2019年6月13日木曜日

偏愛メモ 『ウォール・ストリートと極東』

Ⅱ 国際金融資本とワシントン体制(相互参照) P36-137

5 ウォール・ストリートと満蒙 P106-137
(P106)

5.1 はじめに P106-109
P106 南満州鉄道株式会社および東洋拓殖株式会社は、日露戦争後から一九二〇年代後半にかけて、それぞれ数回にわたって、外国金融業者を通して、外国市場において社債を発行し募集した。それらはいずれも、日本が日露戦争を通して獲得したアジア大陸における領土および権益を、維持し拡大する目的に奉仕するものであった。まず満鉄外債として現実に発行されたものは、次の五つである。
  1. 一九〇七年七月 五分利付英貨社債四〇〇ポンド(三九〇五万円)
  2. 一九〇八年六月 五分利付英貨社債二〇〇ポンド(一九五二万円)
  3. 一九〇八年一二月 五分利付英貨社債二〇〇ポンド(一九五二万円)
  4. 一九一一年一月 四分利付英貨社債六〇〇ポンド(五八五七万円)
  5. 一九二三年七月 五分利付英貨社債四〇〇ポンド(三九〇五万円)
いずれも英貨社債であり、引受銀行団は英国銀行団であった。

P107 また東洋拓殖については、現実に発行されたものは次の三つである。
  1. 一九一三年三月 五分利付仏貨社債五〇〇〇フラン(一九三五万円)
  2. 一九二三年三月 六分利付米貨社債一九九〇ドル(三九九一万円)
  3. 一九二八年一一月 五分利半付米貨社債一九九〇ドル(三九九一万円)
日仏銀行(参照)を通して発行された第一回外債を別にすれば、他の二つはいずれも米貨社債である。要するに、満鉄外債は英貨建てとして例外なくロンドン市場から調達され、東拓外債はその多くが米貨建としてニューヨーク市場から調達されたわけだある。

以上の事実はいかなることを物語るか。第一は、満鉄に対する英米の態度の違いである。英国は、満鉄に対しては政治的には比較的寛容であった。したがって、英国は政治的見地をはなれた経済的見地からこれを評価し、満鉄外債発行引受には概して協力的であった。

これに対して、米国は、すぐれて国家的利益の観点から、満鉄の存在そのものを問題とし、満鉄に対して一貫して不寛容であった。そしてもっぱら政治的見地から、満鉄外債発行引受に拒否的であった。

このような態度のちがいを生じたのは、一つは英米における"Manchiuria"のもつ意味のちがいである。英国にとっては、"Manchiuria"は中国における勢力圏の外にあり、日露戦争後ロシアの南下が止まった後は、直接に国家的利益に関係する地域ではなかった。

しかも満鉄を経営する日本とは、二○世紀初頭以来、二〇年にわたって同盟関係にあった。英国の満鉄外債発行引受の大部分がこの時期に行われたことは、決して偶然ではない。同盟関係が消滅した後も、英貨社債が流通している限りは、英国にとって日本の満鉄経営が安定したものであることが望ましかったのである。その意味では、英国は、満鉄に関して日本との間に共同の利益をもっていたといえよう。

これに対して、米国にとっては、"Manchiuria"は、一八九九年以来の門戸開放の目的を象徴する意味をもっ

(P108)

P108 ていた。(略)ところで、満鉄に対する英米の態度のちがいをもたらしたもう一つの原因は、政府の政策が資本の行動を拘束する度合いのちがい、いいかえれば資本の自由度のちがいにもあるように思われる。英国の場合、資本は他の欧米諸国に比して相対的に自由であった。資本輸出についても、商品輸出の場合と同様に、基本的にレッセ・フェールの原則が貫かれた。

イングランド銀行や証券取引所の政府からの自立性の高さは、その現れであった。すなわち英国においては、一般的には、対外金融が外交政策の観点からする政府の干渉から自由であったといえよう。

それに対して、米国の場合、資本輸出は、政府の政策的配慮によってさまざまな規制をうけた。とくに一九二二年三月ハーディング政権がすべての対外借款の国務省に対する照会を命じて以来、国務省がそれぞれの対外借款について、国家的利益の観点から、是非の意見をのべる慣行が確立した。

満鉄外債発行引受についても、もとより例外ではなかった。門戸開放政策は、具体的な対外借款交渉に対する国務省の介入によって実質的意味をもったのである。

以上にのべたように、満鉄に対する英米それぞれの政府の態度、およびそれを反映したそれぞれの資本の態度には大きなちがいがあったが、それにもかかわらず、米国は、満蒙(南満州および東部内蒙古)権益の維持拡大を目的とする日本の政策に対して、全面的に敵対的であったわけではない。

東拓外債発行引受に対する米国の態度は、第一次世界大戦後から満州事変前にかけては一貫して協力的であった。東拓は、一九〇八年(明治四一年)朝鮮開P109発を目的として法律に基づいて設立された国策会社であったが、一九一七年(大正六年)寺内内閣の下で朝鮮経済圏を広域化する政策の一環として、その業務領域を満蒙に拡大して以来、満鉄とならぶ満蒙権益の推進機関であった。日本側は、米国も満鉄外債に対する非協力の補償を、東拓外債に対する協力によって得た。(略)

