第一章 金銀ダイヤの欲望に憑かれた男たち P21-136
1.1 ウォール街13日の金曜日 P23-29
1.2 フランクフルトの『夜と霧』 P30-40
1.3 シャーロック・ホームズのロンドン P41-55(参照)
1.4 SOSタイタニック P56-87(tw,tw,tw,tw,tw)
(タイタニック号の悲劇 三富豪夫妻のそれぞれ 、そして、、、)
P56 イングランド銀行総裁の息子エドワード・グレンフェルは、すでに1900年にはロンドンのモルガン商会の支配人となり、それから早くも四年後にはロスチャイルド一族の代表として"パートナー"と呼ばれる最高幹部のポストに就いていた。(略)J・P・モルガンの父が創設したこのジュニアス・スペンサー・モルガン商会は、いまや全米一の富豪として君臨するモルガン家と、ヨーロッパの王者ロスチャイルド家が名実ともに合体した成果を祝って、1907年に「モルガン・グレンフェル商会」と看板を書き換えたのである。
このあとグレンフェルはインターナショナル商船の株を買い集めて重役室に座ると、タイタニック号のオーナーであるイギリスのホワイトスター汽船を買収してしまい、その勢いを駆って全世界に力を誇示しようとした。タイタニック号は、いまやこの「モルガン・"ロスチャイルド"商会」のシンボルとして船出したのだ。
(略)
P58/ 60
P62 ベンジャミン・グッゲンハイムは、アシスタント・スチュワードのジェームズ・エッチズに妻への遺言を託した。---もし私の身に何か起こったら、私は最善を尽くした、とニューヨークにいる妻に伝えてくれ---。(略)P64
P66 アスター夫妻の場合は、救命ボートにひとりで乗ることを拒む妻を、夫が強く説得して脱出させた。このときは、まず女性全員をボートに乗せてから男が脱出するという状況のなかで、億万長者アスターでさえボートへの乗り込みを拒否されたのである。なかには、アスター夫人からショールをかぶせてもらい、女装して巧みにボートで脱出した男もいたのだが、それを知りながら自分の夫を助けられなかったアスター夫人の無念の気持ちはいかばかりであったろう。アスターの最後の姿を伝える生存者の話は無数に語られているが、彼も堂々たる態度を保ちながらこの世を去っていった。(略)
P67 アスター夫妻はタイタニックの悲劇によって生涯の仲を引き裂かれたが、シュトラウス夫妻は違っていた。夫イシドールと妻アイダは、最後まで別れることを拒み、手を取り合いながら深海に呑まれていったのである。イシドール・シュトラウス夫人アイダは、タイタニック号の一等船客アーチボルトグレーシーがボートで脱出するよう執拗に説得したにもかかわらず、夫のもとから離れることを拒み続けた。このアーチボルトは、ロスチャイルド家と因縁の深い人物だった。
大英帝国がネイサン・ロスチャイルドによって金融支配されるなかで、すでに述べたようにキリスト教徒として気を吐いたのが「ベアリング商会」だった。
P68 彼らは新天地アメリカに進出し、19世紀には「モルガン商会」と手を組みながら、莫大な金をアメリカの鉄道に注ぎ込んでいた。このベアリング商会のニューヨーク支店で代々にわたって社長の座を占めてきたのが、タイタニック号の乗客アーチボルト・グレーシーの一族だった。
ロスチャイルド家とベアリング家は、この当時の資本金としてすでにロスチャイルド家が六倍にも達し、外国での公債引き受け額も三倍と、どこを見ても相手を圧倒するライバル関係に変わっていた。バイロンが謳ったユダヤ教とキリスト教の力関係は、もはやベアリング家にとって腹立たしいものになっていた。しかし冷たい甲板のうえで展開した未曽有の悲劇は、グレーシーがシュトラウス夫人を必死で助けようとする姿と変わったのである。
シュトラウス一族は、バヴァリア(ドイツ・バイエルン地方)で活躍するユダヤ商人だったが、南北戦争前の1852年、アメリカに移り住んだ。初代ラザルス・シュトラウスがニューヨークで商売に励んでいるとき、ガラス細工や陶磁器を扱う有名なメイシーデパートの仕事を引き受けるようになり、二代目のイシドールが弟ネイサンと共にこのデパートのパートナー、つまり重役まで出世した。彼らはグッゲンハイムやアスターが入り込んだ上流社会とは違って、
P69 直接に大衆に物を売る商売のなかで、着実に財を築きあげ、遂には"高級デパート"という今日のセールス形態を確立したパイオニアと呼ばれている。それは、金銀財宝を地底から掘り出してきたグッゲハイム(相互参照)の加工品を、華やかな高級デパートでシュトラウスが売り出す商売であった。あるいはアスターが交易したミンクなどの高級毛皮商品をメイシーデパートの一流品売り場で扱い、そのダイヤと毛皮で身を包んだ大富豪の女性たち、モルガン、ロックフェラー、ヴァンダービルトらがウォルドーフ・アストリア・ホテルのスウィート・ルームに泊まるという世界であった。
アメリカ新時代の巨人にとって、グッゲンハイム、アスター、シュトラウスの三家は、必要不可欠な"ユダヤ商人"であった。なかでもシュトラウス家は、タイタニックの死者イシドール(後述)の実弟オスカー・ソロモン・シュトラウスがアメリカ合衆国で最初のユダヤ人閣僚となった歴史が示すように、政界さえ動かす重要ファミリーとして台頭したのである。オスカーは、セオドア・ルーズヴェルト大統領のもとで、タイタニック沈没の六年前、1906年に商務労働長官のポストを手にした。(略)
シュトラウス家もロスチャイルド一族だったのである。(略)アメリカ合衆国は、アングロサクソン民族に支配されていたが、この時代から着実に"ロスチャイルド"も紋章をそちこちにちりばめ出していた。(略) P70/ 72/ 74/ 76/ 78
P80 そうなれば、ユダヤ系という表現は正しくない。正しいどころか、すでに説明した通り「モルガン・グレンフェル」というマーチャント・バンクは、"ユダヤ人嫌いのモルガン"と"ユダヤ人のロスチャイルド"が合体した巨大な投資銀行だ。ではなぜ犬猿の仲であるはずの両者が、寄り添って相手の腰に手を回しパートナーとなったのであろうか。彼らは日本、アジア全域、アフリカ、南米などを侵略するために、次のように手を組んで活動してきた。
「ロスチャイルド家(相互参照)は、重要な19世紀にアメリカ大陸への投資に意欲的ではなかった。そのためロックフェラーとモルガンに出し抜かれた」---このような俗説が巷に氾濫しているが、それは家系図を調べたことのない投資エキスパートが落ちりやすい皮相的な結論である。P81 確かにロンドンのマーチャントバンクが発行したアメリカ合衆国とカナダの鉄道証券を見ると、一位は断然ベアリング商会であり、取扱い高はロスチャイルド商会の実に四十倍を超える金額だ。バイロンの詩を書き換えなければならないほどの差をつけている。
ところが、ロスチャイルド一族の連合として金額を合計すると、J・ゴールドスミスの祖先が創立した「ビショップス・ハイム・ゴールドシュミット商会」をはじめとして、「ルイス・コーエン商会」、「セリグマン商会(相互参照)」、「ハンブローズ銀行」はいずれも"赤い盾"の一族に入り、ここに「モルガン・グレンフェル」を加えると、ちょうど両者が逆転してしまう。ベアリング家よりもロスチャイルド家のほうが高額の投資をしていたのだ。しかもアメリカに創立されたクーン・レーブ商会(相互参照)、ゴールドマン・ザックス、ドイツのワーバーグ銀行がすべてロスチャイルド一族であった。
このトリックを見破られないようにするため、秘密主義では史上最高の頭脳と機動力を持つロスチャイルド家がアメリカに送り込んだ兵器こそ、誰あろう伝説の富豪オーガスト・ベルモント(tw、tw)であった(→『日本1852』(参照))。ベルモントはフランクフルトのロスチャイルド商会で厳しい丁稚奉公を終えたあと、「急いでニューヨークへ行ってくれ」と命ぜられたのである。金融王ネイサンがこの世を去った翌年、1837年のことであった。彼は新天地に着くと、時の王者ロスチャイルドの代理人を名乗りながら、そちこちで物色をはじめたのである。(略)こうして探り当てたのがキャロライン・ペリーであった。
ペリー提督が今日の沖縄、当時の琉球那覇に姿を現したのは、この結婚からわずか四年後の1853年のことであった。(→関連『日本1852』-ペリー遠征計画の基礎資料-)(略)ベルモントの結婚相手キャロラインこそ、このペリー提督の娘であった。(略)ロスチャイルド家はこの英雄一族をパートナーに取りこむと、さらに閨閥を広げるよう、ベルモントに強く指示を与えた。なるほど、今度はベルモント家の二代目になる、その名もオリヴァー・ハザード・ペリー・ベルモントという、商売上これほど好都合の肩書きはない海軍ヒーローの名前を頂戴した息子が、ややあってアメリカの鉄道王ヴァンダービルトに
P82 近づき、そこは複雑なヴァンダービルト夫妻の事情があったと見えて、ロスチャイルド家の代理人は何とその夫人と結婚してしまったのである。(略)
一方、ヴァンダービルト家は、ベルモントに妻を寝盗られたウィリアムがめでたくラザフォード夫人と結婚を果たし、その弟のジョージ・ワシントン・ヴァンダービルトは、ロスチャイルド家をしのぐ世界一の個人住宅をニューヨークに構え、兄のコーネリアス二世はシカゴのギャング王アル・カポネと親密な関係を取り結びつつあった。後年、全世界の若者がグロリアヴァンダービルトジーンズを穿く時代を迎えるが、このジーンズはコーネリアス・ヴァンダービルト二世の孫娘が発明した商品で、彼女の二番目の夫が大指揮者のレオポルド・ストコフスキー、三番目の夫が映画監督シドニー・ルメットという閨閥まで完成させたのである(相互参照)。
このような手法を身内のベルモントから学んだペリー一族も、黙って見ていたわけではなかった。
「意味のある結婚を!」、
これを合言葉に他念なく営々たる努力を続けた結果、ペリー提督の兄のひ孫アリスが、ボストン上流社会のジョゼフ・グリューと結ばれたのである。グリューは高校・大学を通して、二年後輩の若き重要人物、フランクリン・ルーズヴェルトと親交を深めていた。言うまでもなく、時のセオドア・ルーズヴェルト大統領の一族であった。このグリューの名を、日本人は忘れないだろう。
やがて1931年に満州事変が勃発したが、この日本人の蛮行を、浦賀以来の仲であるペリー一族のグリューが承認しないはずはなかった。利権主義者同士の了解というものだ。翌年に早くもグリューが公式に日本大使として着任した直後、フランクリン・ルーズヴェルトが第三十二代大統領に選ばれた。さきほど示した巨大な系図8のなかで、タイタニック号の犠牲者となった"ホテル王アスター"と、"ロスチャイルド一族"をつなぐ線が、実はこのルーズヴェルト大統領によって結ばれていた事実再び注意を払っていただきたい。それが伝説的富豪のロスチャイルド家の代理人をつとめたオーガスト・ベルモントの手腕であった。ロスチャイルド商会が扱う商品は、ダイヤと金銀、ウランだけではない。あらゆる人種・宗教・国籍の人間をベッドに招いて扱うことを得意としている。
ベルモント一族のジョゼフ・グリューは、日本大使となってからP83もっぱら三井・三菱の財閥を渡り歩き、軍人たちと親しく交流を深めていったが、その友情は、ポケットのなかで金貨がじゃらじゃら音を立てている限り続く、という性格のものであった。音が聞こえなくなると、互いに牙を見せるかも知れない。グリューはやがて、自分の狙っていた中国大陸での石油利権を日本人から拒絶され、この時、両者のあいだに大きな溝が生まれたのである。その後の歴史は、狡猾さと残忍さのいずれが勝つかという選択を、真珠湾攻撃から原爆投下に至るまでの戦争に託していった。悲惨なのは、それを何も知らずに殺されていった人間たちである。
これで"赤い盾"ロスチャイルドがモルガン・グレンフェルを仲人として"反ユダヤ主義者"モルガンと手を組んだ理由が漠然とながら推測できるだろう。(略)1989年に何が起こっているか。…(略)ロスチャイルド家がフランクフルトに復活すると宣言した直後の9日、東西ベルリンの壁の取り壊しが開始され、27日にそのドイツ銀行がわが「モルガン・グレンフェル」の買収を発表したのである。翌28日、コール首相が遂に東西ドイツの再統一を提案し、ある人間の目から見ればそれが歴史の流れを過去のナチス帝国時代に戻そうとするかのように映ったか、2日後の30日、ドイツ銀行の頭取として軍需産業の統合と「モルガン・グレンフェル」の買収に全精力を傾けたヘルファウゼン頭取が爆殺されてしまった。
現代の鍵を、ドイツ銀行とロスチャイルドが握っていることが分かる。そのモルガン・グレンフェルとロスチャイルドの正体を知るため、歴史のなかでもう一歩調査を深めてみる時、そこに信じ難い事実がさらに二点隠れていることに気付くだろう。日本大使であったグリュー一家のジェーン・グリューが、当時全米一の富豪J・P・モルガンJrの妻となっていたのである。
今日、アメリカの巨大財閥モルガン家は消滅したという話が定説になっている。しかし彼らは、姿を変えて生きている。系図9に見られる通り、まぎれもなくロスチャイルドの代理人オーガスト・ベルモントと閨閥をつくり、「モルガン・グレンフェル」のなかに融合している。モルガン家は統一ドイツの象徴「ドイツ銀行」に入り込んでいるのである。(略)
P86 グリューが日本にやってきたモルガン家のアメリカ大使であるなら、同じ時期に東京に着任したイギリスの大使は誰であったろう。グリュー着任の前年になるが、一九三一年に満州事変が勃発し、日本が戦争に突入していったこの年に、すでにロンドンからはフランシス・リンドレーが着任していた。この人物は、以前、一九〇六年に東京へ来た経歴があり、ちょうど日露戦争で日本勝利の翌年に当たる。シフやロスチャイルドが日本に大金を貸し付けたので、その返済の裏交渉に走りまわるため、表向きはイギリスの高度な外交官として二年間も滞在していた男だった。
そして一九三一年から三四年まで、今度はグリューと欧米連合を組む形で、正式の大使として活動したが、その結果、リンドレー大使はどのような報酬をもらったのであろうか。まさしくロンドンに戻ったその一九三四年のことだが、六月十二日にリンドレーの三女サラがロスチャイルド一族のフィリップ・ヨークと結婚式を挙げたのである。しかもこの系図9が示す通り、イングランド銀行の総裁二名を生み出し、「モルガン・グレンフェル」の創業者を含む重要な家系に入った。それはロスチャイルド家がすでに身内に準ずる人物としてこの外交官を派遣していたことを意味する。
逆に日本人の目から見れば、事変直後のもっとも危険な行動をとった侵略時期にアメリカからモルガン家の一族グリュー大使を迎え、イギリスからロスチャイルド家の一族リンドレー大使を迎えていたという状況になる。誰も気づかなかったが、その両人とも、実は「モルガン・グレンフェル」の代理人であった。大使の身許は歴史を解く鍵になる。(略)
"赤い盾"がなぜ"反ユダヤ主義者"と手を組んだか、という実業界の謎は、この系図をもって、ここに完全に氷解する。ロスチャイルドからヨーロッパの潤沢な資金を託されたベルモントが、P87ヴァンダービルト財閥、モルガン財閥と血縁関係を結びながら、海軍一族ペリー家や米英の大使をファミリーのメンバーとして近代史を動かしてきたのである。
一八七九年にアメリカの鉄道王ヴァンダービルトが大鉄道ニューヨーク・セントラルの持株を処分したとき、その仕事をJ・P・モルガンに委嘱した。モルガンはそれをオーガスト・ベルモント※経由でロスチャイルド家に売却して、大富豪と鉄道王の地位を確立したという史実は、この系図そのままであったことが分かる。第二次世界大戦中にロスチャイルドとモルガンの仲はファシズムの台頭によって引き裂かれたが、それも一瞬の出来事で、現在でもモルガン財閥のペン・セントラル鉄道の大株主はロスチャイルド財閥の「リオ・チント・ジンク社」(参照)である。(略)※オーガスト・ベルモント(→『日本1852』(参照))
1.5 パンサーの宝石 P88-102
1.6 南アフリカのゴールドフィンガー"ミルナー幼稚園" P103-136
第二章 地球のトンネル P137-415
2.1 発禁書『金瓶梅』P139-162
P139
さて、われわれは香港にやって来た。世界じゅうのありとあらゆるいかがわしい人間が、この謎の国へ吸いこまれるように消えてゆく。世界を動かす力は、ロンドンのシティ、ニューヨークのウォール街に次ぐ第三位の金融総本山でありながら、わが国では、“人口わずか六百万足らずの国”と考えられ、その存在さえほとんど認識されていない。
東京は巨大都市だが、それは資金の大きさを示すだけで、世界を変える力を持たない。香港を知らずに世界は語れないのだ。
フィリピンでは独裁者マルコスが馬脚を現わしたが、香港と中国では政商と呼ばれる華僑が暗躍し、莫大な資金を大陸に送り込んで今日までの大国・中国を支えてきた。しかしその背後には、さらに大きな支配者が立っている。
香港・マカオへの観光旅行?それもよろしいだろう。ただしここで読者を案内するのは、アジアとヨーロッパ最大の接点として機能する魔窟ホンコン、あるいは日本と中国のトンネルと呼ばれる秘境ホンコンだ。
一九八九年六月四日に起こった市民弾圧という天安門事件の後始末は、この香港が鍵を握っている。ガイド役は言うまでもなく、ネイサンである。香港ではネイザンと発音しているが、ここを歩けば香港が分かるという№1のメインストリートが、実はその名も“ネイザン・ロード”。
漢字で“彌敦道”と書かれた標識があれば、それがネイザン・ロード---ロンドンからやってきたネイサンの道である。
香港の免税店でささやかな買い物をしてひと儲けした気分になるなら、さらに壮大なトリックがこの国にあることき気づいてもよいはずだ。ここに旅行者を喜ばせる免税店という税金を免れるシステムがあるなら、大富豪にとってこの国にはあらゆる税金を帳消しにしてくれる、とんでもない裏道もあるだろう。
それを日本人は利用できるだろうか。残念ながら、その道はほとんど閉ざされている。
イギリス人は利用できるだろうか。特殊なグループに属するイギリス人であれば、その道を使って金を隠すことができるのである。
P140 天安門事件で民衆の虐殺を命じた鄧小平が、香港の最大級の華僑財閥・包玉剛と親密に交わってきたことと、その包の娘がオーストリア人と結婚している事実が、一体いかなる意味を持つかを調べてみたい。
香港には、銀行として世界一の高価なビルを持つイギリスの「香港上海銀行」(正式名はHongkong Shanghai Banking Corporation)がそびえ立っていたが、やがてこの威容も、その目と鼻の先に完成した共産主義者の「中国銀行」のビルによって見おろされる破目になった。こちらは地上七十階、東洋一の高層建築である。
