第1章 経済的国際主義 一九三七年以前の鮎川とアメリカの産業への関心 P10-29
はじめに
P10 鮎川義介は、一八八〇年一一月六日、長州藩士鮎川弥八の長男として現在の山口市に生まれた。彼の母親仲子は、明治の元老井上馨の姪であった(tw)。姉スミは、後に三菱合資総理事となった木村久寿弥太の妻である。
弥八の残りの五人の娘たち(義介の妹たち)も財界人や経営者として活躍した人々と結婚していた。弥八の二女キヨは、関西の財閥藤田組の創業者藤田伝三郎の甥であった久原房之助と結婚していた(一九四一年離婚)。(略、妹たちの嫁ぎ先が記される)
また、弥八の二男(義介の弟)政輔は、藤田伝三郎の息子小太郎の養子であった。最後に、義介の妻の美代は、高島屋の創業一族飯田家の飯田藤二郎(高島屋会長)の娘であった(相互参照)。(略)
参考→藤田組・日産・日立コンツェルンの沿革図『日本近現代史入門』P298(url)
1.1 日産コンツェルンの形成と外国資本 P11-14
鮎川は、外国資本と提携しながら満州の経済開発を推進する考えを、自身の国際経済活動を通じてもつようになっていた。このような、欧米資本と満州の経済活動を共同で行う考えは、日露戦争直後に日本が満州における経済権益を取得したときから存在していた。
日露戦争終結時、鮎川の親戚で明治の元老であった井上馨は、このような考えの持ち主であった。当時の桂太郎首相は、日露戦争の結果満州で日本が取得した南満州鉄道の経営を日米共同で行おうとする米国の鉄道王E・H・ハリマンの提案に応じたのであり、井上も桂首相の判断を支持したのであった。
(略、小村寿太郎の反対で桂・ハリマン仮合意はご破算)
鮎川は、一九〇七年二月、一年の米国研修を終えて帰国、八幡製鉄所の近くに戸畑鋳物株式会社を設立した。鮎川は、当時の米国で鋳物に関する当時世界最先端の技法を二つの会社で学んだ。(略)
P12 一九一八年、中国での日米中の三カ国の資本による鉄鋼生産の合弁会社の立ち上げを、鮎川の義弟であった久原房之助が進めようとした。久原は、第一次世界大戦で巨万の富を手中に収めた久原財閥という、久原鉱業や日立製作所などを傘下に収めたコンツェルンの総帥であった。
(略、久原と鮎川の事業失敗による関係悪化などが記される)
しかし、その一〇年後の一九二八年三月、鮎川は自身が経営する戸畑鋳物株式会社と、久原が総帥であった久原財閥を合併させることになる。この合併に伴い日産財閥が誕生するのである。この経緯について、以下確認しておこう。大正天皇が崩御したのは、一九二六年一二月二五日、クリスマスの日であった。この日の夜、政友会田中儀一は鮎川を訪問し、久原鉱業が次期株主総会で支払いに必要な配当金の確保を嘆願してきたのであった。
田中は久原鉱業の経営難打開のため、三井財閥の大番頭団琢磨、三井銀行の池田成彬、第一銀行頭取佐々木勇之助に緊急金融支援を懇願したが、いずれからも断られた。田中義一は、長年久原から多額の政治資金を受け取っていた。田中は、鮎川に、久原鉱業倒産の場合、自身が首相になる可能性は断たれ、政友会の将来そのものが危ぶまれると説いたのであった。政友会の結成と発展には、伊藤博文が中心的役割を果たしていたが、伊藤の盟友であった井上馨も重要な役割を果たしていた。
(略、鮎川の閨閥を通じて久原鉱業支援を進めた)
久原は田中義一のもとで政治的野心を現わそうとする野心があり、特に田中内閣発足時に外相になることを希望していた。鮎川はこうした久原の政治的野心を支えており、例えば久原の、朝鮮半島、満州、シベリアを領域とする中立的緩衝国家を建設する構想に賛同していた。(略)
久原が一九三七年に政友会総裁に就任すると、鮎川と彼の親戚たちは、「借金王」久原が個人破綻しないよう、資金的救済措置を一九三八年に実行していた。こうした支援で久原は経済的・政治的生命を保ち、一九四〇年政党を清算し大政翼賛会発足を実現させることに成功した。
(略、持ち株会社日本産業は厳しい経済環境(昭和恐慌、世界大恐慌)にいた)
P14 一九三一年九月、満州における関東軍の謀略で始まった満州事変を経て、日本経済が他の先進国に比べいち早く恐慌から脱出した後、事態が好転した。日産財閥の飛躍の出発点は、犬養内閣が浜口内閣以来の政策であった金本位制復帰を覆して、日本を金本位制から離脱させたときであった。金本位制離脱の前日、鮎川は犬養内閣の蔵相高橋是清を訪ね、金の価格は、金の生産量と正比例の関係にあるとする持論を展開する報告書を提示した。すると、高橋はその場で部下をよび、鮎川の政策提言を実施するよう指示したのであった。
日本が金本位制を離脱した後、金の価格は上昇し、当時日本帝国内で金の生産量が一位であった鮎川率いる日本鉱業(久原鉱業の後身)は、自社株の半分を市場に売却し、巨万の富を入れた。満州事変後の日本の株式市場は活況を呈していたが、そのようななか、日産の株は、日本鉱業株と同様に人気が出て、株価は上昇した。日産財閥は日産グループの株価にプレミアムがつく形で市場へ売り、その利益で、鮎川が久原財閥を引き受けた直後に日本を襲い始めた経済恐慌で経営破綻に直面した企業を次々と買収していったのであった。
こうして日産財閥は、短期間でその規模が三井財閥と三菱財閥という日本の二大財閥に匹敵する規模を誇るようになった。しかも、これら旧財閥と比べて、重化学工業関係の基盤が強かった。このなかで特に飛躍したのが、日産自動車であった。同社は好況とそれを反映した株式市場に支えられて、大規模な投資を行うことができ、創業三年で黒字化したのであった。このような日産財閥の産業面での特徴に目をつけたのが、当時満州における工業化を日本経済界と連携しながら行うよう見直しを検討していた日本の軍部であった。
1.2 GM・フォードとの提携交渉 P15-29
P15(略)鮎川は、戸畑鋳物時代、日本の軍部から補助金を受けて自動車を製造していた日本企業三社に部品を納入していた。また、それからまもなく米国の大手自動車会社二社のゼネラル・モーターズ株式会社(GM)とフォードにも部品を納入し始めていた。この二社は、一九二五年に日本市場に進出していた。
(略)一九三六年、保護主義的な産業振興政策の一環として、商工省が自動車製造事業法を制定するまで、日本の自動車市場は、ほとんど米国自動車会社、なかでもフォードとGMに支配されていた。(略)
P16 鮎川は、自動車産業へ参入するにあたり、米国の技術、設備そして人材に依存していた。なかでも、ウィリアム・ゴーラムというキリスト教科学主義者で発明家の人物と鮎川の関係は、重要であった。(略)一九二〇年代後半、鮎川とゴーラムは、安価な小型車の開発を始めた。一九三三年冬、鮎川は、ゴーラムを渡米させ、自動車開発に必要な機械類の購入と優秀な技術者の採用を行わせた。(略)ゴーラムは、大恐慌の最悪期の最中であった米国で、ハリー・マーシャルというフォード社の技術者、高い溶接技術を専門としていたジョージ・マザーウェルといった自動車関係の優秀な技術者の採用に成功した。
→続きはこちら(参照)
第2章 満洲重工業の設立と満洲への米国資本導入構想 P30-51
第3章 鮎川と米国フォード社との提携交渉(一九三七~四〇年) P52-69
第4章 鮎川の日本自動車産業界統合の挫折 P70-75
第5章 フーヴァーと米国の東アジア政策 P76-120
5.5 フーヴァーの東アジア政策P114
おわりに--満州事変以降の日米関係
フーヴァー政権は、満州事変で不承認宣言を行ったが、中国の国防政策に秘かに加担していた側面があった。満州事変から蒋介石政権は、中国空軍の創設のため、米国政府に空軍パイロット養成学校創立のため米軍航空隊操縦士の教官の派遣を要請したのであったが、
P115陸軍省と国務省は、日中間の紛争に巻き込まれることを恐れて中国政府の要請を却下した。ところが、フーヴァー政権内では、おそらく大統領の了承をえて商務省がジョン・ハミルトン・ジョウェット大佐を筆頭とする十三人の米軍航空隊予備兵を派遣した。
このことを政権内の他省は知らず、国務省が彼らの中国行きを知ったのは、彼らが中国政府との契約を済ませて国務省にパスポートの申請を提出してからであった。
国務省極東部長ホーンベックをはじめとする国務省関係者はジョウェットたちの中国行きに反対であったが、すでに後の祭りで、パスポートの作成に応じざるを得なかった。
この問題もさることながら、1931年に米中合弁の航空会社が設立が設立されて以来、商務省が軍事目的、民生目的の航空機とそれに関係する機械類の対中国輸出を支援していたことに、ホーンベックなど国務省関係者は苛立っていたのであった。
ジョウェットを筆頭とする米軍操縦士(全員予備兵)たちは、中国空軍とその養成学校の中核をつくることに大きく貢献したが、彼らは、蒋介石政権が1933年秋以降イタリア空軍顧問団に依存し始めると、急速に影の薄い存在となり、一九三五年までに蒋介石政権との関係は解消されてしまった。
米国の元航空隊パイロットたちが中国空軍の発展に貢献するようになるのは、蒋介石政権が、1936年締結の日独伊防共協定が背景要因となってドイツやイタリアの軍事顧問※との関係を解消し始める前年に当たる1937年以降のことである。
一九三七年、蒋介石は、元米軍操縦士を中国空軍の教官として雇用し始めたが、この米国人たちは、米国軍航空隊内の爆撃機と戦闘機の編成をめぐる議論に破れて一九三六年に退役したクレア・シェンノルト少佐を招聘し、シェンノルトは蒋介石の空軍顧問に就任した(『血戦長空』02話相互参照)。
中国空軍の大佐となったシェンノルトが、ローズヴェルト政権の支援を得ながら元米空軍パイロットが操縦するP四〇戦闘機の傭兵チーム(米国志願グループ)の編成に着手するのは武器貸与法が連邦議会で一九四一年三月に可決された後であり、同年四月に発動された大統領令により、米軍パイロットを中国へ傭兵として派遣することが可能となってからである。
ただ、同チームが実際に訓練を開始したのは同年一一月で、実戦を始めたのは、日米開戦後であった(中国陸軍の近代化のためドイツから軍事顧問団が来たのは一九三三年以降である)。
※1937年日中戦争勃発後もドイツ顧問団は中国軍を支援している。(『日中戦争はドイツが仕組んだ』資料参照(url))
P116満州事変以降の米国の対応は、それ以前と同様、日本と満州をめぐって戦争することはまったく想定しておらず、基本的には日本の西太平洋・東アジアにおける影響圏を結果的に黙認していた。
国務省内でこの対日安全保障構想を忠実に反映させていたのはキャッスル国務次官であった。もちろん、フーヴァー大統領とスティムソン国務長官は、対日不承認宣言を行い、日本の満州と中国における軍事的行動と支配に反対する対応を、国際連盟を利用しながら行ったのであったが、
対日経済制裁、ましてや対日武力行使の意思はなく、全体として中国情勢に対しては、中国における米国市民と米国財産の保護を除いて、日中間の紛争への介入などを行わない不関与政策を維持した。
米国政府の対東アジア政策の変調は、一九三七年七月以降に見られるようになった。日中全面戦争に突入すると、米国は、西太平洋と東アジアにおける日本の影響圏を認めず、中国を支援する政策に転換していった。
フーヴァーに圧勝して政権を発足させたフランクリン・ローズヴェルトは、国内経済の立て直しを最優先課題としていたために、当初対東アジア政策については、中国問題についての不関与政策を維持し、その結果、前政権と同様、一九三七年までは結果的には東アジアと西太平洋における日本の影響圏を黙認していた。
ただし、ローズヴェルト政権は大統領の側近で財務長官のモーゲンソーが政権発足まもない時期から、米国余剰農産物対策もあって麦と綿を中国が買い付けるための借款供与を開始した。
