2019年7月21日日曜日

偏愛メモ『持丸長者--戦後復興編--』

第三章 東西冷戦で地球が大混乱 P201-255

3.6 サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結 P231-238(関連相互参照)
(P230-)


第五章 大公害時代の苦難を乗り越える P334-415

5.1常磐ハワイアンセンターにフラガール登場 P334-
5.2超高層ビルの霞が関ビルがゼネコン王国を築く P343-
5.3デパート・スーパー黄金時代 P349-
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P352 中内に続いて、東京浅草に開業した羊華堂洋品店を継いだ伊藤雅俊(tw)が、五八年四月にこれをヨーカ堂とし、欧米の流通業を視察したあと、六〇年代に入ってチェーン店に乗り出し、同時代の景気の波に乗ってついには衣料品から、日用品に手を広げ、電化製品、加工食品、生鮮食品、家庭用品、化粧品、医薬品まで販売する大手スーパーのイトーヨーカ堂となるまでに成長した。

中内功が、七五年に子会社ダイエーローソンを設立し、これがのちに独立してローソンに発展したなら、七四年にアメリカと提携して、セブン-イレブン第一号店をオープンし、セブン-イレブンは現在、全世界で三万店を超えるというのだから気が遠くなる。

六九年にスーパーの売上高がデパートと肩を並べた。スーパーは安価な商品を大量に売るのだから、販売量ではデパートをはるかに抜いたのである。七二年にダイエーが売上高で三越を抜いて小売業日本一となった二年後、中内功は七四年から高額所得者として登場し、七六年には全国第四位にまでのぼり、第三位の宿敵・松下幸之助とほぼ肩を並べる所得額をかせいで、合計一三回の長者番付入りを果たした。

伊藤雅俊も八〇年代に三回の長者となったばかりか、アメリカの経済紙フォーブスでは総資産が日本人のベストテン第三位~四位にランクされる長者となった。

まだまだある。九七年に破綻した話題となったのが、『おしん』のモデルと噂されたヤオハンである。ここは、静岡県の青果商だった八百半商店が、六二年に八百屋から一転、なんでも売ります「八百半デパート」と改称して、和田一夫が社長に就任すると、チェーン展開に乗り出した。

P353しかし和田一家は国内のダイエーやヨカドーと競うのを避けて海外に目を向け、七一年からブラジルに進出して、このブラジルヤオハンは倒産するが、その後、アメリカ、コスタリカ、シンガポール、

そして八四年に香港ヤオハン第一号店を開店してからの勢いがすさまじく、マレーシア、ブルネイ、中国、タイ、マカオ、カナダ、イギリス、九五年にはアジア最大の百貨店・上海店を開店するまでになった。

六九年には、伊勢商人の岡田卓也が、岡田屋・フタギ・シロの三社共同の出資による共同仕入れ会社のジャスコを設立して、大阪を拠点に「タヌキやキツネの出る場所に出店せよ」との号令のもと、郊外を狙った大型ショッピングセンターを中心に出店を続け、みるみるうちに大スーパーチェーンに成長して、二〇〇一年からジャスコがイオンにとなった。

この母体となった岡田屋は、江戸時代中期の一七五八年に岡田惣左衛門が三重県四日市で創業した呉服商から出たので、新興起業家が多いスーパー業界では異色の老舗であった。

岡田卓也も七〇年代から、高額所得者番付入りを果たした。六三年に大阪・京都の衣料品店など四社が合併して生み出したニチイ(日本衣料)は、のちにマイカルとなったが、破綻したため、二○○三年に岡田のイオングループ傘下に入った。