人類は、何度だまされれば気がつくのか分からないが、改めて最近の出来事を振り返ってみる必要がある。過去二百年間にわたって、地球上のほとんどの独裁者を育ててきたのがひとつのシステム---ひとつの地下組織であると仮定してみよう。
アジアの独裁者マルコスと東ヨーロッパの独裁者チャウシェスクが虚しい最期を遂げ、いずれも宮殿には財宝の山が発見されたが、それはこの悪魔どもがため込んだ財産のほんの一部であった。
これは私が語るより、最近出版されたばかりの書物を紹介したほうが分かりやすい。スターリング・シーグレーヴの著書『マルコス王朝』(早良哲夫・佐藤俊行訳、サイマル出版会)は、分厚い上下二巻のノンフィクションで、いかにして独裁者が財宝を地下の闇ルートで処理し、隠しおおせたかを追跡した貴重な資料だ。
われわれ日本人が、政府開発援助(Official Development Assistance --- ODA)と称して莫大な金を東南アジア諸国に送りながら、その金が貧しい市民の手に届かず、むしろ悪どい政商ばかりを育てていることに少しでも心を痛めなら、この真相を是非とも知っておく必要がある。
そこでは、とくに金塊が大きな役割を果たし、次のように密売ルートが詳しく記述されている。さるアメリカの財界人がマルコスの金塊売却にかかわり、フィリピンへ飛んだ時のことである(太字、筆者)。
彼は金の延べ板を積んだ大きな地下倉庫に案内されたが、この延べ板も量は多くなかったものの国際規格サイズで国際取引き用の品質証明がついていた。これはマルコスが急いで売りにかかっていたマニラにある百トンの金塊を段階的に取引きするための第一回の試験取引きだった。これは、同書が実証している膨大な資料のうち、本の一節を紹介したっだけだが、すべてが凝縮されている箇所であると言ってもいい。「ゴールドスミッド」と訳されているのは、ゴールドシュミットのことである。
香港の銀行が仲介役をし、その財界人がジャーナリスト氏に契約のコピーを渡したわけだが、そのコピーは著者のファイルにしまってある。
この契約書によれば、残りの金塊はすでにフィリピン国外の金市場に移されたという。そのなかには一九七〇年から八三年にかけ、さまざまな方法でロンドンに移された金塊も含まれていた。
それ以来、金塊はスレッドニードル通りのイングランド銀行や、ロスチャイルド、ジョンソン・マッセイ、モカッタ&ゴールドスミッドといったロンドン金市場のカルテル会員社の地下倉庫に眠っている。
P141マルコス一族はカルテルの会員とは非常に親しい関係にあり、子供たちがイギリスの学校に留学したときは、ロスチャイルド家で使っていなかったロンドンのマンションをわがもののように使っていた。
金塊の量を総計すれば、三千八百億ドル相当の三万八千トンが一二・五キロの“ロンドン良品”延べ板で、残りの三万七千トンがこれより大きめの七五キロ金塊になっていたといわれる。
総計七万五千トンというのは、史上これまでに掘りだされた金の公式総計量とほぼ同じになってしまう。このアメリカ財界人によれば、マルコスの友人であるオーストラリア人富豪が中心となったシンジケートが取引きのブローカーを引き受け、アメリカ人二人とヨーロッパ人のグループもこれに協力していたという。---
この後に続く説明は、舞台をロンドンに移し、本書の系図12に登場したイングランド銀行総裁リーベンバートンらによる“マルコスの資産隠し”の実態が述べられている。
そこに見えるのは、実働部隊としてマルコスに協力したイギリス人の国家ぐるみの犯罪である。
同書を読んでいて歯がゆかったのは、著者シーグレーヴに本書の系図12(1、2)を見てもらったうえ、それらの犯人どもの背後にいて指令を出した主犯が誰かを、併せて全世界に紹介してほしかったことである。
マルコスは失脚したが、主犯は生きているからだ。やがて次の重大な犯罪が暴露され、またしても独裁者は石もて追われるだろうが、その愚を何百回となく繰えしているあいだ、歴史は毎日の悲惨な記録をペンの先に残してゆかなければならない。
マルコスが金塊の密売に使った本拠地は、香港であった。たとえばオーストラリアの「ヌーガン・ハンド銀行」の“香港”視点が暗躍し、やがてその経営者のフランク・ヌーガンが何者かに射殺され、銀行そのものは倒産してしまう。
また“香港”上海銀行、“香港”のハンルン銀行、“香港”のオーナーズ銀行、三菱銀行の“香港”支店などがゾロゾロと登場し、金塊の売り手、仲介役、買い手として実名を挙げられている。このうちハンルン銀行も倒産するのである。
いま紹介した『マルコス王朝』の一説に登場する太線部分の名前は、すでに読者もその意味を充分に理解されているはずだ。「ロスチャイルド銀行」、「ジョンソン・マッセイ銀行」、「モカッタ・ゴールドシュミット商会」は、いずれもシャーロック・ホームズのロンドンに見た通り、創成期から
P142 “赤い盾一族”の金塊商人であることが分かっている。
これから追跡したいのは、その最後に登場しながら、実名が書かれていない“オーストラリア人富豪”の名前である。同書にはこの謎の人物が頻繁に出てくる。
一体お前は誰だ、と尋ねたくなるが、この種のノンフィクション・ライターは宿命として犯罪組織の大物を探してドアをノックし、その人物を“匿名にする”という条件で情報をもらわなければならない。
この時に、主犯格の人間がわれわれの目の前からふとかき消され、手許に残るのは、“倒産した銀行”、“射殺された男”、“○○銀行の支店”といったロクでもない名前ばかりで、結局は、ごく漠然とした犯罪のシステムを知って満足しなければならない。
これでは、次の犯罪が進行しながら、ただ眺めていることになる。
マルコスだけでなく、今度はルーマニアの独裁者チャウシェスク一族についても、スイスなどに隠し口座が見つかり、世界じゅうの民衆がそのトンネルに怒りを覚えている。
しかしチャウシェスクが大統領官邸から秘密の地下道をブカレスト市内に張りめぐらしたと同じように、北京市内にも秘密の地下道網が四十年前から存在し、大量の金塊を保有する銀行と要人の官舎を結んでいる。
ならば中国大陸のすみに小さく見えるかのような香港が、中国の独裁者の仮面をひき剥してくれよう。ここは世界のトンネルだからだ。
中国民衆へ無差別の発砲・虐殺を平然と命じた三人の最高責任者、鄧小平、李鵬、楊尚昆は、このわずか三人の一族だけで、“基金法の主任”、“国防科学工業委員会の局長”、“武漢の市長”、“国家教育委員の主任”、“軍総政治部の主任”、“参謀総長”、“北京の副市長”、“海南経済開発公司の副総裁”、“国防部の部長”、
……といった要職を占め、そのほかに三人自身が“国家中央軍事委員会の主席”、“同副主席”、“首相”、“国家主席”という最高権力を握っていた。
鄧小平の形式的な辞任のあとを受けて軍事委員会の主席に選ばれた江沢民は、中国の金融界を動かす上海の市長から一躍トップの座を与えられた男だが、これも劉少奇のあとを継いだ主席・李先念の娘ムコではないか。
その上海には、ヒルトン・ホテルをはじめ豪華ホテルが次々と誕生し、近郊に原子炉が建設される時代を迎えながら、市民生活を見れば、ニワトリも食べられないまま一九九〇年代に突入してきた。
鄧小平の長男である鄧樸方は、統制物資の“ヤミの横流し”が暴露された康華公司の創設メンバーだが、やはり国外の銀行口座に莫大な金を貯めこんでいるという噂が絶えない人物だ。
その銀行こそ、「香港上海銀行」か、その前にそびえ立つ香港の「中国銀行」支店であろう。一九九〇年十二月。上海に中国で初めての証券取引所が開設された。ここから誕生するあたらしい経済メカニズムは、初めから一部の人間のためのものである。
この中国に対して、アメリカのブッシュ政権が一九八九年末、
P143この中国に対して、アメリカのブッシュ政権が一九八九年末、天安門事件を御破算にして再び歩み寄るという政策の変更を打ち出した。十二月十九日、中国への通信衛星の輸出を承認したのである。
これが実は、政策の変更ではないという疑いがある。アメリカという国家が中国という国家に歩み寄った、と見るのは間違いで、これが“個人的な利権”の動きにすぎないことを知れば、世界は愕然とするだろう。
その一ヵ月ほど前の十一月十日、鄧小平が党中央軍事委主席を辞任した翌日に当たるが、キッシンジャー元国務長官が中国を訪れ、鄧小平と固い握手を交わしながら会談した。
キッシンジャーの別の肩書は、一九八七年に発足したばかりの「アメリカ・中国協会」の会長であった(tw、後述(1、2))。
これで主演の役者たちは揃った。われわれがこの経過のなかに読み取るのは、主役でなく、その背後に動く黒子たちの姿である。魔窟ホンコンには、キリスト教からイスラム教、ユダヤ教まで、ひととおりの宗教が並んでいる。
歌を歌えない歌手でも名前だけは一流となり、豪華な住居に住むことができるホンコン。その一方で九龍半島のスラム街にひしめく貧しい人の群が見える。勿論、近代化された社会としての香港は、わが国の多くの都会と何も変わらない。
しかし日本人がかつて中国人を奴隷のように軽蔑し、極悪非道の仕打ちを加えた犯罪の傷あとは、われわれの胸に永遠に残るだろう。その本当の経過を知りたいと言うなら、歴史の真相を新たに探り出すほかない。
金とダイヤの市場として見れば、ヨーロッパの取引き市場では東京が無視され、アジアではただひとつ、香港の価格が国際紙“インターナショナル・ヘラルド・トリビューン”に発表されている。
実際、一九八九年十二月にフィリピンで反乱が起こった時に、ウォール街の金価格は上昇した。ところがこの変化は、まず香港の金価格が急騰して、ウォール街を動かしたのである。
なるほど九龍半島の海岸線を取り囲む最大の道路は、“南アのローデシア”の首都と同じく、ソールズベリー・ロードと命名され、“南アの鉱山”と同じくキンバリー・ロードが平行に走っている。
これらの大通りに囲まれた商業区では、何者かを連想させるダンヒル、カルティエ、セリーヌといった店が軒を構え、われわれを手招いている。そこに置かれた秀麗なカタログを手に取り、愛くるしい宝石を買う前に、そのカタログの発行者を調べてみなければなるまい。
イギリス領である香港の歴史は、次のようにしてはじまり、次のように今日の歴史を描いてきた。
ヨーロッパ人によるアジア侵略の歴史は、フィリピンの国名が、スペイン国王フィリップ二世を讃えて命名されたという史実が物る通り、ポルトガルとスペインによる大航海時代に扉を開いた。
それ以前は、陸路のシルクロードが東西貿易の幹線だったが、十三世紀はイタリアのマルコポーロ
P144 に続いて、十五世紀にの末にはディアスやヴァスコ・ダ・ガマのポルトガル探検隊、イタリア人でありながらスペインから資金を得たコロンブス(相互参照)、さらに十六世紀に入るとポルトガル人でありながらスペインから金を貰って出航したマゼランといった、史上に名を残す大冒険家が続出した(tw)。
しかし冒険家とはよく言ったもので、この連中はみな侵略者の頭目というのがその正体だった。コロンブスのようなユダヤ人がここに加わっていたのも、貿易の産物としてダイヤを考えれば当然のことであった。
実に十八世紀まで、ダイヤの産出国はこの地球上でインドだけであったため、商人コロンブスは“アメリカ大陸を発見した”のではなく、“ダイヤの産地インドに着いた”と内心で狂喜し、今日のカリブ海域が奇妙にも西インド諸島と命名されることになった。
しかもそこに住んでいた人間を奴隷として使役しながら、インディアン、インディアンと呼び、大虐殺の歴史を繰り返した。ところがこの七つの海に、十六世紀から別の軍団が姿を現した。
フランス探検隊カルティエ、イギリス探検隊ドレーク、オランダ探検隊のバレンツたちであった。スペインとポルトガルの探検隊は有名だが、なぜかこの現代に直結する新参者たちの名前は、ほとんど忘れられている。
ご存知、ここから十七世紀の「オランダ東インド会社(相互参照)」が誕生し、十八世紀の半ばを過ぎると「イギリス東インド会社」がインドの貿易を独占的に支配するようになり、ここからビルマ(今日のミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)~シンガポール~香港~上海へと大々的な侵略がおこなわれた。
しかしその大侵略時代の十八世紀半ばのヨーロッパとは、どのような時代であっただろうか。ここから先は、歴史の教科書にひとことも登場しないが、フランクフルトに“赤い盾”の紋章をつけた商会が産声をあげ、十九世紀に突入するとともにネイサン・ロスチャイルド(相互参照)がイギリスを国家ごと支配してしまったのではなかっただろうか。
したがって、この財力を切り離して論じられてきた歴史には、ほとんど信用がおけない。
東インド会社と言えば、実質的にはこの「イギリス東インド会社」をさすが、当時世界最大のこの貿易会社から最大の利益を得たのがロスチャイルド家であったことは、経済原理のうえから誰にでも推測できる。
ところが、東インド会社の本を何冊読んでも、まずロスチャイルドの名前を見つけることは至難の業である。南アについての歴史の記述と実によく似ている。実はネイサンの全盛時代とほぼ時を同じくして、一八三三年に東インド会社の独占的な貿易がイギリス議会で禁止され、五八年には正式に会社が消滅していた。
これでは、ロスチャイルド家が登場する歳月はほとんどなかったことになる。しかしここに、われわれの目を欺く、巧みな史実が隠されている。東インド会社は、完全に消滅したのであろうか。
そうではなかった。すでに述べたように、これらの商人が持っていた利権を正式に譲り受けたのがロスチャイルド家であり、そのために莫大な補償金を支払った。
P145読者がいまロンドンを訪れる機会があれば、きっと立ち寄ってほしい建物がある。バッキンガム宮殿から歩いて数分、金融街シティーの一画に、白亜の三階建ての瀟洒な館---一八四九年に設立されたというクラブがある。その名も「東インド・クラブ」…
勿論ここはイギリス上流社会に君臨する会員制の秘密クラブであるから、内部をのぞくとことも許されない。一八四九年とは、すでに東インド会社が実質的に消滅して国家的な植民地化が完了した時期であり、実はこのクラブの内部にあるジェントルメン・ルームは、さらにその三十四年も前の一八一五年にワーテルローの戦いでイギリス軍がフランス軍がナポレオンを打ち破ったという“勝利の報”が届けられた由緒ある部屋である。
その勝利の報によって私腹を肥やしたネイサン・ロスチャイルドが、この一画をうろうろしていたのだ。これがのちに改装されて、今日の東インド・クラブと変った。
われわれは内部に入れないので、そこに会員の紋章がズラリと飾られているのを知りながら、写真を撮ることも許されない。その紋章さえ分かれば、手許にある紋章と突き合わせ、メンバーの名前を調べあげることもできるが、警備員に戸口で追い立てられては、それも叶わない。では、別の方法をとってみよう。
十数年前のことだが、イギリスの大富豪ラトランド公爵が
アヘン(tw)
P146 ブルドーザーの前に身を投げ出して、一躍ニュースのトップ記事に躍り出た。自分の領地にある石炭を掘ろうという国策に抵抗して、命がけの行動に出たのである。それが一九七七年、イギリスの原子力政策の重大な発展期でもあった。
このラトランド公爵の本名はチャールズ・マナーズといい、系図を調べてゆくと、一族にエリザベス・モルガンという女性がいて、原子力で問題となっている放射性廃棄物の管理委員会で大きな発言力を持っていた。
実兄のロジャー・モルガンは上院議員であった。そのイギリスが中心となったヨーロッパの企業グループが「ミドコ」という会社を設立し、北アフリカに毒性廃棄物の処理工場を建設しようという秘密計画が進められている。これは石炭と原子力の因縁めいた物語になってくる。
系図を描くのが一番だ。系図13の左上を見ていただきたい。まず十七世紀の東インド会社の大株主ラングホーン家がある。大株主と言っても、有史以来の人類最大の商社「東インド会社」のなかに株主はわずか八人しかいなかったのだから、後年の歴史の変化をみるとき、この八家族が今日の地球の支配者であっても不思議はないが、なるほど、そのラングホーン家がやがて三姉妹を生み出した。
“ロンドンのゴールドフィンガー”の大系図10(1、2)を見返してみれば、そのファミリーが下のほうに★★印をもって示されている。ミルナー幼稚園の首席優等生と、タイタニック号のホテル王アスター家と、大銀行家モルガン・グレンフェルの三代ファミリーを結びつけた偉大な三姉妹がこの一族であった。歴史は女で作らる。
また、系図13に戻ると、P・O汽船とロイズ・コーヒーハウスが登場してくる。アレック・ギネスの『インドへの道』、アカデミー賞を八部門制覇したリチャード・アッテンボロー監督の『ガンジー』をご覧になった人は、二本の映画の巻頭シーンに共通するあるものに気づかれたかも知れない。
いずれも大型船が港に到着するところから、物語がはじまる。『インドへの道』ではインドに船が着き、『ガンジー』では南アに船が着く。その船会社は二作とも同じで、「P・O汽船」と訳した文字が字幕が見えた。
正確な社名はPeninsular & Oriental Steam Navigation Company---半島・東洋汽船という意味だが、これが現代のイギリス海運貿易業界で最大の会社である。この半島は、インド半島を示すものであった。
わが国へ豪華客船という触れ込みでしばしばやってきては観光客をさらってゆくクイーン・エリザベス二世号は、オーナーが「キュナード汽船」であるが、その創業一族のキュナードも、「P・O汽船」の重役だった。タイタニック号のオーナー「ホワイトスター汽船」もその「キュナード汽船」に吸収合併されてしまった。
このP・O汽船の支配者がインチケープ伯爵家で、さらにその背後に「リオ・チント・ジンク」が隠れているのである。この“東インド会社の子孫”の系図13に、東洋貿易を支配した
P147ロイス・コーヒーハウスのロイド家と、このP・O汽船、インド蒸気船、スエズ運河の支配者ジェームズ・マッケイが、金融王ネイサンと共に描かれているのは、そのためである。蒸気機関車で産業革命を引っ張ったスティーヴンソンの資金もまた、この一族から捻出されていたことが分かる。
これは一例だが、このようにして東インド会社の資産は、二十世紀末の今日もロスチャイルド家の腕に抱きかかえられて生き続けている。
