2020年3月17日火曜日

偏愛メモ 『名画で味わうギリシャ神話の世界』

第一部 ギリシャ神話の神々

1 ギリシャ神話とはP4/6
2 ギリシャ神話を育んだギリシャの歴史とギリシャ神話の典拠
関連→(参照

第1章 世界の始まりと神々の父子間の権力闘争

P81.1 ギリシャ神話における世界の始まり
世界の初めにカオスがありました。カオスとは混沌というよりは、本来は隙間という意味を持ち、万物が存在するための空間がまず存在していたということです。カオスより大地の女神ガイアが生まれ、次に大地の奥底のタルタロス、そして神々の中で最も美しく神々と人間の心を迷わし支配するキューピッド(エロス)が生まれました。

キューピッド(エロス)は男女の愛を促す強力な根源の力です。次にガイアは独力で天空神ウラノス、高い山々、海の神ポントスを生みました。カオスからは、夜や昼なども生まれています。こうして神々が活躍する舞台が生成されました(系図①参照)。

1.2 ウラノスと息子クロノスの権力闘争と麗しいヴィーナスの誕生
大地の女神ガイアは息子である天空神ウラノスと結婚し、十二柱のティタン神族という第一世代の神々を生み出しました。その末っ子が、悪賢さに長けたクロノスでした。次にガイアとウラノスの間に、三人のキュクロプスという一つ目の巨人、さらに百の腕のある恐ろしいい三人の巨人ヘカトンケイルが生まれました(系図③参照)。

今流行りの家庭内暴力の夫だったウラノスは、生まれた怪物のような巨人たちを嫌い、大地の奥に押し込めてしまいます。この仕打ちにガイアの怒りは爆発し、子供達に復讐を命じますが、乱暴者の父を恐れて皆しり込みをしてしまいます。

この時、末っ子のクロノスだけが、母ガイアを助けようと決心しました。夜にウラノスが情愛を求めてガイアのもとへやってきた時、クロノスは鎌でウラノスの男性生殖器を切り落として追い払いました。ウラノスの不死なる男性生殖器が海に落ち、その周りに海の白い泡(アプロス)が集まり、そこから生まれたのが愛と美の女神ヴィーナス(ギリシャ名アプロディテ)です(系図②参照)。
【もっと詳しく】ウラノスの滴った血から生まれたものは---ウラノスの血がガイア(大地)に染み込み、ギガス(巨人族)とエリニュス達(復讐の三女神)とが生まれている。のちにこのギガス達とオリュンポス神族のゼウス達は戦うことになる(系図②参照)。
ここでは、ルネッサンスの画家ボッティチェッリ(相互参照)の『ヴィーナスの誕生』を取り上げます。この作品は、まさに人間性を認め、人間の肉体を賛美するルネッサンスの開

P10 幕を告げる作品ですが、まずルネッサンスとは何か?またいかにルネッサンスで裸体画が復活したかをコラムで見てみましょう。
【もっと詳しく】ルネッサンスとは--ルネッサンスとは、古代ギリシャ・ローマというキリスト教以外の世界を知ることによって、禁欲的な中世を脱し、人間性の回復と合理的なものの見方を追求する文化運動であり、この古典に倣って人間性を認める思想を人文主義(ヒューマニズム)という。
【もっと詳しく】ルネッサンスにおける裸体画の復活---禁欲的な中世において、肉体の愛は堕落の根源と考えられ、裸体画はありえなかった。ところが古代ギリシャ・ローマに倣って人間性を認めるルネッサンスになると、人間の肉体が肯定的に捉えられるようになった。

繁栄する商人達の世俗的な文化であるルネッサンスの時代、古代を愛する人々によって裸体画の復活も望まれた。その裸体画復活を支えたのが古代ギリシャの哲学者プラトンの二人のヴィーナス理論だった。

彼は精神の愛を表す「天上のヴィーナス」と肉体の愛を表す「地上のヴィーナス」の二人のヴィーナスがいると「饗宴」(P60)でのべた。この愛の二元性を上手く表す例えを、メディチ家の学者フィッチーノは借用し、同じよう

P11に精神の愛(天上のヴィーナス)と肉体の愛(地上のヴィーナス)を表す二人のヴィーナスがいて、どちらも人間にとって重要なものとした。人間を現実的な肉体の愛から出発して、高尚な精神の愛に至れる存在と捉えたからである。

これは新プラトン主義と呼ばれ、キリスト教世界の中で、人間的な官能性を求めるための方便であった。この思想によってヴィーナスという口実があれば、裸体画が描かれるようになった。ただし西洋世界においては、常に精神の愛が、肉体の愛に優越するものとされた。
ルネッサンスの開幕を告げる天上のヴィーナス
名画1】ボッティチェッリ『ヴィーナス(ウェヌス)の誕生』
なんとギリシャ時代に、西洋の女性蔑視思想が生まれています。これは後で詳しくのべますが(159ページ【もっと詳しく】ギリシャ以来の女性蔑視思想--参照)、当時、男性は精神・

P12 知性を表し、女性は肉であり物質とされていました。この『ヴィーナスの誕生』のヴィーナスは、肉である母によらず、父であるウラノス神から直接生まれています。このためこのヴィーナスは男性の特徴である精神の愛を表す「天上のヴィーナス」であり、彼女が裸体なのは、無垢だからです。

これに対して後で取り上げるボッティチェッリ『春』のヴィーナス(P100参照)は、ゼウスとディオネ(ガイアとウラノスの娘)との間に生まれた「地上のヴィーナス」です(tw)。
(略)
14/ 16/ 18/ 20

第2章 主神ゼウスとオリュンポスの主な神々


P038 2.2 《ヘラ》ゼウスの愛人達に恐ろしい罰を企む神々の女王
【ポイント】ゼウスの姉にして正妻、結婚とお産の女神、アトリビュートは孔雀

P040
《ギリシア神話---ゼウスとヘラの結婚、二人の子供供達》
ゼウスとヘラに例えられたアンリ4世とマリー・ド・メディシス
【名画7】ルーベンス『マリー・ド・メディシスとアンリ4世のリヨンにおける対面』

P042
P044 浮気者ゼウスの企み
【名画8】ティントレット『銀河の起源』
ギリシア神話---天の川の起源》浮気者のゼウスは、人間の美女アルクメネに産ませたヘラクレスに(172ページ第2章第3節参照)、

眠っているヘラの乳を飲ませて不死にしようと企みました。赤ん坊の時から怪力だったヘラクレスが、ヘラの乳房を乱暴に吸ったせいで、ヘラの乳が飛び散り、きらめく天の川の星が生まれ、地上に落ちた乳は清純な百合の花となったといいます。

なおヘラクレスにヘラの乳を吸わせたのは、知恵と戦いの女神アテナあるいは、神々の使者ヘルメス神だったともいわれています。

この作品は、ティントレットの最も美しい神話画で、ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(59ページ名画11参照)のために制作された連作の一つといわれています。ここでは雲の上

P046 の豪華なベッドに眠るヘラが、怪力の乳児ヘラクレスにお乳を強く吸われ、その痛さに目覚めるシーンがドラマティックに描かれています。

神々の王ゼウスは、赤い衣をひるがえしスーパーマンのように宙を舞い、息子ヘラクレスにヘラの乳を吸わせています。このゼウスの見事な短縮法による躍動感ある描写が、ティントレットの得意技であり、この作品の見所の一つです。

ゼウスの下には、彼のシンボルの鷲がゼウスの武器である金色の雷電を足でつかんで羽を広げています。

一方マニエリスム(198ページ「主な美術史の流れ」参照)の影響で美しく身をよじって描かれるヘラの白い裸体は、絶妙な陰影によってその肉体の柔らかさが表現され、ヘラの向かって右側の乳房から、乳が星となって飛び散り、左側の乳房からは、百合の花となる白い乳が地上へ滴り落ちています。

画面右下には、神々の女王ヘラの象徴である二羽の孔雀が控えています。

画面では対角線上に人物達が配置されて動感があり、飛び回るプットー達が画面に活気を与えています。ロンドン、ナショナル・ギャラリーによると、プットー達(24ページ名画3参照)が持っている鎖、綱、弓、松明は、彼らのアトリビュートで、愛を捕まえるための道具といいます。

作者のヤコボ・ティントレット(1518-1594)の本名はヤコボ・ロブスティといいますが、父親が染物屋(ティントーレ)だったのでティントレットという通称で呼ばれていました。

P047彼はマニエリスム様式とヴェネツィア派(198ページ「主な美術史の流れ」参照)の自在なタッチ、豊かな色彩とを融合して独自の世界を作った画家です。ティントレットは宗教画で大変な人気があった画家で、彼の作品では、この作品のゼウスのような見事な短縮法によりさっそうと空を飛ぶ人物がよく描かれます。

2.3《ポセイドン》荒々しく好色な海の支配者
【ポイント】ゼウスの兄、アトリビュートは三叉の矛

2.11《ヴィーナス》恐ろしい誕生の逸話を持ち、恋人がいっぱいの愛と美の女神
P100 【ポイント】息子のキューピッドを伴う、バラは彼女のアトリビュート
ヴィーナスの誕生のおどろおどろしい神話に示されているように(9ページ参照)、実はヴィーナスはゼウスなどよりも古い神で、アスタルテなどのようにオリエント起源の豊饒の女神ともいわれています。ヴィーナスは愛欲、生殖を司り、彼女の聖木は結婚を象徴するミルテ(ギンバイカ)で、鳩もヴィーナスの使いです。

真面目な鍛冶の神ヘパイストスが夫ですが、恋愛が仕事の彼女は、美男でワイルドなアレスやヘルメスなど愛人がいっぱいです。
【もっと詳しく】愛欲のヴィーナスVS処女神達---ヴィーナスの発する愛欲の力は、圧倒的で神も人も狂わせたが、知恵との戦いの女神アテナ、月と狩りの女神アルテミス、かまどの女神ヘスティアだけは例外で、この三人の処女神には、ヴィーナスの神通力は通じなかった。
この11節では、謎に満ちたボッティチェッリの『春』、魅惑のポーズで横たわるティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』、

P101官能的なブロンズィーノの『愛のアレゴリー』、北方のクラナッハの『ヴィーナスに訴えるキューピッド』、美少年との愛を描くティツィアーノの『ヴィーナスとアドニス(ブルフィンチ完訳『ギリシャ・ローマ神話』上下合本版P494)』を見ていきます。最初のボッティチェッリの傑作『春』には、ある秘密が秘められていますから、楽しみにご覧lください。

謎に満ちた地上のヴィーナスの愛の園
名画20】ボッティチェッリ『春』
この作品はメディチ家のロレンツィオ豪華王の又従兄弟であるピエルフランチェスコ兄弟のフィレンツェ市内の豪邸に飾られていました。寝室の控えの間の長椅子の背もたれであったといいます。

この作品に込められた寓意に関しては謎が多く、いまだ完全に解明されていません。

P102 一般的には、注文者の1482年のピエルフランチェスコとセミラミデ・アッピアーニとの結婚を記念して描かれたといわれています。

画面には、愛の女神ヴィーナスを中心に、多くの神々、風の精、ニンフ達が登場していますが、それは特定の神話の物語を描いたものではなく、ヴィーナスを中心とする春の愛の園の豊饒が描かれているといいます。

園の中央で、少し奥まった場所に立つ女神は、現世の愛を表す「地上のヴィーナス」です。名画1『ヴィーナスの誕生』(11ページ参照)の無垢な裸体の「天上のヴィーナス」とは対照的に、物質的で地上的な要素の豪華な衣装をまとっているからです。

ここは「地上のヴィーナス」が支配する春の豊饒を表す愛の園で、足元には春の花々が咲き乱れています。面白いことに、画面の女性達が皆妊娠しているように描かれいるのは、春の豊饒の強調といえます。

ヴィーナスの右側の画面では、好色な西風ゼフュロスの愛と結婚の物語が描かれています。大地のニンフクロリスを追って、頬を膨らませたゼフュロスは、乱暴に園に侵入し、木がたわんでいます。

オウィディウスの詩によると、ゼフュロスは力ずくでクロリスを妻とし、その見返りとして、彼女を春の女神フローラに変身させたといいます(wiki参照)。これは春の到来と愛による変貌を表します。

ここでボッティチェッリは、クロリスからフローラへの変身を繊細に表現しています。クロリスの口から溢れ出る花々は、

P103フローラの衣装の模様として取り込まれ、二人の連続性を表し、さらにクロリスの右手の中指と左手の親指には、フローラの花の衣装が透けていて、二人が混じりあっているところが示されています。

ヴィーナスの左側でも、愛の変貌が繰り返されます。そこで優美に踊っているのは、ヴィーナスの侍女の優美三美神で、彼女達は、ヴィーナスの属性である愛欲・純潔・美を表します。

一番左側が華やかな愛欲、真ん中で横顔を見せているのが真面目な純潔、右側が愛欲と純潔の統一として現れる美です。愛欲と触れ合う純潔の左肩がはだけていることに、ご注目ください。

ここに愛への誘いが示され、純潔は愛欲の導きによって、美へと変貌します。また上空では、目隠しをした愛欲を表す盲目のキューピッドが、純潔を狙っています。まだ愛を知らない純潔の目覚めが、ここにも表されています。

ヴィーナスの左右にはこのように愛による変身が描かれ、愛の賛歌が歌われています。

翼のある帽子にサンダルをはいている左側のハンサムな青年は、神々の使者にして、商売と泥棒の神でもあるヘルメス神です。彼は杖でヴィーナスの園に入ってくる黒雲を払い、冬の終わりを告げています。

最後に、この作品には、驚くべき秘密が隠されています。ヴィーナスの背後のアーチは、何の形に見えますか?これは人間の肺の形です。これにより、ボッティチェッリ

P104 が、人体の構造を知るために解剖していたことがわかります。この肺ですが、アダムが神の息から創造されたように、聖なる息から生み出される春の生命力を表しています。
【もっと詳しく】絵画によく描かれる優美三美神--ゼウスと麗しい海の女神エウリュノメの娘たちが、優美三美神(カリス達)である(205ページ、主なゼウスの妻、愛人達一覧参照)。

エウリュノメは河の神オケアノスの娘でゼウスの従姉妹にあたる。カリスという名は、優雅・恩恵・を意味する。ヴィーナスの侍女として現れる時は、三人でヴィーナスの属性である愛欲・純潔・美を表す。

絵画で描かれる優美三美神には、二つの基本的ポーズがある。まずボッティチェッリの『春』のように、三美神が手をつなぎあう場合がある。カリス達は、カリス(恩恵)を与え、受け取り、礼を返すという三つの行為を優美に手によって行うので、三姉妹は手をつなぎ合う。

次に一人が後ろ向きで二人が前向きのポーズもある。これは、一つの恩恵に対して倍の報いがあるということを示している。
官能的に横たわるヴィーナス
【名画21ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス(ウェヌス)』
(略)
P106/ 108/ 110/ 112/ 114/ 116/ 118/

2.12《ヘパイストス》見栄えは悪いがヴィーナスの夫、火と鍛冶の神
P120/ 122/ 124/ 126

第2部 神々を取り巻くものたち

第1章 神々とニンフ、星座、人間
1.4 《プロメテウスと人間、パンドラの誕生》プロメテウスと人間に下された罰(ブルフィンチ『ギリシャ・ローマ神話』相互参照)
P156 ギリシア神話での人類の起源については、統一した説はありません。ギリシア神話は本来、口伝えの伝承ですから、様々な説が並んでいます。神々は原初の大地であるガイアが生み出しました。

そこで古い伝統的な説としては、人類も大地から自然に生まれたとされました。それ以外にも蟻から人間となったり、トリネコから生まれたりと色んな説があります。ある伝承によれば、プロメテウスが土と水で人間を作ったとも伝えられています。

《ギリシア神話---プロメテウスと人間》プロメテウスは、ゼウスの王とするオリュンポス神族より一世代前のティタン神族のイアペトスの息子です。イアペトスには四人の息子がいましたが、

P157主な息子は、アトラス、プロメテウス、エピメテウスです。剛勇のアトラスは、オリュンポス神族とティタン神族との世代交代の戦い(16ページ第3節参照)の際、あまりに大活躍したので、オリュンポス神族の勝利ののちに、罰として西の果てで天空を担う役目を負わされました。先見の明に優れたプロメテウスは、オリュンポス神族の勝利を予見し、ゼウス側に立って生き抜いた知恵者でした。しかし自分達の一族を滅ぼしたゼウスに含むところがありました(系図③参照)。

人間の生みの親でもあるとされ、人間の味方のプロメテウスは、ゼウスが人間から取り上げた火を密かに天界から盗んで人間に与えました。これを知ったゼウスは烈火のごとく怒り、反抗の神プロメテウスに残忍な罰を与えました。

彼はコーカサスの岩山に鎖で繋がれ、毎日鷲に肝臓を食べられることになりました。神であるプロメテウスの肝臓は毎日再生し、英雄ヘラクレスによって助けられるまで、この苦痛は続きました(プロメテウスはゼウスとある取引をして、ヘラクレスが使わされたのでした。(ヒュギーヌス『ギリシア神話集』相互参照)。

《ギリシア神話---諸悪の根源パンドラ》 さらにゼウスは火を手に入れた人間に、恐ろしい災いをもたらすものを贈ることにしました。ゼウスは諸悪の根源として、最初の人間の女性パンドラを作るように神々に命じたのです。

この時、人間の世界は、男ばかりでした。鍛冶の神ヘパイストス(参照)が土と水で美女を作り上げ、そこに泥棒の神でもあるヘルメスが不実と嘘を吹き込み、知恵と工芸の女神アテナは彼女に美しい衣装

P158 で飾りました。

ゼウスはパンドラに壺を持たせてエピメテウスのもとに送り込みました。プロメテウスの弟エピメテウスは、後で考える男という意味の名前の通り、後で考えるあさはかな男でした。先に考える男という名を持つ兄プロメテウスに、ゼウスから贈り物はもらってはいけないと忠告されていましたが、パンドラの美しさに惑わされ、妻に迎えてしまいました。

そしてパンドラは禁じられていた壺の蓋を好奇心によって開けてしまい、世界中に災いを撒き散らしたのです。

この節では、パンドラとエヴァを重ねた妖しい悪女を描くジャン・クーザンの『エヴァ・プリマ・パンドラ』を取り上げます。
【もっと詳しく】パンドラの壺---パンドラが壺の蓋を開けたため、その中のアラユル厄災が人間界に飛び出した。パンドラはあわてて壺を閉じたが遅かった。しかし壺の中に一つ希望だけが残り、人間は希望だけは持つことが出来ることになった。

これが一般に知られているパンドラの壺の物語だが、ホメロスによると、壺は二つあったという。それは善の壺と悪の壺で、上にある赤い壺は善の壺である。
P159【もっと詳しく】ギリシア以来の女性蔑視思想---パンドラに関する著作でも知られている美術史家パノフスキーによると、パンドラとは、実は母権制の時代(相互参照)における大地女神の添え名の一つで、パンドラの名は、本来はすべてを贈る女という意味だったという。

ところがギリシアでは、女性は諸悪の根源であり、男性より劣った存在とみなされた。アリストテレスは出来損ないの男性が女性と述べている。キリスト教もこの思想を受け継ぎ、旧約聖書において、エヴァは、悪魔の誘惑に負けて、神が禁じた果実を食べて人間の堕落の元となった地上最初の女性となる。

西洋文明では、このギリシア由来の女性蔑視思想が根底を流れている。そこでは女性は滅びる肉であり、自然であり、動物的で淫乱であるとされ、一方豊かな産みの力を持たない男性は知性、精神であり、文明(都市)を表すものとされた。

P160 妖しき悪女エヴァは、パンドラである
【名画33】ジャン・クーザン(父)『エヴァ・プリマ・パンドラ』
この作品では、暗い洞窟に白い優雅な裸身をさらして横たわる妖しい美女が描かれています。ギリシア風の横顔を見せる彼女に、作者のジャン・クーザンは、旧約聖書のエヴァとギリシア神話のパンドラという二人の悪女を融合させて描きました。

前述のように、二人は共に人類を災いをもたらした最初の人間の女性です。名の「エヴァ・プリマ・パンドラ」とは、エヴァは、パンドラでもあるという意味です。これは画面左上の飾り枠の中に記されています。

当時は、イタリアからやってきたマニエリスムの画家達を通して、フランスにルネッサンス文化が伝わった時代です。この作品は、題名に表れているように古代ギリシア・ローマとキリスト教を融合したルネッサンスらしい作品といえ、またフランスで初めての裸体画でもありました。

エヴァ・パンドラは、死の象徴であるどくろにもたれた右手で、

P161原罪の象徴である林檎の枝を持っています。これは、エヴァが禁断の果実を食べたために、人間は死ぬ運命となったことを表しています。また悪魔の象徴の蛇が絡みついた彼女の左手は、既に蓋が開けられた白い壺に置かれていて、これにより彼女は壺を開けて災いを撒き散らしたギリシア神話のパンドラでもあることがわかります。

作者のジャン・クーザンは、フランス王フランソワ1世とその息子アンリ2世の時代のフォンティーヌブロー派(77ページ名画15参照)の画家です。先に触れたようにフォンティーヌブロー派は、イタリア・アニエリスムのフランス版といえるもので、引き伸ばされたプロポーションと宮廷風に洗練された冷たい官能性が特徴です。エヴァ・パンドラの横たわる官能的な引き伸ばされたポーズには、コノマニエリスムの影響があります。

ここでエヴァ・パンドラが横たわる近景の洞窟は、女性の生殖器を意味し、女性・自然を表しています。一方、背景の対岸には、尖塔が目立つ都市に見えますが、尖塔は男性生殖器を意味し、女性・自然に対置される男性・文明(都市)を示しています。

これらの対比によって、ジャン・クーザンは、ギリシア以来の女性蔑視思想に基づく、諸悪の根源であり滅びる肉である女性と、知性であり文明である男性との違いを浮き彫りにしています。



第2章 英雄、怪物、トロイア戦争
2.1 ペルセウス(tw)
【ポイント】ゼウスとアルゴス王女ダナエとの息子、ヘルメス神から借りた翼の付いたサンダルを履き、メドゥサの首を持つ
P164 英雄ペルセウスによる怪物メドゥサ退治の物語は、最古のギリシャ神話の一つです。娘ダナエ(28ページ名画4参照)の産んだ子によって殺されるという信託を受けたアルゴス王アクリシオスは、神々の王ゼウスと娘ダナエとの間に生まれたペルセウスを、ダナエと共に箱舟に入れて海に流しました。(アポロドーロス『ギリシア神話』相互参照

二人はセリポス島に流れ着き、親切な猟師に助けられ、安住の地を見出しました。その猟師の兄で悪人の島の王は、美貌のダナエに惹かれ妻にと望みましたが、立派に成長したペルセウスが邪魔でした。

P165狡い王は計略を用い、見ると石になってしまう恐ろしい怪物メドゥサの首をペルセウスに取りに行かせ、ダナエを我が物にしようとしました。王の企みに引っ掛かり、メドゥサの首を取ると言ったものの、途方に暮れたペルセウスでしたが、英雄の味方の女神アテナと神々の使者ヘルメス神の助けを得て、見事にメドゥサの首を討ち取ります。

英雄ペルセウスが絵画で登場する時には、ヘルメス神から借りた翼のあるサンダルを履き、メドゥサの首を持って、よく天馬ペガサスと共に現れます。

ここでは、ペルセウスが首を取る怪物メドゥサを描いたカラヴァッジョの傑作を取り上げます。

生々しいメドゥサの首
名画34】カラヴァッジョ『メドゥサ』
怪物メドゥサとは、邪眼によって見るものを石に変える恐ろしい怪物ゴルゴン三姉妹の一人です。髪の毛が蛇で、牙を持ち、黄金の翼を持つ醜いゴルゴン達のうち、メドゥサだけが不死ではありませんでした。
【もっと詳しく】怪物メドゥサと天馬ペガサス--メドゥサは、ギリシャ先住民の豊饒の大地女神といわれ、先住民の神話ではポセイドンの妻とされていた。

P166 ギリシャ人は、恐ろしい邪眼を持つメドゥサの首を、大きな力を持つ魔除けとして、盾や神殿の装飾としていた。メドゥサは、元は極めて髪の麗しい美女だったが、ポセイドンに寵愛されアテナ女神の神殿で交わったために、罰としてアテナ(参照)に髪が蛇の怪物に変えられたという。(オウィディウス『変身物語』相互参照

この時身ごもったポセイドンの子の一人が天馬ペガサスが誕生している。ペガサスは、西洋絵画では名声の象徴として描かれる。
この作品は、中央が15センチほど突出した凸面に描かれていたので保存状態が悪く、しばらく修復されていました。これまで革製の小盾に描かれたとされていましたが、ウフィツィ美術館の近年の調査によると、布を張った板に、パトロンのデル・モンテ枢機卿のために描かれたことがわかりました。

この恐ろしい作品をデル・モンテ枢機卿は大変気に入っていて、1598年にメディチ家のフェルナンド1世に結婚祝いとして贈ったといいます。ギリシャ人と同じように装飾的な魔除けとしての贈り物だったと思われます。

P167このカラヴァッジョの作品では、明暗のコントラストによって、凸面の画面からメドゥサの首が突き出て見えます。とぐろを巻く頭髪の蛇、見開かれた目、開いた口、首から滴り落ちる血など、メドゥサが非常に生々しく描かれ迫ってくるようです。

ところでこの作品はのメドゥサの目は、飛び出して見えます。アメリカの美術史家バーナード・ベレンソンによると、このメドゥサの頭部は、彼が見たギロチンにかけられた瞬間の頭部の写真によく似ているといいます。

当時ローマでは毎日のように公開処刑が行われていて、画家は公開処刑を見て描いたと考えられています。このようにカラヴァッジョは、この作品を始めとして、多くの斬首された首を描いています。なぜ画家は、斬首された首に魅せられたのでしょうか?

