2019年3月12日火曜日

偏愛メモ『日本近現代史入門』(随時更新)

第三章 朝鮮侵略・満州侵略の歴史 P102-156

3.4 朝鮮の植民地化に着手し、日清戦争を起こして閔妃を暗殺 P121-126
(P120-)

P121ところが日本は、江華島条約で、これら開港場における治外法権と、すべての輸出入貿易商品に対する関税の免除を認めさせ、さらに、朝鮮国内で貨幣制度が確立していないことを理由に、日本の紙幣・貨幣を朝鮮国内で通用させることを認めさせたのである。

釜山に加えて明治一三年に元山(ウォンサン)が開港された。元山は、現在の北朝鮮の首都・平壌の真東にあたり、ソウルから朝鮮北東部への入口にあたる交通の要衝となる貿易港であった。

この東朝鮮が日本人の進出基地となり、後に新興財閥・チッソコンツェルンの朝鮮窒素肥料が興南工場を建設する拠点となり、「朝鮮人を牛馬のように使う」労働が展開されることになる地帯であった。

続いて明治一六年に開港された済物浦(チェムルポ)はソウルの西三○キロにあり、小さな漁村だったが、仁川(インチョン)と呼び換えられて国際貿易港として発展し、明治三三年(一九〇〇年)には朝鮮の首都・京城~仁川間に朝鮮最初の鉄道として日本人の手で京仁鉄道が敷設されることになった。

こうして苛酷な不平等条約のもとに、日本の通貨を持ちこみ、その貨幣製造を口実に、朝鮮の金採掘者と農民から狡猾な手法によって安価に金を掠奪し、日本の金輸入量は、そのうち七割が朝鮮から入るほど莫大な量に達したのである。

また、朝鮮国内で栽培される米と大豆が日本に大量に輸出されるようになると、日本人商人がそれを買い占めたため、朝鮮国内では米価が値上がりして、米不足が起こり、しかも朝鮮の役人が日本の商人と結託して商品の横流しと袖の下、ピンハネをくり返した。

このような不正が横行するようになったため、朝鮮民衆の生活が極度に圧迫されるようになっていった。

P122初期の日本人商人は、対馬と九州出身などの零細商人だったが、次第に、朝鮮半島から金を獲得しようとする第一銀行の政商が乗り出してくると、貨幣整理を口実に朝鮮における税関業務まで日本の銀行が差配して、彼らが大々的な経済侵略の尖兵となった。

ついに、日本の横暴さに我慢できなくなった朝鮮兵が、日朝貿易開始から六年後、明治一五年(一八八二年)七月二三日に決起した!

“みずえの馬の年”に起こったので「壬午事変」と呼ばれたこの軍部の反乱は、日本に取り入る閔妃一族の重臣を朝鮮兵が殺して、日本人の軍事教官たちを殺害し、鬱憤する怒りが日本公使館の襲撃に向かい、平然と経済支配を広げる日本人に対する反日暴動が民衆のあいだにみるみる拡大していった。

この徴兵の反乱鎮圧に日本軍が役に立たないのを見て、閔妃が中国清朝に援軍を求めたため、若き軍人・袁世凱率いる清国軍が朝鮮兵の反乱を鎮圧し、この時から閔妃が日本を切り捨てることになった。
明成皇后75(tw,tw) 壬午事変の後の顛末→済物浦条約1882.8.30
清朝・西太后と李朝・閔妃、どちらも女帝が手を結んだのである。ここから台頭した袁世凱は、やがて「北洋軍閥」の巨頭となり、のちの孫文の後をついで初代大総統に就任し、辛亥革命後の中国を再び誤った方向に戻す人物であった。

その結果、朝鮮市場に、再び清国商人が迎えられると、彼ら中国人が、それまで羽を伸ばしていた日本商人と激しく競争をくり広げることになった。

この様子を見て、日本では長州の初代参謀総長・山縣有朋が、陸海軍の拡張のために軍事費の増額を要求し、「朝鮮の利権を確保するために戦争準備が焦眉の急である」ことを強調し、日清戦争の構えに入った。

P123慶應義塾の福沢諭吉も、壬午事変後ただちに「日本人は重税その他あらゆる犠牲に耐えて、軍備拡張に全力をあげ、清国との戦争に備えるべきである」と主張し、山縣有朋と歩調を合わせて軍国主義を煽った。

日本人商人による穀物の買い占めがあまりにひどいため、明治二二年には、朝鮮北東部の咸鏡道の地方行政官が、日本への穀物の輸出を禁止する防穀令を出さなければならなかった。

すると日本政府は、それによって日本人商人が損害を受けたとして、筋違いの賠償を要求し、この外交問題が何年にもわたってもめたのである。

そして、土佐出身の朝鮮弁理公使・大石正巳が朝鮮政府を武力で威嚇し、明治二六年には朝鮮に賠償金を支払わせ、防穀令の解除を約束させてしまったのだ。この大石正巳の孫が、後年に朝鮮に進出する日窒コンツェルン(水俣病を引き起こすチッソ)創始者・野口遵の娘と結婚したのだ。

長州藩の山縣有朋は、明治二三年(一八九〇年)には、首相として施政方針演説に臨み、「我利益線の焦点は実に朝鮮にあり…強力を用いてわが意思を達する」と主張し、日本の朝鮮侵略を早くも帝国議会において宣言した。

長州藩の伊藤博文内閣の時代、明治二七年(一八九四年)七月二三日には、日本軍が朝鮮の仁川(インチョン)に上陸して、京城の朝鮮王宮を占領し、次々と攻撃を仕掛けた(明成皇后94tw、緑豆の花1455:50~(cliptw)大島義昌少将(相互参照)景福宮占拠、中央日報記事参照、アジア歴史資料センター参照)。

そして八月一日、日本が清国に宣戦布告し、ついにここに「日清戦争が幕を開いた」のだった。このように、日清戦争の最大の動機は、朝鮮における商業利益であった。

清国商人を追い出して、朝鮮半島の「わが利益線」を確保することが、戦争目的であると総理大臣が明言していたのだから、「日本人は朝鮮民衆を中国の支配から解放しようとした」などと、後年に戦争犯罪者の手先が釈明に使った崇高な思想など、日本の施政者の頭には、微塵もなかった。

日本が清国に宣戦布告してはじまった日清戦争では、翌一八九五年(明治二八年)一月一四日に戦争のどさくさにまぎれて、沖縄と台湾に隣接する「尖閣諸島」を日本の領土に編入した。

郭て日清戦争に勝利すると、四月一七日に下関条約を締結して、敗れた清国が「台湾」を日本に割譲し、沖縄県の日本領有権を認めた。まず日本は戦利品として、尖閣諸島を日本領土と宣言してぶんどり、台湾を植民地化し、琉球処分以来強奪してきた沖縄を確保したのである。

朝鮮の西に位置して旅順や大連などの要港を持つ遼東半島は、一度日本に割譲されながら、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって、清国に返還された。

しかしこの日清戦争で、日本軍人の死者は一万三八二五人という膨大な犠牲者を数えた。戦費総額は二億七九三五万円であったから、軍国主義者たちが、ほぼ一年分の予算を戦争につぎこんだのである。

そのためこの時、日本は朝鮮に対する大々的な経済侵略をおこなったのである。まず大阪商人が朝鮮貿易の天下を取って、朝鮮貿易市場では朝鮮商人と清国商人が一掃され、米、大豆ほか、金の地金を求めて朝鮮を荒らし回った。

というのは、当時は金本位制だったので、金を保有している分しか通貨を発行できなかった。逆に金があればあるだけ通貨を発行して、軍需品を買い揃えることができた。

(P124-)

P125そのため、日銀総裁・岩崎弥之助(三菱財閥総帥)にとって、朝鮮から得られる金は重要な資金源であった。

福沢諭吉は、日清戦争にあたって、「これは文明と野蛮の戦争であり、文明国日本にとって、清との戦いは正義の戦いである」と、これが聖戦であるかのように装った文言を新聞に書き散らしたが、

一方で、「朝鮮・中国と接する時は、ヨーロッパの国々が接するのと同じやり方で接すればいいのである」と、露骨にも、アヘン戦争でイギリスがとった植民地化の戦法を使えと、悪事を教唆したのである。

  →『重光・東郷とその時代』P414-(参照)

この時、彼は自分の甥・中上川彦次郎が、大番頭として率いる三井財閥の鐘紡紡績が手にする朝鮮利権のことなど、おくびにも出さなかった。中上川彦次郎が鐘紡の「兵庫第一工場」を竣工して操業を開始したのは、まさに日清戦争勝利の翌年、一八九六年(明治二九年)八月のことであった。

この頃はすでに、大阪紡績・尼崎紡績・摂津紡績・鐘紡紡績などの大阪~兵庫の紡績業界が安い綿糸・綿製品を量産できるようになっていたので、これを朝鮮に向けて大量に輸出しはじめた。一方で、その代金によって安値で手に入れた米や大豆の穀物は、この阪神地方の工場で低賃金で働かせる労働者の食料用として輸入され、このピストン貿易で巨利をあげたのが彼らであった。それが、朝鮮半島に徘徊する大阪商人の素顔であった。

日清戦争の日本勝利から半年後、朝鮮の国民がとりわけ強烈な、決定的とも言える反日感情を抱いたのは、「閔妃暗殺事件」であった。閔妃がロシアと組んで復権してくると、朝鮮とロシアの連合をおそれた長州藩出身の朝鮮駐在日本公使・三浦梧楼が首謀者となり、熊本藩の安達謙蔵らが加わって、一八九五年(明治二八年)一〇月八日に閔妃を暗殺したのだ(明成皇后120tw)。

たとえ閔妃に独裁者の性格があるとはいえ、隣国朝鮮の王朝の実権者である。日本の子爵で、学習院長をつとめ、しかも公使である三浦に、自国の王妃を殺されて、黙っている民衆があろうはずがない。

共犯者の安達謙蔵も、のちに右翼国権党を結党して重鎮となり、逓信大臣と内務大臣を歴任し、労働者を弾圧する立法に腐心する男であった。暗殺の主犯である三浦梧楼も安達謙蔵も、血気盛んなやくざ者でありながら、日本で投獄されたあと、無罪放免されてしまったのである。

それまでは王朝に不満を抱いていた朝鮮民衆も、あるいは清国の属国であることに我慢してきた全土の朝鮮国民も、自分の国の顔が、日本人によって踏みつけられた恥辱を、胸に深く刻んだのが、この事件であった。

朝鮮国内に京釜鉄道の建設はじまる
そのあと烈しい反日抵抗運動が続いたことは、日本人の手になる歴史では、まともに記録されていない。

なぜなら、日本の軍隊が反日運動を厳しく取り締まり、日本人商人と朝鮮人とを巧みに隔離したため、朝鮮国内に入った日本人商人たちは、自分たちが侵略していることに無自覚で、日本軍に守られて行動したからである。

その時代に、朝鮮の民衆から大々的な土地の収奪がoおこなわれたのだ。この反日運動と弾圧が、以下のように商業と密接な関係をもっていた。

P127 日清戦争に勝利して六年後の明治三十四年(一九〇一年)に、渋沢栄一と大倉喜八郎らの資本家が"首都と貿易港を結ぶ"京城~釜山間の鉄道のため京釜鉄道会社を設立し、建設に着手した。ところが次から次へと起こる反日運動に直面して、工事が行きづまった。さてその時、京釜鉄道という侵略会社の創設に参加して取締役に就任した尾崎三良という男がいた。この男は何者だったか。

江華島事件が起こる三ヵ月前の明治八年六月二十八日に、日本で布告された新聞紙条例と讒謗律の作成者として、報道界が忘れられない悪名が、この尾崎三良であった。讒謗とは、ありもしないことを語って、人を悪く言うことなので、今日でいう名誉棄損にあたるから、これを政府が取り締る法律を定めてもおかしくはない。

ところがこの法律は、同日に公布された新聞を取り締まる新聞紙条例と一対になっていた。すぐれた反政府新聞を廃刊に追いこむための法律であり、この二法によって言論を弾圧したのである。(略)P128この条文を、尾崎三良と共に作成して悪名を残した井上毅がまた、戦前に自由な国民思想をしばる明治二三年の「教育勅語」の原案を起草したことも、歴史家のあいだでよく知られている。(略)

つまり新聞弾圧という法律を定めた二人が、一人は朝鮮の利権に乗り出し、一人が台湾の利権を主張して、いずれも商業的植民地主義者であった。井上毅は、娘婿が満鉄の撫順炭鉱長と鞍山製鉄所長をつとめ、鉄道大臣にも就任して、植民地産業を動かした。

尾崎三良のほうも、娘が日本鉄道会社社長の甥と結婚したので、利権という面では申し分なかった。この欲望が引き金となって、台湾・朝鮮だけでなく、日本を含むすべての大衆が弾圧されたのである。
かくて日清戦争の余波で、一八九七年(明治三〇年)に国名を大韓民国(略号・韓国)と改称された朝鮮で、日清戦争勝利~閔妃暗殺から七年後の一九〇二年(明治三五年)、ついに日本の第一銀行・韓国総支店が「第一銀行券」を発行し、紙幣によって経済を牛耳りはじめた。

日本は日清戦争前年の一八九三年までに、外国から輸入した金の総額のうち七割近くを朝鮮から輸入してきたが、その後も第一銀行は、同行の五〇年史が記しているように、朝鮮通過を「第一銀行券」P129によって支配し、さらなる金の買収をはかった。

開国させられた朝鮮は、新時代の文明導入に踏み出さなければならなかったが、肝心の商業を日本人におさえられたため、国内技術などがほとんど自力で発展できない状態に追い込まれていった。本来、朝鮮の紙幣制度が未熟だというなら、日本人が朝鮮の技術者に紙幣の印刷術を教え、朝鮮人に発行させればよいのであり、そうすべきだったが、日本の第一銀行・韓国総支店が銀行券を発行したのだ。

鉄道が必要というなら、その技術を日本人が指導し、朝鮮人の手で敷設させるべきだったが、日本人が朝鮮国内の鉄道を敷設したのだ。ヨーロッパ人とアメリカ人が幕末から日本に上陸した時には、お雇い外国人が日本人に次々と印刷や鉄道の新技術を教え、日本人にヨーロッパの文明を伝え育ててくれたが、日本人は朝鮮に対して、奪えるものを奪いつくして、両者の文明の差を広げることに腐心したのだ。

これが侵略という言葉の所以だったのである。翌一九〇三年には日露戦争が迫って、日本政府が朝鮮での軍事輸送力を必要としたため、重要幹線の京城~釜山間の鉄道工事を速成するよう命じた。

3.6 日露戦争による朝鮮侵略 P129-138
(P130-)

(略)

P130 そのため日本政府は、日本はロシアと戦っていたはずだが、日露戦争のさなか、八月二二日に、日本は第一次日韓協約を強引に締結して、「韓国政府は日本政府が推薦する財政・外交顧問を任用氏、また外国との条約締結や特権譲与については日本と事前協議しなければならない」と定めて、韓国を事実上の支配下に置き、第一銀行の韓国総支店を"韓国の中央銀行"として認めさせた。時の第一銀行頭取は渋沢栄一だったのである。

(略、竹島とかの記述P130-134)

P134 話を元に戻して、その侵略時代に何がおこなわれたかというと、(略、朝鮮支配の様子、面々が記述されるP134-135)

P136 一九〇五年(明治三八年)九月五日、日露戦争に勝利して日露ポーツマス条約に調印すると、帝政ロシアが清国との条約によって保有していた「南満州」の権益がそっくり日本に譲渡された。日本は旅順・大連の租借権と、南満州の長春~旅順の鉄道経営権などを獲得したが、同時にここで、韓国における日本の利権を国際的に承認させたのだ。

「ロシアをアジアから追い払うのだ」と主張しながら、実際にしたことは、この戦争のさなかに韓国の外交権を剥奪し、竹島を日本の領土に編入し、満州支配に着手したのである。

日露戦争勝利から二ヶ月後の一九〇五年一一月一七日には、「第二次日韓協約(相参)」を締結して、「韓国政府の外交問題は日本の外務省が処理し、日本政府代表として京城に総監府を設置する」ことを約束させた。

この協約によって朝鮮民衆が猛烈な反日暴動を起こすなか、一九〇六年二月一日に、西園寺公望内閣が京城に植民地支配の牙城・韓国総監府を設置し、三月二日に"朝鮮総督の前身"である初代"韓国総監"に伊藤博文が着任した。