この系図を作りあげている要素は、商人、公爵、石炭、原子力、それに“洋酒のギネス家”までが入っているため、尋常な世界ではないことが分かる。わが国ではビールのギネスと呼ぶ慣わしになっているが、今日では、ホワイト・ホースやジョニーウォーカーのギネスと呼ぶべきである。
スコッチのほとんどのメーカーを傘下にかかえ、香港などミヤゲ物として日本に大量に入り込んでいるので、東インド会社の近代の姿が目に浮かぶ。『インドへの道』に出演した俳優が、アレック・ギネス(相互参照)であった。
一九八六年には、サッチャー政権で貿易産業大臣の要職にあったチャノンの長女が、わずか二十二歳の若さで急死した。死因を調査した結果、麻薬の飲みすぎによるものと判明してこれが大事件となり、ヘロインやコカインを密売していたセバスチャン・ギネスが逮捕された。
ほかならぬ洋酒のギネス家の御曹子であった。イギリスの貿易産業とは、今日もこれなのかも知れぬ。昔のアヘンから、今日のコカインまでを、金塊の流れと共に追跡してみよう。
麻薬の売人は、現金を洗濯するために、札束を直ちに貴金属やダイヤに交換することをならいとしているからだ。
東インド会社が名目上この世から消える時代から、地下組織を香港に追ってみると、そこで歴史に大きな役割を果たした事件として、アヘン戦争がある。
この陰湿な戦争が勃発し、イギリスの権益がインドから中国へとさらに大きく広がりはじめたのは、ある集団の力によるものであった。
月に咲く花の如く アヘン事情(参照)アヘンは麻薬の一種である、という簡潔な事実に立ち返ってみれば、現代のわれわれが見続けてきたパナマの麻薬将軍ノリエガの正体も、南米のコロンビアに展開してきた凄惨なコカイン麻薬戦争の謎も、すべて地球のトンネルという鍵を使って解くことができる。
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何故ならこれらの場所には必ず、いくつかの共通項がある。それはパナマ運河から想像される海運業であり、もうひとつの重要なものは、アヘンと同じようにして栽培されるタバコやお茶の葉である。
秘密結社のスポンサーとなった南アのタバコ王が思い出される。高級葉巻には、その名もアルフレッド・ド・ロスチャイルドという銘柄がある。J・ゴールドスミスが執拗に買収攻撃を仕掛けてきたのも、「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ」だ。
フィリピンのマルコス夫人イメルダの保釈金およそ六億円をポンと支払ってやったのは、「アメリカン・タバコ」のオーナー、ドリス・デュークだった。その一方でイギリスはリプトン、
P150 ブルック・ボンド、トワイニング、フォートナム&メーソンといった高級品と称する紅茶では、今日でも世界でずば抜けた支配力を持っている。もしそのお茶の葉が、麻薬の畑と同じ場所で栽培されていれば、両者の結びつきを推察することができる。
事実、そおれを体現するユダヤの商人がこの世に存在した。その名をデヴィッド・サッスーンといい、アヘン戦争で莫大な富を築く一方、わが国の片岡物産が代理店となっているイギリス紅茶の総元締めとして知られた。
十九世紀の怪物である。麻薬と紅茶は、サッスーンの手のなかで同時に動かされていたが、この名を聞けば、最近のファッション界でヘアー・スタイリストとして有名なヴィダル・サッスーンを思い起こす方もあろう。
ヴィダルの父はネイサン、息子はデヴィッド---百年前の麻薬王と同姓同名である。サッスーン財閥は、十八世紀に中東のメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣をつとめるほどの政商となっていた。
一七九二年にこの一族の子として生まれたデヴィッド・サッスーンは、一九九一年に台風の目となったイラクの首都バグダッドで活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへと進出をはじめた。
一八三二年にボンベイに移住したのである。時代は、ネイサン・ロスチャイルドがこの世を去る四年前であった。
P151そのころイギリスは、東インド会社の貿易を通じて、中国にアヘンを輸出してはアジアから銀を吸いあげる麻薬貿易に、夢中になっていた。そのため中国の国内は治安が乱れ、財政も傾きはじめた。
このアヘンを栽培していたのがインドだたっため、サッスーンはその利権を狙ってインドに移住したのである。イギリスはすでに一七七三年からインドでのアヘン専売兼を武力で獲得し、これがロンドンのシティーにお茶と共に莫大金を生み出していた。
ロスチャイルド家の邸宅には、たびたび東インド会社の幹部が招かれ、シティーの支配者から助言を受けていた。
P151一方の中国では、清朝政府がこの麻薬の上陸を食い止めようと努力したが、中国人社会に誕生した秘密結社「洪門会」が暗躍し、それが特に台湾や香港などに滞在して、東インド会社の手引きをしたため、アヘンの流入はいかにしても防ぐことができなかった。
洪門会は、その誕生のいきさつに諸説あるが、清朝を打ち倒す目的で結集した地下の政治組織であったという。おそらくは、清に倒された明朝の残党を母体にしえ、そこへ各地の敗残兵や貧民街の労働者が集まったものと見られているが、この秘密結社は、二十世紀末の今日も生き続けている。
皇貴妃の宮廷41 13:25~陳近南(天地会)、罠にかかる(tw)中国商人として知られる“華僑”の中核部隊なのである。
洪門とは全ての山堂および反清組織を纏めた総称であり、それは天地会※、三合会(三点会とも)、致公堂、或いは紅幇など多岐に渡る。※の祖は陳永華(陳近南)wiki
こうして清王朝は、東インド会社、華僑、洪門会の連合勢力を相手にまわしてアヘンと苦闘したが、結局その時代に洪門会が活動資金として手にした金は、世界の王者ロスチャイルドから東インド会社に手渡されたものを握るという形で、シティーからめぐりめぐってきたものであった。
今日の香港にあって地下組織として知られる三合会が、実はこの洪門会の別称である。ほかにも匕首会、剣仔会など数々の呼び名はあるが、そのゾクゾクする名前の通り、裏では非合法の活動に専念し、麻薬や売春などのありとあらゆる悪事を取り仕切るかと思えば、その資金を使って公然と表の顔で政治活動や貿易をおこなってゆく。森鴎外はこう言った。
「一体シナ小説はどれもそうだが、中にも金瓶梅は平穏な叙事が十枚か十二枚あると思うと、約束したように、けしからんことが書いてある」と。まさにこれが洪門会の極意であって、濡れ場を描かせては『金瓶梅』の右に出る作品はない。作者は写楽と同じく正体不明の笑笑生という御仁だが、明朝末期の十六世紀の色事師が主人公で、その艶事の相手をする三人の女、金連、瓶児、春梅の名からこの題がつけられた。
香港は、地下へ潜れば金瓶梅の街である。三合会の街である。この秘密結社に入会するには、三合の水を飲まなければならぬ。そこに麻薬が仕込まれていないとは、だれも保証の限りではない。
さて、十九世紀の前半、清朝はついに堪忍袋の緒が切れて、特任の派遣大臣・林則徐にイギリスとの交渉に当たらせた。
林はアヘンの厳禁論を貫く一徹の士、東インド会社にアヘンの引き渡しを命じ、
P152 これが断わられるとみるや、イギリス商館を閉鎖し、強硬手段によってイギリス船からアヘン二万箱を押収すると、焼いてしまったのである。しかし一応の採算が合うようにと、アヘンの代償としてイギリスにお茶を与えて黙らせようとした。
ここに一八四〇年七月、激怒したアヘン商人のサッスーンやその背後に隠れたるシティーの支配者の指示があって、アヘン戦争が勃発したのである。四二年、清朝は海賊帝国イギリスの猛攻の前に屈服し、ここに香港をイギリスの植民地とする敗戦条約に署名しなければならなかった。
また同時に、上海などいくつかの港を開いて、イギリス領事館を置くことに同意させられた。現在の香港を支配し、実質的な中央銀行として香港のお札を発行している「香港上海銀行」の名前の起こりは、アヘン戦争の時代にあった。
サッスーン一族は、こうしてアヘン戦によって巨大な財産をさらにひと回り大きくふくらませ、インドから香港・上海への本格的な進出をはじめた。イギリス本国ではアヘンの麻薬中毒症状が大きな問題となり、貿易の厳しい取り締まりがはじまるほどその害毒が知られていたにもかかわらず、サッスーンは中国に売り込みを続けた。
この頃にはすでに、二代目のアルバート・アブダラ・サッスーンが父親の“事業”を受けついでインドと中国貿易に力を入れていたが、この長男は総領の甚六とみえ、インドを引き払うと、心地よいロンドンへ移ってしまったのである。
しかしそこは金瓶梅だ。二代目の息子は、腹違いの子供を含めてほかに七人もいた。ことに次男のエリアス・サッスーンが香港キングと呼ばれるまでに絶対的な支配力をふるって中国人社会に君臨し、ここに東インド会社が消滅した時、その貿易ルートを事実上ほとんど受けついだのが、サッスーン一族であったことは言うまでもない。
東インド会社が、一九九〇年代の今日も消滅していないのは、このユダヤ富豪サッスーン家の力による。
一ハ六四年、わが国ではまだ明治開化の四年前に当たる江戸時代の末期だったが、初代のデヴィッド・サッスーンがこの世を去り、その年に初代の遺産として、サッスーン家がリーダーとなって「香港上海銀行」が設立された。
アヘン王の五男アーサーが、この香港最大の銀行で最大株主となって、東洋貿易を支配したのである。サッスーン財閥はこの銀行に金融業をまかせると、中国の公債発行を引き受け、鉄道路線を張りめぐらす本格的な事業に乗り出していった。
総領の甚六アブダラもそれほど間が抜けていたわけではなく、こちらはインド西岸に最初のドックを建設し、その名も「サッスーン・ドック」を足場にして海運業に船出していた。
この男は、当時のイギリスの風刺漫画に“インドのロスチャイルド”という光栄ある名称で描かれ、騎士の称号を受けるまでになっていた。王室にもロスチャイルド家と共に取り入ることしきり、ウェールズ皇太子やレオポルド・ロスチャイルドらと、実に親しく交際しはじめた。
P153このロスチャイルドが副会長をつとめるイギリス・ユダヤ人協会では、サッスーンも仲良く副会長の座におさまっていたのである。
そろそろ答えを明かしてもよいだろう。このような財閥がただのユダヤ富豪であるはずはない。アブダラの息子エドワード・サッスーンの妻の名は、アリーン・ロスチャイルドという。
その息子のフィリップ・サッスーンが、ウィンザー公とシンプソン夫人の“世紀の恋”を全て仕組んだ男であった。
香港上海銀行のほとんどの株を握ったアーサー・サッスーンの義理の弟が、ほかならぬ金融王ネイサンの孫レオポルド・ロスチャイルドだったのだ。
それだけではない。二代目のサッスーン兄弟は、総領の甚六と次男の香港キングの下に、サッスーン・デヴィッド・サッスーンというややこしい名前の三男坊がいたが、その息子の結婚相手が、グンツブルグ男爵の娘であった。
何を隠そう、この男爵家は、今度は“ロシアのロスチャイルド”と呼ばれ、ロシア系ユダヤ人の政商エドガー・ブロンツマンやアーマンド・ハマーなどを掌中に収め、静かに地球を動かしてきた世界的富豪である。
今日その一族のアレクシス・ド・グンツブルグ男爵が、“背ビレ四枚”わがJ・ゴールドスミスと姻戚関係にあり、パートナーとして事業をおこなっている。
香港キング--麻薬王--紅茶の支配者サッスーン一族は、三たびロスチャイルドと結婚していたのである。かくして「香港上海銀行」は、設立者サッスーン家がわれらの“赤い盾”の扉のなかに吸い込まれると共に、銀行の重役室ごとロスチャイルド家に呑まれてしまった。
香港はいよいよ一九九七年をもってイギリスから中国へ返還されようとしているが、そこに起こったのが八九年の天安門事件だった。
ここからの物語は、読者が洋酒好みなら、その一族のブロンフマンが売っているシーグラムの“シーヴァス・リーガル”か“フォー・ローゼズ”をたしなみ、それがなければ、“ホワイト・ホース”か“ジョニー・ウォーカー”のせめて黒をグラスに注いで、グラスを重ねながらお聞き願いたい。
読者が紅茶好きというなら、“ブルック・ボンド”、”リプトン”、“フォートナム&メーソン”、“トワイニング”、なんでも結構。そこへ“ヘネシー”のコニャックを数滴落として、軽く酔うのがよろしかろう。
ここは金瓶梅の香港、タックス・フリーの香港なのだから、ブランデーの一バインド壜を膝に抱いて酔うほどでなければ、一人前とは言えない。三合会とはこのことだろう。
香港を支配したのは、サッスーンだけではなかった。サッスーン家三代目がエドワード、四代目が“上海キング”の異名を取ったエリアス・サッスーンだが、その頃には、強力なライバルが台頭してきた。
こちらは超高級コニャック“ヘネシー”を販売し、わが国では“ホワイト・ホース”の輸出業者として知られる大商社ジャーデン・マセソンである。
P154 サッスーンと同じく、インドの茶とアヘンを目玉商品として、ただしこちらは香港の対岸マカオに一八三二年に開業していた。社名は、創業者のイギリス人、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンの名を組み合わせたものだが、アヘン戦争が終わると、この商会も早速香港に本社を移し、東インド会社末期の利権をめぐって、サッスーンと激しく争いはじめた。
ことに一八七〇年代に入って、ジャーデンが海運業に大々的に乗り出し、「チャイナ・コースト汽船」を香港に設立した時には、流石のサッスーンの「香港上海銀行」もその土台が揺らぐかと思われるほど大きな打撃を受けた。
ロンドンのロスチャイルドが真っ青になったのも無理はない。ジャーデンもまた、秘密結社“三合会”に資金を投入し、華僑を次々と買収してきたからである。
しかし闘いというものは、あまりそこに熱中しすぎると、漁夫の利を狙う者が出てくるから危険である。一ハ七七年になると、ジャーデン一族と結婚したファミリーとして、ケスウィック(相参1、相参2)という人物が現れ、サッスーンとの和解を申し出る目出度い結果となった。
その一族のウィリアム・ケスウィックが香港上海銀行の重役室に迎えられ、取締役として大きな権力を与えられたのである。今日、アジアのどこへ行っても、ジャーデン・マセソンの会長ケスウィックの名を知らなければ誰ひとりビジネスの相手になってはくれない、という一族だ。
それからのロスチャイルド⁼サッスーン連合が、ジャーデン⁼ケスウィック連合と手を組んで何をしたかは想像に難くない。アヘン戦争後に香港総督として就任した人物は、いずれも東インド会社から出てきた男ばかりだったが、この同じ一八七七年に総督となったのは、その名もジョン・ポープ⁼ヘネシーという人物だった。
ヘネシー家は、その一族がイギリスからフランスのコニャック地方に渡っているが、コニャックで何を生産したかは、のちにフランス篇とバチカン物語でご紹介する。
つい十数年前に、イギリスの作家ジェームズ・ポープ⁼ヘネシーが殺された。彼の作品には読むべきものが多く、ことにノンフィクションの伝記的著述は、イギリス社会の病理を鋭くえぐり出していた。
この作家は、なぜ残忍な殺され方をしたのか、さまざまなミステリーが語られている。一九六七年に出版された彼の一冊を見れば、死因を推察できる。それは大西洋の奴隷商人の悪事を告発した作品で、書名が『父親たちの罪業』というものだった。
香港総督ポープ⁼ヘネシーの一族から生まれたこの作家が、何を知って苦悩し、アルコールに耽溺したかを追究する作業は、文学界の興味深い主題でもあろう。なお、フランスのヘネシー家は、常に長者番付に名を連ねる大富豪である。
こうして香港は二十世紀に突入し、一九〇四年から総督に就任したのが、それまでのキリスト教徒に代わって、ユダヤ教徒のイギリス人、
P155マシュー・ネイサンであった。このネイサンは姓であるから、ロスチャイルド家のネイサンではない。ところがタイタニック号で死亡したデパート王シュトラウス(前述)の息子が、このネイサン家の娘と結婚していたのである。
香港・上海キングのサッスーンはユダヤ人だった…香港総督ネイサンはユダヤ人だった…もしこのような記述があれば、それはとんでもない事実誤認である。みなロスチャイルド家である。
この時代のユダヤ人は、ほとんどが貧しく、とくに正統派のユダヤ教徒ならば、異常なほどつつましい生活を好み、それを人生の糧として生きていた。アメリカに移住したユダヤ人の貧しさは、だれもが知る通りである。ところがこの貧困を軽蔑し、王位についたユダヤ人ロスチャイルドの一族もいたことになる。
香港のメインストリートは、さまざまな意味をこめて“ネイザン・ロード”と呼ばれるべきである。香港総督ネイサンは、この地に着任する前がアフリカの奴隷貿易の中心地・黄金海岸(現在のガーナ)の総督だったが、黄金海岸という当時の呼び名に偽りはなく、今日でもガーナはアフリカ第三位の産金国である。
ネイサンの目的は、香港を離れた直後に南アのナタール総督に就任して、一九〇九年まで黒人を支配したことで一層明らかになる。この年に、イギリス議会が南ア法を制定し、今日のアパルトヘイト制度が確立されたのであった。
世界はひとつである。
今世紀に入って、香港を動かすもうひとつのイギリス財閥が台頭してきた。スワイヤ兄弟である。中国人に言わせれば、今や、「香港?あれはスワイヤの持ち物だ」と言うほど大きな勢力を持っている。
実にこのスワイヤ兄弟は、一九八八年のイギリス長者番付で、わがJ・ゴールドスミスの十位、マスコミ王ロバート・マクスウェルの十一位に次ぐ、十二位の座を占めている。
その商品が紅茶の“ブルック・ボンド”であることは言うに及ばず、香港の航空界を独占してきたキャセイ・パシフィックの支配一族である。「香港上海銀行」の特別顧問をつとめるスワイヤは、一体どこから生まれたのであろうか。
ジャーデン・マセソンを二世紀近くにわたって動かし、香港上海銀行の会長の座に登りつめた、前述のケスウィック家は、一体どこからその力を得たのであろうか。わが国ではあまりその存在が知られていないのは残念だが、華僑がその前にひれ伏すというスワイヤの系図14と、ジャーデン・マセソンの支配者ケスウィックの系図を見ていただければ、一目瞭然だろう。
この図の通り、スワイヤ兄弟が、イングランド銀行、モルガン・グレンフェル、バークレーズといった大銀行の閨閥にあるのは当然だが、“ミルナー幼稚園”のアルフレッド・ミルナーの軍事秘書が一族に入っていることには驚かされる。
ネイサン・ロスチャイルドは現代においても偉大である。
P156 スワイヤの系図しか見当たらない?