5.2 一九二二~一九二三年の局面 P109-120
日露戦争後から第一次世界大戦前にかけての創成期の満鉄は、巨額の外国資本を必要としたが、それはもっぱら英国市場に依存せざるをえなかった。その理由は、一つは日本が対中国投資機関として期待した日仏銀行がフランス側の反対によってその役割を果たすことができなかったことであり、もう一つは満州をめぐる対米関係の緊張によって米貨社債発行の現実的可能性がなかったことである。

日露戦争後、セオドア・ローズベルト政権の下で、移民問題および海軍問題をめぐって緊張した日米関係は、タフト政権の満州に対する攻撃的な門戸開放政策によって、さらに緊張を増大させた。

(略、満鉄並行線敷設計画や英独仏米(後に日露も参加)による満州開発借款計画(失敗に終わる)など)

(P110-)

P110 しかるに、第一次世界大戦勃発後、状況は変化しはじめた。第一に米国の参戦によって、一九一七年以降日米は同じ側に立つことになった。そしてこの年石井-ランシング会談によって中国をめぐる日米関係の調整が行われ、米国側は交換公文において日本の中国における「特殊ノ利益」、すなわち"special interests in China particularly in the part to which her possessions are contiguous"を認めた。米国側の解釈によれば、この協定は"negative,not positive"であり、したがって中国の同意を必要とするようなものではなかった。しかし、日本側は、これを、米国が日本の満蒙における特殊的地位を事実上認めたものとみなした。

(略、米仏露英日白(ベルギー)六国による新国際借款団構想など日米経済協力関係が良好であったことが書かれる)

P111 こうして一九一七年以降、中国における日米経済協力の可能性は増大したが、第一世界大戦中、日本においては、国際収支の好転によって金および外貨保有量が顕著に増大し、日本は債務国から債権国に転じた。そして西原借款の例にみられるように、自力による資本輸出が可能になった。従って第一次世界大戦終結までは、日本側においても、満鉄米貨社債発行計画は具体化しなかった。

ところが第一次世界戦争後、一九一九から二三年にかけて、満鉄および東拓の米国資本への接近が始まる。それを促した原因は、第一は満鉄および東拓の業務の拡大である。

(略、業務拡大の内容が書かれる)

P112 こうした業務の拡大に伴う資本需要の増大とともに、満鉄および東拓の米国資本への接近を促したのは、戦争中資本輸出を可能にした国内経済状況の変化(不況化)と金および外貨保有量の減少である。戦争によって豊かになった国内資本が、景気の過熱による輸入超過、さらに西原借款のような経済的効果を生まない資本輸出によって枯渇しはじめたのである。そこで日本としては好むと好まざるにかかわらず、世界最大の債権国となり、金保有国となった米国に対して、満鉄および東拓への資本の供給を仰がなければならなかったのである。

一九一九年三月、満鉄は日本興業銀行に通して、ナショナル・シティ会社に対して米貨社債発行引受を申し入れた。ナショナル・シティ会社はこのことを国務省に通知し、国務省の意見を求めた。ナショナル・シティ会社側の記録およびそれに基づく説明によれば、当時の国務省当局者の態度は好意的であった。

(略、交渉失敗の経緯)

ナショナル・シティ会社側の主張によれば、交渉不成立は国務省の反対によるのではなく、経済的理由によるものであった。

しかし満鉄は再度機会を求めた。翌年三月から五月にかけて、モルガン商会のトーマス・W・ラモントが、日本銀行団との間で新四国借款団協定を締結するための交渉に当たるために、米英仏三国銀行団を代表して来日した。

  参考→『モルガン家(上)』P370

その際満鉄は直接にラモントに対して、またラモントと四国借款団協定交渉を行った日本銀行総裁井上準之助を通して、再び米貨社債発行引受を打診した。そしれラモント帰国後も、満鉄はニューヨークにおいて、ちょうど一九二○年四月から駐在させていた四名の出張員その他を通して、交渉を続行した。

さらに翌一九二一年には、満鉄鉱業部所属の鞍山製鉄所および撫順炭鉱の日米共同経営計画が満鉄からUSスティール会社(U.S. Steel Co.)に対して提案された。USスティール会社がモルガン商会と深い提携関係をもっていたことを考えると、モルガン商会に対して交渉中の米貨社債発行計画とも密接な関係をもっていたことが推測される。

また一九二一年末から一九二二年にかけては、ワシントン海軍軍縮会議を背景として、あらためてニューヨークで満鉄外債交渉が行われた。当時の日銀理事深井英五はワシントン会議随員として派遣され、井上の命を受けてラモントとの交渉に当たった。

一九二〇年の四国借款団交渉も一九二一-一九二二年のワシントン会議もいずれもその背P114後では、こうした米国資本導入のための交渉が行われていたのであり、日本としては米国資本導入を実現するためには、四国借款団を成立させ、またワシントン会議を成果あるものにすることが望ましかったのである。(以下、略)

(P120-)