彼の右腕となったのが、目賀田種太郎であった。こうして露骨な朝鮮の植民地化を成し遂げた。それが、日露戦争の結果であった。

二〇一〇年に公開され、朝鮮人医師を描いた長編韓国ドラマ『済衆院(チェジュンウォン)』に、この時期の日本人による朝鮮侵略が描かれている。その後半に、「朝鮮国王・高宗が日韓協約を認めないとして拒否する」シーン(参照tw)と、「朝鮮国王・高宗が日本人によって退位させられる」屈辱のシーン(参照)と、

日露戦争中の一九〇五年七月二十九日に桂太郎首相とアメリカ陸軍長官ウィリアム・P137タフト特使が交わした覚書によって「アメリカがフィリピンを支配し、日本が朝鮮を支配する」という日米の密約が結ばれ、日本人医師が朝鮮人に対して生体実験をおこなったことなどが紹介される(tw)。

これはドラマ化した物語だが、史実に基づいているので、日本人必見の作品である。

P137 この年、一九〇六年一一月二六日に満鉄が創立されたのだから、満州と朝鮮の植民地経営は、広大な土地を走る満鉄と、朝鮮の鉄道を連結する軍事的戦略が並行して進められたことになる。同じ一九〇六年から第一銀行の韓国総支店の支店長に就任して、伊藤博文、目賀田種太郎と共に朝鮮経済を支配したのが、市原盛宏であった。

市原は、アメリカのエール大学に学び、第一銀行に入行したあと、頭取の渋沢栄一に従って欧米を視察旅行して認められた男であり、渋沢栄一の縁戚であった。京釜鉄道の敷設と第一銀行によって、朝鮮を支配しようとしたのだ。それを主導したのは、渋沢栄一にほかならなかった。

(略)

 →『朝鮮開国と日清戦争』P454-(参照)

3.7 朝鮮行政と土地収奪の黒幕・東洋拓殖(tw,tw,tw) P138-150

P138 この時、朝鮮の鉄道建設で実務を主導したのは、姫路藩出身の古市公威であった。(略)P140しかしこの古市公威の娘が、東洋拓殖の副総裁・野田卯太郎(後述tw)の息子と結婚したのだ。東洋拓殖とは?のちに長州藩の第二次桂太郎内閣のもとで、一九〇八年一二月二八日、朝鮮で拓殖事業を含む特殊事業会社として東洋拓殖会社(通称・東拓)が京城に設立され、長州藩出身の陸軍中将・宇佐川一正が初代総裁となって、大々的な朝鮮の土地収奪の侵略にとりかかったのである。(略)

また皇帝・純宗の異母弟である朝鮮の皇太子・李垠(イウン,tw)は、すでに一一歳の時に伊藤博文によって"人質"として日本に留学させられていたが、昭和天皇の皇后の従姉妹にあたるP140梨本宮方子(tw)が、政略結婚でこの李垠に嫁がされ、韓国併合を強行した日本政府が掲げる「日鮮融和」の象徴にかつがれた。このふたりの間に生まれた子・李晉(イチン,tw)は、一九二二年(大正一一年)に夫妻が朝鮮に渡った時、日本帰国直前に"毒殺"と見られる急死を遂げ、王朝継承者が消されたのであった。

当時の朝鮮で撮影されたこの写真は、朝鮮王朝の正装をした李垠皇太子が愛児を抱いて、隣に梨本宮方子が坐っているので、この愛児が、"殺される前の李晉"だと推定される。この写真は当時、京城で写真館を経営していた私の祖父が撮影したものなので、日本の朝鮮総督府に依頼されて撮影したと思われる。

日本に朝鮮の軍人が入ってきて天皇家を消滅させれば、日本人は一体どのように思うだろうか。天皇制に反対する人間であっても、激怒するに違いない。福沢諭吉は「これは文明と野蛮の戦争である」と言った。まさしくこの時代の日本人の無神経さは、戦争犯罪者の鼻薬がきいた現代の評論家が、いかなる釈明をしても徒労に終わるほど野蛮であった。
(略)
(P142-)

P142 しかも日本は、京城の李氏朝鮮の王宮・景福宮(キョンボックン)の前に、日本の巨大な朝鮮総督府を建設して、王宮が外から見えないようにしてしまったのだ。日本の皇居前に、他国が巨大な植民地総督府を建設すれば、日本人はどう感じるだろうか。(略)

ここまでの経過の最高責任者をまとめて列挙すると、侵略者の正体がはっきりする。
  • 朝鮮侵略論を鼓舞した木戸孝允(桂小五郎)
  • 侵略の第一歩となって朝鮮に乗りこんだ特命全権副使・井上馨
  • 韓国統監の初代・伊藤博文...二代目・曾禰荒助...三代目・寺内正毅
  • そして日清戦争開戦時の総理大臣・伊藤博文...日露戦争開戦時の総理大臣・桂太郎...初代朝鮮総督・寺内正毅
  • 韓国併合を実施した桂太郎と寺内正毅...日露戦争の参謀総長・山形有朋...日露戦争の英雄で台湾総督となった乃木希典
これ全員が長州藩の出身であった。吉田松陰、乃木希典、山形有朋の三人は近親者であり、伊藤博文の息子・伊藤文吉と桂太郎の娘・桂寿満子が結婚し、井上馨がこの一族であった。

つまり山口県人の問題ではない。長州藩のごく狭い一族が、蛮行におよんだのだ。このあとの章に続々と登場する人物を含めて、安倍晋三に至るまで七世代にわたる長州藩の系図4(123)を示す。この系図の上部に、どっかりと坐ってアジア侵略を指揮しているのが、吉田松陰だ(tw)。
(略)
(P148-)

P148 彼らのために、日本側だけで、死者は、日清戦争で一万三八二五人、日露戦争で八万五〇八二人、合わせて一〇万人近い命が失われたのである。(略)

日本の政治集団は明治維新直後の明治七年の台湾侵略と、明治八年の朝鮮侵略から、アジア侵略をはじめていたのである。この桂太郎の一族が、安倍晋三である。二〇一三~二〇一五年にかけて、次々と国会で成立した戦争法が、長州藩の吉田松陰思想の流れにあることは、明々白々であった。(略)

P149 このアジア進出を主導した政治家と、軍閥と軍需産業を、本書の重要な主題である「財閥」や資産家との関係から見ておこう。
伊藤博文は、神奈川県第一位の長者・高島嘉右衛門と子供同士が結婚していた。井上馨は"三井の番頭"と呼ばれ、大資産家となった。山形有朋も、大資産家となった。桂太郎の孫は、全国一の長者・三井八郎右衛門の姪・三井直子の義兄弟となった。

では、同じ長州でも、曾禰荒助と寺内正毅は、どうだったか。一九〇一年(明治三四年)に大蔵大臣となる第二大韓国統監・曾禰荒助の息子は、徳島藩士出身の芳川顕正伯爵の養嗣子に入ったが、芳川は出世して文部大臣・司法大臣・内務大臣・逓信大臣を歴任し、娘・芳川トミは藤田平太郎と結婚した。その父が長州の財閥・藤田伝三郎その人であった。つまり満州重工業開発総裁・鮎川義介一族であった。

P150 韓国併合をおこなった初代朝鮮総督・寺内正毅は、息子が山口県萩銀行頭取の菊屋剛十郎の娘と結婚し、娘が長州藩の台湾総督・児玉源太郎の息子・児玉秀雄と結婚。児玉は日本郵船と北海道炭礦汽船という二大海運企業を一族に持っていた。"維新の御三家"木戸孝允の養孫が児玉源太郎の子供と結婚して、吉田松陰・乃木希典・山形有朋とも姻戚関係を持ったのだ。なぜこのように長州藩の侵略者たちが、ことごとく大資産家の一族となったのか。(略)

(P152-)

P155 韓国併合がおこなわれたあと、長州藩の宇佐川一正に率いられた「東洋拓殖」が本格的に始動したので、この侵略企業の活動を記録しておく。東洋拓殖は日本政府(朝鮮総督府)から大々的な支援を受け、朝鮮の国有地を払い下げを受けて土地の収奪を進めた。

一九一九年(大正八年)までに、東洋拓殖は実に二億三四〇〇万坪の土地を朝鮮人から掠奪し、日中戦争開戦の翌年、一九三八年(昭和一三年)には、朝鮮鉄道・朝鮮電力・東拓鉱業・東洋畜産など五十二社を傘下に置いて、朝鮮国内に保有する一億六五○○万坪の広大な田畑に、移民の日本人地主が入り込んだ。

その土地から追い立てた一○万人近い朝鮮人を、小作人として働かせながら、高い小作料を徴収して、東洋拓殖が植民地経営の中心的役割を果たしていったのである。

この東拓の大株主が「昭和天皇」家だったのである(興銀の大株主でもあった参照)。東拓幹部は、朝鮮ばかりか、台湾・満州・中国本土の企業経営にも深く関与し、太平洋のミクロネシアの南洋諸島に至るまで、広大植民地の利権をむさぼった(tw)。

この東洋拓殖を設立して副総裁を歴任し、植民地を支配したのが、伊藤博文の政友会幹事長だった野田卯太郎(前述)であった。(以下、略)

 ※東洋拓殖の資金源→『ウォール・ストリートと極東』P106

第四章 満鉄を設立して大々的なアジア侵略に踏み出す P157-256

4.8 軍事費膨張と全国の労働争議 P195-202

P196 この空前の好景気のなかで、奢れる日本に対して、朝鮮で"三・一独立運動"が起こったのは、第一次世界大戦が終わった翌年であった。一九一九年三月一日、京城や平壌などで「朝鮮独立宣言」が発表され、日本の植民地に抵抗する激烈な民衆運動が朝鮮全土に拡大した。

それが激しければ激しいほど、日本の憲兵隊による弾圧の虐殺もまた激しかった。長州藩の支藩・岩国出身の朝鮮総督・長谷川好道のもとで、朝鮮人七五〇〇人が殺され、逮捕者が五万人近くに達したのである。

なぜこれほどの蛮行が、日本の一般民衆に見えなかったのか、不思議である。この年のパリ講和会議で六月二八日にヴェルサイユ条約が調印され、第一次世界大戦の戦後処理が決定されたが、この大戦を通じて日本はアメリカ・イギリスに次ぐ第三の強国として認められた驕りからだろうか。

そして終戦前に太平洋のミクロネシアの主要な島々を占領して、戦勝国の一員となった日本は、翌一九二〇年にマーシャル諸島、マリアナ諸島、カロリン諸島などミクロネシアの統治を委任され、日本海軍の太平洋出撃拠点とすべく、事実上の植民地として確保した。

強国となれば、ますます軍備の充実を図らねばならない。そこから、国家予算の半分以上を軍事費に注ぐ狂気の時代に突入していったのだ。
(略)
4.10 植民地特殊銀行の設立 P208-217
(P208-)

P209 続いて一八九九年には、わが国最初の正式な植民地銀行として「台湾銀行」が設立された。この設立を主導して初代総裁に就任した添田寿一は、次に一九〇二年に特殊銀行の「日本興業銀行」を設立して初代総裁に就任し、この興銀が、終戦まで、軍需産業の金融機関として最大の資金を戦争に投入していった。さらに添田は、一九一二年に"ロシアのロスチャイルド"グンツブルグ男爵と組んでパリに日仏銀行(参照)を設立し、侵略企業・東洋拓殖のために大規模な外資導入をはかった。
(略)
4.11 昭和二年恐慌が国民の財産を吹き飛ばした P217-221
(P216-)

4.12 恐慌で拡大した五大銀行の勢力 P221-223
(P220-)

4.13 ドル買い事件 大不況とテロ暗殺事件の続発 P224-227
(P224)

P226
4.14 軍部とファシズムの勢力拡大(相互参照)--ついに満州事変(相互参照)が起こされた P227-233

(略)

P228
 ◆一九三一年一二月一一日 第二次若槻礼次郎内閣が総辞職。
 ◆一九三一年一二月一三日 犬養毅内閣が発足して、即日、蔵相・高橋是清が、金輸出の禁止を決定→翌日から円安ドル高が急速に進み、財閥が巨富を得た。 高橋是清による「円安ドル高への誘導」は、財閥たちがすでにそれを知った上で為された政策であった。

日本の真の経済を支えてきた町の商人と長者たちが、一九二三年の関東大震災と昭和二年(一九ニ七年)恐慌によって羽根をもがれ、いかにして生きるかの方途さえ見失おうとしていた時に、財閥系の金融機関が、国家予算の何分の一かに匹敵する巨額の利益を翫んだのだから、国民全体の怒りと疑いの目が、政治家と大蔵官僚や日銀に向かわなければ不思議であった。


満州事変が、なぜ起こったのか、その発端となった動機から追跡する。

「日露戦争」さなか一九〇五年(明治三八年)三月一〇日、日本軍は満州南部の奉天を占領して満州支配の足がかりを築いた。このとき早くも軍人たちには、中国からロシア東部にまで支配力をおよぼそうとする軍事戦略の野望が芽生えていた。

しかしこの年、日露戦争に勝利しても、中国の利権を狙うアメリカ・ヨーロッパ・ロシア列強の利害と衝突して、中国支配が叶わなかった。日本が日露ポーツマス条約によって「ロシアから」獲得したのは、長春~旅順間の鉄道間の鉄道経営権と…鉄道敷設…鉄道附属地…撫順炭鉱・煙台炭鉱とその採掘権…そして鉄道保護を名目とした鉄道一キロメートルあたり一五人の駐兵権であった(一七〇頁の鉄道地図参照)。

P229翌年に満鉄が設立され、これら戦利品すべてを満鉄が所有して、経営することになった。一方、日本が統治権を持つ租借地として「中国から」獲得したのは、満州のなかでも、遼東半島の南部先端だけであり、そこを関東州と呼んだ。

しかし大陸を貫く万里の長城が海(渤海)に達した地点が山海関で、これより東の地域が関東にあたるので、「関東」の呼び名は、ほぼ満州全土を指していた。一方、日本人が関東州と呼んだ地帯は、遼東半島の南端にある旅順と大連の小さな租借地だけだったから、後年の満州全土の支配地域から見れば、関東州はごくちっぽけな地域であり、その行政は、関東都督によっておこなわれ、軍人の都督か満鉄を統括し、朝鮮の鉄道も管掌した。しかしその時、植民地の頭脳は軍部でなく、逆に、鉄道会社の満鉄にあった。

関東州はごくちっぽけな地域だったが、旅順から長春に至る満鉄の鉄道と鉄道付属地は、線路の両側に広大な幅を持っていただけでなく、駅のある都市全体と、鉄道従業員の住宅地を含めて、関東州から魚の骨のよう北に伸びて、満州南部に日本が統治する領土として広がっていた。

したがって、鉄道車輛と、線路を建設するための工場と炭鉱も、広大な面積を自在にできた。だが、まだまだ満鉄の鉄道路線は限られたものであった。勿論、満州は全土が中国のものであった。

やがて第一次世界大戦後の一九一九年に、都督府を関東庁と改称し、このとき行政と軍部を分離した。つまり、「民政」を関東長官がおこない、「軍政」を関東軍(陸軍)がおこなうようになった。

北京政府に君臨する大元帥・張作霖が、時の満州の統治者であり、一時彼は日本人と組んで互いに利用し合ったが、この頃には日本から離反しつつあった。そして満州で、排日運動が

P230 激化していたときである。一九二八年六月四日、関東軍の高級参謀・河本大作と独立守備隊の中隊長・東宮鉄男らが謀略によって列車を爆破し、奉天にひきあげる途中の張作霖を殺してしまったのである。

殺人者の河本大作は何の処分もされず、四年後には満鉄の理事(重役)に就任したのだから、長州藩・田中義一内閣が国家をあげて、事実上の満州王・張作霖の暗殺テロを容認したのだ。

その年、そこへ山形県生まれの石原莞爾という軍人が関東軍の参謀として赴任してきた。広大な満州支配のはじまりは、この石原莞爾が満蒙(満州・蒙古=モンゴル)を領有しようと策謀をめぐらした時にはじまった。

石原莞爾は、日本が南部の狭い関東州から出て、満鉄の支配地である魚の骨のまわりに分厚い肉をつけ、満州全土を軍事占領したいと夢想したのである。石原の計画は、日本の国内で絶えず苦しみをもたらす食糧不足と資源不足を解決づるために、満州の農作物と、石炭や鉄鉱などの鉱物地下資源によって自給自足を狙ったものであった。