ケスウィックの系図は、すでに読者が見ているのである。前章の最後の系図12(1、2)に戻っていただきたい。
その中央に、★印のサッスーンと、★★印のケスウィックが見つけられるはずだ。それを確認しながら、改めて周囲の人物を見回していただきたい。香港は、なぜアジアのなかで金とダイヤと麻薬の取引が盛んであるのか、一考を要する重大な疑問を投げかけてくれる。
白人だけがアパルトヘイトの責任者であろうか。そうではない。黒人を隔離する政策は地球ぐるみでおこなわれてきた犯罪である。
われわれは、何も知らずにイギリスの紅茶を飲み、スコッチやカナディアン・ウィスキーをたしなむ。ヘネシーと聞けば、多少はよいグラスを揃えたくなるだろう。こちらに何の罪があるものか。免税店でささやかなミヤゲ物を買ってくるだけではないか。紅茶の四銘柄を見てみよう。
“ブルック・ボンド”はスワイヤ家のもの。
“リプトン”は、かつてサッスーンのもの。その後、J・ゴールドスミスがロスチャイルド家から譲ってもらい、今ではアーガイル公爵家の企業が所有している。この公爵家、昔は東インド会社の重役をつとめ、部下にゴールドシュミットを抱え、死の商人ヴィッカース家と結婚し、やはり前章の系図12(1、2)にほんの何本かの線を付け加えれば姿を現すファミリーである。
“トワイニング”は、十八世紀初頭に茶のディーラーとして台頭したトマス・トワイニングが創業した会社だが、やがて十九世紀に一族はゴールドスミス商会の重役となり、またアフリカ各地の総督をつとめてきた。
“フォートナム&メーソン”は、そのトワイニングの姉妹会社である。
香り高い紅茶は、すべてこうして生まれなければならなかった。
スコッチ・ウィスキー?これはジョニ黒だろうが白黒だろうが、ほとんどギネス家の掌中にある。わがJ/ゴールドスミスの父の親友こそ、ギネス家の生んだ植民大臣ウォルター・ギネスであった。
このファミリーについては本書の最後にギネス・ブックには決して記録されない記録を示して、家系図の世界記録に挑戦してみる。
これで終れば、ホンコン物語はイギリス人だけに演じられてしまう。三合の水を飲んでもうひと息、今度は華僑がこれらのイギリス人とどのような取引をし、中国の鄧小平やアメリカのキッシンジャー(前述)が何を企んできたか、という問題である。
日露戦争によって、わが国が初めての大戦争に勝った一九〇五年とは、ちょうどネイサンが香港総督をつとめていた時代に当たるが、それは偶然の符合ではなかった。
P158 すでに述べたアメリカの「クーン・レーブ商会」が高橋是清(tw、相互参照)に軍資金を与えたのは、ロスチャイルド家のシフという治下の金融王がいたからだが、そのジェイコブ・シフがロシア帝国を打倒するために手を組んだのが、「香港上海銀行」だったのである。
結局、ユダヤ人のシフが、ユダヤ人のサッスーンと手を組み、日露戦争の開戦と同時に、この銀行を守護する香港総督として、ユダヤ人のネイサンが急遽アフリカから呼び寄せられた。
ところがその“ユダヤ人”というのがただのユダヤ人でなく、シフ、サッスーン、ネイサンとともに“ロスチャイルドの家族”であった。このあとの歴史は、大正から昭和にかけて朝鮮と中国、さらにマレー半島、フィリピン、インドネシアへと侵略の手を広げ、大東亜共栄圏の旗を掲げる狂気の国・大日本帝国の時代を迎えた。
(随時更新)
P160 もうひとつの側面を見てみよう。天安門事件のあと鄧小平が形式的に引退し、背後から江沢民を支配する院政に入ったとき、アメリカ・中国協会の会長ヘンリー・キッシンジャー(前述)が中国に飛んできた。
この男はかつて国務長官と言われながら、実際にはロックフェラー財閥の使い走りをしていたユダヤ人だが、最近は何をしてきたかを言えば、そちこちの投資銀行の代理人として走り回っていた。
自分の会社「キッシンジャー・アソシエーツ」の仕事がそこにあり、特に「シェアソン・レーマン社」からかなりの小遣い銭を貰っていたことはあまりに有名な話である。
董グループの財務顧問と同じ社名だが、シフの“クーン・レーブ”家と結婚した“レーマン兄妹”が、
P161今日の「レーマン・コーポレーション」となったものであるから、キッシンジャーは最近の仕事がロスチャイルド家の使い走りになっていたいたことになる。
さて、このキッシンジャー・アソシエーツの副会長スコウクロフトと、社長イーグルバーガーがそれぞれ、ブッシュ政権の最高幹部として、大統領補佐官と国務省№2の副長官のポストについてしまったのである。
この状況のなかで起こったのが、一九八九年六月四日の天安門事件であったというところから、解析をはじめなければならない。わが国のジャーナリズムは、NHKが一九九〇年正月から“中国情勢は今後どのように動くか”とキッシンジャーに尋ねていたが、犯人をつかまえて、あなたはこれから何をするでしょうか、と尋ねるようなものである。
アメリカが中国に通信衛星の輸出を承認したのは、レーマン・ブラザーズからキッシンジャーへ、次いでスコウクロフトとイーグルバーガーからブッシュへと、ひそかな耳打ちがおこなわれたルートによる。その指令の総本山は、香港の九龍城の奥深い闇のなかにある。
「香港上海銀行」の目と鼻の先に「中国銀行」が東洋一の銀行ビルを建て、そこでは鄧小平の部下と、華僑財閥のリーダー包玉剛が取引きをおこなっていたのである。
中国銀行の香港支店は、ここで年間七十億ドルという外資を手に入れる金の卵となり、香港の貿易取引き額は一九八四年から中国がトップの座を占めるようになっている。
“赤く貧しい銀行”どころか、中国銀行グループの支店はすでに三百にも達する勢いで、香港最大の家電メーカー「康力グループ」の株を三分の一以上握り、金と取引きではとてつもなく大きな声を出すようになってきたという。大変に結構なことである。
ただそれが、中国の市民に還元されているかどうかを確認しなければならない。残念ながらそこに見えるのは、間違ってもかつて存在した理想主義としての共産主義や社会主義でなく、また開かれた自由市場を争う資本主義でもなく、実際には中国の国民に何も知らせずに一部の人間が利権を分配する独裁政治というほかない状況にある。
一九九〇年に中国の外国資本導入額は史上最高を記録し、かつて欧米の証券取引所を“悪魔の館”とののしった政界幹部が、上海の証券取引所を一九九〇年に開設して大々的に祝う時代となった。
香港の“裕福な弁護士”と言われる羅徳丞も、鄧小平に肩入れする有力者のひとりである。この男は香港警察に対して絶大な発言力を持ち、「チャイナ電灯電力」の重役室に坐っている。
調べてみれば、その電力会社の子会社が「香港原子力投資」という危険なもので、さらに驚いたことに、この原子力企業の重役がピアース・ジェイコブズであった。一九九〇年現在の、香港政庁の財務長官その人であった。
香港通の人であれば、この国でお札を発行しているもうひとつの銀行、「スタンダード・チャータード銀行」も気がかりだろう。
P162 これはもうすでにシャーロック・ホームズとともに歩いたロンドンで、五大商業銀行として説明した通り、アフリカ全土に君臨する銀行である。一九九〇年にイギリスの新首相メージャーを重役室から生み出したが、その筆頭株主で副会長をつとめるのはやはり包玉剛である(相互参照)。
重役室では、背ビレ二枚半のホームズアコードが、包と共に副会長の座にあって、興味深いパートナーの関係を結んできた。ホームズアコードが大英帝国の美術商クリスティーズの大株主として、華僑と一緒に商売をしていたことになる。いずれもそのボスである。お気づきだろうか。
十年ほど前にニーナ・ダイヤーの“パンサーの宝石”が忽然と消えたのは、この香港であった。それが「私立探偵の努力の甲斐あってカルティエの手に戻った」という作り話などに多くの人は惑わされてしまうかも知れないが、ミステリーどころか、初めから仕組まれた芝居でる。
(随時更新)
2.2 インディー・ジョーンズⅣ P163-197
2.3 バーミューダ魔の三角地帯 P198-240(→参照)
2.4 ジェームズ・ボンド『女王陛下の007』P241-281(→参照)
2.5 カリガリ博士とマブゼ博士 P282-367(→参照)
2.6 ロスチャイルド家の反撃 P368-415(→参照)
第三章 芸術の都パリの下水道 P419-971
3.1 死刑台のエレベーター P419-427(→参照)
3.2 オリエント急行殺人事件 P428-436(→参照)
3.3 恐怖のドレフュス事件 P437-462
(シェルブールの雨傘,tw) P440-444
P440 彼の名品の中でも、『ロシアより愛をこめて』はこの一族の世界を地で行く作品であった。ジョン・バリーは生れがイギリス人で、その妻ジェーン・バーキンはイギリスからフランスに渡ってのち、女優として名を成した。ところが映画界の知る通り、これからが大変な物語となっていったのである。
今ここに、ジェームズ・ボンドのタイトル・バックに流れるあのマット・モンローの歌声を耳にしながら、彼らの系図38を描いてみればよい。ここには、『ロシアより愛をこめて』が悪者として描いた現代"共産主義社会のクレムリン"に恨みを持つ一族、ほかならぬ帝政ロシアのツァーの末裔が姿を現わす。
革命の英雄レーニンと殺し合った一族である。この謎を解いてみよう。ジョン・バリーの妻ジェーン・バーキンは、アガサ・クリスティーの作品などに出演しながら国際的に知られる女優となったが、ご存知『シェルブールの雨傘』のジャック・ドミー監督の妻アニェス・ヴァルダも女流映画監督で、そのヴァルダがジェーン・バーキンのファミリーを映画化するするという興味深い仕事に取り組んだ。
タイトルは、その名も『アニェス・vによるジェーン・b』つまりヴァルダ監督描くところの女優バーキンという、想像力を駆りたてるものであった。
バーキンの男性遍歴は大したもので、作曲家ジョン・バリーと結婚して一女をもうけたあとは、もうひとりの作曲家セルジュ・ゲンスブール(tw,tw)と子供をつくってしまい、つづいてジャック・ドワイヨンとのあいだにまた子供ができてしまった。
その二番目の"夫"ゲンスブールがこれもまた大変な男で、一九二八年生れという歳ながら女を見ると食べてきた。『夢見るシャンソン人形』を作曲してフランス・ギャルの歌を大ヒットさせたゲンスブールのアルバムを見ると、
ギャルだけでなくB・Bことブリジット・バルドーが歌い、『シェルブールの雨傘』のカトリーヌ・ドヌーヴ、『男狩り』の地を行くようにアラン・ドロンと同棲していたミレーユ・ダルク、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール監督(tw,tw,tw,tw)
P441の妻だったアンナ・カリーナ(tw,tw,tw)・・・そこに、ジェーン・バーキン本人も加わり、さらにバーキンとゲンスブールのあいだにできた娘シャルロッテまでが歌っている。
この総登場に花を添えるのが、ゲンスブールの"第三の女"バンブーで、こちらにもきちんと子供ができている。このシャンソン人形たちが何を夢見ているかは知らぬが、それはなんら問題ではない。問題はジェーン・バーキンとセルジュ・ゲンスブールの世界である。
女優バーキンの四世代前の祖先は、イギリス首相ラッセルの兄弟に当たり、これがただの兄弟ではなかった。彼らの甥が、ダイヤ王セシル・ローズの創立した「ブリティッシュ南アフリカCo」の社長として君臨し、黒人を痛めつけてきた張本人であった。
ルイ・マル監督が砂糖の大メーカーの一族だと述べたが、ラッセル首相の系図も今日世界最大の砂糖メーカー「テール&ライル」一族と結ばれ、問題のローズの帝国"ローデシア"で黒人を使役し、アフリカに大農場を経営してきた。その部分の系図をよく見れば、なるほど娘ムコが「ロスチャイルド投資信託」の重役である。
これらは、偶然にすべてが一致した現象とみなすこともできる。つまり、女優バーキンの従祖父トマス・バーキンが、イギリス最大の兵器トラスト「ヴィッカース」の会長一族で、南アのボーア戦争でボロ儲けした史実も、偶然の符号にすぎないと考えればよい。
この全体図を描いてゆくと、ロスチャイルドにはじまって、ロスチャイルドに終わっている。イギリス出身でフランスの女優を観察しながら、そこに鉄道王ジェームズの姿が飛び出してくるのは、まったく自然に反することで、系図は時としてこのようなイタズラをする場合もある、とロスチャイルド家お抱えの作家たちは主張するであろう。
そこで、『アニェス・vによるジェーン・b』を、『ジェームズ・Rによるアニェス・V』と改題して、別の角度からこの世界を見てみよう。
アニェス・ヴァルダ監督の夫ジャック・ドミーは1990年にこの世を去ったが、本書を書きはじめてから、登場する主人公が次々と他界してゆくのは奇怪である。ドミー監督が生み出した『シェルブールの雨傘』は、すべての台詞をオペラ形式で歌わせるという手法で、ミュージカル映画史上かつてない対話法を見せ、観客に驚きを与えた。出征する若者を見送るカトリーヌ・ドヌーヴの悲恋が主題歌として歌われ、大いにヒットした。1964年に制作され、カンヌ映画祭でグランプリを受賞したのである。
フランスのマドレーヌ映画社の作品で、そのプロデューサーであるジルベール・ゴールドシュミットは、この映画会社の創立者で会長でもあり、事業は多方面にわたって、フランス映画界に隠然たる勢力を持つと言う。このゴールドシュミットは、父親の姓がもう少し長いもので、自分の代になってP444 短く省略したのである。父親は、ロドルフ・ゴールドシュミット=ロスチャイルドといい、すでに系図31(url)の上部に示した通り、イギリスの王室や首相とつながる大変な一族、ロスチャイルド家の直系子孫である。ヒットラー台頭当時の複雑怪奇な上流社会のユダヤ人として、辛酸をなめたはずだ。
しかし『シェルブールの雨傘』には、公開当初からふたつの別の重大な問題が秘められていた。世界的にはほとんど議論されなかったが、北アフリカではこの作品に異議が出されていた。映画のなかでフランスの若者が出征していく先はアルジェリアで、この映画が製作された年はアルジェリアの独立から二年後に当たっていた。フランスの侵略戦争が、ミュージカルというエンターテインメントのなかで誰知るともなく美化され、悲恋の曲を口ずさむ全世界の観衆が同情の思いを寄せて賛美してしまう、という落とし穴が掘られていたのである。
もう一つの問題は、後年になってようやく気づく人間が出るか出ないか、というさらに巧妙な仕掛けであった。ロスチャイルド財閥がこの作品の舞台となったシェルブールという小さな田舎町に、壮大なプロジェクトを進めていたのが、映画公開当時の状況であった。公開四年前の1960年に、北アフリカのサハラ砂漠でフランス発の原爆実験が成功したあと、ウランとプルトニウムを大量生産するための再処理工場が必要となり、軍需工場と連動する大工場が求められていた。
それがシェルブール、今日世界最大の「ラ・アーグ再処理工場」である(tw)。ここに記録する”映画と工場の関係”は抽象的なものではなく、実際にヴァルダ監督の弟ジャン・ヴァルダが、フランスで最初の株式銀行としてジェームズの時代に設立された商工信用銀行の重役であった。『シェルブールの雨傘』公開当時この大銀行の重役室で大きな声を出していたブノワ・マルシラシーは、ロスチャイルド銀行の代理人としてよく知られ、この銀行が、原子力の工業界に投資をしていたのである。
『シェルブールの雨傘』は、こうして有形無形の貢献を果たし、カンヌでグランプリに輝いた。これも偶発的な一致に過ぎないと言うのであろう。アニェス・ヴァルダと白血病でこの世を去ったジャック・ドミーの監督夫妻は、高く評価されてよい。
(ロシア革命前後と大商人たち 反ユダヤ主義 ドレフュス事件 シオニズム ゾラ) P445-462(tw)
P444 ことに帝政ロシア時代に大部分の民衆が極貧の生活にあえいでいた事実と照らし合わせると、ギンズブルグ一族がロシアの特殊社会を構成し、よく言えば指導的な立場、はっきり言えば巧妙な支配階級--それもごく一握りの大富豪--の一員であったと推定される。彼らは帝王に取り入り、すべてのヨーロッパ王室で見られたように利権と財宝を交換しながら、互いに協力し合って巨富を蓄えた。その利権者である帝政時代の商人たちがロシア革命によって根絶されたかと言えば、そうではなかった。ロマノフ王朝という頭の部分だけが、シベリアのエカチェリングブルグ(現在のスベルドロフスク)におけるニコライ皇帝一家の処刑によって消し去られ、
P446 その裏で革命後の歴代ソ連首脳は、密かに帝政ロシアに仕えた御用商人を貴重な人材として登用してきた。1989年の激動に至るまで72年間という長い年月、西側との交易をこの商人に頼って生き抜いてきたのである。たとえばアメリカ人のペプシ・コーラ会長ドナルド・ケンドールや、1990年にこの世を去ったオクシデンタル石油のアーマンド・ハマーが、ソ連国内で深くアメリカとつながっていた。しかしヨーロッパのロスチャイルド家は、こうした人物と比較にならない規模で、実際に"ソ連の国民"として生き続け、内側にあって西欧との交易を続けてきた(『ロマノフ家の黄金』P311→参照)。
いまやソ連は、72年のあいだ隠れていたこの商人たちが公然と活動を開始する日を迎えた。すでにその顔は、そちこちに見えはじめた。民衆が起こしたロシア革命は、決して民衆を救わず、スターリン時代に民衆を大量虐殺するという逆の結果を招いたが、これはひと握りの商人利権者がクレムリンの官僚機構を支配していたからである。ペレストロイカが進行すると共に"パーミャチ"と呼ばれる反ユダヤ主義の組織が台頭してきた。
これは商人支配への反動として民衆の怒りが爆発し、一面ではナチス台頭時代とよくに似た状況が生まれてきたことの危険な証左でもある。その悲憤の根底にあるのは、言われているような民族問題ではなく、こうした利権集団に対する耐え難い感情にあった。
(略)
P447 ロシアに根をおろしながら、グンツブルグ家は全世界にユダヤ人富豪の閨閥をひろげていった。すでに本書のあちこちで登場したグンツブルグ家を、今度はこの一家を中心にまとめてみると、孫娘がインド香港上海の支配者アヘン王サッスーン家に嫁いだあと、投資銀行ラザール・フレールの創業一族でウォール街収入トップのデヴィット・ウェイル家と結ばれ、アメリカの鉱山一族セリグマン家、ヨーロッパとトルコの鉄道王ヒルシュ男爵家、そして1990年代に世界ユダヤ会議の会長をつとめるシーグラム・ウィスキーの
P448 ブロンフマン家という具合に、地球の支配者として成功するユダヤ人を次々とロスチャイルド一族に取り込んでしまった。いずれも桁違いの富豪ぞろいで、この世のご大陸を席巻したのである。グンツブルグ家が活躍したのは、ロシアのロマノフ王朝を動かしたという怪僧ラスプーチンの時代に当たるが、ロシアのユダヤ人であったア・シマノウィッチの著書『ユダヤ人とラスプーチン』には、当時の情景が生々しく記録されている。
(略)
P450 イスラエルという国家の建設について、新しい視点から砂漠の謎を解いてみたい。それには中東だけを見ていたのでは何もわからない。ロシア-フランス-アルジェリア-イスラエルを結ぶ歪んだ四角形のなかにあるのが、1992年の統合を控えたEC諸国である。この四つの頂点をたどると、中心に存在する謎の観光会社「地中海クラブ」の全貌が浮かびあがる。
(略)
P450 ユダヤ人の穀物業者ルイ=ドレフュスがフランスからスイス、ロシアへと進出し、ロシア小麦をフランスへ送りはじめた。この商売を取り仕切ったのがグンツブルグ家であったことは言うまでもなく、今日第四位と言われるルイ=ドレフュス社の金庫「ルイ=ドレフュス銀行」副社長は、つい先年まで、アラン・グンツブルグ男爵であった。この男爵はミンダ・ブロンフマンと結婚し、後年の世界ユダヤ人会議の会長ブロンフマンと義兄弟のなかとなるが、19世紀後半におけるユダヤ人としてのロスチャイルド家の活動は、次のように激烈をきわめた。
ロシア小麦がマルセイユに運ばれていた頃、イギリスでは初のユダヤ人首相ディズレリ(tw)が誕生し、ソロモン王以来という鳴り物入りでユダヤ人の王と崇められたが、
(略)
ロスチャイルド家に入りびたり、南アのダイヤに目がくらみ、植民地政策を強力におし進め、彼の遺産整理をおこなったのがロスチャイルド家だったことである。そのユダヤ人ディズレリが首相のとき、ロシア封じ込め政策を打ち出し、帝政ロシアに挑戦状をたたきつけたのが1878年であった。ロスチャイルド、モンテフィオーレ、ドレフュス、グンツブルグ、ディズレリがヨーロッパ全土結束し、黒海のオデッサからボスポラス海峡を抜けて地中海に至る貿易ルートを、独占しようとしたのである。
一方、フランスの鉄道王ジェームズ・ロスチャイルドは、地中海から東洋へ抜けるスエズ運河をつくってさらに広大な貿易ルートを独占しようと計画していたが、ディズレリの首相誕生の年にこの世を去ってしまった。しかも皮肉にも、ジェームズの死の翌年、1869年にレセップスによって運河が開通し、ついにインドへの大貿易ルートが開かれる日を迎えた。
レセップス家は古い名門で、ロスチャイルド財閥ではなかった。そのためロスチャイルドは複雑な利権が絡み合うイギリス政府に手を回してスエズ運河の計画を妨害し続けたのだが、彼らの手で開通してしまったものは致し方ない。そこで金融世界の策謀によって少しずつスエズ運河会社を追いつめすでに述べたようにディズレリ首相の時代にこの会社の株を大量にロスチャイルドが買い取る、という作戦を果たしたのである。
