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消えた大寺院
P103 「寺社奉行の役人、多勢入り来り、門前の商家に対して、二日以内にことごとく取り払うべきの旨厳命伝う、人々驚駭措かず、真に寝耳に水の感あり」この日(天保十二年十月五日)の夜、鼠山の日蓮宗感応寺に対して突然のお取り潰しが幕府から伝達されました。
わずか四年前(天保八年)の秋に会式が行われたばかりです。徳川家斉の命で建立なった六万二千六百二十二坪の大寺院が、この日をもってことごとく破毀されることになりました。
荒野ひとたび変じて、伽藍となり、伽藍ふたたび変じて、また荒野となる。観来れば、ほとんど蜃気楼のたちまち現じて、またたちまち滅するに似たり東京・山手線の多くの駅は、JRのターミナル駅となったり私鉄や地下鉄と連結しています。池袋駅と高田馬場駅に挟まれる目白駅は、こういったコネクションがありません。今では少なくなった落ち着いた駅の一つです。ですからホームも改札も一ヵ所。
P104 学習院大学、川村学園、日本女子大学などに通う学生に混じって改札を出ると、正面に目白通りが東西に走っている。この通りを西に五百メートルほど歩き、りそな銀行目白出張所のある信号を北に入っていくと、閑静な住宅街が広がります。この辺りの高台はかつて鼠山と呼ばれ、将軍の鷹狩りの地でした。
現在は尾張徳川家ゆかりの徳川黎明会や、同会の運営する外国人用賃貸住宅の徳川ビレッジ、女子学生専用アパート徳川ドミトリーが建っています。徳川家と深い縁のある土地であることがわかります。しかしこの周りに並ぶ瀟洒な個人住宅や洒落たレストランからは、かつてここに将軍家斉お気に入りの六万坪を超える大寺院があったことを窺い知ることはほとんど不可能です。
第十一代将軍家斉の在位は長く、半世紀五十年にわたっています。一七八七年に将軍となり、それを嗣子家慶に譲ったのは一八三七年のことでした。しかし徳川家康、秀忠に倣って大御所となり、そのまま実権を握っていました。
「家斉将軍には五十五人の子女がありました。御寵女なるものも二十一人ありまして、その十八人まで御産をしております。お産をすれば御腹様というわけで、将軍の嗣子ならば大変な出世ですが、そうでなくても男子でさえあれば一廉の出世です。女子を産んでは割がわるいけれどもそれでも大諸侯へ縁組されますから、身幅が広くなる」多くの側室のなかで、もっとも家斉の寵愛を受けたのがお美代の方でした。実父はP105日蓮宗中山法華経寺智泉院の住職日啓です。将軍に近侍した中野清茂の養女となって大奥入りしました。お美代の方(専行院)の娘溶姫は加賀前田家に嫁ぎ、妹の末姫は安芸広島藩九代藩主浅野斉粛に嫁しています(一八三三)。広島藩は四十二万六千石。諸侯のなかでは六番目の石高を誇る有力大名です。(略)お美代の方の家斉将軍への影響力がどれほどのものであったか容易に推察できます。
日啓の野望
徳川家の江戸の菩提寺は芝増上寺と上野寛永寺。増上寺は家康が三河から江戸に移ってきた際に知遇を得た存応による浄土宗の寺です。三河徳川家の菩提寺大樹寺で修行した僧でしたから、増上寺はすんなりと江戸における香華院の地位を得ました。桶狭間から敗走する家康を追った織田の兵を追い返したのが大樹寺の僧兵たちでした(一五六○年)。
寛永寺は天台宗の寺です。家康が晩年、人生の師として帰依したのが比叡山で修業した天海僧正でした。家光は祖父家康を強く尊崇していましたから、家康亡きあと(一六一六年)は天海を父のように慕っていました。一六二五年、家光はこの天海のために江戸城の鬼門を鎮護する寺として寛永寺を建立しています。
家康自身は浄土宗信者ですが、国の政策としては一つの宗教を特別に保護することのないよう気を配っていました。ですから家光が天台の寺を後押ししても不思議ではありません。
