2018年5月31日木曜日

偏愛メモ 『鮎川義介と経済的国際主義』

5.5 フーヴァーの東アジア政策

P115 1931年に米中合弁の航空会社が設立されて以来、(中略)

蒋介石政権が1933年秋以降イタリア空軍顧問団に依存し始めると、(中略)

米国のもと航空隊パイロットたちが中国空軍の発展に貢献するようになるのは、蒋介石政権が、1936年締結の日独伊防共協定が背景要因となってドイツやイタリアの軍事顧問※との関係を解消し始める前年に当たる1937年以降のことである。

※1937年日中戦争勃発後もドイツ顧問団は中国軍を支援している。(『日中戦争はドイツが仕組んだ』資料参照(url))

第8章 アメリカによる満州国の事実上の承認の模索 P192-P220

8.2 ジョセフ・グルーとユージン・ドゥーマン P196-P197

P196 1939年7月から9月の時期、まだノモンハン事件が収束しないなか、日本国内では7月に内大臣湯浅倉平の暗殺未遂事件が事前に発覚した。8月上旬、陸軍は、クーデターを起こし戒厳令を敷くのではないかという噂が流れていた。こうして国内が不穏な情勢となるなか、8月23日独ソ不可侵条約が署名された。日本は政府内で枢軸国側につくか否かを論争していたが、この条約の成立にともない、ドイツと連携して反共産主義を推進することを目指した平沼首相は、「欧州の天地は複雑怪奇」と声明文を出して辞職した。後継内閣は阿部信行海軍大将を首班とする内閣であった。一方、日本国内の日独伊三国同盟推進派は、リッベントロップ外相が提唱する日独伊ソの連携に共感するようになっていた。

独ソ不可侵条約締結後の日本外交は、英米との関係改善に乗り出すことになった。鮎川もこの流れを利用し、また、そのような関係改善に貢献しようと試みたのであった。11月27日、駐日米国大使グルーは、ハル国務長官に、グルーの側近であったユージン・ドゥーマン参事官と鮎川が行った四時間におよぶ会談を報告した。ドゥーマンは、鮎川が提唱する満州や中国における日米連携による経済開発構想は、日本の経済的利益を満たすのみで、中国の経済的利益をほとんど、あるいはまったく満たすものではないと論じた。ドゥーマンは、鮎川のこのような構想が米国で成功することはまずないと論じたのに対して、鮎川は、少なくとも害にならないのであれば、訪米するつもりであると述べたのであった。この時期の鮎川の対満米国資本導入構想について、日米それぞれの政府内では、否定的な見解に圧倒されていたと言えよう。

日米通商航海条約の破棄(19390726通告400126失効)に成功したホーンベック国務省顧問は、鮎川を「ミスターX」と略称している覚書のなかで、「ニューヨーク市におけるさまざまな経済的利益グループやその他の金融(や産業)」は、P197鮎川が行おうとしていた「満州国における重工業が特に必要としている、米国物資の「大規模商談」とドル資金供与の確保に好意的である」と警鐘を鳴らしていた。

P197 日本では鮎川の友人で外交官大橋忠一(8月まで満州国参議で、そのあと1940年4月に外務省嘱託という形で蘭印出張、同年8月から松岡外相のもとで外務次官)は、鮎川の秘書であった友田寿一朗に、鮎川の対満米国資本導入構想は国内の日独伊三国同盟推進派の間で大変評判が悪く、気をつける必要があると忠告したのであった。(中略)鮎川のこうした主張に対して、グルーは、前述の仲介者を通じて、現在の状況では、鮎川の構想を実現できる情勢ではないと語った。

8.3 鮎川の訪欧---来栖三郎と鮎川の構想 P197-204

日米経済関係の支柱であった日米通商航海条約が1940年1月にはきされようとするなか、鮎川は、ドイツから必要な物資を獲得することにも関心を示した。1939年秋駐満州国公使ワグナーは、シベリア鉄道を利用しながら、P198 満州の大豆とドイツの物資をバーター取引する申し入れを鮎川にしてきたのであった。(中略)鮎川の訪欧は、独伊と満州国の経済的連携を模索することであったが、彼の真の目的は、欧州経由の渡米であった。(中略)12月22日、鮎川は側近の三保幹太郎と岸本勘太郎を帯同して東京を出発した。(中略)