また、財務省と中国は、一九三五年末以降は、中国銀とドルの交換協定を結んで、米国の銀買占め政策(一九三四年)で疲弊した中国の外貨準備高の改善を支援した。
米国は、日本を牽制する意図もあって一九三四年ソ連の国家承認を行った。日英米が中心となって一九二一年以来推進されてきた海軍軍縮条約が一九三六年以降無条約時代に突入するようになると、
米国政府は、一九三七年ローズヴェルト政権の急激な財政均衡政策への転換がもたらした大不況対策を直接の理由に、一九三八年以降国内景気回復の方策のひとつとして建艦を本格的に推進し、同時に空軍の増強にも力を入れ始めたのであった。
そして、当面は西太平洋における日本の軍事的優位をくつがえせないことを承知で、グァム島などの要塞の強化に着手したのであった。
P117ローズヴェルト政権内では、対中シフトを推進するモーゲンソー財務長官・国務省極東部顧問ホーンベックと、極東政策における「中立」を主張するハル国務長官と駐日大使グルーとの綱引きとなった。
後者の政策が可能であったのは、米国世論が極東情勢については圧倒的に日本ではなく中国に同情的であったものの、その同じ世論が、極東情勢への米国関与については圧倒的に反対だったからである。
ホーンベックは水面下で、九ヵ国条約違反国であった日本に対する道義的な禁輸を訴えるよう民間団体「日本の侵略行為への不参加委員会」(Committee for Non-Participation in Japanese Aggression)と、米国連邦上院議員キー・ピットマン(中国銀買占めをもたらした法律の制定に貢献したネヴァダ州選出の上院議員)に働きかけた。
こうした動きは、日米通商航海条約の廃止を呼び掛ける運動へと展開し、ピットマンは、一九三九年七月にこれを実現したのであった。また、米国政府は、日本への米国製の航空機やその部品が輸出されないよう、該当品目を一九三八年後半までに輸出許可制の対象にすることで、こうした製品を日本が買いつけられないようにした。
モーゲンソー財務長官は、一九三八年一二月に米国政府系金融機関(米国輸出入銀行)による対中融資を実現させた。モーゲンソーは、一九三九年に入ると中国へ米国空軍パイロットを中国空軍の傭兵として派遣し米国製中国機を操縦して日本軍を攻撃することを提唱したのである。
こうした対中シフトの流れは存在していたものの、大不況にあえぐ米国の極東における最大の貿易相手国は日本であった。第二次大戦の勃発にともなう中立法の解消と自国船使用、自前払い方式(cash and carry)導入による交戦国への対応は、この新方式の想定対象であった大西洋での制海権を握る英仏には、独伊と比べて有利であった。
この新方式にあたり、これの中国への波及効果は想定されていなかった。新方式は、中国沿岸部と西太平洋を支配し、世界有数の輸送船団を抱える日本に圧倒的に有利であった。日本にとっての懸念は、一九四〇年一月に日米通商航海条約が破棄されてからの展開が対日経済制裁に発展するかどうかであった。
一九四一年二六日のハル・ノートでは中国からの日本軍撤退は満州を含んでいなかったとする見解が有力視されているが、日米開戦前夜の米国は門戸開放の概念を再び厳格なものに再定義していたことを考えると、そのような見解には引き続き疑問がつきまとう。
P118特に、上記のごとく米国が満州の経済的実態をよく把握しており、また、独ソ戦を戦うソ連を支援していたことを考えると、ハル・ノートの作成過程で、国務省極東部が満州を除外した形での日本軍の中国からの撤退を考慮していたとしても、ハル・ノートには、満州問題にかんする言及はなく、また、満州を中国と区別する表現はまったくなかった。
須藤眞志が指摘するように、ハル・ノートを日本側に手渡す直前まで、国務省極東部は、中国からの日本のすべての軍隊と警察の撤退を求めるにあたり、満州を除くという挿入句を入れることを検討していた。なぜ、ハル・ノートが最終的に中国と満州を区別しなかったのかという点については、次の三点を考慮する必要があろう。
①米国が、厳格な門戸開放の定義に回帰していたこと、③にかんしては、満州事変後の満州全域を日本が軍事占領したことを、米国側は一九三二年一月に宣言した不承認政策以来当然認めてこなかった。しかし、ポーツマス講和会議で日本が取得した南満州の鉄道権益を守備するための軍事力まで排除するのは、米国がポーツマス講和条約とそれにもとづく枠組みを否定しない限り無理であった。
②ハル・ノートで提唱したような中国全土における列強の治外法権撤廃に応じるものの、満州において日本が進めた治外法権撤廃の動きは、これが米国の満州国承認と同義となることから反対していたこと、
③中国全土からの日本の軍事力の排除は進めるものの、日本の軍隊と警察の撤退のタイムスケジュールには言及していなかったこと、以上である。
米国はこのことを考えて中国からの日本軍の撤兵については強硬に映る表現をハル・ノートで示したものの、タイム・スケジュールには触れなかったのではなかろうか。米国自身がハリマンの経営構想を講和会議の時期に示すなど、日本の南満州における権益を決して積極的に支持はしていなかったとはいえ、全面的に否定することもできなかったことを考慮すれば、なお交渉の余地はあったのかもしれない。
須藤が指摘するように、日本側がハル・ノートについて、中国と満州を区別して議論しているのかどうかを照会しなかったのは問題である。これは本章が明らかにしたように、一九三〇年代後半の満州をめぐる日米関係で、日本側が満州は中国と区別されるという認識にもとづいて行動していたのに対して、米国側はそのような区別については曖昧な姿勢をとりながら、原則論としては、米国の厳格な門戸開放への回帰により、P119区別しなくなっていったという構図が大きく寄与した結果であった。
無論、須藤が指摘するように仮に米国側が中国と満州をある程度は区別しているとする回答を行ったとしても、日米戦争を回避できたかどうかは疑問視せざるを得ない。というのも別章で考察するように、米国の対日石油禁輸措置について、日米間で妥協が成立しえたのかを考えれば、それがほとんど無理であったと思われるからである。
本章で考察したように、鮎川が満鉄総裁になった時点では、米国が鮎川構想に同調していく可能性は比較的存在していたと言えよう。国務省の一般融資政策と米国資本の対満投資の問題はあったものの、鮎川は、第一章で紹介したゲアリーとの中国における日米合弁の鉄鋼会社構想を有益なものとして記憶していた。
最期にこの構想について、本章と関係する限りで、触れておきたい。米国政府が一般融資政策を策定した時期と重なるが、ゲアリーと米国の財界人たちは、一九二一年、満鉄傘下の鞍山製鉄所所長井上匡四郎と満州で日米合弁の鉄鋼会社を創設する交渉を行った。
井上は、原敬首相、田中義一陸相、野村龍太郎満鉄総裁、そして井上準之助日銀総裁の支持を得ていた。ゲアリーは井上匡四郎に、交渉を行うにあたり、久原の同意を得ることを要請した。
この交渉で、日米合弁鉄鋼会社の出資比率を日本側が五一パーセント、米国側が四九パーセントでまとめることについて、陸軍内で十分な支持を得ることに田中は成功したが、六月に健康問題を理由に陸相を辞任した。その前月には、野村が満鉄内のスキャンダルのため、総裁を辞任していた。
そして一一月、原が暗殺されると、この日米合弁交渉は立ち消えとなった。それでも、一九二二年一月、満鉄は、ゲアリー率いるU・S・スチール社と主要取引銀行であったモルガン投資銀行、新興の投資銀行ディロン・リードから五千万ドルの融資を受けることに成功しつつあったが、日本の大蔵省の反対でこの商談も成立しなかった。
この年の夏以降、本章で考察した国務省とフーヴァー率いる商務省による一般融資政策が始まったが、フーヴァーは、一九二〇年代半ばまでにはモルガン投資銀行のラモントと同様中国における日米共同の経済開発論者に転じた。
また、商務省は、特に一九二七年三月の南京での国民党政権と米英の軍事衝突以降、日本の満州における経済的主導権を黙認していた。それでも、本章で考察したように、モルガン投資銀行が一九二七年に満鉄に行おうとした資金調達の斡旋は失敗に終わった。
P120翌年、山東半島で日中両軍が衝突するなか、英国政府は、英国の金融機関が満鉄に行おうとした六百万ポンドの資金調達の斡旋を、中国政府の反対が背景となって止めさせていた。
満鉄がこの二年間英米で行った資金調達の試みは、山本条太郎が満鉄総裁の時期(在任は一九二七年七月から一九二九年七月)に推進された。山本は、満鉄の民営化と英米そして中国からの投資を満州へ呼び込もうとする見解の持ち主であった。
山本のこの見解は、田中内閣の後継となった浜口幸雄首相、井上準之助蔵相、そして仙谷貢満鉄総裁に引き継がれていった。鮎川の構想は、こうした満州事変前の満州における米英(主に米国)との協調による経済開発の模索を復活させようとする側面をもつものであったことを見逃すことはできない。次章では、満州における米国政府の出先機関が鮎川構想をどのように捉えていたのかについて考察を行う。
第6章 米国総領事館の満洲動向分析 P121-147
第7章 見果てぬ夢 P148-191
7.1 満業創設期の米国資本導入への模索 P149-154P149 米国経済が大恐慌以前の水準に戻ったのは、一九四一年の夏であった。それもP150ニューディールの国内経済政策が主導して回復を導いたのではなく、一九三九年九月の第二次世界大戦の勃発に伴い、この戦争に対して当初中立を宣言していた米国の輸出が伸びていったことが緩慢な回復をもたらしたのであった。
米国の企業が満業や満州と取引を行うことに関心を持たなくなっていった理由には、欧州へのこのような輸出が伸びていったという側面も存在している。しかしそれ以上に重要な原因は、米国務省の鮎川構想への横槍と、米国政府による日米通商航海条約破棄および対日経済制裁の実施であった。(略)
7.4 クーン・ローブ投資銀行とユダヤ人難民対満州移住計画(tw) P163-170
P163 鮎川の対満米国資本導入構想には、クーン・ローブ投資銀行との接点を通じてそれを実現する試みが存在していた。満州重工業設立時と時期的に重なる一九三七年一二月か一九三八年一月、ニューヨーク市のクーン・ローブ投資銀行の本社を一人のロシア系ユダヤ人、マックスウェル・クライマンが訪問した。クライマンは、日系アメリカ人ケイ・スガワラと貨物輸送船事業を興し、中東から日本へ石油を輸送する会社として世界的にも大手の海運会社となったフェアフィールド・マックスウェルを興したことで戦後の日米経済関係に足跡を残している。(略)
クライマンが日本の財界人の人脈開拓を行い始めたのは一九三三年であった。彼は、日本郵船から依頼を受けたコンサルティング関係の仕事において、同社の実力派の社長で三菱財閥の岩崎家と姻戚関係にあった各務謙吉の信頼を得ることとなった。彼はクーン・ローブ投資銀行の共同経営者ルイス・ストロースと会談後、訪日した。在京中、彼は後に大蔵大臣となる石渡荘太郎と会談し、石渡はクライマンを鮎川に紹介したのであった。クライマンは、次のように鮎川に提案した。
P164 すなわち、もしも満州国がドイツからのユダヤ人難民に門戸を開いてくれるのであれば、クライマンは、クーン・ローブ投資銀行やその他のユダヤ系金融機関から満州重工業向けの融資を斡旋しよう、と。クライマンの提案に鮎川は俄然関心を示した。これは経済的メリットがあるのみならず、ユダヤ系米国人が米国政府の対日外交政策と満州国の取り扱いにおいて、日本の立場に好意的な影響力を行使する政治的メリットが生まれる可能性もあったからである。(略)
