2.2 明治六年(1873)の政変 P52-74
P53 維新の目的が日本という中央集権国家の創造であることを改めて天下に周知させなければならない。木戸は強い危機感を持った。木戸はばらばらなベクトルをもう一度同じ方向にまとめ上げる必要を感じた。それが「国家外交」という理念であった。アメリカとの国家交渉を通じて日本人の間に国家意識が澎湃として湧き上がった。藩ではなく日本。国という単位の中で物事を判断する時代になった。そのことをもう一度思い起こさせる必要があった。
P54 外交交渉はそうした国家意識を醸成するための絶好のツールであった。木戸は朝鮮を開国させるという外交目標を設定した。朝鮮開国交渉を通じて維新の本来の目的を再認識させようと考えた。そこには一般の史書で語られる「木戸の征韓論」から連想されるような朝鮮征服の意図などあるはずもなかった。外交を内政安定に使うという、世界のどこでも行われていた政治手法の適用にすぎなかった。当時の日本と朝鮮の関係を理解するためには少しばかり歴史を遡る必要がある。豊臣秀吉とそれに続いた徳川家康の時代のアジア外交を理解しておかねばならない。
豊臣秀吉は天下統一を果たすとその野望をさらに広げた。大陸の明と東アジアの覇権を争うことを決めたのである。支那王朝を世界の中心と考える華夷秩序への挑戦でもあった。秀吉の朝鮮半島での戦いは、侵略を意図したものではない。(中略)
P55 明使節が秀吉に持参した冠服は明王朝の一地方の郡王クラスに贈られるものだった。(中略)慶長の駅が始まった。この戦いは秀吉の死(1598)によって日本側が撤兵することで終結した。日本と明の国家間の立場に合意ができた上での戦いの終わり方ではなかった。秀吉のあとを襲った家康も何とか対等の外交を明と築き、貿易を盛んにしたかった。悪化した朝鮮王朝との関係も改善させようとした。しかし徳川幕府の努力は実を結ばなかった。その結果、実質的に薩摩藩の支配下にある琉球王朝に明との朝貢貿易を続けることを黙認し、琉球(薩摩)を通じた間接貿易体制に留めざるを得なかった。朝鮮王朝も明を中心にした柵封体制に固執していただけに、幕府との対等な関係での貿易を認めなかった。 朝鮮との貿易は対馬藩の私貿易を黙認する形での決着となった。
P56 秀吉の明に対する外交姿勢は、彼らの多くが尊王攘夷思想を幕末の歴史家頼山陽の著作から学んでいた。吉田松陰も子弟の指導に彼の著作を使用した。山陽の『日本外史』や『日本政記』は当時の必読書であった。山陽にはこうした著作に加え、日本史の中でも有名な場面を見事な漢詩で詠った『日本楽府』があった。六十六編からなる漢詩集であるが、その第一編は推古天皇時代に聖徳太子が実施した小野妹子の遣隋使を讃えるものだった。
日出処(日出ずる処)
日没処(日没する処)
両頭天子皆天署(両頭の天子みな天署す)
扶桑雞号朝已盈(扶桑、雞ないて朝すでに盈つ)
長安洛陽天未曙(長安洛陽、天未だ曙けず)
(略)P57 日本は支那の柵封体制に組み込まれず、天皇を戴いた開明的な国として、むしろ支那帝国(清国)をすでにリードしている(つまりそのような国になるべきである)。そう暗喩した詩であった。また第三十五編の「蒙古来る」は北条時宗が蒙古の来襲を見事に防いだ故事を詠うものであった。(中略)最後の詩(第六十六編)は秀吉が明の使者に激怒する場面を詠っていた。(中略)彼らがその影響を受けていたことは明らかである。そのことは政情不安の最中にあった京都で、足利将軍の人形の首が賀茂川の川原に晒されたことからもわかる(「足利三代木像梟首事件」。一八六三年四月九日)。
P58 京都等持院に安置されていた足利尊氏、義詮、義満の木像の首が晒された原因の一つは、山陽が『日本外史』で後醍醐天皇から始まる南朝を正統としていたからであった。その南朝正統論が反幕思想に利用された。しかし、この事件には、もう一つの側面があった。それは義満への批判であった。三代将軍義満は支那帝国(当時は明)を世界の中心とする華夷秩序の中に日本を組み込むことで明との貿易を許され、巨利を得た将軍であった。その富は今でも金閣寺の輝きに象徴されている。義満は明の皇帝から日本国王に任じられ、それを嬉々として受けた。山陽は『日本外史』と『日本楽府』の中で義満を激しく攻撃していた。義満は天皇に代わる日本国王の地位を、華夷秩序を利用して簒奪しようとした賊であった。だからこそ足利三代の首が晒されたのである。(中略)
P59 徳川幕藩体制を終焉させた維新の志士が愛読した頼山陽の『日本外史』を世に広めたのは川越藩主松平斉典だった。川越藩が藩校教授保岡嶺南に校訂させ出版にこぎつけたのである(1844)。(中略)『日本外史』は幕末期から明治後期までにおよそ三十万冊が売れた。幕末期に漢文を読めた知識人の総数は三十万から四十万と推定されている。したがって日本の知識人のほぼすべてが、日本は華夷秩序から離れた独立国であることのプライドをポジティブに刺激されていたことは間違いのないことだった。P60 そしてそれは日本の対朝鮮外交に対する態度を通じて典型的に表れることがわかっていた。木戸孝允は、ばらばらになりかけた維新の大義をもう一度思い出させようと、朝鮮開国プロジェクトを構想した。それは維新の精神の回復運動だった。(中略)
P62 1870年は木戸の調査と準備の年であった。しかしこの年は国内は国民軍を創設しようとする木戸の構想に逆行する動きが激化した年でもあった。P63 木戸の出身の長州藩は独自の藩組織を作ることを目指したのである(脱退騒動)。木戸はこの動きを国民軍を使って阻止すると決めた。「長州出身の木戸は、そのとき国軍として各藩から徴兵した軍隊で長州軍を鎮圧する、と答えた。『長州藩の兵を、これまでの各藩からの寄せ集めの兵で鎮圧するのか』と問われると、『そのように国民軍を作らなければ国は持たない』と応じたのである」(松本健一『「日の丸・君が代』の話」PHP新書、1999)