(略)
P452 マルクスの資本論第一稿が発表されて貧しい民衆の怒りが爆発寸前になっていた時代、ロスチャイルド家の行動には思慮というものが欠けていた。南アでダイヤが発見された直後に、ディズレリ首相が誕生したというのも単なる偶然ではなく、ディズレリを社交界に送り込んだロンドンデリー侯爵夫人とは、ほかならぬ背ビレ四枚ゴールドスミスの第三夫人の祖先にあたる人物であった(tw,tw)。
1878年のロシア封じこめ政策は、ロシア皇帝を激怒させ、三年後にロシア全土にユダヤ人虐殺"ポグロム"の嵐が吹き荒れた。ポグロムとは"凶暴なる攻撃"として使われる言葉だが、"雷のように"襲いかかる攻撃という意味が語源であった。これが『屋根の上のバイオリン弾き』の物語に描かれた悲劇であった。実際にその引き金になったのは、ロシア皇帝アレクサンドル二世が「人民の意志」という革命グループの爆弾で暗殺され(相互参照)、その後を継いで即位した息子アレクサンドル三世が打ち出したユダヤ人弾圧政策にあった。
マルクスとエンゲルスがユダヤ人だったというだけでなく、『屋根の上のバイオリン弾き』に登場した革命を夢見る若者のように、革命思想がユダヤ人のあいだに広く普及していたことも事実であった。しかし後年、実際にロシア革命が起こってみれば、「ユダヤのブルジョワを抹殺せよ」という言葉と共に、多くが職工や小店主のような貧しいユダヤ人が血祭りにあげられ、犠牲になったのである。
第一波として起こった年のポグロムは、地球を揺り動かし、その年から、ヨーロッパ全土のユダヤ人が新天地を求めて大規模なアメリカ移住をはじめた。このとき運河をねらうロスチャイルドも具体的に動きはじめ、翌82年にはイギリス兵をスエズに送りこんで、運河を支配してしまった。今度は株券による支配ではなく、力による制圧であった。四十年前に慈善家モンテフィオーレ(相互参照1、2、3)がエルサレムを訪れた時、そこにユダヤ人の国家が建設される夢を思い描いていたが、今やポグロムによって、ただの夢から急がなければならない計画へと変わったのが、ユダヤ人国家の建設だったからである。
ヒルシュ男爵が南米のアルゼンチンにユダヤ人労働者を移住させたとき、この作業を取り仕切ったゴールドシュミットが、いまや中東にも姿を現し、ロシアからの移民をこの地に受け入れる準備を進めた。ユダヤ人が生きる糧として、パレスチナへの農業移民が計画され、ワインの製造がはじまった(tw)。
今日のイスラエルを訪れると、"カルメル・ワイン"が販売されている。これがポグロムによって誕生したものだが、その創業資金三万フランを提供したのが、ほかならぬエドモン・ロスチャイルドであった。フランスの鉄道王ジェームズの息子である。
しかしここに、ポグロムの第二波がフランスで起ころうとしていた。
(略)
P454こうしてスエズ運河からあがる利益は、イギリス、フランスいずれも、血を流したアラブ人ではなく、ユダヤ王の手に渡った。さらにフランスでは、鉄道王の時代から、ユダヤ人にとって危険な事業の進め方が注目を集めていた。ジェームズがロスチャイルド家の総本山「北部鉄道」会社を設立した時から、その株の販売法に重大な疑問が生まれていた。ジェームズは特殊な人間にしか株を譲渡しなかったからだ。今日のインサイダー取引とは比べ物にならない露骨な方法で、まず、利権を許可するフランス政府の要人に株が渡され、ついで、それを告発する新聞界にひそかに株が譲渡された。
一般の投資家が申し込んでも、ジェームズはその手紙を開こうともせずくず箱に投げ捨て、身近な友人--ユダヤ人グループにだけ分ける方法をとった。この元手となる資金がロスチャイルドの企業グループ内部にとどまる事業であれば、そのような利権の配分も資本主義の世界では当然の権利として主張することが許されたであろう。ところがフランス全土に鉄道ネットワークを張りめぐらすのに、これだけの公共事業でフランス民衆の血税が使われないなどということは、あり得なかった。
工事を遂行するに当たっては、国家からロスチャイルド家への払い下げや無償の恩典などが、何人かの、懐をあたたかくした政府要人のサインで認可されたのである。その結果、フランス人の金が鉄道の線路のうえを走ってゆき、そのうちかなり金額がユダヤ人の家に配達されてしまった。これで何も起こらないはずはなかった。
ジェームズの息子エドモンの時代になると、ロシアのポグロムに刺激されて、フランス全土で反ユダヤ感情が燃え上がった。1884年にパリで反ユダヤ会議が開催されると、それから十年後、決定的な事件が怒る日を迎えた。前世紀末、1894年10月15日、ユダヤ人のアルフレッド・ドレフュス大尉が叛逆罪で告発され、逮捕されたのである。
(略)
P456 ドレフュス家はアルザス地方の裕福な商家で、一方、穀物商社ルイ=ドレフュス家も同じアルザスで穀物に進出した一族として、深いつながりを持っていたはずである。これは当初から、ただのユダヤ人の逮捕事件ではなかった。ロスチャイルド家をおとしいれるため、最初からドレフュスに狙いをつけ、仕組まれていたに違いない。
アルザス・ロレーヌ地方は、南ドイツやスイスと国境を接する微妙な地帯で、すでに第二次世界大戦の説明で登場したマジノ線の構築地、つまり兵器メーカー「シュネーデル」のヴァンデル家が根城としていた地方である。ヴァンデル家からドゴール将軍の誕生をみたが(→参照)、実はこの一族はフランス銀行の理事として巨大財閥を形成し、ナチス台頭期にはフランス銀行内部で有名な語り草となっている"ロスチャイルド・ヴァンデル・シンジケート"を形成していた。この両家がボイコットすれば、フランス銀行の機能が完全にストップしてしまったほどの力を持っていた。それほどロスチャイルドと密接な関係にあるヴァンデル家が、同じアルザスでドレフュス家と無関係であるはずもなかった。
ドレフュス大尉が参謀本部の要職についた経過を調べてみると、そもそもが親友アルファン少佐の推薦によるもので、この少佐というのが、詳しい系図解析(下巻・系図43)をのちに示すように、まぎれもなくロスチャイルド一族であった。当初はアルファン少佐が勤務するはずだったポストに、ドレフュスが代わって座ることになったのである。したがって、ロスチャイルド家を狙って事件が仕組まれていた可能性 がきわめて濃厚になってくる。問題はその動機である。
軍法会議が全員一致で有罪の判決を下したのは、言うまでもなく事件全体が軍人を中心とする策謀であったことを示している。ここに、兵器メーカーとして陸軍内部に勢力を誇っていたヴァンデル家と、そのロスチャイルド代理人を憎しと思う別の軍人勢力の対立、という構図があった。その実情を知るには、ドレフュス大尉とヴァンデル家の出身地であるアルザス・ロレーヌ地方が、ユダヤ人にとって特異な場所であることを理解しておく必要がある。
アルザス地方のナッツヴァイラーにはナチスの強制収容所が建設され、この地方のユダヤ人が第二次世界大戦中には特に大量に殺されたのである。P457パウル・アサールの著書『アルザスのユダヤ人』には次のように書かれている。---たとえ若干の誇張はあるにせよ、確実に言えることは、数世紀にわたって、自らのアイデンティティを守り続けてきたアルザス最古の住民集団は、ユダヤ人であるということだ---
著者アサールは、このユダヤ人集団がなめた悲痛な過去を追跡し、現代に甦らせている。われわれの知る史実とアサールの資料をつき合わせると、こうなるであろう。ユダヤ人には農業が禁じられていたため金貸しになるほかなく、一方、借り手であるキリスト教徒はその借金を帳消しにするためたびたびユダヤ人虐殺に走った。ユダヤ人を殺した多くの動機が、宗教ではなく、財産の没収にあったのである。こうして、羊飼いや馬の飼育など家畜商か行商のほか生きる道のなかったユダヤ人は、十六世紀にヨーロッパ全土で追放されたときアルザスに集結し、いわば"ユダヤ人国家"なるものを形成していった。
このユダヤ人迫害の指導者となったのが、驚くべきことに宗教改革で知られるマルティン・ルター、あの"ルーテル・アワー"のルターであった。彼の提案は、アサールによれば以下の通りであった。
---まず第一に、ユダヤ人のシナゴーグや学校には火をつけること。…第二に、彼らの家も同じく取り壊すこと。…第三に、祈祷書やタルムードもすべて取り上げること。…第四に、ラビがユダヤ教を講ずるのを禁止すること。これを守らぬなら、命を奪うこと---信じ難い提案はまだまだ続くが、「神は、罪人を求めてこれを赦す愛と恵の神である」という福音を発見したとするルターの言葉がこれであった。何より、ルターの父親ハンスが銅の精錬業者であったことに、その動機を求めればよいのであろうか。
その背景には、カトリック教徒の高僧が女遊びなどに堕落の限りをつくし、一方ではユダヤ人のわずかひと握りの支配者集団がその資金を与えていたため、ルターらのプロテスタント新興勢力が怒りをユダヤ人に向けたという事情もあった。
こうしてアルザスに救いを求めたユダヤ人は、家畜、反物、穀物などの行商によって生計を立てることになり、ここに十九世紀のロスチャイルド家台頭という時代を迎えて、この地方から富裕な商人を次々に生み出していった。独裁者スターリンと共にウクライナで農民を大量に殺す穀物商、そして今日のアメリカ農業を動かすユダヤ系穀物商の誕生である。
ところが、貧しいユダヤ人がアルザスに流れ込んでくると、ヨーロッパ王室などに取り入って生活の安定した御用商人のユダヤ人は、同胞であるはずのユダヤ人を排斥しはじめた。なぜなら、上層階級にのぼりつめた少数のユダヤ人は、「全ヨーロッパに展開しはじめた反ユダヤ主義の原因はその貧しいユダヤ人たちにある」と考え、彼らを自らの地位を脅かす存在とみなしたからである。P458まさにこの時代に起こったのがドレフュス事件であった。
しかし、アサールは同署のなかで実に緻密に反ユダヤ主義の原因と結果を追跡し、告発しながら、なぜかドレフュス事件についてはひと言も解析することなく、"アルザスのドレフュス大尉"をベ弁護する言葉さえ見つけることができない。あまりに有名な事件であるため述べなかったのであろうか。その故意とも思われる沈黙には、しかし著者の深い感情が読み取れるのである。ロスチャイルド家をはじめとする大金持ちのユダヤ財閥は、ユダヤ人のなかで孤立していた、というのが真相であろう。上層と下層のユダヤ人は、その生活の違いがあまりにもかけ離れたものだったからである。
そこに軍閥を動かすヴァンデル家、穀物商のルイ=ドレフュス家、ロスチャイルドと共に行動するドレフュス家を標的とする、世紀の冤罪事件が起こった。これがドレフュス事件の発端となったアルザスの真相である。ところが実際の事件は、まったく別の様相を呈しはじめた。
反ユダヤ主義者はドレフュス大尉の"有罪"によって勢いづくと、ロスチャイルド金融資本と政界の黒い紐を次々とあばいて見せ、フランス人を扇動していった。ロスチャイルド家はきわめて具合の悪い立場に追い詰められていった。そのときフランス金融界の大事件が人びとの脳裏に甦ると、ロスチャイルドに特定されない反ユダヤ感情が燃えあがったのである。それはドレフュス大尉が逮捕される十六年前、一八七八年のことだったが、フランスの金融界はそれまでのロスチャイルド帝国に対抗するため、カトリック教会を母体とする一大金融シンジケートを結成した。
その事業を遂行する母体として、事業銀行「ユニオン・ジェネラール」を創立したのである。しかもこのシンジケートは、かつてのロスチャイルド鉄道の重役だった人物を取りこみ、フランス全土からイタリアに至るまで、莫大な資金を集めることに成功した。ローマ法王まで取りこんで前途洋々のカトリック連合は、ギリシャ~トルコ~オーストリアを鉄道で結ぶ「オリエント鉄道」の事業を実行に移した。しかしオーストリアの鉄道もトルコの鉄道も、ジェームズの遺産をロスチャイルド家が牛耳る時代にあった。四年後の一八八二年、パリ証券取引所でこのユニオン・ジェネラールの大暴落が起こったと見るまに、そのマンモスのように巨大な新会社が一瞬で倒産してしまったのである。
この空前絶後の倒産は、金額が巨大であったことと、宗教対立という性格を持っていたという点で、国民規模の事件となり、カトリック教会とカトリック信者に甚大な被害を与えた。フランス全土で「これはロスチャイルドが仕組んだ暴落だ」という憤激の声があがり、今日までその陰謀の証拠はないとされているが、あまりにも明白な経過であった。
P458 倒産の翌年、既に見た通り"オリエント急行"が開通し、「寝台車」という会社がめでたく列車を走らせた。「ワゴン・リ」の重役室を取り仕切った有名人がルネ・マイエール、のちのフランス首相で、「北部鉄道」の副社長、言うまでもなくロスチャイルド家の母方の親戚にあたる男であった。しかも鉄道株はユダヤ人にゆきわたっていたのである。ドレフュス事件がユダヤ人に対する憎悪となって燃えあがる素地は、充分にあった。そのためフランス人は、軍人の仕組んだ罠とも知らず、誤った道を進んで行った。
ドレフュス大尉が悪魔島へ流されたとき、ハンガリー生まれでオーストリアのユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツルはパリでこの事件を目撃し、身近に迫ったユダヤ人の危機を誰よりも強く感じた。のちに"シオニズムの父"と呼ばれ、"イスラエル建国の提唱者"と呼ばれたヘルツルである。シオニズムとは、聖地、エルサレムにあるシオンの山に帰る、すなわちユダヤ人パレスチナに国家を建設する運動のことで、その推進論者をシオニストと呼んでいる。(略)
シオニズムの普及を最も具体的に進めたのがヘルツルであることはよく知られている。しかしこのヘルツルがユダヤ人国家についての論文を書き、最初にその表紙に記した言葉が、「ロスチャイルド家の人びとへ」だったことはほとんど知られていない。ドレフュス流刑から間もなく、彼は六月七日の日記に、次のように記した。
---ヴェネツィアの建国史をモデルにすることになるだろうが、ヴェネツィアの失敗からも学ばなければならない。ロスチャイルド家がわれわれと手を組んでくれるなら、初代の"ドージェ"はロスチャイルドとしよう---(略)ところが当のロスチャイルド一族は、ヘルツルの意に反して、パリ家もウィーン家もロンドン家も、まったくこのシオニズムに関心を示さなかった。なぜかと言えば、ロスチャイルド家はヨーロッパで成功を収めていたからである。万が一にもパレスチナにイスラエル国家が建設されることになれば、P460この機を逃さずヨーロッパにおけるユダヤ人排斥運動がさらに燃え広がり、皮肉にもユダヤ人のシオニズムと合体した挙句、「ロスチャイルド家は故郷のシオンに帰れ」の大合唱を招くだろう。
そのとき、ロンドン、パリ、ウィーン、フランクフルトのロスチャイルド家は、一体どうなるだろうか。このユダヤ人大富豪が、貧しいユダヤ人たちの建国案に嫌悪感を催したのは、ヨーロッパの男爵家として自然な感情であった。だがヘルツルはあきらめなかった。その建国案をしたためてから二年後の一八九七年には、スイスのバーゼルで第一回世界シオニスト会議を開催し、それから七年後にこの世を去るまで、シオニズムに全生命を注いだのである。
そのあいだに、ドレフュス事件は異様な展開を見せていった。逮捕から二年後に、"ル・マタン"紙が問題の機密漏洩文書の複写を掲載したため、ドレフュス大尉の兄マテューがこれを見て、有罪判決を覆す筆跡鑑定の作業に入ったのである。(略)文書の掲載からほぼ一年経った一八九七年十一月六日のことである。この日が、ユダヤ人にとって忘れ難い記念日となった。マテュー・ドレフュスは、ある銀行家から吉報を入手した。
偶然のことだったが、その銀行家は「例の文書とまったく同じ筆跡で書かれた手紙を発見した」と言うのだ。(略)エステラージーという署名の入った代物であった。真犯人が遂に、姿を現わした!(略)ドレフュス一族にとっては心強い動きであった。ところが問題の人物エステラージーを告発して軍法会議が開かれてみると、今度は全員一致で真犯人に対する"無罪"の判決が下され、そのような告発自体がユダヤ人の陰謀だという激しい世論の怒りが逆襲してきたのであった。
「軍隊万歳!…ユダヤ人を殺せ!…ドレフュス組合をたたきつぶせ!…裏切り者を殺せ!」法廷のなかに、このような声が渦巻き、どれほど恐怖におののいたかを、大尉の兄が『事件--マチュー・ドレーフュスの回想』という書物に記している。
P460 しかしその判決の二日後、鉄道王ジェームズを『金』という作品に描いたエミール・ゾラが、フランス全土に爆弾を投げつけた。ゾラは"オーロール"紙に大統領あての公開書簡を掲載し、ドレフュスの無罪を詳細に実証しながら、それに"われ弾劾す"という題を付したのである。(略)こうなると、軍部が受けて立ち、ゾラを重罪裁判所に召喚するという事態は避けられなくなった。
ゾラの初公判の日、いよいよ大人物がドレフュス側の弁護人として登場した。アルベール・クレマンソーである。実は死の商人ザハロフと直結し、第一次世界大戦後のヴェルサイユ会議で全世界の頂点に立った男、のちのフランス首相ジョルジュ・クレマンソーが、ゾラの有名な書簡を掲載した新聞の発行人であった。ジョルジュとこの弁護士アルベールのクレマンソー兄弟が、すでにドレフュス側に立って活動をはじめていたのである。(略)
この一八九八年には、クレマンソー兄弟の骨折りも空しくゾラは二度の有罪判決を受けてイギリスに亡命し、さらに次々と怪事件が続発した。
(略)
P462この最後の判決でフランス軍人が演じてみせたのは、もはや裁判というものではなかった。(略)
「要するにドレフュスは有罪なのだ。われわれは知っている。すべての秘密を語ることはできない。わが陸軍の真実に、フランス全国民の生命がかかっているのだ」このような意味の、国民に対する脅迫をもって判決が下され、ドレフュス大尉は何の証拠もなく、五年にわたる裁判によっても冤罪を雪ぐことができなかった。
そしてユダヤ人に対する怒号はますます高まっていった。この悲劇は、しかし突然何者かの力で幕を閉じることになった。新任の大統領ルーベがドレフュスに恩赦を与えて、自由の身にしたのである。(略)ドレフュス大尉が完全に無罪の宣告を受けたのはそれから七年後、ようやく一九〇六年七月十二日のことで、この年にクレマンソーが内務大臣に就任し、十月に首相の座についていた。
しかしドレフュス事件がこれで終わらなかったことを、第二次世界大戦が教えている。ドレフュス事件は、やがて来るべき"水晶の夜(相互参照)"の前兆でしかなかった。晴れて無罪となったドレフュス大尉の孫娘マドレーヌ・レヴィが、アウシュヴィッツで死亡しているのである。どちらの側でもない、支配者たちの争いが、その命をもてあそんだとしか思われない。
こうして土壌は培養された。ユダヤ人は、謎の帝国"イスラエル"建国へ向けて、地球規模の活動へと突入していった。
3.4 砂漠の秘密協定 P463-501(→参照)
3.5 フランスの二百家族 P507-548(→参照)
3.6 地中海クラブ P549-585(→参照)
P563 創業者であるコンラッドとマルセルのシュルンベルジェ兄弟は、今世紀初頭の一九一三年に、最初の地質物理学的手法を石油探査に導入し、十年後にはこれによって初めて大規模な油田を発見する快挙を成し遂げた。今日の石油世界に、新機軸を開いたのである。その大油田を発見したのが、一九八九年に独裁者チャウシェスクが処刑されたルーマニアであった。しかもその石油の支配者は、すでに一九〇八年にロスチャイルドが現地に設立していたシェル・ルーマニアであり、そこに死の商人ザハロフが投資するなど、ほとんど"赤い盾"で構成されるファミリーが利権を分配し合った。そのためシュルンベルジェ家の栄光の歴史は、初めからロスチャイルド一族と軌を一にしてきたのである。
詩人ハイネ(相互参照、tw)が、ブルジョワの代表者ギゾー首相から秘かに年金を貰っていたことが発覚し、フランスで大きな問題となったことがあった。このギゾーの曾孫が、石油探査王シュルンベルジェ兄弟であり、その創業者の孫が前述の『シラノ・ド・ベルジュラック』のプロデューサーであった。そしてシュルンベルジェ社の重役室には、現代のラザール・フレールの企業買収王フェリックス・ロハティンが座っている。こうしてエッフェル塔の下に群がるフランス財閥がヨーロッパの石油を動かしているという、想像もできない世界を見ることになったが、そう考えれば、エッフェル塔の鉄骨が油田のやぐらと瓜二つに見えてくる。
二百家族の役者が次第に揃ってきたようである。第一が銀行家、次に出てきたのが石油成金であった。このあとに続くのは何であろう。夜のシャンゼリゼ大通りには、ドゴール広場に立つ凱旋門に向けて洪水のように自動車の波があり、ヘッドライトが広い坂道をおおいつくしている。そこから一歩裏道へ入れば、なまめかしいヨーロッパの夜が展開し、旅人を誘惑する。この自動車の群れは、プジョー、ルノー、シトロエンの華麗な行進である。P564 しかし彼らもまた、石油やガスを燃やしながら情熱を燃やしてきた。二百家族がこの金の卵を放っておくものだろうか。(略)
フランスの自動車業界と言えば、プジョー、ルノー、シトロエンだけでなく、さらに自動車狂がよく知っているのは、タイヤ・メーカーとして一九九〇年七月現在、世界第二位のミシュラン社である。本書刊行の頃には、トップのグッドイヤーを抜いて一位になっているかも知れない。アメリカのユニロイヤル・グッドリッチ・タイヤを買収することですでに合意に達し、アメリカ連邦取引委員会の認可がおりれば、あのゴム・タイヤをつないで作ったシンボル・マークの人形"ビベンドゥム"で知られるミシュラン社のタイヤが、世界の道路を一番よく転がることになる。
