2018年9月24日月曜日

偏愛メモ

■『重光・東郷とその時代』
P198 ここに、いまに至る現実主義と自主独立願望とのあいだの相克が見られる。世界の覇権国について行けば日本の安全も繁栄も心配いらない、という西園寺の現実主義に、若き近衛が「対英追随」を感じて、ついて行けなかったのである。


P266 かつて福地桜知は、「言論統制で苦しむのはつまるところ文章の下手な連中だ。文章が上手ければ、何も取り締まりに触れるようなことは書かなくてもいいたいことはいえる」といったという。汪兆銘はその詩文から見ても一大文章家であり、…


P268 西安事件19361212で蒋がいかなる妥協をしたかは永遠の謎であるが、汪自伝では、蒋が、(一)孫文の容共連ソの政策を実現して対日戦を行うこと、(二)国民政府に共産党を含めること、(三)抗日に同情するすべての外国と協力するすること、あるいはそれ以上の秘密の約束をしたのであろうと推測している。汪自伝は、そのとき蒋介石を救い出した宋美齢の回想として「西安事件は中国国家を猛烈な勢いで破壊し、西安は死の罠だった」と引用している。宋美齢はいつこれをいったのだろうか。もちろん汪兆銘は日本の敗戦前に死んでいるから、最終的に国民政府が共産軍に敗れて台湾に追い落とされる前である。ということは、宋美齢は、西安事件以降の国共合作が中国を支那事変の泥沼に引きずり込んだ原因だと思っていたということになる。


P280 ボルシェビキの冷徹な外交
革命後のソ連は、いままでのいかなる国とも異なる独特なイデオロギーのもとに、しかも一党独裁の専制体制によって極端な秘密主義を守ったので、その動向は謎とされた。チャーチルは、ソ連を「謎に包まれた謎のなかの謎」と呼び、近衛文麿内閣のあとの平沼騏一郎内閣は、独ソが不可侵条約19390823を結んだとき、「複雑怪奇」と呼んで退陣することになる。(関連『鮎川義介と経済的国際主義』P196)

このときの独ソ接近を理解できなかったのは、平沼騏一郎だけではなかった。キッシンジャーは、「もしイデオロギーが必然的に外交政策を決定するのならば、ヒトラーとスターリンの提携は、その三世紀前におけるリシュリューとトルコのスルタンの提携以上にありそうもなかった」と書き、「リシュリュー、メッテルニッヒ、パーマーストン、あるいはビスマルクにきわめて明快だったであろう戦略を西側諸国が理解することを拒んだことはスターリンの仕事を容易にさせた」と書いている。(中略)

しかし、いまとなってみると、ソ連の行動などはキッシンジャーのいうとおり、単純明快なものだった。思い出すのは冷戦中、故牛場信彦駐米大使が「共産圏の専門家などは偉そうな顔をしているが、あれは実は簡単なんだ。難しいのはアメリカの政治を読むことだ」といっておられたことである。それはキッシンジャーがひそかに訪中した、いわゆるニクソンショックのあとのことであった。もう一度キッシンジャーを引用すると、「スターリンの究極の悪夢は、ソ連邦を攻撃する繕資本主義国の同盟であり」「ボルシェビキの義務とは、すなわち資本主義国同士を争わせ、ソ連邦が彼らの戦争の犠牲となることを回避することであった」---『外交』第十三章。(中略)

P282 満州事変後の極東の情勢をソ連がどう判断してたかは、1932年の日本共産党テーゼと同時期のコミンテルン第十二回執行委員会の反戦決議から知ることが出来る。それによれば、満州事変は日本帝国主義によって火蓋を切られた強盗戦争であり、国際連盟においてフランスとイギリスが満州事変における日本の行動を庇ったことは、国際連盟が仏英帝国主義の道具になっていることを示している。

他方アメリカは、満州占領に反対しつつも極東における勢力範囲の公平な分け前を要求し、太平洋におけるその地位強化のために日本とソ連の両方が弱まることを欲して、日ソ戦争を挑発しようとしている
。まさに、ソ連に対する戦争のために帝国主義列強の統一戦線をつくろうとする意図が強化されている、というのである。(関連モルガン家532)

P283 1932年はヒトラーが権力を握る前年であり、ソ連としては、もっとも恐れたのは、英仏の帝国主義と日本の帝国主義による包囲だった。とくに、それまでは、短い朝鮮ソ連国境だけで対峙していた日本が全満州を制圧し、最大な国境線で接するようになったことには脅威を感じたのである。

極東の軍備増強
ソ連では、1928年スターリンが権力闘争に勝ってトロツキーを追放し、ソ連邦の命運を賭けて、重工業の建設と農業の集団化を達成するための五ヵ年計画を始めた。満州事変が起こったときはまだその三年目であり、内政の状況からいって、これに対応できる態勢になかった。ヤコブレフは『歴史の幻影』のなかで当時の情景を描写している。

「1931年夏にカラダンダの荒野に撲滅富農を乗せた最初の列車が到着した。…約五十万人、無人の土瀑で彼らは、最初のうちは地面に穴を掘って上から藁かぼろをかぶせただけの場所に住んだ。冬には暖房もない小屋に五十平方メートルあたり七十人から八十人が入れられた。1932年の春までに生きのびたのはその半数だけ。P284 33年末には四人に一人しか生き残れなかった」。スターリン自身がチャーチルに語った証言によれば、このような仕打ちを受けた農民は一千万人に達したという。

こんなときに、日本と事を構える余裕などあるはずもない。ソ連の政策は、当然に極東の軍備増強と、その増強が達成されるまでのあいだなんとしても日本と衝突しないための対日宥和、そして日本が南進して、国民党、米英と衝突するのを期待することにあった。(中略)

日ソの兵力比をパーセントで見ると、昭和10年、11年ごろに日本にとって最悪となるが、この二年間に国境紛争は三百回以上起こっている。その多くは国境が不明確な地域で起きたものであり、力を背景に、国境線の問題では一歩も譲らなかった。

日本との戦争をできるだけ引き延ばす
他面ソ連側は戦闘を拡大する意図はまったくなかった。共産主義者の考え方として、日本との戦争はいずれは不可避である。が、「その不可避な戦争を、資本主義同士が戦うときまで遅らせること」(1927年党大会におけるスターリンの演説)が肝要とされている。日本との関係では、日本における北進論(対ソ連)を抑え、南進論(中国本土)を奨励するのがその政策である。

日本と蒋介石との戦争、日本とアメリカとの戦争が起こるようにさせ、それまではソ連は日本と平和的関係を保って、日本が弱ったところで一撃を加えればよい。それは、その計算どおりとなった。ソ連はそのために積極的な情報工作を行った。近衛文麿のブレーンだった尾崎秀実は、のちにソ連のスパイだったことが発覚して死刑となるが、支那事変勃発当時は、最高の中国問題専門家としての名声を利用して『朝日新聞』『中央公論』などで、事変の拡大のためのキャンペーンを行った。

尾崎は「南京政府の支配は一種の軍閥政治」であると、その後の「蒋介石を対手とせず」の声明の伏線となる議論を展開し、「局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさない」「日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ・・・そのほかに絶対に行く道がないのは間違いない」といい、元が宋を滅ぼすのに四十五年、清が明を滅ぼすのにも四十六年かかった例を挙げ、戦争を拡大するよう、早期にやめないよう、煽動している。

西安事件では、ソ連は中国共産党に対して、蒋介石を釈放するよう圧力をかけたという。そして国共統一戦線を結成させ、盧溝橋事件の翌八月には中ソ不可侵条約を結んで、中国に対する武器援助を開始した。昭和12年から16年までに、ソ連は中国に航空機一千機、砲一千門、機関銃一万挺を含む軍事援助を与えたという。

P288 こうしたソ連の戦略がわかっていれば、それだけで、支那事変、張鼓峰事件、ノモンハン事件、日ソ中立条約、中立条約侵犯のすべての背後にあるソ連の考え方が簡単に理解できよう。