木戸はこの問題を処理すると廃藩置県を実施する(一八七一年八月)。国内の騒動が一段落したこの年に、木戸は自らを使節とした朝鮮開国交渉に臨むことを決めたのである。しかしこの使節派遣は延期となる。幕末に列国(英米仏露蘭)と結んだいわゆる不平等条約改定の時期が迫っていたからである。日米修好通商条約第十三条では、一八七二年以降は改定が認められていた。条約改定の意志があることを欧米各国に知らせなければならなかった。また西洋諸国の視察の必要にも迫られていた。岩倉具視を団長にした遺米・遺欧使節団が計画され、木戸は副使としてこの計画に参加した。
(略)2.3 アメリカ学派顧問、エラスムス・ペシャイン・スミス P74-90
P80 保護貿易主義(高関税)により税収を確保し、幼稚産業を保護する。関税収入は惜しみなく産業基盤となる交通インフラ整備に使う。工業立国としてアメリカをイギリスに対抗できる大国に変貌させる。これがヘンリー・カレイやペシャイン・スミスの考え方である。
彼らの思想はアメリカ学派と呼ばれていた。アメリカ学派の考えをいち早く吸収したのが当時大蔵少輔(次官級)であった伊藤博文だった。伊藤は早くも1871年に銀行制度を学びにアメリカに渡っている。彼はその前年の1870年からアメリカ視察の必要性を熱心に主張していた。
(略)
2.4 李鴻章・森有礼会談 P90-120
P102 木戸らは対朝鮮外交が二国間交渉ではないことを明確に理解していた。先の述べたように、木戸はアメリカの法律外交顧問であるペシャイン・スミスから多くを学んだと述懐していた。スミスは南北戦争時の難しい外交をこなしたスワード国務長官と昵懇であることも述べた。木戸は、訪米時に、リンカーン政権と思想を同じくするグラント政権のアメリカでおよそ七ヵ月を過ごしている。この間に、彼は国際外交のイロハP103を学んだのである。
彼は外交には基本的に「二国間外交」は存在しないことを学んだ。アメリカ人顧問からも外交指南を受けていた。木戸らはアメリカの指導を猛烈な勢いで吸収した。対朝鮮外交は多国間外交だと木戸らは理解していた。木戸らが進めたい対朝鮮外交上の障害になり得る国に対しては、あらかじめ配慮しておかなくてはならない。それでは朝鮮に利害関係を強く持つ国はどこなのか。
それは宗主国の立場を崩さない清国であり、すでに朝鮮と交戦したフランスとアメリカであり、東アジアに勢力圏の拡張を狙うロシアであった。(略)
そこにはアメリカ人顧問の助言があった。これについて日本の史書では、江華島事件の処理について、アメリカ人顧問に助言を求めたことを記述するものがあるが(たとえば高橋秀直「江華条約と明治政府」『京都大学文学部研究紀要』)、助言を求めたのは事件発生後だと断じている。明治政府首脳とアメリカ人顧問の強い信頼関係を考慮すれば、両者の間で朝鮮開国プロジェクトについて、あらかじめ濃密な議論と指導があったと考える方が合理的である。
フランスとアメリカについては大きな障害となる可能性は少ない。前者には朝鮮王朝P104には宣教師を虐殺された恨みこそあれ、同情はない。フランスが日本の開国交渉を邪魔する理由はない。アメリカは日本外交の指導者である。したがってこの二国は問題ない。
それでは近国とロシアはどうであろうか。まずロシアについて考察してみたい。当時のロシアとの関係を正確に掴むには絶好の外交条件がある。それは、横浜で起きたマリア・ルス号事件である。朝鮮開国プロジェクトと一見無関係な事件であるが、この事件をグローバルな視点で捉えると、日本の朝鮮開国交渉と密接な関係のある世界史的事件であることがわかる。少し遠回りになるがこの事件の概要を記しておきたい。
一八七二年七月十日(明治五年六月五日)、ペルー船籍のマリア・ルス号が横浜に入港した。三百七十トンの小型貨物船はマカオからペルーに向かっていたが、途中嵐で船体が破損し修理が必要だったのである。この四日後にある事件が起きる。マリア・ルス号の近くに碇泊していた英軍艦アイアンデュークに、ルス号から飛び込んだ支那人一人が救いを求めた。その男は木慶(Mo Hing)といい、ルス号の「乗客」二百三十一人の一人であった。
木慶の話から、「乗客」とされている支那人はどうも南米に運ばれる「苦力」と呼ばれる低賃金労働者らしかった。彼らは「乗客」ではなく「積荷」として扱われ、疑似奴隷状態にあるのではないかと疑われた。この事件の報告を受けた英国領事R・G・ワトソンは木慶をひとまず日本側(神奈川県)P105に引き渡すことを決めた。神奈川県はマリア・ルス号船長へレイラを呼び、木慶の処罰をしない約束で身柄を引き渡した。しかし、へレイラ船長はその約束を違え、木慶を処刑した。
この間ワトソン領事はマリア・ルス号を実際に訪れ実態を調査した。結果、マリア・ルス号が「奴隷」運搬船であると確信し、日本外務省に次のように報告した。その上で、日本政府にしかるべき措置を取るよう促したのである。
(略、日本での裁判となり判決が下されたが、ペルー政府がそれを認めず、ロシアが仲裁、云々の話が、7頁ほど)
P112 マリア・ルス号事件は日本の完全勝訴で終了した。そしてこのことは繰り返しになるが次のことを意味したのである。
一、アメリカの外交アドバイスは信用できる遠回りになってしまったが、アレクサンドル二世の裁定が下されてからわずか四ヵ月後に雲揚号による江華島事件が発生した。日本の朝鮮開国プロジェクトにロシアは何の口出しもしないだろう。それが、ほぼ確定的に予期できていた時期であった。
二、日露の外交関係は良好である
