(上)
第一巻P037(略)
430こう言うのも、水分と熱が適度に混じり合った時にこそ、
生命が胚胎されるのであり、万物はこの二つから生まれるからである。
火と水と相和することのないものだが、この湿潤な熱気こそ万物を生み出す
元であり、この不和の和合こそ、生命の誕生に適った原理なのだ。
それ故、起きて間もない洪水で泥土と化した大地が
空高く照り付ける太陽の日差しと暑熱で熱せられた時、
大地は無数の生きものの種を生み出した。昔ながらの姿を
再現させたものもあれば、また、新奇な怪異の姿に生んだものもあった。
P038さて、大地は、本意なく、巨大極まりないピュトンよ、お前も生んだ。
(ヒュギーヌス『ギリシア神話集』相互参照)
お前は、前代未聞の蛇よ、新たに誕生した人間たちの
440脅威であった。山腹*四四〇の、それほど広大な空間を、お前は占拠していたのだ。
この怪異のものを、弓もつ神(アポロ)が、それまでは、逃げ足早い
ダマジカやノロジカにしか使ったことがない必殺の武器で、
箙の矢が尽きるかと思われるほどに、無数の矢を浴びせかけて打ち倒し、
どす黒いその傷口から、どっと毒血を注ぎ出させたのだった。
その折、自らの功労の命名が星霜を経て忘却されることのないよう、
人賑わう競技で名も高い神聖な祭典を設け、
退治した大蛇の名に因んで、これをピュティア祭*四四七と名付けた。
この祭典で、拳闘や競走、戦車競技で勝利した若者は
誰でも冬樽*四四九
450月桂樹はまだなく、ポエブス(アポロの異称)は、長い髪で麗しい
その蟀谷を巻くのに、木を選ばず、どの木も葉冠でも用いていた。
そのポエブスが最初に恋したのはペネイオスの娘ダプネであった。アポロが
彼女を見染めたのは、闇雲な偶然ならぬ、クピドーの激しい怒りの所為だった。
デロス生まれの神は、最近、大蛇退治で好い気になっていた所、この少年神が
P039/ 041/ 043/ 045/ 047/ 049/ 051/ 053/ 055
第1巻訳注
P057~四/ 059四~六一/ 061六一~八八/ 063八六~一四九/ 065一四九~二一八/ 067二一八~二五九/ 069ニ五九~三六九
P071(略、四一四~四ニ五)
四四〇 前出(本巻三一七)のパルナッソスの山腹のこと。
四四七 デルポイでアポロに奉納された祭典。オリュンピアでのオリュンピア祭(ゼウスに奉納)、コリントスでのイストミア祭(ポセイドンに奉納)、ネメアでのネメア祭(ゼウスに奉納)と並ぶギリシア四大祭典の一。各種運動競技ほか、詩、音楽(歌唱や縦笛、竪琴などの楽器演奏など)の競技も行われた。
略、四四九~五八五P073 六〇一 agros(田野)とする校本(Anderson)もあるが、「田野の中央」だと、どこの「田野」か曖昧になる。Tarrantの底本どおりArgosで訳した。
六二〇 ユピテルとユノーは、ともにサトゥルヌス(クロノス)の子。なお、ユピテルは、ティタン神族の末子であった父親サトゥルヌス同様、末子。ちなみに、ポセイドンやプルトンなどを「弟」とする訳書があるが、どちらもユピテルの兄にあたる。本巻一一三行注、ヘシオドス『神統記』四五三以下。双生神アポロとディアナの関係も、前者は弟で、後者は姉。アポッロドロス一・四・一参照。これは末っ子ほど優れているとする「末子伝説」あるいは「末子成功譚」の一例であろう。
六二四 「大地が産んだ」(アイスキュロス『縛られたプロメテウス』五六七)とも言われるが、父親については、アゲノル、イコナスなど、諸伝がある。「四ツ目」(ヘシオドス断片二九四(Breitenbach-West))とも、「あらゆるもの(あるいは方向)を見ている(panoptes)」(エウリピデス『ポイニッサイ(フェニキアの女たち)』一一一五)とも言われる怪物。
六三八 この行はTarrantの底本では削除記号が付されているが、Andersonの底本に従う。
六六八 有史以前、ペロポンネソス半島全域を支配していた伝説的な古王。イナコスの息子、したがってイオーの兄。その娘ニオベ(第六巻一四六以下に物語のあるプリュギアのニオベとは別人)は、ユピテル(ゼウス)が交わった最初の女性とされ、アポッロドロス(二・一・一)によれば、ペラスゴス(本巻一六五行注参照)はその子ともいう。
六六九 アトラスと、オケアノスの娘プレイオネの七人の娘。星団「昴」に変えられた。第六巻一七四行注参照。
六七二 前行の「翼」以下は、メルクリウス(ヘルメス)の象徴的な装備あるいは持ち物、「翼」は、普通「タラリア(talaria)」と呼ばれる、翼のついたサンダルを言うが、裸足に翼のあるメルクリウス像もある。メルクリウスは、元は風の神とも、豊饒の神(巾着様の袋をもつ像があるが、豊かさの印とされる)とも言われるが、神話上の顕著な権能は、お使い神、伝令神、また死者の霊を冥界に送り届ける先導神としてのそれで、petasosと呼ばれる。
旅人がかぶる鍔広の帽子(これにも翼がある場合がある)と、kerykeion(ラテン語ではcaduceus)と呼ばれる杖をもつ姿で象られる。相手を眠らせる魔力のある杖(「眠りを送り込む(杖)」)(ホメロス『イリアス』二四・三四三~三四四)には二匹の蛇が絡みつき、持ち手のところで顔を向かい合わせている形をとる
(医術の神アスクレピオスも同様の杖をもつが、蛇が一匹である点でメリクリウスのものとは相違する。アスクレピオスが蛇の姿となってローマに移り住んだという出来事の挿話が、第十五巻六二六以下にある。アスクレピオス(Asklepios)も、「蛇(askalabos)」がその由来という(「askalabosの原義は、おそらく「蜥蜴」ではなく「蛇(⁼爬虫類)一般」を指す」を指す」(Roscher,Bd.I.Abt.IS,615-641(「Asklepios」の項)参照))。
蛇の絡みつく杖については、元は「蛇神」としてのメリクリウスそのものの象徴であったとされ、起源はメソポタミアの地下神あるいは大地母神イシュタルの使者で治癒の神ニンギジッダ(Ningishzida)とされる(Frothingham参照)。
六七六 メルクリウス(ヘルメス)については、「はしこい、知恵の回る(polytropos)」、
P075 「狡猾な(aimylometes)」、「泥棒(le(i)ster)」、「牛の駆り手(elator boon)」などと言われ、「明け方に生まれ、日中に竪琴を弾き、夕方に達矢を射るアポロの牛を盗んだ」(『ホメロス風賛歌』四「ヘルメス」)と言われるように、泥棒、窃盗はその神性の一つとされる。それにまつわるエピソードが、第二巻六七六以下にある。
略、六九四~七七四第二巻
P101
(略)さて、全能の父神ユピテルは天空の壮大な城壁の周りを巡り、
火の威力で破壊され、崩落している箇所がどこかないか、
調べて回った。障壁がしっかりしており、本来の強固さを
保っているのを見て取ると、次には大地と人間たちの営みに
目を向けた。だが、とりわけ気にかけたのは[生誕地として]縁の
アルカディア*四〇六であった。涸れた泉や、まだ流れようとしない川を
P102元通りに戻し、大地には草を、木々には葉を与え、
傷ついた森には再び青々と茂るよう命じた。こうして
頻繁に行き来する内に、ユピテルは一人のノナクリス[アルカディアの山]の
410乙女[カッリストー](相互参照)に懸想し、受けた愛の炎で骨の髄まで恋い焦がれた。
彼女がいつもすることは、羊毛を柔らかく紡ぎ出すことでもなければ、
髪を束ねて綺麗に整えることでもなかった。簡素な留め金が服を留め、
白いリボンが構うことのない乱れ髪を抑えていた。彼女は、
ある時は滑らかな投げ槍を手に握り、ある時は弓を手に取って、ポエベの
戦士となっていたのだ。マイナロス山を駆けるニンフたちの中で、誰よりも
三つ辻の女神*四一六の寵愛を受けていた。だが、[寵愛による]威勢は長続きしない。
空高く行く太陽が軌道の半ばを過ぎた、ある昼下がりのこと、
彼女は、どの時代にも斧を入れられたことのない森の中へと入っていった。
その森で、カッリストーは肩から箙を外し、しなやかな弓の
420弦を弛めて、草に覆われた地面に横たわり、
彩り豊かに模様の描かれた箙の上に頭を載せて休んでいた。
疲れ、見張る者もいない無防備なその彼女を、ユピテルは目に留めると、
「この浮気をわが妻が知ることは吃度きっとあるまい」、そう言った、「また、
P103 知られたとして、たとえ詰られ、罵られようと、おお、甘受する価値は
あろうというものだ」。そう言うと、早速ディアナの顔と衣装を真似て変身し、
そしてニンフに語りかけた、「ねえ、私の供の一人の娘よ、お前、今日、
どこの山の背で狩りをしてきたの」と。乙女は草地から身を起こすと、答えた、
「ご機嫌よろしく、女神様、私が思いますに、ユピテル様より---ご自身が聞いて
おられようと構うものですか---偉大な女神様」と。神はそれを聞いて苦笑し、
430自分が自分より気に入られているのを喜んで、乙女に口づけをしたが、
十分慎み深い口づけとは言えず、乙女がすがるような口づけでもなかった。
ユピテルは、どの森で狩りをしてきたか話そうとする彼女に矢庭に抱きついて、
言葉を遮り、その罪深い行動によって正体を暴露した。彼女のほうは、
女性に可能なかぎりの力で逆らい---サトゥルヌスの娘御よ、あなたがその様を
目撃していればよかった。そうすれば彼女にさほど辛くは当たらなかった筈---
抗おうとしてみたものの、うら若い乙女が誰に勝てよう。
誰がユピテルに勝てよう。ユピテルは、勝利を収め、高空の上天目指して
戻っていった。彼女は出来事を知る木立を厭い、森を憎んだ。憎さの余り、
その森から戻っていこうとした時、矢の入った箙と木に掛けていた
440弓を取り上げるのを危うく忘れるところであった。
P104その時、見よ、高いマイナロスの峰伝いにやって来たディクテュンナ*四四一が
供の一団を連れ、仕留めた獣を誇らしげに掲げて森に入ってきた。女神は
彼女を見やり、彼女に目を留めると、彼女に呼びかけた。呼びかけられた彼女は
逃げようとした。またディアナの姿に変身したユピテルでは、と恐れたのだ。
しかし、ニンフたちも一緒に入ってくるのを認めると、
欺きではないと悟り、女神らの一団の方に近づいていった。
ああ、罪過を顔に表さず、隠し通すことの何と難しいこと。
彼女は地面に向けて伏せた目を上げかね、以前はそうしていたように、
女神のすぐ脇に付き従うことも、一行の先頭に立つこともせず、
450黙ったままで、赤らめたその顔は純潔が汚されたことを図らずも物語っていた。
もしもディアナが処女でなかったなら、数知れぬ徴で乙女の過ちに
気づくことができただろう。一方、ニンフたちは逸早く感づいていたという。
月が角を合わせて盈ちること九度を数えた頃のこと、ディアナは、
狩の後で、しかも弟神[ポエブス]の炎熱でぐったりしていたところ、
ひんやりした、とある森に行き当たった。その森には、さらさらと、
せせらぎの音と共に、細かな砂を巻き上げながら、小川が流れていた。
女神はその場所の素晴らしさを愛賞し、片足をそっと水面に親して浸けてみて、
P105 水の流れも愛でると、「ここには、見る者とて、誰もいない」と言った、「さあ、
服を脱ぎ、裸になって、溢れんばかりのこの清水で沐浴しましょう」と。
460パッラシアの乙女は顔を赤らめた。他のニンフたちは服を脱ぎ捨てた。だが、
乙女一人だけがぐずぐずしていた。躊躇う彼女の服をニンフらが無理やり
脱がせ、服が剥されると、露わな裸身は罪を暴露せずには措けなかった。
狼狽し、手で腹部を隠そうとする彼女に、「行くがよい、ここから遠く
離れなさい」とキュンティア[ディアナの異称]は言った、「この聖なる泉を
汚してはならぬ」。そう言うと、供の一団から立ち去るよう彼女に命じた。
こうした経緯を、雷轟かせる偉大な神の伴侶は疾の昔に気付いていたが、
適当な時が来るまで厳しい罰を与えるのは引き延ばしていた。だが、最早
ぐずぐずする理由は何もなかった。恋敵には息子アルカスが生まれていたが
---それこそユノーの痛心の大本であった---今では少年になっていた。
470その子に、きつい心で厳しい眼差しを向けると、ユノーはこう言った、
「ええ、ええ、こういう魂胆がまだあったという訳ね、ふしだらな娘め、
子を身籠り、そうして子を産んで夫の不始末を明るみに出し、その子を
ユピテルの不面目な為体ていたらくの生き証人にしようという魂胆が、吃度きっと、報いを
受けさせずには措かないからね。自分でも気に入り、わが夫にも気に入られた
P106あなたの、図々しい娘め、その綺麗な見目形を奪ってあげようから」。
女神はそう言うと、目の前にいる娘の前髪を鷲摑みにして
地面に引き倒した。カッリストーは嘆願するように腕を伸ばした。
だが、その腕には逆立つ真っ黒な剛毛が生え始め、
手が曲がって、指先は鉤なりの爪と化し、その手は
480脚の役目をを果たし始め、更に、かつてはユピテルに愛でられた口は
大きく裂けて醜い口となった。そうして、祈りや嘆願の
声がユピテルの心を動かすことのないよう、人間の声を奪われ、
言葉を発することもできなくなった。嗄しわがれた喉から出てくるのは、
猛り狂い、威嚇し、恐怖させる吠え声であった。
しかし、熊になったとは言え、昔の心は残っていた。
絶え間ない呻き声でその苦しみを証し、
手とも言えない手を空と星々に向けて差し上げては、
ユピテルのつれなさを、言葉には出せなくとも、犇々ひしひしと感じ取るのだった。
ああ、幾度、森で休む勇気もなく、昔の
490わが家の前や、かつての慣れ親しんだ田畑の周りを彷徨い歩いたことであろう。
ああ、幾度、岩だらけの道を犬たちの吠え声に追い立てられ、
P107 幾度、狩人であった自分が狩人らへの恐怖で逃げ回ったことか。
獣を見かける度に、自分が何ものであるかかも忘れて、何度も隠れ、
自分が雌熊であるにもかかわらず、山中で雄熊の姿を見かけは恐怖し、
父親[リュカオン]がその中にいるにもかかわらず、狼の群を見ては酷く怯えた。
一方、リュカオンの孫アルカスのほうだが、母[カッリストー]のことは
知らぬまま、十五度目の誕生日も過ぎ、十六歳の歳*四九七になっていた。
ある日、彼が獣を追って、狩りに適した木立を選び、
エリュマントスの森に、編まれた狩り網を張り巡らせていた時のこと、
500偶然にも母の雌熊に遭遇した。雌熊はアルカスを見ると立ち止まり、
彼のことが分かっている風であった。だが、アルカスは踵を返して
逃げ出し、いつまでも自分をじっと見つめ続けているその熊を
何も知らずに恐れて、更に近づこうとするその熊の胸を