ヒットラーの戦略
「『我が闘争』に示されているヒットラーの哲学は、陳腐であるとともに空想的であり、従来から存在する右翼過激思想を通俗的にまとめ上げたものであった。その思想は知的潮流を引き起こすことはなかった。この点で『我が闘争』はマルクスの『』や十八世紀の思想家たちの著作と異なっていた」---キッシンジャー

たしかに、ヒットラーの思想のなかには、人種の優越のような空想的発想はあっても、人類の普遍的価値観となりうるものは何もない。ただ、ドイツの国家戦略はあった。それは、ウクライナに至る東ヨーロッパの穀倉地帯を押さえてゲルマン民族の生存圏を確保することである。しかし、その戦略的発想に加えて、ユダヤ人憎悪のような低次元の偏見や独裁体制から由来する個人的な思いつきや思い込みが混在したことが、ボルシェビキのような冷徹な一貫性を失わせている。

日独伊枢軸同盟に至る過程で、ドイツにとっても日本にとっても最大のディレンマとなり、それがまた蹉跌の原因ともなったのは、イギリスとの関係である。ドイツの目的が東方における生存圏確立のためであるとすれば、西方とは事を構えたくないのは当然である。1936年8月、リッベントロップを駐英大使に任命したときに、ヒットラーは「どうかイギリスも防共協定に参加させてくれ、これが自分の最大の望みだ」と訓令した。

そして同年11月、日独防共協定成立に際して、日本では東郷茂徳欧米局長が、当時の閣僚はすべて協定に賛成であり、寺内寿一陸相が統合に対して「あなたは、まだイギリスのことを心配するのですか」と責めるのを物ともせず、英国との政治協定を結ぶのを防共協定の条件としている。だが、防共協定は英国の公式の了解を得ることはできず、反対に英国の猜疑を深めつつ締結され、それが三国同盟に至る最後の過程では、ソ連よりも英国を対象とするようになっていく。

P290 リッベントロップの覚書
それには必然もあろう。東郷が指摘したように、日独防共協定には本来的に英国の猜疑心を招く要素があった。ヨーロッパの覇権をドイツが握るということは、英国の伝統的な欧州大陸におけるバランス・オブ・パワーの政策と衝突することになる。しかしヨーロッパ大陸で、フランスの有事の際に英米の支持を受けてバランス・オブ・パワーの要素として残るかぎり、英国としては、ドイツの東方進出は絶対に困るという性質のものではない。

リデル・ハートの『第二次世界大戦史』によれば、1937年11月のハリファックス英国上院議員の訪独によって、ヒットラーは、英国が東ヨーロッパにおけるドイツの行動にフリーハンドを認めた、との印象を得た。英国側は、そこまでははっきりいわなかったとしても、ドイツの東方進出には十分理解を示したようである。

英国の態度がミュンヘン会談とポーランド侵入のわずか半年のあいだに百八十度変わるのは、英国の世論が第一次大戦後はウィルソン主義の影響を受けて、従来の現実主義的な思考と並行して道徳的な原則を重視するようになっていたからである。また島国である英国には、そうした道徳的思考を許す地政学的な余裕が与えられていた。

「ヒットラーの失敗は、バランス・オブ・パワーという歴史的原則を破ったことでなく、第一次世界大戦後のイギリス外交の道徳的前提を踏みにじったことであった」---キッシンジャー

イギリス人はヴェルサイユ条約の不公正さは知っていた。だから、ドイツが同じ人種であるオーストリアの併合を禁止されているのは不合理だと思っていたし、ドイツ人居住地域であるズデーテンラントをチェコスロヴァキアから回収することにも反対しえないと思っていた。しかし、その後ナチスが強引にチェコスロヴァキアを解体して保護国化したことには同じ民族自決原則からいって道徳的に許せなかった。そして民主主義特有の現象として、それまでの宥和政策に対する反動が世論を正反対の方向に引っ張って、ポーランド侵入に際しては対独宣戦に立ち至らせるのである。

このように、英国を敵にまわすことはもともとヒットラーの意図でもなく、また、P292 パワーポリティクスの必然でもなかった。それなのに枢軸同盟が、ついには英米を主要目標にするようになるのに重要な役割を果たしたのはリッベントロップである。(中略)

リッベントロップは、正式に外相に就任する前に駐英大使となったが、ヒットラーから命令された使命には失敗した。教養がなく傲慢なリッベントロップはロンドンでは相手にされなかった。そこで、チアノ伊外相のコメントによれば、彼は「裏切られた恋人」の憎悪に駆られ、英国に対する私怨を晴らそうとしたのである。1938年1月の「総統のための覚書」で、「私は過去数年、イギリスとの友好のために働いた。これが実現すればこれ以上の喜びはない。しかし、今日私はもはや英独の相互理解を信じない。

P293 イギリスをもっとも危険な宿敵であるという考慮を根本的に維持しなければ、われわれの敵は利益を得ることとなろう」と書いて、テオ・ゾンマーによれば「まったく支離滅裂なひどいドイツ語で」、日本、イタリアと組んで英国に対抗する同盟を結ぶことを主張した。この覚書脱稿の四週間後にリッベントロップは外相に任命された。テオ・ゾンマーは「この覚書の歴史的価値は、ヒットラーの十一月の大演説の価値にほとんど劣るものではない」と書いている。

張鼓峰事件とノモンハン事件
日本には、ボルシェビキや、ヒットラーらの戦略と比較できるような国家戦略はなかった。それは当然のことであり、日本は独裁国家ではなく責任内閣制であって総理大臣が次々に代わるのだから、すべての内閣が一貫した政策のもとに行動することはありえない。東京裁判では、指導者のあいだに共同謀議があったことになっているが、そんなものは実在しないし、ありえようはずもない。

日本の政策が一貫して侵略的であった証拠として引用された広田弘毅内閣のときの国策の基準(昭和11年)にしても、各省の妥協による作文でしかない。こんなものを読んでも、その時点における政府内のだいたいの考え方がわかるだけである。P294 そして、その後政府が政策を決定するに際してこれを読み返してそれに従うこともなかった。それがこの種の文書の常である。

ただ一つ戦略らしいものがあったとすれば、それは石原莞爾の国家戦略論であり、その衣鉢を継ぐ参謀本部の戦争指導課の考え方であった。支那事変前年の昭和11年8月の対ソ戦計画大綱では、「ソ連のみ敵とすることに全幅の努力を払い」「英米の中立を維持せしむるためにも支那との開戦を避けることきわめて緊要」としている。

そして、盧溝橋事件後は事件の不拡大に努め。その後昭和13年6月に至る三次の戦争計画要綱では、「戦争規模をなるべく縮小して国力の消耗を防ぎ」「速やかに和平を締結する」ことを主張している。まさに蒋介石との戦争に日本を巻き込み、英米とも対決させようというソ連の戦略とガッチリと四つに組んで対抗できる戦略であった。

結果としては、日本は、中国本土の泥沼にはまり込み、対米戦に追い込まれるという、ソ連と中国共産党の思う壺にはまることになる。それは共産主義戦略の勝利であり、大本営の戦略さえ一貫して守れなかった日本の政策決定過程の欠陥がもたらした日本戦略の敗北であった。

P295 支那事変の最中、ソ連国境では、1938年に張鼓峰事件、39年にはノモンハン事件が起きている。いずれも、まったく日本側の敗北である。(中略)P296 日本側は日本軍の伝統に恥じない勇戦をしているが、個々の人間の戦闘能力で戦局の帰趨を変えられるような戦力バランスではなかった。問題は作戦ではない。敵がそれだけの大兵力を投入できることを認識しなかった情報戦の欠陥と、中央の意向を無視して手持ちの兵力だけで勝とうとした自信過剰と現地の独走であり、これは両事件に限らず、第二次大戦の全局面を通じて日本軍が終始犯した過ちである。(中略)

信念を貫き通した米内光政
日独伊三国の枢軸同盟の締結は、日本を第二次大戦に押しやった、唯一とはいわないが決定的な要因の一つである。これを最後まで拒否し、内閣に陸送を送らないという最終手段で辞任を強制されるまで、一歩も譲らなかったのが米内光政であった。米内は南部藩の貧乏士族の出身で、海軍兵学校での成績は中くらいであったが、柔道では並ぶ者がないくらい強かったという。(中略)