鮎川たちの渡欧は、松島鹿夫公使を団長とする日ソ通商協定交渉団と同じときに行われた。モスクワで鮎川は、ミコヤン貿易大臣とシベリア鉄道で満州産大豆をドイツへ輸送する手続きを行った。鮎川はドイツで大歓迎を受けた。ベルリンに駐在していた三井物産と三菱商事のスタッフたちは、これまでの日本人になかったVIP待遇であると評した。鮎川のドイツ企業の工場見学は、本人が見たくないようなものまで馬鹿丁寧に見せるほどの徹底ぶりだった。(中略)

満州国はドイツ製の機械類がのどから手が出るほど欲しかったが、一方ドイツは、植物性油と動物用飼料として満州産の大豆をのどから手が出るほど欲しがっいた。第二次世界大戦の勃発に伴い、南太平洋の植物とインド産のピーナッツから確保していた植物性油が途絶えていた。(中略)P199 ドイツは欧州で、ルーマニア産の大豆を入手できたが、その生産量は少量であった。(中略)ヒトラーが多忙であったため(中略)2月16日から3月1日まで、鮎川たちはイタリアを訪問した。

2月20日、鮎川は訪米先からイギリス経由で帰国の途上にあった白洲次郎と数時間会談した。白洲は、ロンドンで三保と会っていた。白洲は米国情勢について、同日イタリアから渡米する山本惣治満州自動車社長の一行に解説を行っていた。山本は、イタリアで鮎川と会う前まで米国で商談をまとめていたが、鮎川は、山本に再度渡米することを要請したのであった。三保幹太郎も鮎川の要請でロンドンからイタリアにいた鮎川のもとへ駆けつけた。(中略)鮎川は、ニューヨークからイタリアへ駆けつけた甥で満業ニューヨーク支店に勤務していた久原光夫に米国情勢について意見を聞いた。

白洲、三保、久原は、おしなべて米国内の反日感情が高まっている状況下では、鮎川の訪米は何ら収穫を得る見込みがないという意見を述べた。(中略)P200 ドイツと英国は、欧州の戦後の経済秩序をめぐって壮絶な覇権戦争を行う運命になると岸本は論じていた。白洲のみが英仏が最終的に勝利するであろうと語っていた。(中略)鮎川の渡米は、結局見送られた。(中略)ベルリンで、来栖から国際情報分析を踏まえた同様の結論を聞かされ説得されることになる。

鮎川は、来栖とは以前から面識があった。ヒトラーとの面談の前に来栖は、鮎川の対満米国資本導入構想は、「賢い戦術」であったが、外交情勢が好転するまで渡米を待つ必要があると論じたのであった。鮎川は、イタリア滞在の前後に来栖と何度も行った会話を通じて、両者が共通の世界観を有しているとことに気付いたのであった。来栖は、鮎川が米国へ行き、ローズヴェルト大統領や米国政府高官との会談を実現させて日米共同で満州国の経済開発を行いながら日米関係を改善していく構想に共感していた。

1934年、当時外務省通商局長であった来栖は、陸軍省軍務局長永田鉄山に、満州国の経済開発に米英の協力を仰ぐべきであると進言していた。すなわち、米英資本に満州への進出を打診し、米英に商業上の機会が与えられることをもって日本の対中政策への米英の理解を勝ち取ろうとすることを提案していた。この構想の第一段として、軍務局は、満鉄が英国の鉄鋼製品を輸入することを承認したが、最後の段階で、満鉄内から引き続き日本の八幡製鉄の鉄鋼製品を輸入する意見が巻き返しに成功し、この構想は立ち消えになった。

P201 来栖が、1937年から39年までベルギー大使を務めていた時期、駐英日本大使は、1938年まで吉田茂であった。来栖も吉田も、日本が英米と連携していくことこそが極東における日本の国益を守ることであると思い、日本を独伊から遠ざけようと努力したのであった。来栖は、鮎川に以下の見解を示した。