鋭い槍で今しも突き刺そうとした。その時のことである、
全能の神ユピテルがそれを押しとどめ、母子を引き離すと共に、
母殺しの非道の罪を犯させず、二人を旋風で攫さらって空中を運び、
天空に据えて、隣り合う二つの星座[大熊座と小熊座]にしてやったのだ。
ユノーは、星々の間で恋敵[カッリストー]が輝き始めると、
P108怒りを募らせ、天降って、大海原の、白髪のテテュスと
510老神オケアノスの許を訪おとなった。神々が屡々しばしば敬意を払ってきた二神である。
来訪の訳を尋ねる二神に、ユノーはこう語り始めた、
「神々の女王である私が、なぜ上天アエテルの宮居からここにやって来たのかと、
お尋ねになるのですね。私に代わって、別の女が天空を牛耳っているのです。
私の話が嘘か誠かは、夜になり、世界が暗闇に包まれた時、新参の星座が
---ああ、心が痛む---つい先頃、天の最も高い所に座を占める栄誉を与えられて、
輝くのをご覧になればお分かりになる筈。天の北端にある、最も短い径の極圏が
天軸の先端の周りを取り巻いている所です。本当に、誰がこの私ユノーを
傷つけずに措くものですか。誰が、私を怒らせても、怖がるものですか。
禍を与えながら、それが相手の利になる神なんて、私くらいのものですもの。
520ああ、私のしたことの、何と大したこと。私の神威の、何と絶大なこと。私は
人間であり続けるのを許さなかった。すると神になったのです。私が罪人に
罰を与えても、この程度のこと。私の力の偉大さなど、この程度のものなのです。
こうなったら、元の姿に戻してやり、獣の顔を取り去ってやればいいのです。
以前、ポロネウスの妹のアルゴス女[イオー]にはそうしましたものね。
なぜ私ユノーを追い出して、あの女を後妻に迎え、私の閨ねやにあの女を
P109 寝かせないのでしょう。なぜリュカオンを舅にしないのでしょう。とは言え、
傷つけられ、貶められたあなた方の養い子*五二七の、この私を憐れと思召すのなら、
どうか北斗の七つ星*五二八があなた方の紺青の海に近づけぬようにし、
恥ずべき情事の褒美に天空に迎え入れられたあの星座どもを追い払って、
530清らかな大海原に、あの情婦が決して浸かることのないようにして下さいませ」。
海の二神は頷き、願いを聞き入れた。サトゥルヌスの娘御は快速の車駕に乗り、
鮮やかな飾りを付けた孔雀たちに牽かれて、澄わたる空を翔け昇っていった。
この孔雀が殺されたアルゴスの眼で美しく飾られたのは最近のことだが、
同じように以前は輝くように白かったお前が、お喋り鳥の大鴉よ、
突然、黒い羽に変わったのも最近のことだった。
実際、この鳥はかつては白い羽をしており、白銀色に輝いていた。
その白さは、斑の入らない、どの白鳩にも引けを取らず、また
後に見張りの鳴き声でカピトリウムを守る張り番となる筈の
鵞鳥*五三九にも、更には水流を好む白鳥にも劣らなかった。
540破滅の因となったのは舌であった。お喋りなその舌の所為で、
白い色をしていたのが、今では白とは真逆の色をしているのだ。
ハイモニア[テッサリアの古名]全土で、ラリッサのコロニスより美しい乙女は
(ヒュギーヌス『ギリシア神話集』相互参照)
P110一人もいなかった。彼女は、デルポイの神[アポロ]よ、確かにあなたの
お気に入りだった。尤も、それは、彼女が貞潔であった間、あるいは
彼女の不貞が気付かれなかった間のこと。だが、ポエブスの聖鳥の、容赦ない
告げ口屋の大鴉が不貞に気付き、密かな罪を暴露しようと、主のアポロの
許へと急いで出かけていった。その大鴉の後を、やはりお喋りの小鴉が、何事も
詮索せずには措くまいと、羽を羽搏かせて追いかけていき、俄旅の訳を
聞き知ると、こう言った。「身の為にならない旅で、お急ぎのようね。でも、
550あなたの未来を語る私の言葉を蔑ろにしないで。先ず、私が何ものだったか、
今、何ものであるかを知り、その上で、何の咎あってそうなったのか、
お尋ねなさい。お分かりになるわ、忠義が仇になったのだと。その訳は、
昔、ある時、母親のない子として生まれたエリクトニオス*五五三を不憫に思い、
(ヒュギーヌス『神話集』相互参照)
パッラス[アテナ⁼ミネルウァ]様がアッティカ産の柳で編んだ籠に入れ、
その籠を半人半蛇二つの姿もつケクロプス*五五五の三人の娘たちに、
秘密を覗き見してはならぬ、という命を与えて預けたのです。
私は、鬱蒼と茂る楡の軽やかな葉陰に隠れて、彼女たちがどうするか、
こっそり見張っていました。パンドロスとヘルセの二人の姉妹は、邪心なく、
頼まれたことを忠実に守っていましたが、姉妹の一人アグラウロスは二人を
P111 560臆病者と呼び、籠を括っていた紐の結び目を解いたのです。見ると、中には
赤ん坊と体を長く伸ばしている一匹の蛇が入っていました。私は一部始終を
女神に知らせたのです。その見返りに私が得た褒美というのが、
ミネルウァ様の庇護から追っ払われた鳥という名で呼ばれ、夜の鳥[梟]の
後塵を拝する地位に貶められることだったのです。私に下された罰が鳥たちへの
教訓になり得ましょう。余計なお喋りで危難を招いてはならぬ、という教訓に。
でも、私が何かそんなことを強請りもしないのに、女神が自分から私を共にと
お求めになる筈がないと仰るかもしれないわね。女神様自身に聞けばいいわ。
如何にお怒りになっていても、怒っているからとて、事実を否定なさらない筈。
そもそも、私を生んだのは---これは知らぬ者のいない話です---ポキスの地で
570名も高いコロネウス。私は王家の娘で、裕福な数多の求婚者から
結婚を---私を見縊ってはいけませんよ---望まれていた者なのです。
その私の器量が仇となりました。と申すのも、今でもそれが習いなのですが、
ある日、私が浜辺の砂の上をゆっくりした足取りで散歩していた時のこと、
海の神[ネプトゥヌス]がその私を見染めて、逆上せあがり、嘆願に
甘い言葉を交えて言い寄り、無駄な時間を費やした挙げ句、力づくで
手籠めにしようと、追いかけてきたのです。私は逃げ出しましたが、寄せる波で
P112固くなった砂地を過ぎると、柔らかい砂に足を取られ、徒に疲れる許ばかりでした。
それで、私は助けを求めて神々や人々に呼びかけました。私の声は人間には
誰にも届きません。でも、処女神のミネルウァ様が処女の私に心を動かされ、
580助けを与えて下さったのです。私は空に向けて腕を伸ばしました。すると、
腕には軽やかな羽根が生え出し、腕が[羽根の色で]真っ黒になり始めました。
私は脱ぎ捨てるために上着を肩から外そうとしましたが、それはもうすでに
羽毛に変わっており、その根が皮膚の下深くに食い込んでいたのです。
開はだけた胸を手の平で打とうとしてみても、
最早私には手の平も開けた胸もありません。走ろうとすると、
以前のように足が砂地に付かず、地面から浮き上がるのです。
やがてその内に、空高く舞い上がり、空を翔ける鳥となって、こうして私は
ミネルウァ様の申し分のないお供となったという次第。でも、それが今、
私にとって何のためになるというのでしょう。悍おぞましい罪を犯して鳥になった
(ヒュギーヌス『ギリシア神話集』相互参照)
590ニュクティメネ*五九〇が、結局、私に代わって名誉ある地位に就いているのなら。
これはレスポス中で知れ渡っている余りにも有名な話ですが、あなたは
きいたことがないと仰るの?ニュクティメネが父親と共寝し、閨ねやを穢したって
話しですわ。あの女は、今は鳥*五九三になっていますが、犯した罪は自覚していて、
P113 人目を憚り、陽の光を避けて、闇の中に恥を隠しているのです。
皆から追い立てを喰らい、明るい空から締め出されてね」。
こう話をする小鴉に大鴉は言った、「下らん話しで俺に引き返させようって
魂胆なのだろうが、そんな禍など、桑原桑原、お前に振りかかればよい。
愚にもつかない縁起担ぎなんて、糞っ喰らえだ」。そう言って、大鴉は旅を続け、
主人に、コロニスがテッサリアの若者と寝るのを見た、と告げ口した。
600娘の浮気を聞くと、娘を愛するアポロの月桂樹の葉冠が滑り落ち、
同時に、神の表情も顔色もさっと変わって、竪琴の撥がその手から
転げ落ちた。膨れ上がる怒りで心が煮え滾るままに、アポロは、
手慣れた武器を手に取り、[矢を番え]弭はずに掛けた弦を
引き絞って、あれほど度々わが胸を合わせた
娘の胸を、逃れ難い矢で貫いた。
胸を貫かれた娘は呻き声を発し、その胸から矢が抜かれると、迸ほとばしる鮮血で
真っ白な四肢が朱に染まった。彼女は今際にこう言った、
「あなた様から罪の報いを受けたのは致し方ないことながら、御子を
産んだ後でもよかった筈。今、この身と共に二つの命が尽きようとしています」。
610コロニスはそこまで言うと、流れ出る血潮と共に命をも注ぎ出した。
P114[やがて、魂のない骸を、死の冷たさが覆った*六一一]
娘を愛したアポロは残酷な罰を悔やんだが、悲しいかな、遅すぎた。
告げ口に耳を傾け、あれほど激しく怒りに燃えた自分を嫌悪し、
娘の罪と心痛の理由を知る羽目に
自分を陥らせた鳥も、また弓も、更には、わが手も、
そのわが手とともに性急に放った凶器の矢も憎んだ。
頽れた娘を搔き抱き、最早手遅れの介抱で死を免れさせようと
手を尽くし、空しく医術を施してみた。だが、
試みた医術も甲斐なく終わり、火葬の薪が用意されて、
620永遠の別れの火で今しも亡骸が燃え上がろうとしているのを見ると、
アポロは胸深くから絞り出した呻きを漏らした。神々にはその顔を
涙で濡らすことは許されないからだ。その悲痛な呻きは、
恰も目の前で、[屠り手の]右耳の上に振り翳された鉄槌が、
まだ乳離れしていない子牛の窪んだ蟀谷を
激しい一撃で打ち砕いた時の、若い母牛のそれのようであった。
だが、感謝されることのない香油を娘の胸に注ぎ、最後の別れにと
抱擁し、非情にも命を奪った娘への情理を尽くした弔いを終えると、
P115 ポエブスは、自分が宿させた胤が娘諸共灰となるのに
耐えられず、炎に包まれる母親の胎内から嬰児を取り出し、
630半人半馬二つの姿をしたケイロン*六三〇の洞窟へと運び込んだ。
偽りならぬ真実を告げたお喋りへの褒美を期待していた大鴉には、
白い羽根をした鳥たちの仲間になるのを禁じたのだ。
一方、半人半獣のケイロンは、神の血筋を引く養い子を喜び、
養育の重責に伴う名誉を嬉しく思っていたが、
ある時、彼の許へ、肩に覆いかぶさる赤毛の、
半人半馬[ケイロン]の娘がやって来た。かつてニンフのカリクローが流れ早い
川の岸辺で産み、オキュロエ[「早き流れ」の意]と名付けた娘である。彼女は
父の技*六三八を修得しただけでは満足せず、秘められた
定めを告げる予言の術も会得し、それを実践していた。
640それ故、心に予言の霊感を受け、胸に閉ざして秘める霊力で
身体を熱らせると、彼女は嬰児*六四一を見つめてこう言った、「幼な児よ、
すくすくと育ちなさい。そうして、行く末は、全世界に安寧を
もたらす者となるのです。屡々、死すべき人間たちがあなたのお陰で息災延命を
得ることになるでしょうし、また、あなたには、奪われた命を再び与えることも
P116許されるでしょう。神々がお怒りになる中、一度だけ敢えてそれを行った後、
命を与える二度目の力は祖父ユピテル様の雷火によって妨げられます。その時、
あなたは神の身から、血の気のない骸となりますが、今しがたまで骸であった
あなたは再び神となり、こうして生死の定めを二度重ねることになるのです*六四八
あなたも、愛おしいお父様、今は不死の神の身、出生の掟によって未来永劫
650命永らえる存在としてお生まれになりましたが、やがて、死ぬことが
できる存在であるのを切望されることになりましょう、恐ろしい蛟みずちの
毒血を受けて*六五二、全身に毒が回り、激しい苦痛に身を苛まれる、その時に。
しかし、遂には、神々があなたを永遠の存在から死を免れぬ存在へと
変え、運命の三女神*六五四が紡ぎ出されたあなたの運命の糸を解くことになります」。
定めにはまだ語るべきことが残されていた。だが、オキュロエは胸の底から
深い溜息を漏らし、頬を伝う、湧き出る涙と共に
こう言った、「定めが私の機先を制し、私がもうこれ以上語ることを
禁じられ、最早言葉を使うことができなくなろうとしています。思えば、
私の予言の技は、それほど有り難いものではなかった。その所為で、こうして
660神の怒りを招いてしまったのですもの。未来のことなど知らなければよかった。
最早私から人間の姿形が取り去られていくよう。
P117 今では食べたいと思うのは草。今では広い草原を駆けりたい気が
頻りにします。お父様譲りの雌馬の姿に、私は変わろうとしています。
でも、なぜ全身が。お父様には確かに人馬二つの姿の筈なのに」。
彼女はそう言ったが、その嘆きの言葉の最後のほうは
ほとんど理解できず、その言葉は乱れていた。やがて
その声は人語とも思えず、かといって雌馬の嘶きとも思えない、誰か
馬の鳴き声を真似ている人間の声のようになった。だが、その内すぐに
彼女は紛れもない嘶きを発し、その両腕を草の中に下ろして手を突いた。
670すると、指が合体し始め、五つの爪が合わさって、軽快な
一続きの角質の蹄となり、顔も顎も長く
大きくなって、長い上衣の裾の大部分は尻尾になり、先ほどまで
項に纏わり乱れていた髪の毛は(そのまま)右側の鬣となった。
こうしてオキュロエは声も姿形も共に一変し、
その名も、この不思議な変身によって(ヒッペ「雌馬」へと)変わったのだ。
ピリュラ*六七六を母とする半神(ケイロン)はさめざめと泣き、デルポイの神よ、
あなたの助けを求めたが、無駄であった。その訳は、偉大なユピテルの命を
徒にすることは、あなたにはできなかったし、たとえできたとしても、あなたは
P118その場にいなかったからだ。その時、あなたはエリスやメッセニアの田野を
680住まいとしていた。それは丁度、あなたが牧人の着る毛に身を包み、
左手には森で伐った杖を持ち、もう一方の手には長さの違う
七本の葦を繋ぎ合わせた葦笛を携えていた頃のこと*六八二。その頃、ある時、
愛のことで頭が一杯で、遣る瀬なさを甘い葦笛の調べでまぎらわせている間に、
話では、見張りを怠った牛たちがピュロスの野にまで足を
踏み入れてしまったという。その牛たちを、アトラスの娘マイアの子が
目にし、十八番の技[窃盗]を発揮して牛たちを連れ去り*六八六、森の中に隠した。
その在郷で名を知られた老人以外、この窃盗に気付いた者は
誰もいなかった。その老人を、近隣の者は皆バットスと呼んでいた。
彼は裕福なネレウス*六八九の雇人で、森林や牧草豊かな牧場、また