当時日本の当局は、欧州出身のユダヤ人難民の多くが米国に親戚を持ち、彼らの支援のもと米国へ入国できる許可を米国政府より得ようとしていたことを把握していた。また、上海在住のユダヤ系難民に対しては、米国内のユダヤ系団体から経済的支援が行われていたことも理解していた。こうしたユダヤ系難民を日本政府が支援することで、日本の工業化と対中戦争遂行に必要な経済的支援を、ユダヤ系アメリカ人がもたらしてくれるかもしれないという期待が日本側に存在していた。(略)
一九三八年一〇月頃になると、上海では、陸海軍、満鉄、在上海日本総領事館が、在上海ユダヤ系英国金融財閥であったサッスーンのようなユダヤ系資本を、日本の工業化に活用するための共同研究を行っていた。
(略)鮎川は、支援を求めていたユダヤ系難民の多くが満州国の工業化に役立つ知識や技術を持っていると判断していた。(略)鮎川はユダヤ系難民について対応するにあたり、日独関係が良好であったことに留意P165しなければならないのみならず、直近にドイツが満州国に国家承認を与えていたことから、その観点からもユダヤ人難民を満州へ流入させることについて慎重に対応せざるをえないたちばにあった。
とはいえ、鮎川が模索したユダヤ系難民を満州に受け入れる政策は、日本の指導者層に理解者たちが多かったと言えよう。関東軍の一九三三年以来のユダヤ系難民や在満ユダヤ人に対する姿勢は、比較的好意的であった。満業設立後、関東軍は、満鉄調査部に対してユダヤ系難民を受け入れて彼らの経済的能力を満州国の工業化に利用する場合の経済的効果について調査を行わせたのであった。(略)一九三八年一二月六日の五相会議で公式政策に位置づけるようになった。
この会議で近衛文麿首相、有田八郎外相、池田成彬蔵相、板垣征四郎陸相、米内光政海相は、ユダヤ系の人を歓迎することは、日本と伊独との外交関係を考えると難しいところがあるものの、日本は公式見解として人種平等を唱えており、そのため、これを否定するような行為は日本の精神に反するとしたのであった。なによりも、日本は外資が必要で、ユダヤ系の人々が多く住む米国との関係で溝を深める行為を避けるべきである。それゆえ、日中満に住むユダヤ人の扱いは他の外国人と同様に平等に扱うべきであると結輪づけたのであった。(略)
一九三八年一二月の時点で、ユダヤ人難民の上海への流入は千人にも達していなかった。ユダヤ系難民のこれ以降の流入増加は、この地域に住むユダヤ人がオーストリアやドイツなどに住むユダヤ人に提供した情報と前述の五相会議が決定的に貢献したのであった。一九三九年の前半は、多くのユダヤ系難民が上海に入り、一九四一年になるとそれより少ない難民が日本経由で上海入りしたのであった。結局、第二次世界大戦中の上海在住のユダヤ系難民の数は、豪州、ニュージーランド、カナダ、南アフリカとインドが受け入れたユダヤ系難民P166の総数を上回っていた。日本はユダヤ人を排斥しなかった。日本が行ったユダヤ人政策は、人道的な観点からというよりは、国益の追及にもとづくものであった。(略)
クライマンは、一九三八年三月、鮎川からと思われる商談を持ちかけられたのであった。「東京の友人たち」は、日本の経済政策に必要な外貨資金三千万ドルか四千万ドルを、短期か長期の期間で得たい。クライマンは、満州国不承認の維持のため目を光らせている国務省が、このような商談に横槍を入れる可能性があることを知っていた。しかしながら、このような不承認政策を米国がソ連に対して行っていた時期、米国資本は、ソ連経済が必要とする機械類や設備の購入のためドル資金を供与していたことをよく覚えていた。
さらに、ソ連が対外債務の支払いを遅滞なく行っていない過去があるのに対して、日本の対外債務支払いは、完璧に行われていた。こうした違いがあったにもかかわらず、米国は、一九三三年ソ連に国家承認を与えたのであった。こうしたことを考えると、鮎川もクライマンも満州国に米国資本を導入できる機会はあると思っていた。(略)
フーヴァーがクーン・ローブ投資銀行に推薦したストロースは、数年のうちに同投資銀行で頭角を現した。そして、一九二六年、ストロースは、日本、満州、中国を視察すべく、クーン・ローブ投資銀行から派遣された。帰国後、同年の一二月にストロースはが作成した内部レポートで、南満州鉄道沿線の満鉄、三菱、大倉などによる工業化は大変大きな経済的発展をもたらし、こうした区域とそれ以外の区域における生活水準には大きな違いが見られると考察していた。その上で、こうした実績は、中国が「日本の支配下にあることの証左である」と結んでいたのであった。この旅行中、ストロースは、鮎川の義弟久原房之助と会談していた。
ストロースは、一九三八年九月に長年の友人であった井川忠雄から届いた書簡への返信で、米国内の対日世論の硬化を述べていた。井川は近衛文麿首相と第一高等学校時代の同級生で、一九二〇年代駐ニューヨーク財務官を務めていた時期にストロースとの親交を深めていた。井川の妻はアメリカ人であった。井川はこの書簡で、日本軍が中国の漢口を陥落させたことで、中国は日本の指導のもとで東亜新秩序の一員となり、米国型モデルにもとづいて生まれ変わっていくであろうと論じていた。
こうした見解により井川は、ストロースに訪日して商談を行うよう要請したのであった。しかし、ストロースは井川に、以前から日本からの来客たちにたびたび述べていることであると前置きした上で、中華民国は、対米世論工作に成功しているのに対し、日本はそれに失敗している、と指摘したのであった。ストロースは井川に、日中間で平和を確保できない限り商談を行えないと伝えたのである。当時のユダヤ系米国人は、
P168米国政治に影響力のあるユダヤ系米国人の市民団体「ユダヤ系米国人議会」の会長であったユダヤ教聖職者スティーブン・S・ワイズが唱えていた見解を公式見解としてそれに従っていたのであった。すなわち、日本に対してユダヤ系米国人は支援を行わない、というものである。ローズヴェルト政権内の対日最強硬派で対中支援を唱えるヘンリー・モーゲンソー財務長官はユダヤ人であったが、財務長官とワイズの見解は対日関係では一致していたと言えよう。
ストロースが井川に助言をした時期は米国政府が日本の東亜新秩序宣言を否定する時期と重なっていた。一九三八年一〇月六日、グルー大使は、中国における日本の当局の行動と日本の対中政策は、米国が唱える中国における門戸開放の原則に違反していると近衛首相に抗議した。日本が中国で行っていた外国為替管理、関税政策、独占的経済活動、日経企業に対する商業上の優遇政策、米国船籍、米国人に対する中国内での移動の自由への制限、電話や郵便物への検閲行為は、米国の貿易と企業に対する機会均等の原則を侵害していると近衛の門戸開放への違反の内容を具体的に説明したのであった。
そして、一九三八年一二月三〇日、米国政府は、近衛内閣が行った東亜新秩序宣言に対してそれを明確に否定する声明文を発表した。(略)ストロースが鮎川たちと水面下での接触を行う判断をしたのは、ユダヤ人の難民問題が理由であった。一九三八年春、首都ワシントンの大統領官邸では、ユダヤ人難民問題が政府高官たちにより話し合われたが、当時米国は未曽有の経済恐慌に再突入していたため、効果的な具体的対抗策に話が至らなかった。
しかしながら、その後も政府高官に強い人脈を持つバーナード・バルークやルイス・ストロースといったユダヤ系アメリカ人の指導者たちは、欧州にユダヤ人難民の受け入れ先を探し求めていた。彼らは満州も含めた中国も候補地として検討していた。(略)P169ストロースは、クライマンに、日本政府がドイツと同様ユダヤ人を迫害する方針であるか質問していた。クライマンは、『ニューヨーク・タイムズ』紙が二月二七日に報じた有田八郎外相の貴族院における演説を紹介し、同紙がこの演説で有田外相が、ユダヤ人を含めた外国人について日本は差別を行わないと宣言していたことを指摘したのであった。
クライマンは、ユダヤ系米国人が満州国の経済開発を支援することを見返りに日満が欧州からユダヤ系難民を支援するという構想について、ユダヤ系米国人の指導者たちがどの程度乗り気であるかまだ見極めているところであると、鮎川に報告したのであった。その後、クーン・ローブ投資銀行から経済的支援を得る構想は、立ち消えとなった。(略)同年九月、第二次世界大戦が勃発したことで、満業とクライマンとの接触は失われた。これは、P170ストロースがクライマンに対する懐疑の念を強めていったこととも密接に関係していた。
7.6 朝鮮半島雲山金山と米国経済権益 P172-177
P172 モーデルハンメルは米国滞在中、日本鉱業への米国のオリエンタル・コンソリデーティッド鉱業株式会社(東洋合同鉱業)からの朝鮮半島の雲山金山の権益の譲渡にかんする交渉を行っていた。譲渡は、第二次世界大戦が勃発した一九三九年九月上旬に日本鉱業のオリエンタル・コンソリデーティッド鉱業社買収という形で実現した。
日本帝国の領土およびその支配地域で産出された金は、鮎川の満業にとってはもちろんのこと、帝国が必要としていた輸入品を支払う重要な財産であった。鮎川の日本鉱業は、満州事変から日米開戦までの一〇年間、日本帝国内の金の約三割を産出していた。日本鉱業は、朝鮮半島第二位の金山を所有し、満業傘下でもっとも収益を上げていた企業のひとつで、満業の創立と経営において中核的な存在であった。(略)
第8章 アメリカによる満州国の事実上の承認の模索 P192-P220
8.2 ジョセフ・グルーとユージン・ドゥーマン P196-P197
P196 1939年7月から9月の時期、まだノモンハン事件が収束しないなか、日本国内では7月に内大臣湯浅倉平の暗殺未遂事件が事前に発覚した。8月上旬、陸軍は、クーデターを起こし戒厳令を敷くのではないかという噂が流れていた。こうして国内が不穏な情勢となるなか、8月23日独ソ不可侵条約が署名された。日本は政府内で枢軸国側につくか否かを論争していたが、この条約の成立にともない、ドイツと連携して反共産主義を推進することを目指した平沼首相は、「欧州の天地は複雑怪奇」と声明文を出して辞職した。後継内閣は阿部信行海軍大将を首班とする内閣であった。一方、日本国内の日独伊三国同盟推進派は、リッベントロップ外相が提唱する日独伊ソの連携に共感するようになっていた。
独ソ不可侵条約締結後の日本外交は、英米との関係改善に乗り出すことになった。鮎川もこの流れを利用し、また、そのような関係改善に貢献しようと試みたのであった。11月27日、駐日米国大使グルーは、ハル国務長官に、グルーの側近であったユージン・ドゥーマン参事官と鮎川が行った四時間におよぶ会談を報告した。ドゥーマンは、鮎川が提唱する満州や中国における日米連携による経済開発構想は、日本の経済的利益を満たすのみで、中国の経済的利益をほとんど、あるいはまったく満たすものではないと論じた。ドゥーマンは、鮎川のこのような構想が米国で成功することはまずないと論じたのに対して、鮎川は、少なくとも害にならないのであれば、訪米するつもりであると述べたのであった。この時期の鮎川の対満米国資本導入構想について、日米それぞれの政府内では、否定的な見解に圧倒されていたと言えよう。
日米通商航海条約の破棄(19390726通告400126失効)に成功したホーンベック国務省顧問は、鮎川を「ミスターX」と略称している覚書のなかで、「ニューヨーク市におけるさまざまな経済的利益グループやその他の金融(や産業)」は、P197鮎川が行おうとしていた「満州国における重工業が特に必要としている、米国物資の「大規模商談」とドル資金供与の確保に好意的である」と警鐘を鳴らしていた。
