大米供給地と呼ばれる豊かさを誇り、第二次世界大戦前の資料によると、米がすべての輸出品総額の七割を占めていた。われらの穀物商社ルイ・ドレフュスとブンゲがこれを狙わないはずはなかった。

ところがインドシナの歴史を調べてみると、不思議なことにこれらの穀物商人の名前は一切出てこない。米は一体どこに消えてしまったのであろうか。(中略)P616 産業は米ばかりでなく、綿花、トウモロコシ、タバコ、コーヒー、お茶、ゴムといった農産物や林業から、石炭、鉄、亜鉛、タングステンなどの鉱物まで広くおよび、基本的にはこの土地で工業を育てるというより、原料を根こそぎ奪い去るという方式の泥棒ビジネスであった。具体的な名前を調べてみよう。

ロスチャイルド家の業者と軍人を示した系図をもう一度見ていただきたいが、セイロン島を足場にアジアとヨーロッパを結ぶ「ウォルムズ海運」のほかに、ロスチャイルド家の植民地専用船として知られる通称「サガ海運」がここに登場してくる。(中略)つまりロスチャイルドの代理人が現地の鉄道と銀行をおさえていたのである。これは、鉄道王ジェームズが「北部鉄道」を創設し、そこから北部会社、さらに北部投資という会社が誕生した経過を見てゆくと、北部投資の副社長ジェッタンがインドシナに鉄道を敷いたのは当然であったろう。インドシナ鉄道の親会社は、図解したようにジェームズの北部鉄道だったのである。鉄道と海運を握れば、米が消えてしまうのも、次のような理由から特別に奇妙なことではなかった。

鉄道で運ばれた米粒には、名前など書かれてはいなかった。仮にそれがフランス国家の公共的な収奪物として扱われたとしても、ジェッタンは大蔵省の高官だった男である。ウォルムズ海運とサガ海運に任せておけば、セイロン島で待機している穀物艦隊ルイ=ドレフュスの船に商品を積み換えようが、途中でブンゲの船団に出くわして取引しようが、ことは自然に運んだのである。ブンゲの重役アントワーヌ・シュテルンの祖父エドガーは、インドシナ銀行のなかでも№3に数えられる要人だったからである。それでもインドシナと"赤い盾"の穀物商社をめぐる国家ぐるみの犯罪を疑う人があれば、"フランスとソ連の首脳一族が描く血の利権"の系図45を再び見ていただきたい。独裁者スターリン一族のフランス首相サローは、このインドシナの総督であった。その一族もルイ=ドレフュスの重役である。総督と首相と穀物商社と"赤い盾"。

このロスチャイルド財閥の中心人物シュテルンが大きな力を持ったのは、自分の一族がすでにウィーン家のサロモン・ロスチャイルドに嫁を出して金融王ネイサンと血縁関係に入り、P617 エドガーの母方がラザール家だったからである。ラザール・フレールがアメリカ合衆国で穀物の集散地、南部のニューオルリーンズに店開きしていたことが、シュテルン家にとって大きな意味を持っていた。それが麦の穂の黄金色に輝く金貨の音となって聞こえたのは、「パリバ銀行」誕生の瞬間である。(中略)

なぜインドシナの物語にパリバ銀行が登場しなければならないのであろうか。一八七五年に「インドシナ銀行」がパリに設立され、フランスの植民地政策がそれまでと違って大規模な商業的性格を帯びたとき、この銀行はフランスの主だった資本家にとって重要な投資先と映った。支店は勿論サイゴンに建設され、株式会社として発足した。(中略)このインドシナ銀行がインドシナ半島を支配し、やがてフランス第三の銀行に成長していったのである。そぽこで手にする天文学的な利益が、株主を戦争に駆り立てることになった。利益が大きければ大きいほど、インドシナ半島における民族の独立は、株主にとって莫大な財産の消滅を意味していた。インドシナ銀行の最大株主銀行パリバと、そこに密かに入り込んでいたロスチャイルド家の一族。これがさきほどの簡単な系図52が物語る、ベトナム侵略の真相であった。