さて次に清国について考察したい。アレクサンドル二世の裁定は清国にとっても喜ばしいことであった。清国は日本が、マリア・ルス号事件のあとに苦力を清国に帰国させたことに感謝していた。その事件について日本の全面勝訴となる仲裁裁決が出た。江華島事件は清国が日本に悪い感情を持つはずもない時期に起こったのである。
木戸らの政府首脳は清国に森有礼を遣り、朝鮮開国プロジェクトの事前説明と清国の協力を要請した。当初、清国には木戸自身が全権で赴くはずだった。しかし体調を崩してやむなく森に交渉を委ねた。なぜ、森が選ばれたのだろうか。森はこのときわずか二十九歳である。交渉に臨む相手は清国最大の実力者と目される李鴻章である。
五十代の円熟期を迎えた老獪な政治家である(一八二三年生まれ)。このアンバランスにも、当時の木戸らの明治政府首脳とその裏方にいるアメリカ人外交顧問の思惑をP113解くヒントがある。先に述べたが、森は初代駐米代理公使(小弁務使)であった。
ワシントンでの二年間の駐在経験を通じてアメリカ国務省との強い人脈が築かれていた。政府顧問としてペシャイン・スミスを筆頭に数多くの顧問を招聘したのも彼であった。そして何よりも西洋の法の基本的な考えを身につけていた。清国は儒教思想が色濃く残っている国である。李鴻章にとって、若輩の外交官にやりこめられることは恥である。したがって、常識的に考えれば、森のような若手外交官を送ることは不利なはずだった。それにもかかわらず明治政府首脳が森を抜擢したのは、森のワシントン駐在経験が、彼の若さを補って余りあるものだったからである。
一八七六年一月四日、森は北京にやってきた。この日のうちに、イギリス駐清国公使ウェイドを訪問している。潜在的な利害関係国イギリスに、日本の要求の大筋を説明し、外交的「仁義」(配慮)を通したのである。清国外務省にあたる総理衛門との交渉は十日より開始されたが、埒が明かなかった。森の狙いは清国と朝鮮の宗属関係のありようを明確にすることであった。日本が江華島事件を受けてどのような態度で朝鮮に臨もうが、清国が介入するような事態を招いてはならなかった。
朝鮮は内政外交を独自に行う独立国であることを認めさせれば、清国は介入する口実を失う。それがもっとも重要な交渉目的であった。P114この問題について清国にジレンマがあることはすでに述べた。
朝鮮はあくまで属国であるとの立場をとれば、フランスからもアメリカからも以前に起きた事件の賠償問題が提起される可能性を残してしまう。
したがって、朝鮮の宗主国であることを自認する清国としては「(実質は)属国であるが(国際法上は)属国ではない」という曖昧な態度をとらざるを得なかった。
総理衛門との交渉を早々に諦めた森が新たに交渉相手としたのが「清朝第一の実力者と目されていた北洋大臣兼直隷総督の李鴻章」だったのである。直隷総督は北京周辺の現在の河北・河南・山東各省を直轄する筆頭格の地方長官であった。李との交渉は直隷省保定府で一月二十四日、二十五日の二日間にわたって行われた。この会談について森は本省に次のように報告している(機密洋文別信第三号ノ三)。
(略)P115ここで重要なのは、李鴻章との会談が英語を介してなされていることである。右記報告書では李鴻章がそれを提起したことになっているが、森がそうするように仕掛けたのではなかろうか。森は清国へ出発前に英語を使った交渉にするよう米人顧問から指導を受け、政権要路とも会談内容を英語に落とし込むことが打ち合わされていたのではなかったか。
英語にすることで二つのメリットがある。一つは、米人顧問から指導を受けるのに都合がよいことである。日本語から、あるいは漢文からの翻訳の手間もかからないし、語訳の可能性もない。もう一つの利点は、日清間に後日理解の相異があった場合、英文議事録だけでその確認作業が可能になるからである。ここにも森が若い外交官であるにもかかわらず抜擢された理由が隠されている。
さて、一月二十四日に第一回会談が始まった。李鴻章は年の若い森を見下すようなことはしていない。会談は「森の青年時代の外遊体験の話から始まった」。李は、英語を流暢に操りワシントン駐在を経験済みの森に一定の敬意を払っている。
(略)P116このように和気藹々とした雰囲気の中に会談は進んだ」。マリア・ルス号事件で清国に苦力を送り返した日本側の配慮もこの和やかな空気の一つの要因であったろう。また李鴻章の言葉の端々に、西洋文明を取り入れた日本から何らかのヒントを得たいという本音が垣間見える。
儀礼とも本音とも思われる和やかな会話のあとに続いたのは、当然のことながら朝鮮の帰属にかかわる厳しい論戦であった。まず議論の対象となったのは日清修好条規の第一条にかかわる解釈の問題だった。日清両国は森有礼・李鴻章会談の五年前(一八七一年)に国交を結んでいた(日清修好条規)。この条約は伊達宗城と李鴻章の交渉で成立したものである。この条約の第一条は次のようなものだった。
此後大日本帝国と大清国は弥和誼を敦くし、天地と共に窮まり無るべし。又両国に属したる邦土も、各礼を以て相待ち、聊侵越する事なく永久安全を得せしむべし。P117この条文にある清国の「邦土」中に朝鮮が含まれるか否かが議論となった。かつてフランスのベローネ公使は、朝鮮は清国の属国ではない理由として、清国が自由な布教を認める天津条約を朝鮮に適用しなかったことを挙げた。森有礼もフランス公使のようにロジックで交渉する必要があたあ。
森がロジックを構築することはそれほど難しくはない。清国が朝鮮をあくまで属国だと主張すれば、前記の日清修好条規第一条に違反することになってしまう。森は李鴻章に江華島事件を次のように説明し、朝鮮は独立国であると主張した。
