"吉田財閥"の起源
養父の吉田健三は福井藩士だったが、青雲の志に駆られ、藩主に断らずに国を離れて、当時文化の先駆者が集まり、外国文明との接触も多い長崎に出て、勉強をしようと考えたという。
実父の竹内綱(相互参照)も一時長崎で高島炭鉱の経営を手がけていたなどの関係で繋がりができ、後に私が吉田家に養子にもらわれる縁になった。養父は多分軍艦の厨夫か何かで行ったのだと思うが、イギリスに渡って勉強をしたとも聞く。
何かの縁で河村海軍卿に知られて親しく出入りしていたが、それがまた買われたか、横浜のジャーディン・マセソン商会に雇われ、河村海軍卿の伝手で日本政府に対する軍艦や兵器などの売り込みに腕を揮ったらしい。
ジャーディン・マセソン商会というのは、十九世紀の前半に広東に設立された古い貿易商社で、スコットランド人のウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンという二人の創立者の名をとったものだそうである。
養父の関係したのは、その商会の支店のようなもので、
P243 安政六年の日本の開国と同時に、それまでジャーディンの店で活躍していた同じくスコットラン人のウィリアム・ケズウィック(相参1、相参2)という人が横浜に渡ってきて開いた店だという。
だから、横浜開港と同じように古いわけで、数年前もこの店の百年祭が行われ、私も招かれて一場の挨拶をした。挨拶といっても、前に述べた養父の養父の話から、その退職の際にもらった一万両の慰労金で養父が大磯その他で土地などを買ったこと、
これが、“吉田財閥”の起源であることなどを話した。後でジャーディンから「大変おもしろかった。あの時の草稿はないか」ときかれたけれど、即興でやった挨拶だったので、草稿などはもちろん残っていなかった。
ジャーディン・マセソン商会は現在では日本の法律による法人で、東京、横浜、大阪に事務所を持ち、貿易業や運輸業を手広く営んでいる。横浜の最初も店は、居留地一番と称せられる地区にあった。
慶応二年の横浜の大火でこの店は類焼し、また大正十二年の関東大震災にも厄を蒙り、さらに神戸に移ってからも、空襲に遭って事務所を失うなど、幾度かの災厄を経験しながら、終始日本を中心とする国際貿易の発展に尽くしていることは、多少の縁に繋がる私としても嬉しいことである。
ジャーディンをやめた時の慰労金で、養父は大磯のこの土地に地所を買って移り住んだ。今から数えると八十年ほど前のことで、何でも一坪当たり五十銭であったと聞く。その後橋本軍医総監から譲り受けた土地や三井家から買った土地などが現在の屋敷になっているが、
東京その他にあった不動産については、二代目の私はもっぱら減らすことに精進してきたため、大半を手放してしまった。“吉田財閥”も従って終りをつげた次第である。
育ての親・私の養母
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