690由緒正しい血統の雌馬の群を見守る番人をしていた。メルクリウスは
老人を捕まえると、機嫌を取るような手つきで脇に導き、こう言った、
「なあ、見知らぬお前さん、あんたが誰にせよ、誰かこの家畜を
探す者がいたら、見なかったと言ってくれないか、お礼をしないなどとは
言わぬ。見返りに、真っ白な雌牛を受取るがいい」。そう言って、
神は雌牛を与えた。雌牛を受取ると、見知らぬ老人は言った、
P119 「安心して行きなされ。儂があんたの盗みを喋る前に、そこにある石が先に
喋ることだろさ」。そう言って、老人は石を指した。ユピテルの子は
その場を離れる風を装った。そうして程なく戻ってくると、声も姿も変えて、
700行く牛群を。力を貸してほしいのだ。盗みに黙りはいけない。包み隠さず
言ってくれ。お礼に番つがいの雄牛と雌牛をあげよう」。
すると、老人は、褒美が倍になったので、こう答えた、「あの山の
麓にいるだろう」と。実際、牛群はその山の麓にいた。アトラスの孫は苦笑し、
言った、「この裏切り者、お前は俺を裏切って、当の俺に俺を
売り飛ばそうっていうのかい。俺を裏切って、当の俺に俺を」。そう言うと、背信の
その老爺を硬い石に変えた。その石は今でも「密告者インデクス」と呼ばれている。
何の落ち度もない石に昔の汚名が今なお纏わり付いているという訳だ。
伝令杖持つ神はそこから、対称の翼を羽搏かせて舞い上がると、空を
翔りながら、ムニュキア[アテナイの外港]の野やミネルウァ[アテナ]の愛でる地、
710また学識の地リュケイオンの森*七一〇を見下ろしていた。
偶々、その日は、清らかな乙女らが、仕来り通り、花輪で飾られた籠を
頭に載せて、祭典*七一二の行われるパッラス[アテナ]の社のある
P120丘[アクロポリス]へと神聖な器を運んでいるところであった。
翼をもつ神は、その丘から戻っていく乙女たちを目にとめ、
進路を真っ直ぐには採らず、同じ所をぐるぐると旋回した。
その様を喩えれば、鳥の中でも最も速い鳶が、臓物を見つけたものの、
犠牲獣をびっしり取り巻き、佇む祭司たちを警戒して、
ぐるぐる輪を描き、それ以上遠くには飛び去ろうとせずに、
狙った獲物の上空を貪欲に飛び回り続けているよう。丁度そのように、
720キュッレネ生まれの敏捷な神はアクテ[アッティカの古名⁼アテナイ]なる丘の上で
飛ぶ方向を傾け、空の同じ所をぐるぐると旋回し続けていた。
明けの明星ルキフェルが他の群小の星に勝ってひときわ明るく輝き、
黄金の月がその明けの明星ルキフェルに勝ってひときわ明るく輝く、まさにそのように
歩を運ぶヘルセは他の乙女らすべてに勝ってひときわ美しく、
列を組んで練り歩く仲間の乙女らの華であった。
ユピテルの子はその美しさにうっとりと見惚れ、空中を浮遊しつつ、
パレアレス人の弩が放った鉛玉さながらに、恋の炎で
熱くなった。鉛玉というのは空中を飛び、飛ぶことで熱くなるが、
雲の下で、それまでもっていなかった火と出会い、火を受け取るのだ*七二九。
P121 730メルクリウスは進路を変え、大空を後にして地上を目指したが、
神の姿を偽ることはしなかった。それほど自分の容姿に自信があったのだ。
確かにその自身は正当なものではあったが、念には念を入れて、
髪を撫でつけ、裾が具合よく垂れ、黄金の
飾りのついた縁がすべて見えるよう、外套を整えた上に、
右手に握る、眠りを与え、眠りを払う杖がぴかぴかに磨かれているか、
翼のあるサンダルが綺麗に拭った足で輝いているか、確かめた。
屋敷の奥まったところに、象牙と鼈甲で飾られた部屋が
三部屋あり、その内の右側は、パンドロソスよ、汝の部屋、
左側はアグラウロスの、真ん中の部屋はヘルセの部屋であった。
740左側の部屋を使っていたアグラウロスが、やって来るメルクリウスに
最初に気付き、大胆にも、神の名と、来訪の訳を尋ねた。
その彼女に、メルクリウスはこう答えた、「私はアトラスと
プレイオネの孫*七四三。空を翔けて父の命を伝える伝令役を
務める神だ。私の父というのは他ならぬユピテル。私には、
ここに来た訳を偽って語る積りはない。あなたのほうは唯、妹に対して忠愛の
心をもち、[生まれ来る]私の子の伯母と呼ばれるのを肯うけがってくれさえすればよい。
P122ここに来た訳はヘルセだ。愛するこの私に、是が非でもあなたの支援が欲しい」。
アグラウロスはそう語る神を見つめたが、その目付きは、つい先頃、
ミネルウァの隠匿されていた秘密を覗き見した時の[貪欲な]目付きと変らず、
750手助けの労を取る見返りに大量の金が欲しいと
要求し、有無を言わせず、取りあえずは家敷から出ていくよう神に強いた。
そのアグラウロスに、戦の女神[ミネルウァ]は険しい目を向けると、
胸深くから吐息を吐き出したが、その勢いは激しく、
胸諸共、逞しいその胸に当てたアイギス盾*七五四も
打ち震えるほどであった。女神の心に記憶が蘇ったのだ、彼女アグラウロスが、
母親なしで生まれた、レムノスに住まう神*七五六[ウルカヌス]の子を覗き見し、
自分と交わした契を破って、穢れた手で秘密を暴いた記憶が。女神には、
その女が今や神にも妹にも有り難がられようとしている上に、強欲にも要求した
金を手に入れ、金持ちになろうとしているという[苦々しい]思いが募った。
760すぐさまミネルウァは「嫉妬」の、どす黒く腐敗した膿血に塗れた
館へと出かけていった。その館は、深い谷底にあって、
人目に触れることなく、日も射さず、風も届かず、
陰鬱で、館中が悴む寒さに包まれ、
P123 温かい火は絶えなく、常に漆黒の闇に覆われていた。
女丈夫の、恐るべき戦の女神はそこに着くと、
館の前で立ち止まり---[穢れた]館の中に入ることは
許されなかったからだ---、門扉を[槍の]石突で撃った。
撃たれた門扉が開いた。見れば、中に、邪悪な毒心の糧である
蛇の肉を喰らっている「嫉妬」がいた。
770それを見ると、女神は目を背けた。だが、「嫉妬」のほうは
大儀そうに地面から起き上がると、食いかけの
蛇の屍を残したまま、怠げな足取りでのろのろと近づいてきた。
容姿といい、武具といい、美麗な女神を見ると、
「嫉妬」は呻きを漏らし、顔を顰めると同時に、溜息をついた。
その顔は青白く、全身瘦せ細っていた。
どこを向いても、その目は藪睨みで、歯は歯垢で鉛色をしており、
胸は胆汁で緑色に染まり、舌は毒液に塗れている。
他人が苦しむのを見た時に出る以外、笑いというものは一切なく、
四六時中、止むことのない心労に神経がを高ぶらせて、眠りもせず、
780人の成功を見ると虫唾が走り、それを目の当たりにすることで
P124衰弱し、人を責め苛むと同時に、己も責め苛まれて、
己が己の責め苦なのだ。だが、そんな「嫉妬」を忌み嫌ってはいたものの、
トリトニス湖縁の女神[ミネルウァ]は手短にこのような言葉で彼女に語りかけた、
「お前のその病毒でケクロプスの娘の一人を病みつかせておくれ。是が非でも
そうして貰わねば、アグラウロスがその娘よ」。それだけ言うと、逃げるように
立ち去り、槍の石突で大地を一突きして弾みをつけると、空へと舞い上がった。
「嫉妬」のほうは、藪睨みのその眼で女神が逃げ去っていくのを認めると、
小声で呟きを発し、ミネルウァが目的を叶えるであろうことを
忌々しく思いながら、棘のある蔓をを上から下まで
790巻き付けた杖を掴み、黒雲に身を包んで、
足を踏み入れる先々で、花咲く野を踏み躙り、
草を焼き焦がし、木々の梢を捥ぎ取り、
吐く息で人々や家々を
毒しながら旅を続けて、ようやくトリトニス湖縁の女神の城塞なる、
学才と富で栄え、祝祭に溢れる平和で幸さきわう都城[アテナイ]を目にすると、涙を
抑えきれなかった。人が悲しみ、涙するものが何一つ見当たらなかったからだ。
しかし、ケクロプスの娘の部屋に入ると、
P125 女神の命を実行し、錆色に染まったその手でアグラウロスの胸に
触れて、心臓一杯に棘のある茨を植え付け、
800身体を蝕む病毒を吹き込んで、真っ黒な毒を骨という骨に撒き散らし、
肺の真ん中に振りかけた。そうして、
[アグラウロスの]不幸の因の範囲があまり広がりすぎぬよう、
その眼前に妹[ヘルセ]の姿と、その幸福な
[メルクリウスとの]結婚、それに美しい姿の神を彷彿させ、何もかもが
立派に見えるように粉飾した。そうした光景を眼前に浮かべ、沸き起こる
秘かな嫉妬の棘に苛まれて、ケクロプスの娘は身悶えし、昼と言わず、
夜と言わず、悩み続けて呻吟し、憐れ極まりなく、徐々に衰弱し、病み、
衰えていった。恰も射すかと思えば曇る日差しに徐に解けていく氷のように。
仕合わせな妹ヘルセの幸を思って次第に身を焦がすその様を喩えれば、
810山と積まれた刺草の下で点された火が
炎を立てて燃え上がらず、熱気でゆっくりと燻り続ける時のよう。
こんな仕合わせを目にするくらいなら、いっそのこと死んでしまいたいと思い、
それが罪悪であるかのように、厳格な父に言い付けてやりたいと何度も思った。
P126遂には、神がやって来たら締め出してやろうと、部屋の入り口を前にして
座り込んだ。宥め賺しや嘆願や
穏やかこの上ない言葉をかける神に、「おやめなさい」と彼女は言った、
「あなたを追い払わないかぎり、ここから動くつもりはありませんから」と。
キュッレネ生まれの敏捷い*八一八神は言った、「では、その取り決めを守ってやろう」。
そう言うと、メルクリウスは[自ら触れることなく]神の杖で扉を開けた。一方、
820彼女のほうは、立ち上がろうとしたものの、座るのに曲げた脚の
どの部分も無気力な重たさで動かせなくなった。それでも
彼女は上半身を真っ直ぐにして、どうにか起き上がろうともがいたが、
膝関節が強張り、冷たさが爪先まで
染み渡り、血管からは血の気が失せて、青ざめていった。
その様を喩えれば、悪性の不治の癌が身体の広範囲に
転移し、まだ冒されていない部位を癌化させて、疾病を広げていくよう。
またそのように、死の冷たさが徐々に胸に行き亘り、
命の息吹の通い路を閉ざして、呼吸を止めさせた。
彼女は言葉を発しようとはしなかった。たとえ何か言おうとしたとしても、
830声を出す道がなかった。元の首はすでに石に変わっており、口は固まって
P127 しまっていた。彼女は座ったまま、血の気のない石像になっていたのだ。
その石は白くはなかった。石は黒く染まっていた、彼女の邪心そのままに。
こうして。アトラスの孫[メルクリウス]は冒涜のアグラウロスの言葉と心への
罰を下すと、パッラス[アテナ]に因んで名づけられた地[アテナイ]を
後にして、翼を羽搏かせて最上天アエテル目指して翔け上がっていった。
そのメルクリウスを、父神は脇に呼び、色恋のためという理由は伏せて、
こう言った、「私の命令をの忠実な使い役を務めてくれるお前、わが子よ、
ぐずぐずせず、即刻、習いの道を辿って下界に降り、
お前の母[アトラスの娘たちプレイアデス(昴星団)の星マイア]を左手に*八三九
840見上げている地--土地の者はシドンの名で呼んでいる--
その地を目指すのだ。そうして、町から離れた山辺の牧草を食んでいる
王家の家畜が見えようから、その群を海辺のほうへと追い立ててくれ」。
ユピテルはそう言った。早くも、山から追い立てられた若牛の群れは、ユピテルの
命じた海岸を目指していたが、そこは大王[アゲノル]の娘*八四四[エウロパ]が
お供のテュロスの乙女らに立ち交じって遊び興じる習いの海岸であった。
威厳と色恋の二つはそうそう両立するものではなく、一つ所に
相伴うことのないもの、そこで、王笏の威厳をかなぐり捨てて、
P128かの父神にして神々の支配者、三叉の雷火の武器を、
右手に握り、その頷き一つで全世界を震撼させるユピテルは
850雄牛の姿形を取り、若い牛群に立ち交じってモーと啼き、
草の上を漫ろ歩いた。その姿は見るからに美麗な若い雄牛であった。
いかにも、その白さは、硬い足で踏み潰されてもいず、
雨を運ぶ「南風」に融かされてもいない純白の新雪のようであった。
頸は筋肉で盛り上がり、[分厚い]喉袋は[喉からではなく]両肩から垂れ下がり、
角は小ぶりだが、人の手で造形された細工にも引けを取らない
形の見事さで、透明な宝石にも勝って透き通るような清らかさであった。
額には威嚇するような厳つさはなく、眼光も恐ろしくはない。
顔付は総じて温和さを湛えていた。アゲノルの娘は、そのあまりにも
美しく、荒々しい粗暴さが全く見て取れないことに感服した。
860しかし、見たところ柔和な雄牛ではあったが、初めは怖くて触れなかった。
やがて雄牛に近づき、輝くように白いその口に花を差し出してみた。
娘に恋する雄牛は喜び、待ち望んだ喜びが訪れる時までは、と、娘の手に
口づけした。だが、最早それ以上の喜びを先延ばしするのは耐えられなかった。
そこで、じゃれついてみたり、緑なす草の上で飛び跳ねてみたり、
P129 黄土色の砂地の上に雪白のその脇腹を横たえてみたりもした。
そうして、徐々に娘の恐怖心を取り除いた上で、胸を差し出し
乙女の手で撫でて貰おうとするかと思えば、また角を近づけ、
編んだばかりの花輪を巻き付けて貰おうとした。王女のほうも、大胆になり、
誰の上に乗ろうとしているのかも知らぬまま、雄牛の背に乗った。
870その時、神は、陸地や乾いた砂浜から離れて、徐に
牛に似せた偽りの足を、寄せては返す浜辺の波に浸けた。
それから、更に水際から沖へと離れて、遂には大海原の只中を進んで、
戦利の品を運んでいった。攫われた乙女は怯え、後にしてきた浜辺を
振り返り見るが、右手で角を掴み、もう一方の手は背に
置いたまま。その衣は吹く風を孕んで膨らんでいた。
第2巻訳注/ 131/ 133
P135
五五三 ミネルウァ(アテナ)に愛情を覚えたウルカヌス(ヘパイストス)が力ずくで思いを遂げようとしたが、女神が拒絶したため、思わずウルカヌスは射精してしまい、その精液が女神の太腿にかかった。
P136ミネルウァはそれを羊毛の布(erion(エリオン))で拭って布を投げ捨てると、「大地(chthon(クトン))」が受け取り、男の子を生まれさせ、ミネルウァに返すと、母なしで生まれたその子を憐れんだミネルウァは、以下で語られるように、籠に入れて育てようとした。
その出生の経緯からエリクトニオス(Erichthonios)と呼ばれたが、ミネルウァはの社の神城で無事に育ったあと、アテナイの王となった。アポッロドロス三・一四・六など。eri-を「争い(eris)」と関係づけ、ウルカヌスの求愛にミネルウァが抵抗して「争い(eris)」になったことから、とする説もある。ヒュギヌス一一六、セルウィス『ウェルギリウス『農耕詩』注解』三・一一三。なお、アテナイ古王の系譜を記した第六巻六七七行注も参照。