①独ソ不可侵条約は近い将来破棄されるであろうから、鮎川は独ソ戦争開始後に、渡米すべきである。
②日本は太平洋で米英と戦争せず、平和を維持すべきである。
③日本はソ連と友好関係を維持すべきである。

これら三つの条件が確立されれば、日本の国際的地位は強くなるであろう。鮎川は、来栖の外交動向分析に共感して、①が起きることを静観しながら②と③を確立する外交戦略を支援しようと思った。しかし、両者とも、半年後に来栖が、近衛内閣の方針で日独伊三国同盟に署名することになるとは予想できなかった。

8.4 ディロン・リード投資銀行とオライアン訪日団 P204-P221

P204 鮎川が帰国したときにはすでに米内光政を首班とする内閣が成立し、米国との和解に努力を傾けていた。春にドイツが破竹の勢いで欧州での戦争に勝ち進むと、日本の国内政治では枢軸国を支持する風潮が強まっていった。このような状況下で、鮎川の側近で欧州から米国に渡った三保幹太郎は、米国で日米関係の改善について国務省幹部、米国財界人と会談をしていた。P205 1940年5月から7月中旬の米内内閣崩壊までの時期、日本に対米関係を大きく改善させるチャンスが訪れた。鮎川たちは、三保を通じて、米国が満州国承認と日本主導の東アジア秩序を受け入れるよう対米工作を行った。

ドイツが破竹の勢いで欧州における勢力拡大を遂行してゆくなか、ローズヴェルト大統領は、太平洋における日本との妥協を検討する姿勢を示した。5月から7月にかけて、ローズヴェルトは、日米の外交官に両国の関係打開を話し合わせたのである。6月と7月のセーヤー・有田、グルー・有田による公式会談の最中に、日本の財界は、米国との和解に大きな努力を払い、日本と満州国の工業化のために必要な米国の経済援助を得ようとした。(中略)

P211 英仏連合軍が6月4日ダンケルクの戦いに敗北し、イギリスが大陸から撤退する状況になるなか、日米両政府は、グルー大使と有田外相が、太平洋不可侵条約を構想する話し合いを、ドイツがフランスへ侵攻を開始した6月10日に再開した。この件は、有田・セーヤー会談で話し合われていた。その内容は、太平洋における植民地の地位や所属関係の変更は、平和的手段のみによって行われるというものであった。

また、日米通商航海条約を復活させるために、経済機会の均等の原則にもとづく国際貿易秩序に日本が同意することを国務省は求めていた。これに対し有田外相は、日米は双方の太平洋における影響圏を認めあうこと、蒋介石政権への米国の援助をやめること、日本が主導して形成する中国の経済秩序に米国が同意して支援すること、そして新しい日米通商航海条約を成立させること、を求めた。

しかし、6月28日、有田はグルーに対し、日本政府は欧州の大戦に不関与の立場をとるものの、米国が提案してきた太平洋不可侵条約のような暫定協定への同意を明言することは避けたいと伝えてきた。一方グルーは、米国が抗議している日本帝国内における閉鎖的経済政策や中国における米国経済権益を日本が排除していることについて話し合いたいと有田に伝えたが、日本側はまず日米通商航海条約を復活することが先であると主張したのであった。

7月6日のグルー・有田会談は、ローズヴェルト大統領の発言が追い風になるように見えた。大統領は、西半球、欧州、アジアにおけるモンロー宣言を認めようとするかのような発言をしたのであった。これは、米国が西半球、ドイツが欧州大陸、そして日本がアジアにおいて影響力を維持することについて日独米が相互に認め合うことを提唱することを意味していた。

P212 大統領のこの発言は、有田が6月29日にラジオ演説を行った内容にあたかも呼応するかのようであった。この演説で有田は、米国が西半球における影響圏、日本がアジアにおける影響圏、そして日独米が相互に不介入を約束しあうことを提唱していた。しかし、米国のマスコミと中国がローズヴェルト大統領を批判し始めると、大統領は、ただちに発言を撤回したのであった。

