2018年12月16日日曜日

偏愛メモ 『金融恐慌1907』

解説---過去の金融危機は将来の金融危機を考える素材 中岡望(翻訳者)Ⅲ-XXⅢ
(中略)
中央銀行設立を巡る政治的対立
(中略)
(解)5 まず、米国の金融恐慌の背景には米国の特殊な金融制度がある。その歴史を理解しないと、なぜ繰り返し米国で金融恐慌が起こったのか理解できないだろう。他の国と違って米国の金融制度は「連邦準備制度」と呼ばれる。米国を十二の地域に分け、各地域に連邦準備制度を置き、政策決定と連邦準備銀行を管理する組織として連邦準備制度理事会が設置された。組織的には、連邦準備制度理事会(解)6が他の国の中央銀行の役割を果たしている。

連邦準備法が成立したのは一九一三年である。英国の中央銀行であるイングランド銀行が設立されたのは一六九四年、日本銀行が設立されたのは一八八二年であるから、米国の中央銀行組織の設立は他の国と比べると大幅に遅れたのである。

米国の中央銀行設立は深刻な政治問題であった。米国が独立を果たし、ジョージ・ワシントン政権が誕生したとき、最初の財務長官を務めたのはアレキサンダー・ハミルトンであった。同長官はイングランド銀行と同じような政府の銀行を設立する必要性を説いた。新政権が発足したとき、米国は膨大な戦争債務を抱えていた。連邦政府と州政府は戦費を調達するために戦争債を発行しており、その償還をどうするかが新政権の最大の問題であった。

ハミルトン長官は、戦争債を管理するためには政府の"財布"の役割を果たす中央銀行が必要だと説いて、その理由を三つあげた。
・中央銀行設立で生産に向ける資本を拡充すること
・金や銀に代わる銀行券の発行ができるので、経済により多くの信用を提供できること
・銀行は融資を通して産業や商業の育成を図り、それによって国を豊かにすることができる
ということである。さらに、実務的に財務省が資金不足に陥ったとき融資する銀行が必要であり、政府資金の管理や財務省証券の発行や利払いなどの実務を担当する"政府の銀行"が必要だと議会の説得に努めた。

だが、新議会の指導者であるジェームズ・マディソン(後に第四代大統領に就任)は中央銀行設立に協力に反対した。また、独立宣言を起草し、個人の政治的自由を守るのが建国の理念であると説いたトーマス・ジェファーソン国務長官(後に第三代大統領に就任)はマディソンの主張に同調した。彼らは、(解)7強い中央集権的な政府は個人の政治的自由を抑圧すると考えており、中央政府は"小さな政府"であるべきだと考えた。同じ論理から、中央集権的な中央銀行の設立も銀行資本家を利するだけで、抑圧的な存在になることを懸念した。

そうした背景には、次のような事情があった。ハミルトンの背後にはニューヨークの金融家やニューイングランドの産業家がいた。他方、マディソンとジェファーソンを支持したのは、ニューヨークの銀行家に支配されるのを嫌った南部のプランテーションの所有者や中小企業家であった。中央銀行設立を巡る争いの背後には、金融・産業資本対農業資本の戦いと北部対南部の地域的な対立があった。

最終的に中央銀行設立の反対派は、首都をニューヨークから南部に近いワシントンのポトマック河畔に移すことを条件に、中央銀行設立に同意した。一七九一年に議会は「合衆国(The Bank of the United States)」設立の認可を与えた。認可の期間は二〇年で、認可を延長する場合、議会の承認を必要とした。

当時、州を越えて営業を行っていた銀行はアメリカ銀行とマサチューセッツ銀行、ニューヨーク銀行の三行しかなかった。合衆国銀行の設立で、全国に支店網を持つ銀行が誕生し、不十分とはいえ、やっと全国的な金融制度ができあがった。

合衆国銀行は資本金一〇〇〇万ドルで設立された株式会社で、政府が二〇〇万ドル出資し、残りの八〇〇万ドルの株式は内外の投資家に売り出された。当時の銀行の総資産額が二○○万ドルに達しておらず、米国に突如として超巨大銀行が登場したのである。株式市場は合衆国銀行の株式の公募で沸き上がり、その価格は信じられない高額となった。合衆国銀行は巨額の資金を背景に政府への融資(解)8や資金繰りに””行き詰った銀行に融資を行う"最後の貸し手"の役割を果たすことになる。