P197 日本では鮎川の友人で外交官大橋忠一(8月まで満州国参議で、そのあと1940年4月に外務省嘱託という形で蘭印出張、同年8月から松岡外相のもとで外務次官)は、鮎川の秘書であった友田寿一朗に、鮎川の対満米国資本導入構想は国内の日独伊三国同盟推進派の間で大変評判が悪く、気をつける必要があると忠告したのであった。(中略)鮎川のこうした主張に対して、グルーは、前述の仲介者を通じて、現在の状況では、鮎川の構想を実現できる情勢ではないと語った。
8.3 鮎川の訪欧---来栖三郎と鮎川の構想 P197-204
日米経済関係の支柱であった日米通商航海条約が1940年1月に破棄されようとするなか、鮎川は、ドイツから必要な物資を獲得することにも関心を示した。1939年秋駐満州国公使ワグナーは、シベリア鉄道を利用しながら、P198 満州の大豆とドイツの物資をバーター取引する申し入れを鮎川にしてきたのであった。(中略)鮎川の訪欧は、独伊と満州国の経済的連携を模索することであったが、彼の真の目的は、欧州経由の渡米であった。(中略)12月22日、鮎川は側近の三保幹太郎と岸本勘太郎を帯同して東京を出発した。(中略)
鮎川たちの渡欧は、松島鹿夫公使を団長とする日ソ通商協定交渉団と同じときに行われた。モスクワで鮎川は、ミコヤン貿易大臣とシベリア鉄道で満州産大豆をドイツへ輸送する手続きを行った。鮎川はドイツで大歓迎を受けた。ベルリンに駐在していた三井物産と三菱商事のスタッフたちは、これまでの日本人になかったVIP待遇であると評した。鮎川のドイツ企業の工場見学は、本人が見たくないようなものまで馬鹿丁寧に見せるほどの徹底ぶりだった。(中略)
満州国はドイツ製の機械類がのどから手が出るほど欲しかったが、一方ドイツは、植物性油と動物用飼料として満州産の大豆をのどから手が出るほど欲しがっいた。第二次世界大戦の勃発に伴い、南太平洋の植物とインド産のピーナッツから確保していた植物性油が途絶えていた。(中略)P199 ドイツは欧州で、ルーマニア産の大豆を入手できたが、その生産量は少量であった。(中略)ヒトラーが多忙であったため(中略)2月16日から3月1日まで、鮎川たちはイタリアを訪問した。
2月20日、鮎川は訪米先からイギリス経由で帰国の途上にあった白洲次郎と数時間会談した。白洲は、ロンドンで三保と会っていた。白洲は米国情勢について、同日イタリアから渡米する山本惣治満州自動車社長の一行に解説を行っていた。山本は、イタリアで鮎川と会う前まで米国で商談をまとめていたが、鮎川は、山本に再度渡米することを要請したのであった。三保幹太郎も鮎川の要請でロンドンからイタリアにいた鮎川のもとへ駆けつけた。(中略)鮎川は、ニューヨークからイタリアへ駆けつけた甥で満業ニューヨーク支店に勤務していた久原光夫に米国情勢について意見を聞いた。
白洲、三保、久原は、おしなべて米国内の反日感情が高まっている状況下では、鮎川の訪米は何ら収穫を得る見込みがないという意見を述べた。(中略)P200 ドイツと英国は、欧州の戦後の経済秩序をめぐって壮絶な覇権戦争を行う運命になると岸本は論じていた。白洲のみが英仏が最終的に勝利するであろうと語っていた。(中略)鮎川の渡米は、結局見送られた。(中略)ベルリンで、来栖から国際情報分析を踏まえた同様の結論を聞かされ説得されることになる。
鮎川は、来栖とは以前から面識があった。ヒトラーとの面談の前に来栖は、鮎川の対満米国資本導入構想は、「賢い戦術」であったが、外交情勢が好転するまで渡米を待つ必要があると論じたのであった。鮎川は、イタリア滞在の前後に来栖と何度も行った会話を通じて、両者が共通の世界観を有しているとことに気付いたのであった。来栖は、鮎川が米国へ行き、ローズヴェルト大統領や米国政府高官との会談を実現させて日米共同で満州国の経済開発を行いながら日米関係を改善していく構想に共感していた。
1934年、当時外務省通商局長であった来栖は、陸軍省軍務局長永田鉄山に、満州国の経済開発に米英の協力を仰ぐべきであると進言していた。すなわち、米英資本に満州への進出を打診し、米英に商業上の機会が与えられることをもって日本の対中政策への米英の理解を勝ち取ろうとすることを提案していた。この構想の第一段として、軍務局は、満鉄が英国の鉄鋼製品を輸入することを承認したが、最後の段階で、満鉄内から引き続き日本の八幡製鉄の鉄鋼製品を輸入する意見が巻き返しに成功し、この構想は立ち消えになった。
P201 来栖が、1937年から39年までベルギー大使を務めていた時期、駐英日本大使は、1938年まで吉田茂であった。来栖も吉田も、日本が英米と連携していくことこそが極東における日本の国益を守ることであると思い、日本を独伊から遠ざけようと努力したのであった。来栖は、鮎川に以下の見解を示した。
①独ソ不可侵条約は近い将来破棄されるであろうから、鮎川は独ソ戦争開始後に、渡米すべきである。
②日本は太平洋で米英と戦争せず、平和を維持すべきである。
③日本はソ連と友好関係を維持すべきである。
これら三つの条件が確立されれば、日本の国際的地位は強くなるであろう。鮎川は、来栖の外交動向分析に共感して、①が起きることを静観しながら②と③を確立する外交戦略を支援しようと思った。しかし、両者とも、半年後に来栖が、近衛内閣の方針で日独伊三国同盟に署名することになるとは予想できなかった。
8.4 ディロン・リード投資銀行とオライアン訪日団 P204-P221
P204 鮎川が帰国したときにはすでに米内光政を首班とする内閣が成立し、米国との和解に努力を傾けていた。春にドイツが破竹の勢いで欧州での戦争に勝ち進むと、日本の国内政治では枢軸国を支持する風潮が強まっていった。このような状況下で、鮎川の側近で欧州から米国に渡った三保幹太郎は、米国で日米関係の改善について国務省幹部、米国財界人と会談をしていた。P205 1940年5月から7月中旬の米内内閣崩壊までの時期、日本に対米関係を大きく改善させるチャンスが訪れた。鮎川たちは、三保を通じて、米国が満州国承認と日本主導の東アジア秩序を受け入れるよう対米工作を行った。
ドイツが破竹の勢いで欧州における勢力拡大を遂行してゆくなか、ローズヴェルト大統領は、太平洋における日本との妥協を検討する姿勢を示した。5月から7月にかけて、ローズヴェルトは、日米の外交官に両国の関係打開を話し合わせたのである。6月と7月のセーヤー・有田、グルー・有田による公式会談の最中に、日本の財界は、米国との和解に大きな努力を払い、日本と満州国の工業化のために必要な米国の経済援助を得ようとした。(中略)
P211 英仏連合軍が6月4日ダンケルクの戦いに敗北し、イギリスが大陸から撤退する状況になるなか、日米両政府は、グルー大使と有田外相が、太平洋不可侵条約を構想する話し合いを、ドイツがフランスへ侵攻を開始した6月10日に再開した。この件は、有田・セーヤー会談で話し合われていた。その内容は、太平洋における植民地の地位や所属関係の変更は、平和的手段のみによって行われるというものであった。
また、日米通商航海条約を復活させるために、経済機会の均等の原則にもとづく国際貿易秩序に日本が同意することを国務省は求めていた。これに対し有田外相は、日米は双方の太平洋における影響圏を認めあうこと、蒋介石政権への米国の援助をやめること、日本が主導して形成する中国の経済秩序に米国が同意して支援すること、そして新しい日米通商航海条約を成立させること、を求めた。
しかし、6月28日、有田はグルーに対し、日本政府は欧州の大戦に不関与の立場をとるものの、米国が提案してきた太平洋不可侵条約のような暫定協定への同意を明言することは避けたいと伝えてきた。一方グルーは、米国が抗議している日本帝国内における閉鎖的経済政策や中国における米国経済権益を日本が排除していることについて話し合いたいと有田に伝えたが、日本側はまず日米通商航海条約を復活することが先であると主張したのであった。
7月6日のグルー・有田会談は、ローズヴェルト大統領の発言が追い風になるように見えた。大統領は、西半球、欧州、アジアにおけるモンロー宣言を認めようとするかのような発言をしたのであった。これは、米国が西半球、ドイツが欧州大陸、そして日本がアジアにおいて影響力を維持することについて日独米が相互に認め合うことを提唱することを意味していた。
P212 大統領のこの発言は、有田が6月29日にラジオ演説を行った内容にあたかも呼応するかのようであった。この演説で有田は、米国が西半球における影響圏、日本がアジアにおける影響圏、そして日独米が相互に不介入を約束しあうことを提唱していた(tw)。しかし、米国のマスコミと中国がローズヴェルト大統領を批判し始めると、大統領は、ただちに発言を撤回したのであった。
オライアンたちが6月29日東京に到着すると、グルーはただちにオライアンと会談を行い、現在の米国政府の対日政策について解説した。(中略)オライアンの招請を日本側で担当したのは、澤田節蔵であった。(中略)7月13日、オライアンは、宿泊先の奈良からローズヴェルト大統領に手紙を書いた。オライアンは、極東における米国にとって重要な国は、中国ではなく日本であり、日米は太平洋における平和の維持のため協力すべきであると論じた。(中略)オライアンが日本帝国の影響圏内を視察した時期は、グルーと有田の会談が行われていた時期であり、鮎川が訪米を画策していた時期でもあった。
P213 7月1日、駐日米国大使館は、ハル国務長官宛に、ビジネスマンでグルーと鮎川双方の友人であったロバート・モスが新京で鮎川と会談を行ったときの会談内容を報告した。鮎川は、春に渡米できなかったものの、今度こそ渡米したい意向をモスに伝えた。そして訪米が実現した場合、ローズヴェルト大統領にドイツ工場視察で見聞したことを話すとともに、日米関係改善の方策について話し合いたいと鮎川がモスに語ったことが電報で国務長官に伝えられていた。(中略)ヒトラーは、鮎川を利用して、枢軸国に近づく日本外交に反対する日本の財界を懐柔しようとしていたと鮎川はモスに話した。鮎川は、米国が数百万ドルの資金を日本に供与することを出発点に日米が極東における平和維持で協力することを、モスを通じて米国政府に求めていたのであった。(中略)
P215 鮎川が日本国内で政府関係者に日米関係打開に関する根回しを行うなか、三保はディロン・リード投資銀行のクラレンス・ディロンとの会談内容を鮎川に報告した。ディロンは、米国金融界の有力者であった。ディロンによると、もしも日本が欧州大戦について米英側につくのであれば、米英そしてフランスのヴィシー政権は、中国問題について日本と共同して恒久的解決を行えると論じたのであった。日本が米英側につくのであれば、ディロンは、米国政府に大規模な米国投資を日満中に行うよう説得すると語った。そして日本に、蘭領インドシア、仏印、そして香港の商談を斡旋するとも働きかけたのであった。英国は米国の支援に依存しているので、米国が提案する日中戦争打開案に同調するであろうとディロンは三保に論じていた。ディロンは、日米間の正式なルートは使い物にならず、上記の提案を自ら推進すると三保に述べていた。(中略)
三保がこうした極秘情報を鮎川に伝えた時期、ディロンは、ディロン・リード投資銀行社長から大統領補佐官に就任したジェームズ・V・フォレスタルに連絡を取っていた。P216 三保によればモルガン投資銀行は英国支持派で反日派でもあった。ディロン・リード投資銀行は、秋の大統領選挙の候補者であったローズヴェルト大統領と共和党のウィルキー双方と良好な関係を保っていた。