もう一社、古くからの自動車マニアが知っている「パナール自動車」がある。今ではシトロエンに吸収され、そのシトロエンがプジョーの傘下に入ってしまったが、ダイムラーの技術を導入したフランス最古の自動車会社パナールは、フランスの死の商人、ミラージュ戦闘機を開発したマルセル・ダッソー(相参1、相参2、tw)育ての親であった。プジョー、ルノー、シトロエン、ミシュラン、パナール…まさかとは思うが、系図48を描いてみる。いやな予感は、得てして的中するものだが、きわめて簡単な一筆描きによって、創業者が全員ロスチャイルド家の閨閥、特にラザール・フレール創業一族に取り込まれていた。(略)
近代文明のシンボル・自動車とヨーロッパ名門貴族ロスチャイルド---このような関係には一瞬の違和感を覚えるが、近代的な大馬力エンジンを持った自動車がドイツ人のベンツとダイムラーによって開発されたあと、ダイムラーの特許をフランス人のパナールとプジョーが買い取ってから、世界の自動車実用化の歴史はスタートした。時代は、映画の開発と同じ十九世紀末であった。フランスの大工業家プジョー一族のピエール・アルマン・プジョーの場合には、鉄工所などの長い経験から、直ちに実用的な自動車の生産に突入していった。ところがまだ高級品という世界であったから、この時代に技術者が求めたのは、金に糸目をつけずに開発費をポンと与えてくれるパトロンであった。この辺りで、ロスチャイルド一族が"買い手"として、また、"パトロン"として、両方の面で自動車の業界を創り出していったのである。
フランスのプジョー工場で製造された自動車が海を渡ってイギリスに着いたのはさらにそのあとのことで、ロールス・ロイス創業者のひとり、チャールズ・ロールスが一八九五年にP565プジョーの三・七五馬力の自動車を購入したとき、イギリスで自動車を持っていたのはわずか三人であった。そのひとりが「ウェストミンスター銀行」の創立者として紹介したデヴィッド・サロモンズ、つまり金融王ネイサン・ロスチャイルドの甥である。こうして、イギリスでは王室オートモビル・クラブの母体となる自動車協会を、ネイサンの孫レオポルドが創立した。
現代でも、ロールス・ロイスが航空エンジン部門と自動車部門に分割されてからは、この自動車のオーナーがロスチャイルド財閥の兵器会社ヴィッカースとなり、航空部門は「ロスチャイルド銀行」重役のトゥームズがロールス・ロイスの会長をつとめ、もうひとりの会長キンダースレー卿がラザール・ブラザーズの会長を兼務してきた。フランスでは、石油王アンリ・ドイッチと共に、オランダ出身の名門貴族ヴァン・ズイレン男爵がオートモビル・クラブを創立したが、彼の結婚相手は"ブリオッシュ"というあだ名の女性であった。卵とバターをたっぷり使って、丸々と焼きあげたパンのことである。(略)
一九九〇年代の西ヨーロッパの自動車業界は、トップに立つドイツのフォルクスワーゲン(VW)、に僅差で続く二位フィアット、三位プジョー、四位フォード、五位ゼネラル・モーターズ(GM)、六位ルノーまで、販売シェアではほとんど変わらない激しいデッドヒートを展開している。このうちVWとGMを除けば、すべてが"赤い盾"の傘下で走っていることが系図から分かる。アメリカのフォード社も、ヨーロッパではラザール・フレール一族にハンドルを託している。タイヤのミシュラン社がシトロエンの株を大量に保有したのは一九三五年、イタリアのフィアットがシトロエンの株四九パーセントを買い占めたのが一九六〇年代末の状況であった。
シトロエン創業者アンドレ・シトロエンの父はオランダ出のダイヤの細工師であったが、そのユダヤ人一家が第一次大戦から工業分野に乗り出したのは、アンドレの息子マクシムがラザール・フレール一族と結婚したためであった。しかもシトロエン社が世界恐慌のなかで倒産したとき、ミシュランが救いの手をさしのべ、証券取引所でその株価が急騰するという信じ難いことが起こった。実はあの女詐欺師の銀行家、マルト・アノーの情報によって相場が狂乱したのであった。二代目マクシム・シトロエンが勤めていたのはロスチャイルド家のサガ海運であったから、どこを向いても王様はひとり。イタリアとドイツの自動車業界についてはそれぞれのお楽しみとしておくが、アメリカのGMの株を買い占めたのがチャーチル首相の閨閥デュポン家であるから、世界は一つになっている。
P569 そして図の下段まで目を追ってゆくと、石油産業が飼っている巨像が姿を現わす。非鉄金属と化学工業である。ヨーロッパ最大のアルミ産業「ペシネー社」と、フランス最大の世界的な化学・薬品工業「ローヌ・プーラン」の両社とも、"リヨンの王様"と呼ばれるジレ家の手で育てられ、ことに一族のなかでも最高の権力者として知られたルノー・ジレが、ラザール・フレールの重役という肩書を持って活躍してきた。特にジレ家は、ロスチャイルド家にとって最強のライバルとして君臨してきた工業家であったはずだが、ペシネー社、ローヌ・プーラン社のいずれも、植民地への侵略と石油・原子力の世界でロスチャイルドと手を組まずには成長することも叶わず、一家族への統合が果たされた。
石油をめぐる争いと、そこから得られるガソリンを使う自動車の開発と、もうひとつ、石油を精製する化学工業の発達が同時に進行してきた。社会を動かす力は、二十世紀に突入した時、これらの産業に大きく依存していたのである。台風の目が、石油の販売網を握るロスチャイルド家と、エンジンを握るドイツ産業界にあった。この両者がアメリカ大陸では同じ陣営にあったが、ヨーロッパ大陸では不幸にして、対立する陣営にあった。
P570 アルジェの戦い
P570 映画『アルジェの戦い』を見て、ほとんど知られていないフランス人の実像を知った。またベトナムの惨状を知って、それ以前にインドシナを侵略したフランス人の姿が浮かびあがってきた。そのとき、抽象的に"フランス人"と定義することが間違いであることは、自らの国を振り返れば分る。
P571 おそるべき大日本帝国の侵略史でも、何人かは抵抗して殺された日本人がいた。国民を戦争に駆り立てるものは常に利権と無知である。"アルジェリア戦争"と"インドシナ戦争"の場合、戦争犯罪人を知るには、それぞれの土地で原住民を牛馬のように酷使した商人と銀行家の名前を調べなければならないであろう。彼らが最大の利益を懐にしてきたからだ。
ところが従来の歴史は、政治家と軍人だけを調べて断罪し、商人と銀行家を野放しにしてきた。(略)
P580 たとえばトマトを投げつけられたギイ・モレ首相は、アルジェリア人を弾圧しただけでなく、この戦争の最中に、もうひとつの戦争を引き起こした男であった。イスラエルの節で触れた一九五六年のスエズ動乱である。"砂漠の秘密協定"の図(系図40)では、マクマホン書簡、サイクス・ピコ条約、バルフォア宣言というイギリスの三枚舌(相互参照)の側面からスエズ問題を論じ、イギリス側の首相イーデンだけを登場させたが、シェルの石油輸送という観点から見ると、スエズ運河がエジプトに国有化されたことは、フランス側にとっても同じように深刻な問題であった。
3.7『地獄の黙示録』P586-645
スタール夫人 596 598 606(相互参照)
P597 皇帝ナポレオンの最大の敵は、ロシア皇帝でもエジプトでもなかった。げにおそるべきはフランス文学史上に名を残す閨秀作家スタール夫人であった。
P598 アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ネッケルという女性は、パリに駐在していたスウェーデン大使エリック・スタール・ホルスタイン男爵と結婚し、スタール夫人と呼ばれた。父親はスイスジュネーブの銀行家で、王制時代にフランスの大蔵大臣であったから、その娘のスタール夫人がナポレオンを宿敵として狙ったのは当然である。そこには、ナポレオンに片思いしながら満たされないという女の情欲もあった。文学史上に有名な、このネッケル家のサロンに集まったディドロ、ダランベールなど多くの知識人のまわりを、実際には無数の大資本家が取り巻いていた。
調べてみると、スタール夫人の系図は、"石油成金"の(系図47)に登場したシュルンベルジェ家やマレ家といった一族で埋められてくる。過去に語られてきたフランス文学論は、この視点から再び内容を吟味する必要があるだろう。このようなブルジョワ世界に育った早熟な文学少女は、フランス革命によってスイスに逃れ、『個人および国民の幸福に及ぼす情熱の影響について』という、よく読めばまことに興味深い題名の大著を発表した。いかにも意味ありげなタイトルではないか。情熱が国民の幸福を左右してしまう、と言うのである。
で、パリに戻れる日がやってくると、スタール夫人はこの論文を自分の情熱をもって実証しにかかった。ナポレオンをを敵にまわして筆を執ったのである。ナポレオンはナポレオンで、この女は憎しとばかり執拗に追撃し続け、逃亡するスタール夫人をジュネーブから、イタリア、スウェーデン、ポーランド、ロシアに追うほど怒り狂ったのである。閨秀作家とは、学芸に秀でた女流文学者のことだが、スタール夫人の閨秀は、文字通り閨事に秀でた"寝室の情熱"を本意としていたものと見え、どこに行ってもそこに男が現れた。
彼女の前に現れたのが、"悪の天才"タレイランであった。とりわけ"手の早い"タレイランである。フランス革命後は国民議会の議長に選ばれ、外務大臣になるかと思えば皇帝ナポレオンの侍従長をつとめ、懐が淋しくなるとロシア皇帝に金を無心しながら、いかなる体制のもとでも巧みに泳ぎまわったタレイランである。スタール夫人は、このような悪人に心惹かれ、パリではパトロンとなって互いに愛人関係を取り結んだ。
(略)
P606 悪の天才タレイランの右腕として官房長官をつとめたのが、ピエール・サミュエル・デュポンという男であった。ダイヤモンドに太陽の熱を集めて燃やしてしまい、この宝石が炭素からできていることを証明した天才--近代化学のすべての
P607 基礎となる"質量保存の法則"を近世ヨーロッパで発見した天才--裕福な一族であったためフランス革命のギロチンによって首をはねられた男--その天才アントワーヌ・ラヴォワジェに弟子入りしたのが、ピエール・デュポンの息子であった。
ラヴォワジェの親友であったピエール・デュポンは、当時の経済学者と定義されているが、実のところはそのような面白くない肩書の人物ではなかった。ちょうどロスチャイルド家が台頭する時代に、商人と手を組んで新大陸をものしようとさまざまな工作をしたデュポンであったが、利権をめぐってアメリカに肩入れしすぎたため投獄され、やがて故国フランスを逃れてアメリカに移住してしまったのである。
そこで今度は、息子たちと「デュポン商会」を設立したのだが、この資金を出してくれたのが、ほかならぬスタール夫人の叔父ルイ・ネッケルであった。"死の商人"の系図に、悪の天才タレイランとスタール夫人(Germaine Necker)が仲良く登場し、両人が寝室でなにごとかを語り合っていたわけであるが、ふたりの会話は愛の秘めごとばかりでなく、デュポン商会をどうするかという謀でもあったと見える。やがてこのピエール・サミュエルの息子エリューテール・イレネー・デュポンがあとを継ぐと、ラヴォワジェの科学技術、スタール夫人の金、タレイランの悪知恵、この三大要素を集めて愛の結晶を生み落とした。
のちに、戦争が起これば必ずそこにデュポンがいたと言われ、「死体と札束を同時に数える一族」と異名をとった死の商人、爆薬トラストのE・I・デュポン社がそれである。一九〇七年までに全米の爆薬の七割を独占し、ことに戦争で使われた軍事用の無煙火薬では、民間会社としてデュポンが百パーセントを供給する帝国を築いた。
第一次大戦では、ドイッチ家と手を組み、連合軍の弾丸の四割がデュポンの製品であった。上巻系図34でデュポンはすでに登場しているので、ここでは血のつながりを省略したが、本書の最後に分析するスイスの銀行界で再びスタール夫人(参照)が活躍するので、このデュポンと銀行家の関係を心にとどめておかれたい。
タレイランが住んでいた館ににのちに住むようになったのは、エドアール・ロスチャイルドという人物であった。いかなる戦争物語にもロスチャイルド家は登場しない。しかしここまで説明した資金は、みな一ヵ所から出ていたのである。
『地獄の黙示録』と題したこの節では、グリーンピース爆破事件を足掛かりに“死の商人”の世界を明らかにしてきたが、ここにドゴール将軍を取り込んだヴァンデル家と、元祖ザハロフを使ったシュネーデル家の系図を重ね合わせると、兵器輸出国フランスの実像が浮かびあがる。
あのザハロフが、ここに加わってくるからである。これだけを知ったうえで、イギリスの“ザ・サンデー・タイムズ”インサイト・チームが書いた『虹の戦士号爆破事件』(現代教養文庫)を読むと、登場人物の正体が手に取るように分かるであろう。
(略)
P611 「ウォルムズ銀行」の資金の一部は、このようなエンターテインメントに注がれてきたが、その資金源に問題があった。この銀行のオーナーであるウォルムズ一族に巨財をもたらしたのが、わがアジアのセイロン島だったのである(上巻172頁の図参照)。かつてはインド帝国の一部だったが、紅茶で知られるセイロン島は南海貿易の中継地として栄え、ロスチャイルド台頭の時代にイギリスに支配され、植民地として侵略されてきた。現在は独立してスリランカという国名になっているが、相変わらず、経済と文化はイギリス人によって動かされてきた。ところが第二次世界大戦の時代に、大日本帝国はセイロンをイギリスの植民地とはみなしていなかった。この島を、「ウォルムズ家の私有地であり、ロスチャイルドの所有となる」と記していたのである。これは事実であった。
この土地買収がはじまったのは、独裁的な東インド会社が事実上消滅し、アジア貿易が公式にロスチャイルド家の商人に自由に解放された時代、一八四一年のことであった。前年にはアヘン戦争がはじまり、一族のサッスーンたちが暴れまわっていたが、この虚をついて、ウォルムズ家の兄弟が広大な森林を買収し、やがてすっかり島全体を買い占めてしまったのである。ウォルムズ家は、ロスチャイルド発祥の地フランクフルトから南へライン河に沿って六十キロのところにある町ウォルムズ、やはりアルザスの出と考えられるが、フランクフルトの豪商であった。金融王ネイサンの姉ジャネット・ロスチャイルドを一家に迎えて、ドイツからさらにフランスとイギリスにかけて広くヨーロッパの金融業者としての地歩を確立し、ウォルムズ海運と称する船団が植民地の略奪をほしいままにした。
P612 石炭を運び、クリミヤ戦争で死体を数えながらボロ儲けしたあと、スエズ運河に進出したのがウォルムズ家の大きな転機となった。時代は石炭から石油へ移ろうとしていたのである。実に、バクー油田の石油を積み出し、貝ガラ印のシェル帝国を築いた伝説の人マーカス・サミュエル(1、2、3)の背後には、この海賊一族のウォルムズ海運が存在し、金の卵、石油を輸送していた。これまで、"フランス・ロスチャイルド家のシェル"と書いてきたが、それではまだ抽象的な表現であったことになる。フランスのオイルタンカー艦隊の三分の一を所有していたのが、ウォルムズ銀行であった。実に知らないことが多いのに驚かされるが、フランスの不思議な性格が、そこにある。陰湿な秘密主義、表にはファッション、文学、映画など世間受けするものだけを送り出しながら、植民地の悪事などはほとんど世界から見えないように進めてゆき、スイス銀行に通じるビジネスを遂行するフランスの二百家族---一家族。
これは、フランス株式会社と言うより、ロスチャイルド株式会社である。イギリスと一体になって動いているからである。ウォルムズ銀行のロンドン一族は、三兄弟が一八一五年に渡英するとたちまち貴族となり、その二代目にしても早くもヘンリー・ウォルムズが植民地の最高位についてしまった。彼は国際砂糖会議の議長をつとめるなど、セイロン島を足場に悪徳インディー・ジョーンズとして、南海貿易を取り仕切ったのである。フランスに残ったウォルムズ家も同じように政界に進出し、前述のようにフランス銀行が札束を独占した記念すべき一九四八年に大蔵大臣だったグードショーを丸め込み、その娘を嫁に迎えてしまったのである。こうしてドーバー海峡をひとまたぎにする海運一族が、ロスチャイルド家の事業にどれほど貢献したかは言うまでもない。
問題は、植民地にされたアジアである。セイロン島の茶畑とコーヒー園だけでなく、ここを中継地点として、インドシナへの侵略がはじまった。イギリス編で説明した中国、香港、インドへの侵略と、これから物語るフランス編のインドシナへの侵略が、ちょうど同時代の出来事であった。ロスチャイルドは、その両国に存在していた。最後にはアメリカによるベトナム戦争が引き起こされたが、それは、過去言われてきたようにCIAとアメリカ財閥の力だけによるものではなかった。歴史の順序で言えば、インドシナ戦争に続いてアルジェリア戦争とスエズ動乱が勃発し、その後にベトナム戦争が起こった。(略)腹いせにアメリカを焚きつけたのである。焚きつけた人間がホワイトハウスに隠れていたはずだ。その男を探し出さなければならない。
P613 のちにドゴールが口にした"民族自決政策"などは、その民族の自決権を踏みにじって軍人に指令を与えたドゴール本人が、恥ずかしくて口にできないはずのものであった。(略)フランス領インドシナは、今日のベトナムと呼ばれるトンキン、安南、コーチシナと、さらに半島内陸部のラオスからカンボジアまでを含む、広大な範囲にわたっていた。わが国のちょうど二倍の面積にもなろうとする広さで、しかもフランスとは言いながら実質的なロスチャイルド国際財閥は、イギリス人として中国に入り込んだ一族と手を組み、国境を越えてアジア全土に鉄道網を張りめぐらしていった。インドシナでの目的は農業、なかでもコメであった。当時はインド、シャム(現在のタイ)と共に世界の三大米供給地と呼ばれる豊かさを誇り、第二次世界大戦前の資料によると、米がすべての輸出品総額の七割を占めていた。われらの穀物商社ルイ・ドレフュスとブンゲがこれを狙わないはずはなかった。
ところがインドシナの歴史を調べてみると、不思議なことにこれらの穀物商人の名前は一切出てこない。米は一体どこに消えてしまったのであろうか。(略)P616 産業は米ばかりでなく、綿花、トウモロコシ、タバコ、コーヒー、お茶、ゴムといった農産物や林業から、石炭、鉄、亜鉛、タングステンなどの鉱物まで広くおよび、基本的にはこの土地で工業を育てるというより、原料を根こそぎ奪い去るという方式の泥棒ビジネスであった。具体的な名前を調べてみよう。
ロスチャイルド家の業者と軍人を示した系図をもう一度見ていただきたいが、セイロン島を足場にアジアとヨーロッパを結ぶ「ウォルムズ海運」のほかに、ロスチャイルド家の植民地専用船として知られる通称「サガ海運」がここに登場してくる。(略)つまりロスチャイルドの代理人が現地の鉄道と銀行をおさえていたのである。これは、鉄道王ジェームズが「北部鉄道」を創設し、そこから北部会社、さらに北部投資という会社が誕生した経過を見てゆくと、北部投資の副社長ジェッタンがインドシナに鉄道を敷いたのは当然であったろう。インドシナ鉄道の親会社は、図解したようにジェームズの北部鉄道だったのである。鉄道と海運を握れば、米が消えてしまうのも、次のような理由から特別に奇妙なことではなかった。
鉄道で運ばれた米粒には、名前など書かれてはいなかった。仮にそれがフランス国家の公共的な収奪物として扱われたとしても、ジェッタンは大蔵省の高官だった男である。ウォルムズ海運とサガ海運に任せておけば、セイロン島で待機している穀物艦隊ルイ=ドレフュスの船に商品を積み換えようが、途中でブンゲの船団に出くわして取引しようが、ことは自然に運んだのである。ブンゲの重役アントワーヌ・シュテルンの祖父エドガーは、インドシナ銀行のなかでも№3に数えられる要人だったからである。それでもインドシナと"赤い盾"の穀物商社をめぐる国家ぐるみの犯罪を疑う人があれば、"フランスとソ連の首脳一族が描く血の利権"の系図45を再び見ていただきたい。独裁者スターリン一族のフランス首相サローは、このインドシナの総督であった。その一族もルイ=ドレフュスの重役である。総督と首相と穀物商社と"赤い盾"。
このロスチャイルド財閥の中心人物シュテルンが大きな力を持ったのは、自分の一族がすでにウィーン家のサロモン・ロスチャイルドに嫁を出して金融王ネイサンと血縁関係に入り、P617 エドガーの母方がラザール家だったからである。ラザール・フレールがアメリカ合衆国で穀物の集散地、南部のニューオルリーンズに店開きしていたことが、シュテルン家にとって大きな意味を持っていた。それが麦の穂の黄金色に輝く金貨の音となって聞こえたのは、「パリバ銀行」誕生の瞬間である。(略)