カラヴァッジョの時代の寓意集チェーザレ・リーバの「イコノロギア」によると、頭部は魂や理性の住処と考えられていました。メドゥサの斬首は、魂が人間の欲望から解放される寓意と思われます。

この絵を描いた後にカラヴァッジョはローマで殺人を犯します。またすでにミラノの修行時代でも、何らかの事件を起こしていたといわれています。つまり画家は斬首を描いて、魂の苦悩から解放されようとしていたのかもしれません。

この作品は髭をそり落としたカラヴァッジョ自身の顔をモデルに描かれたともいわれています。

P168
【もっと詳しく】ペルセウスのメドゥサ退治の冒険--メドゥサ退治の道具を誰から借りたかについては諸説あるが、一般に、ペルセウスはアテナ女神からは鏡のような盾とメドゥサの首を入れる袋を、ヘルメス神からは空を飛べる翼のあるサンダルと鎌を、冥府の神ハデスからは、被ると姿が見えなくなる帽子を借りたという。

ペルセウスは、アテナの助言によって、メドゥサの住処を知るために、メドゥサの姉妹であるグライアイという老婆の三姉妹をまず訪ねた。メドゥサの姉妹である彼女達は、一つの目と一つの歯しか持っておらず、交代で使っていた。

その一つの目をペルセウスは取り上げ、それと引き換えにメドゥサの居場所を聞きだすことに成功した。メドゥサの住む西方の世界の果てに着いたペルセウスは、アテナの盾にメドゥサを映しながら、メドゥサを見ずに彼女の首を討ち取り、姿の見えなくなる帽子を被って、迫ってくるメドゥサの姉妹達の追求を逃れた。
無事にメドゥサの首を討ち取った英雄ペルセウスの帰国の途中の武勇伝が、次の作品に描かれるアンドロメダを救う物語です。

アンドロメダを救う英雄ペルセウス
P169【名画35】ルーベンス『アンドロメダ』
《ギリシャ神話--《ペルセウスとアンドロメダ》》ペルセウスは帰郷の道中に、海の怪物の生贄にされようとしているエチオピアの王女アンドロメダと出会います。アンドロメダの母カシオペアが自分の方が海の精ネレイス達より美しいと自慢したため、海神ポセイドンの怒りをかい、海の怪物が人々を襲いました。

信託によって災いを収めるために、王女アンドロメダが海の怪物の生贄に捧げられていました。アンドロメダの美しさに心を動かされたペルセウスは、アンドロメダの両親から彼女を妻とすることの約束を取り付けた後、海の怪物と激しく戦い勝利しました。

もしアンドロメダが美女ではなかったら、ペルセウスは通り過ぎたのでしょうか?英雄も現金なものかもしれません。こうしてペルセウスはアンドロメダを伴いセリポス島に帰り、メドゥサの首によって悪い島の王一味を

P170 石にして復讐を遂げ、母ダナエを救いました。メドゥサの首は、援助してくれた女神アテナにお礼として捧げています。これ以降アテナは、メドゥサの首を鎧の胸か盾に、ワッペンのように付けることになります。

この作品では、鎖につながれた王女アンドロメダは、迫る怪物の恐ろしさに涙を流しています。そこに愛の使者キューピッドが現われ、アンドロメダに英雄ペルセウスが救いに来ることを告げています。

ここで愛の炎を表す燃える松明を手にするキューピッドの登場は、ペルセウスとアンドロメダが結ばれることを暗示し、背景左側には、海の怪物と対峙する天馬ペガサスに乗るペルセウスが小さく見えています。

この作品では、ルーベンスお得意の豊満な裸体のアンドロメダが大きく捉えられていますが、彼女の豊かで美しい白い裸体こそが、画家の描きたかったものです。画面右下隅のアンドロメダの豪華な赤い衣装は、アンドロメダの白い裸体を引き立てる役目を果たしています。
(略)
2.2 ヘラクレス
P172 ゼウスとミュケナイ王女アルクメネとの間に生まれたのが、ギリシャ最大の英雄ヘラクレスです。ゼウスは美女アルクメネに目を付けていましたが、貞淑なアルクメネに付け入る隙がありません。そこでゼウスはアルクメネの従兄弟で夫のアンピトリュオンに化けて、戦場から一足早く彼女のもとに帰りつき、思いを遂げました(アポロドーロス『ギリシア神話』相互参照)。

P173こうして生まれたヘラクレスは、剛勇無双ですが短気で、すぐかっとなり女好きという人間臭い英雄でもあり、古代ギリシャでは絶大な人気を誇っていました。

名画36では髭の無い青年として現れていますが、絵画において、ヘラクレスは一般には髭を生やした逞しい壮年の男性として描かれ、棍棒を持ち、倒したネメアのライオンの皮のマントをはおっています。

ヘラクレスの嫉妬深いゼウスの正妻ヘラによって最も苦しめられた受難の英雄です。成人後、ヘラのせいで狂気に陥り、自分の子供たちを殺してしまいます。罪を償うために、卑怯者の従兄弟アルゴス王エウリュステウスのもとで、ネメアのライオン退治や怪物ヒュドラ退治など困難な十二功業を成し遂げることになります。

この節では、十二功業以外のテーマですが、よく知られているテーマ『分かれ道のヘラクレス』と劇画的な『ヘラクレスとオンファレ』を取り上げます。

栄光と快楽の選択
名画36カラッチ『分かれ道のヘラクレス』
この作品は、ローマのオドアルド・ファルネーゼ枢機卿の書斎を飾ったヘラクレスをテーマとする天井画の一部です。ここでのテーマは、本来のギリシャ神話ではなく、古代ギリシャの作家プロディコスの寓話「分かれ道のヘラクレス」から取られています。

P174 これは美徳と悪徳の間で悩むヘラクレスの魂の葛藤というもので、キリスト教道徳となじむものとしてルネッサンスやバロックの時代のテーマとして好まれていました。

明快な左右対称の構図の真ん中で、棍棒を持つ逞しい青年ヘラクレスは、二人の美女に誘われ迷っています。ヘラクレスの右側(私たちからは左側)の美女が美徳で、ヘラクレスの左側(私たちからは右側)の美女は悪徳です。

西洋絵画において、右側は正しく、左側は悪ということは重要です。この作品でもその法則に則っています。

ヘラクレスの右側の美徳は、剣を持ち、簡素な衣装を身に着けていますが、その衣装の色は、聖母の衣装と同じく慈愛の赤と天の真実を示す青となっています。美徳を指す道は岩だらけで険しいものですが、岩山の頂上には名声を表す天馬ペガサスが待っています。

P175英雄の左側の悪徳は、肌も露わな透ける衣装を着け、髪は娼婦のように華やかに結っています。悪徳の美女の誘う道は、安逸と快楽に満ちた道ですが、はかないものです。悪徳の傍らには、愛の象徴である楽器や楽譜が置かれ、トランプの札は怠惰な生活を表します。また若者と老人の仮面は、人を欺く偽りの官能の愛を意味しています。
【もっと詳しく】美徳の世界と悪徳の世界--美徳の傍らに横たわる月桂樹の冠を被る詩人は、書物を開いて、もしヘラクレスが美徳の道を選べば、それが永遠に記憶されることを約束している。一方悪徳の側は、花が咲き、酒を暗示するブドウが実り、逸楽の深い森が広がっている。
この作品の二人の美女達には、ラファエロの古典主義の影響がありますが、そのやや逞しい肉体には、ミケランジェロの影響も見られます。またヘラクレスの姿はファルネーゼ宮殿の古代彫刻が源泉といわれ、さらにミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の青年裸体像の逞しい裸体がヒントを与えたともいわれています。

ヘラクレスは一瞬、悪徳の美女が誘う快楽の道に惹かれますが、すぐに決然と思い直して苦難と栄光の道を歩むことになります。それはヘラクレスの上にあるシュロの木が暗示しています。シュロは戦勝や名声を表すからです。

P176 作者のアンニーバレ・カラッチとカラッチ一族は、同時期のカラヴァッジョと共に、バロックの開祖です。カラッチ一族とカラヴァッジョは、人工的なマニエリスムの芸術を脱し、より自然で現実的な絵画表現を目指した点は同じですが、その表現は違いました。

カラヴァッジョは、神も聖人も庶民のように描くという大衆路線でしたが、カラッチ一族は、盛期ルネッサンスの古典主義を踏襲する、わかりやすく優美な理想美によるお上品路線といえます。

カラッチ一族は、現実の自然観察を基としながらも、ラファエロやミケランジェロ、ヴェネツィア派のティツィアーノなどルネッサンスの巨匠達の様式を折衷して、明るく色彩豊かで動感のある新しいバロックの絵画を切り開きました。

アンニーバレ・カラッチは、のちに同じファルネーゼ宮殿のギャラリーの天井に、彼の代表作といえるギリシャ神話の神々の愛をテーマとするフレスコ画を全身全霊で取り組んで完成させました。

それはヴァティカン宮殿のルネッサンス時代のミケランジェロやラファエロのフレスコ画と比肩しうるものとして、絶賛され、大きな影響を他の芸術家たちに与えた作品でした。アンニーバレの命を削るように精力を注いだこの傑作に対して、オドアルド・フェルネーゼ枢機卿の払った報酬は、唖然とするほど少なかったといいます。

P177アンニーバレの長年の大いなる努力に対するオドアルドの酷い冷遇は、画家の重いうつ病の原因となり、それによってアンニーバレは早く亡くなったといわれています。オドアルドは、残念ながら芸術の価値がわからなかったのかもしれません。
【もっと詳しく】再評価されたボローニャ派--カラッチ一族とは、最も才能あるアンニーバレ・カラッチとその兄アゴスティーノと従兄弟のルドヴィコの三人。彼らは1580年代にボローニャで画塾であるアカデミーを開設し、グイド・レーニやドメニキーノなど多くの優れた画家を育てた。

カラッチ一族と弟子達をボローニャ派と呼ぶ。ルネッサンスの巨匠の様式を折衷するボローニャ派の折衷主義は、個性を重視する19世紀になると、激しく非難され、評価は大きく失墜したが、20世紀に入ると再評価されている。
男の中の男、ヘラクレスの女装
名画37クラナッハ『ヘラクレスとオンファレ』(tw)
この作品のギリシャ神話--ヘラクレスとオンファレ》十二功業を苦難の末に成し遂げた後、ヘラクレスは執念深い女神ヘラのせいで、二度目の狂気に襲われてしまい、友人を殺してしまいます。

P178 その罪の穢れを清めるために、ヘラクレスはデルフォイの神託によってリュデアの女王オンファレに三年間仕えることになりました(相互参照)。

オンファレとヘラクレスの間には愛が芽生え、息子まで生まれています。この物語はギリシャ末期の時代になると、剛勇無双の英雄ヘラクレスが、オンファレとの愛欲に溺れ骨抜きになり、女装して糸紡ぎを手伝い、女王は男装してライオンの毛皮をまとい棍棒持つというように、面白おかしく語られるようになりました。

このテーマは、ルネッサンスからバロックの時代に、官能的な作品を好む宮廷人のために、ヘラクレスと女王の享楽的な生活として描かれます。

この作品では、英雄ヘラクレスは、女王オンファレと宮廷の美女たちに囲まれ、女装するという劇画的な演出となっています。ヘラクレスは女性の頭巾を被り、

P179ブラウスの上にはネックレスを掛け、うっとりとしているかのように描かれています。彼の右側で糸紡ぎ棒を持つ魅力的な女性が女王オンファレです。

画面では対角線に沿って、ヘラクレスと着飾った女性達が配置され、左上の空間には、ウズラが意味ありげに吊るされているのが目につきます。女性達は、当時の宮廷の最新流行の服と装身具を身に着けて華麗に登場しています。当時の宮廷の様子が窺われて興味深いことです。

15世紀から16世紀にかけてのドイツルネッサンスでは、この「ヘラクレスとオンファレ」や洗礼者聖ヨハネの首を持つ「サロメ」、敵将ホロフェルネスを油断させ首をはねた「ユディト」など、「女の力」を表す作品がよく描かれました。

この「女の力」のテーマとは、女性の魅力に溺れた男が、破滅に陥るという物語でした。そこには「女には気を付けよ」という教訓が込められています。この教訓は、まず画面の中央上部にラテン語の詩で示されています。

ところで、左側に吊るされている「山ウズラ」は肉欲を象徴しています。この山ウズラにも、「女には気を付けよ、身を滅ぼす」という教訓が示されていて、これはのちのヘラクレスの運命も暗示することになります。

この作品では、画面右側の美女が、我々に視線を送っています。彼女の視線は我々をこの画面に誘い込む役目を果たすだけでなく、我々をも誘惑しています。

P180
【もっと詳しく】ヘラクレスの最期--半人半馬の怪物ケンタウロスのネッソスは、ヘラクレスの妻ディアネイラを犯そうとしてヘラクレスに毒の付いた矢で殺されました。その毒とは、ヘラクレスの十二功業のうちの二番目の水蛇ヒュドラの猛毒だった。ネッソスは、死の間際にディアネイラに自分の血を取っておくと、惚れ薬となると言い残した(相互参照)。

のちにディアネイラは、ヘラクレスが美女のイオラに求愛していることを知り、服にネッソスの血を付けて夫に贈った。その服を身に着けたヘラクレスはヒュドラの猛毒のせいで悶絶し、死を悟り火葬壇を作り横たわった。

このことを知ったディアネイラは、自ら首をくくった。一方ヘラクレスは、人間の母からもらった肉体は燃え尽きたが、神である父から受けた不死の魂はゼウスの雷鳴と共に天に昇り、ゼウスのとりなしで、ゼウスの正妻ヘラとも仲直りして、オリュンポスの一員として迎えられた。


P184
P185
2.4 トロイア戦争
トロイア戦争の発端となったのが、女神達の美人コンテストです。この結果トロイアの王子パリスが、スパルタ王妃ヘレネを略奪することになり、トロイアとギリシャ

P186 の戦争が始まります。神々も両陣営に分かれ、この戦争は十年にも及びました。トロイアの勇士ヘクトルやギリシャ一の勇士アキレウスなども戦死し、ギリシャ側の策略であるトロイアの木馬がトロイア城内に引き込まれ、トロイアは陥落します。

しかし、ギリシャの総大将アガメムノンは、帰国後に悲劇的な最後を遂げ、ギリシャの知将オデュッセウスは、故郷に帰るのに十年もの冒険の旅が必要でした。この戦争における神々や人間の様々な悲劇や愛の物語の中から、絵画によく描かれる神話画の『パリスの審判』と『ヘレネの掠奪』をこの節では取り上げます。

女神達の美人コンテスト
【名画39】ルーベンス『パリスの審判』(参照)
《ギリシャ神話--パリスの審判》美しい海の女神テティスと人間の英雄ぺレウスの結婚式に、不和の女神エリスだけは招かれませんでした。これに怒った彼女は、神々と人間の華やか宴の最中に「一番美しい女神へ」と書かれた黄金の林檎を投げ込みました。

これに対して、三人の女神が「その林檎は私のものよ!」と名乗り出ました。それは神々の女王ヘラ、愛と美の女神ヴィーナス、知恵と戦いの女神アテナでした。「自分が一番美人」と女神達が自惚れている所が、神々が人間臭いギリシャ神話らしいところといえます。

P187神々の王ゼウスは、審判を人間で一番美しいトロイアの王子パリスに委ねました。パリスが生まれ落ちた時、母へカベは「燃える木を産んでトロイアが焼け落ちる」という不吉な夢を見ました。

これによって彼はイデー山に捨てられ、羊飼いとなっていました。そこへ神々の使者ヘルメス神が、三人の女神達を連れてやってきて、パリスは女神たちの美人コンテストの審判を務めることになったのです。

2世紀の詩人ルキアノスの「神々の対話」によると、パリスが女神達の裸体を見て決めたいというので、女神達は皆、服を脱ぐことになりました。

この時、女神達はパリスに賄賂を使いました。ヘラは権力を、アテナは戦いでの勝利を、ヴィーナスは世界一の美女のヘレネを彼に与えることを約束しました。パリスは世界一の美女を望み、ヴィーナスが黄金の林檎を得たのです。

P188 パリスは、ヴィーナスの助力によって、スパルタの王妃ヘレネを奪ったため、ギリシャとトロイアの戦争が始まり、トロイアは母の夢の通りに滅びることになります。パリスに黄金の林檎をもらい勝者となったヴィーナスは、この戦争でトロイアの味方に、ヴィーナスに負けたヘラとアテナは、ギリシャ側の味方となりました。
【もっと詳しく】人間の英雄ぺレウスと海の女神テティスの結婚--古い海の神ネレウスの娘達をネレイス達と呼ぶが、その中の一人、美しい海の女神テティスを、神々の王ゼウスと海の神ポセイドンが争っていた。

しかしテティスは、父より優れた息子を産む定めであることを、先見の明に優れたプロメテウスの助言によってゼウスは知り、ゼウスはテティスを諦め、自らの権力を保持するためにテティスを人間の英雄ぺレウスと結婚させることにした。二人の間の息子が英雄アキレウスである。
この作品では、画面左側前景に美を競う三人の女神達が、豊満な裸体を見せて並んでいます。画面右奥の木下には、羊飼いのパリスが座り、後ろにはヘルメス神がパリスの審判を見守っています。

この作品の登場人物達は、それぞれのアトリビュートを伴っていますから、容易にどの神かがわかります。

P189一番左端の知恵と戦いの女神アテナは、傍らの枝に止まるフクロウを従え怪物メドゥサの首が付いた盾、槍、兜を側に置いています。中央に横顔を見せて立つのは愛と美の女神ヴィーナスで、髪にシンボルのバラの花を飾り、後ろには息子のキューピッドが控えています。

その右側に堂々と背を向けて立つのが孔雀を連れた神々の女王ヘラです。右奥の神々の使者ヘルメス神は、アトリビュートの羽の生えた帽子を被り、二匹の蛇の絡みつく杖ケリュケイオンを持っています。

ところで左端のアテナは、ちょうど最後の服を脱ぎ捨てようとしているところで、自信に満ちた顔で処女神とは思えない大胆で挑発的なポーズを取り、勝利を確信しているようです。

ロンドン・ナショナル・ギャラリーのエリカ・ラングミュアによると、アテナはまだ気づいていませんが、この時パリスは憧れに満ちた眼差しを中央のヴィーナスに注いで、ヴィーナスへ黄金の林檎を差し出し、勝者としています。

ヘラはこれを見て敗北を知っていました。ヴィーナスは、古代のヴィーナスの恥じらいのポーズを取り、服で前を隠しながら、パリスの方へ進んでいます。ヴィーナスの背後で、息子のキューピッドが母の脱いだ下着をせっせと丸めて片づけていて、可愛いですね。

右側のヘラは、豪華なコートを身に巻きつけて女王然としながらも、ヴィーナスに負けたことに怒り心頭かもしれません。ヘラの孔雀は、パリスの犬に向かって文句を

P190 言っているようです。またヘラの頭上では、復讐の女神アレクトが、松明と蛇を手に恐ろしい姿を見せています。これもヘラの怒りと復讐を表すと同時に、このパリスの審判によって引き起こされるギリシャ側の復讐によるトロイアの滅亡も暗示しています。

この女神アレクトが画面上方のちょうど中央に位置するということも、のちの悲劇を強調しています。

この作品のパリスとヘルメス神の後ろには奥深い田園が広がって、羊達がのんびり草をはんでおり、北方由来の美しい風景に、ヴェネツィア派ティツィアーノの黄金色の光が融合する午後の気色となっています。

そののどかな景色の中に、ルーベンスは愛する豊満な女性の裸体を存分に描きました。女神達の輝く白い裸体は、前、横、後という三方から描かれていて、羊飼いのパリスの上気した顔に表されているように官能的で見応えがありますが、この豊かな抒情性の中に、ドラマティックな未来の悲劇も暗示されている見事な作品となっています。
【もっと詳しく】復讐の女神エリニュス達--大地の女神ガイアは、乱暴者の夫ウラノスの男性生殖器を息子クロノスに切らせて復讐した。その時ウラノスの血がガイアにかかり、復讐の女神達エリニュス達が生まれた。

エリニュス達とは、アレクト、ティシポネ、メガイラの三人であり、エリニュスには復讐や怒りという意味がある。彼女たちは冥界に住み、髪は蛇で、手には松明、鞭、または蛇を持つ。古い神のエリニュス達には、ゼウスですら手を出せないという。