五五五 大地から生まれた半人半蛇の姿をした、アッティカ(アテナイ)の初代王と言われる伝説的人物。その名にちなんで「ケクロプス縁の城塞あるいは丘」(⁼アクロポリスあるいはアテナイ)、「ケクロプス縁の港」(⁼アテナイの外港ペイライエウス)、「ケクロプス縁の民」(⁼アテナイ人)などと言われる。その後の初期アテナイ王の系譜については、第六巻六七七行注参照。
五九〇 レスボス人の王エポペウスの娘、あまりにも美しかったので、父親に凌辱され、恥じて森に逃れたが、アテナ(ミネルウァ)が憐れんで梟に変え、自分の聖鳥とした(ヒュギヌス二〇四、二五三)。セルウィス(『ウェルギリウス『農耕詩』注解』一・四〇三)では、「神々が」「鳥に」変身させたとしている。
五九三 梟のこと。
P137
六一一 (略)
六三〇 クロノス(サトゥルヌス)とオケアノスの娘ピュリラの子で、半人半馬の賢者。半人半馬となった理由については、第六巻一二六行注参照。
六四一 のちに医神アスクレピオスとなる。エピダウロスに神殿が建てられたが、そこから招来され、蛇の姿で海を渡ってローマに来都し、疫病からローマを救った話が、第一五巻六二二以下で語られている。
六四八 医神となったアスクレピオスは、父テセウスの呪いで事故死したヒッポリュトスをウィルビウスとして蘇らせ(蘇らせた相手は、他にテュンダレオス、カパネウスなどとも言う。セクストゥス・エンペイリコス『学者たちへの論駁』一・二六一に異伝が纏められている)、それに憤ったユピテルによって雷電で殺されるが、ローマの伝承では(ヒュギヌス『天文譜』二・一四)、神として天に迎えられて、「蛇使い座(オピウコス)」になったという。第一五巻四九三以下に、ウィルビウスとして蘇ったヒッポリュトスの挿話がある(同巻四九七行注も参照)。息子アスクレピオスを殺された父アポロは、復讐に、ユピテルの雷電を製作したキュクロプスを殺したため、償いに、地上のテッサリア王アドメトスのもとで一年間奴隷として仕えることを命じられた。それが、このあとすぐ語られるメルクリウスによる牛泥棒の物語(本巻六七六以下)の背景になっている。
六五二 ヘラクレスは、本来獣的な一部のケンタウロイと戦ったことがあり、その折、自分が退治したレルナの蛟みずちの毒血を塗り込めた矢を放ったところ、誤ってケイロンの膝にあたってしまった。ケイロンは激しい苦痛に苛まされた挙げ句、苦痛を逃れるためにユピテルに死を願ったところ、かなえられ(本来、不死のために死ねなかったが、プロメテウスが代わりに不死となってやり、死ぬことができたという。アポッロドロス二・五・四)、天空に昇って射手座になったという。その毒血が、のちにヘラクレス自らをも冒し、ヘラクレスは焼身自殺して天上に迎えられることになる経緯が、第九巻八九~ニ七二で語られる。
六五四 ここでは直訳すると「三柱の女神たち(triplices deae)と普通名詞で言われているが、ギリシャ語では「モイライ(Moirai)」(meros(分、割り当て)から)。運命(寿命)の糸を紡ぐクロトー、それを割り当てるラシケス、それを切るアトロポス(曲げえぬ者、不可避の者)の「運命の三女神」を言う。ラテン語では「パルカエ(Parcae)」で、元は出産の女神「産む者(Parca)」であったが、のちにおそらく誤った語源解釈からギリシャのモイライに擬され、複数形で言われるようになった。
六七六 第六巻一二六行注参照
六八二 この物語には複数の要素が融合されている。アポロが牧夫に身をやつしこと、アポロの恋、メルクリウス(ヘルメス)による牛泥棒がそれ。オウィディウスがどの伝承に拠っているかは不明ながら、これに近い話形を後二世紀頃の神話作家アントニヌス・リベラリス(二三)が、ニカンドロスなど複数の出典を明示しながら伝えている。それによれば、アポロはアドメトス王の許で牧夫として働いていたが、王の孫の美少年ヒュメイナイオスに恋し、気もそぞろなそのアポ
P139 ロを尻目に、メルクリウスは番犬を黙らせて、アポロが番をしていた牛群を盗み、この物語の舞台となっているペロポンネソスのメッセニアまで連れて来たという。
六八六 メリクリウスと、とくに牛の窃盗(泥棒)については、第一巻六七六行注参照
六八九 ホメロス『イリアス』(一・二四七以下)で、人間の三代目を生きており、蜜よりも甘美な弁舌を持つ賢将とされているネストルの父。ピュロス王。
七一〇 リュケイオンは、アテナイ東方の市壁外近くにあったアポロの聖域の森。ここに前三三五年、アリストテレスは、のちに逍遥学派を形成していく学園を開いた。
七一二 毎年アテナイの守護神アテナの誕生月とされるヘカトンバイオンの月(ほぼ今の八月)に行われた。アテナイ最大祭典のパナテナイア(Panathenaia)祭。市民、長老、騎馬隊、青年、少年少女など、さまざまな階層、年齢の市民がアクロポリスを目指して練り歩く大祭列で名高い。
七二九 「鉛の玉は、飛びながら多数の冷気の粒子(=アトム)を捨て、宮中で火を受け取って熱くなる」(ルクティウス『事物の本性について』六・三○六~三〇八)。
七四三 メルクリウス(ヘルメス)はユピテル(ゼウス)とマイアの子で、マイアはアトラスとオケアノスの娘プレイオネの娘たちプレイアデスの一人。第一巻六六九行注、第六巻一七四行注参照)。
七五四 元はユピテルの持ち物で、ユピテルを養った山羊(aig-<aix)アマルテイア(第三巻五九四行注参照)の皮を張った不敗の盾。のちには、もっぱら女神ミネルウァ(アテナ)の盾とされた(ユピテルと同じものかは不明)。アテナは、それを目にすれば石に化すというメドゥサの首級(この物語は第四巻七七二以下参照で語られている)をペルセウスから与えられ、この盾にはめ込んだ。
七五六 ウルカヌス(ヘパイストス)は、母神ユノー(ヘラ)に味方した時、怒ったユピテル(ゼウス)にオリュンポスから投げ落とされ、「丸一日、空を飛んで[…]レムノス島に落っこちた」。足が不自由なのはそのためだが、爾来レムノスがウルカヌスの聖地となった(ホメロス『イリアス』一・五九〇以下、アポッロドロス一・三・五など参照)
八一八 第一巻六七六行注参照。
八三九 プレイアデス(⁼昴)は、牡牛座の散開星団。種々解説がなされているが、明快なものはない。南向きに空を見上げて「左手(側)に」、つまり「東側に」昴あるいは牡牛座を見上げる地の意のようであるが、その説明では地点(シドンの町)を特定する基準にはならず、特別な意味はないように思われる。これはオウィディウスが「学識のある詩人(poeta doctus)」の手法でメルクリウスとマイア(⁼昴の星の一)の母子の関係を示すために用いた「普通ではない地理の表現[法](die ungewohnliche geographische Bezeichung)」であるとBomer 1969-86は注している。
八四四 エウロパ。テュロスの王アゲノルとテレパッサ(母親は、他にアルギオペ、テュローなどとも言われる)の娘。ここで語られているように、ユピテルに見初められてクレタに連れていかれ、ミノス、サルペドン、ラダマンテュスの三子を儲けて、クレタ王家の祖となった。アポッロドロス三・一・一参照、
P141
ヒュギヌス一七八参照など参照。
第三巻
P161
(略)定めの則に従って、地上でこうしたことが行われ、
生死の門を二度くぐった三一七バッコスが揺籃期を無事に過ごしている間のこと、
ある時、偶々ユピテルは、神酒で気分を解し、煩わしい
心配事を心から追い払って、寛いでいるユノーと冗談を
320 言い交わしていたが、こう言った、「そなたら女が得る(愛の)快楽のほうが、
男が得る快楽より大きいのは確かだ」と。
ユノーはそれは違う、と言った。そこで、博識のテイレシアス三二二(アポロドーロス『ギリシア神話』相互参照)の意見は
P162どうか、尋ねてみることにした。彼は男女両方の愛を知っていたからだ。
それというのも、彼テイレシアスは、緑深い森で、交尾する二匹の
大きな蛇の体を杖で激しく打擲し、そのために
男から---不思議なことながら---女になり、女として春秋を七度
経たことがあったからである。八年目に、再び同じ二匹の蛇に遭遇した彼は
こう言った、「お前たちを打つことが、打った当人の性を
別の性に変えることができるほどの力を宿すものなら
330 今またお前たちを打とう」。そう言って、同じ二匹の蛇を杖で打つと、
元の男の容姿が戻り、生まれつきの性である男の姿が蘇った。こうして
彼は冗談交じりの諍いの裁定人として選ばれたのだが、ユピテルの
言が正しい、と断言した。サトゥルヌスの娘御は、公正さに照らしても
事の軽重に照らしても、不当なほど激しく憤慨し、懲らしめに
裁定者の目を永遠の闇で閉ざしたと言われる。
しかし全能の父神は---何神にせよ、他の神の行ったことを
取り消すことはできないからだが---奪われた視力に代えて
未来の出来事を予知する能力を授けて、名誉で懲らしめを軽くしてやった三三八。
(略)第四巻
(略)P239
(略)ペルセウスは三柱の神々に同じ数だけの祭壇を芝土で築いた。左の祭壇は
メルクリウスに、右のそれは、戦を司る処女神[ミネルウァ]よ、あなたに、
中央のそれはユピテルに捧げた。ミネルウァには雌牛が、翼ある
サンダル履く神には仔羊が、あなたには、至高の神よ、雄牛が屠られた。直ちに
ペルセウスは、あれほどの偉業の報酬であるアンドロメダを、約束の結納の
品[の王国]は受け取らぬまま、慌ただしく花嫁に迎えた。婚礼を司る神(ヒュメナイオス)と愛の神(アモル)が
松明を打ち振りながら婚礼の列を先導する。惜しみなく香が炎にくべられ、
760 家々には花輪が懸けられ、至る所で、喜びの
心を表す証の竪琴や笛や歌声が
響き渡る。扉が開かれ、王宮の黄金の
P240広間全体が開け放たれた。佳肴や金銀の什器が並ぶ華麗な祝宴に
ケぺネスの民[エチオピアの古民族]の末裔の王[ケペウス]の貴顕たちが連なった。
765 皆が食事を終え、惜しみなく与えるバッコスの賜物[=葡萄酒]で
766 憂いを解いて寛いでいる時、当地の地理や地勢、
767 人々の風習や気質について、リュンケウス*七六七の末裔[ペルセウス]は尋ねた。
769 王は*七六九それに答えると、間を置かずに言った。「ところで、勇猛果敢な強者
770 ペルセウスよ、どうか語って貰えまいか、あなたがどれほどの武勇を発揮し、
如何なる手練の技を用いて蛇髪のメドゥサの首級を奪ったのか、その話を」と*七七一。
アゲノルの末裔[ペルセウス]はこう物語った、冷たいアトラスの山裾に
堅固な巨岩に囲われた安全な場所があった、
その入り口にポルキュスの娘で、一つ目を
二人で分け合う姉妹*七七五[「老女たち(グライアイ)」]が住んでいた、
自分はその目を、姉妹がもう一人に手渡している時、手を下に差し入れ、
巧妙にこっそり盗み取った、その後、絶境の地や
人跡なき野、また荒々しい木々の覆う岩場を遥々辿っていく内に、
ゴルゴンたちのいる住処に辿り着いたが、野や道の
至る所に、メドゥサを見たために元の身体からそのまま
P241 石に変わった人間や獣の数知れぬ石像を目にした、
しかし、自分は恐ろしいメドゥサの姿を、
左手に持っていた青銅の盾の映して眺め、
メドゥサ自らも頭髪の蛇どもも深い眠りに落ちた所を見計らって、
首から断ち切り、頭を奪い取った、翼で天翔る俊足のペガソスと
その兄弟馬[クリュサオル]は母親メドゥサの血からうまれたのだ、と。
ペルセウスは更に加えて、長い遍歴の旅の間に遭遇した危難の数々や、
高い空から眼下に眺めた海や陸地、また翼を羽搏かせて
翔り昇って辿り着いた星々のことを語って聞かせた。しかし、
750 聞きたいことがまだある内に、ペルセウスは黙ってしまった。それを受けて
貴顕の一人が、ゴルゴン三姉妹の中で、何故メドゥサだけが
毛に蛇の混じる頭髪をしているのか、その訳を尋ねた。
異国人ペルセウスは言った。「お尋ねのその話は語るに値するもの故、
聞かれるがよろしかろう。訳を言えば、こうなのです、彼女は令名高い
絶世の美女で、大勢の求婚者たちの羨望を交えた垂涎の的でしたが、
彼女のあらゆる麗質の中でも、見事なその髪の美しさは
群を抜いておりました。彼女を見たという人物を、私は見つけたのです。
その彼女を、海の支配者[ネプトゥヌス]がミネルウァの社で凌辱したと
P242言います。ユピテルの娘御[ミネルウァ]は顔を背け、貞潔なその面を
800 アイギス盾*八〇〇で覆って、この狼藉を罰せずには措くまいと、
ゴルゴン[メドゥサ]の髪の毛を醜い蛇に変えてしまったという訳です。(『名画で味わうギリシャ神話の世界』相互参照)
女神ミネルウァは、敵を戦慄させ、恐れさせるために、今でも、敵に向けた
胸[に翳したアイギス盾]に自分が生み出したその蛇をつけているのです」。
第四巻訳注P241-254
P243(略)
P245(略)
P247(略)
P249(略)
P251(略)
P253(略)
八〇〇 アイギス盾については、第二巻七五四行注参照
第六巻
P303/ 305アラクネ/ 307/ 309図柄
P311(略、アラクネ→蜘蛛、ニオベ)
不幸なアラクネは堪えきれず、ひと思いに喉に縄をかけて、首を縊った。
憐れを催したパッラスは縄にぶら下っている彼女をもち上げて、語りかけた、
P312「性悪のお前、生きることだけは許しましょう、但し、宙吊りのままで、です。
それで将来を安心してはなりませんよ、これからも、お前の一族には、
子々孫々に至るまで、末永く、懲罰の同じ定めが付き纏うのです」。
そう言った後、女神は、去り際に、ヘカテの魔草の汁をアラクネに
140 振りかけた。すると、忽ちの内に、禍々しい薬草に触れて、
アラクネの髪の毛は抜け落ち、それと共に、鼻も耳も失せ、
頭は極々小さなものになった。体全体も、ちっぽけなものになっている。
細い指が腹の脇にくっついて脚の役目を果たし。
後は、あるのは唯腹ばかり。だが、その腹からアラクネは、相変わらず
糸を紡ぎ出し、蜘蛛*一四五となった今も、昔の機織り仕事に余念がないのだ。
リュディア全土が騒ぎ立ち、プリュギアの町々を出来事の
噂が駆け巡って、広く世界中がその話でもちきりになった。
ニオベは、結婚する前、彼女がまだ乙女で、マイオニアなる
シピュロスの山裾に住んでいた頃に、その話を知った。
150 だが、彼女は、同郷のアラクネが受けた罰を他山の石として、神々には譲り、
遜った言葉遣いをしなければ、という戒めにすることはなかった。