オライアンたちが6月29日東京に到着すると、グルーはただちにオライアンと会談を行い、現在の米国政府の対日政策について解説した。(中略)オライアンの招請を日本側で担当したのは、澤田節蔵であった。(中略)7月13日、オライアンは、宿泊先の奈良からローズヴェルト大統領に手紙を書いた。オライアンは、極東における米国にとって重要な国は、中国ではなく日本であり、日米は太平洋における平和の維持のため協力すべきであると論じた。(中略)オライアンが日本帝国の影響圏内を視察した時期は、グルーと有田の会談が行われていた時期であり、鮎川が訪米を画策していた時期でもあった。

P213 7月1日、駐日米国大使館は、ハル国務長官宛に、ビジネスマンでグルーと鮎川双方の友人であったロバート・モスが新京で鮎川と会談を行ったときの会談内容を報告した。鮎川は、春に渡米できなかったものの、今度こそ渡米したい意向をモスに伝えた。そして訪米が実現した場合、ローズヴェルト大統領にドイツ工場視察で見聞したことを話すとともに、日米関係改善の方策について話し合いたいと鮎川がモスに語ったことが電報で国務長官に伝えられていた。(中略)ヒトラーは、鮎川を利用して、枢軸国に近づく日本外交に反対する日本の財界を懐柔しようとしていたと鮎川はモスに話した。鮎川は、米国が数百万ドルの資金を日本に供与することを出発点に日米が極東における平和維持で協力することを、モスを通じて米国政府に求めていたのであった。(中略)

P215 鮎川が日本国内で政府関係者に日米関係打開に関する根回しを行うなか、三保はディロン・リード投資銀行のクラレンス・ディロンとの会談内容を鮎川に報告した。ディロンは、米国金融界の有力者であった。ディロンによると、もしも日本が欧州大戦について米英側につくのであれば、米英そしてフランスのヴィシー政権は、中国問題について日本と共同して恒久的解決を行えると論じたのであった。日本が米英側につくのであれば、ディロンは、米国政府に大規模な米国投資を日満中に行うよう説得すると語った。そして日本に、蘭領インドシア、仏印、そして香港の商談を斡旋するとも働きかけたのであった。英国は米国の支援に依存しているので、米国が提案する日中戦争打開案に同調するであろうとディロンは三保に論じていた。ディロンは、日米間の正式なルートは使い物にならず、上記の提案を自ら推進すると三保に述べていた。(中略)

三保がこうした極秘情報を鮎川に伝えた時期、ディロンは、ディロン・リード投資銀行社長から大統領補佐官に就任したジェームズ・V・フォレスタルに連絡を取っていた。P216 三保によればモルガン投資銀行は英国支持派で反日派でもあった。ディロン・リード投資銀行は、秋の大統領選挙の候補者であったローズヴェルト大統領と共和党のウィルキー双方と良好な関係を保っていた。

国務省は、鮎川の訪米について関心を持つようになった。7月3日、ハル国務長官は、グルー大使に電報を送り、鮎川の対米関係改善案の提案について、米政府は関心を持って検討したと伝えた。ハルは、米国が日満中において日本と共同で経済開発を行うことについては否定的ではあったが、鮎川のいう日米協力関係の構築については、賛同するところがあった。そこで、ハルはグルーに対して、鮎川が日本の支配階層のなかでそのような日米協力を支持する基盤を形成するよう求めることを伝える指示をしたのであった。

そしてハルは、鮎川の訪米は、あくまで本人の自発的イニシアティブにもとづくものであって、米国政府あるいは駐日米国大使館の招請によるものではなく、鮎川が米国滞在中、米国政府高官がまず彼が提案したことについて話し合おうとグルーに伝えた。鮎川がローズヴェルト大統領に会談できるかについてハルは、もしそのような依頼が駐米日本国大使から行われ、もしも大統領の予定表に空きがあるのであれば会えるかもしれなとグルーに伝言した。(中略)