だが、中央銀行設立反対論は消えることはなかった。最初の中央銀行設立を巡る対立は、米国の政治的な対立の骨格となった。賛成派のハミルトンらは政府が積極的に経済や社会にかかわるべきであるという"大きな政府"を主張したのに対して、マディソンなどの反対派は"小さな政府"こそ望ましいと考えた。さらに反対派は、議会が中央銀行設立の認可を与える権限はない、憲法違反論を展開した。こうした議論は、一九一三年に連邦準備制度が確立するまで続いた。)

一七九〇年代の米国経済はブームに沸いた。(中略)だが、政府は財政状況が悪化したため、資金調達を迫られた。選択肢は増税か合衆国銀行の株式売却であった。(中略)合衆国銀行は完全な民間銀行となった。政権はハミルトン派のフェデラリスト党から反ハミルトンは派の民主共和党に移った。ジェファーソンは三代目大統領に就任し、
「私は、金融機関は常設軍以上に私たちの自由にとって危険であると信じている。米国が民間銀行に通貨発行の管理を任せるなら、まずインフレによって、さらにデフレによって、銀行と銀行の融資で成長した企業は国民の財産を全て奪い、気が付いたら子供たちは、父親たちが獲得したこの大陸でホームレスになるだろう」
と変わらぬ銀行批判を展開していた。合衆国銀行は二〇年の認可が切れるのを控え、一八〇八年に議会に認可の延長を申請した。だが、(解)9一八〇九年に中央銀行設立でハミルトンと対立したマディソンが大統領に就任し、議会は認可の延長を拒否した。

こうして合衆国銀行は、民間銀行としてやがて消え去っていった。ハミルトンの夢は潰えたのである。

復活を果たしたが、再び廃業に
しかし、中央銀行を巡る争いはさらに続く、一八一二年に第二次米英戦争が勃発する。政府が戦費を調達することのできる合衆国銀行は、既に存在していなかった。一八一三年三月に当時の財務長官はマディソン大統領に宛てた書簡の中で、「政府は月末までに戦争を続行するための十分な資金を調達できない」と資金状況を説明している。

そのためマディソン政権は財務省証券を発行し、三人の大金持ちから借り入れをする一方、金などの正金の裏づけのない政府紙幣を発行し、さらに消費税引き上げで戦費を賄った。戦争が終わったとき、連邦政府の債務は一億二〇〇〇万ドルに達していた。これは当時のGDPの約十五%に相当した。財政基盤の弱い政府に債務返済能力があるかどうかが問われた。(中略)

(解)10再び中央銀行の設立を求める声があがった。そうした声の高まりを受けて、マディソン大統領は自らが廃止した合衆国銀行の設立を決意する。一八一六年に議会は合衆国銀行の設立に許可を与えた。認可の起源は二〇年で、資本金は三五○○万ドルに設定された。最初の合衆国銀行と区別して、新しい銀行は第二合衆国銀行と呼ばれた。民間からの出資も仰ぎ、第一合衆国銀行と同様に半官半民の銀行として設立された。ダラス財務長官は第二合衆国銀行の役割を、「単に通商促進や利益を求める商業銀行として活動するだけではなく、国の政策を達成するために創設された金融機関である」と述べている。

具体的には、政府に代わって徴税を行い、政府の歳入資金を預金として受け入れ、政府の指示に従って支払いを代行した。(中略)第二合衆国銀行は盤石な基盤を構築したかに見えた。海外からも米国の中央銀行と認知されるようになった。

(解)11だが、第二合衆国銀行は法的には国が認可した一つの国法銀行であり、他の民間銀行と基本的に変わらなかった。州が認可した州法銀行は、第二合衆国銀行の強大な権限に反発し始めた。また農業を基盤とする南部諸州は第二合衆国銀行に積極的な信用拡大を求めた。だが、東部の諸州は健全な金融政策を求め、金融政策をめぐる南北の対立が表面化するようになった。

そうした中で民主党の創始者であり、第二次米英戦争の英雄であったアンドリュー・ジャクソンが一八二九年に大統領に就任した。ジャクソン大統領はジェファーソン的な農本主義者で、第二合衆国銀行に限らず銀行そのものに対して否定的な見方をしていた。選挙の公約に第二合衆国銀行の廃止を掲げていたジャクソン大統領は、大統領就任後の一般教書演説で、第二合衆国銀行の違法性を指摘している。一八三二年に第二合衆国銀行の認可延長の法案が提出され可決されたが、ジャクソン大統領は拒否権を発動し、延長法案への署名を拒否した。

その際、「富裕層は等しい保護と等しい恩恵を受けているだけでは満足しない。議会に自分たちがもっと裕福になれるようにと請願している」と語り、第二合衆国銀行は腐敗の巣窟であると口を極めて批判した。現在の民主党の反金融機関的な主張は、ジェファーソンやジャクソンにまで遡ることができるのである。(中略)

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