上巻
まえがき
P7 原爆使用の決定に関する伝統的な物語は過去五〇年にわたって数えきれないほど語られ、もはや基本的な特徴の多くについてはこれといった論争もない。たとえば、日本は終戦のかなり前からきわめて悲惨な状況にあり、またソ連は(一九四一年から中立の立場を保ってきたが)一九四五年八月初めのある時期に参戦することになっていた、と長い間理解されてきた。同じくアメリカ政府内部内で日本に天皇制を存続させるかどうかをめぐる論争があり、そして、原爆が使用されるかなり前に、そのことを説明すれば日本が降伏を受け入れる可能性が高いと、一部当局者が考えていたことも知られている。
また、大統領の側近中の側近から成る「暫定委員会」が、いつどのような形で原爆は使用されるべきか(使用すべきかどうかではない)を一九四五年五月に勧告したことも異論の余地はない。最後に、原爆使用をの最終決断は一九四五年七月、トルーマン大統領がドイツのポツダムでイギリスのチャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン首相と会談していた間に下されたことについても、実質的な見解の違いはない。
これから、このような基本的な要素を包括する重要な歴史を再構成していくが(略)歴史家なら誰もが掛け値なしに重要だと認める主要な問題に焦点を絞って深く掘り下げ、歴史的な論争の核心に迫ってみる。
最も重要な争点は、言うまでもなく、甚大な人的被害を出すことなく別の手段によって対日戦争を終結できることが、原爆を使用する前に理解されていたか、である。
P8そして、この疑問に本格的に取り組むためには、トルーマン大統領が決断を下す前に示された二つの明白な選択肢について、現時点でわかっていることを詳細に分析しなければならない。
当然ながら、こうした中心的な疑問は大いに研究者の注目を集めてきた。以下のページでは、この二つの主要な選択肢のそれぞれに関する意思決定の一部始終について、何がわかっていて何がわかっていないのかを検討し、そのことによって、原爆投下の決定を浮き彫りにする。
最後のポツダムにいたるまでの道のりを、段階ごとに、一週ごとに、つぶさに検討していく。
この種の調査では、必然的に多くの従属的な問題も明るみに出されることになる。大統領は、軍の参謀から正確にどんな助言を得ていたのか。ソ連に対する外交的な配慮は大統領にどの程度の影響を与えたのか。日本政府部内のさまざまな派閥、とりわけ、陸軍の主戦派が、どれくらい降伏に同意する可能性があると判断されていたのか。
なぜ(厳密に軍事的な目標ではなく)都市が原爆投下の標的に選ばれたのか。九州への最初の上陸作戦(計画上は十一月に予定されていた)の前に、降伏の問題を検討するために投下を遅らせることはありえたのかどうか。そして、二つの原爆を使う必要があったのかどうかといP9った問題である。(略)
(tw,tw)
序章 P10-28
P10 原子爆弾使用の決定にまつわる謎は数多くあるが、なかでも興味深いのは、第二次大戦の二人の最高司令官に関するものだろう。広島と長崎が破壊されてから数年後、ウィリアム・D・レイヒ海軍大将は次のように公言している。私の意見では、広島と長崎に対してこの残忍な兵器を使用したことは対日戦争で何の重要な助けにもならなかった。日本はすでに打ちのめされており、降伏寸前だった。・・・レイヒは、アメリカの政策に対するいわゆる批判派ではなかった。この保守的な五つ星将軍はアメリカ統合参謀本部(英米合同参謀本部も)を取り仕切っていただけでなく、陸海軍最高司令官(大統領)の首席補佐官として、一九四二年から四五年まではルーズベルト、四五年から四九年まではトルーマンの両大統領に仕えていた。そればかりか、トルーマンの無二の親友で、二人はお互いに尊敬しあう間柄だった。広島への原爆投下の決定に対する公然たる批判は、決して個人的なものではなかった。(略)
あれを最初に使うことによって、われわれは暗黒時代の野蛮人並みの倫理基準を選んだことになると感じた。あのように戦争を遂行するようには教えられなかったし、女、子供を殺すようでは戦争に勝利したとは言えない。・・・相互参照
P11 もう一人、この第二次大戦中の司令官よりもっと大きな存在の男に関しても、同じような謎がある。ドワイト・D・アイゼンハワーは、英米の対ヒトラー作戦を指揮した連合軍最高司令官であり、言うまでもなく、後のアメリカ合衆国大統領である。冷戦のさなか、「軍産複合体」を批判したあの有名な告別演説の直後に、アイゼンハワーは広島の決定についても公に発信している。
一九四五年に日本の都市に対して原爆が使用されることをヘンリー・L・スティムソン陸軍長官から知らされたときのことを想起して、アイゼンハワーはこう述べている。
彼が関連の事実を述べるのを聞いているうちに、自分が憂鬱な気分になっていくのがわかって、大きな不安を口にした。まず、日本は敗色濃厚で、原爆の使用はまったく不必要だという信念をもっていた。第二に、アメリカ人の命を救うために、もはや不可欠ではなくなっていた兵器を使用することによって世界の世論に波紋を広げることは避けるべきだと考えていた。日本はまさにあの時期に、「面目」を極力つぶさない形で降伏しようとしていると、私は信じていた。・・・高官は職務上知りえた議論の余地のある事がらについて沈黙を守らなくてはならない、という不文律がある。それを破ってまでレイヒとアイゼンハワーが口を開いたのには、何か明確な理由があるはずだ。それに、これから見ていくように、軍幹部でルール破りをしたのは、レイヒとアイゼンハワーだけではない。
原爆投下から一年とたたないうちに、アメリカ戦略爆撃調査による大がかりな研究も、
P12原爆が投下されずとも、ソ連の参戦がなくとも、さらには、アメリカによる本土進攻がなくとも、日本は降伏していただろうという結論を公刊している(相互参照)。(略)軍の要人と公的機関の発表する声明は、(略)政府の主要な決定と真っ向から対立する場合にはめったに日の目を見ることはないのである。
(略)
P13何年も前のこと、イギリスのケンブリッジ大学の若き大学院生だった私は、当時、公開されたばかりだったスティムソン陸軍長官の日記に接する機会に恵まれた。
アメリカ政府首脳が、原爆実験を行うずっと前から、新兵器によって戦時の同盟国であるソ連に対してきわめて優位に立つことができる、という計算を始めていたことを、日記は明快に示していた。
たとえば、一九四五年五月にスティムソンはこう判断している。
満州、旅順をはじめとする中国北部地域とロシアの関係、また中国と我が国との関係について、ロシアと決着をつけなくてはならないだろう。そうした込み入ったいかなる問題に対しても、S-1[原爆のこと]の秘密は大きくものを言うはずだ。…また、スティムソンの日記によると、新兵器の実験が行われるまでは、
現時点ではロシアに対して口を閉ざし、言葉の代わりに行動をして語らしめる…この場面では、主導権を取り戻し、たぶん、かなり思いきって現実的な手を打たなければならないだろう。P14このような資料を使って書きあげたケンブリッジの博士論文が一九六五年に『原子力外外交---広島とポツダム』というタイトルでタイトルでサイモン&シャスターがから刊行されると、原爆はなぜ使用されたのかというかなり激しい論争を巻き起こしてしまった。
…この場面では切り札はすべてわれわれの手の内にあるのだ。…彼らはわれわれの支援と産業なしには立ち行かないし、われわれにはユニークな武器も手に入れることになる。
要は、おしゃべりが過ぎて不要な争いに巻きこまれたり、弱みをみせたりしないこと。黙って行動で示せばいいのだ。
予期せぬ事態だった。実際、私の主たる関心は、原爆がなぜ使用されたのかではなく、いかにして外交に影響を及ぼしてきたのかにあった。しかし、結論部分において、当時入手可能だった証拠から、ジェームズ・F・バーンズが三人の原子力学者に強く主張した(これも一九四五年五月だ)とされる見解は、政策を正確に言いあらわしている可能性が高いことを「強く示唆している」と書いたのも事実だ。
バーンズ長官は、戦争に勝利するために日本の都市に対して原爆を使う必要があると主張しなかった。バーンズの見解とは、原爆を保有し、その威力を示すことによって、ヨーロッパにおいてロシアを御しやすくするというものだった。・・・・。バーンズは、原爆に関する重要な問題でトルーマンを私的に代表していた人物であり、トルーマンの最初の国務長官でもある。そこで私は、バーンズの見解には重みがあると考えた。学位論文らしい慎重さで私はこうも書いた。
外交上の配慮が原爆使用の決定に与えた影響に関する疑問に、「現在入手可能な証拠だけでは」完全に答えることができないと思われる。また、「この疑問に対する最終的な結論に到達することはありえない」し、「原爆がなぜ使用されたのかを疑問の余地なく理解するためには、さらなる調査ともっと多くの情報が必要だ」と考えられる、と。
【原子力外交】は一九五〇年代後半から一九六〇年代初期に資料を収集して執筆した。だが、ギャディス・スミス教授が指摘しているように、拡大していくベトナム戦争をめぐって論議が過熱する当時の雰囲気のなかで、きめ細かな識別と注意深い警告はあまりはやらなかった。
P15過度に単純化された私の主張は(大学院生にありがちな誤りとともに)、広島爆撃の決定を非難しているかに受けとれる私の議論を許せなかった人々からこっぴどく批判された。
その意味では、この本は、遅まきながら、そうした問題について「さらなる調査ともっと多くの情報」を求めたわたし自身の答えだと言えるかもしれない。
広島爆撃の決定にはソ連との絡みで外交的な配慮が重要な役割を果たしていたという考え方も、かつては異論もあったが、まじめな研究者の間では今や常識になっている。
とはいえ、外交的な配慮が広島爆撃の決定に与えた正確な影響について未解決の問題を解き明かすことが、この本の主な目的ではない。それどころか、重要な目的でもない(この問題について今も続いている論議に関しては「あとがき」を参照のこと)
むしろ、この本のなかで述べられている出来事が起きてから五〇年目を迎えた今、私は多分もっとむずかしい事柄を解き明かしてみたいと思っている。
原爆投下に関して「道徳的複雑性のより深き水準」へ到達することへの心理的抵抗と、私自身、長く闘ってきた。この本は、まさにその結果として生まれたものである。
最後の壁を超えられた(一九九〇年のことだ)のは、次の文章と偶然に出会ったことだった。 ここ数年間に公開された記録文書、手書き文書を注意深く研究した結果、トルーマン政権がなぜ日本に対して原爆を使用したのかがますますよくわかってきた。まだいくつかの問題で専門家の意見の対立は見られるが、重要な疑問には答えが出ている。
日本侵攻を避けるために、また、比較的短期間で戦争が終わらせるために、原爆は必要なかったというのが、研究者の統一見解である。原爆に代わる選択肢があったことは明白であり、そのことをトルーマンとその側近が知っていたことに議論の余地はない。…
P16この文章を書いたのは、急進派の学者でも修正主義派の学者でもない。保守的で、しばしば原子力推進派の牙城のアメリカ原子力規制委員会で首席歴史著述者を務めるJ・サミュエル・ウォーカーなのだ。
ウォーカーは個人的な意見を述べたわけではない。広島爆撃の決定についての専門家の立場から研究した最新の成果を、権威ある学術雑誌「外交史」に発表したのである(別の雑誌発表された同様の研究の結論によると、最新資料を調べた結果は、決定に関する従来の説明に対する「痛烈な」反論になっているという)。
まず心を打たれたのは、従来の見解を覆すような評価を、ウォーカー論文が気負うところなく誠実に伝えていたということだ。専門家としての調査の結果、政府に所属する学者がこの結論に到達できるのなら、他の者も何らかの新しい形で広島の物語に立ちむかえるのではないか、と私には思えた。
もちろん、一部の学者はウォーカーの一般的な「統一見解」でさえ認めない。それに、専門家の論文の意味するところは、この分野を専門としない多くの「一般」歴史家にはまだ届いていない。そして、言うまでもなく、未解決の重要な意義の一つひとつについて、正面から立ちむかい、検討を加えなくてはならない。
しかし、中心をなすポイントについて、ウォーカーは明快で、そっけなくすらある。
「原爆は五〇万人のアメリカ戦闘部隊の命を救ったというカビの生えそうな主張にまったく根拠のないことは、疑いの余地はない」ここで、かなり明白な疑問がわいてくる。もちろん、少なくともレイヒ、アイゼンハワー、そして、戦略爆撃調査の時代からずっと尾を引いている疑問がある。
軍のトップが信じていたこと、そして今や多くの歴史家が結論を出したことと、アメリカ人の大多数が依然として信じていることが、なぜこれほどかけ離れてしまったのか。
P17広島から半世紀の間、世論調査が行われるたびに、原爆投下はまったく正当なものだと、大半のアメリカ人が答えてきている。しかも、日本に侵攻していたら失われたであろう非常に多くの命が原爆投下によって救われた、と大半のアメリカ人は信じて疑わないのだ。
レイヒ、アイゼンハワー、戦略爆撃調査、そして、多くの現代の研究者が事実についてまったく誤った認識をしているのか、さもなくば、アメリカ国民は誤ったことを信じこまされてきたことになる。
この疑問は決して消えることはない。依然として専門家の間には見解の相違があり、また、不確定の領域が残っていることはひとまずおくとしても、ある程度のごまかしや、少なくともいちじるしい誇張が行われた可能性は排除できない。
当初はこの問題について短い論文を書くつもりでいた。ところが、非凡な若手研究者グループの手を借りて新しい資料を調べていくうちに、原爆使用の決定が実際にどのようになされたかを示す強烈な新しい証拠に突き当たった。
そして、なぜ大半のアメリカ人が前述したような信念をもつようになったのかを解明していくうちに、予想どおりというべきか、それが偶然ではなかったという証拠を発見した。
一部の政府高官(とその側近)がアメリカ国民にそう信じこませたいと考え、その目的を確実に達成するために格段の努力を傾注していたのである。
それほどの問題が一本の論文で片づけられないことは明白だった。そこで、(タイミングよく友人バーンド・グライナーとロナルド・ゴールドファーブの叱咤激励を受けて)本格的な研究に取り組む腹を決めた。
以下、上巻では、原爆使用の決定についてこれまでわかったこと(そして、謎のままになっていること)を包み隠さず集めてお伝えする。下巻では、大半のアメリカ人が今なお信じていることが、なぜ違っているのかを微細に検討する。
P18/ 20/ 22/ 24/ 26/ 28
1.原爆使用の決定
1.1日本崩壊の軌道 P30-37P30
P32一九四四年十一月二十四日、東京郊外の中島航空機が攻撃を受け、何百万という普通の日本人にとって戦争はもはや外池のものではなくなった。それから数ヵ月後(の一九四五年三月九日から十日)に東京は焼夷弾の攻撃を受け、軍事的人的に壊滅的な被害を受けた。
世界でも有数の人口密度の高い四〇平方キロ強の住宅地域が焼きつくされ、少なくとも八万四〇〇〇人が火の海で死亡した。犠牲者の総数はおそらく一二万人を上回っただろう。
三月最終週には硫黄島が陥落してアメリカの戦闘機が日本への重爆撃を援護できるようになり、大規模な戦略爆撃が続けられた。著名な歴史家ハーバート・ファイスが簡潔に言っている。「日本の生活と生産は根こそぎ破壊され、焼きつくされた」
一九四五年四月一日には海兵隊三個師団と陸軍四個師団から成るアメリカ第一〇軍が、日本本土への足掛かりとなる沖縄に上陸した。ちょうどこの時期、ソ連は日ソ間の中立に終止符を打つ旨のシグナルを送っている。
そして、組閣からわずか九ヵ月の小磯内閣が崩壊した。深まる混迷のなか、中庸で知られる高齢の鈴木貫太郎海軍大将が後任の総理大臣に就任した。
当時のアメリカ政府部内で何がわかっていたのか、具体的には、日本の崩壊にいたる個々の展開と、それに劣らず重要な出来事の軌道と携行の意味するところについて、トップの高官らはどの程度まで理解していたのか。
アメリカ国民と戦場の兵士の大半は、長く激しい戦闘になる、上陸侵攻の可能性はかなり高いと思いこまされていたが、半世紀を経た今、実際に何が起きていたか、トップの高官が何をつかんでいたのかについて、もっと多くのことがわかっている。
原爆が使用されるずっと前に、日本がたたきのめされ、降伏に備えていたことは、今や明白だ。
P33そして、タイミングの問題をめぐって議論の余地はあったものの、当時のアメリカ政府の最高レベルでおおむねそのように理解されていたことも、明らかである。
鈴木内閣が成立した直後に、CIAの前身に当たる戦略サービス局(OSS)がまとめたアメリカ政府内部の極秘の評価は、次のように結んでいる。
鈴木海軍大将の立場は、一九三六年二月二十六日の軍の蜂起以来、日本の政治を牛耳ってきた関東軍のそれとは大きくかけ離れている。…鈴木の任命は、どう見ても彌縫のための苦肉の策で、そうした過激派を迂回しようという試みだ。同じく一九四五年四月には、統合参謀本部の合同情報委員会が日本の状況に関する痛烈な報告書を示している。それによると、「軍需産業にとって死活的な原料について、日本はイギリス以上に海外からの輸入に頼っている…」。