国務省は、鮎川の訪米について関心を持つようになった。7月3日、ハル国務長官は、グルー大使に電報を送り、鮎川の対米関係改善案の提案について、米政府は関心を持って検討したと伝えた。ハルは、米国が日満中において日本と共同で経済開発を行うことについては否定的ではあったが、鮎川のいう日米協力関係の構築については、賛同するところがあった。そこで、ハルはグルーに対して、鮎川が日本の支配階層のなかでそのような日米協力を支持する基盤を形成するよう求めることを伝える指示をしたのであった。
そしてハルは、鮎川の訪米は、あくまで本人の自発的イニシアティブにもとづくものであって、米国政府あるいは駐日米国大使館の招請によるものではなく、鮎川が米国滞在中、米国政府高官がまず彼が提案したことについて話し合おうとグルーに伝えた。鮎川がローズヴェルト大統領に会談できるかについてハルは、もしそのような依頼が駐米日本国大使から行われ、もしも大統領の予定表に空きがあるのであれば会えるかもしれなとグルーに伝言した。(中略)
P217 グルーは、鮎川が主張する本人の陸軍への影響力が、実際どの程度あるのか測りかねていることをハルに伝えたが、米国政府が鮎川の訪米を歓迎する姿勢を示し、話し合う用意があることを伝えることで、日本への経済支援について何ら事前に確約することなく、日本の軍部内で実行されるかもしれない新たな過激な対外行動を少なくとも先送りさせる効果があるかもしれないと分析した。グルーは、こうしたことをモスと相談の上、国務省が鮎川の訪米を容認するする姿勢を示すことをハル国務長官に進言した。
グルーがハルに進言を行っていた時期、三保は鮎川に、陸軍に鮎川構想をへの同調を強く働きかけることを進言していた。三保は、鮎川の訪米には陸軍がら代表者を同伴させる必要があるかもしれないと鮎川に伝えてきた。三保は、ホワイトハウスへの働きかけを、ディロン、フォレスタル、そしておそらくバルークを通じて行っていた。バルークは、第一次世界大戦中、米国産業界を戦争経済へと移行させ移行後の運営を担当した戦時産業局の長官で、ディロンを財界人に育てた人物であった。ディロンは、同局でバルークの部下として活躍したことが人生の転機となっていた。民主党の議員や関係者に強い影響力を持っていたバルークは、ローズヴェルト大統領には次章で述べるように敬遠されてはいたが、一定の影響力を持っていた。
三保はこの三人を通じて、ホワイトハウスに鮎川こそ日米通商航海条約の復活や、対日経済援助を話し合うもっとも適当な人物であることを売り込んでいた。三保とバルークは、日米の和解と米国の満州承認に至った段階で米国から10億ドル融資を調達することについて話をしていた。東京では鮎川が政府と軍の関係者やグルー大使と会談をおこない、三保を通じて実現しようとしていた訪米の支持を得ようとしていた。
国務省内では、鮎川に対して訪米を促す文案が作成されていた。7月10日、極東部のハミルトンは、覚書を作成した。P218 彼はそのなかで、米国政府は対日関係改善についてあらゆる選択肢を検討すべきであると論じ、鮎川の訪米によりどのような結果が得られるかが判明するまでの期間、日本の軍部が枢軸国として行動することを妨げるかもしれないと考察した。
同日、ハル国務長官は、7月8日にグルーかハルに進言した内容を取り入れた指示書を送っていた。ハル国務長官は、7月12日グルー大使を通じて、鮎川が訪米することを歓迎することを示唆した。鮎川が訪米した場合、鮎川がグルーあるいは三保を通じて提唱してきたことについて話し合う用意が米国政府にあると、ハルは鮎川に伝えた。しかし、米国政府がこうした提唱にどのように反応するのかについては、言及を避けていた。
鮎川はグルーから、米国政府が鮎川の訪米を明確に招請する文面こそ渡されなかったものの、その文面は鮎川のイニシアティブだけによる訪米ではないニュアンスも伝わる内容でもあった。鮎川の訪米を歓迎するものの、それを明確に求めていない文面に鮎川は不満ではあったが、ついに、外務省と陸軍から訪米の支持を取り付けるために必要な米国政府からの文書が届いたのであった。鮎川は木戸内大臣に、日米関係打開の機会が訪れており、ローズヴェルト大統領が鮎川のドイツ工場視察について話を聞く用意があって、その見返りに米国が日本に10億ドルの経済支援を行うかもしれないと、強気の観測を語ったのであった。
グルーから12日にハル国務長官の文書を受け取ったのは、鮎川が満州国へ向かう一時間前であった。当初の予定では、新京へ行き、関東軍から鮎川構想への支持を取り付けることで、関東軍を通じて陸軍省の支持を取り付けるつもりであった。鮎川は、米内内閣が崩壊するかもしれない政治的危機のなかで行動していた。グルーからの文書が渡されたため、鮎川は新京行きを取りやめ、新京で行う予定であった連絡を東京で行い、関東軍への根回しは後手に回った。
先に三保が鮎川に伝えていたように、加藤公使が15日に東京に到着する予定であった。鮎川は岸本に加藤公使を出迎えさせその後、伊藤文吉と会うこととなっており、加藤と伊藤は今後のことについて打ち合わせを行う予定であった。P219 三保は鮎川に、大統領の周辺ではにわかに、鮎川と三保が提唱してきた日米経済提携について関心が高まってきた印象を得ていると自信あふれる通知を送ってきた。
三保は、鮎川にホワイトハウスとのハイ・レベルの連絡網を確保していることを米内首相と有田外務大臣に伝えるよう要請したのであった。三保は、鮎川の訪米の際、加藤公使が同伴するはずであるとし、故斎藤駐米大使以上にワシントンで敬愛されている加藤公使は、鮎川が米国政府関係者と中国問題や日米通商航海条約の復活について話し合う際、強力な補佐役になるであろうと論じていた。
おわりに
鮎川や三保たちの努力は、加藤公使が東京に到着した15日、米内内閣(1940.01.16-07.22)の崩壊によって水泡に帰してしまった。陸軍が米内内閣から陸軍大臣を引き揚げ後継人事を行わなかったためであった。後継首班は、鮎川もよく知っていた近衛文麿であった。日本の国内政治がドイツの欧州における軍事作戦の成功により枢軸国支持へ傾いていくなか、鮎川は右翼団体に狙われるようになり、すばやく動けなかったことを残念に思った。
鮎川は、ローズヴェルトに満州国を承認させ、五億ドルから10億ドルの支援を得ながら日中戦争の解決を米国の仲介で実現し、日本主導の中国における秩序を確立していく絶好の機会を失ったことを悔やんだ。鮎川構想により日米協力のもとで確立せんとする東アジア、ひいては世界平和の構想は幕を閉じた。
鮎川が主張するほどに彼が軍部に影響力があったのならば、そして彼が近衛内閣の外務大臣に指名されていたならば、その後の日米関係はどのような展開になったであろうか。近衛は米国政府と鮎川の秘密交渉は知っていた。というのも鮎川が米内首相と近衛にこのことを報告していたからである。鮎川は、これまで三回大臣になる打診を断っていたが、今回は打診があった場合受け入れる決意を固めていた。外相に就任して、三保、ディロン、フォレスタル、バルークを介した対米交渉を続けたかったのであった。
P220 近衛が首相になった際、伊藤文吉男爵は、7月16日、鮎川を外務大臣にするよう首相に働きかけた。伊藤は伊藤博文の息子で、鮎川の親戚であると同時に側近でもあった。結局、残念ながら近衛は鮎川のライバル松岡洋右を選んだ。松岡は、米国との関係改善は、枢軸国側と日本がより緊密な関係を築いた上で行う、という見解の持ち主であった。7月末、米国有力紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』と『読売新聞』などの一部の日本の新聞は、鮎川が次期駐米大使に任命されると報じたが、これは誤報であった。
米内内閣に伴う日本国内混乱のため、鮎川は、満州国を訪問していたオライアン訪日団と新京で会談を行えなかった。国務省は、オライアンが満州国の経済開発状況について、好意的な見解をマスコミに語っている情勢を注意深く監視していた。そして、8月3日、米国務省は、UPI(ユナイテッド・プレス・インターナショナル)通信社に対して、オライアン元少将は、米国政府に登録手続きを行った外国の利益を代弁する人であり、具体的には日本経済連盟会のそのれを代弁していると発表した。オライアンは、前払い金の謝礼一万五千ドルを受領しており、これは、彼の発言に制約を課す条件が付けられていると国務省は指摘したのであった。
(略)
P221 日本が9月27日、日独伊三国同盟に署名したことで、鮎川が期待していた米国の満州国承認と日米関係改善は不可能な情勢となった。
(略)
第9章 平和への書簡 P224-
--鮎川とフーヴァー元米国大統領はじめに
P224一九四一年、日米関係が悪化の一途をたどるなか、鮎川はなおも日米開戦回避に努力した。鮎川は四一年の日米外交で中心的役割を果たしていないが、彼と親交があった来栖三郎は、日米最後の交渉で中心的役割を果たしていた。
また、鮎川の部下であった高崎達之助は、フーヴァー元大統領へ働きかけを行っていた(第五章参照)。また、鮎川の側近三保幹太郎は、来栖が最後の日米外交で会談を重ねていたバーナード・バルークとやはり戦争回避のための会談を前年に行っていた(後述)。
米国側では、バルークの他、フーヴァー周辺の人物--ラウル・デスヴェアニンとウイリアム・R・キャッスル--が交渉による戦争回避を模索していたのであった。鮎川もフーヴァーも、日米戦争回避はできなかったが、両社は共通の世界観を共有しており、これは終戦後に生かされることになる。
一九四〇年以降には、鮎川とフーヴァーはそれぞれ水面下で日米衝突回避の動きを支援していた。
日米開戦直前の日本外交の重要課題は、泥沼(相互参照)の日中戦争から抜け出す方途を探求することにあった。その有力な方針として、英米の蒋介石政権への援助を停止させる必要上、援蒋ルートとして仏印から雲南へ連なる輸送路とビルマ・ロードを遮断する軍事作戦を視野に入れる形勢にあった(tw)。
当然予想される英米との対立については、米国を英国P225から離間させる外交的圧力に日独伊三国同盟を利用しようとする松岡外相の路線が選択されようとしていた。これは、陸軍の親独派の強力な支持を得ていたが、日本国内ではナチス・ドイツへの不信感も根強く残っていた。
特に財界は日本経済の米国依存体質をふまえて米国との対立緩和を望む空気が強かった。また、米英の連帯が緊密不可分と見て、米英との衝突を回避しようとする親米英・穏健派は、天皇側近の重臣に多かった。
また一方、軍部は、米英の対日経済制裁と、いわゆるABCD包囲網(米英蘭中の対日連携)に挑戦して東南アジアの資源を確保するため南方作戦を展開しようとしていた。
一九四一年六月の独ソ開戦は三国同盟と日ソ中立条約を外交の両輪にして米国に圧力をかけ、中国問題解決の突破口にしようと目論んだ松岡外交を挫折させた。
すなわち、日ソ中立条約を破棄して対ソ開戦を主張する松岡外相に対し陸軍首脳部は独ソ戦の帰趨を見届けることを先決とし、ドイツがフランスを下し英国を追い詰めている間隙を縫って、代替戦略資源確保のため仏印・タイへ進出することを最優先とし、七月二八日(二三日米通達)に南部仏印に進駐して海空軍基地建設に着手した。
しかし南部仏印進駐は軍部の予想に反して米国を刺激し、日本がヒトラーの英国打倒と世界征服に協力する第一歩として東南アジアへの軍事侵攻を意図するものと米国は受け止めた。
米国は、南部仏印進駐を牽制すべく七月二五日在米日本資産凍結を実施した。そして、日本が南部仏印へ進駐すると、八月一日、石油の対日輸出を全面禁止する強硬策に出たために、それまでの日米交渉はいったん打ち切られた。
これに対し日米開戦を回避するために近衛文麿首相は対米強硬一本槍の松岡外相を解任して、八月にローズヴェルトとの首脳会談を提案し、日本が南進を断念し三国同盟による参戦義務を緩和するのと引き換えに、米国から屑鉄や石油の禁輸制裁の解除を引き出し、両国の危機を打開しようとした。