しかも思いついただけでなく、赴任から三年後に早速その足で行動に移したのだ。

一九三一年九月一八日、石原らは、満州全土を軍事支配するため、奉天(現・中国遼寧省瀋陽)北郊の柳条湖で謀略を企み、夜陰に乗じて自分たちで満鉄の鉄道路線を爆破した。そしてこれを、「中国軍による仕業だ」とデタラメをふれまわって総攻撃を命令した。

そのころ満州に居住する住民は、これから四年後の統計で人口がほぼ三五〇〇万人(現在の東京・神奈川・千葉・埼玉を合わせた首都圏人口とほぼ同じ)で、うち中国人(漢族)が四分の三を占め、満州族が一六%、朝鮮人が二%で、日本人は〇・四%にすぎなかった。

P231この土地を耕してきた現地人は、すでに日露戦争でおそろしい苦難をなめさせられてきたが、彼らの暮らしを思いやる心を持たない石原莞爾をはじめ…岩手県南部藩主の出である関東軍高級参謀・板垣征四郎…岡山県士族の出である奉天特務機関長・土肥原賢二…兵庫県丹波篠山藩士の出である関東軍司令官・本庄繁…福岡県生まれの参謀本部第二部ロシア班長・橋本欣五郎…さらに石川県金沢出身の朝鮮軍司令官・林銑十郎たちは、迅速な謀略行動に成功して、たちまち満州全土を制圧していったのである。

関東軍が北上して満州全土に進軍すると、ほぼ五ヵ月で、西側の熱河省を除いて、満蒙の大部分を制圧した。これが、一九三一年の満州事変であった。

この謀略後、満州事変の主謀者たちは、一体どうなったか。石原莞爾は、秘匿名・東郷部隊(別名・賀茂部隊)を発足させ、ここを母体として東京の牛込若松町(現・新宿区戸山町)の陸軍軍医学校を拠点に、細菌戦研究部隊が設立され、石井四郎を隊長として、生きている中国人に細菌を植えつけて生体実験をおこなう、“悪魔の七三一部隊”が誕生した。

また板垣征四郎は七年後に近衛文麿内閣の陸軍大臣となり、中国に対する全面戦争の指揮を執った。土肥原賢二は、中国謀略組織として土肥原機関を設立し、阿片の密売で莫大な資金を稼いで出世し、陸軍士官学校長、教育総監などを歴任した。

本庄繁は、陸軍大将となり、満州事変の功で男爵を受爵した。橋欣と呼ばれた橋本欣五郎は、翌月に若槻礼次郎内閣の全閣僚を殺害して軍部独裁政権の樹立をめざすクーデター未遂(十月事件)の首謀者となり、大政翼賛会の常任理事となった。朝鮮司令官

P232 の林銑十郎は独断で朝鮮軍を満州へ派兵して「越境将軍」と呼ばれ、この六年後に総理大臣となったのである。このうち戦後の東京裁判で絞首刑となったのは、土肥原賢二と板垣征四郎だけで、橋本欣五郎は終身禁固刑であった。

(略)

4.15 満州国建国にとり憑かれた関東軍の暴走--国防婦人会の設立 P233-240
(P232-)

4.16 平頂山の大虐殺から中国全土の侵略へ--軍人にすり寄った財閥--P240-253(tw)
(P240)

P240 武藤信義によって日満議定書が調印される頃になると、満州の地元住人には、もはや日本人の動きをこのまま放置しておけば、自分たちが生きられなくなることは火を見るより明らかであった。そこで、満州国反対を唱える抗日ゲリラが決死の覚悟を固め、日満議定書が調印された翌日、P241一九三二年(昭和七年)九月一六日未明に、満鉄の撫順炭鉱を襲撃し、その時、日本人五人を殺害したのである(襲撃は九月一五日ともされる)。

すると日本軍の撫順守備隊は、近くにある平頂山の住民がゲリラに通じているとして、ただちに皆殺しを決定した。平頂山集落に襲いかかった日本兵は、まったく抵抗しない無関係の村人三〇〇〇人を崖下に集めると、機関銃で一斉射撃をおこない、血の海のなかに生存者を探しまわっては銃剣でとどめを刺して歩き、幼い子供でも生きていれば銃剣で刺して空中に放り投げた。最後にはガソリンをまいて死体を焼却し、事件を隠すために崖を爆破して死体を埋め、村落の家に火をつけ焼き払った(死者数三〇〇〇人は中国側の発表値だが、日本側の主張でも七〇〇~八〇〇人を殺害したとされている)。

(略、一九六八年、ベトナムのソンミ村虐殺が記載される)平頂山の虐殺は、奇跡的に生き残って逃れたわずかな住民と遺家族の証言から明らかになり、戦後の一九四八年になって撫順炭鉱の関係者だった日本人七人が戦犯裁判で死刑に処せられた。

当時虐殺に加わった日本兵だった人たちも戦後にすべてを認めて泣いて詫び、日本の東京高裁も二〇〇五年に虐殺事件の事実を認めた。(略、ソンミ村虐殺)私は若い頃にこの平頂山事件を短編小説に描いたが、ソンミ虐殺をはるかに上まわる残忍さをP242示した肝心の平頂山の虐殺について、現代の大半の日本人が知らないのである。

それもそのはず、二○一五年に報道界が"戦後七〇年"と言い立て、総理大臣・安倍晋三が無内容の「七〇年談話」を発表して過去の日本人の侵略犯罪に言及しなかった時に、日本の新聞のどこを読んでも、このように日本人が大虐殺をしたという史実を具体的に取り上げて批判する記事が書かれていなかった。日本の報道界には、ジャーナリズムが存在しないのである。

・・・と、ここまで書いてきた二〇一五年一〇月一日に東京新聞が、駿河台大学の井上久士教授の「不都合な歴史も直視すべきだ」との証言をもとに、「問い直す戦争70年目の視点」と題して、平頂山の虐殺について大特集を組んだ。

国政を揺るがした「憲法違反の安全保障関連法案」が九月十九日未明に参議院を通過した直後だけに、この特集をもう少し早く掲載すべきだったが、ともかく同紙で報道された事実を日本人全員が知っておくべきだ。

(略、盧溝橋事件、南京大虐殺、重慶の無差別爆撃、華北の治安戦、大陸打通作戦などで、三五〇万人以上の中国の軍人を死傷させた、中国側発表では三五〇〇万以上)

平頂山の虐殺から一九日後の一〇月五日、満州国総理大臣植の総務長官に就任したのが、総務庁次官として満州行政の一切を動かしてきた阪谷希一であった。彼は、系図5「植民地金融機関の閨閥」(二一四頁)に描かれている通り、西園寺内閣が満鉄を設立し、狂乱の株価ブームのなかで満鉄株式公募をおこなった時の大蔵大臣・阪谷芳郎の息子にあたり、母は第一銀行頭取・渋沢栄一の娘、妻は満州財政を預かる横浜正金銀行頭取三島弥太郎の長女という申し分のない家系であった。

満州中央銀行副総裁(実質総裁)・山成喬六の従兄弟違にもあたっていた。その前の阪谷希一は、朝鮮人から土地を略奪した東洋拓殖の財務を運営して、朝鮮の植民地行政をとりおこなった男で、この後満州中央銀行と満鉄そのものを経営していた。

日本の内地からの満州移民---満蒙開拓団の入植が開始されたのは平頂山事件が起こった翌月、阪谷希一が総務長官に就任したと同じ一九三二年一〇月だったのである!この満州移民は、日本国内で激動する庶民生活と密接な関係を持っていたので、のちに別項をもうけてくわしく説明する。

それからほどなく年末の一九三二年一二月一九日、東京日日新聞(現・毎日新聞)、朝日新聞、読売新聞を筆頭に、全国一三二の新聞社が、「満州国独立支持」の共同宣言を発表し、関東軍のP244行動を全面的に支持したのであった(当時、すべての新聞社がこのような共同宣言を発したことを、現在の新聞社の記者が記憶し、反省しているなら、二〇一五年に国民の大半が反対する原子力発電所が再稼働され、安全保障関連法案が国会で強行採決される前に、"原発再稼働と安保法案議決に反対する全新聞社・テレビ局の共同声明"を発するべきであった。

私が新聞記者に共同声明を出すよう求めると、現場の記者は賛同してくれたが、そのような声明が出なかったのは、どうしたことだろうか。報道とは、事実を伝えるだけではなく、政府が悪事に暴走するのをくい止めなければ、存在意義がないのである)。

年が明けると一九三三年二月二〇日、『蟹工船』や『不在地主』など数々の作品によって、資本家の独占をペンによって攻撃し、多くの人から敬愛されたプロレタリア作家の小林多喜二が、特高による監獄内の拷問によって虐殺されたのだ。左翼思想や労働運動を弾圧するための組織として、特別高等警察(特高)が、一九一一年(明治四四年)に長州藩の桂太郎によって設立されていたからである。

この昭和初期には、長州藩から出た安倍源基が警視庁の特高部長に就任し、政治犯をぶち込んだ監獄で虐殺を繰り返していた。鬼畜とおそれられた安倍源基が警視庁特高部長として特高を動かしたこの時期が、監獄での虐殺のピークにあたっていた。

子の長州藩の安倍は、岳父が朝鮮総督府参事官であり、その弟が満州車両社長で、安倍の娘が西原借款の実行者である朝鮮銀行総裁・勝田主計の甥と結婚し、系図5「植民地金融機関の閨閥」(二一五頁)の一族として、明らかに植民地利権者のグループから出ていた。安倍源基は、戦後にA級戦犯となりP245ながら、「一九四八年に東条英機らが処刑された翌日、岸信介らと共に巣鴨プリズンから釈放された。

こうしたあらゆる暴力が国内外の巷に浸潤した原因が、無頼漢に口実を与える財閥側のゆきすぎた独占にあったことは、疑いを挟む余地がなかった。血盟団と愛国社だけの問題ではなく、農村部の小作人たち、貧困層から水がしみだすように、見えない姿をとって、新たな"力の軍国思想"が一般国民のあいだに広がっていたのである。

そして一九三三年二月二三日に、関東軍が最後の抵抗拠点の息の根を止める行動を起こした。日本軍は万里の長城の山海関を占領し、抗日勢力がいる満州各地を制圧してきたが、最後にまだ鎮圧していなかったのが、万里の長城によって中国北部に隣接する熱価賞であった。

そこでこの日に熱河作戦が開始され、三月四日に中心地の承徳を落として入城し、十二日までに中国本土と満州・蒙古の接点にあたる全域をついに日本が支配したのであった。

しかし国際社会は、これを認めなかった。一九三二年二月から一〇月にかけてイギリスのヴィクター・リットン卿を団長とする満州現地国際調査団が、日本軍による残虐な侵略の実態を調べ、日本政府に報告書を通達していた。熱河作戦が開始された翌日、一九三三年二月二四日に、そのリットン報告を国際連盟が採択し、「日本の満州における軍事行動は、自衛の措置とは認めがたい」とし、賛成四二、反対一(日本)の圧倒的多数で満州国の独立を承認せず、日本の満州撤退を勧告した。

この国連で日本全権代表・松岡洋右は、大演説をふるったが虚しく、国連脱退を宣P246言して退場した。翌月三月二七日には日本政府が国連脱退を正式に決定し、内田康哉外相が国連事務総長に脱退通告文を提出した。国連脱退は、枢密院でも承認されていたのだから、小さな島国の植民地帝国が「全世界を相手に戦う!」と宣言したのだ。

(この松岡洋右は、妻の弟が韓国併合をおこなった総理大臣・桂太郎の孫娘と結婚し、姪・寛子が安倍晋三の大叔父・佐藤栄作の妻という長州藩閥であり、二年後の一九三五年から一九三九年まで満鉄総裁をつとめ、翌年の一九四○年九月二七日に、近衛文麿内閣の外務大臣としてドイツでヒットラー政権と「日独伊三国同盟」を調印する人物であった)

この一九三三年八月九日、東京市を中心に関東一帯で夜間の電灯を消す本格的な灯火管制をおこない、防空演習がおこなわれたのだから、この戦闘態勢は、本気であった。日本本土が攻撃されて国民が逃げまどう事態になっても戦う決意であった。理非をわきまえない猪突猛進を、野蛮な勇気、すなわち蛮勇と呼ぶ。

このような陸軍の暴走に対して、日本中の新聞が沈黙を決めこんでいる時、二日後の八月一一日に、長野県の信濃毎日新聞(通称・信毎)主筆・桐生悠々が、蔑み笑うという意味をこめて、社説「関東防空演習を嗤ふ」を掲載したのだ。彼は要旨、次のように書いた。
「わが国が総動員で敵機を迎え撃っても、敵機は爆弾を投下する。そうなれば木造家屋の多い東京市は一挙に焼土と化する・・・狼狽した市民は逃げまどい、阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東P247大震災当時と同様の惨状を呈するだろう。

しかも空襲は幾たびもくり返される・・・つまり敵機を関東の空に、帝都(東京)の空に迎え撃つということは、わが軍の敗北そのものである・・・そのような防空演習をおこなうことは、滑稽である・・・夜襲に対して消灯(灯火管制)をすれば、かえって人間を狼狽させるだけである・・・要するに航空戦は、空襲したものの勝利であり、空襲されたものの敗北である」
と、痛烈な批判を展開した。

この一二年後の一九四五年に、東京大空襲によって、木造家屋の多い東京が焼土と化し、死者の規模が関東大震災と同じになるという凄惨な悲劇を、一新聞記者が的確に見抜いたことの意味は重大であった。桐生悠々(本名・桐生政次)は自由主義者として生き、生涯を通じて反軍部の気骨を貫いた稀有のジャーナリストであった。

また全体主義の共産主義を嫌い、多くの資本家からも支援を得ていた男であった。新聞に弾圧を加える軍部に徹底的に反抗するだけでなく、その軍部を支える資本主義者にも容赦なく筆法鋭く切り込む性格ながら、一方で信毎社長の小坂順造から絶大な信頼を得ていた。

信毎が掲げた桐生悠々の社説は、おそろしく無謀な軍部と、冷静な資本家の精神的な分裂を象徴する事件であった。

一九四五年に日本全土の一四七都市が空襲の爆撃を受け、一挙に五〇万人の民衆が殺されたあと、戦後に有名になったこの社説は、よく読めば論理的な軍事科学論であり、もし日本が戦争に勝ちたいなら、こんなやり方では駄目だ、敵機を日本の領土に入れてはならない、と冷静に分析した内容だったのである。

しかし、軍人の妄想を痛撃したこの社説が、どれほど軍部を激怒さP248せたかは、想像に余りある。ただちに地元では信州(長野県)郷軍同志会が信毎の不買運動を起こす激烈な脅迫を続けたため、断乎として軍部と対立した小坂一家の信毎も屈服せざるを得ず、九月に桐生悠々は退社に追いこまれた。

これは単なる記者の敗北ではなかった。日本の知性がとどめを刺された最後の転機であった。

一九三四年三月九日には、時事新報社長の武藤山治が、新報社に出社する途中、失業者の暴漢に襲われ、凶弾五発を浴びて倒れ、翌日に息を引き取った(相互参照)。この暗殺は他のテロと性質が違っていた。皮肉にも武藤は、元三井財閥の鐘紡社長であり、五・一五事件の犬養暗殺直後から、「三井は利益をあげすぎて、資本主義の利益が社会に還元されていない。資本主義は間違った方向に進んでいる」と、三井財閥でただ一人、冷静な警告を発してきたトップであった。

時事新報社長・武藤山治が暗殺され、一九三四年七月三日に斎藤実内閣が総辞職に追いこまれた。斎藤内閣の後を継いだのは、福井県出身の海軍大将・岡田啓介であった。岡田は軍人ながら、アメリカ・ヨーロッパと事を構えず軍縮を推進した海軍大臣だったため、陸軍の不満が岡田に向かってゆき、かえって軍部のファッショがふくれあがった。

三井の大番頭・団琢磨が殺され、武藤山治が殺された直後から、テロにおそれおののいた三井・三菱・住友・安田・古河の巨大財閥グループは、社会に対して何か手を打たなければ危ないことに気づいた。幕末から明治時代に、薩長軍閥を生み出した"維新の志士"の暴力至上主義とP249手を結んで、資金係となったのは彼ら財閥であった。

だが不思議なことに、財閥の系譜は商人と実業家の長者ばかりで、身内に軍人がほとんどいなかった。三井家、岩崎家、住友家、安田家、古河家にも軍人が一人も見当たらず、古河財閥が結婚した薩摩の西郷一族も日清・日露戦争までの軍部主導者であり、この時代には、西郷家が見な実業家になっていた。