それでも和平交渉の土台を築く新たな政治協力を促すものである。
海運力が不足しているため、日本の鉄道幹線の負担はすでに過重になっている。一方、陸運はまったく不十分で、その輸送力は現在の鉄道の足元にも及ばない。…このまま機械設備の大規模な破壊が続くと、日本は存続ないし潜在的な工作機械・重機器産業の損失を復元できなくなる。
…こうした状況の下で日本人の戦争継続の「意志」は徐々に弱まることになるかもしれない。海空の封鎖と戦略爆撃によって得られる物理的な結果とはまったく関係なく、日本国民全体に対する心理的影響は甚大で、勝利の自信どころか、完全かつ必然的な敗北を避けられルという自信もぐらつくことになる。
P34/ 36
1.2戦争終結への努力 P38-48
P38/ 40/ 42/ 44/ 46/ 48
第一部 無条件降伏 P50-116(参照)
1.3 一九四五年四月~五月 P50-69P50/ 52/ 54/ 56/ 58/ 60/ 62/ 64/ 66/ 68
1.4 六月十八日まで P70-
P70/ 72/ 74/ 76/ 78/ 80/ 82/ 84/ 86/ 88/ 90
1.5 一九四五年六月十八日 P92-
P92/ 94/ 96/ 98/ 100/ 102/ 104/ 106
1.6 一九四五年六月十八日~七月二日まで P108-
P108/ 110/ 112/ 114/ 116
第二部 ロシア・オプション
1.7 第一局面 パールハーバーからルーズベルト死去まで P118-1.8 第二局面 一九四五年四月 P136-
1.9 第三局面 あらたな真実 P158-
第三部 原子力外交 P180-276
1.10 予備交渉 一九四五年四月と五月 P180-1.11 スターリンとの対決の延期 P197-
1.12 暫定委員会 P223-249
P222次のことを陸軍長官の耳に入れるべきだと、バーンズが提案し、委員会が同意した。すなわち、最終的な攻撃目標をどこにするのかは基本的に軍が決定することだと認識しているものの、日本に対してできるだけ早く原爆を使用すべきだ、というのが委員会の見解である。原爆に関する戦略の展開とソ連に対する戦略は、一九四五年夏に当然のことながら重なりあっている。この単純な事実がどこより顕著に表れていたのが、暫定委員会の議事においてである。
また、原爆は周囲を労働者の住宅で囲まれた軍需工場に対して使用されるべきであり、また事前の通告なしに使用されるべきである。…
----暫定委員会会合のメモ、一九四五年六月一日木曜日
新兵器に関連した問題を討議するために特別に設置された機構だ。
この暫定委員会およびその議事に密接に関連した事柄に関して、近年になって非常に多くの情報が利用できるようになった。スティムソンの日記の他に、一九六二年に刊行された原子力委員会の公式の歴史である『ニューワールド(新世界)』も、暫定委員会の議事と決定の一部について詳しく伝えている。
しかし、最も重要な資料はいわゆるハリソン=バンディ・ファイル(一九七〇年代前半に利用できるようになった)に収められている。
P224このファイルには、委員会の会合の議事録(あるいは「メモ」)をはじめ、スティムソン陸軍長官の二人の補佐官、ハービー・H・バンディとジョージ・L・ハリソンによるいくつかの重要なメモが含まれている(ハリソンはスティムソン不在のときに暫定委員会の議長も務めた)。
また、一九七三年から七九年の間に、国立公文書図書館はマンハッタン工兵地区の記録に属する文書も、見直しのうえで秘密扱いを解いた。それ以前に原子力委員会と陸軍省による検討で秘密扱いのままになっていた資料だ。
さらに、一九八五年にはビンセント・ジョーンズがマンハッタン計画についてアメリカ陸軍の公式の歴史を刊行し、さらに多くの情報が明らかになった。
こうした資料に基づいていくつかの第一級の書物と論文が書かれ、暫定委員会の全般的な役割についてのいくつかの疑問点が詳しく研究された。したがって、ここでも、多くのよく知られた事柄については検討の必要はない。
ただし、とくに重要な問題もある。アメリカ政府の最高首脳レベルで下された決定に関する問題、そして、情報がどのようにして国民に公開された(あるいは、されなかった)かに関する問題だ。
前述したように、スティムソンは四月二十五日に大統領と会談し、後に暫定委員会となった機構の設置を提案した。一週間後、スティムソンはマーシャル元帥の同意を取りつけた後で、以下のメンバーから成る委員会の設置を正式に認可するよう要請した。
P225「暫定」という言い方は文字どおりの意味だった。第一に、委員会の活動期間は五月前半から原爆の実際の使用(そして、完全な秘密の終わり)までの合間と想定されていた。陸軍長官(代理としてジョージ・L・ハリソン補佐官) ジェームズ・B・コナント博士、国防研究委員会委員長 バネバー・ブッシュ博士、科学研究開発局長 カール・コンプトン博士、科学研究開発局野外研究室長 ウィリアム・L・クレイトン、国務次官補 ラルフ・A・バード、海軍次官
第二に、委員会は核開発の管理に関して、議会による決定の前に政策と立法の根拠を提案することになっていたという意味でも、その活動は「暫定的」だった。
スティムソンの日記によると、陸軍長官は五月二日に大統領と話し合った後、トルーマンが「個人的な代理人」を任命するように助言している。
私はそうした代理人がいてくれると助かると申し上げ、次のような条件を満たす人物が望ましいと提案した。(a)大統領と個人的に親しく(b)口の固い男。五月三日、スティムソンは記している。この任命は、とくに政策展開の「第二路線」に関連して重大な意味をもつことになった。非公式にだが、大統領はバーンズに国務長官への就任を要請しており、そして(前述したように)トルーマンによると、バーンズは戦後の国際関係で原爆がきわめて重要な役割を果たすようになると、かなり前から考えていた。
…私は大統領に電話し、昨日話したS-1に関する委員会にジミー・バーンズを据えてみてはどうかと提案した。午後も遅くなって大統領自身から電話があり、私の提案は聞いた、結構だとおっしゃった。
すでにサウスカロライナにいるバーンズに電話で打診し、バーンズは受け入れたという。これで私の委員会も顔触れがそろった。
P226科学者のシラードが報告している議論からは、どうやらバーンズが原爆の可能性について強硬な見解をもっていたことがわかる。
また、どうやらバーンズがきわめて早い段階から、新兵器の威力が実証されれば、国務長官としての自分の交渉力は大幅に強化されるという、まだ漠然としているが重要な考えに基づいて外交戦略をたてていたと断定してもいいのではないか。
暫定委員会とその顧問は現実からまったく切り離されて活動していたわけではなく、それゆえに、ヨーロッパ戦の終結を受けて、委員会の仕事をソ連との外交上の対決という文脈から完全に切り離そうとするのは、きわめて不自然である。
そのことは昔から明白だった。主要な出来事を簡単に振り返ってみると、その理由が分かる。
原爆の使用に関する委員会の勧告(当初は委員会の任務に含まれていなかった)について検討する前に、右の委員会経過の最後に引用した部分の意味について少し考えてみよう。一九四五年五月二日--暫定委員会の設置が認可される。 一九四五年五月五日--米英政府が共同声明。ポーランド地下活動家の逮捕について十分な説明が得られるまで、ポーランド問題の交渉を打ち切ると発表した 一九四五年五月九日--暫定委員会の第一回会合。 スティムソン長官が計画の性質について概略説明し、委員会の目的と役割について自分の見解を表明した。 一九四五年五月十一日および十二日--武器貸与打ち切り命令により、ソ連に対する経済援助が激減する。 一九四五年五月十四日--暫定委員会の第二回会合。 報告書の国際的側面について時間をかけて討議が行われ、ケベック協定と、[資源の地球的管理に関する]合同開発信託の運用が強調された。 一九四五年五月十四日--マクロイとの会談後のスティムソンの日記。 現時点ではソ連に対して口を閉ざし、言葉の代わりに行動をして語らしめることだ。他のいかなる方法よりもロシア人にはそのほうがわかりやすい。この場面では、主導権を取りもどし、たぶん、かなり思い切って現実的な手を打たなくてはならないだろう。… 一九四五年五月十八日--暫定委員会の第三回会合 実験が成功した暁に大統領が発表する声明について、委員会のコンセンサスが得られた。大統領はラジオを通じて、あるいは議会で、新兵器の一般的な性質とその軍事的、国際的意味合いについて、簡単な発表にとどめるべきである。 一九四五年五月十九日--トルーマンはホプキンズ派遣を示唆するメッセージをモスクワに打電する。 一九四五年五月二十六日~一九四五年六月六日--ホプキンズがスターリンと会談。ポーランド問題およびソ連の参戦に関連した問題を協議する。 一九四五年五月三十一日--暫定委員会の第四回会合。 バーンズが見解を表明し、おおむね出席者全員の同意を得た。その内容は、生産と研究をできるかぎり速やかに推し進めるのが何より望ましいというものだった。そうすることによって、我が国の優位を確保すると同時に、ソ連との関係改善にあらゆる努力を傾けることができる
P228バーンズはここで、暫定委員会と一九四五年の状況の両方にとって、最も重要かつ最も明白な一つのポイントを公式に述べている。
原爆に関する意思が決定がされた、一九四五年の春から夏にかけての状況を完全に把握するためには、次の事実を受け入れる必要がある。この時期、ヨーロッパにおいてソ連との緊張が日ごとに高まっており、アメリカ政府はドイツと日本が降伏した後も核兵器生産を継続できるように、作業(と資金を投入)できる体制を整えていた。それが、この時期の作戦行動の核心である。
もし原爆実験までスターリンとの本格的交渉を延期し立場を逆転しようという決断が、一九四五年夏におけるトルーマン大統領の最初にして最も重要な決定だとすれば、それに続くのは、アメリカの指導者が、一九四五年五月には第二次大戦後をにらんで核兵器を増産する政策に全力投球していたということだ。
それから五〇年たった今、われわれは核兵器を増産して「優位を保つ」という当時の決定を当然と受けとめ、その重大な意味をほとんど顧みない。そのことが、その後の兵器開発競争にどんな影響を及ぼすことになったのか、あるいは、もっと直接的に、実際に原爆が使用される前にアメリカの指導者がどんな戦略を考えていたかを明らかにすることについて、ほとんど考えようとしないのだ。
スティムソンとグローブズは戦争も終わりに近づいていたこの時期に、数人の有力な連邦議会議員に原子力施設を視察させることを提案していた。スティムソンの日記が明白な理由を示してくれる。
五月三日、陸軍長官はその日の仕事の一部として次のように記録している。
テネシーの施設視察する議員団の構成に関してレイバーン下院議長と会う約束を取りつける作業にも着手した。…目的は、議員団の人達を議長に引き受けてもらうことだ。翌日、スティムソンは連邦下院議長に連絡し、意図を明確に伝えた。要約すると、対ソ連の危機が最も注目を集めていたのとちょうど同じとき、そして、暫定委員会が原爆についての計画に取り組みはじめたとき、それと並行して、陸軍長官とグローブズは巧妙に戦後の資金確保を画策していた。
私はレイバーン議長に電話し、S-1に関する予算の増額を盛りこんだ歳出法案の審議の前に三、四人の議員にS-1の製造を視察させるように提案した。
五月十七日、「今朝一番の大仕事は、グローブズが現地でS-1の施設を案内できるように、下院歳出委員会のメンバーのテネシー行きを手配することだった。…」
私は彼らに計画の概要を説明した。彼らは非常に好印象をもってくれたようだった。そこで、予算の増額をお願いしなくてはならないし、そのために何もかもを知っておいてもらいたいから、私自身の発案で集まってもらったと告げた。
それから二週間以内(五月三十日)に、「グローブズが五人の議員とテネシー視察の模様を話してくれたが、非常にうまくいったようだ。あの件では議員たちが味方についてくれた」
また、原爆計画の新たな財源を確保しようという行動も、後で思いついたものではなかった。四月二十五日のホワイトハウスでの会談を終えた後でグローブズが記録しているように、主要な職員を巻きこむという構想を、就任から二週間とたたないうちに「大統領は承知している」のだ。
一九四五年以降も生産を継続することは、暫定委員会の討議のなかでも何度かはっきりと強調されている。たとえば、第一回の会合において、戦時中の統制と広報活動を準備することに加えて、
P230委員会は「戦後の研究開発と統制についても勧告する…」ことになっていた、とスティムソン長官は力説した。この最初の会合で一つの決定が下されている、というより決定はこの一つだけだが、明快かつ力強い全会一致の結論だった。
合同開発信託の性質と役割をめぐる議論で、ウランとトリウムの供給を確保するために考えられうるあらゆる手段が速やかに講じられるべきだと、委員会は意思をはっきりと表明した。
五月三十一日の(科学顧問を交えた)会合で、スティムソン陸軍長官は同じように「計画のもつ意味は、現在の戦争における必要性にとどまらない…」ことを強調した。
それに続いて「A・H・コンプトン博士が開発のさまざまな段階について説明した。第一段階はウラン235の分離だった。第二段階は、『増殖』炉を用いて濃縮原料を生産する。この段階で、プルトニウム、すなわち新しいタイプのウランが生成される」。
濃縮原料は数ポンドから数百ポンドの規模で生産されており、トン単位の生産へと規模を拡大することも可能だと目されていた。
「第二段階の生成物から生産される爆弾は実践では証明されていなかったが、理論的には間違いなくできると考えられていた」
特定の技術的、冶金学的な問題から、この第二段階が証明されのには、一九四六年一月から一年ないし一年半かかるだろうと見られていた。また、一定量のプルトニウムを生成するのに三年、そして、ライバルが我が国に追いつくのおそらく六年はかかるだろうと推定されていた。
会合ではその後、「国内プログラム」が検討された。議事録にはこうある。
アメリカがこの分野で優位を保つためには、他のどの国よりも知らなくてはならないし、努力しなくてはならないと…ローレンス博士は述べた。研究は休むことなく継続しなくてならないと、ローレンスは感じていた。トリウムとウラン以外の方法と原料を利用する可能性については、手つかずのことも少なくなかった。…議論はさらに続いた。
ローレンス博士は、施設の拡大を思いきって進めると同時に、かなりの規模の爆弾と原料を備蓄すべきだと勧告した。
「陸軍長官は国内プログラムに関する委員会の見解を以下のように要約した。作戦上アメリカの政策がまさにこの時期に全速力で前進していたのは明白だが、「優位を保つ」という決定のもつ広がりと規模、より大きな意味が、研究者によって明らかにされたのは最近のことである。
産業施設を無傷のまま保つ。 軍事目的だけでなく、産業、技術用にも相当規模の原料を備蓄する 産業開発に門戸を開く」
グローブズ少将は一九四三年春に、全世界のウラン資源を「できるかぎり完全に支配」しようという企てにすでに着手していた。
そして合同開発信託が設立されたのが一九四四年六月のこと(一九四三年八月に英米の間で結ばれたケベック協定に基づいていた)。「協定当事国の領土外にある核分裂性物質の調達を取り扱う」のが目的だった。
この信託のもつ、より深い意味を新しい情報に基づいていち早く研究したのが、歴史家のグレッグ・ハーケンだ。ハーケンによると、マンハッタン計画責任者のレスリー・R・グローブズ少将は
「科学的というより、戦略的な…」動機に基づいて、原爆開発を統括していただけでなく、原爆製造に必要な材料から他の国を遠ざけることによって、その後も原爆に対する支配を維持しようとしていた。
P232 このことは、世界中の原爆の材料となる物質を独占することで達成されることになっていた。グローブズの言い方に従えば、そのような物質を何とかして入手するか与えられるかするまで、ロシアは原爆を製造できないという意味で、「排他的」な独占ということになる。
材料となる重要な物質は当初、アメリカ、カナダ、ベルギー領コンゴ、そして(グローブズは後で知った)スウェーデンで採れると考えられていた。そして、ハーケンが力説しているように、世界中でほぼ完全な独占を達成することが目指された。
実際、グローブズが第二次大戦の終戦時に思い描いていたのは、
他でもないアメリカ主導の原子力による平和だった。西側が技術的な優位と秘密を保持しているという想定、および排他的な核分裂物質の独占の上に築かれる原子力の国際連盟である。
筋の通った見通しだと、どうやらトルーマン大統領は思いこまされたらしい。四月二十五日の会談で「物理的にアメリカは現時点でそれを製造し使用するための資源を支配できる立場にあり、当分は他のどの国もそこまでは到達しえない」と、スティムソンは大統領に請けあった。