しかし米国は核心の中国問題について日本の和平条件が示されないことに不信を抱き、米国務省の親中派は対日宥和よりも対日圧力をかけ続け日本に譲歩させる方が得策と主張したため、グルー駐日大使のハル国務長官に対する懸命の説得工作も実を結ばず、遂に日米首脳会談は流産した。
9.1 フーヴァー人脈と日米関係 P226-231
ニンコヴィッチが指摘するように、フーヴァーは、グローバル経済は競合する文明同士が覇権をかけて衝突する場でもあり、米国はその中で「アメリカらしさ」を維持しなければならないと信じていた。
また同時に、世界経済が機能している限り、米国の繁栄は世界経済に依存しているため、経済的孤立主義は不可能であると考えていた。フーヴァーは、世界的な相互依存に対してこのような複雑な心境を抱いていたのである。
そして、彼の立場は自由貿易支持に近かったものの、米国が輸入品に高税率を課すことを厭わなかった。また、米国の極東政策については、早くから中国市場の将来性を否定し、その結果、極東における門戸開放政策も否定していた。
開戦前者のフーヴァーの極東外交に対する考えは、少なくとも一九二〇年代以降一貫したものであり、それは極東における日本の覇権を黙認するものであった。
ローズヴェルト政権期のフーヴァーは、大恐慌の責任を特に民主党からおわされることになったたために、ローズヴェルトが一九四五年四月に死去するまで、政治の表舞台からほとんど姿を消していた。
それでもフーヴァーは、ローズヴェルト政権時代も政治活動を熱心に続け、世間一般や民主党のみならず共和党員の多くからも疎んじられていたものの、一九三〇年代後半から水面下ではその影響力を徐々に復活させることになる。
まず、彼が常々批判してきたニューディール政策が、一九三七年の夏以降大恐慌に次ぐ不況を引き起こして行き詰ったのである(既述のように、米国経済が大恐慌以前の水準に戻ったのは一九四一年半ばで、これはニューディールの経済政策によるものではなく、欧州大戦勃発によって引き起こされた対欧州輸出ブームによるものであった)。
そして、一九三八年以降には米国政治の保守化(議会選挙における共和党の議席増)というもう一つ重要な現象が存在していた。特に後者との関係で重要なのが、フーヴァーとロバート・アルフォンゾ・タフト上院議員との関係であった。
P227タフトは一九三八年の選挙でオハイオ州から上院議員に選出された元州議会議員であった。上院議員選出直後からタフトはニューディール批判とローズヴェルト外交批判を通じて共和党内で急速に台頭し、後にミスター共和党員という異名がつくほどまでに成長する。
彼が生涯を通じて特に尊敬し、世界観において景況を受けた人物は二人いた。一人は彼の父親でセオドア・ローズヴェルト大統領の次の大統領となった対極東ドル外交の推進者ウィリアム・ハワード・タフトで、もう一人はフーヴァーであった。
父親がフィリピン総督時代(一九〇〇年~〇三年)欧州とフィリピンで三年間を過ごしたタフトは、帰国後高校、イェール大学(学部)、ハーバード大学(法科大学院)を首席で卒業、第一次世界大戦勃発後は視力が悪いことから従軍できなかったものの、フーヴァーが長官を務めていた食糧庁の法律顧問として迎えられ、フーヴァーの側近として活躍した。
フーヴァーの食糧長時代の側近で日米関係において重要な役割を果たした人物として、フーヴァーの秘書となり、一九二〇年代以降クーン・ローブ投資銀行のパートナーとなった元靴の行商セールスマン、ルイス・ストロースがいる。
ストロースは、一九二六年に日本、満州、中国を訪問しており、その際、日本の満州経済開発を高く評価した(第7章参照)。彼はトルーマン大統領のもとで海軍少将にに昇進し、第二次世界大戦後は原子力委員会のメンバーとして水素爆弾の開発を推進した。
第二次世界大戦勃発後、タフトはフーヴァーと同様、対外経済への依存は戦争に巻き込まれる危険性を高めるという理由で、米国経済の自給自足の水準を高めることを主張した。また、対日経済制裁についてはフーヴァーと同様反対であったが、タフトは日本の南進をさらに促しかねないと憂慮したものの、日本が対米宣戦布告をすることは日本の真珠湾攻撃まで想定していなかった。
むしろ米国の欧州参戦が高いと大多数のアメリカ人と同様に思っていた。タフトは、反共主義にもとづきフィンランドへの経済支援(フーヴァーの対フィンランド人道援助とは別のもの)を支持する一方で、西半球の防衛強化と自給自足圏の確立という点ではフーヴァーと見解が一致した。
ローズヴェルトが英国支援に傾くなかで、フーヴァーはそれに反対するために世論へ直接訴えた他、水面下ではタフトなどを介して議会に働きかけた。P228例えば、武器貸与法案をめぐって一九四一年初頭に議会の内外で激論が交わされたとき、フーヴァーはタフトが同法案に対して提出した修正事項を書き上げるのを手助けした。
二人は、同法案の内容を英国向けの融資に限定することで、英国に対する大統領の支援に制限を課し、米国経済が英国の戦争遂行に巻き込まれていくことに歯止めをかけ、また、大統領の英国経済援助にかんする権限を大幅に制限しようと狙った。この修正案は否決され、後に、西半球の自給自足圏・防衛圏確立を狙うタフト、フーヴァー、ロバート・ウッド(後述)など孤立主義者と呼ばれていた人々の多くは一九四一年に入ると対英援助を限定的には認めたのであった。
フーヴァーがとったローズヴェルトの親英中・反日独伊の姿勢への牽制手段は、キャッスルを介してアメリカ・フォースト委員会(America First Committee)との連携を深めていくことであった(相互参照)。
この組織は一九四〇年九月に元陸軍准将でシアーズ社(大手のデパート)最高経営責任者の地位にあったロバート・ウッドを全国委員(しかし事実上の委員長)として結成されたグループで、キャッスルはその全国委員の中心的メンバーの一人であった。
ウッドは、ダグラスマッカーサーより陸軍士官学校で三期上で、長年親しい関係にあり、政治的にも盟友関係にあった。一九二〇年代に准将で退役後、米国の農村部の小さな町でのカタログ販売から大手小売りチェーンに成長した、シカゴ市を本社とするシアーズ・ローバック社にスカウトされ、陸軍時代に培ってきた兵站(ロジスティックス)のノウハウを応用する形で同社の事業をラテンアメリカまで拡大させ中興の祖となり、一九三九年から五四年まで同社の会長の座にあった。
ウッドは、保守的な有力団体、全米製造者協会(National Association of Manufacturers)の役員でもあり、北東部の経済力に反発していた共和党員であった。彼は、一九三二年の大統領選でローズヴェルトに投票し、フーヴァーとは疎遠になっていた。ウッドは、ローズヴェルト一期目に導入された社会保障制度、農業支援制度、証券取引制度など多くのニューディール政策を支持し、彼の二期目の途中まで支持していた。
しかしながら、同大統領の最高裁判所改革や膨大な財政赤字を産んだ経済政策の行き過ぎが原因となって袂を分かち、以後、強烈な反ローズヴェルト論者となった。
P229アメリカ・ファースト委員会は、一九四〇年の春以降欧州で破竹の勢いとなったドイツに加担しないことを主張したばかりでなく、英国支援にも反対したのであった。
これは、このような状況において英国支援を主張する連合国支援委員会(Committee to Defend the Allies)や、それより組織化されてはいないものの対独宣戦布告を主張するエリート志向のセンチュリー・グループなどに対抗して結成された組織で、草の根レベルでは資金力と組織力の面で介入派民間団体のどれをも凌いだ(ちなみに、同委員会の活動にリクルーターとして熱心に参加した人物の一人として、後にミシガン州選出の上院議員、そして大統領となったジェラルド・フォードがいた)。
アメリカ・ファースト委員会の焦点は主に欧州ではあったが、極東にかんする同委員会の見解は、キャッスルの提案にもとづき日米貿易を重視し、日本の軍事行動は非難するものの、日本の極東における覇権を黙認したのであった。
フーヴァーは、キャッスルを介して同委員会の静かなパートナーとなり、同委員会は元大統領が推進した欧州支援活動(ソ連の侵略に苦しむフィンランドへの人道支援や、ポーランドや中立国でドイツの占領かにあった地域への食糧援助活動。これらは英国の欧州大陸封鎖政策に背反する行為で、フーヴァーは英国を批判)を支持した。
この点からも、同委員会は米国大統領や欧州介入派が支持する対欧州支援活動(英国の大陸封鎖政策に抵触しないような人道援助)とは一線を画したのであった。
英国援助を支持してきたことが好感され、ローズヴェルト政権が推進する挙国一致体制の一環として陸軍長官に迎えられた共和党員スティムソン(フーヴァー政権の国務長官)や、
少なくとも一九三九年一一月以降、米国が戦後英国に代わって覇権国として世界に対して指導力を発揮すべきだと唱え、また一九四一年夏の対日石油禁輸政策を決定的にしたディーン・アチソン(一九四一年初頭の経済担当の国務次官補への就任以前は、ワシントン在住の民主党支持の弁護士として活躍)とは、
フーヴァーやキャッスルは政策面で正面衝突する関係となった。
一九四〇年一〇月四日、シカゴ外交評議会の講演会で、ウッドは、日本との貿易の継続を強く主張したのであった。彼は、一九四〇年秋に行った演説で、米日貿易は、米中貿易の五倍から六倍の金額であり、もしも蘭領インドシナを日本が支配下に置いたとしても、日本が深刻な外貨不足のため、米国も必要としていた戦略物資であるスズやゴムをP230東南アジアから米国に売るであろうと論じたのであった。
「我々が日本を必要としている以上に、日本は米国を必要としているのであり、[中略]もしも日本と戦争となった場合、我々は、ボリビア産のスズを買えばよいのであり、天然ゴムの代わりに合成ゴムを使えばよいのである」と論じたのであった。
この時期のウッドは、ローズヴェルトが一一月の大統領選で共和党の候補ウェンデル・ウィルキーに勝利した場合、次のような展開になることを予測していた。
彼は、第一次大戦期の戦友であり、また、対英支援論者でもあった、ニューヨークの大手弁護士事務所共同経営責任者ウィリアム・ドノヴァンに、ローズヴェルトの三選目の可能性は高く、その場合、米国政府は対英国支援を拡大し、その結果、翌年の半ばから九月ころまでに、米国は欧州へ派兵することになるであろうと論じた。
ウッドは、米国参戦となった場合、米国政府と太いパイプを持つドノヴァンに実戦部隊に参加できるよう斡旋を依頼していたのであった(ドノヴァンは、一九二四年から五年間共和党政権の司法省検察次長を務めた。一九四一年秋より、コロンビア法科大学院時代以来の友人であったローズヴェルトの要請で、米国政府が始めた諜報機関情報調整委員会の委員長に就任し、同委員会が戦略情報局に発展すると同局のトップになった)。
翌月の五日にローズヴェルトが米国政治史上初めて三選目に出馬して勝利すると、その約二週間後米国ニューヨーク市の主要紙『ニューヨーク・ポスト』は、
同紙が孤立主義志向の社説を展開してきたこともあって、後援会の演説に、キャッスルを招いたのであった。
キャッスルは、演説中、日米戦争が勃発した場合、米国は英国支援を行う余裕をなくし、また、東洋における米国の最大の貿易相手国で、「東洋でもっとも工業化しており、また、進歩的である」日本を失うことになると論じたのである。
日本が米国の輸出品目の主力農産物であった綿の最大の大口顧客であることをキャッスルは指摘したのであった。