ところがそれはほんのプロローグにすぎなかった。序奏のあと、いよいよ壮大な悲劇の幕が開いた。インドシナ銀行の創立株主は、数十人に達していた。(中略)一八七五年にフランスがインドシナ銀行を設立してから奇しくもちょうど百年後、一九七五年にサイゴンが陥落したのである。アメリカが敗退してベトナム戦争が終了するまで実に百年間、そのあいだ日本人が侵略した時代も含めて、インドシナ半島は地獄のなかにあった。P618 第二次世界大戦の地獄はわずか六年であった、と書けば猛烈な非難を浴びるだろう。ではインドシナ百年間の地獄とは何であったのか。千辛万苦した日々の憤激は、侵略された土地の人間が耐え、抵抗し、虐殺され、石油を浴びて火ダルマになりながら全世界に「もうやめてくれ」と訴えた僧侶たちの姿のなかにあった。

一九九〇年代に入った今日も、まだカンボジアでは地獄の内戦が続いてきた。かつてフランス領インドシナと呼ばれたカンボジアである。フランス製のストリム・ロケット弾など最新兵器が次々と送り込まれ、兵器は敵味方なく流通しながらすでに数百万と言われる死体を数え続けてきた。ポルポト軍だけを残忍だとする言い訳は通用しないし、これが現在のわれわれ自身との関係から見ると、次のようになる。東京・麻布の高台には各国の大使館がたち並んでいる。この急坂をおりると"地中海通り※"と呼ばれる大通りがあって、六本木や原宿と共に夥しい数の若者が集まってくる。なぜここが地中海に通ずるのかと再び高台を眺めると、その一画で特に立派なフランス大使館が遠望される。(※1980年時代、外苑西通りのうち、西麻布交差点から天現寺交差点の間までの区間を「地中海通り」と呼ばれた )

一九六〇年代のわが国の激動期、それはベトナム戦争がトンキン湾事件によってアメリカの本格的な介入を迎えたもっとも重要な時期であったが、その館にフランソワ・ミソッフという男が日本大使として着任した。沖縄や横田、横須賀、佐世保などの基地を中心に、米軍の戦闘機や軍艦がベトナム人の大量殺人に出発していったのである。P619 この戦争によってわが国の工業界は莫大な利益をあげ、今日の経済大国を育てあげた。日本大使ミソッフは、「ジャポン・アンヴェスティスマン」あるいは「ジャポン・パシフィック・ファンド」の会長として、その後のわが国との関係のなかで実業界の牛耳をとってきた人物だが、「日本投資」あるいは「日本太平洋財団」の会長と訳せば分かりやすい。ミソッフの妻は、フランス外相ジャン・フランソワ=ポンセの妻とは実の姉妹で、ジャンの父親はドイツ大使であった。このフランスの日本大使、ドイツ大使、外相の三人が、わずか五人の名前を書いた系図のなかに収まってしまうという外交官一族であった。(中略)

ミソッフとフランソワ=ポンセは、一九九〇年代にもわれわれの前で公然と活躍している。その系図は、少し広げて描く必要がある。兵器商人ヴァンデル家の娘ムコが、日本大使ミソッフと外相フランソワ=ポンセであるからだ。死の商人ヴァンデルとシュネーデルと書いても、これまでは読者に実感がなかったであろう。アルザス・ロレーヌ地方を中心に、シュネーデル兵器工場がドイツと奇妙な交歓風景を見せた第二次世界大戦の歴史も、ヨーロッパ物語にしか聞こえなかったかも知れない。しかしヴァンデル家は、麻布の大使館に来ていたのである。今日も日本投資の総帥である。

一九九一年五月十六日、フランス史上初めての女性首相エディット・クレッソンの内閣が発足し、「日本は敵である」、「アメリカでは男の四分の一はホモで、イギリスとドイツも同じような状況にある」などの支離滅裂な発言が伝えられたが、首相就任前のクレッソンの仕事こそ、シュネーデルの「社長特別顧問」であった。アルザスで育てられ、夫はプジョーの幹部であった。日本を敵呼ばわりした彼女の発言が、プジョー会長ジャック=カルヴェの作文であったことはフランスでもよく知られ、シュネーデル会長ディディエ・ピノー=ヴァランシェンヌが彼女を首相にした黒幕と言われている。(中略)