「閣下は朝鮮人が我砲船に発砲せし挙動を罪なしとするのみならず、現に我国より派遣する使節を以て悪意を抱く者と見做すに似たり、思うに朝鮮事件に就ては多少誤聞せられし所あり、請ふ閣下の為に其実況を縷述せん」「第一我砲船は専ら海水測量の為のみに朝鮮に赴きたるに非らす、偶々船用の水を(略)P118李鴻章にとっても清国の主張すなわち、朝鮮は「(実質は)属国ではあるが(国際法上は)属国ではない」を論理的に説明することは難しいことだった。森の右記の主張に、李は矛先を変えたロジックで反駁した。
「朝鮮に於ては貴国と交通を開くの平らなきにしもあらさる可しと雖も彼れ深く其影響を憂慮する也、若し他の各国貴邦の例を追い彼の狡猾なる商業を営まば朝鮮は忽ちに衰亡せん。是れ彼れの恐るる所なり」と述べた。これは開国の可能性を仄めかしたにも等しい物言いでもあった。P119これに対しての日本側の反論は容易だった。森には漢語が堪能な鄭永寧代理公使が随伴していた。鄭は明朝末期に国外に逃亡した明朝高官の末裔であった。鄭の家系は長崎奉行所で唐通事を務め、鄭永寧は英語と漢語に堪能だった。外務省に採用され、駐清国代理公使の職にあった。その彼が二人に割って入るように、「日本は朝鮮との交易を求めていない」とした上で、次のように主張した。
日本政府の狙いは、「第一に、朝鮮は今後日本の使臣を接受する事。第二には日本の商船が、風波を避けて朝鮮に立ち寄るが如き事あらば、応分の援助を為すべき事。其三は商船の海岸測量には、予め許可を必要としない事、之です。若し日本の使臣が朝鮮に到着しても、これを受け付けざるが如き事あらば、其使節の日本に帰還後は必ず無事には納まりますまい。必ず出兵致すでありませう」日本が出兵を匂わせたことで、李鴻章は清国も軍派遣の可能性があることを述べた。一瞬険悪な空気になったが、「日本が戦いを開くと云う事は暫く抑えつけますが、どうか大臣も総理衛門に交渉の上、何とか朝鮮を説得する法を講じて戴きたいものです」と森がとりなした。この森の要請を受け、李鴻章は次のように語り前向きに検討することを約束している。
(略)P120森の、李鴻章とのやりとりは見事なものだった。日本の願いは、朝鮮に対して国際法上の礼にかなった態度の要求であり、開国だけを望んでいるとした。軍事行動の可能性は仄めかしはしたが、それをしたのは森本人ではなく代理公使であった。森は強硬策を抑制する役割を演じた。振り付けが出来ていたのである。
森は、日本を発つ前の政府内協議で、武力を絶対に行使しない、江華島事件の補償を求めないと主張し、その方向で政府の意見をまとめていた。したがって、鄭代理公使を使って武力行使の可能性を匂わせた上で森が穏健派を演じたのは、明らかに外交交渉上のテクニックであった。また森は通商関係を求めないこともはっきり伝えている。二十九歳の若き外交官の見事な手腕ではあるが、日本出立前に木戸ら政府高官および米人顧問らと十分な打ち合わせがあった。通商関係の樹立は仄めかしはするが求めないことは決まっていた。
李鴻章がどのようなロジックを使ってくるか、森はあらかじめわかっていたはずである。アメリカは、日本との開国交渉にあたって、和親条約で開国だけを認めさせ(一八五四年)、次の段階で修好通商条約に移行した(一八五八年)。森の交渉はアメリカP121の日本開国交渉に倣っていた。そうすることで李鴻章の総理衛門説得のハードルを下げたのである。李鴻章の前向きな対応を受けて森は満足だった。「誠に幸甚、貴国に到着以来未だ斯の如き愉悦を覚えず、今宵は必ず枕を高くして快眠すべし」と述べて会談を終えた。
李鴻章はこの会談の後、総理衛門の了承を取り付け、朝鮮に対して日本使節受け入れを指導したのである。
(略)2.5 日朝修好条規 P121-130
P121 アメリカの史書は森有礼と李鴻章の交渉について次のように記している。
「森は、朝鮮に日本の使節を受け入れさせるために、支那(清国)の助けを借りた。そのことは森が朝鮮に対するシナの特殊な立場(the special position of China)を認識していたことを示している。李は、朝鮮に対して日本の使節の受け入れを指示した。それによって(李は)清国と朝鮮の間には長年にわたって築かれた特別な関係があることを誇示したのである」日本の朝鮮開国使節が江華島南岸沖に現れたのは二月二日のことであった。日本の使節は六隻の艦隊を編成してやってきた。交渉団随員三十名、護衛兵八百名の陣容でP122あった。
(略)2.10清国のフランスへの恐怖 P160-165
P164 李鴻章は、将来朝鮮を直轄地にすべきだと思っていたに違いない。しかしそのためには、いったん西洋の常識に則った形で朝鮮は独立国であるという事実を周知させる必要があった。そうすることで、カソリック宣教師虐殺事件はあくまでも独立国朝鮮によって行われたものであるという清国の主張を既成事実化できる。朝鮮の「楽浪郡化」は、その後じっくり実行すればよい。それが李鴻章の狙いだったのではなかろうか。
条約上、独立国とうたっても、実質は清国の属国であることには変わりない。日本もそのことを知っているからこそ、清国に事前の「仁義」を切った。その六年後、アメリカも同様に清国との交渉を通じて、米朝修好通商条約を結んでいる。朝鮮は独立国であると規定する日朝修好条規の第一条は、李鴻章ら清朝幹部にとっては、フランスの恐怖からの免罪符であったのだ。
フランスに対する免罪符を確保した清朝は、朝鮮直轄統治の道を安心して進めることができた。開化派の朝鮮高級両班官僚の中にいた、清国を頼りにするグループを懐柔し、漢城における軍事プレゼンスを高めていった。そして日本を朝鮮半島から排除P165していく。こうして、清朝の強引とも言える対朝鮮外交が、最後には日本との軍事衝突(日清戦争)となる。戦端が開かれるまでの一連の事件は後述するが、こうした思惑だったのではないか。
(略)
第三章 李鴻章の策謀:朝鮮の「楽浪郡」化 P186-250