P297 友人のすすめで同期でいちばん遅れて海軍大学の受験勉強をするようになってから、モリモリ勉強しだし、海大の秀才となった。やがて各ポストを歴任してゆくうちに、心ある人は、米内こそ将来の海軍を託するに足る人材と思うようになるが、誰よりもそれを認めたのは山本五十六だった。(中略)

P298 昭和13年の初頭からリッベントロップは大島浩駐独陸軍武官に同盟の話をもちかけ、陸軍はその夏ごろにはドイツの意向を受け入れる方針を固め、それを政府部内で通そうとするが、米内は反対して一歩も退かない。

米内は、板垣征四郎陸相と五時間余議論し、「自分は防共協定の強化の強化そのものに不賛成であるが、陸軍がここまで蒔いた種を何とかしなければならないというにしても、対象をソ連にとどめるべきであり、英国までも相手にする考えならば『職を賭しても』これを阻止する」といっている。その後、あの手この手で圧力を加える陸軍に対して微動だにせず、信念を貫き通した米内の態度は立派である。そして、同時に海軍の枢軸派も抑えて、部内を一糸乱れず統率した山本の手腕も見事であった。

近衛は昭和14年1月にかねて希望していたとおり総理の職を辞し、代わって平沼内閣となるが、近衛は枢密院議長、無任所大臣として閣内に残り、人事、政策ともに、近衛内閣からの継続を保ち、米内は留任した。三国同盟をめぐる論争は続き、そのあいだ妥協案をつくったり、「その案ではとうてい伊独を納得させられない」といって枢軸派の駐独大島、駐伊白鳥敏夫両大使が訓令執行を怠るなどというゴタゴタが続いて、結論に達しないうちに、1939年8月、P299ドイツはそれまで仮想敵としていたソ連と不可侵条約を結んだ。日本政府は、防共協定の違反としてドイツに抗議して、交渉を打ち切り、平沼内閣は8月28日「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と声明して総辞職した。

ドイツの政策の急回転は、ドイツの必要から生じたものであった。ポーランドに強硬な要求を出しているが、ポーランドは英仏の援助を恃んで譲歩しない。その地域に行使できる武力を持っている国はソ連しかいないが、英国が裏でソ連との協調を策している気配もある。そこで、リッベントロップがモスクワに乗り込んで、東ヨーロッパの勢力範囲分割についてソ連と話をつけて、一挙に独ソ協力を成立させたのである。(中略)

P300 平沼の後継は、陸軍の推す阿部信行となった。阿部は明哲保身なだけの軍事官僚であり、軍の中堅層から「毒にも薬にもならない」人物として担がれたものである。米内は、山本と同期の吉田善吾を後任の海相に推した。山本は引きつづき次官として補佐しようとしたが、米内は山本を連合艦隊司令長官に出した。米内の腹では、次官に残すくらいなら当然自分の後継の大臣にする。しかし、そのまま残っては暗殺の危険があるのを慮り、海軍の貴重な人材を温存しようとしたのである。(中略)

P301 阿部は大命降下に際して天皇よりとくに「米英協調」を命ぜられたが、本人自身、平均的な軍人として親独派であり、どうしてよいのか分からないうちに、政党からは信任が得られず、陸軍からも見放され、わずか四ヵ月半で退陣した。

その後任を米内としたのは湯浅倉平内大臣の独走といってよい。湯浅は、天皇が一言「米内はどうだろうか」と漏らされて以来、陸軍を抑えうるものは米内しかいないと心に決めて、西園寺公望の支持を得て米内内閣成立に突っ走った。そして天皇は畑俊六陸相に対して、協力を求める異例の優諚を賜り、米内内閣は昭和15年1月に成立した。この過程で平沼、近衛などはまったく蚊帳の外に置かれた。

高名なジャーナリストである高宮太平の筆を借りれば、「平沼、近衛、木戸らは時には陸軍に対して不満を漏らすが、真正面から抑えようとはしない。抑えれば自分の生命が危ういという怯懦心もあったが、政権欲、権勢欲があるから、思い切ったことができないのである。湯浅は文字どおり捨て身だった。君国の将来を念ずるほか、一身の利害栄達など眼中になかったのである」。まだ日本には忠臣義士がいたのである。このくらいの勇気のある人がもう何人かいれば、あるいは、近衛、広田にこの勇気があれば、というのが昭和史の痛恨事である。

P302 ついに態度を変えた畑陸相
こうした経緯でできた米内内閣は、組閣早々から、「枢軸反対の論功行賞」「対英米媚態」外交と呼ばれ、軍や右派の倒閣運動の的となったが、米内はびくともしなかった。四月には米内はグルー大使に対して、「日本の政策は決定したからもうご心配無用である。日本においてファシズムを望み、独伊との提携を求める分子は鎮圧した」と語っている。

ところが、いったん気勢をそがれた枢軸派の勢いを盛り返させたのはヨーロッパにおけるヒットラーの成功であった。兵を西に転じたドイツ軍はたちまちに北欧、西欧を席巻し、六月にはパリ入城を果たした。ドイツ賛歎の声が再び沸き上がった。そのようななかでも、事態を冷静に見る人々もいた。西園寺は、「ヒットラーが偉くても長くて十年続くか続かぬかの問題だ。ナポレオンもそうだった」と達観し、米内は「ヒットラーやムッソリーニは「一代身上だ。あんな者と一緒になってはつまらない。彼らは身上を棒にふったところでもともとだ。三千年の歴史のある日本の天皇と一代身上者を同じ舞台で手を握らせようなどとはとんでもない話だ」と語ったという。

P303 しかし、すでに陸軍の倒閣運動は露骨だった。武藤章軍務局長は何度も石渡荘太郎内閣書記官長に、軍の総意として内閣退陣を要求した。畑陸相は天皇の意を体して最後までこの動きに加わらなかったが、ついに突然態度を変えた。畑は、枢軸国との関係強化と内閣の総辞職を求める文書を米内に突きつけた。米内は少しも悪びれず、「陸軍の所見は現内閣の所見と異なるから、都合が悪ければ辞めてもらいたい」といった。畑はさっそく辞表を提出し、陸軍はもとより後任を送ることを拒絶し、それが米内内閣の終わりだった。

その前に天皇は、木戸幸一に「自分はなお米内を信任している」と漏らされたが、木戸はこれをすぐ米内に伝えず、米内が辞表をもって参内したしたときに初めて伝えた。高宮は、これを木戸の故意だったと考えている。木戸は近衛と同じく大勢順応派であり、盟友近衛に後を継がせるためそうしたことは十分考えられる。なお、畑の態度の豹変の理由は、陸軍の最長老閑院宮の御命令だったので、畑としては抗しうべくもなかったということだった。畑はこのことは誰にも口外せず、戦後になって東京裁判でも沈黙を守ったが、当時の参謀次長の証言でやっと真相がわかった。

P304 畑は、米内に陸軍の意向を伝える文書を手交したのちは「屠所に引かれる羊のように神妙に」辞職したが、米内は畑の心事を理解していて、畑が自殺するのではないかとしんぱいしたという。米内は、東京裁判で、畑が突きつけた内閣総辞職要求について証言を求められたが、米内は、この忘れるべくもない文書について「記憶がない」と証言した。裁判長は、「当時の新聞にも出ているではないか」と縮刷版を出して追及したのに対して米内は「字が小さくて読めない」といった。(中略)

松岡洋右の登場
これほどに、天皇は「絶対に許さんぞ」といわれ、米内、山本がテロを恐れずにP305抵抗した三国同盟が、第二次近衛内閣ができると、あっという間に成立してしまう。これは時流もあろうが、松岡洋右の強引な事務の取り進め方によるところが大きい。近衛内閣が7月末に組閣されると、すぐに松岡外相はドイツの意向を打診した。ドイツのほうは、必ずしも確たる方針がないままスターマー特使の派遣を決めた。夏が明けた早々、9月4日、松岡は、総理、陸海相、外相の四相会議に、事前の予告もなく謄写版二十数枚の三国同盟案を提出した。皆驚いたが、「まあとにかく参戦、武力支援の問題は慎重にしてほしいが、交渉ははじめてもよい」という了承を得た。