ウッドとキャッスルのこうした日米貿易継続肯定論に対して、ローズヴェルト政権は対日経済制裁を強化してゆく傾向にあり、また、東南アジア産のスズ、タングステン、マンガン、天然ゴムといった戦略物資が日本の支配下に置かれることを米英にとって避けたい事態であると見ていた。
日本が英米にこれら戦略物資を売ることはないと考えたのである。P231国務省のスタンレー・ホーンベックは、米満貿易について、第6章で紹介したように間違った認識を持っていたが、日本が東南アジアを支配下に置いた場合、米英に対して満州や北支で行ったのと同様に貿易で排他的差別行為を行うであろうと考察したのであった。
ローズヴェルト政権は、枢軸国が計画経済と権威主義にもとづき、米国の資源へのアクセスを阻み、米国の資本主義と民主主義の脅威となると判断しつつあったのである。このため米国は、中国に対しては経済援助を手厚くすることで、日本が中国で釘付けとなることを狙った。
そうしたなか、かつて鮎川と日産・GM合弁交渉でGM側の担当者であったグレーマー・K・ハワードが、鮎川と世界観を共有し、またアメリカ・ファースト委員会の対日観を共有するような議論を秋に刊行した自著のなかで披露していた。
ハワードは、米国が「日本の東洋における非西洋地域での道義的、経済的および優越的地位」を認めるべきであると主張したのであった。ただし、米国は日本の豪州とニュージーランドへの侵攻は認めないとハワードは付け加えていた。
ハワードは、世界をドイツ率いる欧州大陸、英国率いる大英帝国、ソ連率いるソ連邦、イタリア率いる地中海圏、米国率いる西半球、そして日本率いるアジア圏をわけ、これらの勢力圏の中心的国家が協力関係を構築して新世界秩序を形成すべきであると主張したのであった。
ハワードは、ハル国務長官が一九三四年以来推進しようとしていた最恵国待遇を基本とした互恵通商ではなく、これら地域間の二国間貿易は、国別事情に即して通商協定が締結されるべきであると論じたのであった。
ハワードは、最恵国待遇による互恵通商はかえって国際貿易拡大の阻害要因になると見ていた。米国の関税が高止まりであり続けるのか、低下してゆくのかは、「米国民の総合的利益」にもとづいて判断すべきであると論じた。
9.2 日米交渉とフーヴァー、ストロース P232-240
P232 鮎川は橋本徹馬の対米工作と井川・岩畔工作(米国側の呼称はジョン・ドゥ・アソシエーツ相互参照)を支持した。井川・岩畔工作には、米国側の窓口となった二人の神父(ジェームズ・ドラウト、ジェームズ・ウォルシュ)を日本に紹介したクーン・ローブ投資銀行のルイス・ストロースが関与していた。橋本工作は井川・岩畔工作より前に展開し、橋本と国務省の間で交渉されたことの多くは井川・岩畔工作に引き継がれた。
近衛内閣と軍部の有力者は両工作を支持していたが、井川・岩畔工作が有望と判断された結果、橋本は帰国後無視された。井川・岩畔工作は、1941年春、野村とハルの日米交渉に発展していったが、米国政府は、井川・岩畔工作を支持していた鮎川については、松岡の親類という間違った情報も手伝って、不信感を抱いていた。
ジョン・ドゥ・アソシエーツの活動のきっかけをつくったのは、フーヴァーに支持していたルイス・ストロースであった。彼は、クーン・ローブ投資銀行が財務上の助言を行っていたニューヨークに本部を構えるカトリック宗派メリノール協会の二人の神父、ドラウトとウォルシュの訪日の斡旋を行った。両神父が日本でキーマンとして接触したのは、産業組合中央信用金庫理事井川忠雄であった。
井川は、1920年代財務官として勤務していたニューヨーク市で、ストロースとフーヴァーと懇意になった。彼は、一高での近衛首相の同期生であった。この日米の民間人の接触に日本陸軍も関心を抱き、満州国建国に関東軍参謀(1932年8月から34年8月)および対満事務局事務官(1934年12月から1936年8月)として深くかかわった岩畔豪雄軍務局軍事課長が、井川を補佐することになった。近衛首相もこの動きを支援するようになった。
井川は、クーン・ローブ投資銀行がモルガン投資銀行と違い反英的であったが、ドイツのナチス政権が反ユダヤ人のイデオロギーを掲げていたために、ドイツに好意的でないと見ていた。(中略)ストロースの日本に対する対応は慎重で、日独三国同盟を結んだ日本に対してはなおさら警戒感を抱いていたといえよう。それでも、ストロースは、フーヴァーと世界観を共有していたため、日米関係の悪化を懸念していた。(中略)
P234 鮎川は1月に、米国大使として渡米直前であった野村吉三郎と会っていた。その鮎川は野村に、来栖がベルリンで前年鮎川に語っていたことを述べていた。すなわち、独ソ不可侵条約は近い将来両国の対立により破棄されるであろうから、その場合日本は、枢軸国側からただちに英米側につくべきであると論じていた。それを機に、野村は米国資本を満州に投資するように訴えてほしいと述べたのであった。
他方で鮎川は、来栖の後任大島浩駐独武官が盲目的な親独心酔者で、日本の国益を守らず、ヒトラーとリッベントロップの餌食になっていると批判したのであった。大島は、1936年の日独伊防共協定を推進した中心人物であり、ヒトラーとリッベントロップに気に入られていたが、ヒトラーたちは、日独伊三国同盟に反対であった来栖を嫌っていた。
日独伊三国同盟推進派であった岩畔は、大島の暴走に歯止めをかける必要性について理解を示す見解に止める一方、来栖と米国で会い、彼が米国に留まる説得を行うことに同意した。(中略)
P235 来栖はドイツより帰国する際、本省の許可をえて、シベリア鉄道経由ではなく、米国経由で戻ることにした。その理由は、ワシントンで、野村大使と対米関係の改善について意見交換を行いたかったことと、現地の空気を把握したかったからであった。ベルリンを離れる直前、来栖は、米国人外交官リーランド・モリスに、日米関係は崖っぷちにあり、日米関係の平和的解決にむけてあらゆる選択肢を検討しなければならないと論じていた。(中略)
P237 ハル国務長官は、デーヴィスのから来栖の反枢軸国の姿勢について報告を受ける一方、ドラウトとウォーカーから鮎川の来栖宛の電報についても報告を受けていた。ハル国務長官は前年6月から7月にかけて、グルーより鮎川の対米関係改善の活動について報告は受けていたが、ドラウトとウォーカーからの報告は、鮎川について非常に否定的な見解を示していた。
彼らは鮎川について、「松岡の従兄」、「枢軸国支持派」、「日米交渉に懐疑的」と間違った人物像をハル国務長官に伝えていた。また鮎川が、日米交渉の進展により、満州における独占的な経済的地位を失うことを恐れていると、事実無根の分析を行っていた。
サンフランシスコに岩畔が着くと、一足早く到着していた井川が彼を出迎えていた。彼らは、さらに来栖の到着するのを待った。来栖は到着後、彼らと会談した際、英国を過小評価すべきでなく、ドイツは英国に勝利することは困難であろうと論じた。また、近いうちにドイツはソ連攻撃を行うであろうと推測した上で、その場合、スターリンはヒトラーを長期戦に引きずり込むであろうから、二正面作戦を強いられるドイツはやがて敗北するであろうと述べたのであった。
来栖は、井川と岩畔に対して、日本にとって最良の選択肢は、米国側につき、枢軸国から距離を置くことであると論じた。来栖は、ウォーカー郵政長官の後ろ盾を得ているいまこそ井川と岩畔は日米交渉を早急に推進してこの機会を最大限に生かし、日米関係の改善を図るべきであると激励したのであった。この数時間に及ぶ会談の中で、井川と岩畔は来栖が米国に留まることを勧め、野村がそのように本省へ働きかけるよう依頼するといった。
P238 しかし来栖は、固辞した。戦後、三人はこのことを後悔した。岩畔によると、野村大使を除いて大使館のスタッフは、井川と岩畔の活動に協力的ではなく、もしも来栖がいたならばそのような事態を打開して、これが日米交渉の進展に貢献したのではないかと回想した。(中略)
P242 米国の対日姿勢が特に厳しくなったのは、3月に武器貸与法が連邦議会で可決された後であった。1941年の最初の数か月は、米国の対日経済輸出に対するまだら模様のの規則が、国務省のディーン・アチソンを代表格とする反枢軸強硬派により完全な対日経済戦争へ移行していった時期であった。1941年の一連の日米交渉は、まさしく米国の情け容赦ない対日経済制裁が深化してゆくなかで展開していった。
このような対日経済制裁強硬派の中心的存在であったアチソンは、1941年1月、国務省経済担当国務次官補として、8年ぶりにローズヴェルト政権に戻っていた。彼は、7年前に財務長官に就任して以来対中経済援助にもっとも理解を示し、また、1937年以降もっとも対日強硬派であったヘンリー・モーゲンソー財務長官(ユダヤ系米国人)と連携しながら、対日経済制裁を推進していった。(中略)
P243 日本の陸海軍が対米関係の維持を希望したのは、まずは米国からの石油が必要であったからであった。しかし、航空燃料は、日本軍の北部仏印進駐直前の1940年8月、対日輸出が禁止されてしまっていた。
太平洋戦争の起源を研究する学者たちの大半の見解に従えば、日本の対米戦争の時計の針が開戦に向かって動き出す事態を招いたのは、1941年7月下旬の日本軍による北部仏印から南部仏印への進駐であった。8月9日、カナダのニューファンドランド沿岸部の沖合で開催された米英首脳会談で、ローズヴェルト大統領とチャーチルは、日本の南進と北進を封じ込める政策を推進することで一致した。
それまで英米首脳は日本との関係改善を模索していた。しかし障害となったのが、日独伊三国同盟と日中戦争であった。見たように武器貸与法(相参,相参)は、英国に対する支援としてただちに適用されたのみならず、5月6日以降中国に対しても同法にもとづく軍事援助が行われるようになった。そして独ソ戦が始まった6月22日以降には、ソ連に対しても同法にもとづく対ソ軍事援助が行われることとなった。
→『ウェルカムトゥパールハーバー』(参照)、ジョン・ドゥ・アソシエーツを扱った小説
→『重光・東郷とその時代』P328
9.9 12月上旬の野村・来栖
P268 しかし、木戸内大臣の11月29日の日記が記しているように、天皇周辺の英米穏健派の声は、戦争を唱える声をもはや抑えられるような情勢ではなかった。彼らにとって1936年の2.26事件の記憶はいまだ鮮明なものであった。昭和天皇が終戦の翌年春に回想しているように、もしも開戦に反対すれば、反対派は血生臭いクーデターで殺され、より過激な政権が誕生していたであろうと語っていた。
第11章 「共通の利益」の再創造 P306-307
はじめに P306-311太平洋戦争中、フーヴァー、キャッスル、タフトのような対日観は例外的なものとなり、共和党の大多数の議員は国務省内のホーンベックら親中派に匹敵するほどの対日強硬姿勢に転じていた。ローズヴェルトの急死に伴いトルーマン副大統領が大統領に就任すると、一九四五年四月一九日に、タフトは単独でトルーマンと会談し、対日無条件降伏を修正することを進言した(台湾を日本の領土として残すことを考えていた)。
タフトがフーヴァーと意見交換をした上でこのような発言をしたかどうかは不明であるが、この無条件降伏の件ではフーヴァーがまもなくトルーマンへ具体案を述べた。ローズヴェルト在任中、フーヴァーは、元大統領でありながら一度も大統領官邸に招かれることはなかった。
米国参戦後、米国戦争経済の運営が混乱するなか、フーヴァーの友人であったバルークは、この問題解決のための助言をフーヴァーに求めるよう、ローズヴェルト大統領に進言した。しかし、ローズヴェルトは、「私はイエス・キリストではないので、死人を蘇らせることはできない」と拒絶したのであった。