グローブズとスティムソンを交えた会議には、資源開発を管理するために「資金量二五○○万ドル」で合同開発信託が設立されたという報告書も大統領のもとに届いていた。さらに、以下のことも大統領の耳に入れられた。
ほぼ例外なく、アメリカとイギリスは分野全体において不可欠な特許のすべてで独占的な権利を保持し、絶対的でない特許のすべてで非独占的な権利を保有している。
アメリカはいつまで核の独占を維持できるかという問題を、暫定委員会は五月十八日に討議した。
P233バーンズはブッシュとコナントによって書かれた一九四四年九月三十日付のメモに目を通していた。そのメモは、技術的な観点からソ連は三年から四年で追いつくだろうと推定していた。
グローブズは二〇年説で反論した。アメリカがそれほど長く核兵器の独占を維持できるとグローブズ少将が信じていたのは、世界中の資源の統制に自信があったからだ、とハーケンは分析している。
また、暫定委員会で最も重要なメンバーであるバーンズにとって、世界中のウランをはじめとする資源を統制するという発想は、あながち無理とも思えなかったようだ。シラードの報告によると、五月二十八日の三人の原子力科学者との会談で、
バーンズは開口一番、グローブズ少将からロシアにはウランがないと知らされたと述べた。もちろん、ロシアでウランが産出しないのなら、ロシアは核軍拡競争にもとより参加できないことになるが、私には仮定そのものがほとんどありえないように思えた。
グローブズの一般的な現状評価にバーンズが明らかに感銘を受けたらしいことは、他の文書資料からも明白だ。後の一九四五年九月のロンドン外相会議で、部分的にはステティニアス前国務長官(相互参照)のかつての提案に基づいて、モロトフ外相はトリポリタニア(現在のリビアの一部)に対するソ連の信託統治という問題を提起した。
ソ連はベルギー領コンゴのウランを狙っていると、イギリスのアーネスト・ベビン外相は考えた。「我が国はこのウランを採掘する契約を結んでいる」とウォルター・ブラウンは日記に記している。
「だが、JFB[バーンズ]に言わせると、この契約はせいぜいそれを護衛する戦艦にすぎない」。ワシントンに戻ったバーンズは、ジョセフ・デイビーズに会った。デイビーズがソ連の立場を説明したところ、バーンズから「激高した」返答を浴びせられた。
ロシアはベルギー領コンゴとその鉱物資源ゆえに、リビアとトリポリタニアを手に入れたがっていると、[バーンズは]言った。
P234コンゴの埋蔵ウランこそ彼らの狙いなのだと言い、地図の上でそれを指し示した。…
同じように、十月十六日の三省委員会では、
ロシアがリビアを欲しがっている一番の理由はウランだと、バーンズは主張した。バーンズは地図の上でリビアのソ連軍基地を指し、そこからベルギー領コンゴは目と鼻の先だと述べた。
一九四五年九月にスティムソンに代わって陸軍長官に就任したロバート・P・パターソンが「ロシアは本気でリビアを狙っているのか」と尋ねると、バーンズは「強い調子でそうだと答え、それがすべての困難の根源だと述べた。…」。
科学者の間には懐疑論もあったが、一九四五年十二月にはグローブズはパターソン新陸軍長官にこう報告している。「現時点でわかっていること[から判断すると]信託傘下の諸国は世界のウランの生産量の九七%を支配しているようだ」
原爆はなぜ使用されたのか。この問いに答えを出そうとすると学者とジャーナリストは暫定委員会の記録に注目してきた。委員会の記録は一九七〇年代に公開された。
原爆について検討する唯一の公式機関だったから、高レベルの政策決定は当然、ここでなされていたように見えた。そして、当然のように、暫定委員会が原爆使用に関する本格的な検討の中心に位置していたという初期の記述は少なくない。
しかも、委員会は実際、原爆の使用を勧告した。それも、ある特別な方法での使用を。
しかし、核心的な疑問に関して、この重要なグループは本当に制度的政策的な勢力だったのか。五月三十一日と六月一日の勧告から八月の原爆の投下までの時間だけをとっても、大統領による最終決定との間に隔たりを感じさせる。
P235そして、海軍の代表だったラルフ・バード海軍次官があとに力説しているように、「その後の二ヵ月と六日」の間には「多くが…起きた…」。
この時代、そして暫定委員会についての記述の多くに、重大な欠陥のあったことが今ではわかっている。事情通の大半の専門家は、暫定委員会それ自体に、原爆使用に関する決定に大きな影響力があったとはもはや考えていない。
最近の記述から誤った認識がなくなったわけではないが、時間の経過とともに、一九四五年夏に、誰がワシントンで実質的な権力を握っていたのか、はっきりわかってきた。
われわれが知りえたかぎりでは、原爆を使用すべきか、すべきでないか、という問題について、暫定委員会で真剣に議論されたことはなかった。このポイントについて熟考している歴史家によると、委員会では原爆は使用されるという前提に立っていたのだろうという。
それゆえに、一九四五年五月の討議では使用「すべきか否か」ではなく、「いかにして」使用すべきか、という点だけを検討したということのようだ。
しかも、こうした疑問が後知恵だったとしても、前述したように、戦後の構想と法制化などに関する勧告、そして原爆についてのいわゆる広報戦略の準備が、委員会の主たる関心事だった。
実際の暫定委員会の討議のなかで、都市に対する原爆使用に代わる選択肢についての簡単な検討が確かに行われたようだ。しかし、非常に簡単かつきわめて非公式の議論だったらしい。
何人かの回顧録と事後の回想を総合すると、原爆に代わる選択肢は五月三十一日の昼食時の話題に上った。午前中の会議で科学者の一人のアーネスト・O・ローレンス博士から、膨大な犠牲者の出るような使用の前に原爆の威力を日本人に示すことができるのではないかと提案があり、
P236どうやら、大統領の個人的な代理人のバーンズがそのことについて博士に尋ねたようだ。
(アーサー・コンプトンは回想禄のなかで、昼食時にこの問題を提起したのは自分だと書いている。残念ながら「昼食時」の議事録は存在せず、簡潔な公式の議事録は明らかに多くの事柄を省いており、このことについても触れていない。ここに記録の空白がある)
ローレンスによると、デモンストレーションについては昼食時におそらく一〇分ほど検討された。都市への原爆投下による死者は「焼夷弾による空襲ほどの死者は出さないだろう」という指摘があった。
日本側がアメリカの爆撃機を撃墜するかもしれないとか、アメリカ人捕虜を投下地点に連れてくるかもしれないといった意見が出されたようだ。いずれにせよ、J・ロバート・オッペンハイマーが日本の降伏を引きだせるほど威力のあるデモンストレーションは考えられないと述べた。
もしデモンストレーションが失敗すれば、都市をいきなり爆撃して最大限の衝撃を与える機会は失われることになる。
暫定委員会が午後の公式討議を再開したとき、原爆の使用について議事録は以下のように記録しているにすぎない。
さまざまな攻撃目標と期待される効果について十分に討議した後、長官が総括し、これに対しておおむね合意が得られた。暫定委員会の議事録にはこんな記録もある。
すなわち、日本に対していかなる事前の警告も行うことはできない。民間地域を狙うことはできないが、できるだけ多くの住民に深い心理的な印象を与えることを目指すべきである。
最も望ましい攻撃目標は、多くの労働者を雇い、周囲に労働者の住宅が密集している重要な軍需工場だろうと、コナント博士が提案し、長官はこれに同意した。後になって、スティムソンは、日本に対して原爆を使用すべきか否かをめぐってもっと慎重かつ思慮深い議論が行われたと主張した。しかし、議事録にはその形跡すらなく、主張を認める学者はほとんどいない。
後に具体的にこの点について歴史家のアリス・キンボール・スミスから質問を受けたとき、委員会に名を連ねていたラルフ・バードは、原爆の使用に関してスティムソンの言うようなまともな議論がなされたという記憶はないと明快に答えた。
「実際、委員会はすでに下された決定を承認したにすぎないという印象を彼はもっている」と、スミスは書いている。
暫定委員会が本格的な活動に取り組んでいた時期に原爆を使用することが既定の事実になっていたことは、スティムソンが委員会の勧告を大統領に報告している方法からもうかがえる。
陸軍長官は、原爆を使用するのかどうか、あるいは、どのように使用するのか、という問題について言及していない(日記からはそう受け取れる)。六月第一週で一番の関心事は、「最初の原爆が首尾よく日本に投下されるまで…」ソ連はもちろん、他の誰に対しても秘密を明かさないということだだった。
原爆がいかに使用されるべきかに関する暫定委員会の公式の勧告は、具体的に大統領に報告するほどのものではなかったように見える。
また、委員会が開かれていた当時、前述したような諜報部の情報を公式に利用する権限はなかったばかりでなく、これまで述べてきた主要な出来事の多くはみんな委員会が主要な任務を終えた後に起きていることも、記憶しておいていい。
たとえば、日本の政治危機(これが、六月後半の最高戦争遂行会議の決定につながった)、六月二十一日の沖縄陥落、ソ連との交渉チャンネルを何とかして開こうという東京の集中的な努力を示す電文の傍受、そして、何より、七月半ばに戦闘を終わらせるべく
P238天皇自らが介入したことである。後にJ・ロバート・オッペンハイマーはこう振り返っている。
日本の軍事情勢など露ほども知らなかった。他の手段によって降伏させられるのか、あるいは、上陸侵攻は避けられないのかかも、わからなかった。しかし、侵攻は避けられないということが片時も頭から離れなかった。そのように聞かされてきたからだ。オッペンハイマーの発言は確かにそのとおりだが、暫定委員会に参加していた全員がそうだ、というわけではなかった。スティムソンは、言うまでもなく、諜報部がつかんだこと、また、マジックの傍受した電文も、すべて報告を受けていた。
マーシャル元帥(重要な五月三十一日午前中と六月一日の委員会に出席していた)も知るべきことはすべてを知っていた。また、バード海軍次官もかなりの情報を把握していたようだ。
五月の段階でこれら軍首脳が原爆投下に代わる選択肢は上陸侵攻による血戦しかありえないと信じていた可能性はあるが、降伏の条件を修正することに加えてソ連の参戦があれば決着がつきそうだということは、この時期にかなりはっきりしていたはずである。
一つには、まさにこの時期に、万一実験が失敗したときに備えて大統領自身が交渉に本格的に載りだし、ソ連参戦の確約を得ている。また、六月第一週が終わるまでには、降伏方式の明確化とロシア・オプションに関連した他の公式の政策勧告に、諜報をはじめとする情報が重要な影響を与えていた。
ということは、政策決定にかかわる主要な高官の間で、共通の理解が事前にかなり進んでいたことを示している(*)。
もちろん、暫定委員会自体に、日本の状況はあまりに悪化しており、必要なのは大きな「衝撃」を与えることだけだという認識はあった。
原爆を軍事的に利用する、つまり、上陸侵攻を直接支援する戦術的爆撃に用いるという発想はもっと早くから存在していたというわれわれの手元にある大雑把な証拠とは裏腹に、日本を降伏に追いこむのに原爆による心理的な衝撃があればいいと見なされるようになっていた。
また、軍と密接につながり、確かな情報を把握していたスティムソンとマーシャル、バードの三人が、その後、原爆を使用しなくともどうやら戦争を終わらせられると判断して、戦略をそれぞれ提案しているのは興味深い。
何より、一九四五年の夏もこれほど早い段階で、マーシャル元帥のようなベテランの軍人が日本の絶望的な状況を明快に認識し、ほかの選択肢を検討すべきだ感じていたのが印象的である。
それに、必ずしも関係するすべてのトップの高官が「多くの労働者を雇い、周囲に労働者の住宅が密集している重要な軍需工場」を攻撃すべきだ、と考えていたわけではない。
マーシャルは「デモンストレーション」に対する反論をものともせず、第一撃は海軍施設のような非常に大きな軍事的目標に対してなされるべきだ、と訴えている。そうすることによって、民間人に多くの犠牲者を出すことなく、原爆の威力を示すことになる。
それでうまくいかなければ、その後で都市を攻撃することもできる。それに、爆撃機が撃墜されることや原爆が爆発しないことに対する懸念という意味では、都市を攻撃することと差はない。
証拠が弱いことを認識しておく必要がある。十分にわかっていると思わせるような調子や姿勢で書かれたものが一部にあるが、暫定委員会で実際にどんな話し合いが行わていたのか、まだよくわかっていないというのが実情だ。
五月九日から七月十九日の間に、委員会は(三度の昼食時の議論を含めて)延べ三〇時間以上にわたって討論を重ねている。われわれの利用できる「メモ」は、このすべてを五九ページに圧縮している。
つまり、フルに一時間の議論がタイプで二ページ前後という計算になる。しかも、後の報告を見ると、議事録でまったく言及されていない議題やごく一般的な言い方でした触れられていない議題についても論議されていたことが分る。
P240たとえば、議事録のなかで主要な勧告の前置きとして使われている、以下の非常に一般的な表現は具体的に何をさしているのか、詳しいことはまったくわからない。
「さまざまな攻撃目標と期待される効果について十分に討議した結果…」また、バードは後に、事前に警告すべきか否かの新たな議論、また、このテーマに関する一九四五年六月二十七日付の彼のメモについての具体的な議論について報告している。
「それは確かに行われ、委員会の多数は六月一日の評決通りに計画を進めるべきだと感じていた」しかし、これについても、公式記録はまったく存在しない。
暫定委員会の役割について、政治学者のレオン・V・サイガルが制度と官僚機構の観点から分析している。分析結果はきわめて単純に、委員会は「行動のためのチャンネルではなかった…」。
サイガルによると、委員会による「戦争で原爆をいかに使用するのかに関する検討は、政策過程の別の場所で下される決定に影響を及ぼすための巧妙な手段だった」という。
委員会は日本への原爆投下に関与していた一握りのアメリカ高官の官僚的な戦略に組みこまれ、科学者らの反対を阻止し、反対勢力が戦争中の原爆投下に代わる幅広い選択肢を大統領に示すことがないように利用されたのだ。官僚的な手続きによって、後の承認のための付託の条件が設定されていた。この手続きを管理していたのが、マンハッタン計画の責任者だったグローブズだと、サイガルは主張する。
「原爆の目標を選ぶ行動チャンネルは、軍事政策委員会であり目標委員会だった」。その後、「戦後の計画にについての合意点を探る省庁間の横断的な委員会として発足した[暫定委員会は]科学者集団に代わる顧問団を付け加え、すでに軍事チャンネルで決定された原爆を使用するという選択肢を称賛した」。
P241だから、グローブズ少将が後に非公式にこう述べているのも、驚くには当たらないだろう。
…暫定委員会が[原爆使用の決定に]何らかの影響を及ぼしたという話だが…それはまったくのたわごとにすぎない。また、グローブズは次の点でもきわめて明快だ。
委員会の顔ぶれは非常に慎重に選ばれた。最初の決断は、軍人を入れるべきか否か、はっきり言えば、私を入れるべきかどうかだった。そして、全員を文民にすることに決まった。私が強く望んでいた結果だった。政府のなかで原爆について検討する唯一の公式の機構である暫定委員会が設立された具体的な理由をどのように評価するにせよ、委員会に関する理解で最も大きく変わったことといえば、ある特定のメンバーと委員会の力関係に関することである。
自分でそうすべきだと言ったかどうか、記憶は定かでないが、軍が国を動かしているという批判が出てくる可能性をいっさい封じるように、委員会は構成された。
そして、そのメンバーとは、大統領の個人的な代理人であり、後に国務長官に就任したジェームズ・F・バーンズである。
何人かの学者が実証しているように、一つの機構としての暫定委員会は、正当な審議によって独自の政策を提言していたとは言い難い。何か重要な意見の違いが生じたときには、最も重要なメンバーの発言にほとんど躊躇なく従っていたと言っても過言ではない。バーンズの声は天の声だったのである。
委員会にはバーンズほど影響力のある人物はいなかった。体格の面でも、一人を除いてバーンズより小さかった。もう一人の閣僚レベルのメンバーである陸軍長官は、高齢のうえに健康状態が優れないことは誰もが知っていた。
また、バーンズと違って、トルーマンとあまり親しくなかった。しかも、
P242スティムソンはごくたまにしか会合に出席しなかった。五月十四日と十八日、六月二十一日は欠席だったし、五月三十一日と六月一日には肝心な討論のときにいなかった。
暫定委員会の記録の重要性はバーンズの当時の全般的な姿勢を伝えてくれるところにある。そして、トルーマンの個人的な代理人が委員会の議論を左右できる立場にあり、またそうすることに躊躇がなかったこともわかる。