松岡とスターマーの会談は九月九日から始まり、たちまち私案がまとまり、十九日には成文を御前会議で審議するところまで進み、二十七日にはベルリンで条約が署名された。

、 この間、海軍はどうしていたかというと、吉田海相は、陸軍、外務、世論のあいだで孤立無援となり、心痛のあまり入院し、辞職し、及川古志郎が後任となった。次官もすでに山本から豊田貞次郎に代わっていてもはや大勢に抗する力はなく、若干の字句の修正で妥協した。(中略)

P306 天皇の御憂慮のとおり、この条約は日本を破局に導いた。(中略)
第一条で日本はヨーロッパ新秩序建設における独伊の指導的地位を認め、第二条で独伊は大東亜新秩序における日本の指導的地位を認めた。日本が当面関心のあった仏印(ベトナム、カンボジア、ラオス)と蘭印(インドネシア)はそれぞれドイツが本国を占領しているのであるから、ドイツが支配権をP307主張できる地域である。また、第一次大戦の敗戦でドイツが取られた太平洋諸島もある。さらに英帝国が解体した場合のマレー、ビルマ、インド、豪州の問題もある。したがって、とにかく日本が大東亜共栄圏と考えていた地域に日本の優先権を認めさせたのだから、もし戦争画が枢軸側の勝利に終わるとすれば日本はこの条約によってドイツの大きな譲歩をかち得ていたことになる。空想的取り極めとしては価値があったのである。

その背後には、当時松岡がもっていた地政学的発想がある。つまり、独伊、日本、およびロシアがそれぞれ旧大陸において南北に勢力圏をもち(日本もドイツも、インドはソ連に与えてもよいと考えていた。その三勢力が協調して、モンロー主義のアメリカを南北アメリカ大陸に閉じ込めるという考えである。地政学や戦略というには、あまりに空想的な子供っぽい考えであるが、独ソ協調の期間のヒットラー、リッベントロップは同じような考え方をしていて、松岡はその影響を受けていた。

そして条約の第三条で、今現在ヨーロッパ、アジアで戦争をしていない国からの攻撃に対する相互援助を規定している。つまりソ連と米国であるが、ソ連については第五条で除外しているので、結局この条約の目的は米国である。P308 三国協調は当初はソ連、やがて英国を念頭に置き、最後には米国をその対象とすることとなったのである。これを見ても、この同盟がパワーポリティクスの必然から来ていないことがわかる。そして松岡やドイツが信じていたのは、この条約が米国の参戦防止に役立つということであった。

条約署名後、リッベントロップは米国に対しても、もし参戦すれば「二億五千万を超える三国国民の団結した力と戦わねばならない」と警告を発し、ワイツゼッカー外務次官のような冷静な外交官でさえ、アメリカは二正面作戦には辟易するだろうといっている。日本の強大な海軍力、英米に対抗しうる一つの大きな軍事資産と考えられていた。松岡の天皇に対する説明も、アメリカとの戦争を避けるためにはこれしかないということであった。(中略)

P309 しかし、ヒットラーも松岡も米国についての読みを誤っていた。アメリカは力のバランスのうえに立った損得の勘定で戦争をする国ではなかった。道徳的原則と国民感情のうえに立って戦争をする国であった。二十世紀も終わりとなってみれば、こんなことは常識である。それは二十世紀の半ば、1951年に出版されたジョージ・ケナンの『アメリカの外交五十年』で明確に指摘され、世紀末のキッシンジャーの『外交』によって、理論的、歴史的に詳細に分析されている。

だが、それは戦争が終わってからの後知恵であった。当時は誰もわかっていなかった。少なくとも世界各国の政策立案者の常識とはなっていなかった。そして皆、アメリカの出方を暗中模索し、あるいは幻想を抱いたのである。しかし、常識的に米国の反発の危険をわかっていた人はいた。天皇も西園寺もわかっていた。そして、誰よりも日米外交の担当者であるグルー大使がわかっていた。

グルーは1940年10月1日の日記に「同盟の主たる目標がアメリカであることは明瞭である」と書き、「九月の日記を書き綴る私の心は重苦しい。これは過去に私の知っている日本ではない」と書き記した。P310外交官がその任国について、「これはもはや、いままでに私の知っている国とは違う国だ」と書かねばならないときの絶望的な心境を思うと、ただ哀切である。



P322 こういう人物は、ヒラの職員としては極めて有能であるが、課長となると、もう使う方が注意して、仕事を思う存分させつつも、マイナス面をカヴァーしなければならない人物である。そして、けっして課長以上にしてはいけない人物である。


P349-350
天皇「陸軍は日米戦争をどのくらいの期間で片づける自信があるのか」
杉山「南洋方面は三か月のつもりです」
天皇「支那事変を一か月で片づくといってすでに四年たって片づかないではないか」
杉山「シナは奥地が広く・・・」
天皇「シナの奥地が広いことは初めからわかっている。太平洋はもっと広いではないか」


P328-336 松岡外相の日米交渉妨害
P328 松岡の独走、暴走のなかでも、最も大きな害をなしたのは日米交渉に対する松岡の妨害である。しかも、それをなした松岡の動機が、大きな政策についての意見の相違からというのではなく、あえていえば松岡のケチな根性からきていることを思うと、悔やんでも悔やみきれないところがある。

三国同盟の仮想敵が米国であることは条文を見れば明らかであり、同盟が成立するや否や米国は戦略物資の禁輸強化を行い、米国内の世論も戦争を賭しても日本を抑えるという声が高くなった。

松岡の外交はもともと強く出ることによりアメリカを引っ込ませようというのであるから、米国の世論をなだめようという策をとるはずもなく、米国政府側も、松岡のやりかたにおこってしまって、日本を宥和する政策を打ち出す気もなく、日米関係はただただ悪化していった。

P329 しかし、そこがアメリカの懐の広いところであるが、政府間が暗礁に乗り上げているのに対して民間が動きだした。

それはカソリックの修道会であるメリノール会の聖職者ウォルシュとドラウトであった。彼らは大統領の選挙事務長であり、親日派であるウォーカー郵政長官とも親しく、近衛とローズヴェルトのあいだに和解のための仲介を申し出た。

両師は昭和15年11月の滞日中、松岡外相や陸軍当局とも会ったが、松岡などはこうした民間の動きなどに大した期待をもたなかった。

しかし近衛は、あいだに立った井川忠雄(大蔵省出身のアメリカ通)を信頼して、松岡にも駐米大使として赴任する野村吉三郎にも秘して、やらせてみて成り行きを見るゴー・シグナルを出した。

その後三人は、それぞれの国の首脳の意を受けつつ話し合いを続け、昭和16年4月15日に至って成果を得た。そして翌16日、密かにハル国務長官と野村大使のあいだで、これを政府間の話し合いに載せることに合意した。

この日米了解案の内容は、じつに苦心の作である。

P330 米国側は三国同盟を実質上空文にすることを希望したが、日本側としては、国際信義のうえから、結んだばかりの条約を骨抜きにするわけにはいかないので、これは全く防衛的なものであると宣言することとした。

いちばんの問題は支那事変の解決であったが、諒解案は、中国側が満州国を承認し、蒋介石と汪兆銘の政府を合体させ、日本軍は協定に基づいて撤兵し、非併合、非賠償の条件の和平を結ぶことを米大統領が蒋介石に勧告することとした。

4月18日、たまたま東京では閣議の最中にこの案がもたらされ、その夜、政府と統帥部の連絡会議が開かれたが、全員賛成だった。陸海軍は「飛びついた」のが実情だったという。すぐに原則的賛成を返電しろという意見もあったが、もう二三日で帰国する松岡を待つことにした。

じつは、近衛は松岡がつむじを曲げることを憂慮していた。そして、自ら松岡を迎えの車中で説得しようとして飛行場まで赴いた。ところが松岡は帰路二重橋で皇居を拝むパフォーマンスをすると言い出し、インテリの近衛は、それに付き合うのをためらい、同乗を断念した。