つまり財閥側は、軍隊は育てても、自分たちが金もうけにうつつを抜かしているあいだ、血気にはやる青年将校たちに首輪をつけていなかったことに気づいたのである。浅野財閥の初代・浅野総一郎の孫娘・歌子が、天皇神権を崇拝する皇道派を率いた陸軍大臣・荒木貞夫の息子・荒木貞発に嫁いだのは、テロが横行したこの一九三○年代よりあとであった。

復古主義の荒木貞夫は、二・二六事件を起こす青年将校たちからクーデター後の総理大臣に予定された人物だが、「竹槍で近代兵器に勝てる」と主張した程度の頭脳だから、軍人として実力があろうはずはなかった。しかも最も危険な人物であり、戦後の東京裁判で終身禁固刑を言い渡された。

この陸軍大臣・荒木貞夫と共に、満州国の建国を強力に進めたのが、海軍大臣・大角岑生であった。彼は、ロンドン海軍軍縮条約(後述参照,相互参照,相互参照)の締結を求める理性派の人間を海軍から一掃する派閥人事をおこなったことで、軍人のあいだできわめて悪名高かった。

この海軍大臣・大角の子供二人が、一人は三井家に、一人は安田家に入って結婚したのが、やはりこの一九三〇年代以後であった。テロの脅威におびえた財閥側が、急いで婿や嫁を軍部の支配者に差し出したのである。

(P250)

(略、財閥がテロから身を守るため、慈善や軍部にすり寄っていく風景が記される)

(P252)

P252 二一世紀の新時代に、安倍晋三が二〇〇六年一一月に「教育」基本法改正案を成立させて「愛国心」を復活させ、直後に防衛庁が「防衛省」に昇格した。それから七年後の二〇一三年一一月二七日に成立した「国家安全保障会議(NSC)創設法によって、集団的自衛権など一切の行使権を握ったのが、わずか数人で構成される閣僚の軍事グループNSCだった。

だが、その戦争行使権を事実上動かす事務局の司令塔は、もちろん閣僚でなく、米軍に手なずけられた飼い犬---防衛省の軍人である。現代日本に、はっきり見えた「正当防衛」から「軍国思想---集団的自衛権行使---戦争突入」への切り換えが、この歴史の法則である。

4.17 新時代の軍需産業のスタート--二・二六事件 P253-256
(P252-)

P253 日本財政は、こうしたテロ頻発の時代に、どのような状態にあったか。大蔵大臣・高橋是清(相互参照)がとった政策によって、財閥に対する国民の怒りをよそに、円安が進行したため、紡績業などにとっては輸出にきわめて有利な状況に転じた。

一九三二年の半ばまで、国内では物価が暴落に向かい、安価な日本製品がどんどん売れるようになり、景気が回復しはじめたのだ。また歳出予算を組むために、歳入(税収)の不足(赤字分)を補う目的で発行される国債を赤字国債と呼ぶが、一九三三年にわが国でこれを最初に発行したのが高橋是清であった。

彼の考えでは、「日本国内には、極端な貧富の差があるから、国民すべてが貧しいのではない。金が偏在しているだけである。資産家と財閥には、税収をまかなうだけの巨大な金がある」として、高橋是清は、財閥の金を政府国債に吸収して財政規模を拡大させ、国民を窮乏から救おうとした

確かに、一九三三年には工業生産が恐慌前の水準に戻りはじめた。だが、是清はもう一方の手で軍事費も増額したのである。これによって軍需産業に活気が戻ってきた。国家予算に占める軍事費の比率は、満州事変・ドル買い事件の一九三一年が三一%だったのに、年を追うごとに、三六%→三九%→四四%→四七%→四八%へとみるみる高くなっていった。

言い換えれば、国債にP255よって得た財閥の資産が、軍需産業に投入される比率が、ぐんぐん高まったのである。しかしそれでも、高橋是清は二・二六事件で殺されなければならなかった。いまの数字の最後は、正確には一九三五年が 四七・一%であり、翌三六年が四七・六%であった。最後が〇.五%という微増でしかなかった。

是清は、日本経済が急成長しすぎていることを懸念して、インフレに突入する前に財政を縮小しようと、陸海軍の軍事費の手綱を引き締めた。まさにその一九三六年二月二六日に、陸軍青年将校がほぼ一五〇〇人もの兵士を決起させる二・二六クーデターを起こした(tw,tw,tw)。

大蔵大臣を六度つとめ、転んでもただでは起きないと言われたダルマ蔵相・是清が殺され、今度は起きあがることができなかったのである。この青年将校と、それに従った軍人たちこそ、庶民感情に根差したファシズム代表者であった。

すでに、国民自体が、危険な感情を抱く時代になっており、彼らが侵略を愉しむ二等兵になっていたのだ。岡田啓介首相は、この二・二六事件でからくも難を逃れたが、内大臣(元総理大臣)・斎藤実と教育総監・渡辺錠太郎も暗殺された。

二・二六事件が天皇によって非道とされたおかげで、軍部内では、天皇に心酔する荒木貞夫らの"皇道派"と呼ばれる一団の力が消滅してゆき、皇道派と対立していた東條英機らの"統制派"と呼ばれる一団が、大きな力を持った。岩手県南部藩士の孫として生まれた東條英機に代表される統制派は、軍事的手段として「近代戦」を重視する思考法を持っていた。

そこに竹槍の皇道派との多少の違いはあろうと、軍人は軍人である。その攻撃的な本質の、どこにも違いはなく、P256天皇の前にひれ伏すことにおいても格別変わりはなかった。一方、皇道派の荒木貞夫は、日中戦争に突入したあと、近衛内閣の文部大臣として教育の戦時体制に奔走したのだから、決して没落したわけでもなかった。

このように金融と産業を預かる者は、軍部や右翼によって邪魔な実力者が次々と消されるのを見て、「軍人の言うことを聞かないと、いつ殺されるか分からない時代」と感じはじめていた。それが自由な発言の許されない"ファシズム国家"であった。

そして、国家の財政経営者と財閥の心胆を寒からしめるテロ事件の連続という機を捕らえて、古い体制を嫌って台頭した統制派の軍部の手で、満州・中国の植民地拡大と近代戦をめざして、新時代の強大な軍需産業がスタートを切ったのである。

アメリカとヨーロッパで開発される高性能の「鉄砲」、「戦車」、「戦闘機・爆撃機」、「巨大戦艦」など、軍事技術のおそるべき急速な進歩が、ちょうどこの時期に重なっていたからである。

ナチス台頭時代のドイツで、ちょうど同時期の一九三二年にナチスが第一党に躍進した時、この選挙の資金を提供したのが、ほかならぬ大実業家たちであり、彼ら実業家自身がナチス党員という肩書を持っていた。それ以後は、大砲王クルップなどのドイツ善産業界がナチスに急接近し、またたく間に、親衛隊SSや国家秘密警察ゲシュタポといった殺人集団が国家全体を掌握し、巨大な軍事国家に豹変してユダヤ人虐殺に突進した。その現象と、日本の動きは軌を一にしていたのである。

   →『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』P35-(参照)
   →『赤い盾』2.5 カリガリ博士とマブゼ博士P348-(参照)
   →『誰が第二次世界大戦を起こしたのか--フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』P55-(参照)

第五章 最終絶滅戦争に至った経過 P258-348

5.1 満鉄調査部が生み出した全体主義国家 P258-264
(P258-)

5.2 盧溝橋事件(日中戦争)から南京大虐殺---国家総動員体制へ直進 P265-272
(P264-)


P264 ちょうど企画庁が企画院になろうとする一九三七年(昭和一二年)七月七日深夜、北京郊外の盧溝橋で一発の銃弾が放たれ、日中両軍が衝突して、日中戦争が戦端を開いたのだ。

当時の日本政府は、「中国は正式に満洲国を承認せよ」と満洲侵略政策を推進した広田弘毅が、一九三六年三月九日に、軍部の独走態勢を生み出す内閣を組閣したあと、翌一九三七年二月二日からは、満洲事変時に朝鮮軍司令官として独断で朝鮮軍を大量に満洲へ派兵した侵略者、林銑十郎が総理大臣に就いた。

だが彼は、無能のため「何もせんじゅうろう内閣」と呼ばれた内閣が四ヵ月で崩壊し、一九三七年六月四日から第一次近衛内閣が発足していた。その一ヵ月後に起ったのが盧溝橋事件であった。

公家最高の五摂家から出た近衛文麿公爵は、一見すると軍国主義者ではないので、国民に人気が高かった。彼の名前は一般に「ふみまろ」だが、正しくは「あやまろ」と読む。

ちょうどこの盧溝橋事件の年に、彼の娘・温子が首相秘書官の熊本藩主嗣子・細川護貞と結婚していた(二人のあいだにもうけた細川護熙が、一九九三年に“初の殿様宰相”として総理大臣に就任し、フクシマ原発事故後の現在、原発ゼロ社会を主張している人で、近衛文麿首相の孫である)。

P266 ところが細川護貞の妹が新興軍需財閥として戦闘機・ゼロ戦をつくる中島飛行機の中島知久平の甥・中島昭吉と結婚する重要な姻戚関係を持っていた。この中島知久平が近衛内閣の鉄道大臣として迎えられ、日中戦争の旗振り役をつとめることになったのだ。

近衛文麿当人は、軍人ではないが、このように軍需財閥と関係を取り結び、配下に革新官僚と呼ばれる「エセ左翼主義者」を集めてこれを新体制運動と呼び、喝采を浴びて総理大臣に就任した人物であった。

国民もまた、軍人ではない近衛文麿の登場に期待した。だが軍人にとって、全体主義ほど好都合のものはなく、世界情勢に無知をきわめる凡庸な近衛ほど利用しやすい公爵様はなかったので、軍部が大歓迎した。

この盧溝橋事件で、日本と中国のいずれが先に発砲したかを論ずる者もあるが、先にどちらが攻撃したかはまったく問題外である。日本軍が当時、北平と呼ばれた北京の中国領土に、六○○○人近くもの大部隊を駐留させていたこと自体が、あってはならないことであった。

「満洲の租借地・関東州は、日露戦争で日本がロシアに勝利して中国から貸し与えられ、日本が統治権を持つ土地」であると百歩譲っても、中国北部にある北京は満州租借地とまったく無関係で、中国領土であった。

一九二八年二月に蒋介石が中国の軍事と政治を掌握し、首都を南京に移すまで、中国の首都は、ここ北京であった。そもそもここに日本の支那駐屯軍の大部隊がいたのは、先に述べたように、中国全土でロシアがおこなった民衆大量殺戮に乗じて、一九〇一年九月七日に日本がロシア欧米一〇ヵ国と共に、「義和団事件の最終議定書」を中国に強要し、北京公使館区に

P267各国の軍隊を駐留することを無理やり承認させた結果にすぎなかった。アメリカ・ヨーロッパの列強が中国の民衆を大虐殺した軍事侵略に、日本が加わったからであった。

日本はこの駐留権をたてに、それからの三〇年間、日本公使館を守るという口先と逆に、植民地帝国主義者のアメリカ・ヨーロッパの列強さえおこなわないほど、租借地である関東州の狭い地域を出て、至るところに銃をかついだ軍人を配置した。

欧米人が文句を言っても一切聞く耳をもたぬ態度で、横暴な侵略の手を広げてきた。「満州事変~満洲国建国」を口実に満洲を支配し、さらに満洲から、日本人が北支(北支那、華北)と呼ぶ中国北部地帯へ露骨な侵略の歩を進めてきた。

陸軍が「華北の鉄・石炭・綿花などの資源を奪う」ことを堂々と戦略として掲げ、盧溝橋事件の前年まで次々と支那駐屯軍に増強部隊を送り込んできた。しかも日本国内では、日中戦争が間近に迫っていることが論じられていたのだから、北京郊外の盧溝橋における戦端は、日本の徴発によって引き起こされた満州事変につぐ謀略であった。

支那という呼び方は英語のChinaに由来する普通の言葉だが、現在、日本では使うべきではない、とされている。それは日本が満洲国を建国していった当時、「満洲を切り離した中国の大陸部」を呼ぶときに日本人が戦略的に使った地名が支那であったため、日本人が使う支那は、日本の侵略用語だったからである。

また日本人は、満洲大侵略を満州事変と呼び、盧溝橋事件を支那事変・北支事変・日華事変と色々に呼び換え、日中戦争とは呼ばなかった。アメリカは一九三五年に「戦争当事国への軍需品

P268輸出を禁じる中立法」を成立させていたので、アメリカから石油など膨大な軍需物資を輸入している日本が戦争を起こせば、日本の軍需産業が維持できなくなる。そのため、「これは一時的な地域紛争であって、戦争ではない」と、国際社会に向けて事実を糊塗するために割り出した言葉が「事変」であった。

先年迄首都だった北京を爆撃しながら、日本の統治者は驚くべき厚顔な人種であった。

かくして巨額の軍需融資をもとに、日本は中国との大戦争に突入していったのである。実戦経験のない関東軍参謀長・東条英機が張り切り、第五師団長・板垣征四郎たちが日中戦争で激戦の指揮を執り、中国最大の都市・上海で両軍が激戦を展開し、ついには、中国四大古都の一つ、蒋介石の国民政府の首都・南京に日本軍が攻め入った。

ここで、一九三七年末の一二月一三日に、中支方面軍司令官・松井石根の指揮下で、中国人の軍人・民間人合わせて約二〇万人の死者を出す“南京大虐殺”がおこなわれたのである。

死者数には諸説あるが、この死者数は、岩波書店『近代日本総合年表』によるものである。当時の日本軍人の証言では、「日本軍は女性でも子供でもスパイと思ったら縄でしばって生きたまま揚子江に投げこんだ。朝起きると死骸が浮かんでいた」というほどの虐殺だったのである。

東条英機と板垣征四郎と松井石根は、戦後の東京裁判で絞首刑に処せられた(tw,tw,tw)。

中国側では、すでにこの十数年前の一九二一年に共産党が結成されて、のちに毛沢東が幹部に就任し、抗日ゲリラの活動がはじまっていたが、日中戦争開戦から二ヵ月後の一九三七年九月には、

P269ついに蒋介石の国民党が抗日戦線で共産党と手を組む「国共合作」が始動した。中国の国民が全土をあげて日本軍包囲に乗り出したのである。しかし国民党と中国共産党は、国内の主導権を握る覇権争いで対立して、一体ではなかった。

そこで南京を攻略した翌年、一九三八年一月一五日に、大本営(陸・海軍の最高統帥機関)の連絡会議で中国との和平交渉が議題になったが、近衛文麿首相・広田弘毅外相・杉山元陸相・米内光政海相が“和平に反対”し、翌日、近衛が「以後、蒋介石を交渉相手としない(相参1,相参2)」旨を宣言して、中国との大戦争をますます拡大していった。

こうして中国本土と満洲で、先述の通り「重慶の無差別爆撃」…「華北の治安戦」…「大陸打通作戦」を展開し、中国人はこれを殺光・略光・焼光、すなわち殺し尽くし、略奪し尽くし、焼き尽くす…三光作戦と呼んでおそれたのである(「光」は、…し尽くすの意)。

「日中歴史共同研究」における中国側の見解によれば、日本人によって中国の軍人と住民合わせて実におよそ三五○○万人の死傷者を出したのである(共同研究で日本側が示した死傷者数は約六八二万人)。この大量虐殺のために、ほどなく一九三八年四月一日に近衛内閣が打ち出し、五月に施行されたのが、「国家総動員法」であった。

続いて二年後の一九四〇年一〇月一〇日に、やはり近衛文麿によって新体制運動を経て生み出されたのが、ナチスと同じ一党独裁の「大政翼賛会」であった。このつながりが最も固い結び目であった。この二つが、全体主義を支える二本の屋台骨となったからである。

国家総動員法の言葉から受ける印象は、国民が根こそぎ戦地に動員される徴兵制のように聞こ

P270 えるが、これは戦場への兵士の動員ではなかった。軍需工場への動員であった。兵器…弾薬…船舶…航空機の製造はもとより、食糧…医薬品…鉄道…車輛…土木建築…燃料…電力まで、「国民は言われた通りに工場でよく働け」と命ずる条項が連綿と書かれていた。

加えて、この国家総動員法は、当時の大日本帝国憲法より上位の法律として定められたのだから、戦争遂行のための完全な軍事立法であった。そのため総動員法を読むと、よくもこれだけ産業をくわしく規定したものだと思われるほど細かく定められてあり、知恵の足りない軍人がつくったものではなかった。この法に付随して、膨大な数の関連法が作成されたのである。