P217 グルーは、鮎川が主張する本人の陸軍への影響力が、実際どの程度あるのか測りかねていることをハルに伝えたが、米国政府が鮎川の訪米を歓迎する姿勢を示し、話し合う用意があることを伝えることで、日本への経済支援について何ら事前に確約することなく、日本の軍部内で実行されるかもしれない新たな過激な対外行動を少なくとも先送りさせる効果があるかもしれないと分析した。グルーは、こうしたことをモスと相談の上、国務省が鮎川の訪米を容認するする姿勢を示すことをハル国務長官に進言した。

グルーがハルに進言を行っていた時期、三保は鮎川に、陸軍に鮎川構想をへの同調を強く働きかけることを進言していた。三保は、鮎川の訪米には陸軍がら代表者を同伴させる必要があるかもしれないと鮎川に伝えてきた。三保は、ホワイトハウスへの働きかけを、ディロン、フォレスタル、そしておそらくバルークを通じて行っていた。バルークは、第一次世界大戦中、米国産業界を戦争経済へと移行させ移行後の運営を担当した戦時産業局の長官で、ディロンを財界人に育てた人物であった。ディロンは、同局でバルークの部下として活躍したことが人生の転機となっていた。民主党の議員や関係者に強い影響力を持っていたバルークは、ローズヴェルト大統領には次章で述べるように敬遠されてはいたが、一定の影響力を持っていた。

三保はこの三人を通じて、ホワイトハウスに鮎川こそ日米通商航海条約の復活や、対日経済援助を話し合うもっとも適当な人物であることを売り込んでいた。三保とバルークは、日米の和解と米国の満州承認に至った段階で米国から10億ドル融資を調達することについて話をしていた。東京では鮎川が政府と軍の関係者やグルー大使と会談をおこない、三保を通じて実現しようとしていた訪米の支持を得ようとしていた。

国務省内では、鮎川に対して訪米を促す文案が作成されていた。7月10日、極東部のハミルトンは、覚書を作成した。P218 彼はそのなかで、米国政府は対日関係改善についてあらゆる選択肢を検討すべきであると論じ、鮎川の訪米によりどのような結果が得られるかが判明するまでの期間、日本の軍部が枢軸国として行動することを妨げるかもしれないと考察した。

同日、ハル国務長官は、7月8日にグルーかハルに進言した内容を取り入れた指示書を送っていた。ハル国務長官は、7月12日グルー大使を通じて、鮎川が訪米することを歓迎することを示唆した。鮎川が訪米した場合、鮎川がグルーあるいは三保を通じて提唱してきたことについて話し合う用意が米国政府にあると、ハルは鮎川に伝えた。しかし、米国政府がこうした提唱にどのように反応するのかについては、言及を避けていた。

鮎川はグルーから、米国政府が鮎川の訪米を明確に招請する文面こそ渡されなかったものの、その文面は鮎川のイニシアティブだけによる訪米ではないニュアンスも伝わる内容でもあった。鮎川の訪米を歓迎するものの、それを明確に求めていない文面に鮎川は不満ではあったが、ついに、外務省と陸軍から訪米の支持を取り付けるために必要な米国政府からの文書が届いたのであった。鮎川は木戸内大臣に、日米関係打開の機会が訪れており、ローズヴェルト大統領が鮎川のドイツ工場視察について話を聞く用意があって、その見返りに米国が日本に10億ドルの経済支援を行うかもしれないと、強気の観測を語ったのであった。

グルーから12日にハル国務長官の文書を受け取ったのは、鮎川が満州国へ向かう一時間前であった。当初の予定では、新京へ行き、関東軍から鮎川構想への支持を取り付けることで、関東軍を通じて陸軍省の支持を取り付けるつもりであった。鮎川は、米内内閣が崩壊するかもしれない政治的危機のなかで行動していた。グルーからの文書が渡されたため、鮎川は新京行きを取りやめ、新京で行う予定であった連絡を東京で行い、関東軍への根回しは後手に回った。