はたして代わりに同乗した大橋忠一次官は説得に失敗し、近衛は、のちのち「あのときに自分が同乗していたら…」と残念がったという。

P331 じつは日本に着く前に、近衛は大連に着いた松岡に電話をして米国から重大な提案がきている
から急いで帰国するようにといった。松岡はその時は上機嫌だった。モスクワで旧知の駐ソ・アメリカ大使に対し、米国が日支和平をの仲介をするよう説いた効果が早くも表れたと思ったからである。

ところが、自分の知らないうちにカソリック宣教師によってできた案と聞くや、ただちに不快の念を顔に出し、会話を打ち切ってしまった。

首相官邸の会議に出席した松岡は、ヒットラーさん、チアーノさんと呼びながら訪欧の話を吹きまくり、近衛がたまらず日米諒解案の話をすると、激昂して、「米国にだまされるな、とにかく自分は疲れているから、二週間か一ヵ月くらいのうちに考えをまとめたい」といいたいだけいって帰ってしまった。

あとに残った関係者は東条陸相も含めて、松岡の暴慢に憤慨し、とにかくこの話を進めようと合意したが、もう機会は去ってしまった。この経緯は書くだけでも恥ずかしいような、低次元の話である。しかも、こうした小人物の意固地が国の運命を翻弄したとなるとやりきれない気持ちになる。

結果として、松岡は、日米諒解案に到達する際に双方が行った妥協すべて否定するような日本側修正案を5月11日、米国に提案した。



P414 福沢諭吉の文章の魅力は、余計な遠慮や偽善を排して物事の本質にズバリ入るところにある。(中略)「江戸時代は、将軍直属の幕吏が幅をきかせた。われわれ小藩の士族などは、大井川を渡ろうとするためには、朝早くから四時間も待たねばならない。やっと順番がきたと思うと、『下に居ろう。下に居ろう』という声で公儀の荷物がくるので、逃げ散って、これを見送ってから、結局、六時間も待たされて川を渡った。・・・

先年、香港に旅行したときに、支那の商人が靴を売りにきた。暇なので、わざとゆっくり値切っていると、そばにいた英国人が、支那人がまた無理をいっているとでも思ったのだろう。靴をもぎ取って私に手渡し、二ドルほどの金を支那人に投げ与えて、ものもいわずに、ステッキで追い出してしまった。

私はただ、英国人の横暴がうらやましかった。英国人は、かつての幕吏どころでなはなく、P415 無人の境を行くがごとく東洋の諸国を往来している。その心のなかは、さぞ愉快であろうと思う。日本も数億円の貿易を行って、数千隻の軍艦を揃え、大いに世界に国威を輝かせば、支那人などは、右の場合の英国人が支那人を扱ったと同じように扱えるだろう。

そのうえに、英国人をも奴隷のように扱う圧制も加えられるのにと、獣のような恐ろしい気持ちが湧いてくるのを禁じえなかった。圧制を憎むのは人間のもって生まれた性質というが、それは圧制されるのを憎むのであって、自分が圧制をするのは、人間最上の愉快といえる

かつての幕吏、いまの外国人に対して不満をもつのは、自分がその圧制を受けているからである。私の希求するところは、いま圧制している人を、逆にこちらから圧制して、日本が世界で圧制を独り占めにすることである

当時の日本人、あるいはすべてのアジア人の心のなかに一度は生まれた願望を正直に書いた論説である。そして日本はついに英国人とオランダ人に勝って、白人種に屈辱を与え福沢のいう「獣心」を満たしたのである。



■『ウェルカムトゥパールハーバー(上)』
P058-064 1940.09.28 ニューヨーク

P058 前日の9月27日、ベルリンで日独伊三国同盟が締結された。このニュースは新聞やラジオで大きく伝えられた。だが、欧州の大戦特需の好景気に沸くニューヨークで、深刻に受け止めた者はわずかだった。一般市民の無関心とは裏腹に、ニューヨークのど真ん中に拠点を置くBSCは、日独伊三国同盟締結のニュースを、強い危機感をもって受け止めていた。

ロックフェラーセンター36階の3604号室は、BSC局長ウィリアム・スティーブンスンの執務室である。(中略)

P059 中央にあるほぼ正方形のテーブルを囲むようにして、四脚のソファが置かれている。ふたつある窓のうち、間近にエンパイアステートビルディングが望める正面左側の窓を背にして、眉毛の濃い鷲鼻の大男が座っている。ウォール街二番地にオフィスをかまえる弁護士、ウィリアム・ドノヴァンである。

ドノヴァンの左にあるソファに身を沈めている痩せて小柄な男はウィリアム・ワイズマン。細面で、鼻の下にたくわえた髭に白いものが交っている。痩身にグレーのツイードジャケットをはおり、組んだ脚のひざ頭に中折れ帽子を載せている。前MI6アメリカ支部長、つまりBSC局長の前任者だ。現在は国際投資銀行クーン・レーブ商会共同役員で、当年55歳。

ワイズマンの左側、ドノヴァンの正面に座っているのは、現BSC局長ウィリアム・スティーブンスン。くしくも同じウィリアムのファーストネームを持つ男が三人、顔をそろえた。スティーブンスンの左側には、(中略)

P060 男の名前はジェームズ・ドラウト。ニューヨーク北部郊外のメリノール地区オッシニング村に本部がある。カソリック新興宗派メリノール教会派の神父にしてナンバー2の事務局長である。(中略)彼の前に一枚の写真が置いてある。(中略)

「ストラウスさんの言葉をそのままお伝えするが、このタダオ・イカワという人物は、日本には珍しいカソリック教徒で、パウロという洗礼名を持っています。彼の強みは東京の一高、これは東京帝国大学をめざす者が通う高等学校ですが、そこで日本の現内閣総理大臣、フミマロ・コノエ公爵と同級だったということです」

ルイス・ストラウスは、ウィリアムワイズマンの勤務先、国際投資銀行クーン・レーブ商会で、ワイズマンと同じパートナー、すなわち共同経営者の任にある。名前が示すようにユダヤ系だ。(中略)

P061ドノヴァンがドラウトの顔を見た。
「そこでファーザー・ドラウトとしては、そのイカワ某なる日本人を窓口にして、何かをはじめるべきだ、というわけだ」

「わたしがというより、これはワイズマンさんが言い出したことですけどね。具体的にはまず民間交渉から入るのが現実的です。アメリカと日本の関係が膠着状態にある今、すぐに政府間交渉をはじめようとしても、まず不可能でしょう。誰よりも、日本相手に泥沼の戦いを続けている蒋介石が黙っていません。彼らにとっての米日和平は、悪夢以外のなにものでもありませんから」

ドラウトの言葉を、脇からワイズマンが補足した。
「まずは日本が無法者の野合にすぎない三国軍事同盟から抜けて、先の大戦時のように、われわれの側につくこと。それが太平洋の平和を守る最善の方策である。それに応ずるならば応分の見返りを用意する。そんな内容の交渉を提案する」

ドノヴァンが質問した。
「応分の見返りの中身は?」

ワイズマンがあたかも暗唱してでもいたかのように、すらすらと答えた。
「アメリカは満州の存在を認める。昨年破棄通告した日米通商航海条約の復活をめざす。P062その上で石油や鉄鉱石などの資源調達に協力することを約束する」

「日本にとっては夢のような話だ。それで、目下アメリカと揉めている懸案事項の大半が解決する。しかしながら、マンチュリアを含む中国問題に手をつけず、日本にエサだけを与えることには、われわれの世論や議会が絶対に納得しないだろう」
ドノヴァンがあきれ顔で言った。

ワイズマンがうなずいた。
「そうだアメリカ議会の動向を考えれば、実際問題として実現の可能性はきわめて少ない。だから当初は、民間レヴェルの話し合いにする。要は対話をはじめることだ。対話が軌道に乗ったところで政府間交渉に切替え、徐々にハードルをあげる」
当初の民間交渉で希望に満ちた条件を提示し、いったん政府間交渉になったら、一転してハードルをあげ、日本側が受け入れ不可能な項目を追加して交渉するとなると