P622 "ドゴール主義と植民地政策"の正体を描くと、このような系図53ができあがる。いま説明したヴァンデル一族の外交官三人は、右下に現代の世代として示されている。十九世紀にフランスの銀行家セイエールがシュネーデル兵器工場の設立資金を融資した時から、この物語ははじまった。古い歴史を探ると現代が手に取るように分かるので、よく見ていただきたい。これは大変な系図である。セイエールはフランスからドイツの死の商人クルップに融資した重要な銀行家であった。このセイエールと手を組んだのが、ロスチャイルドを目の仇にしていたシャルル・ドマシーというもうひとりの大資産家であった。

セイエール家とドマシー家は、ドマシーの娘ふたりがセイエール親子と結婚するという奇怪な姻戚関係をとり結び、続いてその子供がヴァンデル家と結婚した。問題の兵器工場を設立したヴァンデル家は、のちにこの工場を買収したシュネーデル家とパートナーとして手を組み、やはり一族となった。彼らはユダヤ人ではない。ロスチャイルド家だけが同族結婚を繰り返したのではなく、クリスチャンたちもみな同じように同族結婚によって財産を守ってきた。こうしてドマシー銀行とセイエール銀行から「ドマシー・セイエール銀行」が生まれた。ところがそこに、まったく別の家族が登場した。ドゴール家である。(中略)

ドゴール将軍の曾祖父は、パリ議会に議席を持つ小政治家だったが、その孫の代つまり将軍の父親が、農業を支配する大実業家の一族と結婚した。こちらはタバコや砂糖で巨財を成す家系で、なかでもそこから誕生した金融家オクタヴ・オンベルグは、アジア・アフリカの人間にとって忘れられない存在となった。その名も「フランス植民地金融社」という、文字通り植民地を侵略する旗頭となって、フランス本国で植民地ブームを煽り、マーチャント・バンカーとしてパリ証券取引所を動かした銀行の創業者、それがオンベルグだった。この金融会社の頭取として、アジアからアフリカ、南太平洋のすみずみまで、シュネーデル社の兵器で身を固めた軍隊と共に進出する企業を傘下に従え、あらゆる産業にわたる株を握って、巨大トラストを形成したのである。

そのオンベルグ家の名は、アレクサンドル・ディエツが一九〇七年に著した『フランクフルトのユダヤ人の系譜』という書物によれば、十九世紀のヨーロッパにおける大金融家として、ロスチャイルド家、シュテルン家、ゴールドシュミット家、オッペンハイマー家に伍して十二大ファミリーに数えられていた。ドゴール将軍は、キリスト教徒とユダヤ教徒のいずれをも代表する銀行家に挟まれた家系にあった。







・連合国の欺瞞あるいは冷戦代理戦争

P632 1945年8月15日の日本敗戦から2日後には早くも、シェル石油のボルネオで知られるインドネシアが、独立を宣言した。続いてそれからわずか半月後、9月2日にはインドシナ半島のベトナムが、独立を宣言した。

ところがヨーロッパ人は、日本が敗れたのでので当然自分の財産"植民地"がそっくりそのまま戻ってくると思い込んでいたので、オランダはインドネシアに軍隊を進め、フランスはインドシナに軍隊を進めていった。第二次大戦における連合国の勝利もまた、無数の映画を通じて、無数の書物を通して、半世紀にわたって聞かされてきた美しい正義の勝利と呼べるものではなかった。

過去の歴史の記述のなかで唯一正しいと思われるのは、日本人とドイツ人がおかした戦争犯罪についての部分だけである。そのほかの国に関しては、大戦後にまたしてもアジアを侵略した醜い欲望について、ほとんど何も伝えられていない。(中略)

P633 この時代、フランス本国ではイヴ・モンタンの『セ・シ・ボン』が大ヒットし、第一回カンヌ映画祭が開催され、『狭き門』のアンドレ・ジードにノーベル賞が贈られていた。しかしインドではガンジーが暗殺され、中東ではアラブ人に理解を示す国連の調停者ベルナドット伯爵が暗殺されていた。国連が人権を守る宣言を採択した1948年12月10日にも、インドシナ半島の人間はヨーロッパ人に殺され続けていた。