P354/ 356

5.4山一證券事件と闇再販事件 P357-
5.5公害の黒い雲が広がる P364-
5.6廃棄物の産卵時代と水俣病 P373
5.7それでも大阪万博は開かれた P382-
5.8ニクソン・ショックと激動の日米貿易戦争 P388-
5.9日中国交正常化と沖縄返還 P395-
P406 (略)
5.10オイルショックの激震
 日本人が安い中東の原油をふんだんに使って急成長していた時、いきなり中東産原油の原油価格が一バレル三ドルから一挙に一〇ドル台へ突入し、四倍近くに上昇したのが、第一次オイルショックであった。この原油価格の上昇開始時期は七三年十月十六日だったが、中東産油国の戦略が七四年に終結しても、そのあと七五年まで価格上昇が続き、自動車・繊維・プラスチック・化学コンビナートなど、石油に頼って伸びてきた日本経済を土台から揺るがすことになった。二〇〇八年には、正月早々にバレル一〇〇ドルを記録して急騰する狂気の時代を迎え、背景はまったく異なりながら、日本社会に大きな脅威となる点では同じであり、オイルショックは新たな注意を引く歴史的事件である。

 日本の石油事業の濫觴については第二話【国家狂乱篇】にくわしく述べたが、戦後すぐをふり返ってみると、敗戦時の日本は、原油の在庫が六二万バレルでスタートする悲惨な状態であった。
図7、原油価格の推移(1971-91年湾岸戦争まで))
P408 オイルショック前年、七二年の消費量が一七億バレル弱、最近の二〇〇〇年が二〇億バレルだから、敗戦時には、現在の日本人が三時間で使い切ってしまうほどしか原油の手持ちがなかった。どのように石油産業は復活したのだろうか。

 GHQが日本に乗りこんできた時、彼らはすぐにシェルやカルテックスなどの欧米石油業者を顧問団として招き、日本人の需要に対しては、アメリカから灯油など石油製品を緊急輸入して放出する政策をとり、四六年には日本の原油輸入を禁止して、完全にコントロールした。しかし占領軍が日本を支配するためにも、日本国内での石油精製の必要性が高まり、欧米業者と日本企業の提携が広がって、次第に規制が緩和されてゆき、五〇年一月から太平洋岸の製油所復旧と原油輸入の精製再開が許可され、日本の石油産業が復活した。さらに朝鮮戦争の勃発と共に、積極的な奨励策がとられ、五二年の日本独立とともに、完全復活したのである。

 日本政府はただちに石油製品の価格統制を廃止し、出光興産が通産省から新しいタンカーの造船許可を受けて同年に就航すると、カリフォルニアからハイオク・ガソリンを輸入しようとしたが、ソーカルに妨害され、つづいてテキサスからの輸入に切り換えたがやはりメジャーの妨害を受け、ベネズエラにようやく輸入先を確保した。

 すでに中東では、イランで石油国有化が動き出し、アメリカとイギリスがこれをつぶそうと国を挙げて悪事を進めていたが、五三年五月には、石油を国有化してきイギリスと係争中のイランから、出光興産の日章丸がアバダンからガソリンと軽油を満載し、川崎に入港した。イギリスのアングロイラニアン石油(BPの前身)が積荷の所有権を主張して東京地裁に提訴したが、出光の勝訴判決が出て、日本がその後、イランとの国交を深める淵源となった(tw)。

P409 次の国際的事件は、五七年一二月に、日本輸出入石油の山下太郎社長がサウジアラビア政府から中東湾岸のサウジアラビア~クウェート中立地帯沖合で採掘権を獲得し、商業量の油田発見から四十年間という利権協定を締結したことであった。この協定は、日本が利益の四四%、サウジ五六%として、従来の利益折半という国際的な原則を破って産油国に有利な条件を日本が提示した協定であった。そして翌五八年二月に山下太郎がアラビア石油を設立してクウェートとも四十四年半の利権協定を締結して「アラビア太郎」と呼ばれるようになった。日本はさらに五八年にソ連、六〇年にインドネシアからの原油輸入にも踏み切り、日本が公然と石油メジャー七社の利権に食い込んでいった。その六〇年九月に結成されたのが、イラン、イラク、サウジアラビア、クウェート、ベネズエラの五ヵ国による石油輸出機構(OPEC)であった。

 こうして日本は、メジャーのセブン・シスターズに対抗する必要から、六二年に通産省が石油輸入を通産大臣の許可制とし、事実上、外国石油会社の輸入を制限できる石油業法を成立させ、国内業者の保護に乗り出した。