原爆の製造を推進し、そして使用することには合意ができていたから、われわれが検討しているテーマとの関連で、委員会の記録のなかで重大な疑問を生じる問題は一つしかなかった。
しかし、重要な事項であり、そのなかでのバーンズの役割がきわめて重要だった。決定的に重要だったといってもいい。
当時の多くの人にとって、最初の核兵器実験にいたるまでの時期はきわめて重大だった。後にジョナサン・シェルが書物の題名に用いることになる「地球の運命」の扉を開くことになるかもしれない時間だったのだ。
新しい兵器は進行中の戦争だけでなく、地球の将来をも巻きこむことになりおうだった。突きつめれば問題はこうなる。核兵器が実現すると証明された場合、終末を招きかねない地球規模の軍拡競争に歯止めをかける現実的な方法がありえたのか。
どこで終わりになるのかは、誰にもわからなかった。
そして、言うまでもなく。これによってロシア問題が表面化した。独裁的な謎の国と、その独裁的な謎の指導者にどのように接するべきなのか。
一九四五年五月にいたるまでの込み入った政策論議の一部始終に関しては、優れた研究がいくつの発表されている。大雑把に言えば、政府内外の何人かの科学者がどうやら慎重論を唱えていた。
P243世界の軍拡競争に歯止めをかけることができるのかどうかは、誰にもわからなかった。完全な歯止めを実現することはたぶん不可能だっただろう。しかし、どの国も等しく同じ危険に直面することになるわけだから、
少なくとも後の「軍備管理」(核兵器の完全な国際管理ではないにしても)に近い形態は実現できるのではないかと期待しても不合理ではない(**)。万が一のことを考えれば、真剣な取り組みがあってしかるべきだし、そうしなければ、新兵器の部分的な管理も明らかに不可能だった。
そうした取り組みの出発点も明白のように見えた。今日でいう「信頼醸成」がなくてはならなかった。そして、信頼醸成を左右する最初の問題は、原爆が使用される前にその存在をスターリンに知らせるか否かだった。
当時、スターリンは対ヒトラー戦の重要な同盟者だった。原爆を予告もなくいきなり世界に、そして、スターリンに示せば、不信感を最大に募らせた状態で核時代に突入する危険を犯すことになる、という認識が広まっていた。
それに、日本に対して使用した瞬間から世界中に明らかになるのだから、兵器の存在を伝えたところで失うものはほとんどないように思えた。
こうした主張がさまざまな形で繰り返された。初期において注目に値するのが、デンマークの著名な物理学者ニールス・ボーアによるものだ。
ボーアは一九四四年四月、原爆を禁じる合意がないかぎり「一時的な優位がどれほど大きなものであろうと、人類の安全が永遠に脅威にさらされることに比べれば取るにたりないだろう」と考えていた。一九四四年七月三日、ボーアはルーズベルトに直接訴えた。
強力な兵器をめぐる破滅的な競争の機先を制するような方法を[探らなっければならない]。国々の間の不信感の原因を取り除くことのできるような[方法を]。国々の調和のとれた協力関係がこれからの世代の運命をきめるのだから。…P244科学研究開発局のバネバー・ブッシュ局長と国防研究委員会のジェームズ・B・コナント委員長からスティムソンに宛てた一九四四年九月三十日付のメモでも、アメリカとイギリスは確かに優位に立っているが、他国もいずれは原爆を製造できるだろうと指摘していた。
ブッシュとコナントは、原爆を使用する前にデモンストレーションを行うべきであり、また、その時点で情報を公開すべきだと提案した。
最初の爆弾のデモンストレーションが終わったらすぐに、開発のいきさつおよび製造と軍事関連の情報を除き、あらゆる情報を完全に公開するように強く勧告する。このデモンストレーションは敵の領土で行っても、国内で実施してもいい。ブッシュとコナントは、軍拡競争の可能性についても強調した。
ただし、ただちに降伏を受け入れなければ、日本本土で爆弾を使用すると通告すべきである。
この技術の軍事的な応用について、アメリカとイギリスが今後も秘密主義を貫こうとするのはきわめて危険だと言わざるをえない。そんなことをすれば、ロシアが秘かに同じ計画を進めることは間違いないし、他の国にその可能性がないわけでもない。この戦争で打倒した敵国にもその可能性はある。彼らは「国際機構を創設してこの分野のあらゆる科学的な情報の自由な交換を図るように[提案した]。この国際機構は、現在の戦争が終結する時点で結成される諸国の連合体によって、その地位を保証されることになる」。 同様に、節目となった五月三十一日の暫定委員会会合の前夜、スティムソン長官は「明日の会議の前にぜひ目を通していただきたい」と、マーシャル元帥に「注目すべき文書」を送っている。
P245ニューヨークのケレックス社でマンハッタン計画に携わっていた技術者、O・C・ブルースターから届いたばかりの書簡だった。いんぎんな言葉遣いの書簡はこう訴えていた。
一番の友好国といえども、我が国がこれを独占的に保有することは許さないでしょう。これから五年後、一〇年後、あるいは二〇年後に我が国との友好関係がどうなっているのかなど、わかるはずもありません。一部の施設が明らかに一九四六年以降の生産を意図したものであり、したがって、将来に対する懸念材料となることを、ブルースターはとりわけ危惧していた。そして、アメリカが音頭をとって核兵器を管理する国際委員会を創設するよう訴えた。
それ以外の国であれば、なおさらのこと、自己防衛に努めるのを誰が非難できましょうか。たとえばメキシコ、フランス、あるいはロシア、あるいはイギリスがこの瞬間破壊手段を独占的に保有したら、アメリカはひとり悦に入っていることはできないでしょうと申し上げます。
また、誠意を示す意味で、一時的に生産をストップすべきだとも訴えた。「もし国際的な合意ができなければ」アメリカは生産を再開する、と発表すればいい。
これらすべてに共通する根本的な問題は、五月三十一日の暫定委員会の席でロスアラモス研究所長のJ・ロバート・オッペンハイマーとマーシャル元帥によって公式に提起された。
暫定委員会の議事録が議論の流れをよくとらえている。
管理と国際協力の問題を考える際に、何より気にかかるのはロシアの態度だった。オッペンハイマー博士は、ロシアが常に科学に対して大いに理解を示してきたと指摘し…これまでの生産な努力の詳細を明かすことなく、最も一般的な形で暫定的にこのテーマについてロシアに情報を公開してみてはどうかと提案した。ここでマーシャル元帥が、我が国とロシアとの関係では非難の応酬が繰り返されてきた、と少し突っこんで論じ、こうした非難の大半は根拠のないものだったと指摘した。
P246この計画に国家を挙げて取り組んできたことを述べ、協力を呼びかけてみてはどうかと、博士は考えていた。この件ではロシアの態度に先入観を持つべきではない、と博士は強く感じていた。
軍事問題でロシアが非協力的なのは、安全保障上の必要性からだった。…この分野に関しては、志を同じくする国々の協力体制を築くことをマーシャルは支持しており、この協力体制の力によって、ロシアに共同歩調をとらせればいいと考えていた。
ロシアがわれわれの計画について知っていたとしても、日本に秘密を漏らすような心配はないと、マーシャルは確信していた。そして、実験にロシアの著名な二人の科学者を立ち合わせてみてはどうかという問題を提起した。
ここでバーンズが強引に割って入り、まったく正反対の立場から論を展開した。ソ連に原爆について知らせることになるようなまねは一切すべきではないというのである。
たとえ一般的な形にせよロシアに情報を渡せば、スターリンは仲間に入れろと言ってくるに決まっている、とバーンズは危惧を表明した。イギリスとの協力で我が国が公約したことに照らすと、その可能性はきわめて高いとバーンズは感じていた。
これには「イギリスでさえ、工場の青写真はいっさい持っていない」と、ブッシュ博士が異議を唱えた。しかし、バーンズは納得しなかった。前述した結論に達したのはまさにこの時点である。
P247バーンズが見解を表明し、おおむね出席者全員の同意を得た。その内容は、生産と研究をできるかぎり速やかに押し進めるのが何より望ましいというものだった。そうすることによって、我が国の優位を確保すると同時に、ロシアとの関係改善にあらゆる努力を傾けることができる。
議論の発端から最後の結論にいたるまでの力学がどんなものだったかは、そっけない議事録からでもはっきりわかる。ロバート・メサーはこう評している。「情報公開に反対するバーンズの鶴の一声で委員会の議論がすっかり逆転してしまった」
アメリカ原子力委員会の公式の歴史家らはこんな言い方をしている。「バーンズほど威信のある人物のそのような強硬な発言を軽々しく退けるわけにはいかず、出席者全員が同意を表明した」
六月一日の暫定委員会の議事においてバーンズから出されたもう一つの提案も興味深い。右のような議論をした翌日、委員会は「原爆の使用」の問題を改めて論議した。
次のことを陸軍長官の耳に入れるべきだとバーンズが提案し、委員会が同意した。すなわち、最終的な攻撃目標をどこにするのかは基本的に軍が決定することだと認識しているものの、日本に対してできるだけ早く原爆を使用すべきだ、というのが委員会の見解である。委員会がなぜ基本的に前日に決定していたことを繰り返し議論する必要があると感じたのかは定かではない。「スティムソンの不在の[間に]バーンズは素早く決定的に委員会を抱きこんだ」のだと、リチャード・ローズは言い、委員会事務局のR・ゴードン・アーンソンの見解を引き合いに出す。
また、原爆は周囲を労働者の住宅で囲まれた軍需工場に対して使用されるべきであり、事前の通告なしに使用されるべきである。
「バーンズ氏は原爆の使用について最終的な結論を出しておくべきだと感じていた」
P248また、新たに「できるだけ早く」という言葉がバーンズによって加えられたのはなぜかも、明快ではない。おそらくは単純に明白な点だというものだろう(もっとも、そうだとすると、前日にそう言及されなかったのはおかしいということになる)(***)
大統領の代弁者の権力について、また、社会学者が「地位への服従」と呼んでいる意見の傾向について、最後に一つだけ述べておこう。日記からわかるように、スティムソンほど傑出した陸軍長官でも、トルーマン大統領とジェームズ・F・バーンズの両方からどう思われているかを気にかけていた。
スティムソンは六月六日にトルーマンと会談した後、こう記している。「大統領の態度は非常に親しげで自信に満ちたものだったから、われわれの関係も安泰だと安心した。おかげで今日は一日中気分がよかった」
ポツダム会談の直前にはこう記している。ベルリン行きについてジミー・バーンズと話し合っていなことがずっと気にかかっている。私が彼の縄張りを荒らしているとでも思っているのだろうか」
現在利用可能な記録を見るかぎりでは、原爆はまず軍事施設に対して使用すべきだという五月二十九日の主張を、マーシャル元帥は二度と繰り返していない。それはなぜか。
一つ、答えは明白のように見える。もし、ラルフ・バード海軍次官が後に報告しているように、基本的な決定はすでに下されていたと了解されていたとするなら、決定したのは大統領以外にはありえない。
マーシャルは、文民の頂点にある人からの指示に、異を唱えるのではなく、忠実に従うという職業意識の持ち主として知られていた。マーシャルは後年、厳密に問題の軍事的な側面についてのみ助言してきた、としばしば力説していた。
また、原爆に関する基本的な決定は軍によって下されたのではない、と強調していた。
P249海軍施設に対するデモンストレーションというマーシャルの提案がその後の記録に見られない、たぶん同じように明白な理由は、最も単純だと言ってもいいだろう。
前述したように、五月三十一日午前の会議で、マーシャルはかなり強力な信頼醸成を展開し、ソ連の科学者に実験の目撃をさせるように提案している。そして、基本的に論破され、その主張はバーンズによって事もなげに退けられた。
バーンズの背景を知らないはずもなく、軍の幹部が、原爆の使用という重要な問題で二度にわたって大統領の個人的な代理人に面と向かって挑む、と言う愚かなまねをするはずもなかった。
それに、基本的な決定がすでに別のところで下されていることが、誰の目にも明らかだったとすれば、なおさらである(→下巻P313)。
*あるいは、降伏条件の修正に関して正確に言えば、六月九日までに政策に影響を与えていた。
**もちろん、何らかの形の軍備管理協定(とりわけ、複雑な運搬手段の体系が配備される前の時代に)を結ぶべく努力するというのと、アメリカが核兵器を保有していたとしても、ソ連には核兵器を開発しないように説得することができたというのでは、大きな違いがある。
この二つの問題は後の議論で混同されることが少なくなかったが、両者は明らかに同じではない。
***前述したように、六月一日は、無条件降伏を日本軍に適用すると限定した五月八日の声明から後退した強硬な大統領声明が新たに発表された日である(参照)。
1.13「第二路線」とアジア P250-266
P250ロシアと満洲、旅順をはじめ中国北部との関係、また、中国と我が国との関係について、ロシアと決着を図る必要があるかもしれない。そのようなに込み入ったいかなる問題にもまして、S-1の秘密は圧倒的だろう。この時期のバーンズの見解について、二つの断片的な情報を見ておこう。最初のものは同時代の情報だ。六月四日、レイヒ提督は日記にこう記している。
それでも、おそらくはそのときが過ぎるまで、その会談の後になるまで、この兵器がわれわれの手の内にあるのかどうか、わからないだろう。ほどなくしてそうなると思うが、切り札をもたずに外交でこれほど大ばくちを打つというのは、とんでもないことかもしれない。
---ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官、日記、一九四五年五月十五日
五時半にバーンズ判事から自宅に電話があり、ブッシュ博士によるスーパー爆弾の研究成果について話し合いたい、と言ってきた。この新兵器の完成と使用について、彼は私より楽観的な見通しに立っていた。第二の文書は事後のもので、トルーマン大統領から引退したスティムソン陸軍長官に宛てた一九四六年十二月三十一日付の書簡である。大統領は、スティムソンが座長を務めていた原爆に関する委員会のことを振り返っていた。
私は大統領職を継いだ直後の例の[原爆の]件について聞かされ、バーンズ、バネバー・ブッシュらから成る委員会を任命した。他のメンバーの名前は忘れてしまった。トルーマン大統領がスティムソンの役割を忘れてしまったらしいこと、またバーンズ(とブッシュ)が名を連ねていたことを除いて、暫定委員会の実際の役割やメンバーについてほとんど思い出せないのも、驚くにあたらないのかもしれない。
前述したように、スティムソンが最初に委員会の勧告をトルーマンに告げたとき、大統領はバーンズからすでに報告を受けていると答えている。これも一九四五年における権力の現実を示すものだ。
暫定委員会について他にもよく知られたいくつかの事実を簡単に見ておこう。一九四三年八月にルーズベルトとチャーチルによって調印されたケベック協定によって、アメリカは新兵器を使う前にイギリスの同意を得なければならなかった。
それは七月四日の合同政策委員会で行われ、イギリスは公式に日本に対して原爆を使用することに同意した。
再び、暫定委員会は「調印国は相互の同意がないかぎりその兵器を第三国に対して使用してはならないと規定したケベック協定第二条の問題」について議論した(六月二十一日)。いくらか討議が進んだ後で動議が提案された。
しかるべき手続きにより第二条を撤回することを暫定委員会は支持する、と陸軍長官に進言されるべきである。動議は全会一致で可決された。戦後において必要に応じて新兵器を単独で使用する権利を、アメリカは留保しておきたかったのだ。
P252/ 254/ 256/ 258/ 260/ 262/ 264
1.14 憂慮する科学者たち P267-276
P266/ 268/ 270/ 272/ 274/ 276
第四部 ジェームズ・F・バーンズ P278-315
1.15 権謀術数を駆使するやり手 P278-1.16 狡猾で優れた政策 P295-308
P300
P301 さまざまな証拠をつなぎ合わせることによって、一部の問題がはっきり見えることもある。たとえば、トルーマンは、
五月八日の声明で「無条件降伏」は日本軍に対して適用されると注意深く規定していたが、この大統領の豹変はいまだに説明がなされていないが、ここでもその背後にいたと目される側近の第一候補はバーンズである。われわれの知るかぎり、当時の大統領側近でこの立場に合致する見解を
六月一日には一転して「無条件降伏」について妥協を許さない強硬な態度を表明している。
P302 もっていたのはバーンズしかいない。しかも、他の関係者は全員、条件の修正という原則を一般に支持していた。グルーはもちろんすぐにでも前に進みたがっていた。また、スティムソンは若干遅らせたがっていたものの、彼らの見解についてわかっていることから考えると、スティムソン、フォレスタル、レイヒ、あるいはマーシャルが五月八日の声明からの後退を訴えたとは考えにくいし、また、そうしたという証拠もない。(関連Tw)