3.8 金玉均(相互参照)のクーデター・甲申事変その一 P219-222(P220-)
P220 誰もが布教に向かうことを逡巡する漢城に、一人の宣教師が上海からやってきた。ホーレス・アレン(参照)である。一八八三年にマイアミ医学学校を卒業したばかりの若き医者でもあった。アレンの家系は、彼の大叔父(ライマン・ホール)がアメリカ独立宣言にも署名していたことから想像できるように、アメリカ建国に深くかかわったカルヴァン派の名門出身であった。
長老派教会海外布教委員会が、P221上海で布教活動をしていた彼に朝鮮赴任命令を出したのである(一八八四年七月)。「アレン以前の宣教師はみな朝鮮に幻滅した。しかし、アレンは(好きになれなかった清国のことを思い返し)新しい赴任先を好きになると決めた。
何の感激も生まれない景色を誉め、不潔な騾馬に揺られることも厭わなかった。彼以前にやってきた誰もが蔑んだ汚穢の町に東洋の魅力を感じ(ようと努め)た。とんでもなく怠け者で、薄汚れた身なりの人々を見ても、彼らを好きになるように決めた」
フート公使はアレンを公使館付き医師として採用した。(略)この頃、イギリスとドイツは、清国が朝鮮の宗主国であると実質、認めていた。彼らが漢城にやった外交官は領事クラスであったことからそれがわかる。公使を送り込んだアメリカとは好対照であった。
米公使館には海軍武官ジョージ・フォーク少尉もいた。朝鮮の遺米使節がワシントンに現れた際に彼が同行し接待役となったことはすでに述べた。彼は遺米使節の帰国に同行し漢城に赴任していたのである。フート公使もフォーク少尉も日本が好きであった。この頃は、アメリカが日本近代P222化のアドバイス役であった。日本を支援する歴代の共和党政権の態度を反映して、漢城の二人も日本の外交官に好感をもった。(略、)
フォーク少尉は一八八七年に外交官生活に終止符を打ち、同志社大学で教鞭を執った。そして、この年に日本人女性と結婚した。二人の外交官の気持ちとは裏腹に、この町は親清国の空気に溢れていた。李鴻章の「楽浪郡化」工作も進んでいた。確かに国王は金玉均を好んでいた。日本に近代化のためのアドバイスを欲していた。しかし、宮廷要路が頼りにするのはもっぱら清国だった。
その中心は閔妃であり、その親族の閔一族だった。閔妃は朝鮮特有の迷信の虜であり、進歩主義とは無縁の女性だった。「夫の愛を失わないようにと、雌猫の陰部で作ったネックレスをつける」ほどの蒙昧さであった。
3.9 金玉均のクーデター・甲申事変その二 フォーク少尉の失望 P222-226
第二章「朝鮮訪米使節」(一八八三年)」で閔泳翊を全権とする朝鮮遺米使節のP223大統領謁見の模様を詳述した。(略)前節で、フォーク少尉が朝鮮に幻滅したと書いた。フォークこそが、閔泳翊全権のその後の旅に同行し、使節の面倒を見た人物であった。(略、日程)
ロンドンでの日程は観光ばかりではなかった。朝鮮の将来を暗示させるような二つの会談があった。一つは森有礼駐英公使、もう一つは清国の駐英公使曽紀沢との会談であった。(略)P224森は、使節との会談が始まるや否や、「今の朝鮮は独立国ではない」と述べた。彼は、朝鮮が自ら望むように清国への従属の道を歩んでいることに我慢がならなかったのである。(略)ヤング駐清公使も同様の理解であった。
おそらく森は閔泳翊に対して議論をしかけることで、朝鮮が独立国としての矜持を見せるよう促したかったのであろう。しかし閔泳翊は、「これに憤慨」し、森と激しい口論になった。それでも、やりとり自体は礼儀正しいものだったと立ち会っていたフォーク少尉は書き残している。
森との会談後に清国公使曽紀沢と会見した。朝鮮の「楽浪郡化」を順調に進めている清国の外交官が嫌味など言うはずもなかった。「(閔泳翊にとって)曽公使との出会いは、短時間ながら、快いもの」であったらしい。(略)
朝鮮に戻っていた金玉均は閔泳翊一行の帰国を心待ちしていた。日本からの借款に失敗し、清国の「楽浪郡化」の大波の中で、「窮地に立たされていた金玉均は、P225彼の帰国に大きな期待を寄せていた」。閔氏一族が清国よりの政治を進めていることは事実である。閔泳翊は一族の中心人物である。その人物がアメリカとヨーロッパの観察を終えて帰ってくる。
金玉均らの若手開化派が感じたように、閔泳翊も近代化の必要性に目覚めたはずなのである。朝鮮の近代化を閔泳翊が加速させることはあっても後退させることはない。清国に跪く外交から決別する政治を進めてくれる。そう金玉均らは期待したのだった。
一八八四年五月三十一日、金玉均は他の若手開化派とともに済物浦で閔泳翊一行を迎えた。「開化派の一部の勢力は、真の抑圧からの脱却が当時の朝鮮にとって最も重要な課題と考え」、閔泳翊のリーダーシップを期待した。しかし、閔泳翊はそれを見事に裏切った。
「朝鮮に帰ってきた閔泳翊は、金玉均の期待とは異なり、清との『暗黒の連合』の推進者になって」しまうのである。閔泳翊が曽紀沢駐英公使との会談で感じた心地よさこそが、彼の国際感覚だった。
この年の秋までには、閔泳翊は親清国派官僚(閔氏一族)と清国顧問らに完全に囲い込まれた。日本が日朝修好条規で、そしてアメリカが米朝修好通商条約で謳いあげた朝鮮の独立は完全に形骸化した。フート公使もフォーク少尉も朝鮮に落胆した。
もちろん金玉均ら若手開化派の絶望は、二人の米国外交官の慨嘆とは比較にならないほど深いものだった。一八八四年十月には政権を握る閔氏一族と若手開化派の亀裂はP226もはや修復不可能になった。開化派がクーデター計画をアメリカの外交関係者に漏らしたのは十月二十五日のことであった。この外交関係者とはおそらくフォーク少尉だったろう。