ドノヴァンが顎を撫でながら言った
「その交渉は行き着くところは決裂だな」

「そうです」

ドラウトが、たくましく張った顎を突き出すようにして、すかさず言った。
「そういう展開になる。そして、決裂すれば日本はかならず武力行使に踏み切る。なぜなら彼らには、それ以外の選択肢がない。ドイツと同盟関係にある日本とアメリカが戦端を開けば、アメリカは否応なしにドイツとも戦うことになる」
座が静まりかえった。
P063
「うむ」
ドノヴァンがうなった。腕を組んで天井を見上げ、しばらく言葉を発しなかった。
やがてぽそりと、
あらかじめ決裂を前提とした交渉に日本を引きずり込む。恐ろしいシナリオですな、それは
と言った。

ワイズマンがかぶりを振って答えた。
「でも、これ以外に我々が破滅から逃れる方策がありますか」

ドノヴァンが一瞬宙を睨んだあと、ずばりと言った。
「わかりました。この話に乗りましょう。FDRには私から話して了解を取ります。ところで、この件について、具体的なところまで知っている者は、ここにいる四人のほかに誰かいますか?」
「いえ、おりません。あなたにお話しするまでは、英国人のわたしたちふたりと、ともに作戦を練ったファーザー・ドラウトだけでした」



P065-066 1940.10.12 オハイオ
この日数千人の聴衆を前にして、ルーズヴェルトはこれまであえて触れなかった問題への対応を口にした。
「諸君、これまでわたしは何度も、欧州がいかなる状況になっても、アメリカは中立を守ると申し上げてきた。しかし、ドイツを中心とする枢軸側は、わたしのその言葉を曲解している。去る9月27日、日本があらたに枢軸に加わり、日独伊三国同盟になった。これは彼らの意図が、いよいよ明確になって来つつあることを意味する。すなわち、これはわれわれ平和と民主主義を守ろうとする者への挑戦である。わたしの中立を守ろうとする意志に変化はないが、この新たな局面に対して、アメリカはそれなりの対応をする」(中略)

重要な軍事物資である屑鉄の対日輸出を禁ずる大統領令に署名したのである。ルーズヴェルトの強気な対応はたちまちあちこちに飛び火した。19日、インド政庁が、対日屑鉄禁輸に踏み切った。同じく19日、英国は日独伊三国同盟への対抗策として、いったんは閉鎖していたビルマから中国雲南州に達する援蒋ルートを再開した。

P066-88 1940.11.06 ニューヨーク
マンハッタンの南端近いウォール街の一画、ウィリアム通り52番地。クーン・レーブ商会。(中略)
ワイズマンが目の前のデスクに放り出されている、『ニュウヨーク・タイムズ』の市内遅版に顎をしゃくった。一面に『ルーズヴェルト、大統領に選ばれる

「いや、わたしはおそらくこうなるんじゃないかと思っていた。ウィルキーがドイツ系企業からカネを受け取ったというイエロー・ペーパーの報道が効いた」
パイプをくゆらしながら、ストラウスは言った。(中略)ワイズマンは、ストラウスの揶揄を無視して、(中略)
「これでわたしも、大統領の出方を心配することなく、対独、対日交渉に専念出来る。ドイツに関しては交渉相手のめどがついたが、日本はまだだ。ファーザードラウトが向こうで路頭に迷わぬよう、よろしく頼むよ」
「それについては、もう手を打った。セツゾウ・サワダ前ブラジル大使には、彼と旧知のロバート・キャデヒーに頼んで、日本要路を紹介してくれるよう依頼する電報を発信ずみだ。ポール・イカワには自分が直接電報を打つ」
そう言ってからストラウスは、(中略)続けた。
「それにしても、先輩パートナーたちがリスク承知で助けた日本を、今われわれが敵に回すことになるとはね。歴史の皮肉だね」(中略)

目下クーン・レーブ商会の経営の実権は、創業一族とは無縁の、しかも外国籍であるワイズマンと、一族とは言いがたいほど縁遠いストラウスのふたりによって握られている。

きっかけは1922年、ロンドンに講演旅行に来ていたアメリカの人気ヴァイオリニスト、レオポルド・ゴドウスキー・ジュニアと、ワイズマンの出会いだった。アマチュア発明家でもあったゴドウスキーは、仲間のピアニスト、レオポルド・マンネスと組んで、天然色フィルムの開発に取り組んでいた。ちなみにゴドウスキーは、当時売り出し中の作曲家、ジョージ・ガーシュインの従兄弟である。

そのことを聞きつけたワイズマンが、楽屋にゴドウスキーを訪ねて研究の詳細を聞き出し、ニューヨークのストラウスに報告した。ゴドウスキーの帰米を待って、ストラウスが彼らの研究工房を訪れ、その場で二万ドルの出資を申し出た。その後さらに研究の進展を見きわめ、世界最大の写真フィルム会社、イーストマンコダックにふたりを紹介した。

1930年、コダックは彼らの特許を買い取り、1934年に16ミリシネフィルム、そして1935年には、のちに世界を席巻することになるカラーポジフィルム、コダクロームの市販に踏み切った。この果敢な投資が、年齢的にはもっとも若いパートナーであるストラウスとワイズマンに、クーン・レーブ商会経営の実権を与えた

「確かに歴史の皮肉である。だが、歴史なんて、しょせんそんなものだ」ワイズマンはストラウスの言葉をなぞりつつ、壁に居並んでいるクーン・レーブ商会歴代パートナーの肖像をみやった。

謹厳な顔つきのパートナーたちが、二人を見下ろしている。その中で白髭がひときわめだつヤコブ・シフが、日露戦争時、当時日本銀行副総裁だった高橋是清の求めに応じて、総額1500万ポンドの外債を引き受けた。これが日本の勝利に大きくあずかっている。そのクーン・レーブ商会の後継者である自分たちが、戦争を前提とした交渉を日本に仕掛けようとしている


P250-252 1940.12.27 陸軍省
P251 正午。
井川忠雄、ウォルシュ司教、ドラウト神父は、吉沢清次郎前アメリカ局長邸で昼食を取った。翌日離日する両神父を囲んで、主の吉沢以下、山本信次郎海軍少将、沢田節蔵元ブラジル大使、それに三人の日本人カソリック神父などが同席しての簡素な歓送昼食会だった。

午後二時。
両神父と井川は吉沢邸を後にして、車で三宅坂の陸軍省に向かった。陸軍省では、岩畔豪雄軍事課長が待ちかまえていた。岩畔豪雄大佐は、別名謀略の岩畔と言われ、陸軍きっての諜報の専門家として知られる。

岩畔大佐との面会を強く希望したのは、ドラウトであった。来日直後、面会相手を選定するにあたって、ドラウトは井川にこう言った。

「われわれは、現下の米日関係の最も大きな障害は、日独伊三国軍事同盟だと考えております。ですから、両国の関係改善のためには、まず三国同盟締結を推進した人々に会って、その真意を聞きたいと思います」

井川はその発想に驚きつつも、なるほどと思った。それで、旧知の沢田節蔵らに、三国同盟の推進者に合わせてもらいたいというドラウトの希望を伝えた。P252沢田は、

「それは難題です。あなたもご存知のように外交面で推進したのは松岡外相ですが、陸軍では軍務局、なかんずく武藤章軍務局長、そして岩畔豪雄軍事課長など、いわば陸軍の中枢にいる連中ですからね」

と言った。そこをなんとか、と頼み込んで実現したのが、前日の岩畔との会見だった。井川はここで、持ち前の押しの強さを発揮した。

「岩畔さん、あなたが会って下さるだけでも光栄ですが、この際、軍務局長との面会もなんとかなりませんかね。なにしろあの坊さんたちは、アメリカ大統領の意を体しての訪日ですから」

岩畔はわずかに考えてから、丸眼鏡をかけたいかつい顔を綻ばせて、「いいでしょう。その神父さんたちが、アメリカ政府の要路と繋がっているのであれば、軍務局長が会う価値があります」