先に三保が鮎川に伝えていたように、加藤公使が15日に東京に到着する予定であった。鮎川は岸本に加藤公使を出迎えさせその後、伊藤文吉と会うこととなっており、加藤と伊藤は今後のことについて打ち合わせを行う予定であった。P219 三保は鮎川に、大統領の周辺ではにわかに、鮎川と三保が提唱してきた日米経済提携について関心が高まってきた印象を得ていると自信あふれる通知を送ってきた。

三保は、鮎川にホワイトハウスとのハイ・レベルの連絡網を確保していることを米内首相と有田外務大臣に伝えるよう要請したのであった。三保は、鮎川の訪米の際、加藤公使が同伴するはずであるとし、故斎藤駐米大使以上にワシントンで敬愛されている加藤公使は、鮎川が米国政府関係者と中国問題や日米通商航海条約の復活について話し合う際、強力な補佐役になるであろうと論じていた。

おわりに
鮎川や三保たちの努力は、加藤公使が東京に到着した15日、米内内閣(1940.01.16-07.22)の崩壊によって水泡に帰してしまった。陸軍が米内内閣から陸軍大臣を引き揚げ後継人事を行わなかったためであった。後継首班は、鮎川もよく知っていた近衛文麿であった。日本の国内政治がドイツの欧州における軍事作戦の成功により枢軸国支持へ傾いていくなか、鮎川は右翼団体に狙われるようになり、すばやく動けなかったことを残念に思った。

鮎川は、ローズヴェルトに満州国を承認させ、五億ドルから10億ドルの支援を得ながら日中戦争の解決を米国の仲介で実現し、日本主導の中国における秩序を確立していく絶好の機会を失ったことを悔やんだ。鮎川構想により日米協力のもとで確立せんとする東アジア、ひいては世界平和の構想は幕を閉じた。

鮎川が主張するほどに彼が軍部に影響力があったのならば、そして彼が近衛内閣の外務大臣に指名されていたならば、その後の日米関係はどのような展開になったであろうか。近衛は米国政府と鮎川の秘密交渉は知っていた。というのも鮎川が米内首相と近衛にこのことを報告していたからである。鮎川は、これまで三回大臣になる打診を断っていたが、今回は打診があった場合受け入れる決意を固めていた。外相に就任して、三保、ディロン、フォレスタル、バルークを介した対米交渉を続けたかったのであった。

P220 近衛が首相になった際、伊藤文吉男爵は、7月16日、鮎川を外務大臣にするよう首相に働きかけた。伊藤は伊藤博文の息子で、鮎川の親戚であると同時に側近でもあった。結局、残念ながら近衛は鮎川のライバル松岡洋右を選んだ。松岡は、米国との関係改善は、枢軸国側と日本がより緊密な関係を築いた上で行う、という見解の持ち主であった。7月末、米国有力紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』と『読売新聞』などの一部の日本の新聞は、鮎川が次期駐米大使に任命されると報じたが、これは誤報であった。

米内内閣に伴う日本国内混乱のため、鮎川は、満州国を訪問していたオライアン訪日団と新京で会談を行えなかった。国務省は、オライアンが満州国の経済開発状況について、好意的な見解をマスコミに語っている情勢を注意深く監視していた。そして、8月3日、米国務省は、UPI(ユナイテッド・プレス・インターナショナル)通信社に対して、オライアン元少将は、米国政府に登録手続きを行った外国の利益を代弁する人であり、具体的には日本経済連盟会のそのれを代弁していると発表した。オライアンは、前払い金の謝礼一万五千ドルを受領しており、これは、彼の発言に制約を課す条件が付けられていると国務省は指摘したのであった。

   (中略)

P221 日本が9月27日、日独伊三国同盟に署名したことで、鮎川が期待していた米国の満州国承認と日米関係改善は不可能な情勢となった。

9.2 日米交渉とフーヴァー、ストロース P232-P240

P232 鮎川は橋本徹馬の対米工作と井川・岩畔工作(米国側の呼称はジョン・ドゥ・アソシエーツ)を支持した。井川・岩畔工作には、米国側の窓口となった二人の神父(ジェームズ・ドラウト、ジェームズ・ウォルシュ)を日本に紹介したクーン・ローブ投資銀行のルイス・ストロースが関与していた。橋本工作は井川・岩畔工作より前に展開し、橋本と国務省の間で交渉されたことの多くは井川・岩畔工作に引き継がれた。