「朝鮮の将来のためには十人ほどの守旧派(事大派)の人物を殺害する必要がある。(中略)日本が取った(近代化の)道を朝鮮も取らなくてはならない。条約締結国もその行動を支持するだろうし、条約も改正したい。そうすれば、近代化のための資金も提供してくれるはずだ。この計画は国王の承認までも受けている」
アメリカの史書は、この時代の政治改革はクーデターに拠らざるを得ないと、若手開化派の動機に理解を示している。「国民の意思を反映する仕組みのない半文明国にあって、暗殺以外に政治の仕組みを変える方法はない。(中略)ロシアではダイナマイトが使われ、日本では刀が使われたのである」
3.10 金玉均のクーデター・甲申事変その三 クーデターの決行 P226-232
(略)(P228-)
3.11 金玉均のクーデター・甲申事変その四 三日天下 P232-236
(P232-)
(P236)
P236 日本軍が退却したあとも開化派のおよそ百人の兵士は抵抗を続けたが壊滅した。わずか三日でクーデターは潰え、文字どおりの「三日天下」であった。悲惨だったのは、開化派の家族であった。朝鮮では「罪人」の家族にまで罪が及ぶ。彼らはみな両班貴族の名門であった。
凌辱を受け処刑されることを恐れ、そのほとんどが毒を飲んで自害した。左議政となっていた洪英植の広大な邸は没収された。この邸が、閔泳翊の命を救ったホーレス・アレン(参照)に病院として下賜されるのは、しばらくしてからのことであった。
(略)(P238-)
第五章 日清戦争
5.04 大鳥圭介の覚悟
(略、経歴等)
P331 大鳥一行は、九日午後三時に仁川に到着した。そこには赤城、大和(初代)、筑紫の三艦が待っていた。これに松島、千代田が合流した。大鳥を警護する陸戦隊四百二十人が組織されたのは、この夜のことである。
翌朝午前五時、大鳥は陸戦隊を率いてP332漢城に向かった。戦前の史書が、「僅か十日に足らぬ日数を以って、斯くも迅速に、斯くも堂々と、陸海の兵がぴたぴたと部署に就いた行動を見て、清韓両国は意外の目を瞠り、鉾を交えずして既に士気を呑まれて戦慄していた」と書いているが、あながち誇張ではなった。
日本政府は過去二回の経験から、陸戦隊だけでは大鳥の安全を守れないことはわかっていた。新編成の混成旅団(旅団長大島義昌少将)は借り上げた汽船を利用して続々と仁川に入った。旅団本部は漢城と仁川の中間点に置かれた。
海軍も伊東祐亨中将を司令官とし、筑紫、赤城、鳥海など九艦を仁川に集結させた。この艦隊は清国から牙山に派遣済みの清兵を仁川に移動させることを拒む任務を持っていた。一八八四年の甲申事変で、竹添公使一行を危険に晒し、日本公使館を襲ったのは清国の駐留軍であった。同じ轍を踏んではならなかった。
日本軍の退去を要請する朝鮮政府に対し、大鳥は次のように日本の意向を伝えた。P333「(東学党の反乱は静まったとはいえ)内に内政が衰えて到底独立統治する実力がない。常に朋党が軋轢し、暴動が相次いで起こりほとんど安まる時がない。
だからこの際大いに秕政(注:実の詰まっていない穀物のごとき中身のない政治)を改めて独立の基礎を固め、以って将来変乱が起こらないようにしなければならない」
朝鮮の内政改革を要求する日本に対し、朝鮮政府はひたすら撤兵要求を繰り返すばかりであった。
日本政府が予期したように、案の定ロシアとイギリスからの干渉工作があった。ロシア駐日公使ミハイル・ヒトロヴォが日清同時撤兵を要求する文書を提示した(六月三十日)。
「朝鮮政府は同国の内乱は鎮定したことを、同国駐箚の各国公使に公然と告げた。また、清国兵并に日本兵を撤回させることに付き、各国使臣等の援助を要請した。よって本官の君主である皇帝陛下の政府は本官に命じ、日本帝国政府に向かって朝鮮の請求を容れられんことを勧告し、且つ、日本が清国政府と同時に在朝鮮の兵を撤回することに付き、意義あることを申し立てられるに於いては、重大なる責任が生じることを忠告するものである」
日本はこの干渉には慎重に反駁した。ロシアの軍事介入の有無の判断が難しかったのである。しかし七月十日には、西徳二郎駐露公使が、ロシアの武力行使はないだろうと伝えてきた。P334イギリスも周旋に入った。ラルフ・ページェント駐日代理公使から日清同時撤兵と両国共同による朝鮮内政改革案が提示された。
しかし清国は、日本との協議は日本の撤兵が前提だとの考えを小村寿太郎駐清公使に告げた(七月九日)。この日、米国国務長官からも和平勧告があったが、両国への回答はロシアへのものと同じであった。
イギリスは他の欧米四ヵ国に、あるメッセージを伝えていた。ロシア、フランス、ドイツ、アメリカに対して、日本の撤兵を条件とせずに、日本との協議に応ずるよう清国に共同で促したい、と伝えていたのである。
このことは、英国外務大臣が青木駐英公使に内密で漏らし、この情報は青木から陸奥外務大臣に伝えられた(七月十二日ロンドン発公電)。この提案は、イギリスが日本の行動に理解を見せていると欧米各国に気づかせるには十分な効果があった。
フランス駐清公使は、清兵七千五百が平壌に派遣される可能性があること、日清の衝突は好ましくないと考えているが、フランスの朝鮮における関心事ただ一つ、宣教師の安全である、と小村に告げた。一八六六年のフランス人宣教師虐殺の記憶はフランス外交官にとっては生々しいものだった。
要するにフランスは、日清開戦となったら、同国宣教師の安全だけは確保してほしい、と日本に伝えたのである。漢城では大鳥公使が朝鮮政府に日本政府の内政改革案を提示していた(七月三日)。
P335「(貴国)は国内の安寧を維持する兵備に欠乏せる所ありて其勢、此れに至るものと判定せざるを得ず。我帝国は貴国と一衣帯水を隔てて相隣接し、随って政治及貿易上の関係浅からざれば、帰国に於ける変乱はわが帝国の利益に影響する」
「貴国に勧めて独立国に適当なる政治を確立せしめんと欲す。依て茲に本公使に訓令して改革法案五条を提出せしむ」日本が朝鮮に提示したのは次の五条であった。すべて朝鮮が独立国の体面を保持するために必要な改革を示したものであった。