と言って、午後の二時半の来訪を指示したのだった。ふたりの神父と武藤章軍務局長の会見は、おだやかなものであった。武藤少将は、若い頃ドイツ駐在経験があるなど、陸軍内では親ドイツ派とみなされている。

三国同盟締結では中心的役割を果たしもした。だが、そんなことはおくびにも出さず、米日和平を強調するドラウトの言葉に耳を傾けた。そして、「神様がおっしゃるような交渉がもし実現するなら、それはわが国にとっても非常に歓迎すべきことです」

と言って、交渉開始に反対しない姿勢を表明した。ドラウトや井川が、松岡とならんで最大の障害と見なしていた人物とは思えないほど、肯定的な対応であった。ドラウトはよろこんで、武藤の手をしっかりと握り、「あなたのような軍の中枢におられる方にそう言っていただくと、百万人の味方を得た気持ちになります。では、お力添えをよろしくお願いします」と、これもいささか大袈裟によろこびと感謝の気持ちを表して、陸軍省を辞した。



■『ウェルカムトゥパールハーバー(下)』
P066-70 1941.05.03 東京

P068 松岡以外の賛成者がないまま、近衛首相が引き取っていった。「日米中立条約締結は、皆不賛成ゆえ取り止めということにしたい」松岡は内心激怒し、極度に落胆した。この度の訪欧で会談した、ドイツのリッベントロップ外相に、繰り返しこう吹き込まれたからである。

「アメリカが突然、日米会談を仕掛けてきた裏には、貴国を戦争に引きずり込む狙いがある。日本が三国同盟に留まり、ドイツと手を携えて世界新秩序構築をめざせば、必然的にパックスブリタニカ、パックスアメリカーナと続いてきた、アングロサクソンによる世界支配に終止符が打たれるからだ。ゆえにアメリカとしては、大英帝国崩壊は絶対に阻止しなければならない。貴国を戦いの場に引き出せば、日本と同盟関係にあるわが国との戦端も自動的に開かれる」

リッベントロップはさらに言葉を継いで、「ゆえに日米交渉の行き着く所は戦争だ。ならば彼らの戦争準備が整はないうちに、われわれのほうから、彼らを叩くべきだ。とりあえず、イギリスのアジアの橋頭堡シンガポールを叩いてくれないか。その間にドイツは、イギリス本国の息の根を止める」


P264-278 1941.08.26 ニューヨーク

P264 ウィリアム・ワイズマンは、ロックフェラーセンター三十六階のBSC内の自室で、回転椅子を回して執務机に背を向け、大ニューヨークの夕景に見入っていた。(中略)過去二百年近くにわたって世界に覇を唱えてきた大英帝国と、今世紀に入ってあらたに台頭したアメリカ合衆国は、理念と利害を共有する。欧州におけるナチスドイツの席捲と英独戦争、そして東アジアにおける日本の台頭と大陸への浸透は、まさにこれに対する挑戦である。

P265 昨年秋のほとんど同時期、前後して自ら直接手掛けた英独休戦交渉、長年の盟友ドラウト師と組んで推進した米日交渉は、そうした秩序破壊者を殲滅するための工作であった。しかし、このふたつの工作は似て非なるものだ。英独交渉は独ソ開戦を見据えた、いわば時間稼ぎの工作だった。

米日交渉は、大英帝国の崩壊を防ぎ、アメリカと連携して世界の覇権確保を目的とするという点において、英独交渉とまさに表裏一体をなすものだ。その連携をなめらかにするため、通常ならば外交交渉とは無縁の存在であるウォーカー郵政長官を、ホワイトハウス側の窓口に据えた。

大富豪でもあるウォーカーは、クーン・レーブ商会の共同経営者ルイス・ストラウスの盟友にして、自らの盟友ジェームズ・ドラウト神父が事務総長を務める、メリノール派の大支援者のひとりである。

交渉の立ち上げと、予備交渉の現場の仕切り役は、そのジェームズ・ドラウト神父にまかせた。外交を統括する国務省側では、ハル国務長官だけに交渉の真の狙いを説明、協力を要請して快諾を得た。(中略)

交渉の立ち上げに際しては、日本の軍部や政治家が宗教家に弱いことにつけこむべく、ドラウト神父を日本に派遣した。

P266 ドラウトには、クーン・レーブ商会の共同経営者ルイス・ストラウスと旧知の、井川忠雄を窓口にするよう指示した。同時に敬虔なクリスチャンである沢田節蔵元ブラジル大使や、山本信次郎海軍少将と接触するよう助言した。沢田節蔵とは、彼がニューヨーク総領事時代、同じ建物の中にあるMI6アメリカ支部のリーダーとして面識があり、彼が日曜礼拝を欠かさないことを知っていた。

P275 ワイズマンの問いかけに対し、ドラウトがめずらしくすぐに反応せず、赤ら顔を仰向けて天井を睨み、しばし言いよどんだ。そして、視線をワイズマンに戻し、
「実は迷っています」と言った。
「迷ってる?めずらしいこともあるものだな」
「今回のことが持ち上がる前からですが、われわれのシナリオを、少し手直しする時期ではないかと思いはじめているのです」
「ほうどう手直しするのかね」

「独ソ開戦で、大英帝国の危機は大幅に改善されました。くわえて、わが国の戦争準備も遅れている。この際、もし日本がアジアにおけるわが国の権益不可侵と不戦を約し、背後からソ連を襲わないと誓ったら、米日戦争は回避出来るのではないか。そう思いはじめています」

ワイズマンの目が細くなった。
「驚いたな。ファーザーがそんなことを言い出すとは思わなかった。今のようなことを、アマギに提案するというのかい」

「もちろん、私の一存でそんな提案など出来ません。その代わり交渉の場で、わが国が不戦条約、具体的には不可侵条約締結を提案したら、日本は応ずるかと打診してみようかと思っています。同時に日本には、ソ連との中立条約厳守を約束させる。そうすることでソ連も後顧の憂いなく、大英帝国と連携してドイツと戦うことが出来る。われわれがめざしている大英帝国の保全と安全確保は、これで達成できるのではないでしょうか」

「仏印侵攻など強引なやりかたを続けている日本が、そんな提案に乗るとは思えないが」

「わたしは、ポールやイワクロの誠意を信じています」。かつてドイツが日本の鼻をあかす形で独ソ不可侵を結びました。いま日本が、ドイツとは戦争状態にないアメリカと、不戦条約あるいは協定を結んでも、三国同盟とは矛盾しません」

「それでドイツを潰せても、極東の一面に日本が今のかたちで残ってしまうぞ」

ワイズマンの口調が尖った。ドラウトはひるまなかった。
「ドイツが崩壊したら、日本は四面楚歌となり、中国、東南アジアからの撤退を余儀なくされます。われわれの目的は、新たな戦争をはじめなくても達成されます」

「ファーザー、どうしたんだ。なにがあったんだ」
ワイズマンが強い眼差しでドラウトを睨みつけた。

ドラウトはかぶりを振った。
「別に何もありません。私は聖職者として、無用の戦争は避けるべきだと思っているだけです」

「この交渉を立ち上げるために、日本まで出かけて行ったのは君だぞ」

「それはそうです。でも、われわれ欧米の文明と理念、現在の世界秩序、そして大英帝国を守るために、米日交渉をやろうとおっしゃったのは、あなたです」

「まるで、わたしの指示に従ったまでだと言いたげだな」
P277 ワイズマンの口調から、温かみが消えた。

ドラウトの目に、悲しみの色が浮かんだ。だが、それは一瞬のことで、また元の精力的な眼差しに戻った。
「そんなことは申しません。わたしはあなた同様、今でも欧米キリスト文明の規範性と、大英帝国の繁栄を祈り、信じています。それと、無用の戦争を忌避することは矛盾しません」

「わかった」ワイズマンが破顔一笑した。(中略)