その思い上がった心を焚きつけていたものは多い。現に、夫の竪琴の技量*一五二や、
P313 夫婦二人の高貴な血筋、広大な両国の支配権がそれだ。しかし、
そのどれも、彼女の喜びとはいえ、自分の子供たちに覚える喜びには
比ぶべくもなかった。そして、ニオベは最も幸せな母親と
呼ばれたであろう、自分自身がそうだと思い上がっていなかったならば。
それというのも、テイレシアスの娘で、予知の能力をもっていたマントーが、
霊感に突き動かされて、あちこちの通り中を彷徨いながら、
このような霊知を告げていたからだ、「イスメノス流るテバイの女たちよ、挙りて
160 詣でるのです。そうして、ラトナ(レトー)と、ラトナの二柱の御子に、
敬虔な祈りと共に、香を捧げ奉り、月桂樹の葉冠を頭に載くのです。
これは、私の口を通して告げられる、ラトナ様の仰せです」。その言葉に従って、
テバイの女たちは皆、命じられた月桂樹の葉冠で頭を飾り、
祭壇の聖なる火に香をくべて、祈りの言葉を唱えた。
すると、見よ、そこに、夥しい数の供回りを連れたニオベが、金糸を織り込んだ
プリュギア風の(豪華な)衣装に身を包み、ひと際目に立つ姿でやって来た。怒りの
表情を浮かべていながら、尚、その美貌に陰りが見られない。形のよい頭から
両肩の上へ、そして背後へと流れる髪の毛を靡かせながら、
立ち止まり、肩をそびやかして昂然と、尊大な目つきで辺りを睥睨すると、
170 P314「これは一体、何の狂気の沙汰?」と叫んだ。「目の前に見てきた神よりも
話に聴いただけの神のほうが大事にするなんて。ラトナが祭壇で崇められ、
私の神性は香もくべられずにいるのはどうしたこと。わが父はタンタロス*一七二。
唯一人、神々の宴席に触れることを許された人です。
母はプレイアデスの姉妹*一七四。並ぶ者なき巨人のアトラス*一七四が
わが祖父。その双肩で天空を支えている、あのアトラスです。
もう一人の祖父はユピテル。私の自慢は、そのユピテルが舅御でもある*一七六こと。
プリュギアの諸民族が私を恐れ、カドモスを始祖とする(テバイの)王宮が
女王の私にひれ伏しています。わが夫の竪琴の音で築かれた城市は、
その民諸共、私と夫の支配するところ。
180 王宮のどの一画に視線を向けてみても、
有り余る富が目に入ってきます。加うるに、
女神にも相応しいわが顔。かてて加えて、私には、七人の娘たちと
同じく七人の息子たち、それに、やがて迎える筈の婿たちや嫁たちがいる。
さあ、尋ねて御覧、私が、何故こうも誇らしい心でいるのか、その訳を。
その上で、まだ恥知らずにも、私より、誰かは知らぬがコイオスとかいう
ティタンの娘ラトナのほうを大事にするのなら、すればいい。あれは、その昔、
P315 今しも子を産もうという時、広大無辺の大地が僅かな土地すら拒んだ女神です。
お前たちの崇める女神は、天空にも、大地にも、海にも迎え入れられず、世界から
締め出された女神、流離う彼女に憐れみを覚えたデロス(島)が、漸く、
190 「あなたは陸を流離う根なし草、私は海を流離う根なしの浮島*一九〇」と声をかけ、
海に漂う土地を提供してやったという神なのです。女神は二児の
母親となりました。私がこのお腹で産んだ子の七分の一に過ぎない。私は
幸せな女---誰がそうでないなどと言えましょう---、これからお幸せでしょう
---これを疑う者もいる筈がない---。私を安全にしているのは有り余る潤沢さ。
私は人間を傷みつける力をもつ運命の女神の上を行く存在なの。運命の女神が、
たとえ多くを奪おうと、それ以上に多くが私には残されているでしょう。私の
幸は恐れを遠く彼方に置き去りにしてしまっているのです。わが子の数から
幾ばくかを奪い去られるとしてみましょう。でも、子を奪われたからといって、
数が二人になるまでなんてある筈もない。二人といえば、ラトナの
200 子の数。子が二人など、小なしと、どれほどの違いがあるというの。
さあ、皆、祭儀は途中でやめて、急いでここから離れ*二〇一、頭に戴く月桂樹の
葉冠を外すのです」。女たちは葉冠を外し、祭儀を中断して、その場を後にしたが、
心の中で敬いの言葉を呟いでいた。こればかりは誰にも止めようがなかった。
P316 女神ラトナは怒り、キュントスの山頂にに佇みながら、
このような言葉で双生の子のニ神に語りかけた、
「さあ、御覧なさい、あなたたちの母親で、あなたたちを産んだことを誇りに思い、
ユノー様を除けば、どの女神にも引けを取ることのないこの私、その私が、
神なのか、疑わしく思う者がおり、万古から世々斎き祀られてきた祭壇から、
おお、わが子たち、あなたたちが助けてくれなければ、追い払われようとしています。
210 わが悲しみ、わが憤りはこれにとどまりません。この酷い仕打ちに加えて、
タンタロスの娘は私に悪態を吐き、鉄面皮にもあなたたちより自分の子らのほうが
立派だと自慢し、自分がそうなればいいものを、私を小なしなどと罵るのです。
罪深いあの女の、あの口さがない悪口は父親譲りのもの*二一三と分かります」。
母神が、その後に「お願いだから」と言いかけた、その時、ポエブスが言った、
「もう、おやめ下さい。長いお嘆きは懲らしめを遅らせるだけ」と。
ポエベも同じことを口にした。そう言うと、二神は大空を素早く翔け降り、
雲に身を隠して、カドモス縁の王城に降り立った。
城壁の近くに、平坦で、広々と広がる野があった。
大地を打つ馬たちの足音が絶えない野で、土を踏み、土を蹴る、
P317 220 数多の馬車の車輪や馬の硬い蹄で土が柔らかくなっている所。
その野で、アンピオンの七人の息子の幾人かが
逞しい馬に乗り、馬の背の、テュロスの緋色で染めた
覆いの上に跨り、黄金の飾りも重い手綱を操っていた。
その一人イスメノスは、母の胎内に最初に宿された
長子であったが、一定の円を描くように馬の
進路を曲げ、泡吹くその口を抑えていた、その時、
「あっ、やられた」とひと声叫びを上げたが、見れば、その胸のど真ん中に
矢が突き立っている。瀕死の力ない手から手綱が離れ、イスメノスは
馬の右肩から横ざまに、ゆっくりと、滑るように落ちていった。
230 彼に続いたのはシピュロスだ。大気の中で箙がカラカラなる音を聞くと、
手綱を緩め、全速力で馬を馳せた。その様は、さながら、黒雲を見て、
嵐の来るのを予見し、嵐を避けて急ごうと、至る所に(畳まれて)吊られている
帆を下ろし(て張り)、僅かに吹く風さえ逃すまいと、慌てふためく船長のよう。
だが、手綱を緩めて全速力で駆けるその彼の後を、避けがたい矢は
追い、矢は首の後ろの付け根をひいふっと射貫き、ぶるぶる揺れながら
首を貫通して、むき出しの鏃が喉から突き出た。シピュロスは、
P318 前屈みになっていたが、その儘の恰好で、疾走する馬の鬣と前脚の上を超えて
もんどりうって転げ落ち、生暖かいその血で大地を朱に染めた。
哀れなパイディモスと、祖父の名を継ぐ
240 タンタロスの二人は、いつもの(乗馬の)鍛錬を終えて、
香油で身体を光らせながら争う、若者らしい格闘技に移っていた。
その二人が、今しも、胸と胸を合わせて、がっぷり四つに組み、
格闘していた。まさにその時、引き絞られた弓弦から放たれた矢が、
組み合っている二人に、そのまま命中し、二人とも射貫いた。
二人は同時に呻き声を上げ、苦痛の余り、同時に身体を仰け反らせて
土の上に倒れ込み、倒れ伏したまま、今わの際の眼を同時に
ぎょろつかせながら、同時に命の息吹を吐き出し、事切れた。
それを見たアルペノルは、胸を掻き毟り、胸を打ちながら
慌てて駆け寄り、冷たくなった兄弟の骸を抱き上げようとした、その刹那、
250 兄弟愛の発露のその行為のさ中に斃れ伏した。デロス生まれの神が、
彼の胸の下、横隔膜の辺りを致命の矢で引き裂いたからだ。
彼はすぐさまその矢を引き抜いたが、鏃の逆鉤に肺の一部も引っかかって
抉りだされ、アルペノルは、命の息吹共々、大量の血を大気の中に注ぎ出した。
P319 一方、(若者の印として)髪を切らず、伸ばし放題のダマシクトンに神が与えた傷は、
一つではなかった。先ず初めは、太腿が脛に変わり始める所、
靱帯によって結ばれた膝関節の(裏側の)柔らかな膕を射貫かれた。
その致命の矢を引き抜こうとしていたところ、
別の矢が喉を貫き、矢羽根まで篦深に突き刺さった。
激しい血潮がその矢を押し出し、血潮はそのまま高々と噴き出して、
260 大気を劈きながら、遥か彼方まで迸った。
最後はイリオネウスだ。彼は、懇願するために、甲斐もない両腕を
差し上げて、「神々よ、おお、斉しく、なべての神々よ」と
叫び、祈りをすべての神々に向けるべきでないことも知らず、
「お赦しを」と続けた。弓持つ神も、さすがに心を動かされたが、時既に遅く、
放たれた矢は、最早、呼び戻す術がなかった。尤も、彼の場合、最小の傷で
斃れた。矢は心臓を射当てたものの、深く貫くことはなかったのだ。
禍の噂と、人々の嘆きと、親しい者たちの涙が
これほど突然の痛ましい凶事を母親に知らしめた。
母のニオベは、そのような凶事が起こり得たことに驚くと共に、神々が敢えて
270 それほどの凶行に及んだこと、神々がそれほどの神威をもっていることを憤った。
P320 それというのも、兄弟の父親アンピオンも、胸に剣を突き立て、
自死して、この世の日の光と共に、悲痛な思いにも別れを告げていたからだ。
ああ、その時のニオベとかつてのあのニオベと、どれほどの懸隔があったことか。
つい今しがたまで、ラトナの祭壇に近づくことを人々に禁じ、
都中を、肩をそびやかして昂然と闊歩し、親しい人々さえ羨む存在であった、
あのニオベが、今や、敵さえ憐れを覚えずにはいられない存在となったのだ。
ニオベは息子たちの冷たい骸に身を投げかけ、誰彼構わず、
一人一人に口づけをして回った。その後、息子たちの亡骸から身を
転ずると、胸を打つ嘆きで青黒くなった腕を天に差し伸べながら、言った、
280 「残酷なラトナよ、食い物にするがいい、わが悲痛な思いを
食い物にするがいい。心ゆくまで堪能するがいい、私の嘆きを。
その残忍な心を満足させるがいい。七人の息子たちの野辺の送りは*二八三、わが
野辺の送り。歓喜するがいい。憎むべき勝利者として勝利を祝うがいい。でも、
どうして勝利者?拉がれた哀れな私には、まだ多くが残されている、満悦する
あなたよりは。これほどの数の野辺の送りの後でも、まだ私が勝っている」。
ニオベがそう言い終わるや、引き絞った弓の弦が唸りを上げた。
唯一人ニオベを除いて、すべての者が恐れ戦いた。
P321 彼女は不幸で自暴自棄になっていたのだ。黒い喪服に身を包み、
髪を振り乱して、姉妹たちが兄弟たちの棺台の前に佇んでいた。
290 その内の一人が、兄弟の腹部に刺さったままの矢を引き抜こうとした、その時、
瀕死の傷を負って、力なく亡骸の上に顔を埋めて斃れ伏した。
別の姉妹は哀れな母親を慰めようとしていたさ中、
突然押し黙り、目に見えない傷を受け、身を二つに折って蹲った。
(そうして、命の息吹を吐き出すまで、口を閉ざした。)
別の姉妹は逃げ惑っている内に頽れ、別の姉妹は斃れ伏した姉妹の上に
斃れ伏した。見れば、隠れようとする姉妹も、ぶるぶる震えている姉妹もいる。
こうして、六人の姉妹が様々な傷を受けて命を奪われ、生き残ったのは
唯一人になった。その娘に、母親のニオベは全身で覆い被さり、ありったけの
自分の衣服で庇いながら、叫んだ。「一人だけ、一番小さいこの娘だけは残して。
300 お願いですから、大勢いた中で一番幼いこの娘一人だけはご容赦を」と。だが
哀願のさ中、命乞いをする当の娘が斃れ伏した。天涯孤独となった彼女は
息子たちや娘たち、それに夫の亡骸の間に魂の抜け殻のように座り込んだが、
やがて数知れぬ不幸の所為で身体が硬直していった。吹く風にも髪は靡かず、
顔は血の気が失せて色を失い、悲しみの表情で見開いたままの眼はぴくりとも
P322 動かなかった。人形のその像には、生あるものは何一つ残されていなかった。
体内にある舌も、硬直した口蓋の下で
固まり、血管も鼓動もを止めている。
首を回すこともなく、腕を動かすこともなく、
足を前に出して歩むこともない。内臓さえ石に変じていた。だが、
310 涙だけは流していた。その彼女を、激しい旋毛風が巻き上げ、生まれ故郷へと
連れ去った。ニオベは、その故郷の山頂*三一一で、身動きもせず座し、
涙に暮れて、大理石になった今でも、涙の滴をしたたらせている。
実に、この時、明々白々の神の瞋恚を目の当たりにして、
男と言わず、女と言わず、誰もが恐れおののき、皆が、以前にもまして
厳かに、双生の子の偉大な母神ラトナを斎き祀るに至った。ところで、
往々、人は、近い出来事を聞いて、類似の昔の出来事を話題に上すものだ。
そうした一人が口を開いた、「そう言えば、沃野広がる豊かなリキュアにも、
その昔、女神を蔑ろにして神罰を受けた農夫たちがいたよ。
当事者が名もない者たちだったものだから、余り知られてはいない話だが、
320 驚くべき出来事なんだ。俺自身が、この不思議な出来事で知られる池も場所も、
実際この目で見た。というのも、もう年で、長旅に
P323 耐えられなかった親父の言いつけで、俺がそのリュキアに赴き、そこから
選り抜きの牛たちを連れて帰ることになったのだ。親父は出かけていく俺に
その国の人間を道案内に付けてくれた。案内人と共に牧場を巡り歩いていた時、
さあ、とある池の真ん中に、犠牲獣を焼いた灰で黒く煤けた
古寂びた祭壇が、風がそよぐ葦に囲まれて立っていたんだ。
俺の案内人は立ち止まり、震える呟き声て『何卒、ご加護を』と唱えたので、
俺も同じように呟き声で『ご加護を』と唱えた。尤も、その祭壇が
水の妖精たちのものなのか、ファウヌス*三二九ものなのか、それとも土地の
330 神のものなのか、分からず、尋ねると、異国の案内人はこう答えてくれた。
『この祭壇に祀られているのは、お若い方、山野の神ではないのだ。
これを、ご自分のものと仰っているのは、その昔、ユピテルの后で神々の女王が
世界から締め出した女神、海を流離うデロスが、まだ軽い浮島として、海を
漂っていた頃、達ての願いを聞き入れ、やっとのことで迎え入れた女神なのだ。
その島で、女神のラトナは、パッラスの聖木と棕櫚の木*三三五』に凭れかかって、
(子たちには)継母に当たる女神ユノーの憎しみを買いながら、双生の子を産んだ。
だが、言い伝えでは、女神は、子を産んだ許りながら、ユノーの憎しみを逃れ、
わが子の二柱の神を抱いて、この島からも去ったという。早や、烈日が
P324 野を焦がす頃、ラトナはキマイラ(頭は獅子、尾は蛇の怪獣)を生んだ