それぞれの提案に加えて具体的な取り組みの方策についても書かれていた。
- 中央政府の制度並びに地方制度を改正し、並びに優れた人材を採用すること
- 財政を整理し富源を開発すること
- 法律を整頓し、裁判法を改正すること
- 国内の民乱を鎮定し安寧を保持するに必要な兵備を設けること
- 教育の制度を確立すること
5.05 大鳥公使の高宗謁見
大鳥の提出した内政改革案を拒否する旨、朝鮮政府が伝えてきたのは七月十六日であった。同時にあくまで日本の撤兵を要求すると回答した。清国を頼りきった事大派の支配する朝鮮王朝の当然すぎる反応であった。
朝鮮政府に対しては、李鴻章からも袁世凱からも圧力がかかっていた。朝鮮政府の拒絶の報を受けた陸奥は、清国が朝鮮増援部隊の派遣を決めたとの情報が入っていることを大鳥に伝えた。その規模は八千五百であり、うち三千は七月十九日あるいは二十日に大沽から発するとの情報である。
陸奥はまた、朝鮮王朝との交渉は大鳥公使が最善と考える方向で進めるよう指示した。すでに清国は開戦を決意したという情報を裏付けるかのように、袁世凱は十九日深夜、密かに漢城を抜け出し清国へ帰国した。
袁世凱が消えると朝鮮王朝の事大派は動揺した。袁世凱は、「直ちに大軍を率いて来るべし」と言い残したが事大派は不安でならなかった。この時期を見計らったように、大鳥公使は高宗への謁見を求めた。七月二十三日早朝、大礼服を着用した大鳥は、護衛兵を率いて、王宮に向かった。王宮の東側にある景福宮近くまでやってくると、朝鮮警備兵が突然発砲した。
予想されていた事態だけに直ちに応戦した。この小戦闘はおよそ十五分ほどで終わり、王宮の東門と北門の安全が確保され、ようやく国王との謁見がなった。
大鳥が内政改革についての日本の提議が見向きもされない事実を高宗に告げると、高宗は、日本の厚意に感謝し、改革断行をあっさりと約束した。自らのリーダーシップをまったく見せない高宗という人物の、典型的な行動であった。
大鳥は、清国から戻って以来ほとんど幽閉状態にあり閔氏一族から敬遠されていた大院君を利用して内閣改造を実行した。日本兵に護衛されて参内した大院君に、高宗が政務全般を任せたのである。
「翌二十四日に大院君は上奏して内閣百官の更迭を行ない、又皇帝(国王)はこれまで自分に悪政を行なわせたP338閔泳駿、閔炯植、閔應植、閔致憲等を悉く所罰するようにとの勅論を出し」、大鳥公使に対しては、諸般の政務の改革および牙山駐屯の清兵を撤兵させるよう依頼した。さらに、これまで冊封関係を前提とした清国との条約一切の破棄を清国代理公使唐紹儀に通告した。
大院君が、清国は蛮族の国であり朝鮮こそが中華思想の正当な後継国である(小中華思想)と考えていたことはすでに述べた。大鳥公使に促されての政権中枢への返り咲きであったとしても、清国幽閉時代に清国の恐ろしさを体験していただけに、覚悟の上の再登場だったに違いない。
大院君の決定は、朝鮮が「楽浪郡」であることをやめ、独立国であることを清国にはっきりと伝えるものであった。これによって清国と日本の軍事衝突は決定的になった。
漢城での大鳥公使の行動に呼応するように、日本陸海軍の準備も進んでいた。七月十九日には戦闘準備に入り、清国軍との接触があれば、戦闘状態に入ることが決められた。二十三日には、連合艦隊(司令長官海軍中将伊東裕亨)が佐世保を出た。
第一遊撃隊吉野、秋津洲、浪速がまず進み、本隊となる連合艦隊旗艦松島、千代田、高千穂、橋立、厳島は中央に、第二遊撃隊の西海艦隊旗艦葛城、天龍、高雄、大和がそれに続いた。その後方には水雷艇隊を従えた比叡がいた。
二十五日、朝鮮半島西岸群山沖に到着した。この北方には清国軍が駐屯する牙山港がある。その沖合の偵察に向かったのは、第一遊撃隊吉野、秋津洲、浪速の三艦であった。
(略)
5.06豊島沖海戦、イギリス船籍輸送船臨検そして平壌の戦いP339
P 340/ 342/ 344
5.07黄海の戦い、制海権奪取P345
P346/ 348
5.08アメリカ国務省の日本外交への好意的態度 その一 シル新駐漢城公使P350
350/ 352/ 354/ 356
5.09アメリカ国務省の日本外交への好意的態度 その二 アメリカの情勢分析P357
P358/ 360
5.10旅順攻防戦と、いわゆる「旅順虐殺」報道 その一 鴨緑江渡河作戦と第二軍の旅順進軍P362
P362/ 364/ 366
5.11旅順攻防戦と、いわゆる「旅順虐殺」報道 その二 清国の和平工作と日本の朝鮮改革P367
368
5.12旅順攻防戦と、いわゆる「旅順虐殺」報道 その三 怪しいジャーナリスト、クリールマンP370
P370 ニューヨーク・ワールド紙は、新聞王ジョゼフ・ピューリツァーが経営する、センセーショナルな報道で読者の好奇心を煽り、販売部数を伸ばしていた新聞であった。1895年からは、新聞王ウィリアム・ハーストの買収したニューヨーク・ジャーナル紙と激しい販売競争を繰り広げた(相互参照)。
P372/ 374/ 376/ 378/ 380
5.13下関条約交渉 その一 アメリカ人顧問、ジョン・フォスターP380
P382/ 384
5.14下関条約交渉 その二 李鴻章暗殺未遂P386
386/ 388
5.15下関条約交渉 その三 外交顧問ジョン・フォスターと追い返された二人の官僚P389
P390/ 392/ 394
5.16下関条約交渉 その四 外交顧問ジョン・フォスターの天津での打ち合わせP396
P396/ 398/ 400
5.17下関条約交渉 その五 講和条約締結P401
P402/ 404/ 406/ 408