国家総動員法は、明らかに農商務省叩き上げの商工大臣・吉野信次が立案し、そのあと信濃毎日新聞主筆として左翼労働運動を支援してきた近衛内閣書記官長・風見章が手を入れたと思われる内容であった。

茨城県土浦出身の風見は、このあと近衛の右腕となって大政翼賛会事務総長をつとめたが、戦後は日本社会党左派に入党し、原水爆禁止運動の主導者となった。つまり右翼軍部だけが全体主義を生み出したのではなかった。左翼の頭脳がそこに参加していたのだ。

総動員法を生んだ商工大臣・吉野信次は、鮎川義介の右腕となって満州重工業開発副総裁をつとめた人物で、大臣就任の前年、一九三六年に「東北興業の総裁」に就任して、日本の東北地方の産業振興の旗振り役をつとめていた。

この国策会社・東北興業が、ちょうど同じ年から本格化した満蒙開拓団を組織するため、満州移民の陰の先導機関の役割を果たしたのだ。日本の東北地方が冷害や凶作によってその日を暮らせないほど貧困に襲われ、満蒙開拓団に送り込まれた人数は、

P271人口一〇万人当たり九三四人と、東北地方が最も高い比率となったのは、そのためであった。そし日本の無条件降伏と同時に、この開拓団がすさまじい数の犠牲者を出すことになった。

貧困が日本を誤った方向に導いたと、戦後に軽々しく責任を転嫁する言説もしばしば聞かれるが、それはアベコベの説明だ。植民地拡大主義が、満州に移民を増やす口実に、計画的に貧困を利用したのだである。

一九三八年五月五日から施行されたその国家総動員法に、難解で、奇妙な、しかし企業家が読めば卒倒するような次の条項があった。「政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは勅令の定むる所に依り会社の設立、資本の増加、合併、目的変更、社債の募集もしくは第二回以後の株金の払込に付制限若しくは禁止を為し、会社の利益金の処分、償却其の他経理に関し必要なる命令を為し又は銀行、信託会社、保険会社其の他勅令を以て指定する者に対し資金の運用、債務の引受若しくは債務の保証に関し必要なる命令を為すことを得」る、という条項であった。

分かりやすく言うと、政府が勝手に企業経営に口を出し、仕事の内容から、会社の利益の処分についてまで命令することができ、銀行や保険会社についても資金の運用と債務の引受まで命令する、と規定したのだから、もはやこれは資本主義ではなかった。

このような社会では、経営者ばかりか、投資家にとっても、この先、会社の運命がどうなるか、まったく分からない。まして企業と銀行の経営についてほとんど無知な政治家と官僚と軍人が、会社経営の船頭になるというのだから、そのように不安なものに誰一人として投資する気にはならない。当然、株式市場から投資

P272 家は姿を消し、株価は低迷して、すべての企業人がやる気を失っていったのである。ところが日中戦争はますます激しくなり、政府と軍人は銀行に対して「もっと金を出せ」と迫ってきた。

一体、近衛文麿は何を考えていたのか。この男は、日本敗戦後の一九四五年一二月六日に、GHQのA級戦犯として逮捕命令を受けると、出頭期限前日の一二月一六日に服毒自殺を遂げたため、自分の言動の責任を持っていってしまい、国民に説明するつとめを果たさなかった。

5.3 産業報国会と大政翼賛会の謀略 P272-278
(略)
P274
(略)
P275 大政翼賛の、大政とは天下の政を意味し、翼賛とは翼のように力を添えて助けることであった。一体誰の政治を助けるかと言えば、大政翼賛会発足の一か月後、一九四〇年十一月十日の"神武天皇即位二六〇〇年記念行事"と連動していた。その日、日本全土ばかりか・・・アジア侵略地の中国の北京・・・朝鮮の京城・・・台湾の台北など至るところで、「紀元二六〇〇年奉祝会祝賀行事」が奉祝会会長・近衛文麿によって開催された。

この祝賀に合わせて、初代神武天皇の発祥の地とされる宮崎県に"八紘一宇"の塔なる一大モニュメントが建設されたのである。「日向の国を統治した神日本磐余彦命が美々津から東征に旅立ち、紀伊の国に上陸し、大和地方を平定した後、奈良に新宮を営み、神武天皇として第一代天皇の地位に就いた」との伝承に基づいていた。

八紘とは、四方と四隅、すなわち地の果てを意味し、転じて全世界のことだった。一宇の字もまた、天地四方だが、ここではその全世界を覆う屋P276根のことで、一宇は「一つ屋根に統一する」、すなわち、"日本が全世界を軍事支配する"という意味だから、侵略しそうそのままであった。(略)

「アジアを欧米の列強から解放するするのはわが大日本帝国である。そのために軍隊を進めて全世界を一つ屋根のもとに支配せよ。天皇のもとに!」と謳った標語が、八紘一宇であった。

この宮崎県に建立された八紘一宇の塔は、大日本帝国の軍隊がアジア各国を侵略した当時、中国の城や朝鮮・台湾などの要所を攻略し、その建物の貴重な壁面を切り取って勝利の証とした紋様入りの切石を、二〇〇〇個近い礎石にちりばめ、その石に侵略者の部隊名が明記された不気味なものである。

ドイツに譬えれば、"ナチスの戦勝記念塔"のごときその八紘一宇の塔が、現在呼び名だけ「平和の塔」と改称され、侵略戦争の動かぬ証拠が、宮崎市平和記念公園に平然と屹立しているのだ。
P276
P278
5.4 企画院の人脈 P278-280
P280
5.5 通信社と新聞社を飼い馴らした情報局 P280-284
この企画院から生み落とされたのが、報道界を支配した悪名高い「情報局」であった。同盟通信社は、国内の情報操作のため情報通信機関を一本化することを軍部が要求したため、満州事変から五年後の一九三六年に国内二大通信社の日本電報通信社(電通)の通信部と、新聞聯合社が強引に合併させられて誕生した国策通信社であった(戦後に分割されて、時事通信と共同通信となった)tw,tw

この母体となった電通は、もともと広告代理店で、広告業界トップに立ってから通信にも進出し、ライバルの帝国通信社と共に、日清・日露の戦争で各界から迅速なニュースを求められて、通信業界は急成長した。

  関連→『阿片王 満州の夜と霧』(相互参照

そこに関東大震災が起こって、帝国通信社が倒産すると、電通が通信業界の覇者となった。しかし同盟通信に通信部門を奪われて、専業に戻った(これが現在日本最大の広告代理店、電通である)。ところがこの時、電通創業者の弟が国策企業・同盟通信社の理事についていた。

そこで翌一九三七年からニュース映画に同盟通信社の「同盟ニュース」が加わると、その年の盧溝橋事件から、日中戦争で皇軍の快進撃を伝える映像と、気焔をあげるナレーションが全国の映P281画館で国民の歓喜を呼ぶようになり、軍部の大本営が発表する偽ニュースを頭から信じる、慢心した国民が激増していったのである。

もうひとつの通信会社として、ラジオの電波を牛耳る日本放送協会(相互参照)があった。こちらは、三井財閥の岩原謙三を理事長に、一九二四年に東京放送局を設立し、初代総裁に策士の後藤新平が就いてスタートした。東京に続いて、大阪と名古屋にラジオ放送局が設立され、一九二六年には東京・大阪・名古屋の放送局が統合されて日本放送協会(NHK)となり、初代会長には引き続き三井財閥の岩原謙三が就いた。

この人物はイギリスの軍需産業ヴィッカース社の日本代理人をつとめていた当時、巡洋戦艦・金剛をヴィッカース社に発注させるため海軍高官に贈賄し、有罪判決を受けた三井物産幹部だったので、軍人の言いなりに国策通信会社を経営する適任者であった。

その後、一九三○年代半ばから、日本政府と軍部大本営は、新聞記事と書籍のきびしい検閲を実施し、世論操作を積極的におこなうため、国家情報宣伝機関の創設に乗り出した。一九四○年一二月六日、第二次近衛内閣が、総力戦態勢を整えるため「挙国一致の世論の形成」を図ろうと内閣に設置したのが、「情報局」であった。
(略)
P282

5.6 満蒙開拓団を誰が送り込んだか P285-289
(P284-)

5.7 日本興業銀行の巨大な軍需融資 P289-294
(P288)

(P290-)

P290 では、興銀を支えた株主は誰だったか。『興銀史』によれば、一九三○年までずっと、群を抜いて最大の株主は聞きなれない「内蔵頭」とある。これは皇室の財務主任のこと、つまり天皇家であった。天皇に次ぐ株主は、もちろん資産家ぞろいだが、彼らの多くは満鉄の大株主であった。

P292 満鉄を支えた人間が興銀を支えたのは、当然である。さて、次の株主リストが残念ながら『興銀史』では一九三九年に飛んでしまうので、一九三一年の満州事変と一九三七年の日中戦争のあいだの、いつ起こった激変か不明だが、一九三九年には、これらの個人株主が一人もいなくなっていた

(略、一○大株主、大手財閥、戦線拡大に伴なう命令融資の記述)

P293 第一次近衛内閣でこの決定を誰が主導したかが、大きな鍵である。満州事変の時に陸軍次官として、関東軍参謀の暴走侵略を強力に推進した杉山元が、この時の陸軍大臣で、軍事的に彼の発言が戦線拡大に最大の影響を及ぼした。

杉山は、無条件降伏による敗戦翌月の一九四五年九月(P294へ→)

5.8 中島飛行機と満州重工業開発の台頭 P294-297
(P294-)

P294 一二日に、占領軍GHOに捕らわれることをおそれて自決してしまったので、東條英機や板垣征四郎たち東京裁判のA級戦犯処刑者たちに比べて、日本史のなかで記憶の薄い男だが、重大な戦争犯罪者であった。

南京大虐殺による首都・南京占領後の日中和平交渉を阻止し....南方のアジア侵略作戦を決定し...アメリカを三ヶ月で片づけると豪語して真珠湾攻撃に踏み切らせた陸軍のトップ、参謀総長が杉山元であった。一九三七年に近衛内閣鉄道大臣だった中島飛行機創業者の中島知久平が、その時「徹底的にたたきつけてしまうがいい」と、中国攻撃を挑発する意見を吐き、杉山元の日中戦争拡大論に手を貸したのである。

P294 急速に航空機開発が加速されたのは、一九三七年七月七日の日中戦争からであり、中島飛行機に対して興銀が融資を開始したのが、その年九月からであった。中国の国民党中央政治会議主席・蒋介石は、首都・南京が日本軍に占領されたあと、国民党政府の臨時首都を内陸億部の重慶に移したが、南京から武漢へと侵略を進めた日本軍が翌一九三八年二月に重慶に爆撃を加え、

P295 一九三九年からこれが大規模となって、一九四三年まで五年間にわたり"多数の市民を無差別に殺戮"する重慶大爆撃をおこなったのである。一万人規模の大殺戮をおこなったこの絨毯爆撃によって、日本はますます世界的な批判を受けるようになった。零戦も駆り出しタコの爆撃機の資金源が、興銀であり、中島飛行機を創業した中島知久平が、日中戦争の拡大を挑発した当の近衛内閣の閣僚であった。これが、さきほどの興銀融資表で、中島飛行機が終戦までに群を抜いて大きな二七億円の金額を手にした背景であった。

この当時、戦闘機・零戦の開発を命じられた三菱重工は、戦闘機のほかにも造船・戦車・重機械など多くの軍事製造工場を抱えていたのに対して、中島飛行機はアメリカ・フランスの飛行術を学んだ中島知久平が創業して、航空機だけに特化したメーカーであった。三菱重工が開発した零戦のライセンスを受けて零戦の半数以上を生産し、軍用機生産で莫大な利益をあげた知久平は、陸軍戦闘機やエンジン生産で中島飛行機を一大コンツェルンを形成する大企業に成長させ、終戦までの"飛行機生産機数が日本最大"に達し、日本全体の三割を占めた。そのため敗戦の直前には、東京郊外の三鷹と、群馬県太田にあった中島飛行場周辺は、たびたび米軍の大空襲を受けた。

一方、日中戦争がはじまった一九三七年の年末、一二月二七日には、この内閣が「軍事力を保つために必要な金属資源と石炭などを収奪するために、満州国を維持する必要がある」との政策のもとに、政府が支援して満州国に国策会社・満州重工業開発(通称・満業)が設立され、日産コンツェルンの長州藩・鮎川義介が総裁に就任した。勿論これは、鮎川自身が構想した組織であった。

P296 この資本金四億五○○○万円を日本の傀儡国家・満州国と日産が折半で出資し、ここで日産は本社ごと満州に移駐して、撫順炭鉱を除いて、"満鉄の傘下企業"を一手に引き受けたのだから、巨大コンツェルンであった。(略)

日産コンツェルンは「戦時中に台頭した新興財閥」と呼ばれたが、この沿革に見られるように、明治維新と共に動き出した長州の藤田伝三郎の藤田組を母体に、一族の井上馨・伊藤博文・桂太郎という政界・財界の黒幕を後ろ盾として、一四七頁の系図4(123)の長州閨閥に見られる通り近親者の藤田伝三郎・久原房之助・鮎川義介の三人組で生み出した巨大グループであった。コンツェルンの形成こそ昭和年代でだったが、実際には新興どころか、まぎれもなく既成財閥の一つであった。

P297 満鉄の本体は鉄道会社だったが、その傘下に満州化学工業など膨大な数の出資会社をかかえて、すでに巨大なコンツェルンを形成していた。鮎川だ引き継いだのは、鉄道本体と撫順炭鉱を除くそれら"すべての満鉄事業"であった。一九二一年に満鉄の子会社として設立された東亜勧業は、朝鮮における東洋拓殖と同じように、満州内での土地の強奪を受け持った。

一九三二年から、日本内地からの満州移民がはじまり、移民集団が満州に渡った三二万人の"満蒙開拓団"を受け入れ、移民の農地を獲得するために関東軍と共同で、中国人や満州の現地住民を追放したのが、その鮎川傘下の東亜勧業であった。政府と商人世界が一体となって、東亜勧業が運営され、満州で土地の強奪を展開したのである。

(P298 藤田組・日産・日立コンツェルンの沿革図)


 参考→『鮎川義介と経済的国際主義』(url)

5.9 新興財閥を率いた総帥の横顔 P297-304
日本窒素肥料(チッソ)コンツェルン・野口遵 P297-301
鐘淵紡績・津田信吾 P302
石原産業・石原広一郎 P302-303
昭和電工(森コンツェルン)・森矗昶 P303
理化学研究所(理研)コンツェルン・大河内正敏 P304
5.10 歴史は何を語ろうとしているのか P304-309
5.11 日本の戦争被害の記録 P309-315
5.12 空襲のパターンと特徴 P316-324
5.13 日本のぶざまな敗北 P324-329
5.14 この戦争は一体なんであったのか P329-334
5.15 反旗を翻した人間たちがいた P334-348
(P334)

P334 この歴史と、目の前の現実を見るとき、本書の論旨とまったく同じ心境に達していた人物が、戦時中の日本にいたからである。すでに登場した桐生悠々である。満州事変から二年後の一九三三年(昭和八年)三月二七日、日本が国際連盟から脱退を正式に決定すると、全世界を相手にした本土決戦に備えて、八月九日に関東地方防空大演習が実施され、新聞記者・桐生悠々がそれをあざ笑ったことをすでに述べた(参照)。

P335 信濃毎日新聞社を退社したあとの彼は、名古屋郊外の守山町に移り、読書会を組織して個人雑誌『他山の石』を刊行し、世界の思想を紹介して発禁と戦いながら時局批評を続けた。そこで桐生悠々はこう書いた。言いたいことと、言わねばならないことを区別しなければならない。私は言いたいこと言っているのではない。言わねばならないことを、国民として、同時に人類として言っているのだ。

言いたいことを言っていれば愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなく苦痛である、と。

ついに症状が悪化した桐生は、一九四一年九月に『他山の石』廃刊の辞を読者に送った。
「・・・この世を去らねばならぬ危機に到達至居候。小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」
ほどなく九月一〇日、反骨ジャーナリスト、石川県金沢に貧しい藩士の息子として生まれた本名・桐生政次は、咽頭癌のため六八歳で死去した。その三ヶ月後、日本は一二月八日にハワイの真珠湾攻撃に突入していったのである。

桐生悠々の言葉は、愛する日本人に向けた的確無比の警告であった。それからの長い歳月、超畜生道に堕落しつつある日本人は何をしていたのか。戦後に一大軍粛がなされる日の到来まで予言したこの人物が、図抜けた天才であったとは思えない。論理的に思考すれば、これだけのことは、誰にも予測できたはずである。

