2018年4月21日土曜日

偏愛メモ 『朝鮮開国と日清戦争』渡辺惣樹著

第二章 朝鮮使節の訪米と日朝修好条規 P42-185
明治六年(1873)の政変 P52-74
P53 維新の目的が日本という中央集権国家の創造であることを改めて天下に周知させなければならない。木戸は強い危機感を持った。木戸はばらばらなベクトルをもう一度同じ方向にまとめ上げる必要を感じた。それが「国家外交」という理念であった。アメリカとの国家交渉を通じて日本人の間に国家意識が澎湃として湧き上がった。藩ではなく日本。国という単位の中で物事を判断する時代になった。そのことをもう一度思い起こさせる必要があった。

P54 外交交渉はそうした国家意識を醸成するための絶好のツールであった。木戸は朝鮮を開国させるという外交目標を設定した。朝鮮開国交渉を通じて維新の本来の目的を再認識させようと考えた。そこには一般の史書で語られる「木戸の征韓論」から連想されるような朝鮮征服の意図などあるはずもなかった。外交を内政安定に使うという、世界のどこでも行われていた政治手法の適用にすぎなかった。当時の日本と朝鮮の関係を理解するためには少しばかり歴史を遡る必要がある。豊臣秀吉とそれに続いた徳川家康の時代のアジア外交を理解しておかねばならない。

豊臣秀吉は天下統一を果たすとその野望をさらに広げた。大陸の明と東アジアの覇権を争うことを決めたのである。支那王朝を世界の中心と考える華夷秩序への挑戦でもあった。秀吉の朝鮮半島での戦いは、侵略を意図したものではない。(中略)

P55 明使節が秀吉に持参した冠服は明王朝の一地方の郡王クラスに贈られるものだった。(中略)慶長の駅が始まった。この戦いは秀吉の死(1598)によって日本側が撤兵することで終結した。日本と明の国家間の立場に合意ができた上での戦いの終わり方ではなかった。秀吉のあとを襲った家康も何とか対等の外交を明と築き、貿易を盛んにしたかった。悪化した朝鮮王朝との関係も改善させようとした。しかし徳川幕府の努力は実を結ばなかった。その結果、実質的に薩摩藩の支配下にある琉球王朝に明との朝貢貿易を続けることを黙認し、琉球(薩摩)を通じた間接貿易体制に留めざるを得なかった。朝鮮王朝も明を中心にした柵封体制に固執していただけに、幕府との対等な関係での貿易を認めなかった。 朝鮮との貿易は対馬藩の私貿易を黙認する形での決着となった。

P56 秀吉の明に対する外交姿勢は、彼らの多くが尊王攘夷思想を幕末の歴史家頼山陽の著作から学んでいた。吉田松陰も子弟の指導に彼の著作を使用した。山陽の『日本外史』や『日本政記』は当時の必読書であった。山陽にはこうした著作に加え、日本史の中でも有名な場面を見事な漢詩で詠った『日本楽府』があった。六十六編からなる漢詩集であるが、その第一編は推古天皇時代に聖徳太子が実施した小野妹子の遣隋使を讃えるものだった。

日出処(日出ずる処)
日没処(日没する処)
両頭天子皆天署(両頭の天子みな天署す)
扶桑雞号朝已盈(扶桑、雞ないて朝すでに盈つ)
長安洛陽天未曙(長安洛陽、天未だ曙けず)

(中略)

P57 日本は支那の柵封体制に組み込まれず、天皇を戴いた開明的な国として、むしろ支那帝国(清国)をすでにリードしている(つまりそのような国になるべきである)。そう暗喩した詩であった。また第三十五編の「蒙古来る」は北条時宗が蒙古の来襲を見事に防いだ故事を詠うものであった。(中略)最後の詩(第六十六編)は秀吉が明の使者に激怒する場面を詠っていた。(中略)彼らがその影響を受けていたことは明らかである。そのことは政情不安の最中にあった京都で、足利将軍の人形の首が賀茂川の川原に晒されたことからもわかる(「足利三代木像梟首事件」。一八六三年四月九日)。