(略)
1.17 ヤルタの影 P309-
第五部 ポツダム(参照)
1.18 三大国の会談へ P318-1.19 明快な代案 最初の決定 P341-
1.20 ソ連によるヨーロッパの報道管制を解除する P356-
1.21 第二の決断 P381-
1.22 原爆とドイツ P396-
1.23 第三の決断 P420-
1.24 仮説と選択 P435-
1.25 答えられない疑問 P451-
第六部「軍事的な必然性」(相互参照)
1.26 海軍指導者 P462-私は原爆の一から十まで気に食わなかった。軍事的な必然性という問題は、一般的に降伏という問題と同じく、どんな疑問が問いかけられているかを考慮することなく、純粋に抽象的に論じることはできない。
---アーネスト・J・キング海軍元帥、アメリカ艦隊司令官兼海軍作戦局長、一九五〇年七月四日
それゆえ、問いが「いかにしたら、天皇に関していかなる保証も与えないまま日本を降伏させることができるだろうか」だとすれば、その答えは「非常に長期にわたって途方もない戦力が必要になる」とならざるをえないえなかっただろう。
こうした状況において、アメリカ軍の指導者が原爆はまったく必要ないと言ったとすれば、驚くべきことだっただろう。また、そのような状況では、よほど自由な発想ができ、地位の安定している者でなければ、原爆の使用に疑問を呈することは期待できなかっただろう。
いったん大統領が降伏方式の修正をしないと決定した後は、そのことに疑問の提示のされ方が縛られた。それにもかかわらず、興味深いことに、また予期せぬことに、少なからぬアメリカ軍試走車は(こうした状況においてすら)原爆の使用は軍事的な必然性によって決定されたのではないと感じていたようだ。
P463その意味では、実際の出来事の直後に実施された二つの公式の事後研究を振り返ってみることが有益だ。前述したように、一九四六年の戦略爆撃調査では、十中八九、日本は十一月までに降伏していただろうと断じており、また、陸軍省軍事諜報局による一九四六年の研究は「ロシアが参戦した時点で日本はほぼ確実に降伏していただろう」という判断を示している。
問題は、当時、一般的に軍事的な配慮が、そしてとくに軍による助言が原爆を使用するという決定にかかわっていたかどうかである。
ポツダム会談の前に(さらには、七月に天皇関連の電報が傍受される前においても)、スティムソン、フォレスタル、ステティニアス、グルー、レイヒ、マーシャル、マクロイ、バード、さらには、アーノルド、キング、ニミッツまでもが、異口同音に降伏条件の明確化を訴えていた。
また、ポツダムではアメリカ統合参謀本部が降伏の方式を何とかして明確にしようと二度にわたって試みている。原爆を使用するという実際の決定に、軍の指導者は直接に関与していたのか。彼らは原爆投下に賛成し、そう助言していたのか。
原爆投下の決定は七月二十五日にハンディ将軍からスパーツ将軍に伝えられた。ポツダム宣言が発表される前日である(この出来事の順番は重要で、さらに検討する)。
ところが、軍の指導者が正式決定に直接関与していたという当時の証拠はほとんど見あたらない。実際、統合参謀本部のいかなる記録を見ても、選択肢と決定に関して真剣に議論されたという記録の断片すら見あたらない。
統合参謀本部の公式の歴史家グレース・パーソン・ヘイズはこう記している。
戦争中、統合参謀本部は原発開発の進展について概括的に把握していた。しかし、この極秘の計画は統合参謀本部管轄下になく、それについての議論は、あったとしても、まったく記録されていない。P464公式か非公式かを問わず、この件に関する主要な研究のすべてにおいて、また、この件について関係する軍のトップによるあらゆる声明において、この点は際立っている。
重大な軍の意思決定では日常的に行われているようなスタッフの作業や政策展開について、まったく記録が存在しないのだ。したがって、第一部で検討した、「ICS1340シリーズ」の名で知られる降伏関連の一連のスタッフ文書およびその他の文書のような、手がかりとなるような書類は見つけられない。
ヘイズも認めているように、トルーマン大統領が原爆について軍の指導者と非公式にしか話していないことは疑いない。しかし、ここでも、協議の方法と程度についてはきわめて疑わしい。
真剣な協議が行われたと「主張」されている一つの具体的な例によると、ポツダムで短時間の会議が行われていた可能性がある。マーガレット・トルーマンの手になる一九七二年の伝記『ハリー・S・トルーマン』には次のような段落がある。
翌日[七月二十二日]父は原爆の使用について最終的に決定するために、バベルスベルク[ポツダムの近く]のリトル・ホワイトハウスに主要な側近を集めて会議を開いた。二ヵ月以上にわたって最高の頭脳を集めて検討してきたことが、まさに決まろうとしていた。P465同じように一般的な記述は、トルーマンの愛娘の編集による別の著書、そして、トルーマン大統領自身の協力を得て、友人のジャーナリスト、ウィリアム・ヒルマンによって著された『大統領閣下』にも登場する。
[六月十八日のホワイトハウスでの会議以来]再び、父は会議に出席していた側近たちの意見を確かめた。心変わりした側近が一人だけいた。陸軍航空軍司令官のハップ・アーノルド将軍は、通常兵器による爆撃で日本を降伏に追いこめると考えていた。
…しかし、軍の他の人間は誰ひとりとして、なかでもマーシャル元帥は、アーノルド将軍に同意しなかった*。
しかし、この種の会議が実際に行われたという当時の記録はほとんど存在しない。つぶさに記録に当たったバートン・バーンスティンはこう述べている。 おそらくトルーマンが自分自身の日記で触れてもいいはずだが、言及しておらず、また、準公式記録でにもまったく言及がない。この時期、確かにスティムソンやレイヒ、アーノルドはみんな日記をつけており、後に回顧録を出版している。
その日記や回顧録のなかに記載があってもおかしくないはずなのに、それもない。また、マーシャルの後のインタビューでそのことに触れたことはない。二つの回顧録を出したバーンズも言及していない。
そして、キング提督は戦後に回顧録を出版し、そのなかで原爆に関する軍事的な必然性に疑問を呈しているが、そのような会議については一度も言及していない。
今ここで検討している決定の重大さを考えると、出席者の少なくとも一人はその会議について言及しているはずだと想定しても無理はない。
マーガレット・トルーマンの報告はとりわけ興味をそそられる。アーノルドとマーシャルの見解について具体的な情報を提供しているように見えるからだ。このように詳しく言及している場合、著者は具体的な文書資料を手元に置いて執筆しているのが普通である。
ところが、この点について(私も含めた)さまざまな歴史家からの問い合わせに、彼女は繰り返し返事を拒否している。
ここで注意したいのは、右の記述でさえ、軍お二人の指導者が原爆の使用に関して積極的に勧告したと明快に述べているわけではないことだ。
P466また、条件を修正することやソ連の宣戦布告を待つといった別の選択肢についても言及されていない。明快に述べられているのは、通常兵器による空爆で日本を(この時点では、「無条件」)降伏に追いこむことができるというアーノルド将軍の意見に誰も同意しなかったということだけだ。
デービッド・J・ウィリアムズは、さまざまな事後の記述をポツダム会談の時間ごとの(多くの場合、分単位の)進攻記録に照らして詳しく検討してみた。その結果、もし会議が実際に行われたのなら、七月二十二日だっただろうという結論に達した。
ウィリアムズはさらに、出席したとされる高官のスケジュールについてわかっていることと、大統領のスケジュールの記録を比較対照し、懐疑がもし行われたのなら、最も可能性が高い(たぶん唯一の)時間帯は、大統領が午前十時に(日誌によると、陸軍と海軍の側近を伴って)プロテスタント教会の礼拝に出席した後、そして、午前十一時三十分のカトリックのミサの後だが、十二時十五分(大統領はチャーチル首相と昼食をともにしており、アーノルド将軍はスティムソン陸軍長官と会っていたと伝えられている)より前になると結論している。
ウィリアムズは書いている。「ミサが短時間だったか、大統領が早く立ち去ったか、どちらかだ」そして、いずれの場合にせよ、きわめて短時間の会議だったということになる。
軍の指導者自身による証言に目を向けると、彼らはまともに助言を求められていないことが確認できるばかりでなく、誰一人として原爆の投下が圧倒的な軍事的配慮に基づいて決定されたものだとは考えていなかったことも、(たぶん、一つのいくらかあいまいな例外を除いて)証拠は強く示唆している。
数人は、都市を攻撃目標とすることに強い嫌悪感を表明した。
P467文書記録は不完全であり、どんな断片的な情報でも見つかればつなぎ合わせて実際に起きたことの一部でも描いてみなくてはならない。しかし、結局のところ、原爆投下には「軍事的な必然性」があったという安易な主張を受け入れるのはきわめて困難である。
しかも、軍の指導者による具体的な発言には降伏方式の修正とソ連による攻撃を待つことはめったに含まれないものの、これは真実である。
また、もしアメリカ軍のトップが軍事的に必然性があるという理由で原爆の投下を勧告ないし支持していたとしても、大半の者が後に公式、非公式に発言した内容のどれを見ても、そのような信念をもっていたという証拠はほとんど見あたらない。
アメリカ海軍指導者のなかでも、大統領首席補佐官にして第二次大戦中の統合参謀本部議長だったウィリアム・D・レイヒ海軍元帥の強い感情についてはすでに述べた(「日本人はすでに打倒され、降伏を受け入れる態勢にあった…」。相互参照)
レイヒが六月十八日に降伏方式を改めるように大統領に勧告していたことも前述した。七月に入って天皇が動きはじめるほぼ一ヵ月前、原爆が投下される七週間前のことである。同じ日、レイヒは私的な日記にこう記している。
将来のいかなる太平洋越しの侵略行為に対してもアメリカの防衛にまったく支障をきたすことはなく、日本にも受諾可能な条件で、日本の降伏を現時点で取り決めることができると考えられる。一九四五年七月十六日にポツダムで開かれた米英合同参謀本部の議事録にも、レイヒがイギリス参謀本部にこう訴えたという記録がある。
事の中心は明らかに政治的だから、首相から大統領に見解を示し、「無条件降伏」という文言を日本人にどのように説明するのかについて提案してもらえると非常にありがたいと提起した。レイヒは回顧録のなかで、合同参謀本部の見解を次のような言葉で表現している。
P468
無条件降伏は日本政府の完全な解体を意味するのではないと東京に対して説明することが有益かつ賢明だと、われわれは感じていた。(レイヒが次の言葉を補足したのはこのような状況においてである。「ミカドなら勅命によって戦争を終わらせることができると、われわれは確信していた」)
レイヒはきわめて慎重な補佐官だった。そして、六月十八日の勧告を別にすると、原爆の使用に関してトルーマン大統領に具体的にどんな助言を与えていたのかを示す記録がない。
しかし、二人は毎朝九時四十五分に顔を合わせ、記録に残らない(あるいは、レイヒの日記に簡単に記録されるだけの)言葉を交わしていた。また、レイヒは「ホワイトハウスでいつでも[トルーマンの]そばにいた…」と、ロバート・ファレルが記しているように、記録に残らない会談を重ねていたことは疑いない。
どうやら、この問題に関してトルーマンとレイヒとの間で交わされた言葉の記録はいっさい残っていないようだが、レイヒがかなり率直な物言いをしていたことがわかっている。
たとえば、ルーズベルトの死後、トルーマンが首席補佐官のままとどまってもらいたいと要請したとき、
ルーズベルトのときには、意見が合わない場合、きわめて率直にそう言うことにしていたし、ルーズベルトもそのような仕事の進め方が気に入っていたようだと、[レイヒは]トルーマンに釘を刺しておいた。レイヒによると、トルーマンはこう返事をしている。
「このまま首席補佐官としてとどまるのなら」と、私は言った。「私が変わるということはありえない。閣下が間違っていると思ったら、そのように言うつもりだ」
それこそ、まさに望むところである。…私が間違いを犯していると思ったら、そう言ってもらいたい。だが、決定を下すのが私であることは言うまでもない。いったん決定が下った後は忠実であることを期待する。P469原爆は不要で使用すべきではないと思うと、レイヒは大統領に直言したのだろうか。確かなことを知るのは不可能である。しかし、レイヒのはっきりした見解を考えに入れると、自分の意見を大統領にぶつけなかったとは考えにくい。レイヒ自身、控えめに振り返っているが、内容はきわめて明快だ。
言うまでもないことだが、ルーズベルト大統領にしたのと同じように、トルーマン大統領に対しても、日本を打倒するためにとるべき道についての自分の考えを十分に理解してもらった**。レイヒの一般的な見解を裏付ける証拠は他にもある。事情通のジャーナリスト、個人秘書、そして、この保守的な提督に近い友人、作家の手になるものである。
「ニューヨーク・タイムズ」の軍事担当記者、ハンソン・ボールドウィンによると、音声記録による歴史資料のためのインタビューで、レイヒは「天皇の継続を認めることは、容易に解決できていなければならない任務だと思っていた」。
レイヒの秘書だったドロシー・リンクィストは広島に原爆が投下された日のことを昨日のことのように覚えている。レイヒはそのとき、こう言った。
「ドロシー、我が国はこの日のことを後悔するよ。アメリカは傷つくことになる。なぜかって、戦争に女、子供を巻きこむものではないからだ」そして、一九四九年に、大統領の伝記作家、ジョナサン・ダニエルズは、レイヒが激しく抗議したと記している。
「終戦を早めることによって非常に多くのアメリカ人の命を救うことになるという軍のの声明を受けて、原爆を使用することで合意した、とトルーマンは私に言った。しかし、使用するのは軍事目標に対してのみということだった」P470「女性と子供」を攻撃目標にしたことに対するレイヒの怒りと、彼の姿勢に言及したほとんどの報告に登場する。しかし、レイヒがトルーマンの友人であることには変わりはなかったし、大統領からも引き続きそう思われていたことは指摘しておいていい。
もちろん、それから彼らは原爆を投下し、できるかぎりの女、子供を殺戮した。初めからずっとそうしたかったのだ。
レイヒは(マーシャルと並んで) トルーマンが「ほとんど無制限に尊敬していた」二人の側近の一人だったと、カベル・フィリップスは述べている。大統領は回顧録のなかで書いている。
「彼は海軍の最も優れたところを代表する存在だ…」レイヒは回顧録で原爆の使用は「野蛮だ」と評しているが、その回想録にトルーマンは序文を寄せてレイヒの「長く輝かしい経歴」を称賛している。
レイヒが原爆の問題について単に非常に強い意見をもっていたというだけでなく、自らの見解を力強く表明していることは、注目に値する。
このすべてにおいて重要なことは、その後の研究でよく不明確ににされているポイントをおさえておくことだ。
戦争がこの段階にいたるまでに、海軍の首脳は海上封鎖によって日本を降伏に追いこむことができると主張していた。封鎖によって徐々に日本の補給路は「絶たれる」ことになるというのだ。
また、彼らは上陸侵攻の代案としても海上封鎖を勧告していた。上陸侵攻が次の作戦だったとしたらだが(それは、「無条件降伏」という頑なな要求に変更でもないかぎり、ほぼ確実だった)
ところが、レイヒの私的な日記をはじめ当時の文書を見ると、六月半ばには、そして、ポツダム会談のときには間違いなく、レイヒをはじめとする多くの海軍指導者にって、問題はもはや海上封鎖隊上陸侵攻という古い図式ではなくなっていた。それはおおむね過去のことになっていた。
レイヒの場合には、当時の彼の判断と、それを裏付ける事後の情報という両方の証拠がある。他の何人かの海軍指導者についても、同じようなバランスが存在する。
P471しかし、その混合比は異なっている場合もある。それでも、当時と事後の両方の証拠において、トップレベルの姿勢には驚くほどの一貫性が見られる。
一九五二年刊行の「三人称で書かれた」自伝(ウォルター・ミュア・ホワイトヒルとの共著)のなかで、アメリカ艦隊最高司令官で海軍作戦局長だったアーネスト・J・キングはこう述べている。
大統領はこれらの[原爆による]攻撃を承認するにあたって、日本に上陸侵攻することになればアメリカ軍部隊の何千人もの命が奪われることになると信じていたようだ。そして、その点では彼の判断はまったく間違いではなかった。このくだりでキングは原爆投下に異議を唱えているが、どうやらここで述べられているのは海上封鎖によって降伏に追いこめるという一九四五年年前半の海軍の見解だろう。しかし、夏の半ばにはキングもレイヒと同じ結論に達していたことを、他の証拠は示唆している。
