2025年3月23日日曜日

偏愛メモ 『億万長者はハリウッドを殺す(上)』第三章 モルガン家の伝説『大列車強盗』P39-55

P40 ジョン・ピアポント・モルガン・Jr.は、通称“ジャック”モルガンと呼ばれていた。それは名前が長たらしいからではなく、彼の父親であるジョン・ピアポント・モルガンの名が、大いに売れすぎていたためである。

歴史家がこの親子を区別するのに、父親をJ・P・モルガン、息子をジャック・モルガンと呼ぶ慣わしになっている。バスカーヴィル家の肖像画に描かれたふたりの人物が持つ同姓“モルガン家”に伝わる物語は、エジソン・スタジオが作った映画『大列車強盗』をしのぐ、血湧き肉躍る実話である。

ヨーロッパでは、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リスト、ワグナー、ヴェルディといった音楽家たちが同時代を咲き揃い、魅惑的な世界を生み出していた一ハ三〇年代、アメリカではまだ、のちに大統領となるジェームズ・ガーフィールドが一八三一年に丸太小屋で生まれ、その同じ年に黒人の奴隷ナット・ターナーが東部ヴァージニア州で反乱を起こす、という時代だった。

白人たちは、このあと激しい黒人弾圧に出て、二百人以上を惨殺していた。翌年には、

P41エイブラハム・リンカーンの指揮する軍隊が、とうもろこしを栽培するためミシシッピー川を渡ってきた千人のインディアンを虐殺し、一八三六年には、テキサス州のアラモ砦でアメリカ対メキシコの激戦がおこなわれ、デヴィー・クロケットが戦死した。

翌年四月十七日、ニューヨークに隣接するコネティカット州で、ジョン・P・モルガンが誕生した。

彼が十一歳の時にカリフォルニア州の渓谷で金が発見されてゴール・ドラッシュがはじまり、二十一歳の時にはネバダ州で金銀の大鉱脈が発見され、そしてJ・P・モルガンがニ十四歳の誕生日を迎える五日前だったか、南北戦争の幕が切って落とされた。これがモルガン家にひとつの影響を与えた。

翌五月のことである。アメリカ最北部マンチェスターに住むアーサー・イーストマンという男が北軍へ出かけてゆき、ほぼ五千挺の旧式ガービン銃を払い下げてくれるよう交渉をはじめた。

しかし奇妙なことにイーストマンは、自分は文無しで、さる男を介して“J・P・モルガンの振り出した小切手”を手にしながらその銃を買い取ったのである。この取引は、次の数字に表れているように、絶妙なものだった。

「北軍」から「イーストマン」に売られたとき一挺三・五ドル
「イーストマン」から「仲買人」に売られたときには一挺十二・五ドル(三倍以上)
「仲買人とモルガン」から「北軍」に売られたときには一挺ニ十二ドル(六倍以上)である
この金額の倍率はそれだけで目を見張らせるものがあるが、この取引の第二の特徴は、開戦

P42 とほとんど同時に先の需要を見越して北軍から銃を買い込み、最終的には、売り手であった北軍に六倍の値で買い取らせた点にある。見事な詐欺師の一団である。

だが第三の特徴があった。グリースを塗ったまま箱詰めになっていたこのホール式カービン銃は、当時の薬莢を装填するには改造しなければならない代物で、かつて東部で使われた時代に兵士の親指を吹き飛ばした危険な不良品だったのである。

さすがに、最後のこの顛末に気づいた議会は、使えないものに金を払うことはできないと、取引を停止させようとしたが、モルガンらは契約書をふりかざして裁判所に訴え、この詐欺の正当性を認めさせてしまったのである。

このカービン銃事件は全米のスキャンダルとして余波が大きく、リンカーン大統領は戦争の真っ最中に、戦争長官を辞職させなければならないほどだった。戦争長官は、わが国では陸軍長官と訳されているが、言語通りに書けばSecretary of Warまさしく戦争のための大臣で、今日の国防長官のことである。

モルガン家の系譜図によれば、この南北戦争から二百年以上を遡る一六三六年、兄ジェームズ・モルガンと弟マイルズ・モルガンの兄弟がイギリスから新大陸に移住してきた。シャーロック・ホームズのバスカーヴィル家の肖像画は、カンヴァスの裏に一六四七年とあるので、この兄弟が渡米して十一年後、ほぼ同時代の物語である。

兄の家系からのちのノーベル賞学者トマス・H・モルガンが生まれ、弟の家系からこの南北戦争詐欺事件に一枚噛んだJ・P・モルガンが誕生した。ジョン・ピアポントの祖父が不動産と保険などで金をこしらえ、次の父親の代で商会をつくってかなりの金貸し業者となり、そしてこのニ十四歳にして早くも独創の才を示した息子である。

P43ビジネスの出足は、まことに順調だった。

こうして得た資金をもとに、いっぱしの紳士を気取り、長身で体格のよいモルガンは、ニューヨークに現われると銀行を開業したのである。その名も堂々たるJ・P・モルガン社をたちまちふくらませながら、彼はこの戦争でもうひとつ貴重な仕事を発見した。