340 リキュアの地に辿り着いたが、長い苦労に疲れ果て、
干涸びた身体にぎらぎら照り付ける日差しの所為で、喉の渇きは耐えがたく、
双生の幼い子らが乳を吸い尽くして、乳房はもはや乳が涸れていた。
そうした時、偶々、谷底に、それほど大きくはないが、水を湛えた
池を見つけたのだ。そこでは農夫らが柳の細枝や
藺草や水辺を好む菅を刈り集めていた。
ティタンの娘御の女神は近くに行き、地面に膝をついて、
冷たい水を今しも飲もうとした、その時のこと、田舎の農夫らの
一団がそれを押しとどめたのだ。水を拒む彼らに、女神はこう語りかけた、
『何故あなたたちは水を拒むのです。水を享受するのは万人に共通の権利。
350 自然は日の光も空気も清らかな水も、誰かの固有のものとはしていないのです。
私がやって来たのは、誰しもに共同のその賜物を求めてのこと。ととはいえ、
その共同の賜物をお与え下さるよう、伏してお願い申します。何も、ここで、
この手足、わが疲れ果てた身体を洗おうというのではありません。唯、
喉の渇きを癒そうと思っただけのこと。こうして語る私の口には水気がなく、
喉はからからに渇いて、声を通わせるのもやっとという有様です。
P325 一口の水は私には甘露となります。嘘偽りなく、水を頂ければ、同時に命も
授かったと申しましょう。如何にも、一掬の水で命をお恵み下さるのです。
どうか、この子たちにもお情けを、わが懐から小さな手を差し伸べている、
この子たちにも』と。その時、双生の子らは、隅々、手を差し伸べていたのだ。
360 女神の、その懇ろな言葉に心動かされない者など、誰かいただろうか。
だが、この農夫らは、相変わらず、嘆願する女神に水を拒み続け、
遠くへ立ち去らないのなら、と脅しをかけた上、罵りさえするのだ。
それでも飽き足らず、足や手で池の水を
かき混ぜたり、悪意に満ちた脚で、あちらに、またこちらに飛び跳ねて、
水底から柔らかな泥を巻き上げたりする始末。
怒りが渇きをひと先ず措かせた。如何にも、コイオスの娘御ラトナは、
その価値もない者たちに最早嘆願はせず、女神として、これ以上、遜った言葉で
語りかけるのに我慢ができず、空に向かって両の手を差し伸べながら
言った、『お前たちは、いついつまでも、その池の中で生き続けるがよい』と。
370 女神の願いは実現した。彼らは水の中にいるのを喜びとし、
体をすっかり池の水深くに沈めているかと思えば、
またある時には頭を水面に擡げ、またある時は水の中を泳ぎまわり、
P326 屡々池の岸に座っているかと思えば、屡々
冷たい池に飛び込んだりもする。だが、今も、せっせと恥ずべき舌を
働かせて口論に余念がなく、恥をかなぐり捨てて、
水の中にいてさえ、水中で悪口雑言を試みているのだ。
今では声も嗄れ、喉はふっくらと膨らみ、
他でもない、悪態を吐くことで、口は裂けて、大きく広がっている。
背は頭とくっつき、どうやら首は取り除かれたらしい。
380 背中は緑色、身体の大部分を占める腹は真っ白。彼らは、
泥の多い池や沼で飛び跳ねている新種の生き物、蛙となったのだ』」。
このように、誰かは知らないが、ある男がリキュア人の農夫らの身の破滅を
物語ったところ、別の男も、あるサテュロスの話を思い出した、ラトナの子の
(ヒュギーヌス『ギリシア神話集』相互参照)
アポロがトリトニス湖縁の女神の発案になる葦笛*三八四で負かし、仕置きした
サテュロスの話だ。マルシュアスは言った、「どうして私から私を剥す*三八五。 ああ、悔やまれる、ああ」と。そう叫んだ、「たかが葦笛でこんな酷い目に」と。
そう叫ぶマルシュアスの四肢から皮を剥ぎ取られ、
身体全体が隙間なく一つの傷となった。至る所から血が滲み出て、
筋肉が剝き出しになり、皮膚を剥がれた血管がひくひくと
P327 390 鼓動している。胸腹部には、小刻みに震える内臓や
他の臓器が透けて見え、一々数え上げることもできる。
農夫たちや山野の神霊たち、ファウヌスたちや兄弟の
サテュロスたち、また、その時もなお愛していた(弟子の少年)オリュンポスや
ニンフたち、更に、その界隈の山々で、毛深い羊の群れや
牛の群れを飼っていた羊飼いや牛飼いたちが彼を思って涙した。
肥沃な大地が涙に濡れ、濡れた大地は滴り落ちた
涙を受け取り、大地深くの水脈に貯えた。そうして、
その涙を水に変えると、再び地上の大気の中へと送り出した。水は、
送り出された源から、海を目指して、傾斜ある堤の間を滔々と流れ下り、
400 プリュギアで最も清らかな川となった。その名をマルシュアスと言う。
こうしたことを語り合った後、人々は今の出来事に戻り、
子供たちと共に身まかったアンピオン*四〇二を悼んだ。
母親ニオベは人々の非難の的であった。しかし、その時でも、唯一人
(兄弟)ペロプス*四〇四だけは肌脱ぎになって胸を開けると、
左肩の象牙を露わにしながら、姉妹の不幸に涙したと言われている。
この左肩は、生まれた時は、右肩と同じ色で、
P328 肌色をしていた。しかし、その後、父親(タンタロス)の手で切り刻まれた四肢を
神々が元通りに繋ぎ合わせたと伝わるが、他の部分は残らず見つかったものの、
上腕の付け根から首にかけての(肩の)部分だけが
410 欠けていた。遂に見つからない*四一〇この部分の代用に
象牙が埋め込まれ、こうしてペロプスは全き身体を取り戻したのだ。
近隣の王侯が参集し、近在の諸都市が
領主の王たちに弔慰に出かけるよう要請した。
アルゴスにスパルタ、ペロプス縁*四一四のミュケナイに
激しく怒るディアナの憎しみをまだ買っていなかったカリュドン*四一五、
肥沃なオルコメノスに、青銅器で名高いコリントス、
また武を誇るメッセネにパトライや谷間の窪地のクレオナイ、
またネレウス王*四一八の治めるピュロスに、ピッテウス王*四一八の治める以前のトロイゼン、
その他、二つの海に挟まれたイストモスに閉ざされる諸都市や、二つの海に
420 挟まれたイストモスの彼方に位置し、遥かに望み見られる諸都市がそれだ。
だが、これを誰が信じられよう。アテナイよ、汝だけは加わっていなかった。
弔問の務めを妨げていたのは戦であった。海を運ばれてきた
蛮族の軍勢*四二三がモブソポス*四二三縁の都城を脅かしていたのだ。
P329 トラキア王テレウスが援軍を率いてこの軍勢を
撃退し、その勝利によって赫々とした名声を得たのだった。
アテナイ王パンディオン*四二六は、資力においても兵力においても威勢を誇り、
偉大なグラディウス(軍神マルスの別称)から勇猛な血を引くそのテレウスと
婚姻を通じて盟を結んだ。だが、(婚礼には)花嫁を導くユノー*四二八も
婚礼を司る神も居合わせず、新床に優美の女神の姿もなかった。
430 復讐の女神たち*四三〇が、葬礼から奪ってきた松明を(婚礼の松明代わりに)掲げもち、
復讐の女神たちが新床の褥を敷き、不吉な梟が
館に降り立って、閨の屋根の上に止まった。
プロクネとテレウスは、この(不吉な)鳥の兆しの下で結ばれ、この鳥の
兆しの下で親となった。勿論、トラキアは二人を祝福し、
彼ら自身も神々に感謝を捧げた。パンディオンの
娘プロクネが名高い王に嫁いだ日と
息子イテュスが生まれた日は、王命によって祝うべき晴れの日と称された。
かくまでに人には隠されているのだ。何が本当の禍かは。既に時は、
440 プロクネは夫に気色どる口調で語りかけた、「あなたに些かなりと私への
P330 恵愛の御心がおありなら、妹に会うために、私を(故郷に)遣って下さるか、
それとも妹をこちらに来させて下さいな。あなたは義父のわが父上には、
日を置かず妹は戻る、と請け合えば宜しかろう。妹を目にすることができれば、
大きな恩恵を私にお与え下さることになるのです」と。テレウスは船を
曳き降ろして海に浮かべ、帆を張り、櫂を漕いで、ケクロプス縁の
港に入り、ペイライエウス(アテナイの外港)の浜辺に着岸した。
義父パンディオンの前に通されると、互いに右手を握り合い、
慶賀の祝詞を交わした後、話を始めた。
テレウスが来訪の訳である妻プロクネの頼みを
450 語り、連れ帰る妹の速やかな帰国を約束し終えた、まさにその時、
見よ、そこに、豪華な装束も華麗な、だが、容姿、尚更華麗なピロメラが
姿を現わした。その容色は、さながら、話によく聞く、
森の中を歩む水の妖精や木の妖精のよう。
尤も、その妖精たちに同じ(豪華な)身なり、同じ(絢爛たる)装束を与えればの話だ。
テレウスは、乙女を一目見るなり、忽ちの内に愛に燃えた。
ぱっと火が点くその様は、まさに、(乾燥して)白い麦穂に火を点ける時、
P331 或いは干し草小屋に積まれた枯れ葉や枯れ草を焼く時のよう。ピロメラの
嬋娟たる容姿はそれに値した。だが、持ち前の情欲もテレウスも焚きつけたし、
あの地方の民族には愛欲に傾く性向もあった。テレウスが愛欲に
460 燃えたのは、個人の性癖の所為でもあり、民族の性癖の所為でもあったのだ。
テレウスは、世話をする傅きたちや忠義を尽くす乳母を何とか手懐けたい
いや、当のピロメラの心を莫大な贈り物で靡かせたい、そのためには
王国のすべてを擲っても惜しくはない、いや、ピロメラを強奪し、
強奪したピロメラを血腥い戦をしてでも守りたいという衝動に駆られた。
手綱の切れた愛欲が敢えてなさないことなど一つもないし、
燃え盛る愛の炎を胸に秘め、閉ざしておくことなどできはしない。
テレウスは、最早、一刻の猶予も我慢がならず、欲心露わな口ぶりで、再び
プロクネの頼みの話に戻り、彼女の名も下、己の願望を弁じ立てるのであった。
愛欲が饒舌にしていた。パンディオンへの求めが些かでも
470 当を得ぬものになる度に、プロクネがそう望んでいる、と言いなした。
加えて、まるでそれもプロクネに頼まれたかのように、涙さえ流した。
ああ、天なる神々よ、どれほどの深い暗闇が死すべき人間の心には
潜んでいることであろう。テレウスは、他ならぬ罪深い企みを只管
P332 成就させようとして、却って妻思いと信じられ、罪によって称賛を得たのだ。
更に、どうしたことか、ピロメラも同じことを望み、父親の肩から両腕を回して
項にしがみつきつつ、甘えるように、姉に会いに行かせてほしい、と頼み、
自分の安気を図る余り、自分の安寧を自ら危険に曝してしまったのだ。
テレウスはその彼女を眺め、眺めることで、心中、早や彼女を愛撫していたが、
ピロメラが父親に接吻し、項に腕を回すのを認めるや、見て取るもの
480 何もかもが、テレウスの狂的な愛を焚きつける刺激となり、松明となり
糧となった。彼女が父親を抱擁する度に、テレウスは思った、自分が
父親だったらと。無論、そうだった所で、その愛欲の非道さは変わらないのだ。
父親は姉妹二人供の達ての願いに負けた。ピロメラは喜び、父に
感謝し、不幸にも、二人にとって嘆くべき結果を招くことが
二人にとって都合よく運んだ、と思い込んだ。
早や、ポエブスの労役も残り僅かとなり、車駕を牽く馬たちが
天空の西方の下り軌道を蹄で蹴っている頃合いになっていた。
王家に相応しい豪華な食事と、金杯に注がれた葡萄酒が宴席に
並べられた。その後、皆は、飲食に膨れた身体を静謐な眠りに委ねた。だが、
490 誰一人、オドリュサイ族縁の地(トラキア)の王だけは、一人きりになっても、
P333 尚ピロメラへの愛に燃え、その見目形、その一挙手一投足を思い起こしながら、
まだ見ぬものを思い通りに想像しては、懊悩に
寝もやらず、自らが自らの炎を煽り立てていた。
朝が来た。パンディオンは、出発する婿の右の手を胸にひしと掻き抱き、
湧き出る涙を堰き敢えず、娘ピロメラを伴としてテレウスに手渡して、言った、
「この娘を、わが愛する婿殿、娘二人の姉妹愛という理由に促されて、それに
姉妹二人共が---また、テレウスよ、あなたも---それを望んだ故に、
あなたに託そう。信義の掟と親族の絆にかけて、また、
天上の神々にかけて、屹度お願いする、娘を父親のような愛情をもって見守り、
500 何につけても不安多いわが老年の甘美な慰めである娘を
できるだけ早く---些かの遅れも私には長かろう---送り返してくれるように、と。
お前も、ピロメラよ、できるだけ早く--一人が遠く離れているだけで十分だ--
親を思う心が些かでもあるのなら、私の許に戻るようにしてくれ」。
パンディオンはテレウスと娘にそう頼むと共に、娘に何度も口づけしたが、
願いを託す間も、娘を思いやる優しい涙が零れ落ちていた。
約束を違えず、信義を守る印に二人の右手に求め、差し出された右手を
互いに握り交わした後、その場にはいないもう一人の娘とその子(イテュス)に、
P334 無事息災を祈っていると、自分に代わって、くれぐれも忘れず、口ずから
伝えてくれるよう頼んだ。だが、口を衝く嗚咽のために、やっとの思いで最後の
510 別れを告げはしたものの、虫の知らせの胸騒ぎに、不安な思いは拭えなかった。
ピロメラが色鮮やかな船に乗り込み、
船が沖へと漕ぎ出して、陸が彼方に遠ざかるや、
テレウスは叫んだ、「俺の勝ちだ。望みのものは俺と共に船で運ばれている」と。
(そう言って、欣喜雀躍し、心の喜びを先送りはせず)
野蛮な人間の彼は、視線をピロメラから片時たりとも離さなかった。
その様を喩えれば、恰も、鉤爪の足で捕らえた獲物の兎を
高い巣に持ち帰った時の猛禽のユピテルの鳥(鷲)のよう。捕らわれの身の
兎にはもう逃げる術はなく、猛禽は己の獲物をじっと眺めている。
既に船旅も終わり、早くも、皆が長い航海に疲弊した船を降りて、
520 故国の浜辺に上陸した後、王はパンディオンの娘を、鬱蒼と茂る
太古からの木々で薄暗い、高く囲われた小屋に引きずっていった。
その小屋に、青ざめ、ぶるぶる震え、恐れを止め処なく膨らませ、
既に涙を流しながら、姉はどこか、と尋ねるピロメラを
閉じ込めた上で、非道の劣情を暴露し、一人ぼっちの乙女の彼女を
P335 力ずくで凌辱したのだ。ピロメラは、甲斐なく、何度も何度も父の名を叫び、
姉の名を、何より偉大な神々の名を、何度も何度も叫んだ。
彼女は恐れ戦いた。その様を譬えれば、傷を負いながら、灰色の狼の顎から
放たれはしたものの、まだ、このまま無事だとは思っていない子羊か、
はたまた、己の血で羽根を濡らしながら、
530 尚も恐怖し、自分を捕えた貪婪な猛禽の爪を恐れ続けている鳩のよう。
やがて、我に返った彼女は、解けた髪の毛を掻き毟り、
(死者を哀悼する者のように、嘆きの腕を打って青痣を作りながら)
両手を差し伸べて、言った、「おお、悍ましい所業に及んだ野蛮人、
おお、残忍な人、子を思う恩愛の涙と共に託した
父の願いにも、姉の愛情にも、
私の純潔にも、婚姻の掟にも、あなたの心は動かされなかったの?