「とにかく今の件は、少し時間をおいて詰めようではないか。今後の展開についてはFDR、国務長官、郵政長官などの意向も確認せねばならん。向こうへの返事は、あと一週間か十日ほど、欧州の戦況や、アジア方面の情勢を見極めてからでも遅くないだろう」(中略)

P278 「あとひとつ、米日交渉の一つの目処であった独ソ戦がはじまり、日本側チームのメンバーにも変動がありました。今後は実務者同士のぶつかり合いになりますので、当方もメンバーの入れ替えをやる時期かと思いますが」
「それはありがたい」ウォーカーは、ほんとうにうれしそうな声をあげた。
「私もそろそろ国務省のならず者共の相手をするのはやめにしたいと思っていたところだ。本業に戻れるのはまことにありがたいよ」
「そう言っていただくと気持ちが楽になります。それで、疲れが見えるファーザーも、暫時一線から退避してもらおうかと思います」



■韓ドラ『モンスター』
18話 ケンカに負けることは許せても敗北者に成り下がることは許せん
19話 ずっと謝ることになるから好きになればいい。それとも俺が好きになろうか?
23話 自分より数倍上なら悪態をつき、10倍なら恐れを抱くように、100倍になれば尊敬を1000倍になれば自らひざまずくようになり奴隷になろうとする

■『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』
・冷戦を「演出」した反響の闘士たち 175-184


P174 第二次世界大戦末期から、アメリカ政府内では、戦後の対独政策をめぐって激しい権力闘争が起きていた。戦前からアメリカ政財界エスタブリッシュメントの中には、「ドイツ経済の復興が資本主義世界の安定に重要だ」として、ドイツを政治的・経済的に支援してきた《親独派》のエリート集団が存在した。(中略)

一方、同じアメリカの支配層の中には、ヒトラー政権誕生後のドイツを危険視し、とりわけ大戦勃発以降は、ナチス・ドイツの徹底的な破壊を求める勢力も存在した。この《反ナチス派》勢力の頂点に立つのはルーズベルト大統領で、大統領はアメリカ参戦以前から、ナチスドイツと戦うイギリスに同情的で、「アメリカを戦争に引き込もう」と暗躍したチャーチルのスパイ「イントレピッド」にも、さまざまな支援を提供していた。

P175 この勢力はいわば「弱いドイツ」を求めたわけだが、大戦が終わりに近づくにつれて、戦後の対独政策をめぐり、「強いドイツ」を求める《親独派》と「弱いドイツ」を求める《反ナチス派》の対立が、ますます激しく、そして顕著になっていった。

前者の「強いドイツ」論は、1920年代から対独投資を行いドイツ財界と親密な関係を築いたアメリカ財界エリートたちの支援を受けて、主に国務省や陸軍省の対独政策に大きな影響を与えていた。(中略)「ソ連を封じ込めるために強いドイツを再構築する」という共通の認識があった。(中略)

P176 これに対抗する「弱いドイツ論」は、ヘンリー・モーゲンソー・ジュニア財務長官を中心とする財務省に広く浸透していた。(中略)P177 1944年末までに、ルーズベル政権内で影響力を高めていたのは、この「弱いドイツ」論を主張するモーゲンソー財務長官たちのグループだった。(中略)

P179 ところが1944年四月にルーズベルト大統領が急死すると、風向きが大きく変わり始め、(中略)モーゲンソーを中心とする《反ナチス派》が急速に力を失い、代わって陸軍省や国務省の《反共の闘士たち》が力を増してゆくのである。(中略)

P180 こうして《親独派》の経済エリートたちが、1945年夏までに政府に「引っ越し」てきて、政権内の支配的な地位に就いていた。このため、モーゲンソー派は急速に閑職に追いやられ、ポツダム会談の前夜には、遂にモーゲンソー自身も財務長官辞任を余儀なくされた。(中略)

P181 こうしてモーゲンソー派が作った「JCS1067」を葬る態勢が整った。このアメリカ対独政策の大転換という離れ業を成し遂げたのは、前述した元ディロンリード商会のウィリアム・ドレイパーだった。

P183 「拡大する経済権力に直面する政府の無力さというテーマは、もちろん、新しいものではない。二つの大戦の間、世界経済におけるもっとも重要な出来事は、領土や市場がイギリス、ドイツ、アメリカの巨大企業の間の私的な協定によって分割されたことであった。この協定には小規模ながらフランス、イタリア、日本の企業も参加していた。こうした巨大勢力が世界情勢を決めていったのに対して、各国の政府はただ傍観しているのみだったのだ」



■『阿片王 満州の夜と霧』
P56 日本商事は。渋谷駅のハチ公前、いまQフロントという複合ビルにかわった旧峰岸ビル内にあった。伊達が里見に会うためよく出入りしていたのも、キャバレー「チャイナタウン」の控室の隣接するその日本商事のオフィスだった。(中略)P57 同社が設立されたのは、昭和12(1937)年2月5日、昭和12年といえば、里見が本格的に阿片販売に乗り出す年である。(中略)目的蘭に、塩、葉煙草、医薬品の輸出入と書かれていた。

里見が上海でつくった阿片販売組織の宏済善堂が現地販売網の相手として選んだのは、中国の秘密結社・青幇の頭目として知られる盛宣懐の甥の盛文頤だった。その盛文頤の公的な肩書は祐華塩公司社長である。阿片と塩が苦力集めに不可欠な物資だった(中略)P58 日本商事が入っていた峰岸ビルオーナーの峰岸澄夫も、里見遺児基金名簿に名を連ねている。(中略)峰岸澄夫のことを知る東急百貨店のOB「峰岸さんの父親(峰岸梅吉・昭和10年没)という人は、渋谷の名士で、あの辺一帯の大地主だったそうです。戦前は道玄坂から現在の渋谷センター街にかけて、すべて峰岸さんの土地だったとも聞いています。P59 峰岸さんは東北大学の文学部を出た人でした。文学青年のような雰囲気で、いいところのおぼっちゃんという感じがしました。…」

峰岸ビルが竣工したのは、日本経済が高度経済成長に向け駆けあがっていった昭和34(1959)年のことだった。1階から6階までは東宝系の封切館、7階には当時全盛期だったキャバレーチェーンの「チャイナタウン」が入った。里見が代表をつとめた日本商事のオフィスは、その控室の隣だった。

当時は日本映画界がピークを迎えた頃で、家賃収入は順調だった。だが、日本映画界はまもなく斜陽となり、それに伴って峰岸ビルの経営もおもわしくなくなった。当時売り出し中の堤清二率いる西武流通グループが峰岸ビルを買収して渋谷に進出してくるのではないかとの噂がささやかれるようになったのは、ちょうどその頃だった。

渋谷は西武のライバルの東急の本拠地である。ましてや峰岸ビルは渋谷の一等地にある。峰岸ビルの前の土地は、路線地価ランキングで、銀座の鳩居堂前、新宿のタカノフルーツパーラー前と並んで、都内の地価トップ3に毎年顔を出す常連だった。西武の買収を防御するため、東急から峰岸ビルに役員が送り込まれることになった。峰岸の人となりについて話してくれた東急百貨店OBも、そのひとりだった。

P60 「峰岸ビルの帳簿を見て驚きました。放漫経営の見本のようでした。峰岸さんは乗せらやすい人でしたから、あちこちからむしりとられていたんだと思います。タニマチ気取りでほうぼうに金をばらまいていたようです。△△△△の後援会に入って、金づるのようなこともしていました。(中略)葬儀はかつての渋谷の大地主にしては、寂しいものでした。弔問にきた政治家は〇〇〇〇だけでした。(中略)渋谷の大旦那だった峰岸家もあれで終わってしまったんですね」(中略)

戦後、大蔵大臣、外務大臣、官房長官などの重要閣僚を歴任した○○は、岸信介らと並ぶ満州官僚のひとりである。大東亜省の前身の興亜院の官僚時代、○○は華北連絡部に勤務した。P61 興亜院の華北連絡部は、阿片問題を扱う部署である。峰岸ビルを管理していた和栄興業元社員の有賀充男氏によれば、峰岸家は鎌倉時代から続く名門で、渋谷一帯の土地もそもそも源頼朝から拝領したものだという