 第一次オイルショック前年における日本の大手石油元売会社は左の通りである。
    ◆一九七二年の大手石油元売会社
              総資本金          鉱工業全社中の順位
    〇出光興産   四五八七憶五〇〇〇万円      一九位
    〇日本石油   二九五六憶ニ四〇〇万円      三三位(現・新日本石油)
P410   〇丸善石油   ニ七二五憶一六〇〇万円      三五位(現・コスモ石油)
    〇三菱石油   ニ一三一億八六〇〇万年      四九位(現・新日本石油)
    〇東亜燃料工業 一七五〇憶六五〇〇万円      六一位(現・東燃ゼネラル石油)
    〇昭和石油   一六〇七憶九七〇〇万円      六八位(現・昭和シェル石油)
    〇大協石油   一二七八億八九〇〇万円      八七位(現・コスモ石油)
    〇アラビア石油 一二六一億五四〇〇万円      八九位
 このように断然トップに立っていた出光興産は、福岡生まれの出光佐三(tw)が一九一一年(明治四十四年)に門司に日本石油の代理店として出光商会を設立して誕生した会社であった。翌年から満洲に進出して、満鉄に潤滑油を販売していたが、やはり満鉄と関わっていたのが後年のアラビア石油社長の山下太郎であった。出光はロイヤル・ダッチ・シェル、スタンダード石油と競いながら中国市場に参入し、朝鮮、台湾に販路を拡大したが、満洲事変後は政府が支配したため追い出されて苦い猛思いを味わった。戦後すぐに出光佐三が議会で演説し、国家による統制をなくせ、と「官僚主導亡国論」を主張したのはそのためであった。

 過度経済力集中排除法の適用を受けた出光興産は、日本石油との関係を絶たれ、かえって自立する道を歩んで成長した。イランではイギリスのチャーチルに敢然と挑戦し、日本とイランの大衆から喝采を受けたあと、六〇年にはソ連と原油大量輸入の契約を結んだ出光佐三は、五三年から高額所得者番付の第一〇位に登場し、五九年には松下幸之助に次ぐ二位となり、六八年まで一三回の長者番付入りを記録した。

P411 これに対してアラビア石油の山下太郎は、山下汽船社長の山下太郎とは別人であり、自称、楠木正成直系ニ四代の後裔である。秋田県平鹿郡に生まれ、バターや穀物の仲買人、肥料、鉄工、雑貨などを商ったあと満州に渡り、満鉄の住宅建設を手がけて成功し、巨額の資産を築いたが、敗戦で在外資産をすべて失った。戦後は日本復興のため郷里秋田沖の油田に目をつけて石油開発に進出し、先に述べたサウジアラビア、クウェートとの利権協定を結び、クウェート油田の開発に成功して再び巨万の富を築いた。六〇年一月にアラビア石油が発見したカフジ石油は、二月二十八日に公式宣言が出され、日本の全産出量に相当する油田をペルシャ湾で掘り当てたビックニュースとして、産業界をどっと沸かせたのである。

 アラビア太郎も六七年には、大塚製薬・大塚武三郎、松下幸之助、鹿島建設・鹿島守之助、ブリヂストンタイヤ・石橋幹一郎に次いで、高額所得者全国第五位の座にのぼりつめたが、その年六月に死去してしまい、急遽、アラビア石油創立に参加した同社会長の石坂泰三(のちの大阪万博会長)が後を継ぎ、そのあと六八年から社長を継いだのが、たびたび登場した甲州財閥・小林中であった。五〇年代から小林中の秘書をしていたのが水野惣平で、実は山下太郎の息子・山下惣平が、財界四天王の産経新聞社社長・水野茂夫の養子となった人物である。この惣平が七一年からアラビア石油社長を継いだ。このようにアラビア石油は、