それが後年のモルガンを形成するのに、何ものにも替えがたい役割を果たした。十一歳のとき南西部ではじまったゴールド・ラッシュの金が、この戦争で非常に重要なアメリカの財産となり、鉄砲や火薬を購入するのに無くてはならないものになっていた。

その金塊の値段は、北軍が勝っているときには安くなり、南軍が優勢になれば高くなるのである。

戦争の投機屋たちは、北軍大勝に乗じて大量に安い金を買い占め、南軍大反撃に乗じてそれを静かにマーケットに流すことによって、実際にかなりの金塊を自分の利得としてたくわえた。

この金投機を、モルガンは別の視点から観察していた。

開戦してまもなく、北軍はサミュエル・フランシス・デュポン大佐をリーダーとして作戦会議を開き、南部の海岸線を軍艦で封鎖するための戦略を練っていた。デュポン大佐とは、モルガンが不良鉄砲で利を占めていた時に、その銃にこめる火薬を北軍に対して独占的に販売し、巨大な利益をあげていた“死の商人”デュポン家(参照)のプリンスである。同時に北軍の海軍司令官という不思議な立場にあった。

彼の艦隊が半年後に南軍の重要な港ポート・ロイヤルを奇襲して陥落させる大勝利を収めると、

P44 そのため金価格は急降下して行った。

さらに南軍の要衝チャールストンの港を攻略すれば、ヨーロッパへ綿花の積出しができなくなるため、南部は経済的に破綻するであろう。チャールストンへ突撃せよ、の気運が高まり、投機家のあいだでは南北いずれが勝つかで賭けがはじまった。

チャールストンが落城し、南部が敗れて金価格がさらに安くなる状況は目に見えていた。デュポン艦隊の勢いは猛烈で、だれもが北軍の勝利を疑わなかった。しかも一八六三年三月三日、リンカーン大統領のもとで米国議会は徴兵制を制定し、二十歳から四十五歳までの壮健な者が強制的に戦場へ送り込まれることになったのだである。重要な法律がスタートした。

そのひと月後、四月七日にいざ突撃してみると、デュポンらは逆に二つの島を通過する時に挟撃されて敗れ去り、要塞に近づくことさえできない惨敗を喫したのである。このチャールストンの攻防を目にしていたモルガンは、多くの人が金を売り急ぐなかで、密かに金を大量に買い占めていた。

誰もが「奴は馬鹿な買い物をしている」とあざ笑うなかで、北軍敗北によってわずか数日のうちにモルガンが手にした純益十六万ドルは、現在の価値にして十億円をを軽く超えよう。J・P・モルガンの名は、その資産額の増加と共にもはや全米に鳴り響いていた。

これは単なる投機の幸運ではなかった。投機家は戦争に臨んで、“戦争が発生すれば”軍事物資が大量に求められ、“大いに値が上がる”という原理を学ぶ。しかしモルガンの風貌から強く印象を受けるのは、その種の単純な戦争投機屋以上の鋭さである。

北軍が優勢であると金の価格が安くなる理由は、簡潔なものだ。北軍は時のアメリカ政府である。

P45政府が勝利を得れば、やがて戦火が衰え、軍事物資が不要になり、そのため値が下がる。そおの北軍有利な事情なかで、モルガンが南軍に賭け、危険な投機をするには、北軍が敗れることを知っていなければならない。

仮にもし詐欺師モルガンと指揮官デュポンが知人であれば、戦局を勝ちにも負けにも自由に操作できる。あるいは間接的にその戦局の向背を決する情況を周囲に生み出してもよい。北軍デュポン家の親族は、実は南軍の砦チャールストンでも上流階級を占めていたのである。

「またしてもモルガンにやられた!」という言葉が飛び交った。

この二年後に南北戦争は幕を閉じ、それからさらに二年後、わが“謎の人物”こと、二代目のジャックが誕生した。この年、アメリカの鉄道はすでに開通四十周年にあたっていたが、ちょうどこの頃、アメリカでは鉄道熱が燃えさかっていた。

初めてのシナリオ映画『大列車強盗』を地で行くように、殺し屋が鉄道に現われ、金を奪うどころか鉄道ごと盗む手合いがあちこちに頻発する時代である。

一八六九年、モルガンは小鉄道の株を買い占めて副社長となるや、いよいよ天下に名高い列車大強盗に乗り出す作戦を立てはじめた。モルガンが狙いをつけたのは、時の鉄道王ウィリアム・ヴァンダービルト一派だった。

疾走馬の撮影で映画に道を拓いたスタンフォードが、この年に西部から鉄道を伸ばしてゆき、もう一人の鉄道王エドワード・ハリマンが逆に東部から西へ伸ばしてゆき、五月十日に両鉄道が結ばれ、“遂に初の大陸横断鉄道が開通”のニュースに、全米が沸き立っていた。

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