2018年4月30日月曜日

偏愛メモ 中央銀行(FRB:連邦準備制度)に関して

『日米衝突の萌芽』P394-402

P395 しかし、アメリカンシステムの三番目の狙いである「中央銀行の設立」についてだけはいっこうに進みませんでした。その理由は、第七代大統領アンドリュー・ジャクソンに代表される歴代大統領の、銀行の紙幣発行システムに対する根深い不信でした。ジャクソンはフィラデルフィアの資本家が設立した中央銀行、第二合衆国銀行が連邦銀行として機能する権限を剥奪しています。1836年以来、アメリカには中央銀行は存在していなかったのです。(中略)

P397 右記の金匠の仕組みに従えば、資金を必要としている会社に三億円を貸し出し最大株主になることが可能です。しかしよく考えてみるとその貸し出した三億円は、どこにも存在しなかった三億円なのです。この仕組みから得られる利益は、貸し出しと預け入れの金利差からの利益をはるかに上回る巨額なものです。 アメリカの政治家はこのからくりを知っていました。この悪辣な仕組みは「部分準備制度Fractional Reserve System」と呼ばれ、あたかもスマートな仕組みのようなイメージをまとっていますが、その実態は実に性悪なものです。ですから、(中略)

銀行間に競争させることで、放漫になりがちな(融資額をできるだけ増やそうとする)銀行経営をチェックさせようとしたのです。(中略)

取り付けの事態に備えて銀行家は、どれほどの割合(準備率)を支払用として金庫に用意していたのでしょう。きわめて保守的な(預金者から見れば安全な)銀行は五十パーセント近くを用意しています。たとえばハリマンの支配下にあったウェル・ファーゴ銀行(2010年、全米四位)と

P398 合併したネバダ銀行のオーナー、イサイアス・ヘルマン(Isaias W.Hellman)は保守的な銀行家の典型でした。つねに預金量の四十五パーセントを準備し、不足の事態に備えるほどの堅実経営でした。しかし多くの銀行では二十パーセント程度の準備率で経営していたのです。(平均では二十一・一パーセント)。制度的にその程度の準備率でよしとされていたのです。(中略)

前述のパニック・オブ・1907が起きたのは、こうした低い準備率での融資が行われていたことが原因でした。(中略)

パニック・オブ・1907は、モンタナの地方銀行の乱暴な経営が原因となった取り付け騒ぎでした。それではその取り付け騒ぎの危機を防いだJPモルガンなどの有力投資銀行が資金の融通に

P399 困った場合はどうなるでしょうか。ストレイトが仕掛けていたような支那鉄道投資案件などは大きな投資です。そうした投資はつねにリスクを内包します。彼らが、そうした場合に備えて最後の駆け込み寺として、資金提供できる金融機関(中央銀行)が欲しいと思うのは当然でした。彼らの問題意識の重要なポイントは以下のようなものでした。

一、銀行のわずかな準備金をすべて一つに集めてプールし、少なくとも一部の銀行が決済資金
  不足や取り付けを免れるようにするにはどうしたらよいか
二、不可避の損失負担を銀行がら納税者に転嫁するにはどうすればよいか
三、どうやって、そのような施策は市民を守るものであるとして議会を納得させるか
(中略)

1910年十一月二十二日の夜、アメリカ金融界を牛耳る大物たちがニューヨークの対岸にある小さな鉄道駅に集まっていました。(中略)

P400 七人が向かった先はジョージア州の狩猟の名所であるリゾート地ジキル島でした。(中略)

この七人が第三合衆国銀行の設計図をジキル島で検討してから二年後の大統領選挙でウッドロー・ウィルソンが当選しています。P401 彼は中央銀行設立を目指す金融資本家グループが周到に用意した人物(弾)でした。(中略)

ウィルソンはJ・P・モルガン系企業との強いコネクションがありました。だからこそJ・P・モルガンは、1912年の選挙にウィルソンを担ぎ出したのでした。その担ぎ出しを担当したのがJ・P・モルガン・ジュニアをファーストネームの「ジャック」と呼ぶほどの仲であったエドワード・マンデル・ハウスでした。(中略)

第三合衆国銀行設立を可能にする法律の準備が整ったのは、ウィルソン政権の一年目が終わろうとする1913年の暮れのことでした。法案(Federal Reserve Acts)は連邦制度理事会(Federal Reserve Board:FRB)の創設をうたうものでした。数々の工夫がなされ、中央銀行はおろか銀行という名称さ絵使用しない周到さでした。どこにも第三合衆国銀行が創設されることをにおわせる文言はないのです。委員会のメンバーの選任も、上院の助言と同意によって大統領が任命するという仕組みで、国民のコントロールが利くかのような制度となっていました。(中略)

名称にはFederal(連邦の)を使用し、政府機関であるかのような錯覚を与えています。委員の選出は運用でどうにでもなります。この委員会が全米各地に設立されることになる十二の連邦銀行を指導するのである。しかしその中心的役割を果たすニューヨーク連邦準備銀行もその他の連邦準備銀行も、株主名は公開されませんでした。すべてを主要な民間銀行が押さえていたのです。(中略)

P402 第一次世界大戦の勃発直前に中央銀行システムを導入できたことで、アメリカは期待される戦争需要への対応準備が整いました。(中略)

貸し付けをどれほど拡大してもFRBが最後の砦として守ってくれる仕組みができあがったのです。実際、FRB創設の結果、準備率は平均で十一・六パーセントに下げられ、一九一七年六月には、九・八パーセントまで下がりました。このことはFRBが生まれてわずか四年で銀行の貸し出し量が二倍になったということなのです。これこそがJ・P・モルガンをはじめとした金融資本家が意図していたことでした。

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