P412 日本で貴重な存在の産油会社であり、財界の大物が次々と経営を引き継ぐほど重視される準国策会社であった。

 もう一人の石油長者は、一般にその名をあまり知られていないが、東亜燃料工業社長の中原延平であった。兵庫県生まれの中原は東京帝国大学応用化学科を卒業した技術者で、製紙王・大川平三郎の薫陶を受けてから、小倉石油に移って、戦時中に日本石油、小倉石油など一〇社の共同出資によって東亜燃料工業を創立し、一九四四年から社長に就任していた。戦後四九年二月、日本の苦境を読み取ると、いち早くスタンダード・ヴァキュームオイルと提携し、株のほぼ半分を渡して販売を一任し、見返りに技術と資本をもらって工場を復旧させ、石油精製の操業を再開させる日本石油産業復興のリーダーとなった。エンジニアらしく、たびたび海外の石油精製技術を視察して日本の技術を高め、五四年には全国第一二位の高額所得者となった。やはり戦後に設立されたゼネラル石油の会長にも就任しながら、東燃グループを育てあげた。現在の外資系エクソンモービル・グループの中核は、中原延平傘下の両社が合併した東燃ゼネラル石油である。

 こうして日本の石油産業は、個人の資質がものをいって、欧米を巧みに使い分けながら中東産油国の石油をただ同然の価格で購入し、それによって経済成長を続けてきた。ウェスト・テキサス・インターミディエート(WTI)原油価格は、日本敗戦直後一バレル一ドル台、四七年末から二ドル台、五七年からようやく三ドル台に入ったが、その後も二~三ドル台を七〇年代まで維持して、先進国の暴利をむさぼってきた。その上、このとき世界最大の産業が石油であったから、石油メジャーがどれほど天文学的な利益をあげているかは、明白であった。

P413 しかし七二年十二月にサウジアラビア石油鉱業相ザキ・ヤマニの資本参加政策が実施に移され、サウジとアブダビ首長国が石油メジャーに対して資本参加するリヤド協定を締結すると、七三年一月にはアラブ首長国連邦がアブダビ国営石油の利権の四分の一を国営化し、続いて六月にはリビアが石油企業の国有化を切り札に、以後次々と石油利権を拡大・獲得し、先進国に対するあからさまな挑戦をはじめていた。そして十月六日には、パレスチナを不法に占領するイスラエルに対して、アラブ諸国の怒りが爆発し、不法占領地を奪還するため、サダト大統領のもとエジプト軍がスエズ運河東岸に、シリア軍がゴラン高原に進撃して、アラブ諸国対イスラエルの第四次中東戦争が勃発したのである。

 翌七日には、イラク政府がバスラ油田のエクソン、モービル関係利権のうち二三・七五%国有化を発表して動きだした。十五日にサウジアラビア軍も参戦して、アラブ側の参戦国が十ヵ国に達すると、十六日にはOPEC中東湾岸六ヵ国(イラク・イラン・サウジアラビア・クウェート・カタール・アラブ首長国連邦)が原油公示価格の一斉値上げを発表し、値上げ幅が平均七〇%に達して、三ドルから五・ニ五ドルに急騰した(四〇七頁)。翌十七日、産油国は宣言した。〇原油の生産量を十月以降毎月五%削減する、〇イスラエルを支援する国家(アメリカ)への原油積出しを全面禁止する、〇削減は六七年の中東戦争でイスラエルが不当に占領した地域から撤退するまで継続する、という戦略を発表してオイルショックがスタートした。文字通り先進国にとっての石油危機であり、オイルショックは、パレスチナ問題で国連決議を無視するイスラエルとアメリカ、および全世界の国際社会に対するアラブ側の怒りの表明であった。

P414  ソ連がカイロとダマスカスに空輸を開始すると、アメリカがイスラエルに大量の空輸で対抗した。さらにイスラエル軍がスエズ運河を渡って侵攻してエジプト軍を包囲すると、ソ連がエジプト救援軍を送ると威嚇したため、ついに大戦争に発展する気配となった。三週間足らずで一万人以上が死ぬ戦火のなか、二十二日にはエジプトとイスラエルが国連の停戦決議案を受諾して戦闘は停止した。しかし十二月二十三日のクリスマス・プレゼントは、中東湾岸六ヵ国が原油公示価格の二倍以上引上げを翌七四年一月一日から実施することを決定するニュースであり、五・一二ドルが一一・六五ドルにはねあがった。