しかし、キングは、自ら何度も指摘していたように、このジレンマに悩む必要はないと感じていた。なぜなら、じっくり待つつもりさえあれば、海上封鎖によっていずれ石油、米、薬品などの必需品が不足し、日本人は窮乏して降伏せざるをえなくなるだろうからだ。
すなわち、十一月の上陸侵攻よりかなり前に戦争を終わらせることができるのであり、したがって、原爆の投下は不要というだけでなく、不道徳でもある。
たとえば、キングの次席補佐官だったバーンハード・H・ビエリ少将は、一九六九年に音声記録による歴史資料のためのインタビューで、一九四五年春の終わりには、彼も同僚も上陸侵攻はないだろと確信していたと述べている。
われわれ[キングの参謀]の一部は、[上陸侵攻]は決して実施されることもなければ必要もないと感じていた。…ビエリはこう続けた。「戦いのこの段階に来て、ロシアと厄介なことになることを彼らが望んでいるはずはないと、私は確信していた。…」これまでに触れた多くの同様の声明とも合致しているし、タイミングの問題を明確にするのにも役に立つ***。
P472日本の艦隊が撃沈されてしまえば、彼らは海外から物資を供給できなくなり、産業を維持できず、それまでのような商業は成り立たなくなり、大陸との連絡は絶たれることになる。そうなれば、降伏する以外に道はない。とくに一番の同盟国であるドイツが打倒されてしまえば、なおさらである。
これは統合参謀本部で合意の得られた立場ではなかったが、キングも非公式には参謀とかなり近い立場をとっていたと、ビエリは付け加えている。実際、キングは大っぴらに書いている。
…一九四五年六月、彼[キング]は日本本土の目標地点に上陸し押さえる作戦を立案するという統合参謀本部の意見に同意した。しかし、そのような作戦に必然性があるという陸軍のの見解には与していなかった。ビエリ証言は、一九四五年のいくつかの時点で文書として記録されていたこと、つまり、歴史家が一般に引用する情報と、トップの高官が実際に考え、内輪で非公式に議論していたことの間にかなりのギャップが存在することを示している。
キングとその同僚に関しては、このギャップがとくに興味深い。四月二十六日付のハル将軍からマーシャル元帥に宛てたメモは報告している。「ニミッツ発のメッセージによると、われわれが本当に上陸作戦を遂行するのかどうか、彼の参謀はかなり疑わしいと感じているようだ」
同じように、タイム誌とライフ誌の発行人のヘンリー・ルースは一九四五年春に太平洋を訪れ、海軍指導者が日本の状況にほとんど幻想をもっていないことにすぐに気づいた。
P473広島の数ヵ月前、私は日本の沿岸を攻撃するハルゼーの艦隊に同道していた。私の目には二つのことが明白のように見えた。私が話を聞いた多くの部隊幹部も同じだった。第一に、日本は打ちのめされていた。第二に、日本人はそれを知っており、日を追って泥沼から抜けだしたいという気配が増していた。海軍戦史家で多くのトップの将校と親しかったE・B・ポッターが、六月の終わり、すなわち、天皇の終戦の意向を示す七月の電報が傍受される前、また、アラモゴードの実験について指摘している。
…ニミッツ提督はサンフランシスコに飛んでキング提督と会談した。結果的には戦争中最後となったこの二人の会談は、わずか一日で終了した。キングはニミッツにトルーマン大統領がオリンピック作戦を承認したと伝え、また、それに続くコロネット作戦の準備に入るようにという統合参謀本部の勧告を伝えた。一九八七年の口述による歴史資料の中で、キングの補佐官で将官候補だったロバート・ドーニン大佐は述べている。
会談が簡単に終了したのは、オリンピック作戦とコロネット作戦が実施されることはないと、ニミッツもキングもほぼ確信していたことの表れだろう****。
キング提督がどう感じていたかはよくわかっている。われわれは彼らを降伏寸前まで追い込んでいたのだから、あと三ヵ月から四ヵ月待てばよかった。それでも降伏しなかったら、そのときは原爆を原爆を投下すればいい。このすべてに加えて、もちろん「無条件降伏」という問題がある。エリス・ザカリアスによる降伏方式を明確化しようという努力を、キングはフォレスタルと同じように強く支持していた。
要するに、なぜ今でなくてはならないのか。…「この時点ではやる[原爆を投下する]ではないと思う。そうすることに必然性はない」と、キング提督は言っていた。
P474一九四五年六月十九日の(国務・陸軍・海軍)三省委員会の議事録にもこう記されている。
「スティムソンとグルーはさらに、レイヒ、キング、そしてニミッツがこぞって日本に対してそのような[グルーが訴えていたような]働きかけをすることに支持を表明していたと指摘した」非公式にキングにインタビューしたウォルター・ホワイトヒルのメモがキングの考えを簡潔に要約している。
「私は原爆が一から十まで気に食わなかった」指揮系統でキングのすぐ下に位置していたチェスター・ニミッツ提督は太平洋艦隊の司令官だった。一九四五年九月二十二日付の「ニューヨーク・タイムズ」によると、ニミッツはパールハーバーで記者会見を開いている。
提督はこの機会を利用して、原爆投下とロシアの参戦の前に日本は打倒されていたという見解を表明した。その後、一九四五年十月五日のワシントン記念塔での演説でニミッツは述べている。「実際、広島の破壊によって原子力時代が幕を開ける前に、また、ロシアが参戦する前に、日本人はすでに平和を訴えていた」
一年後、ニミッツはナショナル・ジオグラフィック協会でのスピーチで宣言した。「原爆はすでに不可避の結果に達していたプロセスを早めたにすぎない」
太平洋艦隊が無傷のまま至近距離から日本に猛攻撃を加えたことが、七月にわれわれとの和平の仲介をロシアに頼まざるをえないように日本を追いこんだ決定的な要因だったと、私は確信している。第五水陸両用部隊司令官ハリー・W・ヒル大将は後に「ニミッツ提督もスプルーアンス[第五艦隊司令官レイモンド・A・スプルーアンス中将]も、日本本土への上陸侵攻が必要になることはないと考えていた」と振り返っている。
P475一方、沖縄グループに属する航空機は新たな飛行場から連日、九州、四国に出撃しており、また、第二〇航空軍のB29は日本の主要都市に焼夷弾による爆撃を加えていた。
その頻度と激しさは増しており、日本政府は公式のスポークスマンも認めているように戦争を終結させる道を模索していた。
前述したように、一九四五年六月十九日の三省委員会の会議の報告書によると、ニミッツもグルーの提案した声明に関連して無条件降伏の方式を明確化することに明快に支持を表明したうちの一人だった。
ニミッツの伝記を書き上げるために長時間にわたってインタビューしたE・B・ポッターはこう述べている。
原爆はともかく不適切で、正統の戦争の形態ではない、とニミッツは考えていた。インタビュー時のポッターのメモによると、ニミッツはこんな発言をしている。
それは無差別的な殺人兵器であり、投下されても効果を発揮しないように祈っている。分類としては、毒ガス、細菌兵器と同類だ。戦争中は潜水艦長でニミッツの私的補佐官も務めていたE・B・フラッキー少将もこう振り返る。「日本人をあんなふうに吹き飛ばしておいて、多くの命を救ったとニミッツ提督は考えていなかったと思う」
そして、一九六九年の口述による歴史記録のためのインタビューで、ニミッツ 未亡人は述べている。夫は「あの爆弾を投下したことをいつも悔いていました。既に日本を打倒していたと申しておりましたから」。
P476夫人は夫が明快にこう述べたとつけ加えた。
…必要もないのに市民の命が奪われたと感じていた。…われわれは彼らをやっつけていた。十分な食糧もなく、何もできない状態だった。また、原爆を使用することは必ずしも軍の決定ではなかったとニミッツは強調した、と公式記録に残っている。一九四六年にフィラデルフィア科学者協会のウォルター・マイケルズに宛てた書簡のなかで、「日本の都市に原爆を投下するという決定は統合参謀本部より上のレベルでなされた」と了解しているとミニッツは述べている。
他の海軍幹部の間でも同じような見方が有力のように見える。「ブル」ことウィリアム・ハルゼー大将の第三艦隊が日本の沿岸施設を爆撃したとき、ほとんど抵抗を受けなかった。ハルゼーは一九四六年に公に宣言している。
最初の原爆を試してみる必然性はなかった。…そもそも投下するというのが間違いだった。必然性もなかったのに、なぜあのような兵器を世界に見せつけるのか。…[科学者たちは]このおもちゃを手に入れて試してみたくなった。だから投下したのだ…その結果、多くのジャップが死んだ。だが、ずっと前からジャップはロシアを通じて繰り返し平和を打診していたのだ。そして、一九七〇年代前半には、海軍次官の特別補佐官で統合戦争計画委員会メンバーのロバート・リー・デニソン提督が指揮している。降伏に関する政策を発表するなかで、ルーズベルト大統領は、
完全な勝利を目指して戦っているということを、疑いの余地なく明確にしておきたかった。一九四八年以降、トルーマンの海軍補佐官に就任したデニソンは付け加えて言う。
P477しかし、言うまでもなく、時間の経過とともに、そのような考えも時代遅れになっていった。…ドイツや日本に対して無条件降伏が得られないことは、あまりにも明白だった。
一つの国を破壊してしまうことなど考えられなかった。そんなことをすれば、自分の国をも荒廃させることになる。
いずれにせよ、「日本が転落の一途をたどっていたのはかなり明白だった。もはや終わりがいつになるのかという問題だった」。ヘンリー・ルースも五月と六月の太平洋戦域の視察についてこう報告していた。
たとえば、レイヒ提督は日本がすでに補給品、食糧、製品を絶たれて敗北したと感じていた。きわめて的を射た認識だった。そして、かなり短期間のうちに日本が崩壊するのは目に見えていた。…
日本がどれほどの窮地に陥っているかを示す諜報報告も多くあったから、私は基本的にレイヒ提督の判断に賛成だった。
ある日の午前中、私はフィリピンのカビテで巨大な地図を前にフランク・ワグナー提督と過ごした。ワグナー提督は東アジア全域の海域と沿岸地域の空からの哨戒活動を指揮していた。一九五二年、リチャード・バード少将は個人的にキングの回顧録を称賛する書簡を送り、また、自分自身の見解も披歴している。
提督によると、この何百万平方マイルに及ぶ地域で文字通り爆撃に値するするような攻撃目標は一つもない。どれもこれも取るにたりない目標で、それも大部分は小さな目標にすぎないという。
同じように、ある夕べは空母ヨークタウン船上で[アーサー・]ラドフォード提督[後の統合参謀本部議長(一九五三~五七年)]と会食をした。ヨークタウンは日本南部の九州を爆撃する機動部隊を率いていた。
P478ラドフォードはヨークタウン船楼でもずっと上にある小部屋で二人きりで話をする機会を与えてくれた。そこなら、どんな物音も聞かれる心配はなかった。それでも、提督は私のほうを向き、ささやくように言った。
「ルース、この戦争はも終わりだとは思わないか」もちろん、彼がそう言うならそうに違いないと私は答えた。すると提督は、自分に言えるのは、九州でもうほとんど残っていない舗装道路や田舎の橋を見つけて爆撃していたのでは、機動部隊の燃やす燃料に見合わないようになってきたということだけだという。
なかでも好ましく思われるのは、対日戦争終盤の日々について真実が語られていることであります。…当時、小生は艦隊に所属しており、艦隊の将校は一人残らず、厳しい海上封鎖によって…日本がいずれ降伏することになるのを知っておりました。要約すると、選りすぐりの情報を知りえたトップレベルの海軍高官のなかで第二次大戦中の公式記録上も原爆の使用は軍事的に必然性があったと支持を表明していた人物を見つけることはむずかしい。
小生も原爆投下は大きな過ちだと感じておりました。まして、警告なしに投下するなど、もってのほかであります。
実際、一部には全般的に大統領を支持する向きもあったかもしれないが、多くはレイヒのように、非戦闘員の殺戮に嫌悪感を抱いた。
日本の海域を実地に経験していたこと、また、電文の傍受には海軍の諜報活動がかなりかかわっていたこともあって、海軍指導者は降伏に関連した他の問題についても非常に詳しかった。
P479第五部で指摘したように、自分の見解をトップに具申しようと試みた向きもあった。ラルフ・バード海軍次官(相互参照)が原爆を投下するという暫定委員会の勧告に公式に異議を唱え、大統領を捕まえて反対意見を表明したことは、前述したとおりだ。
一九四四年から一九四五年まで海軍長官の特別補佐官を務め(後に原子力委員会の委員長を務め)たルイス・L・ストラウス少将は、バードに代わって暫定委員会に出席するようになった。
前後になって、原爆の使用は「戦争を我が軍の勝利で終わらせるために…必要ではなかった」という信念を、ストラウスも繰り返し表明している。
私にはこう思えてならない。非戦闘員を殺戮することは、(適切な言葉をつかえば)罪(もっと頻繁に使われるべき言葉だ)だというだけではない。それどころか、そのような兵器が製造できるとしても、いずれ我が国の政府と安全を守るために必要な時期が来たとき我が国だけがその構造と使用に関する知識を独占するために、終わろうとしている戦争で使用すすべきではない。一九六〇年代半ばになって、ストラウスはこうも振り返った。
もし原爆が使用されるのなら、使用する前にデモンストレーションをまずすべきだとフォレスタル長官に提案した…一番の理由は、私を含めて何人かの人々には戦争がほとんど終わりに近いことはあまりにも明白だったからだ。「フォレスタル長官は私の勧告に心から賛成してくれた」と、ストラウスは付け加えている。
日本人はほとんど降伏を受け入れる態勢になっていた。…私は長官にこう提案した。原爆のデモンストレーションはどこか日本人のオブザーバーも足を運べるところで、劇的な効果が期待できるところが望ましい。
そのようなデモンストレーションの理想的な場所として東京からあまり遠くない広大な杉林はどうだろうかと提案したように記憶している。アメリカで言えば、
P480アメリカスギの林ということになる。…そのような林の上空のしかるべき高さで爆弾に点火すれば…爆心からの強風で木々はあたかもマッチ棒のようにあらゆる方向に薙ぎ倒され、そして、もちろん、中心から火の手が上がることになるだろうと予測していた。
私には、このようなデモンストレーションによって、その気になればどの都市でも要塞でも破壊できるのだということを日本人に見せつけることができるように思えた。…
ここまで、一九四五年夏のさまざまな時点で下された一般的な判断と、七月十二日と十三日にマジックの傍受した電報から天皇が自ら戦争終結に動きだしたことが明らかになった後の具体的な判断とを、明確に区別してはこなかった。
この後者の時期に関する情報から、原爆が実際に投下されるまでの何週間かに海軍首脳がどのように考え、関連したどのような提案をしていたのかがさらにあきらかになる。
*マーガレット・トルーマンによると、六月十八日の会議では原爆について論議されなかった。ここで「心変わりした側近が一人だけいた」というのは、上陸侵攻の決定のことを指しているという。(M.Truman,Harry S.Truman,pp.261-62.)
**どうやら、レイヒは自分の見解を文書にしていたらしい。一九七一年、シドニー・F・ギフィン准将はこう述べている。「私の記憶では、原爆使用に対する彼の反対意見は非常に簡単なメモに示されていた。
P481その理由は、とにかく正義ではないということだった。騎士道というか、そのようなものの精神に反していた。しかし、騎士道というのはそこにあって、彼らが騎士道の精神に反していると、彼はそれに反対した」Giffin intervies with Dr.Murray Green,August 10,1971,Box 50,8.76,Murray Green Collection,USAFAL.(しかし、この種の文書はまだ表に出てきていない)
***すでに三月に、ビエリはキングに語っている。「われわれが日本を完全に『包囲』し、上陸侵攻の近いことをちらつかせ、空と海から休みなく攻撃を加えれば、ドイツ崩壊と同時に日本はこちらの条件で平和を求めるかもしれない。そこへ、さらにロシアが参戦すれば…」
しかもビエリはこのとき「われわれの条件」とは無条件降伏であると言明している。(Bernhard H.Bieri to EJK,"Subject:Far East Strategy,"March 1945,Military Operations and Planning-Pacific Theater,Vol.Ⅲ,May 22,1944-March 1945,Box 22,Cooke Papers,HIA.)
****第一部で言及したように、六月十八日のホワイトハウスの会議で、キングは侵攻の計画を練ることと実際にそれを遂行することの違いを強調していた。「準備をいま進めておかなければ、後になってそれをすることはできない。しかし、一度始めても、止めようと思ったときにいつでも止められる」(Dod,Top Secret Entry,Sec.V,p.24:DoD,Entry,p.81.)