P106日蓮宗もたくさんの信者を抱えていました。寛永寺の北に同宗の古刹感応寺があり、少なからぬ数の幕臣たちが日蓮宗を信仰していました。日蓮宗はどちらかと言えば教義にストイックな宗派です。なかでも法華経信者以外からは布施を受けず、また他宗派の僧には布施を施さない考え方をもつのが不受不施派です。幕府はこの派閥を邪宗とし改宗を命じています(一六九八年)。
感応寺のほかに、三田中道寺、碑文谷自証寺、千駄ヶ谷寂光寺も処分されています。しかし由緒ある感応寺の廃寺を惜しんだ寛永寺(輪王寺)の公弁法親王が、この寺を天台宗の寺院として存続させることに成功しています。江戸の比叡山延暦寺と擬される寛永寺。延暦寺の北方にあるのが鞍馬寺。寛永寺の北に位置する感応寺を鞍馬寺に看做すことにします。毘沙門天を本尊に天台宗の寺として国家安寧仏法護持を祈願させるのです。
お美代の方の実父日啓には野望がありました。不受不施派の「法難」を受けた感応寺をふたたび日蓮宗の大寺院として再興する夢です。家斉将軍はもとより大奥の高級女官らに、自分には高い祈祷能力があることを巧妙に信じさせると、大奥から圧倒的な支持を受けるようになります。
日啓が祈祷僧として出世すると、感応寺の再興がいP107よいよ現実のものとなっていきます。一八三三年、感応寺の再興が家斉の意志として遂に示されることになります。しかし寛永寺(輪王寺)の舜仁法親王が納得しません。このため家斉は折衷の案の策として、谷中の感応寺を天台宗護国山天王寺と改称させた上で残し、雑司ヶ谷・鼠山に感応寺の日蓮宗名跡を継いだ新寺院を建立することにします。
総工費一万一千四百四十七両を要し、本堂、五重塔、経堂、鐘楼、惣門、山門など二十以上の建物が並ぶ大寺院が姿を現しました。この新寺院は、「総門の内外には、茶屋あり、酒屋あり、蕎麦屋、料理屋があり、民家また次第に建築せられて、ゆくゆく四谷より連続するにいたらんとす」る賑わいを見せます。
P107 有り余る子女の配分 将軍家斉の行状については、幕臣の誰もが眉を顰めていました。頼山陽が「日本政記」で指桑罵槐により将軍を戒めようとしたのも当然のことでした。将軍があまりに子女を生産することによって大奥の力が強まります。お美代の方のインフォーマルな権勢で大寺院感応寺が建立されたことは他の宗門にとって面白いはずがありません。面白くないのはここに留まりません。将軍の子女を無理やり押し付けられる全国の諸大名もたまったものではありませんでした。(略、迷惑の例が記されます)
「家斉将軍は子女を多殖して、婚姻政略をおこなおうと考えたこともない、何の意味もなく、色に愛で香によって」いたのです。
P103 諸藩の怨嗟や心ある幕臣の憂国の情は、家斉が一八四一年初頭に世を去ると、はっきりとした形に表れます。老中首座水野忠邦は、家斉側近の排除と肥大化した大奥の力を削ぐことを決心します。とくに感応寺は将軍多産の弊害と糜爛した大奥権力の象徴でした。
寺社奉行阿部正弘 再興になった日蓮宗巨大寺院感応寺は、大奥につとめる女官たちの息抜きの寺になっていました。外出の不自由だった女官らが禁欲の代償に、寺参りと称して城外の空気を吸いに行く。これを当然の贅沢と思っている者も多かったのです。
忠邦は感応寺の僧と大奥女官の怪しげな関係の調査を、寺社奉行阿部正弘に指示します。正弘は譜代大名の若きスターです。女官たちからの人気も高い美男子です。彼が高給女官三十余人を吟味して確認できたのは、彼女たちと僧日啓、日量(お美代の方実兄)、日尚(同甥)らとの淫らな関係でした。
「何も彼も委細承知しましたが、奥女中はすべて審理以外に置き、一人も処分しない方略を立てて、幕閣の同意を得ました」。大奥は処分しないけれども感応寺は許さないと決めた正弘。
彼の決断が伝えられたのが一八四一年十一月十七日のことだったのです。女犯の罪で日啓らを捕えるだP110けでなく、感応寺の存在そのものを歴史から消し去るような徹底的な寺の破却命令でした。日啓らは牢死しましたが、その罪状に奥女中との関係はありません。単純な女犯の罪でした。