近衛内閣と軍部の有力者は両工作を支持していたが、井川・岩畔工作が有望と判断された結果、橋本は帰国後無視された。井川・岩畔工作は、1941年春、野村とハルの日米交渉に発展していったが、米国政府は、井川・岩畔工作を支持していた鮎川については、松岡の親類という間違った情報も手伝って、不信感を抱いていた。

ジョン・ドゥ・アソシエーツの活動のきっかけをつくったのは、フーヴァーに支持していたルイス・ストロースであった。彼は、クーン・ローブ投資銀行が財務上の助言を行っていたニューヨークに本部を構えるカトリック宗派メリノール協会の二人の神父、ドラウトとウォルシュの訪日の斡旋を行った。両神父が日本でキーマンとして接触したのは、産業組合中央信用金庫理事井川忠雄であった。

井川は、1920年代財務官として勤務していたニューヨーク市で、ストロースとフーヴァーと懇意になった。彼は、一高での近衛首相の同期生であった。この日米の民間人の接触に日本陸軍も関心を抱き、満州国建国に関東軍参謀(1932年8月から34年8月)および対満事務局事務官(1934年12月から1936年8月)として深くかかわった岩畔豪雄軍務局軍事課長が、井川を補佐することになった。近衛首相もこの動きを支援するようになった。

井川は、クーン・ローブ投資銀行がモルガン投資銀行と違い反英的であったが、ドイツのナチス政権が反ユダヤ人のイデオロギーを掲げていたために、ドイツに好意的でないと見ていた。(中略)ストロースの日本に対する対応は慎重で、日独三国同盟を結んだ日本に対してはなおさら警戒感を抱いていたといえよう。それでも、ストロースは、フーヴァーと世界観を共有していたため、日米関係の悪化を懸念していた。(中略)

P234 鮎川は1月に、米国大使として渡米直前であった野村吉三郎と会っていた。その鮎川は野村に、来栖がベルリンで前年鮎川に語っていたことを述べていた。すなわち、独ソ不可侵条約は近い将来両国の対立により破棄されるであろうから、その場合日本は、枢軸国側からただちに英米側につくべきであると論じていた。それを機に、野村は米国資本を満州に投資するように訴えてほしいと述べたのであった。

他方で鮎川は、来栖の後任大島浩駐独武官が盲目的な親独心酔者で、日本の国益を守らず、ヒトラーとリッベントロップの餌食になっていると批判したのであった。大島は、1936年の日独伊防共協定を推進した中心人物であり、ヒトラーとリッベントロップに気に入られていたが、ヒトラーたちは、日独伊三国同盟に反対であった来栖を嫌っていた。

日独伊三国同盟推進派であった岩畔は、大島の暴走に歯止めをかける必要性について理解を示す見解に止める一方、来栖と米国で会い、彼が米国に留まる説得を行うことに同意した。(中略)

P235 来栖はドイツより帰国する際、本省の許可をえて、シベリア鉄道経由ではなく、米国経由で戻ることにした。その理由は、ワシントンで、野村大使と対米関係の改善について意見交換を行いたかったことと、現地の空気を把握したかったからであった。ベルリンを離れる直前、来栖は、米国人外交官リーランド・モリスに、日米関係は崖っぷちにあり、日米関係の平和的解決にむけてあらゆる選択肢を検討しなければならないと論じていた。(中略)

P237 ハル国務長官は、デーヴィスのから来栖の反枢軸国の姿勢について報告を受ける一方、ドラウトとウォーカーから鮎川の来栖宛の電報についても報告を受けていた。ハル国務長官は前年6月から7月にかけて、グルーより鮎川の対米関係改善の活動について報告は受けていたが、ドラウトとウォーカーからの報告は、鮎川について非常に否定的な見解を示していた。