1.27 航空軍指導者 P482-
1.28 陸軍指導者 P507-
1.29 別の視点 P532-
第七部 最終段階の戦い P542-610
1.30 率直な関係 P542-貴下が戻られた後、いかにして[きたる原爆の使用の]可能性がスターリンに伝えられたのか、面白おかしく話してくださったことを覚えています。…ポツダム宣言が天皇に関する保証に言及していた第一二条を削除したうえで七月二十六日に発表されたことが、大きな転換点になった。このときから日本が従うべき条件はがっちりと固められ、三大国会談の残りの日々は速やかに過ぎて八月に入り、六日と九日の原爆投下の舞台は整った。
--レスリー・R・グローブスからジェームズ・F・バーンズへ、一九五ニ年四月二十八日
ポツダム会談自体の大きな議題は言うまでもなく、ヨーロッパとアジアの外交問題にどう解決をつけるかだった。そして、会談の期間を通じてトルーマン大統領に最も近かった人物が、軍の補佐官ではなくジェームズ・F・バーンズ国務長官だったことは記憶しておいていい。
どの報告によっても、バーンズは中心的な人物であったというだけでなく、他人を大統領に近づけない術にもたけており、自分と対立するような助言が大統領の耳に入らないように気を配っていた。
前述したように、スティムソンは七月十九日の日記に、そのことに対する不満を記している。それから四日後の七月二十三日、スティムソンはこう書いている。
「午後遅くから夜にかけての会議で何が起きているのかわからないために、身動きがとれない…」P543「スティムソンはここではもうすることがなくて残念だと、率直に言った。これまで三度のこのような国際会議で三度とも代表団の団長を務めてきたと、彼は言った」と、ジョセフ・E・デイビーズは述べている。
そして、マクロイは後にこう振り返っている。「スティムソンはインタビューでまったく相手にされず、庭で一人たたずんでいた」
トルーマンとバーンズに到着するまで一緒に大西洋を航海してきただけでなく、船室も狭い通路をはさんで向かい合っていた。ポツダムではレイヒを筆頭に補佐官らとともに同じ邸宅を宿にしていた。
大統領が二階のスイートルームを使い、バーンズはその真下にある一階のスイートルームに滞在していた。
また、バーンズが重要な分野で経験豊かなベテランからの助言にあまり関心を示さなかったことも明白だ。国務省の極東専門家ユージン・H・ドゥーマンは、一九六〇年に歴史家のハーバート・ファイスからバーンズとの経験を尋ねられてこう答えている。
ポツダム会談では何も助言することはなかった。ワシントンにとどまっていたほうがずっと役に立っただろう。駐ソ大使だったアベレル・ハリマンは後に、バーンズは「いわば、何事も自分で処理できると思っていた」と述べている(ハリマンはこう付け加えている。「彼は我が共和国の大事な時期における最も国務長官にふさわしくない人物だった)。
国務省は、[ジョン・カーター・]ビンセント、ジョージ・アレン、それに私を含めかなり多くの専門家をポツダムに派遣したが、私の知るかぎり、誰もバーンズから相談を受けなかったし、トルーマンからも意見を求められなかった。
P544現在でも、われわれが自由に利用できる資料には、容易に見分けがつくが見過ごされがちな大きな空白がある。
最も明白な水準で言うと、公式の日誌ではバーンズ長官と大統領の間では七月十六日、十七、十八、二十一、二十四、二十七、そして二十八日に会談が行われたことになっているが、これまでのところ、記録はほとんど表に出てきていない。
さらに、ポツダム文書に関する政府の編者はかなり前に「バベルスベルクの代表団に航空郵袋で送られたメッセージとメモのコピーの…完全な記録は見あたらなかった」と指摘している。
しかし、国務省が毎日到着する重要な電報、航空書簡、公文書のほか、ワシントンで準備される特定のメモの写しを郵袋で送るのは標準的な慣行だった。そのおかげで、ベルリン会談に出席していたアメリカ代表団は、会談の期間に世界中で起きている出来事を遺漏なく知ることができたのである。もう一つ、バーンズ国務長官とトルーマン大統領はベルリン郊外のバベルスベルクの同じ大邸宅に滞在していた。旧友の二人が夜の間、食事時、そして会議場を往復する車のなかで記録に残らない非公式の会話を繰り返していたことは疑いの余地はない。
また、この時点で二人が気のおけない間柄だったこともわかっている。同じような間柄にあった大統領と他の同僚の関係についての報告から判断すると、きわめて重要な思考と対話が、公式記録の取られていた会談の場ではなく、こうした時間に行われていたことはほぼ間違いない。
また、この時期に関する重要な文書のなかでも、ウォルター・ブラウンの日記の全文は依然として公開されていない。
国務長官の日常的な活動について事細かに記録していた人物であり、その資料が政府の記録係にわたるとき、バーンズは大幅に編集(場合によっては書き直し)をしなくてはならないと感じていた。
P545ブラウンの日記のなかでもバーンズが手を入れたのは、とくにこのポツダム会談の時期に関する記述だった。
下巻で詳しく検討するが、トルーマン大統領自身もこの時期に関する重要な情報を抑えこんでいた。そして、大統領の死後に利用できることになった大統領の個人的な日誌にも、奇妙な、おそらくは大幅な空白がある。
このようにポツダムで本当の権力がどこにあったのかを念頭に、また、証拠の欠如、さらにはトルーマンとバーンズが余人を交えず議論したであろう事柄を再構築するにはこのうえない慎重さが要求されることを考慮に入れて、原爆投下にいたる最終段階のいくつかの側面について簡単に指摘することができるだろう。
とくに重要なのは新たに文書が発見されて古い事実に新たな光が当てられた事例である。
順を追って挙げると、それらは---ソ連を最後通牒に加えるかどうか、そして、ソ連に原爆について告げるかどうか(何を告げるのか)、海軍指導者によるきわめて重要だがほとんど理論されることのない二つの提案、ワシントンとポツダムから届いた複雑なシグナルに対する日本の反応の混乱、そして、新しい原子力兵器の使用にいたるまでトルーマンとバーンズによって下された追加的な決定である。
ポツダム会談は終幕に近づき、世界の新たな情勢はいくつかの明白かつ継続的な現実によって規定されていた。アメリカは無条件降伏の要求で譲らず、日本政府部内の表だった和平の動きは依然としてとれなかった。
日本陸軍の強硬派は、そのことを盾に早期降伏の提案を切り返していた。陸軍は依然として、現人神である天皇は退位させられ、たぶん戦争犯罪人として裁かれ、おそらくは絞首刑に処されるかもしれないと主張できたのだ。
P546これに関連して、もう一つ、原爆使用の条件を規定することになった決定がある。前述したように、チャーチルは警告の宣言にソ連を参加させるだけで大きな衝撃を与えることになると示唆していた。
同じように、ヤルタでチャーチルは「四ヵ国による最後通牒」の重要性を改めて強調した。ソ連を最後通牒に参加させることの衝撃をアメリカ政府当局がどのように推定していたのかを示す記録は、きわめて不十分だ。
しかし、アメリカ代表団がポツダムにもっていった警告の草案に次のような見出しの付いていたことがわかっている。「アメリカ---イギリス---[ソ連]---中国の元首による宣言草案」。それに続く簡単な注はこう述べていた。
[ソ連が参戦しない場合には、ブラケットの内容を削除する]宣言草案の書きだしも次のようになっていた。
われわれ、アメリカ大統領、イギリス首相、[ソ連元帥]、そして中華民国主席は…六月にステティニアス国務長官はグルーに対してこう指示していた。「ヤルタでチャーチル首相から提案のあった四ヵ国による最後通牒は現時点で注意深く考慮するに値するように見える。
確かに、成功の見込みがあるのなら、三大国の会談であらゆる可能性を探るべきだし、ロシアを参加させるべき掛け値なしの努力を傾けるべきだ。…」
ソ連を含めるという当初の指針はどうやら六月二十六日の三省委員会で固まったようだ。ところが、ここでもまた、記録にまつわる障害のため、長年にわたって混乱を生じていた。
たとえば、フォレスタルの日記の関連する部分も、当初、公開されたものからは削除されていた。この会議について、刊行された日記には以下のような一説が含まれている。
P547日本国民に対して降伏の条件を発表する声明文の問題について論議した。スティムソン陸軍長官がメモを読み上げ、大統領に送付すると提案した*。日本本土への上陸侵攻が実際に始まる前に、そのような宣言を発表すべきだということで出席者全員の意見が一致した。この文脈で「発表する声明文」というのは別に異例でもなく、とくに目を引くわけではない。大統領による声明発表はしばらく検討されていたからである。しかし、フォレスタルのこの日の日記がすべて公開されると、削除されていた箇所からまったく別の具体的な可能性が検討されていたことが明らかになった。
…舞台としてベルリン[ポツダム会談]が適切ではないだろうかという提案がなされた。
刊行された日記では削除されていた【】の箇所に注目してもらいたい。
P547日本国民に対して降伏の条件を発表する声明文の問題について論議した。スティムソン陸軍長官がメモを読み上げ、大統領に送付すると提案した。日本本土への上陸侵攻が実際に始まる前に、そのような宣言を発表すべきだということで出席者全員の意見が一致した。 【さらに、そのような声明は、大統領単独で、または、イギリスおよびロシアの元首と共同で発せられるべきだということでも合意した。】…【そのような宣言を発表する】舞台としてベルリン[ポツダム会談]が適切ではないだろうかという提案がなされた。日記のいずれの版にも、次のような文言が含まれていた。「スターリンは間違いなくベルリン会談でこの問題を提起するだろうと、マクロイは述べた。さらに、スターリンはこの問題に関して、いずれにせよ、これといった見解をもっているわけではなく、われわれの示す方向に従う用意があるあるだろうと述べた」
マクロイの発言中で「いずれにせよ」という言い方が興味深い。要するに、ソ連が調印国であろうとなかろうと、スターリンは声明を受け入れる可能性があると読みとれる。
P548削除がなされた資料では、あいまいではあるが、大雑把に侵攻前のいつか、もしくは具体的にポツダムにおいてであっても、スターリンは大統領による声明にほとんど反対しないだろうといっているように受けとれる。
重要なポイントはいうまでもなく、声明文のなかでソ連の参加の可能性について言及した箇所が削除されているということだ。
また、このくだりは、三大国の会談の場から発せられる声明のほうが、戦争中に多くの別の機会でそうだったように、たとえばアメリカとイギリスが単独でワシントンとロンドンから同時に発表する声明より与える衝撃は大きいだろうということを示唆している。
明らかに、この時点ではソ連を含めるべきか否かの政治的決定はまだ下されていなかったことは、グルーが六月十八日に「大統領はこの問題を三大国会談の議題に入れるように私に要請した…」と記していることからもうかがえる。
同じように、翌六月十九日のスティムソンの日記には、マーシャルから「われわれの警告には、ロシアによる参戦という味方もある」と念を押されたと記している。
最後に、六月二十六日の三省委員会で原則的に承認された草案も、後にポツダム宣言となる(削除なしの)草案をトルーマンに勧告する七月二日付のスティムソンの公式メモも、こう述べている。
したがって、あめりか、イギリス、中国、そしてそのときに交戦国になっていればソ連も含めた元首の名において、日本に降伏を要求し、将来の平和を実現すべく日本を完全に非武装化するために日本を占領させるように求める警告を慎重なタイミングで発するべきだというのが、私の結論である。P549スティムソンは同じメモのなかで指摘している。「もしロシアが脅威の一部だとしても」赤軍による攻撃が「進行しすぎていることはありえない」。しかし、宣言が公表されるときに、その攻撃が「現実の」ものであってはならないとも述べている。
同じように、三省委員会によって任命されて条件とタイミングを検討していた小委員会(座長はマクロイ)は「できればアメリカとイギリス、中国が共同で宣言を発表すべきである。そして、そのときにロシアが交戦国になっているかなろうとしているのなら、ロシアも参加すべきだ」という結論を出している。
これに関連して、グルーは約束通り、「三大国首脳会談で論議すべき議題」と題する六月三十日付のメモをトルーマンに送った。この「議題」の第三項目にはこうあった。「日本の無条件降伏と極東における解放地域に対する政策」国務省はアメリカが以下のことを三大国会談の議題として勧告していた。
(a)日本国民が自分たちの将来がどうなるかを知れば無条件降伏を受諾しようという機運が高まるという期待を込めて、敗戦後の日本の処理に関する計画の概略を述べた共同宣言を日本と交戦中の主要な連合国が発表すべきであること。この項目を葬ることが、バーンズの国務長官としての初仕事の一つでだったようだ。就任から二日後の七月五日にイギリス、ソ連両政府に送ったメモのなかで、バーンズは「きたる首脳会談で大統領が議題にしたいと考えているだろうトピックの一覧」を提供した。
グルーの用意した議題と同じテーマを網羅していたが、一つだけ例外があった。第三項目の「日本の無条件降伏と極東における解放地域に対する政策」が削除されていたのだ。
代わりに盛りこまれたのが、つぎのようなあいまいでどちらともとれるような文だった。
P550極東に関する何らかの政策論議が同じように期待される。実際、問題の文書の編集に当たった政府の編集者は後にこう記している。
この項目全体が、[国務次官補のジェームズ・C・]ダンの指令書では鉛筆で消してあった。われわれの研究の観点からは、重要なポイントは、発表される少し前にポツダム宣言からソ連についての文言がすべて落とされたことだ。最低でも、そのことによって最後通牒としての脅威と衝撃は薄められることになった。
さらに、チャーチルの判断を受け入れるなら、それ自体で戦争を終わらせる可能性のあった選択肢を排除してしまったことにもなる。また、日本においてかなりの混乱をひきおこすことにもなった。
前述したように、天皇が和平に動きだしたことを知って、スティムソンは宣言を速やかに発表するように訴えた。七月十六日付の大統領に宛てたメモではこう述べている。
「警告を発表するのに、心理的に絶好のタイミングを迎えている」同じメモのなかで、スティムソンは「この点に関してわれわれの意図を事前にロシアロシアに通告するかどうか」という問題を明快に提起している(この問題提起からわかるように、単純にソ連に通告するというのではなく、ソ連を参加させるという発想は、この時点までに除外されている**)。
スティムソンの問いかけに対する答えは、ソ連に対して通告はしないというものだった。宣言は事前の通告なく、単純に三大国の会談の場から発表されるというのである。
こうした誠実さの欠如に、ソ連は明らかにいらだっていた。ポツダム宣言はいつまでも隠しとおせるようなものではなかったからだ。宣言がトルーマンとバーンズのポツダム滞在中に準備されたこと、
そして、ソ連がかやの外に置かれていたことは、発表されたときから自明だった。
P551スターリンが七月二十八日に日本からの最新の提案を大統領に示したとき、「[彼の発言のなかに]共同宣言を日本に送付する前にロシアに相談しなかったことで穏やかにアメリカを非難している…と感じさせるようなところがあった」と、ウォルター・ブラウンは記している。全体会議の議事録にはスターリンの次の発言の記録がある。
ソ連代表団には日本に対する[ポツダム宣言]文書が作成されたことが知らされなかったが、それにもかかわらず、他の国々に対して次のような働きかけがなされたことを知らせていた。原爆実験の詳しい報告が届くまでは、トルーマンはソ連の参戦にきわめて関心が高かったこと、そして、報告を受けた後には手の平を返したように興味を失ったことを考慮すると、この時期に何かおかしな事態が起きているとソ連が疑わなかったとは信じがたい。
続いて通訳者が斎藤[ママ、佐藤]大使からの通信を読み上げた…
この時点でソ連首相から提供された情報に対するトルーマンの反応も、それ自体、興味深い。議事録によると、通訳者が日本からのメッセージを読み終えると、
大統領はスターリン元帥に礼を述べた。そして、今夕、ソ連代表団としてはとりあげるべき問題が二つある了解すると付け加えた。
どうやら、トルーマンは日本からの働きかけを追求することには関心がなかったようだ。
また、会談中に大統領が態度を翻したのは、このときだけではなかった。
実際、ポツダムでは小さな戦術的な問題をめぐって数度にわたりソ連との関係でおかしな状況が生じた。
P552前述したように、グローブスの報告が届いた後、宋子文外相による交渉を利用して赤軍による攻撃の引き延ばしが図られた。アメリカの「公式の」立場は、ソ連の参戦を要請するものだったにもかかわらずである。
七月二十九日、右で述べたようなやりとりのあった翌日。モロトフが大統領に対して、アメリカが二年近くにわたって非公式に要請してきたことを何らかな形で正式の文書にしてもらいたいと要求した。ソ連に正式に参戦を要請する文書が欲しいというのである。
モロトフは結論として、もう一つの議題として提起するように元帥から言われていることがあると述べた。それは、極東での戦争にソ連が参戦する直接の根拠だった。そのような要求を文書にして言質を与えたくないのは明白だった。そこで、バーンズと補佐官のベンジャミン・コーエンはその日の午後の大半を費やしてソ連の要求に対する解答を用意した。
ソ連政府としては、アメリカ、イギリスをはじめとする極東戦争の同盟国が正式にソ連政府に参戦を要請するというのが最善の方法だろうと考えると、モロトフは言った。
降伏を要求する最近の最後通牒の受諾を日本が拒否するという前提で、戦争終結を早め、声明を救うという根拠にすればできるだろうというのだ。もちろん、ソ連参戦の前に中国との合意に調印することが前提だと、ソ連政府では考えていると、モロトフは付け加えた。
「もちろん、日本がすぐにでも降伏してくれないだろうかと期待するようになっていた。それに、ロシアの参戦を要請することはしたくなかった」と、バーンズは後に振り返っている。
二日後の七月三十一日、トルーマンはスターリンに形式的な書簡を送った。ウォルター・ブラウンの言葉を借りると、「ロシアの提案を拒絶するものではなかったが、心からソ連の参戦を要請するものでもなかった」。トルーマンは書簡のなかで述べていた。
モスクワ宣言と新しい国際連合憲章(まだ批准されてはいなかった)の一〇六条と一〇三条の規定に基づき、「現在日本と交戦中の他の国々との共同行動を目的として協議し協力するという意思をソ連が示すことが適切だと思われる…」。
P553トルーマンがこの文書の限界を認識していたことは疑いなく、これに添えたメモでスターリンにこう述べていた。「これをお使いになると決めるのなら、それはそれで構わない。しかし、別の根拠に基づいて行動するという声明を発表するか、あるいは、他のいかなる理由にせよ、この書簡をお使いにならないと決定するのなら、それでも私は一向に構わない」
ほんの数日前まで赤軍の支援を熱心に求めていたアメリカ大統領からこれほど回りくどい書簡を受けとったソ連首相の当惑は想像に難くない。しかも、ロバート・メサーに言わせると、
宣戦布告を遅らせるためにスターリンに対して「策を弄する」一方で、まったく別のレベルではアメリカの軍当局者はソ連の軍幹部との間で協調精神を促進することを許されていた。
したがって、バーンズとトルーマンが積極的にロシア参戦の引き延ばしを図る一方で、七月二十四日には合同参謀本部が「対日戦争へのロシア参戦を奨励する」ことで正式に合意し、「それに関連して必要かつ実践的な形で戦闘能力が増すように援助を」与えると決定した。
同じ日、合同参謀本部はソ連の参謀と会談し、将来の作戦行動について情報を交換した。二日後の七月二十六日、アメリカとソ連の参謀は再び会談し、今度は連合国の作戦の具体的な協調について議論した。
会談は友好的な雰囲気のなかで進み、議論されたすべての議題について速やかに合意に達した。
軍内部の議論の具体的な展開からも、バーンズの戦術とタイミングの認識についてさらに詳しいことがわかる。ときとして、バーンズが日本の降伏までソ連の攻撃を遅らせようと試みたのは無謀だったと評されることもある
(たとえば、マクジョージ・バンディはこう書いている。「彼はいささか無邪気にスターリンを戦争から締めだしておけると思っていた。…」)。
P554しかし、関係する二付を注意深く検討してみると、バーンズの読みは誰が何と言おうと根拠のないものではなかった。
そもそもスターリンは、五月八日のドイツの敗北からほぼ三ヵ月後に参戦すると約束していた。つまり、八月八日ということになる。ところが七月十七日にスターリンはこれを少し修正し、宋子文との交渉が決着すれば赤軍は八月十五日に侵攻の態勢が整うだろうとトルーマンに告げている。