寺の什器類は池上本門寺に移され、仏像や伽藍の材料の一部は鎌倉の妙本寺や薬王寺で利用されます。こうして増上寺、寛永寺にならぶ栄華を極めようとした日啓の野望は潰えていきました。
寺社奉行阿部正弘は一八一九年生まれですから、このときわずか二十二歳。大奥の咎を責めないことで大奥への発言権を確保し、感応寺を取り潰すことで諸般の憤りのはけ口を作る見事な処置でした。老中水野忠邦の進めていた天保の改革が頓挫すると、正弘が一気に頭角を現したのも頷けます。
感応寺はこうして世の人々の記憶から消えていくことになります。感応寺の存在を思い起こさせる唯一の建物が、かつて谷中にありました。鼠山に移る前に建てられた五重塔です。その均整のとれた美しい姿を、谷中に住んだ二年ほどのあいだ毎日、目にしていたのが幸田露伴でした。
露伴が創作のヒントを得たこの塔も、昭和三十二年の夏、男女の無理心中による放火で焼失してしまいます。四十代の男と二十代の女の恋の清算の現場となった五重塔。感応寺にはつねに男と女の情念がまとわりついています。感応寺を「官能寺」と誤記して違和感がないのも故あることなのです。
(注、出典等)
8「泳ぐ石油」-1835年某日/アラスカ沖 P56-59
P56 勇魚とり 漢詩文は読めなくなったけれども、そのリズムの情感は古典漢詩の知識がまだ頭にぎっしり詰まっていた明治の文豪の文章で味わうことが出来ます。「身には疾あり、胸には愁いあり、悪因逐えども去らず、未来に楽しき到達点の認めらるるもなく、目前に痛き刺激物あり、欲あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫して此逆境を出でむと決したり」幸田露伴の『突貫紀行』の冒頭です。北海道余市の電信局を飛び出して東京に戻り、筆で身を立てようとする、不安ながらも未来にかける青年露伴の心意気が小気味よく伝わってきます。
露伴は住まいから見えた東京谷中・感応寺の塔を題材にした『五重塔』が有名ですが、ほかにも『いさなとり』という名作があります。「いさな」とは「勇魚」と書き、鯨のことです。伊豆下田・蓮台寺村の好々爺が東京見物に出る旅の途次に語る物語。かつていさなとりだった主人公の過去には裏切りあり、妻の不倫ありで、『五重塔』のように教科書に載せられる作品ではありません。鯨を「勇魚」と表現する感性は日本独自でしょう。食文化と深く結びついた日本の捕鯨、鯨を工業原料として利用していた欧米。鯨への思いに深い溝があるのは致し方ないことかもしれません。
P58 コディアック漁場の発見 十九世紀、鯨油は現代の石油に相当する者でした。もっとも需要が高かったのが灯火用の油。さらに暖房油、潤滑油、石鹸、塗料、繊維加工など、さまざまな分野で利用されました。鯨骨は粉砕され肥料になり、髭はコルセット、傘、釣り竿、バネに加工されていきました。アメリカの捕鯨業は十九世紀初頭から急速に成長します。競合していたイギリスの捕鯨船は、自由貿易を標榜する政府の補助金の打ち切りやアメリカに先駆けて普及した石炭ガス・植物油との競合で競争力を失います。アメリカは英国捕鯨の衰退を後目に漁場を拡大し、捕鯨船も大型化していきました。(中略)
P59 一八三五年、北太平洋アラスカ沖で新たな漁場が見つかります。マサチューセッツ州ナンタケット港所属のガンジス号がセミクジラの群れを発見したのです。これが後年アメリカ捕鯨の黄金期を作り出すコディアック漁場でした。アラスカ沖からオホーツク海、さらには日本海までに広がる漁場です。アメリカの「泳ぐ石油」産業の日本への接近です。東京水産大学(現東京海洋大学)の友人から聞いた捕鯨のエピソードがあります。鯨を見つけたら、まず雌を仕留め、そのあとにそこを離れようとしない雄をゆっくり追うのだそうです。先に雄を狙うと、雌はさっさとと逃げていってしまうというのです。真偽のほどは定かではありません。雌雄の見分けもわかりません。しかし生命の性を感じる、男には少し悲しい話です。
14 決闘、アメリカの騎士道 1841.08.25 メリーランド州クレイズヒル P96-102