桐生悠々が傑出してすぐれていたのは、道を外れないことにP336徹し、並々ならぬ勇気をもって意志を貫いたところにあった。桐生悠々は死ぬまで悟らなかった。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
と、江戸時代に米沢藩主・上杉鷹山が語った言葉が思い起こされる。誰にもでき、なすべきことをしない、それが超畜生道だと、桐生悠々は語り遺したのだ。道とは何か。武士道とは何か。

P336 柔道の講道館を創設した嘉納治五郎の名の知らぬ日本人はいないであろう。治五郎は、柔術と称された古来の武道を改良して柔道とした人である。選手二人を率いてスウェーデンのストックホルムに赴き、日本の初めてのオリンピック出場を実らせたのが彼であった。

このような治五郎の国際的精神は、どこにあったのだろうか。嘉納治五郎は本来、柔道家ではなかった。兵庫県灘酒造「菊正」醸造元の大長者である本嘉納家・嘉納治郎右衛門一族の嘉納治郎作の三男として生まれ、酒を造る「商道」が何であるかを知り、東京大学文学部に入学して、政治学と理財学、哲学科に学んだ教育者であった。

治五郎が参加したオリンピック閉幕三日後の一九一二年七月三〇日に明治天皇が死ぬと、天皇大葬の九月十三日夜、日露戦争の旅順攻撃で虐殺の指揮を執った長州・乃木希典大将が割腹して殉死した。そのとき、「陋習打破論 乃木将軍の殉死」と題する社説で、この「武士道」の悪習を批判したのが、またしても桐生悠々であった。

軍人は戦うことが能ではない。幕末には、日本の国防を考えて、幕府が長崎海軍伝習所をP357設置し、柔術ばかりでなく、若者に広く先進知識を学ばせた。その伝習生となってオランダ人から深く学んだ一人、柳楢悦は、若くして和算に長じ、明治維新後は海軍に出仕して海軍少将にまでなったが、彼はただの軍人で人生を終えなかった。

日本の近代文学を大きく前進さえ、明治政府の地租改正を主導した屈指の西洋経済学者・神田孝平と共に、東京数学会社を創立した。ここで、和算の問題を西洋数学で解き、ここから、日本の数学物理学会が誕生することになったのだ。

女性でも、桐生悠々と同じ鉄のごとき勇気を示した人物がいた。一九一四年(大正三年)に『カルメン』のハバネラを日本で初演し、日本最高のアルト独唱歌手と讃えられた。"声楽の神様"中島兼子がいた。彼女は、戦時中の日本軍部の朝鮮侵略に強く反発し、軍歌を歌うことをかたくなに拒み続け、そのため日本では、舞台から完全に追放された。だが兼子は、まったく意に介さなかった。

軍人の中にも、不屈の抵抗を示した人物がいた。一九三〇年四月二十二日に締結されたロンドン海軍軍縮条約(tw,前述)を批准させた海軍軍令部長の谷口尚真である。連合艦隊司令長官をつとめ、海軍大将にのぼりつめた谷口は、海軍内部の猛反対に遭いながら、この条約で軍縮の方向に日本の舵取りをおこなった。

続いて翌一九三一年、満州事変が勃発すると、陸軍から海軍に支援の要請があっても、「山海関に艦隊を派遣すれば、アメリカとイギリスの介入を招く」と言って反対し、関東軍への支援を拒否し続けた。(略)

P338そのため彼は、海軍大臣の大角岑生によって粛清されてしまったのである。

この人たちは、どこから出たのであろうか。柔道の父・嘉納治五郎の姉・嘉納勝子を妻としたのが、西洋数学の開拓者・柳樽悦であった。その息子・柳宗悦(tw)は、反日暴動となった朝鮮人による三・一独立運動(前述,tw)を支援し、日本人の非道を強く批判した。

反軍アルト歌手・中島兼子とは、その柳宗悦の妻・柳兼子のことであった。柳樽悦の娘・柳直枝子を妻としたのが、連合艦隊司令長官・谷口尚真であった。これを閨閥とは呼ばない。家族である。この強靭な人たち全員に通じるのは、世界のだれもが認める「人間」であろうとした精神である。それが、彼らに日本人としての誇りを胸中で守り抜かせた信念であった(tw,tw)。

(略、戦争推進者と反対者が同じ家族から生まれた例が記される)

P340 満州国が建国されて、これを日本人が完全に支配した時、国家としての満州国は、日本人官僚が実務すべてを動かした。その最高位、事実上の総理大臣が「満州国総務長官」のポストだったことを述べた。日中戦争前年から一九四○年までその職にあったのが、群馬県出身の星野直樹であった。彼は満州重工業開発総裁の鮎川義介を助け、関東軍参謀長の板垣征四郎や東條英機、満鉄総裁の松岡洋右と共に行動し、満州財政を統括した大蔵省出の人物であった。

東條が陸軍大臣P341になると請われて帰国し、近衛内閣で国務大臣となり、真珠湾攻撃がはじまって太平洋戦争に突入した時代には、星野直樹が東條英機内閣書記官長として東條側近をつとめた。戦後は東京裁判でA級戦犯として終身禁固刑の実刑判決を受けた彼は、一九五八年に巣鴨刑務所から釈放され、数々の会社重役に就き、東急国際ホテル、羽田国際ホテルの社長となってから、雑誌「ダイヤモンド」の創刊者・石山賢吉と親交し、ダイヤモンド社の社長となった。

戦時中に、「日本人のおこなっている軍事侵略は間違っている」と批判し続けたため、一九三三年にその活動が非合法活動とされ、七年近くも投獄されたのが、その弟・星野芳樹であった。芳樹は、神武天皇即位紀元二六〇〇年祭の恩赦で長い牢獄生活から釈放された後、上海に渡って中国語を学び、数々の中国人と交わって交流を深めてゆき、ますます自分の信念の正しさに対して確信を強めた。

上海市に中国人児童のための中学校を創設して日華親善のために奔走し、日本敗戦の日までこの学校を経営し続けた。戦後は、ソ連に抑留された日本人が帰国できるよう、市民運動を立ち上げ、参議院議員となって救済活動を続けながら、今では別の人生を歩んでいた兄・直樹の協力を得て、その後も国際親善に生涯を捧げた。

次兄の星野茂樹は東大で土木工学を学んでから鉄道省に入り、トンネル建設の第一人者として清水・丹那・関門トンネルの建設工事に腕を振るった。この三人兄弟は、キリスト教界の指導者・星野光多の息子たちであった。光多の妹が、日本の女子教育の先駆者・津田梅子の後を継いで生涯を捧げた二代目・英学塾(のちの津田塾)塾長の星野あい、であった。

P342/ 344/ 346/ 348

第六章 敗戦直後の日本の改革と日本国憲法 P350-454

6.1 日本に乗り込んできたポツダム宣言のアメリカ人 P350-362
(P350-)

P353 この間、ファシズム国家を相手として、次々にドイツと日本の軍事基地を攻略する激戦を進めた連合国の政治家は、世界のゆくえを決する重大な首脳会談を開いてきた。一九四三年一一月下旬にアメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、中国(国民党政府)の蒋介石主席がエジプトの首都カイロで会談をおこない、一二月一日P354に、日本の占領政策の基本となる"カイロ宣言"を発表した。

この内容は、日本に対して無条件降伏を要求し、降伏後は「一九一四年の第一次世界大戦開始以後に日本が奪取・占領した太平洋すべての島嶼地域を日本から剥奪する」・・・「日本が清国から奪取した満州・台湾・澎湖諸島などの全地域を日本から剥奪して中華民国に返還する」・・・「日本が略取したその他の地域から日本を駆逐する」・・・「奴隷状態に置かれている朝鮮を自由な国家として独立させる」を骨子として、この重要事項の決定が、日本降伏時のポツダム宣言の基礎となり、日本の新たな領土権の定義となったのである。

   関連→カイロ宣言の嘘(tw

このカイロ宣言は、侵略によって獲得した領土と、日本による韓国併合派侵略である、と断定した点で、まったく正当な認識を示していた。つまり、日本が獲得した尖閣諸島も竹島も、日本の領土とは認めない内容であった。このカイロ宣言によって、日本の無条件降伏後、満鉄をはじめとする日本の企業・財閥は、アジア全土の侵略地に投資していた莫大な資産を一挙に失うことになったのである。

カイロ会談直後には、ルーズヴェルトとチャーチルに、ソ連のヨシフ・スターリン首相が加わって、初めて米英ソ三首脳の会談をイランの首都テヘランで開き、スターリンがソ連の対日参戦を約束した。そしてドイツと日本の軍事的な敗北が決定的となった一九四五年には、二月四~一一日に、ソ連ウクライナ共和国南部、黒海に面する港ヤルタでルーズヴェルト、チャーチル、スターリンがP355歴史的なヤルタ会談をおこない、戦後処理について議論した。

この会談で、アメリカが再度ソ連の対日参戦を強く求めたため、スターリンは、ソ連の参戦条件を、大きな利権の取引に利用できると企んだ。参戦条件は、日露戦争によって失われたロシアの権利の回復、すなわち①樺太(現・サハリン)南部をソ連に返還すること、②満州の大連港と旅順港におけるソ連の権利を回復すること、③ロシアが敷設した東清鉄道とと、日本の南満州鉄道(満鉄)を、ソ連と中国で共同経営して、ソ連の利益を保証すること、とし、これをアメリカに要求した。

ここまでの要求は、中国さえ了解すれば、不自然な内容ではなかった(のちに中国の蒋介石主席は、日本降伏の前日にこれを承認した)。しかしスターリンはヤルタ会談で、もう一つ、、④北海道の千島列島をソ連に引き渡すこと、も求めた。

千島列島は、明治初期の一八七五年(明治八年)五月七日、ロシアに駐在する特命全権大使の榎本武揚が、ロシアと「樺太・千島交換条約」を結び、それまでロシア領であった択捉島より北も含めて千島列島全一八島を日本領とし、代わりに"日本とロシアの共同統治であった樺太"を日本が放棄してロシア領とすることをロシアが承認したもので、批准書も交換していた。樺太と千島の両方をよこせ、というスターリンの要求は、この日露条約を破るものであった。

そればかりではなく、スターリンの要求は大西洋憲章にも違反していた。ナチス・ドイツによって第二次世界大戦が開戦した二年後、真珠湾攻撃の四か月前だったが、一九四一年八月一二日にルーズヴェルトとチャーチルが米英の共同宣言として発表し、次いで九月ニ四日にソ連などP356 一五ヶ国が参加を表明したのが「大西洋憲章」であった。(略)スターリンが要求した「千島をよこせ」という条件は、日本に対する侵略であった。(略)

P359 さらにアメリカは、ポツダム会談がはじまる前日、七月一六日にニューメキシコ州で密かに世界最初の原爆実験に成功し、早期の勝利を確信したため、もはやソ連の対日参戦を求めず、トルーマンはスターリンを無視した。蒋介石には電報だけで承認を得て、ポツダム宣言を発表したのである。(略、ポツダム宣言文など)

P361 ポツダム宣言が良識的であったのは、米軍が日本を占領するために、最も人道性の高いものにすることによって、アメリカが占領軍として自らの立場を強め、作業を行いやすくすることが目的であった。そのため、アメリカ国民と、全世界に対する良識の明示が、ここになされたのである。日本の"初期の占領政策"は、この宣言の通りに遂行されることになった。

しかし鈴木貫太郎首相が、ポツダム宣言二日後の七月二八日、何を血迷ったか、記者団に対して"ポツダム宣言黙殺(無条件降伏拒否)"と"戦争邁進"を表明したのである。この鈴木貫太郎は、海軍大将と連合艦隊司令長官を歴任してきた生粋の軍人だが、すでに三月一〇日に東京大空襲があって、四月一日に米軍が沖縄本島に上陸し、戦艦大和が沈没した四月七日に総理大臣に就任した男であった。

つまり、日本の軍事的な敗北が決定的となった時点で"終戦内閣"として発足したはずであったのに、この暴言を発したのである。そのため、"ポツダム宣言黙殺"を表明して九日後の八月六日に広島に原爆が投下され、続いて八月八日にソ連がポツダム宣言に参加し、日本に対して宣戦布告した。

その翌日、長崎に原爆が投下された。七月に無条件降伏していれば、広島・長崎に原爆が投下されずにすんだのである。(略)

6.2 八月一五日からの出来事 P362-367
(P362-)

6.3 新政府が軍人に大金をばらまく P367-372
(P366-)

6.4 占領軍マッカーサーの厚木飛行場への来訪と新内閣の顔ぶれ P373-382
(P372-)

P373 ソ連は、八月八日に日本に宣戦布告し、満州と朝鮮へ進攻を開始していたので、ソ連軍が樺太(現・サハリン)の日ソ国境を突破して南下し続け、八月一六日にスターリン首相がトルーマン大統領に書簡を送って、北海道の留萌~釧路を結ぶ線から北側をソ連軍が占領すると伝えた。さらに八月一八日には、ソ連軍が北海道東部の千島列島へ進攻を開始したため、占守島で激戦が展開され、日ソ両軍の死傷者が二五○○人を超えたのである。

このソ連の独善的な動きはアメリカにとっても予想外で、急ぎ日本と正式な降伏条約を調印する必要があり、日本の公式降伏使節をフィリピンの米軍のもとに派遣するための飛行機を準備するP374ことになった。米軍と連絡をとりながら、機体を純白に塗って、平和使節として"緑十字"を描いた飛行機が千葉県木更津を出発し、沖縄の伊江島経由でフィリピンに到着し、正式な降伏文書を持って帰国の途についた。

日本国内では、厚木の反乱隊員を説得しながら、米軍の到着を待つ姿勢を整えたが、日本に戻る緑十字機が途中、静岡県で燃料切れのため不時着し、かろうじて八月二二日に降伏文書が届けられ、フィリピンからの米軍先遣隊の到着日時が八月二六日であることが日本政府および大本営に伝達され、厚木基地に反乱軍が放置していた滑走路の戦闘機や残骸を撤去した。

こうした日本国内の危機的状況が進むなかで、予定より二日遅れて、日本降伏から二週間後の一九四五年八月二八日、連合軍先遣部隊の米軍(第八軍)が、ついに神奈川県の厚木飛行場に到着したのであった。同日、横浜に総司令部GHQが設置され、以後、日本本土へ米軍の進駐が開始された。

その二日後の八月三〇日、連合国軍の最高司令官に任命されたアメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着し、コーンパイプをくわえてタラップをおり、車両で横浜に入った。九月一日には、ソ連軍が北方四島に侵攻して占領したが、その翌日の九月二日には、東京湾の戦艦ミズーリ上でマッカーサー指揮のもとに降伏式典が執行され、日本の全権・重光葵外務大臣と、大本営代表全権委員・梅津美治郎参謀総長が「無条件降伏」文書に調印して正式に敗北し、日本が占領された、という素早い流れであった。

したがって、日本の真の敗戦日は八月一五P375日ではなく、全く忘れられられている九月二日である。こうして日本の占領を果たしたマッカーサーは、スターリンが要求した北海道北部の分割占領を一蹴して、日本の分割占領を阻止したのである。(略)

6.5 おそるべき飢餓に襲われた国民 P382-385
(P382-)

6.6 海外の日本人帰還に命を懸けた海員たち P386-398(相互参照)
(P386-)

P386 日本の敗北直前、八月八日にソ連軍の侵攻を受けて、退路を断たれた満州と北朝鮮では、シベリアに抑留されて重労働を強いられ、命を落とした人をはじめ、帰国できない人が膨大な数にのぼった。それでも大半の日本人が帰国できたのは、軍人の帰還を保証した人道的なポツダム宣言と、中国の蒋介石が打ち出した驚くほど寛容な政策に負うところが大きかった。(略)

しかし、実際に帰還の船を動かして日本人を故国に運んだのは、日本人の海員であった。日本が占領していた太平洋諸島では、補給路がたたれたまま一〇〇万人が餓死寸前で敗戦を迎え、全滅する直前に米軍によって救出された。だが、ほかの地域では、敗戦国・日本に対するアジア全P387土の激しい憎悪の嵐をかいくぐって、日本人の海員たちが、最も厳しい状況のなかで命を懸けて、残る五○○万人の命を救ったのである。

