五 十二世紀ルネサンスと告解 P77-93
しかし十世紀のヨーロッパにはこのような条件はなかった。すでに第二節で述べたように、聖なるものの位置がちがってしまい、キリスト教徒になることは、個人的決断も問題ではなく、社会の大勢に順応することにほかならなかった。
いわば教会は、古典時代どころかより古い時代、旧約の時代に戻ろうとしていたのである。コリン・モリスがいうように、この頃の教会はパウロが書簡を送ったギリシャ諸都市に散在していた小共同体ではなく、むしろイスラエルの神の王国に近いものになりつつあったからである。使徒の世界より、ダヴィデの世界の方が、中世キリスト教にとっては近いものになっていたのである。その証は、八世紀以後、新しい王権論が生まれ、国王がダヴィデのように塗油されることになる事実にも、見ることができる。したがってこの頃教会は、個人の信仰というよりも典礼を重視し、典礼国家を作り上げていたのである。
農民が最低限度の生活必需品にも事欠いていたときに、教会の共同体は、巨大な建築物をつくりあげ、選ばれた少数の者にしか解らない言葉で儀式を挙行していた。コリン・モリスは、それを、「高尚な文化遺産をもつ野蛮な社会」と呼んでいる。(→関連「有閑階級の理論」)
M・フーコーは次のように述べている。「個人としての人間は、長いことほかの人間たちに基準を求め、又他者との絆を顕示することで(家族、忠誠、庇護などの関係がそれだが)自己の存在を確認してきた。ところが彼が自分自身について語り得るか、あるいは語ることを余儀なくされている真実の言説によって、他人が彼を認証することになった。真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきたのである」。
フーコーは、西洋において個人が成立してくる最大のきっかけとして、告解の普及を見ているのである。個人の成立には、コリン・モリスが指摘しているようにさまざまな条件が絡んでいるのだが、ここ
六 男女の性的関係は中世では罪であった P93-110
贖罪規定書には、殺人や反逆、主人に背く行為その他の行為があげられているが、これらの外面的に現われる行為ではなく、少なくとも外には見えない性的関係が告解の中でとりあげられたことが、西欧における個人の成立に極めて大きな意味をもっていた、と考えられるからである。ヨーロッパにおいては、このような個人の内面に対する上からの介入を経て、近代的個人が成立する道がつけられたのである。告解は、強制された形ではあるが、自発的な自己批判であり、わが国においては、公的なものと結びついた形でのこのような自発的な自己批判の伝統は、ほとんどなかったのではないだろうか。
わが国で、学者の間ですら論争が少ないのも、そこに原因があり、敢えてそのようなしがらみを破ろうとすれば、人間としての全存在を否定されるような結果を招きかねない。基本的には個人の努力を評価しながらも、全体の中では目立たないことが求められ、能力があることを誇ったり、結果としてそれが現れてしまうと、本人は常に頭を低くしていないと酷い目にあわされることがある。これはいわば部族社会や身分制社会の人間関係であり、内部においては各人に平等な位置を与えようという姿勢であるかぎりで評価しうる面をもっているが、たとえば談合のないばあいのように、そこにかかわらない第三者が犠牲になるばあいが多いのである。
このような人間関係のあり方は、わが国における個人や人格の位置づけと極めて深い関係にある。本章は、ヨーロッパ中世において個人・人格が形成されてくる出発点を展望しようとしたものであるが、贖罪規定書にみられるように、部族社会の俗信や慣習、迷信から離脱することが個人の責任において求められ、それが同時に教会の名のもとで強制されている点に注目しなければならない。男女の性関係は、個人と集団の関係の中で重大なつながりをもつものであり、俗信や迷信からの離脱と男女の性関係の規制には深い関係がある。
性関係において人間が自然から離脱しようとしたことと、俗信や迷信にみられる古来の伝統的宇宙観からの離脱は、並行して行われているように見える。わが国では、その何れもが離陸にいたらず、今日に及んでいる。そのこと自体は決して遅れでも未開を意味するものでもない。問題は、男女の性関係と人間の自然との関係をどのようにバランスをとりながら位置づけていくか、にある。