1951年、すでに朝鮮半島には新しい戦火があがっていたが、インドシナ半島では、ラオス、カンボジア、ベトナムが手を組んで、フランスに対抗する強力な連合戦線が結成された。こうして53年4月には、フランス軍がラオス北部から撤退するという重大な局面を迎えた。敗色濃厚なフランスの危機を訴えるため、パリに駐在していたフランス大使クラレンス・ダグラス・ディロンは、アメリカ本国に至急電報を打った。(中略)

インドシナ戦争の末期に打電されたこの一通の電報が、"地獄の黙示録"アメリカによるベトナム戦争への道を拓く、決定的なものとなった。打電された日付は、1954年5日となっている。フランスは遂に7年半におよぶ大戦争で敗北を喫し、国防大臣ルネ・プレヴァンは辞任した。



11 バチカンのゴッドファーザー P795-820
P802 イエス・キリストの第一の使徒ペテロは、ノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家シェンキェヴィッチの作品『クォ・ヴァディス』のなかで、次のように殉教者として描かれた。暴君ネロは新しい都ネロポリスを建設する妄想にとり憑かれてローマに火を放ったが、群衆の怒りが爆発したためローマの大火をキリスト教徒の仕業であると逆宣伝した。そして闘技場に数千人の観衆を集めると、ライオン数十頭を放ってキリスト教徒八つ裂きのショーを見せるという残酷な振舞いにおよんだ。

この難を逃れた使徒ペテロは、自らの伝道がこの地獄を招いたものと苦悩しつつ街道を歩んでいたが、そこに突然一条の光が天にきらめくのを見た。ペテロは思わず大地にひざまずいた。「クォ・ヴァディス・ドミネ(主よ、いずこへ行き給うや」)」と問いかけると、ペテロの頭上にキリストの声が聞こえた。「ローマに戻りて、再び十字架にかからん」この天のお告げを耳にして闘技場に戻ったペテロは、そこでライオンに食われ、火あぶりにされている殉教者たちに心の平安を与えながら、自分は十字架に逆さ吊りのはりつけとなって処刑されてしまったのである。

この『クォ・ヴァディス』の物語は、十五年の歳月をかけてロバート・テイラー、デボラ・カーの主演で映画化された。イタリア全土の人が動員されてエキストラとなり、ローマの大火を再現、MGMの超大作としてとして映画ファンを劇場に吸い寄せたが、何と言っても巨人ウルススが本物の猛牛と格闘して牛の首をねじ折る場面と、ピーター・ユスティノフの暴君ネロが語り草となった。最近ではアガサ・クリスティーの『ナイル殺人事件』、『地中海殺人事件』などの名探偵ポワロ役を演じるユスティノフは、父親がMI5工作員で、白系ロシア人の陸軍将校であるから、一九七六年から八四年までソ連の国防大臣をつとめたドミトリー・ウスチノフ元帥の一族と思われる。ユスティノフとウスチノフのつづりは同じである。

この『クォ・ヴァディス』の殉教者、聖ペテロこそ、バチカンで初代のローマ法王(教皇)とされている人物である。ペテロがはりつけになった場所がバチカン(正しくはVatican)P803の丘、そしてバチカン市国にそびえるサン・ピエトロ寺院が、ペテロすなわちイタリア名"聖ピエトロ"のために建てられた教会であり、キリスト教の総本山となった。現代の第二六四代法王ヨハネ・パウロ二世はポーランドが生んだ初の法王で、そのためポーランドの"連帯"にバチカン銀行を通じて莫大な支援を送り、愛読書がポーランドの作品『クォ・ヴァディス』であることはよく知られている。