【もっと詳しく】女神達の違う時間を融合した画面--
(略)
パリスの審判で、愛と美の女神ヴィーナスが、審判者のトロイアの王子パリスに約束した世界一の美女が、スパルタの王妃のヘレネです。パリスは、ヘレネを奪ってトロイアへ逃げ、トロイア戦争が始まりますが、次の作品は、グイド・レーニによる優雅なパリスとヘレネの道行きの場面です。

P192 【名画40】グイド・レーニ『ヘレネの掠奪』
ギリシャ神話--ヘレネの掠奪》世界一の美女ヘレネは、スパルタ王妃レダの美しさに惹かれ、白鳥となって交わった神々の王ゼウスの娘です。ヘレネの美しさにギリシャ中から求婚者が殺到し、その中から一人を選べば、争いが起きるような状態でした。

そこで婿はヘレネに選ばせ、のちにヘレネが略奪されたら、求婚者達は一致団結して戦うという約束が取り交わされ、ヘレネはミュケナイのメネラオスを選びました。

ヴィーナスの導きによって、スパルタを訪れたパリスは、ヘレネの夫メネラオスに歓待されましたが、メネラオスの留守中に、ヴィーナスがパリスとヘレネの仲を取り持ち、二人はトロイアへ逃れました。

この時パリスはスパルタの財宝も奪っていったといいます。ヘレネが略奪されると、ヘレネの結婚の時の約束にのっとり、ギリシャ中から勇士が召集されて、ギリシャとトロイアの戦争が始まり、十年後にトロイアは滅びて焼け落ちることになります。

この作品では、パリスとヘレネが手に手を取ってトロイアへ逃れる場面が描かれています。作者のレーニは、ボローニャに生まれたボローニャ派(P174ページの名画36参照)の画家です。

P193前述したように、ボローニャ派は、カラヴァッジョと同じく、自然で現実的な表現を目指したバロックの開拓者ですが、大衆的なカラヴァッジョに対して、いわばバロックの正統派路線でした。

レーニは、ボローニャ派の自然主義的絵画をアンニバレ・カラッチの従兄弟ルドヴィーコ・カラッチに学び、その後ローマへ出ました。そこで古代彫刻やラファエロを研究し大成功しています。レーニの作品の特徴は、ラファエロ風の優美さですが、そこにバロックらしい動きや演劇性が加味されています。

レーニの気高い作品は称讃の的で、ヨーロッパの王侯貴族で彼の作品を欲しがらないものはいないとさえいわれ、文豪ゲーテに

P194 「神の如き天才」と称えられました。ところが19世紀になると彼の評価は一変しました。当時個性や独創性を重視するロマン主義が台頭し、レーニの作品は過去の巨匠の模倣であり、低俗で感傷的だと貶められてしまいました。しかし、20世紀後半に入り、再び彼は巨匠として再評価されています。

この作品では、優雅なラファエロ風の人物達が並び、輝く色彩によってバレエの舞台のような作品となっています。そこには、題名の掠奪という緊迫感はなく、嬉々としてヘレネはパリスと一緒にスパルタを去ろうとしています。右奥遠景の海には、彼女をトロイアに運ぶ船が待っています。

ヘレネは羽の飾りのある兜を被った美男のパリスに手を取られ、彼ら一行は華やかな婚礼の行列のように見えますが、画面にはその未来を暗示する象徴が現われています。

愛の神キューピッドの従者のプットーが二人いますが、空を飛ぶプットーは消えた松明を持っています。それは死を表し、トロイアが、ギリシャ軍との戦争に敗れ滅びることを暗示しています。

もう一人のプットーは、意味ありげな表情で指を伸ばし、差し迫った危険を示しています。彼が廃墟のかけらを踏んでいることから、やはりトロイアの滅亡を予告しています。この作品では、愛の喜びははかないという教訓が語られています。

ところでトロイア戦争の後、トロイア王家の人々は皆悲惨な末路を辿りましたが、

P195このヘレネはどうなったでしょうか?ヘレネに逃げられたスパルタ王メネオラスは、彼女を見つけ出し、刃を向け殺そうとしました。ところがヘレネが美しい胸を露わにした途端、へなへなとその決意は萎え、再び激しい彼女への愛に囚われ、一緒に国に帰り幸せに暮らしたといいます。なんとも理不尽な結末ですが、いつの世でも美人はお得ということでしょうか。
【知っておきたいギリシャ神話】ラオコーン--ギリシャ軍が海岸に残したトロイアの木馬を、これはギリシャ軍の謀略なので市中に入れてはならないように警告したのが、トロイアのアポロンの神官ラオコーン(92ページ参考図10『ラオコーン』参照)だった。

ところが海から大蛇が二匹現れ、彼は二人の息子ともども蛇に巻き付かれて殺されてしまう。それはギリシャに味方する海神ポセイドンの仕業だったが、これは神の怒りだとトロイアの人々は思い、木馬を市内へ引き入れたため、トロイアは滅びた。
P200ギリシャ神話の主要な神々のギリシャ名、ラテン名、英語名、アトリビュート
P202【系図】①カオス②ウラノス③ウラノス・ガイア
P204【系図】④クロノス・レア⑤ガイア・ポントス P205主なゼウスの妻、愛人達と子供達関係図
P206古代ギリシャ地図

『ギリシャ・ローマ神話』(ブルフィンチ野上弥生子訳岩波文庫)

P002目次/ 004/ 006/ 008/ 010/ 012『傳説の時代』序-夏目漱石/ 014/ 016
P018第一章 概説/ 020/ 022/ 024/ 026/ 028
P030第二章 プロメテウスとパンドラ/ 032/ 034/ 036/ 038
P160
第十五章 白髪のおとめグライアイ
P161グライアイというのは三人姉妹で、生まれ落ちるとから三人とも白髪であったから、白髪のおとめと呼ばれていました。またゴルゴオというのは恐ろしい女の怪物で、豚のような大きな歯をして、真鍮の蹄を持ち、髪の毛は蛇でありました。

こんな怪物のことは、ゴルゴオの一人なるメドゥサをのぞくほかは神話には大して描かれていません。こういうものは、主に近世の作者が器用な細工を加えたものだと思われます。

すなわちゴルゴオやグライアイはただ海の恐怖を人格化したものであり、前者は広々とした大洋の怒涛を示し、後者は海岸の岩にぶっつかる白い波頭を示すものです。グライアイとかゴルゴオとかいう名前は、ギリシャでは波の意味でもあります。

ペルセウスとメドゥサ
ペルセウスはゼウスとダナエのあいだの息子でありました。彼の外祖父に当たるアクリシオスは、孫のために死ぬことになるだろうという信託を受けて驚き、ダナエとその子供を箱に閉じ込めて海に流してしまいました。

箱がセリポスのほうへ漂うて行くと、一人の漁師に見つけだされ、母親と赤ん坊は国王のポリュデクテスのところへ連れて行かれました。ポリュデクテスはたいそう

P162 母子のものを親切にいたしました。ペルセウスがいっぱし成人いたしますと、ポリュデクテスは、メドゥサといってその国を荒らしていた怖ろしい怪物退治に彼をやりました。メドゥサはもとは美しい処女でありました。

ことに髪の毛を何よりの誇りにして、アテナとその美しさを争うようなことをしたたために女神からすべての美を奪われて、美しい巻毛はことごとくひしめく蛇と変えられたのでありました。

彼女はとうとう残酷な怪物となってしまいました。そうしてその顔つきがあまり怖ろしいものですから、誰でも一目見たものはみんな石になりました。メドゥサの住んでいる洞窟の周囲には、人間や動物の形をした石がたくさんありますが、これはどうかした機会に彼女を一目見て、見るとともに化石してしまったのであります。

さてペルセウスはアテナとヘルメスに可愛がられていたので、アテナは彼女の盾を貸してくれるし、ヘルメスはまた翼のついた靴を貸してくれました。それ故ペルセウスはメドゥサが眠っているあいだに、その姿をまともに見ないように気をつけながら、手に持った盾の中に映っているアテナの像に守護せられて、メドゥサに近よりました。

そうして首を切り落としてそれをアテナにあたえますと、アテナは自分の盾のまん中にメドゥサの首をつけました。

ペルセウスとアトラス
メドゥサを殺してしまうと、ペルセウスはその首を持ったまま海山を越えて遠くまで飛んで行きました。そうして日ぐれ時には、太陽の沈む西の果ての国へ行き着きました。彼はそこでゆっくり朝まで休みたく思いました。

P163それは人間の中での大男なるアトラス王の国でありました。アトラスの国には島や獣の群がたくさんある上に、国土を争うような隣国もなければ、敵国もありませんでした。彼の第一の誇りは花園でありました。

その果実はみんな黄金で、黄金の枝から垂れ、半ば黄金の葉で隠されてありました。ペルセウスは彼に申しました。
『私はお客にきたのです。もしあんたが歴々の家柄を崇めるなら、私の父のゼウスをいい立てよう。それともまた偉い手柄ならゴルゴオの征伐を話しましょう。私は休んでなにかを食べたいのです。』
けれどもアトラスは、ある老人の予言に、いつかゼウスの息子が彼の黄金の林檎を奪ってしまうだろう、と誡めことのあるのを思い出しました。それ故彼は
『行ってくれ。そんなでたらめの手柄だって、家柄だって、あてになりはしない。』
といっておい出そうとしました。ペルセウスは力ずくではとても巨人には勝てぬと思いましたから、
『私の友情をそれほど安く踏むなら、一つ贈物を受けてもらおう。』
といって、自分の顔をそむけながらゴルゴオの首をさしつけました。それ故アトラスは全身石となってしまいました。彼の髭と髪の毛は林となるし、腕と肩は絶壁となり、頭は山の頂きとなり、骨は岩となりました。

そうして各部がだんだんと大きくなって、ついにアトラスは一つの山となりました。そうして(こんな事をするのが神は面白いのではありましたが)天はすべての星とともに彼の肩の上に凭れているのであります。

P164海の怪物
ペルセウスはなお飛びつづけてエチオピアの国に着きました。そこではケペウスが王となっていましたが、王妃カシオペアが自分の美しさを誇って、海のニンペたちと競争したために怒りを招いて、彼らから送られたある巨大な海の怪物のために、海岸を荒らされていました。

神々の怒りを鎮めるために、ケペウスは神託に従って娘のアンドロメダを怪物に食べさせることとなりました。ペルセウスが高い空から見おろすと、ちょうどそのお処女は、鎖で岩角につながれて、蛇の近づくのを待っているところでありました。

身動きもせずまっ青になっているので、流れる涙とそよ風に動く髪の毛がなかったら、大理石の像だと思われたかもしれませんでした。ペルセウスはこのありさまにほとんど翼を動かすのも忘れるほど驚かされました。

彼は彼女の上をかけりながらいいました。
『おお処女よ、あなたはそんな鎖につながれてはならぬ。あなたをつなぐなら恋人同士をいっしょにしばるべき鎖でなければならぬ。どうぞあなたの名前と、所と、どんなわけでしばられているか、そのわけをいって下さい。』
アンドロメダは初めは恥ずかしくて黙っていました。できるなら、手で顔を隠したかったのでしょう。けれどもペルセウスに幾度も尋ねられるうちに、アンドロメダは何か打ち明けられないような罪があって、それでしばられているのだと思われるかもしれないと思ったものですから、自分の名と国と、お母様がその美しさを誇った話しの顛末を打ち明けました。

まだ話をしてもしまわないうちに、早くも海の遠くにものの響きがして、怪物が現われました。

P165彼は水面に頭をもたげて、広い胸で波を裂きながら進んで来ました。処女は叫びました。今その場に到着した父親と母親も、悲惨な心持でありました。母親はまたひとしおで、助けることもできないので、ただそばに寄って泣き悲しみながら、生贄の娘をかき抱きました。

その時ペルセウスが申しました。
『泣く時はまたあるでしょう。今はただ救わなければならないのです。ゼウスの息子としての身分と、ゴルゴオの殺戮者としての名誉は、十分私を求婚者にしてもらえます。私は、自分の立てた手柄で処女を得たいと思うのです。もし私に救えたらそのお礼にもらいますよ』
両親たちは何としてためらうことができましょう。さっそく承諾しました。

さて怪物が、誰か石投げの上手な人の投げた石なら届きそうな距離まで来た時、ペルセウスは突然飛び上がって大空にかけりました。そうして日向ぼっこをしている蛇が目に入ると、鷲のようなにつかみかかって、毒牙を使わせないように頸をしっかり押さえつけておいて、背中に乗って肩に劔を突き通しました。

手傷にいらだった怪物は、空ざまに飛びあがるかと見ると、また海の中へ突き入りました。ちょうどほえ立てる犬の群に囲まれた荒れ猪のように、彼方此方と敏捷にたちむかって来ましたが、ペルセウスには翼があるのでおそわれずにすみました。

鱗のあいだで剱の入れるところには、どこにも傷をつけました。脇の下から横腹から尾まで刺しました。蛇の鼻穴から吹き出す水は血といっしょになっていました。

ペルセウスの翼はその水にぬらされてしまったけれども、もはやそれもいりませんでした。彼は波の上にぬきんでてた一つの岩に登って、突き出た角につかまっていると、怪物はもう殺されて

P166 しまってそばに浮かんでいました。海岸に集まっていた人たちは、山々も反響するほどにはやし立てました。親たちはあまりの嬉しさに我を忘れ、命の親わが家の相続人として、未来の婿をかき抱きました。そうして勝負の原因と報酬を兼ねたアンドロメダは岩から降ろされました。

カシオペアはエチオピア人だから、自慢の美しさにもかかわらず黒人であります。少なくとも『ペンソロソー』の中のこの話を引いたミルトンは、黒人だと考えていたようであります。

カシオペアはまた「星で飾られたエチオプの女王」と呼ばれています。それは死んだ後に星の中に列せられて、カシオペイアという星座となったからであります。彼女はこんな名誉を得たけれども、昔の敵なる海のニンペたちがずっと幅を利かしていたものですから、天の極に近いところに置かれて、毎晩夜半に頭をうつむけて謙譲ということを教えられました。

メムノンもエチオピアの王子でありました。その王子のことは後の章でお話しなければなりません。

結婚の祝宴
悦びに満ちた両親はペルセウスやアンドロメダといっしょに宮殿に帰りつくと、そこで祝宴が開かれました。何もかも嬉しいこと、喜ばしいことずくめでありました。ところへ突然戦争のような物騒がしい声がして、アンドロメダの許婚であったピネウスが、その処女は自分の物だといって、一隊の部下を引き連れてなだれ込んで来ました。

けれども父親のケペウスからこういって説破されたものですから、何ともしようもありませんでした。
P167『怪物の生贄にアンドロメダを岩にしばりつけた時に、その鎖につないだのはお前ではないか。神々からあんな運命を宣告された以上は、死ねばどんな約束も破れると同じで、約束というものはみんな欠くなったのだ。』
ピネウスは返答はしなくて、投槍をケペウスに投げようとした。けれども的がはずれて、槍はむなしく落ちました。今度はペルセウスが投げようとしますと、卑怯な敵は走って祭壇の後に身を隠しました。

ピネウスが初めに槍を投げたのは、ケペウスの客人たちへ襲いかかれという一味徒党への合図でありました。客人たちはめいめい防戦して、ついにどこもかしこも大騒動になってしまいました。

老王はいくらいさめても聴かれないのを見ると、この騒動には自分は責任はないということを神々に誓いながら、その場から立ち退きました。

ペルセウスと彼の友だちはしばらく支えていましたが、衆寡敵せず負けるのは目に見えていました。その時ペルセウスは、ふと『敵を防いでやろう』と思いついたので『おれの味方をする者は目を背けていろ』と大声で叫びながら、かのゴルゴオの首を高くさし上げました。

『そんな手品でおどかすな』とテスケロスはいいました。そうして投槍をなげうとうとしてふり上げると、そのままの姿勢で石となりました。アンピコスは一人の倒れた敵の身体を刺そうとしましたが、腕がこわばって、剱を突き出すことも引っ込ますこともできなくなりました。

その他のものどもは、おめいて切り結んでいる最中にはたと止めました。その口は開いているけれども声は出ません。ペルセウスの味方のアコンテウスもゴルゴオが目に入ったので、はたの者と同じく石になりました。

敵のアステュアゲスはそのアコンテウスを剱でうったところが、傷はつかなくて、

P168 ちゃりんという響きがして剱がはね返りました。

ピネウスは自分の不義の侵入のため、こんな恐ろしいことになったのを見ると、狼狽しました。友だちを声高く呼んだけれども、何の返事もありませんでした。さわってみるとみんな石だということがわかりました。

彼はひざまずいてペルセウスにその手をさし伸べながら、それでも頭だけは背けて、許して下さるようにと願いました。『何もかもあなたがお取りください。ただ私の生命だけはお許しください。』『卑怯もの』とペルセウスは申しました。

『おれはこれほどまでにお前をよくしてやるのだ。武器一つさわらせるのではない。かつお前はばこの騒動の記念物としておれの家に保存して置くのだ。』そういいながらゴルゴオの頭をピネウスが見ている方角にむけたから、顔を背け、手をさし伸べてひざまずいているそのままの姿で、ピネウスは動かない一塊の石となって据えつけられました。



第十九章 ヘラクレス
P196 ヘラクレスはゼウスとアルクメネのあいだの息子でありました。ヘラは人間の母から生まれた良人の子供たちにいつもいつも敵意を持っていたから、ヘラクレスも生まれ落ちた時から、目の仇にしていじめられました。ヘラクレスがまだ揺籃に寝ているところへ、ヘラは二匹の蛇を送って殺そうとしました。

けれども智慧のませた赤ん坊は、自分の手で蛇を絞め殺しました。しかしヘラのためにエウリュステウスの手下にされて、すべてその命令に従わなければならぬことになりました。エウリュステウスは彼に命がけの冒険をつぎつぎにさせました。
ヘラクレス (2014)
それが世にいわゆる『ヘラクレスの十二の仕事』であります。

まず一番はネメアの獅子との戦いでありました。ネメアの谷は一頭の恐ろしい獅子のために荒らされていました。エウリュステウスはヘラクレスにその怪物の毛皮を持ってこいと命じました。

ヘラクレスは棍棒や矢で向かってもだめだとわかると、手づかみにして獅子を絞め殺しました。そうして死んだ獅子を肩にかついで帰って来ました。エウリュステウスはそのありさまを見て、ヘラクレスの人並み優れた力を空恐ろしく思いました。

それでヘラクレスに命じて、これから手柄話をするなら町の外でしろといいつけました。

その次はヒュドラ退治でありました。ヒュドラという怪物は、アルゴスの土地を荒らしながら、

P197アミュモネの井戸のほとりの沼に住んでいました。井戸はその土地が旱魃に苦しめられていた時に、アミュモネの発見した井戸でありました。ポセイドンはアミュモネを推ししていましたから、彼の三叉の戟で彼女にその岩を突かせました。

すると三つに分かれた泉が噴き出したといわれています。ここにヒュドラが巣くっていたので、ヘラクレスが退治にやられたのであります。ヒュドラには九つの頭があって、真中の一つが不死の頭でありました。

ヘラクレスは棍棒で頭をみな叩き落としました。けれども落とした後から後からと二つずつ新しい頭が出てきました。ついにヘラクレスはイオラオスと呼ぶ忠義な家来の手をかりて、ヒュドラの頭を焼き払ってしまいました。

そうして大きな岩の下に九番目の頭、すなわち不死の頭を埋めました。

いま一つの仕事はアウゲイアスの厩の掃除でありました。アウゲイアスはエリスの王で牛を三千頭持っていましたが、それは三十年間も掃除したことがないという牛舎でありました。

ヘラクレスはアルペイオスとペネイオスの二つの河の水をその中へ注ぎ込んで、一日ですっかりきれいにしてしまいました。

その次の仕事はずっと優美なたちのものでありました。エウリュステウスの娘アドメテがアマゾンの女王の腰帯を欲しがったから、エウリュステウスはヘラクレスにその腰帯を取って来るようにといいつけました。

アマゾンは女ばかりの国でありました。その女たちは戦争が好きで、繁華な町がたくさんありましたが、彼らの習慣ではただ女の子供だけを成長させることになっていました。

男の子供は隣国に送るか、さなくば皆殺してしまいました。ヘラクレスは一隊の義勇兵を連れて行き、いろんな冒険をした後で、とうとうアマゾンの国へ達しました。女王ヒッポリュテは親切に彼を迎え、自分の腰帯を渡すことを承諾いたしました。

P198 けれどもヘラが一人のアマゾンの女に姿を変えて、外国人がこの国の女王をさらって行こうとしている、とみんなをそそのかしました。女たちはすぐ武装して、大変な人数で船で押しかけて来ました。

ヘラクレスは、これはヒッポリュテが裏切りをしたのだと思ったから、彼女を殺しました。そうして腰帯を取って家路をさして船を走らせました。

今一つの仕事は、ゲリュオネスの牛をエウリュステウスのところへ持って帰ることでありました。ゲリュオネスというのは身体の三つのある怪物で、紅の島に住んでいました。その島が、落日の光線の下なる西の果てに横たわっているため生じた名でありました。この描写によると、今のスペインに当たるように思われます。

ゲリュオネスはそこの王でありました。ヘラクレスはいろんな国々を旅行した後で、ついにリビア(アフリカの北部)とヨーロッパの国境に達しました。そこで彼は巡歴の記念碑として、カルペとアビラという二つの山を起こしました。

他の記録によると、一つの山を二つに裂いて、両側に半分裂き残したのがジブラルタルの海峡で、その二つの山はヘラクレスの柱と呼ばれていたとしてあります。さてそのゲリュオネスの牛は、巨人エウリュティオンと頭の二つある犬に張り番させてありましたが、ヘラクレスは巨人と犬を殺して、無事に牛をエウリュステウスのところへ持ち帰りました。

一番むずかしい仕事は、ヘスペリデスが番をしている黄金の林檎を取りに行くことでありました。どこに林檎があるかわからなかったからであります。その林檎は、ヘラが結婚の時地の女神からお祝いにもらった林檎の木で、ヘスペリデスの娘たちに保管させていました。

一匹の眠らない竜もその娘たちを助けて番をしていました。

P109いろんな冒険をした末にヘラクレスはアフリカのアトラス山に達しました。アトラスは神々に敵対した巨人の一人でありましたが、負けたので肩の上に天の重さを負わされることになったのでありました(tw)。

そのアトラスはヘスペリデスの父親でありましたから、林檎を見つけて出して自分に持って来てくれる者は、アトラスよりほかにないとヘラクレスは思いました。といって、どうしてアトラスをその場所からよそへやれましょう。

またアトラスが不在中どうして天を背負っていられましょう。ヘラクレスは自分の肩にその重荷を乗せて、アトラスをば林檎を探しにやりました。彼は林檎を持って帰りました。

そうして多少いやいやながらもまた肩の重荷を受け取って、ヘラクレスには林檎を持たせてエウリュステウスの許へ帰らせました。

詩人たちは落日の空の美しい光景からおして、西方を光明と栄光の領土として眺めました。それゆえ彼らは祝福された人たちの島とか、ゲリュオネスの輝いた牛を飼ってある紅色のエリュテイアの島とか、ヘスペリデスの島とかは、みんな西方にあるとしていました。