 この後始末を強引に処理したアメリカ歴代大統領の擬装政策と、石油メジャーによる巧妙な中東支配が、二〇〇一年九月十一日の世界貿易センタービル崩壊事件の導火線となった(拙著『世界石油戦争』・『世界金融戦争』NHK出版、『一本の鎖』ダイヤモンド社参照)。

 オイルショックは世界の三割の石油を浪費するアメリカはじめ、西側先進諸国すべてに大打撃を与えたが、一次エネルギー消費に占める石油の割合が七七%に達していた日本は、最大の影響を受けた。一転して深刻な不況に陥り、政府も自治体も、企業も国民も、総赤字という一大難局に直面したのである。

第六章 日本の新しい羅針盤 P416-468

6.4 新時代を拓く P442-458
(P442-)

P443 二〇〇二年五月二十日に、水野誠一、相馬雪香、下河辺淳、錦織俊郎、長谷川晃、村田光平の六人が、東海大地震による原発大事故の危険性が迫ってるとして、浜岡原発の運転停止を求める声明を出した。水野誠一は、ほかならぬ浜岡原発を主導した産経新聞社社長・水野成夫の息子である。

堤清二のあとを受けて、西武百貨店の社長をつとめた商業界の実力者でもある。九三年に自民党の若手衆議院議員だった武村正義、田中秀征らが離党して新党さきがけを結成し、環境重視の政策を打ち出し、憲法九条を尊重する主張を展開すると、水野は九五年にさきがけから出馬して参議院選挙に初当選し、さきがけ政調会長として活躍した。

水野誠一は言う。「浜岡原発に大事故の危機が迫っている。これは、私の父の名誉が地に堕ちるというようなレベルの低い問題ではない。人類の生命がかかっているのだ」と。

この浜岡原発反対声明に名を連ねた相馬雪香は、夫が、一九三三年に持丸長者福島県第一位となった陸奥国相馬中村藩の相馬孟胤の世嗣で、平家の流れを汲む名門大名家の相馬恵胤子爵であった(twtwtw)。

雪香の息子・相馬和胤は、戦後の高額所得者全国第十九位となった筑豊御三家、吉田茂首相の側近をつとめた麻生太賀吉の娘・麻生雪子、つまり吉田茂首相の孫娘と結婚したので、一族は三笠宮など天皇家・将軍家に囲まれた金満家ぞろいである。

二〇〇六年に「天皇が靖国神社を参拝すべきである」と暴言を吐き、小泉純一郎と共に靖国神社参拝に明け暮れ、中国と韓国を激怒させた救いがたい外務大臣・麻生太郎(関連tw)が、麻生雪子の兄にあたる。ところが相馬雪香は戦時中に日本軍部の満州支配に堂々と反対を唱えて命を狙われ、憲政の神様と敬われた尾崎行雄(尾崎咢堂)の三女である。
(麻生家系図byhttp://kusunoki456.blogspot.com/2019/06/blog-post_17.html,関連tw

二〇〇七年現在九十五歳で、難民を助ける会の会長として難民救済運動に取り組み、尾崎行雄記念財団副会長として、また日韓女性親善協会で活動しながら、戦争なき世界と、民主主義のために粉骨砕身走りまわってきた。(略、以下、下河辺淳、錦織俊郎、長谷川晃、村田光平ら浜岡原発の運転停止を唱える人たちの記述が続く)

『持丸長者-国家狂乱篇-』(参照)

第四章 黒いゴールド・石炭と石油 P192-252
貝島・麻生家が長州・三井閥と結びつく P202-206

P202はて、苦労にも色々ある。貝島財閥の創始者である貝島太助は、もとは貧農から身を起こした一介の石炭運搬夫であった。

ところがこの労働者が、石炭採掘に乗り出し、何年も失敗の苦労続きのとき、金となれば目がない三井の番頭・井上馨に知られたことから、貝島は財閥と政府の権威を生かせるようになり、さらに日清戦争で石炭価格が暴騰すると、巨利を博して一気に探鉱王まで階段をのぼりつめた。