一九八一年五月に起こった法王暗殺未遂事件は、 この""との関係を断たせるためKGBが裏で糸を引き、トルコのテロリスト、アリ・アジャに銃撃させたのが真相だと言われているが、アリ・アジャの組織に係わって武器密輸の疑いで起訴されたのがミュージカル映画『南太平洋』の主役ロッサノ・ブラッツィであった。ロシアのピーター・ユスティノフが『クォ・ヴァディス』のなかで初代のローマ法王を殺し、ロシアの国防大臣ウスチノフがKGBを使って現代のローマ法王を実際に殺そうと企み、しかも殺されかけた当のローマ法王が『クォ・ヴァディス』を愛読していたという奇怪なパズルは、名探偵ポワロでも解くことができまい。



13 ベルリンは燃えているか P868-930
P869 ドイツに戦車を進めたこの連合軍は、実質的には共産主義のソ連と、自由主義のアメリカ、イギリス、フランスの四か国であったが、自由主義の側で最大の力を持っていたのが、ヨーロッパの救世主アメリカであった。それで、戦後ドイツの占領政策を支配したのはアメリカ人であった、という印象が強い。しかしそのアメリカ人のなかで、ドイツの占領政策に最大の発言力を持っていたのは、"ユダヤ人"の財務長官ヘンリー・モルゲンソーJrだったのである。「ドイツの財閥を完全に解体し、農業国家にせよ」モルゲンソーのこの案は、すでに戦争が終わる前の一九四三年に打ち出されたものであったが、その後、あまりに非現実的であったため四八年に正式に破棄されるまで、モルゲンソーのドイツ徹底分割案が連合軍の指針となってすべてが動いた

現在一九九〇年代に、ニューヨーク証券取引所の犯罪を裁くマンハッタン地方裁判所で検事をつとめているロバートモルゲンソーがその息子であり、ニューヨークでイスラエル国債を管理して中東戦争を指導してきた。ナチスの犯罪によって最大の被害を受けたユダヤ人が、ドイツの戦後処理に当たったのは当然の経過であった。わが国の毛戦後処理に当たってはアメリカ人が占領軍となり、被害者である中国、朝鮮、アジア諸国の人たちが口を挟むことさえできなかった歴史と、決定的な違いがここにあった。日本はドイツ以上に分断されてしかるべき戦争犯罪を、アメリカ人によって赦免されるといういい加減な歴史をたどったため、今日までアジアのなかで国際的な意識の低さを招いてしまったが、実は、もっとはるかに厳しい戦後が訪れるべきであった。それがアジアの人たちの変わらぬ心境である。

これに対してドイツでは、ヨーロッパ全土のユダヤ人が起ちあがって、ナチスの残党を壊滅させるための政策が打ち出された。その指揮者モルゲンソーが、祖母に鉱山王グッゲンハイム家のパペットを持つロスチャイルド一族であったのは、歴史の宿命でもあったろう。結果として、戦犯の処刑以上に重要な作業として、そのときドイツ工業界および金融界に握られていた株券を吐き出させる処分が、あらゆる大企業に対して強制的におこなわれるところまで計画が進められていった。

P870 ところがナチスの犯罪者に株券を放棄させるには、ジーメンス、AEG、IGファルベンなどを動かしてきた大株主が、ニュルンベルク裁判によって"戦犯"と認定されるまで待たなければならなかったのである。ユダヤ人の壁がここにあった。しかも今日の誰もがアウシュヴィッツの悲劇を知るほどには、全世界がナチスの犯罪をまだ充分に知らされていなかった戦後の混乱期に、自らも打ちのめされていたユダヤ人がドイツで直ちに力を取り戻し、ドイツ工業界を動かすまでにはあまりにも道が遠かった。そのため、クルップは第一級戦犯として牢獄にぶち込まれたが、そのほかの実業家の多くは"自由主義の西ドイツ"でほとんど無傷で生き残ることになってしまった。なかった。ナチスの戦争犯罪は、ヨーロッパでも多くの場合に放免されたのである。

この動きを目にしたロスチャイルド家は、しばらくして状況をつかむと、大がかりな反撃に着手した。一九四八年、モルゲンソーのドイツ解体政策を引っ込める代わりに、イスラエルの建国による正式な戦争賠償への一歩を踏み出していった。そしてこの年、フランクフルトに戦後史上、最も重要な機関が誕生した。それは銀行であった。戦後の西ドイツ経済と政治を動かしたほとんどの要人が、歴史上ほとんど語られたことのないこの銀行に集まっていたのである。(中略)