5.18下関条約交渉 その六 列強の講和条約批准妨害工作と三国干渉P410
P410/ 412/ 414
5.19「三国干渉」考P416
P416/ 418
5.20朝鮮近代化の最後のチャンス その一 苦悩する朝鮮内政改革P420
5.21朝鮮近代化の最後のチャンス その二 改革の諦めP426
エピローグ ホーレス・アレン(参照)の更迭と朝鮮王朝の惜別
(P446-)P467 アメリカでは一八九六年の大統領選挙で共和党のマッキンレーが大統領となった。ホーレス・アレンの上司であったシル公使は民主党支持者であったから解任される可能性が高かった。共和党員のアレンは、アメリカ企業の朝鮮でのビジネス・チャンスをつねに探ってきただけに、アメリカ国内の実業界では彼の名を知る者が増え、アレンの公使昇格を望む者がいた。朝鮮王朝もアレンの公使昇格を願った。マッキンレー政権はアレンを駐漢城公使に昇格させた(一八九七年七月二十七日)。
アレンと朝鮮王朝との結びつきは、書記官赴任以来ますます強固になっていた。アレン自身も医師時代から作り上げた王室との親密な関係を誇るようなところがあった。井上馨公使が閔妃に面会を求めたときも彼が仲介した。日本の元勲までも手玉にとる感覚を彼は喜んだ。
閔妃が日本を徹底的に嫌うのは当然だった。日本の進める内政改革が成功すれば、彼らのもつ既得権益は喪失し、朝鮮王朝は、日本を指導者に仰ぐ開化派の支配下には入ってしまう。アレンはアメリカ外交官でありながら、徹底的に閔氏P448の意向に沿った行動をとった。彼は、日本の力へのカウンター・バランスにロシアを利用した。
閔妃殺害は、「危機に瀕した朝鮮革命を続行させようという改革派の必死の試みであった」(乙未事変)。乙未事変以降、高宗は景福宮に幽閉されていたが、この脱出劇にアレンは加担した。ロシア公使ウェーベル、あるいは親ロシア派の高官(李完用、李範普ら)と内通して脱出を成功させた。アレンのこうした行為、それを看過するシル公使の行為は、朝鮮内政不介入の国務省方針に著しく違背した。
そうした行動は閔妃殺害事件前から顕著だった。シル公使への叱責の文書が残っているが、国務省本省の意向を無視する駐漢城公使館に対する怒りの凄まじさを物語っている。
一八九六年一月十日 シル公使殿(略、叱責文)国務長官 リチャード・オルニーP449 国務省本省の不興を買ったシル公使が解任されたのは当然の成り行きだった。しかし、内政干渉の張本人であったアレンは、共和党政権の成立で公使に昇進した。高宗はロシアを利用するというアレンのアイデアに乗った。しかし、ロシアには、日本の指導者がかつて見せたような、朝鮮の近代化に協力するなどという真摯な意思はまったくなかった。
三国干渉で日本に返還させた遼東半島の良港、旅順と大連を清国から租借することに成功(旅大租借条約:一八九八年三月二十七日)すると、ロシアは朝鮮に対する興味を失った。「ロシア政府内には、朝鮮の将来性に魅力を感じていた政治家、投機家そして海軍軍人がいた。しかし、一八九八年になるとそうした勢力は完全に少数派になった。(略)ロシア勢力は実質的に漢城から潮が引くように全面的に撤退した」
一九〇〇年に義和団事件が起き、ロシアはそれを機に満州に兵を常駐させることに成功した。ロシアの南下により、自らのもつ清国内での権益を脅かされることを心配したイギリスがまず反発した。アメリカも、満州がロシアによって囲い込まれるこP450とを嫌い、イギリスに内通して、国務長官ジョン・ヘイが門戸開放通牒(一八九九年および一九〇〇年)を発した。
この時代は、米英が長年の敵対関係から協力関係へと大きな外交転換を見せた時期である。イギリスは、ロシアの強引な南下政策に対抗して、日英同盟を結んだ(一九〇二年一月三十日)。米英の蜜月関係の中で、アメリカは日英同盟のサイレント・パートナーとしての役割を暗黙の内に担った(この時代の米英関係の変化は拙著『日米衝突の萌芽』に詳述した)。
一九〇三年には、日露の衝突が誰の目にも明らかになった。アレンは世界の潮流を見る目を持ってはいなかった。アレンは国務省に対して、日本よりもロシアを重視するべきだと主張した。それだけではなく、ときの大統領セオドア・ルーズベルトに直談判を求めワシントンに戻った。(略、アレンと大統領の会談の模様が描かれる)
P452 大統領との会談はアレンの完全な敗北であった。アレンはルーズベルト大統領が朝鮮を軽蔑し、この国は日本に指導された方がよい(略、英文)P453と考えていたことまではわかっていた。しかし、彼にはルーズベルトの喫緊の課題が、米西戦争(一八九八年)により領土化したフィリピンの安全保障になることまでは想像できなかった。(略)
当時のアメリカにとって新領土フィリピンを防衛するためには日本との友好が必要だった。日本の目は北を向いていてもらわなくてはならなかった。それがリアリストの権化のような政治家セオドア・ルーズベルトの東アジア外交の根幹であった。それをアレンは理解できなかった。(略)
P454 日本が桂・タフト協定(秘密協定:一九〇五年七月(tw)、(相参1、相参2))を背景に、韓国の外交権を剥奪したのは一九〇五年十一月のことであった(第二次日韓協約(相参))。これを受けてアメリカ公使館は他の西洋諸国に先駆けて公使館を閉鎖し、その業務を在東京公使館に移した。そして五年後に朝鮮は日本に併合されたのである。
(略、アレンの朝鮮の友人に宛てた手紙、日本に併合されたのは、朝鮮自身が招いたもの、庶民の生活が改善され、私有財産も尊重され、役人お給料もきちんとはらわれるだろう、が、わがアメリカが日本の朝鮮における支配的立場を容認するのは返す返すも残念だ、という内容)
これが、朝鮮王朝を最後まで愛した宣教師外交官ホーレス・アレンの朝鮮への惜別の言葉であった。
→『日本近現代史』P130-(参照)