またヘスペリデスの林檎は、ギリシャ人がほのかに聞き知ったスペインのみかんのことだろうと想像されています。

ヘラクレスの名高い手柄はアンタイオスに打ち勝ったことであります。アンタイオスは地の神テラの息子で、巨人でかつ力士でありました。アンタイオスは、彼が母の「地」とふれ合っているうちは、誰にも負けることはないのでありました。

彼は自分の国に来るほどの旅人たちを強いて自分と角力を取らせました。打ち負けたら(みんなその通りに負けたのでありました)殺されるという条件でありました。ヘラクレスは彼と立ち合いました。けれどもアンタイオスは倒れるた

P200 びに新たな力を得て立ちあがり、とても投げられる見込みはないとわかったから、地面から高くさし上げておいたまま、空中で絞め殺しました。

カクスというすばらしく大きな巨人がアヴェンティヌスク山の洞穴に住んで、その辺の土地を荒らしていました。ヘラクレスはゲリュオネスの牛を追うて帰る途中で少し眠ったあいだに、カクスに牛をいくらか盗まれました。

カクスは牛の足跡で連れて行った方向を見つけられないように、その尾をひっぱって後向きに洞穴の方へ引いて来ました。それゆえ牛の足跡は行った方向とは全く反対についていました。

ヘラクレスはこの計略にあざむかれました。それで見つけることはできないはずであったが、残りの牛が盗まれた牛の隠されている洞穴の前を追われて通ると、中の牛が鳴き出したのでとうとうそれとわかりました。

カクスはヘラクレスに殺されました。

一番最後の手柄としては、ケルペロス(下界の番犬で蛇尾三頭の怪物)を下界から連れて来たことを記さねばなりません。ヘラクレスはヘルメスとアテナに連れられてよみの国へ下りました。

彼はケルペロスをこの世に運ぶには刃物三昧をしなくてもできると受け合ったので、ハデスから、連れて行ってもよいと許されました。それ故、怪物が身をもがくのを物ともせず、しっかり捕えてエウリュステウスのところへ連れて帰り、その後でまた連れ戻りました。

ヘラクレスはよみの国へ行った時、彼の賛美者で、そのまねをしていたテーセウスを自由な身体にしてやりました。テーセウスはプロセルピナを連れ出そうとして、失敗して監禁されていたのでした。

ヘラクレスはある時期気が狂ったようになって、友だちのイピトスを殺したことがありました。このとがによって三年間女王オンパレの奴隷にされました。その奉公のあいだに英雄の性質が奇妙な変化をしました(相互参照)。(アポロドーロス『ギリシア神話』相互参照

P201彼は女のような生活をして、時によると女の着物を縫ったり、オンパレの侍女たちと糸をつむいだりしました。そうして自分の獅子の毛皮を女王へ着せました。この労役がすむと、ヘラクレスはデイアネイラと結婚して、三年のあいだ平和に暮らしていました。

ある時妻を連れて旅をしながら、ネッソスと呼ぶケンタウロスが渡し守をしている一つの河へさしかかりました。そのケンタウロスはきまりの賃銭をもらっては、旅人をおぶって河を渡していたのでした。

ヘラクレスはひとりで渡りましたが、妻のデイアネイラをばネッソスに渡させました。ネッソスは彼女を連れて逃げようとしました。ヘラクレスは妻の叫びを聞きつけたので、ネッソスの胸へ矢を射込みました。

ネッソスは死にながらデイアネイラに向かって、良人の愛を護るおまじないになるから、私の血のいくらかを取ってしまっておきなさいといいました(相互参照)。

デイアネイラはその通りにしました。まもなくそれが役立つ時と思われる日が来ました。ヘラクレスは、ある勝ち戦の分捕品として、イオレと呼ぶ一人の美しい処女を手に入れ、それに心を移しました。

さて彼は、その勝利のお礼として神々に生贄を捧げるについて、その時に着る白い上着を妻の許へ取りにつかわしました。デイアネイラは今こそ恋のおまじないを試す機会だと思ったので、しまっておいたネッソスの血の中へ上着を浸しました。

あとのつかないように、血はよく洗い落としたのでしょうが、それでも魔力は残っていましたから、上着がヘラクレスの身体を暖めるや否や、毒気は手足に浸み込んでひどい苦しみを受けました。

ヘラクレスは気が狂って、運命の上着を持って来たリカスを捕らえて、海へ投げ込みました。さてその上着を引き裂こうとしますと、身体にねばりついているので、上着といっしょに自分の身体じゅうを引き裂きました。

P202 こんなありさまで船に乗せられて家に連れて行かれました。デイアネイラはこんなことになろうとは思いもかけなかったので、大変なことをしたと思ってくびれて死にました。

ヘラクレスは覚悟を決め、オイテ山へ登って焚屍堆(火葬台)をこしらえました。そうしてピロクテテスに自分の弓と矢をあたえ、その身は棍棒を枕にしたまま、獅子の毛皮を上にかけて焚屍堆の上に寝ました。

ちょうど祭りの食卓にでも臨んでるような平気な顔つきで、ピロクテテスに炬火をつけろと命じました。火焔はみるみるうちに拡がりました。そうしてすぐとすべての物を取り囲みました。

神々は地上の選手がこんな死に方をしたのを見て心配しました。けれどもゼウスは快活な顔つきをして一同にこう話しかけました。
『私はお前たちが案じてくれるのは嬉しく思う。それとともに自分がそんな忠義な人々の支配者であることと、私の子供がお前たちから愛されていることがわかって満足である。またお前たちが彼のいろんな手柄を教えて、あの火の中から引き上げようと思ってくれることもまことに嬉しい。

けれども今はもう心配しないがよい。あらゆるものを征服した彼が、オイテの山上に燃えている火焔のために征服されるべきではない。滅びてしまうのはただ彼が母親からもらったものだけなのだ。私の分けてやったものは不滅である。私は地上で死んだ彼を天上へ迎え取らねばならぬ。

お前たちからも親切に迎えてもらいたいと思う。もし誰か彼がこんな光栄を受けるのを不平に思ってっも、彼がそれを受ける価値のあることは拒みえない。』
神々はみんな賛成しました。ヘラだけは特別に自分への当てつけたような言葉を、少しは不快にも思いましたが、良人の決心を無念がるほどでもありませんでした。それで焔がヘラクレスの母親からさずかった部分を焼き尽くしてしまうと、神霊の部分は少しも損なわれず、かえって新たな勇気を飛びだして、

P203いっそう立派な容儀といかめしい威厳を備えました。ゼウスは彼を雲に包みました。そうして四頭の馬のひく二輪車で、天に昇らして星の中に置きました。彼が天にいつくと、アトラスには天がずっと重くなったように感じられました。

ヘラも今は仲直りをして、娘のへべをヘラクレスに娶せました。(アポロドーロス『ギリシア神話』相互参照

へべとガニュメデス
ヘラの娘で、青春の女神なるへべは、神々の酌人でありました。普通の説ではへべはヘラクレスに嫁いだために、その職をやめたとなっていますが、それには異説があります。それによると、へべはある日神々の酌をしていた時転んだので、その職を免ぜられたとなっています。

へベの後をついだのはトロイア生まれのガニュメデスと呼ぶ少年でありました。その少年は友だちと遊んでいた時、ゼウスが鷲なって捕えてイダ山につれて来たのでありました。そうして天上で成人してへべの後に据えられたのであります。



P266
P267第二十六章 エンデュミオン
オリオン
P268エオスとティトノス/ 270アキスとガラテイア/ 272



完訳『ギリシャ・ローマ神話』上下合本版(ブルフィンチ大久保博訳岩波文庫)

P046第2章 プロメーテウスとパンドーラー(相互参照)
P047 私たちの世界はいったいどのようにして創られたのでしょうか、これはその住民である私たちの興味をこの上なく強く刺激しても当然だと思われる問題です。古代の人々は、この問題について、今日私たちキリスト教徒が聖書から得ているような知識を持っていませんでしたので、彼らは彼らなりの仕方で世界創造の物語を伝えてきました。それは次のようなものなのです。

陸と海と天が創られる以前は、すべてのものが一体となっていて、私たちがカオス(混沌)と呼んでいる状態---つまり、混乱した、形のない塊、ただ重い不動の塊に、すぎませんでした。

それでもその中にはいろいろな物の種子が眠っていました。陸も海も空気もみんな混ざりあっていましたから、陸はまだ固まっておらず、海も流れ動くことがなく、空気も透明ではありませんでした。

そこでついに神である大自然が間に入ってこの混乱を終わらせました。そして陸と海とを分け、さらにそれらと天とを分けたのです。そのとき、燃えている部分はいちばん軽かったので、その部分が舞い上がっていって空になりました。

空気の重さと場所からもその次を占めました。陸はそれよりも重かったので下へ沈んでゆき、そして水がいちばん低いところに行って、陸地を浮かべ支えたのです。

そのとき、ある神さまが---それが何という神さまかはわかりませんが---いろいろと

P048 力を尽くしてこの陸地を整理したり配列したりしました。河や入江をそれぞれの場所にもってゆき、山を起こし、谷をえぐり、森や泉や、豊かな田畑や、石だらけの荒野やらをあちこちに置きました。空気が澄んでくると星も見えはじめ、魚は海を、鳥は空を、四つ足の獣は陸を、それぞれ自分のものにしたのです。

ところがもっと高等な動物が必要でした。そこで人間がつくられることになったのです。創造の神は人間を創るとき、自分と同じ材料を使われたのか、それとも、天から分かれたばかりのあの土のなかに天上の種子がまだいくらか宿っていた頃その土を使われたのか、その点ははっきりしません。

とにかくプロメーテウス(+7)は、子の大地から土を少しとって、それに水を加えて練り、神々の像に似せて人間をつくりあげたのです(「旧約聖書」創世記、第一章第ニ七節および第二章第七節参照)。

プロメーテウスは人間に直立の姿勢を与えました。ですから他の動物がみんな顔を下に向けていつも目を地上にそそいでいるのに、人間だけは顔を大空に向けて星を眺めることができたのです。

プロメーテウスは巨人族であるティーターン神族の一人で、人間が創られる以前から地上に住んでいた。このプロメーテウスは(「先に考える男」の意)とその弟エピメーテウス(「後で考える男」の意)とは、人間をつくったり、またその人間やその他のすべての動物に、それらのものが生きていくうえに必要な能力を与えてやったりする仕事を委ねられていました。

エピメーテウスがまずこの仕事をやって、それがすむこと今度はプロメーテウスができ上ったものを監督するということになっていたのです。そこでエピメーテウスはさっ

P049そくさまざまな動物に、勇気とか力とか速さとか知恵とかといったさまざまな贈り物を与えはじめました。あるものには翼を、またあるものには鉤爪を、さらにまたあるものには殻のような甲をといった具合です。

ところが、いよいよ人間の番になって、すべての動物よりも優れているべきはずの人間にいったい何を授けようかということになったとき、手持ちの贈り物はもう気前よくみんなに与えてしまった後だったので、エピメーテウスの手もとには人間に授けるものが何一つ残ってはいませんでした。

当惑した彼は兄のプロメーテウスのところへ行きました。そこでプロメーテウスアテーナーの助けを借りて天にのぼってゆき、自分の炬火に太陽の二輪車の火を移しとって、その火を人間のところへ持って下りてきました。

この贈り物のおかげで、人間は他のすべての動物には及びもつかないような存在になったのです。なぜなら人間はこの火を使って、武器を作り他のすべての動物を征服することができましたし、道具を作って土地をたがやすこともできたからです。

それにまた、寒さにあまり左右されずにすむように自らの住居を暖めることもできましたし、やがては、さまざまな芸術を生みだしたり、商取引きの手段となる貨幣を鋳造したりなぞすることができたからです。

女はまだつくられていませんでした。話は(まことにおかしなことですが)こうなのです。つまり、ゼウスが女をつくって、それをプロメーテウスと彼の弟のところへ送ってよこしたのです。それは、この二人が天上から火を盗むなぞという大それたことをしたので、そしてまた人間はその贈り物をうけとったというので、この二人と人間とを罰するために送ってよこしたのです。

P050 最初につくられた女はパンドーラー(+8)と呼ばれていました。

彼女は天上でつくられたので、神々はみんな何か一つずつ彼女に授けものをしてこのパンドーラーを完璧なものにしました。(パンドーラーとは「すべての賜物を与えられた女」の意)。

アプロディーテーは彼女に美しさを授けました。そしてヘルメースは説得力を、アポローンは音楽を、などといった具合です。このように贈り物を授けられたパンドーラーは地上に移されて、エピメーテウスに与えられました。

彼は兄のプロメーテウスから、ゼウスとゼウスが与える贈り物とには用心するようにと忠告されていたのですが、喜んでこのパンドーラーを妻にしてしまいました。ところでエピメーテウスは家に一つの壺をもっていました。

中には有害なものがいっぱいに入っていたのですが、そんなものは人間に新しい住居を作ってやる時には必要がなかったので、壺の中へしまっておいたのです。ところがパンドーラーは強い好奇心にかられて、この壺の中にはいったいなにが入っているのだろうかと考えはじめました。

そこである日、壺のふたをそっととって、中をのぞいてしまったのです。するとたちまち中から、不運にも人間にとって苦労の種となるようなものが、---たとえば肉体的なものでは痛風だとかリューマチだとか疝痛といったものが、また精神的なものでは嫉妬だとか怨恨だとか復讐といったものが、無数にとびだしてきて、遠くへ四方八方へと飛び散ってゆきました。パンドーラーはあわててふたをしようとしましたが、どうでしょう!壺の中にあったものはもうみんな飛び出してしまっていました。

それでも、ただ一つだけ、壺の底に残っていたものがありました。それは希望だったのです。

P051ですから私たちが今日みるように、たとえ禍がどんなにはびこるようなことがあっても、希望だけはけっして私たちを見すてるようなことはないのです。そしてまた、私たちがこの希望さえ持っている限り、どんな苦しみに襲われようとも、私たちは不幸のどん底にまで落とされることはないのです。

P052
(写真、クーザン「エヴァ・プリマ・パンドーラー」ルーヴル美術館)
P053しかし別の言い伝えによると、パンドーラーは、人間を祝福するためにゼウスから誠意をもって贈られてきたのだ、というのです。彼女は、結婚の贈りが入っている箱をもらいましたが、その中には神々から贈られたお祝いの品物が入っていたのです。

ところが彼女が不注意にその箱をあけたために、贈り物はみんなとびだしてしまって、希望だけが残ったというのです。この話の方が前の話よりはもっともらしく思われます。なぜなら、希望というのは、たいへんな高価な宝石のようなものですから、それが前の話のように、禍という禍がいっぱいつまっているような壺の中に入っていたなどということはありえないことだからです。

とにかくこうして世界に人間が住まうようになったのですが、はじめは、罪悪のない幸福な時代で、黄金の時代とよばれていました。真実と正義が誰からも尊ばれる世の中で、しかもそれが法律によって強制されるからというのでもなければ、また人々を威嚇したり処罰したりする代官がいたからというのでもなかったのです。

その頃はまだ森も、人間から木を盗みとられ手船の材料にされるなどということもありませんでした。剣とか槍とか兜とかというものもありませんでした。大地は、人間が苦労して耕したり種をまいたりしなくとも、必要なものは何でも生み出してくれました。

常春の季節が支配していて、草花は種がなくても生え、川にはミルクやぶどう酒が流れ、黄色い蜂蜜が樫の木からしたたりおちていたのです。

P054 やがて銀の時代がやってきました。この時代は、黄金の時代には劣っていましたが、次に来る青銅の時代よりはすぐれていました。

ゼウスは春をちぢめて、一年をいくつかの季節に分けたのです。そこで、人間ははじめて厳しい暑さや寒さに耐え忍ばねばならなくなって、そのために家屋が必要になりました。

洞穴が最初の住居となり、それから森の中の木の葉に覆われた隠れ場所が、そしてさらに、小枝を編んで作った小屋が、住居になりました。農作物はもはや栽培をしなければ成長しませんでした。農夫は種をまかねばなりませんでしたし、牛もあえぎながら鋤を引かねばならなかったのです。

つぎには青銅の時代がやってきました。これはかなり気性の荒い時代で、何かといえばすぐに武器を手にして争うような時代でした。しかしそれでもまだ全くよこしまな世の中というほどではなかったのです。最もすさんだ、最も悪い時代は鉄の時代でした。

罪悪は洪水のように溢れ出し、謙譲も真実も名誉も押し流されてしまいました。そしてそれらの美徳にかわって、欺瞞や奸智や暴力や邪悪な利欲がやってきたのです。船乗りたちはやたらと風に帆を張り、木々も山から切り出されて船の竜骨にされて、大洋の面をかきみだしました。

土地もこれまでは共同で耕されていたのに、分割されて私有財産にされ始めました。人々は、大地がその表面に産み出すものだけでは満足しなくなって、大地の腹をえぐってはそこからさまざまな金属の鉱石を引きずり出さなければ承知しませんでした。

こうして、有害な鉄と、さらに有害な黄金とがつくられたのです。鉄と黄金とを武器を使って(黄金の武器とは「わいろ」のこと)戦争が起こりました。客は友人の家にいてもわが身が安全ではありませんでした。

P055婿と舅も、兄弟の姉妹も、夫も妻も、たがいに信じあうことができませんでした。息子たちは財産を相続しようと父親の死を願いました。家族の愛も地に落ちてしまったのです。大地は殺戮の血でぬれ、そのために神々はつぎつぎと地上を見すててゆきました。そしてとうとうアストライアー(*1)だけとなりましたが、ついにはこの女神も立ち去ってしまったのです。

ゼウスはこうした地上の様子を見ると、その心は怒りにもえあがりました。そこでさっそく神々を会議に招集したのです。神々は大神のお召しに従い、天の宮殿をさして出かけました。この宮殿に通じる道は、澄みわたった夜なら誰にでも見えるはずですが、大空をよぎって延びています。そして乳の道(ミルキー・ウェイ「天の河」のこと)と呼ばれています。

沿道には輝かしい上位の神々の宮殿が立ちならんでいて、下級の神々は道の両側のもっと離れたところにちらばって住んでいるのです。ゼウスは会議の席上、一座の神々にむかって語りました。

彼は地上での恐ろべき状態の説明から始めて、最後には、この地上の住民たちを一人残らず滅ぼし、今までとはまったく違った新しい種族を住まわせることにする、そうすれば、そのものたちはもっとましな生涯を送るであろうし、もっとあつく神々を崇拝するであろうから、と宣言しました。

ゼウスはそう言い終わると雷霆の矢を手にして、いまにも地上めがけて投げつけ、世界を焼き払ってしまおうとしました。しかしそんなことをしたら、それこそ大火事になって天まで焼けてしまう危険があるかもしれない、と思いなおし

P056 たゼウスは、この計画を変えて、世界を溺れさせてしまうことにしました。そこでまず北風が、雨雲を吹き散らすからという理由で、鎖でつなぎとめられました。そして南風が送り出されました。するとそれはたちまち大空を一面に真っ黒な外套で包みました。雲が方々から吹き寄せられて、すさまじい音をたてながらぶつかりあいます。雨は滝のようにふります。穀物はなぎたおされます。農夫の一年の丹精が、わずか一時間ばかりで消えてしまうのです。

ところがゼウスは、天上の自分の水だけでは満足しないで、兄のポセイドーンに海や河の水を使って加勢をしてくれと頼みます。そこでポセイドーンは河を氾濫させてその水で大地を覆います。と同時に彼は地震をおこして大地を持ち上げ、一度ひいていった大洋の潮をふたたび海岸に打ち上げさせるのです。

そのため羊も牛も人間も家もみんな押し流されて、神聖犯すべからずと柵をめぐらした地上の神殿までもが汚されてしまいます。たとえどんなに大きい建物が残っていてもそれらは一つの残らず水をかぶり、その高い塔さえも水中に没してしまいました。いまやすべてが海になったのです。

岸辺のない大海原なのです。あちこちに人の姿が見えますが、それは水面に頭をつき出そうとしている山の頂に、うまく残った人たちでした。そして何人かは小舟にのって𣓤を漕いでいましたが、そこはつい先ほどまで鋤を引かせていたところだったのです。

魚は木の梢のあいだを泳ぐのです。錨は庭に投げこまれるのです。いましがたまでおとなしい子羊が遊びたわむれていたところを、今度は不格好な海豹がはねまわっているのです。狼が羊の群れのあいだを泳ぎ、

P057黄色い獅子や虎が水の中でもがいているのです。さすがの猪も自分の力が役にたたず、牡鹿もそのすばしこさが役にたちません。鳥も翼をやすめる場所がないので、疲れ果てて水に落ちてしまいます。そして洪水を逃れた生き物も、ついには飢餓の餌食となってしまったのです。

すべての山のなかで、パルナッソス山だけが水の上にそびえ立っていました。そしてそこにはプロメーテウスの一族であるデウカリオーン(プロメーテウスの息子)とその妻のピュラー(エピメーテウスの娘)とが避難していました。---夫は正直な人間であり、また妻も神々の忠実な崇拝者でした(相互参照)。

ゼウスは、この夫婦の他に生き残っている者が一人もいなくなったのを見ると、そしてこの二人の人間がこれまでに送ってきた罪科のない生活や日頃の敬虔な態度を思い起こすと、北風にむかって、雲を吹き払い地には空を、空には地を見せるようにと命令しました。

ポセイドーンも息子のトリートーンにむかって、法螺貝を吹きならして水を退かせるようにと指図しました。すると水はこれに従い、海もその岸辺に帰り、河もその河床へとそれぞれ帰っていったのです。

そこでデウカリオーンはピュラーにこう言いました。「おお、妻よ、ただひとり生き残った女よ、はじめは血縁(二人の父親はたがいに兄弟であった)と結婚との絆によって、そして今はまた共通の危難によって、私に結びつけられた妻よ、私たち父プロメーテウスのような力があり、父が初めて創ったように私たちも私たちの種族を新しくつくることができたらよいのだが! しかし私たちには

P058 しょせんそれができないのだから、あそこに見える神殿へ行って、このさき私たちはどうしたらよいのか神々に伺ってみることにしよう」。そこで二人は神殿に入ってゆきました。その神殿はきたない苔のためによごれていました。二人は祭壇に近づきましたがそこには聖火も燃えてはいません。

二人は階段のそばの地にひれ伏してテミスの女神に、どうしたら滅亡した人類をもとどおりにすることができるかお示しくださるようにと祈りました。すると信託は答えました、「顔を覆い、衣を解きてこの神殿を去り、汝らの母の骨を背後に投ぜよ」。二人はこの言葉をきくとびっくりしました。

やがてピュラーが先に口をききました。「私たちはこのお告げに従うことはできません。母の遺体をけがすなどということは私たちにはとてもできません」。そう言いながらも二人は森の中のいちばん深い繫みの蔭に行って、この信託の意味をあれこれと考えてみました。

やがてデウカリオーンが言いました、「私の考えが間違っていなければ、このお告げは私たちが従ってもけっして不敬にはならないはずだ。つまりこの大地こそ万物の大いなる母であって、石はその骨なのだ。だから私たちはこの石を後ろに投げればよいのだ。きっとこれがお告げの意味なのだ。とにかく試しにやってみても害にはなるまい」。