その謎の銀行は、日本語に訳すと「戦後の再建のための信用銀行」(ドイツ語で(省略))という看板をかかげていた。わが国では復興金融公庫という無味乾燥な名前で訳されてきたが、本書では、原語を使って「再建クレディタンシュタルト」と呼ぶことにする。クレディタンシュタルト、その名前はロスチャイルド家がウィーンに設立し、第二次大戦前に恐慌の引き金を引いたあのハプスブルク帝国の大銀行と同じものであった。新生ドイツのなかで、"フォーチュン'90"などにランクされる今日の大企業は、第二次大戦前と何も変わっていない。しかし、そこにランクされていない重要な会社を調べてみると、この「再建クレディタンシュタルト」のほかに「アリアンツ保険」と「ドイツ・シェル」という名前があることに気づく。しかもそこにドイツの要人が大量に加わっていた。これらの名前は、ナチス帝国の響きではなく、ロスチャイルド財閥をただちに連想させるものだ。次のように並記するとわかりやすい。上が新生ドイツの会社、下がロスチャイルド財閥の会社である。

(上)再建クレディタンシュタルト---(下)クレディタンシュタルト[ウィーン]
(上)アリアンツ保険---(下)アライアンス保険[ロンドン]
(上)ドイツ・シェル---(下)シェル[ロンドン]

P871 この関係を象徴的に示す人間を何人か選び、ドイツとロスチャイルド財閥を図解したのが、次頁の"新生ドイツの金融総本山"の図である。左側に、ドイツ銀行、ダイムラー・ベンツ、クルップ、ザルツギッターと、いまの上段三社を"新生ドイツ"の代表として示す。これに対して、右側にあってそこにつながっているのは本書の主役モルガン・グレンフェル、フィアット、アマルガメーテッド・メタルと、いまの下段三社、いずれも"赤い盾"の代表である。この簡単な図が、今日のイラクのクウェート侵攻について多くの謎を解く貴重な図になる。歴史の扉はここから開かれる。

一九八九年にドイツ銀行がロンドンの投資銀行モルガングレンフェルを買収し、ヨーロッパ金融界に大きな驚きを与えたが、ロスチャイルド家にとっては予定の行動であった。東ヨーロッパに激動が起こる前にすでに組み立てられていたこの図のメカニズムを知れば、ロスチャイルド家の威力には頭が下がる。戦後の西ドイツを復興したのはドイツ人であった。しかしこの国の経済の半分を支配するといわれる巨大な鷲「ドイツ銀行」の背後には、西ドイツの国家が成立する前年に誕生していた「再建クレディタンシュタルト」があり、そこに「ドイツ・シェル」が食い込んでいたのである。またドイツ銀行に対しては、フィアットのアニェリやモルガン・グレンフェルの会長が支配する「アリアンツ保険」が、重要な鍵を握って入り込んでいた。

アリアンツ保険は、ロイズに比べて知名度は低いが、ヨーロッパの保険会社でロイズに次ぐ第二位の座を占め、しかも保険料収入は両社で大差はないという、実は知られざる巨大保険会社である。その親会社「アリアンツ・ホールディング」は、金融会社として一九九〇年の資産が世界第六位にランクされた。野村証券の二倍を超える額である。勿論この図は"ひとつの切れない関係"を示すための最小必要人数だけを示したもので、関係者をすべて書き入れてゆくと方眼紙のようにぎっしりと蜘蛛の巣状の絵ができてしまう。(中略)

P873 "フォーチュン'90"にランクされた西ドイツの企業番付と銀行番付を紹介しておこう。これが東ドイツを呑み込んだ統一ドイツの帝王たちである。(中略)いくつかの馴染みのない社名もあるかもしれないが、ほとんどは戦前のナチス時代がそっくり甦ったものであった。旧財閥の復活は、わが国より早くおこなわれ、重工業として造船や機械プラントを手がける鉄鋼王がみな復活してきたのである。"鉄のドイツ"をしのぐ自動車が一位と二位を占めるようになったのは戦前・戦後の大きな変化だが、アウシュヴィッツの強制収容所を経営した世界最大の化学コンツェルン「IGファルベン」が解体されても、戦後は元通りのBASF(バディッシュ・アニリン・ソーダ製造会社)、ヘキスト、バイエルの三社として甦り、これが四位、五位、六位にある。現在でもやはり世界最大の化学工業をドイツが握っていることになる。

