2018年4月26日木曜日

偏愛メモ 『日本開国』渡辺惣樹著

8「泳ぐ石油」-1835年某日/アラスカ沖 P56-59

P56 勇魚とり 漢詩文は読めなくなったけれども、そのリズムの情感は古典漢詩の知識がまだ頭にぎっしり詰まっていた明治の文豪の文章で味わうことが出来ます。「身には疾あり、胸には愁いあり、悪因逐えども去らず、未来に楽しき到達点の認めらるるもなく、目前に痛き刺激物あり、欲あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫して此逆境を出でむと決したり」幸田露伴の『突貫紀行』の冒頭です。北海道余市の電信局を飛び出して東京に戻り、筆で身を立てようとする、不安ながらも未来にかける青年露伴の心意気が小気味よく伝わってきます。

露伴は住まいから見えた東京谷中・感応寺の塔を題材にした『五重塔』が有名ですが、ほかにも『いさなとり』という名作があります。「いさな」とは「勇魚」と書き、鯨のことです。伊豆下田・蓮台寺村の好々爺が東京見物に出る旅の途次に語る物語。かつていさなとりだった主人公の過去には裏切りあり、妻の不倫ありで、『五重塔』のように教科書に載せられる作品ではありません。鯨を「勇魚」と表現する感性は日本独自でしょう。食文化と深く結びついた日本の捕鯨、鯨を工業原料として利用していた欧米。鯨への思いに深い溝があるのは致し方ないことかもしれません。

P58 コディアック漁場の発見 十九世紀、鯨油は現代の石油に相当する者でした。もっとも需要が高かったのが灯火用の油。さらに暖房油、潤滑油、石鹸、塗料、繊維加工など、さまざまな分野で利用されました。鯨骨は粉砕され肥料になり、髭はコルセット、傘、釣り竿、バネに加工されていきました。アメリカの捕鯨業は十九世紀初頭から急速に成長します。競合していたイギリスの捕鯨船は、自由貿易を標榜する政府の補助金の打ち切りやアメリカに先駆けて普及した石炭ガス・植物油との競合で競争力を失います。アメリカは英国捕鯨の衰退を後目に漁場を拡大し、捕鯨船も大型化していきました。(中略)

P59 一八三五年、北太平洋アラスカ沖で新たな漁場が見つかります。マサチューセッツ州ナンタケット港所属のガンジス号がセミクジラの群れを発見したのです。これが後年アメリカ捕鯨の黄金期を作り出すコディアック漁場でした。アラスカ沖からオホーツク海、さらには日本海までに広がる漁場です。アメリカの「泳ぐ石油」産業の日本への接近です。東京水産大学(現東京海洋大学)の友人から聞いた捕鯨のエピソードがあります。鯨を見つけたら、まず雌を仕留め、そのあとにそこを離れようとしない雄をゆっくり追うのだそうです。先に雄を狙うと、雌はさっさとと逃げていってしまうというのです。真偽のほどは定かではありません。雌雄の見分けもわかりません。しかし生命の性を感じる、男には少し悲しい話です。

14 決闘、アメリカの騎士道 1841.08.25 メリーランド州クレイズヒル P96-102


15 感応寺破却 1841.11.17 江戸・鼠山 P102-110

P107 有り余る子女の配分 将軍家斉の行状については、幕臣の誰もが眉を顰めていました。頼山陽が「日本政記」で指桑罵槐により将軍を戒めようとしたのも当然のことでした。将軍があまりに子女を生産することによって大奥の力が強まります。お美代の方のインフォーマルな権勢で大寺院感応寺が建立されたことは他の宗門にとって面白いはずがありません。面白くないのはここに留まりません。将軍の子女を無理やり押し付けられる全国の大名もたまったものではありません。(中略)

P109 寺社奉行阿部正弘 再興になった日蓮宗巨大寺院感応寺は、大奥につとめる女官たちの息抜きの寺になっていました。外出の不自由だった女官らが禁欲の代償に、寺参りと称して城外の空気を吸いに行く。これを当然の贅沢と思っている者も多かったのです。

忠邦は感応寺の僧と大奥女官の怪しげな関係の調査を、寺社奉行阿部正弘に指示します。正弘は譜代大名の若きスターです。女官たちからの人気も高い美男子です。彼が高給女官三十余人を吟味して確認できたのは、彼女たちと僧日啓、日量(お美代の方実兄)、日尚(同甥)らとの淫らな関係でした。

「何も彼も委細承知しましたが、奥女中はすべて審理以外に置き、一人も処分しない方略を立てて、幕閣の同意を得ました」。大奥は処分しないけれども感応寺は許さないと決めた正弘。


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