そこで二人は顔を覆い、衣を解くと石を拾いあげてそれを自分たちの後ろへ投げてみました。すると石は(不思議な話ですが)だんだんと軟らかになって、ものの形をとりはじめました。そしてしだいに、粗けずりながらも人間の形に似たものになってきたのです。それはちょうど彫刻家の手で半ば仕上げられた石塊のようでした。

まわりについていた水分と泥が肉になりました。かたい石の部分は骨になりました。

P059veins(石理(いしめ)のこと)はそのままVeins(血管のこと)となりました。呼び名は変わらず、ただ役目が変わったわけです。そして男の手で投げられた石は男の姿になり、女の手で投げられた石は女の姿になったのです。

こうして作り出されたのでこの種族はたくましく、労働にもよく適していました。今日の私たちがそのとおりなのですが、これを見ても私たちがどのような祖先から生まれてきたかがはっきりとわかるのです。

パンドーラーとイヴを比較した場合、すぐに思い出すのハミルトンです。彼は「失楽園」の第四篇(第七一四~七一九行)の中でこう詩っています。
(写真、ルーベンス「縛られたプロメーテウス」フィラデルフィア美術館)
P060
神々がすべての贈り物を授けたあのパンドーラーよりも
さらに愛しいイヴ。しかもおお、なんとよく似た
悲しい出来事だろう、あの時ヤペテの愚かな息子たちのもとへ
ヘルメースによって運ばれていかれると、
パンドーラーはその美しい姿で人類を惑わし、ゼウスの大本の火を盗んだ者(プロメーテウス)に復讐したのだ
プロメーテウスとエピメーテウスとはイーアペトスの息子たちでしたが、ミルトンはイーアペトスをヤペテ(ノアの第三子。創世記、第五章第三二節参照)に変えているのです。

プロメーテウスは昔から多くの詩人たちが好んで詩う題材となってきました。彼は人類の味方として詩われているのですが、それはゼウスが人類に対してひどく腹をたてたとき、彼は人類のために仲立ちをしてくれたり、また人類に文明や技術を教えてくれたりしたからなのです。

しかし、彼はそのためにゼウスの意志にそむことになったので、神々と人間との統治者であるゼウスの怒りをわれとわが身に受けてしまいました。そこでゼウスは召し使いに命じてプロメーテウスをカウカソス山の岩の上に鎖でつないだのですが、そこには兀鷹がやってきては彼の肝臓をつつくのです。

しかし肝臓は食われてしまってもすぐにまた新しく生えてきました。こうした苦悩の状態は、もしプロメーテウスが自分から進んでこの迫害者ゼウスに服従する気になっていさえしたら、いつでも好きな時に終わらせることができたものなのです。

P061というのは、プロメーテウスはゼウスの王位の安全に関するある秘密を知っていたので、もしその秘密をもらせばすぐにでもゼウスの機嫌をとり結ぶことができたからなのです。しかしプロメーテウスはこれを潔しよしとはしなかったのです。(ヒュギーヌス『ギリシア神話集』では、秘密を教えるからと取引きしている相互参照)

それゆえ彼は今日まで、不当な苦しみに対する高潔な忍耐力とか、暴虐に反抗する意志の力とかの象徴となっているのです。

バイロンやシェリー(+9)(P・B・シェリー。イギリスの詩人。一七九二~一八二二。「縛めを解かれたプロメーテウス」という有名な詩劇がある)はともにこうしたテーマを扱ってきました。次にあげるのはバイロンの詩です。(「プロメーテウス」第一節および第三節より。ティーターンとはプロメーテウスのこと)。
ティーターンよ! 人間の苦しみ
  その悲しい現実の中にあっても
  神々の蔑むものとしては映らなかった
不滅なる眼の持ち主よ、
汝の憐みの代償は何であったか?
沈黙の、しかも激烈な、苦しみ、
P062 巌、兀鷹、そして鎖、
誇り高き者たちが味わう苦しみのすべて、
彼らも示さぬ煩悶、
息づまるような悲しみの思い、
……

汝の神のごとき罪とは、愛情をもつことであった、
  それは汝の示す数々の教訓で、
  人間の悲惨の総額を減少させ
「人間」を自らの精神で
強化させることであった。
しかしその努力は天によって挫折されはしたが
しかしなお汝の忍耐づよい気力の中に、
そして「地」も「天」もゆるがすことのできなかった
汝の不屈の精神の持続性と拒絶性との間に、
われわれは力づよい教えを受け継いでいるのだ
……
バイロンはまたこれと同じような引喩を彼の「ナポレオン・ボナパルトによせる頌詩(オウド)」の中(第一六節)でも試みています。
あるいは、天上から火を盗んだ者のように
  汝はこの衝撃に耐えようというのか?
そして彼とともに、---許されざる者よ---
  兀鷹や巌の苦しみを味わおうというのか?
*1 これは無邪気と清純の女神です。彼女は地上を去ったのち、大空の星の間におかれて、星座ウィルゴー---つまり乙女座になりました。テミス(掟)はこのアストライアーの母親でした。それでアストライアーは天秤をかかげた姿で描かれているのですが、それはたがいに相対する、者たちの主張をこの天秤で秤るからなのです。

こうした女神たちが、いつかまた地上に帰ってきて、あの黄金の時代を再現してくれるだろうという考えは、昔の詩人たちが好んで用いた主題です。ポープ(アレグザンダー・ポープ。イギリスの詩人。一六八八~一七四四)の「救世主」はキリスト教の讃美歌なのですが、その中でさえもこの考えが次のように詩われているのです。

P064
「やがて、あらゆる罪は絶え、昔の欺瞞もやみ、
正義の女神も帰って来て天秤を高くかかげ、
平和の女神も世界中にオリーヴの小枝をさしのべ、
白衣の女神無邪気も天空からおりてくるだろう」
またミルトンの「キリストの降誕によせる賛歌」の第一四節と一五節をごらんなさい。※

※訳者注 その個所は次のようになっている。
    第一四節
そのような聖なる歌が
われわれの空想をいつまでも包んでくれるならば
  時は走り帰って、黄金の時代をもって来るだろう、
そしてあばた面の虚栄は
間もなく病気になって死ぬだろう、
  らい病のような罪悪もこの地上から消え去るだろう
そして地獄の神も死んで

その陰鬱な館を、ふりそそぐ太陽の光にゆずるだろう。

   第一五節
そうだ、そして「真実」と「正義」とがやがて
美しくいろどられた「虹」の垂れ幕をかかげながら
  天上から人々のところに帰ってくるだろう、
そして「慈悲」がその間に入って
天上の輝きを身にまとい、光り輝くその足で
  金銀織りなす雲を踏んで玉座につくだろう、
そして天の女神は祝祭の日のように
そおの宮殿の広間の扉をあけはなつだろう
P086第4章ヘーラーとその恋仇のイーオーとカリストー、アルテミスとアクタイオーン、レートーと農夫たち
P087/ 089/ 091/ 093/ 095/ 097/ 099/ 101/ 103/ 105/ 107/ 109

P160第8章 ピュグマリオーン、ドリュオペー、アプロディーテーとアドーニス、アポローンとヒュアキントス
P162ピュグマリオーン/164
P166ドリュオペー/ 168
P170
(略)
アプロディーテーとアドーニス
アプロディーテー[+20]は、ある日、息子のエロースと遊んでいるうちに、エロースのもっていた矢で自分の胸を傷つけてしまいました。彼女はすぐにわが子を押しのけたのですが、傷は思ったよりも深いものでした。

そしてその傷がまだ癒えないうちに彼女はアドーニスを見てしまったのです。するとたちまち彼のとりこになってしまいました。

P171そのため、いままでよく行っていた場所にももう何の興味もなくなってしまいました。---パポスの町も、クニドスの島も、それに鉱物が豊富なアマトゥース(以上はいずれもアプロディーテーの崇拝が盛んな土地として知られている)にもです。

彼女は天上に昇ることさえしなくなりました。天上よりもアドーニスの方が大切だったからなのです。それで彼女はアドーニスの後を追っては、いつもいっしょに歩きまわりました。

これまでは好んで木陰に身を横たえ、自分の美しさを磨くことばかり気にしていた彼女でしたが、いまでは森をぬけ、山を越え、狩りの女神のアルテミスのような装いで、歩きまわっているのです。

そして犬を呼び集めて、野兎や鹿や、そのほか安心して狩りのできる獣たちを追いまわしているのです。しかし狩り手に立ち向かってくるような狼とか熊とかには近づきはしません。

彼女はアドーニスにもこのような危険な動物には注意するようにと言ってきかせました。
「臆病な動物には勇敢にふるまいなさい」
と彼女は言いました。
「しかし勇ましい相手にむかっての勇気は安全とはいえません。ご自分の身を危険にさらしたりして、私の幸福をだいなしにしてしまうことのないよう注意してくだい。

自然が武器を与えている獣には、かまってはいけません。私はあなたの栄誉をこの上なく高くかっているのですから、そのような危険に身をさらしてまであなたが栄誉を求めることに同意するわけにはゆきません。

あなたの若さも、またこのアプロディーテーを魅惑するその美しさも、獅子や毛の逆立つ猪どもの心は捉えることがないでしょう。あの恐ろしい爪やとほうもない力をお考えなさい!わたしはこういう類の動物はみな嫌いです。なぜかとおっしゃるのですか?」
P172 と、そこで彼女はアタランテーとヒッポメネースの話(第18章、アタランテーの項以降参照)をして聞かせました。アプロディーテーの恩に背いたために獅子の姿に変えられてしまったあの二人の話をしたのです。

アプロディーテーはこうした戒めの話をアドーニスにすると、やがて白鳥のひく二輪車にのって天空を翔けてゆきました。しかしアドーニスはあまりにも気高い心の持ち主だったので、そのような忠告には少しも頓着しませんでした。

そこで犬たちが猪を隠れ穴から駆り出すと、この若者は手にしていた槍を投げて、野獣の脇腹にぐさりと突き立てました。すると猪はその槍を自分の口で引き抜くが早いが、アドーニス目がけて猛然と突進してきました。そこで彼は踵をめぐらして逃げだしました。

しかし猪はたちまち彼に迫いついて、その脇腹に牙を埋めたのです。アドーニスは瀕死の傷を負って野原に倒れました。
(絵画、ピオンポ「アドーニスの死」ウフィッツィ美術館)
P174 アプロディーテーは、白鳥のひく二輪車にのって空を飛んでいましたが、まだキュプロスの島までこないうちに、恋人の呻く声が空気を伝って聞こえてきました。そこで彼女は白い翼の鳥たちをふたたび地上へ向かわせました。

そして近くまでやって来て、空の高みから、血まみれたアドーニスの死体を目にすると、彼女は急いで地上におり立ち、そのなきがらの上にかがみ込んで、自分の胸をたたき、髪をかきむしりました。そして運命の女神たちをうらみながら、こう言いました。

「しかし私は何もかも運命の女神たちの勝利にはさせはしない。私の悲しみの記念だけはいつまでも残るようにしよう。そして私のアドーニスよ、私は、あなたの死と私のこの嘆きとのすがたが、年ごとに新たにされるようにするつもりです(アドーニス祭りのこと)。

あなたの流した血は花に変えてあげましょう。こうしたせめてもの慰めをしたからといって、その私を嫉むことのできるものは誰もいますまい」。こう言いながら、彼女はその血の上に神酒を注ぎました。そして、この二つのものが混じりあうと、ちょうど池の中に雨水が滴りおちた時のように、泡が立ちはじめました。

そして一時間もすると、柘榴の花のような、血の色をした花が咲きだしました。しかしこの花の命は短いのです。風が花を開かせたかと思うと、もう次の風はその花びらを散らしてしまうと言われているのです。

それで人は、この花をアネモネ、つまり、「風の花」と呼ぶのですが、それはこの花が咲くときにもまた散るときにも風が手助けをするからなのです。

P175ミルトンは「コウマス」の中で(第九九八~一〇〇二行)、このアプロディーテーとアドーニスの物語にふれて、こう詩っています(詩中のアッシリアの女王とはアプロディーテーのこと)。
ヒュアキントスとばらの花咲く園しとね、
若いアドーニスがしばしば憩い、
やわらかなまどろみに、あの深い傷もしだいに癒えたところ、
そしてその土の上にアッシリアの女王が、
悲しげな顔をして坐っているところ。
……
アポローンとヒュアキントス アポローンはヒュアキントスという名の少年を非常にかわいがっていました。そこでいろいろな運動にこの少年を連れてゆき、漁に行くときにも彼のために網を持ってやり、狩りに行くときにも犬をひいてやり、山々を歩くときにも供をしてやったりして、自分の竪琴や矢のことなどはこの少年のためにすっかり忘れていました。

ある日のこと、二人はいっしょに円盤投げの遊びをしていました。アポローンは円盤を頭上にたかく振りあげ、力に技を加えて、それを高く遠くへ飛ばしました。ヒュアキントスは円盤の飛ぶ様子を

P176 じっと見つめていましたが、この遊びに心を躍らせて、ついに自分も投げてみたい一心から、その円盤を捕えようと駈けよりました。その時この円盤が地面からはねかえり、ヒュアキントスの額に当たったのです。

彼は気を失って倒れました。アポローンは、少年と同じようにまっ青な顔をして、彼を抱きおこすと、その傷口から流れ出す血を止めて彼の去り行く命をなんとかとりもどそうと、自分のもっているあらゆる術を試みたのですが、すべてが徒労に帰してしまいました。

その傷はあの薬草の力さえ及ばぬものだったのです。そして、人が庭に咲く百合の茎を折るとその百合が頭をたらして地面に花を向けるように、瀕死の少年の頭も、彼の首には重すぎるとでもいった様子で、一方の肩の上にのけぞってしまいました。

「ヒュアキントス」とポイボス(アポローンのこと)は言いました。
「おまえは私のために青春を奪われて死んでゆく、おまえの得たものは苦しみで、私の得たものは罪だ。できることなら私はおまえに代わって死んでやりたい!

しかしそれもかなわぬことゆえ、おまえを記憶と歌との中で私といっしょに暮らせるようにしてあげよう。私の竪琴におまえを褒め讃えさせ、私の歌におまえの運命を語らせよう。そしてまたおまえ自身に、私の嘆きを印した花にしてあげよう」。
アポローンがこう話している間にも、どうでしょう、いままで地面に流れて草を染めていた血潮はもう血ではなくなってきました。そしてテュロス染めの衣よりももっと美しい色をした花が咲きでてきたのです[*1]。

その花は百合に似ていましたが、百合の花が銀白色であるのに、この花は深紅色をしていたのです。そしてポイボスはこれだけでは満足せず、さらに大きな名誉を与えるために、その

P177花びらに自分の悲しみの印をつけました。そして今日私たちが目にするとおり、その花びらに「ああ、ああ!」という文字(ギリシア文字でαι αιと綴る)を書きしるしたのです。

この花には今日ヒュアキントスという呼び名がついていて、毎年、春がめぐってくると、この少年の運命の悲しい思い出をよみがえらせているのです。


一説には、ゼピュロス(西風の神)もこのヒュアキントスが好きだったのですが、少年がアポローンの方に惹かれるのをうらんで、あの円盤が針路はずれてヒュアキントスにあたるようにわざと風を吹かせたのだともいわれています。

キーツは「エンデュミオーン」の中でこの話にふれていますが、そこではこの円盤投げを側で見る者たちについて詩っているのです。
あるいはまた、彼らはあの円盤の投手たちに目をやって
両者を一心に見守ることもできたろう、そしてヒュアキントスの
悲しい死をば哀れんだことであろう、ゼピュロスの
残酷な息が彼を殺したあの時に---そのゼピュロスも
悔い改めて、今では、ポイボスが天空に昇るまえに、
すすり泣く雨の中でこの花を撫でているのだ
P178 ヒュアキントスについての引喩は、ミルトンの「リシダス[+21]」の中(第一〇六行)にもまた見られます。
あの血の色をした花のように、悲しみの印をつけて
*1 ここに述べられている花が今日のヒアシンスと同種のものでないことは明らかです。これはたぶんあやめ科の一種か、さもなければおそらく、ひえんそう、あるいはパンジーの一種なのでしょう。

第9章 ケーユクスとアルキュオネー、かわせみの話(表紙)

P226第12章カドモス、ミュルミドーン
P 227/ 229/ 231
P233
(略)
ミュルミドーン
 ミュルミドーンはトロイア戦争の時アキレウスが率いて行った軍隊でした。この種族の名を元として、今日でも、政治上の首領に対して熱狂的に節操もなく盲従する者はすべてミュルミドーンと呼ばれています。しかしこの種族の起源を見ると、獰猛な血なまぐさい種族という感じではなく、むしろ勤勉で平和な種族という感じを人に与えるのです。

 アテーナイの王ケパロスは、彼の旧友でもありまた同盟者でもあるアイアコス王の助力を得ようとアイギーナの島にやってきました。クレーテーの王ミーノースと戦争をしていた頃のことです。ケパロスはこの上なく親切に迎えられ、望んできた援助もすぐに約束されました。「私は」とアイアコスは言ったのです。「自分を守り、しかも必要な兵力をあなたにお与えするのに充分な数多くの国民をもっております」。「それを知って私も嬉しく存じておるのです」とケパロスは応えました。「それにつけても、実はさいぜんから不思議に思っているのですが、私の周囲にこんなにも数多くの若い人々がおられ、お見けするところ、みなほぼ同じ年輩のように思われます。しかも以前私がご面識を得た多くの方々は、今こうして探してみますと一人もおられないようですが、あの方々はどうなさったのですか?」。するとアイアコスは呻き声をあげました。そして悲しみをこめた声でこう答えたのです、「さきほどからお話ししようとは存じておりましたが、それではここで、とりあえずお話しいたしましょう。初めはこの上なく悲しいことでも、時にはそこから幸福な結果が生じるものだという事情がおわかりいただけると思います。以前ご面識をいただいた者たちは今はもう塵と灰になっているのです!ヘーラーの怒りによって送られた

P235 疫病がこの国を荒廃させてしまったのです。ヘーラーがなぜこの国を憎んだかといいますと、それはこの国が彼女の夫と寵愛する女の名(アイギーナはゼウスの寵愛をうけてアイアコスを生んだ)をつけていたからなのです。この病気が普通の原因から起こったものと考えられていた間は、われわれも普通の治療でできる限りくいとめようとしていました。ところが間もなく、この悪疫がわれわれの力にはとうても及ばないことがわかり、われわれもとうとう屈してしまったのです。初めは空が地上に腰をすえたのかとも思えました。幾重にもかさなった雲が熱い空気を閉じこめました。まる四ヵ月というもの死のような南風が吹きまくりました。疫病は井戸や泉を襲いました。そのため何千という蛇が地上に這いだしてきて水源に毒を流したのです。疫病はその猛威を最初、下等な動物たち、つまり犬や牛や羊や鳥などの上にふりました。あわれな農夫は牛たちが仕事の途中で倒れてしまい、犁かけの畦の中で手のほどこしようもなく死んでゆくのを見て驚きました。苦しげに鳴く羊の背中から毛が抜けおち、その体もやせおとろえてゆきました。かつては競馬で先頭を走っていた馬も、もはや勝利を争うこともなく、厩の中でうめきながらみじめな死にかたをしました。猪は自分の凶暴さを忘れ、牡鹿も速さを忘れ、熊ももはや牛の群れを襲わなくなりました。すべてのものがうちしおれていったのです。死骸は道にも野原にもまた森にも横たわりました。空気はその毒のある臭いで汚れました。とても信じられぬようなことをお話するようですが、野犬も猛禽も死体にふれようとはしないのです。飢えた狼も同様です。

P236 そして死体の腐肉はこの疫病をなおも遠くへまきちらしました。次にそれは村の者たちを、そしてそれから町に住む者たちを襲ったのです。初めは頬がまっ赤になり、それから呼吸が苦しくなってゆきました。舌もざらざらになってふくれあがり、乾いた口はかっとあいて、ふくれあがった血管をのぞかせながら、はあはあとあえぎました。人々は衣類や寝具の熱さにたえられず、むき出しの地べたに寝ようとしました。ところが地面は彼らを冷やすどころか、逆に、彼らがその寝ている地面をこがしたのです。医者もみんなを助けることができませんでした。疫病は医者さえも襲ったからです。そして病人に近づけばすぐに感染したので、忠実な医者ほど早くその犠牲となりました。そしてとうとう助かる望みも消えて、死こそこの疫病からの唯一の解放者と考えるようになりました。そこで人々はもう何事もなるがままにまかせて、どうしたらいいのかなどということは考えなくなってしまいました。自制心もすっかりすてて、彼らは井戸や泉のまわりに群がりよると、その水を死ぬまで飲みつづけましたが、それでものどの渇きは癒すことができませんでした。多くの者は水辺から身をどける力もなくて、そのまま流れの中で死にました。それなのにまたその水を飲もうとする者もいたのです。病床での苦しさがあまりにもひどいので、ある者はふらふらと出てこようとしました。そして立ちあがる力のない者でも、せめて地面の上で死にたいと願いました。彼らは身内の者さえ憎んで自分の家から逃げだそうとしているようでした。それはまるで、病気のほんとうの原因がわからないので、彼らの住んでいる家そのものが彼らを苦しめているのだと考えているかのようだったのです。

P237 そこである者は歩けるあいだはよろよろと路上をさまよい歩いていました。そしてまたある者は、地上に身を横たえて、この世の見おさめにとあたりを見まわし、それから目を閉じて死んでいったのです。

「こうした出来事のあいだ私はどんな気持ちだったでしょう、あるいはどんな気持ちにならなければいけなかったでしょう、自分の生命を憎み、国民といっしょに私も死にたいと願う以外に?どちらを向いても私の民が横たわっていました、熟しすぎて木から落ちたりんごや、嵐にゆり落とされたどんぐりのように、転がっていたのです。あの高いところに神殿が見えるでしょうあ。あれはゼウスを祭ったものなのです。おお、どんなに多くの人々があそこで祈りを捧げたことでしょうあ。夫は妻のために、父は息子のために、そしてその祈りを口にしながらどんなに多くの人々が死んでいったことでしょう!神官が生贄を用意するあいだにもその生贄の牛が倒れてしまう例は何度もありました。殺されるのを待たずに、その疫病に襲われて死んでしまうのです。それでとうとう神聖な果物を敬う習慣もすっかり失われてしまいました。死体は埋葬もされずに投げすてられ、薪も火葬のためには不足がちで、人々はそれを一人じめにしようと互いに争いました。そしてついに、後に残って嘆き悲しむ者さえもいなくなりました。息子も夫も、年寄りも若者も、みんな誰ひとり弔ってくれる者もなく死んでいったのです。
「私は祭壇の前に立って天を仰ぎました、『おおゼウスよ』と私は言ったのです。『もしあなたがほんとうに私の父ならば、そしてあなたの子を恥とは思し召さぬなら、私に私の民をお返しください、さもなければ私の命をもお召しください!』。