なぜインドシナの物語にパリバ銀行が登場しなければならないのであろうか。一八七五年に「インドシナ銀行」がパリに設立され、フランスの植民地政策がそれまでと違って大規模な商業的性格を帯びたとき、この銀行はフランスの主だった資本家にとって重要な投資先と映った。支店は勿論サイゴンに建設され、株式会社として発足した。(略)このインドシナ銀行がインドシナ半島を支配し、やがてフランス第三の銀行に成長していったのである。そぽこで手にする天文学的な利益が、株主を戦争に駆り立てることになった。利益が大きければ大きいほど、インドシナ半島における民族の独立は、株主にとって莫大な財産の消滅を意味していた。インドシナ銀行の最大株主銀行パリバと、そこに密かに入り込んでいたロスチャイルド家の一族。これがさきほどの簡単な系図52が物語る、ベトナム侵略の真相であった。
ところがそれはほんのプロローグにすぎなかった。序奏のあと、いよいよ壮大な悲劇の幕が開いた。インドシナ銀行の創立株主は、数十人に達していた。(略)一八七五年にフランスがインドシナ銀行を設立してから奇しくもちょうど百年後、一九七五年にサイゴンが陥落したのである。アメリカが敗退してベトナム戦争が終了するまで実に百年間、そのあいだ日本人が侵略した時代も含めて、インドシナ半島は地獄のなかにあった。
P618 第二次世界大戦の地獄はわずか六年であった、と書けば猛烈な非難を浴びるだろう。ではインドシナ百年間の地獄とは何であったのか。千辛万苦した日々の憤激は、侵略された土地の人間が耐え、抵抗し、虐殺され、石油を浴びて火ダルマになりながら全世界に「もうやめてくれ」と訴えた僧侶たちの姿のなかにあった(相互参照)。
一九九〇年代に入った今日も、まだカンボジアでは地獄の内戦が続いてきた。かつてフランス領インドシナと呼ばれたカンボジアである。フランス製のストリム・ロケット弾など最新兵器が次々と送り込まれ、兵器は敵味方なく流通しながらすでに数百万と言われる死体を数え続けてきた。ポルポト軍だけを残忍だとする言い訳は通用しないし、これが現在のわれわれ自身との関係から見ると、次のようになる。東京・麻布の高台には各国の大使館がたち並んでいる。この急坂をおりると"地中海通り※"と呼ばれる大通りがあって、六本木や原宿と共に夥しい数の若者が集まってくる。なぜここが地中海に通ずるのかと再び高台を眺めると、その一画で特に立派なフランス大使館が遠望される。(※1980年時代、外苑西通りのうち、西麻布交差点から天現寺交差点の間までの区間を「地中海通り」と呼ばれた )
一九六〇年代のわが国の激動期、それはベトナム戦争がトンキン湾事件によってアメリカの本格的な介入を迎えたもっとも重要な時期であったが、その館にフランソワ・ミソッフという男が日本大使として着任した。沖縄や横田、横須賀、佐世保などの基地を中心に、米軍の戦闘機や軍艦がベトナム人の大量殺人に出発していったのである。P619 この戦争によってわが国の工業界は莫大な利益をあげ、今日の経済大国を育てあげた。日本大使ミソッフは、「ジャポン・アンヴェスティスマン」あるいは「ジャポン・パシフィック・ファンド」の会長として、その後のわが国との関係のなかで実業界の牛耳をとってきた人物だが、「日本投資」あるいは「日本太平洋財団」の会長と訳せば分かりやすい。ミソッフの妻は、フランス外相ジャン・フランソワ=ポンセの妻とは実の姉妹で、ジャンの父親はドイツ大使であった。このフランスの日本大使、ドイツ大使、外相の三人が、わずか五人の名前を書いた系図のなかに収まってしまうという外交官一族であった。(略)
ミソッフとフランソワ=ポンセは、一九九〇年代にもわれわれの前で公然と活躍している。その系図は、少し広げて描く必要がある。兵器商人ヴァンデル家の娘ムコが、日本大使ミソッフと外相フランソワ=ポンセであるからだ。死の商人ヴァンデルとシュネーデルと書いても、これまでは読者に実感がなかったであろう。アルザス・ロレーヌ地方を中心に、シュネーデル兵器工場がドイツと奇妙な交歓風景を見せた第二次世界大戦の歴史も、ヨーロッパ物語にしか聞こえなかったかも知れない。しかしヴァンデル家は、麻布の大使館に来ていたのである。今日も日本投資の総帥である。
一九九一年五月十六日、フランス史上初めての女性首相エディット・クレッソンの内閣が発足し、「日本は敵である」、「アメリカでは男の四分の一はホモで、イギリスとドイツも同じような状況にある」などの支離滅裂な発言が伝えられたが、首相就任前のクレッソンの仕事こそ、シュネーデルの「社長特別顧問」であった。アルザスで育てられ、夫はプジョーの幹部であった。日本を敵呼ばわりした彼女の発言が、プジョー会長ジャック=カルヴェの作文であったことはフランスでもよく知られ、シュネーデル会長ディディエ・ピノー=ヴァランシェンヌが彼女を首相にした黒幕と言われている。(略)
P622 "ドゴール主義と植民地政策"の正体を描くと、このような系図53ができあがる。いま説明したヴァンデル一族の外交官三人は、右下に現代の世代として示されている。十九世紀にフランスの銀行家セイエールがシュネーデル兵器工場の設立資金を融資した時から、この物語ははじまった。古い歴史を探ると現代が手に取るように分かるので、よく見ていただきたい。これは大変な系図である。セイエールはフランスからドイツの死の商人クルップに融資した重要な銀行家であった。このセイエールと手を組んだのが、ロスチャイルドを目の仇にしていたシャルル・ドマシーというもうひとりの大資産家であった。
セイエール家とドマシー家は、ドマシーの娘ふたりがセイエール親子と結婚するという奇怪な姻戚関係をとり結び、続いてその子供がヴァンデル家と結婚した。問題の兵器工場を設立したヴァンデル家は、のちにこの工場を買収したシュネーデル家とパートナーとして手を組み、やはり一族となった。彼らはユダヤ人ではない。ロスチャイルド家だけが同族結婚を繰り返したのではなく、クリスチャンたちもみな同じように同族結婚によって財産を守ってきた。こうしてドマシー銀行とセイエール銀行から「ドマシー・セイエール銀行」が生まれた。ところがそこに、まったく別の家族が登場した。ドゴール家である。(略)
ドゴール将軍の曾祖父は、パリ議会に議席を持つ小政治家だったが、その孫の代つまり将軍の父親が、農業を支配する大実業家の一族と結婚した。こちらはタバコや砂糖で巨財を成す家系で、なかでもそこから誕生した金融家オクタヴ・オンベルグは、アジア・アフリカの人間にとって忘れられない存在となった。その名も「フランス植民地金融社」という、文字通り植民地を侵略する旗頭となって、フランス本国で植民地ブームを煽り、マーチャント・バンカーとしてパリ証券取引所を動かした銀行の創業者、それがオンベルグだった。この金融会社の頭取として、アジアからアフリカ、南太平洋のすみずみまで、シュネーデル社の兵器で身を固めた軍隊と共に進出する企業を傘下に従え、あらゆる産業にわたる株を握って、巨大トラストを形成したのである。
そのオンベルグ家の名は、アレクサンドル・ディエツが一九〇七年に著した『フランクフルトのユダヤ人の系譜』という書物によれば、十九世紀のヨーロッパにおける大金融家として、ロスチャイルド家、シュテルン家、ゴールドシュミット家、オッペンハイマー家に伍して十二大ファミリーに数えられていた。ドゴール将軍は、キリスト教徒とユダヤ教徒のいずれをも代表する銀行家に挟まれた家系にあった。
(連合国の欺瞞あるいは冷戦代理戦争、tw、tw、相参)
P632 1945年8月15日の日本敗戦から2日後には早くも、シェル石油のボルネオで知られるインドネシアが、独立を宣言した。続いてそれからわずか半月後、9月2日にはインドシナ半島のベトナムが、独立を宣言した。
ところがヨーロッパ人は、日本が敗れたのでので当然自分の財産"植民地"がそっくりそのまま戻ってくると思い込んでいたので、オランダはインドネシアに軍隊を進め、フランスはインドシナに軍隊を進めていった。第二次大戦における連合国の勝利もまた、無数の映画を通じて、無数の書物を通して、半世紀にわたって聞かされてきた美しい正義の勝利と呼べるものではなかった。
過去の歴史の記述のなかで唯一正しいと思われるのは、日本人とドイツ人がおかした戦争犯罪についての部分だけである。そのほかの国に関しては、大戦後にまたしてもアジアを侵略した醜い欲望について、ほとんど何も伝えられていない。(略)
P633 この時代、フランス本国ではイヴ・モンタンの『セ・シ・ボン』が大ヒットし、第一回カンヌ映画祭が開催され、『狭き門』のアンドレ・ジードにノーベル賞が贈られていた。しかしインドではガンジーが暗殺され、中東ではアラブ人に理解を示す国連の調停者ベルナドット伯爵が暗殺されていた。国連が人権を守る宣言を採択した1948年12月10日にも、インドシナ半島の人間はヨーロッパ人に殺され続けていた。
1951年、すでに朝鮮半島には新しい戦火があがっていたが、インドシナ半島では、ラオス、カンボジア、ベトナムが手を組んで、フランスに対抗する強力な連合戦線が結成された。こうして53年4月には、フランス軍がラオス北部から撤退するという重大な局面を迎えた。敗色濃厚なフランスの危機を訴えるため、パリに駐在していたフランス大使クラレンス・ダグラス・ディロン(参照)は、アメリカ本国に至急電報を打った。(略)
インドシナ戦争の末期に打電されたこの一通の電報が、"地獄の黙示録"アメリカによるベトナム戦争への道を拓く、決定的なものとなった。打電された日付は、1954年5日となっている。フランスは遂に7年半におよぶ大戦争で敗北を喫し、国防大臣ルネ・プレヴァンは辞任した。
3.8 オードリーヘップバーンの謎 P646-693
P647 オランダと言えば、オードリー・ヘップバーンという女優を思い浮かべる。妖精と呼ばれ、『ローマの休日』(tw)
の王女役でハリウッドにデビューすると、たちまちアカデミー主演女優賞をさらってしまい、それまで女優と言えばセックスアピールを売り物にするのがスターへの早道だった映画界で、細い体で大変な人気を獲得してしまった。ところがどうもこの妖精が奇妙なのである。本書の調査を進めてゆくと、そちこちにヘップバーンの影が現れ、現れては消える。
ベトナム戦争時代にホワイトハウスの絶対的権力を握ったキッシンジャーが、一九八九年に化粧品会社レヴロンの重役に就任すると、その重役名簿に紛れもなくオードリー・ヘップバーンの名前が書かれていたのである。化粧品会社であるから、ハリウッドの女優を名義上の重役に迎えたのであろう。当初このニュースの印象はそれくらいのものであった。ところがイギリス人の長者を調べてゆくと、大富豪ハンソン男爵がかつてヘップバーンの婚約者であったと書かれている。
P648 この男爵は、一九八八年の"イギリスにおける最も印象的な産業人"のアンケート調査でトップに選ばれたジェームズ・ハンソン(相参)その人で、実は、企業の合併・買収によって急成長を遂げたコングロマリット「ハンソン・トラスト」の会長である。本書の第一章に述べた"フォーチュン誌"一九八七年の乗っ取り王のなかで、背びれ四枚を獲得したのは、ジェームズ・ゴールドスミスとカール・アイカーンのほかには、このハンソン・トラストの共同経営者ゴードン・ホワイトだけであった。
現代のM&A時代と呼ばれる狂気の実業界を演出したのが、ヘップバーンの昔のフィアンセである。(略)ハンソン・トラストは、南アのデビアスやアングロ・アメリカンの姉妹会社に当たる「コンソリデーテッド・ゴールド・フィールズ」つまり「合同金鉱」というアパルトヘイトの総本山の買収を一九八九年に発表した。これは、イギリス史上最大の企業買収に発展する事件となった。ハンソンの子会社「インペリアル・タバコ」は、この業界ではわがロスチャイルドと資本を共有する複雑な構造になっている。昔のフィアンセと現在のヘップバーンには何の関係もないと思われるが、何やら妙な匂いが漂ってくる。ヘップバーンの父親はナチスにも南アにも関係していたからである。
デビュー作『ローマの休日』の物語は、読者がご存知の通り、ネバダの鉱山師マーク・トウェインが書いた『王子と乞食』の現代版であった。どこの国かは分からぬお嬢様が庶民生活のなかに入って大層楽しみ、ヘップバーン王女はグレゴリー・ペックと恋に落ちた。しかし最後には王女に戻って、ローマの恋を生涯の思い出としてふたりは別れるのであった。悲恋、何という美しい恋、麗しの王女!このように立派な物語。全世界が感激したラスト・シーン。(略)
P649 ヘップバーンは何者であろう。ヨーロッパ女性の長者番付で、第一位がイギリスのエリザベス女王、第二位がオランダのベアトリックス女王、これが一九九〇年のイギリス誌"ハーパーズ&クイーン"の発表であった。大女優オードリー・ヘップバーンの母親は、このオランダ王室につながる貴族ヘームストラ男爵家の娘だったのである。あの映画は、妖精がスクリーンに現れて王女役を演じたのではなく、自分の一族の物語であった。
そこには重要な効果を狙う演出があったのではなかろうか。一九五三年の映画公開を考えれば、インドシナ戦争でフランスが敗戦を迎える前年に当たり、アルジェリア独立戦争が勃発する前年でもあった。そして問題のオランダは、さきほど述べたように日本の降伏から二日後、一九四五年八月十七日にインドネシアのスカルノが独立を宣言したため、急いで兵を送り込み、四年にわたる戦争を仕掛けたが、結局はインドネシアの独立を認めなければならなかったのである。
独立を認めたあとの『ローマの休日』は無関係であった、と考えたいところだが、オランダが失ったものは余りにも大きかった。ボルネオの油田である。今日でもインドネシアは石油輸出国機構(OPEC)に加盟し、クウェートとほぼ同量の石油を生産しているが、当時インドネシアの石油が持つ価値は今よりはるかに大きく、その利権を取り戻すためには、初代のスカルノ大統領を失脚させなければならなかった。世界的な規模での経済制裁を正当化してゆく必要に迫られたのである。今日の南アやイラクに対する経済制裁とは意味が違い、強奪が目的であった。
インドネシア側では、植民地にされた土地には大資源が眠っていたが、それを本来の住民が取り戻しても、資源の活用という面から見ればほとんど意味がなかった。例えば油田や鉱山には、資源を採掘してから精製するまでの技術が必要であった。しかも最後に誕生した製品を外国で販売するには、輸送して売りさばくための世界的シンジケートがなければならない。商品としてもガソリンや金銀のネックレスに仕上げ、それを売らなければ一銭の収入にもならなかったのである。
そこでオランダはインドネシアに、フランスはアルジェリアに、独立後もいやがらせを続け、世界的な貿易シンジケートを動員して苦境に追い込んでいった。このような兵糧攻めの末に、相手の衰弱した様子を見はからって交渉をはじめ、少しづつ利権を取り戻しながら、最終的には貿易の収支で圧倒的に優位に立つ。あとは債務と呼ばれる借金地獄に追いやって、経済的に植民地を再現してしまうのである。実際、インドネシア独立の父スカルノ大統領は、彼らの陰謀によって失脚しなければならなかった。そのあとヨーロッパの支配階層は、次のような皮肉さえ口にしてきた。
P650 「昔の植民地の時代はよかった。われわれがいて、文化を高めてやったからな」このシナリオのなかで、『ローマの休日』は公開されていた。その効果がどれほど大きなものであったかは、当時映画を見た世代がよく知っているはずである。誰もが感動していた。しかしヨーロッパ第二位のベアトリックス女王が、その主演女優の一族だからと言って、それだけで金が儲かったわけではない。このような長者番付に名前を連ねるには、事業家と同じように株券が必要になる。彼女の場合は、一九九〇年現在わがロスチャイルド財閥も「ロイヤル・ダッチ・シェル」の株を五パーセントも所有する大株主である。
わずか五パーセントと聞こえるかもしれないが、"フォーチュン'90"に発表された全世界の大企業五百社の売上で、第四位の超巨大企業である。一位「ゼネラル・モーターズ」、二位「フォード」、三位「エクソン」、四位「ロイヤル・ダッチ・シェル」、五位「IBM]、つまりベスト5のうちアメリカ四社のなかにだだ一社、ヨーロッパ最大企業として君臨するオイル・メジャーの五パーセントの株券、この貝ガラは、古代遺跡の貝殻から連想される昔の貨幣とは違って、われわれの想像できない金額となろう。
インドネシアのボルネオに、このシェルが大油田を持っていたのである。妖精オードリー・ヘップバーンの系図55(url)は、彼女の秘密を物語る。オードリー・ヘップバーンの父ジョゼフは、ナチス黒シャツ党の幹部で、上巻の奇怪な系図31(url)に示したイギリス・ファシスト連合のモズレー卿(相互参照)の右腕として活動したイギリス人であった。ヘップバーンの母はやがてこの男と離婚したのだが、別れたからすむという話ではなかった。その父つまりヘップバーンの母方の祖父はオランダ領ギアナの総督として、植民地侵略の先陣をつとめた人物であった(参照『オードリー・ヘップバーン物語』)。
この一族から、大富豪のベアトリックス女王まで系図を描いてゆくと、ドイツのテュッセン男爵とシュレーダー男爵のファミリーを通過しなければならなくなる。テュッセン男爵は"パンサーの宝石"を贈られた美女ニーナ・ダイヤーと結婚した人物(系図32(url))だが、シュレーダー男爵家と共にナチスの財政支援をおこなった一族である。
さらに同じ一族から生まれたのが、わが国と深い関係を持つ死の商人ベルンハルト殿下であった。時にはロッキード社の代理人として、ときにはフランスのダッソーの代理人として、世界中の戦闘機メーカーに金を無心した男が、オランダのユリアナ女王と結婚していたのである。オランダで起こったベルンハルトの汚職事件では、わが国で発覚したロッキード疑獄と同じ人脈によって、兵器が調達されていた。その時点で、すでに「ロイヤル・ダッチ・シェル」の株券がオランダ王室にあったという事実にただならぬ匂いがする。ロイヤル・ダッチとは、オランダ王室という意味である。
P652 シェルが第二次世界大戦中にも敵国ナチスに石油を販売した悪名高いビジネスは、このオランダ王室の系図が鍵を握っていたのである。このようなユリアナ女王とベルンハルト殿下のあいだに生まれたベアトリックス王女は、『ローマの休日』でヘップバーンが演じた可憐なお姫様とは大違いで、現実のなかで見つけた恋の相手が、かつてヒットラー・ユーゲントとしてナチス国防隊に貢献したクラウス・フォン・アムシェルベルクであった。
そのため一九六六年に華々しくおこなわれたこの王室カップルの結婚式では、ふたりに爆弾が投げつけられる大騒ぎとなった。それは当然のことで、大戦中にオランダにいたユダヤ人の実に八割がナチスに殺され、その悲劇は十万人を超える夥しい数に達した。そのなかのひとりが、少女アンネ・フランクだったのである。
オランダ人ヘップバーンの系図には、ナチス関係者が四人も揃っている。死の商人と植民地総督のほか、現代の食うか食われるかのビジネス界を泳ぐ背ビレ四枚のジョーズさえ見え隠れする。そのためこの女優の伝記には、いかにヘップバーンの家族がレジスタンスを支援したかという話が克明に描かれる。一体、オランダとはどのような国であるのか。われわれは知らない。(略)大戦後、インドネシアにオランダが軍隊を送り込み、新たな大戦争をはじめたとき、北ボルネオ総督として君臨したのがエドワード・トワイニング、紅茶で知られるトワイニング一族であった。それを高級な紅茶だと思って飲む人もあろう。
トワイニングはイギリス人なので、オランダの植民地にイギリス人とは奇妙に感じられるが、当のボルネオに進出した問題のロイヤル・ダッチ・シェルというのは、「ロイヤル・ダッチ」が"オランダ"、「シェル」が"イギリス"という二国籍企業であるから、総督の肩書は名ばかりで、実際にはこの石油会社が侵略戦争を仕掛けた背景が、歴史から明らかになってくる。
この小さな国オランダに、全世界の黒幕が集まってひそかに言葉を交わしている、と言っても誰も信じないであろう。ところがさきほどの系図の通り、ヘップバーンの父は"イギリス人"で、母は"オランダ人" だったが、その母方の一族は、"ドイツ人"と結婚していた。しかもヘップバーンが生まれたのはそのいずれの国でもない。"ベルギー"のブリュッセルで妖精はこの世に出た。オフィスは"アメリカ"のビヴァリー・ヒルズに構えていた。(略)
人口も面積もわが国のわずか十分の一ほどしかないオランダが、貿易大国と誇る日本に比べて、輸出額がその半分近くに達しているのである。一九八九年のデータを見ると、一人当たりオランダ人が日本人の三・四倍も金を稼いでいることに驚き、P653はっとして「オランダ東インド会社」を思い起こす。およそ四百年前に設立されたあの貿易会社が、いま生きているはずはない。ところが生きているのである。以下の一行ずつを、ゆっくり味わいながら読んでいただきたい。
ヨーロッパ最大の企業は、オランダとイギリスの「ロイヤル・ダッチ・シェル」
世界最大の食品メーカーは、オランダとイギリスの「ユニリーヴァー」
ヨーロッパ最大の電機メーカーは、オランダの「フィリップス」
ヨーロッパ大陸屈指の民間銀行支配力を持つのが、オランダとフランスの「パリバ銀行」
世界最大の重電機メーカーは、オランダに本社を置く「アセア・ブラウン・ボべリ」←本社はスイス
世界最古の金融の中心街は、オランダのアムステルダム
ヨーロッパ最大の天然ガス田は、オランダのフロニンゲン
オイルショック誘発した石油のスポット価格が決められるのは、オランダのロッテルダム
・・・・
わが国の九州より狭いオランダが、どのように強力な磁石を使ってこのような全世界の金融支配者を惹きつけるのか、われわれは知らない。しかしさきほどの短いヘップバーン物語のなかに、この謎を解く三つの鍵が隠されている。