この集団が、戦争が起これば莫大な利益が転がり込むことに味をしめたのは自然の成り行きである。

貝島太助に知恵をつけてもらったのが、飯塚市の大庄屋を務める麻生太吉であった。麻生も、自分で小作農地から石炭が出ることを知って、父と共に初めは手掘りで石炭採掘を始めたが、やがて本格的な採炭のために井上馨に接して採掘権に利便をはかってもらい、結局彼らが掘り出した石炭の販売先は三井物産となった。

貝島太助も麻生太吉も、三井銀行・三井物産を操る井上の後押しを得て、巨大な資産を築いたのだから、その見返りが、強欲な井上に戻ってこないはずがない。

P203どこへ行っても顔役を演じて懐に金をかき集め、全国第八位の持丸長者となった大蔵大臣・井上馨である。この大臣の姪が腹を痛めて産んだ子が鮎川義介と妹・鮎川フシ(フジ)であった。

福岡の炭鉱王・貝島家は、ここから関西財界の大物・藤田伝三郎一族の鮎川義介(相互参照)に近づくことになる。

山口県出身の鮎川は東大に機械を学んだ優秀な技術者だったが、芝浦製作所に入社してあえて職工からたたきあげ、渡米して工場労務者として働き、帰国後は井上馨の支援を受けて福岡県の戸畑に戸畑鋳物を創業していた。

長州~福岡は江戸時代から関門海峡を挟んで海の仲間である。そこで貝島太助の息子・太市が鮎川フシを妻に迎えて、政界の長州閥にも橋頭堡を築き、ますます強大な勢力を広げていった。

これに対して麻生家は、石炭堀りを始めた麻生太吉の孫・麻生太賀吉が吉田茂首相の娘・和子と結婚して、戦後に吉田内閣の側近として政財界に君臨し、飛ぶ鳥を落とす勢いとなったことは有名だが、それは原因ではなく、あとの結果である。

吉田茂の実父・竹内綱(一一〇頁・系図1、相互参照)は、三菱総帥・岩崎弥之助の岳父・後藤象二郎から長崎県高島炭鉱の経営を任されて石炭界を動かす主役の一人だった。

そして、吉田茂のひと回り年上の姉・竹内菊子が、当時土木工学の技術で日本を主導した工学博士の白石直治と結婚し、白石が若松築港を創設して会長に就任したため、そこから石炭を出荷する麻生家と吉田茂が結ばれるのだ。

竹内・吉田・後藤・白石はいずれも土佐閥であり、この仲を取り持ったのが黒ダイヤ・石炭であった。

これで物語は終わらない。貝島炭鉱を創立し、その兄・貝島栄四郎は貝島鉱業社長として一九三三年の長者番付で福岡県第一位となり、その頃には日産コンツェルンの総帥となったP204鮎川義介が、この身内の石炭資産をとりこんで、三井、三菱に次ぐ第三位の新興財閥にのし上がっていった。

やがて盧溝橋事件から日中戦争が勃発すると、待ってましたとばかり近衛文麿内閣を動かして、国策会社。満州重工業開発総裁となった鮎川が満州に乗りこみ、鉄道を除いて、満州の事業をそっくり引き受ける日が近づいていた。

残る一人の筑豊石炭王・伊藤伝右衛門は、日本一の女優・原節子主演の映画『麗人』で悪役にされ(相互参照tw)、まったくの誤解を受けてきた伝説の人物である。貧しい魚問屋の行商人の息子に生まれ、極貧の中から炭鉱経営を志して着々と道を拓き、一代で産を成して巨財を築いた男である。

この出世物語は貝島・安川・麻生とさして変わらないが、この石炭王・伝右衛門だけは、“成金”と馬鹿にされてきた。なぜ悪役にされたかと言えば、妻が、映画で描かれたようなヒロインとあべこべに、まったくできの悪い女だったからである。偏見に満ちた映画である。

伝右衛門の妻は、原節子が扮した柳原燁子で、公家一族から出て、大正天皇の従姉だった。魚問屋と天皇家が結婚すると何が起こるか。この女が、伝右衛門よりふた回り年下で、歌人として柳原白蓮と名乗った。