この経過については、のちに日本郵船会長となる有吉義弥が著した一九六一年初版の古い本『占領下の日本海運--終戦から講和発効までの海運側面史』(国際海運新聞社)にくわしい。(略)以下に再現しておく。神戸の海員会館には現在、「海に墓標を 海員不戦の誓い」の額が掲げられ、戦時中に沈没した船の膨大な写真資料を展示している。

そして、どれほど夥しい数の海員が、軍人のために戦争で無残な死に追いやられたかを実証し、すべての日本人は、この史実を知って、今こそ目を覚ませと訴えている。

その戦時中の海運業界の苦難は、真珠湾攻撃の一年前、一九四○年一〇月ニ一日に船員徴用令が公布された日にはじまった。徴用とは、軍部の命令で強制的に軍人の手足となって働かされることであった。真珠湾攻撃の翌年には、一九四二年四月一日に、戦時海運の国家管理の中枢をになう組織として「船舶運営会」が設立され、政府が民間所有船と全船員のすべてを実質的に徴用する体制になだれ込んだ。

こうして船乗りは、国家が強制的に徴用した船に乗船を命じられ、重用された船員の延べ人数は一〇万人にも達した。その上、船上でも戦地でも、船員は絶えず軍人から激しい差別を受け、P388十分な食料も与えられず、危険な任務を命じられて最低の条件で酷使されてきた。

徴用された船は大量の漁船にまでおよび、敗戦まで実に"一万五五一八隻"の民間船舶が撃沈され、犠牲になったのである。軍人やその関係者が書いた戦時中の美談では、軍艦ばかりが登場するが、それは嘘と虚飾に満ちた戯言にすぎない。

撃沈された戦艦大和が三〇〇〇人を海の藻屑とした最期に涙する前に、海員の苦労を知らずに、海運のカの字も知ったことにならないのだ。原因は、反目する陸軍と海軍が船の奪い合いをするような状況にあり、戦争に勝つという国家的な作戦など、微塵もなしに戦争を始めたことにあった。

戦後に海員たちが語ったように、「軍人が低能で、政治家は馬鹿」という国家であった。そのため太平洋での米軍との大戦争のため、ミッドウェー海戦・・・ガダルカナルの戦闘で、軍用船でない普通の商船が駆り出されて次々と撃沈され、続いてマリアナ諸島-・・・フィリピン海戦で一層の被害を受け、備砲も爆雷も持たない商船の海員は、軍人の命令に従って、ただ死ぬために海上に乗り出さなければならなかった。
(P390-)

P391 引揚者総数がほぼ六三〇万人であった。(略)ところが、ポツダム宣言第九条が、「日本軍隊の家庭復帰」を約束して、敗戦後の「陸軍・海軍部隊」の帰国は可能となったが、在外「一般邦人」P392にはそのような規定がなかったため、帰国は軍人が優先され、民間人は無視されたのである。

それどころか、ポツダム宣言受け入れを決定した当日早くも、一九四五年八月一四日付の暗号電信で「居留民は出来得る限り定着の方針を執る」と在外公館に伝えていたのだ。

敗戦後の八月二二日に内閣が設置した終戦処理会議は、総理大臣・東久邇宮稔彦、外務大臣・重光葵、国務大臣・近衛文麿、陸軍大臣・下村定、海軍大臣・米内光政、参謀総長・梅津美治郎、軍令部総長・豊田副武より成り、内閣書記官長・緒方竹虎が幹事をつとめ、八月三一日に、「在外邦人は現地に於いて共存」、つまり帰国させないと決定していたのである。

このあと九月一七日に外務大臣が交代して吉田茂に代わり、吉田がこの政策を推進する主役となって、右腕の白洲次郎参照)を使って、GHQと折衝した。そのとき彼らは、この決定に基づいて、GHQに対して、在外邦人を満州や中国、朝鮮の現地に定着させるよう積極的に要請し、一般人の切り捨てを具体化するという許しがたい行為におよんだのである。この事実は、日本の外交文書に明記されている

戦後現在まで、引揚者の帰国にまつわる数々の悲劇が語られ、ドラマ化され、日本政府にまったく引揚げについて発言力がなく、あたかもそれがアメリカやソ連の大国の思惑によってもたらされた悲惨な出来事だったかのように解説されるのは、論旨を外国の責任にすり替えようとするきわめて悪質な嘘である。

ソ連のスターリンはまぎれもなく非道だったが、GHQの現場を動かしていたのはそう司令官マッカーサーではなく、すぐれたアメリカ人たちであり、彼らはソ連と違って、血の通った人間として行動し、一般日本人が危地であることを知ってからは、その救済に心血を注いで骨折った。

ところが日本政府が冷血漢ぞろいで、特に、白洲次郎と結託して米軍と折衝にあたった対連合軍陸軍連絡委員長の有末精三が悪質で、大本営の支配者として、ほとんどの船舶をつぎこんで外征部隊(軍人)三○○万人の帰還を第一に進め、一般人を無視するよう主張したのである

有末精三とは何者であったのか。そもそも戦争犯罪者の筆頭に数えられる悪魔の細菌戦七三一部隊長・北野政次が、翌年一九四六年一月九日に、米軍機で中国の上海から日本に帰国したときのことである。翌日一〇日に対連合軍陸軍連絡委員長の有末精三から、「米軍とは、戦犯免責について話がついているから、心配する必要がない」と告げられ、満州の哈爾浜郊外の平房にあった七三一部隊本部を破壊して、徹底的に証拠隠滅を図った、という重大な事実も教えられていた(『医学者たちの組織犯罪』常石敬一著、朝日新聞社)。

つまり有末は七三一部隊が中国人に対しておこなったペスト菌をうえつける生体実験など、鬼畜にも等しい犯罪すべてを知っていた人物であった。このような男がトップに立って軍人の引揚げ帰還を差配していたのだ。しかも東久邇宮内閣が、軍人の帰還だけを考え、一般人切り捨てを閣議決定していたのだから、外地の一般人三〇〇万人には、刻々と危機が迫っていた。

このような場合、まず第一に、老人・女・子供を救い出し、弱い者の帰国を見届けてから最後に軍人が帰還するのが、どこの国でも人間の情である。ところが、日本の武士道は、軍人がわれさきを争って帰国する手順をとったのだ。

最近の日本人は、いい加減なことを物書きによって賞賛される武士道やサムライを立派なものだと思いこんでいるが、実際の武士道とは、これほどぶざまなものである。それを聞いたGHQが特権を発動して、外征部隊より優先して一般人の引揚げをおこなわせなければならなかったのである

敗戦におよんでも、民度は最も低い集団が、日本の政治家と官僚・軍人であった。しかし船員たちは違っていた。

(略)

(P396-)

P397 現在では、敗戦から翌一九四六年末までの一年余りで、この海員たちによって、五○○万人以上が祖国日本に引き揚げ、最終的に帰国した日本人は福岡県博多港と長崎県佐世保港にそれぞれ約一四○万人、京都府の舞鶴港に約六六万人を中心に、六三〇万人近くが帰国できたとされている。

その中には親を失って身寄りのない多くの孤児がいた。一九五○年四月一日に、GHQ覚書により、日本の全船舶が民営還元され、船が民間の船主によって運行される本来の姿に戻った。船舶運営会は、解散されるまで国庫から二四二億円を超える莫大な赤字補填を受けて、六大銀行に一億円ずつ預金するほどの財政を維持したとされている。

その船舶運営会の資金は、日本の全船員の生活を守るために使われたのである。この海運業界の功労を紹介したのは、敗戦の年、一九四五年一〇月五日に、この涙ぐましい引揚げ作業を進める海員によって「全日本海運組合」が創設され、これが"戦後最初の全国的な労働組合"となっP398たからである。(略)

現在多くの労働組合は、企業内の御用組合となって弱体化し、海運業界の幹部には朝鮮戦争・ベトナム戦争を通じて悪しき米軍と密着する傾向を強めてきた者もあるが、全日本海員組合はいまも、海員であればすべて受け入れる産業組織として、「戦火の海に船員は二度と行かない」と誓って、戦後に生み出された"日本国憲法を改悪しようとする政治家"に猛然と反対している。

そして

二○一六年一月二九日には、「防衛省予算に、民間船員を海上自衛隊の予備自衛官補とする費用が盛り込まれている。これでは、戦時中におこなわれた海員徴用と同じではないか」と反対声明を出した。

(略)

6.8 七人の男、日本国憲法制定に立ち上がる P408-425

P409 まず初めに声をあげたのは文化人グループであった。敗戦翌月の一九四五年九月二七日、辰野隆、正宗白鳥、山田耕作、山本実彦、村岡花子たちが、日本文化人連盟発起会を開き、「文化の民主主義化を促進する」するよう会合を持ち、このグループが日本国憲法誕生の起爆剤となった。(略、メンバー紹介)。

P411 この文化人グループに続いて動いたのが近衛文麿グループであった。一九四五年一〇月四日に第二回目の近衛・マッカーサー会談がおこなわれ、マッカーサーが憲法改正によって自由主義を取り入れる必要性を近衛に申し伝えた結果、近衛のもとで、憲法学者・佐々木惣一博士、高木八尺博士、ジャーナリストの松本重治などが、アメリカ国務省と連絡を取りながら憲法草案の作成に着手した。(略、近衛の逮捕で消滅)

P412 第三の動きは、松本丞治(相互参照)グループであった。一九四五年一〇月一一日に幣原喜重郎首相・マッカーサー会談がおこなわれ、新任総理大臣の挨拶に来た幣原に対してマッカーサーが憲法の自由主義化と人権の確保を口頭で要求したのである。(略)

第四の動きが、もっとも重要な鈴木安蔵グループであった。一九四五年一〇月一五日に憲法学者の鈴木安蔵が自由憲法の必要性について三日間にわたって講演し、その内容が新聞に連載されたことがきっかけとなって、一一月五日に先の文化人グループの高野岩三郎のほか、杉森幸次郎・室伏高信・岩淵辰雄・馬場恒吾・森戸辰雄が加わって、この七人が「憲法研究会」を東京で結成したのである。(略)P413一二月二八日の毎日新聞一面に鈴木安蔵草案が掲載され、これがGHQの憲法草案の土台となったのである。(略)

第五の動きとして、同時期の一一月八日に、政党のトップを切って日本共産党が第一回全国協議会を開き、新憲法の骨子を決定し、一一月一一日には、人民主権の憲法草案「新憲法の骨子」を発表した。(略)つまり、一九四五年内に生まれた憲法草案は三つだけで、共産党案が最も早く、続いて佐々木惣一草案が出て、翌月に憲法研究会草案(鈴木安蔵草案)が出た。しかし共産党は"天皇制の廃止"を求める行動に出たため、当時の日本の世情では、支持される可能性は低かった。

マッカーサーもその世論を考慮して、占領政策を容易にするため天皇制を維持する方針を固めていたので、共産党案には最初から育つ芽がなかった。佐々木惣一草案は、自由主義者の高木八尺博士や、ジャーナリストの松本重治も議論に加わったので、民主化については一部に進歩的な面を含んでいた。(略)P414しかし、"天皇の統治権を維持する"という佐々木惣一の封建思想がひどく時代遅れで、近衛の自殺と、佐々木の頑迷さのため、この草案は完全に空中分解した。残るは年末に登場した鈴木安蔵草案しかなかったのである。

アメリカは、ちょうどその直前の一九四五年一二月六日にGHQの弁護士で、民政局の法規課長だったマイロ・ラウエルが「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」を作成していた。そこに、日本人の急な動きが出てきたのを見て、大晦日に連合軍翻訳通訳部(ATIS=Allied Translator and Interpreter Section)が、鈴木安蔵らが打ち出した憲法研究会草案の翻訳に取りかかった。

あと一つは、アメリカではない連合国グループが動いていた。この一九四五年一二月一六日からモスクワで連合国のアメリカ・イギリス・ソ連の三国外相会議が開催され、戦争に敗北した日本を連合国が占領するにあたり、「アメリカ主導のGHQだけに憲法など日本の改革を任せることに反対していたからである。そこで一二月二六日、日本を管理するための政策機関として一一ヵ国で構成される国際的組織"極東委員会"を翌年の一九四六年二月二六日に発足させることで合意し、翌日モスクワ宣言として発表した。(略)

P415 こうして一九四五年を送り、明けて一九四六年以後が、有名な、世に論じられてきた憲法制定の議論だが、すでにこの段階で、民主的憲法の骨格は、鈴木安蔵草案によって決まっていたのである。(略、以下、この草案にかかわった七人について語られる)

P419 一九四六年が明けて、急な動きに泡を食らった日本政府の松本丞治が、ようやく憲法改正私案の起草を開始し、憲法問題調査委員の宮沢俊義らが加わったが、彼らは国民の主権さえ眼中になく、民主化とはほど遠い封建的憲法をこしらえたのである。一九四六年二月一日の毎日のスクープで、この日本政府の憲法改正案の内容を知ったGHQが驚きあきれて激怒し、二月三日にマッカーサーがニューディールの民生局に、急いで憲法モデルを作成するよう極秘に命じることになった。

民政局メンバーは、ポツダム宣言と、国連憲章と、前年末に公表された鈴木安蔵草案を土台にして、アメリカ憲法、ドイツのワイマール憲法、フランス憲法、日本の各政党の憲法草案など、ありとあらゆる資料を並べて議論を重ねた。しかし、憲法学者ではない彼らが、短時日での作成を命じられたため、結局は鈴木安蔵草案を骨格にして、二月一〇日にGHQ草案を作成した。

それを知らない日本政府が、二月八日に「憲法改正要綱」(松本試案)をGHQに提出したが、二月三日にGHQが政府案を拒否し、逆にGHQ草案を突きつけられ、以後はよく知られるように、徹夜の書き換え作業にかかった、という次第であった。P420 情けないのは、日本の国民に自由を与えようとするそのGHQ草案に、吉田茂と白洲次郎が口を出して、民主化を妨害し続けた態度であった。マッカーサーはアメリカ上院軍事外交委員会で、日本人は「十二歳の子供」であると語ったが、まさにそのような振る舞いであった。

最終的には一九四六年三月五日、GHQとの交渉によって大幅に修正された日本政府の確定草案が採択された。翌六日に緊急記者会見で「憲法改正草案要綱」が発表されたのである。そこには、鈴木安蔵たちが求めた通り、主権在民が明記され、天皇制は維持されるが天皇を単なる国家の象徴とし、天皇の統治権が否定されていた。また、GHQがほかの戦勝国に天皇制維持を納得させるために、国際紛争を解決する手段としての「戦争放棄」が規定されていた。マッカーサーがこれを全面的に承認する声明を発したことは言うまでもない。

最近になって注目されているのが、「憲法第九条の発案者は誰であったか」という史実の発掘である。「戦争放棄の条項を発案したのはマッカーサーだった。アメリカの押しつけ憲法である」と吹聴する人間が多いが、実は「首相の幣原喜重郎が、憲法に戦争放棄の条項を入れたいと言った」と、一九五一年五月五日にアメリカ上院外交委員会でマッカーサーが述べた証言記録がある。また一九四五年一〇月九日から一九四六年五月二二日まで総理大臣をつとめていた幣原本人が、一九四六年一月二四日の幣原・マッカーサー対談について、一九五一年に秘書・平野三郎(のちの衆議院議員)に語った内容が、「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」と題した文書として一九六四年に内閣の憲法調査会に提出されていた。

それによれば、幣原は、P421原子爆弾ができた地球は集団自殺に向かっているので、だれかが自発的に武器を捨てる必要があり、「その歴史的使命を日本が果たす」ために、マッカーサーに戦争放棄条項を進言し、その時、日本人の発案とせず、アメリカの発案とするよう頼んだと書かれていた。そして一九五八年に憲法調査会の高柳賢三会長が渡米して、憲法の成立過程を調査して帰国した。

その年、一二月五日に、マッカーサーが高柳会長に宛てて、「(憲法第九条は)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明と経国の才と叡智の記念塔として、永存することでありましょう」との手紙を送った。そこで同年一二月一〇日に、高柳会長がマッカーサーに宛てて、「幣原首相は、新憲法起草の際に、戦争と武力の保持を禁止する条文を入れるよう提案しましたか。それとも貴下(マッカーサー)が憲法に入れるよう勧告されたのか」という質問の手紙を送った。

それに対して、一二月一五日付けでマッカーサーから返信があり、次のように明記されていた。「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は幣原首相がおこなったのです。首相は、私(マッカーサー)の職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対して私がどのような態度をとるか不安だったので、憲法に関しておそるおそるわたしに会見の申し込みをしたと言っておられました。私は、首相の提案に驚きましたが、私も心から賛成であると言うと、首相は明らかに安堵の表情を示され、私を感動させました」。