ヘップバーンの祖父は、植民地の総督であった
ヘップバーンの一族であるベアトリックス女王の収入源は、石油であった
ヘップバーンの一族であるテュッセン男爵は、オランダのビール会社ハイネケンの重役であった
植民地、石油、食品
この三つの鍵を使って、オランダ人は日本人の三・四倍も金貨を集めることができたに違いない。
→つづきはこちら(参照)
3.9 キュリー夫人のパトロン P694-755(→参照)
3.10 カナダの夕陽 P756-794
3.11 バチカンのゴッドファーザー P795-820(→参照)
3.12 悪魔の詩 P821-867(→参照)
3.13 ベルリンは燃えているか P868-930(→参照)
P869 ドイツに戦車を進めたこの連合軍は、実質的には共産主義のソ連と、自由主義のアメリカ、イギリス、フランスの四か国であったが、自由主義の側で最大の力を持っていたのが、ヨーロッパの救世主アメリカであった。それで、戦後ドイツの占領政策を支配したのはアメカspanであった、という印象が強い。しかしそのアメリカ人のなかで、ドイツの占領政策に最大の発言力を持っていたのは、"ユダヤ人"の財務長官ヘンリー・モルゲンソーJrだったのである。「ドイツの財閥を完全に解体し、農業国家にせよ」モルゲンソーのこの案は、すでに戦争が終わる前の一九四三年に打ち出されたものであったが、その後、あまりに非現実的であったため四八年に正式に破棄されるまで、モルゲンソーのドイツ徹底分割案が連合軍の指針となってすべてが動いた
現在一九九〇年代に、ニューヨーク証券取引所の犯罪を裁くマンハッタン地方裁判所で検事をつとめているロバートモルゲンソーがその息子であり、ニューヨークでイスラエル国債を管理して中東戦争を指導してきた。ナチスの犯罪によって最大の被害を受けたユダヤ人が、ドイツの戦後処理に当たったのは当然の経過であった。わが国の毛戦後処理に当たってはアメリカ人が占領軍となり、被害者である中国、朝鮮、アジア諸国の人たちが口を挟むことさえできなかった歴史と、決定的な違いがここにあった。日本はドイツ以上に分断されてしかるべき戦争犯罪を、アメリカ人によって赦免されるといういい加減な歴史をたどったため、今日までアジアのなかで国際的な意識の低さを招いてしまったが、実は、もっとはるかに厳しい戦後が訪れるべきであった。それがアジアの人たちの変わらぬ心境である。
これに対してドイツでは、ヨーロッパ全土のユダヤ人が起ちあがって、ナチスの残党を壊滅させるための政策が打ち出された。その指揮者モルゲンソーが、祖母に鉱山王グッゲンハイム家のパペットを持つロスチャイルド一族であったのは、歴史の宿命でもあったろう。結果として、戦犯の処刑以上に重要な作業として、そのときドイツ工業界および金融界に握られていた株券を吐き出させる処分が、あらゆる大企業に対して強制的におこなわれるところまで計画が進められていった。
P870 ところがナチスの犯罪者に株券を放棄させるには、ジーメンス、AEG、IGファルベンなどを動かしてきた大株主が、ニュルンベルク裁判によって"戦犯"と認定されるまで待たなければならなかったのである。ユダヤ人の壁がここにあった。しかも今日の誰もがアウシュヴィッツの悲劇を知るほどには、全世界がナチスの犯罪をまだ充分に知らされていなかった戦後の混乱期に、自らも打ちのめされていたユダヤ人がドイツで直ちに力を取り戻し、ドイツ工業界を動かすまでにはあまりにも道が遠かった。そのため、クルップは第一級戦犯として牢獄にぶち込まれたが、そのほかの実業家の多くは"自由主義の西ドイツ"でほとんど無傷で生き残ることになってしまった。なかった。ナチスの戦争犯罪は、ヨーロッパでも多くの場合に放免されたのである。
この動きを目にしたロスチャイルド家は、しばらくして状況をつかむと、大がかりな反撃に着手した。一九四八年、モルゲンソーのドイツ解体政策を引っ込める代わりに、イスラエルの建国による正式な戦争賠償への一歩を踏み出していった。そしてこの年、フランクフルトに戦後史上、最も重要な機関が誕生した。それは銀行であった。戦後の西ドイツ経済と政治を動かしたほとんどの要人が、歴史上ほとんど語られたことのないこの銀行に集まっていたのである。(略)
その謎の銀行は、日本語に訳すと「戦後の再建のための信用銀行」(ドイツ語で(省略))という看板をかかげていた。わが国では復興金融公庫という無味乾燥な名前で訳されてきたが、本書では、原語を使って「再建クレディタンシュタルト」と呼ぶことにする。クレディタンシュタルト、その名前はロスチャイルド家がウィーンに設立し、第二次大戦前に恐慌の引き金を引いたあのハプスブルク帝国の大銀行と同じものであった。新生ドイツのなかで、"フォーチュン'90"などにランクされる今日の大企業は、第二次大戦前と何も変わっていない。しかし、そこにランクされていない重要な会社を調べてみると、この「再建クレディタンシュタルト」のほかに「アリアンツ保険」と「ドイツ・シェル」という名前があることに気づく。しかもそこにドイツの要人が大量に加わっていた。これらの名前は、ナチス帝国の響きではなく、ロスチャイルド財閥をただちに連想させるものだ。次のように並記するとわかりやすい。上が新生ドイツの会社、下がロスチャイルド財閥の会社である。
(上)再建クレディタンシュタルト---(下)クレディタンシュタルト[ウィーン]
(上)アリアンツ保険---(下)アライアンス保険[ロンドン]
(上)ドイツ・シェル---(下)シェル[ロンドン]
P871 この関係を象徴的に示す人間を何人か選び、ドイツとロスチャイルド財閥を図解したのが、次頁の"新生ドイツの金融総本山"の図である。左側に、ドイツ銀行、ダイムラー・ベンツ、クルップ、ザルツギッターと、いまの上段三社を"新生ドイツ"の代表として示す。これに対して、右側にあってそこにつながっているのは本書の主役モルガン・グレンフェル、フィアット、アマルガメーテッド・メタルと、いまの下段三社、いずれも"赤い盾"の代表である。この簡単な図が、今日のイラクのクウェート侵攻について多くの謎を解く貴重な図になる。歴史の扉はここから開かれる。
一九八九年にドイツ銀行がロンドンの投資銀行モルガン・グレンフェルを買収し、ヨーロッパ金融界に大きな驚きを与えたが、ロスチャイルド家にとっては予定の行動であった。東ヨーロッパに激動が起こる前にすでに組み立てられていたこの図のメカニズムを知れば、ロスチャイルド家の威力には頭が下がる。戦後の西ドイツを復興したのはドイツ人であった。しかしこの国の経済の半分を支配するといわれる巨大な鷲「ドイツ銀行」の背後には、西ドイツの国家が成立する前年に誕生していた「再建クレディタンシュタルト」があり、そこに「ドイツ・シェル」が食い込んでいたのである。またドイツ銀行に対しては、フィアットのアニェリやモルガン・グレンフェルの会長が支配する「アリアンツ保険」が、重要な鍵を握って入り込んでいた。
アリアンツ保険は、ロイズに比べて知名度は低いが、ヨーロッパの保険会社でロイズに次ぐ第二位の座を占め、しかも保険料収入は両社で大差はないという、実は知られざる巨大保険会社である。その親会社「アリアンツ・ホールディング」は、金融会社として一九九〇年の資産が世界第六位にランクされた。野村証券の二倍を超える額である。勿論この図は"ひとつの切れない関係"を示すための最小必要人数だけを示したもので、関係者をすべて書き入れてゆくと方眼紙のようにぎっしりと蜘蛛の巣状の絵ができてしまう。(略)
P873 "フォーチュン'90"にランクされた西ドイツの企業番付と銀行番付を紹介しておこう。これが東ドイツを呑み込んだ統一ドイツの帝王たちである。(略)いくつかの馴染みのない社名もあるかもしれないが、ほとんどは戦前のナチス時代がそっくり甦ったものであった。旧財閥の復活は、わが国より早くおこなわれ、重工業として造船や機械プラントを手がける鉄鋼王がみな復活してきたのである。"鉄のドイツ"をしのぐ自動車が一位と二位を占めるようになったのは戦前・戦後の大きな変化だが、アウシュヴィッツの強制収容所を経営した世界最大の化学コンツェルン「IGファルベン」が解体されても、戦後は元通りのBASF(バディッシュ・アニリン・ソーダ製造会社)、ヘキスト、バイエルの三社として甦り、これが四位、五位、六位にある。現在でもやはり世界最大の化学工業をドイツが握っていることになる。
一九九〇年には、この三社が出資して新会社を設立し、P874 IGファルベン復活の日を迎えたが、アメリカのデュポンでさえ、この三社を合わせた力には到底及ばない。鉄鋼王テュッセンは、今日もヨーロッパ最大の鉄鋼メーカーであり、世界的にUSX(旧USスチール)、新日鉄と並ぶ三大メーカーの座にある。(略)
終戦直後のドイツ人は、ドイツ人であるというだけで犯罪者とみられたので、実際の投資事業や資金集めには、そこに恩情をかける外国の投資銀行の力を借りなければならなかった。ロスチャイルドをはじめとするユダヤ人にとっても、ドイツの工業を再興させ、新生国家イスラエルに戦争賠償金を支払わせる方が賢明であることは明らかであり、ナチズムを復活させないという言質のもとに、協力態勢を組んでいったのである。しかも東西対立と旧都ベルリンの分裂後は、西ドイツの再建がソ連に対するヨーロッパの防壁として急がれ、戦犯であるはずの事業家にほとんど株券が戻されてしまった。連合国が分裂したため、ドイツを裁く者が公式には存在しなくなってしまったからである。
ユダヤ人に対する賠償は、一九五一年三月十三日にイスラエルが被害を六十二億マルクと算定したが、翌年八月二十八日に両者がきわめて冷たい空気のなかで合意に達したのは、その半分以下の三十億マルクを十年にわたって支払うという条件で、イスラエル・西ドイツのあいだに調印がおこなわれた。そして翌月に、両国の国交が"正常化"したのである。実はこれと並行して、一九五一年初めに西ドイツのランツブルク刑務所から大量の戦犯が釈放され、四月三日に造船についての統制が撤廃されることになった。朝鮮半島に戦火が燃えあがり、急いでドイツ人の力を利用しようとするアメリカ・イギリス・フランスの軍需産業が、ドイツに造船を許す記念すべき日であった。
この日から喜びに沸くドイツの工業界は活気を取り戻し、一方ではイスラエルとの交渉を進めながら、一方ではアラブに接近する方向に歩んでいた。ここにヒットラーのドイツ国立銀行総裁であったヤルマール・シャハトが復活し、戦後のドイツを復興させるためにアラブ諸国に協力を求める作業に入っていた。勿論、取引の目的は石油であった。代わりに、アラブにタンカーをドイツが提供するというのだ。そしてシャハトと組んでこの仕事を実際におこなったのが、前述のようにほかならぬ一匹狼の海運王アリストテレス・ソクラテス・オナシス。ドイツ人とアラブ人にとって、オナシスは神のような存在となった。
かつてのヒットラーの屋台骨となった鉄鋼と兵器の王者クルップとテュッセンが、この造船業の解禁によって一挙に息を吹き返した。一体ロスチャイルドは、このようにドイツがアラブに接近する経過をなぜ黙認していたのであろうか。実は黙認していたどころではなかった。すでに述べたように、オナシスの船が運んだのは、ロスチャイルドの貝ガラ印シェルやチャーチル支配下のBPのためだったのである。結局はオナシスもアラブもシャハト、テュッセン、クルップも、みなロスチャイルドの手のなかでアラブの石油を「ドイツ・シェル」のために運びはじめたのである。さきほどの簡単な"新生ドイツの金融総本山"の図に、ドイツシェルの重役ギュンター・ザスマンスハウゼンという聞きなれない人物が描かれていた。これは現代のロスチャイルドの代理人だが、再建クレディタンシュタルトの重役でもあった。イラクのフセイン大統領に毒ガスを輸出した西ドイツの化学品メーカー「プロイサグ」の会長こそ、このシェルのザスマンスハウゼンであった。
P876 一九九〇年に中東で仕組まれた愚かな戦争の実態がここにあった。(略)
→つづく
3.14 スイス銀行の金庫 P931-963(→参照)
P932 第二次世界大戦の末期から終戦後にかけて、ナチスの残党とドイツ人を徹底的に潰そうという決意を固めたユダヤ人の財務長官モルゲンソーJrの指令によって、スイス銀行に乗り込んだアンタッチャブルは、しかしゲシュタボのように証拠をつかむことさえできなかった。すでに制定されていたスイス銀行法が、ナチスの犯罪者の預金を完全に秘匿してしまったのである。ここに最大の謎が生まれる。ユダヤ人モルゲンソーは、ロスチャイルド一族の代表者だったからである。
スイスの銀行を動かしているのは、ロスチャイルド家ではない。大戦後のこの重大な国際的事件を見る限り、そのように判断せざるを得ない。ロスチャイルド家にも帳簿を見せないのであるから、期待したようにスイスの山あいに"赤い盾"の財産が隠されていることはない。その後建国されたイスラエルは「アウシュヴィッツで殺されたユダヤ人の財産を返せ」とスイス政府に迫ったが、これもわずかに名前の分かっていた人たちの分がイスラエルに送金されただけで、あとは銀行が貝のように口を閉ざしてしまい、巨富がスイスに残されたことは誰の目にも明らかであった。
この経過を見ればユダヤ王ロスチャイルドでさえ手の届かぬ世界、それがスイスの銀行であることは、ますますはっきりしてくる。しかしそれでは、これまで証明してきたものは何であったのだろう。大戦後に起こったこの経過は、世に流布しているユダヤ人陰謀説を崩す事実であっても、本書が示した系図と符合するのである。ロスチャイルドが組みあげた閨閥が、決してユダヤ財閥ではなかったという事実に戻る必要がある。
次のように仮定してみよう。モルゲンソーはアメリカ財務省を動かし、イスラエルを建国するための資金をスイスから捻出しようと最大の努力を払った。事実、イスラエル独立債権発行会議の議長として、精力的に活動したモルゲンソーである。ドイツに対する怒りは、戦後のドイツを農業国にせよ、というモルゲンソー計画となって表れた。しかしそれがロスチャイルド家にとって本当に賢明な策であるかどうかは、別の問題であった。
戦後の経過は、全世界がユダヤ人国家を認めようという同情的な空気のなかで流動し、ドイツ国内の財産も次々に我が一族が押さえてゆくなかで、P933スイスの銀行法をここで一度でも犯す前例をつくってしまえば、一体その財務省の調査から何が暴き出されただろう。ナチス残党の財産よりはるかに巨額の不正資産が、むしろ身内のなかから暴露されることは必至だったのである。(略)アメリカにいてその事実を知らなかったモルゲンソーの計画は、ヨーロッパのロスチャイルド家から一考を迫られ、やがて引っ込めることとなった。むしろスイス銀行法によって守られる自分たちの隠し財産のほうが、アウシュビッツに消えた同胞の資産より貴重であり、はるかに高額であった。
それ以上に、もしスイスの金庫をロスチャイルド家が握っているなら、一時的な資金を国際外交のなかでスイスという得体のしれない国家からイスラエルに送金するより、自分の懐からイスラエルに送ったほうがユダヤ人から深く感謝されるに違いなかった。(略)スイスが貧乏人や正義のためにある、というイメージは、美しいアルプスのバンカーにとっては恐怖すべきことであった。ほとんどの善人は金を貯める能力あるいは気力がない、その逆も真なりで、金を貯められないので善人と誤解される。(略)
あらゆる国家が犯罪をおかしている状態で、脱税は何ら罪ではなく、むしろ美徳である。しかし法律上それが犯罪であれば、富豪たちはスイスに目を向ける。(略)ただし。ロスチャイルド家がスイスの銀行を支配しているというのは、たんなる仮説である。(略)
P938 ウィリアム・テルと代官ゲスラーで知られるスイスであるから、これはもっともな話だ。しかし悪い奴はいつの時代にもいるもので、ドイツ南部のヘッセン伯は自分のところで兵隊を鍛えあげると、それをそちこちの戦争に貸しつける商売を軌道に乗せ、ボロ儲けしたのである。ヘッセン伯がこの悪どい商売をヨーロッパ全土に広げたとき、手先として使った男をマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドといった。(略)
こうしてドイツ・バイエルン地方は肉弾の市場となり、これを目の前に眺めていたスイスの小さな町チューリッヒでは、軍人や商人を兼ねる奇怪な勢力が台頭してきた。なかでも大きな富を築いたのがエッシャー一族で、チューリッヒ湖にエッシャー運河を建設するなど、建設、機械、政治、商業とあらゆる世界をひとり占めしてしまった。チューリッヒという山あいの町がそれほど小さかったのが十九世紀初頭である。
いよいよわれらのネイサンがロンドンに乗り込もうというこの時代、スイスでは、古くからの士族がそれぞれの小国を築きあげていた。このエッシャー一族の謎を解くことができれば、今日のスイスの暗闇をほとんど照らし出すことが可能であろう。
ハンス・コンラッド・エッシャーが運河を建設し、ハンス・カスパール・エッシャーが建設機械の「エッシャー・ウィス」を創業し、アルフレッドエッシャーがスイス三大銀行のひとつ「クレディ・スイス」を設立し、ヴィルヘルム・カスパール・エッシャーがその頭取として「ネッスル」の合併を取り仕切った。しかもこの四人が一族であると書物に記録されている。最近では、金融王国チューリッヒ市長の座に、やはり一族のアルフレッド・マルティン・エッシャーが就任している。
スイス三大銀行と呼ばれるのは、クレディ・スイス、スイス・ユニオン銀行、スイス銀行である。このほかに、中央銀行としてのスイス国立銀行があり、全世界の中央銀行の頂点に立つ銀行として、P939通称バーゼル・クラブと呼ばれる国際決済銀行がある。しかしこれらの巨大銀行のほかに、スイスの銀行群をつくっているのは個人銀行である。その数は数千軒と言われるが、ピクテ銀行、ロンパール銀行、オディエ銀行、ラロシュ銀行、サラジン銀行と、果てしない。(略)
この有数の銀行家が、人口の比率では二百分の一という少数の人間の手のなかに全スイスの資産を半分握ってしまい、わずか人口の一割が全不動産の八割を所有する貧富の差を生み出しながら、三大銀行や国立銀行、バーゼル・クラブを動かしてきたのである。時計と兵隊派遣料によって築かれた財産が、これらのスイス銀行群を誕生させ、一八一五年のウィーン会議で永世中立国が認められて以来、その中立による安全性が世界中から富を集め、その富の銀行家を吸い寄せることになった。
そしてナポレオンがフランス銀行を創設したとき、ここチューリッヒの銀行家オッタンゲルやドレッセールを招いたため、二百家族には今日までスイス系の人材がかなり含まれてきた。しかもその多くのスイス人がもともとフランスから逃げてきた人間であったため、スイスの銀行家にはフランス系がかなり含まれている。つまりスイスもフランスもない。ここにあるのはスイス・フランという札束である。
二百。家族が登場すれば、スイスの人脈についておよその察しがつくであろう。この小さな銀行群が真に力を発揮し始めたのは、永世中立を宣言してからほぼ三十年後、一八四八年にスイス連邦という国家が成立してからであった。この時から、産業界と金融界が激動し始めた。ロスチャイルド家がすでに、金融王ネイサンの死後十二年を経過し、ヨーロッパの王者となっていた時代であるが、フランス銀行が札束を独占した年であった。
前述のチューリッヒの士族エッシャーは、フランスの鉄道王ジェームズに倣ってスイスに鉄道網を張りめぐらそうと壮大な計画を打ち出した。一族の機械建設会社エッシャー・ウィスにとっても、莫大な利益が見込める事業だったからである。ドイツバイエルン地方からセリグマン家が、そしてこのスイスからグッゲンハイム家が、いずれも新天地を目ざして旅立ち、やがてヨーロッパとアメリカを結ぶロスチャイルド家の鉱山王国を築きあげたのがちょうどこの時代であった。
鉱山王グッゲンハイム家は、アメリカに渡っただけでなく、スイスにも残っていたのである。スイスのユダヤ人は、十四世紀から姿を見せはじめたとされているが、やはりゲットーにとじこめられ、一七七六年まで主に家畜商として生計を立てていたが、このあと自宅を拡大する許可をP940与えられ、ナポレオンの登場によってようやく人間として認められる時代を迎えた。そうしたまだ数少ない山地のユダヤ人のなかに、ユダヤ教の伝道師ヤコブ・グッゲンハイムが台頭し、四人息子のひとりイサクが金貸し業者として巨財を成していった。
一帯では彼のことを"村の財務長官"と呼ぶようになり、やがて強大な金融勢力となってメンデルスゾーン家と結ばれ、イサクの孫シモンが渡米して鉱山王を生み出したのであった。スイスに残った一族はこうして知られざる支配者として君臨してきた。
→続く
P949 名画『第三の男』で、オーソンウェルズは次のようにスイスを皮肉った。「イタリアでは、ボルジア家の圧政のなかからレオナルド・ダヴィンチの芸術が生まれた(は言い過ぎ、『ルネサンスとは何であったか』(参照))。・・・スイスではどうだ。同胞愛だ。五百年の平和とデモクラシーだ。そして何が生まれたか。鳩時計だけだ」全世界がスイスに抱くおよそのイメージは、ことのようなところであろう。
スイスに関するどの本を手にしても、主題は銀行、チョコレート、ネッスル、アルプス、脱税天国、時計、そしてもう少し歩を進めれば、チバ・ガイギー、ホフマンロシュ、サンドという世界有数の化学・製薬業界が見えてくる。
ところが不思議なことに、誰がそれを動かしているかについて書かれたものは一切ない。(略)