伝右衛門が白蓮と結婚し、飯塚市幸袋に、若妻のために屋根を赤銅葺きにした豪奢な銅御殿を建てて住み、妻妾同居で生活したのだから、夫にいくら金があっても女として白蓮はたまらない。

“貧乏人の成り上がり者”と軽蔑して、白蓮が宮崎滔天の息子・宮崎龍介と駆け落ちし、しかも夫に三下り半を突きつけた旨を新聞に公開したのだから、伝右衛門は世間から一方的な指弾を浴びた。

宮崎滔天は孫文の辛亥革命を支援した偉大なる男で、格別この夫婦物語と直接の関係はない。本当に悪いのは、伝右衛門たち民衆に飢えを強いて華族としてのさばり、P205金が欲しくなると彼らに無心した皇族公家たちの横暴さであった。

この石炭が、哀しい歴史を秘めていないであろうか。島原鉄道の重役だった宮崎康平が作詞・作曲した「島原の子守唄」を、一度聞いてみればよい。
おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで おろろんばい
鬼の池ん久助どんの連れんこらるばい
この歌詞にある「久助どん」とは、人買いである。三井三池炭鉱で掘り出された石炭を海外に輸出するため、明治十一年に長崎県島原に口之津港が開かれ、人買いによって石炭と一緒に船底に押しこめられた若き娘たちがいた。

からゆきさん(tw)」と呼ばれた彼女たちは、島原や天草から出て中国や東アジアに渡り、娼婦として働き、名も知られず、ほとんどは二十歳前後の若さで異国にその骨を埋められた。

ほんの子供が「お前じゃ働き手にならん。食い扶持が多すぎる」と言われ、娼婦になるほかなかった人生を、当時の政治家が知らなかったはずはない。いや、明治政府・大正政府・昭和政府は知ろうともしなかった。

柳原義光が、妹の白蓮を伝右衛門に嫁がせたのは、貴族院議員に出馬するため金が欲しかったからである(相互参照)。二人の父である元老院議長・柳原前光が妾腹に生ませた子が白蓮であることを批判せずに、P206魚問屋から身を起こした“成金”の伝右衛門の妻妾同居だけを批判するほどの不条理はない。

もしモラルを説きたいのなら、明治天皇が妻妾同居で床を共にした女は、一条美子(昭憲皇太后)、葉室光子、橋本夏子、千種任子、柳原愛子(白蓮の叔母で、大正天皇の生母)、園祥子、…と、一体何人の女がいたかと、等しく並べて語るがよい。

柳原前光は、明治維新の戊辰戦争で新政府軍の東海道先鋒副総監をつとめて江戸城に意気揚々と入城し、房総半島に出兵して千葉県佐倉藩を帰順させた時、佐倉に名医・佐藤泰然一族が開設した藩営病院の佐倉養生所を閉鎖に追いこみ、住民を苦しめた罪深い男である。

その後、まったく何のいわれもなく、朝鮮を武力で征服するべしと、強硬な征韓論を唱えた愚か者の代表者である。そもそも白蓮は、女性解放の先駆者でも何でもない。実に高慢な、家族意識にかたまった自我の強い人間であった。

世間の悪罵にひと言も言い返さなかった伝右衛門は、三井と組まず、大正鉱業を設立して社長となった。確かに成金には違いない。が、麻生太吉と共に嘉穂銀行(現・福岡銀行)育ての親となり、地元の若者を教育するため現在の時価で数億円という大金を寄付し、遠賀川の改修に力をつくし、私財を投げ打って女学校を創設し、大いに地域に貢献してきた。伝右衛門の孫は貝島家から嫁をとった。まこと、郷土の長者にふさわしい。

関連→『白蓮と傳右衛門そして龍介』(参照tw
  →『娘が語る白蓮』(参照tw

『持丸長者-幕末・維新篇-』

第三章 財閥続々と誕生す P216-326
明治政府の閨閥 P234-246(相互参照)

(P234-スライド)