P58 京都等持院に安置されていた足利尊氏、義詮、義満の木像の首が晒された原因の一つは、山陽が『日本外史』で後醍醐天皇から始まる南朝を正統としていたからであった。その南朝正統論が反幕思想に利用された。しかし、この事件には、もう一つの側面があった。それは義満への批判であった。三代将軍義満は支那帝国(当時は明)を世界の中心とする華夷秩序の中に日本を組み込むことで明との貿易を許され、巨利を得た将軍であった。その富は今でも金閣寺の輝きに象徴されている。義満は明の皇帝から日本国王に任じられ、それを嬉々として受けた。山陽は『日本外史』と『日本楽府』の中で義満を激しく攻撃していた。義満は天皇に代わる日本国王の地位を、華夷秩序を利用して簒奪しようとした賊であった。だからこそ足利三代の首が晒されたのである。(中略)

P59 徳川幕藩体制を終焉させた維新の志士が愛読した頼山陽の『日本外史』を世に広めたのは川越藩主松平斉典だった。川越藩が藩校教授保岡嶺南に校訂させ出版にこぎつけたのである(1844)。(中略)『日本外史』は幕末期から明治後期までにおよそ三十万冊が売れた。幕末期に漢文を読めた知識人の総数は三十万から四十万と推定されている。したがって日本の知識人のほぼすべてが、日本は華夷秩序から離れた独立国であることのプライドをポジティブに刺激されていたことは間違いのないことだった。P60 そしてそれは日本の対朝鮮外交に対する態度を通じて典型的に表れることがわかっていた。木戸孝允は、ばらばらになりかけた維新の大義をもう一度思い出させようと、朝鮮開国プロジェクトを構想した。それは維新の精神の回復運動だった。(中略)

P62 1870年は木戸の調査と準備の年であった。しかしこの年は国内は国民軍を創設しようとする木戸の構想に逆行する動きが激化した年でもあった。P63 木戸の出身の長州藩は独自の藩組織を作ることを目指したのである(脱退騒動)。木戸はこの動きを国民軍を使って阻止すると決めた。「長州出身の木戸は、そのとき国軍として各藩から徴兵した軍隊で長州軍を鎮圧する、と答えた。『長州藩の兵を、これまでの各藩からの寄せ集めの兵で鎮圧するのか』と問われると、『そのように国民軍を作らなければ国は持たない』と応じたのである」(松本健一『「日の丸・君が代』の話」PHP新書、1999)

木戸はこの問題を処理すると廃藩置県を実施する(一八七一年八月)。国内の騒動が一段落したこの年に、木戸は自らを使節とした朝鮮開国交渉に臨むことを決めたのである。しかしこの使節派遣は延期となる。幕末に列国(英米仏露蘭)と結んだいわゆる不平等条約改定の時期が迫っていたからである。日米修好通商条約第十三条では、一八七二年以降は改定が認められていた。条約改定の意志があることを欧米各国に知らせなければならなかった。また西洋諸国の視察の必要にも迫られていた。岩倉具視を団長にした遺米・遺欧使節団が計画され、木戸は副使としてこの計画に参加した。







アメリカ学派顧問、エラスムス・ペシャイン・スミス P74-90
P80 保護貿易主義(高関税)により税収を確保し、幼稚産業を保護する。関税収入は惜しみなく産業基盤となる交通インフラ整備に使う。工業立国としてアメリカをイギリスに対抗できる大国に変貌させる。これがヘンリー・カレイやベシャイン・スミスの考え方である。

彼らの思想はアメリカ学派と呼ばれていた。アメリカ学派の考えをいち早く吸収したのが当時大蔵少輔(次官級)であった伊藤博文だった。伊藤は早くも1871年に銀行制度を学びにアメリカに渡っている。彼はその前年の1870年からアメリカ視察の必要性を熱心に主張していた。

旅順攻防戦といわゆる「旅順虐殺」報道 その三 怪しいジャーナリスト、クリールマン
P370 ニューヨーク・ワールド紙は、新聞王ジョゼフ・ピューリツァーが経営する、センセーショナルな報道で読者の好奇心を煽り、販売部数を伸ばしていた新聞であった。1895年からは、新聞王ウィリアム・ハーストの買収したニューヨーク・ジャーナル紙と激しい販売競争を繰り広げた。

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