2018年5月31日木曜日

偏愛メモ 『鮎川義介と経済的国際主義』

■P115

1931年に米中合弁の航空会社が設立されて以来、(中略)

蒋介石政権が1933年秋以降イタリア空軍顧問団に依存し始めると、(中略)

米国のもと航空隊パイロットたちが中国空軍の発展に貢献するようになるのは、蒋介石政権が、1936年締結の日独伊防共協定が背景要因となってドイツやイタリアの軍事顧問※との関係を解消し始める前年に当たる1937年以降のことである。

※1937年日中戦争勃発後もドイツ顧問団は中国軍を支援している。(『日中戦争はドイツが仕組んだ』資料参照(url))

■ディロンリード投資銀行とオライアン訪日団 P204-P221

P219 鮎川や三保たちの努力は、加藤公使が東京に到着した15日、米内内閣(1940.01.16-07.22)の崩壊によって水泡に帰してしまった。陸軍が米内内閣から陸軍大臣を引き揚げ後継人事を行わなかったためであった。

後継首班は、鮎川もよく知っていた近衛文麿であった。日本の国内政治がドイツの欧州における軍事作戦の成功により枢軸国支持へ傾いていくなか、鮎川は右翼団体に狙われるようになり、すばやく動けなかったことを残念に思った。

鮎川は、ローズヴェルトに満州国を承認させ、五億ドルから10億ドルの支援を得ながら日中戦争の解決を米国の仲介で実現し、日本主導の中国における秩序を確立していく絶好の機会を失ったことを悔やんだ。鮎川構想により日米協力のもとで確立せんとする東アジア、ひいては世界平和の構想は幕を閉じた。

   (中略)

p221 日本が9月27日、日独伊三国同盟に署名したことで、鮎川が期待していた米国の満州国承認と日米関係改善は不可能な情勢となった。

■P268

しかし、木戸内大臣の11月29日の日記が記しているように、天皇周辺の英米穏健派の声は、戦争を唱える声をもはや抑えられるような情勢ではなかった。彼らにとって1936年の2.26事件の記憶はいまだ鮮明なものであった。昭和天皇が終戦の翌年春に回想しているように、もしも開戦に反対すれば、反対派は血生臭いクーデターで殺され、より過激な政権が誕生していたであろうと語っていた。

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