ところが、七月二十四日の合同参謀本部の議事録にはこうある。
[陸軍の]アントノフ将軍によると、ソ連軍部隊は極東に集結しつつあり、八月後半には作戦を開始する態勢が整うという。しかし、具体的な日付は、いまだ決着していない中国代表との交渉の結果に左右されることになる。宋子文との交渉によって、戦争の終わりまで赤軍を十分に引き延ばせるだろうというバーンズの読みは、ソ連幹部から示された「八月後半」という予定表にぴったり符合する。
もちろん、最終的には日本の降伏は八月十日まで先送りされ、 八月十一日(相互参照)に受諾され、八月十四日に正式に発表された。
一九七〇年代に公開されたグローブズ少将の文書から見つかった書類からも、ポツダム会談期間中に起きたもう一つの関連した有名な「出来事」に一般に考えられているのといくらか違った意味があったのかもしれないことがわかる。
トルーマンがスターリンに近づいて原爆について「何か」を告げた奇妙な瞬間の出来事である。
暫定委員会は五月三十一日、バーンズの要請を受けて新型兵器のいかなる情報も公開すべきではないと勧告している。
P555「たとえ、一般的な形にせよ、ロシアに情報をわたせば、スターリンは仲間に入れろと言ってくる」ことを、バーンズはとくに危惧していた。
しかし、この議論の後、さらなる展開があった。六月十六日、暫定委員会の科学顧問団はシカゴの科学者グループからの強い要請でこの件を再検討し、次のように勧告した。
原爆が使用される前に、イギリスだけでなく、ロシア、フランス、中国にも、原爆に関するわれわれの作業がかなり進展したこと、この兵器は現在の戦争で使用可能になるであろうこと、そして、原爆開発を国際関係の改善に寄与させるに当たってどんな協力ができるのかについての提案を歓迎することを知らせるべきである。暫定委員会は六月二十一日に全体会議を開いてこの件について検討し、それより前の勧告を改定することに決めた。大きな問題は、スケジュールがきわめて厳しいとのことだった。
ソ連に何も知らせないでおいて、ポツダム会談の直後に原爆のことを明かしたら、大きな反動がないとも限らない。戦後の管理に欠かせない信用を醸成する期待が裏切られることになるかもしれない。
将来における実効ある管理の実現の期待を込め、会談の直後にこの計画に関する一般的な情報が公開されることに鑑み、委員会は全会一致で合意した。しかるべき機会をとらえ、われわれが成功の見通しを持ってこの兵器の開発を進めていること、また、それを日本に対して使用するつもりであることを、大統領からロシアに通告することにはかなりの利点がある。ジョージ・ハリソンが(六月二十一日に欠席した)スティムソンに会議の模様を報告したとき、ハリソンは委員会の理由づけをいくらか明快に説明した。
このロシアに通告するという問題は、六月二十一日の暫定委員会で十分に議論が尽くされた。中心となるポイントは明白のように見えた。
P556将来における実効ある管理を実現することの重要性に鑑み、また、製造上の秘密を除いては大半の情報が[空白]にはいずれにせよ、知られることになるという事実に鑑み、「三大国」会談中のしかるべき機会をとらえて、われわれが総力をあげてこの兵器の開発を進めていること、また、期待通りに成功の暁には敵に対して使用する計画であることを大統領からロシアに通告することにはかなりの利点があると、全会一致で合意した***。
そのような声明は、将来この戦争の後で、この戦闘手段を恐怖と破壊のための兵器ではなく、世界の平和を維持するための道具とすることを目指してさらなる検討をする意向であるという声明によって補完することができるだろう。
「三大国」会談のときにこの事前情報を与えず、それから数週間のうちに原爆を使用し、さらに、かなり完全に近い形でその経緯を世界に向かって公表するとなれば、将来においてこの新しい力を国際的に管理する構想でロシアの協力を得ることはおそらく不可能になるだろう。大統領がオーガスタに乗船する直前、スティムソンは暫定委員会の新たな勧告をじかに報告した。
「…もしスターリンが十分に友好的だと[トルーマンが]思えたなら、われわれ、ジョージ・ハリソンと私が備忘録で取り決めておいたように、彼にぶつけてみるべきである」P557スティムソンの日記にはこう記されている。「大統領は注意深く耳を傾け、そして、よくわかった、それが最善の方法だと思うと言った」翌日(七月四日)の合同政策委員会の会議でスティムソンは説明した。
つまり、われわれはこのことにかかりきりで目の回るほど忙しく、彼がこのことで目の回るほど忙しいことがわれわれにはわかっていること、また、原爆がまもなく完成し、われわれは敵国日本に対して使用する意向であると単純に通告することになる。
さらに、それでよければ、文明を破壊するのではなく、世界を平和で安全にすることを念頭に、後ほどスターリンと話し合いをもつように提案することになる。もしスターリンが詳細な事実を要求したら、トルーマンは単にまだ提供できる段階にいたっていないと告げることになる。
「彼自身の意見は、会議後数週間のうちにおそらく使用されるだろうということにかなり影響を受けていた。この会議でTA兵器****についてなにも言及されなかったら、その後早い段階で使用された場合に三つの連合国の率直な関係に重大な影響を及ぼしていたかもしれない」
スティムソンはこの問題についてポツダムでチャーチルとも話した。最初は気が進まない様子だったが、グローブズの詳細な報告が読み上げられると、首相は急に態度を変えた。七月二十二日にスティムソンは記している。
[チャーチルは]今や、ロシアに情報を与えることに気にかけていないばかりか、むしろ、交渉が自分たちが有利になるように利用しようとする気配すら見える。意見は…このテーマについてわれわれが作業を進めており、完成の暁にはそれを使用する意向があると、少なくともロシアに通告するのが賢明だということで一つにまとまっていた。チャーチルとトルーマンも、七月十八日に昼食をともにしながら、スターリンに何を告げるべきかについて話し合った。戦時内閣に宛てたメモでチャーチルはこう記している。
大統領は最近の実験についての電報を私に示し、ロシアへの通告に関して私の意見を求めた。通告するという腹は決めているらしく、タイミングについて私に尋ね、会談終了の時点が最善だと思うと言った。大統領がいつ、どのようにして決断したのか、正確のところはわかっていない。しかし、グローブズからの報告が届いてから三日後の七月二十四日、トルーマンはその日の全体会議の終わりにスターリンに歩みよっている。その後、簡潔にこう記している。
私は、どうしても話すつもりなら、実験のことは遅らせたほうがいいだろうと答えた。
P558実験については、彼もわれわれも知らされたばかりの新しい事実だったからだ。そうすれば、「なぜ事前に教えてくれなかったのか」という問いに対してもまともに答えられることになる。彼はそのことが気に入ったらしく、考えてみるという。
常識を超えた破壊力の新兵器を開発したと、普通にスターリンに話した。ロシア首相はこれといって関心を示さなかった。ただ、知らせてくれて感謝する、「日本に対して有効に活用する」ように期待しているとだけ述べた*****。このとき何が起きたのかについては、他にもいくつかの報告がある。たとえば、バーンズはそのときの出来事をこう振り返っている(これはトルーマンと話し合った結果、わかったことである)。
大統領と私は、われわれが強力な兵器を開発したとこ、それを近々日本に投下する意向であることをスターリンに通告する義務があるかどうかについて話し合った。チャーチルの報告は少し違っている。
ドイツの降伏から三ヵ月後、したがって八月中旬ごろに、ソ連が対日戦争に参戦することは了解していたが、日本が平和を打診していることもわかったし、ニューメキシコで原爆実験も成功したことから、それより前に日本は降伏するだろうと、大統領と私は期待していた。
しかし、それは確かというわけではないし、近くソ連もあの戦争で連合国に加わることになるかもしれないから、われわれの意図について大統領からスターリンに通告すべきだが、堅苦しくないようにやることで、昼食の時に意見が一致した。
P559彼はそれからイギリスにわれわれの計画を通告し、同意をえた。午後の会談が終了して席を立とうとするとき、大統領は通訳のボーレンを伴ってスターリンの席まで赴き、「お知らせしておいたほうがいいと思うが、われわれは新しく強力な兵器を開発し、数日のうちに日本に対して使用するつもりだ」という趣旨のことを言った。
私はこの内容が通訳されているときのスターリンの表情に目を凝らしていたが、驚いたことに、彼は穏やかな笑顔を見せると、二言三言口にした。大統領と車に乗りこむとき、元帥はただこう答えたと大統領は言った。「それはいい。日本に対して有効に活用されますよう」
私はたぶん五メートル近く離れたところから、大いなる関心を持って重大な会話を注視していた。大統領が何をしようとしているのか、私にはわかっていた。重要なことは、スターリンがどう受けとめるかを測ることだ。私はそのことをあたかも昨日のことのように覚えている。チャーチルはさらに言う。
彼は喜んでいるように見えた。新型爆弾だって!桁外れの威力!対日戦争に決定的な影響を及ぼすだろう。何という幸運だ!あの瞬間、私はそんな印象を受けた。そして、彼は自分が聞かされていることの重大さがまったくわかっていなかったと断言していい。
迎えの車を待っているとき、トルーマンが近くにいることに気づいた。「どうでした」と私は尋ねた。「何も聞き返してこなかった」と彼は答えた。大統領の通訳を務めていたチャールズ・ボーレンは詳細をこう付け加えている。
原爆実験の成功から三日後、補佐官ら、それにチャーチル(イギリスはこの計画に協力していた)と協議した後で、どうやら、まだ同盟者だったスターリンをかやの外に置いておくと、将来のあらゆる関係、なかでも最も重要な核兵器を何らかの形で国際管理する可能性が台なしになるのではないかと、トルーマンは感じていたようだ。
P560トルーマンはスターリンに通告するのが賢明だと判断した。 できるだけ堅苦しくなく普通にやりたいと説明しながら、議事が休憩になったときにトルーマンはスターリンのこところまで歩いていって平然と通告すると言った。
通常なら私もついていくところだが、このときはそうしないように命じられた。取り立てて重大なことが起きているという印象を与えたくなかったからだ。…
部屋の反対側から大統領がニュースを伝えるときのスターリンの表情に注目していた。スターリンの反応があまりにそっけなかったため、とっさに大統領の言いたいことがきちんと伝わっていないのではないかという疑問がわいた。
しかし、重要なことは知らせたくないと大統領が考えていたことも明白である。そして、不信感を一掃することがアメリカの主眼だったのなら、それはほぼ間違いなく失敗だった。
実際、ソ連はすぐに新たな展開を知ることになるなったから、むしろ疑念は大きくしただろう。
言うまでもなく、ソ連もかなり前から独自の「マンハッタン計画」にとりかかっており、かなりの段階まで進んでいた(クラウス・フクスをはじめとするスパイの提供する情報も寄与していた。
モロトフとゲオルギ・K・ジューコフ元帥の二人は後に、スターリンはトルーマンの話を完全に理解していたと報告している。しかし、デービッド・ホロウェーによるソ連公文書に関する最近の研究によると、スターリンがマンハッタン計画について知っていたのは疑いないが、「トルーマン発言の重大さについてどれほど理解していたかはそれほど明快ではない」という。そして、スターリンが原爆開発を急ぐように命じたのは広島に原爆が投下された後である。
P561トルーマンの作戦、そして、六月二十一日の暫定委員会による「信頼醸成」の勧告に従わないという決断の一つの可能な説明として、前出五月三十一日の暫定委員会の議事録、そして、「スターリンは仲間に入れろと言ってくるに決まっている」というバーンズの危惧に手がかりを求めることができる。
しかし、この説明では不十分のように見える。スティムソンが後に述べているように「もしスターリンが詳細な事実を要求したら、トルーマンは単にまだ提供できる段階にいたっていないと告げることになる」からである。
もっと意味のある、おそらくはずっと核心に近い説明を一九五二年にグローブズからバーンズに宛てた私信に見ることができる(「現時点で公にされるようなことがあっても何らの利益ももたらさないとおもわれるので」「極秘」と記されていた)。
想定されていた原爆の使用についてスターリンには告げるべきではないという私の非常に強い勧告をめぐって直接間接に意見を戦わせたことを覚えておいででしょうか。これとほぼ間違いなく関係しているのが、トルーマンが三大国の会談を早く切り上げようとしたことである。
その理由は、そのようなことが伝わればロシアの参戦はますます避けられなくなるし、そのことは誰もが回避したがっていたからで、この点ではまったく同じ考えだったと確信しています。
あちらから戻られた折、いったいどのようにしてスターリンに可能性のことがわかってしまったのだろうと語っておられましたね。…
バーンズは答えた。「おっしゃるとおりです。…情報の重要性を彼が心に留めないような形で伝えるようにできるかぎりのことをした******。
P562前述したように、七月二十四日、「大統領は会談を閉幕して立ち去りたいと率直に述べた」。一九六九年にトルーマン記念図書館のために実施された口述による歴史記録のなかで、トルーマンの海軍補佐官でポツダムでは作戦指令室に詰めていたジョージ・M・エルジーはこう振り返っている。
いかなる状況でも、[トルーマンは]自分がポツダムを去った後になるまで原爆投下を望んでいなかった。実際に最初の原爆が投下される前にロシア人の前から去り、帰途に着きたかったのだ。そして確かに、原爆が投下されたのは、われわれがポツダムを離れた二日後のことだった。ウォルター・ブラウンもバーンズに関する著書のなかで、私的な日記を引きながらこう報告している。「トルーマンは原爆投下の目標と日時が決まったことを知ると、作業を早め、帰国の準備に取りかかるようバーンズ長官に命じた」
それ以上ロシア人と交渉しなくてすむように、また、原爆の成功について情報がなぜ逐一提供されなかったのかをスターリンに説明しなくてすむように、オーガスタっ屁の乗船を急いだ。
バーンズの助言に従い、トルーマンはポツダム宣言が発表されたとき、スターリンに対して必ずしも率直ではなかった。そこからさらに、大統領は自らをぶざまで落ち着かない立場に追いこみ、スティムソンという「率直な関係」の可能性の芽を摘んでしまった。
スターリンに「新型兵器」について告げたとき、控えめに言っても、トルーマンはその性質について率直に打ち明けてはおらず、自分でもそのことはよくわかっていた。
実際の原爆投下はわずか数日先に追っていた。さまざまな策動がいかに誠実さに欠けるものだったか、その爆発とともに白日の下にさらされることになる。
*これが、七月二日にスティムソンが大統領にわたしたメモである。
**前述したように、スティムソンは、七月二日に日本人は道理に耳を傾けると信じていると助言し、同じメモのなかで条件を明確にした早朝の警告によって戦争を終わらせることができるだろうと自信をのぞかせていた。
ここにおいてソ連は必要ないと想定されているということは、原爆やソ連の参戦がなくても十中八九、戦争を終わらせることができるというスティムソンの自信がさらに深まったことを示している。
***[空白]は原文のママ。
****イギリスの原爆の暗号。
*****回顧録が準備されている段階のインタビューでトルーマンは述べている。「彼は私が何のことを話しているのかわかっていなかった。我が国はこの強力な爆弾についてニューメキシコで実験を続けており、それに成功したと、彼に告げたのだが。…彼は喜んでいるような表情を見せたが、私が何を話しているのかわかっていなかったと思う。もっとも、わかっていようがいまいが、気にはならない」(HST,"Discussion [with Hillman and Noyes],"February 18,1945,HST Quotes File,Box 9,Post-Presidential-Memorirs,HSTL.)
******同じく、一九五八年二月二十七日付のハーバート・ファイスによるインタビューのメモにはこうある。「バーンズによると、われわれは何をすべきかについてかなり集中的に考えた結果、彼は…
P564こう言う結論に達した。もしソ連が太平洋戦争に参戦したら、アメリカと中国にとって取り返しのつかないことになる。そのことから、スターリンが原爆の可能性について完全に認識していなければ、好ましいと言わないまでも、よしとしなくてはならないという考えにいたった。さもなければ、ソ連の参戦を早めようとするだろうからである」(Notes on Herbert Feis'meeting with Byrnes,2/27/58,Byrnes draft Manuscript File,Box 65,Feis Papers,LC.)
1.31 海軍の提案 P565-579
P564/ 566/ 568/ 570/ 572/ 574/ 576/ 578
1.32「黙殺」P580-
1.33 最後の瞬間へ P595-
1.34 終戦 P604-
下巻(参照)
2 神話
序論P8/ 10
第一部 ヘンリー・L・スティムソン P12-127
2.35 ソ連への直接アプローチP12/ 14/ 16/ 18/ 20/ 22/ 24/ 26
2.36 かすかなる批判の気配 P29-45
P28/ 30/ 32/ 34/ 36/ 38/ 40/ 42/ 44
2.37「単なる事実の詳説」 P46-62
P46/ 48/ 50/ 52/ 54/ 56/ 58/ 60/ 62
2.38「正確な記述」 P63-86
P62/ 64/ 66/ 68/ 70/ 72/ 74/ 76/ 78/ 80/ 82/ 84/
1.39「われわれは記録に従った」 P87-108
P86/ 88/ 90/ 92/ 94/ 96/ 98/ 100/ 102/ 104/ 106
2.40 単に簡潔さのための省略 P109-
P108/ 110/ 112/ 114/ 116/ 118/ 120/ 122/ 124/ 126/ 128
第二部 ハリー・S・トルーマン大統領
2.41 ミズーリから来た男 P130-P130/ 132/ 134/ 136/ 138/ 140/ 142/ 144/ 146/ 148
2.42 公式解釈の背景 P150-
2.43 長崎と『決断の年』P172-
2.44 ある種の書類 P189-
2.45 もっとも恐ろしい爆弾、もっとも恐ろしいもの P217-
第三部 ジェームズ・F・バーンズ
2.46 歴史から消え、歴史を修正した男 P232-P232/ 234/ 236/ 238/ 240/ 242/ 244/ 246/ 248/ 250/ 252
第四部 歴史を管理する
2.47 レスリー・R・グローブズ(参照) P256-2.48 検閲と秘密主義 規則と例外 P281-
2.49 最終的展望 P302-
結論 複雑な沈黙 P307-
P306/ 308/ 310/ 312/ 314/ 316/ 318/ 320P322
「歴史上いかに高潔な人にも、例外なく道徳的には疑わしいところがある」(ラインホルド・ニーバー、1946)この半世紀の間、私たちは核兵器の脅威をどのように考えて来たのか。この点をきちんと問いなおせるかどうかが、いま問われている。「抑止力」としての核兵器という考え方に慣れすぎて、私たちはこの便利な言葉の意味を問いなおそうともせずに使ってきたのではないか。
『軍拡競争に関するあるキリスト教徒の見解』と題する論考で、ジョージ・ケナンは道徳的・宗教的な問題を鋭く提起している。
自分たち以外の、名も知らず顔も知らない人たちに---その人たちの有罪無罪を裁ける立場に私たちがいるわけでもないのに---核兵器を使おうと思うこと、そしてそうすることによってすべての文明の基礎である自然の構造を破壊の危機にさらすこと、あたかも今の自分たちの安全と利益なるものが文明の蓄積および未来に予想されるすべての物事よりも大事であるかのようにふるまうこと。それはあまりに横暴な、度はずれた、神を冒涜する恥知らずな行為だ!【アメリカニズムを如何にせん】2015年12月31日放送(相互参照)
前半 36:50~イラクの国家建設はGHQ方式で…(tw) 後半 36:00~伊藤貫氏、ケナンと二ーバーに言及(tw)
(略)
P324/ 326
あとがき P328-
P328/ 330/ 332/ 334/ 336/ 338/ 340/ 342/ 344/ 346/ 348/ 350/ 352/ 354/ 356/ 358/ 360/ 362/ 364/ 366/ 368
出典一覧 P369-
(関連)
なぜマーシャル将軍は5月に提案された太平洋戦争終結のための最後通告を「時期尚早」といったのか?見方が違う二つの著書より(参照)