フーヴァーをトルーマン政権の非公式なアドバイザーとして迎え入れる計画が浮上したのは、一九四五年五月一日のジェームズ・フォレスタル海軍長官(元ディロン・リード証券社長で一九四○年春以降ローズヴェルト政権に最初は顧問、
P307後に海軍次官として協力してきた共和党員)、スティムソン陸軍長官、ジョセフ・グルー国務次官(太平洋戦争前の最後の駐日大使)との会議においてであった(スティムソンは四月ニ二日にフーヴァーに自宅に来るよう勧誘しているが、この時点では会っておらず、また、二人は意見交換を行っていない)。
欧州大戦の終了に伴い、政府がフーヴァーを対欧州食糧対策のために起用すべきではないかという質問に対して、スティムソンもグルーもその可能性を検討するべきであるという点で同調した。フォレスタルは、ローズヴェルト政権末期からモーゲンソー計画のような過酷な対独案を適用すべきではなく、ドイツの軍と軍需産業の解体を推進する一方、ドイツの工業生産能力はそのまま残すべきであると主張してきた。
彼の対日政策は対独政策と同じ姿勢であったが、これらの根底にはソ連の拡張を抑える狙いがあった。
この会議の最中、グルーは天皇問題にふれ、対日戦争で天皇の判断がアメリカ兵の生命をより多く救う結果になったことに触れるとともに、占領後の改革を推進するためには天皇を利用するのが最善の方法で、天皇の利用価値は占領が始まってから最終的な判断をすべきであると主張し、無条件降伏の修正を提案している。
グルーのこのような考えは、一九四三年以降国務省内でホーンベックなど対中穏健派に対して巻き返しを図り、一九四四年五月のグルーの極東局長就任、さらに一二月の国務次官就任(日本が降伏した翌日に辞任)に伴い主導権を握った対日穏健派(グルー、ユージン・ドゥーマン、ジョセフ・ヴァレンタイン、ヒュー・ボートンなど)の見解を反映するものであった。
(なお、この時期、天皇の対日利用価値についてグルーと同様の見解を、戦略情報局(Office of Strategic Services,O.S.S.)などの米国諜報機関は示しており、太平洋の戦地では、一九四四年夏以降フーヴァー政権時代の参謀総長ダグラス・マッカーサー司令官のもとで副官を務めていたボナ・フェラーズ准将が、このような見解をマッカーサーのグループ内で広めていた。フェラーズはフーヴァーと同様クエーカー教徒で、一九三六年から三八年にかけてマッカーサーが率いる対フィリピン軍事顧問団の一員を務め、フーヴァーとは一九四○年に知り合った。彼は共和党支持者で、また不介入派でもあり、フーヴァーの対欧州人道活動に共感し、また、支援した。フェラーズは、一九四○年秋から四ニ年まで駐エジプト武官を務め、一九四二年秋からマッカーサーのもとへ赴いた四三年秋にかけて准将としてウィリアム・ドノヴァン准将が率いる戦略情報局のメンバーとなった。P308フェラーズはフーヴァーを敬愛しており、戦前から戦後にかけてたびたび接触していた)グルーはフーヴァー政権時代に駐日大使となったが、それは彼と親しかったキャッスル国務次官の斡旋によるものであった。二人は、太平洋戦争勃発まで外交問題によく言及した日記を交換するほど親密であった。
グルーが帰国後ローズヴェルト大統領(グロトン高校時代とハーヴァード大学時代の二期下の知人でもあった)に近づいたことから二人の関係はやや疎遠になったようであるが、それでも対日関係ではたびたびグルーとドゥーマンと意見交換しており、キャッスルは対日関係ではグルーに似た見解を持っていた。
フーヴァーは一九四四年五月にグルーより彼の回顧録を受け取っており、それをよく吟味して読んでいた。グルーはステティニアス国務長官がヤルタ会議、サンフランシスコ会議などの国際会議で一九四五年一月から辞任する六月下旬まで忙しかったため、国務長官代行として国務次官以上に重要な役割を果たしていた(国務長官代行の役職は、一九四四年一二月二〇日から翌年四月ニ四日の約半分と、四月ニ四日からジェームズ・バーンズが新国務長官が就任した七月三日までの全期間を務めた)。
フーヴァーがトルーマンと会談したのは一九四五年五月ニ八日午前中で、この会談を斡旋したのはスティムソンであった。フーヴァーは大統領に対欧州食糧援助問題の他、対極東政策について意見を述べている。この会議に先立つ五月一三日、フーヴァーはスティムソンの自宅で彼と会談しており、五月二九日の夜には、キャッスル邸でタフトら一○名ほどの議員たちに大統領に進言した内容について説明した。
五月一五日にフーヴァーは、二日前にスティムソンと会談したときに語ったことを元に覚書を送った。ドイツ降伏後のいまこそ米英中が連携して中国の蒋介石を介して日本との早期和平を目指すべきあると論じた。
それは、アジアの戦後秩序におけるソ連の影響力を最小限に止めさせ、また、日本が資本主義国として戦後発展するよう、米国主導の秩序を目指すものであり、また、戦争終結を計画より一八ヵ月短縮させることで米兵五〇万人から一〇〇万人の命を救うのみならず米国の資源を節約できると進言した。
つまり、フーヴァーはヤルタ協定のなかの秘密事項(ソ連による、ドイツ降伏後二、三ヵ月以内の対日参戦)は知らなかったものの、四月にソ連が日ソ中立条約の延期を破棄する対日通告は公けの情報として知っており、P309太平洋戦争の長期化は、主要な対日戦闘が米国の経済力と人命の犠牲により終結したところで、ソ連が参戦すると考えられ、そのときにおきるソ連のアジアにおける影響力拡大を強く懸念したのである。
フーヴァーは対独・対日戦後経済復興計画については、スティムソン、フィレスタル、グルーと同様モーゲンソー計画のような過酷な案をとることに、欧州と東アジアの経済復興のために日独を重視する観点から反対し、特にフーヴァーは戦争賠償請求を行うことは否定的であった。
五月ニ八日にトルーマンに戦後欧州のの食糧問題について意見を求められて一二年ぶりにホワイト・ハウスを訪問したフーヴァー(前述したように、第一次世界大戦後の欧州復興政策の中心的存在であった)は、同問題についてコメントする一方、対日政策にも言及し、大統領の関心をよんだ。
フーヴァーは、大統領との会談内容を当日日記に記録し、また、大統領の要請にもとづき五月三〇日にトルーマンに覚書を提出した。これらでフーヴァーが論じたことは、スティムソンに述べたソ連の対アジア影響力拡大が何故米国にとって不利益であるかと同様のことを述べる一方、
①四月七日に発足した鈴木貫太郎内閣は穏健派であり(五月三〇日の覚書で取り上げられている)、日本は国体護持を望んでいることから、という進言であった。
②米国と英国、そしてできれば中国とともに対日共同宣言を行い早期講和を達成させる確率は非常に少ないがこれを推進すべきで、
③その対日宣言の内容は、日本の軍隊の無条件降伏、長期間(おそらく一世代)にわたる日本の非武装化、連合国は天皇制の破壊を意図していないことを日本に示唆すべきである(相互参照)
そしてフーヴァーは満州を中国に返還すべきであることをスティムソンとトルーマンに進言したのであった。また、フーヴァーは日本の非武装化という点でも対日政策決定者たちと同感で、彼は日本の非武装化を一世代(三○年か四○年)くらい続け、それを米国海軍と空軍が連合国に割譲された日本の太平洋の島々から監視し続ける必要があると主張したのであった。
フーヴァーは、日本占領は日本軍と日本の軍事工業の解体や責任者の処罰の後、速やかに終えるべきであることを、米国経済の占領費負担の観点から強調した。
フーヴァーがスティムソン、フォレスタル、グルー、トルーマンと終戦時の極東政策で比較的顕著に相違していた見解は次の通りである。
①ソ連の参戦前に英中とともに日本と和平を達成すべきである。フォレスタルとグルーはソ連の欧州と極東における進出を懸念したが、彼らもトルーマンとスティムソンと同様当面のヤルタ体制維持の必要性に同意し、反共の姿勢を自制した。ただし、トルーマン自身はヤルタ会談で定められた条項の内容を完全に把握すると、それを解体していく意向をもつようになった。
②台湾と朝鮮は日本の領土として残すべきである。
③日米戦争が長期化するほど米国経済の低迷と米国が提供できる世界の復興のための物資の供給能力が低下する可能性が高まる。
フーヴァーと会談したニ八日の午後、トルーマンは、今度はグルーから、無条件降伏は軍隊に適用されるべきものであり、天皇制の廃止を意味するものでないことを日本側に少なくとも間接的に示す演説を行うべきであるとの進言を受けると同時に、同趣旨の覚書を受けとった。
大統領は、このことを翌日、スティムソン陸軍長官、ジョージ・マーシャル参謀総長、フォレスタル海軍長官などの出席する会議において検討するよう命じた。しかしながらこの会議では、グルーが提言する「連合国は日本の将来の政体を決定する考えがないこと」を大統領が日本に示すべきかどうかについての判断は、
「ある軍事的理由」により先送りされた。
トルーマン、スティムソン、グルー、マーシャルは、これは、沖縄戦が終結していないこと、原爆開発計画が進められていることによる反対であることを了解していたが、それでもフォレスタルは、グルーの提言を支持した。
スティムソンは、対日原爆投下をいつ、いかなる方法で行うべきかを大統領に勧告する暫定員会に国務省と海軍省からの代表参席を必要としたことから、五月八日に二人に対して原爆開発計画の説明を行っていた。
この約二週間後、太平洋戦争でもっとも凄惨であった沖縄戦が終結に近づいた。フーヴァーは、グルーの五月下旬以降の動向を把握していなかったものと思われるが、大統領は、グルーに対してフーヴァーの五月三〇日大統領宛覚書についてコメントすることを要請し、グルーは、六月一五日、一六日、一八日の会議で同趣旨を強調した。
六月一八日以降終戦まで、この天皇問題にかんする取り扱いの中心人物はグルーからスティムソンとスティムソンの側近ジョン・J・マクロイ陸軍次官補に替わるが、
六月二九日のギャラップ社の天皇に関する米国内世論調査が物語るように、
七パーセントのみが天皇の免罪もしくは天皇を利用することによる占領を支持し、
三三パーセントは天皇の処刑を望み、
三七パーセントは天皇の訴追、終身刑あるいは流刑を望んでいた。
このような状況下で、新しく国務長官に就任したジェームズ・バーンズは、世論に敏感であることも貢献して、五月ニ八日大統領宛グルー覚書に反対したディーン・アチソンおよびアーチボルト・マクリーシュ両国務次官補を支持し、国体護持を日本に明示することに反対する姿勢を七月三日グルーとの会談で明確にした(アチソンは、戦後この件に関する自身の判断は誤っていたと述べている)。
トルーマンもバーンズも米国内世論と日本が国体護持以外の要求をいろいろと行うことを警戒したのである。こうしてポツダム宣言には、国体護持は明示されず、間接的なもの(全日本軍の無条件降伏を伝え天皇制については言及せず)に止まったのである。
八月六日広島に原爆投下が行われたあと、フーヴァーは、このような行為は、第一次世界大戦における毒ガスの使用と同様、「自分の良心に背く」現象であると嘆いた。終戦とともにグルーは国務次官を辞任し、バーンズ国務長官が後任として選んだのはグルーら対日穏健派とは敵対関係にあり、国務省内の対中穏健派の支持者であったアチソンであった。
関連→なぜマーシャル将軍は5月に提案された太平洋戦争終結のための最後通告を「時期尚早」といったのか?見方が違う二つの著書より(参照)
関連→『原爆投下決断の内幕』(参照)
11.1フーヴァーと冷戦初期のアメリカ外交 P311-316
11.2対日経済改革---非軍事化と民主化の狭間で P316-326
おわりに P327