(あなたは、そのすべてを踏み躙ったのです。私は姉の恋仇となり、あなたは
二人の姉妹の夫となった。私は、今では仇の姉から罰を受けて当然の身、)
さあ、何故この命を奪わないの、不実な男のあなた、そうして、悪逆の限り、
540 罪の限りを尽くせばいい。叶うものなら、非道な交わりの前に、私の命を
絶ってくれていればよかった。なら、罪なき霊となってあの世に行けたものを。
P336 でも、神々がこれをみそなわしておられるのなら、神威というものが些かでも
力をもつのなら、そして、私と共にまだすべてが滅びているのでなかったなら、
やがていつか、必ずや、あなたはこの報いを受けることになるのです。私自ら、
恥をかなぐり捨て、あなたの所業を告げましょう。機会が与えられるものなら、
人前に出ていきましょう。森の中に閉じ込めたままでいるのなら、森中を
わが声で満たし、岩に事情を告げ、情なき岩にさえ憐れと思わせてみせます。
天も、そしてその天に何神かがいますなら、神もこの声をお聞きになる筈」。
そう語る言葉に、残虐な王は烈火の如く怒り狂い、同時に、その烈火の怒りに
550 劣らぬほどの極度の恐れを抱き、怒りと恐れ、両方の理由に突き動かされて、
腰に帯びていた剣を鞘から引き抜くと、
髪の毛を掴んでピロメラを羽交い絞めにし、後ろ手に腕を絞めた上で、
無理やり縛り上げた。ピロメラは自ら喉首を差し出そうと構えた。
刃を目にして、これで死ねるものと希望を抱いたのだ。だが、
テレウスは、非道を憤り、父の名をいつまでも呼び続け、言葉を発しようと
抗い続けるピロメラの舌を鉗子で挟んで引っ張り出すと、残忍にも、
その舌を刃で切り取ったのだ。切り取られた舌の付け根は口中で痙攣し、
舌そのものは黒い土の上に落ちて、まだ何かを呟いているようであった。
P337 切り取られると、ぴくぴく跳ねるのが常の蛇の尻尾さながら、その舌も
560 ひくひく動いて、命絶えるようとしながら、元の持ち主の足元を探し求めた。
これほど残忍な所業の後も、テレウスは---耳を疑う話だが---、伝えでは、
己の欲望のままに、舌を切り取られたピロメラの肉体を何度も求めたという。
テレウスは、こうした罪業の後、鉄面皮にも、プロクネの許に戻っていった。
夫を見ると、プロクネは、妹はどこにいるのか、と尋ねたが、テレウスは、
偽りの嘆きの声を上げ、でっち上げた、妹ピロメラの死を告げた。
夫の空涙に欺かれて、プロクネはすっかり信じ込んだ。彼女は肩を開け、
黄金の幅広の縁取りも眩い衣装を脱ぎ捨てて、
黒い喪服を纏い、主なき塚を築くと、
虚妄の妹の霊に供物を捧げ、妹の
570 悲運を嘆いたが、その嘆きは違ったものでなければならなかったのだ。
太陽神が六を二つ重ねる星座(黄道十二宮)を巡り、一年が過ぎた。
ピロメラはどうすればよい。見張りが脱出を阻み、
小屋を囲う堅固な石壁が聳え、
声を出せない口では、出来事を知らせる術もなかった。だが、苦悩には大きな
才覚が付き従い、逆境には妙智が訪れるもの。
P338 彼女は、機転を利かせ、異国の機に経糸を張り、
白地に紫の糸で図柄を織り込んだ。罪を証拠立てる
図柄である。彼女はそれを織り上げると、世話役の女に、その織布を
王妃に届けてほしい旨、手ぶり身ぶりで頼んだ。世話役の女は、頼まれた物を
580 プロクネに届けたが、手渡した織布の中に何があるのか分からなかった。
残虐な暴君の后は、巻かれた織布を広げた。
そこに描かれた図柄から、妹の可哀そうな悲運が読み解けた。しかし、
---そうできたのが不思議だが---押し黙ったままだった。悲痛が口を塞いだのだ。
思う存分憤りを表せる言葉を探したものの、口に出せる言葉が
見つからなかった。泣いている余裕などない。王妃は善悪を顧みず、
怒りの駆り立てるままに突き進み、全身全霊、只管復讐だけを思い詰めた。
折りしも、シトニオイ(トラキアの部族)縁の地の女たちが二年ごとの*五八七バッコスの
聖儀を祝う時期であった。聖儀を目にするのは夜で、
夜の闇の中、青銅の音も甲高いシンバルの響きがロドぺの山に鳴り渡った。
590 王妃は、その夜、館を出ると、神の聖儀に相応しい
身支度を整え、狂躁の秘儀に欠かせぬ衣装と持ち物を身に着けた。
頭を葡萄蔓の葉冠で覆い、左肩から鹿皮を
P339 垂らし、右肩に軽い神杖*五九三を担いだ。
仲間の信女たちの群れに伴われ、錯乱状態の中、恐ろしい形相で、
悲痛の思いの狂乱に駆られながら、プロクネは、バッコスよ、あなたの
聖儀の狂乱を装っていたのだ。遂に、森の奥深くに隠された小屋に到ると、
絶叫し、「エウホイ」と叫びながら、小屋の門を押し破り、
妹を奪い取り、奪い取った妹にバッコスの秘儀の装いを
身に着けさせると、頭を木蔦の葉で隠し、
600 妹が驚いているのも構わず、その手を引いて城内に連れ帰った。
ピロメラは非道の(王の支配する)王宮に足を踏み入れたのを感じ取った途端、
可哀そうにも、恐れ戦き、顔面蒼白となった。
プロクネは人目につかぬところを見つけると、秘儀の印の装身具を取り去り、
哀れな妹の、恥を浮かべる顔の覆いを取ってやり
抱擁しようとした。しかし、自分の姉の恋仇と思うピロメラは
姉に向かって真面に目を上げかね、
顔を地面に向けて伏せたまま、自分は力ずくで辱めを受け、凌辱された、と
神々の名を証人に挙げ、神々に誓いたいという思いは切ながら、
言葉代わりになるのは手ぶり身ぶりしかなかった。プロクネのほうは怒りに燃え
P340 610 自分の怒りを抑えかねて、妹が涙を流すのを
窘めながら、言った、「事を処すのに涙は要りません。
必要なのは剣。いえ、剣に勝るものが何かあれば、それこそが必要なのです。
私はね、妹よ、どんな罪深いことでもやってのける覚悟ができてるの。
私はやってのけるわ。松明で王宮に火を点け、
張本人のテレウスを、燃え盛る炎の只中に投げ込んでやるか、それとも
あの男の舌や目を、あなたの純潔を奪った一物を刃で
抉り取ってやるか、それとも、罪深い命を、千の傷を与えて
奪ってやるか、ね。何であれ、とてつもなく恐ろしいことをする覚悟。それが
何になるかは、私にもわからない」。プロクネがそんなことを語っている間に、
620 イテュスが母の許にやって来た。何ができるか、その姿を目にして、
プロクネは閃き、厳しい眼差しで見詰めながら、言った、「ああ、何と、
お前は父親似だこと」と。それ以上は言葉をかけず、
陰惨な所業を企みながら、黙ったまま怒りを滾らせていた。
だが、わが子が近寄り、母に挨拶し、
可愛い腕で母の項に纏わりつき、
子供らしい甘えるような呟きを交えて母に口づけをするや、
P341 母親として、プロクネは心の動揺を覚え、怒りの激しさも挫かれて、
これではいけないと分かりつつ、我知らず溢れる涙で目を濡らした。
だが、わが子への余計な愛情で心がぐらついていると悟るや、
630 子供から目を離して、再び妹の顔に向き直り、
二人を代わる代わる見詰めながら、言った「どうしてこの子は甘い言葉を
囁き、妹のほうは、舌を奪われて、口が利けないの?この子が
『母さん』と呼ぶこの私を、どうしてあの妹は『姉さん』と呼べないの?