彼らは鮎川について、「松岡の従兄」、「枢軸国支持派」、「日米交渉に懐疑的」と間違った人物像をハル国務長官に伝えていた。また鮎川が、日米交渉の進展により、満州における独占的な経済的地位を失うことを恐れていると、事実無根の分析を行っていた。

サンフランシスコに岩畔が着くと、一足早く到着していた井川が彼を出迎えていた。彼らは、さらに来栖の到着するのを待った。来栖は到着後、彼らと会談した際、英国を過小評価すべきでなく、ドイツは英国に勝利することは困難であろうと論じた。また、近いうちにドイツはソ連攻撃を行うであろうと推測した上で、その場合、スターリンはヒトラーを長期戦に引きずり込むであろうから、二正面作戦を強いられるドイツはやがて敗北するであろうと述べたのであった。

来栖は、井川と岩畔に対して、日本にとって最良の選択肢は、米国側につき、枢軸国から距離を置くことであると論じた。来栖は、ウォーカー郵政長官の後ろ盾を得ているいまこそ井川と岩畔は日米交渉を早急に推進してこの機会を最大限に生かし、日米関係の改善を図るべきであると激励したのであった。この数時間に及ぶ会談の中で、井川と岩畔は来栖が米国に留まることを勧め、野村がそのように本省へ働きかけるよう依頼するといった。

P238 しかし来栖は、固辞した。戦後、三人はこのことを後悔した。岩畔によると、野村大使を除いて大使館のスタッフは、井川と岩畔の活動に協力的ではなく、もしも来栖がいたならばそのような事態を打開して、これが日米交渉の進展に貢献したのではないかと回想した。(中略)

P242 米国の対日姿勢が特に厳しくなったのは、3月に武器貸与法が連邦議会で可決された後であった。1941年の最初の数か月は、米国の対日経済輸出に対するまだら模様のの規則が、国務省のディーン・アチソンを代表格とする反枢軸強硬派により完全な対日経済戦争へ移行していった時期であった。1941年の一連の日米交渉は、まさしく米国の情け容赦ない対日経済制裁が深化してゆくなかで展開していった。

このような対日経済制裁強硬派の中心的存在であったアチソンは、1941年1月、国務省経済担当国務次官補として、8年ぶりにローズヴェルト政権に戻っていた。彼は、7年前に財務長官に就任して以来対中経済援助にもっとも理解を示し、また、1937年以降もっとも対日強硬派であったヘンリー・モーゲンソー財務長官(ユダヤ系米国人)と連携しながら、対日経済制裁を推進していった。(中略)

P243 日本の陸海軍が対米関係の維持を希望したのは、まずは米国からの石油が必要であったからであった。しかし、航空燃料は、日本軍の北部仏印進駐直前の1940年8月、対日輸出が禁止されてしまっていた。

太平洋戦争の起源を研究する学者たちの大半の見解に従えば、日本の対米戦争の時計の針が開戦に向かって動き出す事態を招いたのは、1941年7月下旬の日本軍による北部仏印から南部仏印への進駐であった。8月9日、カナダのニューファンドランド沿岸部の沖合で開催された米英首脳会談で、ローズヴェルト大統領とチャーチルは、日本の南進と北進を封じ込める政策を推進することで一致した。

それまで英米首脳は日本との関係改善を模索していた。しかし障害となったのが、日独伊三国同盟と日中戦争であった。見たように武器貸与法は、英国に対する支援としてただちに適用されたのみならず、5月6日以降中国に対しても同法にもとづく軍事援助が行われるようになった。そして独ソ戦が始まった6月22日以降には、ソ連に対しても同法にもとづく対ソ軍事援助が行われることとなった。



9.9 12月上旬の野村・来栖

P268 しかし、木戸内大臣の11月29日の日記が記しているように、天皇周辺の英米穏健派の声は、戦争を唱える声をもはや抑えられるような情勢ではなかった。彼らにとって1936年の2.26事件の記憶はいまだ鮮明なものであった。昭和天皇が終戦の翌年春に回想しているように、もしも開戦に反対すれば、反対派は血生臭いクーデターで殺され、より過激な政権が誕生していたであろうと語っていた。

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