P238 するとこの祈りとともに雷鳴が起こりました。『前兆をお受けします』と私は叫びました。『おお、どうかそれが私にとって良き御意のしるしでありますように!』。たまたま、私が立っていた場所の近くに一本の樫の木が枝を広げて生えていました。それはゼウスに捧げられたものです。見るとたくさんのが忙しそうにはたらいていました。小さな穀物を口にくわえて、一列になって次々とその木の幹をのぼってゆくのです。そのおびただしい数に見とれながら、私は言いました、『おお父よ、このと同じほど多くの国民を私にお与えください、そして人気のなくなった私の国をもう一度みたしてください』。するとその木はゆれて、風もないのに枝がざわざわと音をたてはじめました。私は手足がふるえましたが、それでも大地とその樫の木に接吻しました。自分が希望を抱いたことを私は自分自身にも打明けたくはありませんでしたが、しかしほんとうに希望を抱いたのです。やがて夜がやってきて、眠りが心配事にうちひしがれた私の体をとらえました。するとあの樫の木が夢の中で私の前に現れました。その無数の枝には一面に何やら生命のある動きまわるものがいるのです。そしてその木は枝をふるわせながら地上にあのおびただしい数の勤勉な穀物集めの動物たちをふるい落としているようなのです。そして地上に落とされたそのたちは、大きさを増して、みるみる大きくなり、やがてまっすぐに立ちあがると余分な脚や黒い色をすてて、とうとう人間の姿になりました。と、そこで私は目がさめてしまったのです。ですから私の最初の衝動は、私から美しい夢を奪い、そこに何一つほんとうのものを

P239 与えてくれなかった神々をうらんでやりたいということでした。しかし私が神殿の中でまだぐずぐずしていると、そのうち外から聞こえてくる大勢の人声に私は注意を奪われました。近ごろ聞きなれぬ声なのです。まだ夢を見ているのだろうかと思いかけているうちに、息子のテラモーンが神殿の門を押しあげながら叫びました、『お父さん、ここへ来てごらんなさい、そしてお父さんの望み以上のものを見てごらんなさい!』。そこで私も行ってみました。するとそこには大勢の人がいるではありませんか。私が夢で見たとおりなのです。そして同じように列をつくって行進してくるのです。驚くやら喜ぶやらして見ていますと、彼らは近づいてきて、膝をつき、私を彼らの王と呼んで敬礼しました。私はゼウスに誓いをたて、人気のない町をこの新しく生まれた種族に割りあて、田畑も分け与える仕事にとりかかりました。そしてかれらを、その生まれてきた蟻ミュルメクスにちなんでミュルミドーンと名づけました。あなたがさきほどからご覧になっておられるのはこの者たちなのです。その性質は以前、のときにもっていた性質とよく似ています。精励で勤勉な種族です。いっしょうけんめいに働き、そして働いたものは無駄には使いません。彼らの中からあなたの軍隊を補充なさるがよい。あなたに従ってよろこんで戦場におもむくでしょう、年も若く心も勇敢なこの兵士たちは」。

P240 この疫病についての話は、ギリシアの歴史家であるトゥーキュディデース[+26](前四六○頃-前四○○頃)がアテーナイに起こった疫病について書いたもの(「歴史」(ヒストリアイ)第二巻、第四七-五四節)からオウィディウスが書き変えたものです。トゥーキュディデースはこの事件を実際の体験をもとにして描きました。ですから、後の詩人や小説家たちは、同じような場面を描かなければならなくなると、みなその細かな部分を彼の歴史書から借用したのです。

P261第14章アテーナー、ニオベー
P262/ 263/ 265/ 267/ 269/ 271/ 273/ 275/ 277

P279第15章グライアイ、白髪の処女たち、ペルセウス、メドゥーサ、アトラース、アンドロメダー
280/ 282/ 284/ 286/ 288/ 290/ 292

P294第16章ギガンテス、スピンクス、ペーガソスとキマイラ、ケンタウロス、ピュグマイオイ、グリュプス
P295/ 297/ 299/ 301/ 303/ 305/ 307/ 309

P311第17章 黄金の羊の毛皮、メーデイア
P312/ 313/ 315/ 317/ 319/ 321/ 323/ 325/ 327

P357第20章 テーセウス、ダイダロス、カストールとポリュデウケース
P 358/ 359/ 361/ 363/ 365/ 367/ 369/ 371/ 373

P375第21章 デュオニューソス、アリアドネー
P377/ 378/ 380/ 382/ 384/ 386/ 388/ 390

P471第26章 エンデュミオーン、オーリーオーン、エーオースとティートーノス、アーキスとガラテイア
P473 エンデュミオーン/ 475
P477
(略)
オーリーオーン(ヒュギーヌス『ギリシア神話集』相互参照、アポロドーロス『ギリシア神話』相互参照)
オーリーオーンはポセイドーンの息子でした。美しい顔だちの巨人で、また力の強い狩人でした。父親はこの息子に海の底を、また一説には海の上を、歩く力を授けたと言われています。

P478オーリーオーンは、キオス島の王オイノピオーン(その名は「ぶどう酒飲み」という意味)の娘メロペーに想いをよせ、彼女を妻にしたいと申し出ました。そしてこの島の野獣を一頭のこらず退治すると、その獲物を贈り物として愛する人のところへ持って行ったのです。

ところが父親のオイノピオーンは何かにつけて結婚の承諾をおくらせたので、オーリーオーンもとうとう力ずくでこの処女を自分のものにしようとしました。彼のこうした振舞いにすっかり腹を立てた娘の父親は、オーリーオーンを酒で酔わせ、その両眼をえぐりぬいて彼を海辺にすてました。

盲目にされたこの英雄は、一眼巨人(キュクロープス)の金槌の音をたよってレームノス島に渡ると、ヘーパイストスの鍛冶場にやってきました。ヘーパイストスは彼を不憫に思って、職工の一人でケーダリオーンという名の男を彼に与え、太陽(アポローン)の館へ案内させるようにしてやりました。

そこでオーリーオーンはこのケーダリオーンを肩にのせると東に向かって進んでゆき、やがて太陽の神(アポローンは医術の神でもある)に会い、その光で視力をとりもどしてやったのです。

その後、彼は狩人としてアルテミスといっしょに暮らしました。彼は女神の大のお気に入りだったからです。それで女神が彼と結婚しようとしているというような噂さえ立つようになりました。

これを耳にした女神の兄(アポローンのこと)はことのほか機嫌をそこね、いくたびとなく女神にを叱りましたが、何の甲斐もありませんでした。そこである日、

P479 オーリーオーンが頭だけ水の上に出して海を渡ってくるのを見つけたアポローンは、妹にそれを指し示して、いくらおまえでもあの海に浮かんでいる黒いものを射当てることはできまいと言いました。

弓の名手でもある女神は運命の狙いをつけて矢を放ちまました。そして波がオーリーオーンの死体を岸に打ちよせてきたのである。アルテミスは涙にむせびながら自分の恐ろしいあやまちを嘆き悲しみ、彼を星座の中においてやりました。

ですからオーリーオーンは今日でも星座の中に巨人の姿で現れ、帯や剣や獅子の毛皮や棍棒を身につけているのです。そして猟犬のセイリオスが彼の後につづき、またプレイアデスが彼の前方を飛びながら逃げているのです。

このプレイアデスというのはアトラースの娘たちのことで(単数では「プレイアス」という)、アルテミスの侍女のニュンペーたちでした。ある日のこと、オーリーオーンは彼女たち見て心を奪われ、後を追いかけました。

困り果てた娘たちは自分たちの姿を変えてくれるようにと神々に祈りました。そこで、不憫に思ったゼウスが娘たちを鳩に変え、それから星座(すばる座のこと)にして大空においたのです。その数は初めは七つでしたけれども今では六つしか見えません。

それは、そのうちの一つのエーレクトラー(アガメムノーンの娘とは別人)がトロイアの陥落を見るのに堪えられず、その場を立ち去っていたからだと言われています。それというのも、このトロイアの町は彼女の息子ダルダノスが建てたものだったからなのです。

陥落の模様は実に悲惨なもので、そのため彼女の姉妹たちもそれ以来今日に至るまでずっと青ざめてた顔をしているのです。


ロングフェロー氏は「オーリーオーンの掩蔽」という詩があります。次にあげるものは、詩人がこうした神話にふれて詩った一節(第五節)です。ここで私たちが前もって知っておかねばならぬことは、天球に輝くオーリーオーンは獅子の毛皮を身にまとい、棍棒を振りあげている姿で描かれているということです。

この星座の星が一つ一つ月の光に消えてゆくその瞬間、詩人は私たちにこう詩ってくれるのです。
獅子の赤い毛皮が
彼の足もとの河に落ちていった。
大きな棍棒ももはや牝牛の額を
打たなくなった。そして彼は
昔のように海辺をよろめきながら歩いていた
あのとき彼は、オイノピオーンに視力を奪われ
  鍛冶師(ヘーパイストス)を求めてその鍛冶場にゆき
  それから山の谷あいを登って
その空ろな目をじっと太陽に向けたのだ。
P481 テニスンは、プレイアデスについては異なった考えをもっています(「ロクスリィ・ホール」第九~一〇行)。
幾夜も私は見た、プレイアデスがやわらかな暗がりから
  のぼってきながら
銀のひもで結ばれた蛍の群れのように光り輝く様を
バイロンは、あの姿を消したプレイアス(エーレクトラーのこと)にふれてこう歌っています(「ベッポー」第一四節)
地上ではもう見ることができぬあの姿を消してしまったプレイアデスのように
またへマンズ夫人にも同じ主題の詩があります。

エーオースとティートノス
(略)
P483
P485
(略)
アーキスとガラテイア
487/ 489

読書案内(上)
P490/ 492/ 494アプロディーテーとアドーニス、「リシダス」ミルトン/ 496/ 498/ 500/ 502/ 504/ 506/ 508
ことわざ集(上)
P509/ 511



P517第27章 トロイア戦争
P518 アテーナーは知恵の女神ではありましたが、ある時、たいへん愚かなことをしました。ヘーラーやアプロディーテーと競いあって美の賞品を得ようとしたのです。事の起こりはこうなのです。

つまり、ペーレウスとテティスが結婚したとき、その披露宴にすべての神々が招待されたのですが、争いの女神エリスだけが招待を受けませんでした。女神は自分が除けものにされたのを怒って、一座の中に黄金のりんごを一つ投げ入れました。

そのりんごには「いちばん美しい女神へ」と書いてありました。そこでヘーラーとアプロディーテーとアテーナーとは、それぞれ、そのりんごは自分のものだと主張しました。

ゼウスはこうした微妙な問題で審判を下すのは気がすすみませんでしたから、この女神たちをイーデー山に行かせました。そこには美しい羊飼いのパリスが羊の世話をしていました。そしてこのパリスにその審判がまかされることになったのです。

女神たちはさっそく彼の前に姿を現わしました。ヘーラーは彼に権力と富とを約束し、アテーナーは戦場での誉れと名声とを、そしてアプロディーテーは人間の中でいちばん美しい女性を彼の妻にと約束して、それぞれ彼の審判を自分にとって有利なものにしようとしました。

パリスはアプロディーテーに決めて、この女神に黄金のりんごを与えました。パリスはアプロディーテーの保護のもとに

P519 ギリシアに渡り、スパルタの王メネラーオスに暖かく迎えられました。ところで、このメネラーオスの妃のヘレネーこそアプロディーテーがパリスに約束していた女性だったのです。

ヘレネーは多くの求婚者たちから妻にと望まれていたのですが、彼女の心のうちが披露されるまえに、求婚者たちは皆、その中の一人であったオデュッセウスの提案に従って、誓いをたて、この女性をあらゆる危害から護り、必要とあれば彼女の仇をもうとうと約束しました。

やがて彼女はメネラーオスを夫と選び、幸福な毎日を送っていました。そこへパリスがやってきて二人の客となったわけなのです。パリスは、アプロディーテーの助けをかりて、ヘレネーを説きつけ、いっしょにこの館を逃げだすと彼女をトロイアに連れていってしまいました。

こうしたことからあの有名なトロイア戦争(+1)が起こったのです。ホメーロス(+2)やウェルギリウス(+3)が詩たったあの古代の最も偉大な詩(「イーリアス」、「オデュッセイア」及び「アイネーイス」)の主題はこれなのです。
(写真、クラナッハ「パリスの審判」メトロポリタン美術館)
P520メネラーオスは仲間のギリシア中の王侯たちに使いをやって、あのときの誓約を履行し、自分に力を貸して妻をとりかえすよう努力してもらいたいと頼みました。王侯たちはそのほとんどが求めに応じてやって来ましたが、オデュッセウスはそのころペーネロペーと結婚して、妻と子と非常に楽しい毎日を送っていたので、彼にこうした面倒な事件に乗りだしていこうなぞという気は少しもありませんでした。

それで彼が尻込みをしていたものですから、パラメーデースが彼を説得するために使者として送られてきました。このパラメーデースがイタケー(オデュッセウスの領地)につくと、オデュッセウスは狂人を装いました。

ろばと牛をいっしょに軛でつないで鋤をひかせたり、畑に種のかわりに塩を播きはじめたりしたのです。パラメーデースは彼を試すために、幼いテーレマコス(オデュッセウスの子)

P521 を鋤の前に置きました。すると父親は鋤をわきへ向けて、そのため自分が狂人でないことをはっきりと見せてしまい、それからはもう誓約の履行を断ることができなくなってしまいました。(アポロドーロス『ギリシア神話』相互参照

そしてとうとうこの企てに引き入れられてしまったのですが、そうなると今度は、自分からすすんで力を貸して他のすすまぬ王侯たちを、その中でも特にアキレウスを、参加させるようにしました。

この英雄アキレウスの母親こそあのテティスで、彼女の結婚式のときに例の争いのりんごが女神たちの間に投げ込まれたわけなのです。テティス自身は死というものがないあの神々の一人で、海のニュンペーでした。

そして息子がこの遠征に参加すれば、トロイアの城を前にして死んでしまう運命にあることを知っていたので、なんとかしてわが子を行かせまいとしました。そして彼をリュコメーデース王の宮廷にやり、処女の姿に変装させて王の姫たちのあいだに身をかくさせたのです。

オデュッセウスはアキレウスがその宮廷にいることを聞きこむと、商人に化けてそこへ行き、女性の装身具をひろげてみせました。しかしオデュッセウスはその中に武器もまぜておいたのです。王の娘たちが商人の包みの中の他のものに夢中になっているのに、アキレウスだけは武器を手にして、ついうっかりとオデュッセウスの鋭い目に自分の正体を見せてしまいました。

そこでオデュッセウスは、たいした苦労もなくアキレウスを説得して、母親のせっかくの忠告も忘れさせ、みんなといっしょにこの戦いに加わるようにさせたのです。
(写真、ダヴィット「パリスとヘレネー」ルーヴル美術館)
P522プリアモスはトロイアの王でした。そして、例のイーデー山の羊飼いでヘレネーを誘拐していったあのパリスは、このプリアモスの息子だったのです。パリスが羊飼いなどという卑しい境遇の中で育てられたのも、実は赤子のころから彼には不吉な予言があって、彼はこの国の滅亡の原因となるだろうと言われていたからなのです。

そしてこうした予言はついに事実となってきそうに見えました。と言うのもいま準備しているギリシア軍の戦備はこれまでになく大規模なのもだったからです。ミュケーナイの王で、また妻を奪われたあのメネラーオスにとっては兄にもあたる、アガメムノーンが総大将に選ばれました。

アキレウスは全軍きっての優れた武将でした。その次に位するのはアイアースで、巨大な体と勇敢な精神の持ち主でした。しかし知性の点では鋭さを欠いていました。それからディオメーデース、彼は英雄としてのすべての資格の点でアキレウス以外の誰にもひけをとりません。それからオデュッセウス、彼の賢明なことは有名です。

それからネストール

P523 はギリシア軍の武将の中でも最年長者で、だれからも助言を仰ぎ求められるほどの人物だったのです。しかしトロイア方もけっして弱い相手ではありませんでした。王のプリアモスはもうかなりの年齢でしたが、昔から賢明な君主として知られ、国内における立派な政治と近隣諸国との同盟によってこの国を強固なものにしていたからです。

しかし彼の王位を支える第一の柱とも、なた土台ともなっていた人物はヘクトールでした。古代の作家たちによって描かれた最も優れた人物の一人です。彼は、最初から、自分の国が滅びるという予感をこの国にもたらしたあの不正(弟パリスの行為)については決してそれを正当化しようとはしませんでした。

彼はアンドロマケーを妻にめとっていましたが、夫としてもまた父親としても彼の人格は武将たるに劣らぬほど立派なものでした。トロイア方の主だった武将は、このヘクトールのほかに、アイネイアースやデーイポボス、それにグラウコスやサルペードーンがいました。
(写真、「イーピゲネイアの生贄」ナポリ国立考古美術館)
P524二年間にわたる戦備がおわると、ギリシアの艦隊と軍隊とはボイオーティアのアウリスの港に集結しました。この地でアガメムノーンは狩りをしたのですが、そのときアルテミスに捧げられていた牝鹿を殺してしまったので、女神はその仕返しとして軍隊に疫病を送り、また風を止めて艦隊の出港を妨げました(当時の戦艦は帆船であった)。

そこで予言者のカルカースは占いをたて、この処女神の怒りを和らげる唯一の方法はその祭壇に一人の処女を生贄として捧げねばならない、そしてそれもこの罪を犯した者の娘でなくてはならず、それ以外の者は何人たりとも受入れられぬであろう、と告げました。

アガメムノーンはどんなにか気がすすみませんでしたが、ついに承諾しました。そして娘のイーピゲネイア(+4)に迎えの使者が出されたのですが、それもアキレウスと結婚させるという口実に

P525 してだったのです。彼女が生贄として捧げられようとしたその瞬間、女神は不憫に思い、彼女をその場からさらってゆくと、その代わりに牝鹿を一頭おいておきました。そしてイーピゲネイアは雲に包まれてタウリスに連れてゆかれたのですが、ここでアルテミスは彼女を自分の神殿の祭司にしたのです。

テニスンは「美女たちの夢」の中で(第一〇六~一一七行)、イーピゲネイアが生贄として捧げられる瞬間の気持ちを、次のように彼女に語らせています。この瞬間は数多くの名画に描かれているものです。
(語り、略)
やがて吹き出す風は追風となって、艦隊は出帆しました。そして軍隊をトロイアの岸へと運んだのです。トロイア軍は上陸をはばもうと押しよせてきました。そしてその最初の攻撃でプローテシラーオスはヘクトールの手にかかって倒れました。

このプローテシラーオスはラーオダメイア(+5)という妻を家に残してきていたのですが、彼女はことのほか深く夫を慕っていました。ですから夫が戦死したという報せを受けたとき、彼女は神々に三時間だけでよいから夫と言葉を交わさせてくださるようにと懇願しました。

その願いはききとどけられました。ヘルメースがプローテシラーオスをこの世に連れもどしてくれたのです。そして夫がふたたび死んだときにはラーオダメイアも夫といっしょに死んでいったのでした。

伝えるところによると、ニュンペーたちが彼の墓のまわりに楡の木を植えたところ、それらの木は非常によく成長してトロイアの町を見渡せるほど高くなったのですが、それはすぐに枯れてしまい、それと同時に新しい枝がその根本から生えてきたということです。

P527 ワーズワースにはこのプローテシラーオスとラーオダメイアの話を主題にした詩があります。その詩の中の神託は、この戦いの勝利は最初に戦争の犠牲者を出した方の側にもたらされると告げてあったように思われます。

詩人はここで、プローテシラーオスが、この世にふたたび連れもどされたそのわずかばかりの間に、自分の運命についてラーオダメイアに語りきかせるところを詩っているのです。
(詩、略)
P529 「イーリアス」
戦いは決定的な勝敗もなしに九年のあいだ続きました。そしてあるとき、ギリシア軍にとって致命的ともいえるような事件が起こりました。それはアキレウスとアガメムノーンとの間の仲違いでした。

あのホメーロスの偉大な叙事詩「イーリアス(+6)」(「イーリオス(トロイア)の歌」の意)が始まるのはこのところからです。ギリシア軍は、トロイアこそ攻め落としはしませんでしたが、近くにある同盟国をいくつか占領していました。

そしてその戦利品を分配する折に、アポローンの祭司クリューセースの娘でクリューセーイスという処女が捕虜としてアガメムノーンの手に渡ったのです。父親のクリューセースは祭司の象徴(笏杖や幣のこと)をたずさえてやってくると、娘を自由の身にしてほしいと願い出ました。

ところがアガメムノーンはそれをはねつけたのです。そこでクリューセースはアポローンに祈って、ギリシア軍がどうしても娘を手放さずにはいられなくなるまで彼らを苦しめてやってくださるようにと懇願しました。

アポローンは自分の祭司のこうした祈りをききとどけて、ギリシア軍の陣営に疫病を送りました。そこで会議が開かれ、いかにして神の怒りを鎮め疫病を防ぐかが討議されました。アキレウスは大胆にも、

P530この禍は、アガメムノーンがクリューセーイスを返してやらなかったために起こったのだと言いはなちました。アガメムノーンは激昂しながらも娘を手放すことにしましたが、その代わりにブリーセーイス(+7)をよこせとアキレウスに要求しました。戦利品の分配のときアキレウスの手に落ちていた処女です。

アキレウスはその要求に従いはしましたが、同時に、自分はもうこの戦いには加わらなぬからと宣言しました。そして自分の軍隊を本陣から引きあげてしまい、誰はばかることなく、自分はギリシアに帰るつもりであると言明したのです。

神々や女神たちも、戦っている当事者たちと同じようにこの名高い戦争に深い関心をよせていました。もちろん神々には運命の定めたことはよくわかっていて、もしギリシア軍が辛抱づよく攻撃をつづけ、自分たちの方からすすんでこの遠征をあきらめるようなことがなければ、トロイアもついには陥落するであろうということを知っていました。

それでもその時々の成り行きが、どちらかの軍勢に味方している天上の神々に対して希望をもたせたり心配をさせたりするだけの余地はあったのです。ヘーラーとアテーナーとは、自分たちの美しさをパリスに軽んじられたので、トロイア側に敵意をいだきました。

アプロディーテーはそれとは反対の理由でトロイア側に味方しました。そして日ごろ自分を崇拝しているアレース(軍神)を同じトロイア側に引き入れましたが、ポセイドーンはギリシア側に味方しました。

アポローンは中立でしたが、時にはトロイア側に、また時にはギリシア側にもつきました。そしてゼウス自身は、名君プリアモスを深く愛してはいたのですが、できるだけ公平な態度をとっていました。

といっても、例外がなかったわけではありません。

P531 アキレウスの母のテティスは、わが子に加えられた侮辱に激しく怒りました。そしてすぐにゼウスのところへ行って、どうかギリシア軍がアキレウスに加えた非行をを後悔するよう、トロイア側に勝利を与えてやってくださいと懇願しました。

ゼウスはその願いをきき入れました。そして次の合戦ではトロイア側が完全に勝利を得ました。ギリシア側は戦場から追われて艦の中に避難したのです。

そこでアガメムノーンは会議をひらき最も智に長けた最も勇敢な武将たちから意見をききました。ネストールは、アキレウスに使者を送ってもういちど戦場に出てもらうよう説得すべきである、そしてアガメムノーンはこの仲違いの原因となった処女をアキレウスに返し、自分の犯した過ちを償うだけの充分な贈り物をそれにつけ加えるべきである、と助言しました。