さあ、考えるの、パンディオンの娘の私、自分がどんな夫に嫁いだのかを。私は
わが血筋の名折れ、夫テレウスへの義理立ての情愛など罪なのだ」。そう言うと、
直ちに、イテュスを引きずっていった。その様は、ガンゲスの畔に棲む雌虎が
母鹿の乳を欲しがる小鹿を攫って、暗い森を引きずっていくかのよう。
高く聳える王宮の端の奥まった所までやって来ると、
両手を差し伸べ、既に自分の運命を見て取って、
640「母さん、母さん」と叫びながら、母の項に纏わりつこうとするわが子
イテュスの胸と脇腹の丁度間の辺りを、プロクネは、顔を背けようともせずに
剣で刺し貫いた。幼い子供を死に至らしめるには、その傷一つでも
十分だったであろう。だが、ピロメラが剣でその喉を切り裂いた。その後、
P342 二人は、まだ生があり、僅かな命を留めている幼子の身体をずたずたに
切り刻んだ。その一部は銅釜でぐつぐつ煮られ、
一部は串に刺されてじゅうじゅう焼かれた。奥の間は血の海となった。
何も知らない夫テレウスを、妻が招いた宴席のご馳走がこれであった。
プロクネは、それが代々伝わる仕来りの聖餐で、連なることが許されるのは
夫だけ、と偽って、供回りの者たちや召使たちを遠ざけた。
650 テレウスは自ら父祖伝来の王座に高々と腰を掛け、
出された馳走を食し、(いわば)己の腸を己の腹に詰め込んでいったのだ。
その暗愚の心の闇は余りにも深かった。彼は言った、「イテュスをここへ」と。
プロクネは残酷な喜びを押し隠すことができず、
早や、己自身の不幸でもある禍の使者になりたくて堪らず、言った。
「お求めの子は、あなたのなかにいるわ」と。テレウスは辺りを見回して、
「どこにいるのだ」と訊いた。子供を探し、再びその名を呼ぶテレウスの前に、
狂乱の殺害の血に塗れた髪の毛を振り乱したままの姿で、
ピロメラが躍り出し、血濡れたイテュスの頭を父親の顔めがけて
放り投げた。この時ほど切に、口が利けたら、と思ったことはなかった、
660 勝ち誇る喜びを表す、相応しい言葉を浴びせてやられたら、と。
P343 トラキアの王は激しく絶叫しながら卓をひっくり返し、蛇髪の
姉妹(復讐女神)たちに呼びかけて、ステュクス流れる谷から出で来たれ、と叫んだ。
テレウスは、できることなら、胸を切り裂き、そこから、悍ましい
馳走、喰らったわが子の肉を取り出したいと願うかと思えば、また、
泣き叫び、自分をわが子の哀れな墓場と呼びもする。やがて、
遂には、抜き身の剣を手に、パンディオンの娘たちの後を追った。逃げる
ケクロプスの末裔の娘たちの身体が翼で宙に浮かんでいるようであった。二人は
実際、(鳥となって)翼で宙に浮かんでいたのだ。一羽(夜鳴鶯ナイチンゲール)は森へ飛び去り、
もう一羽(燕)は家の軒下に入っていった。今でも、その胸からは殺人の跡が
670 消えておらず、羽根は血の印の色(前者は薄茶、後者は赤)に染まっている*六七〇。
テレウスのほうも、悲しみと復讐の怨念に駆られて激しく追跡している内に、
鳥に変身した。頭の上に冠様の羽が(広げると八本)あり、
手にしていた長い剣は変じて、長い嘴となった。
鳥の名は八ツ頭ヤツガシラと言う。その顔立ちは、さながら武装した戦士のようだ。(ヒュギーヌス『ギリシア神話集』相互参照)
娘を失ったこの悲しみは、長い老年の最後の時を縮め、
時ならずしてパンディオンを冥界の死者たちの許へと送った。その後、
王笏を握り、領地と国政を支配したのはエレクテウス*六七七で、その威勢が
P344 正義によるものか、武勇によるものか、いずれとも決しかねる傑物であった。
彼には四人の息子と、同じく四人の娘が生まれていたが、
680 四人の娘の内の二人の美しさは甲乙つけ難かった。アイオロスの孫
ケパロス*六八一は、その内の一人、プロクリス、汝を妻に迎えて幸せを
謳歌していた。だが、もう一人の娘オレイテュイアを愛したボレアスは、彼女に
懇願で迫り、力ではなく嘆願で思いを叶えようとしていた間は、テレウスや
トラキア人と同郷ということで、とばっちりを受け、長い間、割を食っていた。
しかし、甘言では事が何も進まないと悟ると、
ボアレスの常で、余りにも身に沁みついた憤怒で荒々しく言った、
「それも当然だ。どうして俺に相応しい武器を使わなかったのだ、
強暴さ、力、怒り、威嚇的な猛々しい気性だ。それを、
そんなものを使うのは俺の名折れの懇願などに頼ったりして。
690 力こそ俺に相応しい。その力で俺は陰鬱な黒雲を駆り立て、
その力で海原を波立たせ、節くれだった樫の木を根刮ぎにし、
雪を凍らせ、大地を霰で撃つのだ。
俺はまた、大空で兄弟の風たちと出会うと
---そこが俺の戦場だからだが---すさまじい力で格闘したために、
P345 衝突する俺たちの間に挟まれた大気は雷鳴を響かせ、
空ろな雲間から稲光が発せられて、た走るのだ。
更にまた、俺は大地の下の窪んだ洞穴に入り込み、その
洞穴の底深くにこの背を当て、荒々しく持ち上げて、
冥界の死霊たちや大地を遍く激しい振動で揺さぶりもするのだ。この
700 力の援けを借りてこそ、結婚を求めるべきだった。俺はエレクテウスを、
懇願によってではなく、力ずくで舅にしなければならなかったのだ」。
こういう言葉を、或いは、これに勝るとも劣らぬ激しい言葉を独り言ちると、
翼を羽搏かせた、その羽搏きで、
遍く大地が、吹きつける風に騒ぎ、広大な海原が激しく波立った。
ボレアスは、埃塗れの外套*七〇五を靡かせながら、山々の頂を掠め飛び
大地をさっとひと掃きすると、靄に身を包み、恐れで怯える
オレイテュイアを、愛おしみながら、黄金色の翼で抱擁した。
略奪者は、彼女を掻き抱いたまま空を飛び、翔けるほどに、愛の炎は煽られて、
益々激しく燃え上がったが、キコネス族縁の地(トラキア)の民の許、その都城に
710 着くまでは、天翔ける飛行の速度を緩めることはなかった。
その地で、アクテ(アッティカ古名)の乙女は、凍てつく風の王ボレアスの后となり、
P346 双子の兄弟を産んで、母親となった。この双子の兄弟は、
他の点では母親似であったが、唯一点、父親譲りの翼をもっていた。
尤も、その翼は生まれつき身体に生えていた訳ではなく、
金色の髪の下に、まだ髭が生えていなかった間、
少年の頃のカライスとゼテスには羽がなかった。
やがて、長ずるにつれ、頬に金色の髭が生え出すのと同時に、
羽毛が、鳥のように、二人の身体の両脇を覆っていったのだ。
かくして、少年期が青年期に譲ると、二人は
720 ミニュアスの後裔たちと共に、黄金色に輝く毛の金羊皮を求めて、未知の
海原を経巡りつつ、(人類)最初の遠洋船の航海の冒険に乗り出した。
第六巻訳注
六、九
P347七〇~九三
P349九三~一一一
P351一一二~一一七
P353一一三~一七四
P355一七四~四〇四
P357
四一〇 神々の宴に供されたペロプス(第四巻四五六行注参照)の肩は、行方不明になった娘プロセピナ(ペルセポネ)のせいで心痛のあまり、心ここにあらずケレス(デメテル)がうっかり食べてしまった。まったき身体を回復したペロプスは、成人するとピサの王オイノマオスの娘ヒッポダメイアに求婚するが、戦車競走で王に勝利すれば結婚を許すという条件をつけられ、それに応じる。
この時、王の御者ミュルティロスを莫大な報酬を約束して買収し、王の乗る戦車の車輪止めのピンが外れる細工をさせて勝利するが、約束した報酬を払わず、あまつさえ御者を海につき落として殺害した。
ミュルティロスは(一伝では、競走で転落死したオイノマオスが、とも言う)この時、ペロプスに呪いをかけ、この呪いがペロプスの一族にまとわりつき、一族はペロプスの子アトレウスとテュエステスの王権をめぐる凄惨な争い、王となったアトレウスの子アガメムノンの妻クリュタイムネストラの不倫と夫殺害、その子オレステスとエレクトラによる母親殺し復讐という、打ち続く悲劇に見舞われていくことになる。
ペロプスの男子の子には、アトレウス、テュエステスの他に、テセウスの祖父にあたるピッテウス、オイディプスの悲劇の因となったクリュシッポスなどがいる。
四一四 は「Pelopo-(ペロプスの)+nesos(島)」の意。ペロプスは、アトレウスの父、アガメムノンの祖父として、スパルタ台頭以前、広くペロポンネソス半島を支配したミュケナイ王家の祖。
四一五 ディアナの怒りを買ってカリュドンが苦しめられた大猪退治の物語は、第八巻ニ七〇以下で語られる。
四一八 ネプトゥヌス(ポセイドン)とニンフのテュローの子。ネストルの父。十二人の息子がいたが、ネストル以外は皆、ヘラクレスに殺されてしまう。第一二巻五五二行注、五五六行注参照。
四一八 ペロプスの子で、テセウスの祖父。ペロプスの子については、本巻四一〇行注参照。
四二三 アポッロドロス(三・一四・八参照)では、パンディオンは、国境をめぐってテバイのラブダコスと争いになった時、アレスの子のトラキア王テレウスの援助を請うて戦に勝利すると、娘のプロクネを嫁に与えたという。
オウィディウスの原文「海を運ばれてきた蛮族の軍勢」の意味は、それを伝える典拠が他になく不明。おそらくオウィディウスの創作か。アポッロドロスでは(ヒュギヌス四五参照もほぼ同様)、テレウスはプロクネとの結婚後、ピロメラに思いを寄せ、プロクネを山中に幽閉した上で、プロクネが死んだと偽って、ピロメラを後添いに求めてパンディオンに許され、結婚したという。
その後の経緯は、オウィディウスとほぼ同様、同じ素材ながら、アントニウス・リベラリス(一一)は、ボイオ(ス)の『鳥類の系譜』にある話として、かなり語形の異なる話を伝えている。
四三二 第五巻六六〇行注参照。
四二六 エリクトニオス(第二巻五五三行注参照)の子。妻ゼウクシッペとの間に双子のエレクテウスとプテスの二人の息子とプロクネとピロメラの二人の娘をもうけた。
四二八 ユノーは、婚姻を司る女神でもある。第三巻二六九行注参照。
四三〇 この名については、第一巻二四一行注参照。
P359五八七~七〇五
(下)
P133第一一巻P135/ 137/ 139/ 141/ 143/ 145
P147
(略)220
女神を妻にする僥倖に恵まれた人間は、彼一人しかいなかったからである*。
その事情はこうだ。海の老神プロテウス*はテティスにこう予言していた。
「海の神よ、身籠るのだ。汝は一人の若者の母となろうが、その若者は、
P148雄々しい功業で*父を凌ぐ功を遂げ、父よりも偉大な者と呼ばれよう」と。(相互参照)
それ故、この世界にユピテルよりも偉大なものが存在することのないよう、
ユピテルは、心中、決して淡くはない恋情を抱いてはいたものの、
海の女神テティスとの結婚を忌避して、アイアコスの子で、
自分の孫(ぺレウス)に、自分が望むテティスを、自分に代わって、
妻に迎え、海の女神の乙女と結ばれるよう命じたのだ。
(略)149/ 151/ 153/ 155/ 157/ 159/ 161/ 163/ 165/ 167/ 169/ 171/ 173/ 175/ 177/ 179
P181第一一巻訳注一
183七~九九
185一〇四~二二〇
二二〇 女神が人間の男と愛を交わした例は、ウェヌスとアンキセス、アウロラとティトノスなど多数あり、オウィディウスもそれに言及している(第九巻四二一以下など。また、ホメロス「オデュッセイア」五・一一八以下も参照)。しかし、ウェヌスにはウルカヌスという夫がおり(第四巻一七三参照)。アウロラにはアストライオスという夫がいる(第七巻七一八~七一九、七一九行注参照)。
ユピテルやネプトゥヌスが結婚を望んだものの断念し(理由は生れてくる子が父を凌ぐとされたため)、ペレウスと正式に結婚したテティスのみ、ペレウス以外に夫がいないということである。
ちなみに、ペレウスとテティスの結婚式にユピテルは争いの女神エリスだけは招待しなかったため、エリスは腹いせに「最も美しい女神に」と銘打った黄金の林檎を式場に投げ入れた。ユノー(ヘラ)、ウェヌス(アプロディテ)、アテナの三女神がこれを求めて争い、いわゆる「美の審判」の裁定がトロイアのパリスに委ねられて、絶世の美女(ヘレネ)を与えるという賄賂に負けたパリスがウェヌスに林檎を与えたことが、のちのトロイア戦争のそもそ
P187二二一~四一四
もの発端となったという(アポッロドロス『摘要』三・二、ヒュギヌス九二など)。
189四一八~七四八
191七五六~七九五
第一五巻(略)
P429(略)
P430(略)
激しさは、オレステスの持ち来ったディアナ*四八九の妨げとなるほど。
490ああ、幾度、森や湖のニンフたちが、嘆くのは
やめるようにと諭しし、慰めの言葉をかけたことか。
テセウスの子の英雄が、涙する彼女にこう語りかけたのも、幾度。
「やめなさい、限度を*四九三……嘆くべき悲運は貴女一人ののものではありません。
P431 他の人たちの、よく似た災厄も惟おもんみられるとよい。さすれば、その悲運も、
もっと穏やかに耐えられます。私も、自分の例を引いて、嘆く貴女の心を
和らげるような、辛い目に遭わねばよかったのですが。しかし、その私の例も、
貴女の慰めになるかもしれない。誰かの話で、ヒッポリュトス*四九七という者の
噂が、貴方の耳にも届いてはおりませんかな、父親の軽信と継母の罪深い
欺瞞で命を落としたという話です。驚かれる筈ですし、私にも
500証拠立てかねることながら、他ならぬこの私が、そのヒッポリュトス。かつて、
パしパエの娘*五〇一が、私の父の閨ねやを穢すよう私を誘惑して無駄に終わった時、
自分が望んだ不義を私が望んだと嘘をつき、罪を私になすりつけて
---暴かれるのを恐れてか、或いは、撥ねつけられて腹を立ててか---、
私が罪を犯したと言い立てたのです。父は、何の罪もない私を都から追放し、
都を後にする時、私に、憎々しげに、落命するようにと呪いをかけたのです。
私は、亡命の馬車を駆り、ピッテウス王縁のトロイゼンを目指し、
既にコリントスの海辺を辿っていました。その時のこと、
突然、海が膨れ上がり、弓なりにそそり立つ巨大な
波の盛り上がりが、山のように膨張し、何やら咆哮を発して、
510大波が天辺の所で真っ二つに裂けるのが目に入りました。
P432それから、波を割って、角のある雄牛が飛び出してきて、
立ち上がり、穏やかに吹く大気の中に胸辺りまで体を現すと、
鼻や、大きく開けた口から大量の海水を噴き出したのです。従者たちは
恐怖に襲われましたが、私は恐れもせず、取り乱しもしませんでした。
追放のことで頭が一杯だったからです。と、その時、気性荒い馬たちが
海のほうに顎を向けたかと思うと、耳を立て怯え、
怪物を恐れて恐慌を来し、高く険しい岩場を
馬車を引っ張りながら爆走していったのです。私は
吹く泡で白くなった馬勒を手で引き寄せようと苦闘しましたが、
520うまくいかず、後ろに反り返るようにして、しなやかな手綱を引っ張りました。
それにしても、馬たちの狂乱も私の力を凌駕することはなかったでしょう。
が、運悪く、回転する片方の車輪の真ん中、車軸に繋がる所が
切り株にぶつかって壊れ、車輪が粉々に砕けてしまったのです。
私は馬車から投げ出され、手足には手綱が絡まって外れず、
見るも無残な光景ながら、まだ動いている腑が引きずられ、
腱は切り株に引っかかり、体の一部は引き裂かれて前へ運ばれ、
一部は引っかかったまま後に取り残され、骨は鈍い音を立てて砕け、
P433 命は尽き果てて、私は息を引き取りました。身体には、それと分かる
部分は一つも残されていなかったのです。全身が一つの傷でした。さあ、
530私の災厄と貴女の災厄を比べてみることが、ニンフのあなた、貴方には
できますか、或いは、敢えて比べるてみようと思いますか。私はまた、光なき
王国もこの目で見ました。ずたずたの身体をプロげトンの水で癒しましたが、
アポロの御子(アクレピオス)の強力な霊薬がなければ、私の命も
蘇らなかったでしょう*五三四。が、幸いにも、医神の霊験あらたかな薬草と治療の
お陰で、ディス(黄泉の王)が憤る中、私は命を再び得たのです。その後、
そんな僥倖を賜った私を目の当たりにして、妬みを買うといけないと、
キュンティア(ディアナ)様が私に厚い雲を被せて下さった上に、
姿を見られても、再び禍を蒙ることなく、無事でいられるよう、
私に齢を加えて*五三九(老いさせ)、私と分かるような容貌を
540何一つ残さぬようにすると、私の住む所をクレタにするか、
デロスにするか、長い間、迷われた後、デロスもクレタもやめて、
私をこの地にお置きになり、同時に、馬を思い出させる名*五四二は捨てるよう
お命じになって、こう仰ったのです、『あなたはヒッポリュトスでしたが、
今からは、同じ人間のまま、ウィルビウスとになりなさい』と。
P434それ以来、私はこの森に住み、劣格の心霊の一柱として、女神ディアナの
神威の庇護の下、女神のお供を務めているという次第なのです」。
(ヒュギーヌス『ギリシア神話集』相互参照)
ヒッポリュトスは、そう声をかけたが、エゲリアの悲嘆は他人の災厄で
癒せるものではなかった。彼女は、山の麓に身を横たえて、涙に暮れる余り、
涙と化した。その夫思いの敬虔な心に、ポエブスの姉君(ディアナ)は
550心を動かされ、彼女の身体を冷たい泉*五五〇に変えてやり、
その四肢を、永久に尽きぬ細流せせらぎにしてやった。
新奇なこの出来事にニンフたちは驚き、アマゾンの子(ウィルビウス)も
同じように唖然とした。その驚きは、テュッレニア(⁼エルトリア)の農夫が
田の只中で、宿命の土塊を目にしたときの驚きと変らなかった。その土塊は、
初め誰も動かしてはいないのに、勝手に動き出し、
やがて土の形を失って、人間の姿形を取り、
真新しいその口で、来るべき定めを解き明かしたのだ。
土地の者たちは、その彼をタゲス*五五八と呼んだが、エトルリアの民に
未来の出来事を解き明かす術を教えた最初の人が、彼である。
560或いは、その驚きは、その昔、投げた槍がパラティウム(の丘)にささった時、
ロムルスが覚えた驚きにも擬えられようか。この時、ロムルスは、槍が
(略)第一五巻訳注
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