以上、憲法調査会に関する動きは東京新聞二〇一六年六月一二日と八月一二日の記事によるので、P422この記事によって初めて史実を知った日本人も多いだろう。しかしこの記事が掲載される三九年前の一九七七年にアメリカで製作され、翌一九七八年に日本でも公開された伝記映画『マッカーサー』の中に、幣原首相がマッカーサーを訪問して、「軍国主義者をおさえるために、新憲法に武器保有の放棄を入れるよう幣原が提案し、マッカーサーが驚きつつ感動した」シーンが明確に描かれていたのである。

この映画は、ハリウッド大スターのグレゴリー・ペックが主演し、アメリカ国防省(ペンタゴン)が協力して、史実を忠実に再現して製作された作品である。憲法第九条が日本人の発案だったことは、動かない事実なのである。

かくしてGHQとの交渉で修正された日本政府の確定草案が採択され、「憲法改正草案要綱」が発表されたあと、連合国の極東委員会が、「これで決定するのではなく、日本の国民が憲法改正に自由に参加し、議会を経て決定しなければならない」と、これまたまったく当然の勧告をおこなった。それを受けて議会でたびたびの議論が展開され、鈴木安蔵グループも次々と意見を加え、さらにそこに国民が数々の意見を寄せたのである。

怪しげな密室の小委員会が修正案を出すなどもしたが、土壇場になって、一一ヵ国の国際的組織、極東委員会が「普通選挙制」と、「総理大臣と国務大臣は文民でなければならない」という重要な条項の追加を求めたおかげでそれを加え、一九四六年一〇月七日に衆議院が、憲法改正案の貴族院修正案を可決し、「帝国憲法改正案」つまり現在の「日本国憲法」が修正可決されたのであった。四ヵ月におよぶ議会を経ての成果であった。

P423 憲法改悪の動きが出てきた最近になって、この骨格をつくった鈴木安蔵草案の存在意義がマスメディアで報道されるようになったのは好ましいことである。だが、それが「今発掘された新事実」であるかのように報じられるのは、まったくの嘘である。広く日本の文化人の考えを採り入れた憲法研究会草案をもとに、GHQ草案が生まれたことは戦後すぐに日本史の書物に書かれ、古くから知られた事実である。

その存在を、知らなかったとすれば報道人として恥ずかしいことであり、実は故意に無視して、「GHQの押しつけ憲法」というデタラメ世論を生み出してきたのが、近年のテレビと新聞の報道界なのである。

しかし鈴木安蔵らの憲法研究会草案にも欠点があり、それをGHQの良識あるブレーンと世界的な極東委員会が補い、議会で広く国民の声を採り入れた者が、一九四七年五月三日に施行され太日本国憲法であった、というのが正しい。憲法の口語化に尽力したのは、『路傍の石』を書いた小説家・山本有三であった。

こうして成立した日本国憲法について一筆述べておかなければならないことがある。近頃、「自衛隊という軍隊は実在するのだから、日本国憲法の第九条を修正する必要がある」という人間がいるが、条文の意味をまったく理解していないようだ。第九条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めたのである。つまり憲法制定後に生まれた自衛隊は、日本が侵略を受けるようなやむなき場合にのみ活動する、その名の通りP424「自衛に限られる」と憲法に縛られているのであって、自衛である限り憲法違反ではないと解釈されて、存在が認められてきたのだ。

一方、外国の戦闘に参加する集団的自衛権の行使と、積極的に戦争を仕掛ける軍隊と、他国を威嚇する武力は憲法違反なのである。
(略)

第七章 戦後の工業・経済復興はどのようにおこなわれたか P456-564

7.2 東西冷戦と朝鮮戦争---特需で自動車産業が息を吹き返す P460-474
(P466)

P466 朝鮮戦争は、日本や国連での定説では、「一九五〇年六月二十五日に突然に、北朝鮮軍が先に三十八度線を越境して南への侵攻を開始して、戦端が開かれた」となっているが、これは米軍の発表であって、事実としての根拠はまったくない。この年初めにアメリカが韓国と"軍事協定"を結んで五日後、一月三十一日にアメリカ国防総省トップの統合参謀本部議長オマール・ブラッドレーが陸海空の三軍首脳を引き連れて来日すると、GHQ司令官マッカーサーと軍事体制の強化について会談し、翌二月一五日にアメリカ議会でジョゼフ・コリンズ陸軍参謀総長が「日本に駐屯する米軍は数か月以内に戦闘準備が完了する」旨を証言したことが公表されている。

さらに六月一八日にアメリカ国務省顧問で強烈な反共主義者ジョン・フォスター・ダレス(一九五三年から国務長官)が韓国軍を視察して、韓国将兵に「戦争が間近である」ことを告げたあと、六月二一日に来日して吉田茂首相に会談を求め、日本に「再軍備を要求」して、その"四日後"に開戦したのだから、これが偶然の一致であるはずはなかった。

(略)

(P468-)

P471 しかし日本が、朝鮮戦争に関与したのは、特需による産業の回復ばかりではなかったのである。当時、日本の船員は、先に述べたように、海外数百万人の日本人を帰還させる偉業をなし遂げ、アメリカの軍人から称賛されていたが、ちょうどこの一九五○年の四月一日から日本の全船舶がGHQ管理下の国営から民間に戻され、個人船主が船を運航する本来の姿に戻ったばかりであった。(略)

これらの船乗りは、戦前から日本軍と共に行動して、米軍に比べて朝鮮沿岸のすみずみまで精通していたため、マッカーサー指揮下の米軍の仁川上陸作戦に参加を求められ、現場監督をつとめることになった(tw)。

戦後の船員たちは、先述の通り基本的に、"反戦平和の思想"を貫き、日本国憲法の第九条が「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めていたのに、なぜ戦争に協力したのだろうか。

これには理由があった。ソ連がシベリアに日本人を抑留して極寒の地で奴隷労働をおこなわせて、日本人が次々と死んでゆき、日本共産党がモスクワに日本人帰還要請を呼びかけても無視されてきた。一九四八年初めに、ようやく引き揚げに関する米ソ協定が成立して、月間五万人の送り出しが確約されたにもかかわらず、日本人の帰還が進まなかったため、船員たちは、北朝鮮を支えているソ連を快く思っていなかった。

P472 こうしてアメリカの戦争に協力しはじめ、水船・・・工作船・・・動力船などの整備を日本人船員が担当して、米軍にとっては心強い働きを示した。米軍に役立った造船業界は、ようやく大型船舶の建造が認められ、しかも建造資金の大半はアメリカの資金を使ってよいとする優遇措置も受けた。

だが、当時起こった出来事が、二○一四~二〇一五年に日本の国会で進行してきた集団的自衛権行使と安全保障関連法案の採決という重大事に直接関係していたのである。当時の米軍は、北朝鮮の首都・平壌の真東にあって交通の要衝である軍港・元山への上陸作戦を決行する計画だったが、一九五○年の開戦直後から、北朝鮮軍は艦船が接触すると爆発する機雷を海中に設置していた。

これを知ったアメリカ海軍第七艦隊司令官は、九月一一日に機雷を除去するように命じた。ところが国連軍②は機雷掃海部隊がほとんどいなかった。そこで国連軍に代わって日本の海上保安庁に掃海部隊を派遣することを決定し、一〇月にアメリカ極東海軍司令部が運輸大臣の山崎猛に対し、日本の掃海艇を派遣するよう、文書をもって派遣指令を出した。この山崎は、二年前には総理大臣候補となって、吉田茂のライバルだった大物議員であった。

かくして一九五○年一〇月から、北朝鮮の機雷を掃蕩するため、アメリカ海軍が"戦闘地域である朝鮮水域"に日本の掃海艇が出動するように命令し、しかも"国会承認なしに"吉田茂首相がこれを承認したのだ。そして一〇月七日から、元海軍大佐の田村久三を総指揮官とする日本の海上保安庁の掃海部隊からなる四十六隻の「特別掃海隊」が派遣され、ほぼ二ヶ月にわたる戦地でP473の機雷掃蕩活動を開始したのである。

ずるずるとアメリカの命令に従いはじめた日本は、掃海艇が北朝鮮の元山沖まで出動し、米軍の掃海艇二隻が機雷に接触して沈没するなか、ほとんどの国民が知らないあいだに、多くの日本人が国連軍の軍事作戦に参加し、日本国憲法に違反する戦闘地域の行動に出たのだ。

そして特別掃海隊が掃海作業に入ると、十月十七日に日本の掃海艇MS14号が機雷に接触して沈没し、一名の死者(行方不明)が出たのである。総理大臣・吉田茂はこの死者と、一八名の重軽症者を厳重に秘密にするよう命じて、国民には知らせなかった。

また一一月一五日に元山沖を航行中の大型船が機雷に接触して沈没した海難事故では、乗り込んでいた日本人船員二七名のうち二二名が死亡するという悲惨な事故が発生した。防衛研究所の戦史部員・石丸安蔵による「朝鮮戦争と日本の関り--忘れ去られた海上輸送--」によれば、「およそ八〇〇〇人の日本人が、アメリカの命令で朝鮮戦争の軍事作戦に参加させられ、判明しているだけで朝鮮戦争勃発から半年間で五六人の日本人が命を落とした」とされている。

(以下略)       

7.7 サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結 P499-508
P502 この時代から、財閥と戦争犯罪者の復権が、雪崩のように起こった。朝鮮戦争の開戦四日前、一九五〇年六月二一日にジョン・フォスター・ダレスが韓国から訪日した同じ飛行機に、"偶然にも"「日本の財閥を復活させるべきだ」と主張し続けてきたアメリカの週刊誌「ニューズウィーク(Newsweek)」の外信部長ハリー・カーンが乗り合わせ、翌日の夜、ダレスとカーンが、日本の財閥復権で最重要人物と目される四人と会談した。

P503 ジョン・フォスター・ダレスは、モルガン財閥が生み出した世界最大の鉄鋼会社USスチールとロックフェラー財閥のスタンダード石油トラストをつくったサリヴァン&クロムウェル法律事務所(相互参照)の最高責任者で、このあとアイゼンハワー政権の国務長官となって外交戦略を一手に握り、ロックフェラー財団(tw,tw,tw)の理事長に就任した財界№1であった。弟のアレン・ダレスは一九四七年にCIAを設立して、のち一九五三年に自ら長官になり、イランでCIAクーデターを実施した。この二人は、全世界で数々の凶悪な軍事工作をめぐらした兄弟であった。

兄ダレスとカーンの共通の目的は、日本の財閥を復活させ、戦前にアメリカが日本に投資した莫大な金をウォール街が回収することにあった。このような目的をもって、ダレスは日本を再軍備させ、財閥を復活させるための工作のため、以下の四人の日本人と会談したのである(tw)。

四人のうち一人目は昭和天皇の側近・侍従長の松平康昌で、三井財閥当主・三井八郎右衛門の義兄弟であった。二人目が澤田廉三で、三菱財閥創始者・岩崎弥太郎の孫婿であった。三人目が渡辺武で、息子の妻が住友財閥当主・住友吉左衛門の実兄・西園寺公望首相の曾孫で、日立コンツェルン総帥・鮎川義介の孫にあたっていた。実にこれだけでダレスは、三井・三菱・住友・日立の財閥と、天皇・華族に渡りをつけたことになる。

四人目は毛色の変わった海原治で、後年に国防会議事務局長となって再軍備活動に権勢を広げて、海原天皇の異名をとる軍事利権者であった。P504ダレスにとって、彼も日本の再軍備の根回しに重要な人物であった。GHQ最高司令官マッカーサーは、GHQが財閥を解体したことを批判するカーンと烈しく対立していた。ところが、朝鮮戦争勃発後の一九五〇年一一月三〇日にトルーマン大統領が「朝鮮戦争で原爆を使用する可能性がある」と発言して、イギリスなど西ヨーロッパを含む全世界から痛烈な批判を浴びたあと、戦争の膠着状態を破るため中国への大攻撃など強行作戦を計画するマッカーサーが、今度は戦線の拡大をおそれるトルーマンの怒りを誘い、一九五一年四月一一日に七一歳の「老兵マッカーサー」が罷免され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が任命されるという、日本にとって寝耳の水の重大事件が起こった。

その五日後の四月一六日、日本の国民から絶大な感謝と敬愛の言葉を贈られながら、偉大なる足跡を残した占領者マッカーサーが日本を離れ、リッジウェイが第二代GHQ最高司令官に就任し、代わって朝鮮戦争の指揮をとった。

すると新GHQは、ただちにアメリカ財界・軍需産業代理人ダレスの方針に沿って、六月二一日に財閥解体をになってきた持株会社整理委員会の解散を命じて、独占禁止法も大幅に緩和し、財閥解体に関する法令の原則廃止を打ち出したのである。さらに九月八日にサンフランシスコ講和条約が締結されると、翌一九五二年四月二八日にそれが発効して日本が独立したので、"占領軍GHQ"が消滅した。その結果、GHQの公職追放令が無効となり、戦時中の企業幹部がどっと復帰しはじめた。これら旧幹部は、すべてが戦争加担者ではなく、主要企業が網羅されていたので、有能な人間もかなり復職できた。

7.8 日ソ国交回復 P508-514
(P508-)

P512 日ソ漁業交渉を担当した農林大臣の河野一郎は、児玉誉士夫から受け取ったダイヤやプラチナなど大金を握って鳩山を首相にした中心人物だったが、そもそもは農林大臣秘書官から出て、農業と水産業の利権にめざとい男であった。その河野を後押ししたのは、第一次吉田茂内閣の運輸大臣をつとめた平塚常次郎であり、河野と深い仲にあった平塚の本当の顔は、日魯漁業の社長であった。

実に半生記をさかのぼる日露戦争の勝利後だったが、日本がポーツマス条約で北洋の漁業権を確保すると、北海道函館出身の平塚は中国・ロシア国境を流れるアムール川(黒竜江)まででかけて河口でサケ漁に明け暮れ、北洋カムチャッカ海域のサケ漁に乗り出した。サケ・マス・カニの缶詰加工業を手掛けて大成功をとげ、苦労の果てに「あけぼの印」缶詰の日魯漁業を設立して、北洋を世界の三大漁場にした男であった。

この平塚常次郎社長が、戦後は、ソ連に奪われた北洋漁場を日本人漁民の手に取り戻したいと、どれほど無念に思ったことであったか。そこで衆議院議員になり、社長のほかに議員としても活動しながら、ソ連に生涯五〇回以上も足を運んで、日ソ協会の副会長をつとめて、漁業交渉に奔走してきた。

こうしてNATOとワルシャワ条約機構が激突した翌年、一九五六年五月一四日に「日ソ漁業条約」が調印され、続いて一〇月一九日には、鳩山一郎首相が自らソ連に赴いて、モスクワで日ソ共同宣言に署名し、戦争状態を終結する日ソ国交回復を成し遂げたのであった。

漁業交渉の成功がなければ、米ソ対立を乗り越えるこの国交回復はなかったであろう。ソ連がここで、日本の国連加盟を支持し、漁業分野での協力を約束したため、水産業界が熱望していた北海道・サハリン周辺のオホーツク海における北洋漁業が、ひとまず安全に操業できるようになった。

さらに択捉など北方四島の領土返還についても、ソ連は好意的な態度を見せ、希望があった(しかし次に述べるように、この成果を岸信介が踏みつぶしたおかげで、現在まで漁民が深刻な課題を抱えることになった)。

日ソ国交回復のおかげで、この年、一九五六年一二月一八日の国連総会で、ソ連がほかの東ヨーロッパ諸国とともに日本の国連加盟に賛成し、全会一致で日本の国連加盟が実現したのであった。しかしすでに鳩山一郎は高齢で、肉体に限界がきていたので、この国連加盟を置き土産に、鳩山内閣は二年間の激務を終えて総辞職し、石橋湛山内閣に引き継がれた。

なぜ彼らはこのような交渉を成し遂げることができたのだろうか。政治家・河野一郎は、どういうわけか、漁業交渉前に平塚社長のもとで日魯漁業就任の常務に就任していたのである。(略、社長の履歴もあったとか)このあと河野一郎の息子・河野洋平は、のちの自民党総裁となったが総理大臣になるチャンスを失い、その息子・河野太郎が現在まで衆議院議員をつとめて、

P514 二〇一五年一〇月には安倍晋三内閣で閣僚ポストを与えられた。

  →『秘密のファイル(下)』P162-(参照)   →「偏愛メモ 北方領土問題」(参照)