アガメムノーンは承知しました。そして、オデュッセウスとアイアースとポイニクスが使者として送られて、この謝罪の伝言をアキレウスに伝えることになりました。そして三人はこの任務を果たそうとしたのですが、アキレウスは彼らの説得には耳もかしませんでした。そして戦場にもどることを頑強にこばんで、ただちにギリシアに向かって出帆すると言いはりました。

ギリシア軍は船のまわりに防壁を築いていました(船は海岸に引き上げられてある)。そして今ではトロイアを攻撃するどころか、その防壁の中で自分たち自身がいわば攻撃されることになったのである。

アキレウスに送った使者が空しく立ち帰ってきた翌日、また合戦がありました。

P532そしてトロイア方は、ゼウスの救けを得て勝利をおさめ、首尾よくギリシア軍の防壁の一部をつき破ると船に火をはなとうとしました。ポセイドーンはギリシア軍のこうした窮状を見ると、救援にやってきました。彼は予言者のカルカースに身を変えて現れると、大声で将兵たちを激励し、一人一人に訴えてまわりました。

そのためギリシア軍の士気も大いに上がってトロイア軍を退却させることができるほどになりました。アイアースは数々の勇ましい手柄をたて、やがてヘクトールと渡りあうことになりました。

アイアースが大音声で合戦をいどみけると、ヘクトールもそれに応え、手にしていた槍をこの巨大な武将めがけて投げつけました。槍は狙いたがわずアイアースに当たりました。

剣と盾とを提げる二筋の帯がちょうど胸のあたりで重なりあうところです。この二重の防護物が槍先の貫通を防いだために、槍はそのまま足もとに落ちました。そこで今度はアイアースが、船を支えておくのにも使えるほどの大きな岩を一つつかんで、それをヘクトールめがけて投げつけました。

岩はヘクトールの首にあたって彼をその場に倒しました。すると家来たちがすぐに駆けより、気を失っている傷ついたヘクトールの体を運んでゆきました。

ポセイドーンがこのようにしてギリシア軍に力をかし、トロイア軍を追い返しているあいだ、ゼウスは事のなりゆきに少しも気がつきませんでした。それというのもヘーラーの策略によって心が戦場からそらされていたからなのです。

女神はありったけの魅力に装い

P533 をこらして、あげくの果てにアプロディーテーからケストスと呼ぶ帯迄借りうけていました。この帯こそ、それを身につける者の魅力をいやが上にも高めて、相手をすっかり悩殺してしまうほどの力をもったものだったのです。

こうして身支度をととのえたヘーラーは、オリュンポスの頂に坐って両軍の合戦を眺めている夫に会いに行きました。ゼウスは彼女を見るとその姿があまりにも魅力的だったので、若いころのあの愛の心がよみがえってきました。

そして戦いを交えている軍隊のこともその他の政務のこともすっかり忘れてしまい、ただ妻のことしか考えずに、合戦の方はなるがままにしてしまったのです。

しかしこうした状態がそういつまでも続いていたわけではありません。ゼウスが下界に目をやると、ヘクトールが苦しみと傷とのために虫の息で野原に倒れ伏しているのが見えたので、彼は憤然としてヘーラーを追いたてながら、イーリスとアポローンとをここへよこすようにと命じました。

そして虹の女神(イーリス)がやってくるくるとこの女神に厳しい伝言をもたせてポセイドーンのところへやり、ただちに戦場から立ち退くようにと命令しました。アポローンは、ヘクトールの傷をなおして、その胸に勇気を吹き込んでやるようにと派遣されました。

こうした命令は非常な速さで実行に移されましたから、合戦がなおも激しく続いている間にヘクトールはふたたび戦場へもどり、ポセイドーンは自分の領地へと引きあげていったのです。

パリスの弓から放たれた矢はマカーオーンを傷つけました。マカーオーンはアスクレーピオス(医神)の息子で、父親から医術を受けついでいました。ですからギリシア軍にとっては軍医として大切な人物でした。そしてその上、ギリシア軍の中でも最も勇敢な武将の一人だったのです。

P534ネストールは負傷したマカーオーンを自分の戦車にのせると戦場から運び出しました。二人がアキレウスの艦隊のそばを通ったとき、英雄アキレウスは、ちょうど戦場の方を眺めていたところだったので、このネストールの戦車に気がつきました。

そして乗っているのが老将ネストールであることまではわからなかったのですが、負傷した将軍が誰であるかははっきり見分けることができませんでした。そこでアキレウスは幼な友だちでもあり無二の親友でもあるパトロクロスを呼んで、彼をネストールの陣営にやって尋ねさせようとしました。

パトロクロスは、ネストールの陣営につくと、マカーオーンが負傷していることを知りました。そこで自分のたずねて来た理由を話しおえると急いで帰ってゆこうとしたのですが、ネストールはそれを引きとめて、ギリシア軍の悲惨な状況をいろいろと話してきかせました。

ネストールはまたパトロクロスの心に、ギリシアを発つときアキレウスとパトロクロスとがそれぞれの父親からそれぞれどのような忠告を与えられてきたかを思い出させました。

アキレウスは他に抜きん出た手柄をたてるようにと、そしてまたパトロクロスは、年も上であるあるから親友のアキレウスをよく見守り、未熟なところは手引きをしてやるようにと言われてきたではないか、と言いきかせました。

「今こそ」とネストールは言いました、「アキレウスを説得すべきときじゃ。うまくゆけばおぬしがあの男をわれわれの味方に引きもどすことができるかもしれん。しかしそれが駄目ならば、せめてその手勢だけ

P535 でも戦場に送らせるようにしてほしい。そしてパトロクロスよ、おぬしがあの男の甲冑をつけて出てくるのじゃ。そうすればおそらくその甲冑を目にしただけでトロイア軍は退却するじゃろうからな」

パトロクロスはこうしたネストールの言葉に強く心を動かされ、急いでアキレウスの許へと帰ってゆくのですが、その間にも自分の目で見、耳で聞いたことを心の中に思いめぐらしていました。

そして彼は最近まで僚友であった武将たちの陣営の悲惨な状況をアキレウスに語りました。ディオメーデースもオデュッセウスもアガメムノーンもマカーオーンもみんな手傷を負っていること、防壁がうちやぶられたこと、敵軍が船陣になだれ込んでいまにも船を焼き払いわれわれのギリシアへ帰る手だてを断ち切ろうとしていること、などを語ったのです。

こうして二人が言葉を交わしている間にも船の一つから火の手があがりました。それを見たアキレウスはさすがに憐れを感じて、パトロクロスの願いをきき入れ、彼にミュルミドーンをひきいて(アキレウスの兵士たちは特にそう呼ばれていたのですが)戦場におもむくことと、自分の甲冑を貸し与えることとを許しました。

その甲冑を身につければトロイア軍をいっそう恐怖におののかせることができるからです。兵士たちにはただちに集合の号令がかかりました。パトロクロスは光り輝く甲冑を身につけ、アキレウスの戦車にうちのると、合戦に勇み立つ兵士たちの先頭に立ちました。

しかし出発の前に、アキレウスは彼を厳しくいましめ、必ず、敵を追い払うだけで満足するようにと申し渡しました。

P536「いいか」と彼は言いました、「私なしでトロイア軍に攻め入ろうなどとしてはならぬぞ、それはかえって私の誉れを傷つけることになるものだからな」。それから彼は兵士たちに各自最善をつくすようにと訓令して、勇みたつ一同を合戦へと送り出したのです。

パトロクロスと彼のひきいるミュルミドーンとは、ただちに、戦いが最も激しく行われている地点へと突進してゆきました。これを見て喜び勇んだギリシア軍がいっせいに鬨の声をあげると、船もその声に鳴りひびきました。

トロイア軍は、名高いアキレウスの甲冑を見ると、恐怖におののいて、あちこちへと逃げ場をさがしました。まずはじめに、船を手に入れそれに火をかけていた連中が逃げだして、ギリシア軍に船を奪い返し火を消すことを許してしまいました。

すると残りのトロイア軍もいっせいにあわてふためきながら逃げだしました。アイアースやメネラーオスやそれにネストールの二人の息子たちは、めざましい働きを見せました。そのため敵の大将ヘクトールはやむなく馬の鼻面を向けなおして囲みの中からのがれ出なければなりませんでした。

壕に落ちて縺れあっている部下の者たちはそのままにしてめいめい自分の力で逃げるにまかせました。パトロクロスはその逃げる者どもを追いかけ、数多くの敵を殺しました。誰ひとり彼に刃向かえる者はいなかったのです。

そこでついにゼウスの息子のサルペードーンがこのパトロクロスに向かって一戦を交えようと進み出てきました。ゼウスはそれを見るとわが子を攫って、その待ちうけている死

P537 の運命から救い出してやりたいと思いました。しかしヘーラーが横あいから口をだして、もしゼウスがそのようなことをしたら、天上に住む他の神々がみんなそれを見て、自分たちの子供が危うくなるたびに同じような手段で干渉するようになりはせぬかと言いました。

この理屈にはさすがのゼウスも返す言葉がありませんでした。サルペードーンは手にした槍を投げました。しかしパトロクロスには当たりませんでした。ところがパトロクロスが投げるとみごとに命中しました。

サルペードーンの胸を貫いたのです。サルペードーンはその場に倒れました。そして彼は、友だちの名を呼び自分の屍を敵の手から守ってくれるようにと頼みながら死にました。それから激しい合戦がこの屍の争奪を巡って起こりました。

ギリシア軍は首尾よくこれを奪いとるとサルペードーンの甲冑を剥ぎとりました。しかしゼウスは自分の子供の死体がこれいじょう辱めをうけることを許そうとはしませんでした。そこでゼウスの命令を受けたアポローンが、兵士たちの中からサルペードーンの死体を攫ってゆくとそれを「死(タナトス)」と「眠り(ヒュプノス)」の双子の神の手にあずけました。

そして死体はこの双子の神によってサルペードーンの故郷のリュキアに運ばれ、ここで手厚い葬儀をうけたのです。

このあたりまではパトロクロスも全く思いのままに成功をおさめて、トロイア軍を撃退したり、味方の軍勢を救ったりしていました。しかしやがて運命の変化がおとずれてきました。

ヘクトールが戦車に乗って向かってきたのです。パトロクロスはこのヘクトールめがけて大きな石を投げつけました。狙いははずれましたが、石は御者のケブリオネースに当たって彼を戦車から転げ落としました。

P538ヘクトールはこの戦友を助けようと戦車から飛びおりました。そこでパトロクロスも飛びおり、自分の勝利を完全なものにしようとしました。こうして二人の英雄はあい対峙したのです。

この決戦にあたって詩人ホメーロスは、ヘクトールに勝利の栄誉を与えるのがいかにも気が進まぬかのように、輝ける(ポイボス)アポローンが加勢してこのパトロクロスに立ち向かったというように語っています。

つまり太陽神(アポローン)がパトロクロスの頭から兜を、手から槍を、打ち落としたのだというのです。そして同時に背後から忍びよったトロイア方の一人が彼の背中に傷を負わせると、ヘクトールが進み出て、手にした槍でパトロクロスを突き刺しました。こうしてパトロクロスは致命傷を負って倒れたのです。

それからこのパトロクロスはの屍の争奪をめぐって激しい合戦が起こりました。しかし彼の甲冑はたちまちヘクトールの手に渡ってしまいました。ヘクトールはやや後方に退いて自分の甲冑をぬぐと、パトロクロスから剥ぎとったアキレウスの甲冑を身につけ、ふたたび戦場にもどってきました。

アイアースとメネラーオスとはパトロクロスの死体を守り、ヘクトールと彼の率いる最も勇敢な将兵とはそれを奪いとろうと争いました。合戦は勝敗のつかぬまま激しい勢いで続きましたが、そのうちにゼウスが大空を黒雲ですっかり覆いかくしてしまいました。

稲妻が光り、雷鳴がとどろきました。そしてアイアースはあたりを見まわし、誰かをアキレウスのところへやって親友の死を知らせ、またその死体がいまにも敵の手に渡りそうになっていることを知らせたいと思ったのですが、誰ひとり適当な

P539 者を見つけることができませんでした。この時の彼の叫びは有名な一節としてよく引用されます。
(引用、略)
P540ゼウスはこの祈りをききいれ、雲を散らしました。そこでアイアースはアンティロコスをアキレウスのところへ送って、パトロクロスの死と死体の争奪のために激しく戦われている合戦のことを知らせました。

ギリシア軍はついにその死体を船陣に運び込むことができましたが、そのすぐ後からはヘクトールやアイネイアースやその他のトロイア勢が追ってきました。

アキレウスは友の死をきくと深く悲しみました。そのあまりの激しさに、アンティロコスはアキレウスが自殺するのではないかと、一時は心配したほどでした。アキレウスの呻き声は母親のテティスの耳にまでも達しました。

彼女の住んでいるあの大洋の底にまでもとどいたのです。そこで母親は急いでアキレウスのところへやってくると、その訳を尋ねました。そしてわが子が激しい自責の念に苦しんでいることを知りました。

自分はこれまでアガメムノーンに対する憤りにばかり心をほしいままにしていて、そのために親友を犠牲にしてしまったのだというのです。しかし、その悲しみの唯一の慰めは復讐の望みだけでした。

アキレウスはすぐにも飛んでいってヘクトールを探し出したいと思いました。しかし母親は、いま彼にはあの甲冑がないことを思い出させ、そして明日まで待ちさえしたら、失った甲冑よりももっと立派な甲冑をヘーパイストスからもらってこようからと約束しました。そしてアキレウスが承知するとテティスはただちにヘーパイストスの館へ行きました。

P541 見るとヘーパイストスは鍛冶場で忙しそうに、自分の館で使う三脚台を作っていました。その台は実に巧みな造りで、必要なときにはひとりでに出てきましたし、要らなくなればまたひっこんでゆくといったものででした。

ヘーパイストスはテティスの頼みをきくと、すぐさま、自分の仕事を後まわしにして急いで彼女の仕事にとりかかりました。そしてアキレウスのためにみごとな甲冑を作り上げました。

最初は手のこんだ模様で飾った盾、次には黄金の前立をつけた兜、それから槍先も通さぬほどの硬い胸当てと脛当て、それらはどれもみなアキレウスの体にぴったりと合って完全無欠のできばえでした。

そしてこれらのものがすべて一夜のうちにできあがったので、テティスは甲冑を受けとるとさっそく下界におりてゆき、アキレウスの足もとにそれをおいてやりました。夜もしだいに明けそめるころです。

喜びの最初の輝きが、あのパトロクロスのの死以来アキレウスの心に訪れたのは、彼がこのみごとな甲冑を目の前にしたときでした。彼はさっそくそれを身につけると味方の陣営にでかけてゆき、武将たちを一人残らず会議に呼び集めました。

そしてみんなが集まると彼らに話しかけました。アガメムノーンに対する怒りをすて、その怒りゆえに生じた数々の悲しい出来事を深く嘆きながら、彼は一同にむかってただちに戦場へおもむこうではないかと呼びかけたのです。

アガメムノーンもその呼びかけにふさわしい応えかたをして、すべての罪を仲違いの女神アーテーのせいにしました。こうして完全な和解が二人の英雄の間に成立したのです。

P542そこでアキレウスは戦場へと出かけてゆきました。心は復讐の飢えと渇きにふりたっていたので、敵方は誰ひとり彼をくいとめることができませんでした。どんなに勇敢な武将でさえも恐れをなして逃げだすか、さもなければ、彼の槍にかかって倒れました。

ヘクトールは、アポローンから注意されていたので、遠くに離れていました。しかし、そのアポローンはプリアモスの息子たちの一人、リュカーオーンの姿に身を変えるとアイネイアースを励ましてこの恐ろしい敵将に立ち向かわせました。

アイネイアースはとてもかなわぬと思いましたが、戦いを断わるなどということはしませんでした。そして手にした槍を、全身の力をこめて、相手の楯になげつけました。あのヘーパイストスが作った楯になげつけたのです。

楯は五枚の板金でできていました。二枚は青銅、二枚は錫、後の一枚は黄金でした。槍はそのうちの二枚を貫きましたが、三枚目で止められてしまいました。次にアキレウスが自分の槍を投げると、それは首尾よく命中しました。

アイネイアースの楯を貫いたのです。しかし肩のあたりをかすめただけで、相手に傷を負わせることはできませんでした。そこでアイネイアースは石をつかみました。現代の人では、男が二人かかっても持ちあげられないような大きな石です。彼はそれを投げつけようとしました。

するとアキレウスの方は剣を抜いて彼に襲いかかろうとしました。と、その時、この戦いを目にしたポセイドーンはアイネイアースを不憫に思う気持ちから、というのは早くアイネイアースを救けてやらねばきっとアキレウスに殺されてしまうと思ったからなのですが、

P543 この二人の間に雲をひろげ、アイネイアースを大地からすくいあげると武将たちや軍馬の頭上をこして戦場の後方へと連れていってやりました。アキレウスは、雲が晴れるとすぐさまあたりを見まわしたが、相手の姿はどこにも見あたりません。

そこで彼もこれは神の仕業であろうと悟って、矛先を他の武将へと向けなおしました。しかし誰ひとり彼の前に立ちはだかることのできる者はいないのです。そしてプリアモス王が城壁の上から見ていると、王の軍勢は一人残らず城町をさしていちもくさんに逃げかえってきました。

そこで王は、城門をひろく開けてこれを迎え入れるようにと、そして味方の軍勢が通り過ぎたらただちに、その後から同じようにして敵軍が入り込まぬように城門を閉じてしまえと命じました。

しかしアキレウスがあまりにも間近に迫っていたのでそれさえできそうにありませんでした。と、そのときアポローンがプリアモス王の息子、アゲーノールの姿に身を変えて現れました。

そしてアキレウスとしばらくのあいだ渡りあい、それから踵を返して逃げだすと、城町から離れてゆきました。アキレウスはその後を追い、城壁からはるか遠く離れたところで相手を追いつめました。するとアポローンは元の姿に立ち返りました。そこでアキレウスはさては計られたかと悟って、その追跡をあきらめました。

そのあいだ他の者たちはみんな城町の中に逃げ込んだのですが、ヘクトールだけは外に踏みとどまり、アキレウスとの一戦を待ちうけようと心を決めていました。年老いた父親は城壁の上から呼びかけ、早く中に入るようにと、そして一騎打ちなどしないようにと懇願しました。

P544母親のへカベーもまた同じように哀願したのですが、その甲斐はありませんでした。「私の命令で」とヘクトールは自分にむかって言いました、「みんなは今日の合戦に出陣し、多くの者がそこで命をおとしたのだ。それなのにどうしてこの私がたった一人の敵との戦いをさけて身の安全を求められようか?

だが、もしあの男にヘレネーとその財宝のすべてとを差し出し、われわれの財宝も充分それにつけ加えるからと申し出たらどうであろうか? ああ、それはだめだ! 今となってはもう遅い。あの男は私の言うことなど最後まできこうともせず、話が終わらぬうちにこの私を殺してしまうだろう」。

こうして彼が思い悩んでいるあいだにも、アキレウスは近くに迫ってきました。その恐ろしい姿はさながら軍神(アレース)のごとく、身にまとう甲冑は歩みにつれて稲妻のごとき光を放ちました。

それを見るとヘクトールの勇気もくじけて、彼はついに逃げだしました。アキレウスは飛ぶように追いかけてきました。二人は城壁に沿って走りつづけ、ついにトロイアの城町を三度もまわってしまいました。そしてヘクトールが城壁の下に駆けよろうとするとそのたびにアキレウスはそれをはばみ、大きな輪を描きながら城町のまわりを駆けさせるようにしました。

しかしアポローンはそのヘクトールの力をささえて、彼が疲労のために倒れることのないようにしてやりました。するとパラス・アテーナー(「パラス」はアテーナーの呼称の一つ)は、ヘクトールの弟の中でも最も勇敢なデーイポボスの姿に身を変えて、突然ヘクトールのかたわらに現われました。ヘクトールは弟の姿を見ると大いに喜び、

P545 それに力を得て、逃げるのをやめ、アキレウスを迎え撃とうと向きなおりました。そして手にした槍を投げつけたのですが、それはアキレウスの楯にあたってはねかえってしまいました。そこで弟の手から別な槍をうけとろうとして振りむくと、もうデーイポボスの姿は見えなかったのです。

ヘクトールはそのとき自分の運命を悟って言いました。「ああ!きっと私の最期の時がきたのだ! デーイポボスがすぐそばにいると思っていたが、パラス・アテーナーが私をあざむいたのだ。そして弟はやはり城壁の中にいるのだ。だが私も不名誉な死に方はすまい」。

そう言うと彼は腰から剣を引きぬき、すぐさま突進してゆきました。アキレウスは楯をかまえて、ヘクトールの迫ってくるのを待ちました。そして相手が槍のとどくところまでくると、それまでじっと隙をうかがっていた彼は、ヘクトールの頸すじの部分だけが甲冑におおわれていないのを見てとるなり、そこをめがけて槍を打ち込みました。

ヘクトールは深傷を負って倒れました。そして絶えゆく息の中から言いました。「どうか私の屍だけは赦してくれ! 贖いをとって私の両親にひきわたしてくれ、そしてこの死体がトロイアの人々から葬儀をうけられるようにしてくれ」。

するとアキレスはそれに答えました。「犬畜生め、いまさら贖いだの慈悲だのとほざくな、きさまはあまりにも恐ろしい悲しみをこのおれに与えていたのだぞ、いやだ! おれはきさまのむくろを犬から守るようなことは誰にも許さんからな。贖いを二〇倍にして、それにきさまの体の重さほどの黄金を運んでこようと、おれはことわる」。

そう言って彼はヘクトールの体から甲冑をはぎとると、その足に綱をゆわえつけ、戦車のうしろにつないで、そのまま死体をひきずってゆけるようにしました。

P546それから戦車にのりこみ、駿馬に鞭をあてました。こうして彼はその死体をトロイアの城の前でひきずりまわしたのです。
(略、死体の辱め、パトロクロスの葬儀)
P547
(略、死体の辱め、パトロクロスの葬儀)
アキレウスが怒りのあまり、こうして雄々しいヘクトールの死体を辱めていたとき、ゼウスはそれを不憫に思ってテティスを面前に呼びよせました。そして、息子のところへ行って、ヘクトールの屍をトロイア方に返してやるように説ききかせてもらいたいと言いました。

それからゼウスはまた虹の女神(イーリス)をプリアモス王のところへ送り、王にアキレウスのもとに行って息子の屍を乞いうけるようにとすすめさせました。イーリスがその旨を伝えると、プリアモスはさっそくそれに従うために準備をしました。
(略、アキレウスとプリアモス王の対面、やりとり)
P549
(略、アキレウスとプリアモス王の対面、やりとり)
そういうとアキレウスは立ちあがり、二人の武将といっしょに行って、馬車から贖いの品をおろしましたが、布地二枚と衣だけは屍の覆いとして残してやりました。そしてヘクトールの屍を馬車にのせ、その上から布をかけ、遺体がむきだしのままトロイアに送り返されることのないようにしてやりました。

P550それからアキレウスは老王を自分の武将とともに退らせましたが、そのまえに彼は、ヘクトールの葬儀のために一二日間の休戦を与えようと約束したのです。
(略、遺体の帰還、葬儀)