一九九〇年には、この三社が出資して新会社を設立し、P874 IGファルベン復活の日を迎えたが、アメリカのデュポンでさえ、この三社を合わせた力には到底及ばない。鉄鋼王テュッセンは、今日もヨーロッパ最大の鉄鋼メーカーであり、世界的にUSX(旧USスチール)、新日鉄と並ぶ三大メーカーの座にある。(中略)

終戦直後のドイツ人は、ドイツ人であるというだけで犯罪者とみられたので、実際の投資事業や資金集めには、そこに恩情をかける外国の投資銀行の力を借りなければならなかった。ロスチャイルドをはじめとするユダヤ人にとっても、ドイツの工業を再興させ、新生国家イスラエルに戦争賠償金を支払わせる方が賢明であることは明らかであり、ナチズムを復活させないという言質のもとに、協力態勢を組んでいったのである。しかも東西対立と旧都ベルリンの分裂後は、西ドイツの再建がソ連に対するヨーロッパの防壁として急がれ、戦犯であるはずの事業家にほとんど株券が戻されてしまった。連合国が分裂したため、ドイツを裁く者が公式には存在しなくなってしまったからである。

ユダヤ人に対する賠償は、一九五一年三月十三日にイスラエルが被害を六十二億マルクと算定したが、翌年八月二十八日に両者がきわめて冷たい空気のなかで合意に達したのは、その半分以下の三十億マルクを十年にわたって支払うという条件で、イスラエル・西ドイツのあいだに調印がおこなわれた。そして翌月に、両国の国交が"正常化"したのである。実はこれと並行して、一九五一年初めに西ドイツのランツブルク刑務所から大量の戦犯が釈放され、四月三日に造船についての統制が撤廃されることになった。朝鮮半島に戦火が燃えあがり、急いでドイツ人の力を利用しようとするアメリカ・イギリス・フランスの軍需産業が、ドイツに造船を許す記念すべき日であった。

この日から喜びに沸くドイツの工業界は活気を取り戻し、一方ではイスラエルとの交渉を進めながら、一方ではアラブに接近する方向に歩んでいた。ここにヒットラーのドイツ国立銀行総裁であったヤルマール・シャハトが復活し、戦後のドイツを復興させるためにアラブ諸国に協力を求める作業に入っていた。勿論、取引の目的は石油であった。代わりに、アラブにタンカーをドイツが提供するというのだ。そしてシャハトと組んでこの仕事を実際におこなったのが、前述のようにほかならぬ一匹狼の海運王アリストテレス・ソクラテス・オナシス。ドイツ人とアラブ人にとって、オナシスは神のような存在となった。

かつてのヒットラーの屋台骨となった鉄鋼と兵器の王者クルップとテュッセンが、この造船業の解禁によって一挙に息を吹き返した。一体ロスチャイルドは、このようにドイツがアラブに接近する経過をなぜ黙認していたのであろうか。実は黙認していたどころではなかった。すでに述べたように、オナシスの船が運んだのは、ロスチャイルドの貝ガラ印シェルやチャーチル支配下のBPのためだったのである。結局はオナシスもアラブもシャハト、テュッセン、クルップも、みなロスチャイルドの手のなかでアラブの石油を「ドイツ・シェル」のために運びはじめたのである。さきほどの簡単な"新生ドイツの金融総本山"の図に、ドイツシェルの重役ギュンター・ザスマンスハウゼンという聞きなれない人物が描かれていた。これは現代のロスチャイルドの代理人だが、再建クレディタンシュタルトの重役でもあった。イラクのフセイン大統領に毒ガスを輸出した西ドイツの化学品メーカー「プロイサグ」の会長こそ、このシェルのザスマンスハウゼンであった。

P876 一九九〇年に中東で仕組まれた愚かな戦争の実態がここにあった。(中略)











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