完訳『ギリシャ・ローマ神話』上下合本版(ブルフィンチ大久保博訳岩波文庫)(下)

P551第28章 トロイアの陥落、ギリシャ軍の帰還、オレステースとエーレクトラー
P552
P553トロイアの陥落
「イーリアス」の物語はヘクトールの死をもって終わります。ですから私たちがその他の英雄たちの運命について知るのは「オデュッセイア(+9)」やそれ以後の作品からです。ヘクトールが死んでからも、トロイアはすぐに陥落したわけではなく、新しい同盟者たちからの救援を得てなおも抵抗を続けていました。

その同盟者の一人に、すでにお話したアイティオピアーの王メムノーンがいました。もう一人はアマゾーン族の女王ペンテシレイアで、彼女は女ばかりで成る軍隊をひきいてやってきました。

彼女たちの勇気と、その鬨の声の恐るべき効果とはあらゆる本が書き記しています。そしてペンテシレイア(+10)はは敵方の武将を何人も殺しましたが、最後はアキレウスのために殺されました。

しかしアキレウスは自分の倒した敵将の上にかがみ込むと、その美しさと若さと勇気とに感動して、自分の勝利を深く悲しみました。ところが礼儀作法もわきまえぬ悪態つきで扇動者のテルシーテースはその悲しみをあざ笑いました。そしてそのためにアキレウスに殺されたのです。

アキレウスはたまたま、プリモス王の娘のポリュクセネーを見かけていました。おそらくヘクトールの葬儀のためにトロイア軍に休戦を許したときのことだろうと思います。アキレウスは彼女の美しさに心を奪われてしまい、彼女を妻に得られるならばトロイアに平和を与えるようギリシャ軍に働きかけてもよいと言いだしました。そしてアポローンの

P554 神殿でその縁談をとりきめようとしていたとき、パリスが彼をめがけて毒矢を放ちました。矢は、アポローンに導かれて、アキレウスのかかとを傷つけました。かかとはアキレウスにとって唯一の弱点だったのです。

というのは母親のテティスが、アキレウスの幼いとき、この子を冥界のステュクス河に浸して全身を不死身の体にしてやったのですが、そのとき彼女のつかんでいたかかとだけが水につからずにのこったからです(*1)。

このように騙まし討ちにあって殺されたアキレウスの死体は、アイアース(+11)(アキレウスの従弟にあたる)とオデュッセウスとによって救い出されました。母親のテティスは、ギリシア方の将兵たちに、息子の甲冑をその生き残った勇士の中でも最もふさわしいと判定された者へ贈らせるようにしました。

アイアースとオデュッセウスの二人がその唯一の有資格者として名乗りでました。他の武将たちの中から何人かの者が選ばれて審判をすることになりました。そして甲冑はオデュッセウスに与えられることになり、こうして英知は武勇よりも高く評価されることになりました。

そのためアイアースは自刃しました。彼の血潮が大地にしみこんでゆくと、その場所から一本の花が生えてきました。ヒアシンス(アイリスの類)と呼ばれるもので、その花びらにはアイアースの名の最初の二文字AIが描かれていました。

ギリシア語で「ああ悲しい」という意味です。こうしてアイアースはあのヒュアキントス少年といっしょに、この花の生みの親としての名誉の方を要求できる有資格者となっているのです。

「ひえんそう(ラークスパー)」の一種で、古代の詩人たちが描くあのヒアシンスに代わってこの事件の思い出を今日に伝えている花があります。それは「デルフィーニウム・アイアーキス」--つまり「アイアースのひえんそう」です。

P555今や、トロイアを攻め落とすにはヘーラクレースの矢の助けによる以外にはないことがわかりました。その矢はピロクテーテース(+12)が持っていました。ヘーラクレースに最後まで供をして、その火葬壇に火をつけてやった友人です。

ピロクテーテーイスはギリシア軍に加わってトロイア遠征に向かったのでしたが、ふとしたことから自分の毒矢で足を傷つけてしまいました(一説には毒蛇に咬まれたともいわれている)。そしてその傷口から出る匂いが非常にくさかったので、仲間の者たちが彼をレームノス島へ連れてゆき、そこに置きざりにしていたのです。

さっそくディオメーデースが派遣されて(一説にはそれにオデュッセウスが加わったとも、また派遣されたのはオデュッセウスとネオプトレモスの二人だったともいわれている)、彼にもういちど軍隊に加わってくれるようにと説きすすめました。

説得はうまくゆきました。ピロクテーテースはマカーオーンに傷をなおしてもらいました。そして、パリスがその恐ろしい毒矢の最初の犠牲者となったのです。パリスは苦しみ悶えながら、自分が幸運に恵まれていたときには忘れていたある女性のことを思い出しました。

それはニュンペーのオイノーネー(+13)(彼女は薬草の知識を持っていた)でした。彼が若いころ妻として娶り、運命の美女ヘレネーのために捨ててしまった女です。オイノーネーは、自分の受けたそうした不当な仕打ちを忘れず、彼の傷の手当てをこばみました。

そこでパリスは、トロイアに帰って、ついに死にました。オイノーネーはすぐに後悔しました。そして薬をもって彼の後を追ってたのですが、もう間にあいませんでした。そこで彼女は悲しみのあまり首をく

P556 くって死んだのです(*2)。

トロイアにはパラディオンと呼ばれるアテーナーの有名な像がありました。それは天から落ちて来たと言われ、トロイアの町はこの像が町の中にある限り攻略されることはないと信じられていました。

そこでオデュッセウスとディオメーデースは変装して町に忍び込み、首尾よくこのパラディオンを手に入れてギリシア方の陣営に持ちかえりました。

しかしトロイアはそれでもまだもちこたえていました。そしてギリシア軍の方も武力によってこの町を征服する希望を失いかけていましたので、オデュッセウスの提案によって計略に訴えることになりました。

ギリシア軍は包囲を解く準備をしているように見せかけました。そして船団の一部を撤退させて近くの島のかげにかくれました。それからギリシア軍は大きな木製の馬をつくりました。それはアテーナーの怒りを鎮めるための捧げ物にするつもりなのだと彼らは言いふらしたのですが、実は、その中には武装した武将たちがいっぱいにひそんでいたのです。

残っていたギリシア軍もやがて自分たちの船に乗り込んで、まるでこれが最後の出発であるかのように見せかけながら出帆してゆきました。トロイア軍は、陣営が解体されて船団が行ってしまったのを見て、敵軍が包囲を解いたものと思い込みました。

そこで城門が開かれ、町中の人々がとび出してきて、長いあいだ禁止されていた通行が自由になったとことを喜びながら、つい先ごろまで敵の陣営であった場所を思いのままに歩きまわりました。

例の大きな馬はみんなの好奇心の的になりました。いったい何のためなのだろうと誰もが不思議に思いました。そして戦利品として町に持っていこうではないかと言いだす者もいました。また、それを危ぶむ者もいました。

P558 みんながためらっていると、ポセイドーンの神官ラーオコオーンが叫びます。「市民たちよ、これは何という狂気のさただ!おまえたちはギリシア人の奸計がまだわからないのか、警戒しなければいかん。私ならギリシア人が贈り物をくれるという時でさえ奴らを怖れるくらいだ」(*巻末ことわざ集1参照)

そう言いながら彼は手にした槍をその木馬の横腹めがけて投げつけました。槍はあたりました。するとうつろな音がひびきわたって、それは呻き声にも似ていました。そこでおそらく人々は彼の忠告をいれて、この運命の木馬とその中にひそむ者たちを一人残らず滅ぼしてしまったかもしれなかったのですが、ちょうどその時、一団の人々が姿を見せたのです。

捕虜らしい、しかもギリシア人らしい男を引ったてて来ました。恐ろしさに口もきけないような様子で、その男は武将たちの前に連れだされました。武将たちはその男の気を鎮めさせ、問われることに正直に答えるならば命だけは助けてやろうと約束しました。

すると男は、自分はギリシア人で、シノーンという名前であると言い、また、オデュッセウスの恨みをかって、出帆の際みんなから置きざりにされてしまったのだと話しました。

例の木馬については、その男の語るところによると、アテーナーの怒りを鎮めるための捧げ物であって、あんなに大きくしたのはあの木馬が町の中に運び込まれないようにと特にそのように造ったからなので、それと言うのも予言者のカルカースが、もしあれをトロイア軍が手に入れでもしたら、彼らはきっとギリシア軍に打ち勝つだろうと告げたからだと言うのでした。

この言葉は人々の気持ちを一変させました。そこでみんなは、どのようにしたらこの大きな木馬を首尾よく手に入れ、

P560 それに関する縁起のいい予言を実現させることができるか考えはじめました。と、その時とつぜん不思議な事件が起こって、人々はもう疑いをはさむ余地もなくなりました。二匹の大きな蛇が現われて、海上をこちらへとやってきたのです。

蛇が陸地にあがると、群衆は四方八方へと逃げました。蛇は、ラーオコオーンが二人の息子といっしょに立っている所へまっすぐ進んできました。そして初めに息子たちを襲い、その体に巻きついて、顔に毒のある息を吹きかけました。父親は子供たちを助けようとしましたが、今度は自分もつかまって蛇のとぐろの中に巻き込まれてしまいます。

彼はそれを引きはなそうともがきますが、蛇の方は彼がどんなに力をつくそうとしてもそれを打ち負かして、彼や子供たちを毒のあるとぐろの中で絞め殺してしまいます。この出来事はあの木馬に加えたラーオコオーンの無礼な行為に対する神々の不興のしるしにちがいないと考えられました。

そして人々はもうためらうことなく、その木馬を神聖な捧げ物であると考えて、正式な儀式をもって町の中に運びこむ準備をしました。これは歌や勝利の歓呼をもって行われました。そしてその日は祝祭で終わったのです。

ところが夜になると、木馬の中にひそんでいた武装した武将たちが、あの回し者のシノーンによって連れ出されると、町の城門を味方の軍隊のためにひらきました。軍隊は夜陰に乗じて帰っていたのです。

町には火がかけられました。人々は浮かれ騒いだあげくに眠り込んで気力を失っていましたから、たちまち斬り殺されてしまい、そして、トロイアは完全に征服されてしまったのです。
(写真「ラーオコオーン」の彫像、ヴァティカン美術館)
現存するもっとも有名な群像彫刻の一つに、大蛇に巻きつかれたラーオコオーン(+14)とその子供たちの彫刻があります。ボストンのアシニーアム(現在のボストン美術館)にはその複製がありますが、原作はローマのヴァティカン宮殿(現在のヴァティカン美術館)にあります。

次の詩はバイロンの「ハロルド卿の巡遊」から引用したものです(第四巻、第一六○節)。
(詩、省略)
P562 喜劇的な詩の作者たちもまた、ときどき古代古典の物語を引喩に借りることがあります。次の詩はスウィフトの「都の通り雨」からの引用です(第四三--五二行)。
(詩、省略)
プリアモス王は生きながらえて、自分の国の滅びる様を見ることになるのですが、ギリシア軍がトロイアを占領したあの運命の夜、ついに殺されてしまいました。彼は甲冑を身につけ、他の勇士たちといっしょに戦おうとしたのですが、年老いた妻のへカベーに説きふせられて、妻と娘たちを連れてゼウスの祭壇へ逃げ、そこで救いを求めることにしました(*巻末ことわざ集2参照)。

ところがそのとき、いちばん年下の息子のポリーテースがアキレウスの息子のピュロスに追われて傷を負いながら駆け込んできました。そして父親の足もとで息をひきとりました。それを見るとプリアモスは悲憤のあまりわれを忘れ、そのかよわい腕をふるってピュロスに槍を投げつけました。そして、たちまちピュロスによって殺されてしまったのです。

女王のへカベー(+15)と娘のカッサンドラー(+16)とは捕らわれの身となってギリシアに連れてゆかれました。カッサンドラーは以前アポローンに愛されたことがありました。それでアポローンは彼女の予言の力を授けました。ところがその彼女に腹を立てたアポローンはその力を何の甲斐のないものにしてしまいました。彼女の予言を誰も信じないようにさせたのです。もう一人の娘のポリュクセネーは、アキレウスに愛されていました。

P564 それでこの英雄の亡霊に望まれ、ギリシア軍の手によって生贄にされてその墓に捧げられのです。

メネラーオスとヘネレー
みなさんは、あのヘレネーがどうなったか心配なさっておいででしょう。美しい、しかし罪深いこの女性のためにあんなにも多くの人が死んだわけなのですから。トロイアが陥落すると、メネラーオスはふたたび妻をとりもどしました。

彼女はアプロディーテーの力に負けて一度は彼をすてて他の男のもとに走りましたが、メネラーオスへの愛がなくなっていたわけではないのです。それでパリスが死ぬと、彼女は何度となくひそかにギリシア軍を援けました。

特に、オデュッセウスとディオメーデースとが変装して町に忍び込み、あのパラディオンを運び出そうとしたときがそうです。彼女はオデュッセウスを見て、それと悟ったのですが、その秘密を誰にももらしませんでした。そして二人を援けてその像を手に入れさせるようなことまでしたのです。

こうして彼女は夫と仲直りするようになり、二人は一足さきにトロイアの岸を発って故郷にむかいました。しかし神々の不興を買った彼らは嵐によって地中海の沿岸へと吹き流されて、キュプロスやフェニキアやエジプトを訪れることになりました。そしてエジプトでは親切に扱われ、高価な贈り物を贈られました。

P565その中でヘレネーに与えられたものには金の糸巻き棒と、車のついた織物籠とがありました。その籠はエジプトの女王が機を織るときに羊毛や糸巻きを入れておくためのものでした。

ダイアーは「羊の毛皮」という詩の中でこのことにふれて次のように詩っています。
(詩、省略)
ミルトンもまた、エジプトの女王がヘレネーに与えた「忘憂草」という、有名な強壮剤の秘法にふれて次のように詩っています。
P566 (詩、省略)
メネラーオスとヘレネー(+17)とは、やがて無事にスパルタに帰りつき、ふたたび王者にふさわしい威厳をとりもどして、輝かしい生活を送り政治を行いました。そしてオデュッセウスの息子のテーレマコスが父親を探し求めてスパルタにやって来たとき、メネラーオスとヘレネーは、娘のヘルミオネー(+18)とアキレウスの息子のネオプトレモス(ピュロスのこと)との結婚を祝っていたのです。

アガメムノーン、オレステース、エーレクトラー
ギリシア軍の総帥であったアガメムノーン(+19)は、メネラーオスの兄にあたります。そして彼は自分ではなくて弟に加えられた不法な仕打ちに対して、その報復のための争いに巻きこまれたわけだったのですが、彼の最期は弟のように幸福ではありませんでした。

留守のあいだに、妻のクリュタイムネーストラーが彼を裏切ったのです。彼女は夫の帰国がわかると、

P567情夫のアイギストスと謀って夫を殺そうとたくらみました。そして夫 の帰還を祝う席上で(一説には浴室でともいう)アガメムノーンを殺してしまったのです。

共謀者たちはアガメムノーンの息子のオレステースも殺してしまうつもりでいました。心配するほどの年頃ではなかったのですが、そのまま成長させたらあるいは危険の種になるかもしれぬと考えたからです。

ところがオレステースの姉のエーレクトラー(+20)が弟の命を助けて彼を叔父にあたるポーキスの王、ストロピオスのところへひそかにに逃がしました。

オレステースはストロピオスの宮殿で王の息子のピュラデースといっしょに成長し、彼と熱烈な友情を結びました。それは今日でも諺となって残っています(子の友情は「デーモンとピシアス」、「ダヴィデとヨナタン」の友情とともに有名)。

エーレクトラーは弟に使いを送って父の仇を討たねばならぬことを何度となく思い起こさせました。そこで彼は成長するとデルポイの神託を伺いました。信託は彼の仇討ちの決意をますます固めさせました。

そこで彼は姿を変えてアルゴスに行き、ストロピオスの使者を装って、オレステースの死を伝えに来たのだと告げに来ました。しかも骨壺には遺骨まで入れて持って来たのです。彼は父親の墓に詣で、当時の習慣にならって墓に捧げ物をしたのち、姉のエーレクトラーに自分の素性をあかし、間もなくしてアイギストスとクリュタイムネーストラーとの二人を殺しました。

息子がその母親を殺すなぞというこうした忌まわしい行為は、殺された方にも罪はありましたし、また神々の明白な命令によるものであったということで軽減されはしますが、

P568 昔の人々の心にも今日の私たちが持つのと同じ嫌悪感を呼び起こさずにはいませんでした。ですから復讐の女神であるエウメニス(+21)たちは、オレステース(+22)のとりついて彼の気を狂わせ国から国へと追いたてたのです。

ピュラデースはそのさすらいの旅についてゆき、彼を守ってやりました。やがてふたたび信託を伺うと、そのお告げは、スキュティアのタウリスに行き、その地から、天から降ってきたと伝えられているアルテミスの像を持ってくるようにとありました。

そこでオレステースとピュラデースとはタウリスに行きました。ここに住む蛮族には、彼らの国に迷い込んだ異国人を一人残らずこの女神に生贄として捧げる習慣がありました。そこでオレステースとピュラデースの二人は捕らえられ、縛りあげられて生贄のために女神の祭壇につれてゆかれました。

しかしそのアルテミスの祭司こそ誰あろう、オレステースの姉イーピゲネイア(+23)だったのです。彼女はみなさんも憶えていらっしゃるでしょうが、昔、生贄として殺されかけた瞬間、アルテミスに救われてここへ連れて来られたのです。

彼女は捕虜となった二人の素性がわかると、自分の素性もあかしました。そして三人は女神の像をもってこの国を逃げ出し、ミュケーナイへ帰って来たのです。

しかしオレステースはそれでもまだエウメニスたちの復讐から救われはしませんでした。そこでついに彼はアテーナイにあるアテーナーのところへ逃げ込みました。女神は彼を保護してやり、アレイオバゴス(「アレースの丘」の意で、ここに最高法廷があった)の法廷に命じて彼の運命を裁かせました。

エウメニスたちは彼を起訴しました。するとオレステースはデルポイの神託の命令(彼の母親殺しはアポローンの神託によるものであった)をあげて自分を弁明しました。

P569法廷が投票して、その票が有罪無罪の同数に割れたとき、オレステースはアテーナーの定めた規定によって無罪を言い渡されたのです。

バイロンは「ハロルド卿の巡遊」第四巻(第一三二節)の中でこのオレステースの物語にふれて次のように詩っています。
(詩、略)
ギリシアの古典劇の中で最も悲壮な場面の一つは、ソポクレースの描くオレステースとエーレクトラーとの会合の場面です(「エーレクトラー」第一一〇九行以下参照)。ちょうど

P570 オレステースがポーキスから立ち帰ったときのことです。彼はエーレクトラーを小間使いとまちがえ、また自分の帰還を復讐の機会が訪れるまで秘密にしておきたいと考えて、自分の遺骨が入っていることになっている骨壺を差し出します。

エーレクトラーはほんとうに彼が死んだものと思いこんで、その壺を受けとると胸に抱しめながら、優しさと絶望とにあふれる言葉で深い悲しみを口走るのです。
(写真「オレステースとエーレクトラー」ローマ国立美術館)
ミルトンはある十四行詩の中で(「攻撃が町に企てられたとき」第一二--一四行)こう詩っています。
(詩、略)
これは、ある時、アテーナイの町がスパルタの軍隊の手中におちて、その町の破壊が提議された際に、誰かがたまたまエウリーピデースの合唱隊の一節を誦いはじめたことからその提案が否決されたという話にふれて詩われているのです(くわしくはブルータルコス「対比列伝」(英雄伝)の「リューサンドロス」第一五節参照)。

トロイア
トロイアの町とその英雄たちについてこれほど多くのことを知った後で、この有名な町の正確な跡が今でもまだ論争されている問題だということをお聞きになったら、みなさんはおそらくびっくりなさるでしょう。

今日、ホメーロスや古代の地理学者たちが描いた記述にかなりよく符合する平原に墳墓の跡がいくつか見られるのですが、その他にはそこに以前大きな町が存在していたという証拠はなにひとつないのです(ブルフィンチのこの書が出版されてから一六年後にH・シュリーマンがトロイアの遺跡を発見した。その後C・W・ブレーゲンなどの調査によってさらに正確な位置が測定されている)。

ですからバイロンもその舞台となった場所の現在

P572 の様を次のように詩っています(「アビュードスの花嫁」第二巻、第二節。詩中の盲目の老人とはホメーロスのこと)。
(詩、略)
P574第29章 オデュッセウスの冒険、ロートパゴス、キュクロープス、キルケー、セイレーン、スキュラとカリュブディス、カリュプソー
P 575/ 576/ 578/ 580/ 582/ 584/ 586/ 588/ 590/ 592/ 594/ 596

P598第30章 パイアーケス人、求婚者たちの最後
P 599/ 600/ 602/ 604/ 606/ 608/ 610/ 612/ 614/ 616

第31章 アイネイアースの冒険--ハルピュイアたち、ディードー、パリヌーロス
第32章 下界--シビレー
P653第33章 カミラ、エウアンドロス、ニーソスとエウリュアロス、メーゼンティウス、トゥルヌス
P653/ 655/ 657/ 659/ 661/ 663/ 665/ 667/ 669/ 671/ 673/ 675

第34章 ピュータゴラース、エジプトの神々、神託所
第35章 神話の起源、神々の彫像、神話の詩人
第36章 近代の怪物たち--ポイニクス、怪蛇バシリスコス、一角獣、サラマンドラ
第37章 東洋の神話--ゾロアストラ、ヒンドゥー教徒の神話--カースト、ブッダ、ダライ・ラマ
第38章 北欧の神話--ワルハラ、ワルキュリアたち
第39章 ソールのヨツンヘイマル訪問
第40章 パルドゥルの死、妖精たち、ルーン文字、スカルドたち、アイスランド
第41章 ドゥルイたち、アイオウナ

読書案内(下)
P835トロイア戦争、ホメーロス
P837ウェルギウス、イーピゲネイア、ラーオダメイア、ブリーセーイス、アンドロマケー、ペンテシレイア
P839アイアース、ピロクテーテース、オイノーネー、ラーオコオーン、へカベー、カッサンドラー、ヘレネー
P841ヘルミオネー、アガメムノーン、エーレクトラー、エウメニスたち
P843オレステース、イーピゲネイア、キュクロープス、セイレーン、フェヌロン「テーレマコスの冒険」、テニスン「オデュッセイア」
P845アイネイアース、アンドロマケー、カローン、シーシュポス、タンタロス、オウィディオス「転身物語(変身物語)」、「ヴェニスの商人」、オシーリスとイーシス、「モード」、巫女、ウェルギリウス、「黒海からのたより」
P847「転身物語」、タキトゥス、シェイクスピア、ベンヴェヌート・チェリーニ、「ザンドアヴェスター」、「ヴェーダ」、ブッダ、「エッダ」、ワルキュア
P849神々の黄昏、グレイ「オージンの下向」、カーライル「英雄と英雄崇拝」、ドゥルイ、カイサル「ガッリア戦記」、スコット「湖上の美人」、「オシアンの詩」
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ことわざ集
P852/854/856